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昨年劇場で見た映画は、韓国で見た二本を加えて96本でした。その中から、厳選してベスト20を選ぼうと思います。06年の映画興行は、久しぶりに邦画が洋画を追い抜いたらしい。実際ブロガーの中には「今年は邦画の豊作の年だ」という方も何人もいる。事実見るべき作品は何本かはあると思う。しかしそれでもなお、私としては今年の作品群を回顧して言わざるを得ない。今年は近年まれに見る洋高邦低の年だった。特に、アメリカ映画で見るべき作品が多かった。なぜそうなったのか、要因として考えられるのは以下の三点。1.昨年以前の作品で素晴らしいのが今年岡山上映にずれ込んでしまったものが三点もある。そしてなおかつ、本来は来年の公開になるはずか、日本が舞台であるという理由で今年のスピード公開になった作品が二点ある。2.9.11以降顕著になったハリウッドのCG多用忌避傾向が脚本重視に結びつくようになった。3.秋の中間選挙を迎えて、アメリカ国民の間に現在の状況をきちんと批判的に見ようとする芽が出てきた。9.11ショックから5年目にして、やっと洋画はそのショックから立ち直った。その結果が今年の洋画群なのだ。よってベスト20の中にはアメリカ映画が圧倒的に多い。これでも厳選したのである。その一方で邦画はもとより、ヨーロッパ映画とアジア映画の不振は深刻だ。来年を期待したい。そういうわけで、ベストワンはアメリカ映画の中から選ぶ。今回選ぶアメリカ映画はすべて甲乙つけがたい。そういう時は、作品の完成度よりも自分に与えた衝撃度の大きいほうが優先されるだろう。ベスト1.「スタンドアップ」私がセロンのファンだからでは、決して無い。まず最初に一人が立ち上がる。そのことの意味は限りなく大きい。セクハラ裁判の話ではあるが、私はそれのみには受け取らなかった。泣き寝入りをしつつあるすべての労働者よ、独りでも立ち上がろう。そして仲間を信頼しよう。ベスト2は不振のアジア映画の中から選ぶ。しかしこの「ココシリ」だけは別格である。チベットの厳しい自然の中で撮影されたカモシカ密猟集団との死闘。社会性とエンタメ、ドキュメント的な具体性と神話伝説として語られてもおかしくない普遍性、反骨映画なのに中国各賞を受賞したしたたかさが往年のチャン・イーモウを思わせる。期待の新人が登場した。ベスト3は礼儀として日本映画から。「かもめ食堂」日本映画の長所である日常生活の細やかな描写。フィンランドというとっぴな舞台を得て、毎日のおにぎりを握ることや、皿みがきや、身体運動や散歩が、すべて意味のある広がりを持った。ベスト4.「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」二部作。クリント・イーストウッドという頑固親父がついに立ち上がり、イラク戦争に反対する映画を撮った。この鋭さ。懐の深さ。この悲しみ。ベスト5.「亀も空を飛ぶ」イラクのクルド人監督バフコマン・ゴバディの作品を初めて観た。今も続く泥沼のイラク戦争。それなのに今から考えると奇跡のような時期に撮影されたイラク北部を舞台にしたイラク戦争を批判する映画。具体性と普遍性を併せ持った、子供の目を通してみたイラク戦争。ベスト6.「イノセントボイスー12歳の戦場」ほんの20数年前のラテンアメリカの現実。子供たちが直面する厳しい運命。一般家屋の中で内戦の流れ弾が飛び交い、そこで歌われるラテン音楽の叙情。ベスト7.「博士の愛した数式」数式から世界と人生の秘密を探る。素晴らしい原作を見事に換骨奪胎した小泉堯史監督の力量。この映画と能の関係についても話題を読んだ。ベスト8.「グエムルー漢江の怪物」今年の夏、韓国を一周する旅行をしている間、公開してから二ヶ月以上近くたっているのにこの映画がずーと映画館の一番大きい看板を占め、客を集めていた。漢江の怪物とは実はソン・ガンホのことである、というのが私の「説」なのだが、いまだその説は数多ある批評の中では無視されている。いいのだ。その説が、そのように星の数あるブログの中で不気味に存在することが、この映画の批評にふさわしい。ベスト9.「ナイロビの蜂」原色のアフリカの映像と青が基調の西側国連職員の生活との対比、それが中盤に入って国連職員自体がアフリカの現実に入っていく中で変わっていく。そして亡き妻への愛情に気がついていく。社会性と愛情物語を統一させた見事なラスト。(←これも私の説です)ベスト10.「ミュンヘン」ユダヤ人であるスピルバーグの9.11総括。暴力の連鎖に対する明確な批判。この力技は凄い。ベスト11.「白バラの祈り」ナチスに早い段階で抵抗し、殺された学生組織の話。逮捕されるまでのドラマ、取調官との対話劇、処刑に至るまでの緊張した心の動き、見ごたえがあった。ベスト12.「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」 CG全開、外国ロケ満載、有名俳優の起用、の前にまずアイディアとセンスありき。大作とはこうでなくちゃ。ベスト13.「武士の一分」藤沢時代劇三部作の最後。これはいまどきの若者風の主人公が、武士の一分に拘っていた自分を克服する、いわば一分を否定するまでの物語である。(←これも私の説)ベスト14.「 Vフォー・ヴェンデッタ」 アメリカと共同歩調を取ったイギリスはこの十数年夜警国家を完成させてきた。そういう現実に対するプロテクト映画をエンターテイメントとして作っているのが凄い。おりしもこの映画がヒットしている頃、日本では共謀罪が強行採決の危機を迎えていた。かろうじて回避されたが、そういう現実が日本にもあると知りながらこの映画を観ると、さらに怖い。ベスト15.「ホテル・ルワンダ」エンタメというと、この映画も社会性とエンタメを見事に融合させていた。インターネット上の上映運動(私も一筆参加)が実を結んだ例としても記憶に残したい。最後の歌は今年の主題歌賞もの。ベスト16.「ニューワールド」文明から原始共同体へ、原始共同体から文明へ。その体験を映像と音楽で雄弁に語る。素晴らしき映像体験。あまり話題にならなかったが注目すべき作品。ベスト17.「スーパーマン・リターンズ」スーパーマンは還ってきた。父(神)の言葉を実践するために。しかし、この「神」はブッシュ大統領の信奉する神ではない。慈愛に満ち、市民の自立を期待する神だ。アメリカの神はやっと自らの役割を思い出した。アメリカ人はこれからも模索しながらヒーローを追い求めるだろう。ベスト18.「クラッシュ」単なる脚本家ではないことを示したポール・ハギス。多人種社会の中で、中盤の事故の「触れ合い」があまりにも素晴らしい。ベスト19.「スピリット」武道精神の見事な映像化。こんなに泣かされるとは思わなかった。ベスト20.「フラガール」見事な役者魂を見せてくれた。ほかに、「グッドナイト&グッドラック」「カポーティ」「トゥモローワールド」「単騎千里を走る。」「トンマッコルへようこそ」「紙屋悦子の青春」「手紙」「デスノート後編」「虹の女神」「空中庭園」などが注目すべき作品として残った。
2007年01月01日
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「椿山課長の七日間」の招待券が二枚だったので一枚を知人におゆずりしたら、フリーの招待券を頂いた。結局彼はあっちの映画のほうは体調をくずして行けなかったらしい。なんか悪いことをしたような気になった。招待券使わせてもらいました。新シリーズのボンド。最初から良く走る。安全体制はバッチリなんだろうけど、役者の身体を心配するようなシーンが満載。気分が悪くなって退席したご婦人がおられた由、さもありなん。けれども相手のほうが駆けっこでは勝っていたので、私は人情としては敵に塩をあげて欲しかったのだけど、非情な007になるというのが、この作品のテーマだから当然殺されます。掴みはOK、あとはーーうーんイマイチ。(12/23鑑賞)以上二本、出先からのメール更新でした。本当はあと一本昨日見た映画の感想を書きたいのだけど家に帰って書きます。
2006年12月29日
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監督 : クリント・イーストウッド 出演 : 渡辺謙 、 二宮和也 、 伊原剛志 、 加瀬亮 、 中村獅童戦争に現れる多くの悲劇を描き出して見事な映画である。日本人が見てまるきり違和感が無い。まるで日本人が作ったかのような日本の軍隊の実態、自然なせりふ。ところが今までの日本人監督はこのような軍隊の実際を映画にしてきただろうか。「野火」「真空地帯」などをまだ見たことが無い私には「してきていない」と断じることが出来ない。ただ、日本映画界は、この数十年間ついにはこういう映画を成立させることが出来なかった現実をきちんと考えなくてはならない。それは日本の問題である。アメリカにとっては違う。第一部は、戦場の場面と、アメリカのプロパガンダという二つの舞台をしつらえることで、現代アメリカ本土の問題をあぶりだし、この映画ではまっすぐイラク戦争で死んでいったイラクの人々のことを念頭に入れているのだろう。イーストウッドは見事な反戦映画を作った。映像は硫黄島の土の色を基調に映される。単色かと思うと時々現れる鮮烈な血の色により、ああこの色は戦争体験者の心像風景なのだな、と納得するのである。我々が体験するのはたった二時間であるけれども、実際のそこに居た人は何ヶ月もこういう世界で地獄を見るのであろう。実はイーストウッドの映画を観るようになったのは「ミスティックリバー」から。この作品に関しては、最後の場面がどうしても納得いかなくて、彼の力量を勘違いしていたままだった。驚愕したのは「ミリオンダラーベイビー」によって。個人の誇りと人との関わり、罪と罰と許しの関係、生きるということと死ぬということを、数少ないせりふと重厚な演技と、同時にエンターテイメント性を持った映像で見せ付けられて、脱帽した。実はそれらのテーマや、映画の作り方は「父親たちの星条旗」にも現れるし、この「硫黄島からの手紙」でも濃厚に現れる。そして、どの作品でもそうなのだが、決して涙腺を刺激させない淡々としたつくり方をしているのである。これはなかなか出来ることではない。正に名監督の道を一歩一歩確実に歩んでいる。その映画を本国よりも早く観る事の出来た栄光を我々は知っておくべきなのかもしれない。
2006年12月28日
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はっと気がつくとこの映画の感想はアップしていないことに気がついた。「カポーティ」作家は、どんなエンターテイメントを書こうとも、どんなノンフィクションを書こうとも、本質的にいつも「自分」を書いているのである。そのことを描いた作品である。カポーティはネイティヴでスラム出身である殺人者のなかに自分を見る。白人で上流階級にいるカポーティであるが、不幸な家族環境にいたという出自と、虚妄で固められた自分の言動を一番嫌っていたのは、彼自身であったからである。だから誰よりもその殺人者を愛し、誰よりも極刑に晒されることを望んでいた。この映画の最後に死刑描写がある。フィリップ・シーモア・ホフマンの渾身の演技を見よ。カポーティがその後廃人のように過ごしたことも十分に納得できる描写だ。私はこの映画でカポーティの目を通して死刑を追体験した。死刑制度の是非は論じていない。けれども、死刑は一人の作家の人生を奪ったのである。少し、脱線します。不安倍増内閣は法律遵守を進めることが世の中の進歩につながると考えているらしい。だから何の迷いもなく、いやあえて進んで、クリスマスの日四人の死刑囚に死刑を断行した。路上駐車は法律通り五分以上置けば自動的に罰するだろうし、飲酒運転は法律通り取り締まり、犯罪者は広く世間にお知らせするだろう。チラシを撒きに集合住宅に入り、住民から通報があれば、法律通り勾留するだろうし、公安を総動員してでも犯罪者に仕立て上げるだろう。売春みたいな由々しき犯罪に対しては、通報すれば、賞金をあげる制度を作るだろう。ここでは死刑制度自体の是非はあえて語らない。話がややこしくなるからである。路上駐車や飲酒運転やチラシ撒きや売春を罰することの是非についても語らない。私が不安倍増なのは、こういう厳罰主義がどういう社会をもたらすか、ということなのだ。斉藤貴男は「安心のファシズム」(岩波新書)のなかで「割れ窓理論」について語っている。軽微な犯罪の予兆段階でも容赦しない。警察権力の徹底した取締り。確かにニューヨークではそれで犯罪件数は減ったのかもしれない。しかし、大事な事はその犯罪の原因を探り、その原因の除去に努める事だろう。根本から間違ってはいないか。映画を見ていると、カポーティが疎外された原因は、或いはネイティブの殺人者が生まれた背景には、白人の保守的な考えにあるのではないか、とさえ思ってくる。つまり、キリスト原理主義による「神と悪魔の対決する社会」である。そこではじめてこの映画はブッシュに追随する不安倍増内閣と結びつくということになるだろう。
2006年12月26日
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ル・コントの新作。彼の「仕立て屋の恋」は私が初めて自費で買ったビデオだし、(DVDではない)「歓楽通り」は誰も評価しなくともその年の私のベスト3だった。つまり彼のファンなのである。いやあせつない恋です。セラピストと間違われて「親密すぎる打ち明け話」を聞くうちに美しい人妻に恋に落ちるお堅い中年ばついち男。好きです、この世界。けれども不満なのはラストだ。ル・コントは作品方針を変えたのか。そういえば、男もいつもと違って少しだけど、カッコよかったぞ。
2006年12月20日
