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東京に出かけたが、美術展を一つ見ただけで早々に帰ってきた。おかげで、金デモに出かける前に2時間ほどゆっくりできた。 JR東日本管内を4日間乗り放題で15,000円という高齢者用の格安パスがあって、それを利用できる期間には美術館巡りと東京の街歩きをしていた。4日間、仙台から通うのである。 しかし、今回は火曜日から金曜日までの4日間のパスを火曜日と金曜日の2日だけ利用した。火曜日と金曜日はヘルパーさんが来る日なので、介護の手伝いから解放される時間帯ができて、それを利用しての東京行きなのである。いつの間にか、義母の介護における私の担当分がはずせなくなっているのだ。 ヘルパーさんが来るといっても時間に制限があるので、私が出かける朝はいつもより3時間も早く義母の一日が始まる。出かける前に私の力が必要なことをできるだけやっておくためである。朝食を採ってもらい、トイレをすませ、ふたたびベッドに寝てもらうまでの介助だ。 4日を2日に減らし、街歩きもやめて美術展だけになった。おかげで、体は楽である。火曜日も今日も、義母の入浴時間に家に帰り着いた。お風呂上がりに義母の右手の潰瘍状の小さな傷の手当をするのも私の担当だ。 少し休んで、老犬を散歩に連れ出す。犬の夕飯を用意して、金デモに出かけた。勾当台公園から一番町へ。(2017/6/30 18:53~19:09) まだ少し昼の暑さが残っているが、それでもだいぶ過ごしやすい気温になってきたころ勾当台公園に着いた。まだスピーチは続いていたが、途中から聞いたので、あまり頭に入らないまま集会は終わった。 朝に見た天気予報では、デモの時間帯に重なって小雨の予報だった。東京から帰り着いたとき、パラパラと降っていた。あらためて予報を見ると、デモの時間帯には降らないことに変わっていた。予報は当たって、デモが終わるまで降ることはなかった。この季節、きれいな夕焼けに彩られた集会とデモを期待し続けているのだが、残念ながら今日もダメなようだ。 デモにはとてもいい季節だが、参加者がいつもより少ない。そろそろ動き出した市長選の準備にかかわっている人もいるのだろう。一番町に出てからカウントすると30人ということだった。一番町(定禅寺通りから広瀬通りまで)。(2017/6/30 19:09~19:18) 台湾に引き続いて、隣国韓国も原発のない未来に向けて動き出した。6月19日、韓国の新しい文在寅大統領が、原子力発電を重視した従来のエネルギー政策を破棄して脱原発を進めると宣言し「新規の原発建設計画は全面的に白紙化する」と表明したのである(文在寅は、ムンジェインと読むらしい。覚えておこう)。 もともと、文大統領は脱原発依存を掲げて5月の大統領選挙を勝ち取った。脱原発が大統領選挙の主要な争点ではなかったかもしれないが、そのような大統領を韓国国民は選んだのである。 脱原発の表明は、韓国で一番古い古里原発1号機の「永久停止宣言式」でなされた。韓国で操業する原発は24基となったが総発電量に占める割合は30%とまだまだ高い。しかし、脱原発を宣言することで新しいエネルギー源の開発が著しく促進されるのは、ヨーロッパ各国の例を見るまでもなく明らかである。 文大統領が「福島の事故が、原発が安全でも安くもないことを明白に示している」と語ったと東京新聞の6月24日付けの社説に書かれていた。それに続く社説の言葉は次のようなものだった。 台湾でも一足早く、福島の教訓に従って、新政権が脱原発にスイッチを切り替えた。未来を見通す政治家ならば、福島の教訓→生命最優先→脱原発依存→再生エネへの転換という大きな流れに乗る方が、むしろ自然なのではないか。 ところが福島のあるこの国が、教訓を生かせず、流れに乗りきれず、次に原子力規制委員になる人が「寿命延長」を公然と支持するような逆行をほのめかすのは、なぜだろう。隣国の変化を見守りながら、よく考えてみたいと思う。 どんな政治家を私たちが選ぶかで私たちの未来は左右されてしまう。少なくとも、こと原発に関する限り、私たち日本の国民が選んだ政治家たちは、未来を見通す能力に欠けているのは間違いない。一番町(広瀬通りから青葉通りまで)。(2017/6/30 19:19~19:26) 一番町を歩くデモが青葉通りに近づいたとき、外国人のカップルが一所懸命に応援してくれた。男性の方はデモに参加して一緒に歩きたいという仕草を見せるのだが女性に諫められていた。 デモが青葉通りに左折するとき、その男性は手を合わせ、丁寧にお辞儀をしてから、一番町を南町通りの方へ去っていった。 デモを歩いていると応援してくれ、支持を何らかの形で示してくれる人は多い。しかし、その割合は圧倒的に外国人の方が高い。日本人だって7割ほどの人が脱原発を望んでいるのは様々な調査で明らかになっている。しかし、行動で脱原発デモに支持を表明する人はとても少ない。 私たち日本人には、社会・政治的意識と社会・政治的行動との間に大きなギャップがあるのだろうか。デモの場面でいつもこういうことを考えさせられる。青葉通り。 (2017/6/30 19:28~19:35) デモが終わり、長期出張があってしばらくぶりでデモに参加したという人と立ち話をした。専門家としてそこそこ名のある企業のための調査に加わるという仕事らしかったが、現場の混乱は目を覆うばかりだという。指揮系統は混乱し、管理能力の欠如は著しいのだとその人は言った。働き盛りの世代が消耗しきっているとも語った。 私は私で、日本の大学の研究レベルの急速な低下のニュースの話をした。二人の話をあわせると、日本はいま没落の急坂を転げ落ちているという結論になった。様々なところで綻びが顕在化するがそれを防ぐ人的資力も知的資力もないのだ。 そして安倍自公政権によって日本の命運が断たれそう、そんな危機を確認してから、「このことはいずれまた話しましょう」と二人は夜の街で別れたのである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.30
