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マレーシア11「マレーシア国家宮殿」(予定ならば間もなくADSLが不通になる)胡錦涛国家主席が副主席の頃マレーシアを訪問して、このクアラルンプールのマレーシア皇宮で、ジャマルライル国王と会見した。 胡錦涛国家主席は中国とマレーシア両国関係の、良好なる発展に満足の意を表した。そして今、国王との約束を主席となり十分に果たした。そして、マレーシアとの各分野の協力関係を、発展させることは、中国政府の既定政策であり、マレーシア政府と共に両国関係を絶えず発展させるため、努力していくという中国政府の姿勢を表明した。 その後胡錦涛国家主席は副主席の時にマレーシアに対して約束した援助を現実のものにしている。これに対してジャマルライル国王は、中国が経済発展で収めた成果に敬意を払った。中国の和平政策に賞賛の意を表し具体的措置の、実施によって、両国人民の相互理解と協力を、強めていきたいとの意思を示したが、現在、中国からの援助によりその思いが叶った。 マハティール首相は、この時に中国が国際社会で、益々重要な役割を果たしてきていることを重視し、中国の発展はアジアや世界に幸福をもたらすと述べ、新世紀における両国関係の発展に期待を示した。 この時は2002年の事であるが、既に4年経った2006年の今、揺ぎ無い現実のものとなっている。この時中国主席は、経済のグローバル化が進むなか、各国は激しい国際競争に直面している。発展途上国は全体的に不利な立場にいる。中国やマレーシアのような発展途上国にとって、重要なのは、それぞれの優位性を補い協力を拡大し、課題に対処していくことだと述べている。今マレーシアは日本人や世界各国から、マレーシアの生活費やその他において住み易い国と、日本でもNHKにて紹介されたばかりである。この時主席は中国やマレーシアは、地域や世界の平和と、その発展に貢献していきたいとの考えを述べた。今凄い勢いで発展を続ける中国ではあるが、それは沿岸部のみに限って驚くほどの発展を遂げている。しかし、中国やマレーシアはまだまだ全体的には、発展していない国である。これだけの大きな国が、内陸部へ向け発展したならば、恐るべき国になり、その勢いの前に、日本は押し潰されて、身動きが出来ない国になってしまうのではないかと思う。私が、その時代を見れるのかは疑問である。しかし、中国が上海の世界博覧会以後、急速に失速して行くかも、誰にも読めないところである。もし、この大国が失速するならば、マレーシアも共に、強いては日本も巻き込まれる可能性がある。
2006.04.30
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「紹興酒を買いに行って来た」マレーシアの画像はもう少し、更新待って下さい。毎晩紹興酒を飲むのが、ささやかな楽しみの一つ。いつもは、紹興酒の女兒紅(nv3er2hong2)を飲んでいる。一晩に、500ml~600ml(コップに3杯位)飲む。アルコール度は、日本酒と変わらず16.5%位である。今日買ってきたのは、以前飲んでいた同じ紹興酒の、古越龍山(gu3yuelong2shan1)である。味は殆んど同じであるが、この壺が気に入った。今グラスに注いだが、外へこぼれた方が多かった。折角、車で5分掛かるスーパーへ来たので野菜売り場へ行って、写真を撮ってきた。途中で、ここでの写真撮影はお断りと言われ、断念しました。しかし、かなりの枚数は撮りましたので、とき折々に更新していきたいと思います。しかし、2週間前は1週間ほどADSLが不通で使えなかった。そのお陰もあり、1.6キロ痩せる事が出来た。それも、5日間で元へ戻った。最近この3日間は、夜10時ごろになるとADSLが朝まで使えなくなり、画像の登録に困ってしまっている。(きゅうりの画像 10本2.5元(38円))巻心菜(juan3xin1cai)と書いてキャベツである。これだけの結構大きなものでも、1.59元(24円)である。私は、キャベツを千切りにして、味の素と醤油を掛けて、食べるのが好きなので、夜のつまみに、お手伝いさんが、よく作って下さる。ここへ来て見て、24円のキャベツで8回くらい食べれる。1回3円のつまみか?などとも思いながら画像に収めた。今度は白菜である。白菜の事を中国語では、大白菜(da4bai2cai4)と呼ぶが、3.5元(53円)である。白菜は、お手伝いさんが漬物にして下さる。最近では、結構美味しい漬物が食べれるようになった。中国に居ながらにして、白菜の漬物が食べれる。私は、白菜の漬物に醤油をつけ、温かいご飯の上に、白菜を伸ばして、巻物のように箸で包み込み、口にほお張ると美味しく、日本を懐かしめるのである。イチゴ1パックが、5.59元(84円)安いのか高いのか?私には分からないが、昼食の後に山盛り出る。それに、ヨーグルトをたっぷりつけて食べると美味しい。イチゴの中国語は草苺(cao3mei2)と呼ぶが、地方によっては、草果(cao3guo3)と呼ぶところもある。イチゴは体に良いのではあろうが、食べすぎてもいけない。どんなものでもそうであろうが、毒になってしまう場合があるので、注意をしなければならない。私の好きなトップ3に入る漬物材料である。はじめ、お手伝いさんは、こんなものまで漬物に・・・?と、眉をひそめていたが、出来上がった漬物を試食し、今では、彼女の方が気に入ってしまってる。水菜は壬生菜(みぶな)が訛って出て来た呼び名のようである。ハクサイなどと同種でで、塩漬けか煮て食用とするが、私は断然漬物にした方が美味しいと思うが皆さんは、どのように思われますか? 「旬のおかずを食べよう」マレーシアの画像はもう少し、更新待って下さい。香菜の事を日本人の人が「こうさい」って言うので、分からなかった。「こうさい」って何だろうと思ったが、香菜(xiang1cai4)の事であったので何だと思った。お客様より、日本語を段々忘れていきますよね・・?と、言われ、当たっているなとも思い苦笑いした。この香菜を好んで食べる日本人は少ない。5人に4人の人が、始めは馴染めませんでしたという。私は、どんぶり一杯の香菜でも問題なく食べれる。この香菜は一束で2元(30円)位で売っている。香菜の事を「コエンドロ」と呼び、セリ科である。中国では、何にでも香菜を入れるので、嫌いな人は、前もって、言っておいたほうがよい。最近良く出るのに軟骨がある。コリコリして、尚且つ、香菜が入っており私の好物の一つである。この軟骨は何の動物の何処の軟骨でしょうか?スパーで初めて「しめさば」の冷凍物を買ってきた。お手伝いさんに、見せてもどうやって料理するのか?全く分からない様子なので、料理などしたことのない、私が、レンジで解答して実演してみた。丁度電話が入ったので、電話の応対をして切った。レンジの事をすっかり忘れてしまっていた。悪い癖でレンジのタイムをいつも5分くらいに、タイマーセットして、2分くらいで出すようにしている。この時の「しめさば」は、完全に湯気が出て、煮立ってしまった。そこへ、包丁で切ったものだから、身が崩れてしまった。お手伝いさんも見ていて、何かおかしいと思ったのか?日本人ってこんな生みたいなもの食べるんですね?私は「刺身」は、生ですよ!って言うとそうでしたね。と、笑っていた。この前、スーパーで刺身セットを買ってきて、お手伝いさんに食べるよう進め、マグロを食べたが、半分食べて、生臭いと食べなかった。(最近竹の子料理が多くなってきた)竹の子の生が食べたいから、コックさんに伝えて下さい。と、言っておいたら、コックさんが私の所へ来た。竹の子を生で食べるって、一体どうするのか?と、私も作ったことないので、説明に困った。掘ったばかりの新鮮な竹の子を用意して、竹の子の、天辺の軟らかいところを、酢味噌で食べると話したが、分からずに、実現はしなかった。そんな話をしたので、竹の子料理が相次いだ。私は、これをワサビ醤油で食べてます。この前、お手伝いさんが漬けてくれた水菜の漬物。思ったとおり、何とも言えなく美味しい。中国の脂っこい料理ばかりの中で、漬物は欠かせない。私は、漬物を付けたことがなかったが、一夜漬けの容器を空輸便で送ってもらい、説明書きまで書いてもらった。一夜漬けの基も、送ってもらったので、その横にも、説明書きがあり、それをお手伝いさんに通訳した。最近では、結構美味しく漬けれるようになった。この白い山芋がスカスカみたいな感じの歯ざわりもの。何か分かりますか?中国語では「慈悲の姑」と書いて「慈姑ci2gu」と呼びます。歯ざわりは、シャキシャキしていて慣れると美味しいです。「慈姑」と書いて、「やさしいしゅうとめ」と訳します。しかし、この植物は、根を食用とします。日本語名は何と言うでしょうか?それと、食べた事ありますか?
2006.04.30
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「ペニシリンショックが私を変えた(完)」昨夜お客さんの接待から帰って来て更新しようと一生懸命書いたが、夜10時半過ぎから、またADSL不通問題が発生した。しかし、もう私には外へ出て更新するる気力がなかった!ホリエモンは3億円で8キロ痩せが、私は一銭も出さずに、我慢だけで、また痩せてしまうのかとも思った。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックが私を変えた1」からのつづき。(新画像も更新してます)ここまで来ると疲れ果て、以前の半分も仕事に身が入らなくなった。人間とはなんて脆(もろ)いものなんだとも思った。それでも、気力を振り絞って頑張ろうとしていた時、妻に、「私が居なかったら会社は忽ち困ってしまう」と言った。妻は「あなた1人居なくたって、会社なんて何とかなるものですよ」更に「あなたが会社を経営していた時、人が辞めても、直ぐに調達出来て、また今まで通り何もなかったようでした」「でも、私達家族にとって、あなたは1人しか居ません。もしも、最悪の事になったら、私達はどうやって頑張れば良いのか?」最終、辞職することになるのだが辞めてみて思った。私が辞めてより、人材なんてゴロゴロいると思った。私の給料分で二人を雇い、尚且つ、一人を短期の間に採用した。人は己の存在に自惚れてはいけないと、この時ほど、痛感した事はなかった。その後、初めて職安と言う所にいった。実に惨めに感じた。後悔もした。そんな時、私を拾ってくれる人物が現れた。人生は、実に面白い。あれほど逆境に喘いだ事が嘘のようだった。(マレーシアのホリデーインのウィンドウ)たまには出張があるが、商社時代とは違い、いつも決まった時間に、起き、食事をし決まった時間に床に付くことに幸せを感じた。しかし、待遇は商社時代より大幅減だが、妻も頑張っているようで、これでいいんだと自分に言い聞かせたりもした。新しい環境に慣れるまでに、時間は掛からなかった。私は、元々ペニシリンのアナフィラキシーショックの、忌まわしい事故から、全てを捨てて来たような人間だ。そのように語ればチョッと大袈裟かも知れないが、人には、運命と言うものが有ると、この時ほど実感したときは無い!このペニシリンのアナフィラキシーショックに掛かったら、死亡する確率が高くなる。それを、電気ショックで、生き返ってきたのである。私にはまだ使命があると実感した。ひょっとしたら、私はあの時点で、死ぬ運命だったのかも知れない?しかし、今こうしてこの世に生きて、いろんな人と交流している。ものの価値観が、変わってしまったのも事実である。またいろんな人との出会いに新鮮さを、感じるようになっていった。上海メーリングリストのノゲさんとは、もう6年半の付き合い。その人が、私を上海MLに紹介してくれた。そして、その中で知り合ったザビエルさんが、GREEを紹介して下さり、私の今まで生きてきた人生に、花を添えて下さった。今の、GREEのコミュニケーションに、共感を覚えている。(GREEの会員しか見れません。)その上海MLも2006年4月26日で、解散となってしまった。頑張って来られた山岡さんにエールを送ろう。(マレーシアのホリデーインのウィンドウ)GREEとは、楽天が最近やりだしたトップ画面のプロフィール欄の下にあるリンクスなどと書いてある、ソーシャルネットワーキングサービスである。GREEは楽天に先駆け、3年前から始めている。MIXIも全く同じく紹介制であるが、MIXIの方は、不慣れで、活用は殆んどしてないのが現状である。会員しか入れません。私はこの人生は、これっきりと思ってはいる。が、しかし、その反面、生命の永遠さは信じている。それゆえ、今を大切に生命に刻みたい。確かに、GREEの彼らとの歳の差は、親子以上の人も、居るかもしれない。だが、彼らを君呼ばわりした事は、一度もないし彼らとの接点を大切にしたいと思っている。そればかりか、常に彼等との出会いを、真摯に受け止めて、自分の心の歴史に刻みたい。この中国や上海で頑張っているGREEのメンバーに限らず、若者たちのパワーに支えられて、私は生きているような錯覚まで覚える。第一の人生の折り返し地点を、遥かに通り過ぎ、現役生活のゴールまであと、15年となったところで、ペニシリンのアレルギーショックによって、人生が思わぬ方向へ変わった。今、生きる事が楽しくて仕方がない。相変わらず分刻みの忙しい毎日ではあるが、一歩一歩着実に踏みしめて行こうと思う。中国や上海在住の日本人はもとより、中国人との、コミュニケーションも、密に、しなければ成らない。ゆえに、中国語をもっと勉強せねばと思う今日この頃である。中々、中国語の学習も進んでないが、少しずつでも、勉強をし、更新を続けて行きたいと思うのである。ペニシリンアレルギーショックは、これでおしまいです。懲りずに最後まで見て頂き有難う!「ペニシリンショック 完」
2006.04.29
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「ペニシリンショックの前日1」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日2」からのつづき。(クアラルンプールの画像は重複しております)サウナ室の作業員の見守る中、お湯を掛けて洗った。何度も何度も・・・。この血って、洗っても洗っても中々匂いが取れなかった。しかし、その夜妙な寒気に何度も起こされる!昨夜薄着で3時間走りまわったから風邪をひいたらしい・・・今朝起きた時には扁桃腺の痛みで、お湯が飲めれなく、寒気がしていた。それでも午前中は、その痛みに耐え仕事をした。午前中仕事をするが、気分が悪い! 昼に私は、白酒のお湯割を2杯飲んだ。また、鶏肉のスープが、身体に良いと沢山食べたが、まだまだ気分が良くならないので、工場備え付けの医務室に行き「点滴」を打ってもらう事にした。ペニシリンのアレルギーはありますか?との、医師の言葉に、私は小さい頃から、ペニシリンのアレルギーなど、一度もないと、話はしたが、アレルギーショックにでもなったら、それこそ大変だから、テストだけはしないとね!と医師からテストをしていた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「アレルギーの検査」は、陽性反応のようにハッキリした赤い円形にはならなかったが、まっ!問題ないでしょうと、点滴の用意が始まった。ペニシリンの粉末が入っている小さな瓶を用意し、ブドウ糖液を注射器で吸い取り、そのペニシリンの小瓶に注入し、5本の小瓶にブドウ糖液を注入しおわり、どうするのか見ていた。親指と人さし指で、その小瓶をつまみ、横へ振りながら中のペニシリンの粉末が、ブドウ糖液になじむまで振る様子だった。私より「手伝いましょうか?」と、聞いてみたが、病人は寝ていなさい!と、ニッコリ笑って、瓶の中の粉末が、ブドウ糖と混ざったかどうか?を、自分の目線の位置に持って来て確認していた。それを見ているだけで、余計に体温が、上がってきそうな錯覚をも覚えた。どれだけの時間が経ったのだろうか、その小瓶にまた注射針を刺し、中のペニシリン液を抜き取って、ブドウ糖の入った点滴液に注入していた。やっと用意が出来たとの思いで、見ていた。腕を縛るためのゴムチューブと点滴液の入った瓶を、ベットの横の、掛ける所へ点滴の瓶を掛け、新しい注射針と、点滴液からの、チューブを、枕元へ置き、おもむろに手を握り、血管が浮き出ている所を探していた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)この頃には80キロの体重があり、当然手にも贅肉がつき、「血管が浮き出て来ないね」などと言いながら、女医が手を「パチパチ」叩いていたいたが、まだも「パチパチ」叩くものだから、赤くなってしまった。仕方なく、手首の血管を再度「パチパチ」と、今度は、目標が見えてきたようで、注射針に被せてあるカバーをはずし、血管めがけて、ぶっ刺した。点滴液の根元のネジを緩めると、血が逆流し、透明な管が真っ赤に染まった。慌てて、点滴の落ちるスピードや、点滴の位置などを確認していた。1時間半の点滴の最中、ぐっすり眠ってしまった。相当疲れていたのだろうとも思いながら、点滴の終了した注射針を、抜いて頂き、いきなりベットから下り立ち上ると、フラフラする感覚を覚えた。その事を医師に伝えると、点滴した後5分ほど静かに横になってなさい。と、言われたが、今までの点滴の感覚と少し違っていた。「どうも様子が違うが・・」と言っても、「すぐには治りませんよ!」と、そして「元々、9度2分の熱だからね」と、医師は、昼食の時間が少し過ぎ、眠いのか気分悪そうにしていた。「ペニシリンショックの前日2へ、つづく」
2006.04.28