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監督 : ジュリアン・ジャロルド 脚本 : ティム・ファース 、 ジェフ・ディーン 出演 : ジョエル・エドガートン 、 キウェテル・イジョフォー 、 サラ=ジェーン・ボッツ 、 ユアン・フーパー イギリスの中小企業事情も日本と大差はないのだろう。イギリスの労働者応援映画はいつも気持ちいい。「会社は建物じゃない、人だ。」というありがちなテーマなのだが、主人公をカッコイイ男として持ち上げない。だんだん盛り上げるのではなく、打算的な感情的なところもちゃんとだす。ただし、最初の登場時にはお坊ちゃまのニキビの若者だったのに、一貫して男っぽくなっていく演出はさすが。日本でも例えば先に私が見たルポ番組を映画にしたら、うまく作れば「フラガール」みたいな感動作を作ることが出来ると思うのだが。93歳現役社長なんて今の時代、「華」じゃない?。
2006年12月06日
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監督 : デビッド・フランケル 出演 : メリル・ストリープ 、 アン・ハサウェイ 、 エミリー・ブラント 、 スタンリー・トゥッチ 、 エイドリアン・グレニアー 、 サイモン・ベイカー 超カリスマ、わがまま言い放題の上司との付き合い方、新入社員の成長物語、女通しの対立、一流ファッション雑誌の裏側、一流ファッションのオンパレード、名優メリル・ストリープとまだルーキー臭さが抜けきれないアン・ハサウェイの対決、よく知らないけれども効果的なニューヨーク音楽、等々とくればまあ、楽しめるだろうと思う。事実楽しめた。しかしそれだけ。うまい映画つくりを楽しんだだけ。
2006年12月04日
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監督 : アルフォンソ・キュアロン 出演 : クライヴ・オーウェン 、 ジュリアン・ムーア 、 マイケル・ケイン 設定はありきたりである。「2027年。我々人類にはすでに18年間も子供が誕生していない。このままでは、そう遠くない日、地球を引き継ぐ者はすべて地上から消え去ってしまう!」けれども、2027年というあたりに、この映画の秀逸さがある。近未来というには、あまりにも現代と似た風景である。いや、原油が高騰しているからなのだろう。車よりも、自転車や馬が交通手段として跋扈している。反政府組織の車は、何十年も前のお古である。クライヴ・オーウェン とジュリアン・ムーアの元夫婦は20年前に別れたことになっている。つまり、2007年来年である。なぜ別れたのか、二歳になる彼らの子供が死んだからである。 世界の危機もそのときから始まる。イギリス以外の国家は崩壊して、テロの横行、移民排斥、警察国家は眼に余るほどになっている。「Vフォー・ヴェンデッタ」と同じく、「現代」を告発した映画であることは確かだ。イギリスもこのようにして、レジスタンス映画(エンタメとして作っているところが凄い。)を作り出した。(しかし既成のレジスタンス組織を応援していない。そこにイギリスの苦悩があり、良識がある。)日本はどうか。テーマ的には今まで何度も何度も描かれた「地球最後の日」の新バージョンではある。最後の日が、一週間後ではなく、数十年後になっているだけだ。映像的に見事な市街戦の途中で、ぽっかりと浮かんだ赤ん坊の泣き声だけの静寂で荘厳でやさしさに満ちたの場面は秀逸だった。
2006年12月03日
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監督・脚本 : ロドリゴ・ガルシア 出演 : キャシー・ベイカー 、 グレン・クローズ 、 ダコタ・ファニング 、 ホリー・ハンター 「美しい人」ただしこれだと女性9人が主人公のオムニバスという事は伝わらないので、「美しい人生」という題名ではどうだろうか。原題は「nine life」。それぞれたった10分間の登場であるが、それだけでその人物の生き様や性格、歴史がある程度推察できる。特に女性だとそのあたりを描きやすいのかもしれない。どれか一つ二つは男の私でも共感できるような話になっている。私の場合は、第2話「ダイアナ」。夜のスーパーで偶然昔の恋人に再会する。女は臨月に近い身重。男も結婚したらしい。差し障りのない会話を続ける。どうやら2人は長い年月恋人同士だったが、性格が合わずに別れたらしい。それから、もう何年も会っていない。どうやら2人とも平凡な家庭を持ったらしい。二人とも中年に域に差し掛かっている。大人の会話をしていったん別れる。けれどもスーパーというのは、別れてもすぐに相手が目に付くところにいる。男がやってくる。お互いの感情が高まっていく。男女のずるさと、男女の愛情を同時に感じる。と、まあこんな話で結局それ以上進展せずにそのまま別れるのだけど、この話に限らず、映像が女性の可視範囲のみで撮られているのですね。そしてワンシーン、ワンカットの採用。揺れ動く心を女性の視点から体験することが出来る。映画というものは面白い。
2006年12月03日
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監督 : アレクサンドル・ソクーロフ 出演 : イッセー尾形 、 ロバート・ドーソン 、 桃井かおり 、 佐野史郎 『ヒトラー最期の12日間』を観たとき、「日本国民は果たしてここまでの映画が作れるだろうか。ムリだろう。この60年間何もしてこなかったのだから。」という感想を書いた。その想いはこの『太陽』を見た後でも変わらない。イッセー尾形の鬼気迫る演技を見ても変わらない。むしろ強くなった。ドイツの映画にあってこの作品にないもの、この作品にあってドイツの映画にないものはなんだろうか。この作品には年月日時間が示されず、常に執拗低音としての音楽がある。ドイツ作品はその反対である。ロシア人のソクローフ監督にはこの作品を作るに当たって、何の妨害も圧力もかけられなかっただろう。よって『天皇の人間性を描く』ことには何のプレッシャーもなかっただろう。それは良し悪しだと思う。私は画面から緊張感がなくなったと思う。歴史的な事実を描こうとする必要がなくなり(年月日時間の欠如)、天皇に寄り添うような感情(音楽)のみが残った。私は天皇の人間性を描くのはいいと思う。軍部の暴走に嫌悪感を抱き、一方で日米開戦に関与していなかったと『しゃあしゃあ』と言ってのける矛盾を描くのはいい。とてつもなく幼稚な部分と、とてつもなく知的な部分を描くのはいい。しかしそれによって出てくるのは、監督自身の『ギモン』なのだ。『結局ヒロヒトは何者だったのだろう』それを日本人のわれわれに投げ出されても困る。まずはあなたが回答を見つけてから作って欲しい。ところで最後、皇后たる桃井かおりが侍従長を睨まずに天皇を睨む。なぜなのか。このあたりも、監督の天皇とその親族理解に疑問を感じる。映画『太陽』をめぐる現象で非常に面白いのは、この映画に対して右翼の妨害が一切なかったことである。まるで天皇の人間宣言のときのように、この映画の出現を日本人はすんなりと受け入れた。これが天皇タブーの崩壊の始まりだとすれば、うれしい事なのだが。いつか日本人の手によって作られた『太陽』を見る日が来ることを願ってやまない。しかし、教育基本法が強行採決されるような現代は、この日が日々遠くなっているのも感じざるを得ない。
2006年11月20日
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監督 : クリント・イーストウッド 出演 : ライアン・フィリップ 、 ジェシー・ブラッドフォード 、 アダム・ビーチ 力作である。冒頭近く小山を兵士三人が上っていって旗を立てる。突然視界が開けて球場の中。満員の大歓声と、花火。そこは硫黄島ではなく、アメリカ本土だった。やがて、われわれは何回もアメリカ本土で国債を募るためのプロパガンダツアーと、地獄の硫黄島を交互に見ることになる。今までの戦時映画と決定的に違うのは、地獄の戦場と地獄を全然分かろうとしない本土の地獄の二つを、平行して描いたことだ。となりにいる人間が銃弾に倒れる、あるいは頭を吹き飛ばされる、戦場場面もすごい。しかし、それ以上にすごいのは厭戦気分になっていたアメリカ国民を一変させた、一枚の写真を最大限利用した戦争プロパガンダ描写である。ショウビジネス的演出と膨大な報道によって、英雄は作られていく。しかも本人たちの意思とは関係なく。しかも、旗の写真は二重に「やらせ」だ。写真は二度目の掲揚のときだったし、実はそのあと34日戦闘は続いたので、勝利の旗でもなんでもなかった。戦場に英雄はいない。称えられるべきは死んだ戦友たちだ。戦場には地獄しかない。それらのことを説明的演出もなく、説得力を持ってイーストウッド監督は描く。‥‥‥というようなことは誰でも書くだろうから、私は別の視点でこの映画のことを語ろうと思う。日本国の総理大臣、安倍晋三氏が『美しい国へ』という本の中で、イーストウッド監督の前作『ミリオンダラーベイビー』を数ページに渡って賞賛している。第三章『ナショナリズムとは何か』という章の中で、『「ミリオンダラーベイビー」が訴える帰属の意味』という小見出しをたてたあとの7~8ページだ。ここで安倍氏は玄人っぽい映画評を展開する。『モ・クシュラ』というキーワードを説明しながらマギーとフランクの間には『アイルランドの帰属意識』が存在するというのだ。それは確かにそうだ。しかしクリント監督はそこから人間としての尊厳に話を展開するのだが、安倍氏の思ったことは違うようだ。評論家松本健一の言葉を借りてこのように言って見せる。「中国人も韓国人もヒスパニックも、アメリカをすでに『理想の国』であると考えて移民したが、アイルランド系移民だけはアメリカを『理想の国』に作り上げようとした。」そしてさらに安倍氏は『地球市民』信用できない、といい、帰属意識を持つのは日本人なら日本しかありえないと展開し、「若者たちが自分の生まれ育った国を自然と愛する気持ちを持つようになるためには、教育の現場や地域で、まずは郷土愛をはぐくむこと必要だ。国に対する帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか。」と明らかに教育基本法の改悪の条文を意識しながら言う。そうやって『わが国の郷土を愛すること』が『愛国心』に繋がると、無理やりに展開するのだ。おいおい、クリント・イーストウッド監督はそんなことを言いたいのではないよ。勘弁してほしい。この名作を汚さないでほしい。監督の気持ちは安倍首相の気持ちと正反対のところにある。その証拠にこの映画を見てほしい。ここには、ネイティヴアメリカンを利用するだけ利用してぼろきれのように捨て、彼のアイデンティティをずたずたにしていく『国家』の姿が描かれている。アイラたちは白人社会の中で自分たちの民族の地位の向上のために、進んで従軍していく。しかしアイラは結局その国家に振り回され、おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかり、野垂れ死にする。表面的な英雄扱いと、『このインディアンめが』と悪態をつけられる立場の矛盾。人間としての尊厳を築こうとしても、それを壊すのは『愛国心』を押し付ける『国家』であったのだ。11月7日、教育基本法改正案、今国会成立強まる 衆院委が来週可決へという記事が流れた。まるで映画のようなやらせ発言を政府首脳が認めたばかりだ。こんな政府に教育の根幹を変える法律を作らせてよいのか。まだ間に合う。与党には『徹底的に審議を尽くしてほしい』というメールを。マスコミには『このままずるずるといっていいのか』というメールを。野党には『最後まで徹底抗戦を』という励ましを、ぜひ送ってほしい。憲法・教育基本法改悪反対! 抗議・要請メールここが非常に便利である。
2006年11月07日
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映画を見た後にこの感想を書いて、他のブログの感想を見ると驚くほどに好意的な感想が多かったのでびっくりした。少し迷ったが、私の感想をそのまま載せることにする。異論反論は謙虚に受け止めたい。けれども当然私は自分の意見に自信がある。エンドロールが始まるとすぐに席を立った。こんなことは年に1~2回しかない。私なりの抗議の意思表示だからだ。オリバー・ストーンは好きな監督だった。進歩的な監督だからではない。「プラトーン」のときから、この男が筋金入りの愛国者であることは承知していた。彼の作品を見た後は必ず同じ感想を持ったものだ。「アメリカ人はたぶんこの映画を見てこんな風に思うのだろうな。問題はあるけれども、こんな個人を生んだアメリカは素晴らしいんだ、と」ベトナム戦争の醜部を描き(「7月4日に生まれて」)ケネディ暗殺は個人のテロの結果ではないことを明らかにし(「JFK」)ニクソンと財閥とのつながりを初めて映画で明らかにし(「ニクソン」)海兵隊のしごきをプロスポーツの世界で再現して見せて、男の意地を描き出した。(「エニイギブンサンデー」)自分の国の醜悪な部分を冷静に見ることの出来る知性と熱い心、その二つを併せ持った「愛国心」を私は愛していた。ところが、2004年の「アレキサンダー」はどうも違っていた。違和感だけが残った。舞台もアメリカから遠く離れている。それでやっとこの作品のことなのである。この作品中盤からカーク軍曹という男が出てくる。海兵隊を退役して市民生活を送っていたが、9.11のニュースを見て、海兵隊の制服を着て捜索隊にもぐりこみ、ビルに埋もれた主人公二人を発見する男である。この男の愛読書は聖書のヨハネ黙示録だ。フロリダ州でブッシュが最初の一言を言って雲隠れした後、カークは「戦争が始まった」とつぶやく。黙示録はブッシュがイラク戦争を成し遂げる際に最大限利用したものである。ここで書かれてあることを引用しながら、ブッシュは神と悪魔との戦争を訴えた。カークはその考え方に同調しており、作品もカークにほぼ完全に同調している。映画は結局このカークを三人目の主人公に迎える。1986年時点で、ベトナム戦争を大儀なき戦争だったと訴えた監督はここにはいない。ケネディ大統領暗殺単独犯行説を映像の力で見事にその矛盾を描き出した監督はいない。昔の知性はなく、「あの時」の感情だけを描く作品を撮ったのが「WTC」である。最近ちょっとおかしいな、とは思っていたが、まさかここまで変質していたとは。もうもとの誇りある「愛国者」には戻れないかもしれない。それならば「さようなら」というしかないだろう。監督 : オリバー・ストーン 出演 : ニコラス・ケイジ 、 マイケル・ペーニャ 、 マギー・ギレンホール 、 マリア・べロ 、 スティーブン・ドーフ
