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「富岡八幡宮」を後にし、深川不動尊仲見世通りに向かい進む。ここが深川不動尊仲見世通り。右手にあったのが「永代寺」。高野山 真言宗 「大栄山 永代寺 略縁起」「永代寺は、寛永四年(1627)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曽ての永代地庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折りには祈祷札を徴せられ、承応三年(1654)からは年頭独札の許可、元禄十二年(1699)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名刹を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年-1692-創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。」「本堂」。「地蔵堂」。扁額「地蔵堂」。「地蔵堂の内陣」。「絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅」がこの寺にあると。地蔵善薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦八四.〇cm、横三七.〇cm。表装は縦一七八.八cm、横五六.〇cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。地蔵信仰は奈良時代未ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を特ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(一四世紀)の製作と考えられます。本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという殄しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。」「大栄山 永代寺」を深川不動尊仲見世通りから再び。そして正面奥に「成田山 深川不動堂」の姿が。7・8月15日 10時・12時・14時に「孟蘭盆会萬燈供養」が行われると。境内案内図。 【http://www.fukagawafudou.gr.jp/guide/index.html】より「深川不動尊由来深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。元禄(1688~1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。」正面に「旧本堂」成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派の寺院であり、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院である。通称は深川不動尊、深川不動堂。前本堂が東京大空襲で焼失した後、千葉県本埜村(現・印西市)の龍腹寺の堂(文久3年・1863年建立)を移築して本堂としたもので、昭和25年(1950年)に移築が完了、翌年に落慶法要が営まれた。現在は帆刈黌童作の丈八の「おねがい不動尊」が安置されている。敷地内に一歩足を踏み入れると、大きなわらじが飾ってあった。こちらは「わらじ守り」と言われていて、足腰の息災を願うお守りなんだと。「手水舎」。手水舎の奥に「深川龍神様」の祈祷場所があった。こちらは深川不動堂ならではの場所で、「龍神願い札」を水に浮かべて祈祷するとお札が水に溶けていき、お願い事が龍神様のもとへ届くと言われているのだと。そして「旧本堂」を参拝。「おねがい不動尊」を金網越しに。旧本堂の扁額「深川不動堂」。本堂の木鼻の獅子の彫刻。「旧本堂」右手に「愛玩堂」。愛玩堂ではペットの長寿延命・病気平癒・傷病平癒を祈願出来ると。また、ペット供養・人形供養も行っているようであった。旧本堂に登る階段の両脇は、制咜迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)。巨大な草鞋の後には矜羯羅童子が。お不動様の多くは、脇士(わきじ)に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた姿でお祀りされていると。これはお不動様の持つ「慈悲(じひ)」と「忿怒(ふんぬ)」を両童子を以て表しているとも云われ、矜羯羅童子が「慈悲」を、制吒迦童子が 「忿怒」を表しているのだと。境内右手「深川開運出世稲荷」成田山出世稲荷(荼枳尼天)を勧請したもの。扁額は「荼枳尼天尊」。「荼枳尼天尊」の赤い幟旗が並ぶ。「祈祷殿」。護摩木、御朱印受付所。そしてこちらが「新本堂」。外観は文字のような模様でいっぱいに飾られているが、こちらは「真言梵字壁(しんごんぼんじへき)」と言われている。不動様のご真言を古代インドの文字(サンスクリット)で書いたものだとのことだが、非常に芸術的な印象を受けるのであった。不動明王のご真言が梵字で書かれているのだと。右側の金ストライプのある黒い部分が2010年に竣工した「新本堂」。設計は玉置アトリエ。京都にある小さな設計事務所でこれ以外に特に目立つ公共的作品は見当たらないと。左側の大きな屋根を持つ部分が2017年に建てられた「翼殿」。御祈祷の申し込みやお札の受け取りにに集まる信者を風雨から守るためのの施設であると。こちらにも梵字が連なっているのであった。文字は一辺30cm程の大きさか。ひとつづつアルミで鋳造されているとのこと。奥には多種の蓮が栽培されていた。世話をする人の姿も。ここが「新本堂」の入口。数年前に訪ねた時には「新本堂」に入り、この写真を。真っ白に光り輝く静かなクリスタル回廊。1万体の五輪塔が納められている「祈りの回廊」。手水舎の先にあった「亀鯉供養之碑」。昔、深川公園には、池があったが、その池に住みついていた亀や鯉を助け出さないまま、面倒くさがって、そのまま生き埋めにしてしまったのだと。不動明王が安置されていた「古いお札納め所」。そして「深川不動堂」から深川不動尊仲見世通りを見る。大きな青銅の灯籠。明治末期の富岡八幡宮と深川公園の姿を今に伝える漆喰画。「深川公園について深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。この漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。」「深川公園」の「深川不動堂」側にあったのが「石造燈明台」。「石造燈明台」案内板。「江東区指定有形文化財(建造物) 石造燈明台 明治三十一年在銘 一基日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動尊の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。」「明治三十七八年役戦死者忠魂碑」日露戦争の慰霊碑で、題字は渋沢栄一氏によるもの。「富岡八幡宮別棟永代寺跡」碑がその脇に。江戸時代は富岡八幡宮の別当(神社を管理する寺)、永代寺がここにあったと。往時にはこのあたりが海岸線で、永代島という島の寺という意味で、永代橋の名の起こりにも通じる名刹であったと。公園では少年野球の練習が行われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.17
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そして「横綱力士碑」の脇を奥に入っていくと朱の鳥居が並んでいた。「永昌五社稲荷神社(えいしょうごしゃいなりじんじゃ)」倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。五穀豊饒・商売繁盛の神様として、特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めていると。近隣の稲荷社五社が合祀された神社であると。扁額「永昌五社 稲荷神社」。そしてその横には「末社六社(まっしゃろくしゃ)」が。向かって左から、祖霊社・花本社(それいしゃ・はなのもとしゃ)、天満天神社(てんまてんじんしゃ)、聖徳太子社(しょうとくたいししゃ)、住吉社(すみよししゃ)、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)、車析社・客神社(くるまざきしゃ・きゃくじんじゃ)が祀られていると。◆祖霊社・花本社(それいしゃ・はなのもとしゃ) 富岡八幡宮の歴代祖霊を祀る。神道では祖先を崇めることは神様を敬うことと同様に 大切なことと考えられています。花本社は松尾芭蕉を祀り、祖霊社に合祀されています。 芭蕉は深川に仮住居を設け、生涯でもっとも長い住まいであった縁から当境内に祀られています。◆天満天神社(てんまてんじんしゃ) 学問の神様として受験生の信仰を集める菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。◆聖徳太子社(しょうとくたいししゃ) 憲法十七条・冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など、我が国の基礎を固めた聖徳太子を祀る。◆住吉社(すみよししゃ) 古くより航海安全・和歌・農耕の神様として信仰される住吉神を祀る。◆野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) 相撲の始祖といわれる野見宿禰命を祀る。◆車析社・客神社(くるまざきしゃ・きゃくじんじゃ) 車析社は、平安後期の儒学者・清原頼業(きよはらのよりなり)を祀る。 後嵯峨天皇の牛車が門の前で動かなくなった故事に基づいて車折大明神と称されています。 客神社には芸能の神・宇受売命(うずめのみこと)を祀り、車析神社に合祀されています。「合末社鳥居昭和十ニ年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和ニ十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・合末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて烏居上部が崩れ落ちました。ニ度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。」そして「弁天池」。鯉や亀がのんびりと泳いでいた。「七渡神社・粟島神社(ななわたり・あわしまじんじゃ)」七渡神社は市木嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る。七渡弁天と親しまれる八幡宮が創祀される以前から祀られている地主神。関東大震災・東京大空襲の災難もくぐりぬけ、このときに弁天池に避難した人は一命を取りとめたという。また、ご祭日にはお使いの白蛇が出てくるという話もよく聞かれる。粟島神社は少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀り、七渡神社に合祀されています。裁縫上達の神様として信仰を集めており、2月8日には献針祭が行われ、参拝者の皆様の折れ針・古針が供えられます。「七渡神社」の石鳥居。「針塚」と見ざる言わざる聞かざるの三猿の「庚申塔」。二の鳥居。「七渡神社・粟島神社」社殿。扁額「七渡神社」。東参道近くにあった人物像。「富岡宮司寿像」。「福岡県築上郡八津田村東八田に明治廿五年一月三日生。川面凡児翁の推薦により富岡八幡宮の祭祀を継承する為の富岡宣永の養嗣子となる。国学院大学を卒へ砥鹿神社北海道十一ヶ国総鎮守官幣大社札幌神社勅祭官幣大社鹿島神宮等に各々宮司として奉仕、砥鹿神社にては山林経営施業案を立て、神社百年の大計を樹立した。三河一国の青年指導教化、札幌神社にては境内整備社務所、参集殿、斉館の新築、道会初日全道会議員の神社参拝道政奉告の新例を開く。鹿島神宮に於ては昭和度の大造営を完成、氏子、神社により胸像建立さる。昭和廿四年父祖伝奉の富岡八幡宮々司として奉仕、戦災により焼失したる八幡宮の御社殿再建、その間茨城県神社庁設立、初代庁長、神社本庁総長、国学院大学理事、同大学評議委員会議長、同大学院友会々長、神社本庁顧問、長老の称号を受け、北白川総裁様より鳩杖の下賜にお言葉を賜わる。氏神、産土神の神学的研究により哲学博士、文学博士の学位を贈らる。」「森羅亭万象の歌碑」「ふしの嶺世に おおへとももろひとに 笠きてくらす すがたみせたり」森羅亭万象は、わが国最初の電気実験者であり戯作者であった平賀源内の二代目。狂歌をよくし天保四年(1833年)建てられた碑。「富岡八幡宮 婚儀殿」。「大橋清太郎句碑(おおはしせいたろうくひ)」元衆議院議員で北品川で材木店を営む。俳号は杣男(そまお)。「辰己なる 鎮めの神の 破魔矢かな」。「木場の木遣り碑(きばのきやりひ)」民俗芸能「木場の木遣」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。「木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。元禄の始めには、武家屋敷の並ぶ両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で3代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りをご覧に入れ、以後年中行事となった。この時、川並みという言葉が発祥したと伝えられる。明治12年(1979年)、米国のグラント前大統領が来日の際に、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。江戸の昔より正月2日から7日に掛け木遣りにて初曳きし、材木屋さんに売り捌くのを年中行事としていた。」「大木遣り唄木遣(きやり)とは、筏師(川並)が、鳶口ひとつで材木を操る時の労働歌で、たがいの息を合わせるため、掛け声のように即興の詩をつけて歌ったものと。「木場の角乗碑(きばのかくのりひ)」民俗芸能「木場の角乗」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。木場の角乗は、江戸時代に木場の筏師(いかだし)が、水辺に浮かべた材木を、鳶口(とびぐち)ひとつで乗りこなして筏に組む仕事から発生し、これに数々の技術が加わり、芸能として発達しました。「木場の角乗りは三百余年の昔、徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の材木を扱う川並の祖先の余技として進展し、若者の技術練磨の目的を以て今日に伝わるものである。其の間,明治初年三島警視総監時代、水防出初式に初めて浜町河岸で披露,又グランド将軍が来朝の際、上野不忍池にて催し、後横須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る。その後、浜離宮や両国橋開通式の祝事に披露されてきた。第二次世界大戦により中断したが、戦後有志相寄り,東京木場角乗保存会を設立し、昭和二十七年東京営林署貯木場に於て披露し、同年十一月三日東京都文化保存条令に基き、都技藝木場の角乗りとして無形文化財に指定された。」この石碑には「一番」の文字が刻まれていたが。「神馬」碑。が。西参道を歩くと「神馬像(しんめぞう)」本殿前の境内への階段横の狛犬。そして本殿前に再び戻ると若き神職が朝の清掃中。「資料館」。休憩所。力持碑(ちからもちひ)民俗芸能「深川の力持」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。55貫目(約206kg)だと。「此の力石は雑司ヶ谷鬼子母神祠にあったものを會長福士民蔵之れを見出し深川区史編纂主筆三輪善之助氏及び豊島区永江維章氏の斡旋により法明寺住職近江正順師より深川富岡八幡宮へ奉納寄贈されたものである。」「力持の由来力持は昭和三十一年十一月二十四日無形文化財に指定され、現在木場の角のりと共に江東区が誇る郷土文化財である。この力持の技芸は深川佐賀町を中心としてその周辺に江戸時代より伝わるものでその沿革は文献に乏しいが当時国持大名が自領の藩米を江戸に廻送して之れを浅草蔵前の札差(現在の米問屋の仲買)に杔て処理したもので札差による米殻倉庫業の発達繁栄に伴ひその從業員が余技とする力自慢の彼に江戸の下町趣味の芸能と更にスポーツ的娯樂が加味されたのが現在の力持の曲技で明治以後においても隅田川の東西河岸の倉庫や問屋などでその從業員達の間で盛んに行われて来たが時代の変遷で衰微したしかし近年漸くこの力持の技芸を復興させようとする機運が次第に髙まり深川力持睦会が組織されたのである。」「力持碑」。「復興記念碑」。西側の「お手水所」。近づいて。「お手水所谷川の清き流れをいまここに見るここちして口すすぐなりこの水盤の石は四国の霊峯石鎚山に源を発する加茂川より採取せるもので世に伊予の青石といわれる名石であります。又、水除け石は伊豆長岡の六万石、犬走りは常陸の丹波石が用いられています。すべて山下太郎氏の奉納によるものであります。」「三末社(さんまっしゃ)」への参道と石鳥居。「三末社(さんまっしゃ)向かって左から、金刀比羅社・富士浅間社(ことひらしゃ・ふじせんげんしゃ)、恵比須宮・大黒宮(えびすみや・おおくにぬしみや)、大鳥神社・鹿島神社(おおとりじんじゃ・かしまじんじゃ)」が並ぶ。「金刀比羅社・富士浅間社」。「恵比須宮・大黒宮」。「大鳥神社・鹿島神社」。「深川八幡富士(ふかがわはちまんふじ)」以前ここにあった巨大な富士塚は昭和三十九年(1964)に破却されたが、平成十四年(2002)再建されました。現在では約1mの火山石の山になっていて、手前に湖に見立てた白い石が敷き詰められている円があります。また、富士塚の左手前には「富士講同行碑」が見えます。各種の石碑が建っていた。「奉納」と刻まれた石碑の上部には富士山の姿が。「登山再建立手傅」碑も同様に富士山の姿が。「富岡八幡宮」に西側石鳥居。正面に「深川公園」入口。西参道の鳥居。しかしながら、3年前、2017年に12月に発生した富岡八幡宮の宮司姉弟の骨肉の悲惨な争いを想い出しながら、参拝者の数はどうなっているのだろうかと思いながら富岡八幡宮を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.16
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更に参道を進むと右手には歴史を感じさせる石灯籠が一対。「この灯籠一対は江戸時代関東郡代を世襲した伊奈家十代伊奈忠宥(ただおき)により宝暦年間当宮に寄進されたものです。」そして反対側には「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑と「天皇陛下御野立所(おのだちしょ)」碑が。「天皇陛下御野立所」碑。昭和二十年三月十八日戦災地御巡幸ノ際 玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ東京都 昭和三十五年四月二十九日建立。「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」と刻まれた石碑。「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると。大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。」「昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から東京大空襲の被災地を視察されました」「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」「願掛けの八角十二支」説明板。「江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する平成31年3月18日 富岡八幡宮友の会」「願掛けの八角十二支」真ん中にとんぼが掘られていた。「願掛けの八角十二支石碑」の触り方。金運、人気運・才能運、恋愛運・人間関係、仕事運・健康運それぞれの願掛けのやり方が。願い事は「ひとりひとつ」と。★金運 巳→酉→丑 右手で巳、左手で酉、 右手ずらして丑★人気運・才能運 寅→午→戌 右手で寅、左手で午、 左手ずらして戌★恋愛運・人間関係 申→子→辰 左手で申、右手で子、 右手ずらして辰★仕運・健康運 亥→卯→未 左手で亥、右手で卯、 左手ずらして未願いがかなった場合は、神様にご報告に訪れて下さい。私は左手で亥、右手で卯、左手ずらして未を。そしてその横にあったが「手水舎」。一対の黄金の鳳凰が。この手水舎は2016年12月に完成したものだと。右手の黄金の鳳凰がビニールホースで聖水を。左手の鳳凰も同様に。金色の羽を広げた立派な鳳凰が口から聖水を出していた。この手水舎では人感センサーにより左右の鳳凰の口より水が出るようになっているのだと。手水舎の向かいにあったのが昭和「天皇陛下御製」が。「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれいく 民をおもひて」正面に「本殿」の姿が。階段下から「西参道」を見る。両側に祠の形の灯籠が。そして「富岡八幡宮 本殿」。1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。また八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された とウィキペディアより。主祭神 第十五代天皇・応神天皇(おうじんてんのう:八幡神)相殿神神功皇后(じんぐうこうごう:主祭神の母)仁徳天皇(にんとくてんのう:主祭神の子、第十六代天皇)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ:主祭神の祖神)常磐社神(ときはやしろのかみ)武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと:主祭神の重臣)日本武尊(やまとたけるのみこと:主祭神の祖父)天児屋根命(あめのこやねのみこと:主祭神の祖ニニギとともに降臨、中臣氏(かなとみうじ)の祖)竈大神(かまどおおかみ)も祀られています。現在の社殿は昭和三十一年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。扁額は「萬世泰平」であろうか。「本殿 内陣」。今年の絵馬。「本殿」を右側から。左側から。奥の「本殿」。境内の保護樹木「クスノキ」の前に「百度石」。境内にあった「金魚花魁(きんぎょおいらん)」の絵画。「青森県弘前市にて2013年8月1日から7日にわたって開催された『弘前ねぷたまつり』。その中で実際に運行したねぷたを、富岡八幡宮での展示のために再構築しました。今作のような美人画は、「見送り絵」と呼ばれ、雄々しいねぷた絵とはまた違った魅力を持つ。部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。輪郭線や色の境目に施された透明な塗リ加工は『蝋引き」と呼ばれ、この部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。一定の温度で溶かした蝋を、絶妙な筆使いで塗るこの技術は、筆使いと、大胆かつ繊細な色彩を際立たせる、ねぶた制作になくてはならない工程といえる。「ラッセーラー」の掛け声を共に灯篭を運行させる青森県青森市の『ねぶた祭り』とは違い、弘前市の『ねぶた祭リ』は「ヤーヤドー」の掛け声を使用する。その土地独自の発展を遂げたねぶた/ねぷたの姿の一片を感しられる作品である。」境内右手に絵馬の奉納場所が。「深川富岡八幡宮」の絵馬。「本殿」右奥に進んで行くと「横綱力士碑(よこづなりきしひ)」が。明治三十三年(1900)、第十二代横綱・陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう)を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。この碑には初代・明石志賀之助(あかししがのすけ)から第六十七代・武蔵丸関までの四股名(しこな)が刻まれていた。新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納される。また両側には伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、大隈重信(おおくましげのぶ)といった賛同者の名も刻まれていた。高さ3.5m、幅3m、重量は20t。右手の碑には第四十六代朝潮太郎~第六十六代若乃花勝の文字が。そして左の碑には第六十七代武蔵丸光洋~第七十二代稀勢の里寛の文字が。「横綱力士碑◇建立 明治三十三年◇重量 約五千五百貫(約ニ十トン)当宮では貞享元年(一六八四)に幕府の公許のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年ニ場所の相撲興業が定期的に行われた事により江戸勧進相発祥の地として知らるようになりました。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十ニ代横綱陣幕久五郎が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたものです。なお、正面参道・大烏居手前左側には「大関力士碑」が建立されています。」ここにも江東区教育委員会の「横綱力士碑」案内板。「江東区指定有形文化財(歴史資料) 横綱力士碑」附 陣蟇・不知火顕彰碑ニ基 日月石寄附碑 地固め寄附碑土台石垣魚かし石柱ニ本 土台下玉垣富岡一ーニ◯ー三 富岡八幡宮この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十ニ代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(一六八四)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(一七六四~七一)には、春・秋ニ場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(一八◯一)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地といえます。偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣慕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正未ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。」そして「陣幕・不知火碑」。こちらが「陣幕」碑。第十二代横綱・陣幕久五郎(きゅうごろう)を顕彰する碑。この碑に刻まれているのは安政4年(1857)正月場所2日目の取組で、両碑の上部には「安政四年正月 両国回向院ニ於テ大相撲興行二日目ノ取組ナリ」と彫ってあった。「不知火碑」第十一代横綱・不知火光右衛門(みつえもん)を顕彰する碑。「出羽海一門友愛之碑」。「かつて出羽海部屋、春日野部屋を中心とせる出羽海一門に所属し、相撲技に励みたる者たち、それぞれの社会より集いて、親睦のため「出羽海一門友愛会」を結びたるは昭和三十一年一月なり。 一門の弥栄と相撲道の隆盛を祈り、江戸勧進相撲ゆかりのこの地に友愛の碑を建つるものなり。」と。「出羽海一門友愛之碑」と対をなす柱状の碑は、「超五十連勝力士碑」。この碑が建ったのは昭和63年9月、つまり千代の富士が連勝している最中だったのだと。高さは2m、直径80cmで、11角柱という極めて珍しいスタイルをした赤御影石の碑である。 もともとここには釈迦ヶ嶽の等身碑があったが、大関力士碑のところへ移されたのはこの碑を建てるためだった。 正面に「超五十連勝力士碑」と隷書(大嶋瑞雲筆)で揮毫され、右へ順に到達者の名と記録が刻まれている。 刻まれている力士は「双葉山(69連勝)」「千代の富士(53連勝)」江戸時代の「谷風(63連勝)」明治時代の「初代梅ヶ谷(58連勝)」そして明治から大正にかけての「太刀山(56連勝)」の5人だけ。上から連勝数・地位(第何代横綱)・力士名・期間である。建立当初は4人しかいなかったが、建ってすぐに千代の富士が53連勝を達成したので、12月に名だけを彫り、 引退後に連勝記録を彫って今の姿になったのだと。しかし白鵬の名は今も彫られていないのだ。千代の富士の例に倣えば、名だけは彫っておいても良いのだが、 63連勝を記録してから10年以上も経っていながら、まだ彫られていない。引退時にまとめて彫るという意向なのだろうか。それともこれから63連勝以上を?境内一番奥の蔵。「古札納め所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.15
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この日・7月11日(土)は、江戸・深川を都内に住む友人と歩いて来ました。今年3月末で「完歩」した江戸日本橋から京都三条大橋までの「旧東海道を歩く」中で多くの社寺仏閣の境内や街道脇に江戸時代、数々の名句や紀行文を残した俳諧師・「松尾芭蕉」の句碑に出会ったのであった。この「松尾芭蕉」は、江戸・深川の庵を拠点に活動しており、「おくのほそ道」の壮大なる旅もこの地から始まったのだ。そのため、深川界隈には芭蕉にまつわる史跡が数多く残されているとのことで、芭蕉ゆかりの地を散策して、往代の偉人に思いを巡らせようと思ったのであった。この日も早朝に自宅を出て小田急線に乗る。小田急線で中央林間駅まで。そして東急田園都市線・急行南栗橋行きに乗り換え、九段下駅まで行く。そして東京メトロ東西線に乗り換え門前仲町駅に到着。時間は7:47、ここまで約1:45の移動時間で800円の格安ルート。地下連絡通路には深川の名所や風景のがパネルで紹介されていた。この後、訪ねた富岡八幡宮の絵画。伊能忠敬像。そして地上に出ると目の前には永代通りが。正面に見えて朱の鳥居が永代通りからの深川不動尊商店街入口深川不動尊商店街は、永代通りから不動堂に至る参道沿いの門前町で、近年は富岡八幡宮と合わせた下町観光の回遊路の一部になったような趣で、普段なら外国人も含め多くの人で賑わうはずなのだが・・・この日は早朝と新型コロナの影響で。この地域がいわゆる現在の「深川」地域。江戸時代の「本所深川繪圖」。そして今いる「門前仲町駅」周辺。最初に訪ねた「富岡八幡宮」が永代通り沿いの近くに。周辺観光案内ボード。富岡八幡宮まで320mと。「永代通り」の表示と「富岡八幡宮」と書かれた提灯がアーケード上に。そして「富岡八幡宮」参道入口に到着。「富岡八幡宮」案内板はチョット疲れ気味。「由来この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、「水かけ祭り」の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。寛永元年(1624年)、当時永代島と呼ばれた小島に、京都の公卿が八幡神像を奉安したのが、始まりといわれています。境内には、「横綱力士碑」「力持ち碑」「木場角乗碑」など深川にまつわる石碑等があります。」左手の「掲示板」には例大祭の案内が。「富岡八幡宮 境内案内図」。「富岡八幡宮」社銘碑。朱の大鳥居とまっすぐ続く正面参道の先に、朱色の社殿が見えた。青の地の扁額「富ヶ岡八幡宮」。大鳥居を潜ると左手に像が。東京「伊能忠敬」銅像。もちろん、江戸時代に初めて正確な日本地図を作成した中心人物 「伊能忠敬」。「伊能忠敬銅像近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと5 0歳の時に江戸に出て富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。約2 0 0年前の寛政12年閏4月1 9日(陽暦では1 8 0 0年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で1 0回の測量を企画しましたが、遠国こ出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿などの測量開始地点に向かって、歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。伊能測量開始2 0 0年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。」近づいて。光背碑には日本地図が描かれていた。そして「天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑」。昭和天皇のものであろうか。「元准勅祭神社(もとじゅんちょくさいしゃ) 東京十社めぐり」案内板。皇居が京都に在った昔から、国家鎮護のために天皇陛下から勅使が遣わされる神社があり、「勅祭社」と呼ばれていた。明治天皇が東京にお移りになられた際、この「勅祭社」に准ずる神社として「准勅祭社」を定められた。これが東京十社の始まり。この制度は現在無くなったので元をつけて「元准勅祭社」となっている とネットから。参道右手にあったのが「大関力士碑」と刻まれた碑を中心とした関連碑群。勧進相撲は安土桃山時代から、寺社建立や修繕の資金調達のために全国各地で行われていたらしいが、江戸で初めて貞享元(1684)年に寺社奉行が許可し春・秋の2場所が行われたのがこの境内だったと。以降100年ほどこの地で開催され、定期興行化や番付制が生まれ、やがて両国の回向院へと場所を移したのだと。更に、ここ富岡八幡宮は、大相撲の新しい横綱が誕生した折に、横綱力士碑への刻銘奉告祭とともに奉納土俵入りが行われている、相撲と大変ゆかりの深い神社であるのだ。歴代大関の四股名は、その斜め後ろの両脇にある大きな石に刻まれていた。この石碑は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたものです。向かって右側が市川團十郎が寄進したもののようであった。左側が尾上菊五郎が寄進したもの。初代大関・雪見山(ゆきみやま)から最近では昨年に旅したブルガリア出身の琴欧洲関(ことおうしゅうぜき)まで、114人の歴代大関の四股名が彫り込まれているとのこと。この石は、横綱力士碑を建てた際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石だが、工事を急いだため、名前を刻まないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものだと。鉄砲柱のような円柱の碑は「巨人力士身長碑」。「小島貞二が12人を選んで、その身長を「-」印で刻んだものである。当初「-」には朱が入っていたが、今は落ちている。選ばれたのは、鬼勝力之助(寛永・7尺4寸5分)・釈迦ヶ嶽雲右衛門(明和~安永7尺4寸8分)・九紋竜清吉(天明~寛政・6尺8寸5分)・鰭ヶ嶽源太夫(寛政・6尺8寸)・大空武左衛門(文政・7尺5寸)・竜門好五郎(文政・7尺4寸5分)・生月鯨太左衛門(天保~弘化・7尺6寸)・武蔵潟伊之助(明治・7尺)・男山応輔(明治・6尺8寸)・出羽ヶ嶽文治郎(大正~昭和・6尺7寸7分)・白頭山福童(昭和・7尺1寸5分)・不動岩三男(昭和・6尺9寸5分)。碑は高さ279cm、直径50cmである。」とネット情報。因みに最長身の生月鯨太左衛門(天保~弘化・7尺6寸)は230.3cmとなるが。「強豪関脇力士碑」「拝殿裏に明治からある「横綱力士碑」、ここに建つ「大関力士碑」に続いて、「強豪関脇力士碑」が昭和62年12月に建てられた。 成績より年功に重きがおかれた時代に上がつかえて関脇どまりに終わった者、関脇に在って土俵を盛り上げた者について、彼らを「強豪」の名のもとに顕彰するための碑といえる。 江戸縦1枚番附が発行されるようになった宝暦 7年(1757)10月場所から、年6場所制移行直前の昭和32年まで、 偶然とはいえ200年ぴったり、その間の関脇力士のうち、強豪と呼び得る者を選んだ結果、42人になった。 順序は新関脇の場所の順とし、四股名は最後の関脇のときに統一されている。左側面に「昭和三十三年より年六場所制を採るため一線を引き、 昭和三十二年以前の百二十五名に及ぶ関脇のうち、表記の力士たちを強豪として選ぶ 昭和六十二年十二月 小島貞二・加藤健治撰 磯田日出夫書」とある。 碑の高さは155cm、幅122cm、厚さ24cmで、仙台石。碑群の左端にあるので、巨人力士手形・足形碑とともに他の碑を挟む形になってい。」と。下中央に日本のプロレスリング創始者「力道山光浩」の名が白く。「巨人力士手形・足形碑」「6人の手形と3人の足形を選んで石に彫ったものである。必然的というべきか、 全員が「巨人力士身長碑」にその名を刻している。上段の手形は左から大空・釈迦ヶ嶽・九紋竜、中段の手形も左からいけば、鰭ヶ嶽・出羽ヶ嶽・竜門で、 下段は足形となっていて、これまた左から挙げると、生月・竜門・男山である。もちろん原寸大だが、これがまたデカいのデカくないのって、 ケタ外れとしか言いようがない。巨人とは何の関係もないが、横綱照國の足形もケタ外れである。長さと幅が殆ど変わらない。 長さはとにかく短く、幅はとにかく広い。」とこれもネットから。左手の丸い碑が「釈迦嶽等身碑」。高さ228cm、直径46cmの円柱で、碑文で埋め尽くされていた。「出雲釈迦嶽雲右衛門長七尺五寸石象表本右没十三年永慕建焉闕里孔信龍伯鱗韻言東魯孔信鳳仲翼書揮天明七年春二月朔天建置弟真鶴崎右衛門山川降気斯出大人身長丈余膂力絶倫角觝相撲鳴於深川一朝化去姓名尚伝空存其地子弟消魂建石象形表於万年鳩谷天愚公孔平信敏撰 赤峰劉長和書」と記載されているのだと。碑文は上の通りで、記されていることは、・出雲産の釈迦ヶ嶽は身長7尺5寸、これを石で象る。・歿後13年の天明 7年(1787・正確には13回忌)2月1日、弟の稲妻がこれを建てる。・撰文は鳩谷天愚孔平こと(萩野)信敏である。といったことであるとのこと。「釈迦嶽等身碑寛延二年(一七四九)出雲国(現安来市)に出生。松平家のお抱え力士雷電為五郎の弟子となり大坂で初土俵、明和七年(一七七〇)江戸番付に東大関として登場する。身の丈七尺五寸(二米二六糎)四拾五貫八百匁(一七二瓩)の巨体があった。江戸在場所中の成績は二三勝一分一預という高い勝率を残した。安永四年(一七七五)若干二十六才にて没したのは惜しまれる。この碑は天明七年実弟の真鶴咲右衛門により建立された。」そして参道左手にあったのが「神輿蔵」。一の宮と二の宮の神輿が展示されていた。左手に一の宮の神輿が展示されていたのでガラス越しに。重さ4.5トン・宝石が多数使われる日本一大きな黄金神輿だそうだ。平成3(1991)年に佐川急便社長により奉納されたが、大きすぎて一度使われて以来この神輿蔵から出ていないらしいと、本当なのであろうか。製作年 平成3年 作者 第十六代浅子周慶 型 屋根延金地塗神輿 台輪幅 5尺(1m51cm)屋根幅 9尺5寸(2m89cm)高さ 14尺5寸(4m39cm) 重量 約 4.5トン 装飾鳳凰の胸 ダイヤモンド 7カラット鳳凰の目 ダイヤモンド 4カラット 1対鳳凰の鶏冠 ルビー2,010個狛犬の目 ダイヤモンド 3カラット 2対 (左右)隅木の目 ダイヤモンド 1カラット 4対 (左右前後)小鳥の目 ダイヤモンド 1カラット 4対 (左右前後)屋根は、純金 24kg その他 プラチナ、銀、宝石多数使用右側に収められている二の宮神輿は重さ2トン。こちらは3年に一度行われる本祭りには大神輿54基として街を練り歩く。 観衆から清めの水が掛けられ「水かけ祭り」ともいわれる。「水かけ祭り」の写真。 ・・・つづく・・・
2020.07.14
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朱の太鼓橋の先に「来宮弁財天」。手前の巨石は「弁天岩」、古来神様が宿っていたと伝えられる磐座(いわくら)と紹介されていた。「弁天岩」の上には、蛇の彫像があった。カメラでズームしてみると歯が妙にリアルで、何か口にくわえていた。どうやらコレ扇子らしいのであったが、辨財天は芸能の神でもあり、熱海の芸姑さん達にあやかっているらしい。「来宮弁財天」の朱の鳥居、そしてその先に太鼓橋。熱海芸妓(げいぎ)が芸能の神様とあがめる「来宮弁財天」であると。本殿の隣に鎮座するこの弁財天は、もともとは金華山(宮城県)に祀られていたが、のちに秩父霊場(現秩父神社)を経て、卜占により 来宮神社に安置されたという。「七福神」の一員で財宝神としての性格を持つが、来宮神社では大正時代から芸妓衆が芸能の神として崇拝。現在でも熱海芸妓衆が連日、芸事の上達を願い参拝しているのだと。そしてパワースポットとされる御神木の「大楠」。樹齢2000年以上、周囲23.9m、樹高約25m、本州一位(全国二位)の巨樹、昭和8年2月28日文部省指定天然記念物になった「阿豆佐和気神社の大クス」日本第1位の鹿児島県蒲生町の「蒲生の大クス」に次ぐもの。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると1つ願い事が叶う、そして一年寿命が延びると伝えられているのだと。「大樟(大楠)天然記念物文部大臣指定 昭和八年二月二十八日 樹令 二千年 周囲 二〇米 高さ 二〇米由緒(いわれ)大古には我国では現代の様な家屋はなく文字もなく言葉ばかりの時代が長く続いていました。其頃此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶(しだ)類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網(おおあみ)事件と云ふ(流刑者(しまながし)迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻(ねん)出するため、五本の大楠は伐(き)られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫(きこり)が大鋸(のこぎり)を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮(さえ)ぎる様な姿になると忽(たちまち)大鋸は手元から音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消へてしまつたのです。此れは神のお諭(さとし)であるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。此の大楠へ古代には「神の魂(みたま)にお降(さがり)を願ひ」いわゆる神の依代(よりしろ)として此の御神木の中に宿る神の魂(みたま)と人々は対面していたのであります。斯(か)くて二千年の長い間世の天変地異を経て現代に至りました。 此の大楠を人に例へれば世の中の有らゆるものを知り盡くしてござる大古老(だいころう)とでも申しましようか、然るに二千年を経ても尚樹勢は少しも衰へず、根は深く大地に食い込み巨岩を抱きかかへ、幹は巌石の様相を呈し内に溢るる生気はますます、旺(さかん)にして枝葉は毎日西に東に伸(の)びゆき未来永劫生き拔こうとする生命力の強靱さには恐ろしきものさへ感じとれます。 右の様な次第でありますので大楠は「不老長生」「無病息災」の象徴とされているのです。それ故に二千年の大楠の長寿に肖(あやか)ろうとする願ひからか、此れを一廻りすると「一年寿命が延びる」、又「願ひ事」のある人はそれが必ず叶うと云い伝えられて来ました。今の世に大楠の様に長命で然も厳然として物に動ぜず、ひたすら正しく生きる道に徹する事が出来たならば何と幸せなことでありましょう。 世の貴顕紳士(きけんしんし)を始め国の内外から訪ねて来られる方々は毎日後を絶ちません。」「樹齢二千年超 御神木の根を守る「大楠」保護工事」案内板。令和2年6月(今月)末 完成予定とのこと。「御神木」の手前に参拝用の濡れ縁の如き構造物を設け、直接地面を踏みしめてしまうことをなくし「御神木」の根を守る大楠のだと。工事前の写真をネットで見ると、「大楠」の手前の一部は舗装されており、根に優しくなかった事が理解できたのであった。「日本最樹齢の碑 国指定天然記念物 大樟 文部大臣指定 昭和八年ニ月二十八日樹齢 ニ千年以上周囲 ニ十三.九米高さ ニ十六米以上御由緒 古代においては此の樟へ神の御霊をお招きしてお祀りしております。現在は当社の御神木となっております。此の大楠はニ千年の間、世の天変地異を経て今の世に至りましてもその樹勢は衰えずいよいよ旺にして根は深く大地をふまえ巌石の如き様相を呈し『延命長寿』の象徴とされています。世の貴顕紳士をはじめあらゆる方々が訪ねて来られ、此の大楠の前たたずみ何物かを感得されて帰られます。」本州一位(全国二位)の巨樹。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると一年寿命が延びると伝えられています。「大楠」も幹の内部が空洞の部分も。御朱印と共に頂いた絵葉書。夜間はライトアップされたとパンフレットより。現在は??「徳富蘇峰顕彰碑」・「餘香碑(よこうひ)」。昭和32年(1957)、熱海で95歳の天寿をまっとうした『徳富蘇峰(とくとみそほう)』の業績を顕彰して立てられた碑。この碑は、元内閣総理大臣中曽根康弘氏の書によるもので、昭和60年に建立されています。徳富蘇峰氏「国民之友」、「国民新聞」を創刊したほか、著書には「近世日本国民史」などがあり、明治・大正・昭和にかけて活躍したジャーナリスト、思想家、評論家などとして有名。「御神木」の裏の滝。雨天後でもあり白き流れが激しかった。滝の後の川の流れを上部から。この川は「あたみ桜 糸川桜まつり会場」の糸川に続く流れ。白のカオス。再び「大楠」を振り返る。拝殿前から「参集殿」を見る。「来宮神社」拝殿を別の高い場所・参集殿の2階「杜の屋上」から振り返る。階段を降り、「参集殿」の中に入った。「参集殿」の中の「来宮神社 宮神輿」。札所。御守りが並ぶ。様々な種類の御札も。「来宮神社」紹介のビデオコーナーも。「新日本風土記 熱海」のポスターか?「日本三代巨樹」。今回で、制覇していないのは鹿児島県にある1位のみになったが・・・。3位の佐賀県武雄市のものも「大楠」よって3位までは皆、楠なのである。御朱印を頂きました。帰路は濃霧の中、静岡県道20号熱海箱根峠線を利用し小田原に戻る。小田原漁港内にある「ひもの屋 半兵衛」に立ち寄る。店舗内部。鯵、えぼ鯛、サンマの干物を買って再び帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.20
