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作家の南条範夫さんが亡くなった。 訃報記事 96歳だったそうだ。 南条範夫さんのさんの小説を初めて読んだのは、NHK大河ドラマの原作として書かれた「元禄太平記」だった。 私は放送中はちゃんと見ていなくて、年末に放送された総集編を見たらおもしろかったので、お年玉で原作を買ったのだった。ドラマとは違いがいろいろあって、仲でも男色の話には驚いた。 思えば、それが、忠臣蔵に興味を持ったきっかけだった。 ご冥福をお祈り申し上げます。 「元禄太平記」 原作の小説は残念ながら絶版状態。 ドラマは総集編などが出ている。
2004.11.09
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仇討新八景(菊池寛) 「吉良上野の立場」「下郎元右右衛門」「仇討兄弟鑑」「敵討順逆かまわず」「返り討崇禅寺馬場」「敵討二重奏」「敵討愛慾行」「堀部安兵衛」の八編。(八景なんだから八編なのがあたりまえ) このうち、忠臣蔵関係の二つしかしらなかったが、ほかの話も、知られた故事を題材としたものと思われる。 最初と最後が忠臣蔵というのは意識した趣向なのだろう。 もっとも印象に残ったのは、「返り討崇禅寺馬場」。 本人は尋常に勝負し、助太刀など断ろうとしていたのに、事実を確かめもせず、無責任な噂を流す人々によって追いつめられてしまう話。憤懣やるかたないというところだ。 「仇討ち」というからには武士道と関わってくるのだが、山本周五郎の描く武士道とは趣が異なる。非常に人間くさい。ずるいところも弱いところもあるのが人間、ということだ。(講談社「大衆文学大系」第7巻で読んだが、絶版)
2004.10.24
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銭形平次捕物控(4)城の絵図面(著者:野村胡堂|出版社:嶋中文庫) 「くるい咲き」「兵糧丸秘聞」「人魚の死」「美女を洗い出す」「城の絵図面」「黒い巾着」「大盗懺悔」「十手の道」「どんど焼き」「十七の娘」の十編。 銭形平次を四冊続けて読むとどっぷりその世界にはまりこんでしまう。全く関係のないテレビを見ていても、その辺から八五郎が出てくるんじゃないかと思ってしまう。 話は、江戸初期に設定されている初期のものが多い。また、めずらしく武家がらみのものが目立つ。 なんと言ってもこのシリーズのいいのは、巻末に野村胡堂の随筆が収録されていることだ。 この巻では「捕物小説について」。とは言いながら、探偵小説全体について述べている。 『探偵小説の「偵」の字が制限文字なら、「たんてい小説」と仮名で書いても宜いではないか」とあるが、当用漢字のせいで「推理小説」となったのではないことは、小林信彦が書いている。しかし、そう信じている人が多かったのだ。
2004.09.27
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銭形平次捕物控(三)酒屋火事 (著者:野村胡堂|出版社:嶋中文庫) 「欄干の死骸」「酒屋火事」「血潮の浴槽」「地獄から来た男」「傀儡《くぐつ》名臣」「謎の鍵穴」「南蛮秘法箋」「竹光の殺人」「死の矢文」「人肌地蔵」 三巻目だが、まだまだ初期の作も入っているらしい。「南蛮秘法箋」は、由井正雪の乱の記憶も新しい時期、という設定。 小説として練りが足りないような作もあったが、いずれも「銭形平次」として楽しめる。 作者は救いのない話は嫌いだということだが、どうしても殺人が出てきてしまう。また、犯行の動機は男女の横恋慕が多い。やはり恐ろしいのは人の心だ。 巻末の「随筆銭形平次」は「捕物小説は楽し」。この随筆が収録されていることでこの文庫の価値が高まっている。 はっきりと、『私の「銭形平次捕物控」は「半七捕物帳」に刺戟《しげき》されて書いたもので」と書いてある。「岡本綺堂先生」とも書いている。半七を評して、「探偵小説としては淡いものだが、江戸時代の情緒を描いていったあの背景は素晴らしく、芸術品としても、かなり高いものだと信じている」とある。まさにその通りである。 半七に着想を得ながらも、探偵小説の面を重視し、また、江戸情緒よりも、あえて犯人を捕らえずに済ませてしまうような人間味を重視したところに銭形平次の独創性があり、価値があるのだ。
2004.09.18
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銭形平次捕物控(2)八人芸の女 (著者:野村胡堂|出版社:嶋中文庫) 挿し絵入りで、「原画所在不明のため印刷物より復刻しました」とのことだ。オリジナルの姿を復元しようと、これも良心的だ。 「庚申横丁」「一枚の文銭」「大村兵庫の眼玉」「綾吉殺し」「招く骸骨」「赤い紐」「二服の薬」「八人芸の女」「雪の足跡」「お民の死」の十編。このうち「赤い紐」はほかの本で読んだ記憶がある。 初期の作品らしく、寛文二年(一六六二)というと「ツイ一昨年」という表現(p74)というのがある。 いずれも面白いが、ミステリとしては、謎解きに必要な材料が読者に提供されているとはいいがたい、という面で欠点はある。しかし、そんな欠点なぞそんのその。面白い。 では、何が面白いのか? これが難しい。 江戸情緒というのは確かに大きな魅力の一つだ。しかし、「半七捕物帖」とは異なる。 岡本綺堂はいわば江戸の残滓のなかで育った人間であり、野村胡堂は後から江戸を学んだ人間である。しかし、江戸を外から見た野村胡堂の方が、誰にでもわかる江戸らしさを描き出しているようだ。 あとは何か。 平次と八五郎の人間性だろう。ハードボイルドとは遠いところにいる、濡れた完成の持ち主。事件の解決よりも、関係者の抱える問題の解決を重視する。 では、結局、人情話のおもしろさなのかというとそうでもない。 これは、「銭形平次」というジャンルの小説なのである。
2004.09.14
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小説上杉鷹山(下) (著者:童門冬二|出版社:学陽書房)(読んだのは単行本。1983.6.15初版。1994.3.10四十四刷) 改革には、成功もあれば失敗もある。だいぶ時間がたっているようなのだが、改革が始まってから何年たったのかはわかりにくい。 具体的に財政がどれぐらい好転したのかもわからない。 二組の男女の縁談はどうなったのかも結局わからない。 あくまでも藩主に従う者もいれば、よどんだ世界にはまっていってしまう者もいる。その点は現実的だが、これは史実に基づいているわけだ。 書きぶりは、上巻に続いて、現代的な意味を持たせようとする。「現代風にいえば、勤務をフレックス・タイムにし、管理系の机仕事人間に、生産現場に行って、現場体験をしろ、かれらの苦しみを知れ、ということだ。」(p170)という具合。 同じ時期を描いても、小説としては、長谷川伸の「上杉太平記」の方が面白かったな、と不満を感じながら読んだのだが、「あとがき」を読んで評価が変わった。 「この小説の母体は、山形新聞に連載したものである。最初百五十回とう約束が、倍近く延びた。地元の人の関心が高かったためだという。」とある。 なるほど、そうだったのか。地元の人のために書かれたのならこれでいい。基本的な知識を持ち、一定のイメージを描いている読者を相手にして書いているのだから、くだくだしい説明はいらないのだ。 とくに米沢の人たちは、この本が売れて喜んだことだろう。 気になった表記。 「とんでもございません」(p75)は誤り。「とんでもない」の「ない」は「せつない」「はかない」の「ない」と同じなので「ございません」に置き換えることはできない。 「関東平野を横断し、福島から、米沢へ急行した。」(p213)江戸から北上したのを「横断」とは妙。南北方向なので「縦断」。 (松平定信の寛政の改革と、水野忠邦による天保の改革は失敗したが)「鷹山は、その轍を踏まなかった。」(p260)「轍を踏む」は「戦陣と同じ過ちを犯す」ということ。寛政の改革も天保の改革も鷹山の改革より後なので、この表現は使えない。