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「ペニシリンショックの後遺症2」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの後遺症1」からのつづき。(新画像も更新してます)蕁麻疹だけなら未だ良かった。気管支に出来た蕁麻疹の為、咳が止まらなくなってしまった。風邪で気管支を患い、咳が止まらなくなるような症状が続き、中国江蘇省の地元病院に戻って、専門医に見てもらった。薬を2回替えてもらったが、症状は良くはならなかった。喉から胸から脇腹全てに、ジンマシンが出来出した。その後は、咳が1ヶ月以上止まらず苦しんでいた。私がペニシリンのアレルギーショックに、掛かり死ぬ思いをした事は、私の担当する工場へ、すぐに広まった。各工場の董事長や総経理から私の携帯電話へ連絡が入った。殆んどの人が、自分が見聞きした事を私に語った。その内容は、皆一様に、ペニシリンのショックで、亡くなった話ばかり・・・。最後には、電話の応対に疲れ、咳も出るので、携帯の電源を切った。咳が止まらずに、苦しい日々を過していた。上海付近の病院へも行ったが、咳を止める薬は見つからなかった。中国春節(旧正月)まで何とか我慢して、仕事だけは片付けた。(タイのクワイ川遊覧カラオケ)その頃には、私の身を案じて日本から、社長と専務が、駆けつけて下さった。専務は、私の元気な様子を見て、アンタが死にそうだという事で飛んで来た。と、不思議そうに言った。翌日、専務は用事が有るからと、日本へ帰ったが、社長の方は、私を日本へ連れ戻すまで、残ると強情だった。この事で、日本へは社長命令で、社長と共に、強制帰国となり、日本で入院することになった。春節を利用して社長と共に帰国した。空港などでも、荷物を持つ体力もなく、社長が私の重たい荷物を、ふら付きながらも運んで頂いた。日本へ付き、我が家にも戻らず病院へ直行した。初めの病院は社長の友人である個人病院だった。私の咳はというと、それから日夜をとわず続き、日本へ帰ってからも3週間以上続いた。当然、日本の病院へ入院したが、咳を止める特効薬が、見つからなかった。丸一日検査が続いた。内臓がどうなっているとか、そんな事は、どうでもよかった。(クワイ川沿いの尼寺の尼さん)ただ、この咳を止めてほしいと懇願したが、検査の結果が出ないことには、薬も出せませんからねと、医師は申し訳ない顔をした。看護婦は、先生から「これを渡すように」と言われたと、トローチを置いていった。な~んだ!トローチかなどとも思った。一粒舐めてみたが、喉の痛みが、和らいだような、感じがしたが、咳は相変わらず止まらないばかりかひどくなっていった。社長は毎日病室へ通ってくれた。専務は一度見舞いに来てくれたが、その中で、ジョークを飛ばして行った。そのジョークとは、中国へ慌てて行った時に、「あんたが危ないって聞いていたから」数珠を持参して中国へ行ったんだけど、使わずに済んだよ!っと、笑いながら言うものだから、笑うと咳が余計にひどくなった。妻や娘も病院へ駆けつけたが、「何やってんのよ~!」「しっかりしてくれないと!」娘からは、「父さん辛い目に遭ったんだから」「母さん!車の中で言ってた事と違うこと言ってる!もう!」こんな時にも、咳は止まらなかった。1週間を個人病院で過したが、咳が止まらなかった。「ペニシリンショックの後遺症3へ、つづく」 「ペニシリンショックの後遺症3」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの後遺症2」からのつづき。(新画像も更新してます)社長は意を決したように、「病院を替えよう!」と、病室に飛び込んできた。総合病院に替わることになった。何が何だか分からないまま、病院を替わった。病院を替わったのはいいが、また検査攻めにあった。そして、今までの薬を没収された。2日間薬なしの状態が続いた。検査の結果、腎臓・肝臓は問題なかったが、心臓の不整脈が見つかった。3日後に、薬が出たが、5日間飲んでも症状は、良くはならなかった。最後に程度の酷い喘息者が使用する粉末状の、薬を頂いた。咳がひどくなったら、口にくわえて強く息を吸い込み、粉末状の粉を吸い込んだ。(マレーシアのホリデーインのロビー)(福を反対にする事は、福が来るとの意)日本へ帰国して、直ぐに入院したが、咳が止まらない。付属病院へ入院しても、その咳は止まらなかった。喘息患者が吸う粉末の薬を吸い出してより、3日目より段々良くなっては来たが、一度咳をし出すと、中々止めることが出来なかった。6日ほどして、症状は、相当良くなってきた。帰国して2つの病院へ入院してより実に20日間だった。中国での旧正月の休暇も、相当前に終わり、出勤をしていて、病院へも、営業マンが、技術のことで、私に指示を仰ぎに来ていた。妻は、150キロの道程を、たまに来てはくれたが、いつもバツの悪いことに、営業マンが来て、打ち合わせをしている最中ばかりだった。妻の心は次第に、変化して行った。仕事最前線の姿を見たのか?病院に来ては、商社の仕事を、辞めて欲しいと言っては、帰っていく日が続いた。妻よりの懇願の言葉を耳にする度に、私には、この仕事しか出来ないのに、一体どうすればいいのだとも思った。しかし、咳は止まったとはいえ、体力は落ちてしまい歩く時も、自分の身体ではないような感じだった。(マレーシアのホリデーインのロビー)(福を反対にする事は、福が来るとの意)薬の投与は続けられた。ロキソニン60mg フロモックス100mgそして、吸入専用のフルタイド100マイクロ(μ)医師とマイクロとミクロの違いについて、討論し合ったが、大分よくなったのですね~と、担当医師もうれしそうだった。しかし、私と言えば夜中に襲う、咳き込みにフルタイドティスクヘラーを、使いそのミクロの粉を吸うのであった。総合病院に入院していると、30分毎に救急車の、甲高い音がした。そして、昨日まで元気で、笑っていた人が、今朝には、ベットの上が綺麗に、片付けられているという光景を目にした。私の病室にも人が出入りした。初めは咳がひどいので、敬遠していた人が、慣れてくると日夜を問わずいろんな話に来ていた。看護婦や医師に見つかっては、注意されても、中国の話が聞きたくて、私の病室へやってきた。「ペニシリンショックの後遺症4へ、つづく」
2006.04.27
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「ペニシリンショックの当日3」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日2」からのつづき。(クアラルンプールの新しい画像です)どうしても私の脳では制御できない!車の中でも「苦・・しい!」の、途切れ言葉の連発と、「寒い!」「寒い!」「息が・・出来・・ない!」の連発だったと言う。結構、脳はしっかりしていた。身体の制御の自由は奪われたが、皆の慌てる姿や、女医が今にも泣き出しそうな、表情まではっきり確認できた。病院に着いた。工場より電話をして有ったらしく2人の医師と3人の看護婦が待機していた。治療室に移動ベットで運ばれた。ベットの上に横たわっていても、手だけは大きく左右に振動していた。心電図を測ろうと、看護婦が私の手首に、心電装置を巻こうとするが、手の揺れが激しく何度も失敗した。今度は男性医師が替わって、私に挑戦したが、心電装置を巻くことができず、失敗に終わってしまった。(マレーシアのホテルのプールにて)苦しい中呼吸困難な中でも、脳はしっかりしていた。次に二人掛りで心電装置を、手首に巻きつけた。 心電図の装置から腕で測ったが、震えが激しいために、機械がエラーしてしまう。私は、この世の見納めと必死に頑張った。呼吸と胸の苦しみは極限に達していた。「1500M競争」を全力で、走り抜けた後のような、激しい呼吸が続いた。また、胸が苦しくエビのように、反ったと言う。皆の声が次第に薄れた・・・「走馬灯の様にいろんな思いが脳裏を走った」胸を一生懸命叩いている医師の、顔がぼんやり霞んで見えた。周りからは大きな叫び声が聞こえた。その大きな声も段々と遠くに聞こえ、気を失った後は何も覚えてない。私が意識を無くしている間の事は、周りで私の、状態を見ていた人達の証言を基に書き綴った。医師は私の瞼を開けて、懐中電灯で瞳を照らしていた。瞳孔の変化を確認したのだろう。その後、心電図をとるために、手首から足まで、電極でつまんでいた。そして心電計を作動させていた。殆んど、反応がなかったという。(マレーシアのホテルのプールにて)医師たちは、大慌てで私の胸を何度も叩いたり、押えたりしていた。最後に、電気ショックを使用するため、その装置が治療室へ入ってきたという。電源を入れ、私の胸にあてた。私の上半身がエビのように反(そ)ったという。皆は最悪のことを考えていたようで、特に私に、ペニシリンを打った女医は「私は逮捕されるどうしよう」と、皆にしきりに話していたという。2回の電気ショックの後、心電図が大きく音を刻みだし、それと同時に胃の中の物を吐き戻した。「活き帰った!」と言う声が聞こえた。工場の医務室の「女医は涙をこぼしている」 10人ほど駆け付けた工場の女性管理者も声を上げて泣きじゃくっている。あれほど震えていたのが嘘のように、身体の震えも止まっていた。身体は何とも無かったかのように平常を保っていた。午後2時半担ぎ込まれてから1時間30分の、信じられない出来事だった。皆が「活き帰った」と言うのであればそうしておこう。人民病院の医師は「あなたは心臓が強い!だから助かった!」と言葉を残して行った去った。その頃日本では大騒ぎしていた。何度も事務所へ連絡を入れたり各担当者に連絡していた。「ペニシリンショックの当日4へ、つづく」 「ペニシリンショックの後遺症1」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日4」からのつづき。(古い画像の未更新のものを更新)日本にいるときには陽性だったが20年も前の事。中国でもペニシリンを投与したのは8年程前のこと。そして今回は第一日目に、ペニシリンを打ったが、パッチテストをしてから投与した。しかし、中国の第一病院の医師はこう語った。以前アレルギー反応テストをして問題なかったと、いっても、人の体は大体3年で細胞が入れ替わり、ある種の薬は、拒否反応をしてしまうとの事。このアレルギー反応のバッチテストは、昨日問題無かったからと言って、今回も問題無いとは断言できないという。それが、テストを行わずに投与した場合、最悪ショック死すると言う。患者の疲労状態が悪ければ、アレルギーショック状態になってしまう。15年ほど前の中国では、このショック死事故が多発したと言う。私の場合は点滴を打つ前日に、相当、輸出通関のトラブルで疲れていた。そして、今までの出張の疲れが、一気に身体に現れ、医師は私の身体を早く良くしようとした。その医務室の女医の行為が、逆にあだとなってしまった。しかし、今こうしてタイプできるのも、生きてればこそであると通関する。(タイのエメラルド寺院の壁画)私は誰をも恨んでいないし、女医すらも恨んでなかった。だが、その女性医師は責任を感じたのか、逮捕を恐れてか失脚してしまった。その後、風の便りで広東省にいると、聞いた事があるが、大事に至らなかったため、医師免許も剥奪されず良かったと思う。アレルギーショックの翌日、担当している工場で、セレモニーが行われた。総勢、200人の来賓を招いての式典だった。私は一番前の席に着いたが、ショックの後の、後遺症によるとおもわれる、シャックリが止まらずにいた。シーンと静まり返ったセレモニーの会場、軽く咳払いをしても大きく響くほどであった。それが、横隔膜の痙攣による、シャックリである。昨日のペニシリンショックのことを知らない、来賓の人も多かった。私が、シャックリをするたびに、皆さんの視線が、私に注がれた生理的現象のシャックリは、我慢して、止まるものではなかった。シャックリは突然にやって来た。ある人は、私に水を一気に、飲んできた方が良いと、メモに書き手渡してくれた。しかし、私の場合は、自然に起こったシャックリではなくアレルギーショックによる横隔膜痙攣によるものだった。1時間の来賓挨拶の中に私も入っていた。社長がどうしても日本から来れなく、私が代理で、挨拶をする事になっていた。中国語で話す挨拶にも力がこもってなかった。そして、突然襲ってくる、シャックリ!訳を知らない人たちからは、笑いが起こり、最後には、私のシャックリを期待するような、雰囲気に変わっていった。(クワイ川に架かる鉄橋)私よりは、7・8分間ほどのスピーチを頼まれていた。はじめは、担当している工場のこと、また、皆様からの支援の要請や品質向上について、話していたが、シャックリが起因して笑いの渦になった。私は、突然に話す内容を切り替えた。一昨日起こった事を話し出し話し終わる頃には、私が、シャックリをしても誰も笑う人はなかった。皆さんの挨拶も終了し、宴会に入った。多くの人が、私のところへ来て下さった。そして命を落とさずに良かった事も話しながら、皆さん、ご自分の席に着かれてからも、心配そうに私の方を見ておられた。その後、夜中構わず続いたシャックリは、2日後に止まった。そのときに、シャックリでの、横隔膜の筋肉の痛みと、胸を思いっきり叩かれた痛みだけが、快い気分の中に、痛みとして残った。「シャックリ」でも2時間くらいなら致し方ないと思う。しかし、この横隔膜の痙攣により誘発された、シャックリではあるが、ペニシリンショックの後遺症により、一日経った頃から起こり始め、丸二日間続いた。辛いという度合いを越えていた。そのシャックリも、気が付いた頃には、自然に治まっていた。その次に、私を襲ったのは、全身に出来た蕁麻疹に苦しんだ。口の中や舌にも蕁麻疹が出来、この分では食道や、気管支にまで出来ていると思った。「ペニシリンショックの後遺症2へ、つづく」
2006.04.27
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「ペニシリンショックの前日2」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日1」からのつづき。(クアラルンプールの画像は重複しています)この私が点滴を受けた所は、市の病院ではなく、工場の医務室だった。何となく身体の震えを感じながらも、今晩一晩様子を見ましょう!と女医の言葉。ペニシリンは5本を使ったようだ。何とも変な後味を残しながらも、医務室を出て、外に出た。その工場の董事長(会長)に会議をすると、伝えて有ったので、董事長より、身体の方はどうですか?との、電話が入った。すぐに大会議室に行くから、管理者を集合さすよう伝えた。私が、その大会議室へ着く頃には、22名ほどの班長や管理者が、揃って待っていた。私は壇上へ立っても、気分が優れなかった。今日の会議は中止した方が、と、總経理(社長)から、心配して言われたが、会議のテーマに沿って話し出した。会議が終わり、再度体温を測った。まだ8度8分の熱があり、早い目にホテルの、部屋まで、送って頂いた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)その夜は、一緒に血まみれになった、中国の友人と共に、食事を摂った。ビールはやめ、紹興酒を熱くして、結構、その紹興酒を飲んだ。そして、昨夜の出来事のことや、犯人の目星がついた事など、彼は、私に告げるが、私はうわの空で聞いていた。そんな折、友人の携帯が鳴った。短い電話の内容は、警察からであった。殺された青年の両親が、安徽省から来ていて、我々に、お礼を言いたいとの事。私は、身体の不調を理由に、断ろうと思ったが、友人は来て下さいと念を押すので、仕方無しに頷いた。彼は食事をしているホテルの餐館の名前を伝え、電話を切ってしまった。30分足らずで、その両親が来たが、安徽省の田舎から、出てきたのか、よれよれの背広スーツを着用していた。そして、なまりのある共通語で、色々とお礼を言われた。私は座るように促したが、すぐに失礼するからと、立ったままであった。母親は、目に涙を浮かべ、時折、しずくが床に落ちた。長女が居るらしいが、男は彼一人で、これからどうして生きていけば良いのか?分からないとも訴えて来るが、私からは、どうしてあげる事もできない。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)10分ほどの対面だったが、ご両親の気持ちが痛いほど分かった。私とほぼ同じ年恰好だったのも、彼等の気持ちを理解できる要因だった。酔いが醒めたような感じで、紹興酒を再度熱くして頂き飲んだ。その夜中は、玉のような汗が噴出し、布団まで濡れてしまった。翌朝、どうも調子が戻らないので、皆の勧めどおり、再度、同じ医務室に行った。まだ治らないの?と言う女医の声に、どうもしっくり来ない!早く治さないと、仕事に影響を及ぼしてもいけないと話した。そして、女医は昨日と同じペニシリンを用意した。女医は私に「昨日は確か5本のペニシリンを入れたのだけど・・」あなたは、肥えているからと、「ペニシリン5本から8本打ってあげますね!」と、本数を多く打てば治るものなのだろうか?など思った。ホテルの朝食は、日本の味噌汁や、目玉焼き・海苔・漬物といったものではなくバイキング方式で、目玉焼きであれば、先に注文し、出来上がったものを食べる。中国の朝食のベストスリーは、お粥・マントウ、焼きそばである。地域によっても違いがあるが、おかずが旬の野菜類である。「ペニシリンショックの当日1へ、つづく」 「ペニシリンショックの当日1」1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。「中国語の学習」と「上海発!画像の更新!」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日2」からのつづき。今朝も同じ様に、食堂へ行ったが、熱の為に、朝食に手を付けたものの、味がしないために、少し口にしただけで食べるのをやめた。そんな事を思っている間に、ペニシリンの点滴の準備が、着々と進んでいた。女医は、「ペニシリンの反応試験は昨日したよね?」などといいながら、「今度は量を多くしたから良くなるよ!」と、ペニシリンが大量に入った点滴瓶を、上の引っ掛け棒に吊るし、昨日と同じように、手首を「ビシャ、ピシャ」と叩いた。注射針を血管に差し込みながら、「今日は昨日より30分多く掛かるよ」と、言った。早く治るのなら、30分の時間が掛かっても、問題ないよね!などの、会話が流れた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)点滴を打つ、2時間の間に、よく眠ったようだ。気が付くと、あと10分ほどで、点滴液がなくなろうとしていた。また点滴を打ち終わった後で、トイレに行きたくなった。2時間以上トイレに行ってないのと、点滴の水分を、取りすぎたのだろう。点滴の注射針を外して頂き、直ぐにトイレへと駆け込んだ。用を足し、病室に戻る折、昨日よりひどい震えに襲われた。病室へ付くなり、その震えの度合いが増した。私から女医に現状の体の変化を訴えた。ペニシリン5本のところを8本にした事で、体がおかしくなったのでは?とか、今回はペニシリンの反応テストを、しなかったから駄目なのでは・・?などと、聞いてはみたが女医よりは、ペニシリンの反応テストは、昨日したから、今日はしなくて良い!量を少し多くしたくらいで、身体に影響はない!と、そのまま、工場の医務室を出て、付き添いの言うとおり事務所に入った。どうも身体が変だ!身体の震えがどんどん酷くなった。日本へ電話をしなければ・・・。今まで起こったことや、これから起こる未知との遭遇を・・。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)会社の誰が信じてくれるだろうか?また冗談をやってるくらいに、片付けられてしまうのでは・・・・。いろんな事が脳裏をかすめた。意を決して受話器を取った。ダイヤルを押そうとするが、ダイヤルを押すことができない。身体の震えが手に伝わり、指先まで伝わっているようだ。その震えの度合いは、横幅で15センチを往復していた。この震えが来る前の医務室での会話は、いつもの点滴を打った後の感じ方と、現在とで違う。この震えは異常発生の前兆では?と、女医に伝えた。医務室の女医は、怪訝な顔で、「変なことを言わないでよ!」と私に言った。さらに、「布団を被って点滴をし、打ち終わった後で、トイレに行ったから、外に出て寒いんですよ」と、そして、取って付け加えたように、「体内の中の暖かい尿を出したから」と、言って口ごもった。しかし、生まれてこの方味わった事の無い、寒さによる震えと、脳では制御できない手や体の震え・・・それでも仕事をしようと思い、ペンを持とうとするが、ペンが持てれない。「ペニシリンショックの当日2へ、つづく」 「ペニシリンショックの当日2」(クアラルンプールの画像は重複してます)2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日1」からのつづき。ボールペンを持っても手が左右に15センチ以上、震えるため、左右に線を書くだけ・・・。 電話をしようと、携帯電話を取ったものの、震えのため携帯電話を、落としてしまった。事務員がバラバラに分解した携帯電話を拾って組み立て、私に手渡してくれるが、それを手に、取ろうとしても、手の震えが更に大きくなり、受け取ることもできない。その女子事務員は、始め、甲高い笑い声を、上げていたが、事の異常さに気付いたのか、慌てて総経理室へ電話を入れていた。何とかFAX用紙に今の情況を、書き綴ろうと思うが、手の震えは大きく、15cmをジグザグに、線を描くだけだった。事務室へ行き固定の電話より電話しようと思うが、手の震えにより、プッシュホン押そうと思っても、15cmの手の震えによってボタンが押せれない。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)中国人に頼むが、「冗談ばっかりやってるんだから・・・」と、笑っているだけ・・・そして別の中国人が日本へ電話した。「日本人が出た」と私に告げるが、猛烈な胸の苦しみと、両手の震えと真っ青な顔色に、中国人は「ただ事ではない!」と、この時点で、悟った様である。私は受話器を受け取った。しかし震えのため言葉にならない。商社のアシスタントが、電話に出る。相手の声ははっきり聞こえる。だが私は、一生懸命になり、話そうとするが言葉にならない。元々FAXを書きそれを見て下さいと、言おうとしたのだが、「FA!FA!FA!!」電話の向こうでは、「どちら様ですか?もしもし?」「はぁ!はぁ!」「FA!FA!」「もしもし、どちら様でしょうか?」「もう!もう!ダメ!」「いたずらはやめて下さい!」いたずらではなかった。更に、アシスタントは、「どちら様でしょうか?」「もしもし・・・?」(クアラルンプールの中心街百貨店にて)私よりは、「胸!胸!苦し、、、い!」「FA!FA!FAX!」と、しかし、日本語になってなく、「変な電話はやめて下さい」と、言って電話の音声は途切れた。もうダメか?日本へも知らせれない!そんな折、私は気付かなかったが、「ブーザンが大変なことになった」と、中国人より、私の会社へ連絡が行った。持っていた受話器は、手から離れてしまった。「息が出来ない!」「苦しい!」「事務の男3人が、私を抱えるように、車に乗せ人民医院へ」医務室からも点滴を打った女医が、形相を変え飛んで来ていた。「緊張しないよう!」「深呼吸をして・・・!」この時、女医も事の重大さが分かったようだ。何度も大きな声で、「緊張しないように!」と、掛け声を掛けていた。「ペニシリンショックの当日3へ、つづく」