2006年10月16日
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スーパーマンは還ってきた。アメリカへ。しかも写メが浸透している現代へ。「世界(アメリカ)はスーパーマン(ヒーロー)を必要としていない(という時代になってしまった)」という記事が、ピューリッツァ賞を採ってしまうという現代へ。()は私の解釈です。何故還ってきたのか。上記の記事を書いたロイス・レイン(ケイト・ボスワース)は、物語の最後に「スーパーマンは何故必要か」という記事を書き始める。必要ないわ、って言ってしまったけど、やっぱり必要よ、というわけだ。何故必要なのだろうか。実はアメリカはずーとそのことを模索してきているのではないだろうか。19年ぶりの「リターンズ」なのに、作品中では5年ぶりに帰ってきたことになっている。何故5年なのか。5年前に9.11があったからである。(と、キッパリ!)スーパーマン(ブランドン・ラウス)が帰ってきて最初の仕事は、スペースシャトルの打ち上げを助け、飛行機の墜落をを阻止するというものである。この仕事は非常に象徴的だ。「ユナイテッド93」を見た直後だったので、飛行機が次第と陸地に近づいていく場面は恐怖を覚えた。多くのアメリカ人が9.11を思い浮かべたに違いない。スーパーマンは両翼が剥がれた飛行機の先端を優しく受け止め、静かに地上に横たえる。その場所はアメリカのヒーローの殿堂、野球場である。青い芝生と、白い飛行機、そして満員の観客。見事なな演出である。スーパーマンは全世界の苦しんでいる人の声を聞き分けることが出来るという能力を持っている。(まるで神様みたい)銀行強盗、車の暴走、ビルからの落下物から助けること……その仕事は大から小まで多岐に渡る。しかし決して戦争にはかかわらない。おそらく彼の耳には聞こえないのだろう。それでもアメリカ人(デイリープラーネットの編集長)は、「たいした男だ」と感嘆するだろう。スーパーマンは還ってきた。父(神)の言葉を実践するために。しかし、この「神」はブッシュ大統領の信奉する神ではない、ということは重要だ。善と悪の二元論に立ち、悪の帝国を打ち倒そうとアジる神ではない。慈愛に満ち、市民の自立を期待する神だ。アメリカの神はやっと自らの役割を思い出した。だからスーパーマンは還ってきたのだ。アメリカ人はやはり寂しかったのに違いない。アメリカ人はこれからも模索しながらヒーローを追い求めるだろう。次作は必然的に家族を巡る物語になるはずだ。監督はスーパーマンオタクのブライアン・シンガー。悪役はオスカー俳優のケビン・スペイシー。飄々として憎みきれない悪役を見事に演じていた。オープニングのクリンプトン星から地球に至る映像は、20年間の技術の進歩を感じさせて素晴らしいものがあった。二時間半があっという間だった。大作評価。★★★★「面白かった。」
2006年08月25日
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「ユナイテッド93」に寄せられたTBを読んでいると、多くの人が「あの時」どのようにこの映像を見ていたのかを語っていた。確かに御巣鷹山の時と同じように、いや、それ以上に、このとき自分は何をしていたのだろうかということを、多くの国民が覚えている。国民的な記憶になっている。御巣鷹山のときと、相当性格は違うけれども……。私も鮮明に覚えている。偶然ほかの人とは違う覚え方をしたので、これを機会に少し書き記しておこうと思う。私はその日、上海ぶらぶら旅をしていた。三泊四日の上海の旅で、その日は二日目だった。上海市内をいろいろとみて回って、ホテルに帰ったのは、10時過ぎだったと思う。(中国は日本と一時間の時差がある。)私はくつろぎながら、ずーと中国のテレビを見ていた。私は外国では出来るだけ、テレビは見ることにしている。そこのテレビの映像や、編集を見ることで、その国の技術や国の関心をある程度推察することが出来るからだ。だから中国番組しか見なかった。テロップは何も入らない。確か、12時過ぎごろだったと思う。部屋の外がいやにやかましい。英語で話される声が頻繁にする。なんなんだろう、と思って、本当に偶然にチャンネルを回すと、NHKBSの映像が「事件」が起きているのを伝えていた。既に二機とも、ワールド・トレードセンターに突っ込んだあとだった。とんでもないことが起こっているなあ、というのが第一印象。一時間ほど見続けて、眠くなって寝て、しばらくしておきてみると、今度はセンターが潰れていた。どうしてこんなことがおきるのだろう。可哀そうに……。というのが第二印象。次の日は朝6時に起きる予定だったので早々に寝る。朝起きて、最初にしたのが中国の朝の番組を見ることだった。何もやっていない。ニュースはどこかで誰が小さな犯罪を犯した、なんかの商品を売り出した、というようなことをしているだけだ。時間がないので朝飯をさっさっと食べてバスセンターにいく。そこで幾つかの新聞を見たが、「美国」の「美」の字もどこにも躍っていなかった。その日は1日上海郊外「周荘」などを回ってた。そのときの様子は一月に「単騎、千里を走る。」の感想のときに述べた。そのとき載せきれなかった写真を少しだけ載せますね。次の日の中国はこんなにも穏やかだったということです。周荘に行く途中のミニバスに乗ってきた若いカップル。いちゃいちゃしやがって。とパチリ。郊外の道沿いは市民の憩いの場所だ。ここでは中国式の将棋が至る所で行われている。この旅で一回だけ、9.11が話題になった。苦い思い出である。上海最後の日、私はホテルの近くの朝市を見に行って、帰り、なれなれしい日本語を話す中国人に捕まる。「ジャパニーズ?」「私は学校の先生をしています」(売店で買ってきた中国の新聞を私が持っているのを見て)「アメリカで大変な事件が在りました。世界貿易中心無くなりました。恐ろしいですね」「怖いですね」私は中国の人との触れあいに飢えていたのかもしれない。その後言葉巧みに私は、彼の「絵」を中国の市価としては法外の3500円で何枚か買うことになる。下の写真は、彼がサービスとしてその場で私の肖像を「切り絵」にしているところ。私が持っていた新聞は、事件の2日目にしてやっと出た9.11のことが載っている新聞である。一面トップに世界貿易中心の文字と写真が踊っていた。しかし、この事件について大きく扱っていたのは、6~7新聞あるうちのこれ一紙だったと思う。上海空港は何の緊張感もなかった。(上の写真)いや、多くの中国人と同じように私もそれが当然だと思っていた。9.11はその年の世界重大ニュースのトップを飾るだろうけど、私の中では、それ以上のものではなかった。ところが、一歩日本に足を踏み入れると、違っていた。入国のチェックは厳重になっていたし、外国旅行から帰ってきたというとみんな一様に「よく帰って来れたわねえ」という反応を示すのである。テレビは依然と9.11である。日本の全ての関心は、9.11の原因、波紋、そしてやがて発表されたブッシュの「宣戦布告」について費やされていた。私は日本に帰ってきたときに「世界」を肌で知った。9.11で「世界」は確かに劇的に変わった。しかし、それはアメリカとその同盟国が変わったに過ぎなかったのである。世界は決してアメリカによって動いているのではない。けれども、日本は確実にアメリカによって動いているのである。この肌感覚は貴重だ。私はこの感覚をずっと覚えておこうと決意した。
2006年08月23日
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「ユナイテッド93」ポール・グリーングラス監督すみません。記事を書いて気がついたんですが、結論は皆さん知っている話なので、ネタバレ全開で書いたのですが、それが不快に思う方もいるかもしれません。その方は見るのをスルーしてやってください。映画を観る前は心配していた。「テロからアメリカを守った英雄的な乗客たち」という映画になってはいまいか、と。たとえば、乗客一人ひとりの描写を密にし、いかに彼らが勇気を奮い起こしたのか、ということをきちんと描けば、英雄物語は簡単につくる事ができる。でも実際出来た作品は違った。乗客の人生はほとんど描かれない。有名俳優はひとりも使わない。乗客は突然の理不尽なハイジャックにみまわれ、そしてすぐに同時多発テロの当事者であるということを知る。そのあまりにもドキュメンタリーなタッチに、我々観客も、その中に放り込まれたような気になる。乗客たちは、決してテロによって新たな犠牲者を増やすのを防ぐためではなく、「自分たちが助かるために」最大限の努力をしていく。地上が次第に近づいていく。そして暗転。見事なラストカット。英雄物語にしなかった監督に拍手。この映画のもう一つの柱は、管制塔や軍の情報管理のあり方であろう。目の前のワールド・トレードセンターに火災が起こり、さらにもう一機が突っ込むまで、これが自爆テロだとは気がつかないでいる。情報が交錯し、のっとり機は5機であると信じられ、のっとり機がどこを飛んでいるのか、管制塔も軍も全然把握できていない。これが世界最高峰の情報管理システムを持つ国の姿なのである。電線が切断され、首都に大停電が起きても数時間原因さえつかめなかった国なら、一日ぐらいは何がなんやらわからなくなっているだろう。テロが起きるとき、国は無力である。そのことを如実に見せる。テロを防ぐには「憎しみの連鎖」を断ち切る以外にはない。
2006年08月22日
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月一回の映画好きのサークル「お話シネマ」に行って来た。お盆ということもあって、最初二人しかいなくて、最終的に四人のみの参加。課題の映画の感想は置いといて、先ずは最近見た映画の話題。私「「隠された記憶」見ました?」Yさん「見たよ。監督がミヒェル・ハネケで、主演がダニエル・オートゥイユとジュリエット・ビノッシュなんで、当然期待していたんだけど、肩透かしを食ったような気がする。」私「そうなんですよ。ラストカットを見逃すなっていうあおり文句があったし、ぼくはミステリ大好きだから、一つ一つのカットに伏線がありはしないかと、相当気をつけてみていたんですよ。それこそ、冒頭の玄関を延々と映すビデオのシーンにしても、車の位置とか、色とか傷とかもしっかり頭に入れながら緊張してみていたんだけど、結局そこまできちんとしたビデオじゃあなない。ラストカットの二人については、当然のことながらすぐに気がついたし、アレが事実だとしたら、一応説明がつくよね。冒頭のビデオをどうやって映したのか、という問題は残るけど。でもアレじゃあ衝撃でもなんでもない。」Yさん「これのどこが評価されたのか、イマイチ分からなかったよね。ぼくが気になったのは、最後のカットにしても、まるで遠くからビデオで映しているみたいに、全然変化が無いよね。映画全体にいえるのだけど、どこからビデオで、どこから本当の映像なのかがわからない。もし、ラストカットがビデオだとしたら、それこそ衝撃の映像だと思うのだけど……」私「それはないでしょう……。それだと全てが謎になってしまう。ただ、ラストカットの直前は男の夢みたいになっていましたよね。だからあの映像のほとんどが男の夢なのではないか、という解釈も一部ではあるようです。でも、それだと何をいいたいのか分からなくなるので僕は採らない。」Yさん「難しいね。」私「イマイチでしたね。」Yさん「イマイチだったね。やっぱり監督は、本人は自覚はしていないけど、知らない間に差別をしている、そのことでどれだけの人を苦しめるのか、故意ではない悪意を描きたかったのかもね。たとえば、今度のW杯のジダンの問題にしても、きっかけは小さなことで、本人たちに悪意はなくても、根は深いものがある。移民問題とかね。だからあれほどの問題になったのだと思う。そういう眼で見ると、欧州であのラストカットが衝撃的だったというのはそういうことなのかもしれないね。」私「なるほど、ジダンの問題と一緒、だという解釈なら、カンヌで三冠を取ったのもわかるような気がしますね。」すみません。映画見ていない人には何がなんだか分からないと思います。どうやって書くか迷ったのですが、結局こうなりました。
2006年08月13日
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監督 ゴア・ヴァービンスキー 出演 ジョニー・デップ オーランド・ブルーム キーラ・ナイトレイ (あらすじ)前作で、不死の海賊バルボッサからブラックパール号を奪い返した孤高の海賊ジャック・スパロウ。自由な大海原に船出したはずの彼の前に、逃れられない宿命が立ちはだかる。それは、今から13年前のこと…ジャックはブラックパール号の船長となるため、自らの魂と引き換えに、船乗りたちが最も恐れる“深海の悪霊”ディヴィ・ジョーンズと「血の契約」を交わした。そして今、その“契約期間”は終わり、ジャックの魂を取り立てるため、巨大な闇の力が海底をうごめいていたのだ。“悪魔の裏もかくことのできる男”といわれたジャック・スパロウだが、今度こそ彼の命運は尽きようとしていた…。……そういや、そういう終わり方だったね。もう前の作品の細かいところなんか忘れているから、前作品の直後から話が続いていて、最初は戸惑うのだけど、でもまあ細かいところを思い出さなくても何とかなる。エンターテイメントはこうでなくちゃ。大作評価★★★★「面白かった。」序盤は緩やか。中盤の原住民との攻防で、一挙に掴み。後半の水車のエピソードで、久しぶりにしてやったりと思いました。大作映画の真骨頂は、「アイディア」であることが良く分かる。その後に役者の頑張りがあって、ロケーションや美術でクオリティを高め、CGで花を添えるわけです。前作はジョニー・デップのための作品で、オーランド・ブルーム とキーラ・ナイトレイ がその余勢を駈ってブレイクした作品だった。今回のもうけ役はキーラだ。「プライドと偏見」「ドミノ」で、彼女は一皮剥けたけど、その剥けた皮を上手いこと見せてくれた。次回はジャック・スパロウの大活躍を期待したい。出し惜しみはもういいからね。完結編では、過去の悪行を全て曝け出してみんなをあっと言わせておくれな。まさか前期「スターウォーズ」の最高傑作が「帝国の逆襲」だったように、完結編で失速はしないでしょうね……。