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6月12日の早朝にジャカランダを楽しんだ後は、車で5分ほど離れた、来宮駅近くにある「来宮神社(きのみやじんじゃ)」を訪ねた。パワースポットを特集するテレビ番組などでたびたび紹介される、静岡県熱海市の「来宮神社」。熱海郷の地主の神が鎮座し、来福・縁起の神として昔から地元の人々に信仰されているのだと。そんなに大きくはない神社だが、メディアや口コミで来宮神社の噂が広がり、平日にも関わらず老若男女、多くの参拝客の姿があるとのことだが、やはりこの日は新型コロナ禍で人の数はほとんどなかったのであった。参道の前には東海道新幹線の下を潜る県道20号線のトンネル・来宮暗渠(きのみやあんきょ) 、通称メガネトンネルが。「来宮神社」👈リンク 配置図と「来宮神社の由来」。境内配置をズームで。「来宮神社の由来御祭神大己貴命(商売繁盛・縁結び・温泉の神)五十猛命(樹木の神)日本武尊(決断の神)社伝によると、およそ三千有余年前大己貴命(大国主命)が国を治めるため、遠い西の国(現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されて此の地方をお治めになり、ここは温泉に恵まれ気候風土よく、その上、諸物資の豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められ、当神社が其の跡と伝えられている。その後第12代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし、第43代元明天皇の御代に(約1300年前、和銅3年)五十猛命をお祀りしたと伝えられている。大楠の由来大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社であった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一周廻る毎に 一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれ ている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明かである。 昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。願事の由来一、縁結びの神 縁結びの神として古くから知られ今も遠近の人より良縁 の幸福のご利益が あるので、信仰が厚い。一、商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神 昔から商売繁盛・宅地造成・ 温泉守護の 神として信仰が厚く、御家繁盛の為ここを詣でる人の絶え間がない。一、酒断ちの神 古くから酒断ちの神として近くは関東・遠くは関西に至る迄 大神の御神徳が 拡まり、酒の為家庭を破壊し病に悩む身を滅ぼさんとする人は、 期間を定めて酒を断ち、 大神の御利益により数多くに人が救われている。その他諸々の 願事を大神にすがり、 大願成就して日夜詣でる人は絶え間がない。」御祭神■大己貴命(おおなもちのみこと)(営業繁栄・身体健康・縁結びの神) 大己貴命は素蓋鳴命の御子であって又の名を大國主命、俗に『大黒様』とも云われ、 古代出雲の国の神々が海、山を渡り伊豆地方に進出されたときに、この熱海の里が海山に臨み 温泉に恵まれ、風光明媚にして生活条件の整っていることを愛し、この処に住居を定め、 祀られたと伝えられています。■五十猛命(いたけるのみこと)(五十猛命樹木と自然保護の神) 五十猛命は素蓋鳴命の御子で、大陸より樹種を持ち帰り日本国土に播種した神であります。 当社へは和銅三年(七一〇年)に合わせ祀られました。おおよそ、今から一三〇〇年前の 旧暦六月十五日に熱海湾で漁夫が網をおろしていたとき、御木像らしき物かこれに入ったので、 不思議に思っていると、童子か現れ『我こそは五十猛命である。この里に波の音の聞こえない 七本の楠に囲まれた祠があるから、そこに私を祀りなさい。しからば村人は勿論、里に入り 来るものも守護しよう。』と告げられ、村民達が探し当てたのが此の熱海の西山の地でした。 その当時、ご神前に、麦こがし、百合根、ところ、橙(だいだい)をお供えしたところ喜んで 召し上がったと伝えられています。今でも六月十五日(新暦七月十五日)になると熱海の氏子は 海岸に出て、当時を偲ぶお祭り(七月の例大祭・こがし祭)を行ない、多くの人々で賑わいます。■日本武命(やまとたけるのみこと)(武勇と決断の神) 日本武命は人皇十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、この地に軍を進め られたとき、産業を奨励した功績と武勲を称え合わせ祀られたと伝えられています。竹林に囲まれた参道を進む。佐佐木信綱 歌碑。「来の宮は 樹齢二千年の 樟のもとに 御国のさかえ いのりまつらく」和歌革新運動の先達となった佐佐木信綱(1872-1963)は、明治の頃から熱海に幾度か静養に来ていたが、1944(昭和19)年、来宮神社近くの自然豊か、閑静で趣のあるこの地に定住するようになったのだと。2020年3月23日に完歩した「旧東海道を歩く」👈リンク の中で、東海道石薬師宿の北端から南端の1.8kmの間の「信綱かるた道」👈リンク と名付けた旧東海道を歩いた事を想い出したのであった。左手に「手水舎」。「手水舎」の裏にあったのが「稲荷神社」。朱の美しい鳥居が続く。「稲荷神社」。「稲荷神社」の祭神は五十猛命の兄妹神・宇迦之御魂(ウカノミタマ)神。海・山の豊穣を祈願する五十猛命とは少し違う、食物神に近い豊穣・稲の神さま。そして右手には竹の鳥居の「三峯神社」。「三峯神社」は昭和初期に勧請されたが、祭神は本殿と同じく日本武尊。本物の竹で出来た鳥居と思ったが、触ってみると樹脂製?のようであったが。そしてこちらは「第二大楠」案内板。「樹齢1300年を超える「第二大楠」。約300年前の落雷にも負けず負けず今なお息吹いています。幹の裏側に廻り、漲る(みなぎる)生命力をご覧下さい。」「第二大楠」幹周945cm 、樹高11m 、樹齢1300年以上。「第二大楠」の幹の中(樹洞)と小祠。「忠魂碑」。更に「拝殿」への参道を上って行った。右手に「御神水取り」。そして正面に「来宮神社」の「拝殿」が姿を現した。古くは「木宮明神」や「来宮大明神」などと呼ばれた。明治維新後、式内社「阿豆佐和気命神社」に比定されたため、「阿豆佐和気神社」(あずさわけじんじゃ)を称したが、その非が判り現社名に復称した。祭神は・日本武尊・五十猛命(いたけるのみこと)・大己貴命(おおなもちのみこと)上記3柱を主祭神として、稲荷神社・柿本社・天神社を相殿に祀る。『走湯山縁起』は伊豆山神社の地主神としている。「きのみや」を「忌の宮」と解し、禁酒など断ち物の祈願をする者も多いのだと。「来宮神社」と書かれた大きな提灯。「内陣」。「本殿」を横から。来宮神社の社殿は拝殿・幣殿・本殿が連なる権現造り。「来宮神社由緒沿革祭神大巳貴命(おおなもちのみこと)・五十猛命(いたけるのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)由緒沿革来宮神社は太古 大己貴命(別名大國主命)が海上遥か西方より諸神を率いて海を渡り伊豆の國の此の地に着かれるや気候温暖にして温泉湧出し 更に海山の幸にも恵まれているので此処に居を定められ当神社が其の跡地と伝えられている 当社及附近からは古代の土器が多数出土する 人皇第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし 第四十三代元明天皇の御世 和銅三年(約千二百有余年以前)に五十猛命をおまつりした 現代になってからは畏くも大正二年二月に 今上天皇には皇太子殿下の御時 御参拝に相成り幣帛料を御下賜下され 尚三笠宮 久迩宮 両殿下より金一封を賜り更に 三笠宮寛仁親王殿下には御榊を植樹 伊勢神宮祭主北白川房子様より 来宮神社神額を御染筆くだされ畏き極みである神徳 伊豆の國には古代から来宮信仰が拡まっていたが 当社はその中でも最も著名にして諸願成就の神として広く神徳を慕われている 即ち御祭神の御事蹟にあやかり 殖産興業 温泉守護 縁結び 禁酒 交通安全 等を祈念する人々にて踵を絶たない はるはると尋ねて此こに来の宮の神さみしくも幾代へぬらん 織田従四位侍従 来宮は樹齢二千年の樟のもとに御國の栄へ永久に守らん 佐佐木信綱大樟の由来 此の大樟は 来ノ宮大神の寄代とされた御神木であって樹齢二千年を数え之を一周すると一年寿命が延びると伝えられている大正八年に文部省から國の天然記念物に指定された 奉納 御鳳輦昭和亥子会 昭和五十二年七月吉日 境内には縁結びの落ち葉の♡マークが。前日の雨と風でハートマークは心乱れて。「御鳳輦(ごほうれん)」。鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味するとのこと。「東宮神社例大祭毎年7月14日~16日 今から約千三百年の昔、御祭神の五十猛命の後神像が漁夫の網にかかり引き上げられました。漁夫が麦こがし・百合根・橙・ところをお供えすると、とても喜ばれたと云われています。祭りの名“こがし祭り"は此の故事から来ており、今でも例大祭には此の四品を神饌としてお供えします。古より熱海では「麦こがし」に触れ、食することにより無病息災・身体健全になると言い伝えられております。 毎年例大祭は、7月14日宵宮祭に始まり、7月15日宮神輿渡御、7月16日の神幸祭では。麦こがしを撒く猿田彦命(天狗)の先導により、「42歳の地元男性」が来宮の神々を御鳳輦に乗せ、街の繁栄を祈り市街・浜に降ります。100年以上続く伝統、総勢500人の御神幸行列は壮大な時代絵巻の再現となります。「御鳳輦」👈リンク 毎年7月16日 浜降り神事。白装束に身を包んだ男衆は、てんぐの姿をした猿田彦を先頭に神社を出発。市街地を巡って熱海サンビーチに到着すると海に入り、「みょうねん、みょうねん」と力強く唱えながら進むのだと。神事は同神社のご神体が海から到着したとの故事にちなむ。男衆は厄払いの意味も込め、御鳳輦の担ぎ手となるという。道中で猿田彦がまく「麦こがし」は、触れると無病息災の御利益があるとされていると。境内の弁天池には巨大な鯉が。白蛇と白いたまごが5個。金運アップのご利益があるとして、縁起の良い生き物とされる白蛇。白蛇は弁天様のお使いとして、一緒に祀られている事が多いとのこと。 ・・・つづく・・・
2020.06.19
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『椿ライン』・県道75号線を箱根・大観山に向かって進むと左手前方に球体が二つ。『東京航空局 箱根航空路監視レーダー(ARSR)局』。ルート上の航空機の位置を探知し、航空機の誘導及び航空機相互間の間隔設定等レーダーを用いた航空路管制業務に使用していると。道路右側にあったのが『史跡 土肥の大椙跡』碑。「治承四年(一一八〇年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝主従地元豪族土肥実平一族に僅かに七騎、この辺りの大杉の伏木の空洞に隠れた所と伝えられる。平家方・大庭景親の命により梶原平三景時は、伏木の中をうかがい、頼朝と目が合ったが、助けようと決意し、蜘蛛の糸を鎧に付けて出て来て、誰もいないと他の者の探索を許さなかった。後に、景時は頼朝の家来になったという。世に言う「土肥大杉の一件」まさに歴史の転機鎌倉幕府発祥の起源である。大正六年大暴風雨で倒れるまで、大朽穴のある大杉があり、頼朝主従が隠れたと伝えられていた。」実際の大杉跡は、この石碑から数百メートル山道を入った場所であるらしい。現地まで歩いてゆくことは、残念ながら断念。そして大観山に到着すると、駐車場前の展望台に雪を頂く富士山の絶景が迎えてくれた。芦ノ湖の先に富士山の勇姿が。じわじわとズームで富士山に迫って行く。富士山の裾野にはわずかに雲が。富士山の中腹にぽっかり開いた『宝永火口』。江戸時代の宝永4年(1707年)に起きた宝永大噴火の火口。その上には、ジグザグの富士宮ルートの登山道も確認できた。山頂付近。これが我がカメラの限界、やはりここまで来ると三脚が必要。右手には『箱根 駒ヶ岳ロープウェー 駒ヶ岳頂上駅』が見えた。『日本景勝百選地 箱根大観山 標高1,011M』。『箱根ジオパーク』案内板。『箱根火山の成り立ちを風景から読み取ろう』「大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。 芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山です。 ①・・・約40~23万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。 ②・・・約23~13万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな 噴火が起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。目の前に 広がる風景で外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。 ③・・・約13~8万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。 ④・・・約8~4万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。 ⑤・・・約4万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが 駒ヶ岳や二子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。大観山では、この箱根火山の形成モデルに出てくる外輪山と中央火口丘の全ての山々を観察することができ、箱根火山がどのようにできたのか観察することができます。」『箱根火山の形成モデル』案内図。スキー場『フジヤマ スノーリゾート Yeti(イエティ)』をズームで。再び絶景をカメラに残し、椿ラインで大観山を下り芦ノ湖方面に。「箱根関所南」を右折し国道号線に出る。ここは箱根駅伝の往路のラストスパート、復路のスタートスパートの場所。左手の『箱根関所』を車窓から。『旧東海道を歩く』👈リンク でここをスタートし箱根の山を越えて三島まで歩いたのは2019年1月4日であった。『旧東海道 箱根宿の杉並木』を通過すると前方に『箱根神社 第一鳥居』が姿を現す。国道1号線を進見しばらく進み県道732号線に入り進むと左手に『お玉ヶ池』碑が見えた。江戸で奉公していたお玉が故郷へ逃げ帰ろうとし、関所破りが見つかり処刑され、哀れんだ村人たちが近くのこの池(なずなが池)を『お玉ヶ池』と呼ぶようになったと。左手に『甘酒茶屋』。畑宿にある『箱根旧街道一里塚 江戸より二十三里』に立ち寄る。箱根町の中では、湯本茶屋、畑宿、箱根の3か所にあった一里塚の中で、唯一その形態をとどめるもの。標識樹として、塚の頂上に、畑宿から見て右側の塚には樅(もみ)の木を、左側の塚には槻(けやき)の木が植えられている。『そば処桔梗屋』に立ち寄る。客は我々だけ。囲炉裏と座敷があり、落ち着いた店内で、ゆっくり蕎麦を楽しむことができたのであったが、客が少なくて心配なのであった。 私はとろろ蕎麦を楽しむ。店の脇には『ミツマタ』の花が満開。「ミツマタはなかなか趣に富んだ春の花木です。新葉が芽吹く前の枝先に花だけが開花する姿は、冬が終わり待ちわびた春がきたことを喜んでいるようにも見えます。うつむくように下を向いて咲く花には芳香があり、小さな花が集まって半球形をつくっています。この小さな花には花弁はなく、花弁のように見えるのは筒状の萼の先端が4つに裂けて反り返ったものです。枝は3つに分枝し、これが「ミツマタ」の名前の由来となっています。強い繊維質の樹皮は、強度の高い良質の紙の原料として有名で、紙幣などにも使われています。」とのネット情報。そして旧東海道を車で下ると、箱根湯本の早川に架かる『三枚橋』に出た。折しも小田急線ロマンスカーが箱根湯本駅に滑り込んでいた。そして西湘バイパスを利用して茅ヶ崎に向かったのであった。15:30前にSさん宅に到着し、自分の車に乗り換え帰宅の途に。途中、荏原製作所(株)藤沢事業所前の通りは白モクレンの並木が開花を始めていた。信号で停止した際に、ズームで。そして16時前に、この日の『石橋山古戦場』➡『根府川おかめ桜』➡『しとどの窟』➡『大観山からの富士山』の観光を思いっきり楽しみ、帰宅したのであった。Sさん、運転ご苦労さま、ありがとうございました。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.03.15
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『きのこ苑・お山のたいしょう』を後にし、富士山の絶景を見に箱根・大観山に向かうことを決定し、カーナビをセット。ところがカーナビは小田原に戻る様にとの案内が。Sさんは、湯河原経由で行くことを決断し更に南に進む。県道740号線に架かる『白糸橋』の先で車を止める。前方下方に『白糸川橋梁』そして新幹線の線路が見えた。折しも、JR東海道線が橋を渡っていた。新幹線も通過したがシャッターチャンスを逃してしまった。ここに新幹線の姿があるはずであったが・・・。遠く房総半島の山々の姿も見えた。こちらは三浦半島。それぞれズームで。国道135号線・真鶴道路に出て海岸沿いを湯河原駅方面に向かう。左に『大島』、右は熱海沖の『初島』。そして湯河原駅に到着。駅前ロータリーに車を一時停車させ駅前の像を撮影。『土肥實平(どいさねひら)公並夫人像』と『土肥氏館阯』碑。JR湯河原駅のシンボル的存在である土肥実平夫妻像。土肥実平は、相模国足下(あしのしも)郡土肥郷(現在の神奈川県湯河原、真鶴町)の豪族で、土肥次郎とよばれ、平安末から鎌倉初期に活躍した武将。 1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると嫡男の遠平とともに中村一族を率いて参画した。以後、富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐、宇治川の戦、源義仲討伐などに従軍し、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦い、三草山の戦い後、吉備三国(備前、備中、備後)の守護職に任ぜられた。戦国に活躍した武家・小早川氏の祖とされている。『土肥實平公並夫人像』の前には『土肥氏館阯』碑があった。『乾坤一擲(けんこんいってき)』の文字が。「源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。」乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすること。『土肥實平公並夫人像』。見つめ合っている姿であると。「由来土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。」『四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら』案内板。「私たちのまち湯河原は、海と山と川に恵まれた自然環境や豊かな温泉、歴史文化の香り漂うまち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさとです。京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、湯河原をこよなく愛し、この地で終焉を迎えました。その作品を展示する、「湯河原ゆかりの美術館」(現町立湯河原美術館)開設や、京都仙洞御所の州浜に趣のある岸辺を造り上げている吉浜の一升石(石一升を米一升と交換したと伝えられる)などが契機となり、平成十一年六月、本町は、全国京都会議において「小京都」に認定されました。これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を整備いたしました。千二百年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都に、いつの日か近づけるよう、これからも町民一同町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力してまいります。」そして『湯河原駅前』を再出発する。新幹線の高架を潜る。椿ラインにて箱根・大観山方面に向かう。途中『椿台』に車を止めた。ここは県道76号線(椿ライン)と白銀林道との分岐。『かながわの景勝50選』でもあると。遠く初島、大島の姿を再び。駐車場脇に石碑があった。昭和17年建立の『土肥郷椙山鵐ノ窟之碑』「源頼朝の志を天下に為せるは箱根外輪山南部の複雑なる嶺谷と土肥氏並源氏の爲に隠したる地と人とに依ること大なり。○たる幕山鍛冶屋川の深渓遊子この窟前に立ちて治承四年八月頼朝陰潜九死一生の故事を想起せすや ○○昭和十年二月此の地人士二十余名と共に寒雨を冐し雑木○○を分ち之を踏査して感慨深きものあり仍って文を作ると云○」『しとどの窟(いわや)』を見に行くこととする。『しとどの窟(いわや) 徒歩20分➡』案内板治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に導かれて、椙山(湯河原町の山中)に隠れ、この『しとどの窟』へ隠れた。この付近は、地域信仰の霊地で、窟に至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている。」車に戻り白銀林道を車で進むとすぐ先で、城山隧道を潜ると、右手は地蔵信仰の霊地で、広場に石塔・燈籠・弘法大師石仏群があり、ここが『しとどの窟』への入口になっていた。そしてここより先はゲートが閉鎖され通行禁止となっていた。『しとどの窟』とは「源頼朝がこの岩屋に隠れようとしたとき、鵐(しとど)と呼ばれる鳥が舞い出た」あるいは、「大庭・伊東らの追手が岩屋を覗いたときに鵐が飛び出してきて人がいないと勘違いさせた」という言い伝えから「鵐ノ窟(しとどのいわや)」と呼ばれているのだと。城山隧道抜けた所に広場があり、常夜燈や様々な石碑が並んでいた。弘法大師石像群が祀られていた。左に『弘法大師像群之由来碑』、右に『桜郷史跡碑』。『燈龍建立記念碑』。「桜郷史蹟由来箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである」広場から九十九折れの急な山道を20分ほど下ると『しとどの窟』に達した。現在、道は観光的に整備されていていたが、かなり厳しい坂道であった。「しとどの窟まで四〇〇百米」とあったが「〇〇」又は「百」は不要ではと。信仰の霊地といわれるだけに洞窟に辿り着くまでの道々にも数多くの石仏地蔵や石灯籠が。下り坂を終わると上り坂に。今度は大岩をまわり込んで上って行く。更にクネクネと。石柱には奉納者の名前が刻まれていた。すると様々な立て札が立つ小さな広場に出た。「しとどの窟(いわや)治承四年(一一八〇)八月十七日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年八月ニ十三日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている。」「源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平の兼隆の監視によって二十年間をすごした。治承四年八月望仁王が平家討閥?の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが八月一六日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め十九日伊豆を出発土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている暫くして敵も引揚げたので山から降りて来たら吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。この岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが水は一年中湧いている。実平のお蔭で平氏を滅し鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和五十五年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢進夫氏寄進によって案内板を建立しました。」「湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和五十四年四月一日指定一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三一、所有者 吉浜財産区この観音像群が立像及び坐像六十一体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以降近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永六年、元治元年、新しいもので大正一五年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。」「神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝陰潜地) 昭和三〇年十一月一日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。[吾妻鏡」には源頼朝が治承四年(一一八〇年)八月一七日伊豆の蛭ヶ島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、二三日三百の兵と戦って敗れ、二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、二十八日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。」広場を振り返る。山肌をくり抜いたような真っ暗な洞窟。高さ5m、巾12・8m、奥行11・3m、頼朝主従が身を潜めるには十分。洞窟内や周囲には観音像が六十体余安置されていて大半は無銘ですが、嘉永6年(1853)などが確認されていると。あたりは静まりかえっていて、岩肌からたえまなくしたたり落ちる水音だけが聞こえる神秘的な場所。二基の燈籠の奥、ひな壇状の岩盤に安置された観音像群が並んでいた。窟の内部。岩屋の入口は関東大震災(大正12・1923)で崩れてしまったと。ひな壇状の岩盤に安置された観音像群。別の角度から。頭のないいくつかの像も。何と刻まれていたのであろうか。流れ落ちる水は小さな滝の如し。実はここで平家側の梶原景時という人物に発見されてしまう源頼朝ですが見逃して助けられる」逸話があるのも人徳の備わった風貌が故か。ここから再起を図る頼朝の強運を物語っていて興味深い逸話なのだ。前田青邨作「洞窟の頼朝」 二曲一隻 絹本着色・屏風 をネットから。平家方の探索から逃げようと岩窟に潜む頼朝と、主人を必死に守ろうとする武者達を描いており、この七人の武者の一瞬の気配を描いた名作。(2010年に国の重文に指定された)。帰路は坂道を息を切らせながら上り入口にたどり着く。入口には『鳥獣之碑』もあった。そして車に乗り、この『城山隧道』を潜り再び椿ラインに戻り大観山に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.14
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更に湯河原・『石橋山古戦場』にある『佐奈田霊社』の散策を続ける。親子の『狛犬』が参道の階段を上がりきった場所に。左手の『狛犬』は父親であろう。かわいい子供が背中に乗っていた。右手の『狛犬』は母親であろう。こちらは足元に子供を抱き寄せて。表参道の階段を境内から。階段を上がった場所の左右にある石碑。右に明治天皇の第六皇女の常宮昌子殿下の『常宮殿下御手植松』碑。左に明治天皇の第七皇女の周宮房子殿下の『周宮殿下御手植松』碑。住職の話によると、昔は『桜』を『松』と呼ぶ時もあったとのことであるが??境内からの相模湾。扇の如き光の帯が。中央に枯れてしまった『御神木』が。「治承四年八月、義忠公戦士の時、臣家安其の遺骸を埋めて傍らに植えうる処と傳ふ。」『潮音閣』は寺務所か。現天皇陛下の『徳仁親王殿下登山記念之杉』。再び『観音堂』を斜めから。『小田原一聲會』碑。『一聲會』は鳶職の方々による木遣りの会であるようだ。そして『佐奈田霊社』を後にし、『文三堂(ぶんぞうどう)』に向かって車を進める。途中右側にあったのが、『佐奈田霊社』の表参道の階段。『霊社』であるためか、鳥居の姿はなかった。『石橋山古戦場』案内標識。『文三堂』に向って進む。左手にあったのが『佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)』「治承四年(一一八〇)八月二十三日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死にしたと伝えられる。」与一が敵方の俣野五郎景久を組み伏せた畑は「ねじり畑」として残り、作物が全てねじれてしまうという言い伝えがあるのだと。道路脇には小さな石像が。未だ収穫前の?ミカンが鈴なりに。ここにも『おかめ桜』。下向きに垂れ下がっている小さな花。『文三堂』への階段が左手にあった。階段を上ると正面に『文三堂』。『石橋山古戦場』にあるこの『文三堂』は、石橋山の戦いで先陣を切って戦い討死した佐奈田(真田)与一義忠の郎党陶山文三家康を祀る堂。文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、稲毛重成の手勢によって討たれたのだと。扁額の『文三堂』。内陣には墓石が。間口2間×奥行3間ほどの小さな社が覆堂として墓石を保護していたのであった。堂の内部の文三の墓標。刻まれた文字が微かに読めるが風化しているため内容が判らないし、石塔の由来も?後世に建てた可能性もあるのだろうか?そして車で根府川駅に向かう。途中、東海道線を下方に見る。その横に相模湾。東海道線の上り電車が。そして車を降り、相模湾の絶景ポイントに。小田原市街とその奥に大山の姿が。中央に小田原城の天守閣が。小田原城の天守閣をズームで。線路沿いには「撮り鉄」の若者の姿が。30分後に来る踊り子号を待っていると。我々は車に戻り車を走らせる。前方左に真鶴半島・そして三ッ石が見えた。途中、米神・清水川の先で車を駐め、ピンクの桜を見に行く。まだ開花を始めたばかりの蕾の状態。カンヒザクラ(寒緋桜)であろうか?釣り鐘状の花が特徴であろうか。そして再び東海道線沿いに走ると、左手にはまた別の種類の桜の花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.09
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この日は3月6日(金)、テレビのニュースで根府川の「おかめ桜」が満開をむかえていると。コロナウィルスの関係でさくら祭りは中止とのことであったが、旅友のSさんを誘いSさんの愛車で7時に出発し根府川を目指して行きました。途中、国道134号線、相模川手前からは富士山の美しい勇姿を車窓から。正面に標高1,252 mの丹沢・『大山』の姿も。相模川に架かる国道134号の橋『湘南大橋』からの富士山。『西湘バイパス』に入り大磯付近から箱根の山々。『西湘バイパス』下り車線は依然として工事中。国府津付近から。早川ICまで1km。新早川橋交差点を左折して根府川を目指す。前方に東海道本線が。光る海・相模湾。根府川の「おかめ桜」を見る前に、二人共訪ねたことのない『石橋山古戦場』を訪ねることにする。国道135号線から別れ曲がりくねった坂道を進み、東海道線のトンネル上の道を進むと、右手に石碑・『石橋山古戦場』があった。『石橋山合戦』は源頼朝挙兵、最初の合戦。治承4年(1180年)8月20日、源頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取る。その後、相模国へと兵を進める頼朝は、大庭景親率いる平氏方の多勢とこの地で『石橋山合戦』を行なったのであった。『源頼朝挙兵之地 石橋山古戦場』碑。駐車場に到着。『佐奈田霊社 駐車場』。駐車場では『おかめ桜』が迎えてくれた。イギリスの桜研究家コリングウッド・イングラム がカンヒザクラとマメザクラを交配して作出。名前はおかめに由来する。 淡い紅色の一重咲き。花が下を向いているのが特徴である。駐車場に車を駐め、『佐奈田霊社』に向かう。青空に『おかめ桜』の小さな花を見上げる。「石橋山古戦揚と佐奈田霊社この附近は。源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎て豪雄俣野五郎の75騎と戦い両将組討ちとなったが与一が勝ったが俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやがら抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25オの命を花と散らした。与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が 建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。また、その先100mの処には、文Ξを祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。頼朝は。建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。」『佐奈田霊社 行事予定』案内板。元旦日ノ出護摩供・・・・・・1月1日~1月3日 例祭日・・・・・・・・・・・毎月23日 護摩供修行・・・・・・・・・随時 祈願別 ぜんそく・せき・のど・家内安全・身体安全・商売繁盛・自動車安全祈願・ 交通安全・その他『史跡 源頼朝 石橋山古戦場 佐奈田霊社』寺社標。佐奈田霊社(さなだれいしゃ)は、源頼朝旗揚げの地「石橋山古戦場(神奈川県小田原市石橋)」にある神仏習合の霊社である。 太古より江戸時代まで、仏教と神道は神仏習合・神仏混淆であった。どちらが上かと言えば仏教(寺)であり、神社の中に寺があった。大きな神社の名前も例えば、鎌倉八幡は「鎌倉八幡宮寺」であり、京都の石清水八幡も「石清水八幡宮寺」と“宮寺”であった。この様な神仏習合・神仏混淆の寺・神社を『霊社』と呼ぶのだと、朝の準備のために境内に居られた住職が説明してくれたのであった。境内へのスロープを上って行った。『のぞみ観音』。『天皇陛下御在位六十年』奉祝碑。『手水場(手水鉢)』。石橋山の合戦で討ち死にした、頼朝方の青年武将佐奈田与一を祀った社とお寺の真言宗東寺派宝寿寺が一緒にあり、比較的めずらしい神仏習合社となつていた。『霊社』の場合、『拝殿』と称しているのだろうか?それとも『本堂』と称しているのだろうか?境内でお会いした住職から聞き逃しました。軒唐破風屋根の正面鬼瓦。紋は「丸に三つ引き」。佐奈田霊社は、三浦一族の岡崎義実(三浦義明の弟)の子・『佐奈田与一義忠』を祭神とするので三浦一族の紋と同じなのであろう。正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である『鰐口(わにぐち)』。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形。扁額『佐奈田霊社』。『内陣』。ご本尊のお姿は??「ぜんそく、せき、のど・気管支炎等日本唯一の祈願所です」と。佐奈田与一は持病の痰のため、味方からの呼びかけに対し声が出せず、そうこうしているうちに敵に討たれてしまったという言い伝えから、咳・声・のどに霊験があるとされ、芸能関係者も数多く参詣するとのネット情報。また、戦の先駆け=魁の神様(魁秀明神)も奉る。 護摩の祈祷あり。 石王山宝寿寺が管理していると。『観音堂』。扁額『観音堂』。内陣の『十二支御守本尊配置図』。内陣には『十二支御守本尊』が並んでいた。『小田原ふるさとの原風景百選』案内板。5.石橋山古戦場と佐奈田霊社 「「石橋山の合戦」(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した 源頼朝が平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。 佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与―塚の傍らに建っていて、 与-の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている。」『与一塚』・県指定史跡。以仁王の平家追討の令旨によって兵を挙げた源頼朝が石橋山で平家軍と戦い大敗を喫した。このとき頼朝より先陣を命じられた佐奈田与一は、大庭景親の弟俣野五郎景久を組み伏せ刀を抜こうとしたがなかなか抜けず、手間取っているうち敵の応援によって討ち取られたという。与一の亡骸は与一塚に葬られ、その傍らには与一を祀る神社が建てられたのだと。江戸消防記念会『第七区』 創五拾年記念碑。『湘南そろばん塚』。1986年に柏木学園👈リンク により寄贈された『湘南そろばん塚』。『五三七九八八九八〇〇八四六四五』は『誤算なく 速くやれればよろしい』と。即ち正確 迅速が計算の使命なりと。江戸消防記念会『第九区』碑。第九区の纒10本が刻まえれいるのだと。赤く塗られた佐奈田与一義忠の『手附石』。佐奈田与一は大変な力持ちで、石に手を附ければ手形が附くほどであったと。境内には様々な石碑が。『魚藍観音像』。『水子地蔵尊』。『石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂』案内板。「石橋山古戦場は、治承四年(一一八〇)八月二十三日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠とその家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎討ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(一一九〇)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。」 ・・・つづく・・・
2020.03.08
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そして『玉泉寺』を後にし、玉泉寺参道、樹齢130年の松の木のある庭の奥にはオバアチャン手作りの人形店『工房 桜子』が。オリジナルちりめん細工作品、『桜子ちゃん』のクリップ。そして再び車に戻り、海岸沿いを更に奥に進み、「下田浄化センター」の入口手前の山の裾にあったのが『吉田松陰上陸の碑』。『吉田松陰上陸所』と刻まれているのであろうか。「吉田松陰上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ボーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松陰が上陸した地点が、この場所である。」『松蔭上陸所碑』『吉田松陰上陸の碑 と 現在の下田港』案内板。「吉田松蔭上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ボーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松陰が上陸した地点が、この場所である。」次に訪れたのが『ハリスの小径』。ハリスの小径は、安政3年(1856)、タウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置した後、日米通商条約締結交渉中に胃潰瘍をわずらい、望郷の思いにふけりながら歩いたといわれる海沿いの道。現在は玉泉寺のある柿崎から須崎までの620mを石畳の遊歩道になっているのだと。『ハリスの小径』碑。ハリス像。「1856年、我国最初の米国領事館なった玉泉寺には初代総領事として赴任したハリスは、滞在日記に「この領事館旗が日本のためになるように」と書き残している。領事館滞在中、日米通商条約の締結に努め、この周辺を思索にふけりながら散策したという。付近にはパンダリア崖、ササントンロックなど当寺名付けられた地名も残っており、この歩道をハリスを偲び「ハリスの小径」と名付けた。」タウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置した後、日米通商条約締結交渉中に胃潰瘍をわずらい、望郷の思いにふけりながら歩いたといわれる海沿いの道。現在は玉泉寺のある柿崎から須崎までの620mを石畳の遊歩道として整備。潮風を感じながら幕末の歴史に思いをはせられると。幕末開港の歴史ロマンを感じる海沿いの遊歩道であるのだ。三島神社(柿崎神社)にある伊豆・下田の海を見つめる『吉田松陰踏海の像』と先程訪れた『吉田松陰上陸所碑』案内板。620mを石畳の遊歩道『ハリスの小径』をズームで。『吉田松陰「至誠通天」顕彰碑』をネットより。鎖国の続く日本において、遠くアメリカへの渡航を夢見て行動へと移した、「吉田松陰」に纏わる石碑が建てられています。至誠通天の石碑「至誠通天」の文字が、くっきりと浮かび上がるこの石碑は、24歳にして、近くにある弁天島から、停泊中の「ポーハタン号」に伝馬船を漕ぎ出でた青年の熱き志を称えたものとなっています。「踏海の企」が失敗に終わった後、吉田松陰は、山口県の萩において叔父より「松下村塾」を受け継ぎ、「高杉晋作」や「木戸孝允」、「伊藤博文」といった幕末の獅子たちに、多大なる影響を与えていきました。明治維新の影の立役者とも言われる吉田松陰は、その後1859年に、「安政の大獄」にて、29年の生涯を閉じましたが、一本筋の通った吉田松陰の生き方は、多くの方々に慕われ、特に「至誠通天」を座右の銘とする政治家が多いことでも知られています。 【http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimoda.html】『至誠通天 ( しせいてんにつうず ) 』の文字が。吉田松陰の言葉で「誠を尽くせば、願いは天に通じる」といった意味の言葉。一つ一つの課題に誠実に取り組み努力をすれば、必ず願いは叶うと。そして下田の海。松陰が密航をしようと身を隠し、小舟を漕ぎ出した『弁天島』を見る。『下田龍神宮』の姿も確認できた。そして下田の散策を終え帰路に。竣工は1957年の『子安隧道』を通過。『小湊一号隧道』。『河津海水浴場』が前方に。河津川に架かる『浜橋』。『浜橋』を渡りながら河津川の河津桜を再び見る。『河津トンネル』が前方に。135号線の河津桜を楽しみながらの帰路。『伊豆さくら亭』前を通過。山の斜面に大きな鳥の姿が‥『稲取ふれあいの森』。ズームで。風力発電の姿が。伊豆高原 体験の里 竹林生い茂る山の麓には『八幡野観音』。昭和57年に開眼し、高さは12m、60トンの大きさ。多くの干物の店が。『網元 徳造丸 海鮮屋』。そして河津桜、日野の菜の花、下田の開国歴史散策を日帰りで楽しみ帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.03.01
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次に向かったのは『玉泉寺』。幕末にアメリカが日本で初の総領事館として使った寺。日露和親条約の交渉の場としても使われた。当時の総領事ハリスの記念館もあった。右手にあったのが『道の駅 開国下田みなと』。東伊豆道路を海岸線を右に見ながら進む。そして駐車場に車を駐め『玉泉寺』を訪ねた。『玉泉寺 山門』。日露交渉の史跡 玉泉寺「史跡 玉泉寺嘉永七年(安政元年-一八五四)三月、日米和親条約により下田が開港され、続いて五月、下田条約(和親条約追加九か条)が結ばれると、ここ玉泉寺は了仙寺とともに米人休息所に指定された。安政三年(一八六五)七月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に来航した。しかし、幕府が着任を拒否しようとしたため数日間もめた。結局、条約の日本語訳に誤りがあったことが分かり、八月五日、日本最初の領事館が玉泉寺に開設され星条旗が庭高く翻った。ハリスは、通訳のオランダ人ヒュースケン、召使いの中国人と共にここに住んだ。ハリスの使命は逓商条約の締結であったが幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健原を害しながら辛砲強く交渉にあたったハリスは安政四年五月二十六日、下田奉行と締結した「下田条約」(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに安政五年六月十九日ボータハン号艦上で日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。通商条約により横浜か聞港されると、安政六年五月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。なお境内には米人の墓五基、露人の墓三基が遺されている。」『露艦ヂアナ号水兵墓所』石碑。「史跡 玉泉寺安政元年に岡結された下田追加条約によってアメリカの休息所となり寺域内に同国人の驀地が設けられることになった。つづいて同三年八月アメリカ総領事タウンセント・ハリスは下田に上陸してこの寺を住居とし同月九日始めて領事旗を掲げ以後同六年六月まで総領事館となった。本堂はハリスの居室,ヒュースケンの居室及び事務室かあって当寺の規模をよく伝えており幕末外交史上重要な史跡である。尚、本堂の北側にアメリカの墓地,南側にロシア人の墓地かある。」『玉泉寺』配置案内図。『山門』に近づいて。『本堂』。『米国総領事旗掲揚之地』。すべて英語で刻まれた『ハリスの顕彰碑』。『英文碑面訳』。昭和2年御手植『月桂樹』。玉泉寺本堂の前右側にあった『牛乳の碑』。この碑文によると安政5年(1858年:明治10年)に,タウンゼント・ハリス総領事は病気になったときに牛乳を希望したため,近くの白浜村へ発注。ハリスに毎日与えたと。そこでここ下田は日本の牛乳発祥の地となったのだと。 「玉泉寺本堂 国指定史跡文化財(昭和二十六年指定)この本堂は、天保六年(一八三五年)当山十九世大陵道眉大和尚の発願により、嘉永元年(一八四八年)三月四日、遺弟ニ十世翠岩眉毛大和尚の代に現在の地に、間口七間半、奥行き七間、総欅造りの堂宇として上棟落慶されました。その六年後。嘉永七年(一八五四年)黒船の下田来航により日本開国史上の表舞台として登場しました。○嘉永七年三月ペリー黒船来航。玉泉寺は条約により黒船乗組員の休息所。 埋葬所に指定される。(日本最初の外人墓地)○安政元年十二月より、北の黒船ディアナ号乗紺貝の宿舎、埋葬所、日露 交渉の場として使用○安政二年五月、ドイツ商人リュードルフの約半年の滞在○安政三年八月~安政六年五月までタウンセンド-ハリス、秘書通訳 ヒュースケンにより、 日本晟初の総領事館として使用(二年十ヵ月)、足掛け六年間、この本堂に於いて様々なドラマか展開され、日本開国の中心舞台として、その役割を果たしました。大正十五年、渋沢栄一子爵と日米協会の援助の下、本堂の大修繕か行われ、その姿は、当時の儘に現在に保存されております。日本開国の最も重要な遺構です。」ジミー・カーター米国大統領が1979年にここを訪れた時の記念碑。随行者にロザリン・カーター夫人、エミーカーター嬢ら。様々な石仏も境内に。日本最初の「とさつば」の跡。傍らの木に縛り……木は枯れたが、供養のため牛王如来を建立。『地蔵尊』。そして少し高い場所にあったのが、『ペルリ艦隊乗組将兵の墓』。『ペルリ艦隊乗組将兵の墓』石碑。『黒船(ペリー艦隊)乗組員の墓所』案内板。一八五四年三月三十一日(嘉永七年三月三日)日米和親条約が神奈川で調印されると下田は即時関港され、黒船(ペリー艦隊)七隻が下田港に入港した。日米和親条約付録条約第五条により、玉泉寺境内にアメリカ人用の埋葬所が設けられた。日本最初の外人墓地である。本堂側から向って右の墓石より一、「ジェームス・ハミルトン」の墓 合衆国海軍軍医准尉 享年 三十八歳 一八五四年九月六日 サスケハナ号にて航海中死亡二、「G・W・パリッシュ」の墓 ポーハタン号水兵 享年 二十一歳 一八五四年五月五日 下田港にて死亡 コネチカット州ヘブロン郡生れ ポーハタン号にて 雷鳴激しき日に任務中マストより転落死三、「ロバート・ウィリアムズ」の墓 ミシシッピー号海兵隊員 享年 二十四歳 一八五四年三月六日 江戸湾にてミシシッピー号上で死亡 横浜の増徳院に埋葬されたが、その後、当所に改葬された。四、「アレキサンダー・デューナン」の墓 ミシシッピー号海兵隊員 享年 不詳 一八五八年七月三十一日 下田港にて死亡五、「ジョン・D・ストーム」の墓 ポーハタン号の火夫 享年 二十七歳 一八五五年二月二日 下田港にて死亡『黒船(ペリー艦隊)乗組員の墓所』案内板の下には「鎮魂 米国海軍を代表し、ここに眠るペリー提督指揮艦隊の乗員の霊に捧ぐ」と刻まれた石碑も。そしてその前には錨も。『ペルリ艦隊乗組将兵の墓』は5基。手前から「ジョン・D・ストーム」の墓ポーハタン号の火夫 享年 二十七歳一八五五年二月二日 下田港にて死亡「アレキサンダー・デューナン」の墓ミシシッピー号海兵隊員 享年 不詳一八五八年七月三十一日 下田港にて死亡「ロバート・ウィリアムズ」の墓ミシシッピー号海兵隊員 享年 二十四歳一八五四年三月六日 江戸湾にてミシシッピー号上で死亡 横浜の増徳院に埋葬されたが、その後、当所に改葬された。「G・W・パリッシュ」の墓ポーハタン号水兵 享年 二十一歳一八五四年五月五日 下田港にて死亡コネチカット州ヘブロン郡生れ ポーハタン号にて雷鳴激しき日に任務中マストより転落死「ジェームス・ハミルトン」の墓合衆国海軍軍医准尉 享年 三十八歳一八五四年九月六日 サスケハナ号にて航海中死亡そして『玉泉寺』の墓地。奥側から『ペルリ艦隊乗組将兵の墓』5基を見る。『ストーブの煙突を出した石』。向かって左の本堂壁面に、ストーブの煙突を出した穴、それを埋めた石が嵌め込まれていた。安政三年(1856)十月七日のハリスの日記に、部屋にストーブを据え付けたことが記されている。日記によれば、ストーブは特許品で、フィラデルフィアのアボット・アンド・ローレンス商会の製品であったが、非常な粗悪品で、送風口を開けておいても瀉青炭が消えてしまったという。『ストーブの煙突を出した石』案内板と説明文。「昨日は一日中よく雨が降った。そして今朝夜明けに。ようやく晴れ上がった。午前8時に地震があった。激風を食ったように思われた。何か重いものが倒れたように、家が振動した。又、それに相當した音響がともなった。この大きな衝撃につづいて、二、三度軽い横揺れがあった。天気は晴朗で、おだやかだった。程近い大島の火山は、何ら活動を増したようすもなかった。その音響と振動は南東からきて、北西へ去ったように思われた。ストーブを据え付けた。それは仕様のないしろもので、空気をよく吸い込もうとしない。はじめて火を入れたばかりで、その板金が歪み、ひびがはいってしまった。一握りの木炭を投げ込んだばかりなのだが、私の家は、いま煙だらけだ。まあ幸いにも叱言を言う妻がいない.このストーブ持許品でフィラデルフィアのアボット・アンド・ローレンス商会の製品と見受けられる。それはひじょうな粗製品で送風口をあけておいてさえ、瀝青炭が消えるしまつ。不良品を避けたいと思うので、アボット・アンド・ローレンス商会のあらゆをる製品を買わぬことにしよう。今日.私のところへ見事な猪がとどけられた。私はそれの鞍下肉を食べる。それは世界中で最も結構な屠肉である!」本堂の鐘。『玉泉寺 本堂』の右手奥にあったのが『ハリス記念館』入口。「国指定史跡 瑞龍山玉泉寺 曹洞宗 天正年間(一五七三~九一)嶺俊栄 創立嘉永七年(安政元年 一八五四)三月、日米和規条約により下田が開港され、同年五月和親条約付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人体息所・埋葬所に指定された。安政三年(一八五六)七月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に着任した。八月五日、日本最初の領事館がここ玉泉寺に開設され、翌日星条旗が庭高く翻った。ハリスはオランダ人通訳ヒュースケン・中国人召仕と共にここに駐在した。ハリスは同四年五月、下田奉行との間に、日米金銀貨は同種同量で交換すること、米側に領事裁判権を認めることなどを内容とした下田協約を結んだ。さらに、江戸へ出府して通商開始の努力を続け、同五年六月ポーハタン号艦上で日米修好通商条約の調印に成功した。同内容の条約が蘭・露・英・仏との間にも結ばれた。通商条約により横浜開港が決まり、安政六年(一八五九)五月領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終えて下田を去り、江戸麻布善福寺へと移った。なお、境内には米人の墓五基、露人の墓四基が建てられている。 下田市」『史跡文化財指定 ハリス記念館入口』。『アメリカ建国200年記念植樹』碑。アメリカ建国200年記念にバージニア州の花ハナミズキを日米友好記念植樹したと。脇道の奥、北側にあったのが『ロシア船ディアナ号乗組員の墓』。「ディアナ号乗組員の墓所ロシア使節プチャーチン提督座乗のディアナ号は一八五四年十二月十一日の安政大迪震による大津浚で下田港で大破、その後.修理の為に戸田(西伊豆)に回航の途上、沈没した。日露和親条約付録第三条により玉泉寺境内にロシア人墓所が設けられた.向って右の墓石より一、一八五五年三月ニ十五日戸田で死せるフリゲート艦 ディアナ号下士官アレクセイ・ポショーチキンの遺体ここに眠る。一、一八五四年十二月十一日の地震による下田町崩峨の日に 世を去しフリーゲート艦ディアナ号水平アレクセイ・ソボレフの遺体ここに眠る。一、一八五五年五月十五日に戸田で死せるフリゲート艦ディアナゴ水兵ワシーリー・バケーエフの 遺体ここに眠る。アスコルド号乗艦員の墓戸田号でロシアに帰国したプチャーチン提督は、一八五八年再度アスコルド号で下田に入港した。この時一名の水兵が死亡した。十字架のみで墓石は建てられることなく.永い間、氏名、享年不詳であったが、岡山大学名誉教授安田孝一氏の調査により、この乗組員は、機関士フィリップ・ユーディンと判明した。」境内と本堂を『ハリス記念館入口』方向から。ここにも『史跡 玉泉寺』。英文と和文で。『安政年間 日本最初 米国領事館』。苔むした階段を下り『山門』を再び振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.29