2006.04.26
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「ペニシリンショックの二日前1」今日も相変わらずADSLは不通のまま、この1週間で、1.6キロ痩せてしまった。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。この話は連載で、ブログに載せたことが事が有るが、ここでも紹介しておきたい。以前にも一部の人にはコメントの中で書いたと思うし、まだ最近でも、このペニシリンショック死が上海でもある。その事を、今回ネットの不調で外に出る機会が多くなり、地元中国人から3日前にこの近くの病院で亡くなったと教えてくれた。私は場所と団体名を敢えて伏せさせて頂きました。出張先のホテルの横に1階サウナ2階ボーリング場3階ディスコがあり、私は久しぶりにディスコへ行った。こんな年でと思うかもしれないが、私がモード学園へ、入った頃(32年前)に、ディスコが大流行していた。そのディスコの話はいつかするとして・・・! どんな出来事が起こったかを書いていこう。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)ディスコの中央の私の前で踊っていた青年が、よろよろっと、私に倒れ掛かかってきた。相当酔っぱらってるな?と、思いながらも抱きかかえて、起こすがまた倒れかかるので、これは何か具合でも悪いと、中国の友人に、フロントへ知らせる様連絡・・・係りの人が来る前にブーザンは手に付着した粘っこいものに、気付き友人とその人を引きずりソファーへ寝かせました。女の子の「ギャー!」っと言う声にも、まだ気付かずに、踊っている人達、係員に大声で、「馬上停止音楽!」と、3回の大声でやっと止めてくれた。照明を付けるようにうながし、直ぐに「110番へ」連絡・・腹部の動脈を刃物で一突きされている。四方八方血の海・・・ふと友人の服を見ると、血で真っ赤になっている。友人も私の服を指差す。ブーザンの服も血だらけ・・・皆は私達とその人を遠巻きにしている。「止血をしようと思っても腹部である」私のシャツの袖を、引き千切り力を、込めて押えるるのがやっと・・・彼の頬を叩くが意識朦朧・・・「こんな所で死ぬんじゃないぞ!」「警察はどうした!」「救急車は無いのか?」と、大きな声の中国語で叫ぶが、誰もが只見ているだけ・・・彼の心臓に手をやるが動きが分からない。ワイシャツの袖から、血が溢れ出る。「どんな恨みが有ってこの青年をこんな目に・?」「彼は目を開いたまま身動き一つしなくなった」ブーザンは彼の顔を思いっきり叩いた!叩いてまた叩いた! 堪りかねた中国人が私の腕をつかんだ。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「そんなに叩かなくても良いではないか!」緊張した雰囲気が流れた。私の友人が医者を呼んでいたらしく20分ほどして近くの医師が来た。 医師はブーザンに「貴方の友人か?」と聞くが、そんな事より「どうですか?助かりますか?」と聞いた所、「脈はかすかに有るが、これでけの血を流している。輸血しても無理かも・・・」医師は車で来たが「この人を乗せる訳にはいかない!」と、シートが血で汚れる事を嫌がった。中国の友人が「誰か担げるものは居るか?」と、大きな声で言うが目をそむけるものばかり・・・「彼の友人は・・・」と聞いても誰も何も答えない!ブーザンと友人で担ごうとするが、180センチの頑丈な身体は、びくともしない!私の友人が「公安警察が来た!」との声に、振り向くと「誰もここから出るな!」と言っている。無線で応援を呼んでいるような感じだった。そして、私の友人を捕まえようとするので、店の支配人が弁明するが、人命救助が先決とののしる!タンカに載せて運ぶが、3階より1階へ、下ろすまでににも、血が流れ落ちる。ブーザンと友人は人民医院へ行きたかったが、それは、警官より許可がでなかった。私と友人また支配人は事情徴収を受けた。「ペニシリンショックの二日前2へ、つづく」 「ペニシリンショックの二日前2」ADSLが直って、外に行かなくとも出来るように、なった。それは嬉しい事ではあるけれども、体の方が、直ぐに切り替えられないでいる。画像はマレーシアの百貨店内の画像であるが、登録する時間が無く、重複している画像が多く、見受けられるとは思うが、無視をして下さい。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日1」からのつづき。その事情徴収を受けている1時間くらい過ぎた頃に、先ほどの青年は、輸血の手続き等をしている間に、完全に息き絶えてしまったと一報が入った。私の事情聴取は、簡単な形式程度で終わった。江蘇省の片田舎で、1時間も走れば安徽省だった。ここの街の公安局も貧しい田舎の割りに、立派な建物である。また、幹部の人達とも、2度食事をしていたので、2人の公安幹部も私を知っていた。公安幹部が私を知っていた事も助かったし、私の身分を証明するパスポートも、携帯していたので処理が早かった。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)しかし、中国の友人はかなり厳しく取り調べられていた。ブーザンは通りすがりだったが、この青年を、救えなかった事に腹が立った。ディスコでの暗がりの中での見事な一突き!喧嘩もしてない!恨みを持った犯行であるとは思うが・・・真相は本人が死亡し、犯人は早くから逃走!彼の交友関係を洗うしかないだろう??? ブーザンと友人も血のりが乾きだした服を、着たまま取調べを受けていた。取調べを受けていた2時間の間にも、いろんな犯罪者が連行されて来ていた。取調べの最中にいきなり大きな声がしたかと思い、そちらの方を振り向くと、当に手錠を掛けるところ、泣き出す中国人青年の顔・・・。私の友人の取り調べもそろそろ終わりに近づいた。顔馴染みの公安の幹部のうちの1人が、「その血だらけの服装ではどうにもならないですね」「これはそんなに綺麗とは言えないが、この服に、着替えて直ぐサウナに行き血を洗い流してください!」詳しく聞くと、清掃作業員の服らしいが、血のりの着いたジャンバーやシャツよりは、まだましと思いそれを羽織った。そして私たちの後に背の丈185cmはあろうかという、男性が仁王立ちに立っていた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「非番の警官を同行させますから・・・」そして、遊戯施設一階のサウナに、ハイエースバンのパトカーに乗せられ一緒に行った。サウナのフロント嬢や支配人は、その非番の警官を見るなり、「さっきこの3階で殺人事件が有ったって本当ですか?」などと聞いていたが、「この人達を中へ入れてやってくれ!」と、二人分のサウナ代を支払うと、私達に一礼して帰ってしまった。サウナ室の方へ行くと「や~!ブーザンさん!」と、いつもの掛け声!その掛け声と同時に、「どうしたんですか?その血は?」皆さんビックリ顔!!サウナには、顔見知りのメンバーもいたが、何があったのか?と、いう顔で、身体を洗う手をとめて我々を見入る者や、バイブラバスより身を乗り出して、面白そうに見入る者。また、近くまで来てこの3階で起こった事を、いかにもその場に居たような感じで、得意げに話す者、様々だった。そして皆が驚いて見るのも、不思議ではなかった。下着は替えなかったので、白の下着の両腕に血が染み込んでいた。「これは捨てて下さい!」と言い置き、代わりの下着を買ってくるように促した。夜も10時過ぎと遅かったが、個人の店で、買って来てくれたようだった。そして、血のりの付着したジャンバーや、シャツや、ジーパンをサウナの中へ持っていった。「ペニシリンショックの前日1へ、つづく」
2006.04.25
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「ペニシリンショックの二日前1」今日も相変わらずADSLは不通のまま、この1週間で、1.6キロ痩せてしまった。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。この話は連載で、ブログに載せたことが事が有るが、ここでも紹介しておきたい。以前にも一部の人にはコメントの中で書いたと思うし、まだ最近でも、このペニシリンショック死が上海でもある。その事を、今回ネットの不調で外に出る機会が多くなり、地元中国人から3日前にこの近くの病院で亡くなったと教えてくれた。私は場所と団体名を敢えて伏せさせて頂きました。出張先のホテルの横に1階サウナ2階ボーリング場3階ディスコがあり、私は久しぶりにディスコへ行った。こんな年でと思うかもしれないが、私がモード学園へ、入った頃(32年前)に、ディスコが大流行していた。そのディスコの話はいつかするとして・・・! どんな出来事が起こったかを書いていこう。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)ディスコの中央の私の前で踊っていた青年が、よろよろっと、私に倒れ掛かかってきた。相当酔っぱらってるな?と、思いながらも抱きかかえて、起こすがまた倒れかかるので、これは何か具合でも悪いと、中国の友人に、フロントへ知らせる様連絡・・・係りの人が来る前にブーザンは手に付着した粘っこいものに、気付き友人とその人を引きずりソファーへ寝かせました。女の子の「ギャー!」っと言う声にも、まだ気付かずに、踊っている人達、係員に大声で、「馬上停止音楽!」と、3回の大声でやっと止めてくれた。照明を付けるようにうながし、直ぐに「110番へ」連絡・・腹部の動脈を刃物で一突きされている。四方八方血の海・・・ふと友人の服を見ると、血で真っ赤になっている。友人も私の服を指差す。ブーザンの服も血だらけ・・・皆は私達とその人を遠巻きにしている。「止血をしようと思っても腹部である」私のシャツの袖を、引き千切り力を、込めて押えるるのがやっと・・・彼の頬を叩くが意識朦朧・・・「こんな所で死ぬんじゃないぞ!」「警察はどうした!」「救急車は無いのか?」と、大きな声の中国語で叫ぶが、誰もが只見ているだけ・・・彼の心臓に手をやるが動きが分からない。ワイシャツの袖から、血が溢れ出る。「どんな恨みが有ってこの青年をこんな目に・?」「彼は目を開いたまま身動き一つしなくなった」ブーザンは彼の顔を思いっきり叩いた!叩いてまた叩いた! 堪りかねた中国人が私の腕をつかんだ。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「そんなに叩かなくても良いではないか!」緊張した雰囲気が流れた。私の友人が医者を呼んでいたらしく20分ほどして近くの医師が来た。 医師はブーザンに「貴方の友人か?」と聞くが、そんな事より「どうですか?助かりますか?」と聞いた所、「脈はかすかに有るが、これでけの血を流している。輸血しても無理かも・・・」医師は車で来たが「この人を乗せる訳にはいかない!」と、シートが血で汚れる事を嫌がった。中国の友人が「誰か担げるものは居るか?」と、大きな声で言うが目をそむけるものばかり・・・「彼の友人は・・・」と聞いても誰も何も答えない!ブーザンと友人で担ごうとするが、180センチの頑丈な身体は、びくともしない!私の友人が「公安警察が来た!」との声に、振り向くと「誰もここから出るな!」と言っている。無線で応援を呼んでいるような感じだった。そして、私の友人を捕まえようとするので、店の支配人が弁明するが、人命救助が先決とののしる!タンカに載せて運ぶが、3階より1階へ、下ろすまでににも、血が流れ落ちる。ブーザンと友人は人民医院へ行きたかったが、それは、警官より許可がでなかった。私と友人また支配人は事情徴収を受けた。「ペニシリンショックの二日前2へ、つづく」
2006.04.25
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「上海B級グルメ3」今日も上海浦東閔行区一体でADSLが不通のまま。画像の登録には大変時間がかかった。相変わらず外に来て、更新しているので、皆さんが思っている以上に、苦労して更新している。上海MLが主催している上海B級グルメの会が、2006年4月22日午後6時半より開催された。下の料理は、海参(hai3shen1)と言い、日本では「ナマコ」どうして海の人参の参と書いて、ナマコなのかと言うと、人参(ren2hen1)朝鮮人参と同じような薬効があるとされ、昔は重宝がられたが、今では料理に頻繁に出される。「海のニンジン(人参)」で「海参」とは上手く名付けた。「海の豚」は何?「河の豚」は何か分かりますか?ナマコを乾燥させたものを水で戻して料理をする。ナマコの硬い感じはしなく、非常に軟らかい。これは点心(dian3xin1)と呼ばれているもので、中国の食生活では、欠かすことの出来ないものになっている。13年前、お腹がある程度、一杯になりかけたときに、この点心を出されたときには閉口したものだ。しかし、今では私が菜単(cai4dan1)メニューを見ながら、選ぶ時にも、この点心を選ぶから「郷に入らば郷に従え」点心はお菓子では有るが、最後の方で食べるご飯のような感じのものと理解すれば良いと思う。画像の点心は「芝麻餅(zhi1mabing3)」で、少し甘いが、ホカホカして美味しいから、一度試してみては如何ですか?中国語で「桂魚」と言うこの魚は、中国へ来たばかりの頃は、広東省に居た為、広西省に近く「桂林」の魚とばかり思った。そして、上海付近の江南地方で、同じ魚を食べた時に、「桂魚gui4yu2」という魚でしょう?と話すと、「よく知ってますね?」と言われ、そこで話を止めておけば、良かったものを「この魚は桂林で獲れるんです」と話し、大笑いされた事があります。私も、昼のおかずで作って頂き、食べた事があります。「ポン酢」で食べると美味しいと言われ掛けたところ、結構、美味でした。皆さんもお試しあれ!青蟹(qing1xie4)と呼び、海蟹(hai3xie4)である。海蟹(hai3xie4)とは、海にすむ蟹の総称であり、河蟹(he2xie4)は、シナモスクズガニである。あと上海付近で獲れる「虫偏に旁」の蟹で(pang2xie4)この上海蟹はモチモチしている感じである。好き嫌いがあるが、私は好きで3匹でも食べれる。この青蟹(qing1xie4)は、塩胡椒で炒めてあるので、足などもパリパリと食べる事ができる。青菜(qing1cai4)の一種であり、正式名は知らない。味は、まあまあであり、噛めば味が出てくる。青菜(qing1cai4)と言えば、青梗菜(チンゲンサイ)を、思い浮かべるが、この野菜はそのような種類ではない。杓子菜でもないと思うが、ご存知の方は、コメント下さい。-------広岡@東京さんよりコメントです------青菜ですが、形からして多分上海の家庭でよく食べる「鶏毛菜」だと思います。比較的クセが少なく、アクもないため、食べやすいお野菜ですよね。----------ありがとう御座いました----------酒糧団子(jiu3kiang2tuan2zi)でも実際には、団子を、国構えに員を入れて書き、更に子を足して(yuan2zi)と、呼び、丸子(wang2zi)と呼ぶ地方も有る。一番通じる呼び方は、「ユゥェンズ」を付けるのが良い。甘酒の呼び方を江米酒(jiang1mi3jiu3)と言うが、今回ご夫婦で参加されていた奥様に、母が昔作ってくれた、甘酒のような味を思い出しますねとお話しし、頷いてました。「草冠に磨」の文字で「mo2」と呼び、「mo2gu」である。「mo2gu」の「gu」は「草冠に姑」と書き「モーグ」と言う。この「mo2gu」とは「キノコ」の事を言うのであって、別名「菌jun1」とも呼び「菌草冠に姑」で(jun1gu)と呼ぶ。キノコと豚肉のスープである。私は結構家で食べていると、思ったが、これも中々、乙な味がした。「上海B級グルメの会」の画像もこれでお仕舞いです。では、また~ ブーザン@上海
2006.04.24
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「上海B級グルメ2」今日も上海浦東閔行区一体でADSLが不通のまま。画像の登録には大変時間がかかった。相変わらず外に来て、更新しているので、皆さんが思っている以上に、苦労して更新している。上海MLが主催している上海B級グルメの会が、2006年4月22日午後6時半より開催された。下の画像は、柿子椒(shi4zijiao1)を5mm巾の輪切りで、黄瓜(huang2gua)の咸菜(xian2cai4)と、白菜(bai2cai4)の咸菜(xian2cai4)を通したもの。つまりは、ピーマンを5mmの輪切りにして、キュウリの漬物と白菜の漬物を通したもの。寧波地方の特産である臭冬瓜(chou4dong1gua1)である。涼菜で出てきたもので、山盛さんがそれを食べるのには、勇気が要りますよのヒントで分かりました。臭豆腐(chou4dou4fu)という臭い豆腐があるが、中国へ来られて食べた人もあると思いますが臭い!始めは、口に持ってきてから、思わず下へ置いてから、皆さんの顔を思わず見てしまうくらい臭かった。それほど、臭くはないが、それなりの臭さを売り物にしている。この黄色いものは何か分かりますでしょうか?玉米(yu4mi)トウモロコシではありません。私は、ウエイトレスを呼んで聞いたところ麦片(mai4pian4)麦片(mai4pian4)とは、エンパク(燕麦)で馬の食料に、重宝され、オオムギ(大麦)を呼ぶ事もあるが、その茎は、麦わら帽子に使われている。そして、椒塩(jiao1yan2)エビである。炒った山椒と塩を、エビにまぶして、空揚げにしたものでエビの皮も食べれる。魚偏に善と書いて(shan4)と言うが、時に黄(huang2shan4)と、呼ぶときも有るが、タウナギである。初めて食べる人には違和感があるが、美味しいと思う。これは、タウナギを引き裂いた作り方をしてあるが、ある所では、ぶつ切りで出される場合もあるが、いずれも美味しい。北京ダックが出て来た。上海のダックを使い上海で焼いているので、北京ダックではなく、上海ダックと呼んで流行らせようと、冗談で話していたが、中国人の間では上海ダックと呼んでいるようだ?この楽天ブログでも、北京ダックについて、先日取り上げたが、再度、簡単に説明すると、手前の餅(bing3)を取り、ダックの皮を味噌に漬け、胡瓜と葱を添えて、皿に味噌を載せて、餅を巻き下を折り食べる。黄魚(huang2yu2)を三枚卸にし、半身を巻いて煮たもの。元々この魚は軟らかいのではあるが、更に軟らかくなっている。ゆえに、箸でつかもうとすると、粉々に崩れてしまうので、調羹(tiao2geng1)「ちりれんげ」を用意しておこう。今回のB級グルメは、人数が増えたため1階から2階へ、移動したが、元々置いてあった「椀とれんげ」が無くなり、仕方なく服務員(fu2wu4yuan2)小姐(xiao3jie2)と、調羹(tiao2geng1)と小碗(xiao3wan3)を頂いた。下の料理は何の料理と思いますか・・・?中国語では、明膠(ming2jiao1)と呼び、ゼラチンが多く、含まれており、高血圧症の私が毎日続けて食べると、上海の病院に入院するまでに、寺に葬られる。この元の形は、甲魚(jia3yu2)とか鼈(bie1)とか呼び、スッポンである。甲羅の部分にゼラチンがたっぷり詰まっている。中国へ来てから13年回の間に、多分100匹以上は食べている。スッポンの別名を王八(wang2ba1)と呼び、人を罵る言葉で、妻を寝取られた男の意味もあり、王八の後ろに蛋(dan4)が、着くと「ばか野郎」と中国人の誰でも知っている言葉になる。「上海B級グルメ3へ、つづく」