2006年07月26日
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これは事実の基ずく物語……たぶんという但し書きで始まるトニー・スコット監督のロッキングムービーである。なるほど、飛んでいる。飛んでいる。賞金稼ぎの仕組みがイマイチ分からないので乗れなかったのであるが、映画館で見れば、嵌ったかもしれない。キーラ・ナイトレイが、一皮剥けるのに、この映画の果たした役割は大きいだろうな、と思う。何しろ、波乱万丈の人生を過ごしたドミノ自身が、映画製作の間中そばにいたのだから。そして、映画公開の直前になって、死ぬというおまけまでついて。DVDでは、現実ドミノを紹介するメイキングがついている。
2006年07月26日
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監督:J.J.エイブラムズ 出演:トム・クルーズ 、フィリップ・シーモア・ホフマン 、ヴィング・レイムス 、ローレンス・フィッシュバーン 、ミシェル・モナハン 大作です。よって、大作向けの五段階評価を導入。★★★「退屈はしなかったけど、見たという実績が残っただけ」いつも同じじゃん、ということ無かれ、ちゃんと★★とかの場合も充分にありえますから。まあ、順当な評価だと思いますよ。なにしろ、退屈はしなかったんだから。画像は当然つけません。大作なので、有名俳優が出ています。トム・クルーズとトム・クルーズとトム・クルーズですね。あっ、じゃ無くて「マグノリア」のフィリップ・シーモア・ホフマン 、といっても覚えている人は少ないか。今年のアカデミー主演男優賞の受賞者ですね。ローレンス・フィッシュバーンは言わずと知れた「マトリックス」シリーズ。ミシェル・モナハン て新人なのかな。美味しい役どころでした。マギーQもなかなか良かった。ロケ地は豪華です。特にヴァチカンのロケなんてどうやってしたのだろうか、と感心しました。ベルリン、ニューヨーク、上海と移っていくのですが、上海の昔風の路地は周荘に違いないと思いました。上海の街から3~4時間もかけて行く所なんですよ。もう少し脚本を一捻りかふた捻りしてほしかったですね。いや、分かりやすい伏線は良かったんですよ。ああやって危機を脱するんだろうねとか、あの人が裏切るんだろうな、とか分かりやすくてよかったのですが、粋なセリフがもっと欲しかったですよね。唯一良かったのは、「残り弾はある?」と聞かれて「充分だ」と答えて一発打ったあとに、全ての銃弾をうち終えたのがわかった場面。それといつものことだけど、CMと本編のセリフが違うのだけど、CMのセリフのほうがよっぽど粋です。「IMFとはなあに?」と聞かれて「国際通貨基金だよ」とまでひねらなくていいけど、トム君ちょっと真っ正直に答えすぎ。もう少し捻りの効いた答え方ってなかったんだろうか。最近蘇生術を習ったばかりなのだけど、実に基本通りにやっているのには笑えました。15回心臓マッサージして、二回空気を送り込んで、それを繰り返すというパターンなんですよ。ちゃんと数えていましたね。でも心臓マッサージの力の入れようはあれでは駄目です。あばら骨が折れるぐらいの力で押さないといけません。まあ、とっさのことなので、あれはあれでリアリティがあるんですけどね。「ラビット・フット」が本来の役割をすれば、中東のほうで戦争を起こすとか何とか言っていましたよね。やっぱり戦争が起きると、武器商人は儲かるんだろうなあ。世界は陰謀で出来ている。隣の国のミサイル騒動も、結局後で一番得をするのは、ミサイル迎撃システムを導入しようとしているアメリカのネオコンと日本の一部企業と日米の「一部」政治家たちなんだろうね。
2006年07月08日
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「地球を守れ!」という韓国映画のDVDを見た。結局、周りが見えなくなって自分の情念の世界にだけ入ってしまうと、ドンドン人を殺してしまうどころか、大切な人も守れいなし、自分さえ守れないという話ですね。決してギャグ作品ではない。。ひどく陰惨なクライム作品である。やられる側のカン社長がなんとも一筋縄では行かないところが今までの映画とは違う。韓国映画らしく何度も逆転がある。シン・ハギュンの「飛んだ」演技が見もの。少し見直した。(あら筋&解説)内気な青年ビョングと恋人スニは、 "地球上の災難はすべて異星人の仕業"だと考えていた。そんなある晩、 2人は宇宙人に違いないと目をつけた大手製薬会社のカン社長を誘拐・監禁してしまう。やがてビョングは、 地球爆破計画の秘密を暴くために、 みずから発明した尋問装置を使ってカンに尋問を開始。わけがわからず戸惑うカンがひそかに脱走を試みる一方、 カンの失踪事件を捜査していたキム刑事が、 ついにビョングたちのアジトを付き止め…。奇想天外なストーリーと衝撃のラストが話題を呼んだ、 韓国発の異色SFファンタジー。宇宙人の存在を信じる青年と、 宇宙人に間違われた男のおかしな戦いを軸に、 笑いと涙の破天荒ストーリーが展開していく。主演は『ガン&トークス』のシン・ハギュン。各国の映画祭でも、 数々の賞に輝いた。映像特典として、 ミュージック・ビデオや監督インタビューなどが収録されている。 監督 チャン・ジュヌァン 制作 2003 / 韓国 さて、日本では、「日本を守れ」というような議論がウェブの片隅で盛んにされているようだ。おいおい、ビョングの様にはなるなよ。あと一週間たって、この騒ぎで一番得をしたものは誰か、じっくりと見つめてみるのをぜひオススメします。何故今この時期なのか。以下の画像をクリックすると、さらに一二年後誰が一番得をするかが分かると思われます。 あべちゃんがもっとも怖れるこの関係を世間にばんばん広めましょう! クリックすると「北朝鮮のミサイルの脅威を悪用してロックフェラーの丸儲けMD計画」に飛びます!「ヘンリ・オーツの独り言」さんより拝借
2006年07月07日
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内容に入る前に先ず、思い出話から入ることを許してもらいたい。この作品は思い入れなしで見るのは難しい作品だからだ。わたしが初めて子供だけで映画館体験をしたのが「ポセイドンアドベンチャー」だっのである。この映画を選んだのは単純。テレビで何回も宣伝されていたから。豪華客船が一瞬で上下さかさまになる、お金をかけたもったいないシーンをぜひとも大画面で見てみたい。当時11歳だった私は率直にそう思った。でもいくためには二つの難関を超える必要がある。バスに30分揺られていくことと、映画館というところにチケットを買って入ること。そこらあたり、実は全然思い出せない。覚えているのは二歳年長の兄に金魚の糞みたいにくっ付いて行ったということだけだ。そのあたりの冒険は、きっと兄が体験したのだろう。映画館はまだ木造だった倉敷駅の東となりにあった。倉敷千秋座(だったと思う)という名前で、去年閉館になった倉敷東映と、倉敷の町を代表する映画館だった。千秋座は記憶の中で東京歌舞伎座のように見えている。子供だったから当然でっかく見えたのだろう。やがてこの映画館は、駅前再開発の波に飲まれ、南の方に移転した。駅は木造から鉄筋に変わり、映画館があったところは三越の五階建てのデパートが建った。いま現在、移転先の映画館はとっくの昔に潰れ、三越さえも去年撤退をしていった。 「ポセイドンアドベンチャー」には圧倒された。転覆シーンも目を見張ったけど、次から次へと手に汗を握るシーンにずーと緊張していた。群像劇なので、全てを理解していたとは言いがたいが、ジーン・ハックマンが何かに悩みながらも、次々と襲ってくる困難に勇気と知恵で乗り切り、最後は「自分を犠牲にして」みんなを助けたのは素直に感動した。そのとき幼い子供のわたしはまるっきりハックマンについていく乗客の一人だった。 映画って面白い。この感情、あるいは情報は、私のDNAの中に確実に刻み込まれた。さて今回の「ポセイドン」である。監督:ウォルフガング・ペーターゼン 出演:ジョシュ・ルーカス、カート・ラッセル、エミー・ロッサム、マイク・ヴォーゲルああ、時とはこんなふうに過ぎてゆくのか。昔の大作は今のCG映画の一つでしかない。あの豪華客船を遠くから舐めるように一周して撮って、主人公の背伸びで終わらすようなオープニングがあっても誰も話題にはしない。「ダ・ヴィンチ・コード」は大作である。なぜか。高いギャラを得る俳優が何人も出ているし、ルーヴルや世界中のロケには確実にお金がかかる。現在大作の基準とは「俳優」と「ロケ」にかかっているのかもしれない。ドキドキの感動はもはや脚本の中にしかないのだろうか。「ポセイドン」の製作者は分をわきまえ、90分のパニック切り抜け映画を作った。中途半端な人間ドラマなんて大作ではないのだから邪魔になると思ったのだろう。この映画にDNAを書き換える力はない。
2006年06月30日
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監督:スパイク・リー 製作:ブライアン・グレイザー 出演:デンゼル・ワシントン、クライブ・オーウェン、ジョディ・フォスター ジョディはこれで『フライトプラン』の汚名を晴らしました。最後までクール・ビューティ。しかも一癖ありそうな弁護士を演じていました。この映画の愉しみ方は、『完全犯罪ってのは本当にありえるの?』というものかな。いわば観客と監督との知恵比べですね。私は最後のほうまで、「一つほころびを見つけた♪」とこだわっていて、このブログでけちをつけるつもりでいました。でも負けました。素晴らしい。緊密な構成。さわやかな、でも一癖もふた癖もあるラスト。みごとな娯楽作です。以下ネタバレ。(反転してね)つまり、あれだけ犯人の電話を受けているのだから、必ず声紋分析をしているはずだ。だとすると、(早い段階で観客の誰でも気がつく)あの仕掛けをやってしまったら、すぐ足がつくじゃないか。でもまさかああいう仕掛けを作っているとは思わなかった。なるほど、オーウェンだけが表に出ていた意味はここにあったのか。一つわからなかったのは、最後のダイヤモンドはあんたもネコババしただろ、探さないでね、ということなんだろうか。後はだいたいわかったんだけど……。登場人物のほとんどが、善役も悪役もこなす俳優ばかりで、この映画の娯楽性を支えていました。こんなふうにきちんと作られると気持ちがいい。
2006年06月12日
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監督:ロン・ハワード、 製作:ブライアン・グレイザー、 出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、ジャン・レノこういう大作を見るときの私の基準は単純。★★「退屈した。時間がもったいなかった。私の人生の貴重な時間を返して。」★★★「退屈はしなかったけど、見たという実績が残っただけ」★★★★「面白かった。」★★★★★「感動した。私の人生が豊かになった。」★一個の場合は500字くらいの罵詈雑言になるので省略します(^^;)……というわけでこの作品の評価は★★★です。以下今回はほとんどネタバレです。既に観た人のみ反転してください。観ていなくても自己責任で読んでみたいと思う方は別にかまいません。(別に最後のつまらないオチまで明かしてはいません。)それから私の映画評をずっと見ていて、気がついている方はおられるかもしれませんが、作品自体の評価とは別に記事に写真が載らなかった場合は「お奨め作品」ではない、というのが今年に入っての「私の基準」です。反対に時々写真が大きくなったり、数が増えたりしますが、そのときは作品の評価とは別に私のオススメ度が上がったという印です。……というように前振りが長くなるということ自体、この作品に対するオススメ度が下がっていることを物語っています。新聞報道にあるように「実はキリストは結婚して子供をもうけていた」というのが、この作品の肝です。そんなゴシップは個人的にはどうでもいいのだけど、キリスト教の歴史はそのまま西洋社会の歴史なので、いろいろ波紋が起きるわけですね。それが横糸。謎解きと、どんでん返しの筋たてが縦糸で、まあ退屈はしないわけです。オドレイ・トトゥは初めて「いい女優だな」と思いました。「アメリ」や「ロング・エンゲージメント」の彼女は粘執的で独善的で好きでなかったのですが、今回の彼女はクールビューティ。気の強さも好き。しかも、キリストの末裔ということで、そこはかとなき「おとしやか」。おお、ちゃんと役柄によって印象を変えることの出来る女優なんだと発見しました。神の名の下に殺人を重ねていく男(ポール・ベタニー)に対して、トトゥは「神は人殺しをお許しにならないわ」と詰め寄る。男は一瞬怯んだ顔になるが、すぐに平静な顔になる。このあたりを深めたら面白いはずなのに、作品としてさらりと流してしまう。子供云々の話は作品的には決定的な証拠を示さないで終わる。けれども殺人は作品的には行われている。キリスト教信者の方はここは「お許しになる」のだろうか。こここそ、問題視して大騒ぎしなくちゃいけないのではないだろうか。根本的な疑問があるのに、この作品(もしかしたら原作でも)答え切れていません。天皇の血統問題でも出てきたことだか、そもそも2000年間血統を伝えてきたのだとしたら、その間にキリストのDNAは数千万~数億人にばら撒かれているはずだが、作品中誰もその可能性について言及していない。 今日もハングル講座で、「昨日何をしましたか」と韓国語で聞かれたので、「ヨンファルルバッスムニダ(映画を観ました)」と答えました。すると「ムオスルバッスムニカ?」と聞かれたので「ダヴンチ・コート」と答えると「チェミイッスムニカ?(面白かったですか)」と突っ込んできやがるから、降参して「イマイチってどういえばいいんですか?」と聞くと、先生も訳せないご様子で、「チェミオプソヨ(面白くない)」と次善の答え方を教えてくれました。
2006年06月06日