2004.09.10
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小説上杉鷹山(上) ( 著者: 童門冬二 | 出版社: 学陽書房 ) 一時ずいぶん話題になった本。今頃になって読んだ。 今は文庫しか出ていないらしいが、単行本で読んだ。 財政破綻状態にあり、藩を返上してはどうかという話まで出ている状態で、養子として迎えられ十七歳で藩主になった上杉治憲が、家臣の心をつかみ、藩を立て直していく過程が描かれている。 文章は読みやすくわかりやすい。 しかし、読んでいて、「はたしてこういうのを小説というのか」という気持ちが起こってくる。もちろん小説であることに間違いはない。しかし、登場人物が何かするたびに、それにいちいち現代的な意味を持たせるのが気になる。 例えば、「農政の専門家を核にして、それぞれところを得させた特別作業班《プロジェクト・チーム》を発足させようというのである。」(p27)、「いまの経営行動のパターンに合わせれば、……」(p47)という具合。 治憲が取り立てた改革チームと、頑迷な守旧派の対立、改革の象徴である炭火が広がっていくさまなど、わかりやすいことこの上ない。みすずと佐藤文四郎の恋もお約束。 おそらく、これを読む人は現代のビジネス社会を生き抜くのに役に立つと思って読むのだろう。作者も明らかにそれを意図している。 作者は長く東京都の職員として行政に携わった人だそうだ。「組織」というものについてはいろいろな経験を積んでいることだろう。しかし、この小説が現代において、実利的な面で役に立つのか、というと疑問を感じる。作者もまた、現在の東京都の経済的破綻を招いたうちの一人であるはず。 やはり、小説は小説として楽しみたいものだ。 表現で気になったところ。 「隗《かい》(いいだした人)より実行せよ」(p47)。誤りではないが、本来の意味とはずれがある。 「ことばが的を得ていることを告げた。」(p137)。「的を射る」の誤り。 NHKでドラマ化されたもののビデオが出ている。
2004.09.08
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銭形平次捕物控(1) 平次屠蘇機嫌 ( 著者: 野村胡堂 | 出版社: 嶋中書店 ) 十編収録。このうち「花見の仇討」は読んだ記憶があるはずなのだが肝心の所は何も覚えていなかった。 事件があり、謎解きがありと、おきまりの捕物帖なのだが、人情話の面に重点が置かれている。犯人が明らかになっても平次が許してしまう話もある。 近代の法治ではそれではまずいわけだが、いわば情治の世界なのである。 この本、今年の四月にテレビ朝日でテレビ化されたのを出版されたもの。全十巻で毎月一巻ずつ出すと、帯にある。 正直なところ、今までこの出版社の存在を知らなかった。 底本を明記してあり、巻末に「随筆銭形平次」を収録してあるあたり、本を出す姿勢はなかなかいい。 こういう本は、ある時に買っておかないとすぐに消えてしまう。全巻そろえたいものだ。 「攪乱」に「こうらん」とルビが振ってある(p264)あたり、底本を尊重しているのだろう。ただし、ところどころにでてくる「大跛者」という語にはルビがない。おそらく底本ではルビがついているのではないかと思う。 こういうところを変えてしまったりせず、巻末で「不適当な語句・表現が見られますが、本書が成立した時代的背景と著作の内容とに鑑み、また著者他界のことでもあり、原文のままといたしました」と断っている。 断らなくても、「銭形平次」を読むような人なら察することとは思うが、断りを入れるのがルールのようになっているのだろう。
2004.09.02
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赤穂浪士(上)赤穂浪士(下) 忠臣蔵もののもはや古典的小説。 単純に、吉良を悪とし、恨みを晴らすというのではなく、武士が武士らしくなくなり、権力ばかりがものをいうようになってきた社会に対して異議を唱えるのが討ち入りの目的となっている。 「亡君が御一個として天下に示そうとなされた御異議を、一団体を作って全身全力を挙げて叩《たた》き付けるのである。」「われわれの存在そのものが、天下、御公儀に向けての反抗、大異議だからである」(下巻)という内蔵助の言葉がそれを物語っているが、あまりにもあからさまな書き方だ。 刃傷沙汰の直接の原因は、吉良が、賄賂の少ないのを恨んで内匠頭に非道な仕打ちをしたためということになっていて、強いて言えば吉良が悪役なのだが、上杉家の千坂、色部といった人物はお家を守るために身命を賭した人物として描かれ、善悪の対立というだけの話にはなっていない。 本筋と平行したところに、蜘蛛の陣十郎、堀田隼人、お仙という人物も登場させて話をふくらませ、武士同士の争いなど知ったことではないという価値観も描いているのだが、どうもそのせいで焦点がぼやけてしまっているように見える。 気になる寺坂吉右衛門は、吉良家へいく途中で姿を消した、と吉田忠左衛門が説明するだけ。この小説の中ではそれだけで済まされている。 書かれたのは1927年から翌年にかけてだそうで、おそらく新鮮な忠臣蔵だったのだろうが、今日から見ると、特に目新しいところはない。この小説をきっかけに新しい忠臣蔵がどんどん書かれ、世界が広がっているからだろう。 断絶騒動の時期に、堀部安兵衛が赤穂にいたように書かれているが、彼は江戸藩邸で働いたことしかなかったのでは。 武林唯七を「この支那人の子孫は無謀なくらい勇敢だった」(下巻)とある。彼が中国人の孫であることは、昔から有名だったらしい。 知らなかった言葉。 「骨灰である」粉みじんという意味。
2004.06.30
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チャンバラもどき(著者:都筑道夫|出版社:文藝春秋) 「捕物帳もどき」の後を受ける連作短編集。 第1話で、前作とこれが、作者の祖父の速記記録をもとにしたものだった、ということにしている。第1話では作者が聞き手だが、第2話からは祖父が聞き手になっていて、祖父は登場しない。 聞き書きという体裁はもちろん「半七」を連想させる。 鞍馬天狗、座頭市、丹下左膳、木枯らし紋次郎、眠狂四郎、藤枝梅安となりきり、最後はまた鞍馬天狗が顔を出すという趣向。 老人の一人称で、昔のことを知らない人に話す、ということで、随時解説が入る。小説という形の、幕末から明治初期の江戸東京案内になっている。 解説(矢田省作)が、作者に直接聞いた話を色々紹介していて興味深く、役に立つ。いい解説だ。 都筑道夫が大佛次郎の文体模写で小説を書き始めたなど、全く知らなかった。こうなると、大佛次郎も読まなくてはならない。 作者は、これを書くために、「調べに調べて、どの一行も出典あり、というくらい、気を入れた」という。たしかに非常に濃厚で雑多な情報が詰め込んである小説で、それが多すぎるくらいなのだが、解説の結びにある作者の言葉で納得できた。「おまけ#[「おまけ」に傍点]のたくさんついているのが、好き」なのだそうだ。 まさにおまけたっぷりの小説である。
2004.05.06