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定年退職の日が楽しみで待ち遠しかったのは、きっと時間がたっぷりとあって、じっと我慢し続けていたさまざまなことをやれるという思いがあったからだ。じっさいには思ったことの半分もやれていないのだが、やろうと思っていた一つにSNSがあった。 勤めていた職場にはホームページがあったが、その管理は若い助手がやっていて、私は原稿を作るだけだった。それで、退職後にすぐ始めたのは個人的なホームページを作ることだった。 かつて科学計算のためにFORTRANというコンピューター言語を習得したように、ホームページを記述する言語としてHTML(HyperText Markup Language)の勉強からと思いこんでいたのだったが、「Dreamweaver」とか「ホームページビルダー」などというソフトを使えば専用言語の知識なしでもあっけなくホームページができるのだった。 プロバイダーのメモリー容量制限(今では格段に大きくなっている)がホームページ作成には窮屈に思えて、ブログも始めようと思ったのは退職から3年(福島事故から1年)が過ぎてからだった。それ以来、ホームページの更新を行うことはまったくなくなって、ブログだけを更新している。 主題別というほどの大袈裟なことではないが、今では書く内容に応じて三つのブログを走らせている。その一つがこの『山行・水行・書筺』というブログで、山登りや釣行のことを記録して電子的な文箱(書筺)に収めておこうという意味のタイトルである。 ところが、山登りの回数はどんどん減り、あんなに夢中だった鮎釣りや渓流釣りも極端に回数が減ってしまい、それらに替わって街歩き(散歩)の話が増えてきた。このごろは、デモもまた街歩きだと強弁して、「脱原発デモ」ばかりとなって来た。一週間に必ず一つブログネタが生まれるというのはありがたいのである。 当然のように、今日もまたデモの話である。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2017/6/23 18:54~19:06) 最近は集会に出ないでデモだけの参加にしているが、今日の元鍛冶丁公園は自宅から一番近い集会場所なので、いつもの時間に家をでたらデモ出発の10分ほど前に公園に着いた。 まだ時間があったのだが、予定のスピーチは終わったらしく誰も前に出る人がいなかった。時間が余ったときによくあるパターンで、司会者の指名があって、私が日本原子力開発機構大洗研究開発センター燃料研究棟で起きた汚染・被ばく事故について少しばかり話をした。一番町を行く。(2017/6/23 19:07~19:20) 午後7時になって、40人のデモが一番丁に入るころまではだいぶ明るさが残っている。この季節は一年中でもっとも日の暮れが遅いので、長時間の山行に向いていると誰かが書いていた。それで思いついた山行コースをずっと温めていたのだが、もう10年以上も経って実行が難しい年齢になってしまった。 6月になると、いまだに実現されないその山行計画のことを必ず思い出す。このごろは、その思い出しに悲しみの色合いが滲むようになった。 仙台も梅雨に入って、デモの列に傘とテルテル坊主が登場した。とはいえ、今日は暑いくらいの晴天で、デモの時間帯になってようやく過ごしやすくなった。仙台のデモ人。(2017/6/23 19:10~19:13) 6月6日に起きた日本原子力開発機構大洗研究開発センターの汚染・被ばく事故はおおよそ以下のようなものだった。 核燃料物質を収納した貯蔵容器の点検作業中、貯蔵容器内にある核燃料物質が入った容器を封入した樹脂製の袋が爆発し、作業員5名に身体汚染が発生した。汚染検査の結果、鼻腔内に最大24Bq(α線)を確認した。 核燃料サイクル工学研究所における肺モニタ測定により、最大22,000Bq(Pu-239)が確認されたため、国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所(放医研)に移送した。 放医研の検査の結果、肺へのPu-239の吸入は認められず、微量のアメリシウム(Am-241)が検出された(当初の22,000Bqという数字は、胸部の外部汚染を誤測定したものと推定)。 当初、「核燃料物質」とのみ発表していたが、高速実験炉「常陽」で実験する燃料の試料を作った際に出たくずで、約300グラムの粉末をエポキシ樹脂で固めてポリエチレン製の容器に入れられ、二重のビニール袋で密閉したうえで、金属製容器に入れて26年間保管していたものということだ。 この汚染・被ばく事故には「政治的」な問題と「技術的」な問題とがある。 政治的な問題とカテゴライズするにはいくぶんかの逡巡があるが、「核燃料物質」とのみ発表する原子力開発機構の判断は、多くの憶測の原因となった。汚染として検出された放射能核種がPu-239だったことから、ほぼ純粋なプルトニウムである兵器級の核物質ではないかと疑う人もいた。兵器級ならもちろん国際問題に発展するので公然化することはできない。 このような憶測に立つ人は、肺へのプルトニウムの吸入はなかったとする放医研の発表も、不都合な事実の隠蔽ではないかと疑ってしまうことになる。3・11以来、原子力に関連する産・官・学の発表は隠蔽、ごまかしが圧倒的だったので、このような最悪の推測が生まれてしまうのだ。 高速増殖炉用の核燃料の一部だったというマスコミ発表があっても、まだ「核燃料物質」の実態が明らかになったとは言えない。高速増殖炉とは、核分裂を起こさないU-238に中性子を吸収させて核分裂を起こすPu-239に変換させることで、原子炉を運転しながら核燃料を増殖しようとするものである。そこで使用される「核燃料物質」にはU-235を濃縮したものやPu-239を混ぜたMOX燃料など核分裂を起こして大量の中性子を発生させる「核燃料物質」と、中性子を吸収するU-238を主体とした「核燃料物質」とがあって、発表からはU-235、 Pu-239 、U-238の割合の見当がつかない。