2006.04.24
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「上海B級グルメ1」今日も上海浦東閔行区一体でADSLが不通のまま。画像の登録には大変時間がかかった。相変わらず外に来て、更新しているので、皆さんが思っている以上に、苦労して更新している。上海MLが主催している上海B級グルメの会が、2006年4月22日午後6時半より開催された。この会の趣旨は、上海や日本に在住の皆様が、日頃の疲れを少しでも癒し、また異業種の、老若男女の皆さんの交流の場として、毎月、皆様方の推薦により、食事会を持っております。幹事は「21スター@山盛さん」です。いつもご苦労様です。今回は、「状元楼」で「寧波料理」でした。私は何とかぎりぎり会場に間に合いました。上は「状元楼」の正面玄関口の画像。「状元楼」に入って右側にある会計処。その手前にあるテーブルクロスの赤に、引かれて画像に収めた。下の画像は、中国結(zhong1guo2jie2)この結び方を、8年ほど前に必死に覚えたことが、あったものの、完全にはマスターできなかった。この「状元楼」の壁や柱に掛けてあった。中国では、料理が運び込まれて来るまでに、涼菜(liang2cai4)がでる。日本で言う付きだしのような物だろうか?涼菜を直訳すると前菜という。これは、小黄魚(xiao3huang2yu2)と呼び、日本にあるのかどうか分からない。キグチと呼ぶ。今回は、画像は料理だけに的を絞った。なぜならば、人物の画像は、いつも文句が出る。綺麗に撮ってないとかの苦情である。写真やホームページをやっている人は、画像のアップの苦労を知ってるので文句は出ない。酒酔海老である。海老の事を中国では「虫下」で、「xia4シャー」と呼び、この生きた海老のまま、白酒の中に漬け、海老を酔わせてから食する。酒の嫌いな人は、少し敬遠される。鶏の酒漬けであるが、これもまた美味しい。鶏のことを中国語で「ji1ジ」と発音する。鶏を料理してから白酒の中に入れる。このグロテスクに見える涼菜は、アヒルの照り焼き風。この料理の仕方も実に美味しく食べられるので、一度、中国上海付近へ来られた折には、注文してみると良いだろう。一人の食事代は、男性90元、女性60元でした。参加者数は、28名くらい・・?画像は全部で21枚ありますので楽しみに・・。「上海B級グルメ2」へ、しかし、今日の更新は、出来ないと思います。
2006.04.23
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「反日感情に思う」今日もネットは回復しないまま5日目の朝を迎えた。今日はこれから上海中心街へ、地下鉄で中山公園まで行き、その後バスで、虹橋の方へ行って食事会に合流する。ちょうど1年前に反日デモがここ上海でも起こって、日本でも大きなニュースとして取り上げられた。その事によって、中国への旅行者が半減する事態となった。日本から中国へ良好に来ていた人は結構多かった。その反日デモの時の前には、上海公安局から私の携帯にまで、デモには参加しないようにという呼びかけ携帯メールと、反日デモは、人民人場からどのようにデモ行進をするなど、事細かに記した反日デモ参加への呼びかけメールも、私の携帯へ流れた。私はその日を、何とも言えない感じで、迎えたが、その朝から色々な情報が私の電話に入った。今日は、反日感情についてと題して、書き綴ってみたいと思う。先日から、多くの中国人が私と討論になる事は、反日感情。どうして我々は反日感情を露わにしているか分かるか?との、話しにも、人が4人・5人と増えれば増えるほど複雑になる。4年に一度行われる歴史教科書の改竄問題に文句を言う者、日本国首脳陣の靖国神社参拝問題に触れる中国人。尖閣列島の領有権・釣魚島問題や、最後には中国には関係ない竹島問題まで飛び出す。中国人7・8人と食事に行き、酒が入ると皆が、挙って日本人である私に意見を言うが、「私は日本を代表して、ここへ来ている者でもないでも何でもない。私こそ、この問題で迷惑を被っている一民間人である」事を伝えた。すると、彼らは、「勿論そんな事は百も承知している。周りに日本人が居ないし、例え居ても中国語が充分に、理解できないので差し障りのない話しをしている。だから、貴方が考えてる事で言いから話して下さい」と、私はその前に「まず乾杯をしましょう」と杯を、ターンテーブルガラスに打ち付けて白酒を飲み干した。そして「一人づつ何が聞きたいのか手を上げて質問して下さい。また、私が話しをしている時に、横槍が入った場合は、私は一切話しをしない。この事柄を、貴方達は守って頂けるなら、話しても良い!」と言うと辺りは騒然となった。一番若い人が地元で有力者の社長の子息で大学院の24歳!一番年配者は、鎮政府を既に退職した63歳の人だが、未だに共産党員で手強い。まず多くの従業員を抱える工場の中国人社長が手を挙げた。48歳の彼から質問の内容は以下の通り。「あなたは、一年前の反日デモの事を、どんな気持ちで、見守ったのか?」との質問だった。そしてどう答えれば良いか、考えていると「早く答えて下さい!」と、私より、「先ほど注意をしましたね。幾ら酒の席でもルールはルール!横槍は入れないように、守る事は守って頂きます。今日の食事会には、日本からのお客さんは誰も居ませんが、礼儀作法だけは紳士で行きましょう」と、結構強い口調で彼らに話した。私も幾分酒が入って、興奮気味になっている事が自分でも分かった。前回の上海でのデモに関しては、私の携帯にも参加呼びかけの、メールが、3通入って来ていた。メールを送って来た中国人に「何故私にまで送り付ける」と、叱責したりもした。「相手構わず、手当たり次第にメールを送った」と、そして「悪気があって送ったのではない」と言い訳をしていた。ゆえに、このデモの内容については、早くからキャッチしていたが、出来うるならば、反日デモを行わずにいて欲しかったと、言うのが本音であった。大部分の中国人とも反日感情についてどのように思っているのかを、聞いてみたが、明確に答えれない人が多いのには驚いてしまった。反日デモに参加した彼らが、教科書の改竄問題など何処まで、知っているのであろう?日本には、学校用に作られている歴史教科書は、幾つかの、団体が作っており、また改竄点について、右翼団体の作った歴史教科書に、日本軍は国民党政府の首都である南京を、陥落させれば蒋介石は直ぐに投降すると考え、ゆえに日本軍は南京を占領した。当時日本軍と中国軍、民間人に多数の死傷者が出た事を、彼らに話した。この他にも、この南京事件の死亡者数の実際の、状況においては、資料上疑問点が存在し、各種の見解があり、未だに論争が続いている。教科書は日本の発動した侵略戦争を、大東亜戦争!資源供給を、絶たれた為と綴っている個所があったことは事実のようだ!と、話し終わった時に、横槍が入った。「その事は、ブーザンも認めるのですか?」と、2人がほぼ、同時に立ち上がったが、質問している中国人社長が彼らを静止し、その間に、続けて彼らに話した。「私は見てないが、そう書いて有るようだ!しかし、どんな事が書かれているにせよ、学校側はそれを選ぶ権利がある」事も告げ、この本を授業に、使うのは日本の一部分である事も告げた。そして、靖国神社問題も彼らに話した。靖国神社の歴史について、1863年の薩英戦争の事を、話し出すと、彼らはそんな昔の事ではなく、この前の戦争の事と、言い出し、中国人がまたそれを静止した。そして薩摩藩の島津公が江戸から参勤交代で帰国途中、現在横浜の生麦村を通過の時に、島津公の行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人ら4人を殺傷した事件で、イギリスの軍艦と戦いになり60名余りが戦死し靖国神社に奉納の基盤を築いた。つまり、明治天皇の意向で、第一次・二次長州征伐や鳥羽伏見の戦い五稜郭の戦い等、国事に殉じた官軍の戦没者を慰霊するために、1869年、東京・九段に東京招魂社として明治政府によって設立され、1879年に靖国神社に改称された事などを、ノートに文字を書き、ピンインを付け加え彼らに説明。彼らは聞く事に疲れてきたらしく、言葉少なかったが、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの、戦没者約250万人が祀られていると話すと、彼らの中から、「東条英機も祀られているのか?」と声があがったが、それには簡単に頷いただけだった。そして多くの遺族会からの要請で、靖国神社が戦没者靖国合祀を行った。「問題はここからだ」と話し出すと、「まだあるのか!?」と、言うので「ここからが、あなた達の知りたがっているところだ」と、「私達の知りたいのは、あなたが今回の反日デモをどう思ったか?」で、あって、そんな事聞いてない。もう、30分以上話してきたので、皆疲れきっているのだろうとも、思ったが、そんな事には構わず「我慢して聞きなさい」と言うと、顔を見合わせ、とんでもない人に、反日感情の事を話したものだと、言った感じだったが、小さいノートを手に話し出した。1978年10月、靖国神社は、密かに極東軍事裁判で有罪判決を、受けた東条英機らのA級戦犯を「昭和受難者」として合祀。この事が、1979年4月に各国へ判明し、中国や韓国など近隣諸国から、戦争犯罪人を祀った靖国への参拝は、日本が戦争を反省していない証拠との非難が上がった。このニュースは実際に耳にし目にもした。1985年8月、中曽根首相が、「二十一世紀へ向けての前進の体制をつくる」と述べ公式参拝をした。中国や韓国などで激しい抗議運動が起こり、1986年、後藤田官房長官が、「A級戦犯を合祀している事もあり、平和友好への決意に誤解と不信が生じる」と、公式参拝は見送られた。そして2001年8月、公式参拝は「憲法に違反しない」と公言していた小泉首相が、内外の激しい批判を無視して靖国神社参拝を強行した。この時、私は丁度、南京に居たので、皆より本当に辛くなるような話しや罵声を浴びる事になった。つまりは、この私自身が、日本で何が起こったのかを、把握してなかったので、戸惑いは隠し得なかったし、今より中国語も流暢ではなかった。ここまで話して、ビールを頼んだ!のどが渇いて仕方なかった。聞いている彼らも、相当疲れているに違いないと思ったが、それには構わず、「で、先日の反日デモの、私の思いを話す!」と、冷たいビールを飲み干し彼らに言った。私もかなり興奮していたのだろう「どうして、一年前に投石や、あそこまでヒドイ事をしたんだ!」と、立ち上がって彼らに言ったら、質問をした人は、「まあまあ、落ち着いて下さいよ!貴方が興奮したら洒落にもならない」と、言って、私の肩を手で、軽く叩き、座るように促した。思わず私は、日本の国家を歌わず、中国の国家を、「起来!不願做奴隷的人們・・」と歌い出したので、中国人からは「誰この人?!」と、あきれる人も・・・。そして、「あの時の反日デモで器物損壊をした中国人45人ほどが、逮捕され、厳しい5年以下の懲役刑」になる事を告げると、「それは日本人を騙すためのものでしょう?」と言うものですから「中国中央電視台」と告げると、皆は黙ってしまった。そして、彼らは疲れた表情で、「歴史の事実を変えてはならない!真実を語るべきだ!」と、言うものですから、再度「起来!・・」と歌い始めると、「もう分かった!」と、それから皆で、ナイトクラブへと繰り出した。先ほども、彼らの中の2人から携帯へ電話が入り「有難う!私達の思っていた事と違う事が聞けれた。貴方が言った事が真実かどうかと言う事よりも、腹を割って話しが、出来た事に感謝する」と、更には、「我々には過去の歴史だが、このような事実を踏まえて、お互い分かり合えれば、素晴らしいと思う」と・・・。
2006.04.22
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「台湾の工場へ視察に行った時の事」今日もネットは回復しないまま4日目の朝を迎えた。このネットが不通になってから私の一日のリズムに、メリハリが、着いたように思えてならない。今まではいつでもネットと言う感じで、ダラダラとした時間が、過ぎて行ったような気がするし、実際そうであった。しかし、更新するためには、歩いて5分足らずとはいえ、外に行かなくてはならず、外の寒さと雨や風の為、4月20日にも拘らず手がはじかみ、指は震えた。更新の文章でさえも、ネット不通前は、ネットの片手間に、仕事をしていたという感があったようだ。だが、このページの内容は、昨夜の内に記事を書いたものだ。そして、外へ工場のものと行き(一人では危ないと工場から手配)急ぎ、ADSLではない昔の回線でネットにつないで、既に、楽天の更新画面を出してあるため、コピーをし更新した。そして、皆さんからのコメントが来ておれば、その部分を出し、返信をするを出し、レスはそのままにしておき、ネットを切断して、工場へ帰り、仕事の確認後、問題なければ、次の、ページの記事を書き出し、また皆さんのコメントへのレスを、書き出したりして、ある程度の時間が経つとまた外へ行き更新した。この動作を繰り返すが、1日3度が限度である。昼間はまだ良かったが、夜の寒さには平行したし余り長い時間は、中国人が私のノートパソコンの周りに集まり、キーボードを、叩くのが早いとかこのノートパソコン幾らしたとか?また、日本人と分かってからは、気のせいか緊張してキーボードを、叩くようになった。早くネットが回復してくれないものか?ネットが回復すれば、この現在の貴重な体験を生活の中に、取り込み、今までのように、どっぷりとネットに浸かるような事を避けたい。その意味では、今回のネットの長期不通はプラス面に動いてくれた。「このページでは、台湾の工場視察の事を書いてみたい」中国へ旅行へ来た時は、何とか時間が過ぎていった。しかし、時代の流れで、日本の工場の受注も芳しくなく、この先、どうなって行くのだろうか?などと思っていた時に、中国行きの話しが来た。始めは台湾の2500人ほどの工場を見てくれないかとの話で、台湾の工場へ視察に行った。台湾も一番初めに行った時の、1883年当時より10年の歳月が過ぎており、結構変わったなと思った。2500人の従業員の工場ともなれば凄い広さだった。1ライン30人ほどの作業ラインを、簡単に見て回ったが、半分も行かないうちに、昼の休みになってしまった。私は従業員の食堂がどのようになっているのか?好奇心で、見に行った・・・。300人が座れる長椅子のテーブルが、所狭しと並べてあり、食堂の中は凄い熱気に包まれていた。そして、スズメの学校?メダカの学校?ではないが、ピーチクパーチク雲雀の子・・・。何かおかしいですね?このセンテンス?メダカがピーチクパーチク言わないですね。でも、そのようなざわついた状況は表現されてますでしょうか?食堂の管理者に聞いてみましたが、300人収容の食堂は、2箇所に有るとの事だった。そして、15分毎に入れ替わっても、1時間は掛かるのではと思った。食堂も大変である。食事が終わってから、次のラインの見学に行った。しかし、技術者は問題対応に追われ、その工場の責任者と商社の担当者で回っていたが、5時になっても回りきる事が出来なかった。夕食になったが、私はまた好奇心で、もう1つの食堂へ行った。全く同じ造りになっていて、食事を作る人と並ぶ人が違うだけだった。「美味しいですか?」と既に席に着き食べていた女子作業員に、通訳をに聞いてもらったが「美味しいから食べているのではない」次に「食べなければ体が参ってしまうから・・」と、食べていた。2500人の食事を作ることも大変だが、その残飯が残っているのを、目の当たりにしたが、次から次へと残飯は山になって行った。私は、そのままホテルに帰った後、工場の総経理たちと食事をした。作業員が食べているものとは、見るからに違っていた。何となく、申し訳ない思いで、その料理を食べたが、次から次へと、運ばれてくる料理に、置く場所も無く、料理の盛ってある皿の上に、更に皿を置いていくのには平行した(今は麻痺してしまった)二日間の見学をした後、ホテルのスイートルームで、工場の総経理と、商社の人や工場のオーナー達でミーティングを持った。私は台湾の仕事を断るつもりでミーティングに臨んだ。彼らが提示した私の1年のギャラは1500万だったが、私は断った。あと100万くらいなら上乗せしても良いといわれたが断った。断った理由は、一日掛かっても工場の全てをじっくりと見れない。この事が引っかかった。午前中に見たところが午後に大きな問題を、発生して、ラインが停止する事もある。また、問題発生の時は、次から次へと重なって発生するものだと経験で分かっていた。幾らギャラを積んでもらっても、私の体が半年と持たないうちに、ダメになってしまうと思った。勿論、この93年にはブログも無かった。もし、今の時代にこんなギャラの話は無いが、もし有ったとしても、ブログ作成の時間が持てないとは、言わないにしても断るだろう。その工場も、私に話しがあってより、3年後に倒産している。大所帯で、小回りが利かなかったのと受注が進まなくなった為だった。その頃は既に広東省で、500人の工場で働いていた。画像の説明が出来なかったが、同じ百貨店のウィンドウの中である。職業柄、やけにこのファッション関係の画像が多い。
2006.04.22
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マレーシア9「マレーシアに入り食事」マレーシアの国境内に入り、300mほど歩いていくと、シンガポールからのバスは、あと2キロほどしか車を、運転移動できない。マレーシアのバスと待ち合わせをしているから、そこで乗り換えて下さいと上海の添乗員の言葉だった。添乗員も、マレーシアへは何度も来ているが、今日会う人は始めてであると、心配そうな表情を浮かべていた。バスの運転手もマレーシアのナンバープレートが、見つからないらしく、同じ所を2度回った。そして、やっとの事でマレーシア側のバスを見つけ、我々はそのバスに乗った。シンガポールからのバスは、またシンガポール領域へ帰っていった。我々は新しいバスと新しいマレーシア人の、中国語の通訳で色んな紹介を受けた。そして、マレーシアと日本とのつながりを話し出すと、上海の添乗員が、日本人が後に乗っているから、言葉使いに注意をして下さいと言っていた。私は、その時風邪を引いたようで薬を飲み、眠たくなりかけの時であった。マレーシア人の通訳は、あまり日本との歴史には、触れないほうが良いのでしょうね?と小声で言っていた。 私はそのまま眠りに落ち、気が付くとお昼の、食事をする為のレストランへ着いた。通訳は、風邪を引かれたのですか?薬は飲みましたか?とか食事は出来ますか?など細かく聞いてくれた。まずは、バスを降りレストランに入った。南国へ来てどうして風邪なのか?昼間の34度の気温とバスの中の24度の気温。そして、ホテルの部屋の22度ほどの気温で、どうやら風邪を引いてしまい、扁桃腺を腫らしてしまったようだった。しかし、上海より同じツアーに参加していた医師より、診察して頂き、その上、薬まで頂いてしまった。今回の旅は、至れり尽くせりと言う感じだった。画像は、蘇州よりツアーに参加した女子医大生で、この時も、木に登って、茶目っ気を発揮していた。熱がある割りに、マレーシアの料理は美味しいと、思ったが、中国の人にはどうだったかである。