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影を踏まれた女(者:岡本綺堂|出版社:光文社・光文社文庫) 「青蛙堂鬼談」の12編と、「近代異妖編」3編。 当代の話もあれば江戸時代の話もある。 もっとも怖いのは「異妖編」の「寺町の竹藪」。合理的な説明は全くない。 それがかえってこわい。「あたし、もうみんなと遊ばないのよ。」という台詞が何を意味するのか全く説明されず、勝手にあれこれ想像するしかないのだが、その台詞の向こうに深い闇が想像されるのだ。 印象に残ったこと。 「彼は土地の新聞社に知人があるのを幸いに、○○教の講師兄妹のあいだに不倫の関係があるということをまことしやかに報告した。」(p56)「不倫」という語の本来の用法である。 「満洲の土人は薬をめったに飲んだことがないので」(p120) 「満州」ではなく、ちゃんと「満洲」になっている。またここの「土人」も、「土地の人」という本来の意味で用いられている。 「この時代には江戸のなごりで、御新造《ごしんぞ》という詞《ことば》がまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。」(p169) これは「黄いろい紙」という話の一部だが、初出は大正14年。その頃には、「奥さん」「御新造」「おかみさん」の順位がわからなくなっていたわけだ。 「むじなをその芸妓になそらえて予譲《よじょう》の衣《きぬ》というような心持ちであったのか」(p177) これも「黄いろい紙」。山本周五郎の「よじょう」のもとにもなっている予譲の故事、明治大正には広く知れ渡っていたらしい。たしか、下町の神社にその故事を記したものがあったはず。それでなじんでいたのだろう。 「むかしから丸年《まるどし》の者は歯並みがいいので笛吹に適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で」(p184)の「丸年」、意味を調べたが分からなかった。 「七尺《しちしゃく》去って師の影を踏まずなどと支那でもいう。」(p263)を見て、「三尺」の間違いではと思って調べたら、もとは七尺だったようだ。 「おせきがとつかわ[#「とつかわ」に傍点]と店を出たのは」(p265)の「とつかわ」が分からなかったが、「あわてて」という意味だった。
2004.04.07
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あかね空(著者:山本一力|出版社:文藝春秋) 書き下ろし長編で、直木賞受賞作。 去年(2003年)にテレビドラマ化されたのを見た。 妹おきみの視点から描いたもので、安心してみていられるできだった。 永吉が赤井英和、おふみが浅野ゆう子だった。 小説を読んでみると、テレビではよくわからなかったところもよくわかる。(あたりまえだ) 傳蔵は、テレビでは迷子になったということだったが、迷子札があったはずなのに、変だなと思っていたら、原作ではさらわれていたのだ。これなら理解で期す。 永吉が江戸に出てきたところから、子供たちだけで店をやっていくところまでの三十年近くの話。 人情話ではあるのだが、同じ出来事が家族それぞれにとって違う意味を持っており、互いに誤解しあっていることで葛藤が生まれる。 悪いやつというのが一人しか出てこない。 文章は変に凝ったところはなく、非常に読みやすい。 一気に読んだ。 どんなものを着ているか、ということをその都度ちゃんと書いているが、読むこちらに知識がないので絵としては浮かばない。 ドラマの配役を当てはめて読んでいた。 江戸の風俗の解説などはないのがかえっていい。 「六ツ(午前六時)」「五尺五寸(百六十六センチ)」「一寸(約三センチ)」というように、時間と長さにだけ説明がついている。
2004.03.23
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人形佐七捕物帳(著者:横溝正史|出版社:光文社文庫) 「羽子板娘」「嘆《なげ》きの遊女」「笑い茸《だけ》」「呪いの畳針」「螢《ほたる》屋敷」「舟幽霊」「双葉将棋」「風流六歌仙」「万引き娘」「春宵とんとんとん」の十編。 正月から冬まで、季節の順に配列されている。 滑稽味のこめられているものもあるが、いずれも横溝正史らしい、陰影の深い話である。 そのため、子分の豆六の初登場の話が、当たり前のような顔をして豆六の登場している話の後になっていて、ちぐはぐ。 初期に書かれたものらしい「羽子板娘」には「文化十二年」とあり、「嘆きの遊女」には、お粂のせりふに「二十二になる去年まで」とあり、そのお粂は寛政五年生まれ、とある。何年のことか、佐七がいくつの時のことか、ということを明らかにして現実味を持たせようという意識があったのだろうが、いくつも書いているうちにいちいちそんなことを気にしていられなくなったらしく、何年のことなどと断っていないものがほとんど。 佐七はお粂より一つ年下、ということだから、寛政四年(一七九二)の生まれ。 明治維新は七十六歳で迎えたわけで、半七よりだいぶ年上だ。 「人形佐七」の中に、人のうわさ話の中に半七の名が出てくるのを読んだ記憶があり、横溝正史が「半七捕物帳」が好きだったことは知っていたが、解説を読むまで、女房のお粂の名が半七の妹と同じ名だとは気づかなかった。 作家の真鍋元之による解説は良くできていて、作者の略歴、人形佐七執筆のきっかけなどが要領よく紹介されている。先に解説で、二話まで読んだら、三話、四話をとばして五話を読めば、豆六について違和感を持たずにすむとうことを知り、それに従って読んだ。 また、横溝正史にはほかにも捕物帳のシリーズがあったことを初めて知った。 小説とは別に、この文庫、表紙のイラストが金森達。昔、SFのイラストでこの人の絵を随分見たんだよなあ。懐かしかった。
2004.01.23
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与之助の花(著者:山本周五郎|出版社:新潮社)昭和十年代から二十年までの短編集。 いずれも、エネルギーと若さが感じられるが、小説としてのうまさという点においては後の作品には及ばない。 それでも、いずれも山本周五郎らしい作品。 わずか五ページの「友のためではない」など、短い中に周五郎らしさがぎっしり詰まっている。 表題作、「万太郎船」「噴き上げる花」と、発明にのめり込む主人公の話が三話。こういうのも書きたかったわけだ。ただし、発明が中心なのではなく、発明以外のことは些事として心の外におこうとする、主人公の真摯な生き方を書きたかったのである。
2003.07.18
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人情裏長屋(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 長屋ものを中心とした短編集。「おもかげ抄」 途中で、こういうことだなとはわかるが、こういう結末をつけるとは思わなかった。 「三年目」 「さぶ」のようでもあり、「柳橋物語」のようでもある。 長編になりそうな素材を短編に使っていてもったいない気がする。「風流化物屋敷」 山本周五郎が好んで書く、世の汚れを知らない武士の話。「人情裏長屋」 腕が立ち、善意の固まりの武士。 長屋の住人として生涯を終えるのかと思ったら、やはり武士は武士として生きるのだった。 そういうところが、山本周五郎らしい。「泥棒と若殿」 泥棒と、蟄居状態の若殿の交流。 これも、最後には、自分に与えられた立場を全うするために居場所を変える。 自分のためではなく、人のために生きなくてはならないという話。「長屋天一坊」 講談調の小説。家系にとりつかれた家主と長屋の住人の騒動を描くユーモア小説なのだが、あまり後味がよくない。ここまで悲惨な目に遭わなくても、と思う。「ゆうれい貸屋」 過去の因縁も何もなくいきなり幽霊が出てくるのがすごい。理由付けなどいらないのだ。 ゆれいを貸す商売という、奇抜なアイディアなのだが、それが生かし切れていないのが残念。 なんだか尻切れトンボの終わり方だった。 「すぐに賃上げストなんか始めるわよ」(p247)というせりふには驚いた。「雪の上の霜」 あれっ、これは「雨あがる」ではないか、と思ったら、その通り、姉妹編だった。 人一倍優れた能力を持ちながら、善良でありすぎるが故に立身できないというのが、山本周五郎なのだ。「秋の駕籠」 「三年目」と同じく、男同士の心の絆の話。 この本の中では珍しくハッピーエンドだった。「豹」 なぜこの小説がこれに収められているのか、と思うような現代小説。 女は怖い、という話。「麦藁帽子」 これも現代小説。「青べか物語」風。
2003.07.04