ほとんどがウラニウムなら22,000Bq のPu-239汚染の背後には大量のウラニウム汚染があることになり、純粋なプルトニウムなら大きな汚染量ではないともいえる。 このような事情を理解するためには「比放射能」という概念が必要である。「比放射能」というのは、同じ量の放射性核種があったときの放射線を出す量の比のことで、半減期が短い核種ほど比放射能が高いのである。ウラニウムとプルトニウムが共存しているとき、半減期が二桁も短いプルトニウムだけが検出されるのはそのためである。この汚染・被ばく事故でプルトニウムだけが検出されたのは「比放射能」を考えればそれなりに理解できるが、どういう組成の核燃料物質か明らかでない以上、ウラニウムの大量の飛散があったのかどうかは判断できないのである。 とまれかくまれ、正しい情報を与えなければ憶測を呼ぶだけというのはどうしても避けがたい。多くの憶測のなかには当然ながら間違ったものも含まれる。しかし、そうした憶測がたとえ間違っていようとも、正しい情報を出さない側、隠蔽する側が非難することはできない。 技術的な問題は明らかである。核燃料粉末をエポキシ樹脂で固めたこと、ポリエチレン容器に密封したこと、長期間放置したこと、ガス発生が予測できなかったこと、ことごとく科学・技術としては低劣なレベルとしか言いようがない。 U-235、 Pu-239 、U-238のどれもα線を放出して核変換する原子核である。α線はヘリウムの原子核なのでヘリウムガスが発生する。有機高分子重合体であるエポキシ樹脂もポリエチレンも高エネルギーのα線によって局所的に化学結合がバラバラにされる。分解された炭素や水素が再結合してメタンやエチレン、水素ガスなど分子量の少ない化合物となるが、これらはすべて常温では気体である。 加えて、放射線はポリエチレンやビニール袋を劣化させる。日光に1、2年さらされたビニール袋がボロボロになるのは紫外線によって重合有機物の結合が切断されるためである。高エネルギーの核放射線による有機化合物の放射線損傷は紫外線の比ではない。 核燃料粉末を固めた樹脂は劣化してボロボロになっていて、ポリエチレン容器もビニール袋も元の強度は失われた状態で、金属容器の蓋を開ければガス圧で爆発するのは容易に想定できるはずのものだ(想定していたという報道もあったが、想定していながら爆発させたなら犯罪と言っていいだろう)。 こうした事柄を作業前に想起できない科学的知識、技術力とはいかなるものか、それを想像することすら難しい。40年以上も前に大学院修士課程まで原子力工学を専攻した身なのだが、もともと原子力工学の科学的力量がこんなものだったのか、国家権力の全面的差配下ではいかなる学問も劣化するように原子力推進という国家方針の保護下で原子力工学も著しく劣化したのか、今の私には判断できない。 いずれにせよ、日本原子力開発機構は、文字通り日本における原子力技術の開発、研究の中心となっている組織である。その組織でこの程度の核燃料の扱いしかできない事実は、日本の社会には核燃料を扱うことを許容しうるような人的、組織的な機関は存在しないということだろう。 核燃料を扱わないで済む「脱原発の未来」へ踏み出すしか論理的な結論はない。青葉通り。(2017/6/23 19:21~19:31) 明るいうちに一番町に入り、青葉通りに出るともう夜である。一番町を長い時間歩くわけではないが、デモはそのような時間帯を歩いているということだ。 一番町では暮れていく夕べの余韻を楽しめないが、かといって灯りの少ない道ではせっかくのデモの甲斐がない。 デモなのに、夕べの余韻を求めることが変なのだ。分かってはいるのだが………。地上には六月の雨、雨、われに諦めきれぬひとことのある 今野寿美 [1]夕方の淋しき発熱うベなはむ街上とほく鐘とどきゆき 佐々木幸綱 [2][1] 『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年)p. 47。[2] 『現代短歌全集 第十五巻』(筑摩書房、1981年)p. 531。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.23
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水曜日(6月14日)から翌日の朝まで、テレビならぬスマホに張り付いていた。予想通りと言えばそれまでだが、またまた強行採決である。もうそのことしか書くことがない、と思い込んでパソコンに向かったが、まったく書くことが思いつかない。 ブチ切れそうになるほど怒っているということも、書くことが思いつかない理由でもあるだろうが、どうもそればかりではない。このような悪い状況では、私としてはなにがしかパフォーマティブな言葉を書きたかったのだ。 しかし、パフォーマティブな言葉はパフォーマティブな日々に少しずつ紡がれるのだろう。戦争法案のときのように、この「共謀罪」法案では国会前に出かけることはなかった。6月14日当日に、知人の何人かは仙台から国会前に出かけた。それを聞いてから、私自身が一度も東京へ行こうと思わなかったことに気づいて、そんな自分を訝しくさえ思えたのだった。 行動が伴わない言説は意味がないとは必ずしも思わない。しかし今回は、遂行された行為に裏打ちされた行為遂行的な言葉が欲しかったのだが、それはないものねだりだった。 せめてこれから必死で考えよう。成立した「共謀罪」法に反対するパフォーマティブな言葉と日々の行いのことをじっくりと考えてみたい。さしあたっては、ブログであれ、手紙であれ、会話であれ、自公政権への批判や悪口の度合いをもう少し強めておこう。さしあたっては、脱原発デモばかりではなく他のイシューのデモももう少し気合を入れて参加しよう。 そのうえで、反共謀罪的な日々の営みをなんとか構築して、何年あるかわからない残りの人生を生きることにする。