2006.04.21
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マレーシア7「クアラルンプールの百貨店」クアラルンプールの中に入ってから食事をした。海鮮料理は受けが悪いので、メニューを変更したようだった。今度は、野菜中心の料理で、その中に肉料理もあったが、何となく中国人に受ける料理内容との感じがした。その後、マレーシアの首都のクアラルンプールへ入った。クアラルンプールの夜景を見た後、有名百貨店の中を見て回った。待ち合わせの時間を決めたが、早くホテルに行きたいと言い出す者や、百貨店の中を出来るだけ見て回りたいと言う者に分かれた。私が、この百貨店の閉店時間はと聞くと、10時ごろとの事だった。では、この百貨店の前に集まるのは9時半と提案し、1時間あれば、問題なく見て回れるだろうとも思った。百貨店の中に入って行ったが、大きな声で現地ガイドが叫んだ。「日本先生!集合時間を守って下さいよ!」と言われ、「OK!」と手で表示した。この表示方法は何処でも同じとも思った。中に入り、暫く歩くと、吹き抜けのフロアーに来た。天井を見上げると、後に倒れそうな感覚になるほど高かった。エレーベーターで上がろうとして、下を見ると小じんまりとした店が、15店舗ほど並んでいて、上のフロアーに着いて、すぐに下へ降りる、エレベーターに乗って、その狭い通路を利用した店の画像を撮った。この狭いフロアーは結構暗く、ISO400のEV+1.2で撮影した。それでも、暗い感じになったが、その暗さが雰囲気をかもし出していた。更に、そのフロアーを歩いて行くと、煙突状に結構高い建物が出来ていた。空間を思う存分使った宇宙未来都市にも似た感じの空間だった。その上には昇らなかったが、下より撮影してもその雰囲気が見て取れる。また結構綺麗なファッション空間もその中に造り出していた。意識して撮影したわけでもないのであるが、画像の中にイスラムの、女性が写って、そのマレーシアの雰囲気が出ているようだった。この中の、売り場の女性は、皆イスラムの党員ではないだろうか?全ての女性がスカーフを頭から被っていた。暗い中だったのでと、EV値を+1.2のままで撮影していたら画像が、飛んでしまった部分がある。やはり、その撮影しようとする対象を考え、カメラの値をその都度変更していく習慣をつけておく事が大切である。
2006.04.21
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マレーシア6「クアラルンプール郊外のモスクから」昨夜は、午後4時頃からネットが出来なって、古い方のノートパソコンを持って、画像の更新始め、皆さんへのレスを行った。しかし、昨日の昼間は汗ばむ気温であったのに、陽が落ちて暫く経つと、段々と冷え込んできた。薄着で飛び出して、冷え込んでいるのも気付かずに、レスに一生懸命だった為、我慢できないほど、震える指先と震える肩にジャンバーを貸して下さった。おまけに、顔見知りの中国人がやって来て、寒いというと、45度以上の白酒(バイジョウ)を、コップに入れて持ってきてくれた。(水面に写るモスクを画像にした)中国時間の夜10時過ぎに家に帰り着き、すぐにシャワーを浴びた。冷え切った体に暖かいお湯を、5分ほど頭から被ってのち、体を洗った。湯船にお湯を入れてからとも思ったが、芯から体が冷えてしまったので、とにかくシャワーを浴びた。中国では、殆んどの所では、湯船など無い。シャワーの蛇口が付いていて、そこからシャワーを、浴びるだけで、日本のように風呂には入らない。私は、湯船を付けてもらったが、ホテルにあるような、長い湯船で、肩まで浸かり体を温めると言う事は出来ない。もし、どうしても体を温めたいと思うなら近くの、銭湯に行っても良いとは思うが、旅行で来た日本人なら、垢が一杯浮いた湯船の中には、入れないだろう。(まだ陽の落ちかけていないモスクの画像) 私は、そんな湯船(15人用)にでも平気では入れるし、いい気分になって、歌も歌う事が良くある。このような体の暖まる頃合いの、お湯の中では、自然に歌が出てくる。また私が歌っていると、始めは静かに聴いている中国人も、一人が鼻歌交じりに、他の人も私のリズムに合わせハミングしだし、そのうちに、あちらこちらで、合唱にも似た歌となる。中国人と目が合っても、台湾人くらいにしか思ってないので、彼らもニコニコしながら歌いだし、疲れを癒すかのように、目を閉じて、肩まで湯船に浸かっていた。この辺の銭湯の入浴料は、5元(75円)である。あまり疲れているときは、サウナに行くが、サウナの入泉料で、30元(450円)~60元(900円)位でちょっと違う。私が近くのカットサロンへ行き、かっとして頂いて、5元(45円)髪のメッシュ染めは20元(300円)位で、髪を全部染める場合は50元(750円)位である。(イスラム・モスク前の宿舎だろうか?)今日の画像の更新は、イスラム・モスクの画像を背景に、銭湯やサウナやカットサロンの話題を綴って、罰が当たりそう?サウナに行く間隔は、2週間に1度ほどで頻繁には行かない。カットサロンにも、2週間に1度に行が、日本の殿方に、比べれば、カットに行く回数は多いのではないかと思う。しかし、月に2回のカットサロンとしても10元(150円)である。日本では幾らしているのか?私が日本に居た13年前は、確か3000円ほどであったように記憶しているが今は幾らだろう?その13年前と比較しても、150円と3000円では違いすぎる。そして銭湯では、日本に帰ると500円くらいの入浴料で、露天風呂や食事も出来るところへ行くが、そのよな銭湯は、まだ中国ではお目に掛かっていない。サウナの大きなところは、結構、上海でも出来てきて、衛生面でも気を遣っている。その話は、また次回するとして、今日も上海の3分の1に当たる地域で、昨夜からネットが出来なくなってしまっている。だから、ADSLはこの地域では全滅になってしまった。今日は、先に外へ行きネットで自分のページを開けダウンロードし、USBメモリーに保存し、家に持って帰り、暖かい中で更新。その書いたものを、またUSBメモリーに保存し外に行き、更新をするという大変面倒な事をしている。近くのインターネット喫茶はネット出来ずに客は誰もいない。(クアラルンプールへ向かってバスは動き出した)
2006.04.20
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マレーシア3「イスラムの戒律とは?」今回、シンガポールからタイに入った。その時に、シンガポール空港内でイスラムの人々が、乗り換えの為に待っていた。その人数も80名はいたであろうと思う。皆、同じ服装をしている姿を見慣れてない所為か?何となく重厚な雰囲気があった。女性はベールにも似た白のスカーフを頭から、すっぽりと被り、男性は帽子を被っていた。シンガポールへ旅行に来た帰りなのか?シンガポールから旅行に行くのだろうか?定かではなかったが、ただ殆どの女性が、風邪をこじらせている様で、咳き込みが激しいのを記憶している。(上は、イスラム寺院に着き直ぐに撮った画像)彼女等と、少し話そうとしたが言葉の壁に、遮られてしまって、英語が上手く表現できない。彼女等は、にっこり笑顔を見せてくれたが、マレーシアのガイドが、その人たちに、この人は日本から来てますよと余計な事を言うので、彼女達も、ちょっと変な表情になった。「I am not a scary person」とか、「Allah's god is believed in」などと話すと、甲高い声で笑ってくれた。(帰り際に後から彼女達を撮影した)現地ガイドは、私の右腕を取ると、中国語で、もうそれくらいで、満足しましたか?と聞いてきた。あまり長話は、周りにイスラムの男性達が、来ていたので、争いに巻き込まれても不味いと、彼女達との会話を制止させたかったのだろう?と思い、両手を前に持ってきて、手を合わせて礼をしようと、その時、現地ガイドは、その方法はと言いかけて、その後にいた、上海からの添乗員が「タイでは有効!」そして、その姿を見ていた彼女達は口を押えて、笑っていた。結構明るい人達と思った。 イスラムでは、お酒が禁止されており、私には絶対無理であろうと思った。酒は正気を失い、また、お金も失ってしまうとの事である。友と争いが起こり、いずれは互いに憎みあうことになり、そして、アラーの神を忘れていまい、最後には、大切な祈りをも忘れてしまうというのが禁酒の原因だ。 断食というのも理解できないひとつである。やはり、小さい頃からの環境が違うからではあろう。仏教にも断食はある。修行の為30日間小さな蔵に、閉じこもったままで、修行に入るが、出てこられたときには仏のようであるという。断食にも方法があのであろうが、その方法は分からない。全く食べなければ、餓死してしまうであろう。豚をも食してはならないとの教えではあるが、やはり、その宗教の中に入っていかなければ、何も理解できないのかもしれない。
2006.04.19
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シンガポール20「マレーシアに入り食事」マレーシアの国境内に入り、300mほど歩いていくと、シンガポールからのバスは、あと2キロほどしか車を、運転移動できない。マレーシアのバスと待ち合わせをしているから、そこで乗り換えて下さいと上海の添乗員の言葉だった。添乗員も、マレーシアへは何度も来ているが、今日会う人は始めてであると、心配そうな表情を浮かべていた。バスの運転手もマレーシアのナンバープレートが、見つからないらしく、同じ所を2度回った。シンガポールからのバスは、またシンガポール領域へ帰っていった。我々は新しいバスと新しいマレーシア人の、中国語の通訳で色んな紹介を受けた。そして、マレーシアと日本とのつながりを話し出すと、上海の添乗員が、日本人が後に乗っているから、言葉使いに注意をして下さいと言っていた。マレーシア人の通訳は、あまり日本との歴史には、触れないほうが良いのでしょうね?と小声で言っていた。 私はそのまま眠りに落ち、気が付くとお昼の、食事をする為のレストランへ着いた。通訳は、風邪を引かれたのですか?薬は飲みましたか?とか食事は出来ますか?など細かく聞いてくれた。まずは、バスを降りレストランに入った。南国へ来てどうして風邪なのか?昼間の34度の気温とバスの中の24度の気温。そして、ホテルの部屋の22度ほどの気温で、どうやら風邪を引いてしまい、扁桃腺を腫らしてしまったようだった。しかし、上海より同じツアーに参加していた医師より、診察して頂き、その上、薬まで頂いてしまった。今回の旅は、至れり尽くせりと言う感じだった。熱がある割りに、マレーシアの料理は美味しいと、思ったが、中国の人にはどうだったかである。
2006.04.18
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シンガポール19「シンガポールの服は派手?」シンガポールの服は派手というイメージが強い!大衆向きのスーパーでも、高級百貨店でも、展示してある服のカラーは派手である。私が行ったところが高かったのかも知れないが、結構高いイメージがした。シンガポールの気候は、真冬でも34度はある。私のように、寒いとすぐに調子を崩す者にとっては、住み易いのかも知れないと思ったりもした。だが、真冬で34度の気温ならば、真夏になれば、一体どれだけ気温が、上がるのかとも思った。百貨店に備え付けてあったヒンズー教のような、人形がピラミッドの棚に綺麗に並んでいた。その下には、電気で点けたロウソクの灯りや、飾り物が色々と置いてあった。中国では、三国志の関羽が商売の神様として、祀られているようなものだろうか?この画像を撮った後、ホテルへと帰った。翌日の朝からシンガポールからマレーシアへ!
2006.04.18
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シンガポール16「歩いて行った先が見覚えのある?」4月16日の最後の記事が消えてしまった。私の不注意で消してしまったのかも知れない。その時の画像のアドレスは残っていたので、この記事に貼り付けた。3枚目と4枚目の画像がその時の画像である。楽天広場に入っていけない事を綴ってより、最後に別のパソコンから画像の更新をした。その大切なページが、消えてしまったのである。(この文章は、ここへ来た時の文章である)何とか画像の登録が出来ないということは、画像の更新が出来なくなると言う事になり、非常に虚しい気持ちだ。 (消えてしまった記事↓)(ミュージカルファウンテンの四つ角) もう一度、パソコンを初期化してみようと思うが、ウィルスバスターの問題や、その他の画像の問題等、考えれば頭が痛くなるが何とかしなければと思う。人間とは実に不思議な動物である。 昨日の夜、お客様と別れて、仕事の商談もそれなりに、気分良くして帰ってきたが、この問題でいっぺんに、辛い悲しい虚しい気持ちのままそれが癒せない。 昨日あれほど嬉しかった幸福感は一体どこへ、行ってしまったのだろうとも思ったが、また呼び戻せる事が出来るように頑張らなくては・・・。(ミュージカルファウンテンの中央の通路) 完全に皆と逸(はぐ)れてしまったと思い、とぼとぼと、入ってきた道を歩いて行った。誰にも、知った人に会わないし、上海からの、ツアー客が一体何処で待っているのか?分からなくなってしまった。確かに集合場所は、あの十字路だったのだが・・?本当に皆と逸れてしまったのか?後を振り返ったり、立ち止まったり、通り過ぎる人の横顔を眺めたりして前に歩いた。当然の如く、この記事に書き込んで頂いた文章や、それにレス(お応え)しました私の文章も、消えてしまい、大変、申し訳ない事を致しました。このページで、お詫びの言葉とさせて頂きます。
2006.04.17
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シンガポール11「レーザー光線と噴水を巧みに利用」レーザー光線と噴水を巧みに利用した技術は、私個人の意見としては芸術的なものと思います。セントーサ島にはその他の所には行かなかったが、あとから旅行ガイドなどを見ても、それほど面白い、見所はあまり無いとの事であった。セントーサ島は全体的に、のんびりと楽しめ、小型のモノレールを上手に使って移動すると、面白い発見があるのかも知れない。私が行った時には、50分前だったが、半分ほどの観光客が、観覧席に座っていた。私は、一番前の席に座り、皆を手招きして誘った。画像を撮る為には、真ん中の席が良いのかなとも、思ったものの、前の席の方が遮るものがなく、それなりの画像が取れたのではないかと思った。画像が、ぼやけているのはアニメの為、静止画を撮るのに適しているコンパクトデジカメでは、この画像くらいで、良しとするべきなのかと思った。
2006.04.16
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シンガポール10「ミュージカルファウンテン」上海のツアーのメンバーがレストランの中で、コーラやジュース類を頼んでいる間に、外へ出て、入江に着けてあったミシシッピーの川に似合うような客船を画像にした。今日は、この1ページの画像の更新で終わりそう?と言うのは、私のノートパソコンで楽天の、ホームのマイブログに入れなくなってしまった。(客船の船の画像)原因はわからない?昨夜11時に帰宅してより、午前2時ごろまで悪戦苦闘したが、結局、そのページだけは開く事が出来なかった。楽天ブログも開ける事が出来るし、皆のページへも、飛んでいく事が出来るが、マイページだけは駄目。ログインページを開けようとすると、「ページが開かない」と言う、エラーメッセージが出る。ウィルスバスターのセキュリティの問題かなとは、思ってはみたものの、昨日今日ウィルスバスターを、入れ込んだものでもない。(客船の船の画像)新しいノートパソコンに買い換えてからだから、4ヶ月そこそこである。何とも不思議な現象である。画像の登録が出来ないということは、画像の更新が出来なくなると言う事になり、非常に虚しい気持ちだ。もう一度、パソコンを初期化してみようと思うが、ウィルスバスターの問題や、その他の画像の問題等、考えれば頭が痛くなるが何とかしなければと思う。(ミュージカルファウンテンの四つ角)人間とは実に不思議な動物である。昨日の夜、お客様と別れて、仕事の商談もそれなりに、気分良くして帰ってきたが、この問題でいっぺんに、辛い悲しい虚しい気持ちのままそれが癒せない。昨日あれほど嬉しかった幸福感は一体どこへ、行ってしまったのだろうとも思ったが、また呼び戻せる事が出来るように頑張らなくては・・・。(ミュージカルファウンテンの中央の通路)
2006.04.15
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シンガポール9「セントーサ島でジュース」上海からのガイドにまだ時間があるので、皆で、ジュースでも飲みませんか?と、上海女性がしきりに話していた。「予定にない事だけど、私がジュースを、ご馳走しましょうと胸を叩いて入って行った」のが、このレストランだった。何となく嫌な予感がした。 大きな船を模って出来たレストランであった。なんと言う花かは知らないが、手早く撮ってはみたものの逆光で、綺麗には撮れてなかった。この画像部分は、船首部分で分かりますか?帆船の船首部分だが、船首のポールが、写っていなかったようだ。 船首部分を撮影したが、撮影位置を変えてみた。帆船の船首部分の、ポールが突き出した情況が、分かって頂けるのではないでしょうか?右側の通路を15mほど歩いていくと、このページ1枚目の画像のドアーに海老の絵が書いてある入口へでる。慌てて画像に収めてより、皆の待っている、レストランの方へ、急いでいった。 レストランへ入って、皆が座っている方へ、歩いていっては見たものの、何やら、上海のガイドとレストランの支配人と、揉めているようであった。ディナーだと食事の後でコーヒーでも、コーラでもサービスしてくれると書いてあるのに、コーヒーだけだったらどうしてそんなに、高いのか?という言い争いだった。私は、時間が勿体無いと思い外に出た。そして、海辺の綺麗な旅客船を撮影した。夜、出来るだけ早い目に帰ってきて船の画像を、更新します。それでは上海中心街へ行ってきます。
2006.04.14
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「外食で食べるもの」 上海の郊外に住む私は、偶には上海の中心街へ、出て、外食をしたいと思うときがある。 そんな時には、会社の中国人管理者を連れて、上海中心街まで出て行くが、車で約40分かかり、出て行くのも一仕事である。 もち米と肉を交互に竹を割った容器に詰めて、蒸して作ったものであるが、もち米に肉の味が、染み込んで、いい味がしていた。もち米の中国語は「糯米nuo4mi3」と呼び、日本語の糯米(もちごめ)と同じ漢字である。上に乗っているのは棗(なつめ)である。中国読みは、棗(zao3)と呼んでいる。 チョウザメをボイルしたもので味は淡白である。中国では、魚を塩焼きにするという文化がない。チョウザメを中国語で「魚偏に尋」と書き、「xun2」と呼んでいるのが一般的。日本では、多くの家庭や料理屋でも塩焼きに、するのであるが、今まで中国の方に、魚を塩焼きにして下さいとお願いしても、一度も実現してはいない。 チョウザメでも45センチほどの大きさである。大きなものになれば、1メートル以上になり、塩漬けにしたキャビアは堪らない。このサメの横に置いてある花が邪魔だった。この店では、全ての料理の撮影を禁じられている為、花をどけていたりとかの時間の余裕もなかった。また、魚の背中にねぎ類が置いてあり、これも、脇へ置けばよかったとも思った。 この魚中国語では「魚偏に昌」と書いて、「chang1」と呼び「chang1yu2」と言う。普通は、全身が銀色である事から、「銀魚昌chang1」といい、また「鏡魚jing4yu2」とか、「平魚ping2yu2」と呼ぶ事もある。日本では、一般に「マナガツオ」と呼ばれている。 中国語で「点心dian3xin」と呼んでいる。この画像のものは、食べてみたが分からなかった。あまり味がなく、寒天の中に色々詰め込んだもの。女性の方なら分かるかも知れませんね。「点心dian3xin」は、中国の食生活の中で、欠かすことの出来ないものである。特に、「涼菜liang3cai4」と呼ばれるものである。日本で言うところの「前菜」である。一般には4人で4種類4皿の「前菜」を注文する。結構、これだけで、お腹が一杯になり、メインの「熱菜re4cai4」が食べれなくなるので、程ほどに食べておいた方が無難である。