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そして、再び『了仙寺』の駐車場に戻る。駐車していた伊豆バスには葛飾北斎の冨嶽三十六景『凱風快晴』そして『神奈川沖浪裏』のラッピングが。『凱風快晴』は『赤富士』とも呼ばれているが、オリジナルに較べて雪の量がかなり多く描かれていたのであったが。『了仙寺黒船美術館かわら版』にて了仙寺の所蔵品を紹介していた。「了仙寺宝勧館/黒船芙俯館には国内で最大規模の黒船・開国のコレクションが所蔵されています。教科書やテレビ番相で使用されている了仙寺伝来の書画などの歴史資料・美術品を展示しています。」「了仙寺では、黒船来航を日本人が描いた絵巻物や肉筆画、錦絵やかわら版、長崎や横浜の南蛮人・異国人の絵、海外で出版・作成された日本についての版画や肉筆画・古地図、外交関係の報告書や資料など、3,000点を超える黒船・開国コレクションを所蔵しています。」駐車場前横の土産物屋。様々なレーザー彫りされた丸玉の人工水晶も並んでいた。車に戻り次に『宝福寺』を訪ねる。『宝福寺』手前にあった『下田八幡神社』。境内にある宝福寺の看板が目立つのであった米総領事ハリスに仕え、後に非業の死を遂げた、お吉の墓所のある寺。敷地内にはお吉記念館があった。幕末には日米交渉の際の幕府役人の宿舎にあてられた寺。『山内容堂 勝海舟 謁見之地 坂本龍馬飛翔の地』石碑が境内左手に。文久3年(1863)1月、嵐のために下田港に避難してきた土佐藩の船と幕府の船。偶然にも前土佐藩主山内容堂と勝海舟は、この下田で出会う事となった。そして、海舟が坂本龍馬の脱藩の罪を許して貰うために山内容堂に直談判したのがここ宝福寺。龍馬の脱藩の許しを請う為に、海舟が飲めない酒を容堂にすすめられ、ためらうことなく飲み干した。その時使われた朱の大杯の実物が保存されていると。ここで許されたことで龍馬の足物が取れ自由に飛びまわれるようになり、まさに龍馬にとって伊豆下田は「飛翔之地」となったのである。「八幡山 宝福寺 浄土真木 永禄二年(一五五九)権大僧都了善開基 嘉永七年(安政元年~一八五四)三月に締結された日米和親条約により下田開港となり日ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久三年(一八六三)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。慶応元年(一八六五)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調錬が行われた。なおヽ墓地には『下田年中行事』八七巻を書き上げた手井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。安政の東海地震(一八五四)後の津浪は本堂の床上まで達した。 下田市」『八幡山 宝福寺』の境内。境内右手には巨大な木像が。龍馬木像『風の夢』 この木像は、伊豆龍馬会の要請に応え、河津町にある、ログハウスの建築などを手がけ、静岡県内で唯一「森の名手・名人」に指定された天城カントリー工房の土屋宗一郎社長が制作し、寄贈された木像とのこと。名称の『風の夢』は、龍馬が下田の宝福寺で脱藩の罪を許されてから一年半後の元治元年六月十八日、乗船した長崎丸のシリンダーが故障して下田港に停泊していた勝海舟の下に、引船の黒龍丸と翔鶴丸を率いて来た坂本龍馬が合流。下田の町に上陸して「蝦夷地の夢」を語り合っていた事に由来。龍馬は、幕府に次々と失われてゆく若い命を、蝦夷の開拓に向けることで未来に繋げたいと、海舟にその準備が整った事を下田で告げているのだと。『宝福寺 本堂』を正面から。本堂左手には『幕末下田奉行跡』と書かれた木札が掲げられていた。この寺は幕末、下田奉行所が置かれた場所でもあり、世界遺産韮山反射炉を造った江川英龍の息子、韮山代官江川太郎左衛門英武が、農民調練の場にした場でもあると。扁額『八幡山』。『唐人お吉記念館』受付の建物。『唐人お吉記念館受付』案内板。『龍馬飛翔 山内容堂・勝海舟 謁見の間』案内板。中には入らなかったので、『山内容堂・勝海舟 謁見の間』をネットから。 【http://aitabi.com/guidebooks/izu/?p=2667】より同じく『唐人お吉の墓』(新しく改葬されたお墓)。 【https://tabisuke.arukikata.co.jp/mouth/30203/】より『宝福寺』前から『寝姿山』の山頂付近の巨岩をズームで。そして隣りにあった『下田八幡神社』を訪ねた。一の鳥居。境内入口は南東向き。石橋の奥に鳥居が立っており、参道右手に「八幡神社」と刻まれた社号標。当社の正式名は八幡神社のようだが、拝殿扁額には「八幡宮」とあり、再建之碑には下田八幡神社とある。『歌碑』。『下田八幡神社』境内。正面に『神門』右手に『鐘楼』。「下田八幡神社再建之碑当下田八幡神社は正応年間(一二八八年頃) 既に鎮座せりと伝う縁起書によれば永正四年(一五〇七年)建設に なる社殿は享和二年(一八〇二年)失火により焼失、文化四年(一八〇七年)再建さる爾来百七十有余年に亘り下田の総鎮守 として崇敬をあつむ昭和五十八年(一九八三年)十一月二十二日不慮の 事故により出火全焼せり氏子崇敬者一同 大いに恐懼奮起してその再建に当る昭和六十一年(一九八六年)八月十日旧にまさる 権現造りの壮麗堅固なる社殿及び 手水舎新築完成すこのことは神社役員はもとより広く氏子 崇敬者各位の奉賛による一大事業 でありここにその名を刻し徳を後世に 遺すものである」『鐘楼』。『神門』は八脚門。『神門』下には石像が。仁王像が石造であることは珍しいのであった。反対側。「下田八幡神社の仁王像江戸時代後期の作と伝えられているこの仁王像は、昭和初期まで参道に据えられ、見事な均整美を保ちながら満身の力をたくわえ、八幡神守護の睨みをきかせています。粗い凝灰岩から豪快に彫刻された等身大の石像。肋骨が浮く無骨な体、歯を剥き出す口元など見慣れた石像とは一線を画す迫力があります。」階段上に『拝殿』。江戸中期、再造営の社殿は昭和後期に焼失、権現造りの現社殿は昭和61年(1986)造営。拝殿は入母屋造り。扁額『八幡宮』を見上げて。『力石』。参道を戻ると、神橋の左にあった『迎神の松』。老松の幹が横に伸びて。「ペリー艦隊日本遠征記」からの当寺の写真であるようだ。ウィルヘルム ハイネはぺリー艦隊に乗っていたドイツ人の画家とのこと。『迎神の松』石碑。柳の木も新芽が出てきていた。「銀座の柳二世この柳は寝姿山にある「蓮杖写真記念館」に展示してある下岡蓮杖翁が撮ったとされる「銀座の柳之写真」の複製を贈呈したお礼として銀座金春通り会長であられた故勝又康雄氏と銀座御門通り会長であらされた故椎葉一ニ氏が育てた「銀座の柳二世」を下岡蓮杖翁生誕の下田市に贈られたものです。」市民文化会館の前にあった『1837年製カノン砲』。第50回黒船祭を記念して米国海軍から贈られたようであった。第50回黒船祭を記念して米国海軍から贈られた錨も。道路の反対側にあったのが『宮小路伏見稲荷神社』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.28
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そして『稲生沢川』の河口に沿った道を海にむって進むと左手にあったのが下田港を臨む『ペリー上陸記念公園』内の『ペリー艦隊来航記念碑』。河津桜の先にペリーの胸像が。ペリー提督の胸像と、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られていた。『ペリー提督の胸像』。『日米交流150周年によせて』。「ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ1854年の日米和親条約調印から150 1周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向けて出航した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」「日米友好の灯この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューボート黒船祭のおり、「NEW!!わかふじ国体」の矩火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。矩火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。日米友好の灯宣言下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します。」『ペリー上陸の碑』。「ペリー上陸の碑嘉永七年(安取元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親桑約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港か外洋と接近していて安全に容易に近づけること、舶の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊か次々と入港した。ペリー艦隊の乗組員が上陸したのか、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、『ペリー上陸の碑』が建てられた。この記倉碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の鐘は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。」『日本最初の開港地』日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します。3月18日 2隻 サザンプトン 帆船 567トン 艦長 ボイル大尉 サプライ 帆船 547トン 艦長 シンクレ尉3月20日 2隻 レキシントン 帆船 691トン 艦長 グラソン大尉 バンダリア 帆船 700トン 艦長 ホープ中佐3月21日 2隻 ポーハタン 蒸気船 2,415トン 艦長 マックラニー大佐 ペリー搭乗 ミシシッピー蒸気船 1,692トン 艦長 リー中佐4月6日 1隻 マセドニアン 帆船 1,341トン 艦長 アボット大佐(小笠原へ食糧調達に行っていたため、マセドニアンは遅れて入港)浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航したと。アメリカ海軍から寄贈された錨。下田港を臨む。遠く寝姿山から下る『下田ロープウェイ』の青いゴンドラの姿が確認できた。県道117号線を戻り、右折するとあったのが『史跡 安直楼』。「史跡 安直楼この建物は唐人お吉が明治15年より料亭 「安直楼」 を経営した店でお吉の没後当店が寿司店を開業。以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、 現在下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存してありますのでどうぞお気軽にお入り下さい。 安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます。 (主人敬白)」「安直楼米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が明治15(1882)年に、小料理屋を営んだ建物です。安政4(1857)年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消します。年月を経て、当家 「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。幕末開港の陰に咲いた一輪の花お吉は、明治23(1890)年に稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。48歳であった。なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている。」『史跡 安直楼』を振り返る。『大工町』の道標も確認できた。『KARAOKE Ra-maru』の建物の壁にはペリー・キンメ・アロハ、3パターンの『ぺるりん』が勢揃い。さすが下田街中。全員マイクを持って、バンド結成か?『ぺるりん』は、下田商工会議所青年部が2015年(平成27年)に考案した下田市PRマスコットキャラクター。交差点の角にあったなまこ壁の老舗の『松本旅館』。この旅館は、安政2年に建てられ、築後約150年が経っていると。現在も旅館業は続けられているようであった。『松本旅館』の漢字の字体は貫禄と歴史が感じられたのであった。ガラス戸が開いていたので中へ。瀬戸物の更が陳列されていた。中には人の姿もなく。ズームで。角の左手には『下田酒場 もり田』。「船宿角谷跡下田における勝海舟(幕臣)と山内容堂(土佐藩主)が暴風の為、共に下田に上陸した。山内容堂と勝海舟による下田会談(宝福寺)で坂本龍馬脱藩罪が許された。船宿角谷には勝海舟、板垣退助など宿泊。山内容堂は宝福寺に宿泊。」下田に昔からある老舗洋菓子店『日新堂』。 『大久保婦久子』「下田出身の日本画家「中村岳陵」画伯(文化勲章受章者)の影響を置け現在の女子美術大学に進み「皮の染色」を学び前例のない「皮革工芸」の世界で独自の技法を開発(金唐草技法)創造性豊かな作品を発表してきた。平成十二年「文化勲章」受賞、同年十一月四日急逝された。同年十二月下田市名誉市民の称号を贈りました。(現在のスナック房州屋(昔は旅館大正館)が生家でした。」『日新堂菓子店』「大正十一年創業の老舗菓子店。昭和天皇献上銘菓「下田節」。作家「三島由紀夫氏」がこよなく愛した「マドレーヌ」など、歴史あるお菓子を作り続けている。」『篠田雲凰』「明治維新後開拓子女学校で儒学を専攻したが詩文……・能筆で美人の為・・・襟を正したという。東京愛宕山麓に塾を・・・高橋是清、藤堂・・・・以下解読不能」『森斧薬局跡』森斧薬局は市内でも最も歴史のある薬局。日本薬剤師第 1号 森 斧治郎 ( おのじろう )の森斧薬局跡。隣家との間に伊豆石の壁がほんの少しだけれど観察が出来た。『下田商工会議所』を右に入った場所奥にあったのが『櫛田蔵』。明治30年から40年にかけて建築された伊豆石なまこ壁造りの蔵。『下田商工会議所』前を通過。『下田 了仙寺』前を通過。『下田 了仙寺』前の交差点を右折し進むと左側にあったのが『欠乏所跡』。『欠乏所跡』そして『貿易所跡 平野屋』。『欠乏所跡』碑と案内板。『市指定史跡 欠乏所跡 昭和五十一年五月二十七日指定 史跡』「嘉永七年(安政元年-一八五四)三月に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判のよ。取りきめ候事」(第六条)とのあいまいな条文があったため、ベリー艦隊が入港すると貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始された。なお、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。商人達は、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。幕府は欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった。」今は「喫茶と御食事 平野屋」になっていた。ここが「喫茶と御食事 平野屋」の入口。『下田市教育委員会 下田市立中央公民館』前に到着。道路沿いにあったが『吉田松陰拘禁之跡』碑。「吉田松陰拘禁之跡幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来港したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず、翌嘉永7年(1854年)3月再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ来た。 機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所が、ここ長命寺(廃寺)であった。 さらに平滑(ひらなめ)の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な1頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。」今回は訪ねることが出来なかったが、松蔭が密航を企てた弁天島の西に建設された公園には「踏海の朝」と題した吉田松陰と金子重輔の銅像が建っているのであった。以下、ネットからの写真。 【https://jibusakon.jp/history/bakumatu/yoshidakurofune】よりこれも訪ね残った三島神社内にある「吉田松陰像」をネットから。 【https://tokuhain.arukikata.co.jp/izu/2020/01/post_90.html】よりそして次に訪ねたのが『泰平寺』。『泰平寺』の入口が解らずほぼ1周してしまったのであった。入口右の神社。「長松山 泰平寺 臨済宗 天正十八年(一五九〇)再建 開山 雪叟紹立もと本郷にあって、建長寺七十三世仏印国師を請じて開山としたか、雪叟がこの地に移して、下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建した。三河国田原の豪族であった戸田忠次は、天正十八年秀吉の小田原攻めに際し、徳川氏の下で功をたて伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられた。海善寺の辺りに居館を構えていたが慶長二年(一五九七)死去し、ここ泰平寺に葬られた。跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたで五千石を加増、祖先の地三河田原に一万石をもって移封された。戸田氏が下田を統治したのは慶長六年(一六〇一)までの十年余であったが、この間、町並が整えられ、殿小路・紺屋町・町店町等の町名は当時の名残を示している。忠次の墓は田原への移封により移されたが、第三代下田奉行石野八兵衛が泰平寺の故地に墓碑を建てて記念した。これを知った尊次の孫戸田山城守は元禄三年(一六九〇)、当寺に忠次の墓(下田市指定文化財)を再建した。なお、幕末開港時の安政元年(一八五四)ロシア使節プチャーチンと和親条約の交渉に当った応接掛川路聖 が当寺を宿舎にした。また、ここ泰平寺は伊豆横道三十三観音の第二十四番となっている。」泰平寺にあった山頭火の句碑『伊豆はあたたかく 野宿によろし 波音も』。大山澄太揮毫、昭和57年3月に建碑された。漂泊の俳人、種田山頭火は昭和11年4月に伊豆を訪れている。伊豆訪問を心からよろこんでいることが感じられる句であると。六地蔵が祀られていた。入口から本堂を。この寺は観光客には非公開となっているようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.27
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『開国記念碑』の下に『2012下田トモダチ宣言』碑が日本語と米語で並んでいた。「今から150年以上前、ここ下田の地にて日本とアメリカ合衆国の交流が始まりました。それ以降、私たちはともに友情を深めてきました。2011年3月11日、東日本大震災が起こり、日本中が悲しみと嘆きの中にいたそのとき、「トモダチ作戦」でいち早く手を差し伸べてくれたのは、アメリカ合衆国のみなさんでした。私たちはその気持ちと行動を決して忘れません。「本当にありがとうございました」今、日本は、復興への道を力強く歩み始めました。両国の「絆」をさらに強め、光り輝く末来に向かい、永遠の「トモダチ」であることを宣言します。2012年5月19日 第73回下田黒船祭」『開国記念碑』は階段の上に。『下田公園 開国記念広場』碑。『開国記念碑』を斜めから。「開国記念碑嘉永七年(安政元年-1854)日米和親条約の締結により、日本最初の開港場となったここ下田に、ペリー艦隊か入港し、同3年には米国総領事ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和29年(1954)に開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーとハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。「余は平和の使節として此の地に来れり」(ペリー)「私の使命はあらゆる点て友好的なものであった」(ハリス)ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合国軍最高司令官たったマッカーサー元帥。ハリスの言葉はウィリアム・J・シーボルト。「開国記念の碑」の揮毫は、戦後の日米時代をきりひらいた吉田茂総理。碑の設計と、ペリー、ハリスのレリーフの制作者は、日展審査員をつとめた西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である。」石碑には『日米修好の基礎は下田に於いて築かれた 1960年5月18日』と。『開国記念碑』を正面から。 昭和28年5月、下田開港百年を記念して建立された。中央に『開国記念碑 内閣総理大臣吉田茂書』と。右側にはペルリのレリーフが。「余は平和の使節として此の地に来れり ペルリ西暦1950年8月14日 元帥ダクラス・マックァサー これを撰す」と英文、和文で記されていた。左にハリスのレリーフが。「私の使命はあらゆる点て友好的なものであった ハリス西暦1951年12月7日 ウイリアム・ジェー・シーボルト これを撰す」と英文、和文で記されていた。下田の町並みと寝姿山。眼下に広がる下田の町並みと稲生沢川。川岸には多くの豪華なヨットが係留されていた。下田公園の『開国記念碑』前の広場を坂道の途中から見おろす。白く輝く下田の街並みと「稲生沢川」。左手に見えた山が「下田富士」。「火山の中心部には地下から上昇してくるマグマの通り道があります。下田富士は、はるか昔に活動を終えた海底火山が伊豆と本州の衝突とともに隆起、浸食され、火山の中心にあったマグマの通り道が姿を現したものです。登山道入り口から108段の階段と山道をあがると30分ほどで山頂に着きます。途中、女人禁制と書かれた石碑があり、信仰の面影が残ります。3月と9月には例祭が行われています。」更に下田公園の坂道を登っていくと裸像が姿を現す。『萌える 松田裕康作』。『大地 山本利治』。『La Mer 堤達男』『陽炎 木野和彦』歌碑『天城嶺に 空も経なす 蝉しぐれ 悦男』。昭和9年(1934)静岡県生れ。東京都在住、「海」主宰の高橋悦男氏の作品。左行くと『馬場ヶ崎展望台』、右に行くと伝『天守台』跡。『馬場ヶ崎展望台』からは静かな下田湾を眺めることができるようになっていると。下田港の日の出を楽しめるスポットであるようだ。伝『天守台』跡に向かって整備された遊歩道を上る。『大正八年七月二十七日 東宮殿下御行啓趾』。『東屋』前方に伝『天守台』跡の鵜島城(下田城)主郭部。『鵜島城址』碑。「正確な築城年については不明だが、延元ニ年(1337)に記された基氏帳(土肥神社蔵)に『本郷氏島城主志水長門守』とあることから、室町時代の初期には存在していたと考えられる。その後、小田原に本拠を持った北条氏はこの城を北条水軍の拠点の一つとして整備し、城代として笠原能登守を入城させる。天正十六年(1588)豊臣秀吉との関係が悪化する中で、北条氏政は伊豆衆筆頭の清水上野介康英を水軍の総大将に任命し、下田城の守備に当てさせる。さらに高橋丹波守や江戸摂津守らも入城させ臨戦体制を整えさせた。天正十八年(1590)三月、いよいよ秀吉の小田原征伐が始まると、この下田城も脇坂安治・長曽我部元親らに率いられた水軍によって攻められる。他の北条水軍城が続々と降伏する中、この下田城は康英の指揮のもと、よくこれを防いだ。しかし衆寡敵せず五十日後ついに開城。康英は河津三養院に身を寄せ翌年病没。小田原落城後には家康の家臣、戸田忠次は五千石の禄高で入城するが、江戸幕府成立後は幕府直轄の天領地となり、下田町奉行が置かれた。」ここにも『下田公園案内板』が。「下田市指定文化財 下田城址 昭和四十八年六月十二日指定(史跡)天下統一を進める豊臣秀吉と。小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正十六年(一五八八)、陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長七百メートルを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。天正十七年(一五八九)十二月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や 妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。天正十八年三月、清水湊(江尻)に集結した豊臣方水軍は、長宗我 部元親や脇坂安治らが率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康ら六百余名の箭城軍は、五十日ほど防戦に努めたが、四月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。」山頂には石碑、案内板等はなかった。再び、下田の街並み、稲生沢川、寝姿山を見る。『下田城址』を後にし、細い坂道を下って行くと、前方に『幸福稲荷』があった。「幸福稲荷と土岐丹波守幸福稲荷は、元は金花(きんか)稲荷と呼ばれていました。創建時代は定かでありませんが、江戸時代の後期の天保十四年(一八四三)に下田奉行土岐丹波守頼旨によって再建されてから幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられています。土岐丹波守は上州(現在の群馬県)沼田城主であった土岐市の一族で、浦賀奉行を経て幕府大目付兼海防掛に任ぜられ、日米通称条約のハリスとの交渉では日本川代表の一人として活躍しました。社殿の傍らに残り石の祠は土岐丹波守が奉納したもので側面には次のように刻まれています。天保十四年十一月 土岐丹波守 再建立なお、土岐岐丹波守は、安政の東海地震と津波による犠牲者の霊を弔う市内稲田寺(とうでんじ)の「つなみ塚」の建立者の一人でもああります。」『下田の街と「火山の根」』案内板。写真入見える「寝姿山」や「下田富士」が「火山の根」なのであると。火山の直下で冷え固まったマグマが、後の浸食によって洗い出されたものを「火山岩頸(かざんがんけい、火山の根)」というと。一枚岩は急峻な山をつくることがあるのだと。海底にたまった火山灰や軽石からなる「伊豆石」でつくられた建物があり、独特な街並みを作り出しているのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.26
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『平滑川(ひらなめがわ)』に架かる『柳橋』を渡る。ペリーロード・『了仙寺』方向の眺め。ペリーロード・『旧澤村邸』方向の眺め。これはペリーロードの江戸時代当時のかつての姿。「ペリー艦隊日本遠征記」に載っているウィルヘルムハイネの残した画とのこと。『平滑川』沿いのペリーロードをさらに進む。右手に『逢坂橋』。『逢坂橋』。『大工町』と刻まれた道標も。『ギャラリーアンドカフェ 草画房』が『逢坂橋』を渡った先右手に。築100年の古民家を改造してカフェにした草画房は、大正3年に建てられたという石造りで土日祝日のみオープンしている古民家ギャラリー兼カフェが併設され、畳の上でゆっくり過ごすにはちょうど良い場所なのであると。ペリーロードを下田港・下田公園方面に更に進む。『平滑川』には多くの鴨が。そして突き当りにあったのが『旧澤村邸』1985年に下田市の歴史的建築物に指定された「なまこ壁」と「伊豆石」を特徴とする旧民家。旧下田ドックの創業者で、戦前には旧下田町の町長を務めた澤村久右衛門氏が、1915年に建築し市へ寄贈したものであると。この先『稲生沢川(いのうざわがわ)』に流れ込む『平滑川』。『旧澤村邸』入口開館:10:00~16:00・無料 とのことであったが、この日は水曜日で定休日なのであった。『的場稲荷神社』の一の鳥居。昔弓矢の的場があったことに由来しているそうなのだが、人が少なくちょっとしたパワースポットのような雰囲気も。『オオキバナカタバミ』の群生。更に別の朱の鳥居と、その先に古いなまこ壁の土蔵が。『お吉霊社』の朱の一の鳥居の先右手には案内板が。『唐人物語 (ラシャメンのうた)』👈リンクテレビ朝日系ドキュメンタリー番組『驚きももの木20世紀』テーマソング。原由子のボーカル曲。前曲終了直後にイントロなく歌い出される。括弧内の「ラシャメンのうた」はサブタイトルであり、タイトルは「とうじんものがたり」と読む。歌詞は江戸時代末期に実在した芸者“唐人お吉”こと斎藤きちの事を綴っており、お吉の出身地である下田の情景が随所に記されている(唐人坂、稲生沢など)。また“ラシャメン”とは「洋妾」の事で、異国人にその身を売った者を迫害する意味の言葉でもあった。なお、「鐘鳴る了仙寺」とあるものの、第二次世界大戦時の金属回収により了仙寺に鐘は現存しない。『おりじなる雑貨 下田日待』江戸時代からあるなまこ壁の土蔵を改装した和雑貨店。営業日は土、日のみとのことで入れなかった。「お吉霊社について 「唐人お吉」のモデルとなった斎藤きち所縁のお稲荷さん昭和のはじめ、日本中でブームとなった「唐人お吉」。そのモデルとなった「斎籐きち」の「実家」があったのが、ここ旧坂下町。安政四年、十六歳のきちは、ここ坂下からアxリカ領事館となた柿崎・玉泉寺に通いました。当時、村人が山へ薪を取りに行く時ほ.このお稲荷さんに通じる細い石段を上り登り、お稲荷さんに挨拶し山へ入りました。きちも幼い頃には、四つ年上の姉・もとに手を引かれ、何度もここを上り下りしたことでLよう. 幕末お吉研究会」玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになったのだと、ウィキペディアから。石段の途中に「階段が崩れやすくなっていますので、参拝はお控え下さい」自己責任にてとの表示板があったので、参拝を取りやめたのであった。『1829年製30ポンドカロネード』カロネード砲(カロネードほう)は、大砲の一種イギリス海軍のロバート・メルビル中尉の発案で、スコットランドのカロン社で作られた近距離用の前装式滑腔砲。1776年に開発、1779年からイギリス海軍に正式採用され、1860年代頃まで使われたと。導入当初はその圧倒的な火力が魅力となり、イギリス海軍に積極的に配備され、間もなく世界各国の海軍に広まり、独立戦争ではアメリカ海軍にも採用された。その最盛期はナポレオン戦争頃で、英仏両海軍の戦列艦に装備されていたとか。しかし、19世紀中頃には命中精度や射程に優れ、発射速度の速い後装式施条砲の登場によって、カロネード砲は登場一世紀にも満たない内に過去の物となったとのこと。『この先、50m ペリー(さんの)隠れ家』の案内板が。歴史上の建物と思い、向かったが・・・・。空き家をリノベーションして造られたカフェなのであった。紛らわしい看板なのであったが、店主の思惑にまんまと・・・・・。県道117号線に出ると右手に『弁天橋』そのさきに『粉もん茶屋あほや 』。大きなタコの姿と『かき小屋』と書かれた看板も。再び『旧澤村邸』の角まで戻る。『下田城復元模型』案内図。「下田城趾(鵜嶋城趾)天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が将武となった、海に落ちる断崖に回まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。天守跡と伝えられる城山の傾きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く渫い空堀の遺構は現在もよく残されている。天正17年(1589)12月から翌年にかけて籠城の準備が行なわれ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆の武士が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣されてきた。天正18年(1590)3月、秀吉の水軍脇坂安治、長曽我部元親、安国寺恵瓊による下田誠攻撃か始まった。およそ50日の籠城の末開城となり、城将清水康英は河津Ξ養院に身を寄せた。この下田城は山城で、標高約70mの鵜島山頂に主郭(現在の天守台跡)を置き、そこから伸びる尾根の要所には曲輪(くるわ:役割や機能に応じて城内で区画された小区域のこと)や櫓台(やぐらだい:城の物見をするための櫓の基礎となる土壇)を配置した。敵の軍勢からの防備のためにめぐらされた空堀は、現在も当時の様相を色濃く残している。『下田公園』案内図。春にはツツジ、初夏には紫陽花、冬には椿が満開となる自然公園。小高い丘の上にあり、下田港が一望できるのであった。公園内には開国記念碑や下岡蓮杖の碑などがあり、下田の歴史を偲びながら静かに散策を楽しめたのであった。坂を上って行くと小さな広場に『下岡蓮杖記念碑』があった。『下岡蓮杖翁之碑』日本の写真技術の開祖は、西の上野彦馬、東の下岡蓮杖と言われています。下岡蓮杖は、安政3年に米使ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学びました。文久元年(1861)横浜弁天通に写真館を開業し、後に東京の浅草で多数の門下を養成し、日本における写真技術の先駆者となりました。日本での写真技術の隆盛は下岡蓮杖の功績によるとして、全関東写真連盟と当時の下田町によって、昭和3年5月13日にこの碑が建立された。『下岡蓮杖翁』像。朝日小学校6年 石井さおり 昭和五十九年アルバムを広げた 12年前の私がいたあのころはかわいい顔をしていた学校も勉強も宿題もなにもない ちょっぴりもどりたいなーお父さんの写真も白黒ではってある まるまる太っている私に似ているかな日本ではじめて写真を考えた人 すばらしい人だなー母がいった 下岡蓮杖という人だよアルバムにいる私 写真はひとつの物語をつくってくれるすてきだな すばらしいな 私の思い出を大切にしよう下田生まれの蓮杖さんは えらい人なんだなー『下岡蓮杖(1823~1914)』「わが国写真師の開祖となった下岡蓮杖は、浦賀船改番所問屋である下田町中原町の桜田家に生まれ、久之助と称しました。少年の頃、狩野薫川の門に入り、狩野派の絵を学びました。江戸の薩摩藩屋敷で銀板写真を見て、その精巧さに驚歎したことを転機に写真術の習得を志しました。嘉永6(1853)年30歳の時に蓮杖と号しました。安政3(1856)年、ハリスが玉泉寺を領事館にすると、下田奉行所の足軽となり、外国人との接触の機会を得ました。オランダ人通訳ヒュースケンから写真の手ほどきを受け、下田開港場が閉鎖されると横浜に出て、米人ウンシンと知り合い、彼の帰国の際写真機を譲り受けました。そして、実験を重ね、辛苦の末ようやく湿版写真術を習得しました。横浜野毛ついで弁天町に写真館を開業、画家としての心得を生かして人工着色や画像の演出を行い、写真館は繁昌しました。蓮杖の門下からは優れた写真家が輩出しました。写真の他、牛乳搾取業、京浜間乗合馬車の開設、石版印刷等多方面に活動し、明治日本の近代化に貢献しました。なお、靖国神社遊就館に蓮杖の描いた「函館戦争図」「台湾戦争図」の巨大油絵が残されている。」そして更に坂を上り『下田公園』内の『開国記念碑』を目指す。眼下に『稲生沢川』の河口そして下田の街並みが見えた。右側の山はロープウェイが繋がっている『寝姿山』。『カーター大統領記念碑』。ジミー・カーター第39代米国大統領の下田来訪の記念碑。「ここ下田で」‥と書かれた記念碑には、こんな言葉が刻まれていた。日米両国民の友情が初めて根おろし花開いた。私たちは共に信頼と理解に基づいた永遠の友情を築き上げてきた。私たちのパートナーシップはすべての人々がいつの日か兄弟愛と繁栄と平和のうちに共に暮らすことを学ぶだろうという希望そのものである。これは、1979年(昭和54年)6月27日、東京サミットで来日中のカーター大統領が下田市内に訪れた時のメッセージ。ここは園内でもあじさいが特に美しい場所で、大人気の記念撮影スポットであると。『下田公園』案内板が再び。公園内の広場。ペリー提督とハリス領事の言葉が刻まれた『開国記念碑』が階段の上に。『佐藤惣之助歌碑』。「春の港の街にてわたしは熱い春の天城の天辺から火のついた鵜のやうに飛んで来た港は恋しい春の夕の港は一目見たばかりで異様に美しく埋もれてゐる」『村松春水翁』碑。「村松春水翁村松春水翁は 維新の志士 後の伊那懸*判事 村松文三の二男として 文久三年十月六日 静岡懸焼津に生まる明治十二年 志を抱いて 東都に遊学し 成島柳北 伊藤聡水 栗本鋤雲 等に師事し 聖**斉 山田美妙 幸田露伴 等と交遊す同十六年 祖母あさの遺言に従い 医術を学び二十一年 静岡懸城東病院医長 兼 復明館眼科医院 副院長となる同二十六年 居を伊豆下田に移し 幕末下田を中心とする開国史の研究を広く史学の探究に専念特に大正末期完成を見たる 唐人お吉の研究**とその資料提供は 下田を中心とする観光事業に多大な貢献をなし まこと本日の観光下田を招来したる功労者と言うべきである翁 又 博覧強記 詩書に*く 風*に深く 当世稀に見る 異色の異色の文人であったここに下田観光協会は 翁の生世中の偉業を讃え 下田の象徴 鵜島公園の一角に 翁の記念碑を建立して 永くその功績を顕彰せんとするものである。」更に高い場所まで来て『稲生沢川』の河口そして下田の街並みを見る。遠く『稲生沢川』に架かる『人魚橋』をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.25
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南伊豆町の日野(ひんの)交差点にある「菜の花畑」を楽しんだ後に、下田まで国道135号線を利用して戻る。そしてこの日は、帰路に江戸時代の鎖国以来、日本で最初の開港場となった下田、開国の歴史が残る下田を散策したのであった。黒船により来航したペリー提督一行は、『了仙寺』へ向かって参道を行進して行ったのだと。日本の民間異文化交流は、日米下田条約締結の地、この『了仙寺』で始まりを告げたのだと。『了仙寺』の駐車場にあった黒船の描かれた「顔出しパネル」。そして車を降り『了仙寺』の境内へ。下田は幕末に黒船が入港するよりも、ずっと前から下田港は開かれていた。 徳川家康が江戸幕府を開いた頃から関西と江戸の間を航行する千石船の要所として海上の関所の役目をしていた。下田が開港した訳は江戸との距離が近からず遠からずの理由という。当時は浦賀にも港があったか、江戸城に近すぎるという理由で、下田が開港され、これに伴い下田奉行がおかれることになる。 函館も開港されたが時期的には下田の方が早く、ペリー艦隊の船団が数隻づつ計7隻が入港した。日米和親条約が締結され、嘉永7年に了仙寺でペリーと日本全権の林大学で日米和親条約附録の細目13ヶ条が批准されたのであった。境内の紅梅もほころび始めていた。『国指定史跡文化財 了仙寺』。「法順山 了仙寺 日蓮宗 寛永十二年(一六三五)創建 開山 日朝第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行 父・彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の基城の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四大伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられてる。嘉永7年(安政元年ー1854)3月、神奈川県において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ、了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休憩所となった。なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金鋼製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。 下田市」『了仙寺 本堂』。『本堂』入口の両側の柱には、白文字で『和親友好萬世掔』(左)と『日米締交法燈下』(右)と書いてあった。『和親友好萬世掔』とはここで日米条約が結ばれ、日米の友好は万世に固く続くという意味なのであろう。本堂の扁額は『開国殿』。『本堂内陣 中央』。『本堂内陣 正面左側』。『本堂』前には大小の『こぞうくん』が一緒に写真を撮りましょうと。本堂より境内、山門を見る。『黨山 略誌』。『安政元年(1854) ペリー提督黒船陸戦隊調練の図』 黒船従軍画家ハイネ筆。「調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で日米下田条約が締結された。図中の本堂は現存、庫裏鐘楼は安政の大津波によって消失した。」御朱印を頂きました。御首題には『日米締交法燈下』、『和親友好萬世掔』、中央に『開国殿』と。御首題には『日米下田条約締結地』、中央に『南無妙法蓮華経』と。本堂の傍らにはこの石碑も。「了仙寺 調練の図 ウィルヘルム ハイネ画」。調練とは兵士を訓練すること。『日蓮聖人像』の台座には『立正安国』と。「立正安国」とは「正を立て国を安んず」と読みます。「立正」とは、人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されること。「安国」とは、社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現すること。了仙寺とペリーロードをつなぐ『山門』。山門越しに日蓮聖人像を見る。日米和親下田条約の石碑。身延山久遠寺にあった『祖廟塔』に似た塔が山の斜面に。この場所に行くにはどのように?『山門』越しに『本堂』を見る。了仙寺の境内には、下田の町の異文化交流に関する様々な史料や、ペリーと黒船のコレクションを誇る了仙寺宝物館があった。異文化交流黒船ミュージアム「Mobs」(モッブス)は2016年1月1日伊豆下田・了仙寺に誕生。この宝物館の館内には、国内外で収集された3000点を超える所蔵品があり、それらの原本が、2~3ヶ月ごとに入れ替わり展示されているのだと。中でも黒船来航絵巻・黒船来航絵図・ペリー来航かわら版など、黒船の巻物だけでも17巻所有しており、ペリーや黒船に関しては、日本最大のコレクションとなっている。そんな宝物館の館内では、了仙寺関連文書をはじめ、幕末における異文化交流に関する史料や宝物展示のほか、いくつかの映像展示も行われており、開国の歴史や絵画の解説がわかりやすくされていると。参道からのガラス越しに内部を。ガラス面には「購買の方法はパントマイムである。品物を指差して、How much ? と聞く。店主はハウマッチ~という言葉を繰り返して、暗算をし、我々の目の前に片手か両手の指を立てる。指一つが百キャッシュで、1ドルは千二百キャッシュである。 スポルディング日本遠征記」と書かれていた。山の斜面にも『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑が。そしてこちらが『了仙寺』の正式な入口。『下田まちなか案内図』。歌碑『秋の蝶 利島へ紺の 海十里』和泉/好。最近、立てられた石碑のようであった。山門方向を振り返る。なまこ壁の民家。『平滑川(ひらなめがわ)』に出て来た。『ガス灯』も風情が。『ペリーロード』とはペリー一行が上陸した下田港から下田条約が結ばれた『了仙寺』までの平滑川沿いの約700mの道のりの事。既に柳が新芽を出し緑の葉が。マンホールの蓋には『黒船』が描かれていた。『史跡 長楽寺』の案内に従い階段を上っていく。蝋梅が。蝋梅の実も残っていた。以前、別の場所から蝋梅の実を持ち帰り、撒いたが芽が出なかった事を想い出したのであった。そして『長楽寺』に到着。『長楽寺』は、1854年ロシア使節プチャーチンとの『日露和親条約』が調印され翌年、日米和親条約の批書交換が行われた寺で、下田市の史跡に指定されている。この建物は『長楽寺宝物館』。『大浦山長楽寺 真言宗 弘治元年(一五五五)中興開山尊有により再興』「安政元年(一八五四)十二月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の筒に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫鳥以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。また、同二年(一八五五)一月、米国使節アダムズ中佐と日本側応接掛井戸島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。参道左側の高台にあった梵鐘は良く響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。現在の鐘楼と梵鐘は昭和五一年に再建されたものである。なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されている。」『長楽寺 本堂』。空海(弘法大師)像。赤の涎掛けと帽子の石仏が右手に。地蔵菩薩と女性の守り仏の如意輪観音であろうか。なまこ壁をバックに干支によっていろいろな菩薩様が祀られていた。左から千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩 ・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来。不動明王の後背は真っ赤に。『長楽寺』の横の『なまこ壁』のある坂道。『「日魯通好条約」署名150年 記念植樹』案内板。左の桜の木であろうか。『鐘楼』。『淡嶋神社』。『長楽寺 本堂』の屋根が見えた。こちらが長楽寺の正門入口のようであった。案内板の下には『七軒町』と刻まれた石碑が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.24
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巴川沿いの土産物屋、食べ物の出店が並ぶ遊歩道を進む。遊歩道からの巴川そして対岸の紅葉。巴川には巨岩がゴロゴロと。巴川沿いの遊歩道を左折して進む。こちらにも様々な食物の出店が並んでいた。今年もこんにゃくの味噌田楽を楽しむ。香嵐渓観光センター前の広場。そして国道153号線沿いにある『足助八幡宮』を訪ねた。木製の鳥居には『八幡宮』と書かれた扁額が。足助八幡宮拝殿前の『神馬』。足助八幡宮の創建は天武天皇白鳳二年(673)と伝えられ、檜皮葺三間社流造の御本殿は国の重要文化財に指定されている。また、県指定文化財で第18回東京オリンピック ライフル射撃競技の手帳表紙図案となった「鉄砲扇的打図」絵馬を始め、数多くの貴重な絵馬が奉納されているが一般公開はしていないとのこと。古くから足、旅、交通の守護神として信仰されて来たと。豊田市 足助支所前の名物の銀杏の老木。樹の上の方の銀杏の葉は既に役目を終えて。銀杏の樹の下で記念撮影する観光客の姿が。樹齢は?真っ黄色の絨毯が敷き詰められていた。豊田市役所足助支所(旧足助町役場)の先にある巴川を渡る国道153号線の『巴橋』を渡る。『巴橋』の先には『香嵐渓(Korankei)』と書かれた道路標識が。『巴橋』から見る香嵐渓の紅葉。紅葉の名所として名高い香嵐渓はこの橋より上流部分に広がっており、秋の観光シーズンには狭い街中に各地から観光客が集うため、交通渋滞が多発する場所。前日の日曜日は大渋滞が発生していたのであろう。朱の『待月橋』が見えた。足助西町第2駐車場前のモミジの樹の紅葉も見事であった。入口に『香嵐渓』と赤字で刻まれた巨大な石碑。以前は適度に苔むして、より一層の味わいを感じることが出来たのであったが・・・。ズームで。『延命地蔵』と『六地蔵』。山麓にある香積寺の『六角堂 』。この山の斜面は約0.5haの「『カタクリ』の群生地」👈リンク でもあるのだ。『カタクリ』とは、片栗粉のとれる植物。『カタクリ』の花を見たことがない人は多いかもしれませんが、薄紫色の花が地面に向かって咲く姿はつつましく可憐なのです。スプリングエフェメラル(早春の妖精)と呼ばれる草花のひとつで、早春の温かい日にだけ咲いて、曇った寒い日や雨の日は花が咲かないのです。夜も花を閉じてしまうという、春の乙女のような繊細な花なのです。巴川を見下ろす。更に紅葉のカオスの中を進む。現在、香嵐渓にはイロハカエデ・ヤマモミジ・ウラゲエンコウカエデ・オオモミジ・コハウチワカエデなど11種類の楓があり、今ではその数4000本とも言われ、見事な景観に。『待月橋』が見えて来た。相変わらず多くの観光客が橋の上に。『五色もみじ』越しに『待月橋』を再び見る。繰り返しになるが、香嵐渓のもみじは、寛永11年(1634)に香積寺(こうじゃくじ)11世住職の三栄和尚が巴川沿いのこの参道に植樹したのが始まりとされ、般若心経を一巻読むごとに楓や杉を1本ずつ参道に植えたのだと。その後、大正から昭和の初めにかけて住民も植え足し、この素晴らしい紅葉名所が生まれたのだ。紅葉の名所と言われているが、紅葉のこの時期に限らず四季折々の美しさが楽しめる。春は新緑の緑とともに美しい花々があちこちで見られ、夏から秋にかけては緑が一斉に色づく光景が美しいと。冬はしんしんと降り積もる雪に風情を感じ、日本の四季を贅沢に楽しむことが出来るのだと。一度新緑、そして雪の香嵐渓も見てみたいとも。奥に香嵐渓・香積寺の25世住職であった風外本高(ふうがい・ほんこう)の「風外碑」が。いつまでも、どこまでも続く紅葉・黄葉の世界。『飯盛山 香積寺 参道入口』。参道の階段を上り詰めた場所から振り返って。山門下から。香積寺参道から山門を振り返る。本殿への階段を上ると、両脇には竹灯篭が。本堂を背に左手。本堂を背に右手。竹にも紅葉シーズンを意識した竹あかり彫刻が施されていた。香積寺(こうじゃくじ) 本殿。香積寺は豊田市足助町にある曹洞宗の寺。山号は飯盛山(はんせいざん)。開基は関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山(いいもりやま)の足助氏の居館」(飯盛山城)跡に建立された。応永34年(1427年)、白峰祥瑞禅師により開山。寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。本尊は聖観世音菩薩。境内には江戸時代後期に建てられた座禅堂が現存し、本道の脇には開山当時から寺の鎮守として豊栄稲荷が奉られている。飯盛山中には歴代住職の墓や十六羅漢の石仏のほか、足助城主だった鈴木氏五代の墓も現存し、二条良基の死を伝え聞いた滝野が良基の残した装束を埋めたと伝わる「装束塚」があるほか、山頂近くには平安時代の末法思想に基づき、仏教の経典や仏具などを土中に埋めた「経塚」がある。ご本尊 聖観世音菩薩。扁額は『飯盛山』。香積寺 木造毘沙門天立像本殿右側の建物(寺務所)には木造毘沙門天立像が安置されていた。平安時代に製作されたもので高さは1.7m。香積寺で一番古い仏様で,少し丸みを帯びた姿を。H27年8月に豊田市指定有形文化財になったと。ズームで。僧堂(坐禅堂)。坐禅堂の内部には、文殊菩薩像が祀られていた。『僧堂(座禅像)』「曹洞宗は、道元禅師に始まり、瑩山禅師(けいざんぜんじ)によって広まり座禅を宗旨としています。当坐禅堂は江戸後期の様式、この地方では唯一つ昔のままで残っています。幕末二十五世風外禅師二十六世俊龍禅師と共に高邁な人格で、随身より多くの俊英が輩出し香積寺の名を天下に伝えました。」本殿前の階段上から山門を見る。幽玄・神秘的な世界が拡がる。参道を歩き山門前まで戻る。香積寺山門前の階段上からの絶景。毎年、電線が気になるのだが。紅葉の色の波のうねり(アンジュレーション)の美。一の谷に向かっての帰路。陽光が射したり隠れたり。再び三州足助屋敷が右手に。巴川の白き流れ。再び朱の吊り橋・香嵐橋。巴川沿いの「紅葉庵」の建物。藁ぶき屋根と紅葉、これぞ和の風景。白の漆喰塀と紅葉、これぞ和の風景。今年2019年の香嵐渓の紅葉も見納め。そして駐車場に戻り自宅への帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.12.17