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監督 : ジョージ・クルーニー 出演 : ジョージ・クルーニー、デヴィッド・ストラザーン、ロバート・ダウニー・jr、パトリシア・クラークソン、ジェフ・ダニエルズ50年代、一度吹き始めた「反共主義」「赤狩り」という名前の恐怖は、アメリカ社会を「萎縮社会」に変えようとしていた。放送界とて例外ではない。その中であえて批判的な姿勢を保っていた人気ニュース番組のキャスター、エド・マローとクルーたちは、真実の報道を伝えるべく邁進していた。「反共主義」を「反テロリズム」に置き換えると、ここに描かれている世界は容易に現代アメリカに移し変えることが出来る。赤狩りの急先鋒マッカーシー議員に対する批判をしたあと、そしてそのことに対する圧力が頂点に達したころ、マローのクルーの一人は同僚の妻に寝室でそっと尋ねる。「ぼくたちは間違ってはいないだろうか。」「何が正しいことか、なんて誰もわからないんじゃないだろうか。」妻は断固としていう。「人権と憲法を守ることが正しくないなんて、誰もいえないわ」(うろ覚え。ニュアンスが違っていたらごめんなさい。)ほかにも哲さんの日記にマローの冒頭のスピーチを引用しています。ここでは、踊る現代のマスコミと、マスコミに踊らされている視聴者に対する強烈な一言があります。見た直後の私の不満は映像は全てテレビ製作会社のなかで完結されていて、大衆の姿が映っていなかったこと(「V・フォー・ヴェンデッタ」と対照的)。マッカーシズムとはなんだったのか、その全体像が描けていないことだ。もしそれが視聴者自身にたいする批判もこめていたためだとしたら、そうだとわかるような表現の仕方をして欲しかった。ちなみに「リーダーズ英和辞典」でMcCarthiyism(マッカーシズム)を引くと、「(1)極端な反共運動、(2)不公平な捜査手段、(3)政府内の反体制要素の執拗な捜査・摘発」とある。マッカーシーが悪者にされたのは、決して反共主義を主張したからではない。「極端な」運動をしたからであり、捜査手段が間違っていたからである。その証拠にトルーマン大統領は1947年、連邦公務員の「忠誠」審査を開始し、51年までに212人が解雇され、2000人以上が辞職したことは糾弾されていないし、この映画でも、繰り返し「マローの忠誠心は愛国心は本物だ」というセリフが出てくる。「愛国心」はアメリカを語るときのキーワードの一つだ。「7月4日に生まれて」で、ひとりの青年はケネディの「国が何をしてくれるか、ではなく、国に何が出来るかが求められている」という演説に感動してベトナム戦争に行くのだが、その「現実」に直面したあと、反戦運動に入っていくのである。「プラトーン」もそうだが、この監督は作品を観たあと、「だからアメリカはすばらしい」という気持ちにさせる愛国心溢れる作家である。……話がこんがらがってきた。ごめんなさい。映像が白黒なのは、当時のニュース映像をそのまま使っているので、違和感を無くすためと、リアリズム重視の姿勢だろう。この映画はあくまでも「赤狩り」について描いた作品ではなく、「マッカーシズム」について描いた作品である。そこに現代アメリカの「希望」と「限界」を同時に感じる私ではある。おまけさて、この作品は岡山シネマクレールの新たに増設された新スクリーンで見た最初の作品になった。岡山はこの間、シネマコンプレックスの影響でつぎつぎと老舗の映画館が潰れていった。岡山で唯一の単館系上映館として、ここが潰れると私は本当に困る。スクリーン増設という冒険に対して、心からの応援していきたい。今回のような作品も今までなら、一週間で打ち切りであったが、今回は時間帯を変えながら三週間上映してくれた。おかげで、最終2日前に見ることができた。6月1日映画の日に見たので、55席中46席埋っていた。この調子でがんばっていって欲しい。
2006年06月04日
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監督 : フェルナンド・メイレレス出演 : レイフ・ファインズレイチェル・ワイズほか製薬業界と官僚との癒着、それを批判する団体あるいは個人との戦いは、よく映画で扱われる題材だ。なぜか。「本来人の命を救うものを作っている会社が人々の命を奪う矛盾」、「たった一つの小さな薬を開発できるか出来ないかで莫大な利益が左右されるという現実」が、現代の社会を如実に反映しているからだろう。 私はこの監督の前作「シティ・オブ・ゴッド」を観ていない。南米のスラムを舞台にした暴力と貧困のみのアナーキーな作品だと推測したため、評判が良いのにもかかわらず敬遠したためである。恐らく私の推測は間違っていたのだろう。この映画にも、ケニアの本物のスラム街やそこに住む人々が映し出される。圧倒的な色と音楽。ケニアの「現実」を見事に浮き彫りにさせる映像。その「現実」とソフトフォーカスで撮られた国連職員の「西側の生活」の映像が交互に描かれるのは、とうぜん監督の意識的な編集である。監督の「現実」を見る目は暖かい。そのことを発見した私は、やがては前作も見なくてはいけないと思っている。今年のアカデミー賞争いの中では、主演女優賞しかとることはできなかったが、今年のアカデミー賞はてはカンヌ映画賞の特徴である「現代社会の流れに対するプロテクト」の重要な一作品になることは間違いない。夫が最後にとった行動には意表を衝かれた。私はこの時に至ってやっと、この映画が「恋愛映画」として宣伝されている意味を知った。
2006年06月03日
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暫く休んでいましたが、「お家の事情」も小康状態になったので、少しずつはじめようと思います。この一週間で、いろんな方からTBを頂きましたが、全て返しきれていません。すみません。国会の審議は緊迫しているようですが、私はいつもひとつのことだけを書くことが出来ません。これも性分なので許してください。「 白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」 監督:マルク・ローテムント 出演:ユリア・イェンチ、アレクサンダー・ヘルト、ファビアン・ヒンヌリフス ゾフィーが死を覚悟したのはトイレの場面からだろうか。脅したり、甘言を言ったりして裏切りの言葉を引き出そうとする取締官を前にして、21歳の若者の信念の言葉はこの本当は信念も持たない小市民の男を圧倒する。死を前に人は太陽のように輝くことがある。ただし予想より遥かに早く刑が執行されたために、恐れ怯える余裕がなかったのは彼女のために幸いだった。白バラメンバーのほぼ全員が厳罰に処せられたとテロップが流れ彼らのスナップで作品は終わる。彼らの情勢分析は正しかった。1943年2月19日時点で、スターリングラードで戦争の趨勢をはっきり定め、精神障害者やユダヤ民族の虐殺を明確に知っていた。ドイツ帝国の終わり前の2年3ヵ月前に正確に未来を予測していたのは、エリート将校たちではなく、これらの学生たちだった。情報が少ないからといって未来が見えないわけではない。「良心」と「理性」があれば、どちらが「愛国」的な行動をとれるかは、歴史が何度も何度も何度も証明している。(例えばベトナム戦争、イラク戦争)加藤周一は1941年12月8日、東京帝国大学医学部の学生だった。もはや丸山真男のように好奇心で反政府運動に近づいて逮捕され釈放されるような安閑とした状況ではなく、自分の気持ちは公的にはどこにも出すことは適わなかった。そんな中加藤は真珠湾攻撃と太平洋戦争の開戦を知る。世の中は最初の勝利に酔いしれていたが、加藤は「これでおしまいだ」と思ったという。「1931年の満州事変から始まってずうっと続いていた日中戦争の、いわば論理的結論というか、行き着くさきがここだ、こと遂にここに至るかという感じですね。いきなり天から降ってきたという感じよりも、だんだん状況が悪くなっていって、だんだん戦争が近づいていて、米英を相手にする戦争などという最後の一歩は踏み出さないだろうとも考えていたけれども、遂にやってしまったか」(「ある晴れた日の出来事」かもがわブックレット)鶴見俊輔はアメリカに留学していたが、日米開戦のあと、交換船に乗って日本に帰る。「(なぜ帰国したか)よくわからないんです。ただ交換船が出るが、乗るか乗らないかって聞かれたときに、私は乗るって答えたんです。日本はもう、すぐにも負けると思った。そして負けるときに、まける側にいたいっていう、何かぼんやりした考えですね。というか、勝つ側にいたくないと思ったんだ。この戦争については、アメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰って来る自分なんて耐えられないと思ったんだ。」(「戦争が遺したもの」新曜社)「まだ」覚悟は必要ではないけど、僅かな情報しか我々には来ないけど、教育基本法、共謀罪等々にたいして「この事実を知ればみんな立ち上がるわ」と声を上げよう、支配者側はそんな声を恐れている。普通は99日間の猶予期間があるのに、たった五日間でゾフィーを殺したようにバナーのコピーTagは掲示板にあります。広めよう
2006年05月17日
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監督:テリー・ジョージ 出演:ドン・チードル、ソフィー・オコネドー、ニック・ノルティ、ホアキン・フェニックス フツ族とツチ族の間で続いていた内戦が終息、和平協定が結ばれようとしていた1994年、ルワンダの首都キガリ。外資系高級ホテル、ミル・コリンの支配人ポールは、近くフツ族の民兵によるツチ族の虐殺が始まるという噂を耳にする。やがてフツ族大統領暗殺の報道がなされ、フツ族が武器を片手にツチ族を襲撃し始めた。フツ族のポールは、ツチ族の妻・タティアナと息子たち、そして隣人たちを守るため、ホテルに匿うのだが……。 わたしも一応、ネットで上映希望署名をしたうちの一人です。(多分1000番目くらいだっかな)岡山まで来てくれてホッとしました。期待が大きかったため、あるいは事前情報をもらいすぎたため、失望もしなかったけど、大感動をするということもありませんでした。やっぱり「彼らは助かるんだ」ということを知った上で見ると駄目ですね。また、今年の作品群に力作が多すぎるせいもあるからだと思えます。(残念ながら洋画に限る。今年の邦画は不作の年かもしない。)極限状態の中で、結局頼りになるのは個人の力であり、決して国でない、ということをエンターテイメント性を持って描いたところが凄い。エンドロールの歌で泣いたのは初めてかもしれない。 バナーのコピーTagは掲示板にあります。広めよう
2006年05月08日
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監督・原案ポール・ハリス 製作・脚本ホール・ハリス/ボビー・モレスコ 出演ドン・チードル/マット・ディロン/テレンス・ハワード/サンドラ・ブロック/サンディ・ニュートン久しぶり。『マグノリア』式映画。けれどもあの映画のように最後にとんでもないものが降って来て、『終わり』にするような強引なことはせず、助走して始まり、クールダウンして終わる。ロサンジェルスで起こった二晩の出来事。刑事、強盗、TVディレクター、雑貨屋の主人、錠前サービス‥。さまざまな職種そして人種が混じりあう街。つくづくアメリカは多民族国家である。9.11が起こした波紋は、これほどまでに複雑に深く社会の中にとして横たわる。なぜなら、アラブ人に向けた刃は自分に帰ってくる。黒人に対する長い差別は社会構造に変化している。白人の中の自分でもコントロールできないトラウマ。華僑のしたたかさ。実は一つ一つのエピソードが過不足なくすべてつながっていなくて、少し不満は残る。けれども、中盤にあるクラッシュ事故の処理のエピソードがあまりにも秀逸なために、やはり忘れることは難しい作品になった。一人残されたマット・ディロンの中には決して英雄的なことをしたという気持ちは無かったはずだ。かえって、ほっとしていただろう。あの一瞬、諦めなくて良かった。どうしておれはここまで来たのだろう。もととはいえば、有色人種を優遇する雇用政策が良くないのだ。(これはブッシュ大統領の支持基盤であるキリスト教福音派の主張でもある)。けれどもあの狭い車の中で、彼の中で何かが変わった、かもしれない。憎しみ合う間柄でも、触れあい、目と目を合わせることで分かることもある、かもしれない。アラブ人である雑貨屋の主人のエピソードでも同じような気持ちの『転換』が起こる。「彼女は天使だ。」『失われた天使の街』ロサンジェルスで起こったことは、アメリカの人たちの気持ちを少しだけで良いから変える。ようなことがあればいいな。今年のアカデミー賞にノミネートされた作品群のなかにある、同性愛問題、石油利権問題、民族問題、マッカーシズム問題、これらはすべてひとつの事を語っているのだということにやっと気がついてきた。そのことについては又の機会に述べる。
2006年05月07日
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「ニューワールド」監督・脚本:テレンス・マリック 音楽:ジェームズ・ホーナー 出演:コリン・ファレル、クリスチャン・ベイル、クオリアンカ・キルヒャー、クリストファー・プラマー、デヴッド・シューリス 1607年、アメリカ大陸に上陸したイギリス人ジョン・スミス大尉(コリン・ファレル)は、ネイティブアメリカンの族長の娘ポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)と恋に落ちる。「シン・レッドライン」のテレンス・マリックの作品なので、ストーリーを追ってはいけない、という情報はあらかじめ貰ってはいた。しかし正直ものすごく分かりやすかった。ちょっと監督、親切すぎるのではないか、というぐらい物語の飛躍の前には説明的なセリフを配している。だから安心して「主観的な映像」を見ていられた。素晴らしかった。私はたぶん見ることがかなわないであろう、西暦0年、日本列島のどこかに上陸した大陸人と縄文人の出会いと風景をこの映画を見ながら幻想していた。葦繁く覆う沼地、芒の野原の彼方から原住民たちがやってくる。好奇心だけで近づく彼ら。イギリス人のほうから命を奪わない限り、生活を脅かさない限り、ネイティブから危害を加えることはない。スミス大尉は、彼らの正直さ、自然との共存、そして賢さを知る。スミスがポカホンタスに言葉を教える場面が印象的である。「空だ」「水だ」「風」。ポカホンタスは砂に水が吸い込むように言葉を覚えるが、同時に体全体でスミスに自然を教えるのである。スミスから見たネイティブ。ポカホンタスから見たイギリス。二つの文化は、そして男女は、触れ合うことで理解が進んでいく。殺し合いもあった。はじめて文化に触れたときの驚きもあった。映像でそれを語るという難しさと素晴らしさを効果的な音楽とともに、監督は存分に見せる。組織と組織との間では、衝突するのであるが、個人と個人の間では、「愛」が生まれる。それがなぜなのか、ということは作品は明らかにはしない。しかし感じることは出来るだろう。これもやはり9.11が生んだ作品には違いない。