6月15日にそんなことを考えた。国会に突入した樺美智子さんの命日に、国会前に行けなかった私はささやかな決意だけはしておくのである。 少し心が治まった。錦町公園からデモに出発。(2017/6/16 19:00~19:11) デモの出発予定の1分ほど前に錦町公園に着いた。その途端に指名があって、空間線量率の変動について説明せよ、というのだった。 福島原発から飛散した放射性物質はさまざまな物理・化学的形態で東北、関東の地を汚染したのが、さまざまな物理・化学的形態であることはその挙動も複雑だということだ。現在の仙台における空間線量率の変動を説明できる確定的な根拠はないが、偏在する放射能が風や地形に依存して移動することは当然考えられる。 私たちを取り巻く環境全体に多様な物理・化学的形態で存在する放射能物質は、これからも多様な道筋で私たちの身体を襲ってくると考えざるを得ない。放射能を含んだキノコの胞子が空中を飛んでいるというニュースがあった。山火事で放射能が再拡散したというニュースもあった。まだまだ、私たちが想像もしなかった形で放射能物質が移動し、再拡散していると覚悟しなければならない。定禅寺通り。(2017/6/16 19:15~19:21) 45人のデモは、錦町公園から定禅寺通りを西へ下っていく。公園ではまだ残っていた夕暮れの光も、勾当台通りを越えるころには空の明るさが地上まで届かなくなった。 この辺りで、カメラのホワイトバランスの設定を「曇天」から「自動」に切り替える。私は「曇天」の設定で得られる柔らかい色合いが好きなのだが、夜の一番町では黄色みが過剰になってしまうのだ。一番町。(2017/6/16 19:26~19:35) 集会でどんなスピーチがあったのかわからないが、今日のデモは異様に活気がある。コールの声は大きく、動きも激しい。「共謀罪はほんとうに頭にきた」という参加者の声もあって、強行採決への憤りがエネルギーとなって噴出しているように思えた。 市民への呼びかけやコールにも「共謀罪」のことが含まれている。「みなさん、政府自民党・公明党は、委員会採決をすっとばすという、まったく信じられない方法で、共謀罪を強行採決してしまいました。まさに国会の死であり、議会制民主主義の破壊です。こんな横暴なやり方がこれまであったでしょうか? みなさん、共謀罪は、テロ対策のためではなく、市民運動をつぶそうというものであることが国会での論議のなかで明らかにされました。 わたしたちは、デモを続けることによって、このような横暴に決して負けることはないんだ、ということを示し、憲法で保障された「表現の自由」「デモの自由」を守り抜きましょう!」 「共謀罪を許さない!」 「強行採決ひどすぎる!」「原発情報秘密にするな!」 「特定秘密保護法廃止!」晩翠通り。(2017/6/16 19:37~19:46) 共謀罪についてあらためて書くことがないなあ、と思いなしたことにはおそらくもう一つの理由がある。14日の昼過ぎから15日の朝まで、ネットで流れるニュースや評論や意見表明をたくさん読んだ。個人で考える範囲を大きく超えたさまざまな考えがネットで飛び交っていれば、ことさららしく私見を述べるなどという気分は薄れる。 15日になって次のようなツイートを読んだのを最後に、ネット情報の海からから這い上がったのだ(最近、スクショなるものができるようになった)。 先の大戦で多大な犠牲を払って戦後民主主義は生まれた。しかし、その犠牲は民主主義を勝ち取るために支払った犠牲ではない。軍国主義、天皇制ファシズムによって強いられた犠牲だった。 日本人は自らの力で民主主義を獲得したのではない、あるいは、日本人は近代的自我形成を経ないまま現在に至っている、などとしばしば指摘されてきた。であれば、今、日本人としての私たちは民主主義を自らの手で獲得する歴史上の一点に立っていると言うことができるのではないか。安倍晋三は、日本人が真剣に民主主義を考える機会を与えているのだ。沖縄・辺野古であれ、「もり・かけ」疑惑であれ、性犯罪の握り潰しであれ、国会運営であれ、もののみごとに反民主主義的な政治というものの実態を安倍政権は国民に教えてくれているではないか。 この時代を経て、日本の民主主義は「もっと強くなって復活する」。それは、期待でもあるが、決意でもあるだろう。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.16
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市中心部の公園は土、日に行われる「東北絆まつり」の準備で使えないというので、東北大学片平キャンパス北門に午後6時30分集合で、集会なしでそのままデモに出発する。 東北大学北門は東一番丁通りをまっすぐ南下した突き当りにある。40年近くも片平キャンパスと自宅を往復していたのだが、当時は徒歩で20分ほどの道だった。退職して数年後、北門出発のデモに初めて参加したとき、自宅から30分もかかって驚いたことがあった。片平から青葉山キャンパスに勤務先が変わって、さらに退職して数年、しみじみと老いを実感したデモ参加だった。 そんなこともあって早めに自宅を出たが、これはこれで早く着きすぎて暇を持て余すのだった。まあ、年金生活者らしい時間の使い方と言ってしまえばそれまでのことだが……。 デモの出発を待つ間、私が通っている頃にはなかった街灯が建てられているの見つけた。その街灯に道の名前を彫った金属板が取り付けられている。 西から北門前まで来る道には「伊勢屋横丁」とあり、北門から北方の一番町に向かう道には「櫻小路」とある。39年も通い続けた場所の通りの名前を今日はじめて目にしたのだった(いや、聞いたことがあってもすでに忘却の先のさらにずっと先になってしまったという可能性も否定できないが)。 ところが、道向かいの街灯を見ると、「櫻小路」に相当する道に「道場小路」とあり、北門から東に向かう道は「弾正横丁」と記されていた。