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宮本武蔵(8)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫)「円明の巻」の残り。 やっと読み終えた。 正直な事を言えば、途中から読むのが苦痛になった。 どうもすっきりしないのだ。 お杉、又八、朱実などは一応の決着を見る。城太郎、伊織もそれぞれ身の立てようはできた。 しかし、武蔵が何をしたいのかさっぱりわからない。むしろ小次郎の方が理解できる。 あれほど重要な人物であった沢庵は登場せず、突然現れた愚堂という僧によって目覚める。なぜだ。 現実の武蔵においては、小次郎との試合は人生半ばでのできごとであり、後半生があるのだが、たしかにこれではここで終わるしかない。 説教臭さが鼻についてならなかったが、こういうものが好評を博した、というのは、時代によるのだろう。
2003.02.25
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宮本武蔵(7)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「二天の巻」の続きから「円明の巻」まで。 江戸での沢庵との再会、将軍家への推挙、伊織と城太郎の出会い、お通の身元の判明など、人間関係がどんどん複雑化してくる。後に荒木又右衛門となる少年も登場。夢想権之助が善人なのは、武蔵と試合をする登場人物としては珍しい。 肝心の武蔵は、自分自身を高めることに夢中で、城太郎も伊織もほったらかしなのには驚く。 佐々木小次郎は嫌なやつに書いてあるが、これを読むと、武蔵ともあまりつきあいたくないなあ。
2003.02.21
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宮本武蔵(6)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「空の巻」の続きから「二天の巻」。 武蔵が江戸に行くことになれば、お通も、小次郎も、お杉も、又八も江戸の行くのである。 しかし、お通と武蔵とはすれ違い。 小次郎と又八など、ぐうぜん江戸で出会ってもお互い驚きもしない。 武蔵は荒れ地を開墾しながら政治のあり方についても思いをはせ、精神的にどんどん成長していく。伊織が登場するが、城太郎はどうなってしまうのだ。 これからどうなるのか、興味を引いていくのが実にうまい。
2003.02.10
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宮本武蔵(5)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「風の巻」の続きから「空の巻」。 一乗寺での決闘の後から、お杉婆と佐々木小次郎の江戸での様子まで。 お杉婆が江戸に現れてからあっというまに一年半がたってしまった。武蔵も江戸へ向かったはずなのだが、でてこない。 城太郎が又八の顔を知っているが、面識があったかどうか思い出せない。 途中、はて、どこかで聞いた名だなと思うと、思いがけない人がまたでてきたりで、いくら日本が狭いったって、こんなに偶然出くわしてばかりのはずはない、とは思うのだが、そこはそれ、新聞に連載した大衆娯楽小説なんだから、堅いことは言っこなしよ、というわけだ。 挿し絵が少しだけあるのだが、佐々木小次郎の絵を見て感心。文章では、刀を背負っているという表現だけなのだが、挿し絵では、刀の柄が左肩にきている。たいていは右肩に柄があるように背負うのだが、それは間違いだと「間違いだらけの時代劇」で読んだことがある。挿し絵を描いた人もちゃんと知っていたらしい。 驚いたこと。 「弱冠十七歳」(p105)という表現がある。吉川英治でさえこんな表現をしていたのだなあ。弱冠といえば二十歳に決まっているはずなのだが。
2003.02.07
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宮本武蔵(4)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「風の巻」の続き。 いよいよ吉岡一門との一乗寺下がり松での決闘が始まったところまで。 亦八は四巻の最初でお通と再会し、四巻の終わりの方では朱実と逃げる。 武蔵とお通は、再会するかと思えばせず、もうあわないのかと思えば再会する。 先へ先へ読者の興味を引っ張っていく技量に感心する。 四巻目にしてやっと気づいたのだが、これは、作者という講釈師の口から語られているのである。 いきなり沢庵が現れる場面にそれがよく現れている。「 どう巡りあわせて、こんな所へ、宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》が今頃やって来たわけか。 元より、偶然であろうはずはないが、いかにも唐突に似て、いつも自然である彼の姿が、今夜ばかりは不自然に思える。まずその事情《わけ》がらを先に糺《ただ》してみたいが、今はその由来因縁を彼に問うている遑《いとま》もなさそうなのである。」(p34)という具合。 作者が顔を出すところでは、「いったい「職人」という名称が、このごろひどく下落した来たが、それは職人が自分で品性を落としてきたからで」(p47)という文章もある。 心理描写も、登場人物の心理をそのまま表現するのではなく、作者の目を通して語られる。 作者の視点、という一点からのみ書かれているので、読者は安心して読んでいられるのである。 ところで、佐々木小次郎が連れていた猿はどうなっちゃんたんだろう。
2003.02.04
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宮本武蔵(3)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「火の巻」の続きから「風の巻」まで。 宍戸梅軒とは直接の立ち会いはなく、吉岡清十郎には勝つ。 武蔵とお通は、すれ違いの連続。京では、すぐそばにいながら、お通は武蔵の前に現れない。朱実との再会はあってもお通とは顔を合わせない。 次から次と山場の連続で驚くが、新聞小説なのだから、こうでなくては、読者の興味をひきつけておくことはできないわけだ。 一度出てきた人間がほかの所でまた出てきて、登場人物の関係が蜘蛛の糸のようにからみ合っている。赤壁四十馬なんてすっかり忘れていた。 作者の頭の中では、人物がきちんと整理されているのがすごい。
2003.01.31
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人形佐七捕物帳(著者:横溝正史|出版社:光文社) 「羽子板娘」「嘆《なげ》きの遊女」「笑い茸《だけ》」「呪いの畳針」「螢《ほたる》屋敷」「舟幽霊」「双葉将棋」「風流六歌仙」「万引き娘」「春宵とんとんとん」の十編。 正月から冬まで、季節の順に配列されている。 滑稽味のこめられているものもあるが、いずれも横溝正史らしい、陰影の深い話である。 そのため、子分の豆六の初登場の話が、当たり前のような顔をして豆六の登場している話の後になっていて、ちぐはぐ。 初期に書かれたものらしい「羽子板娘」には「文化十二年」とあり、「嘆きの遊女」には、お粂のせりふに「二十二になる去年まで」とあり、そのお粂は寛政五年生まれ、とある。何年のことか、佐七がいくつの時のことか、ということを明らかにして現実味を持たせようという意識があったのだろうが、いくつも書いているうちにいちいちそんなことを気にしていられなくなったらしく、何年のことなどと断っていないものがほとんど。 佐七はお粂より一つ年下、ということだから、寛政四年(一七九二)の生まれ。 明治維新は七十六歳で迎えたわけで、半七よりだいぶ年上だ。 「人形佐七」の中に、人のうわさ話の中に半七の名が出てくるのを読んだ記憶があり、横溝正史が「半七捕物帳」が好きだったことは知っていたが、解説を読むまで、女房のお粂の名が半七の妹と同じ名だとは気づかなかった。 作家の真鍋元之による解説は良くできていて、作者の略歴、人形佐七執筆のきっかけなどが要領よく紹介されている。先に解説で、二話まで読んだら、三話、四話をとばして五話を読めば、豆六について違和感を持たずにすむとうことを知り、それに従って読んだ。 また、横溝正史にはほかにも捕物帳のシリーズがあったことを初めて知った。 小説とは別に、この文庫、表紙のイラストが金森達。昔、SFのイラストでこの人の絵を随分見たんだよなあ。懐かしかった。