2006年05月05日
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監督 : スーザン・ストローマン 出演 : ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック、ユマ・サーマン、ゲイリー・ビーチ、ウィル・フェレル時代はどうやら1950年代、ニューヨーク、ブロードウェイで落ち目になったプロデューサー、マックスはプロデューサーを夢見る会計士レオと組んで、「ショウビズ界で確実にもうける法則」を行動に移す。最低のミュージカルをつくる。→一晩でショウがこける。→制作費を持ち逃げする。という次第である。ヒトラーマニアのフランツの脚本を、ゲイの演出家チームを、田舎丸出しの女の子を雇って、さあ「こける」段取りはついた……一番最後の歌に「クギを刺された」のであまり悪いことは言うつもりはない、言うまいと思ったが、やはり黙っておくべきではないと思ったので「一言だけ」。この映画、シネコンなら客の入りが八割を越えた時点でチケットを買うという手続きをとることをお奨めする。私の買ったチケットは平日の昼のせいか、数えるぐらいしかいなかった。それで一番最初の歌場面で、あれは「つかみ」のはずなんだけど、誰もクスリともしなかったのである。作品がひどい、というつもりはない。ただ、この手のコメディミュージカルで観客層(私も含む)が悪いと、もう目も当てられない。最初からほぼ先の展開が読めるので、後は部分部分の台詞の妙や、歌の上手さや、言葉遊びを愉しむしかないのであるが、後ろ二つに関して言えば、オンチで英語が出来ない私には苦手な分野。台詞の妙味については翻訳者(戸田奈津子)のせいか、イマイチだった。いやいや、テーマ的には良かったんですよ。プロデューサーというのは本来泥をかぶるべき役割のはず。その葛藤を題材に取った時点で、にやりとします。毒のある登場人物たち、ユマ・サーマンとマシュー・プロデリックの身長差たっぷりのダンス、等幾つか見所はありました。「クギを刺された」最後の歌は最高なので、エンドロールの最後まで見るように。
2006年04月14日
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監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ(2005年 ベルギー・フランス作品)男も女も二十歳を過ぎた頃だろうか、男は正業を持たず窃盗品の売買でその日暮らし。女は子供を生んだばかりだが、男とまだじゃれていたいお年頃。精神年齢的に子供過ぎるこの二人。けれども、男はついにやってはならないことをした。お金に困って赤ん坊を売ってしまったのである。男はどうしてそのことを聞いて女が気絶したのか分からない。けれども(彼女との関係でたいへんまずいことをした)という気持ちにはなったらしく、行動はすばやく何とか子供を取り戻す。女はやっと気がつく。(……この男に赤ん坊は任せられない。私一人で生きていく。)男はやっと気がつく。(……俺は間違ったことをした。)裏社会に落ちる直前の男の最後の足掻きが始まる。中学生を誘って効率のよいかっぱらいを試す。そして失敗。スクーターを押して長い長い男の考察の時間の末、彼は服役をする。自首しに来た男を見て、相棒の中学生はびっくりする。自分を見捨てたと思っていた少年に一筋の光が入ったのかもしれない、女が男に面会に行ったのはそのためだったのだろうか。極力説明的な台詞を廃し、一切のBGMを廃し、馬鹿な男だけど、人間としてまだ落ちてはないところだけはみせる。カンヌパルムドールをとるほどの衝撃的な作品ではない。ヨーロッパの田舎町の出口のない若者たちの断片。その描き方がリアルだったため、ヨーロッパの人たちにとっては衝撃的だったのかもしれない。あの幼い二人の将来、まだまだ心配で仕方ないのは私だけだろうか。ただ、こんなのを見るとフランスのデモが盛り上がったというのもうなずける。若者たちは行き場がない。
2006年04月13日
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監督 : アン・リー出演 : ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール、ミシェル・ウィリアムズ、アン・ハサウェイ 1963年、ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。農場に季節労働者として雇われたイニスとジャックはともに20歳の青年。対照的な性格だったが、キャンプをしながらの羊の放牧管理という過酷な労働の中、いつしか精神的にも肉体的にも強い絆で結ばれていく。やがて山を下りたふたりは、何の約束もないまま別れを迎える。イニスは婚約者のアルマと結婚、一方のジャックは定職に就かずロデオ生活を送っていた……。 初めて結ばれる前の夜、お互いの宗派の話がある。そして、結ばれた朝、牧場を見に行くと、コヨーテに内蔵を食われた羊の死体。つまり二人の結びつきを「原罪」として扱おうという監督の宣言なのだと解釈。障害があるほど燃える。ごく一般的な恋愛映画。知恵の実を食べた男と男は決して成就することのない恋愛を生きる。現世でかれらは結ばれることはない。もちろんあと10数年生きながらえていたら事態は違っていた。ニューヨークで彼ら彼女たちのデモ行進があったのは、90年代初めのころだっろうか。もし「一般的」でない部分があるとすれば、恋愛のあり方がしばしば男同士の友情とよく似通ってしまうので、男にとっては新鮮味はないが、女にとっては新鮮味があったかも。途中で、秘密がばれて、だんだん村八分になっていく映画なのだろうとばかり予想していたら、ものすごい淡々として話が進んでしまう。時間が突然過ぎるので、少し戸惑う。アメリカ映画に珍しく、みんな真相を知っているのに、それをセリフにもほとんど出さないし、表情にもあまり出さない。アメリカならもっと意見のぶつかりあいがあるのだと思っていた。これがアメリカ的閉塞感というものなのか。60~80年代の田舎とはこういうものなのかなあ。ただし、日本ではもっとどろどろしている。イニスの妻は可哀そうに最初から気がついていたが、ジャックの妻はいつ気がついたのだろうか。決定的に気がついたのは、ジャックが不審な死を遂げてからだろう。悪い映画ではないが、これの何処がそんなに評価されたのか、よく分からない。
2006年04月04日
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監督 : ピーター・ハイアムズ出演 : エドワード・バーンズ、キャサリン・マコーマック、ベン・キングズレー、ジェミマ・ルーパーもちろん多くを期待はしていなかった。タイムパラドックスを扱う。SFの定石ですね。どう料理するのか確かめておきたかった。けれども、原作はブラッドベリである。萩尾望都の『ウは宇宙船のウ』みたいに詩情豊かにやってくれる可能性はある。「火星年代記」みたいに人生を考えさせてくれる作品になってくれているかもしれない。まあ、期待していなかったのだから、金返せとはいわない。しかし、まさかホラー映画になろうとは……。
2006年03月26日
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「イノセント・ボイス-12歳の戦場」監督 : ルイス・マンドーキ出演 : カルロス・パディジャ、レオノア・ヴァレラ、ホセ・マリア・ヤピスク、ダニエル・ヒメネス=カチョ1980年、エルサルバドル。50年にわたる軍政に喘いでいた農民・労働者は反政府統一軍事組織(FMLN)をつくり、米軍に支援された政府軍との内戦に突入する。11歳の少年チャバの住む処は町外れの谷沿い。そこにバラックがへばり付く様に建っていた。そこは政府軍とFMLNの境界にあるためか、夜に何の前触れも無く銃撃戦が始まる。家の中、流れ弾がひゅんひゅんと飛び交い、チャバは留守の母親の代わりに姉弟をベッドの下に隠す。泣き止まない幼い弟。爆弾の音。人が死んでいく声。ベッドの下で口紅で顔を塗りたくり、弟をあやすチャバ。昼間は政府軍の監視下のもと、小学校の授業が続いていた。昼休み遊んでいると、突然校長先生が兵士とともにやってきて「次に名前が呼ばれたものは前に出る様に」と言う。彼らは知っている。このまま軍隊に連れて行かれて、前線につれられていくことを。お漏らしをする子供。逃げ出して射殺される子供。チャバは知っている。あと一年経って12歳になると自分も連れて行かれる。心情的にはゲリラ側にあるが、おじからもらったラジオで反戦歌を聞くだけでにらまれる環境の中、おおびらにそんなことはいえない。それでもはチャバの母親は、いつもひやひやしている。夜になっても家に帰らないと心配でたまらない。美しくて気丈な母(父親は米国に行って戻る気配は無い)は時々身を挺して子供を守る。青い宇宙に飛んでいくように見える、夜の紙蛍。屋根の上のキス。川遊び。授業中の伝言。忘れられない貴重な子供であるときのひと時。それが地獄のような戦場になっていく現実。この脚本はオスカートレスが実際の体験を基に書いたものだ。最後の最後で母親はミシンを売って、チャバだけを米国に亡命をさせる。弟が12歳になる前に迎えに来るように約束を交わし。思うに、その中で生きて生き抜いたものだけが、書ける描ける映画である。ほんの少しのタッチの差で、チャバは死なずに済んだ。そのことが、ひしひしと伝わってく。作品はリアリズムに徹して描かれる。泥雨の中の死の行進。ゲリラと政府軍の交戦。突然の死。80年代中米の現実。宗教はカトリック。言語はスペイン語である。すぐ隣にキューバがある。現在進んでいるラテンアメリカの反米化に対してエルサルバドルはその防衛線に当たるのだろう。91年和平合意に達しはするが、いまだ平和には程遠い。ただ、このような映画が出来ること、「モーターサイクルダイアリー」「レジェンド・オブ・ゾロ」みたいな作品が出来ることは、アメリカの中にこの動きが小さくない関心の的になっていることを推測させる。子供の兵士化。それはエルサルバドルだけの現実ではない。現在もおよそ30以上の紛争地で30万人以上の子供が兵士として働かされているという。頭上を流れ弾が飛ぶ中、ベッドの下に横になり爪弾かれる反戦歌「ダンボールの家」のギターの音が哀しい。リアリズムとリリシズムを融合させた見事な作品だった。
2006年03月25日
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ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!<日本語吹替版> 監督・脚本・製作 : ニック・パーク監督・脚本 : スティーヴ・ボックス アカデミー賞を取ったというクレイアニメの名作だそうで、期待大で行きました。恥ずかしながら、彼らのアニメを見るのはこれが初めてです。だめでした。私のクレイアニメの期待というのは、おそらくNHKの「みんなのうた」でよくする一つの物体が縦横無尽に変化していく面白さなのだろう。ところが、今回登場人物たちはほとんど変身しません。変身しても、クレイとして変身するんじゃないし、いつも同じ形です。あれなら立体アニメのほうがいろいろな実験が出来るのではないでしょうか。ウォレスの声が欽ちゃんで、欽ちゃんの顔が頭の中でちらついてアニメに入り込めないという思いもかけない事態もありました。トッティントン嬢が美人だという設定が許せない、という心の狭い事態もありました。話に感動的なエピソードがないし、展開が読めてしまうという致命的な事態もありました。グルミットの表情が非常に微妙で職人技だなあと感心もしました。エンドロールのうさぎのキスが可愛いと感動もしました。そんなこんなでクレイアニメ初体験を終わりました。
2006年03月22日
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監督 :スティーブン・ギャガン 出演 :ジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ジェフリー・ライト、クリス・クーパー、ウィリアム・ハート、アマンダ・ピート、クリストファー・プラマー 【SRYRIANA】ワシントンのシンクタンクで実際に使われている専門用語。イラン・イラク・シリアがひとつの民族国家になることを想定する、アメリカによる中東再建のコンセプト。アメリカによる中東政策はテロに対する正義の戦争に勝つことではなくて、中東における石油の覇権を、中国を出し抜き、いかに確立するかにあるだろう、というようなことは「世界でもっとも恐ろしいタブー、解禁」などと煽らなくても「ゴルゴ13」などを読んでいればおのずと分かることなのではあるが、この作品はその事実をもったいつけて描いているような気がしてならない。こんなに回りくどい描き方が果たして必要だったのだろうか。回りくどすぎてよく分からないところが散見するので、いい点数をあげれない。例えば、主要登場人物でのジェフリー・ライトの果たしている意義が分からない。なぜ彼が主役級で出演し、石油会社の幹部ではなく弁護士になるのか。彼と父親との関係がどうもよく分からない。父親と息子は最後は和解しているように見えるのは何故か。彼はこの陰謀の全体を果たして理解していたのかどうかがどうもよく分からない。ストレートに悪役として会社社長を登場させればよかったのに。もっとも、私の頭が悪いためであるという可能性はじつは70%ぐらいで思っている。ともかく台詞が多い。単なる台詞ではなく、専門用語が飛び交う感情表現の無い台詞で、しかもアラブ語やらいろんな言語をさらに翻訳してあり、TVの台詞もおろそかに出来ないし、もしかしら字幕に載っていない台詞に重要なものもあるかもしれない。雰囲気としては非常に緊密に作られている気がする。悪い点数を上げる勇気は私には無い。でもそんな理解困難な作品は映画作品としては、どうなんだろう。ジョージー・クルーニーはべつだん助演男優賞級の演技ではない。「作品賞は某大国の手前あげれないけど、何らかの賞は上げたい」と思う、アカデミー賞審査員の気持ちなのでしょう。あのときジョージー・クルーニーに囁かれた言葉は『ブッシュ』だ、と私は思ったのであるが、どうだろうか。