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11月25日(月)のこの日、小原四季咲き桜の鑑賞の後は、今年も香嵐渓へ向かう。今年も香嵐渓の奥にある駐車場・落部駐車場に車を駐める。足助の街並みからはやや遠いが、香嵐渓へのアクセスは比較的よい落部駐車場。香嵐渓は何故か毎年この駐車場を利用して10年以上連続して訪ねているのである。まるで、小原四季咲き桜、香嵐渓の紅葉の『オタク』の如くに。駐車場の背面の山の紅葉も今が盛りと迎えてくれた。昔は営業していた店『のんびり』も今年も閉まっており、時計も動いていなかった。香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。愛知高原国定公園の一角に当たる。1634年(寛永11年)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の令和元年11月1日(金)から30日(土)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだ。今年の第64回香嵐渓もみじまつり ポスター。今年の散策も下記地図の右から左へと巴川沿いを。一の谷入口から巴川の下流に向かう。散策を始めると太陽も姿を現し、陽光が射し込み一面真っ赤な世界が拡がって来た。飯森山の巴川沿いは陽光が射しこみ既に絶景に変身。和風料亭・一の谷前から三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)へと歩いて行く。最初は一の谷前の紅葉。香嵐渓 一の谷の茅葺きの屋根には美しい緑の苔が生え、赤との補色で共演。ズームで。白の漆喰壁を建物を背景に。香嵐渓 一の谷への坂道を下る。地面に映る影も黒から赤に変わりそう。小さな池の後ろの紅葉。藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感を主張。常緑樹の中で黄色の銀杏もエピローグへと。これぞ紅葉の『カオス』。巴川の流れもキラキラと光る。食事処の店の前には綿の実がはじけて、純白の綿花がのぞく。朱の吊り橋・香嵐橋を既に多くの観光客が渡っていた。さらに巴川沿いを進む。この美しさを表現する言葉を探すが・・・・。三州足助屋敷が左手に。三州足助屋敷は、昭和55年に開館した施設で、生きた民俗資料館といわれていると。かつての豪農屋敷を再現し、長屋門、母屋、竹屋などは茅葺の木造建築。足助屋敷の中では、かつてこの地域で行われていた「炭焼き」「木地」「紙漉き」「機織り」など、暮らしに必要なものは手づくりしていた10種の"手仕事"が行われている。手仕事の中には、体験できるものもあるとのこと。既に三州足助屋敷の名物のイチョウの木はほぼ完全に葉を落とし、今年も昨年と同様にわずかに下部に葉を残すLast stage。茅葺きの苔屋根には銀杏の葉が降り積もって。ズームで。銀杏の葉のエピローグには絶好の舞台か?刈り込んだツツジの上にも。再び2019年・今年の『第64回香嵐渓もみじまつり』のポスターを。今年も『山粧う(やまよそおう)』を堪能したのであった。珍しく子供たちの姿がポスターに、そして『私たちの願い、百年先も美しい香嵐渓を』と。三州足助屋敷の土産物売り場、広場には多くの観光客が食事を楽しんでいた。そして今年も広場では猿君が一生懸命働いていた。日光さる軍団?の猿回しのショーもこの時は待機中。「そこら辺の紅葉より顔、真っ赤です」 と使い手の繋ぎの言葉が。なるほど顔と乳首は真っ赤っか。緑、黄色、赤これぞ日本の紅葉。ルーマニアの紅葉も美しかったが、赤が少ない海外の『黄葉』の景色であった。そして紅葉(もみじ)葉の合間から朱の待月橋(たいげつきょう)が下方に見えて来た。前日の日曜日はこの待月橋(たいげつきょう)は多くの人で大渋滞が発生し動きが取れなかった事間違いなし。手前のモミジの木は毎年様々な色合いを同時に見せてくれる香嵐渓の名物の『五色もみじ』。この銘木『五色もみじ』の全体像。種類としてはオオモミジの木で、香嵐渓ではこの木を含む数本が一本で葉がオレンジ、黄色、赤、黄緑、緑などの五色の色が見られるため『五色もみじ』と呼ばれているのだと。この『五色もみじ』の紅葉の『粧い』のClimaxはこれからか。多くの観光客が待月橋の上で記念撮影を。我々も待月橋(たいげつきょう)を渡り巴川の上流側を見る。この時は太陽が雲に隠れてしまった。待月橋(たいげつきょう)を渡り終わり振り返る。名物のモミジの木も紅葉のClimaxに向けての兆しが滲み出ていた。待月橋の近くの小さな滝へ歩を進める。名はあるのか?通称『宮の滝』か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.16
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瑠璃光山 薬師寺からの帰路は、境内の紅葉を楽しみながら階段ではなく坂道を下る。坂道の両脇の紅葉を楽しむ。山門の下の紅葉。落葉したモミジ葉を美しかった。皇帝ダリアも紅葉に負けじとスラッと。この山道を登り『川見四季桜の里』の頂きを目指す。蔦の紅葉も美しく。坂道を更に登っていく。下から見て黄色の存在感を主張していた銀杏が姿を表す。ここには四季桜の姿はなし。陽光が差し込み一面赤の世界が拡がる。真っ黄色なイチョウの葉。頂上にあった『川見四季桜(せんみしきざくら)の里ウォキングマップ』。そして国道とは反対側の坂道を下る。裏側の紅葉も大いに楽しみながら。そして紅葉が池に映り込む『柏ヶ洞の郷』に到着。池の水面に映り込みメタセコイヤ、銀杏、モミジ』この時はやや風もあったので・・・。風が弱くなる瞬間を狙って。樟茶屋 (くすのきちゃや)のオジサンの詩であろうか。「朝焼けや 映る紅葉や この姿た 夢を追いつつ 老を知ても」再びメタセコイヤの紅葉を撮す。田代川の白き流れ。再び駐車場の裏の法面の紅葉&四季桜のコラボを。樟茶屋前の小原北部生活改善センター中庭には多くのテントが張られ、地元名産品を販売中であった。様々な野菜類が。地元のおばあちゃんが造った布製品も。『ヘボの箱寿司』は700円。へぼというのは、特にクロスズメバチの子のことで、秋が近づくと山に蜂の巣を取りに行き、養殖用の箱で蜂の子を育てます。へぼは値段もかなり高価。ここ豊田市小原で秋に作られるのがこの『ヘボの箱寿司』。大きな柿も。「蜂屋柿」と呼ばれる柿であろうか?表皮が橙色で食感をそそる美しい柿。熟すか、干し柿にして食べますが非常に甘味が強い為、毎年「干し柿にするなら蜂屋柿」と人気があると。そして最後に『樟茶屋 (くすのきちゃや)』に立ち寄る。毎年必ず立ち寄る『樟茶屋 (くすのきちゃや)』。五平餅を作るオバチャンたちも元気。今年も五平餅を注文。ここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の御主人が食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しようとこの形になったのだと以前に。長野県から取り寄せた赤味噌にくるみ、ゴマ、ピーナッツ、醤油、砂糖を調合し、煮詰めて作った特製味噌はちょっと甘めで香ばしく、地元米ミネアサヒとも相性バッチリ。すると樟茶屋を切り盛りするオバちゃんが我々の席に来て、東京に勤めるお孫さんが結婚式前の挨拶回りにそろそろ来ると嬉しそうに。式前の記念撮影も兼ねての訪問と。そしてカップルが到着。嬉しそうな樟茶屋のオバちゃんも孫の好青年と一緒に。すると、店を手伝うオバチャン達そして赤いセーターに青のジャケットのオジイチャンもいつの間にか。そして来年の再会を約束して、川見の四季桜を後にし、香嵐渓へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.15
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『旧東海道を歩く』で11月23日(土)に愛知県にある豊明駅から名古屋市熱田区の宮宿『七里の渡し』そして翌日の24日(日)は桑名市東船馬町にある桑名宿『七里の渡し』から近鉄四日市駅までの旧東海道を歩いて来ました。江戸から東海道を宮宿まで来ると、本道は次の桑名宿まで海上七里を船で渡ることになる。これを七里の渡しと言ったのです。そして帰路の25日(月)は、今年も小原の四季咲き桜、そして香嵐渓の紅葉を訪ねたのでした。ホテルの朝食を6:30に済ませてまずは小原の四季咲き桜に向けて出発。東岡崎駅近くのホテルから国道248号線を北上する。県道349号線(深見亀首線)を進み猿投グリーンロードの猿投IC下を通過し更に進むと前方に見えて来たのが東海環状自動車道の猿投高架橋。前方に見えたのが『猿投神社 山門』。周囲の紅葉を楽しみながら木瀬川に沿って国道419号線を更に進む。小原町に近づくと道路の脇には開花した四季咲き桜が姿を表す。そして左手に現れたのが目的地の『川見四季桜の里』。いつもの樟茶屋 (くすのきちゃや)の駐車場に車を駐め散策開始。駐車場裏の赤とピンクのコラボがいきなり。黃から赤、朱への色のうねり(undulation)に感激。青空を背景に黃、赤の共演。メタセコイアも負けじと。カメラの向きを変えて。国道419号線を徒歩で戻って行くと樟茶屋を経営するオジサンが以前に造った紅葉が水面に映り込む池が四季咲き桜の合間に見えた。この場所は帰路に立ち寄ったのであった。田代川沿いの紅葉、桜のコラボを楽しみながら進む。銀杏の黄色も交えて。田代川とモミジ。そして見事な『川見四季桜の里』が姿を表す。この日がこの秋のピークの如き光景が拡がる。四季桜の由来はその昔豊田市小原北のひとりの医師が小原に苗を植えたのが最初と言われている。四季桜は春とこの11月の二回花を咲かせ、11中旬から12月上旬に見頃となるのです。『小原四季桜まつり』のポスター。今年2019年の開催は2019年11月1日(金)から2019年11月30日(土)まで。小原地区内の四季桜は約1万本に達していると。これほど多くの四季桜を鑑賞できる場所は他になく、秋は全国で随一の絶景が広がっているのだと。丘の最長部の銀杏の黄色が存在感を主張。マメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられ、花は一重の白又は淡紅色。夏の間に充実した花芽が秋から冬にかけて順次咲き、小さい花芽は冬を越して3月中旬頃から咲き始める。このため、春より秋の方がよく花を咲かせると。田代川の川面に映る紅葉。川見・薬師寺下の紅葉も見事。川見・薬師寺への階段を上る。地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂は階段を88段、33段、42段最後に12段のぼった上にあります。本堂までの階段は四国八十八ヶ所にちなんで88段の石段になっていると。次は33段、女性33歳の厄除け石段。その次は42段、男性42歳の厄除け石段。最後は12段、十二支にちなんだ石段。33+42+12=87?『是より33段』。階段を登りながら両脇の紅葉を楽しむ。四季桜と紅葉を眺めながら登る急な階段途中の右側にあった石仏群。ズームで。階段の上に鐘楼門(山門)が。『是より四十二段』。階段の上にある鐘楼門(山門)。『瑠璃光山』と書かれた扁額。正面に『無尽堂』、『本堂』はこの左。『薬師観音像』。本堂への階段下から境内を見る。本堂への階段には『南無瑠璃光薬師如来』の幟が両脇に。階段下の大黒天像。手水舎の龍。川見薬師寺(せんみやくしじ):本堂真言宗高野山派 瑠璃光山薬師寺 が、本当の名前です。本寺の開山は記録に残っていませんが、2冊の「中興建立記」によると、寛文5年(1665年)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され、整備されました。その当時は、現在の場所ではなく、山の麓の、田代川右岸の今の畑地に建てられました。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立されたものです。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長筆の山号木額が掲げられています。現在の本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり:屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式になっています。間口は3間(5.4m)、奥行きは2間(3.6m)で、本堂向拝の軒下には、精巧な龍の彫刻がされた蝦虹梁(えびこうりょう)があります。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれており、日光・月光初め仏像13体は、岩村城内の薬師寺より迎えられました。本尊仏と石灯篭は、小原村(※)文化財に指定されています。真言宗高野山派『瑠璃光山薬師寺』「本寺の開山は不明であるが、二冊の中興建立記によると、寛文五年(1665)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され整備された。その地は、山麓田代川右岸の今の畑地である。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立された。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長の山号木額は立派である。本堂向拝には、龍の彫刻された蝦虹梁(えびこうりょう)は精巧である。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれ、日光・月光初め仏像十三体は、岩村城内の薬師寺より迎えられた。村文化財指定は本尊仏と石燈籠である。」『扁額』の文字は?。本堂向拝には欅一木彫りの見事な精細な蝦虹梁(えびこうりょう)を見ることが出来た。蝦虹梁とは曲がりくねった形をした向拝(ごはい)柱と本堂を繋ぐ梁のことを指し、彫刻や彩色を施されている虹梁はよく見かけるが、このような透かし彫りの蝦虹梁はなかなか見掛けることは出来ないのであった。欅一木彫りの龍は、写真手前が降り龍で、後方が登り龍。間近で見れば見るほど、その素晴らしさに感激。豊田市指定文化財(建造物)『薬師寺本堂・鐘楼門』。「本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり(屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式が用いられています。間口は3間(5.4m)、奥行は2間(3.6m)で、龍の透かし彫りが施された蝦虹梁(えびこうりょう)は見事なものです。鐘楼門は明治15年に建てられたもので、形もよく、虹梁の彫りや回廊欄間(かいろうらんま)(2階部分)には、十二支の彫刻が配されていて、装飾的に価値が高いものです。」『本堂』内部。本尊『薬師如来像』。市指定有形文化財『木造薬師如来座像』。「この坐像は、高さ40.5cm、台座総高33.5cmです。銘文に天平3年5月8日とあるのは疑わしいですが、弘治とみえることから、弘治年間(1555~1558)頃のものと思われます。なお、蓮華銘文に于時(ときに)元禄2年(1689)11月26日奉彩色臺座とあるのは、この時期に台座部分の彩色を行った記録だと思われます。寄木造の漆塗で、作風もよく工芸的に優れています。」重要文化財 『燈籠』。市指定文化財(有形物)『燈籠』。指定 昭和57年7月23日高さ 香縄(こうつな)燈籠(本堂に向かって右)218cm 内方(うちかた)燈籠(本堂に向かって左)215cm建立 両灯籠ともに元禄16年(1703年)10月8日石材 地元産の花崗岩香縄(こうつな)は上仁木村春日部庄大夫香縄であり、乙ヶ林城主春日部佐渡守の末裔でその子孫は現在の上仁木の春日井氏です。内方は庄大夫香縄の妻です。御朱印を頂きました。 ・・・つづく・・・
2019.12.14
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『寒霞橋』が再び前方に。『三溪園 昔むかし 21 月影の茶屋』。「屋根は杉皮葺きであろうか、隣接した田舎家の風情にあわせた簡素な建物である。詳細は不明であるが、園遊会などの際に茶の接待などに用いられたものと考えられる。明治41(1908)年の新聞(横浜貿易新報)記事によれば障子に”白露の里 月影の茶屋”と記されているとある。今ではこの月影の茶屋も田舎家もその姿はなくなってしまったが、周辺の山里の風情は変わらずにいる。」旧燈明寺本堂の手前にあった石像・『大漁地蔵』。『待春軒』。おそばやうどんをメインに和食弁当や定番甘味等も供されていますが、名物はやはり原三溪考案という、『三溪そば』であると。『三溪園 昔むかし 22 待春軒』。「寒月庵(No.13)と同じく、もと江戸の豪商 川村伝左衛門(迂捜)が所有していたもので、栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。場内にあった明治12(1879)年には、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント(1822-1885)が日光滞在中のある日ここに遊び、昼食をとったという。三溪園に移築後、この建物には”御やすみ、お茶御随意 待春軒”という案内書きがつけられ、初音茶屋(No.14)と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらには句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようである。」『三溪園 昔むかし 23 待春軒より横笛庵、六角堂を望む』。『三溪園 昔むかし 13 寒月庵』。「三溪が所有していた製糸場の一つ栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。かつては江戸の十人衆の一人といわれた赤穂藩出入りの豪商・川村伝左衛門(迂叟)が所有していた草庵で、元禄の頃(18世紀)には忠臣蔵で有名な大石内蔵助がたびたび遊んだといわれる。昭和26(1951)年伊豆山の旅館に移され、現在跡地にこの林洞庵が建てられた。」東屋の『初音茶屋』。『林洞庵(りんどうあん)』『林洞庵』1970年(昭和45年)建築。宗徧流林洞会から寄贈された茶室です。屋内には流祖山田宋宗徧筆”林洞”の板額があります。八畳の広間と四畳の小間からなっています。そして池の先に垣間見えて来たのが『旧燈明寺本堂』。本牧三之谷にある『三溪園茶寮』まで足を延ばす。『月影の茶屋』・『雁ヶ音茶屋』と粋な名前のおやすみ処。『旧燈明寺本堂』。『旧燈明寺本堂』。重要文化財、室町時代建築。燈明寺は現在廃寺となっていますが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。昭和22年の台風で被害を受けた後解体し保存されていましたが、昭和62年(1987)に三溪園に移築されました。『三溪園 昔むかし 24 皇大神宮』。「寒月庵(No.13)、待春庵(No.22)とともに栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。三溪園は、梅・桜のほかに秋草の名所としても知られ、秋にはこの皇大神宮の石段の上からフヨウやオミナエシ、ハギ、ススキなどの花野が眼下一面に眺められたという。昭和20(1945)年、空襲の爆撃により消失。現在、鳥居や石段・灯籠の一部が残るのみである。」『三溪園 昔むかし 25 皇大神宮から楠公社への道』。「園路の傍らにベンチ2基が置かれ、その背後の山すそにはススキやノギクなどが咲き乱れる。季節は秋である。三溪園の秋草は、遠く群馬県高崎から取り寄せられたもので、見ごろの季節にはこの風情を味わいに訪れる来園者も少なくなかった。ベンチの脚にデザインされた”丸に花菱”は原家の家紋である。」『三溪園 昔むかし 26 夕日ヶ岡と稲荷社』。「夕日の射す時刻に美しいながめが見られることからの名であろうか。山の斜面の中腹には稲荷社の鳥居が見える。稲荷社は、由緒など不明で空襲により消失したのか、現存しない。」『三溪園 昔むかし 27 杉の茶屋』。「名のとおり、屋根ばかりでなく壁面にも杉皮が張り込まれた建物。柱や梁などの木部も皮付きの杉材が用いられていたようで、写真からも野趣に富んだものであったことが想像される。詳しくは不明であるが、休憩所として、また催事などの際に茶の接待所などとして用いられたものであろう。空襲の爆撃により消失。」『三溪園 天満宮』。この天満宮はもと間門天神といい、三溪園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。昭和52年(1977)三溪園に移されました。『天満宮』と書かれた新しい扁額。『天満宮 拝殿』。『観梅俳句大会 入賞句』。『観心橋』。大池の中にある島の四阿(あずまや)、『涵花亭(かんかてい)』。『三溪園 昔むかし 28 楠公社と観心橋』。「楠公とは、南北朝時代の武将・楠 正成のこと。社殿の建物は、もと大坂・観心寺にあったもので、楠 正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。」『観心橋』から見た『天満宮』。『旧燈明寺三重塔』も見えた。島の四阿・『涵花亭』。『涵花亭』の木造ベンチには猫がのんびりと。『観心橋』を再び、その先に『天満宮』。。三溪園の入口方面に向かって進む。左手には『大池』が。『八ツ橋』を渡る。『藤棚』に向かう途中『大池』を見る。舟が静かに浮かんでいた。夕日を浴びて光る『大池』。そしてこの日((8月24日(土))の長い一日の『港・ヨコハマ』巡りの予定の全ての行程を終わり、三溪園入口からバスにて桜木町駅に戻り、地下鉄で帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.10.03
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『寒霞橋(かんかきょう)』が前方に。『寒霞橋』寒霞橋を渡るとすぐに現れた建物が『横笛庵(よこぶえあん)』。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『三溪園 昔むかし 16 安置されていた横笛の像』「横笛は今から800年程前、平 清盛の娘・建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)に仕えた女官で、平家物語には平 重盛の従者・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。この像はその横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作ったと伝えられたが、現存しない。なお、横笛が出家後に住んだといわれる奈良・法華寺にも同様の像が伝わっているが、関わりなどは不明である。」『三溪園 昔むかし 17 寒霞橋と横笛庵』。「奥に見える茅葺きの建物は、今ではもう失われた待春軒。手前の風景は現在もほぼ変わっていないが、横笛庵の屋根の頭頂部には植物を植え付けた”芝棟”と呼ばれるしゃれた演出が施されている。芝棟は、山梨県から関東・東北地方にかけてみられるもので、三溪園ではアヤメ科のイチハツなどを植えていたようである。横笛庵は、落飾した(尼姿の)横笛像を安置した詫びた草庵風の建物だが、芝棟にイチハツの花が咲く初夏の一時期、あたかも髪飾りをつけた清楚な女性を思わせる装いとなった。」『三溪園 昔むかし 18 松風閣の別景』。「松風閣は当初、原家初代・善三郎が別荘として建て、三溪の代となってさらに増築が重ねられた。その規模は、本邸・鶴翔閣をしのぐものであったといわれるが、惜しくも関東大震災で倒壊、現存しない。ここから見上げるその姿は、和風木造建築が大部分で、No.12のレンガ造の玄関邸とはだいぶ異なっている。この一部に三溪の支援を受けた日本画家・下村観山の障壁画「四季草花図」の描かれた”観山の間”があった。その名のとおり、まさに松林の中にたたずむ建物である。」『旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん、重要文化財)』。禅宗様で棟札に1634年(寛永11年)の銘がある建物で、徳川二代将軍秀忠の娘・千姫の寄進と伝えられている。別の角度から。鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。 明治に入って寺領を失った東慶寺が維持することが困難となって手放したものと考えられている。禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。『三溪園 昔むかし 20 田舎家』。「石置き屋根の古民家で、由緒は不明。障子に古い証文や暦、子どもの手習いの反故紙を用い、入口には箕笠や鍬などを掛けるなど建物自体に趣向が凝らされていたばかりでなく、周辺にも季節の野菜を植えた畑や竹林、鶏を入れた籠や井戸などを配し、田舎の生活を疑似体験できるような演出が随所に盛り込まれていた。こうした田舎家の鄙びた風情は、三溪が最も好んだものの一つで、来客があった場合などにその接待に使われ喜ばれた。」『三溪園 昔むかし 19 六角堂』。「正式には”望仙亭”と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない。」『合掌造・旧矢箆原(やのはら)家住宅』。1750年頃(宝暦年間)の建物。大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家。 岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築された。 屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は要注目。内部では、古い民具の展示もおこなっていた。屋根の妻部に禅宗寺院によく見受けられる火灯窓が開けられており、格式の高さをよく表しています。さらに同じく格式の高さは軒にも見受けられ、軒の出桁を高い柱で受けて深い庇を造るいわゆる「せがい造り」が施されています。『合掌造・旧矢箆原家住宅(重要文化財)』岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 (普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。『国指定 重要文化財 旧矢箆原家住宅』。建物に向かって右手の、農家出入口から中に入った。右手に土間があって、農作業や運搬に使う馬が体調管理するため、ここで飼われていたと。表側の広い囲炉裏のある部屋「おいえ」は家族のだんらんの部屋で、村の寄り合いも行われました。家族の団欒スペースの囲炉裏。『機織り機』であろうか?旧矢箆原(やのはら)家住宅 間取り図。ズームで。式台玄関上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、普段は使われませんでした。この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。『ざしき(座敷)』左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間。また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が施されていた。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の横。広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、代官が泊まるという格式を備えています。右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の違い棚。扇面散らしの欄間。『櫂の欄間』山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間。『錨の欄間』であろうか。『中の間』涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりした場所。仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。浄土真宗の仏壇、お彼岸とお盆に特別公開するのだと。『ざしき』の書棚。縁側から外を見る。「だいどころ」囲炉裏 こちらには火が入ってました。『うすなわ』では味噌醤油樽、臼、石臼、農具などを保管し、冬は「むしろ」を編んだり縄をなったりしていたと。樽の大きさでその家の裕福さが分かったようです。様々な樽が。『ちょうだ』は長男夫婦の部屋でタンスや大きな長持ちが置いてあった。次男・三男の部屋はこの上の天井の低い中二階であったと。水屋 の『水舟(みずふね)』。説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から物色し、持ち込んだものだそうです。水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための沈殿槽として使っていたものです。そして2階への急な階段を恐る恐る上る。2階の大きな茅葺屋根を見上げる。梁や柱は真っ黒に煤光していた。典型的な合掌造りの光景。2階から1階からの階段付近を覗き見る。2階は昔の日用品の展示コーナーにもなっていた。『たてばた』たて糸を垂直状態に張って織る織機で、現在は「じゅうたん」など、ごく一部のみ使用と。いろいろな部品や道具も。酒樽、盆、皿も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.02
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先程横から見えた沢に架かる石橋を渡って更に進む。緑に覆われた『十三重石塔』。『聴秋閣(ちょうしゅうかく、旧二条城移築三笠閣)』も重要文化財。緑のモミジ葉が陽光に輝く。「『聴秋閣』は元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に建立されました。当初は三笠閣という名前でした。その後これを乳母春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移しましたが、明治14年(1881)には更に牛込若松町の二条公邸に移築、大正11年、三溪園に移築されました。」『聴秋閣』は内苑でも一番奥の渓流沿いに建てられ、山間の中にひっそりと現れる洒脱な楼閣といった趣きで、新緑や紅葉の頃には色づく木々とあいまって特に秀麗な姿を見せてくれると。緑のモミジ葉で覆われた楼を見上げて。外観は小さな楼閣を乗せた二層構造で、正面から見た時には中央上部に楼が突き上がり下層が横に広がっていますが、横から見た時には上下とも同じ幅になっています。さらに楼の下の主室を中心に左右非対称の異なる内部構成になっており、それに合わせて屋根の構成も変化をつけるなど、その見る位置によって様々な顔を見せる複雑妙味な建造物です。『春草廬(しゅんそうろ)』。『春草廬』は三畳台目の茶室で、後掲の月華殿と共に宇治三室戸寺の金蔵院にあり、当時は9つの窓があることから、九窓亭と呼ばれていました。有楽斎は利休十哲(りきゅうじってつ)のひとりとされる茶人だ。躍り口脇の刀掛けの踏石は稲葉と名づけ、岐阜県稲葉山より持ち来たもの、庭前の手洗石は京都嵯峨天竜寺にあったもので、夢窓国師が使用されたものだそうです。ガラス戸に映った景色も見事。春草廬からの小道の傍らには苔むした石棺などが置かれ、ここは特に奈良の風情が色濃い場所だ。『石棺』。奈良は海竜寺付近から出土した5~6世紀の石棺。それより100年以上も古い石棺の蓋古代に思いを寄せつつ進んだ先に待つ、窓が多く優しい華やかさを感じさせる小さな空間。更に緑の散策路を進む。『蓮華院』。もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた 蓮華を飾ったことに由来しています。『横笛庵』草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。 横笛の像は、戦争の際に失われました。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『海岸門』を潜る。こちらも御門と同様に京都西方寺から移築されたものである。魔除けの桃瓦が写真左に。鬼瓦は阿吽でこちらは阿形。『松風閣展望台』に向かって進む。狭い山道。『三溪園 昔むかし 9 御谷館』。「御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。明治41(1908)年に移築され、来園者の休憩用にあてられたようであるが、詳しくは不明。大正4(1915)年に焼失した。」『三溪園 昔むかし 10 造成中の内苑(大正10年頃)』。「当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアであった。写真では公開部分との境に仮説の塀が設けられ、その向こうに資材置き場であろうか、簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源 頼朝の木像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない。」秋にはオオスズメバチがいそうな坂道。岩がゴロゴロした場所には、木製階段が。『松風閣跡地』。『三溪園 昔むかし 12 松風閣』。「初代・善三郎が別荘として明治20年ごろに築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三溪の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5(1916)年には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数ヶ月間滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。また、その一室”観山の間”には三渓が支援した中でも最も好んだ日本画家下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが、大正12(1923)年の関東大震災により建物とともに消失した。」そして松風閣跡を南側に登ると展望台に着く(展望台に松風閣の名が残る)。階段を上り展望台へ。展望台から東京湾の豊浦町、本牧埠頭の景色を楽しむ。『JXTGエネルギー(株) 根岸製油所』。南本牧ふ頭のコンテナクレーンが並んでいた。手前には『首都高速湾岸線』が。『三溪園 昔むかし 11 聚星軒(じゅせいけん)』竹を編みこんだ壁など、中国風の意匠が特徴の建物。明治20(1827)年ごろ、松風閣とともに原家初代・善三郎が築造したもののようであるが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊し、現存しない。周辺には、中国で産する太湖石の石組みなどが今も残り、善三郎の中国趣味の一端がかいま見える。展望台を後にして、尾根道を下る。大明竹が覆いかぶさるような径を抜けると、樹々の合間から三重塔が見えて来た。三溪園のシンボルともいえる建物。そのちょっと手前、径の左側に石の仏像が置かれていた。名付けて『出世観音』と呼ばれていると。三溪園あるいは三溪と縁の深かった文化人たちの多くが、文化勲章の栄誉を受けているという事実から、なんとなく呼ばれるようになって来たようであった。そして『重文 旧燈明寺三重塔』三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、京都府相楽郡加茂町燈明寺にあったものを、大正3年3月に移築したもの。1485年の建立で、関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたものとはいえ、横浜市最古の建築物。塔の先端までの高さは24mで、全体が安定感のある優美な姿をしていると評価されています。勿論、国の重要文化財に指定されている。建築様式としては、典型的な和様と呼ばれる形式で、室町時代の特徴をよく備えていると。各層に欄干付の廻縁が設けられ、斗供を始め細部も室町のしきたりに添っている。現在関東地区に所在する木造の塔としては最古のものになるのだと。三溪園の『大池』が下方に見えた。『旧燈明寺三重塔』からの本牧の町並みの眺め。ここ三重塔の丘から大池越しに眺めると、住宅地の先には横浜港のクレーンの先端がずらりと揃って見え、さらにベイブリッジの橋塔がかすかに望むことが出来たのであった。三重塔をズームで見上げる。ところで、この塔の心柱ですが、一層目の屋根裏から立ちあがっていて、一層目は仏像が置かれる空間になっているのだと。実はこの心柱ですが、地面に接した心礎から立ちあがっている場合と、ここの塔のように一層目の天井から立ちあがっている場合があると。これは時代の変化によるもので、古くからの塔は前者のように地面から立ちあがっているのだが、後者の例は、平安末期以降見られるようになった構法であると。 【https://ameblo.jp/sankei-mietaro/entry-12202404368.html】より『初音茶屋(はつねぢゃや)』。その昔『初音茶屋』では、来園する人に麦茶を振る舞う、「麦茶接待」が行われていた。 「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」と、その様子を詠んだのが、芥川龍之介。『三溪園 昔むかし 15 初音茶屋』「開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎を入れたものや温かい麦茶がふるまわれたという。大正4(1915)年三溪園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三溪の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、”ひとはかり浮く香煎や白湯の秋”という句を詠んで締めくくっている。また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその蔓の端が六方の軒に垂れ下がっていたとあるが、写真はまさにその風情である。」更に進むと梅林・『臥竜梅(がりょうばい)』が拡がっていた。三溪園は古くから梅の名所としても有名で2月から3月にかけて、約600本ある白梅・紅梅などが見事な花を咲かせる。竜が地を這うような枝振りの「臥竜梅」、花弁の根元にある萼が緑の「緑萼梅(りょくがくばい)」など、珍しい梅も見ることが出来ると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.01
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中区妙香寺台にあった『妙香寺』を訪ねた後は、本牧通りに出て『上野町』バス停からバスに乗り、この日の最後の訪問場所の『三溪園』に向かう。10分ほどで八王子街道にある『三溪園入口』バス停に到着しバスを降りる。10分弱住宅街を歩き『三溪園』入口に到着。『三溪園』は実業家 原三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開された。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されているのだ。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至った。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれた。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っている。原三溪は青木久衛の長男として生まれる。生まれは、岐阜市柳津町佐波。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。神奈川県横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また『富岡製糸場👈リンク』を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。『富岡製糸場』 【https://hakyubun.hatenablog.com/entry/20140505/p1】より入口の反対側に会った『かながわの景勝50選 三溪園』と刻まれた石碑。『三溪園』と書かれた入口正門。有名人の筆なのであろうか?500円の入場券を購入し園内に。『三溪園案内図』。ネットから。入口の先の『蓮池』では、多くの家族がザリガニ釣りを楽しんでいた。蓮にとって成長のじゃまになるザリガニを駆除するため、この期間だけ特別に釣りが出来るようであった。蓮の花もところどころに。『大池』越しに『旧燈明寺三重塔【重要文化財】』を見る。蓮の花を入れて。『三溪園 昔むかし 2 明治末頃の園内』。「桜花のころの桜道。道の両側には、桜の時期にあわせて設けられたものだろうか、雪洞(せつどう)が並んでいる。今では車の往来で遠慮がちに立っている桜の木も、当時はその名のとおりの主役であった。華やいだ中にも、どこか昔ののどかさを感じさせてくれる写真である。」『三溪園 昔むかし 3 大正初期頃の園内』。「現在と比較すると、もの足りないほどすっきりとした園内の景観である。主園路沿いに松の木が植えられたのは近年のことで、今では雑木となっている三重塔の山は往事黒松ばかりであった。」『鶴翔閣(かくしょうかく、旧原家住宅)』。1902年(明治35年)三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった。 広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。 上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられました。 震災、戦災などをへて多くの改変がなされましたが、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復元されました。 鶴翔閣には日本を代表する政治家や文学者が集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在した。 こうした由緒ある歴史を背景に、現在、“利用できる横浜市有形文化財”として活用されている。 大規模な日本間や広大な前庭を有し、茶会、句会などの日本的文化活動の場はもとより、国内外の賓客接遇、結婚披露宴、演奏会や展示会など、幅広い用途に利用されている。『鶴翔閣(旧原家住宅)』入口。この日は、団体が使用しているようで、閣中には入れなかった。巨大な大きさの『鶴翔閣(旧原家住宅)』をGoogle Earth から。現在も現役で文化的行事(茶会・句会等)の施設として活用されているのだ。950㎡(287坪).。『内苑』入口にあった『三溪園案内図』。『内苑』は、戦後に初めて一般公開されたエリアで、それまでは原家の私庭として一般には立ち入れなかった。よって当時三溪園のみやげ物として売り出された絵はがきにも内苑の写真はほとんど見られなかったと。左の三溪記念館には受付所のような建物が付設されていた。『三溪園 内苑 御門(ごもん)』は横浜市指定有形文化財。御門は、当時“桃山御殿門”あるいは“桃山御門”と呼ばれ、これは奥の臨春閣が豊臣秀吉築造の桃山建築・聚楽第(じゅらくだい)の遺構とされていたことによる呼称であった。戦後、臨春閣は江戸初期に建てられた紀州徳川家の別荘“巌出御殿(いわでごてん)”と判明したため、“桃山御門”は“御門”となった。「この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三溪園に移築されたものです。規模の大きい薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の遺構として貴重なものです。」『御門』を潜ると右手には『白雲邸(はくうんてい、横浜市指定有形文化財)』が。「この建物は原三溪が大正9年(1920)隠居所として建てた数寄屋風建築で明治以降における近代和風建築を代表するものです。建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっています。」正面の『臨春閣(りんしゅんかく、重要文化財)』は修復工事中。『臨春閣』。「この建物は、紀州侯初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649)に、和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘巌出御殿といわれています。8代将軍吉宗は幼時この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。また、この建物は数寄屋風書院造として、宮家別荘桂離宮と共に我国住宅史上において別荘建築の双璧といわれています。三溪園には大正6年(1917)に移築されました。」修復工事中の『臨春閣』を横から。正面が第二屋の『浪華の間』、右が第一屋の『台子の間』。こちらは『臨春閣』・第三屋の一階『天楽の間』と二階『村雨の間』。臨春閣は渡り廊下でつながれ、開放された縁側が池に張り出す形で伸びている第二屋であるが、残念ながらこの日は工事中。『旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう、重要文化財)』。「寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです、豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902)三溪園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺にあります。」現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。見事な彫刻が全面に。『亭榭(ていしゃ)』は四阿(あずまや)が付いた橋で、写真の右側には臨春閣がある。『榭』とは、見晴し用の高い壇を指す台,台の上に亭(あずまや)を築いた建物を言うと。豊臣の家紋『五七の桐』紋が。『亭榭(ていしゃ)』を渡ると、再び右手に『臨春閣』・第三屋の一階『天楽の間』が。床の間には『違い棚』が。壁や唐紙には水墨画が描かれていた。『瓢箪文手水鉢』。豊臣秀吉が愛用したという手水鉢(ちょうずばち)で周囲に瓢箪の文様がある。 秀吉から藤堂高虎に与えられ、高虎の居城であった伊賀上野城にあった物の由。 三溪園では臨春閣の脇に設えていた。園内の彼方此方に由緒ある石の加工品が置いてあり、奈良東大寺の柱の礎石とか石棺、石灯籠など。 明治の廃仏毀釈令で奈良や京都の古刹も経営難で由緒あるものが流出したものを三溪が集めたものと思われる。更に奥にある『月華殿』への階段を上っていく。横には沢に架かる石橋が。『月華殿【重要文化財】』。近くには小さな沢の流れが。正面から『月華殿』を。徳川家康が京都伏見城に居た頃に城内に建てられたもので、関が原の戦いで勝利した東軍リーダーであり、将軍となる家康に伺候する大名・武将達の控の間として使われた物の由。 写真左側に12.5畳、右側に15畳の大部屋があり奥に小部屋が幾つかある。 1603年(慶長8)築と云う事であるから丁度家康が将軍宣下を受けた時にあたり、既に400年以上経た建物である。『月華殿』の奥にあったのが『金毛窟(きんもうくつ)』。1918年(大正7年)建築三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小茶室。台目とは3/4の大きさの畳のこと。一畳台目は点前(亭主)畳が3/4畳で、客畳が一畳の茶席。その奥に『天授院(てんじゅいん)』。1651年(慶安4年)建築もとは、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築された。 建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としている。『天授院』前の石灯籠。帰りに再び『金毛窟(きんもうくつ)』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.30