西から来た「伊勢屋横丁」が北門前から「弾正横丁」と呼び名が替わっても不思議ではないが、同じ道を「櫻小路」と「道場小路」と呼ぶのはどうしたわけだろう。 「道場小路」と記した街灯の傍に石標が建っていて、東面に「弾正横丁」、北面に「道場小路」と彫りつけられていた。なんとなく「櫻小路」より「道場小路」の方に分がありそうな気配だが、立派な石造りの道標だからといってとくに権威があるわけでもないだろう。 知り合いの郷土史家に尋ねてみようかとも思ったが、「これ以上、やることを増やさない」という最近のモットーに反するようで心が決まらないのだった(この頃は、「これ以上やることを増やさないで!」という妻の口癖に従って、素直に自分のモットーにしているのである)。東北大北門から一番町へ。(2017/6/9 18:30~18:36) 6時半になったので周辺のぶらぶら歩きから戻ったものの、デモは出発する気配がない。脱原発カーが到着していないのだった。デモグッズのほとんどを搭載している脱原発カーを待つ集団は、大学の門の前にたむろしている普通のおじさん、おばさんという印象からかろうじて免れていたのは、いつも参加者が持参する数本の旗のおかげである。 10分ほど遅れて脱原発カーが到着した。脱原発カーは、仙台市と合併する前の秋保町からやってくる。私の車で30分ほどの行程だが、年式の(とても)古い脱原発カーでどれくらいかかるかは定かではない。 ようやくデモグッズを身に付けた40人のデモの列は、北門を出発して北上していく。広瀬通りまではまっすぐな道で、一番町を広瀬通りで左折して晩翠通りまで出て、晩翠通りを南下して青葉通りを国道4号の大通りを越えて、いつもの流れ解散地点「仙都会館ビル」前までのコースを歩く。 「無理をしないで途中で抜けてくださいね」という案内があったように、いつもよりは長いコースになっている。一番町(青葉通りを越えて広瀬通りまで)。(2017/6/9 18:57~19:03) 南町通りを越えて「サンモール一番町」に入ると、テント張りの出店が並んでいて真ん中を歩けない。さらに青葉通り、藤崎前を過ぎて「ぶらんどーむ一番町」に入ると、季節外れの七夕飾りが並んでいて、デモの旗竿が吹き流しに触れないように倒して歩くしかなくなった。 さすがにまずいと思ったか、先導するお巡りさんが七夕飾りのない左側を歩くように誘導してくれる。この七夕飾りは、明日からの「東北絆まつり」の出し物の一つだろう。東北6県からそれぞれ有名な祭りの出し物が参加するということだ。広瀬通り。(2017/6/9 19:04~19:08)晩翠通り。(2017/6/9 19:10~19:12) 広瀬通りの信号で止められたデモの列は、道向かいの一番町角に集まっている若者たちに大きなコールの声を上げる。いつものコースなら、あの人混みをかき分けてから広瀬通りを渡るのだが、今日は、彼らを横目に見ながら左折して一番町から離れるのだ。 夕暮れは次第に深まってきて、イチョウ並木の木の下と外では明暗の差が大きくなった。これもまた、「木下闇(こしたやみ)」という夏の季語で表現していいのだろうか。定禅寺通りや青葉通りのケヤキの大木は薄明るい空の残り陽をすっかり遮ってしまうと思っていたが、広瀬通りのイチョウの木も夕空の薄明りを遮るほどに大きく繁茂しているのだった。 晩翠通りもイチョウ並木なのだが、こちらはまだまだ木が若くて、広々と夕空が開けている。さて、これから夕焼けの街をどんなふうに写せばよいのか、何かで勉強しなければ……(やることを増やすな!)。青葉通り(一番町を横切っていつものコースへ)。(2017/6/9 19:18~19:31) 晩翠通りから左折して少し行くと、道の左手に晩翠草堂がある。土井晩翠の屋敷が仙台大空襲で焼失した後、教え子や市民の手によってこの地に建てられたもので、晩翠はこの家で80歳の生涯を閉じた。晩翠の死後、仙台市に寄贈され、「晩翠草堂」として当時の様子がそのまま公開されている。 晩翠通りから青葉通りに入って晩翠草堂の付近まで、このコースで最も暗い場所になっている。大きく繁茂したケヤキ並木ばかりではなく、並んでいる建物も外部を照らす光の少ないビルばかりなのだ。もちろん、晩翠草堂は道を照らす光に寄与するような建物ではない。 晩翠草堂を過ぎて国分町通りまで来ると、急に景色も明るさも開ける感じがする。建物の照明や街灯のせいもあるけれども、地下鉄工事のためケヤキ並木がなくなっているせいだ。工事が終わったところからケヤキの若木を植えているが、まだすべてが終わっていない。 一番町を横切ると、あとはいつものコースと同じだ。 このごろ少し困っていることがある。妻にも指摘されているのだが、デモの翌日から2日ほど風邪ひきのように熱が出るのだ。デモで歩く距離は朝の散歩ほど長くはないので、いちがいに疲労だとは思えないのだが、5週ほどそんなことが続いている。このブログも翌日に書いているのだが、解熱剤を飲んでパソコンに向かっている。 疲労は疲労、発熱は発熱、私の身体はその程度の区別はするだろう(と思う)。以前からしょっちゅう風邪を引くのだが、その周期が金デモとぴったりと同期してしまったのだろうか。 この状況を打破する手段がかいもく見当がつかない。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.09