2003.01.23
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宮本武蔵(2)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫)「水の巻」の続きから「火の巻」。 宝蔵院とのあれこれから柳生を経て、宍戸梅軒を訪ねるところまで。 武蔵、お通、城太郎、沢庵とうまい具合に出会ったりすれ違ったり。 一方、いよいよ佐々木小次郎の登場かと思わせて、小次郎自身はなかなか登場しない。 なかなか気を持たせる。 朱実とお甲は実の親子と思っていたが、298ページからしばらく、「養母《はは》」「養母《おふくろ》」という表記が続く。実の親子ではなかったのか? 又八とお杉の再会があるが、そこを読んでまた疑問が一つ。 お杉は「婆《ばば》」となっているが、又八はまだ二十歳そこそこ。お杉婆がいくつのときに産んだ子なのだろう。
2003.01.19
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宮本武蔵(1)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「地の巻」「水の巻」収録。 関ヶ原から宝蔵院まで。 二十年以上前に読んだことがあるはずなのだが、ほとんど何も覚えていない。 こうして大人になって読めば、実在した宮本武蔵とはほとんど無関係の娯楽小説だということがよくわかる。おそらく、実像とはかけはなれていることは作者としては自明のことなのだろうが、この小説によって宮本武蔵像が決定されてしまったのには、作者も困ったことだろう。 意外だったのは、沢庵が若いこと。三十歳ぐらいで登場する。老僧のような気がしていたが、武蔵が歳をとるにつれ、老いた沢庵も登場するのだろう。 もう一つ、ただのだめ男のような又八が、最初の方はけっこう強い。 また、武蔵は簡単に人を殺す。 新聞に連載されたためか、読者を飽きさせぬよう、次々に事が起こる。特に何もないときは、時間はあっという間に過ぎる。白鷺城での三年など、わずか二ページ。 読んだ版は、現代仮名遣いに直してあるわけだが、「三日月山」(p185)に「みかずきやま」とルビが振ってあるのはどういうわけか。編集部の誤りだろうか。
2003.01.17
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赤ひげ診療譚(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 年末にドラマ化されたのを見たのをきっかけに、およそ20年ぶりに読み直した。 ドラマは黒澤明の映画の脚本をそのまま用いたもので、改めて原作を読んでみるとだいぶ違う。 特に、「徒労に賭ける」の「おとよ」、「鶯ばか」の「長次」の話は黒澤のオリジナルだ。 原作の方が現実的だが、黒澤明は救いを求めたのだろう。 『季節のない街』を読んだばかりなので思ったことだが、赤ひげは、『季節のない街』の「たんばさん」なのだ。 気短で、感情をすぐに表に出すが、「たんばさん」なのである。 不思議なのは、第3話の「むじな長屋」で、主人公の同僚の森半太夫が労咳ではないかと思われるところがあるのだが、その後、それに関する話がないこと。 連作になっていて、雑誌に連載したものなので、最初はそれに関する話を書くつもりでいたのが、途中で変わってしまったのかもしれない。 全体としては、甘いと言えば甘いのだが、山本周五郎はこうでなくてはならないのだ。 何度もテレビ化されているが、やはり黒澤明の映画がもっともいいようだ。
2003.01.10
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町奉行日記(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 短編十編。 「土佐の国柱」と「晩秋」は、おのれを悪く見せることで藩を救う武士の話、という点では共通しているが、前者は男の目から、後者は女の目から見ているためか、前者は名誉が与えられ、後者は精神的な救いを得る。 「金五十両」は町人もの。誰も信じられないという心境だった男が人を信じられるようになるまで。いかにも山本周五郎だ。 「落ち梅記」もおのれを犠牲にするが、藩のためということよりも、友のため、かつて思いを寄せた女のため、という面がある。現実にこういうことが起こりうるかどうかということは重要ではない。作者は、こういう生き方を好むのだ。 「寒橋《さむさばし》」は市井もの。実は、と思わせておいて、さらに実は、という落ちがある。収録作品中、もっとも癖がない。 「わたくしです物語」は強いて言えば「ひとごろし」に類するもので、こんなことで解決するはずがなくても解決してしまう話。軽みがある。こういう本の解説は役に立たないことが多いのだが、解説を読んで、阿倍幸兵衛や角下勝太という人物名が洒落になっていることを初めて知った。読みが浅かった。 「修業綺譚」も滑稽譚。ここまで読んで気がついたが、どれもこれも、主人公が女にもてる。 「法師川八景」は女が主人公。自分が人の支えとなることに幸福を見いだす女。周五郎の好みの女性像である。 「町奉行日記」は先年映画化された「どら平太」の原作で、文庫の表紙や折り返しには映画の写真が使われている。なるほど、このまま映画になりそうだ。主人公が何でもできすぎるのが気になるが、あえてそういう人物造形にしてあるのだ。 「霜柱」になると、ちょっと読み足りない。もっともっとながく書くべき話なのだ。初出が雑誌で枚数の制限があったためなのだろうが、主人公の心境の変化をもっともっと書き込んで欲しかった。 山本周五郎は大衆小説と純文学の間を目指していたという話だったが、随分難しい言葉を使う。「奸譎《かんけつ》」「秕政《ひせい》」(p54)あたりは何となく分からなくはないが、「劬り」(p170)は読めなかった。調べたら、「劬」は「働いて疲れる」という意味だから、おそらく「いたわり」なのだろう。 巻末の、編集部による「文字づかいについて」には、「年少の読者をも考慮し、難読と思われる漢字や固有名詞・専門語等にはなるべく振仮名をつける。」とあるが、これこそ振り仮名をつけて欲しい。
2003.01.07
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会津藩最後の首席家老(著者:長谷川勉|出版社:中公文庫) 書名通り、会津藩最後の主席家老となった梶原平馬の半生記。 主に、京都守護職となった容保のしたがっての上洛から、会津での敗戦までを描く。 著者は、その梶原平馬の曾孫で、当然、会津に肩入れした書き方になる。「こうした出鱈目話は、何も敵からばかり出ていたわけではない。幕府軍艦奉行の勝海舟が無責任な放言をしたのである。この男の放言乃至虚言癖は、以前から有名だった。」(P115)「西郷吉之助という人物は、人並み外れて朴直な部分と人並み外れて狸の部分を併せ持った怪物である。」(p116)「患者の来ない村医者あがりでオランダ語の本で先方を学んだ大村(益次郎)」(P133)「岩倉(具視)も大久保(一蔵)も悪知恵は無尽蔵にあるが、文才も学才もまるでない。」(P166)「榎本(武揚)は大秀才であった。その頭脳にはヨーロッパの新知識が充満していたが、慶喜同様、エゴイストであったのだ。」(p214)という具合で、当然、慶喜は、「百才あって一誠なし」だの「ヒステリー秀才」だの、ことあるごとに悪く書かれている。慶喜に対しては、憎悪というよりも軽蔑を感じているらしい。 会津落城後は、作者の分身である時雄という平馬の子孫と平馬の会話で、その後のことが語られる。 京で出会ったテイという理想的な女性を妻とするのだが、その妻を理想的な女性として描いている。 しかし、作者は、もともとは平馬やテイに対して否定的な立場にあった。 テイの出現によって、一子をもうけながら平馬と離婚した二葉の曾孫なのである。 また、平馬は会津戦争の指導者・責任者であり、その後一世紀にわたる一族の冷飯食いっぱなしのもとを作った男だと思っていたという。 作者は後書きで、「平馬の子孫は彼の没後百二年目にしてやっと曾祖父との和解を果たしたのである。」(P269)と書いている。 「海ゼロ山ゼロ」(P77)という表現など、時代小説としてはどうか、と思うが、全体をみれば、熱い情念に包まれた小説である。 偽の詔勅やでっちあげの錦旗によって私怨のために会津を攻撃し、江戸時代を否定することで自分たちを正当化してきた、いわゆる「明治の元勲」のでたらめさにはあきれるばかりである。