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ーーが(その14)の散策ルート。更に横浜市中区山手町の散策を続ける。『フェリス女学院大学山手キャンパス』。1870年(明治3年)、アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始した。これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる(のちに男子部は明治学院となる)。1875年(明治8年)、アメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって、横浜・山手178番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、フェリス女学院中学校・高等学校の基となった。その後1947年(昭和22年)に(旧制)専門学校を設置し、これを1950年(昭和25年)にフェリス女学院短期大学に改組、1965年(昭和40年)に4年制の女子大学が誕生した。更に『汐汲坂』を下ると左手にあったのが『山手カトリック教会』。キリスト教カトリックの教会および聖堂。英語名はSacred HeartCathedral(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区の司教座聖堂(カテドラル、大聖堂)である。文久元年12月13日(1862年1月12日)、パリ外国宣教会が居留地80番に建てた横浜天主堂が、開港後の日本で初めてのキリスト教会堂です。マリア像を載せたポーチをイオニア式オーダーが支え、ペディメント等の古典様式の味付けがなされたものでした。見る限りは石造建築か煉瓦との混合造と思われます。同教会は明治39年、2つの塔を持つ煉瓦造の聖堂を山手44番に建設します。そこへ活動の拠点を移したものが、カトリック山手教会のはじまりです。『告知板』ところが、その煉瓦造教会の寿命は短く、大正12年の関東大震災によって完全に崩壊してしまい、現在の建物は昭和8年に再建されたものです。尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築ですが、内部には細かな装飾が施された列柱などを備え、この山手カトリック教会は、日本一美しい聖堂とも呼ばれています。『山手カトリック教会』を横から見る。そして『山手公園北側入口交差点』を左折し、緩やかな坂を下っていくと正面にあったのが『日本庭球発祥之地』の石碑。「山手公園は1870年(明治3年)横浜の居留地外国人のレクリエーションの場としてつくられた。1878年レディースローンテニスアンドクロッケークラブ、現在の横浜インターナショナルテニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建設した。この地は日本のテニス発祥の地とされている。」 眼下にテニスコートが。テニスの発祥の地を記念して建てられたのが『横浜・山手 テニス発祥記念館』。テニスウェアやラケットの変遷など、テニスの歴史を展示公開していた。『横浜・山手 テニス発祥記念館』内部。これが当時の女性のテニス時の服装のようだ。テニスのラケットの変遷も。近寄って。昔のテニスラケット、テニスボールが展示されており、移り変わりを知ることが出来たのであった。こちらは、人工芝のテニスコート。土&人工芝のテニスコートが各6面づつ?あるようであった。『旧山手68番館(公園管理センター)』に向かって進む。『山手公園120周年記念碑』。『日本最初の様式公園』「横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を望む声があり、慶応二年(1866)に外国公使団との間で結ばれた「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」(慶応約書)によって、その要求が幕府に認められました。しかし、この中の公園計画は具体化しないで終わりました。明治二年(1869)に居留民代表から改めて要求が出されたのに対して、日本政府は山手妙光寺付近の土地約六千坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治三年五月六日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。明治十一年(1878)からは、居留外国人女性で組織された横浜レディズ・ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブ(横浜婦女弄鞠(ろうきゅう)社)が管理することなり、クラブハウスとコートがここに設けられました。」『旧山手68番館(公園管理センター)』。1934(昭和9)年に建てられた外国人向け貸家を1986(昭和61)年に公園内に移築したもので、現在は公園管理センターとして利用されている。『旧山手68番館(公園管理センター)』の前の道を奥に進み東屋で一休みし水分補給。そして東屋の更に奥の『山手公園』の南側出口の階段を降り、住宅街を進む。そして『本牧通り』の一本北側の道を東に進むと左手にあったのが『妙香寺』。入口には『君が代由緒地』と赤く刻まれた巨石碑が。『浄行菩薩像』の祠。『浄行菩薩像』。多くのタワシが。タワシで像をきれいに洗ってやると、ご利益があるのであろう。階段上には山門が。『日本吹奏楽発祥の地』。我が国の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)、薩摩藩が軍楽隊を編成したことに始まる。薩摩藩は薩摩藩軍楽隊30名を横浜に派遣し、当時横浜に駐留していたイギリス公使館護衛隊歩兵大隊のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けた。その場所がここ『妙香寺』。翌1870年(明治3年)には、フェントンによって「君が代」が作曲され、山手公園野外音楽堂ではフェントンの指揮で演奏会が開催された。『国家君ヶ代発祥之地』石碑。石碑には「名勝史跡四十五佳選当選記念」とあり、昭和10年ごろに横浜貿易新報社(神奈川新聞社の前身)が県内の名勝史跡45カ所を募集し選ばれた場所であることを示している。君が代は外交儀礼上の必要から、薩摩琵琶歌『蓬莱山』から選ばれた歌詞に、英国歩兵隊軍楽隊長だったイギリス人フェントンに作曲を依頼して作られ、明治3年わが国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で初めて演奏された。しかしこの『最初のバージョンの君が代』👈リンクは、メロディーが日本語になじまないため日本人には受け入れられず、10年後に現代版の『君が代』に変更されたと。初めて聴く『最初のバージョンの君が代』なのであった。『本堂』814年(弘仁5)真言宗の祖、弘法大師(空海)の創立、その後日蓮聖人の教化で日蓮宗に改宗、東海寺から妙香寺となりました。 1923年(大正12)9月1日関東大震災、1927年(昭和2)1月10日失火により全山焼失、 1945年(昭和20)5月19日第二次世界大戦横浜空襲により全山焼失、現在は全山復興。残念ながら御朱印は頂けなかった。途中、『妙香寺交差点』を右折し本牧通りに向かうと、上野町のセブンイレブンの近く二差路入口に、『皇紀二千六百年記念』の石碑が。そして本牧通りの『上野町バス停』からバスに乗車し、この日の最後の訪問地である『三渓園』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.28
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ーーが(その13)の散策ルート。『山手十番館 / 仏レストラン&カフェ』。横浜 外人墓地を臨む山手の丘にある異国情緒あふれる小さな洋館。昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた「山手十番館」。向かいには日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠る外国人墓地があり。結婚式も出来るようであった。横の庭には緑豊かな西洋庭園に客席を設け、ガーデンBBQと共に歴史を感じながらビールを味わえるビアガーデンが。そしてその隣にあったのが『山手資料館』。山手資料館の前庭はバラ園として設えられていたが、バラはほぼ終わっていた。山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示。横浜市の歴史的建造物に指定されている。牧場主として財を成した中澤兼吉の和洋併設住宅のうち、洋館部分だけを1977年(昭和52年)に移設したとのこと。この移設には人気レストラン「山手十番館」のオーナー、故・本多正道が携わっており、この山手資料館は山手十番館の敷地内にある。『山手資料館』建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものとして知られる。内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されている。建物の脇には『クリーンベンチとガス燈』が。明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで親しまれました。ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。ガス灯には灯が灯っていた。山手本通り側から見る。『横浜山手聖公会』。横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、開国3番目のキリスト教会。創建当時の教会堂は現在の中華街近くにあったが、明治34年(1901年)に現在地に赤レンガ造りの聖堂が建てられた。『横浜山手聖公会』と書かれたプレート。この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家のモーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっていると。2005年1月に放火により大きな損傷を受けたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇った。横浜市認定歴史的建造物に指定。塔の各面に3つづつ並ぶ窓枠は大谷石を蝋燭形にしてある。『自働電話』。エリスマン邸から山手十番館に行く途中にある、灯台のようなレトロな電話ボックス。電話100年を記念して、1990年に設置された公衆電話。公衆電話が初めて設置された当時は、『自働電話』と呼ばれていたと。『山手234番館』。1923年9月1日に発生した関東大震災では横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。駐留していた外国人は神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次ぎ、震災前に7650人いた外国人は、震災の翌年には2156人まで減少した。横浜市では外国人に市外から戻ってきてもらうべく、復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。山手234番館も、市営ではなく民間の事業であるものの、こうした外国人向けの集合住宅の一つである。竣工は1927年で、第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向けアパートメントとして使用された。1989年に、景観の保全を目的として横浜市が建物を取得。1997年より保全改修工事が行われ、1999年より一般公開されている。1999年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。『えの木てい 本店』。山手外国人墓地を過ぎたところにある「えの木てい」。昭和2年(1927)日本人建築家 朝香吉蔵氏が設計した英国式洋館で、アメリカ人検事が暮らしていた。昭和45年(1970)現オーナーのご両親が自宅用として購入。西洋館のリビングを、そのまま喫茶店として利用しています。木製の上げ下げ窓や暖炉をそのまま残したリビングは、当時の面影を残しています。看板商品はチェリーサンド、店舗自慢のテラス席からは目の前に広がるローズガーデンに咲き並ぶ様々な薔薇を眺めながら優雅なティータイムを楽しめると。『エリスマン邸』。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて、山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。設計はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。エリスマンの没後は数度所有者が変更となり、第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体された。歴史的価値を見出した横浜市は部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元した。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建の木造建築で、施工は清水組。1階は応接間や台所、居間兼食堂、2階は主に寝室や浴室として使われていた。移築前は和館が併設されていたが、部材が残っておらず復元されなかった。屋根の勾配を緩くし、1階と2階の間に庇を設け、水平性を強調する意匠とした。外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。2階の2か所に壁面を後退させてバルコニーを設け、寄棟造の屋根を雁行させて単調な直方体とすることを避けた。窓など開口部は大きくとられ、青緑色の鎧戸が設えられている。全館にスチーム暖房が採用されていたが、施主のリクエストにより応接間に暖炉が設けられた。エリスマンの妻が日本人であったことから、浴室とトイレはそれぞれ独立した造りになっている。建物の横の塀には、『エリスマン邸』の案内板が。『横浜雙葉中学高等学校』校門。この建物は重厚感溢れるものだが、山手の雰囲気とはちょっと違う?エンタシスの柱が至るところに。『ベーリック・ホール』への入口門。『ベーリック・ホール』。イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベーリックの邸宅として、1930年に建設された。設計はアメリカ出身の建築家・H・モーガンで、山手111番館と並び彼の住宅建築の代表作の一つ。ベーリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、マリア会の命名によるものである。2000年に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈された。元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されている。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造である。山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模。スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。1階は応接間や食堂、居間とこれに続くパームルームなど、2階は主に寝室として使われていた。食堂と居間には暖炉、横浜港を見渡せるよう北側に作られたパームルームには獅子頭の壁泉が設えられている。2階は主人・婦人・子息と来客用の寝室、それぞれに附属する浴室が設けられている。3連アーチや煙突が印象的な外観と、和洋様々な手法を取り混ぜたインテリアは、建築学的にもたいへん大きな意味を持っているのだと。『横浜ユニオン教会』。1859年10月以来、ジェームス・カーティス・ヘボンが神奈川の成仏寺で合同礼拝を行っていた。横浜で1866年以来合同礼拝が行われ、1871年9月から1872年8月の間に教会として組織された。最初、山手町のアメリカン・ミッション・ホームで行い、次にゲイティ座で行われた。1875年から日曜日の午後に日本の教会を借りて行った。1888年に最初の専任牧師の聖公会の祭司ジョージ・ミーチャムが就任する。1889年から、1907年までユージーン・ブースが奉仕をする。1910年山手町で礼拝堂を建設するが、1923年に関東大震災で倒壊する。現在と同じ場所の、山手町66に再建する。太平洋戦争中は米軍の空襲により完全に破壊される。戦後、進駐軍のチャペル・センターにより礼拝出席者が減少した。1960年代にフェリス女学院礼拝堂で行われた合同礼拝により横浜ユニオン・チャーチは再建された。以前は大きな駐車場で会った場所は更地に。なにが建つのであろうか?『代官坂上』「YAMATE LINER」こと神奈中11系統は、横浜市営バスから引き継いだ路線である。茶色とクリーム色のカラーリングを纏い「YAMATE LINER」のロゴが付いたいつもの神奈中バスとは異なる専用塗装車。『末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード』大正10年(1921年)に建設され、横浜市指定文化財でもある旧露亜銀行横浜支店の建物(イギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計)をリニューアルし、平成23年(2011年)9月に、生演奏の音楽やオルゴールセレモニーなどの音楽の演出ができる結婚式場「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしている。1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・ スミス・ジュニアによって立ち上げられたキリスト教系の新宗教であり、通称モルモン教といわれる。山下町・音の教会と詠っている。末日聖徒イエス・キリスト教会の塔。記念レリーフの銘文。『日本郵船山手クラブ』。日本郵船株式会社は、1885年9月29日に創立された船会社である。三菱財閥の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。1893年12月15日に株式会社となった。日本の3大海運会社の一つであり、戦後の株式特定銘柄12社の一つでもある名門企業。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.27
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ーーが(その12)の散策ルート。『大佛次郎記念館』の下の人工のせせらぎ沿いの散策道を歩く。丘の上には、ガゼボ(gazebo)と呼ばれる西洋風四阿(東屋・あずまや)。このカスケードと呼ばれる階段状の水流の左右にある階段道をのぼると、観光バス「赤い靴号」のUターン場所でもある噴水広場に出る。『山手111番館』。山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館。 ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。 設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガン。玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えます。 大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つ。 赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造り。 創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していると。 そして『噴水広場』に到着。この噴水は、日本初の近代水道が横浜に完成したことを記念して明治20年に横浜停車場前広場に設置された噴水塔を再現したものだそうです。(横浜水道記念館には同じ意匠の「横浜水道創設記念噴水塔」があります)。4メートルの高さがあり、まさに塔のような、凝った造りの噴水。噴水の広場のベンチに座り、しばし水分補給と休憩。そして『谷戸坂』に向かって進む。右手に先程訪ねた『横浜市イギリス館』の正門が。『港の見える丘公園前交差点』前を通過。この先が『港の見える丘公園 展望台』。ここが正式な『港の見える丘公園』の入口なのであろう。『山手ローズテラス』の正門。真っ直ぐ坂を登ると『東洋信号通信社』。こちらが『港の見える丘公園 フランス山地区』の正門。この時期は6時~19時の間は開いているようだ。『やとざか』を元町に向かって下る。『クリーニング業発祥の地』碑。横浜開港後、本格的な西洋式洗濯の需要が高まり、多くの業者が開業し、現在のクリーニング業に発展しました。安政6(1859)年、青木屋忠七が「外国人衣類仕洗張」の許可を得て外国人相手に衣類を洗濯したのがクリーニング業の始まりといわれています。同じくクリーニング業の祖の一人、脇澤金次郎が店を営んでいたとされるフランス山谷戸坂付近は水のよく出る場所で、「クリーニング業発祥の地」の記念碑が立っています。石鹸は明治6(1873)年に堤磯右衛門がフランス人から製法を教わり製造を開始しました。『山手迎賓館 横浜』。古き佳き横浜・山手に佇む結婚式場。『あかいくつ号』。横浜中心部の観光地を巡る路線を走るバスとして、2005年3月28日より運行を開始した。一般市民からの公募で「あかいくつ」の愛称が決定し、当初からその愛称で運行・案内されているが、書類上では271系統となっている。愛称は童謡『赤い靴』に由来する。左手が『横浜元町商店街』。元町川岸通りの角にあったのが歴史ある桜の木・『シドモア桜』。。紀行作家で「日本・人力車旅情(Jinrikisha Days in Japan)」の著者であるアメリカ人女性、エリザ・R・シドモア(1856~1928年)さんの写真が掲載されていた。シドモアさんは1885年(明治17年)頃、ジャーナリストとして日本各地を人力車で訪ねて、日本の文化や風俗を欧米に紹介した方です。この文章が「日本・人力車旅情」というタイトルで出版されました。日本語訳は横浜の有隣堂から出版されています。アメリカに帰国後シドモアさんは、日本の桜並木の素晴らしさ母国でも再現したいと、ワシントン市のポトマック河畔に桜並木を作りたいと提案しました。シドモアさんや世界的化学者で実業家でもある高峰譲吉氏の尽力があって、1912年(明治45年)、東京市から寄贈された6000本の桜の苗木を積んだ「阿波丸」は、2月14日横浜港から出航した。3月27日にワシントン市で開催された植樹式にはシドモアさんも参加されたと。ポトマック河畔の桜並木は、世界的な桜の名所になっています。毎年3月末から4月初めのシーズンには、「桜まつり」が開催され、多くの観光客が訪れています。『横浜元町商店街』を散策したが、土曜日の12時近くであったが以前に比べて人出が少ないと感じたのであった。『横浜元町商店街』店舗配置案内図革製品専門店『ヒロキ』の店頭には、真っ赤なクラシックカーが。近寄って。赤いクラシックカーが店頭からはみ出していたが目的は『客寄せ』?老舗のジュエリーショップ『CHARMY』。創業52年目を迎えた、横浜元町の株式会社CHARMYはこの度、腕時計専門店『COMMON TIME 横浜元町 by CHARMY』を移転リニューアルオープンしたのだと。ビルの角に設置された『カリヨン時計』👈リンクが12時・正午の鐘を奏でていた。カリヨン(carilon)には「組み鐘、鐘演奏」の意味があり、多数の鐘を音律に従って配列し、鍵盤の機械仕掛けにより打ち鳴らす楽器。CHARMYのカリヨンの鐘は、オランダのロイヤル・アイズバウツ社で鋳造され、時計と制御装置は」ベルギーのクロコマティック社で製造された。伝統技術と最新技術をもった両社が協力して作り上げるカリヨンは現在、世界のトップ・ブランドとして評価されているのだと。そして12時をすぎると元町通り周辺は『歩行者天国』に。元町仲町通りにあったのが『ファニーの像』。元町・霧笛楼の入口付近にちょこんとある銅像。土台には「’88」、「新槐樹社委員・竹林昭吉作」の記述があり、それほど古いものではなさそう。元町公園に向かって坂を登っていくと左手にあったのが『ジェラール水屋敷地下貯水槽』。横浜市街地の井戸水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、市街地近くの丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したアルフレッド・ジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。横浜の水は船の中で保存しても腐りにくいと評判だったそうです。この施設は明治10年代(1878〜1887年)に築造。設計者、施工者は不明。平成11年(1999年)、ポケットパーク的に現在の姿に整備され、平成13年(2001年)、国登録有形文化財となりました。更に坂を上っていくと右手には『元町公園水泳場事務所』が。1868年ごろ、フランス人実業家のアルフレッド・ジェラールは、居留地77番と呼ばれたこの地を取得。湧水を活用した、船舶向けの給水事業や、「ジェラール瓦」と呼ばれた西洋瓦の工場を開設した。ジェラールが1878年に帰国したのちも後継者により操業が続けられたが、1907年に工場は売りに出された。1920年に大正活映の映画撮影所、1922年に日本人による「ジェラール給水会社」が設立された。1923年の関東大震災では設備が損壊したが、水源は被災者たちを潤した。1927年、横浜市はこの土地の永代借地権を買い取り、1930年に元町公園としたと。プール管理棟は煉瓦工場をイメージして建てられ、その屋根の一部には「ジェラール瓦」が用いられていると。 複数の市民らから寄贈を受けた「ジェラール瓦」を1999年度に葺き直したと。『ジェラールの瓦とレンガ』説明板。この外国人居留地に住んだ人達は、初めは日本で造られた瓦で葺いた日本建築に棲んでいたが、だんだんと西洋風の建物を作り棲む様になって来た。 当然ながら建築資材は輸入に頼る事になり、品不足と言う事態が起き、そこに眼を付けたジェラールは此処に瓦とレンガの工場を建て、製造に携わった。現存するこの管理棟の屋根に使われている瓦には1850年代の年号とサインが入っていると。ジェラール水屋敷、西洋瓦・レンガ製造工場跡は、1930(昭和5)年横浜市青年連合団の提案により、湧水を利用したプールが建設され、周囲一帯は公園として整備された。『ジェラールの瓦工場と水屋敷跡の石碑』。『元町公園プール』横浜唯一の公式プールとして昭和5年につくられた元町公園のプール。水屋敷の名のとおり湧き水なので真夏でも非常に冷たいのだと。プール脇の坂を更に登っていくと左側には『カトリック山手教会 納骨堂』が。納骨が行われているのであろうか?多くの参列者の姿が。横浜外国人墓地の最南端の外にある、カトリックの聖職者たちが眠る墓地。『貝殻坂』。元町公園と外国人墓地の間を通り山手本通りへ至る『貝殻坂』。坂上を見上げると横浜山手聖公会の建物が顔をのぞかせ、頂上手前でL字に大きく曲がり階段となる景観が特徴的。坂の名の由来は、外国人墓地の崖土の中に貝殻片が混ざっていたから、周辺に貝塚があったから、などといわれる。『外国人墓地』説明板。安政6年6月2日(1859年7月1日)の開港後、横浜に居留した外国人の墓地として、横浜の発展に尽くした外国人たちが眠る墓地が横浜外国人墓地。もとはペリー提督の艦隊の中の一隻である「ミシシッピー号」の墜死した水兵を葬ったのが始まりで、ペリーの要求した「海の見える地」という条件に合致する山手の高台が選ばれて墓地が築かれました。横浜開港後は、遺留外国人の葬地となり、生麦・井土ヶ谷事件の被害者や、ワーグマン、モレル、ヘールツなど日本文化に貢献した人物が眠っている。埋葬者の名簿。外国人墓地からランドマークタワーが見えた。多くの十字架が。そして再び『山手本通り』に戻る。『ヨコハマ山手観光案内』ボード。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.26
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ーーが(その11)の散策ルート。関東大震災により倒壊した『フランス領事官邸』は昭和5年に再建された。フランス山は、かつて日本へ居留したフランス海兵隊の駐屯地であった。1863年06月から1875年03月の期間、フランス海兵隊はこの山に兵舎を建てて駐留する。その後、海兵隊当局がこの地区の借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡し、1894年にフランス人建築家サルダの設計により領事館と領事官邸が建設された。この時に作られた領事館は、関東大震災で倒壊し、1930年にスイス人建築家ヒンデルの設計で再建されている。しかし、この建築物も1947年に火事で焼失してしまう。現在残されている廃墟は、この1947年の火事の際に焼け残った1階部分である。サルダが設計した当時の領事館は、建坪約24m×18mの規模でレンガ造りの2階建て建造物だったそうだ。緑豊かなフランス山。フランス領事官邸の遺構を過ぎるとすぐに愛の母子像が。1977年(昭和52年)9月27日、横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、母と幼い子2人が亡くなった。子供2人は即死だったが、お母さんだけはしばらく意識があったと。生前に海が見たいと話していたことから、設置された像。乗員二人は緊急脱出してパラシュートで200m程の小山に脱出したと。像の後ろから。『寄贈者 土志田 勇 昭和60年1月17日 山本正道作』『白き巨船きたれり 音も遠からず』。大野林火作。大野林火は1904年生まれ。神奈川県出身の俳人という。近現代的で叙情あふれる作風。俳句雑誌『浜』を創刊、次々と作品を発表した。昭和28年、俳人協会の会長に就任。昭和48年に神奈川文化賞文学部門を受賞。昭和57年、79歳で亡くなったという。フランス山に上水道が敷設されていなかったため使われていた井戸が残されている。深さは30mで水を汲み上げるのに風車を利用していた。整備前の井戸の写真がプレートとして張ってあった。このレンガ造り井戸は、明治29年(1896年)のフランス領事公邸竣工時に、上水道が山手まで敷設されていなかったために設置されたものです。水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mで、使われているレンガは、円形に積むために扇型をしています。また公園整備の工事に際し、井戸の周囲から井戸水汲み揚げ用風車の基礎4基も出土しました。右側に現状保存したのは、そのうちの一つです。今回、かつてのフランス山をしのぶ貴重な遺構として保存整備を行いました。井戸を覗き込む。『港の見える丘公園 展望台』への木製デッキの遊歩道を進む。目の前が開けてきて、『港の見える丘公園の展望台』に到着。港の見える丘公園は、谷戸坂に沿うように元町から山手へと広がる細長い公園。公園は山のすそ側(北西側)の「フランス山」、展望台のある中心部そして、高台(南東側)の「ローズガーデン」があり、横浜市イギリス館、山手111番館、大佛次郎記念館、県立神奈川近代文学館などを併設している。横浜港やベイブリッジ、横浜の街並みを一望できる展望台は見どころ。『ベイブリッジ』をズームで。『横浜マリンタワー』。『山手ローズテラス』。港の見える丘公園に隣接する、ポートヒル横浜の1階レストラン 『山手ローズテラス』。店内からは、昼も夜もベイブリッジを一望できる、とっておきのビュースポット。『港の見える丘公園の展望台』の細い遊歩道を進むと『コクリコ坂からの舞台』の案内板が。2011年の夏に公開されたスタジオジブリ、宮崎吾朗監督の映画「コクリコ坂から」。「コクリコ荘」の存在する場所のモデルとされており、展望台の脇にはコクリコ坂の記念碑が。宮崎吾朗監督直筆のイラストとサインの入った記念パネルが設置され、2012年3月22日に設置式が行われたのだと。映画内で主人公が毎朝掲げていた「安全な航海を祈る」という意味の国際信号旗(U・W旗)を掲揚するポール。再び『山手ローズテラス』。『港の見える丘公園の展望台』の全景。『イングリッシュ・ローズの庭』。『イングリッシュ・ローズの庭』のバラはすでに終わっていた。その先にあった建物が『横浜市イギリス館』。『イングリッシュ・ローズの庭』案内板。『横浜市イギリス館』に向かって進む。ウィキペディアによると1937年に、イギリス軍駐屯地の跡にあたる現在地に鉄筋コンクリート構造地上2階・地下1階建のイギリス総領事公邸として完成した。設計にあたったイギリス政府工務局上海事務所は東アジアにおけるイギリスの在外公館の営繕を所管しており、1931年に日本大通に開設されたイギリス総領事館(現 横浜開港記念館旧館)や東京の駐日英国大使館、山口県の旧下関英国領事館、北海道の函館市旧イギリス領事館なども設計している。この総領事公邸が完成した1937年に日中戦争が勃発し、1941年12月に日本がイギリスとアメリカに宣戦布告すると両国の大使館員は日本の監視下に置かれた。1942年3月にはマクビティ代理領事ら3人が収監され、主不在のまま終戦を迎えた。1969年に総領事が本国に引き揚げた際に公邸の土地と建物が競売にかけられ、横浜市が買収した。その後、港の見える丘公園の施設として「横浜市イギリス館」の名称でホールや会議室が整備された。1990年には、横浜市指定有形文化財に指定されている。2002年からは、2階の展示室と復元された寝室を一般公開している。『横浜市イギリス館』正面玄関か?入場無料とのことであったが、先を急ぐ。そして次に見えて来たのが『大佛次郎(おさらぎ じろう)記念館』。近づいて。アーチ型の屋根と赤レンガの外観が一際目立つ館。神奈川近代文学館、大佛次郎記念館への案内表示板。港の見える丘公園の展望台の南側に広がる沈床花壇の奥にアーチ型の屋根と赤レンガの外観が一際目立つ館。大佛次郎の没後、遺族より蔵書や愛用品などの寄贈を受けた横浜市がそれらを収める施設として、大佛次郎の作品「霧笛」や「帰郷」の舞台となった、横浜市の山手に記念館を建設、1978年(昭和53年)5月1日に開館した。記念館はアーチ型の屋根と赤レンガが特徴的な2階建ての建物で、館内には大佛次郎が収集した文献や雑誌、執筆のための素材や愛用品など、大佛次郎に関する様々な資料が展示されている。『大佛次郎記念館』案内板。愛猫家としても知られる大佛次郎が生涯愛した猫の置物が、帽子を被って。生涯で500匹位上飼ったと言われる程の愛猫家であったと。大佛次郎記念館の隣に日本初のワルツ(明治29年吉田信太作曲)唱歌 『港』👈リンク の作曲碑があった。楽譜も付いていたので見てみると、小学生の子どもの頃歌ったことのある歌か?1 空も港も夜ははれて 月に数(かず)ます船のかげ 端艇(はしけ)の通いにぎやかに 寄せくる波も黄金なり2 林なしたるほばしらに 花と見まごう船旗章(ふなじるし) 積荷の歌のにぎわいて 港はいつも春なれや 大佛次郎記念館に続く沈床花壇広場から。大佛次郎記念館のすぐ横手に氏の横浜を題材にした代表作『霧笛』の名が付いた『霧笛橋』を渡った先は『神奈川近代文学館』。『霧笛橋』を渡る。『神奈川近代文学館』。『神奈川近代文学館』案内図。『わたしのワンピース』50周年 西巻茅子展―子どものように、子どもとともにが開催中であった。2016年度末で図書約48万冊、雑誌約51万冊、肉筆資料(特別資料)約21万点以上、所蔵総数は約120万点に達している。収蔵内容としては個人作家、収集家の業績を顕彰するコレクションとしての尾崎一雄文庫、中島敦文庫、大岡昇平文庫、井上靖文庫など40をこえる個人文庫を有するほか、神奈川ゆかりの多数の作家の肉筆資料、書籍類、文芸雑誌を中心とする膨大な雑誌が所蔵されているとのこと。『神奈川近代文学館』を後にし『霧笛橋』を下から見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.25
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『港・ヨコハマ』を巡る を再開いたします。ーーが(その10)の散策ルート。更に『シルク通り』を中華街方面に向かって歩く。右手にあったのが『旧居留地91番地塀』。中区山下町91番地に半端に残された塀が。「イタリア系蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地」と書かれており、通りの名前はシルク通り。デローロ商会は、山下町の旧外国人居留地で最も古く、長く存在していた外国商社。その塀は当時の建築の面影を残す唯一の遺構。構 造 レンガ造り 腰壁部石造 及び規模 高さ 一七〇cm、厚さ石部分 三〇cm、煉瓦部分 一八・五cm 総延長 三五六cm 所 在 地 中区山下町九一番地 指 定 平成十三年十一月一日山下町九十一番地は、横浜居留地九十一番地をそのまま踏襲しており、当初の居留地の南端部に位置します。明治三年(一八七〇)から明治五年(一八七二)までと、明治十二年(一八七九)から昭和四十年(一九六五)までの通算九〇年弱の間、イタリア系蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地でした。創業者のデローロ(G.O.Dell'Oro)はミラノの出身で、明治元年(一八六八)来日しており、主として蚕種を扱いました。最も古くから存在し、最も永く在続した横浜の外国商社の一つです。この塀は、煉瓦と石で出来ており、石造の腰壁部分の上に煉瓦壁が載る旧居留地の構造物の特色を色濃くとどめており、また旧居留地の建物の外構の姿を示す唯一の遺構です。また、敷地内からは、小菅集治監製と思われる刻印を持つ明治初期の煉瓦が多数発見され、明治以来の歴史を持つことを語っており、かつての居留地の町並みを想起させる貴重な存在です。そして再び『みなとみらい21線』に戻ると左手には2011年開館の『KAAT神奈川芸術劇場』。KAAT 神奈川芸術劇場は、「モノをつくる」「ヒトをつくる」「まちをつくる」の「3つのつくる」をテーマとする創造型の舞台芸術専用劇場。KAATは「KANAGAWA ART THEATER」の略。右手に『中華街』の入口門が。横浜中華街には現在、10基の牌楼(門)👈リンクが建っています。大通りにある善隣門は、テレビや雑誌などでよく見かけると思いますが、その他に9基もあり、中でも東南西北の4基には深い意味があるのだと。『朝陽門(青龍門)』こちら側には、朝陽門の文字はなく、ただ『中華街』と書いてあるだけ。そして裏には『朝陽門』の文字が。朝陽門は、中華街の東門にあたり、みなとみらい線の『元町・中華街駅』のすぐ近くに。日の出を迎える門。朝日が街全体を覆い繁栄をもたらす。守護神は青龍神。色は青。 2003年2月1日に立派な牌楼が落成し、高さ13.5メートル、幅12メートルで中華街で最大の門となりました。みなとみらい線が開通(2004年2月)し、元町・中華街駅からは、この牌楼を通って中華街へ入ることになるのです。『日本洋裁業 発祥 顕彰碑』。1995年(平成7年)、みなとみらい線「元町・中華街駅」3番を出たすぐの場所に「日本洋裁業発祥顕彰碑」が建てられた。1863(文久3年)、英国人ピアソン夫人が横浜居留地97番地にドレス・メーカー「サムエル・ クリフト支店」を開店したのが、横浜の洋裁業の始まりといわれる。みなとみらい線「元町・中華街駅」3番出入口の壁面。「この壁面は、明治時代のこの場所にあった婦人衣服裁縫所「ビンセンド商会」の建物外観のイメージを再現したものです。」『ウエインズインポート横浜(株) Volkswagenベイサイド横浜』前を進む。『首都高速神奈川3号狩場線』の高架が目の前に。現役時代は、出張の折、羽田空港に向かうバスに載って通る場所。『谷戸橋交差点』を左折すると左手に『テレビ神奈川(TVK)開局の記念碑』。1972年4月開局、2004年5月に社屋がこの山下町から関内に移転。旧社屋のあった山下町に小さなひざ丈もないほどの記念碑が建っていた。そしてその先にあったのが『ヘボン博士邸跡』。誕生した1815年は日本では文化12年にあたる。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日した。44歳の時であった。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここ横浜居留地39番に移ってきた。住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられたが、明治15年(1882年)には山手に移った。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸である。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で明治3年(1870年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は明治20年(1887年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任した。「ヘボン博士邸跡開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。」この白い花は?『ヘボン博士邸跡』から山下橋方面にさらに進む。そして『山下橋交差点』を左折し『山下公園通り』に入ると左手には『横浜人形の家』が。『横浜人形の家』。横浜人形の家は「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」をコンセプトに展開する、世代を超えて楽しめるドールミュージアム。地域色豊かな人形から人間国宝の手による人形まで、世界140以上の国と地域、約1万点以上の人形を収蔵。そして、『山下公園通り』を引き返すと、左手方面は『山下埠頭』方面。『山下橋』を渡る。下を流れる川は『堀川』そしてその上には『首都高速神奈川3号狩場線』が。『MEGAドン・キホーテ 港山下総本店』の店頭には小さな水族館が。この水槽にいる熱帯魚は「パラオ共和国」のサンゴ礁にいる熱帯魚だと。ガラスが反射してしまって・・・・。そして進むと左手に『港の見える公園』入口の階段が。『フランス領事館メタリオン』。中区山下町の人形の家とフランス山・港の見える丘を連絡するフランス橋・ポーリン橋(歩道橋)のアーチ橋の基部(橋脚的な部分)に埋め込まれていた。明治29年(1896年)に建築されたフランス領事館は、大正12年(1923年)の大震災により倒壊したが、このメダリオンは、その建物の両翼部の外壁に取りつけられていた円形の飾りである。またRFはRepublique Francalse(フランス共和国)のイニシャルである。『フランス橋』を見上げる。堀川をまたいで山下町方面と元町・山手方面を結び、港の見える丘公園のフランス山地区へと続く「フランス橋」。石張りのアーチ部は公園の入口ゲートを兼ねている。階段を上がり、『フランス橋』を歩く。『フランス山公園バルタール広場』に到着。『「港の見える丘公園」案内図。』『フランス山公園バルタール広場』。『バルタール記念碑(Rue Baltard)』。パビリオンバルタールこの純鋳鉄製骨組みは、1860年代フランスのパリに建てられ1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部です。 設計者の名を取ってパビリオン・バルタールと称されました。この中央市場は、再開発のため全て取り壊されました。その際横浜市が19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺構であるためパリ市にその一部の移設を申し入れパリ市当局の好意により寄贈を受け、かつてフランス領事館があったこの地に1980(昭和55)年に復元設置しました。『フランス山』の階段を上る。気温もあがり、かなり暑くなって来た。時間は11:02。幕末の文久3年(1863)から明治8年(1875)までフランス軍が駐屯したことから『フランス山』と呼ばれるようになった港の見える丘公園のフランス山地区。『震災後のフランス領事官邸(1)』1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって領事官邸は倒壊したため、マックス・ヒンデルの設計で1930(昭和5)年に新しい領事官邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2・3階部分は木造の3階建ての建物でした。一部に4階建てに相当する塔屋があり、また大きい屋根窓が設けられていることから、4階に相当する屋根裏部屋があったものと推測されます。天井高は3m、建築面積は222.5㎡、建設費用は53万3,000フランと伝えられています。マックス・ヒンデル(Max Hinder 1887~1963)1887年生れのスイス人建築家で、1924(大正13)年に来日。札幌で建築活動を開始し、1927(昭和2)年に横浜に移転、中区本牧満坂に事務所兼住宅を設け、1935(昭和10)年に事務所を閉鎖するまで横浜で活動しました。その後ドイツに渡り、1963年に死去しています。『震災後のフランス領事官邸(2)』。今回、公園の整備を行うにあたり、震災後に建てられたフランス領事官邸1階部分の建築遺構の調査を行いました。1階部分は、145m×14mの正方形に「近い短形をしており、東隅に設けられた主玄関は、幅5.5m、奥行2mのポーチとその奥の5.5m×5mのホールからなります。ポーチは擬石積みで仕上げられており、ホールには壁と床のタイル張りが残されています。西側には、同じく擬石積の仕上げが施された脇玄関と思われる開口部があり、そのかたわらに便所および2階に通じる階段があります。その他の部屋は、使用人の部屋や厨房等と思われます。『フランス山の風車』。1896年(明治29年)、フランス山にはフランス領事館と領事官邸が建設され、井戸水を汲み上げるために風車が設置された。フランスに残されている資料から1909年(明治42年)頃まで存在していたいう。現在、フランス領事館遺構の横に設置されている風車は、かつてのフランス山を偲ぶモニュメントとして設置されたもの。風車の形は、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車が再現されている。別の場所から。1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、1909(明治42)年頃までは存在していたようです。今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、多翼型の風車を設置しました。風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗りわけられています。また、風車が回ると水を汲み揚げるようになっています。今回の公園整備に伴う工事の際に、風車のレンガ造り基礎が見つかりました。井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。北側の基礎は、斜面の整備に支障をきたすため、堀り上げて新たに設置した風車を中心に、元の位置に合わせて展示しました。また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。『フランス山の歴史』。1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定した。1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設された。1875年(明治8年)3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けた。こらがフランス山と呼ばれるようになった由来です。撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡した。横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしたが、なかなか実現しないでいたところ、1885年(明治18年)になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出した。このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894年(明治27年)にフランス人建築家サルダの設計で、領事館と領事官邸の新築工事が始まった。1896年(明治29年)3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成する。領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られた。1923年(大正12年)、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊する。震災後、領事館は仮設の建物を使用していたが、官邸は、1930年(昭和5年)、スイス人建築家ヒンデルの設計で山手186番に再建された。その官邸も、戦後まもない1947年(昭和22年)には火災で焼失してしまう。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。 『フランス山の歴史年表』。文久 2年(1862) 生麦事件おこる文久 3年(1863) フランス海兵隊横浜に到着、山手186番に駐屯明治 8年(1875) フランス軍撤退明治18年(1885) フランス人居留民の有志、領事館建設の嘆願書提出明治27年(1894) 領事館・領事官邸新築工事着手明治29年(1896) 3月領事館完成 12月領事館完成大正12年(1923) 関東大震災により領事館・領事官邸倒壊昭和 5年(1930) 領事完成再建昭和22年(1947) 領事官邸、不審火で焼失昭和46年(1971) 横浜市、フランス政府から山手185・186番の土地を購入昭和47年(1972) 港の見える丘公園フランス山地区として整備、開園『仏軍駐屯時代のフランス山』。フランス軍のキャンプ場は山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1.555坪がありました。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、208名陸、海軍追加部隊などが加わり、併せて300名以上が横浜に駐屯しました。『フランス領事館時代』。震災前のフランス領事官邸1894(明治27)年、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、1896(明治29)年12月に完成しました。設計図によると、煉瓦造2階建て、建坪およそ24m×18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地からは建物に使用されたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、同時に建設された用水用水車の基礎が掘り出されました。官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設いなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.24