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飼犬イオの足が弱って来て、イオと一緒に歩くのは自宅の周囲、500メートルほどになってしまった。その後で、私一人で散歩に出かけるのだが、これがけっこうつまらない。毎日同じ道を歩くのは飽きるし、かといって、自宅を起点とするコースにそれほど変化があるわけでもない。 そんなこともあって、散歩に変化をつけようと地下鉄を利用するようになった。東西線の駅がわが家から徒歩5分ほどのところにできたということが大きい。1時間ほどどんどん歩いて行って地下鉄で帰ったり、地下鉄で2、3駅行ってから自宅に向かって歩いたりした。しかし、これもまた選択肢に限りがある。 それならいっそ、往復とも地下鉄に乗って、今まで歩いたことのない道で散歩すればいい、そんなふうに気づいたのは半年も前である。それなのに、その1回目がやっと今朝なのである。Photo A 地下鉄南北線「富沢」駅(東口)。(2017/6/6 6:11)Photo B 駅近隣は開発途上。(2017/6/6 6:19) 地下鉄南北線は「長町南」駅を出て南方向に進路を変えてから地上に出て、「富沢」は高架駅である。南北線はだいぶ前から運行しているが、こんなことも知らなかったのである。 駅を東側に出ると、どこかで見たような景色が広がっている。私は退職後に住んだことのない日本の首都、東京の街歩きを始めたが、その時宮城県内にも行ったことがない町がたくさんあることに気づいて、県内の町を歩くことも始めた。その一つに角田市があった。 角田市まではイオと車で行って、阿武隈急行線の「角田」駅の駐車場に車を止めて街歩きの始点としたのだが、その角田駅前の光景を思い出したのである。車がアプローチできるロータリーなどのある駅前は広々として、そこから続く道も広い堂々とした道だが、最近造成されたらしく住宅の間には整地された空き地が所々にある。 富沢も角田も駅ができてから開発が始まって、家々は新しいが、全体が落ち着いた調和を持った街並みになるのはそれなりの時間がかかるのだろう。Photo C 春日神社。(2017/6/6 6:27) 駅から歩きだしてすぐに道に迷った。私の地図は古くて、地図にない新しい道を歩き始めてしまったのである。 南北線の開業は1987年で、私の地図は古いといっても2013年版である。富沢駅界隈は、駅ができて25年以上過ぎてからも着々と開発が進んで変化しているということなのだろう。駅ができ、新しい住人が増え、その利便のために道や施設が作られ、それでまた住人が増え、というふうに進んでいく様子が、駅前の景色のなかに写し込まれているように思える。 街歩きでマークするのは神社や寺である。神社や寺は古くから人が住んでいる象徴なので、その近辺はいちおう歩いてみる。私がプリントアウトした地図には寺はなく、神社マークが一つだけあった。春日神社である。 道迷いから立ち直って(スマホのGPSの助けを借りて)、春日神社にたどり着くと、広い敷地の両端に離れて鳥居と社殿が立っていた。境内には植栽は一切ない。由緒書きの石碑によれば、1503(永正2)年の創建と言い伝えられている神社で、仙台市の区画整理事業によって現在地の西北150メートルの地から2005年に現在地に移築したとある。ここでも開発プロセスの途次の景色がみられるのだった。Photo D 畑と農家と仙台市水道局。(2017/6/6 6:32)Photo E 新笊川(下古川橋)。(2017/6/6 6:35)Photo F 県道258号線沿いの道。(2017/6/6 6:38) 春日神社の次の目標は新笊川である。名取川への流れ込みまで行きたいと思ったが、河原が広くてきっと難儀をすると勝手に決めて新笊川までとする。じつは、この河川名を地図で見たとき「笊」の〈ざる〉という読みがすぐには思い浮かばなかった。 デンデン・アベさんもミゾウユウ・アソウさんもビンセン・ヨシイエさんも笑えないのである。困った。 新笊川に向かう途中で、この一帯の現状を象徴的に表現しているような風景があった。瓦屋根の立派な和風建築の家の前に畑が広がり、その背景には仙台市水道局のビルが遠望できる。その家の裏には別棟が建てられていて、昔風に言えば農作業に使う納屋のようなものらしい。その建物もけっこう立派なのだった。 その風景は、この地が変化の途次にあることをはっきりと示していた。農家の家も新住人の家も新しいのだが、その違いもまた明らかだった。 道は、新笊川に架かる「下古川橋」に出る。下流側に県道258号の橋、その向こうに斜めに東に走る仙台南部有料道路がある。さらにずっと遠くに名取川に架かる東北新幹線の橋梁が見える。 新笊川は、人工の河川らしくまっすぐに築堤された間の草地のなかを細々と流れていた。県道258号の橋をくぐると、左手に258号の法面に沿って道がある。この道も私の地図には記載されていなかった。とくに理由はないものの、当然のようにその道に入った。Photo G1 笊川を渡る水管橋と新幹線高架。(2017/6/6 6:47)Photo G2 阿久戸橋(笊川)。(2017/6/6 6:56)Photo G3(左) マンションの谷間を流れる笊川。(2017/6/6 6:57)Photo H(右) 県道258号線へ向かう道。(2017/6/6 6:59) 新笊川から北上する。県道258号沿いの新道を抜け、258号に直行する道を東に歩く。この道は、左右の土地から少しばかり高くなっていて、田んぼの中に水が被らない程度に盛られた道ではないかと想像してみる。 左手の細道に下って住宅地を抜けるのだが、まったく同じ形の4所帯型のアパートが8軒、規則正しく並んでいて、その奥に農家(だった)らしい大きな和風住宅がある。そんな細道を抜けると、小さな川に出た。笊川である。この(旧)笊川は昔の流れそのままらしく曲がりくねって流れている。水管橋と新幹線の高架を眺めながら、小さな橋を渡る。 その名前のない小さな橋から道なりにまっすぐ北上していく。この一帯は、これまでとはいくぶん異なり、長い時間をかけて形作られた雰囲気がある。規格化された住宅が並んでいることはなく、それぞれ個別の形式の住宅がならび、ところどころに食堂や商店がある。思うに、笊川のこちらと向こう側では住宅地として過ぎた時間が異なるのだろう。今は小さな小川だが、かつては集落形成に重要な役割を果たしていたのではないか。これもまた、散歩途中の想像である。 少し広い道に出て左折すると、ふたたび笊川に架かる橋に出る。阿久戸橋である。私の前を制服の中学生が数人歩いている。ここから1キロほど西にある富沢中学校の生徒だろう。 