2006年03月21日
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「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」 監督 : アンドリュー・アダムソン出演 : ウィリアム・モーズリー、アナ・ポップルウェル、ティルダ・スウィントン、ジム・ブロードベンド、声の出演 : リーアム・ニーソン、ルパート・エヴェレット思ったほど悪くない。けれども「ロード・オブ・ザ・リング」が生涯ベスト10に入っている私にとり、この作品は到底そこに及ばないファンタジー作品であることは確か。何が気に入らないかというと、世界観の確立が中途半端なのである。イギリスの習慣である、お茶会もやっいるし、サンタクロースまで出てくる。兄弟間での党派争いまで反映している。そしてクライマックスにおける「犠牲」の意味は、あれで本当に納得できるの?私が子供だったら納得できただろうか。
2006年03月13日
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「イーオンフラックス」監督カリン・クサマ 出演シャリーズ・セロン、マートン・ソーカス、ジョニー・リー・ミラー、フランシス・マクドーマンドイオンで観ました(^^;)予想とおり、普通のSF映画です。見所があるとしたら二つ。一つは、シャリーズ・セロンがかっこいいこと。わたしはセロンのファンである。「モンスター」もだから特別の想いで観ている。この映画はしかし、彼女に過酷なアクロバット演技をさせ、さまざまなコスチュームと髪型を試させ、誰が見ても「すてきー」と思わせる映画になっている。彼女を見ているだけであっという間に90分が過ぎた。もう一つは未来社会の描き方。最初予告編を観たときは管理社会への批判かな(「ブレードランナー」)あるいはITの暴走か(「マトリックス」)と思っていたのであるが、そこまで風呂敷を広げていなかった。その辺りがかえって、あまりごちゃごちゃせず人間が描けてよかったように思う。2011年にウィルスによって人類が滅亡一歩手前まで行き、それから村社会みたいなドームで、400年過ごしたという設定なので、だいたい400年で社会はどのように変わっていくのかというひとつのシュミレーションになっており、それはそれで興味深い。生物学、医学、IT技術は驚異的に変わっているが、軍事技術などはほぼ現代と同じである。もし400年後に歴史学者が「古代映画論」を論じるとして、この映画のことを「この時代、生命倫理に対する人類の不安が反映されているようだ。我々の現代の常識からすると、稚拙さと偏りがある。だが、20%は予言めいて当たっていて、面白い。」などと評論しているかもしれない。もちろんその時代、人類は存続していると、仮定しての話ではあるが。
2006年03月12日
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監督 : ロマン・ポランスキー出演 : バーニー・クラーク、サー・ベン・キングスレー、ハリー・イーデン、ジェイミー・フォアマン 腹が空いて旅の途中で倒れて屍になることは、現在では考えられないが、昔ではよく見られたことなのだろうと思う。旅の枕言葉は草枕である。もっともオリバーの場合は、親切な人に助けられたり、不良の仲間に目にとまり屍になることは無かった。それが幸なのか不幸なのかは人によって意見は分かることなのかもしれない。現代の貧困は餓死ではない。けれどもお金のために人間としての当然の権利を侵害しながら働かせる仕組みは過去も現在も変わり無いだろう。そうやって見てみると、案外この映画に現代的意味は有るのかもしれない。「下流社会」といわれる現代。本当の下流とはこういうことを言うんだよ。とか。オリバーがあまりにも受身過ぎる、オリバーはなんによって幸福を得たのか。「運」なのか「オリバーの美しさ」なのかほかに有るのか、という辺りがこの映画でははっきりしない。よって、作品としてはイマイチというしかない。「戦場のピアニスト」にはこれを作らなければならない、という監督の執念があったが、この作品には感じられない。蓋し、この作品に不足しているものであろう。昔の裁判の理不尽さはよく出ていた。科学的捜査などは一切しない。「神の名において真実を述べたもの」の証言だけが決めてである。だから裁判長のさじ加減なのだ。この捜査がとのように発達していき指紋捜査に結びついていったかは、「指紋を発見した男」に詳しい。
2006年03月01日
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「ジャーヘッド」監督 : サム・メンデス出演 : ジェイク・ギレンホールピーター・サースガードジェイミー・フォックスルーカス・ブラッククリス・クーパー 「アメリカン・ビューティー(1999)」「 ロード・トゥ・パーディション(2002)」の監督の作品だということで、一応観てみました。この監督、アメリカがすきなんだろうな、と思います。そこで生まれ育っていく若者の未来が気になって仕方ないのだろうな。湾岸戦争で三ヶ月以上、砂漠に待機させられ、4日間で終わってしまった戦いを一海兵隊狙撃隊員の目から描く。モラトリアム人間を湾岸戦争という「退屈な戦争」にぶち込んだらどうなるかを丁寧に描いた作品。もちろん海兵隊だから卑猥言葉満載で、女性は顔をしかめるだろうけど、けれどもそれはたいしたことではない。海兵隊なので、新兵訓練の描写は一応あるけど、さらっと終わる。映画の間中、ラップ音楽やら当時の流行歌が流れるのであるが、大きな山場も無くさらっと終わる。蓋しベトナム戦争の描き方とは相当違う。途中、主人公はガールフレンドの気持ちが離れたのではないかと暗くなったり、仲間の兵士の妻は(おそらく夫お気に入りの「ディアハンター」のビデオに上書きをして)じぶんの不倫場面を兵舎に送りつけてくる。戦争の奥深くまで「家族」が入り込んでいる。朝、家を出て、爆撃をして夕方の食事までには間にあう様に帰って来る21世紀型戦争まであと一歩のところまできているのだろう。最終的に10数万人まで膨れ上がる連合国軍なのであるが、殴り込み部隊である海兵隊5000人は最初民間飛行機(可愛いスッチー付き)で送られる。なるほど、有事法制とはこういうことなのか、と少し納得。一応「フセインに武器を渡していたのは誰だ」というような視点はある。けれども政府の方針を批判する映画ではない。「ついに一発も撃つ事なしに戦争が終わってしまった」という、戦争に自分の生きる目的が見出せなかった若者の姿を描きたかったのだろう。その意味でラストがあまりにもあっさりしすぎている。ピーター・サースガードが死んだ理由ははっきりさせるべきだった。それとも私の観察力が弱いのか。ベトナム戦争の泥沼化、湾岸戦争の退屈、を経てあと5年もすると本格的なアフガン・イラク戦争を映画で見ることになるだろう。そのときこの「大義のない戦争」はどのような描かれ方をするのだろう。この映画はそのときのための序章だとしたら、一応存在価値があるかな、というぐらいが私の評価です。
2006年02月23日
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DVD「スーパーサイズ・ミー」 製作: 2004年 米 監督: モーガン・スパーロック 出演: モーガン・スパーロック 2002年、 ある肥満症の少女2人が、 『太ったのはハンバーガーが原因』だとして、 マクドナルド社を相手に訴訟を起こした。マクドナルド社側は『自社商品と肥満との間に因果関係は無い』とコメント。このニュースを見たモーガン・スーパーロック監督は、 果たしてどちらの言い分が正しいのか、 自身が実験台になって検証することを思い立つ。それは"1日3食×1ヶ月間、 ファーストフードを食べ続ける"という実験だった。30日後、 彼の体は、 一体どのように変化しているのだろうか…。このDVDを見た夜夢を見ました。しばらくやめていた運動を始めようとしていたらなぜか昔の上司が出てきて私をつめるのです。……どうやら、毒であると思いながら食べてしまうこの習慣が「追い詰められている」という感覚を生むのでしょうか。これはファーストフードを食べる実験なのだが、見ていると、自分の今の身体をどうしても気にしてしまう。今の食生活を続けることで10~20年間命を縮めているのを実感してしまう。でもこれを見ていると、アメリカは確実にマクドナルドによって小さいころから「洗脳」されているなあ、そしてその波を確実に日本も受けているなあ、と実感するのでした。
2006年02月21日
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年数回、ツタヤはメール会員にレンタル料を半額にするサービスをしている。近所のレンタルやではこのおかげで、一本の旧作が週105円になる。このチャンスを見計らって、借りることにしているシリーズがある。「24(トゥエンティーフォー)」である。これを観始めるとしばらく寝不足になる。1080分以上見ないと終わらないし、終われない。知っている人は知っていると思うが、米テロ対策室(CTU)に勤める主人公ジャック・バウワーが国家を揺さぶるテロ攻撃に対して反撃し、食い止め(ようとす)るTVシリーズである。第一シーズンは大統領暗殺、第二は核兵器、第三は生物兵器と次々とエスカレートしていき、今回観た第四にいたっては4種類以上のテロが連続的に起こる。今のアメリカにおける、テロに対する民衆感情が良く分かるシリーズで、「ミュンヘン」を見て心動かされた人、アメリカの世界戦略に対する国民の反応の一端を知りたい人、スパイ防止法をはじめとするアメリカの警察国家の威力を具体的に知りたい人には参考になるかもしれない。番組の中で、CTUはたった一時間の間にひとりのテロ容疑者の名前が判明すると、10分以内にその人物の全てを把握し、一時間以内にその人物の家に忍び込んでドンパチやって次のテロの標的を知るのである。そのハイテクのすごさ。全ての個人情報は政府の機関が握っているという印象。第四ではテロを行うのはアラブ人である。しかし番組の中では、アメリカ市民のアラブ人はそれに反発しているように「配慮」はしている。ただ、番組全体の印象は、まさに「戦時体制」とはこういうことなのか、というような内容だ。このシリーズで一貫して描かれるのは、法と国家の正義の関係である。これは簡単だ。時には法を犯してでも、国家の正義が優先される。ここは国民的コンセンサスが得られているみたいである。問題は国家の正義と家族の命が時々大いに対立する。ここで、バウワーや他の登場人物たちは大いに悩んでいる。しかし、大筋としては、国家の正義が優先される。第三よりも、第四のほうがそれは顕著である。第四は去年の製作である。イラク戦争に大儀が無いとわかった後脚本が書かれる、第五(現在アメリカで放映中)は一体どうなるのだろう。
2006年02月20日
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「プライドと偏見」pride and prejudice監督 : ジョー・ライト出演 : キーラ・ナイトレイマシュー・マクファディンドナルド・サザーランドブレンダ・ブレッシン 評判が良いので、何とか間に合ってみることが出来た。女性は財産相続権を持たず、職にも就けず、生きていく道は財産家の元へ嫁ぐしかなかった英国上流階級の話である。女の子五人姉妹の貧乏貴族であるエリザベスの家はだからパーティや舞踏会の情報、あるいは殿方の動向に常に気を配る。エリザベスとて、同じである。古いタイプの恋愛映画だと思い、食指は動かなかったのであるが、日本の時代小説同様、制約がきちんとしてあればあるほど、そこでの人間の行動は普遍的なものになるらしい。私はプライド=エリザベス、偏見=ダーシーだとばかり思っていた。ダーシーが最初貧乏貴族に偏見を持ち、エリザベスがプライドでもって反発するのだと。しかし、どうやら二人とも「プライドと偏見」で近づけなかったみたいである。現代でもそこかしこにある話だと思う。若い男女が見てもいい話ではあるが、出来たら若い女性は頑固な親父を連れていくと面白いと思う。きっとその日から父親は娘にやさしくなるだろう。ダンスシーンの長回し、英国の自然の照明の撮り方、見るべきものもたくさんあった。
2006年02月09日
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監督 : ジョン・マッデン 出演 : グウィネス・パルトロウアンソニー・ホプキンスジェイク・ギレンホールホープ・デイヴィス久しぶりに名優アンソニー・ホプキンスの演技を見ようと思った。ハンニバルのように知的で、しかもボケていく役というのは魅力的である。しかしこの作品はグウィネスのものだった。確かに納得のいく演技であろう。感情のひだまで見せていた。いや、見せすぎていた。まるで舞台のように。喪失感から自分を取り戻す、よかったね、と思う。ただ、彼女が(数学の証明以外に)何を証明したかったのか、結局わからなかった。数学つながりということで、次のレビューへ。