2002.12.03
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おもしろ日本史探訪(著者:南条範夫|出版社:広済堂文庫) まえがきに、「時代小説を書くつもりで、雑書をあちこち引っくりかえしていると、いくらでもタネ(タネに傍点)は出てくるが、その中で、小説にしてしまうより、事実をそのまま書いたほうが面白そうなもの、気が楽だというものも少なくない。」とあり、そういうものを書いたのがだいぶたまったので一冊にした、というもの。 内容はほぼ時代順。天子と后妃、遣唐使から明治の教育費まで。 為朝の琉球征服説に根拠があることなど初めて知った。 大阪落城をめぐる二人の謀将など、実体はどうだったのか、どちらが忠臣かの考察を行うだけだが、小説にすれば長編になるだろう。 日本刀が見た目重視になって折れやすくなったことなども興味深い。 さすがに高名な作家だけあって、言葉もきちんとしている。 例えば、「死にざま」などと言わず「死にぎわ」(p110)、「負けず嫌い」ではなく「負け嫌い」(p116)という具合。 どれも面白く、わかりやすいのだが、惜しむらくは校正が不充分。 遣唐使は四隻の船で行ったとあるのに、「きのうまで乗っていた船は三隻とも、影も形もない。」(p25) p157の「早くからこうした優れた議論がみられないから」は、「早くからこうした優れた議論がみられながら」だろう。 また、男谷精一郎について、祖父が御家人株を買ったように書いてあるが(p189)、これは曾祖父のはず。 書名はあまりよくない、南條範夫らしくないと思ったが、最後の断り書きによると、もとは1957年に『歴史から拾った話』という単行本で、それを文庫化したものだという。 もとの書名の方がよい。
2002.10.17
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ひとごろし(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 短編十編。 「壺」「暴風雨の中」「雪と泥」「鵜」「女は同じ物語」「しゅるしゅる」「裏の木戸はあいている」「地蔵」「改訂御定法」「ひとごろし」 それぞれ異なる書きぶり。 山本周五郎のものに共通することなのだが、「現実にはこううまくはいかないだろう」というものが多い。 しかし、作者ははなからそんなことは承知なのだ。 それを承知でいてあえてこういう話を書くのである。 そこが山本周五郎なのだ。 なお、「ひとごろし」は2度映画化されている。1度目はなんとコント55号。タイトルは「初笑い・びっくり武士道」(監督は野村芳太郎!)。2度目は、松田優作(監督は大洲斉)。 松田優作のものは見たことがある。最後があっさりしすぎていて、何が起こったのか、原作を読んでいない人にはわからないのでは、という気がした。
2002.02.25
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日本剣客伝(1)(著者:南條範夫・池波正太郎|出版社:朝日文庫) 「週刊朝日」の企画で、剣客十傑を選出し、それぞれを主人公とした中編執筆を依頼して掲載する、というのが行われ、それを単行本化したもの。 1967年の企画だから30年以上前だ。 第一巻は、塚原卜伝を南條範夫が、上泉伊勢守を池波正太郎が書いている。 なるほど、そういう経歴を持った人物だったのか、ということがよくわかる。 ただし、それぞれ短いので、存分に書ききっているとは言えない。駆け足である。 おそらく、編集部が、その人物に関する資料をそろえ、それぞれの作家に執筆を依頼したものと思われるが、小説としてよりも伝記としての面を重視して書かなくてはならないので、書く方も窮屈だったろう。 ちなみに、のこりの八人は以下の通り。 宮本武蔵・小野次郎右衛門・柳生十兵衛・堀部安兵衛・針谷夕雲・高柳又四郎・千葉周作・沖田総司。
2002.02.09
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隆慶一郎全集(第1巻)(著者:隆慶一郎|出版社:新潮社) 長編「吉原御免状」「かくれさと苦界行」二つと、短編「柳枝の剣」「ぼうふらの剣」「柳生の鬼」「跛行の剣」「逆風の剣」「柳生刺客状」「張りの吉原」収録。 単行本三冊分。 作者の隆慶一郎は、本名の池田一朗で、長い間時代劇の脚本を書いていた。 「荒野の素浪人」などで、何度もその名を見たことがある。 小説家としての第一作が「吉原御免状」なのだが、たしかに面白い。 世界がしっかり構築されていて、 存在感があり、破綻がない。 おそらく、書き始めるまでに、長い間頭の中に思い描いていた世界なのだろう。 吉原は、女達を閉じこめておいた場所ではなく、むしろ外界から守っていたところであるという設定もある程度納得できる。 続編である「かくれさと苦界行」には、岡場所が登場するが、そちらは、苦界となっている。 ただ、「かくれさと苦界行」の最後にとられる処置で済むなら、最初からそうしていればよかったのではないか、という気もする。 執筆開始時点では、もっと長くなるはずだったらしく、そのための伏線となるはずの描写もあるのだが、これで終わりらしい。残念だ。 短編の内、最後のもの以外は、柳生シリーズ。そして、どれもみな、「吉原御免状」の世界につながっている。 これを読んでも、あらかじめ作者の中に一つの世界ができあがっていたことが分かる。 白土三平の忍者ものの世界のようだ。
2002.02.01
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決闘・箱根山三枚橋(著者:笹沢左保|出版社:徳間書店) 完結編。 2になると、題の付け方が変わる。サブタイトルにあるように、漢字二文字の熟語+中黒+地名となる。 最終話で、ああ、こういう虚無的な感じで終わるのか、と思っていたら、さらにその後があった。 最後まで読むと、最初から結末がちゃんと考えてあり、伏線も張ってあったのがわかる。 ただ、最終話で鬼火党の名をかたったのは二人だったはずなのに、結局三人だったことになっているのがよくわからない。 また、45ページに「若旦那じゃあ、役不足とでも言いてえんで……?」という台詞がある。 すでに三十年前から、プロ作家でも誤った用い方をするようになっていたのだ。
2002.01.11
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大利根の闇に消えた(著者:笹沢左保|出版社:徳間書店) 潮来の伊太郎と言えば、橋幸夫の歌。しかし、どういう話なのか全く知らなかったので、読んでみた。 しかし、おそらく浪曲などに登場する人物なのだろうが、完全な、笹沢佐保のオリジナル・キャラクターのようだ。 連作短編集になっていて、「木枯らし紋次郎」と同じ書き方。 各話の題のつけかたも似ている。 性格は、紋次郎よりは他人と関わりをもつ、という程度。 天保十二年の各月ごとに一話という体裁で書いている。 最初に出版されたのが1973年なので、今から30年前に書かれたものである。それでも古びていないのはさすがだ。
2002.01.10