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ーーが(その9)の散策ルート。『山下公園』の散策を終え、『山下公園通り』の『山下公園東口交差点』に出る。右手にあったのが『ホテルニューグランド』。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏されたと。ホテルニューグランドを開業した『AD1927』が刻まれていた。開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、喜劇王チャーリー・チャップリン、米国の野球選手ジョージ・ハーマン・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、それぞれ滞在している。日本が第二次世界大戦に敗れた後の7年間は、マッカーサーが率いる占領軍将校宿舎として接収され、戦前の錚々たる宿泊者を記したゲストブックが持ち去られた。なお、マッカーサーが当時宿泊していた315号室は「マッカーサーズスイート」として一般客も宿泊できるとのこと。横浜市認定歴史的建造物でもある本館は、開業当時の面影を現在も色濃く残している。ホテルニューグランド本館の大階段。階下から見上げる気品ある姿は、歴史と伝統を感じさせてくれたのであった。ホテル本館の中庭。そして『山下公園通り』にあった石碑。『かながわの景勝50選 山下公園といちょう並木』道路の左側にあったのが『旧英国七番館』。道路を渡り、『旧英国七番館』前に。現在は、山下公園に面していて、戸田平和記念館として建っている赤煉瓦の建物は、1922年にイギリスの貿易会社横浜支店として建設され、関東大震災で全焼したが、外装だけは残っていたため再建された。現在では、外国商館唯一現在も存在している建物である。近くには、横浜開港資料館(旧 元英国領事館)や旧 横浜居留地48番館跡が建っている。また、入口付近にある柱には旧 イギリス7番館と書かれており、コンクリートの部分にも7とゆう文字が浮き彫られている。2001年に横浜市の歴史的建造物に認定され、現在では横浜から世界に向けて平和・文化・教育をメッセージとして発信している。山下町7番地に建っているため7番館と言われている。現在もイギリス7番館だった頃の雰囲気はどことなく残されている。現在は、宗教団体が所有しており、戸田平和祈念館として使われている。『旧 英国七番館の柱』。入口付近にある柱には『旧イギリス7番館』と書かれており、コンクリートの部分にもNo.7の文字が浮き彫られていた。外国語による説明板も。最後に正面から。『県民ホール前交差点』を通過。『神奈川県民ホール』の催し物案内板。2019年10月19日(土)~20日(日)には、ビゼー作曲 オペラ『カルメン』全4幕が上演されるとのこと。この日も多くの若者の列が。ネット情報によると、この日は『スカイピース Enjoy Summer Fest Buddy~まつり~ 追加公演』が行われたとのことであるがその列であったのだろうか。『神奈川県民ホール』全景。神奈川県民ホール(かながわけんみんホール、Kanagawa Kenmin Hall)とKAAT神奈川芸術劇場(かーとかながわげいじゅつげきじょう、KAnagawa Arts Theatre)の二棟から構成され、大小5つの劇場で約4,600名の収容人数を誇る大型複合文化施設である。そして次に訪ねたのが『旧横浜居留地48番館』。横浜最古の洋風建築物。創建から大正15年(1926年)までモリソン商会の建物として用いられていた。関東大震災で、当初の2階建てが平屋となり、平面規模も6割に縮小されている。石灰製の目地を持つフランス積で、設計尺度はメートル法が用いられている。北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされるキーストーンが置かれている。所在地:中区山下町54構造・規模:煉瓦造建築年代:明治16年(1883年)指定・認定:神奈川県指定重要文化財(2001年2月)設計・施工:不明内部に陳列されているものは『小屋組トラス』と言って、震災後に残った部分の屋根などを補強するために使用されていたものであると。奥の壁のレンガ積みは、『フランス積み(フランドル積み)』という積み方で、レンガの小口面(小さい面)と長手面(長い面)が交互に見えるように積まれているのだと。裏側から。『発掘調査の成果』が説明されていた。「この建物は、日本で紅茶やダイナマイトなどの取引を行っていた商人J・P・モリソンの事務所兼住宅として、明治16年(1883年)に建てられたといわれている。大正12年(1923年)に横浜を襲った関東大震災で2階部分を損壊し、また、その復興事業の道路整備によって建物の西側部分が除却された。その後大正15年(1926年)から昭和53年(1978年)までヘルム兄弟紹介が所有し、補修が繰り返されていたが、神奈川県は、平成13年2月(2001年)に県指定重要文化財に指定し、平成13年度に保存工事を実施した。横浜居留地時代唯一の煉瓦造りの遺構といわれており、煉瓦は同じ段に小口面と長手面が交互に現れる「フランス積み」と呼ばれる手法が使われている。」元々2階建てだった建物が関東大震災によって崩落したとはいえ2階部分のみがなくなったので平屋建てに改修して従来の6割くらいの規模の建物として新たに使い続けていたようです。そのため新たに木造トラスを組み屋根を改修した模様であった。(株)大和地所の銅板仕上げの如きビル。『旧露亜銀行横浜支店』入口近くから見上げる。1921年に露亜銀行横浜支店として建設され、1923年の関東大震災や1945年の横浜大空襲も耐え抜いてきた。横浜で唯一現存する外国資本の銀行建築の遺構である。露亜銀行は1910年に露清銀行とソシエテ・ジェネラル子会社の北方銀行とが合併して出来た銀行であるが、露清銀行は1902年に横浜支店を開設していた。本ビルにほど近い中区役所そばの大桟橋通り沿いで、神奈川県立歴史博物館同様ドームを設けた華麗な建物であったが関東大震災で損壊。長らく半地下部分が残っていたが、1987年に取り壊されたと。現在は、ラ・バンク・ド・ロア(仏: La Banque du LoA)と呼ばれ、横浜市中区山下町に所在する結婚式場である。『旧露亜銀行横浜支店』の対面にあったのが『横浜市研修センター』。横浜市役所職員研修及び防火管理者講習会を実施している施設。『中消防署 山下町消防出張所』にもなっているようであった。『中消防署開設100周年記念 過去から現在そして未来へ』。現在この消防署は、本町通り沿いの山下町72に移転して中消防署山下町出張所と名称を変更しているが、元を辿るとその前身は、この辺りがまだ外国人居留地だった時代の居留地消防隊薩摩町消防屯所がこの場所に置かれたことに端を発し、その後、日本で初めて消防車や救急車を配備し、消防隊員は金属製の防火ヘルメットを着用して消火にあたるという、現代の消防隊のハシリのような存在で、その当時の様子を写した写真が山下町出張所のガレージのシャッターにラッピングされていた。横浜では、開港と同時に8 消防組の民間消防隊が設置、1864 年には居留地消防隊が組織された。ポンプ車を備えた消防隊は日本で初めてと言われている。その後、1914 年に日本初の消防車、1933 年には日本初の救急車が配置されるなど、近代消防発祥ゆかりの地と言える。現在山下消防出張所のシャッターが下りている時に、当時の貴重な写真を見ることができるのであった。『旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構』と『消防救急発祥之地』の石碑。幕末期、豚屋料理屋鉄五郎から出火、瞬く間に火は関内に広がり、外国人居留地と日本人街の大半が焼失した。通称豚屋火事。そのときすでに外国人居留地消防隊はあったがこの事件をきっかけにより防火対策、消防隊を強化。外国人居留地と日本人居留地を隔て、防火対策として建物と建物が隣接しないように区画整理された。そのため、今でも関内は道幅は広く、建物が隣接しないような街並にしたのだと。そして『旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構』。奥正面には旧中消防署日本大通消防出張所のメダリオンも。1994 年まで日本発の消防署、中消防署日本大通り消防出張所が建っていたが、老朽化にともない新築移転。現在は貯水池跡が残されており、その歴史を伺い知ることができるのであった。この貯水槽は湧き水で満たされており、平時は冷蔵庫の代わりとしても用いられていたそうだ。貯水槽の特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の間仕切りによって4室に分かれていること。底面3.19m×3.17m、高さ4.5mで、貯水量は28㎥。ガラス越しに覗き込むと貯水槽部分を見ることができるのであった。『ストラチャン商会跡地』。開港後、この辺り一帯は外国の商館が建ち並ぶ外国人居留地で、同商会は汽船会社や保険会社の代理店業務を手がけるイギリス系貿易会社。明治22年(1889年)にこの地に移転してきた同商会は、2年後にイギリス人建築家ジョン・ダイアックの設計、清水組(現=清水建設株式会社)の施工で煉瓦造りの新社屋を建てたそうです。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊・焼失。写真後方の煉瓦はこの建物の基礎部分といわれています。すぐ前の山下公園は関東大震災の瓦礫が再利用されているので、この商館の煉瓦などもおそらく埋め立てられていると。ビルの前には『居留地90番地の大砲』が。近づいて。明治期に製造された鋳鉄製の大砲。90番地にはスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会があり、大砲を錨に造り替えるために置いておいた時、関東大震災で埋没したと推定。1959(昭和34)年、建物跡地工事中に発見された3門の大砲のうちの1つ。ほか1つは2003(平成15)年に横浜市に寄贈され開港広場に移された。ほか1つは歴史資料館に保存されている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.16
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ーーが(その8)の散策ルート。『大さん橋』を後にして『象の鼻防波堤』入口前を『開港広場前交差点』に向かって歩く。『開港広場前交差点』。『開港広場前交差点』手前から『日本キリスト教会横浜海岸教会』をズームで。『日本キリスト教会横浜海岸教会』は1872年に設立された日本で最初のプロテスタント教会。関東大震災で倒壊。2014年12月に改修工事が完了、毎晩、ライトアップされていると。前まで行って。『開港広場前交差点』まで戻ると『山下公園通り』沿いにあった『史跡 英一番館跡(ジャーディン・マセソン商会)』碑。日米修好通商条約によって、横浜は安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港した。開港と同時に、それまで上海、香港を拠点にして中国との貿易に従事していた商人たちが、続々と横浜入りをした。居留地一番地に店舗をかまえた当時の東アジア最大の商社「ジャーディン・マセソン商会」の横浜支店は「英一番館」と呼ばれ、当地の代表的な商社として昭和初期まで活動を続けた。ジャーディン・マセソンは現在も有力な国際商社として存続している。シルクセンター前の史跡英一番館跡と書かれた碑のところに、小さな「桑の森」が。この傍に植えてある1本の桑の木は、横浜が開港したころに神奈川県津久井郡津久井町で栽培されはじめた木を持ってきたもの。土地の関係であまり大きく成長していないが、小さいながらも歴史ある古木とのこと。そして「桑の森」の後ろに彫刻家安田周三郎 氏の秀作「絹と乙女」像が。『シルクセンター』ビル。ウィキペディアによると「シルク博物館はシルクセンターの2階と3階にあり、2階前半の「ふしぎファーム」コーナーでは養蚕や紡績、染織に関する展示のほか、通年に渡りカイコを飼育しており、糸繰りや機織りの体験ができる。2階後半の「しらべライブラリ」コーナーでは横浜港と生糸貿易の関わり、暮らしの身近にあるシルク、絹の最新技術などに関する展示がある。階の「シルクのあゆみ」コーナーでは、日本および世界各地の絹を使った時代風俗衣装や民族衣装が展示されている。」と。『シルク博物館』入口。『開港の道・山下臨港線プロムナード』横浜税関付近から大さん橋入口を経て山下公園西端を結ぶ500mほどの遊歩道であり、桜木町駅から港の見える丘公園を経路とする「開港の道」の一部と位置づけられている。遊歩道の大半が線路の高架橋部分を流用して造営されているため大半の部分が高架であり、大さん橋と山下公園の付近においては設置された階段やスロープから遊歩道に出入りすることになる。『山下公園』に入る。山下公園は関東大震災の瓦礫などを埋め立てて昭和5年(1930年)3月に開園。海沿いに長さ約750m、幅約100mと細長く、面積は7万4121㎡。正面に姿を現したのが『インド水塔』。1923年(大正12年)の関東大震災では、横浜に在住し被災した在日インド人救済のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を注いだ。1930年(昭和5年)に瓦礫処分場として埋め立てられた場所の上に山下公園が開園。そして1939年(昭和14年)に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が山下公園内に建立したのがこのインド水塔である。設計は鷲巣 昌、施工は清水組。イスラム教の寺院モスクの中庭にあるハウズ(泉亭)を想起させる珍しいスタイルのモニュメント。イスラム風、インド風、日本風が混在したデザインが特徴的で、東京の築地本願寺を思わせるような形であるとの評もある。横浜市認定歴史的建造物。『山下公園』から先程訪ねた『大さん橋ふ頭ビル』をズームで。そして『大さん橋』とエンターテイメント レストラン船『ロイヤルウイング』。『横浜ベイブリッジ』。『山下公園』を湾沿いの遊歩道を歩く。『潮位標尺』が設置されていることを発見。これは簡単に云えば海面の水位を測るモノサシ。海面の変動の要因・横浜港おける海面の高さの基準・警戒水位の3項目についてで、かなり詳細な記述で参考になった。潮位計については、超音波の反射により測定し、そのデーターを自動的に災害対策本部に送信する方式の機器が全国に配備されているようです。それに比較すると、この設備は何ともレトロでローテクの感じを否定出来ませんが、簡単素朴な構造ですから手軽に数多く設置できるメリットが有るようですし、バックアップとしても有効でしょう。『山下公園』から『横浜マリンタワー』を見る。この花は『ハゴロモジャスミン』であろうか?『氷川丸』を見る。『赤い靴はいてた女の子』。大正11年、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡『赤い靴』。童謡『赤い靴』の2番の歌詞には「横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった」という歌詞があり、その歌詞をイメージして昭和54年、山下公園に造られたのがこの『赤い靴はいてた女の子像』。像を寄贈したのは赤い靴を愛する市民の会(現・赤い靴記念文化事業団)。平成22年には山下公園の少女像と同型の像が、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市(San Diego)の海辺に建立されていると。海の彼方に向かって座っている少女の姿は、童謡の歌詞を考えると切ない、悲しい姿。童謡『赤い靴』 作詞:野口雨情 作曲:本居長世1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった3.今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう4.赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える『山下公園』内では扇子を持って体を動かしている老々男女。山下公園の広場の真ん中近くにあったのが『西洋理髪発祥之地』碑。断髪令が出された明治4(1871)年より早く、西洋式床屋は外国人相手に開業されていました。日本最初の床屋は、小倉虎吉が明治2(1869)年に居留地で開いていたものとされています。山下公園に建つ「ZANGIRI」とタイトルされた「西洋理髪発祥之地」を記す石像は、一見の価値あり。当時、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と囃されていましたが、斬新な散切り頭に負けず劣らずユニークな像。『氷川丸』を再び見る。そして山下公園の日本郵船氷川丸の係留地に近い、中心に噴水『水の守護神』が。昭和30年10月、サンディエゴ在住の日系市民の要請にこたえ、横浜市は「雪見灯篭」を寄贈したのが提携促進の始まり。昭和30年11月、横浜で開催された日米市長会議に出席したサンディエゴ市長から姉妹都市提携の申し入れがあり、横浜市とサンディエゴ市は昭和32年10月29日に姉妹都市として提携しました(横浜市として初めてとなる姉妹都市提携)。その年からお互いの動物園に飼育される動物交換も開始されています。横浜からサンディエゴへは、昭和35年4月に茶室を寄贈。そのお返しとして昭和35年7月に「水の守護神」がサンディエゴ市から贈られ、山下公園に設置されたのです。水の守護神像を囲むように4基の「ミッションベル」さらに『美しきサンディエゴ』の歌碑が立ち、一帯は、「サンディエゴ友好の泉」と付けられています。噴水が高々と。『エル・カミーノ・レアールのミッションベル』。1769年から1832年にかけて、聖フランシス派の修道士たちが、アメリカのサンディエゴからサンフランシスコまでの960kmに21ヶ所の伝道所を設けた。このルートは「エル カミーノ レアール」(スペイン国王の道)と呼ばれる。20世紀になって、このルートを確認して、道路に沿ってミッションベルが立てられた。1983年(昭和58)に横浜市とサンディエゴ市(カリフォルニア州)との姉妹都市提携25周年を記念して複製が贈られたと。『横浜マリンタワー』が大きく見えて来た。『かもめの水兵さんの歌碑』。武内俊子が作詞を行ったきっかけは、ハワイに旅行する叔父 足利瑞義(浄土真宗本願寺派 勝願寺住職)を見送るために横浜港の大さん橋に行ったことにあると。夕暮れの中で数十羽のかもめに魅了され、帰途でかもめの白い姿を水兵に見立てて詞を完成させたと。1.かもめの水兵さん 並んだ水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服 波にチャップチャップ 浮かんでる2.かもめの水兵さん 駆け足水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服 波をチャップチャップ 越えていく『氷川丸』。氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した全長163.3mの貨客船。当時最新鋭の船として竣工した。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れ、戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰。船齢30年に達し第一線を退くまでに、太平洋横断254回、船客数は2万5千余名と、活躍した。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定された。大人300円で氷川丸船内の見学が可能。『日米友好ガールスカウトの像』。この銅像は日米友好の記念としてアメリカガールスカウト50周年とガールスカウト本連盟の世界連携加入を記念して1962(昭和37)年3月18日に建てられた。台座には「やくそく」と彫られていて「ガールスカウトの友情」を示す像とされています。約160種1900株の『未来のバラ園』はピークは過ぎていたが、バラの花を楽しむことは出来た。純白のバラの花。『横浜港観光船』乗り場。再び『横浜マリンタワー』。『展望台』1961年の開業より横浜を見守り続けてきた「横浜マリンタワー」は、保全を目的とした改修工事のため、2019年3月31日をもって全館一時休館中。2022年4月以降に再開予定とのこと。おまつり広場の南東、石のステージ。涼し気な水の流れにホット一息。石のステージから水の階段を上ると世界の広場へ。山下公園の南東端、駐車場屋上の『世界の広場』。『世界の広場』からの『みなとみらい21』の景色。そして階段を降り『おまつり広場』の木陰に立っていたのが『リカルテ将軍記念碑』。アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.15
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ーーが(その7)の散策ルート。『大さん橋』に向かって歩く。『山下臨港線プロムナード』の橋には『横浜港大さん橋国際客船ターミナル』の文字が。『山下臨港線プロムナード』への階段下のコンクリート橋脚にはパネル絵画が。『1870年(明治3)頃の横浜港』。右側から飛び出している『象の鼻』と呼ばれる石積みの突堤は、現在も、このパネルの裏手右方向に残っていた。道路の反対側のパネル絵画。明治43年(1910年)頃の横浜港。中央に伸びているのが明治27年(1894年)創建の『大さん橋』。1923年の関東大震災で壊れるが、昭和初期の復旧工事などを経て、現在にいたっている。『大さん橋』の中ほど左手に、当時の『象の鼻』突堤が見える。更にその左に『赤レンガ倉庫』も。『大さん橋』部分をズームで。これも歴史を感じさせる『横浜艦船商工業協同組合』の建物。右側に『神奈川県 横浜水上警察署』。道路脇の案内板『日本近代化の出発点 象の花 ー支倉大使欧米派遣ー』。「象の鼻から欧米へ明治4年11月12日(1871年12月23日)、国の命運をかけて特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ほか、同行者を含め100余名の岩倉使節団は、欧米へと汽船アメリカ号でここ「象の鼻」から出航しました。その目的は、幕末に欧米諸国と締結した不平等条約の改正交渉をすることと、欧米の国家制度や産業技術などを学び日本の近代化を急いで進めることでした。使節団、随行員そして同行した若き留学生たちは、それぞれに壮大な夢と強い使命感を持って海を渡りました。欧米諸国の文明に触れて使節団は、当初10ヶ月の予定のところ、1年9ヶ月の月日を費やし帰国しました。条約改正交渉には至らなかったものの、欧米の制度、技術、文化に直接触れ、新しい国づくりの必要性を強く自覚し、日本の近代化を急速に進めることとなりました、また、同行した留学生たちも、様々な分野で欧米の最新の知識や学問を日本にもたらし活躍しました。日本近代化の青写真を創った岩倉使節団の壮大な旅の出発点ともいえる「象の鼻」は、現在も当時と変わらない場所にその姿を残しています。」日の丸が掲げられた艀に立つ三人の人物。中央が岩倉具視、向かって左側が大久保利通、右側が木戸孝允。『象の鼻防波堤』入口付近から、『みなとみらい21』地区、『赤レンガ倉庫』を見る。『象の鼻防波堤』先端部。象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元されている。ガス灯を模した照明灯が設置され、関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部は、そのままの形で保存・復元されている。今は、横浜港を見渡すことができる、新たなビューポイントになっているのだ。以前訪ねた際は、ライトアップ用のリングが設置されていたが・・・。前方右側には『大さん橋ふ頭ビル』が。『大さん橋』のふもとに在る逆三角形の屋根が特徴的な建物が『大さん橋ふ頭ビル』。以前はここが『旧横浜港大さん橋国際客船ターミナル』であった。設計は、株式会社松田平田設計で、竣工は1993年3月。さらに『大さん橋』に向かって進む。前方に大きなウッドデッキが両側に見えて来た。『象の鼻と神奈川台場』。「「象の鼻」と「神奈川台場」について 日本が開国した当時、国際港には波止場とあわせて台場(砲台)が備えられており、明治4年(1871年)岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に「象の鼻(波止場)」から出発した際にも、「神奈川台場」から祝砲が打たれた記録が残っている。 「象の鼻」と「神奈川台場」の2つの史跡は現在もその遺構の一部が残っていることから、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在、そして後世に伝えるため、「象の鼻」の復元工事、「神奈川台場」の周辺設備工事を行った。象の鼻とは 安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が造られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の「象の鼻」)は、国際航路に乗船した旅客の出入りや輸出入品の上げ下ろしに利用された。 初代の波止場は、2本の平行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきっかけに周辺道路が再整備されたのにともない、波止場の延長工事が行われた。その際、東側の波止場は、波除けとして機能するよう大きく湾曲した形状に造り変えられた。こうして、後に「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。神奈川台場とは 安政6年(1859年)5月、幕府は伊代松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を神奈川宿(現在の神奈川区)の沖合に構築した。 台場は、総面積約26,000m2(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。 国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてなくてはならない重要な役割を担った施設である。 明治32年2月に廃止されるまで台場として使われていたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられた。現在は、周辺整備工事により石垣の一部をみることができる。」『大さん橋ふ頭ビル』を正面から。入口左にあった『大さん橋』を支えた螺旋杭であると。そして『ウッドデッキ』が始まる。建物2Fや屋上床はブラジル産イペを使用したウッドデッキになっており、さらに天然芝の緑地を設けてあった。『ウッドデッキ』を歩く。現在の『大桟橋国際客船ターミナル』は海面から少し隆起したように建っていた。『大桟橋国際客船ターミナル』のホールを入口を見下ろす。大さん橋の2Fの奥に位置する多目的ホールである。床面・壁面はウッドデッキ仕上げ、正面奥は強化ガラスウォールであり、横浜ベイブリッジ方面を望むことができる。広さは約2,000m2であり、天井高は6.5〜7.5mある。最大で1,200名の収容が可能であり、屋上フリースペースから連続した空間としての利用も可能である。波静かな横浜港そしてみなとみらい21地区を見る。ウッドデッキが先端まで続く。赤レンガ倉庫と高層ビル群。先程近くで見た巡視船『あきつしま PLH32』。湾内を走る『警戒船』。『横浜税関』。『横浜ランドマークタワー』と『クイーンズスクエア』そして『観覧車』。漸く『大さん橋』の先端近くまで。『横浜ベイブリッジ』を見る。ズームで。その奥に自動車運搬船の姿も。『横浜市風力発電所(ハマウィング)』は回転していなかった。『大さん橋』先端から『JERA(株)横浜火力発電所』方面を見る。歩いて来たウッドデッキを振り返る。巡視船『あきつしま PLH32』の奥に『ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル』。空の雲も少なくなり、青空の横浜港の景色を堪能する。反対側には『横浜マリンタワー』と『氷川丸』の姿が。これから歩く『山下公園』。一人佇む女性の姿。見事な色を維持している芝生。塩害に強い品種なのであろう。『大桟橋国際客船ターミナル』のホールを訪ねた。ホール正面は、強化ガラスウォール。『ロイヤルウイング』は、2017年現在、神奈川県横浜港の大桟橋を拠点として営業しているエンターテイメント・レストラン船。旧船名は「くれない丸」。日本で唯一のエンターテイメント レストラン船「ロイヤルウイング」は、旅客定員630名を誇る大型客船。美しい景色や夜景で有名な横浜港内を2時間弱かけて運航しているのだと。『大桟橋国際客船ターミナル』のホール内を訪ねる。約2,000㎡の広々としたスペースは、最大約1,200名の収容能力があると。ホール正面には和風の石庭そして朝顔の花が迎えてくれた。『伊豆諸島 東京行き』の船の案內所も。竹芝客船ターミナルからここを経由して伊豆諸島に行く船もあるようだ。『ロイヤルウイング』のディナークルーズ他のポスター。『ロイヤルウイング』の模型船体。こちらは『Diamond Princess(ダイヤモンド・プリンセス)』。日本の長崎で建造され、日本発着のクルーズ旅行に就航している大型客船。主に夏季はアジア、冬季はオーストラリアをクルーズすると。旅客定員: 2,706名。『大桟橋国際客船ターミナル』案内図。ウッドデッキがあるのは屋上・RF。今度、大型クルーズ船が『大さん橋』に着岸している日に再び訪ねたいと思ったのであった。そして次の目的地『山下公園』に向かって戻る。再び『大さん橋ふ頭ビル』の前を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.14
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ーーが(その6)の散策ルート。『横浜地方裁判所』の前の『日本大通り』のT字路交差点から『横浜地方裁判所』を振り返る。『横浜三井物産ビル』の路地を中に入っていくと、反対側にあったのが『横浜情報文化センター』の建物。横浜情報文化センターは、日本新聞博物館と放送ライブラリーを中核として、多目的ホールやオフィススペースを備えた複合施設である。オフィススペースには情報関連企業が入居している。旧・横浜商工奨励館(昭和4年に関東大震災により打撃を受けた市内商工業界の復興事業として建築)を再利用した4階建ての旧館部分と新たに造られた12階建ての新館部分から構成される。旧館部分は、横浜らしい建築を創り出している近代建築として平成11年2月に「横浜市認定歴史的建造物」に認定されている。内部には『日本新聞博物館』、『放送ライブラリー』も入っているようであった。『新聞少年の像』。戦後の経済発展とともにその歴史を刻んできた新聞配達。その一翼を担っていたのが新聞少年たち。日本新聞博物館の「新聞少年の像」は、日本新聞販売協会創立50周年を記念して、2004年(平成16年)に寄贈されたものであると。こちらが、『日本大通り』側の正面入口であろうか。『大さん橋入口交差点』にあったのが『旧横浜市外電話局』。「旧横浜市外電話局は、昭和4(1929)年に横浜中央電話局として建設されました。設計をおこなったのは横浜出身の逓信省技師中山広吉で外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコー二スに古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。各階の高さは異なっており、1階と3階は高くそれぞれ営業室、交換室として使用されました。また、2階には局長室、技術官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休息室や食堂、宿直室が設けられていました。その後、市外電話局及びNTT横浜情報案内センターの時代を経た後、NTTの移転を機会に、横浜の施設として活用されることとなり、本町通り側および大桟橋通り側の外壁を創建当時のまま残して、平成15年(2003)年、新しく生まれ変わりました。」シックで落ち着いた風格が、横浜の町並みに映えていたのであった。黒の扉も重層感が。『大さん橋入口交差点』の角、『旧横浜市外電話局』の対角線上にあったのが『ホテルコンチネンタル横浜』『本町通り』を県庁方面に戻ると、『横浜港郵便局』の建物の壁に展示されていた絵画。2015年(平成27年)の神奈川県版年賀はがきデザイン。『伝えたい想いがそこにある』『手紙って、いいね!』の文字が上に。再び『横浜地方検察庁』の建物が『港湾郵便局交差点』の向かいに。交差点の渡ると目の前にあったのが『神奈川運上所跡』。安政5(1858)年、米英仏露蘭5か国との間に修好通商条約が結ばれ、神奈川宿の名寺には各国領事館や公使館が開設されました。翌年、貿易や外交業務、外国人の居留地整備などを総合的に行う機関として、神奈川宿対岸の横浜村、現在の神奈川県庁あたりに設けられたのが運上所です。運上とは税金のことで、明治5(1872)年に横浜税関に改められ、今に至ります。『日本大通り』の銀杏並木の歩道を神奈川県庁方面に向かって進む。『神奈川県庁』。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、公募で当選した小尾嘉郎の案を基に、神奈川県内務部(成富又三)により設計され、建築顧問として佐野利器が迎えられた。昭和初期に流行した帝冠様式が取り入れられている。1926年(大正15年)12月4日に地鎮祭が執行されたのち、1927年(昭和2年)1月15日より建設に着手され、建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成した。塔屋は「キングの塔」として親しまれており、横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)、横浜市開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。また歴史的建造物として、1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。大桟橋通と日本大通にはさまれた場所にある『横浜開港資料館』。ここは、もともと『英国総領事館』として、1931(昭和6)年に建てられた。総領事館としての横浜の業務は1972年に停止され、それを利用して1981年に横浜開港資料館として開館したと。英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物。『横浜開港資料館』入口前。『横浜開港160周年記念 開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860』が開催中。『開港前後の横浜』のポスター。「今からちょうど160年前のこと。江戸幕府は、横浜村という海に面した村を開発して町と波止場をつくり、外国人と貿易をはじめました。村に住んでいた「和兵衛」と「おはま」は、開港前後(おおよそ1858~1860年)の横浜の移り変わりをつぶさに見聞します。ふたりはいったいどんな光景を見たのでしょうか? 当館が保管する浮世絵、地図、古文書のほか、新たに見出された歴史資料もまじえながら、ふたりの視点から横浜開港をわかりやすく紹介します。」と。『脇玄関』。隣にある玉楠の木の下で日米和親条約が結ばれたという土地に建つこの建物は、昭和47年までイギリス領事館として使われていた。設計も英国工務省らしく18世紀のジョージアンスタイルの都市邸宅をほうふつとさせるデザインで、玄関周りが特徴的。こちらが正門玄関なのであろう。左右に立つ大きな柱はキャピタル(柱上部)にアカンサス(葉薊/ハアザミ)の葉と蔓が彫刻されているコリント式で、その奥に玄関ドア、2階窓、そして3階の半円窓までを吹き抜けとした印象的なデザイン。そして『開港広場前交差点』に出る。正面に『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』。もとは大倉商事の出張所として建てられたもの。右隣にある『横浜貿易会館』と設計・施工・施工時期も同じ兄弟ビル。特に特徴のない典型的なスタイルの建物ですが、現在は解体されてしまった「キッコーマンビル」を含めて、連続する四棟のスクラッチタイルのビルディングのひとつとして「港町ヨコハマ」の雰囲気を印象づける、いい味を醸し出している建物。『横浜貿易会館』『横浜貿易会館』は、横浜における貿易振興の為に設立された”横浜貿易協会”の事務所ビルとして、関東大震災復興期の昭和4年(1929)に竣工した。設計・施工は大倉土木で、外壁のスクラッチタイルが特徴的。隣に現在も残る『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』と同時に同じ設計・施工で建てられた。『昭和ビル(旧カスタム・ブローカー・ビルディング)』。海岸通りに連なるスクラッチタイルの外壁が特徴的な戦前期のモダンビル群のうち、西端の象の鼻パーク入口脇に立つ「昭和ビル」。「昭和ビル」は関東大震災後の昭和6年(1931)に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。多くの横文字の店が並び、米国の田舎の居酒屋の如し。一番手前にあったのが『Restraunt AQUA 0LIVINE』。漁港直送の魚介を生かした魅惑的で色鮮やかな料理 明るく温かな雰囲気のフレンチレストラン。店内は2階にあるため窓からは海が見え、とても落ち着くレストランであると。そして『象の鼻パーク』へ再び。『横浜税関(神奈川運上所)』の案内板。「安政6年(1859)、幕府は開港のために神奈川奉行所を設けました。その下で、通商事務のほか、船の出入港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取締りなど幅広い業務を取り扱ったのが、神奈川運上所でした。運上所の庁舎は波止場の中央正面に建てられていました。明治4年(1871)には運上所業務のうち通商事務などが大蔵省の所管をされ、明治5年(1872)には全国の運上所の名称が「税関」に統一されました。明治6年(1873)、「横浜税関」となってからの初代本庁舎が初代運上所の建屋があった位置よりやや海側に石造3階建てで建設され、明治16年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に譲渡されました。明治18年(1885)になると、中央に「塔を配した煉瓦造2階建の2代目本庁舎が建設されました。大正12年(1923)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが現在の3代目本庁舎です。この庁舎にそびえる高さ51mのエキゾチックな塔は一般に「クイーンの塔」と呼ばれ、今も広く親しまれています。右写真上より初代横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜開港資料館所蔵2代目横浜税関本庁舎 「横浜税関庁舎」 横浜開港資料館所蔵3代目横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜都市発展記念館所蔵歴代の横浜税関本庁舎の位置図」『「海の日」の由来』案内板。「海の日は、1876年(明治9年)、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台視察船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港(象の鼻地区)に入港して、横浜御用邸伊勢山離宮へ帰着したことにちなみ、制定された。」しかし、2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となった。なお、2020年(令和2年)は東京五輪・パラリンピック特措法により、東京オリンピックの開会式の前日に当たる7月23日(木曜日)に変更されるのだ。『象の鼻パーク』案内板。1854年3月31日にアメリカのペリー提督が2度目の来日で、上陸した場所。安政6年(1859)日米修好通商条約により、開港場に指定される。横浜で最初の波止場。象の鼻パークには歴史解説板があちこちにあり、歴史を物語っていた。『象の鼻地区の変遷』案内板。安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と修好通商条約が結ばれ、翌年横浜港が開港すると、港には東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場が時代とともに少しずつ形を変え、現在の象の鼻の原型となりました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。『港を支えた艀荷役』案内板。そして『波止場会館』。波止場会館は、みなとみらい線日本大通り駅から徒歩5分、ベイブリッジや大桟橋ふ頭など横浜港をのぞみ、象の鼻パークに隣接する好立地な環境の会議室。『横浜港港湾労働者供養塔』。供養塔は横浜港で不慮の事故で亡くなった港湾労働者を供養するため1974年に山下ふ頭に設置。昨年5月に開港150周年を記念して横浜港発祥の地である象の鼻パークに移転した。現在まで2830柱近くが合祀(ごうし)されているとのこと。『藤木幸夫』の文字が。何か心当たりがあると思ったが、実は今回の、横浜市の林文子市長がカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の誘致を正式表明した事に対して、噛み付いていた『ハマのドン』なのであった。『RESTAURANT SCANDIA』。横浜を代表する山下公園からほど近くの海岸通り、大桟橋の入り口の角に位置するひときわ風格ある石造りの建物がその「スカンディヤ」。竣工は1929年。もともとは、進駐軍に接収されていた横浜貿易ビル。1階はカジュアルな「スカンディヤ ガーデン」、2階が、瀟洒な空間が広がる北欧料理レストラン「レストラン スカンディヤ」。古くは横浜港を利用した外国人らで賑わい、ヒッチコック監督や美空ひばりも訪れたのだ。なんでも、昔の従業員は全員英語が話せたとか。今でも有名人がお忍びで来訪することがあるのだと。私も大学時代、研究室の先輩に連れられて何度か訪ねて食事をご馳走になった懐かしい店なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.13
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ーーが(その5)の散策ルート。更に『馬車道』を進む。『神奈川県立歴史博物館』前の道路の向かいにあったのが『牛馬飲水』。レトロな雰囲気の馬車道十番館前に置かれている「牛馬飲水槽」。牛馬が人や荷を運び町を行き交った当時、道中で給水しひと休みした休憩所で、日本人道会(神奈川縣動物愛護協会の前身)と横浜荷馬車協会によって設置された。馬車道十番館前のものは大正6年(1917)に磯子区の八幡橋に設置され昭和45年(1970)に移設されたもの。当時は他に中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばにも置かれたという。なお、神奈川県立歴史博物館前にもレプリカが設置されている。外国人の馬車が行き交い、明治2年(1869)に開通した東京~横浜間の乗合馬車の発着所が吉田橋のわきに設けられたことなどから「馬車道」と呼ばれるようになったとされる馬車道周辺で、まちが牛馬とともに在った当時の雰囲気を感じさせてくれる小さな遺構。『馬車道歴史散策ガイド』。案内板の『QRコード』をスマートフォンなどで読み込むと、各地点の現在の映像と、明治期の風景が写真や絵で見られるのだ。『QRコード』を接写で。『旧川崎銀行横浜支店(日本興亜馬車道ビル)』。『旧川崎銀行 横浜支店』。1922年(大正11年)の建築物。 設計者は横浜生まれの建築家・矢部又吉。旧横浜銀行本店の設計者・妻木頼黄の弟子。横浜市認定歴史的建造物。『下岡蓮杖顕彰碑』横浜初の日本人写真家・下岡蓮杖の顕彰碑。蓮杖は、1862年(文久25年)に野毛で開業し、のちに馬車道に写真館を新設。多くの門下生を育てた。 碑の上にのっているのは、当時の写真機をイメージしたもの。そして馬車道をUターンして『本町4丁目』交差点まで戻る。交差点角の横浜第一ビルディングの前にあったモニュメント。再び『旧安田銀行横浜支店・東京芸術大学 大学院映像研究科 馬車道校舎』を本町通り越しに。1929(昭和4)年竣工。設計は安田銀行営繕課、施工は大倉土木(現大成建設)。横浜市の歴史的建造物に認定され、鉄筋コンクリート造、石張り、2階建の馬車道入口のシンボルマークでもある。安田財閥の基幹企業であった安田銀行の店舗のひとつですが、他に現存するものは少なく、この建造物は貴重な存在となっている。『旧東京三菱銀行 横浜中央支店』後ろに建つ高層ビルは「D’ グラフォート横浜クルージングタワー」という高層マンション。イオニア式オーダーが銀行らしい重厚な印象を与える建物で横浜市認定歴史的建造物だが、いわゆるファサード保存した、日本興亜馬車道ビルと同じく「かざぶた建築」の物件。新築の高層ビルに昔のレトロな外壁を貼りつけるこの方式は、「かざぶた建築」ともいわれる。設計は日本興亜馬車道ビルを設計した矢部又吉。横浜市認定歴史的建造物の鉄筋コンクリート造り、2階建て。旧東京三菱銀行横浜中央支店元第百銀行横浜支店1934(昭和9)年横浜市認定歴史的建造物設計 : 矢部又吉施工 : 戸田組横浜市中区本町4-41重厚な黒の入口。『横浜銀行協会、旧横浜銀行集会所』戦前は横浜正金銀行本店を始め、 三井・住友・安田・第一・三菱の、当時で言うところの五大銀行が店舗を構えていた一帯だった。そのような横浜の金融の中心街である本町通りに、銀行員の親睦・保養を目的として昭和11年に建てられたのが、この『横浜銀行協会』だったと。アールデコ調の直線的なデザインで纏められている。玄関ポーチの屋根に施されたチョコレート色の装飾と一本足の白い8角形の柱に施されたアールヌーヴォー調な花模様のレリーフ装飾がエレガント。◎設計:大熊喜邦、林豪蔵◎施工:清水組◎竣工:昭和11(1936)年7月◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て・・・・竣工時◎所在地:横浜市中区本町3-28『本町2丁目交差点』を右に入った場所・東京都民銀行横浜支店前にあったのが『中居屋重兵衛店跡』中居屋重兵衛は群馬県の出身で開港直後に横浜に進出して、生糸貿易の過半数を占めていたと。当時の屋敷には生糸を買付けに来る外国人を楽しませる為に、中庭に金網を張って小鳥を放ち、座敷の周りにはガラス張りの大きな水槽を置いて金魚を泳がせていたという。この豪商がいたことで、横浜が日本最大の貿易都市に成長できたのかもしれません。本町通りに戻り更に進む。右手に見えて来たのは、『三井住友銀行 横浜支店』。1931年(昭和6年)に完成し、現在でも現役の銀行店舗として使用されている。正面に4本、側面に2本のイオニア式の柱が特徴で、縦に溝が彫られた円柱と、柱頭に渦巻状の装飾が乗る。内部はコリント式の柱列が吹き抜けの天井を支える。軒には40cmの庇が張り出し、上部窓の下の壁面には、帯状にギリシア雷文が彫られている。外壁は2~3年ごとにサンドブラストで研磨され、美観が保たれている。細部の造形は、アメリカより現物大の石膏模型が送られてきて、これに基づいて製作されたと。更に『本町通り』を進むと『県庁前交差点』の角にあったのが『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』。『県庁前交差点』を右折し写真SPOTから撮影。赤煉瓦の時計塔として親しまれているこの建物は、明治42年に横浜の開港50周年を記念して公募設計(コンペ方式)により建設され、大正6年6月に竣工した。大正12年の関東大震災では、外壁を残して屋根と内部を焼失、その後昭和2年に再建されたが、銅製のドームは省略され、内装もやや簡略化された。戦時中の被災は免れたものの、終戦から昭和33年9月まで米軍の接収を受けた。そして、市街地建築物の高層化が進むなか、老朽化のため保存か取り壊しかも岐路に立たされたこともあったが、昭和53年に修理、さらに平成元年にはドームが復元されて建設当時の姿がよみがえった。館のシンボルである高さ約36メートルの時計塔は”ジャック”と呼ばれ、県庁本館の”キング”横浜税関の”クィーン”と並び、入港する船員からトランプの三塔として親しまれている。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』の海側。時間は8:23。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館』の正面入口。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』の関内側。「横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。」『史跡 横濱町会所跡』と刻まれた石碑「この地に、明治7年(1874年)4月に竣功した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開校50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父 勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。」『岡倉天心誕生之地の碑』『横浜市開港記念会館』の正面入口の左側に、明治期に美術界の基礎を築いた岡倉天心(1862~1913)の誕生地を示す碑が。この場所で父が商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めていたと。石川屋には多くの外国人が出入りしてにぎわい、その繁盛ぶりは浮世絵にも残された。ここで幼少期を過ごした天心は、自然と英語を身に付け、後に米国人教師フェノロサの通訳として日本美術研究を手伝うことになり、美術行政の道を歩み始めたと。『横浜商工会議所発祥の地』。横浜開港記念会館がある建物の正面入口の左手に、「岡倉天心誕生の地」碑と並んでこの『横浜商工会議所発祥の地』碑が建つ。1874(明治7)年この場所に「町会所」が建てられた。当時非常に珍しかった時計塔のある建物で横浜名所になった。この町会所に1880(明治13)年に、外国を相手とする横浜商人の結束と自立をはかることを目的に「横浜商法会議所」が開設された。1928(昭和3)年に「横浜商工会議所」と改称。碑は商工会議所開設100周年を記念して1980(昭和55)年に建立された。そして再び『本町通り』に戻ると左手には『神奈川県庁』の姿が。『本町通り』から見た『神奈川県庁』。『港郵便局前交差点』の角にあったのが『横浜港郵便局』。『港郵便局前交差点』手前右側にあったのが『横浜地方検察庁』。『横浜地方検察庁 横浜区検察庁』。入口左横にあったのが『電信創業の地』碑。「明治2年(1869)12月25日この場所にあった横浜電信局と東京電信局の間にわが国ではじめて電報の取扱がおこなわれました。 昭和38年12月25日 日本電信電話公社」その隣りにあったのが『横浜地方裁判所』。『横浜地方裁判所 横浜簡易裁判所』。旧建物は1929年(昭和4年)の竣工で、神奈川県庁のデザインを参考にしたとされる。竣工 - 昭和4年構造- RC造規模 - 地上4階建設計者 - 大蔵省営繕管財局施工者 -大倉土木横浜市認定歴史的建造物として認定されている。『横浜地方裁判所 横浜簡易裁判所』を入口反対側から。『日本大通り』と銀杏並木。『横浜三井物産ビル』。1911年に三井物産横浜支店の事務所棟として竣工。2019年現在の名称は「KN日本大通ビル」。1927年(昭和2年)に増築。設計は日本人初の独立設計事務所を山下町に構えたといわれる遠藤於莵による。 同ビルは遠藤のモダニズム時代の総決算といえる建物であり、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルである。関東大震災で横浜の建物群が壊滅的な打撃を受けた際にも、当建物は倒壊を免れ、鉄筋コンクリート造の地震に対する有効性を印象付けた。旧名称:横浜三井物産ビル建築主:三井物産構造形式:鉄筋コンクリート造地上4階地下1階屋根付階数:地上4階、地下1階竣工:1911年8月改築:1927年所在地:〒231-0021 神奈川県横浜市中区日本大通14『日本大通り』の先に横浜スタジアムの照明灯が見えた。『日本大通り』と書かれた標識。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.12