2006.04.14
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「外食で食べるもの」 上海の郊外に住む私は、偶には上海の中心街へ、出て、外食をしたいと思うときがある。 そんな時には、会社の中国人管理者を連れて、上海中心街まで出て行くが、車で約40分かかり、出て行くのも一仕事である。 この料理は、四川料理の中でも結構辛い、沸騰魚片(fei1teng2yuyu2pian4)である。 魚は川魚であるが、ピリッと辛いどころではなく、結構、喉の消毒に良いのかも知れない。 日本の皆さんもポピュラーな食べ物になった北京ダックではあるが、お客様の中でも若い人には、どうやって食べてよいのか分からない人も見受ける。 北京ダックは油の乗った皮を食べるのが一般的である。その北京ダックの皮は、お客の前で切り分けてくれる。 日本では肉は入れないところが多いが、こちら中国では、大体の所では肉も入れてもらえる。 北京ダックの食べ方であるが、上品な所では、取り皿に小麦粉で作ったアヒル餅を置き、アヒルの皮をのせて、好みの量の味噌を塗る。 しかし、私の場合は掌にアヒル餅を乗せて、好みの量の、葱とキュウリの細切りをのせる。 私の場合は、味噌が好きなので、結構な量の味噌を、そのアヒル餅の上に乗せる。 慣れない人や欲張りすぎると、中身が上手に、アヒル餅で包めなく、その結果、包んだ下から、味噌が漏れて、テーブルにこぼれてしまうので注意。 この北京ダックは中国においては古くから食され、現在の北京ダックの起源は「明」の時代とも言われる。 北京ダックは、いつも料理の最後の方で出てくる。いつも腹が一杯になりかけた時に出てくるので、今まで美味しいと思ったことが無い。 そして、いつも沢山残ってしまって勿体無いと思う。
2006.04.14
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シンガポール7「マーライオン公園の横の川」橋まで行き、階段を上って橋の上から、ミニ・マーライオンと後姿のマーライオンの姿を、撮影したが、更新画像を小さくしてみた。私のノートパソコンは、A4画面であるが、かなり小さい画面で確認していて、普通の大きな画面で確認するとかなり大きい。しかし、前の大きさの方が良かったような気もし、再度画像を登録し直した。画像を登録して、尚且つ、画像を更新し、画面で確認をしてより、再度登録するのって、何となく力が抜けます。皆さんにも、そのような経験があるのでしょうか?画像はマーライオン公園横の川である。 エスプラネード劇場も、見る方向によって、感じ方が違うように思えた。エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイは、音楽、コンサートからダンス、劇場にいたるまで、地元は勿論の事、世界の公演を招待し、提供している。マーライオン公園の堤防沿いから対岸を撮影 このドームの屋根は、とげのある熱帯地方の果物から、「the Duriam」「ドリアン」とあだ名が付けられていた。エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ。 ドリアンって結構、美味しいですが、好き嫌いがありますね。この果物匂いも鼻につくと、食べ辛くなります。対岸のエスプラネード劇場を撮影 マーライオン公園の横にあるシンガポールの川その川の名前は、手帳にも記録がしてない。綺麗な川の様相を見せていた。この川に架かる橋も何ていうのだろう?調べる時間もなく更新します。シンガポール、噴水ミュージカル?会場へ、東洋で一番高く上がる噴水をスクリーンに、光を当てて、色んなアニメを披露していた。
2006.04.13
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シンガポール6「雨のミニ・マーライオン」 マーライオンの後姿だが、地面が雨に濡れているのが、分かって頂けるだろうか?マーライオンの撮影中に、前頁の最後のアップで、撮った画像の時に、水しぶきが掛かるな~と思っていた。しかし、実際には、水しぶきではなく、いきなりの、スコールだった。あちこちで、女性の悲鳴が上がった。始めは「水しぶきがすごいね~」って感じ。次には「これってまともに水が掛からない?」「これって、雨じゃないの~?」「いやっ~!夕立だ~」(夕立後のマーライオン後姿) 私も他の観光客とともに、非難してきた。その非難して着た所に、思いも寄らなかったミニ・マーライオンが設置してあり、いい拾い物と画像に収めた。下のは同じようなショットではあるが、後ろ側に堤防が写っているのと写っていないのとの、違いだが、更新した。(ミニ・マーライオンと後姿のマーライオン) ミニ・マーライオンと言っても、3mの背丈がある。 雨も上がり、日が差してきた。上海からのツアー客のガイドが呼びに来た。私も再度、小走りにマーライオンの横顔を、撮影しに行った。「もう大分撮影したでしょう?」「それでも、まだ撮るの?」私は「雨上がりの1枚だけ」と言ってガシャリ。 もう既に上海からのメンバーは橋のふもとへ、集合していた。私は、撮影を終わったものの、何度も後ろを振り返りながら、歩いていると、「日本先生早くして下さい!」私はやっとツアーのメンバーの待つ、橋まで行き、階段を上った。ふと振り返った雨上がりの景色が、とても綺麗で、また立ち止まり橋の上から撮影した。
2006.04.12
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シンガポール4「エスプラネード劇場」 シンガポールの公園入口を入り、画像に収めていた。ちょっと目を放した隙に、みんなの姿が見えなくなった。観光目的は、どうやらこの公園ではなさそうだった。 しかし、何とか十二支の飾り物だけは画像に収めようと、急ぎ、撮影していたが、後から私を呼ぶ声にも、気付かずに撮影していると、公園に居た観光客が、「あなたを呼んでいるようだよ」と振り向いた。 遠くの出口で手を振っていた。今入ったばかりなのに、何故出口なのだと思いながらも、心は十二支に、後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にした。 (戌xu1 十二支の第十一位 戌いぬ) 出口の門で立って私を待っていたのは、上海の旅行社ガイドだった。 「ここでは色んな人が居ますし広いですから、後ろについてきてください」と言われ、「分かりました」と、答えてより、再度、招財進宝のアップの画像を撮った。 ガイドは、戻ってきてため息混じりな声で、「じゃ~、写真は撮ってもいいですが、私達がどの辺りへ動いているかだけは気にして下さい」 そして、私を急がすように、さ~行きましょうと、その出口のアーチを潜った。 (招財進宝zhao3cai2jin4bao3で、富をもたらすの意) 公園から外に出ると、目の前に大きな建物が見えた。地元のガイドは、このドームをエスプラネード劇場と、説明してくれた。その名前をピンインでノートに書き込んでいた。 このドームの屋根は、とげのある熱帯地方の果物から、「the Duriam」「ドリアン」とあだ名が付けられていた。エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ。 モール(大規模なショッピングセンター)世界各国の料理店のほか、文学、音楽、ダンスや、映画、劇場と充実したシンガポールのマーライオンの横の川向かいに、初のアート・ライブラリーが出来ていた。 (ドリアンの異名を持つエスプラネード劇場) エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイは、音楽、コンサートからダンス、劇場にいたるまで、地元は勿論の事、世界の公演を招待し、提供している。 屋外ステージとランチタイム・コンサートは、堅苦しくなく、陽気なエンターテインメントを、楽しむこと出来ると中国文のパンフレットにはあった。しかし、ここは写真だけで、入っている時間が無いと、急ぎ橋を渡り、シンガポールの象徴であるマーライオンへと、向かったが、何度もエスプラネード・シアターズの画像を、撮っているので、早くして下さい!置いていきますよ!と、上海のガイドさんも現地のガイドさんにもガードされた。(エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ)
2006.04.11
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シンガポール2「カキコの失敗例」シンガポール空港へ着いたのが11時過ぎであった。日本からタイへ向かう時、このシンガポール空港で、乗り換えの為、3時間待った。その待っている時に「さなちゃん」のブログへ、書き込みをした。書き込みと言っても、日本語ではなかったし、英語でもなかった。中国語のピンインローマ字表記で送った。しかし、これは少々難しい。中国人でも、多くの人がこのピンインを打つ事が、出来ない人は多くいる。シンガポール空港の無料ネットコーナーでは、いろんな国の人達が待っていた。大体、5分間でネットは自動的に切れた。まず私のブログのアドレスを「google」で探した。日本語版は出たが、パソコンは日本語が打てれない。英語のみ打つことが出来た為、ピンインのみのカキコだった。しかし、私が打ち間違えてしまった為に、ひと騒動・・・。そのブログのページを探したが、見つからなかった。そして、メールで送って下さったが、やはり1月27日の、シンガポール飛行場内から打ったピンインで書いたカキコは、見つからないようである。ピンインだけで文章を書くと言う事は非常に難しいし、そのピンインを元に、中国語に直す事も大変難しい。例えば、送って下さった中から例を挙げると、ruguo jintian gongchan meiren shangban de hua wo zhuzai waimian binguan.zhen mafang!ここでピンインの違っている部分が沢山あり、正確な漢字に、変換できないし、意味もつかめないままになってしまう。gongchan⇒gongchang(工場)zhen mafang⇒zhen mafan(真麻煩)ピンインの後ろ側に、「g」が有るのと無いのでは、発音も、違い、意味も全く変わってしまう。gongchan(共産)zhen mafang(真馬方)zhen mafan(真麻煩)私が見つけたかったページは、シンガポールで乗り換えて、タイへ向かうと言う中国文をピンインで書き込みした。しかし、「乗り換え」というピンインを「zhuangji」と、打って、送ってしまった。本当は「zhuanji」である。「zhuangji」の意味は「衝突する」そして「zhuanji」の意味は「乗り換え」であり、飛行機乗換えと、飛行機衝突では意味が全く違ってしまった。ゆえに、相当慌ててしまった事になった。5分の間に自分のブログを探し、友人(さなちゃん)のブログを、探し出し、中に入り込み、ピンインを打つ作業で、一々、辞書を確認できなかった失敗例である。やはり、一発勝負で書き込まずに、40-loveさんの言われた、送る前にもう一度確認してからと言うのがやはり理想だろう。
2006.04.10
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「タイ空港からシンガポールへ」シンガポールは、本島と60以上の小さな島々がある。本島の総面積は、625平方キロで、淡路島と同じくらいである。 その狭い国土の中で、シンガポールの経済は、著しい成長を遂げ、150年間で東南アジア地域で、商工業の中心として栄えるようになった。シンガポールは、海運の方でも忙しい。巨大タンカーやコンテナ船また、客船など、550以上の航路がひしめき合い、地元の漁船や、木製の小舟も同じ海を往来し、世界で最も過密な港でもある。世界の中でもある意味、主要な給油拠点の、ひとつであるシンガポールは、電子部品の供給でも、造船や船の修復でも世界の中でもトップに入る。またシンガポールは、アジアにおける最も重要な、金融拠点でもあり、120以上もの銀行が存在する。商取引は、衛星や24時間体制の電信・電話システムを、介して、世界中の国々を結ぶ、シンガポールの、ネットワークによって円滑に進められている。シンガポールの歴史と言えば、1819年にイギリスの、東インド会社のスタンフォードがこの地に上陸し、その後、シンガポール共和国として栄えてきた。しかし、第二次世界大戦中、日本軍に占領され、1942年に一時「昭南市」と名を変えた。1945年の終戦後は、再びイギリス直轄植民地となった。1948年から独立への動きが活発になり、1963年にマレーシアを結成し、イギリスより完全独立した。さらに1965年にマレーシアから分離し、大統領を元首とする共和国となり今日に至っている。シンガポールは、19世紀後半にはヨーロッパと、アジアを結ぶ中継貿易と通信の拠点に発展した。このことは現在も変わっていない。そしてシンガポール人の言葉をじっくり聴いていると、私が居た広東の方の言葉に似ている。良く聞くとシンガポールに住む華僑の人が、シンガポール人と語っていたが実際は分からない。タイでもシンガポールでもマレーシアでも、広東語が通じるようで、念のために簡単な広東語を、話すと分かってくれたが、シンガポールの国語は、英語と中国普通語であるので、私の中国語で十分だった。
2006.04.09
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「タイ空港からシンガポールへ」 タイでの予定を消化して、タイ空港に着いたのが、午前9時過ぎだった。 私は現地ガイドに借りていたお金を返さなくてはならない為、銀行の出先両替所を探していたら、現地ガイドが追って来て、搭乗の手続きをしてから両替をして下さいと言った。 そして中国人の並んでいる列へ入ったが「日本先生!」「空港でも飛んで回るんですね」などと嫌味を言われた。 私は「お金を返却しなければならない事が気になってます」と、伝えたりすると「心配しなくても貸した事は忘れいないですから」などと、先に搭乗手続きを済ませ、身軽になってから、一緒に両替に参りましょうと言う事で、その指示に従った。 「微笑みの国」とも、「もうすぐお別れか?」などと、上海からの観光客も飛行場を見ながら話していた。 今回の旅は、タイ・シンガポール・マレーシアの3カ国だったが、ガイドからは、このタイが一番見る所が多いと離していたが、3カ国を回って、私もそう思った。次回は、タイだけの一人旅にしようと思ったりもした。もっと色んな寺や景色を見たいと思った。アユタヤ王国の寺院や暁の寺など、まだまだ今回の旅行では、タイの観光地の30分の1ほどしか見てないと思った。 何処の国の旅行でも同じだが、全てを見て回ることは不可能で、ある一部分の観光でその国の全てと思ってはいけない、だが、見る所によってその人のその国に対するイメージや、その国に対する思いが違ってくる事も致し方ないのかなと思った。 そして、シンガポール航空機はシンガポールへ向けて飛行。バンコクから2時間の飛行だった。シンガポールへ着くまでの2時間の間だったが、連日の疲れの所為で、ぐっすり眠ってしまい、30分ほどの時間の感覚でしかなかった。ふと外を見ると下界でのどんよりした色とは違い、海の青さと空の青さと雲の白さと航空機の比翼とのコントラストが綺麗で、一気に15名ほど画像に収めた。
2006.04.09
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「クワイ川鉄橋へ到着」クワイ川はバンコックから車で、約2時間ほど走った所にあった。何故この川が有名になったかというと、このクワイ川に架かる鉄橋が映画の為に、セッティングされ、一躍になった。世に名が知られる前のこの川の名前は、メクロン川と呼ばれていたが、映画が、放映れた後に、メクロン川からクワイ川と、川の名前が改名された。この鉄橋の歴史について調べた。太平洋戦争中に、日本軍が占領したミャンマー(以前ビルマ)への、補給路として作った「泰緬鉄道」の一部だった。日本軍はビルマへの海上補給が危ぶまれていた。タイから国境近くの山間をぬって鉄道をつくり、ビルマに補給物資の輸送がこの鉄道の目的だった。このクワイ川鉄橋はじめ、鉄道の増設には、連合軍の捕虜や地元の労働者が多く動員され、突貫作業が行われ、伝染病の蔓延やマラリアなどで、多くの犠牲者がでたのも事実であった。海上レストランは、このクワイ川鉄橋の下を潜らずに、面舵一杯でUターンしたが、その時の水しぶきが上の画像。下の画像は、時を刻む毎に薄暗くなり、モーターボートもエンジンを切った為、暗い佇まいと、静かなクワイ川の上に、波しぶきの音だけがしていた。
2006.04.08
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「ISO感度とは何ぞや?」ISO感度とは何だろうと疑問を抱いた人も、いる事と思います。ISOはフィルムの時にその存在を、発揮していたような気がする。ISO感度が高ければ高いほどシャッタースピードが、速くなるが、それに比べてISO感度が低ければ、シャッタースピードが遅くなるという現象が起こる。またISO感度が高ければ映像が粗くなり、逆に、低いとクリアな映像が撮れることになる。ここでの映像は、殆んど見分けが付かなかったので、一番上の画像はISO80とマイナス0.3で撮影した。2枚目はISO100と±0で撮影したもの。3枚目はISO200と±0で撮影したもので、4枚目はISO400と±0.3で撮影したものである。低感度レベル(ISO80~60)解像度が非常に高いがシャッター速度が遅くなるので、出来るだけ三脚を使用した方がよい。商品の撮影などの質感や精巧且つ美しい撮影には、これを使ったが、難しい撮影技術がいる。中感度レベル(ISO200~100)レベル的に中間で、フジカラーN100なども多く使った。解像度も程好い感じに仕上がってくる。これも風景などにも適しているが花曇りにはISO400がお勧め!高感度レベル(ISO400)ISO1600~800に比べると、画面が細やかめである。どちらかといえば標準的だといわれてきた。私は今までの撮影はISO400で撮影し、露出補正をした。超高感度レベル(ISO800~1600)非常に高いISO感度で撮影した画像は鮮明さに欠ける。だがシャッタースピードは早いので室内での、スポーツやライブ等といった高速のものをとらえたり、暗めな映像を撮るときに重宝されてきた。私のカメラは、デジカメの進歩スピードからみれば、一昔前になるのだろうか?だからISO感度は400までしかない。しかし、現在のコンパクトデジカメでもISO感度は、1600まであるから、試してみると良い。文字を大きくしたい場合は、楽天エディタ編集画面の、上の所を見ると、B・I・U・S・Aと英文字が出てます。そして、左から5番目をクリックしてみて下さい。画面が出ると上に「サイズ」下に「カラー」と出ます。その「サイズ」の方に自分が大きくしたい数字を選び、「OK」を押すとエディタの中で大きい表示の英語が表示され、それで、ご自分のHOMEへ行ってみると大きくなってますよ!私はあまり使わないのですがテストの文字を大きくしてみます。お分かりでしょうか?あと1つの方法はこれ→「ブーザン」大きくなったでしょう。