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関八州の旅がらす(著者:縄田一男|出版社:新潮文庫) 渡世人・博徒を主人公とした時代小説傑作選。 発表された順になっていて、下母沢寛・長谷川伸から始まる。 この二人は二編ずつ収録。 山手樹一郎も股旅ものを書いていたのに驚いたが、作風は「桃太郎侍」などと変わらない。 もっとも面白かったのは、考証の面を持つ、山口瞳「繁蔵御用」と、結城昌治「森の石松が殺された夜」の二つ。 山口瞳は、「血族」で、自分の先祖が、飯岡助五郎に縁のある人物だったことを述べているが、飯岡側から、天保水滸伝の実像を明らかにしようとしている。繁蔵の首の話は初めて知った。 結城昌治のものは、森の石松を殺したのは誰か、という、作者の推理をもとにかかれている。言われてみれば、通説ではつじつまが合わない。あるいはこれが真実かもしれない、という気にさせる。 笹沢佐保は、木枯らし紋次郎ではなく、「見返り峠の落日」が収められている。20年ほど前に読んだことがあるのだが、すっかり忘れていた。
2001.11.20
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陰陽師(著者:夢枕獏|出版社:文藝春秋・文春文庫) 最近の安倍晴明ブームの火付け役。 15年ぶりぐらいに夢枕獏の小説を読んだ。こういうものだったのか。 陰陽道についてもっとも依拠するところは、小松和彦の「憑霊信仰論」のようだ。 主人公は、長身で色白、目元は涼しく、秀麗な顔、薄く紅を含んだような唇、と、大衆小説の王道を行く設定。 改行が多く、ほとんど句点ごとに改段されている。 文章は、平安朝の雰囲気を出そうと努力しているのは分かるが、どうしても現代風になってしまっている。 たとえば、「関係なき人の生命まで」(p295)というところなど、「関わりなき人の生命まで」と、漢語を使わず和語を使えばよいのではないかと思うのだが、そういう細かいところは気にしない書き方がかえって受け入れられるのだろう。 現代の大衆小説はこう書くのだ、というお手本のような小説だ。
2001.06.13
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折鶴七変化(著者:角田喜久雄|出版社:春陽文庫) おそらく新聞に連載されたものなのだろう。 各回の分量が少なく、常に山場が続いている。 偶然に偶然が重なって主要な登場人物が集まるのだが、どれもみなわかりやすいキャラクターで、登場人物が多い割には読んでいて混乱しない。 主人公の設定も、ついてまわる子どもの設定もありきたりの見本のようなのだが、それでも面白い。 読ませる力があるのだ。 読み流してしまえる本で、ほそらくしばらくしたら内容も思い出せなくなるのではないかと思う。 大衆小説のお手本のような小説だ。
2001.06.09
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秘剣花車(著者:戸部新十郎|出版社:徳間文庫) 剣豪小説十編。 多くは実在の人物らしい。作者自身が剣術に造詣が深いだけあって考証も専門的。「八相」「霞」など、構え方の専門用語が出てくるが、そういうものについていちいち説明するようなことはしない。 それらがどういうものか分かればもっと楽しめると思うのだが、自分の知識不足を嘆くしかない。 「大捨」「八寸」「栴檀」「花車」「仏手」「笹葉」「玉光」「音無」「浮鳥」「逆髪」と、秘剣の名を題として、上泉伊勢守の時代から幕末の混乱時まで、舞台の時代順になっている。 このうち「八寸」の小笠原玄信斎については、津本陽に彼を主人公としたものがあったが、同じ人物を題材にとっても全く雰囲気が異なっている。 また、「音無」には、「大菩薩峠」の机龍之介のモデルについても考察があり、中里介山が千葉周作の残した記録を用いていることを明らかにしている。 読み応えのある本だ。(新潮文庫版で読んだが、現在は絶版。徳間文庫で出ている)
2001.06.06
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昭和国民文学全集(2)(著者:白井喬二|出版社:筑摩書房) 「富士に立つ影」の「裾野篇」「江戸篇」「主人公篇」まで。 驚くべきおもしろさ。読み始めたときは、最後まで読み続けられるかどうか不安だったのだが、ぐいぐい引き込まれ、先が気になってならない。 語り口は軽妙で、講釈に近い。基づく資料があって史実通りに述べているのだ、という形を取っている。 善人の子だからといって善人に育つわけではなく、悪人の子だからといって悪人になるわけではない。 さまざまな人間が何代にもわたって絡み合い、物語は進展していく。 善悪の単純な対立というわけではなく、勧善懲悪を超越している。 この後が長いのだが、いつか最後まで読んでみたいものだ。 20年ほど前、何文庫だったか忘れたが、時代小説を大量に出版したことがあり、その時、「富士に立つ影」も出ていたのだが、その分量におそれをなして読まなかったのが悔やまれる。
2001.03.05
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忠臣蔵傑作大全(著者:長谷部史親|出版社:集英社文庫) 「忠臣蔵」にまつわる短編時代小説集。 講談通りの話もあれば、吉良側の話もあり、忠臣蔵が遠景になっているのもある。 柴田錬三郎「辞世」、菊池寛「堀部安兵衛」、直木三十五「大野九郎兵衛の思想」、多岐川恭「付け人」、榊山潤「生きていた吉良上野」、澤田ふじ子「後世(ごせ)の月」、山田風太郎「行燈浮世之介(あんどんうきよのすけ)」、林不忘「口笛を吹く武士」、小島政二郎「何面白(なにおもしろ)の雪景色」、角田喜久雄「吉良没落」、岡本綺堂「吉良の脇指」。 このうち、山田風太郎のものと、林不忘のものが異色。 角田喜久雄と岡本綺堂のは、討ち入りに関わる人物が出てくるわけではない。 いずれも、読者が忠臣蔵についての知識を持っていることを前提として書かれているが、さて、これからもこういった小説は書かれていくのだろうか。 基本的な素養としての忠臣蔵は、失われていくのではないかという気がするのだが。 巻末に、編者による「赤穂四十七士銘々伝」を付す。
2001.02.15
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隠し剣秋風抄(著者:藤沢周平|出版社:文藝春秋) 舞台はいずれも架空の藩で、小藩のようなのに、命のやりとりにもつながる政争があり、超絶的な飛剣を編み出す剣士がいる。 そうした設定だけ見れば荒唐無稽にも思えるのに、そうならないのは筆力があるからだ。大袈裟に書かず淡々と書いている。 とくに、この本にまとめられているのは、主人公が精神的に弱い側面を持っていることが多く、それによって、小説の中の世界に奥行きが生まれている。 電車の中で読み終わり、ほかに本を持っていなかったので、最初の方をまた読み返したが、それでも面白かった。
2000.12.06
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昭和国民文学全集(10)(著者:角田喜久雄・国枝史郎|出版社:筑摩書房) 角田喜久雄の『髑髏銭』と国枝史郎の『神州纐纈城』。 『髑髏銭』は、伝奇小説ではあるのだが、おどろおどろしいところはあまりない。 主要な人物がみなつながりがあり、ご都合主義ではあるのだが、それを不自然に感じさせないくらい世界が完成している。 悪人は一人だけで、最初は悪人のように思えた男も、終わりの方では結構いい人になっている。 これでいいのだ、と圧倒される小説である。 『神州纐纈城』は、おどろおどろの連続。 結局物語としては完結していないのだが、それでも読み継がれるだけのことはある。 著者は、物語を書きたかったのではないのだ。 纐纈城のようすや、造顔術のしかた、町の人々が病気にかかり体が崩れていったりする様子を描写したかっただけなのだ。
2000.11.06