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ーーが(その4)の散策ルート。更に海岸通りを進むと『海岸通3丁目』交差点前にあったのが『横浜郵船ビル』。現在も日本の海運業界を代表する企業である、日本郵船株式会社。『横浜郵船ビル』。1885(明治18)年に設立され、当時、欧米の名門海運会社が独占していた世界の主要都市への航路を短い期間で開設し、以後、世界有数の海運業者として歴史を重ねている。重厚で威厳のある横浜郵船ビルは、1936(昭和11)年、日本郵船株式会社創立50周年を記念して建てられた。設計したのは、金沢出身の和田順顕(わだじゅんけん)。東京美術学校(現:東京藝術大学)図案科を主席で卒業し、アメリカ各地を視察して当時の建築を学んだ建築家だ。当時、日本郵船に金沢出身の重役がいて、その関係から抜擢されたのではないかと伝わっている。機能優先のシンプルなモダニズムが台頭してきた時代に建てられた、ギリシャの神殿を思わせるアメリカ古典主義様式のこの建物は、前面に16本並んだ列柱が圧倒的な存在感を放っている。『日本郵船歴史博物館』催物案内。『日本郵船歴史博物館』は、2003年に横浜郵船ビルを竣工当時の姿にリフォームして併設された施設。近代日本海運の黎明期から今日に至るまでを紹介する常設展の他、さまざまな企画展が行われている。大きすぎてカメラに収まらないので道路を渡って。16本並んだ見事な重厚感ある列柱。柱頭にアカンサス(葉アザミ)の飾りを持ち、小さな渦巻きが入ったコリント式であると。『赤レンガ倉庫』、『馬車道』の案内標識。ここは海岸通4丁目。『海岸通4丁目交差点』から『赤レンガ倉庫』方面を見る。『海岸通4丁目交差点』を左折し、『万国橋通り』を進むと右手にあったのが『横浜第二合同庁舎』。当地には1873年(明治6年)には壮行学舎(のちの横浜小学校)が、1926年(大正15年)には横浜生糸検査所が設置されていた。1990年(平成2年)に横浜市認定歴史的建造物として認定されている。1995年(平成7年)に高層棟の建設を含む大改築が行われ、その際に旧生糸検査所の外観を復元した造りになっている。名称に「第二」とついているのは、すでに山下町に合同庁舎が存在したためである。横浜に残る生糸関連遺構の一つ『生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)』の正面玄関に掲げられた彫刻。正面上部には蚕の成虫と菊の紋、桑の葉をあしらった紋章が設けられてると。戦前日本の主力輸出品であった生糸の品質検査を行う建物ならではの装飾。しかし、どこが蚕の成虫?どこが桑の葉?本町通りとの交差点・本町4丁目交差点角には『みなとみらい線 馬車道駅』入口が。ここを右折し、本町通りを進むと前方、『本町5丁目交差点』の道路の反対側にあったのが『旧第一銀行横浜支店(横浜アイランドタワー)』。高さ119mの超高層オフィスビル。2003年に建築家 槇文彦氏の設計により、都市基盤整備公団が建てた。みなとみらい開発以降では横浜を代表する高層ビルのひとつだが、現代的なビルの手前には重厚な石造りの古典建築がひっそりと佇んでいた。アイランドタワーが横浜を代表する現代作品なら、旧第一銀行横浜支店は戦前の代表作と言え、吹き抜けのバルコニーがよいアイストップ(eyestop)になっている。1929(昭和4)年竣工の歴史的建造物を移築・復元したビルで、ギリシア神殿風のトスカナ式柱頭を持つ列柱を並べた華麗な半円形のバルコニーと軒のデンテル模様が美しい建物。また、天井に吊り下げられたランタンはジャポニズムのエッセンスとしてよいアクセントとなっている。半円形部分のみが創建当初のオリジナルであると。『本町5丁目交差点』から『横浜ランドマークタワー』方面を見る。『旧第一銀行横浜支店(横浜アイランドタワー)』を正面から見る。『南仲通り』入口にあったのが『キングスバー(King’s Bar)』.馬車道駅3番出口すぐ前、東横イン隣りのビル地下1Fにあるジャズライブハウス『キングスバー』。『神奈川県立博物館』裏には大砲が展示されていた。『旧居留地90番地の大砲』。「外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戌辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。」再び『本町4丁目交差点』方面に引き返す。前方にある塔のビルは結婚式場『Casa d' Angela』近くまで行って。歴史的な建物だと思っていたが、違うようであったが。塔頂部は時計塔、時間は8:07。『CASAD' ANGELA(天使の住処)』。しかし、豪華なステンドグラスが人気の結婚式場であると。 【http://www.casadangela.com/facility/chapel.php】より『本町4丁目交差点』角にあったジョナサン 馬車道店前の馬のモニュメント。『本町4丁目交差点』を右折し『馬車道』に入る。アメリカが江戸幕府に開国を要求し、日米通商修好条約が結ばれた。これによって貿易のため横浜港が開かれ、関内に外国人居留地が置かれた。その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの一つとしてこの道は1868年に開通した。外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになった。さらに翌年の1869年(明治初年)には下岡蓮杖ら日本人商人の共同出資によって東京横浜間の日本初の乗合馬車の営業が始まった。『馬車道』案内図。『旧富士銀行 横浜支店』1929年(昭和4年)に完成し、2001年まで富士銀行の支店として使われた後、2005年より東京藝術大学大学院の校舎として使用されている。本町通りと馬車道が交わる、現在の本町4丁目交差点角に、1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として建設された。1923年に11行が合同で設立された安田銀行は、大正末期から昭和初期にかけて各地に支店を設けたが、盛岡・福島・本所・横浜の支店はいずれもルスティカ積みの外壁と4本の付柱で構成され、よく似た外観をもっていた。本ビルはその中でも最大の規模で、かつ唯一現存するものである。『東京芸術大学』の文字が。現在は東京芸術大学大学院映像研究科の校舎として使用されているとのこと。 扉の彫刻は、重厚感たっぷり。『ガス灯』。『イギリスからやってきたガス灯たち』。「英国国会議事堂のガス灯」テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065 年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は 1834 年の火災で焼失しましたが、1852 年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。このガス灯は、この建物の北西部に立つ ガス灯 と同じものです。1872 年(明治5年 )日本最初のガス灯が 馬車道 にともされたことを記念して、 東京ガス の協力により設置しました。『旧東京海上火災保険ビル(馬車道大津ビル)』。神奈川県立歴史博物館の斜向かいに建つベージュのタイルと縦長窓が特徴の味のあるビル。建造は1936年でこの地に約80年建ち続けている。シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオヒィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。建築年代:昭和11(1936)構造・規模:RC造4階・地下1階設計/施工:木下益治郎/大林組指定/分類:横浜市認定歴史的建造物指定年月日:平成12年度所在地:横浜市中区南仲通4-43そして『旧横浜正金銀行本店本館 (神奈川県立歴史博物館)』『国指定重要文化財 旧横浜正金銀行本店本館 』。『国指定史跡 旧横浜正金銀行本店』 「横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。」創建当初のドームは、関東大震災で消失しており、現在のドームは県立博物館開館にあわせて、旧状にできるだけ近いかたちで復元された。ドーム全体の高さは、18.7メートルの隅欠き八角形。ドームの上には、高さ9.2メートルの尖塔飾りがそびえている。ドームは復元時にビルの屋上に載せた形になっていると。内部は鉄骨造りで内装は木材で覆われているとのこと。八角形のドームのそれぞれの下部にはドルフィン(イルカをモチーフにした想像上の生き物)が置かれているのだと。下からはシャチホコの如く見えたのであったが。建物はネオ・バロック様式の本格的な石造西洋建築で、外壁に浮彫りを与え重厚感が。現在は『神奈川県立 歴史博物館』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.11
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ーーが(その3)の散策ルート。赤レンガ倉庫2号館。2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。明治政府によって保税倉庫として建設され、建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていた。2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。2号館と1号館の間を国際通りに向かって歩く。1号館の赤レンガ倉庫沿いを進む。1号館は2002年(平成14年)4月12日、文化施設として開館。1階:床下には瓦などが展示されている2階 :展示スペース3室:各200㎡、天井高2.4m3階 :ホール:約400席 面積=約400m2/天井高=トラス下5.1m。『横浜赤レンガ倉庫1号館』案内板。こちらは2号館。2002年(平成14年)4月12日、商業施設として開館。当初は31店舗であったが、現在のテナント数は40店舗を超える。多くの店舗で横浜赤レンガ倉庫ならではの商品を置いている。また、3階のレストラン・ビアネクストのロゴマークは、倉庫内にある防火扉の開閉に使っていた滑車に由来する。ただしこの滑車式の防火扉は現在は保存されているだけで使われていない。1号館と2号館の間の広場は横文字だらけ。再び2号館。2号館を海に向かって振り返る。2号館を国際通り近くから。『横浜赤レンガ倉庫 2号館』。1号館と2号館の間には多くのテントが設置されていた。赤レンガ前から『横浜税関』ビルを見る。『赤レンガ倉庫』交差点。この土、日で横浜防災フェアが開催されるようであった。『津波避難情報』案内板。水色部分が浸水予想地域、ピンクが津波避難ビル。赤レンガ倉庫を振り返る。左手の海の向こうに見えたのが『大さん橋ふ頭ビル』。『新港橋』そして『横浜税関』が前方に。『新港橋』には線路も。元は今から100年以上前の大正元年(1912)に建造された貨物線(横浜臨港線)の鉄道橋。橋は100フィート・ポニー型ワーレントラス橋で、設計は大蔵省臨時建築部、施工は浦賀船渠。先行して架設され現在も汽車道に現存する「港一号橋梁・港二号橋梁」がアメリカ製、「港三号橋梁」がイギリス製であるのに対し、「新港橋梁」は日本における初期の国産トラス橋として知られる。部材同士は英国系のピン結合と異なり、リベット結合によって強固な剛性に組立られている。『神奈川県警察本部』ビル。地上83メートルの展望ロビーは回転しない??左手にあったのが『象の鼻パーク』案内板。象の鼻波止場を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年6月2日に開園。現在、『象の鼻パーク』と呼ばれている場所は、1854年3月31日、アメリカ合衆国のペリー提督が2度目の来日で初めて横浜に上陸した場所。1859年、日米修好通商条約により横浜が5つの開港場の一つに指定されて以降、この地区は横浜で最初の本格的な波止場となり、諸外国との活発な貿易、交易の舞台となった。「象の鼻」の名称は、時代と共に少しずつ形を変えてきた堤防の形状が、象の鼻に似ていたことに由来していると。『開港の丘』より『赤レンガ倉庫』を見る。『横浜150周年記念碑』と『横浜税関』。『横浜150周年記念碑』。記念碑は、2009年の横浜開港150周年の記念の年に「開国博Y150」を実施した証として、横浜の礎を築いた先人の業績への感謝と、これからの横浜の発展に願いを込めて建立されたと。開国博Y150マスコットキャラクター「たねまる」を御影石で復元した記念碑で高さ1.2メートル、幅2.7メートル。手前には黒の御影石のタイムカプセルが。同カプセルは市民の夢をのせた絵やメッセージが納められていて、横浜開港200周年・2059年に開封される予定とのこと。右から『大さん橋ふ頭ビル』、『大桟橋』そして後方に『横浜ベイブリッジ』。『横浜税関』。5階建てのエキゾチックな庁舎には、「ロマネスク」などの西欧建築様式が混在し、それをベージュ色の磁器タイルが優しく覆っている。イスラム寺院を想わせる緑青色のドームは、「クイーンの塔」の愛称で親しまれていると。横浜税関の「クイーンの塔」、神奈川県庁の「キングの塔」、横浜市開港記念会館の「ジャックの塔」は、横浜三塔と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれているようだ。手前には『山下臨港線プロムナード』が。横浜税関付近から大さん橋入口を経て山下公園西端を結ぶ500mほどの遊歩道であり、桜木町駅から港の見える丘公園を経路とする「開港の道」の一部と位置づけられている。遊歩道の大半が線路の高架橋部分を流用して造営されているため大半の部分が高架であり、大さん橋と山下公園の付近においては設置された階段やスロープから遊歩道に出入りすることになる。海に突き出た石垣は『象の鼻防波堤』。横浜市中区の観光名所「大桟橋」に寄り添うように造られているのが『象の鼻防波堤』で、そこを起点として、港の入り江を取り囲むようにして造られているのが『象の鼻パーク』。『象の鼻防波堤』をズームで。再び『赤レンガ倉庫1号館』。『象の鼻テラス』。『象の鼻テラス』は、横浜市・開港150周年事業として、2009年6月2日に開館しました。横浜港発祥の地を、横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間として整備した象の鼻パーク内に、アートスペースを兼ね備えたレストハウス(休憩所)としてオープン。青い置物は象型オブジェ『ペリコ』。『鉄軌道と転車台』。鉄軌道(線路)と転車台(ターンテーブル)は、横浜税関敷地内に設けられた手押し車両用の設備だったもので、象の鼻パーク整備中に発見された遺構。築造は、1895年(明治28年)から翌年にかけて。強化ガラスの蓋を通して見学することが出来る。鉄軌道(線路):鉄製 車軸幅1.06m転車台(ターンテーブル):鉄及び鋳鉄製 直径2.50m4基、支承軸及び支承車輪8基付強化ガラス越しに。『鉄軌道と転車台』説明板。「明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年代後半に整備されました。明治40年代の写真(右下)には、鉄桟橋(現在の大桟橋)方面に向かって敷かれた鉄軌道、転車台、鉄軌道の上を走る台車上の車両が写っています。鉄軌道の幅員は1.06mあり、わが国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました、この大きさでは回転できる車両の規模も限られることから、発見された鉄軌道は敷地内で荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。当時の工事記録によれば、当初は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。」『横浜港発祥の地の今昔』横浜港内で活躍した貨物線路が細かく描かれていた。横浜税関を国際通り側から。『横浜税関資料展示室』資料展示室「クイーンのひろば」では、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるグラフィック年表や貿易の変遷、麻薬やけん銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を、映像や実物展示により紹介していると。時間は未だ7:41、よって中には入れず。歩道に埋め込まれたタイル。「日本丸」と「赤い靴」が描かれていた。『横浜税関前』交差点から『神奈川県警察本部』ビル方面を見る。『横浜税関』正面入口。『横濱税関』と彫られた銘板。『横浜税関』説明板。『横浜税関』正面。そして右手に『神奈川県警察本部』と『海岸通り』。正面の広場にはモニュメントが。「地域、県民、警察」の三位一体を表現したものと。そしてその裏手の花壇の中に『三菱倉庫株式会社 支店事務所・倉庫跡地』の碑が。碑には「この倉庫は当港唯一の綿花取り扱い施設として永らく横浜港の発展に寄与した」と記されていた。警察官と子供達の銅像。『神奈川県公安委員会 神奈川県警察本部の標石』再び『神奈川県警察本部』の建物、展望台を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.10
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中区新港1丁目地域の散策を続ける。ーーが(その2)の散策ルート。そして『ホテル・ナビオス横浜(横浜国際船員センター)』前に。ホテルには大きな口が開けられていて汽車のレールはその口の中に吸い込まれるように続いていた。口の向こうには『赤レンガ倉庫』が小さく見えた。以前はこのレールは倉庫まで続いていたのかもしれないなどという想いに耽りながら進む。一般財団法人日本船員厚生協会が運営する船員・海事関係者のための福利厚生施設であるが、一般の人も利用可能であるとのこと。ウィキペディアによると「ホテルの下部には吹き抜けがあり、遊歩道として汽車道が整備されている。この吹き抜けは「絵画の額」をモチーフとしており、運河パーク側からは横浜赤レンガ倉庫など「古き良き横浜」の景色が、反対の新港中央広場側からは横浜ランドマークタワーなど「新しい横浜」の景色が絵画のように見える設計となっているのだと。2000年に「第1回横浜・人・まち・デザイン賞」と「第45回神奈川県建築コンクール優秀賞」を受賞している。」と。『ナビオス横浜』前の芝生広場・運河パークのモニュメント。ナビオス横浜のすぐ脇にある『アンカー(錨)のモニュメント』。イカリのそばに解説板が。それによると、「この錨は(株)アイ・エイチ・アイ・アムテックで1971年に建造され、中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(前長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量21万5850トン)に備え付けられていたものと同型のものです。」 重量は18.27K/T、長さ4.8m、幅2.9m。我々日本人は、1トンは1,000キログラムであると教わって来たが、欧米では異なったトンが存在したのです。即ち、日本人の考えるトンは正式にはメトリック・トンと呼ばれるもので、次ぎの通りとなります。M/T = M/Ton = Metric Ton = K/T = K/Ton = Kilo Ton = 1,000kgs.= 1,000 kilo grams = about 2,204.62 lbs (lbs = pound)。よって18.17K/Tは18.17TONのこと。『万国橋交差点』。時間は6:55。交差点から『ナビオス横浜』を振り返る。そして『新港中央交差点』にある楕円形の歩道橋『サークルウォーク』。国際大通りと万国橋通りの交差点に架けられた楕円形の歩道橋。1999年(平成11年)の竣工。橋長は一周、約225m。歩道橋に上がり交差点を見下ろす。今年の5月に行われた「2019世界トライアスロンシリーズ横浜大会」でバイク、ランでここがコースになっていた事を思い出したのであった。歩道用の床板が内側のトラス桁橋げたから張り出し、外側に取り付けられた形になっていたのであった。構造的にもデザイン的にも非常にユニークな歩道橋。平成11年度の土木学会田中賞を受賞したと。歩きながら、周囲の風景を楽しむには、トラスの鉄骨が邪魔にならない設計。そして『サークルウォーク』から観覧車を見る。時間は6:59。そして『サークルウォーク』の先に『神奈川県警察本部』のビルが見えた。『サークルウォーク』を降りると左手にあったのが『国際協力機構(JICA)横浜国際センター』。窓には『Next Stage“Africa』の文字が。TICAD(ティカッド:アフリカ開発会議)は今年で第7回を迎え、2019年8月28日~30日に横浜で開催されル予定。これに合わせて、JICA横浜では8月2日(金)~12月1日(日)まで『Next Stage“Africa” アフリカの現在と未来【TICAD7】』を開催しているようであった。ここを真っ直ぐ進むと『新港埠頭8号バース』。しかし工事中であり関係者以外立ち入り禁止と。前方の建物は2019年11月にオープン予定の『インターコンチネンタル横浜Pier 8』。『客船ターミナル入口』交差点から『サークルウォーク』を振り返る。後方に『アパホテル&リゾート横浜ベイタワー』とその右手に横浜市内最大規模・最高層(総戸数1,176戸、地上58階建)の『ザ・タワー横浜北仲』。『BAYSIDE GEIHINKAN VERANDA』。2016年3月にオープンしたベイサイド迎賓館ベランダ はみなとみらいでの結婚式場。道路脇にはブラシノキの赤い花が。ビン洗いのブラシに、なるほどそっくり。そして立入禁止で入れなかった『新港埠頭8号バース』を見る。埠頭の先端には『50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)』の遺構が残っていた。新港埠頭は明治32年(1899年)から海面埋立工事が行われ、その後、1917(大正6)年に陸上施設整備を含む埠頭整備が完了した。この結果、埋立面積約230,500 m2、岸壁延長約2,060m、鉄道上屋11 棟、木造上屋3棟、レンガ造倉庫2棟、50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)1機、その他鉄道、道路、上下水道、発電所等が完備され、わが国初の近代的埠頭として、横浜港の中心的役割を担うこととなる。そして手前にあったのが『ララ物資の記念碑』。50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)の遺構をズームで。大正初期イギリスから導入し設置した日本に3基のみ現存するクレーンの一つであり、関東大震災にも耐えた歴史的に貴重な電動式クレーンである。他に現存するクレーンは三菱長崎造船所の200トン吊り(大正元年(1912)竣工)、佐世保電工株式会社の250トン吊り(大正2年(1913)竣工)で、世界でも17基しか現存していないと言われていると。『ララ物資の記念碑』。1946(昭和21)年、戦災により何もかもが足りなかった時、横浜新港ふ頭に、ララ物資を積んだ米国船が到着。積み込まれた食品や衣類などの物資は横浜市内の倉庫、通称「ララ倉庫」にいったん移され、そこから政府へ引き渡された後、全国の施設等約1700ヶ所余りに配られたのだと。ララ倉庫と呼ばれていたのは、旧三井物産横浜支店倉庫。1910(明治43)年竣工のレンガ造りの倉庫で、横浜に現存する最も古い倉庫建築だった。2014(平成26)年取り壊しが決まり、貴重な歴史建築として保存運動がさかんに行われたが、2015(平成27)年解体されてしまったと。『ララ物資の記念碑』には香淳皇后 御歌が2句。「ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしつ」「あた>かき とつ国人の心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも 」左側のパネルに「ララ」についての詳しい説明があった。「第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大なご尽力もあったと伝えられる。この救済物資は、『アジア救援公認団体』の英語名“Licensed Agencies for Relief in Asia”の頭文字から『ララ』物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に『ララ』物資を積んだ第1船ハワード・スタンズベリー号が、ここ横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月まで送られ続けた。記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の『ララ』倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである。」。この碑は2001(平成13)年、地元横浜の有志によって建てられたものだと。『横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)』を振り返る。『第三管区海上保安本部 横浜海上防災基地』。雨水マンホールの蓋。港湾局が管理する雨水用。「PORT OF YOKOHAMA」の文字と横浜開港の年「1859」の文字。横浜らしい赤灯台と船と2羽の鳥がデザインされていた。今いる場所は○ここ。『横浜港駅プラットホーム跡』。生糸の輸出全盛時代に、新港埠頭と当時の横浜駅(現在の桜木町駅)を結ぶ横浜臨港線として、明治43年8月15日に開通し、明治44年9月1日に横浜港荷扱所として開業したのが横浜港駅。大正9年7月23日付で正式に横浜港駅(よこはまみなとえき)となったプラットホームが横浜赤レンガ倉庫横に、旧横浜港駅プラットホームとして現存しているのだ。線路は赤レンガ倉庫に向かって。『旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)』「「横浜港駅」は明治44年(1911)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れました。列車はその後「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」のプラットホームが設けられ華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、悼んでいた上屋は新材料で復元しています。」そしてこちらが『海上保安資料館横浜館』。平成13年12月22日に発生した九州南西海域工作船事件の際に自爆・沈没し後に引き上げられた北朝鮮の工作船が展示されているのがこの建物の中。以前2009年にここは訪ね、『ブログ』👈リンク にアップ済み。そして目の前には『横浜ベイブリッジ』の勇姿が。長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)である。東京港方面と横浜港を結ぶ港湾物流の一端を担うことにより、都市部の渋滞を緩和する重要な輸送路である。しかし、『横浜ベイブリッジ』の下を通過できない大型外国クルーズ客船が続々と登場している。ベイブリッジの海面からの高さ(クリアランス)は約55mで、パナマックスの最大高57.91mを下回っており、くぐれなければ横浜港「大さん橋」を活用できず、クルーズ客船の誘致合戦で後れをとって、外国船寄港数は九州地方の港を下回っているのだと。通過する事例でも、クイーン・エリザベスは、あらかじめ汐待ちして(干潮時間帯を狙って)ギリギリのクリアランスで通過したのだと。黒く見えるのが、『横浜大桟橋』。『横浜大桟橋』に寄港するためには『横浜ベイブリッジ』を通過しなければならないのだ。『横浜マリンタワー』をズームで。『赤レンガ倉庫』が前方右手に。奥から1号館、2号館。海上保安庁の埠頭には海上保安庁の船が停泊中。『あきつしま PLH32』は2013年に建造されたヘリコプター2機搭載型巡視船。全長 :約150.0メートル幅 :約17.0メートル総トン数 :約6,500トン主要装備 :40ミリ機関砲×2門 20ミリ機関砲×2門 遠隔監視採証装置 ヘリコプター×2機(スーパーピューマ225)配属先 :横浜海上保安部赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」。朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑と溶け合うような佇まいは、独特の歴史的雰囲気を創り出していた。そしてその先には『みなとみらい21』。『赤レンガ倉庫1号館』。左手に『PIER AKA-RENGA(ピア赤レンガのりば)シーバスターミナル』。『PIER AKA-RENGA(ピア赤レンガのりば)シーバスターミナル』案内板。赤レンガ倉庫1号館&2号館を海側より望む。『かもめハープ』。この作品は、一般社団法人横浜青年会議所の創立50周年(2001年)記念事業として公募されたデザインの中から選ばれた最優秀作品。かもめが横浜ベイブリッジの前を飛び去った瞬間にこのデザインを思いついた作品と。横浜ベイブリッジのワイヤーからハープを発想し、「かもめが横浜の音色を奏で、優しく育んでいる姿」をイメージしたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.09
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この日(8月24日(土))は、一日中曇天で暑さも30℃止まりであるとの天気予報であったのでブログ取材も兼ねて、久しぶりに急遽『港・ヨコハマ』の散策に出掛けたのであった。起床時間の流れで、地元の小田急線の駅を5:50に出発。土曜日でもあり、空いた電車に乗り込む。湘南台駅から横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り桜木町駅まで行く。地下道を桜木町駅前広場に向かって歩く。時間は6:30。エスカレータに乗り地上に向かう。そして桜木町駅前に。ーーがこの日・(その1)の散策ルート駅前にあった、昔の桜木町駅前の写真。『この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。』と写真右下部に。この姿は竣工当時の新橋停車場に酷似しているのであった。因みに、こちらが新橋停車場(復元写真)。 【https://www.sanko-e.co.jp/read/memory/kyu-shinbashi】よりこの塔の下部はその名も『獅子頭共用栓(ししがしら きょうようせん)』と呼ばれていたと。そう言えば、日本の水道事業は、明治20年(1887年)に横浜で初めて近代水道が布設されたことから始まったのだ。これは当時、外国の窓口であった港湾都市を中心に、海外から持ち込まれるコレラなどの伝染病が、水を介して広がり蔓延するのを防ぐことを目的としたもの。横浜に続いて、明治22年に函館、明治24年に長崎と、港湾都市を中心に次々と水道が整備されて行ったのであった。桜木町駅前のワシントンホテル。横浜港周辺地図・『横浜みなと 観光マップ』。横断歩道の近くに、このようなプレートが。かつて「東横浜駅」という貨物駅があったのだ。『ここに駅があった 大きな貨物駅だった 往時は六十五万トンが発着 多くの人が働き汗を流した ある時代は生糸だった ある時代は疎開荷物だった ある時代は進駐軍輸送 それに輸入食料だった そしてこの駅はいつの時代も 市民の生活とともにあった 一九七九年十月 この駅の使命は終わった かって日本の鉄道開業の 栄えをになった駅 追憶のなかに永遠 東横浜駅』帆を張った日本丸のマンホール蓋。久しぶりの『横浜みなとみらい』。『横浜ランドマークタワー』。『クイーンズタワー』、『パシフィコ横浜』、大観覧車『コスモクロック21』が見えた。『みなとみらい大通り』から山下公園方面を見る。左が『ザ・タワー横浜北仲』、右が『YCC ヨコハマ創造都市センター』。『北仲橋』からこれから歩く『汽車道』を見る。『北仲橋』。そして再び『横浜ランドマークタワー』。1993年7月16日に開業した70階建て、高さ296.33mの高層ビル。タワー棟を中心とするオフィス、ホテル、ショッピングモールを核に、展望フロアや多目的ホール、さらには石づくりのドックを復元活用した広場など、多彩な施設を併設している。2017年に国の重要文化財として認定された「帆船日本丸」。日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています海上で保存されている帆船としては日本初の国の重要文化財。全29枚の帆がすべて開く「総帆展帆(そうはんてんぱん)」や船でお祝いのときに国際信号旗を掲げる「満船飾(まんせんしょく)」も定期的に開催されるのだ。翌日が日本丸の帆をひろげる日であったのだ。汽車道の入口。ここはかつて貨物輸送の列車や旅客列車が走っていた場所で、明治44年(1911年)に開通した臨港線(通称 税関線)のレールの一部が残されています。その鉄道の廃線跡を利用して平成9年(1997年)に汽車道ができました。この遊歩道は両サイドが海で、ランドマークなど高層群の眺めが最高。『みなとみらい21 エリアマップ』。『開港の道』。開港の道(かいこうのみち)はJR桜木町駅前から横浜赤レンガ倉庫、 山下公園を経て、港の見える丘公園に至るルートの愛称。延長約3.2km。ルート上には、約500mごとに設置されている誘導サインと、約10 - 20 mごとに設置されている路面表示サインがあり、サインをたどっていくことで、迷わずルートを歩いていくことができるのであった。消えかかっている『汽車道』と刻まれた木柱。『汽車道』を進む。早朝散歩の方々が行き交っていた。1911年(明治44年)開通の旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡を利用し、その一部にあたる約500mの区間をレールも残した上で緑地として整備したもの。左手に、よこはまコスモワールドの観覧車、横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)が。『港一号橋梁』。ウィキペディアによると「1907年(明治40年)に、港2号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作されたトラス橋で、1909年(明治42年)に鉄道院により架設された。30フィートの鈑桁橋2連と100フィートのトラス橋からなる。複線相当の幅がある。2012年(平成24年)10月24日から2013年(平成25年)3月15日まで補修工事を実施している。」。当時の製作会社の『AMERICAN BRIDGE COMPANY』の銘板。ウィキペディアと同じ説明分が。更に馬車道を進む。クイーンズスクエア横浜のショッピングモール、シティホテルで構成される複合商業施設『クイーンズタワー』。クイーンズタワーは、左からクイーンズタワーA・B・Cと3つのビルに分かれている。再び、よこはまコスモワールドの観覧車、横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)。横浜のシンボルとしての顔を持つ大観覧車「コスモクロック21」は、全高112.5m、定員480名の世界最大の時計機能付き大観覧車。約15分の空中散歩では、昼は360度の雄大なパノラマを、夜は宝石をちりばめたような美しい夜景を楽しめるのだと。再び『ランドマークタワー』。『港二号橋梁』を渡る。『港二号橋梁』からの『ランドマークタワー』を。こちらも『港一号橋梁』と同じで、アメリカン・ブリッジ・カンパニー製作のトラス橋。100フィートの複線トラス橋。港1号橋梁と同年に製作された。さるすべり(百日紅)の紅い花を背景に。前方に『ナビオス横浜』そして運河を隔てた場所に『アパホテル&リゾート横浜ベイタワー』ビルが。『港三号橋梁』。1、2号とは造りが違うのであった。元は1906年(明治39年)に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィートトラス橋と1907年(明治40年)に架設された総武鉄道江戸川橋梁の2基の100フィートトラス橋であり、1928年(昭和3年)に横浜生糸検査所引込線の大岡橋梁として転用された。現在は夕張川橋梁のトラスの一部が再移設され、プロムナードに沿って保存されている。1号・2号橋梁と異なりイギリス製であり、トラスの高さが低くなっている左下に『運河パーク 観光船乗り場』が。みなとみらい21地区とピア運河パーク、ピア日本丸と中華街・山下公園そばのピア象の鼻、ピア大さん橋を海から結び、カジュアルに横浜の海を楽しめる水上バスの発着場所 。『水上バス航路航路・乗り場アクセスマップ』。再び『ランドマークタワー』、『クイーンズタワー』を振り返る。『横浜ワールドポーターズ』の正面エントランスが左手に。ショッピングセンター。1999年(平成11年)9月10日開業。略称はワーポ。 ・・・つづく・・・
2019.09.08
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更に片瀬龍口寺の幻想の竹灯篭を楽しむ。刻々と色の変わる本堂のライトアップ。カメラの設定を変えて、本堂屋根、五重塔を再び。本堂前の階段を上がった場所には花燈籠が揺らめく。ズームで。本堂のライトアップの変化と幻想的な竹燈籠をしばし楽しむ。ズームで。撮影モードを変えて。接写で。本堂右脇の白壁にはこれも幻想的な姿が。「令和」や「2019年」の灯籠文字が描かれて、インスタ映えスポットで多くの人が。2019と。写真ではチョット解りにくかったが。日蓮聖人像。ズームで。更に。左手に法華経の巻物、数珠を持つ日蓮上人。竹燈籠の総合芸術。富士山と琵琶を持っている弁財天であろうか?花、葉、並・・・・。ズームで。鐘楼(延寿の鐘)。鐘楼前の竹灯籠を。本堂の屋根の色の変化を楽しむ。日蓮上人も刻々とお色直し?大書院の前には、青竹に施されたアート作品が飾られて、竹美術広場となっていた。正面から。向日葵それとも太陽?多くの大小の孔をドリルで開けている姿を思い浮かべながら。こちらは花燈籠。そして上空には三日月が。周囲には向日葵も。更に近づいて。竹灯籠の螺旋階段の如きアイデア作品。ズームで。設定を変えて接写。竹の中を覗いて。最後に和の美しさを魅せる竹灯篭をズームで。かぐや姫が出てきそうな??幻想的な世界。竹灯篭の火の揺らめきを楽しみながら。そして一方通行で境内を進み、再び仁王門前に戻る。仁王門前の左手の広場は屋台コーナーに。『日蓮大聖人龍ノ口御法難之霊場』。お父さんとフランクフルトに並ぶ子供たち。テーブルではビールを楽しむ人々の姿が。仁王門を拝啓に。そして江ノ電・江ノ島駅への帰路に。歩道には、これも美しい模様の燈籠が。そして江ノ島駅に。駅舎正面もライトアップされて。江ノ電路線図。藤沢駅から鎌倉駅まで15の駅を約35分でと、いまさらながらに。藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。303の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの。ジオラマや展示スペースも。そして鎌倉行きの電車が向かいのホームに。『セーリング日本代表「日の丸セーラーズ」』の文字が。「日の丸セーラーズ」はセーリング競技日本代表の呼称。日本セーリング連盟(JSAF)と共に、ここ江の島で開催される2019年江の島大会(2019年8月25日~9月1日)ワールドカップと、2020年の東京オリンピック・セーリング競技を盛り上げるラッピング車両。 そして仁王門から五重塔までの龍口寺境内に、青竹の竹灯籠が5000基ほども灯されていた幻想的な竹灯籠の光景を十二分に楽しんでの帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・
2019.08.21
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この日・8月4日(日)は、自宅から電車で40分ほどの片瀬・龍口寺で行われる『竹燈籠』を見に行って来ました。藤沢駅高架橋通路からの夕焼けの富士山の姿。時間は18:40過ぎ。江ノ電・藤沢駅に向かう。運良く江ノ電電車がホームに入って来ていた。ホーム入り口の花時計。『第9回 龍の口 竹灯籠』のポスター。ポスターの裏側。『龍の口竹燈籠』申込書が裏面に。そして江ノ電で江ノ島駅に向かう。境川の鉄橋を渡る。そして江ノ島駅から徒歩にて龍口寺に向かう。龍口寺前の三叉路を鎌倉方面に向かう江ノ電電車。そして龍口寺仁王門。日蓮上人法難の地、『日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺』この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では『龍ノ口法難』と呼ぶ。鎌倉幕府の反感を買った日蓮聖人が捕えられこの場所へ連行された。処刑直前、江の島の方から光の玉が飛んできて斬首役人の目をくらませたとか、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたとも伝えられる。結局、処刑は中止になった。龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人以外誰もいないとされている。境内には連行された折に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残る。日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法上人は、この霊蹟を保護する為に寂光山龍口寺と称し草庵を結んだ。延元ニ年(1337)自ら刻んだ日蓮像を安置する寺を創建した。のち六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)らが協力して、延文二年(1357)に豪荘な伽藍の大寺を建立したのである。『龍乃口』と書かれた扁額。仁王門の仁王像(阿形像)仁王門の仁王像(吽形像)。竹灯籠 受付。1000円/基で竹灯籠の奉納が出来るようであった。龍口寺 境内図。山門への階段の両脇にも竹灯籠が並ぶ。そして山門へ。山門の扁額は『龍口寺』。山門を潜ると境内には、灯りの灯った竹灯籠が一面に。 仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約5000基が並べられていたのであった。本物のロウソクを使った灯籠が、地面に敷き詰められていたのであった。電気の明かりとは一味、いや二味も違う幻想的な光景。 その先に本堂と五重塔が。まだ上空は薄暗く。幻想的な竹灯籠をカメラで追いかける。亡くなられた方々を偲ぶと共に、私たちの心に灯った明かりを消すことなく未来も照らせるようにと祈る姿が。そして未来への灯火は 決して自ら消すまいとも 。山門の見事な彫刻を振り返る。心休まる光景が拡がっていた。右手に手水舎。階段上の本堂が様々な色にライトアップされて。竹灯籠の灯りをズームで。大書院前の竹灯篭を境内側から。後ろの丸い穴から、それぞれロウソクを入れる事が理解できたのであった。しばし辺りが暗くなるのを待つ。本堂と五重塔と竹灯籠の美。カメラの向きを変えて。本堂への階段の両側には和紙燈籠には奉納者の名前が書かれて。そして本堂前へ。刻々とライトアップされる色が変わって行った。ロウソクの灯りに癒される空間と時間。回り階段の如き竹灯籠と本堂。幻想的なライトアップと 繊細な細工の竹灯籠。そして五重塔に向かう。神奈川県には3つの五重塔がある。他の2つは鉄筋コンクリート造。龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。明治43年(1910年)竣工。一辺4,5m。白木。 総欅造。建造には竹中工務店が携わった。全国的にも数少ない明治期の五重塔和様を基本とし、組物には唐様を取り入れる。5重は扇垂木。中備には近世風な彫刻を置く。法華題目が本尊とのこと。五重塔も微妙に色を変えて。私もいろいろとカメラの設定を変えてみたが。五重塔内部。斜めから。五重塔の後は坂を下り本堂内部へ。本堂内部ではコンサートが行われていた。ケーナ(quena)演奏の山下孝之×ソプラノ鳥井麗香×辻賢のユニットらしい。ケーナ(quena)は、南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)であると。鳥井麗香さん辻賢氏のチャップマン・スティック(Chapman Stick)演奏。 ・・・つづく・・・
2019.08.20
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更にビッグプレミアムスターマインがつづく。時間は20:13そしてオランダ風車「リーフデ」の後ろから水上花火が。下から半円形に広がるのは水上スターマイン。水上スターマインが続く。そして特大スターマイン。特大スターマインが続く。尺玉以上になると、花火の大きさもさることながら音が断然違うのであった。腹に響くようなその音が、花火の広がりから遅れること無く直ぐに聞こえる場所で見れるのは最高なのであった。佐倉のFさんに今年も感謝。フィナーレは県内最大・二尺玉の打ち上げ。 二尺玉は、直径が約60センチで、打ち上がると直径が500メートルほどに広がるのだと。 二尺玉が打ち上げられる花火大会は関東では数少なく、印旛沼湖畔から打ち上がる ダイナミックな花火は圧巻そのものであった。目と耳と腹、身体全体で味わう二尺玉の迫力!オランダ風車に降り注ぐ火花。そして20:30近くになり『佐倉花火フェスタ2019』も終了。混雑を避けるためにしばし、帰りを遅らす為の待機。そして、花火にはつきものの会場帰りの渋滞にハマりながらも臼井駅に向かって歩く。今年も佐倉の花火👈リンク を大いに楽しませていただきました。楽しい時間はあっという間。家族全員でいることの楽しさを感じながら、そして一生懸命に歩く孫たちの姿を見ながらの帰路であった。佐倉の地でF家、K家の絆の「花火」も大いに咲き誇ったのでした。『家族の集い』はこれぞ『幸せの絆』!!Fさん、今年もご準備ありがとうございました。 ・・・完・・・
2019.08.19
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シャッターを押す手を休める暇もなく次々に豪華な花火が、時間は19:48。10号玉(1尺玉)が連続で。冠スターマイン。俗に柳(やなぎ)と呼ばれる打ち上げ花火で、豪華な金色に輝く火の粉が連続で降り注ぐ。そしてビッグプレミアムスターマインのスタート。様々な色の花が今年も開く。夏の風物詩といえば打ち上げ花火。この時期、全国津々浦々で花火大会が開催されており、多くの人々が楽しむイベントとなっている。もっとも歴史の古い隅田川花火大会は、100万人近い観客を動員しているし、そのほか、東京では江戸川のエキサイティング花火大会の人気が高まっている。また、大阪でも天神祭りの奉納花火に130万人もの観客が集まっている。北は北海道の道新納涼花火大会、南は沖縄の浦添てだこまつりと、全国で毎年1000前後の大会が開催されているようだ。現在見つかっている資料から考察して、私たちが見ている打ち上げ花火に近いものを初めて見た日本人は、徳川家康と考えるのが定説らしい。『駿府政事録』の中に「二之丸立花火」の記事があり、英国王ジェームズ1世の使者のジョン・セーリスが、駿府城で披露したと伝えられているのだと。江戸時代になって戦がなくなり、火薬の使い道が激減すると、火薬屋たちは花火を扱うようになる。日本最古の花火大会である、隅田川花火大会が始まったのは、享保18年(1733)。当時は「両国川開き」と呼ばれていた。このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火業者である鍵屋で、万治2年(1659)に売り出した玩具花火のヒットで、繁盛していたという。約150年後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋。これ以降は、両国の川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、ライバルとして、さらに発展したようだ。しかし、江戸庶民が見ていた花火は、現在のように様々な色のあるものでなく、白っぽいものだったらしい。マグネシウムなどの金属粉を利用した、色鮮やかな花火が登場するのは大正時代になってからで、現在では炭酸ストロンチウム(赤)や硝酸バリウム(緑)、タンサンカルシウム(黄)、酸化銅(青)などを組み合わせ、さらに華やかな花火が生み出され続けているのだと。しかし花火は、ただ美しいだけのものではない。日本人にとって火は、鎮魂の意味を持つのだ。意外に思われるかもしれないが、お盆の迎え火や送り火を思いだせば、納得がいく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.18