2006.04.08
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「露出補正について」露出補正をするとは、写真画面の全体的な明るさや、暗さを調整するというものである。一般の人はまずこの部分の調整はしないであろう。昔、フィルムを使って写真撮影していた頃は、この露出補正で写真の仕上がりが違っていた。だから、同じ画像を露出を変えて5・6枚撮った。その中で一番良いものを選び出していた。それでも、思い通りの色には仕上がってない。下の画面は「私の夕飯のスープである」露出補正を「マイナス1.5 マイナス0.9」にして撮影した。だが最近はデジカメになり、デジカメ画面で、大体の仕上がりの色を確認する事ができる。下の画像は「マイナス0.3 ±0」の画像。オートだけで撮影して来ても良い画像は取れると思う。私の言っている事は、より良い画像を追求としようするならば、この露出補正は欠かせない重要なポイントになる。下の画像は「プラス0.3 プラス0.6」の画像。広告写真・風景写真やポートレートのような場合には、この露出補正は重要になってくるのである。ゆえに、最近、忘れかけていた一眼レフデジカメの存在を、気にして何とか手に入れたいなどとも思っている。露出補正をしながら撮影した「私のスープ」である。画像は「プラス0.9 プラス1.5」の画像である。露出補正をしただけで、これほど画面が変わるのである。
2006.04.07
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「半押し状態で色補正」露出補正をするとは、写真画面の全体的な明るさや、暗さを調整するというものである。一般の人はまずこの部分の調整はしないであろう。下の画像は、私の昼食に出た魚だ。40-loveさんの教えて頂いた方法を翻訳し、食堂を管理する人に託した。今日、何とか料理をして下さったようだが、塩味が効いてないのか、淡白な味だった。この料理に箸を付ける前に、画像に収めたものである。何を証明したかったかと言うと、今度は露出補正するのが、面倒だという場合の撮影方法を撮ってみた。白っぽいもので露出すると画面が暗くなり、逆に、黒っぽいものに露出を合わせると画面は、明るくなるという実験だ。はじめは魚の白身に焦点を合わせ、半押し状態で、全体を見て、半押しは離さずにシャッターを押す。そのような方法で写真を撮っておくと、意外な発見があるものだ。自分でも試してみると良く分かる。デジカメなら画面でその変化が分かるので、楽しいかも知れない。あまり距離の掛け離れた物に焦点を合わせると、実際に撮影する被写体との距離が違う為に、画像がピンボケ状態になるのでこの点は注意したい。カメラは、グレーっぽい紙で露出を出すと一番綺麗に撮れる。昔のデジカメでない頃には、マミヤにしろハッセルにしろ、露出計を手に持ちその被写体に一番適した露出を出したものだ。それが、風景などの場合には、困ってしまうので、掌の肌色や、薄いグレーの紙で露出を出し、カメラにセットしたものだった。魚の黒い部分で露出を合わせたため、全体が白っぽい。
2006.04.07
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「泰国西部桂河(クワイ川)遊」タイのクワイ川遊覧で、船上にての食事の模様です。私達は、船上レストランに乗り、そのレストランを、ボードで引いてもらいながら、食事やカラオケなどを、思いっきり楽しんだ。画像のようにモーターボートにて水上レストランを、牽引しクワイ川を遊覧した。川岸の色んな風景をも見ながら船はゆっくりと、クワイ川を進んでいった。牽引しているボートを撮影しようとするが、上手く撮影できない。この部分でも20枚ほど、露出補正をしながらシャッターを切った。露出補正をするとは、写真画面の全体的な明るさや、暗さを調整するというものである。一般の人はまずこの部分の調整はしないであろう。昔、フィルムを使って写真撮影していた頃は、この露出補正で写真の仕上がりが違っていた。だから、同じ画像を露出を変えて5・6枚撮った。その中で一番良いものを選び出していた。それでも、思い通りの色には仕上がってない。だが最近はデジカメになり、デジカメ画面で、大体の仕上がりの色を確認する事ができる。ピントについては、色々な諸問題によって、手振れや遠近感でピントが合ってない等の問題で、意外とがっかりした出来上がりのものも経験する。出来るならば、最低同じ場面の画像を2枚撮影すると、ある程度問題も削減する。問題発生率が50%になる。オートだけで撮影して来ても良い画像は取れると思う。私の言っている事は、より良い画像を追求としようするならば、この露出補正は欠かせない重要なポイントになる。確かに、スクープと呼ばれるようなシャッターチャンスが、1回しかない場合には、露出補正をしている時間などないので、そのまま、シャッターチャンスを優先して撮影するべきであり、例え色が悪くとも例えピントが合ってなくとも、価値はある。あくまでも、風景写真やポートレートのような場合には、この露出補正は重要になってくるのである。ゆえに、最近、忘れかけていた一眼レフデジカメの存在を、気にして何とか手に入れたいなどとも思っている。露出補正をしながら撮影した「私のスープ」があるので、このあとに更新してみたいと思う。
2006.04.06
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「泰国西部桂河(クワイ川)遊」私の「おかず」は、次の機会にして、またタイの旅行の話に戻って話を続けましょう。タイのクワイ川遊覧で、船上にての食事の模様です。私達は、船上レストランに乗り、そのレストランを、ボードで引いてもらいながら、食事やカラオケなどを、思いっきり楽しんだ。椅子取りゲームをしたり、ダンスを踊ったり、カラオケでは、中国語の歌ばかりで、中国人から、日本の「北国の春」を歌って下さいと言われた。仕方なく歌ったが、私が高校生の頃の歌だったので、高校生の頃はグループサウンズの歌ばかりで、この歌は、殆んど歌った事なかったが、中国人が、中に入り、中国語で歌い出したので、マイクを渡した。「画像はその船上にて食事をしているスナップ」勿論、海鮮料理ばかりであるが、美味しく戴いた。ビールも飲み放題のようで、中国人からビールを注がれた。何杯飲んでも、次から次へと、私の所へ来た。普段から酒は飲んでいるものの、彼らと1対1で、まともに酒を受けていたのでは、美味しい料理も、食べれなくなってはと、彼らはグラスで、私は小さいグラスを用意して頂き、彼らの杯(さかずき)を受けた。 タイの海鮮料理は日本人の口に合うのではないかと思う。私が中国で長い間生活しているから、その味に慣れて、タイの海鮮料理が日本人の口に合うのかとも思ったりもした。このクワイ川を海鮮料理を食べカラオケを歌い遊覧する。この事を中国語では「泰国西部桂河遊」そして、(通過ka拉OK・金竜寺・桂河大橋)と説明されていた。これに参加する為の費用は一人当たり2000タイバーツ2000バーツ(6000円)掛かるので、中国人にとっては、結構な出費になるが、皆さん相当リッチな生活の為、こちらが心配するより、自分の事を心配した方が良い!
2006.04.06
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私の食べている「うどん類」私を含め、上海の一般の人達が食べている「うどん」は、日本のソーメンのような感じである。ややソーメンよりコシがあるが味は極めて薄いため、日本よりの「めんつゆ」を別につくり食べている。お手伝いさんも、変な事をしているなと見てましたが、今では、慣れてしまい、その「めんつゆ」が置いてあります。この「めんつゆ」始めは日本から航空便で送って頂きました。しかし、最近外国人専用のスーパーで見つけました。値段は高いけど、これだけエアーで送っても4500円はする。下の麺は、この近くに有る中国甘粛省蘭州ラーメンで、手打ちラーメンである。味は、カレー味のような癖になる味で、価格は2.5元(37円)大盛り4元(60円)と日本と、中国の物価の7分の1水準から考えるならば、ちょっと高いのかも?とは思うが作業員も食べている。中国の食生活も、日本と同じなのか分からないが、1人前460元(7000円)の所があると思えば、1人前2.5元(37円)と言うところもある。もし、食事としても5元(75円)だが日本と比べて、高いのか安いのかは分からない。しかし「香菜」は思いっきり入っているので好きだ!この「香菜」を嫌う中国人も少なくはない。毎日変わり映えしないような「おかず」ではあるが、こちらから「このように料理して下さい」とか、「肉の骨を抜いて肉だけぶつ切りにして下さい」などと、注文をつけ、それなりの「おかず」になった。中国では、骨が一杯付いている食べにくい肉が高級で、日本人が食べるような、骨の無い肉は、安物と言う。私が中国へ来た1994年には、肉の細切れが、日本と同じと、ガブって食べたら、骨が中に入っており、日本で治療してきた歯が見事に、欠けてしまった。画像はレタスであるが、日本のレタスは巻いているが、こちらでは普通の菜っ葉のように真っ直ぐである。これは、お手伝いさんに言って、食堂の台所で、ニンニクを刻んで、油でさっと炒めてもらったものです。ホルモンが食べたいと調理の方へ話していたがやっと来た。しかし、一番良いホルモンを焼いて下さいと言っていたが、中国では魚でも肉でもホルモンでも焼くと言う習慣がない。仕方なく中華鍋で炒めて頂いた。久しぶりのホルモンだったが昔の感じと違った。たれが違うのかとも思ったりしたが、水っぽくなってしまった。本当は焼いてほしかったのに、その意味を理解してくれない。何とかホルモン焼きをしたいために、テフロンの鉄板焼肉の、器具を今度の日曜日に買いに行く事にしているが、買ってきても、誰が焼いてくれるのかと思うと気が重い。
2006.04.06
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私の食べている「おかず」先日急な用事で午前10時ごろに、上海南京路まで行った。用事を済ませその帰り、なんとなくお腹が空いたので、上海吉野家へ入り、久方ぶりに牛丼を食べた。日本では、危険部位の混入でアメリカ牛肉が輸入禁止、日本の吉野家の牛丼は、牛丼を始めているのだろうか?などと、思ったりしながら牛丼が出て来るのを待った。普通盛りが17.5元(263日本円)大盛りが21元(315日本円)日本と中国の物価比率から換算すると、中国人にとっては、高いと思うが、お客様は、皆さん中国人だった。下は、私の昼の「おかず」である。鶏の腿肉で、日本でなら骨が付いているところであるが、調理の方へ、食べやすいように鶏肉を裂いて下さいとお願いした。今では何も言わなくても、このようにして出して下さる。この方法だと、昼間残しておいて夜の酒のつまみにもなり、結構、おかずの残りものを、夜の酒のつまみにしている。だから、肥えてくるのであろうか??大きな川魚で名前は「アオウオ」と呼び、よく出る。地元の人は「青魚qing1yu2チンユー」と言っている。「アオウオ」とは「コイ」に似た淡水魚の一種である。大きさは80センチは、ゆうにあるこの魚を8ミリ位に、スライスしてより、油で揚げたものである。しかし、海の魚と違い溶けてしまう柔らかであるため、この方法を提案したものの、骨が入っていて、やはり、食べられない。何か良い方法がないものか?以前、2度揚げるとパリッとして骨まで食べれるとの、ご指導を戴いたが、真っ黒になってしまった。上に置いてある野菜は、香菜(xiang1cai4)中国パセリ。コウサイともいうが、これを嫌う日本人は多い。私は大好き!
2006.04.05
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上海蟹のオスとメスの見分け方上海蟹の画像です。今は時期ではありません。9月から11月頃蘇州近郊の陽澄湖や無錫太湖で、採れるものを特に上海蟹と呼ぶ。昨年10月に上海の街へ出て上海蟹を食べた。今までも事ある毎に上海蟹を食べてはいたのであるが、画像に収めることは少なかった。そこで昨夜上海蟹を画像に納めた。今回はメスとオスの上海蟹を更新したい。上海蟹をひっくり返した画像です。上海へ行かれた人も、このようには出てきませんので、余り見かけないとは思います。質問ですがこの下の画像の上海蟹は、どちらがメスで、どちらがオスでしょうか?上海の人でも若い人の中には知らない人も多い。これを覚えて、上海蟹の旬の10月頃に食べて下さい。オスの事を、公(gong1)、メスの事を、母(mu3)と言う。私の手書きの公と母で、非常に貴重な画像ですよ!以前上海蟹の更新をしたのが、3月25日だった。そして、以前更新した画像が見つからず下記のような、記事を載せたのが、PM11時13分であった。ブーザンの手書きで、ちょっとおかしく変だが、逆に言えば貴重な画像ですよ。どちらがオスかメスか?違いが分かったでしょうか。この時期は味噌がたっぷりのメスが美味しいというが、ある人はその味噌の味が嫌いで食べない人も、いらっしゃるから勿体無い話ではある。
2006.04.05
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「上海でも北京ダック」北京ダックを食べに行きました。中国語で北京火考鴨(bei3jing1kao3ya1)と呼ぶ。この店は本格的な「火考鴨」を食べさせてくれる。長い歴史を持つ北京ダックの発祥の地は、北京ばっかり思っていたら北京ではなく南京だった。北京ダックで使うアヒルは、元々は南京鴨と呼ばれ中国の南京付近の池や湖に、生息していたが、冬の寒さが厳しい北京で飼育し、飼育方法も南京とは違い人工的に太らせた。 油の乗った鴨に育ち高級品として取引されるようになった。タンドールって知ってますか?タンドールは北インド地方の調理器具です。土で作った素焼きの釜とレンガで囲んだ隙間に、コンクリートを流し込んで作ったもので、そのダンドールの釜で焼いたのが、北京ダックの始まりとのこと。食べ方は、小麦粉をこねて薄く円盤状に、伸ばしたものを餅(bing)と言う。北京ダックを甘い味噌につけ、白葱やきゅうりと一緒に入れて餅で包み込み、下も味噌が落ちないように包み食べるが、私の場合は更に味噌を沢山つけて食べる。
2006.04.05
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クワイ川遊覧ディナー何回かに分けて、画像の更新の為に、画像の登録したが、更新出来なくパソコンの、奥底に眠っていた画像を、ブログに載せれる事が出来た為、嬉しい気持ちだ。ただ構図が悪い、ピントが合ってないとか、色が悪い、更新枚数で漏れたなどで、捨てられていた画像だった。 その枚数も200枚ほどあったが、180枚ほど公開できた。私も内心ホッとしているのは隠しきれない事実である。そのバンコクでの日程も終了し、最後のクワイ川へ、向かった。目的地は映画「戦場に架ける橋」で、一躍有名になったクワイ川である。水上レストランでディナーをする為であった。今回の旅行のディナーでは一番のイベントだった。クワイ川はバンコックから車で、約2時間ほど走った所にあった。このクワイ川鉄橋へ差し掛かる頃には太陽も沈みかけ、そして、かすかな夕陽をその鉄橋を照らしていた。何故この川が有名になったかというと、このクワイ川に架かる鉄橋が映画の為に、セッティングされ、一躍になった。世に名が知られる前のこの川の名前はメクロン川と、呼ばれていたが、映画が放映れた後に、メクロン川から、クワイ川と川の名前が改名された。現地ガイドは、私が日本人である事も考慮し気を、遣いながら、この鉄橋の歴史について話していた。これから、何ページかに分けてこの水上レストランの、模様やクワイ川の模様をレポートしていきたい。(画像はクワイ川マーチで有名になったクワイ川鉄橋)
2006.04.04
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「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 180枚ほどあった更新されずにパソコンに、眠っていた画像もこれで最後になった。使い物にならないものは削除した。このスネークセンターのショーの撮影は、許可されたが、ショーが終わり、上海よりのツアー一行が部屋に入り、ヘビより作った薬を説明する部屋では、全面撮影禁止であった。撮影禁止ならば、絵を描いた。大体説明の終わった講師は、一番前に座っている、私の所へ来て「ちょっと見せて下さい」と言った。そして、皆に見えるように高々と掲げて、「綺麗に描けてますね~」と皆に見せていた。「写真がダメなら絵で記録しているよ!」「ヘビ館入口にある各国の国旗」 庭にはベンチが3つあり、中心には、テーブルではなく噴水があり、その噴水口から水が噴き上げていた。私は、先ほどのスネークショーのとき、ニシキヘビを首に乗せた。ニシキヘビを触りはしなかったが、何となく気持ちが悪くなり、その噴水口より噴き出る水で手を洗った。そして、その水に口をつけて、うがいをした。画像では、水が流れて汚い感じである。いろんな構図を考えながら撮影したが、どのようにしても、その水が中に入った。 私は、衝動買いをせずに、そのまま外へ出て、スネークセンターの裏庭に咲く花の画像を、撮影したりしながら時を過ごした。20分ほど過ぎてより、ツアーの皆さん方が、ガヤガヤ言いながら裏庭の方へ下りてきた。「日本先生!薬は買わなかったの?」と、私は「夢遊病に効く薬を買いたかったのですが・・」と、言いかけ、上海の医師が皆さんに説明した。「腎臓が悪いから夢遊病になると言う事は有り得ない!だから、日本先生の所へ言って買わなくて良いと、アドバイスをして差し上げました」と説明。「ピントが花に合わず、下の草に合ってしまった」
2006.04.04
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「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 180枚ほどあった更新されずにパソコンに、眠っていた画像もあと余すところ6枚に、その中でも、使い物にならないものは削除した。釈迦牟尼世尊の坐像には、功徳箱が写っていますが、これはお賽銭箱のようなものでしょうね。その通り賽銭箱に間違いありません。タイの全ての寺院で、撮影禁止の中でも賽銭箱はありました。ですから私が冗談で、ここにまとまったお金を入れるから、写真を撮らせて頂けないか?というような内容を、言ったのですが、許可はされませんでした。後で現地ガイドに質問したら、それは駄目ですよ。もしあなたの言う事を許可したら、この世の世界では、何も起こらなくても、死んでから地獄へ落ちてしまうと、本当に信じている人達ばかりだから、そんな事を言って苦しめては駄目ですよ!インドからタイへ伝わった仏教が、ヒンズー教、バラモン教とともに伝来した。「蛇神(ナーガ)」との関係が極めて深く、寺院には「パヤ・ナーク」が多くある。日本ならば「蛇将軍」とでも言うのだろうか?中国に伝来するとこの「蛇(ナーガ)」は、「麒麟」「鳳凰」「亀」また「龍」になる。四霊神の伝説の中でも、この「龍伝説」は、5千年以上前から存在していたという。タイの家庭の仏壇の近くにも「守り神」として設置してあるが、ある程度上流階級の家庭である。始めは大蛇でお客様を巻き込んでのショー。この蛇のえり巻きは、あまり気持ちの、良いものではない。本当に喜んでニシキヘビを首に巻く人も居るには居たが、大部分は大きな声を挙げていた。首に巻いた感触はぬめっとした感じかな・・・。とても手で触るだけの勇気はなかった。ニシキヘビもレストランで何度も食べたが、このように生きた蛇を首に巻くのはさすがに、膝から下の向こう脛がゾ~っとする感覚だった。