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隠し剣孤影抄(著者:藤沢周平|出版社:文藝春秋) なるほど、うまいものだ。と、当たり前のことを思わされる。 一見臆病者風だったり、妻の方が強かったり、と、ありがちに思える設定でありながら、みな新鮮だ。 それぞれ、主人公は、他者の知らぬ秘伝の技を身につけている。だからといって剣豪もの、というわけではない。どちらかといえば人情ものだ。 何と言っても書名がいい。 作者が考えたのか、編集者が考えたのか知らないが、「秘剣」や「秘伝」などと言わず「隠し剣」というのがいい。 また、「孤影抄」というのも雰囲気が出ている。 およそ3ヶ月に一作のペースで執筆する力量には驚くばかりだ。
2000.10.25
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人間の檻(著者:藤沢周平|出版社:講談社) シリーズ完結編。 四年を経て落ち着く者は落ち着き、将来の定まらない者は定まらないなりに生きていく。 シリーズを通してどれも面白いと思ったが、設定に無理がある、と思った点が一つだけある。 特に最終話など、自分自身がねらわれるのだが、まったく奉行所の手を借りようとしない。すべて自分で片づけ、岡っ引きに捕らえさせる。 岡っ引きは同心が一緒でなければ縄を打つことはできなかったはず。 かといって、同心が捜査に乗り出すと、主人公の出番が少なくなくなってしまうので、あえて奉行所がかかわらないようにしたのだろう。 表現の上で、シリーズを通して気づいたこと。 「目を細くして」という表現が、警戒や疑いの表情を現している。 日本では、笑顔を示す表現なのだが、アメリカではそうではない。これをアメリカの小説のような意味で使う例は、20年ほど前に田中光二の小説で見て以来だ。
2000.10.18
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愛憎の檻(著者:藤沢周平|出版社:講談社) シリーズ三冊目。 捕物帖の変形のようではあるが、捕物帖ではない。 悪人を捕らえるのが目的ではなく、主人公が知り合った人々の無念を晴らしたり、代わりに痛めつけたりするのが目的で行動している。 ほかの登場人物も少しずつそれぞれの変転があり、主人公にもある。 作者はおよそ二ヶ月に一編の割合で執筆しているが、さすがにプロは違うものだと思う。 なお、これは、18年ぐらい前にNHKでドラマ化されていて、見たことはないのだが、主役は中井貴一でで、おちえは宮崎美子(今は淑子)だった。おちえはもっと痩せて一見つんけんした感じの娘のように思えるのだが。
2000.10.17
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風雪の檻(著者:藤沢周平|出版社:講談社) シリーズ第二巻。 連作短編集ではあるが、全体の構成がしっかりできており、長編小説でもある。 なるほどなあ、うまいなあ、と当たり前のことに感心する。 特に「老賊」が、人情ものと思わせておいて、実は……というあたり、実にうまい。
2000.10.16
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春秋の檻(著者:藤沢周平|出版社:講談社) 藤沢周平のものをちゃんと読むのは初めて。 変形捕物帖だが、入牢した者から話を聞くのが発端になり、過去の事件の隠された真実を明らかにしたり、殺人を防いだり。 悪党も悪党なりに良心があったり、全くの悪人だったり、けなげな女が罪を犯したり、と、登場人物の設定にふくらみがあり、感心する。 立花登の居候している家が、家庭として機能していない所など、20年も前に書かれたものなのに、今のことのようだ。
2000.10.13
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昭和国民文学全集(6)(著者:林不忘|出版社:筑摩書房) 「丹下左膳」の「こけ猿の巻」と「日光の巻」。 初めて読んだが、驚いたことに、おちゃらけ小説なのだ。 講談の語り口そのままの文体で、次から次に事件が起こり、全体としては結局謎は謎のまま終わってしまう。 特にこの人が主人公、というわけではなく、次々に登場する人物がそれぞれ重要な役割を持っている。 また、丹下左善は正義のヒーローなどではなく、とにかく人を切りたい、という破滅的な人間で、それでいながら、子供を匿い、好敵手を気遣い、恋もする。 作者は若いときにアメリカで生活したことがあり、向こうで身につけた感性を時代小説に持ち込んだものらしい。 もっと読みたいとは思わないが、とにかく驚いた。
2000.10.12
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大江戸凶状旅(著者:長谷圭剛|出版社:飛天出版) おっ、天保水滸伝か、と思って読み始めたら、天保水滸伝なのは第一章だけで、あとは、ひとまず笹川を離れてほとぼりをさますことになった繁蔵の旅物語。 題は「大江戸」だが、江戸は出てこない。繁蔵は、とりあえず江戸へ行こうとはするのだが、佐倉や成田あたりをうろうろしていて、裏切られたり助けられたり。 お約束の連続でわかりやすく、文章も平易だ。 時代劇全盛期の股旅ものを小説にしたらこんな感じなのだろか。 「七世市川団十郎改め海老蔵(えびぞう)」(p211)という文章があるのだが、団十郎から海老蔵になった人などいるのだろうか。
2000.09.27
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昭和国民文学全集(7)(著者:長谷川伸|出版社:筑摩書房) 「荒木又右衛門」と「まむしのお政」の2編。 大衆演劇のようなものかと思ったら、大違い。 「荒木又右衛門」は、緻密な考証を元にした実録小説とでもいうようなものだった。 考証の部分は、二字下げで著し、「~という説もあるが、ここではとらない」などと述べている。 あらましは知っていたが、大久保彦左衛門が生きていた時代であり、徳川忠長の死があった時代が背景になっていることを初めて知った。 ただ、小説としては不満が残る。 もっと「小説」に徹して貰いたかった。 特に、和吉とお沢の話は決着がつかないままに終わっている。 現実ならそういうものだろうが、この二人に関する部分は虚構なのだから、何かしら決着を付けることもできたはず。 また、又右衛門の師が柳生十兵衛ということになっているが、これは無理があるのではないか。十兵衛にも教えを受けたかもしれないが、宗矩の教えを受けたと考えた方が自然ではないだろうか。 九歳年下の十兵衛の教えを受けてこれほどの達人になったとすると、十兵衛は、ほとんど人間を超えた存在となってしまう。 「まむしのお政」は、孝女として表彰されかけたがかえって仇となって、悪女への道を進まざるを得なかった女の一代記。 お政は純真で苦況にあるものを助けてやろうとする心の持ち主であるのに、詐欺と盗みを重ねる女となってしまう。 小説としては、「荒木又右衛門」よりこちらのほうがずっと面白い。 何とかして「瞼の母」や「一本刀土俵入り」を読んでみたい。
2000.09.26
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江戸情話集(著者:岡本綺堂|出版社:光文社文庫) 情話五編収録。 岡本経一の解説によれば、いずれも、歌舞伎用に書いたものを小説として書き改めたもの。 このうち、「鳥辺山心中」は歌舞伎で見たことがあるが、歌舞伎は最後の場面だけだったので、全体の話はこれを読んで初めて知った。 「籠釣瓶」「心中浪華の春雨」「箕輪心中」はいかにも芝居用に書いたものを小説にしたという感じがする。「両国の秋」は情話と言うよりは怪談に近い。 いずれも、風俗や、着物の柄など、描写が細かく、岡本綺堂の知識の確かさと、江戸の人間の情緒に基づく物語づくりに感心するばかりだ。
2000.09.04
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