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今年も、8/4(土)に長女の嫁ぎ先のご両親から、「佐倉花火フェスタ 2019」へのご招待をいただきました。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。嫁いだ長女家族もこの日はこのホテルに宿泊。長男は海外出張中のため今年は長男家族は不参加となりました。そして、チェックイン後7Fの部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。17時過ぎに臼井駅で合流し、総勢13名で花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。臼井駅にあった今年の「佐倉花火フェスタ 2019」のポスター。印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場周辺)で19:00~開会。毎年8月の第1土曜日に開催されており、夏の風物詩イベントとして定着。総打上数20,000発ビッグプレミアムスターマイン8,000発、二尺玉4発、尺玉30連発、手筒花火、 水上花火などの花火大会であると。そして準備していただいていた席に到着。本格的オランダ風車「リーフデ」が目の前の座席。準備頂いた私のチケット。佐蘭花 (オランダ風無料休憩所、売店、トイレ)前には貴賓席、招待席が並んでいた。佐倉市民の楽団が演奏中。『花火大会会場まで行けない人集まれ!』のポスターが。ビールを飲みながらCATVで花火フェスタの生中継を見られると。4本のポプラの木の後ろもオレンジ色に染まって来た。佐倉市長・西田三十五氏の姿も。手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。今年4月21日執行の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの新市長であるとFさんから。真っ赤な太陽が沈んで行った。ズームで。オランダ風車「リーフデ」も花火を待つ。そして開催セレモニーも間近に。上空には成田空港を離陸した旅客機の姿が。日も沈み、辺りが暗くなり始めた。そいて準備していただいた弁当を楽しむ。様々な巻き寿司が美しく詰め合わせて。あっという間に平らげたのであった。上空には眉月が。そして開催セレモニーも終わり、花火大会のスタート。時間は17:02過ぎ。まずは、恒例の手筒花火のスタート。席を離れて、手筒花火に近づいて。手筒花火は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火。打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと10数mにもなるのであった。5本の手筒花火が一斉に。そして火柱を勢いよく。今度は7本が一斉に。火柱の高さは10m以上にも及び豪快な柱が一瞬で夜空を彩ったのであった。筒の底が抜けて揚げ手の足元で爆発しておこる、轟音と広がる炎は最大の特徴。白煙がモウモウと。風車にも灯りが灯り。そして佐倉市長も手筒花火を。ズームで。市長の勇姿をうまく撮ることが出来ました。そして小スターマインのスタート。カメラにリモコンシャッターを繋げ花火を見ながらシャッターを押し続ける。10号玉(1尺玉)も上がり。芯菊の輝き。シャッターのタイミングが・・・。更に大、中、小のスターマインが次々に。高圧線鉄柱の直線と花火の曲線がBEST MATCHIして。ナイスタイミング!!。 ・・・つづく・・・
2019.08.17
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この日(5月23日)の旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)を完歩し、前夜に宿泊したホテルの提携駐車場で旅ともの愛車に乗り換え、この日のJR鷲津駅前のホテルに向かう予定であったが、時間が早いため、浜松市内の遠州灘に面した『中田島砂丘』を途中、車で訪ねた。馬込川河口にある『風車公園』の無料駐車場に車を駐める。回転はしていなかったが、大きな風車が迎えてくれた。ここは『遠州灘海浜公園』の一つ。『遠州灘海浜公園』には3箇所の大きな公園があり、愛称を公募し、そsれぞれ風車公園、石人の星公園、凧場公園に決定したとのこと。 【http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-ennsyuu/ennsyuu-kahinn.htm】よりここ風車公園には中田島砂丘あり、築山から馬込川河口や遠州灘を望むことが出来た。その砂丘には風と砂が生み出す「風紋」も見られ、また海浜植物が自生する恵まれた環境の中に位置していたのであった。。『海岸までの歩行者通路』案内。今は話題になっているプラスチック問題を提起しているガイド板。そしてこの『中田島砂丘』は、夏にはアカウミガメが産卵のために上陸すると。産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流されるのだと。およそ『中田島砂丘』12kmが文化財(天然記念物)に指定されているのだ。また砂丘という環境からハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られると。アカウミガメの囲いの中の『ハマヒルガオ』。近くに生えていた『コウボウムギ』。砂丘を上っていく。旅友のSさんは、カメラの電池切れとのことで電池交換のために駐車場の愛車まで戻る。鳥取県の鳥取砂丘ほどは広くないが、正しく『砂丘』。ここ中田島砂丘には、写真のごとく『堆砂垣(たいさがき)』と呼ばれる施設があった。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。 近隣の静岡県立浜松江之島高等学校や、市内の郵便局、ボランティア団体等が毎年設置していると。急な砂丘の斜面をひたすら登って行った。横には『堆砂垣』が。そして砂丘の頂上まで辿り着くと、前方には真っ青な遠州灘が拡がっていた。左手奥には『浜松市 南部清掃工場』が。登って来た砂丘斜面を振り返る。海岸には親子であろうか、カップルであろうか二人連れが。白波が打ち寄せて。時々、大きな波も。浜松市内方面の眺望。浜松アクトタワーが聳え立つ。そして漸く旅友が戻って来て砂丘を必死に登る。私は美しい貝殻を拾う。クレーターの如き形状の場所も。そして帰路に『風紋』を発見。東西4km、南北600mにわたる中田島砂丘は、日本三大砂丘のひとつとも。遠州灘から吹く強い風によって生み出される「風紋」は一見の価値あり。連続するやわらかな曲線は、まさに風の芸術。砂丘を越えるとどこまでも続く太平洋が広がり、水平線に沈む夕陽の美しさは格別なのだと。『中田島砂丘』を後にし、国道1号線に向けて進む。そして国道301号線に入り浜名湖を渡る。弁天島に架かる『中浜名橋』からの国道1号線『浜名大橋』。そして中浜名橋を渡り『湖西市』に入る。『西浜名橋』を渡る。右手前方にオレンジ瓦の白の如き建物が。そして鷲津駅前のこの日のホテルに到着。部屋からの浜名湖の眺め。浜名湖の浜松方面。 ・・・つづく・・・
2019.06.21
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小田原城を後にし、二宮町の旧東海道を走りながら、以前も訪ねた寺『等覚院』を訪ねた。所在地: 二宮町山西793この写真は、前回訪れた時の写真。『本堂』。山号、梅沢山東光寺。別名、藤巻寺ともいわれる。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。境内の『六地蔵』。『鐘楼』。『歴代住職の墓』。『三猿』が刻まれた墓石。等覚院は別名、藤巻寺ともいわれ、藤の花が人気の寺。この日は既に花は完全に終わっていたが、同行の旅友Sさんは、4/29(月)に藤の花を見にこの寺を訪ねていたのであった。その時のSさんがブログにアップしためずらしい白い藤の写真。そして境内のアジサイ(紫陽花)の花を此処でも楽しんだのです。八重咲きのガクアジサイ。こちらも八重のガクアジサイ。緑色のアジサイ。そして次に訪ねたのが、中井町にある『厳島湿生公園』。ここ厳島湿生公園は県下でも稀な清水が出ている湿生地を復元し保全することを目的に整備された公園。湧出量は一日およそ2600トンにも及ぶと。駐車場にあった案内板。厳島湿生公園は、湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全しており、相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっています。湿地には、ホタル、カワセミ、ホトケドジョウなど、水辺に集まる希少な生き物が生息しており、園内を巡る木道や散策路からは、四季折々の草花など楽しむことができます。公園中央の厳島神社は、古くから地域の方々に「弁天様」と親しまれており、弁天様やホタルにまつわる民話が今も残されています。『厳島湿生公園案内図』。『花マップ』パンフレット。『厳島湿生公園 花マップ』。湿生地を巡る木道400m・休憩広場・芝生広場・東屋・トイレなどが整備されていた。アブラハヤ、シマドジョウ、ホトケドジョウ、シュレーゲルアオガエルなどの希少な生き物が確認されていると。池の上には木道がきちんと整備されていた。木橋の前方に「弁天さん」として地域の方々に親しまれている『厳島神社』の朱の鳥居が。扁額『厳島神社』。『拝殿』。「厳島神社(いつくしまじんじゃ)この神社は、文化4年(1807年)に建てられ天保11年(1840年)、安政4年(1857年)及び昭和62年(1987年)に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869年)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、祭日は4月16日であったが、現在は、蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧き出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水しかいない小動物が、今でも生息する湿原である。」 『私たち、住み替えます 成長とともに住かを変える公園の水棲動物たち』「この公園には大きくなるにつれて、住む場所を変えてゆく水棲動物がいます。ホタルやトンボの幼虫は水中で生活するので、水棲昆虫と呼ばれています。ホタルの幼虫はカワニナを、トンボの幼虫ヤゴはミジンコや蚊の幼虫、小魚などをエサとしています。彼らは、脱皮を繰り返して成長します。両方とも成虫になると空を飛びます。カエルはオタマジャクシのときは水中で生活しますが、成長して尾がなくなり四本足となって水中や陸上で生活するので、両生類と呼ばれます。」睡蓮が群生する池、しかし花の姿はまだ無かった。『中井町 厳島湿生公園 周辺あんない』。このユニークな石の彫刻は、中井町民の彫刻家・高田 大(たかだ・だい)さんの作品。タイトルは「水の妖精」。ちなみに、ここは湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全している公園で相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっていると。池の中には、野鳥の止まり木が置かれていた。ここに止り羽を休めたり、池の魚を狙うカワセミ(翡翠)等の野鳥を、『鳥撮り』が大きなカメラを3脚に乗せてひたすら待つのであろう公園内に掲示されていた、止まり木のカワセミ(翡翠)の写真。5月にはゲンジボタル、6〜7月にはヘイケボタルの観賞を楽しむことができると。木製のベンチに座り一休み。二宮で合流された元同僚・先輩のOさんが、「近くの食品館あおば 中井町店」で寿司弁当とビールを調達して来てくれ、これを3人で楽しんだのであった。我々、車を運転しない二人は缶ビール、運転する旅友Sさんはノンアルコールビールを楽しみながら寿司弁当を平らげたのであった。Oさん、ご馳走になりました!!近くにあったキンシバイ(金糸梅)の黄色い花。「キアゲハ」の幼虫を発見。「トカゲ」も。ピンボケになりましたがこの透明な羽のトンボの名は?ルリイトトンボだったのでしょうか?数年前に別の場所で撮ったルリイトトンボの写真を紹介します。そして、ネット情報によると、毎年、この厳島湿性公園では『竹灯篭の夕べ👈リンク』が開催されていると。2019年の竹灯篭の夕べは5月25日(土)に開催されたとのこと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】より竹林整備によって出た竹を「灯篭」にして厳島湿生公園に並べ灯りをともし、その幽玄な雰囲気を楽しむイベントで、竹林再生事業の一環として平成18年度から始まり今年で14回目の開催。会場内は、灯篭の火の揺らめき、水面に映る景色などが幻想的な雰囲気を醸し出し、来場者を魅了したと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】よりそして帰路は、明治末から昭和初期まで稼動していた湘南軌道(しょうなんきどう)の線路跡に出来た道路を進む。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、1927年(昭和2年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止されたと。通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在二宮町二宮)~井ノ口村(現在中井町井ノ口)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりと。下図の赤い点線部分が軽便鉄道・湘南軌道の線路が通っていた場所。湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れていたとのこと。葛川(くずかわ)沿いを二宮駅に向かって南下。そして二宮駅まで路線距離は最終的に10.0kmであったと。『湘南軌道』の歴史をウィキペディアより。・1906年(明治39年)8月1日発起人を集め湘南馬車鉄道として秦野 - 二宮間開業 (9.0km) 開業当初は馬車鉄道であった。当時の発起人は秦野市、二宮町、中井町など沿線の有力者を もって行われた。なお、発起人に名を連ねた人物には国会議員の伊達時や慶應義塾出身の 山口(旧姓高橋)喜十郎など福沢諭吉の知己を直接得ている人物が存在する。 また、伊達時および山口喜十郎は伊勢原市に存在した自由民権運動の団体「湘南社」に 深くかかわっていた。・1913年(大正2年) 2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更 2月24日 湘南軽便鉄道に改称・1918年(大正7年) 経営難により一時休止、その後経営移管され湘南軌道となる・1923年(大正12年)9月1日 関東大震災により被災・1924年(大正13年)3月 秦野駅(初代)を台町駅に改称、 秦野(2代目) - 台町間開業 (1.0km)、全通・1927年(昭和2年)4月1日 小田原急行鉄道開通・1929年(昭和4年)8月14日 乗合自動車運行開始[5][6]・1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる・1935年(昭和10年)10月9日 秦野 - 二宮間全線営業休止・1937年(昭和12年)8月25日 秦野 - 二宮間全線廃止 (-10.0km)『当時の駅・敷設・接続路線』をウィキペディアより。・路線データ (廃止時点のもの) 路線距離(営業キロ):10.0km 軌間:762mm・駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし(全線非電化)・駅一覧 秦野駅※ - 台町駅 - 大竹駅 - 上井ノ口駅 - 下井ノ口駅 - 一色駅 - 中里駅 - 二宮駅 ※湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、 現在の小田急秦野駅からは離れている。以下の古い写真は『湘南軌道👈リンク』からのものを利用させていただきました。『湘南軌道 二宮駅』の当時の写真。創業当初は、鉄製のレールの上を走る客車を馬に引かせる馬車鉄道であったと。『省線二宮駅構内を進行する湘南軌道の蒸気機関車。』1913年(大正2年)2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更されたと。大正13年(1924)頃の古写真「湘南軌道株式会社・二宮本社屋」『2号機関車』。そして『下井ノ口停留所跡』。湘南軌道下井ノ口停留所付近は若干昔の名残で商店等があったが。写真を撮るOさんは二宮に50年以上お住まいだが、この湘南軌道についてはご存じなかったのであった。『一色停留所跡』。一色駅(いしきえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町一色に在った駅。『中里停留所跡』。中里駅(なかざとえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町中里にかつて存在した湘南軌道の駅。今まで、この湘南軌道の存在については、全く知らなかった私。今回、中井町にあった『厳島湿生公園』を訪れ、その存在を知り、帰路にその路線上に出来た道路を走り、またネットで調べこのブログを書きながら大いに学ぶことが出来たのであった。
2019.06.13
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花菖蒲園を後にし、常盤木門を目指して常盤木橋を渡る。常盤木橋からハナショウブ園を見る。右手に『常盤木門』と刻まれた石碑が。『小田原城 常盤木門』。「小田原城 本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていた。常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえてこの名がつけられたと言われている。市制30周年事業として、昭和46年(1971)に再建された。」こちらにも案内板が。小田原城は江戸時代だけでも地震や火災で3度大きな被害を受けているのだと。常盤木とは常緑樹の意味とのことで、門の傍らに植えられている松が何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたと。『常盤木門』。江戸期小田原城の中でもっとも堅固な門で、本丸正面に位置します。多門櫓と渡り櫓から構成される枡形構造の門で、上の写真の如く江戸時代初期の古地図にも描かれています。現在の常盤木門は昭和46年に市政30周年を記念して再現された。原型は元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に再建されたもの。『常盤木門』を潜り本丸跡へ。正面に勇壮な『天守』が。小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなっていると。大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守となっている。これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮だと。天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70m。ちなみに5重天守の設計図と雛形の模型もあるのだと。これは江戸時代の震災後の修復の為に書かれたものらしいですが、幕府への配慮からか結局5重天守は小田原城に造られることはなかったのだと。『本丸跡』案内板。「最初の戦国大名」はいかにして関東を制したか 伊勢宗端(いせそうずい)。伊勢宗端とは北条早雲のこと。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義があると。『小田原城常盤木門売店』の壁にも北条早雲が。『小田原城常盤木門売店』。天守を背景にした記念撮影のスポットには『令和』の文字が。江戸時代、小田原城の初代城主となった大久保忠世の家紋は上がり藤に大の字・「大久保藤」。我が実家の家紋は大のない『上がり藤』。本丸を後にし、小田原城正面入口に向かって下る。『イヌマキ』の巨木が前方に。『小田原城跡のイヌマキ』。「所在 城内三ー二二 樹相 目通り幹囲 四.五メートル 株元周囲 約六メートル 樹高 約二十メートル 枝張り状況 東西二十五メートル 南北十三メートルイヌマキは関東南部以西のの海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。 この木は、幹回り四・五メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上五メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ蜜に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。 しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 」再び『銅門』まで戻る。『銅門(あかがねもん)』銅門は、小田原城二の丸の表門にあたり、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸主部へと通じる大手筋に設けられた桝形門です。銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。江戸時代前期に稲葉正勝が城主となった時期に行われた普請の中で銅門も築かれたものと考えられています。銅門という名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。『銅門』の「渡櫓門(わたりやぐらもん)』を潜ると見えてきたのが『内仕切門(うちじきりもん)』。『内仕切門(うちじきりもん)』を潜り『住吉橋』を渡る。木製の『住吉橋』そして『内仕切門(うちじきりもん)』を振り返る。正面に見えるのが『観光案内所』。『馬家曲輪』。城址公園の南側に位置する馬屋曲輪は、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸からは馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り銅門へと続きます。江戸時代では登城者に対しての番所として機能していたようです。馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、曲輪(お城の区切られた敷地)の外周は土塀と石垣で覆われていました。又内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。『内冠木門(うちかぶきもん)』。『馬出門(うまだしもん)』『馬出門土橋』を渡る。『馬出門土橋』から『馬出門』を振り返る。そして駐車場に戻り、車で『小峯御鐘ノ台大堀切』に向かう。小峯御鐘ノ台大堀切は小田原城本丸から近い順に東堀、中堀、西堀の3本の堀が並び、これまでは東堀と中堀が散策可能でした。大堀切西堀では雄大な空堀と土塁が残り、小田原城の最も外側に展開する堀や土塁からなる総構と西堀が接続している様子や、小田原城の広大さを観察することができます。東堀の堀底は遊歩道として公開されていたのでここを歩く。『小峯御鐘ノ台大堀切東堀』大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀であると。『小田原を守った総構と三本の堀切』。小峯御鐘ノ台大堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたものです。この遺構は、慰霊塔側にある東堀、現在は道路になっている中堀、西側にある西堀の三本の空堀で構成されています。当時の様子が最も良く残っている東堀は幅が約20 ~ 30m、深さは土塁の頂上から約12m あり、堀の法面は50 度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。巨大な大堀切。大堀切をふたり占め。そして日蓮宗・蓮船寺を訪ねた。『本堂』。小田原七福神の『大黒様』。寺の前の広場(発掘跡か?)にいたのはは烏骨鶏(ウコッケイ)?そして、純白のテマリ咲きアジサイが。
2019.06.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新金谷駅を後にして、次の目的地は静岡県掛川市上土方嶺向にある『高天神城跡』。国道473号線を走り、JR金谷駅前を通過し右手に旧東海道石畳(金谷坂)を右手に見ながら坂道を登っていく。途中車を駐め、大井川そして県道381号線に架かる大井川橋を見下ろす。静岡『空港入口』交差点を直進。此処を左折すると静岡空港へ。私が日本国内で利用したことのない数少ない空港の一つ。そして茶畑の中を30分ほど走ると左手に『高天神城址(たかてんじんじょうあと)』と書かれた案内板が。後ろの山が鶴翁山と言われ、山全体が『高天神城址』であると。標高132メートルの鶴翁山の北麓に到着。ここは高天神城の搦手側にあたり、ここから整備された登山道が山頂まで通じていた。鶴翁山の裾野に在った大きすぎる?駐車場に車を駐め散策開始。搦め手門跡には『高天神城想像図』が二つの峰を真ん中で繋いでいた。「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城。標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。 兵(つわもの)どもが夢の跡。うっそうとした杉や檜に覆われた昼なお暗い石段は、木漏れ日の光と影の中、戦国ロマンを抱いて、静かに時を重ねていた。城跡は国の文化財に指定。平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定された。『武田勝頼が開城させた「難攻不落の名城」高天神城跡』。『続日本1004名城スタンプラリー設置場所案内図』。スタンプはここにはなく、『大東北公民館』内にあると。『郷社高天神社(たかてんじんじゃ)』石碑。高天神社は、静岡県掛川市下土方嶺向にある神社。高天神山の山頂付近に立地する。『郷社高天神社』石鳥居。高天神城城への道は西の峯に鎮座している高天神社の参道にもなっており鳥居を潜り進んで行く。その前に鳥居の右側には広場があり石碑が建っていた。説明板によると赤堀磯平と言う方の顕彰碑のようであった。お茶に関係した方のようであった。そういえばこの城の周りは茶畑が一面に。『史跡 高天神城跡』石碑。ここから東峰の本曲輪跡までは階段を200段以上?登って行ったのであった。『高天神社境内案内図』『高天神保健休養林案内図』。高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」。まさに松本亀次郎の「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」の通りですが、私的には「2つの羽を広げて空を飛ぶ鶴」型というより、「クランク」状、「Hの字」型。『搦手門跡』と書かれた木柱が右手に。その奥に杖も用意されていた。『搦手門址』。「この城は、1つの城に曲輪が2つあり、一城別郭の敷と言われている。東の曲輪は、この城の「うり」である。大河内政局(まさふさ)の石牢があります。また、西の曲輪には武田氏が補強のため造った横堀といくつかの切割(尾根を切る)の跡が残っています。」『搦手門』「城の裏門に当たり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正二年にかけて、渡辺金太夫照が大将として城兵二百十余騎を率いて守備した所である。」渡辺金太夫照は渡辺金太夫信重ともいい、姉川七本槍 の一人。下土方村(城東郡の大字)を領した。城の裏門に当たるこの搦手門は、元亀から天正二年にかけて徳川方の渡辺金太夫が守備していたと。落城後、金太夫は武田氏に仕えた。衰亡する武田氏に対して金太夫の忠誠は変わることなく、最期は甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。比較的緩やかな階段を右に左に登っていく。周りの崖には堆積してできた縞模様が見られ、この山は大昔海の底だったのではないかと。そして道の突き当りの崖の所・左手に『三日月井戸』が。天正二年の七月に武田側によって作られたと云う『三日月井戸』。城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。井戸と言うより小さな水たまり?しかし山城に水は貴重な物であり、これは湧き水の様であったが大切な施設であったこと間違いなし。上方から見下ろすとなるほど『三日月井戸』。岸壁に沿うように造られた井戸で、誰が入れたのか金魚が何匹か泳いでいた。三ケ月井戸を超えたあたりから石段から丸太の階段に変わり、勾配も少し急になって来た。『高天神城跡略図』再び『高天神保健休養林案内図』。そして階段を登り終えると、高天神社境内に入り狛犬が迎えてくれた。二頭の牛も迎えてくれた。「天神社」(天満宮)=「菅原道真」。死した不遇の道真の怨霊が雷神となって、清涼殿への落雷他天変地異の数々、それらが「天に満ちた」ことからその名となったのだ。右に尾白稲荷、左に『かな井戸 井戸曲輪跡』。『尾白稲荷』。「最後の戦い(天正9年)の後に城山に『白い大きな動物がいるらしい』という上方が入った。城主の叔父に当たる小笠原氏義が武士をやめ農民になっていた(帰農)が弓矢の名人であった。この事から、その者が射ると白い尾の狐だった。それを家康に報告した所、以後『尾白と名乗れと言われた。』と言い伝えられている。その後、御子孫が先祖の供養のため祀っておられる。」「由来 今から、千六百年余り前、この高天神に地の神、護国長寿の神として降臨。その後、当山での修験者「藤原仙翁」を下僕として附近一帯を守ってこられました。戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがために、賞金を付けてのお触れが出され、ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を、三の丸の大将小笠原與左衛門(強弓の師)に射止められました。與左衛門は、褒賞を得、性を「尾白」と改めてきたものの、以後、高天神は魔の山として恐れられるようになりました・・・・。神通力を奪われ、四百有余年間、このたび、高天神社の祭神、菅原道真公、また、藤原仙翁、大河内政局、四坊僧のお力添えを得て、目出たく、此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の同意により祭祀されることになりました。大変な神通力がある故、商売繁盛、縁談、難病諸病は勿論のこと、真心を以っての合掌には後霊験あらたかです。」前方を右に進み、坂道を登って行き、北へ回り込むと二の丸、袖曲輪があり、西下へ降りていく虎口がある。ここから北へ伸びた細い尾根には堀切で遮断された堂の尾曲輪、井楼曲輪があり、いずれも西下にある長大な横堀に面して土塁を設けており、見所の一つであるとのことであったが・・・・。しかし、この日はこれ以上、高天神城跡は目指さず、左手の高天神社社殿へ。『高天神城合戦将士英魂之碑』。『かな井戸 井戸曲輪跡』。井戸曲輪にあり高天神城内にある二つの井戸のうちの一つ、名の由来は不明だが、湧き出る水が鉄(かな)分を多く含んでいるためとも言われる。武田軍が高天神城攻めの際井戸の水脈を切ったためとも言われ、そのためか今は水は出ない。一説には篭城方のお姫様が落城時に身を投げて自害したとも言われる。『かな井戸 井戸曲輪跡』の奥に高天神社の二ノ鳥居と階段が。『この付近は、東西の曲輪の中央で、馬の背にあたる所で、激しい戦いが行われた場所と言われている。井戸の「かな」の表示は、鉄分が含まれているとか・・・。右方向に進むと、武田方が造った横堀、切割が確認できる。』『高天神社』二ノ鳥居と階段。『高天神社』。御祭神は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)天菩毘命(あめのほひのみこと)菅原道真公(すがわらみちざねこう)の3柱を祀っており、社名の「天神」も天神である菅原に由来すると考えられると。階段を上っていくと、『西の丸跡』という杭が建てられていてその後ろには御神木が。つまり元々はここは西の丸。西の丸は岡部丹波守真幸が守っていた時期があり、丹波曲輪と呼ばれてもいたそうです。ちなみに岡部丹場守真幸(元信とも言われる)は元今川家の武将で武田家に仕え、天正2年の戦いでは攻める側でしたが、天正9年の戦いでは高天神城主として徳川軍と戦い、壮絶な最期を遂げた武将であると。『社務所』。御朱印を頂きたかったが、社務所内に人の姿はなし。『高天神社例大祭』のポスター。高天神社は、高天神城跡にあり、かつての高天神城を守護する神社。この祭礼は、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、3月最終日曜日に東峰の社(元宮)に神様が里帰りされる行事として行われると。今年は3月31日に行われたようであった。祭礼は桜の見ごろと重なることもあり、毎年多くの見物人でにぎわう。また、高天神城は、駿河・甲斐の武田氏と三河・遠江の徳川氏の領土争いで、戦国末期の激しい攻防が繰り返された場所。その攻防で重要だった火縄銃の演武も見応えがあるのだと。『高天神社』社殿前から登ってきた階段を振り返る。社殿近くからの駿河湾方面の眺望。『高天神社』社殿。小さいながらもなかなか立派な神社。優雅な姿をした鶴翁山にある高天神社は、旧城飼郡(きこう・紀甲評)土方にあり、式内「比奈多乃神社」の論社のひとつとも。扁額『高天神社』。高天神社の脇にひっそりとあった『高天神城記』石碑。ひたすら漢字で、由緒が書かれていのであろうか?お参りを済ませ、帰路に。高天神の井戸曲輪の近くにあった、この地出身の偉人 松本亀次郎の『高天神歌碑』『もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ 姿かな たか天神山 又の名鶴翁山 鶴峯 松本亀次郎 』 『日本の中心の架け橋となった松本亀治郎』「1866年(慶応2年)現在の掛川市上土方嶺向に生まれた。ある時、「中国の学生達が日本に来て勉強したくても日本語を教えてくれる学校や本がない」という事を知り、日本語を教えてくれる教師になった。教えた学生は2万人余と言われている。その中には、文学者の魯迅(ろじん)、政治家の郭沫若(かくまつじゃく)、中国の首相となった周恩来(しゅうおんらい)がいる。」さきの大戦により東京からふるさとの生家に戻り、昭和20年(1945)に79才で亡くなった。」左に上って行くと『大川内石窟 御前曲輪』の案内板が。『大川内石窟』 【https://kojodan.jp/castle/264/photo/150779.html】より『御前曲輪跡』。本丸の南東を守護する曲輪で、本丸の前に位置することから付いた名称か、神様の前に位置することから付いた名称か不明である。太平洋戦争前に模擬天守が造られ、そのコンクリートの土台が今も残っていると(落雷で焼失)。 【https://kojodan.jp/castle/264/photo/54382.html】よりそして車に戻り、スタンプの置かれている『大東北公民館』に向かった。公民館内には子供達の『令和』の毛書が。スタンプを頂きました。『高天神城史年表』。『松本亀次郎の故郷』碑。『松本亀次郎先生(1866年~1945年)略年表』1866年(慶応2年) - 遠江国城東郡嶺村(現在の静岡県掛川市上土方嶺向)に生まれる。1888年(明治21年) - 静岡師範学校を卒業し、静岡高等小学校の国語教師となる。1903年(明治36年) - 佐賀師範学校を退職し上京。弘文学院、後の宏文学院で魯迅に日本語を教える。1914年(大正3年) - 東京・神田神保町に東亜高等予備校を設立。1945年(昭和20年) - 生家にて死去。
2019.06.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大井川を渡り、『水神公園』を訪ねた後は、新金谷駅(しんかなやえき)に向かう。新金谷駅は、静岡県島田市金谷東2丁目にある大井川鐵道大井川本線の駅。トーマス号やSL(蒸気機関車)の発着駅となる大井川鐵道・新金谷駅へは、新東名高速道路「島田金谷」I.Cから約8分。JR東海道線を利用した場合、「金谷駅」下車後、改札を出て大井川鐵道本線に乗換え約4分で到着すると。ここ新金谷駅は大正15年(1926年)に建てられたレトロな木造2階建て。1階部分には駅の改札口やカフェ、売店、コインロッカーなどがあり、2階が大井川鐵道の本社事務所になっていると。駐車場に車を駐め、駅舎に向かって歩いていると、係の男性が来られてこの場所は無料駐車場ではなく有料駐車場であると。写真撮影のみであるから直ぐに出ると話し、了解をもらう。入口の案内板を見ると、なるほど有料表示が、ただし入庫後20分まで無料と。本日のSL座席状況。蒸気機関車はこの日(5月22日)には11:52発、14:53発の1日2本であるがこの日は水曜日でもあり空席があるようであった。時間は13:36。正面には記念撮影ができるボードとSL色に塗られたポスト。ボードには機関車THOMASU(トーマス)の姿が。きかんしゃジェームス号が運転されると。学校の夏休み期間中はきかんしゃトーマス号ときかんしゃジェームス号が2台がほぼ毎日運転されるとのこと。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より運転カレンダー、運転時刻や乗車料金は「大井川鉄道のHP👈リンク」にアクセスして下さい。大人片道3000円、子供片道1500円(乗車記念グッズ付き)、予約が必要のようだ。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より改札口への扉付近には、黒いSLポストが。大井川鐵道で黒いと言えば…、そう、このポストはSLの車両塗装と同じ塗料で塗られたもの。このポストから投函した郵便物にはSLと富士山、茶娘がデザインされた風景印が押されると。ポストカードと切手は売店やプラザロコで販売中。トーマス号に乗る前後にしたためて、自分あてに投函する人が多いと。駅舎内はこの日は人の数は少なかった。売店には、観光客の姿が、そしてSLに関連した様々なお土産が。駅構内には、大井川本線を走る蒸気機関車 (SL) の勇姿や車窓からの風景を写した写真が展示されていたがピンボケ。駅舎を出て駐車場方面に戻る。「トーマス」といえば青や赤や緑といったカラフルな蒸気機関車たちがたくさん登場するが、「ヒロ」は真っ黒なボディがクールな印象。駅構内には蒸気機関車を含む大井川本線の車両の整備を行っている新金谷車両区が併設されている。ここがSLの実質的な発着場所であり、運用を終えたSLはここへ戻ってくる。過去に存在した転車台は1970年(昭和45年)9月28日に撤去されたため、SLの方向転換ができない状態となり、長い間上り千頭発金谷方面行きのSLは原則的にバック運転(逆機)で客車を牽引していた。しかし、転車台を再度設置することが2010年(平成22年)ごろに決定され、2011年(平成23年)6月ごろに工事を開始、同年10月7日に使用を開始した。島田市の観光政策の一環でもあった。車両区西側・SLの留置場北側に設置され、通常は電動だが手押しで動かすことも可能であると。左手には花の終わった藤棚が。開花時の見事な姿の写真をネットから。今年の4月29日の姿のようだ。 【https://www.train-watch.com/2019/04/29/1996113】より蒸気機関車『C11227』が新金谷車両区内に停車していた。「1942(昭和17)年9月に製造された、戦前仕様の程度良い機関車といえます。(翌年製造分からSLの設計は戦時設計に変更されました。)C10形の改良型として生まれたタンク式機関車です。大変すぐれた性能で、時速85キロでの高速で走行ができます。227号機は北海道標津線から大井川鉄道へ、1975(昭和50)年11月22日に入線しました。1976(昭和51)年7月9日に大井川鉄道でSLの復活運転を開始して以来、今もなお活躍し続ける大井川鐵道を代表する機関車です。」車歴:1942-09-18製造→納入;国鉄;C11227→1942-09-18竣工→1945-09-30現在;苗穂→1949-03-01現在;苗穂→1953-11-03現在;苗穂→1964-04-01現在;苗穂→苫小牧→1974-03-11釧路→1975-06-25廃車;釧路→譲渡;大井川鉄道(静岡県);C11227→1976-07-09営業運転開始新金谷駅改札から駅構内を東南へ約250メートル進むと、そこには平成23年(2011年)に設置された転車台が。新金谷駅から出発したトーマス号やSLは、終点の千頭駅で方向転換をし、こちらに戻ります。そして往復の運行を終えると次の出発に向け、ここでもくるっと方向転換。動画👈リンクでその様子が見ることが出来ます。この日は、『C12164』が転車台に。『C12164』は「1937(昭和12)年に日本車両で製造されました。C12形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されたSLです。大変便利に使えたSLで、15年間で293両が製造されました。中央本線 木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存展示を経て、1987(昭和62)年2月に日本ナショナルトラストの保有となり、同年7月25日に営業運転を開始しました。車両の管理は大井川鐵道が行っています。2018(平成30)年現在、運休中です。」転車台に乗った『C12164』を横から。『SL転車台完成記念』の碑。平成23年10月7日の文字が。大井川鉄道の蒸気機関車関連の説明ボード。蒸気機関車は『C11190』、『C11227』、『C108』、『C56 44』の4種類の蒸気機関車(SL)が新金谷駅~千頭駅間・路線距離は39.5kmを約80分で運行中のようであった。蒸気機関車用の石炭ヤード。『C12164』を後ろから。そして急いで車に戻ったのであった。
2019.06.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次田中城跡を訪ねた跡は、藤枝市南駿河台にある古代駿河国志太郡の郡家(郡衙)の遺跡志太郡衙跡(しだぐんがあと)を訪ねた。今からおよそ1300年前の奈良・平安時代の郡役所跡であると。別名を「御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき)」。国の史跡に指定されている。青島北地区交流センター駐車場に車を駐め、『志太郡衙跡』に向かって歩く。『国史跡志太郡衙跡・志太郡衙資料館』の案内柱。青木川に流れ込む水路沿いに進む。『国指定史跡・志太郡の郡衙跡』案内板1977年(昭和52年)に団地造営のための区画整備を行っている際に発見され、その後の発掘調査によって掘立柱建物30棟をはじめ、門や板塀、井戸・道路などの遺構が次々と発見され、古代郡衙の構造を示すものとされた。さらに出土した260点余りの墨書土器から、「志太」という地名と大領・少領・主帳などの郡司の官職名が確認され、志太郡の郡衙跡と判明した。このため、当該区域での団地造営は中止され、史跡公園として整備された。遺構は東西と南側を丘陵に囲まれた谷部に位置し、8世紀前半から9世紀前半にかけて3期の造替を繰り返したと見られる。建物は南北に棟の方位を揃えた規則的な配置であるが、小規模かつ典型的な郡庁と異なる構成であるため、郡庁や正倉ではなく厨家や館の遺構と推測される。『志太郡衙跡』全体の写真を。郡衙とは、奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所のことを言う。志太郡衙跡は、御子ヶ谷遺跡とも呼ばれ、昭和55年に国の指定史跡となっている。東側にある丘陵には、5~6基の古墳があるようです。古墳の上は展望台のようになっているとのことで、そこからの写真であろうか? 【https://www.shizuoka-fc.net/location/detail.html?C=2789】より青島北地区交流センター側の水路沿いの入り口から『志太郡衙跡』に入る。板塀と土塁で囲われていたようですが、土塁の痕跡はなくなっていた。石敷道路は、川原石を敷き詰めたもの。古代から道路を舗装する技術があったことに驚き。『石敷道路と板塀』。遺構はこの谷口の微高地上に集中しており、掘立柱建物30のほか、井戸・板塀・道路などがみとめられる。建物は東西あるいは南北に棟の方位をそろえ、一見して官衙風に整然とした配置をとっているが、これらは、柱穴の重複関係や柱穴からの出土土器により、およそ8世紀前半から9世紀前半にかけて3期にわたって造替がくりかえされたものとみとめられる。建物群の西半部には規模の大きい東西棟を中心として、井戸をもつ広場や脇殿様の南北棟が展開し、本遺跡の中枢部分を構成しているものと推定される。建物群東半部の東辺及び南辺は土塁状施設あるいは板塀によって囲まれるが、ここには8世紀後半以降、倉庫及び雑舎様の建物が密集して建ち並び、また東南隅には柵で小区画をもうけ廂付建物を配置している。南辺の板塀の外側に沿って幅4〜6メートルの道路がある。板塀の西端に開く門を経て建物群中枢部に通じたものと考えられ、礫がまばらに敷かれている。『正門跡』。『正門と板塀』。「この門は、志太郡衙へ入る正門で巾が2m、高さが2.5mあります。2本の円柱の上に切妻造りの屋根がのる形の門で棟門(むねもん)といいます。両側についている板塀は、高さ1.8m、長さは右3.6m、左は3m、柱は径24cmあります。この正門を入って右側に曲がって正面にある大きな建物が郡衙の主な建物です。正門の南側は、三方を山に囲まれている沼地となっており、ここから墨書土器や木簡を書き込んだもので「志太領」、「志太少額」、「主帳」、「志厨」など260点余りが出土しています。木簡は木を薄く短冊状にして墨で文字を書いたもので、上が貴重な時代には文書、机札(つくえふだ、荷札)などに使用されました。出土した10点の木簡はほとんど読めなくなっていますが、「女召 付里正 丈夫麻:呂」、「安人」、「友足」、「申進上夫事 小長谷浄成」などの文字が書かれています。沼地で発見された木製品には大足、シロカキ、エブリなどの農機具、曲物、下駄、箸、斎串、杓などがあります」『板塀』。板塀は丸太を縄で固定し補強されていた。復元された掘立柱建物が中心に。『掘立柱建物(A)』「3棟の掘立柱建物はすべて床張建物です。南側に5間(11.6m)✕3間(5.4m)の大型掘立柱建物があり、その北側に接するようにして3間(4.5m)✕2間(5.1m)、2間(4.5m)✕2間(4.4m)の建物が2棟並んで建てられています。南側の建物は、郡衙の中で最大規模の立派な建物です。柱はすべてヒノキでその径は、30~40cmもあり、束柱をもち建物の周囲には雨落溝をめぐらしています。柱は地面に一辺1.2~1.4m、深さ70~100cmの穴を掘り、柱が重みで沈まないように底を礎板(板片)や礫を敷き、その上に柱を立て、周囲には礫などを詰めて補強しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」東側にある丘陵方面にも建物(掘立柱建物(B))が。『掘立柱建物(B)』「6棟の掘立柱建物は、大型掘立柱建物(60m2~62.5m2)と比べて規模(19.5m2~37m2)も小さく倉庫などとして利用されていた建物です。この6棟のうち、2棟が床張建物で4棟が土間建物です。円柱のあるものが床張建物で、ないものが土間建物です。また、柱に囲まれた石貼にもその違いを明示してあります。」『井戸』跡。『井戸』「井戸は、一辺2.5m、深さ1.6mの穴の中に井戸枠を7~8段に積みあげたもので井戸枠内側は一辺75cmの正方形をしています。井戸枠は、長さ1~1.6m、厚さ3~5cmのスギ板の両端に組みやすいようにノコギリで切り込みを入れ、組む順番を隅や釘の先を使って「東三」や「八東」などと書き込まれています、井戸の底の真ん中には、径38.5cmの曲物井筒が据えられています。井戸の中からは、曲物、挽物皿、下駄、土師器、ヒョウタンなどが出土しています。」掘立柱建物(B)と一部復元された掘立柱建物(C)。『建物平面表示』。別の場所にも。柱の位置も確認出来た。『掘建柱建物(C)』。「この建物は、四方を板塀によって囲まれ,他の建物とは隔離された特別な配慮がなされています。 復元にあたっては、当時の建物が現存していないため建物構造については、「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」に残されていまる藤原豊成板殿(ふじわらとよなりいたどの)を参考にし、屋根は板葺(いたぶき)きの切妻(きりづま)で一枚板の葺降(ふきおろし)しとしています。壁については,土塁とし,春日大社着到殿を参考にして,北及び東西の一部だけを復元しています。建物の規模は、5間(8.7m)✕3間(6.9m)で出入口については南側に扉があったと思われます。土間造りになっていますが、床には台などを置いて使用されていたものと思われます。発掘調査によると柱材はヒノキで南側一列(6本)は径23cm、他(14本)は径27cmで、復元にあたっては、これと同じものにし、屋根材には杉を使用しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」復元された建物。復元とはいっても、屋根と柱以外は、壁が北側だけ復元されているものである。南側には、さらに壁と扉があったものと考えられていると。『志太郡衙跡』を一番奥から。遺跡の隣には、『志太郡衙資料館👈リンク』もあり、発掘の様子や出土品を見学することができるとのことであったが、この日は時間の関係上訪ねなかった。
2019.06.05
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