マンションの間の谷間を流れる笊川を越えて、中学生の後を追うように県道258号に向かう。Photo I 笊川を越える県道258号(もとふくろ橋)。(2017/6/6 7:03)Photo J1 笊川沿いに続く道。(2017/6/6 7:07)Photo J2 水門前の鯉たち。(2017/6/6 7:03)Photo J3 自転車家族。(2017/6/6 7:09)Photo J4(左) 笊川堤防柵の火炎式縄文土器のマーク。(2017/6/6 7:10)Photo J5(右) 笊川沿いの遊歩道。(2017/6/6 7:11) 通勤の車が増えだした258号を北に少し歩くと、また笊川に架かる橋にでる。欄干の金属板に「もとふくろはし」と彫られていた。もとふくろ橋の北詰から笊川沿いの道に入る。車も通る広い道だが、川沿いには遊歩道が続いている。 遊歩道脇に急な増水を注意する看板が立てられていて、「広瀬川と旧笊川の環境を保つため、広瀬川と旧笊川の水の量が少なくなった場合に、名取川から水を引くことで、水の量がふえることがあります」と記されていた。名取川から広瀬川へ導水する水路(木流堀)沿いをイオと歩いたことがある。いつか名取川から広瀬川まで、木流堀の端から端まで歩いてみたいと思い続けているがまだかなえられていない。 遊歩道を200メートルほど歩くと笊川に流れ込む水路の水門があった。水路は住宅地と遊歩道の下を通って、笊川本流の水量に負けないくらいに流れ込んでいた。流れ込みは小さな淵のようになっていて、大きな鯉が6尾ほど悠々と泳いでいた。真鯉と思われる魚だが、ドイツ鯉というという可能性もある。少なくとも私にはその見分けはできない。ただ、緋鯉が混じっていないことでいくぶんほっとしたのはたしかである。 河川の保護活動をしている人々が放流する魚に緋鯉や金魚が含まれていて、がっかりすることがしばしばある。自然の川を求めて、人間が作った変種を放流するのである(あくまで善意の行為なのではあるが……)。しかし、いま、宮城県では鯉の放流が制限されている。コイ・ヘルペス病の蔓延を防ぐため、宮城県内水面漁場管理委員会指示によって鯉の放流や移動が禁止されているのだ。コイ・ヘルペス病が沈静化する兆しはなく、県による放流禁止指示は当分続きそうである。 道沿いのある一軒の玄関先に、大きさの異なる自転車が5台も並んでいた。お母さんのらしい自転車には幼児用の椅子が取り付けられていて、まもなく6台になるのだなあ、などと少しならずほっこりした気分になって通り過ぎた。 遊歩道と笊川を隔てるフェンスに何かのマークの金属板が取り付けられている。しばらく考えて、それが火焔型縄文土器ではないかと気づいた。この近くには富沢遺跡があって、それに因んだシンボルマークらしい。 富沢遺跡は「地底の森ミュージアム」と名付けられた遺跡保存館で展示されているが、私はまだ見たことがない。せめて保存館を外からだけでも眺めておこうと、遊歩道から北に向かう道に入った。Photo K ヤマボウシ並木の道。(2017/6/6 7:15)Photo L1(上) 富沢遺跡保存館の西の道。(2017/6/6 7:24)Photo L2(下) 富沢遺跡保存館の門。(2017/6/6 7:26) 遊歩道から入った道にはヤマボウシが並木として植えられていた。ヤマボウシには花の大きな種類と小さな種類があるようだった。私がこれまで見てきたヤマボウシは大きな花の方だったように思う。 もしかしたら種類の違う樹木なのかとも思ったが、似て非なる種類を並木として混在させて植える理由が思いつかない。東北大学川内キャンパスに上る行人坂に4、5本のヤマボウシが並木として植えられているが、どれも花の大きい種類だ。 広南病院のところで左折してから、右左に5回ほど曲がって富沢遺跡保存館の西の道に出る。保存館の庭に植えられている樹種はすべて針葉樹である。北にある門の方から眺めてもやはり針葉樹ばかりである。 ずいぶん前に上山春平の『照葉樹林文化』という本を読んだことがある。日本文化の基盤は、南方に広がる東アジアの照葉樹林帯の文化にあるという論考だった。それに対して、富沢遺跡の庭は北方の針葉樹ばかりである。いわば、日本の北部からシベリアに連なる針葉樹林文化があったのでもあろうか。これまた、ただの空想だったが、帰宅してから「地底の森ミュージアム」をネット検索したら、この庭は「2万年前の風景を「氷河期の森」として野外に復元」したと記述されていた。まあ、2万年前の仙台は針葉樹林文化帯にあったと言えないこともないようだ(強引だが)。Photo M1 JR長町駅から国道286号へ向かう道。(2017/6/6 7:27)Photo M2 田んぼとマンションと富沢遺跡保存館。(2017/6/6 7:28)Photo M3 地下鉄「長町南」駅。(2017/6/6 7:32) 「地底の森ミュージアム」正門前からJR長町駅から国道286号へ向かう道に出る。この道も新しい道のはずだが、並木として植栽されたケヤキはけっこう大きな木に成長している。 右方がぱっと開ける感じがしたが、そこには田んぼが広がっていた。田んぼの傍には大きなマンションがあり、その向こうに「地底の森ミュージアム」の緑が遠く見えている。富沢駅を降りてからのこの近隣の印象を再確認させるような風景である。 ケヤキ並木の下を東に進むとバス停が見えてきて、太白区役所の前に地下鉄「長町南」駅の入り口があった。6時11分に富沢駅を出て7時33分に長町南駅到着、1時間22分の朝の散歩だった。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.06