2006.04.04
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「バトンが回ってきました」「○o。.マリーのお部屋.。o○さん」からBBSにカキコあり!「バトンを回させていただきました。お手数ですが、引継ぎをお願い致します。」只これだけしかBBSには有りませんでしたが、今日マリーさんの、ブログを見て何となく「連想尻取り」などと感じました。。何でも3人に送らなければ駄目との事です。この前バトンを送って、気不味い思いをされた人もいます。ですから、今回は慎重に人選しないといけませんね。前回のバトンがまだ終了してない人もいらっしゃいますので、今回は、サッチャーさんや美智子妃殿下の前でハーフを、演奏された「47弦の詩人さん」がまずお一人・・。バリ島で頑張ってらっしゃる「JLmamoさん」そして、最近友達になりました「ぐびっとさん」の、この3人の人にバトンをタッチさせて戴きます。ルールが分からないので、私がルールを作ります。バトンが回ってきたら、連想するものを一つ書いて下さい。そして3人と書かれてますが、最低お1人の人にバトンして下さい。現状の最後は「ハリーポッター」です。「ハリーポッター」から連想するものを一つ書いて、次の3人の人にバトンタッチして下さい。皆様、お忙しいところ申し訳御座いませんが、何卒、ご協力の程宜しくお願い致します。私は、7つ書きましたが、1つでいいですよ!バトンが回わって参りました内容は下記の通りです。海⇒川⇒水⇒雨⇒雲⇒空⇒青⇒ポカリスウェット⇒スポーツ飲料⇒潤う⇒汗⇒夏⇒クーラー⇒寒い⇒冬⇒雪⇒雪だるま⇒白⇒白熊⇒カキ氷⇒祭り⇒混雑⇒ラッシュアワー⇒電車⇒通勤⇒会社⇒深夜残業⇒深夜営業⇒コンビニ⇒新商品⇒春物⇒ピンクの唇⇒ちゅうしてぇ!!⇒おんな心⇒秋の空⇒毎年恒例冬の大放出⇒福袋⇒わくわく⇒日記コメント⇒交流⇒仲間(心の繋がり)⇒輪⇒ノット(結び目)⇒風呂敷⇒東京ぼんた⇒あの世⇒星⇒プラネタリウム⇒星座⇒占い⇒細木数子⇒ポマード⇒永ちゃん⇒キャロルそして、私からは下記の通りです。キャロル⇒ルイジアンナ⇒ヘイ・タクシー⇒グッド・オールド・ロックン・ロール⇒エルヴィス・プレスリー⇒監獄ロック⇒ワーナー映画⇒ハリー・ポッター⇒(このあとつなげて下さい。)私は、トラックバックを上げてないので、皆さんにコピー&ペーストして、回りますので宜しくお願い致します。バトンされる場合は、「海⇒川⇒・・・ワーナー映画⇒ハリー・ポッター⇒」と言うように全てコピーして、3人の人の掲示板に貼り付けますので、何卒宜しくお願い致します。「掲示板に行きましたら、半角1600文字の所、現在: 半角2170文字で送れないとメッセージありでこちらまで、ご足労でも見に来て頂かなくてはならなくなってしまいました」以上 ブーザン@上海
2006.04.02
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「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 180枚ほどあった更新されずにパソコンに、眠っていた画像もあと余すところ20枚ほどに、その中でも、使い物にならないものは削除した。バスに乗る前に、バスの横に、書いてある「KARAOKE」の文字に気付き、画像に収めてより、ガイドに聞いてみた。「KARAOKE」って書いてあるが、歌えるのか?と、返ってきた答えは、有りますよ!1階は運転席があり、その奥に、間切りをつくり、カラオケルームがあった。15人が座れるくらいのソファーが、セットしてあった。ちょっと試させてもらったが、スピーカーのせいか、結構いい音がでた。外は連日34~35度の気温だったが、バスの中は、寒いくらいクーラーが効いていた。朝食の時点で、昨夜の事柄を、皆が知っているようで、私に聞いてきた。昨夜、従業員に引っ張られたんですって?それを、聞いていた現地ガイドは、何があったのか?と昨夜私に同行した人に、しきりと聞いていた。私の傍に来た現地ガイドは、話を聞いたけれど、と言い置き、あそこはマフィアが絡んでいるから、気を付けないと、私達でも楽屋裏へなんか入れないと、事の重大さを告げるが、真相は話さなかった。真相を話すと、話の受け取り方によっては、私のイメージダウンにつながり、強いては、日本人のイメージダウンにつながると考えたからだった。なぜならば、私の話や行動を通して、彼らの今までの日本人観を良い方向へ、変えようとしていたからだった。昨夜は、パタヤの夜の歓楽街やストリップショーの、中でのトラブルにも何とか対処できた。本当であるならば、昨夜の私の行為は、彼等からすれば許されない。あの場は上手く対応でき、おまけにストリップショーの、無料の招待券まで頂いた。パタヤのホテルにてそのように考えていた。画像は、そのパタヤビーチの椰子の木たち・・。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 180枚ほどあった更新されずにパソコンに、眠っていた画像もあと余すところ15枚に、その中でも、使い物にならないものは削除した。私は、道行く人や、客引きのお姉さんに、両替所が無いかどうかを聞いていた。この人って、怖いもの無いのかしら?などと話している声も聞こえたが、それには答えず先へ先へと歩き、やっと見つけて、日本円を出し、両替をした。私達、4人(医者のご夫婦と娘・私)で、メインストリートの歩道を話しながら、歩いていると、医者のご主人が、急に頭部左側を押さえて蹲ってしまった。私が車道側で、医師は商店側を歩き、その奥さんと娘は私達の後ろを歩いていた。ヨーロッパの方からの観光客が、夜のビーチに集まり、交渉が始まる。私達は予定より遅れて、9時20分ごろに、パタヤリゾートの堤防を歩いていた。私が、法輪講だと言ったら、彼らは中国語で、「私達は法輪講ではありません」と、如何に中国からの観光客が多いかも、彼らの流暢な中国語を話す言葉で分かった。我々のツアーのメンバーも、嬉しさを隠せない表情で、楽しかったと若い中国人女性までが満足していた。その感動の余韻を残して、我々はその船を後にした。その時に撮影した船の画像であるが、何となく船も別れを惜しんでいるように見えた。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 180枚ほどあった更新されずにパソコンに、眠っていた画像もあと余すところ12枚に、その中でも、使い物にならないものは削除した。このパタヤや歓楽街のルーツは、1970年のベトナム戦争時代にアメリカ軍兵士の保養地として作られた。はじめは静かな漁村地帯であった。しかし、ベトナム戦争が終結してからも、燃料補給の為による船の船員や兵士達で栄えてきた。画像に写っているような娘は、18歳から21歳までみんな若い子達ばかりである。そして、先ほどバスの中で話していた場所へ、行ってこの目でその場を見て見たいとガイドに行った。現地ガイドは、手を大きく左右に振って、「絶対駄目です!今度迷子になったら危険です」と、パタヤの夜のビーチで行方不明にでもなったらと、思ったのであろうか?私が、色々なオープンバーのお嬢さん達に、気を取られているときに、現地ガイドと中国人の人達を見失ってしまった。私は、慌てて小走りにパタヤの歓楽街通りを、走った。そして色々な通りに分かれており、元来た道に引き返し、彼達が一体何処に、行ってしまったのか?考えながら歩いた。「何処へ行っていたのですか?」と聞くと、指を差し、キックボクシングの試合を見ていたと言う。写真は、四面佛と言われるほどに四つの顔を持つ。このページでは、「平安佛」と「招財佛」の顔を、画像に更新した。私が画像に収めている真下では、中国の女性が、長い線香を両手で持ち、跪(ひざまず)いて、幸福を祈ってお参りをしていた。私も心の中で「ごめんなさい!平安の神様」と、思いながらシャッターを切ったが、この四面佛は仏様でしょうか?神様でしょうか?観音様でしょうか?菩薩様でしょうか?「平安」が健康(無事)であり、「招財」が金運(福の神)であり、「事業」はそのまま事業であり、「婚姻」とは愛情の事である。やはり、神の領域なのか?佛(仏)ではないのか?バラモン教はヒンズー教を生み出した。ヨガもバラモン教の生み出したものなのか?
2006.04.02
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「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 金沙島のビーチの何箇所もの所で、髪の毛の細い三つ編みや手の甲に刺青ならず、書き刺青をやっている所があり、我々のツアーの中から、勇気ある女性が、挑戦していた。食事をしてから、30分の自由時間が無い為、海鮮料理の食事も、余り食べると太るからと、食事もほどほどに外へ出て三つ編みと、刺青をしてもらっていた。 タイランドの国民の90%が仏教徒である。仏教と言っても、日本の仏教とは違う。日本の仏教は、中国から伝わった。中国の仏教もまた日本の仏教とも違う。日本の仏教は大乗仏教であり、タイの仏教は、爾前教である。成仏する為には自分が出家して、修行に励まなければ成仏しないという教えである。女性のワニ池への飛び込み自殺や、ワニの調教師が、頭から噛まれた事件など、考えるとこの四面佛の設置も理解できる。上記の四面佛はワニランドにあった四面佛。下の画像は、バンコク街の中に解けている、完全に生活の一部の中にある街の四面佛。 この金佛寺には有名な黄金佛があった。この中は画像の撮影が出来なかった。カメラを構えるものなら、隅に座っている女性が、大きな声で「No photography」と言っていた。私は「写真が撮れないのか~」と思いながら、その座ったままの仏像を眺めるしかなった。そして黄金佛を見て、階段を下りるときに、見張りの女性に「綺麗ですね」というと「有難う」と、そして「写真撮ってもいい」と聞いてみた。笑顔で「撮影禁止」と言うのでまた「綺麗ですよ」と、言うと、恥ずかしそうに「有難う」と、中国の人から、「仏の遣いの女性が気に入りましたか?」と言われたが、「どうしても画像が撮りたかった」と門を出た。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 象が数珠繋ぎで、入場した。手を繋いでというところかも知れないが、前の象の尻尾(しっぽ)と自分の鼻を、繋いでの入場行進には、観客から、大きな拍手がまい起こった。これだけ沢山の象がグラウンドに集まると、さすがにグラウンドが小さく見えた。象は大きい象から、子供の小さい象まで、綺麗に順序よく並んで行進していた。 象が鼻で絵を描いているところ。長い鼻の先に筆を持ち、絵の具の中に、浸けては、その筆をキャンパスに描いていた。今度は鼻でダーツの矢を操り、全面に設置した風船を割ろうというもの。狙いを定めて、勢いを付けるために、身体を、しならしたり、構えたり、観客の皆を喜ばせていた。 今回の象のショーを見ていて、発見した事は、象にも色んな性格がある。何度も何度もフォームを構え、失敗してしまう慎重派!ただ単にそこにボールがあるから、蹴って何が悪いと、何も考えず、蹴ってゴールイン!そして勝ち誇ったポーズをとる。慎重に考えた象がバカみたい。 その昔中国でも、日本でも、戦いと言えば馬に乗り戦った。しかし、あくまでも舞台の上だけの、ショーであるのか、象に乗った兵士達。このショーの為に、象も大変な目だ。だが、彼ら曰く、象は頭のいい動物だという。私の祖母は、象の目と言われるほど、小さい目をしていたが、頭は良かった。象がバナナを鼻で掴むときである。象の鼻ってグローブのように掴めるのだ。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 タイでは見られる光景で多いのが、挨拶をする時に手を合わせて合掌する光景である。日本の場合は、頭を下げてお辞儀をする。他の国の場合はスキンシップで抱き合う場合や、頬にキスをする仕草の所もあり色々である。中国はと言うと、首脳陣クラスはやはり、欧米のように抱き合い頬にキスをする仕草をする。しかし、一般の人やあまり親しくない人には、握手ぐらいの挨拶でおわる。私が子供から連想するものといえば、計り知れない未来・夢・希望・・・。しかし、中国にいて日本のニュースを見ていると、悲しい子供のニュースが多すぎる。守られなければならないはずの子供が、いとも簡単に危険な目に遭わされ、命を落としている。仏教で言う無常とはまた違う。一切の物は生滅・変化して常住ではない。自分の意志とは関係なしに時は流れていく。その岩山の中心位置まで来たものの、黒っぽい山肌と白っぽい空とのコントラストが、離れすぎ逆行のような現象に困った。岩肌を重視するか、空を飛ばすか、岩肌の佛陀を、重視するかと構図を決めているうちに、皆が、私の背中辺りに来ていた。山の高さが15階建ビル(45m)より高く感じられた。こんな高い山肌に、どうやって佛陀の絵を、描いたのだろうとの疑問に変わった。現地ガイドに聞いてみても、「わからない」中国の医師にも、聞いてみたが、笑うだけ。タイのラーマ9世の無事を祈る為肖像画が置いてあった。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 綺麗に手入れがされている庭園だった。花畑というより庭園だった。緑と緑の新芽が織り成す色の調和の中で、このように綺麗に手入れをするには、相当の年月を掛けているのではと思った。日本の庭園を思わせるような情緒豊かな、光景にどっぷりと浸りたかったが、前を急いだ。陸橋を渡り車道の上に延びた一本の道、私はその道を前に向け急いだ。ふと人が追いかけて来る音に振り返ったが、誰も居なく気味が悪いくらいだった。また走ると自分のスニーカーの音が、反響していると分かった。そして、再度振り返り撮った一枚の画像。私の今までの人生で、このような風景は見たことがなかった。一体、何年掛かってここまでにしたのか?一体何人の人々がこの庭園造りに携わったのか?色んな思いが脳裏をよぎった。そして、ここに立っているのは、後にも先にも現時点で私一人だった。これほどまでに整然と庭園が造られ、これほどまでに色使いがマッチして、これほどまでに人の心を引く庭園があるのか?逆光に輝いた木々たちを画像に収めた。しかし、光が強すぎる為、画像の木々が光で、飛んでしまい、何とか光を遮るものを探した。
2006.04.01
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「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 中国の皆さんは、それぞれ思い思いの買い物や、浜辺に下りて、マリンスポーツを楽しんでいた。私と落ち合った中国の女性が、マリンスポーツの、バナナボートを申し込んだが、私達3人以外、皆何処へ行ったのか見当たらないとやってきた。彼女たち3人の目的は、私にカメラのシャッターを、切ってほしいという事であった。食事中も和やかな雰囲気で話をしながら、海鮮料理を皆で味わったものの、中国の人は、この海鮮料理が大好きと言う人は居なかった。「こんな美味しいもの勿体無い」と言っては、自分の皿に移し変えていたが、ある中国人から、「日本は周りを海に囲まれていて海鮮が多いでしょう」と、日本へ行った事のある中国人から聞かれた。私は「海には囲まれているが、毎日海鮮料理は、食べてませんよ」と言うと、刺身の話題に入った。殆んどの人が「刺身は食べれない」と答えた。「生臭い」などと国が変われば食生活も、変わってしまうんだと思った。この金沙島へ来た時と同じく、我々は2艘の、高速ボートに乗り込み、パタヤビーチへと急いだ。前の高速ボートを撮影しようと立ち上がったが、危険だからと、大きな声で注意をされてしまった。普通の連絡線であるならば、船はゆっくりとした速度で、進むのであるが、この高速船は、波の上を、飛び跳ねながら走るので、椅子に奥深く座っていないと、バランスを崩し、床に叩きつけられてしまうか、最悪、海に投げ出されてしまうからであった。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 金沙島のビーチの何箇所もの所で、髪の毛の細い三つ編みや手の甲に刺青ならず、書き刺青をやっている所があり、我々のツアーの中から、勇気ある女性が、挑戦していた。食事をしてから、30分の自由時間が無い為、海鮮料理の食事も、余り食べると太るからと、食事もほどほどに外へ出て三つ編みと、刺青をしてもらっていた。 タイランドの国民の90%が仏教徒である。仏教と言っても、日本の仏教とは違う。日本の仏教は、中国から伝わった。中国の仏教もまた日本の仏教とも違う。日本の仏教は大乗仏教であり、タイの仏教は、爾前教である。成仏する為には自分が出家して、修行に励まなければ成仏しないという教えである。女性のワニ池への飛び込み自殺や、ワニの調教師が、頭から噛まれた事件など、考えるとこの四面佛の設置も理解できる。上記の四面佛はワニランドにあった四面佛。下の画像は、バンコク街の中に解けている、完全に生活の一部の中にある街の四面佛。 この金佛寺には有名な黄金佛があった。この中は画像の撮影が出来なかった。カメラを構えるものなら、隅に座っている女性が、大きな声で「No photography」と言っていた。私は「写真が撮れないのか~」と思いながら、その座ったままの仏像を眺めるしかなった。そして黄金佛を見て、階段を下りるときに、見張りの女性に「綺麗ですね」というと「有難う」と、そして「写真撮ってもいい」と聞いてみた。笑顔で「撮影禁止」と言うのでまた「綺麗ですよ」と、言うと、恥ずかしそうに「有難う」と、中国の人から、「仏の遣いの女性が気に入りましたか?」と言われたが、「どうしても画像が撮りたかった」と門を出た。「更新に漏れた画像たち」 画像の更新の為に、登録した画像たちではあるが、更新してなくパソコンの、奥底に眠っていた。更新漏れとは、構図が悪い、ピントが合ってない。色が悪い、更新枚数で漏れたなど・・・。 象が数珠繋ぎで、入場した。手を繋いでというところかも知れないが、前の象の尻尾(しっぽ)と自分の鼻を、繋いでの入場行進には、観客から、大きな拍手がまい起こった。これだけ沢山の象がグラウンドに集まると、さすがにグラウンドが小さく見えた。象は大きい象から、子供の小さい象まで、綺麗に順序よく並んで行進していた。 象が鼻で絵を描いているところ。長い鼻の先に筆を持ち、絵の具の中に、浸けては、その筆をキャンパスに描いていた。今度は鼻でダーツの矢を操り、全面に設置した風船を割ろうというもの。狙いを定めて、勢いを付けるために、身体を、しならしたり、構えたり、観客の皆を喜ばせていた。 今回の象のショーを見ていて、発見した事は、象にも色んな性格がある。何度も何度もフォームを構え、失敗してしまう慎重派!ただ単にそこにボールがあるから、蹴って何が悪いと、何も考えず、蹴ってゴールイン!そして勝ち誇ったポーズをとる。慎重に考えた象がバカみたい。 その昔中国でも、日本でも、戦いと言えば馬に乗り戦った。しかし、あくまでも舞台の上だけの、ショーであるのか、象に乗った兵士達。このショーの為に、象も大変な目だ。だが、彼ら曰く、象は頭のいい動物だという。私の祖母は、象の目と言われるほど、小さい目をしていたが、頭は良かった。象がバナナを鼻で掴むときである。象の鼻ってグローブのように掴めるのだ。
2006.04.01
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