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「知る人ぞ知るAKOちゃん」が今日の金デモに参加するという知らせがメールで流れて来た。私は、AKOちゃんなる人物をまったく知らなかったが、フェイスブックのプロフィールによれば、滋賀県彦根市の人で、若くからヴェジタリアンとなり、脱原発や脱自然エネルギーを訴える紙芝居を上演しながら自転車で全国を回っているのだという。 金デモの集会ではきっとAKOちゃんのスピーチがあるだろうと思ったものの、ここのところ集会はパスしてデモだけの参加にしているので、残念ながら話を聞くことはできない。肴町公園から一番町へ。(2017/6/2 16:57~19:09) 昼頃まで降っていた雨もすっかり上がり、17~8℃ほどの過ごしやすい夕方になった。肴町公園に着いて、終わりかけていた集会の後方から写真を写し始め、周辺から集会の様子を結構な枚数を撮ったのだが、後で見るとほとんどピンボケだった。絞り優先のオートフォーカスに設定していて、絞り、フィルム感度、フォーカスポイント数、露出補正値をあらかじめ決めるのだが、急いで写そうと思うと忘れてしまって前の設定のままシャッターを押し続けてしまうのである。 デモが始まる午後7時はまだ明るさが残っていて、デモが終わるころにはすっかり夜になっている。だから、周囲の明るさの変化に応じてデモの途中で何度も設定しなおす必要がある。今日は、それも不十分なまま終わってしまった。家に帰って、写真整理をしていてがっかりしてしまった。欲しかった場面はピンボケ、試し撮りのような構図のものがよく写っていたりするのだ。 肴町公園から一番町に向かう細道はなんという名前の道だろうか。元鍛冶丁公園から一番町に向かう道は「元鍛冶丁通り」なので、「肴町通り」でいいのかもしれないとおもったが、それは公園の北を通って行く道の名前で、残念ながらデモが行くのは公園の南を通る道である。この道は「大町通り」と「肴町通り」の間の道で、「日本銀行裏の通り」とでも呼んでおけばよいのかもしれない。一番町(広瀬通りまで)。(2017/6/2 19:10~19:13) 40人のデモは、大町通り(中央通り)の少し北で一番町に出て、広瀬通り、定禅寺通りへ向かって北上する。 今日の市民へのアピール文の主題は、金デモのような市民運動に牙をむくに違いない「共謀罪」法案と、同じく国会で審議されている「日印原子力協定」承認案の二つが中心だった。「共謀罪」法案への反対は全国的な規模で起きているが、ネットは加計学園とアベトモジャーナリストの犯罪疑惑で賑わっている。どれも安倍首相が中心にいる「大事件」である。 いずれも内閣が崩壊しても不思議ではないほどの事件だが、かつて内閣総辞職に力があったマスコミジャーナリズムは今ではすっかり弱体化してしまった。今、期待できるのは、国会での野党の闘い方と、私たちの市民運動だけである。それに、ネット世論がいくらか役に立つかもしれない。 加計学園問題で潮目が変わったと言う人たちもいるが、私にはよくわからない。政府権力に引導を渡す決定的な力、手段を野党も私たち市民も手にしていないように思う。動かないマスコミのために、倒閣の世論形成が必ずしも容易ではないのだ。自民党内部の動きに期待する向きもあるが、私個人としては自民党のどんな部分にも期待するのは嫌だ。一番町(広瀬通りから定禅寺通りまで)。(2017/6/2 19:14~19:21) この5月24日に大道寺将司死刑囚が東京拘置所で亡くなった。病んでいた多発性骨髄腫による。極左暴力集団とかテロリストと呼ばれるが、彼は「彼の革命」の途次で獄死したのである。 辺見庸さんの文章で彼が俳句を作っていて全句集 [1] を出版したことを知った。作句年順に編まれた全句集だが、彼の死を知って読み直している。今回は、2012年の最後の句から時間を遡るように読み始めたのだが、2011年からの頁に次のような句が出てくる。新玉(あらたま)の年や原発捨てきらず (p. 185)無主物を凍てし山河に撒き散らす (p. 185)風さやぐ原発の地に秋深し (p. 181)日盛りの地に突き刺さる放射線 (p. 179)原発に追はるる民や木下闇(こしたやみ) (p. 177)加害者となる被曝地の凍返(いてかえ)る (p. 174) 必ずしも出来のいい俳句ばかりではない(と私はおもう)が、私たちが反原発、脱原発を唱え、動き始めたころ、獄中の彼は私などと同じような原発への思いを抱いていたことは記しておきたい。「原発に追はるる民や木下闇」は、私たちのモチベーションの基底そのものではないか。 定禅寺通りから晩翠通りへ。(2017/6/2 19:23~19:42) 辺見庸さんは、『棺一基 大道寺将司全句集』に序文と跋文を書いている。その序文のなかで全句集の書名が採られた句を紹介している。棺一基(かんいっき)四顧(しこ)茫々と霞みけり (p. 123) この棺は、「絞首刑に処された」人のためのもので、棺の人に彼は留置場の庭などで会ったことだろうと辺見さんは推測している。そしてこう書いている。 棺一基は、寒き春に震えながら流れてゆく凍える舟のような表象であった。そうであるならば、俳人の眼はどこにあったのか。かれの躰は作句のただなかにあって、どこに位置したのだろう。眼も躰も、一基の棺の外にあったと同時に、粗末な窓なしの木棺のなかにもあり、だからこそ俳句として仮構された末期の眼には、見えるものすべてが茫々と白く昏く霞んでいたのではないだろうか。この句から察するに、大道寺将司はおそらく死の風に乗ろうとしている。死の川にむかい傾ぎ、暮れていこうとしている。かれはこれまでもそのように死に備えようとしてきたし、いまも備えようとしている。そう感じられてならない。 (pp. 15-6) 読み直していて、私には次のような句によって痛いほどの強い印象が刻み込まれるのだった。おほいなる錯誤の沙汰や名残雪 (p. 122)ゆきあひの風のふるへを挽歌とす (p. 118)[1] 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版、2012年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.06.02
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