2006年02月08日
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「ミュンヘン」監督 スティーヴン・スピルバーグ出演 エリック・バナダニエル・クレイグジェフリー・ラッシュマチュー・カソヴィッツ1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック開催中に、パレスチナゲリラ“ブラック・セプテンバー 黒い九月”によるイスラエル選手団襲撃事件が起こる。人質となった選手11名は全員死亡。これに激怒したイスラエル機密情報機関“モサド”は、秘密裏に暗殺チームを編成、首謀者11名の殺害を企てる。リーダーに任命されたアフナーは、仲間4人とともに殺害を実行していく。スピルバーグだから何かやらかしてくれるのではないか、という期待で行くと肩透かしを食う。直球勝負である。サプライズは無い。全て想定内である。しかし退屈はしなかった。国家がらみのテロなので、もっと情報戦かと思いきや、なんともアナログなテロであった。テロの一部始終というのはやはり映像になるのだ。これはミュンヘン事件がきっかけとなったテロの応酬の話ではない。ミュンヘンの前に既にテロはあり、その後に永遠とテロが続いたのは既に全ての日本人が知っている。私は勉強不足で知らなかったのであるが、CMで流れるイスラエル側の首謀者の偉そうな女の人、あの女性、当時の首相だったのでしょうか。その映像をどうどうと流すということは、国家が行ったテロを今までのイスラエル国民とアメリカはずーと選挙で支持してきたということなのでしょうか。あの女性「全ての責任は私が負う」と断言していましたよ。それは世界の常識なのでしょうか。(誰か詳しいこと教えて欲しい。)でも私にとっては恥ずかしながらこのことだけはサプライズだった。体裁だけでも国家外の組織がやっていたのだと思っていた。一方のPLOは国としての体裁をまだもっていなかったし、アラファト等主流派がどれだけテロに関係していたのかは、これも私は知らない。見たあとにいろんな疑問が沸き起こる。もしかしたらこの映画はそれを狙っているのだろうか。ただひとつ分かることがある。これでは、決着なんて付き様が無いではないか。テロはテロを生む。一体どうすればいいのか。予想に反して、アヴナーはテロの最中は全然悩まない。彼は11人以外を巻きこんでテロを行ったので、悩むのではない。それはそうだろうと思う。戦争とはそういうものだ。悩むから心がすさんでいくのではない。悩まないからすさんでいくのである。最初と最後に割とあからさまなセックス描写が入る。(スピルバーグとしては初めての試み)「セックス=生」から「セックス=死」への転換を描いて狙い通りの映像であろう。そういえば、最終場面はニューヨーク摩天楼に聳え立つ「まだ崩れていないツインタワー」が映るのであるが、これも非常にメッセージ性の高い映像だった。
2006年02月05日
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「ロード・オブ・ウオー」監督・脚本 : アンドリュー・ニコル出演 : ニコラス・ケイジイーサン・ホークジャレッド・レトブリジット・モイナハンイアン・ホルム 特別調査官のイーサン・ホークはニコラス・ケイジに云う。「世界の平和を願うなら核の密輸を追えと人は言うかもしれない。けれども今現在世界の戦争で死んでいるのは9割は銃によってなんだよ。このAK47なんだよ。」ケイジは鼻で笑う。説明台詞の多い映画ではある。なにしろ80年代から2001年にかけての武器の密輸史なのだから。複雑な国際情勢を思いきり単純に説明する必要があっただろうし、必然的に台詞は増える。。(89年のベルリンの壁崩壊はぜんぜん触れずにゴルバチョフのソ連崩壊宣言を伝えるテレビにケイジが興奮してキスをする場面は秀逸)冷戦の終結でかえって武器「貿易」の自由化が進んだ場面であった。ケイジは何故かうまいこと尻尾を捕まえられずに行動する。死体や薬夾がごろごろしている土地に、スーツでアタッシュケースを持って立ち、「私は人を殺したことはない」などとのたまう。この映画にはそういうシニカルな台詞がちりばめられている。ケイジ扮するユーリーは実在の武器商人の幾人かの実態を繋ぎ合わせた人物らしい。と、なれば証拠を突きつけられて逮捕されても、すぐ「ああいう事態」になったということか。空しい。この映画のアメリカの興行成績はどのくらいだったのだろう。ひどく気になる。ちなみに岡山では倉敷movixのみの上映。しかも一週間目こそ日に三回上映だったが、二週間目は昼間の一回上映で打ち切りである。なかなか風刺の効いた作品ではあるが、下手にドラマ部分を作ってしまったために鑑賞後が散漫な印象になった追記今、哲0701さんのサイトを覗いたら、この映画のレビューとあわせて、三菱重工のホームページも紹介してくれていた。そこを覗くと、こんなに簡単に「きれいな」90式戦車の写真が拝めるとは知らなかった。岡山の日本原基地の戦車群を思い出した。この二月、日本原基地では、初めて日米共同演習が行われようとしている。まさか岡山県にアメリカ軍が来るなんて!!
2006年02月04日
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「亀も空を飛ぶ」製作・監督・脚本バフコマン・ゴバディ2003年3月イラク・クルディスタン、トルコ国境の小さなクルド族の村の約一ヶ月の寸描。乾いた土地、凍った山、抜けるような青空、埃と雨の村、難民たちを抱えて村の人口は膨れていた。そこへ両親を殺されたクルド族12歳位(推定)の少女と両手をなくした15歳くらいの兄、2歳くらいの赤ん坊が流れつく。この村を仕切っているのはアメリカかぶれで英語ができるために村人の長老も一目おかざるを得ない17歳くらいのサテライトである。半村良の「晴れた空」のように子供達は子供のみの裁量で戦乱が続く明日をくぐりぬけようとしている。サテライトはあの兄妹が気になって仕方ない。妹の方に恋をしたみたいでおせっかいをやく。しかも兄のほうは「予言する力」があり、サテライトはそれを信じる。少女はサダムの兵に襲われ、子供を生んでここへやって来たのだ。少女は子供を捨てたくて仕方ない。やがてイラク戦争が始まる。兄は戦争が始まること、戦争が終わることを予言できたが、妹が子供を殺して自殺することを止めることはできなかった。予言者は運命を予言できるが運命は変えられない。戦勝国アメリカのジープが通る中、兄はいずこかへ去っていく。サテライトに「あと275日後に何かが起きる」と予言を残して。イラクはアジアの国だな、と思う。上海や韓国の田舎町で見たような風景だった。決して過去の話ではなく、現在の世界の片隅で起こっているはずの物語である。サテライトはイラクのこれからを象徴し、(それはたくましいが、明るいものではない)少女はイラクのこれまでを象徴する。(決して笑わない少女のまなざし)赤ん坊は生き残らない。兄は運命を変えられない。大人たちは無力である。それでも危険な地雷除去をして仲介業者に国連犬の数十分の一の金しかもらえないと知りながら交渉で少しでも値が上がれば良しとしなければならないことを彼らは既に知っている。さらには掘った地雷で銃を買うすべも知っている。たくましく生きていく村の50~100人の子供たちが「世界の明日」を確実に作っていく。われわれは子供なのか、大人なのか。追記「275日」とは一体なんなのか。少し調べてみた。2003年5月1日のブッシュが勝利宣言した日から275日とすると、数があっているかどうかはわからないが、こういうニュースがある。「2004年2月1日、イスラム教の犠牲祭のさなか、アルビルで100人以上の死者を出した同時自爆テロが起こり住民の安心感は大きく揺さぶられた。」そのときサテライトや、シルクはどうなったのだろうか。ひとついえるのは、この映画はまさに5月1日から、275日の間につくられた、イラクの同時代史なのだ。片足が無い子、両手が無い子、目が不自由な子、彼らが普通に走っている。決してCGで作った映像ではない。イラクの南側で、アメリカ軍の手助けをすることが、日本のなすべきことなのだろうか、鋭く突きつけられている。
2006年01月26日
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「フライトプラン」先行上映で見た。この作品は、ミステリである。監督 : ロベルト・シュヴェンケ出演 : ジョディ・フォスター ショーン・ビーン ピーター・サースガード エリカ・クリステンセン突然の夫の死によって、悲しみに打ちひしがれた航空機設計士のカイル(ジョディ・フォスター)は、6歳の娘ジュリアと共に帰国の途に向かっていた。ベルリン発ニューヨーク行き、最新型エアジェット──だが、高度1万メートルの上空で、彼女の娘は忽然と姿を消した…。しかし、乗客はおろか乗務員の誰一人として、ジュリアが機内に存在していたことを認めない。必死に機内を探すカイル。その時、乗務員は彼女に恐るべき“真実”を告げる。FAXで送られてきた記録によれば、ジュリアは6日前に夫と共に死亡していたというのだ……。けれどもカイルには、娘がこの旅客機に搭乗しているとしか思えない確かな証拠があった!……というような内容は既に予告CMで流れているので、解かなければならない謎は、どうやって娘を消すことが出来たか、その目的は何か。ということだ。もちろん頭の片隅には、やはりカイルは精神の病で、実は飛行機にさえ乗っていなかった、などという夢落ちも考えていなければならない。(これをやってしまうと失敗作になるとは思うが……) 上の二つのことが解けたなら、犯人は当然絞られる。以下ネタバレではないが、ヒントがあるので消します。反転してください。あまりにも見え見えの伏線が張られてあるので、「この私でも」気がついた。謎解きとしては非常に弱い作品である。いかにも犯人らしき俳優を使ってフェイントをかけているのも、いやらしい。でも私ぐらいの頭なら、謎を解くのに一時間ほど使ったので、それなりに楽しめた。後の楽しみは最新鋭ジャンボ二階建て旅客機の様子が隅々まで分かるということと、「母は強し」のジョディー・フォスターの鬼気迫る演技であろう。でもそれはあらかじめ分かっていたことだ。前の「パニックルーム」でそれは充分見させてもらっている。私なら最後のところでもう一ひねりしたと思う。かって北村薫は「ミステリ万華鏡」でこういっている。「本格にとって、最も大切なのは、トリックでもなければ、論理でもない。その素材を扱う人間の心の震えである。それが物語と結びついたとき、《本格推理小説》が生まれる」この映画に心の震えはあるか。あるとすれば、事件が終わった直後にもって来るべきだった。かつて初期の宮部みゆきがいつもしていたように、事件が終わり、犯人が捕まった後に物語の真の主題が立ち上がるのである。セリフでほんの少しだけかすっている。でもあれでは全然説得力がない。真の主題とは「娘がさらわれるところを誰も気がつかない、という他人への無関心そのもの」(この部分は最も重要なネタバレです。未見の人は見ないように)なのだとしっかりと映像として見せるべきだった。
2006年01月21日
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(まずは映画と関係ない話から)皆さんはご存知でしたか?正規もパートも突然の一方的解雇なんて出来ないことを。残業が出来るのは36協定を結んでいる場合だけだということを。しかもその場合は25%以上、22時以降の場合は50%以上の割増賃金を払わなくてはならないということを。サービス残業は上司が黙認しても、法的に罰せられるということを。パートでも6ヶ月以上働いたら、10日間の有給休暇を申請できるということを。労働安全衛生法によって労使双方からなる労働安全推進委員会を開く「義務」があることを健康診断の実施も照明の基準(普通作業で150ルクス以上)も法律で義務つけられていることを労基法の基本を労働者も使用者さえも丸きり知らない人が多いということを。労働組合をつくろうとしたら名誉毀損で逆提訴されたり一年中、休みなしで働いて労働者使用者とも体壊すまでなんとも思わなかったことも。そんな事例、掃いて捨てるほど満ち満ちていることを 「スタンドアップ」(原題 North Countory)監督 : ニキ・カーロ出演 : シャーリーズ・セロン フランシス・マクドーマンド ウディ・ハレルソン ショーン・ビーン DVでシングルマザーになったジョージーは、ミネソタ州の鉄鋼山で働き始める。1989年。男対女の割合は30対1。職場では、男性社会に進出してきた女性に対する会社ぐるみの厳しい洗礼と、屈辱的な嫌がらせが待っていた。医者による妊娠診断からはじまり、卑猥な落書き、度の過ぎた悪戯、恥辱行為、レイプ未遂、会社の解雇勧告、守ってくれない労組……。モデルになったエベレス鉱山におけるルイス・ジョンソン裁判はセクハラ訴訟の嚆矢となった。セクハラが社会的に認知されたのはほんのこの10年ほどである。ジョージーは「これは女性みんなの問題よ」という。しかし誰も訴えでようとはしない。生活がかかっているからだ。かっこつけて出来る様な話ではない。シャリーズ・セロンは今回も堂々とした少しかっこ悪い母親役をやった。「ノイズ」みたいなつまらない映画でも彼女の顔を観ているだけで幸せな二時間が過ぎていた昔が夢のようだ。いまや押しも押されぬオスカー女優である。脇も渋めで固めて見応えのある二時間だった。今年最初の収穫。こんなことがあるから映画鑑賞はやめられない。単なるセクハラ裁判の話ではない。勇気ある人々の物語である。ジョージーは四面楚歌の中ひとり立ち上がる。途中、思いがけない人々が立ち上がるのであるが、私は泣いた。立ち上がる人々に泣いた。世の中きれいごとではやっていけない。でも黙っていてはもっとひどくなることばかりだ。私はついつい現代の日本社会のことを考えてしまう。労基法があるからといって単純な話ではない。はいそうですか、といって使用者は未払い賃金は払わない。労働基準局にちくる、労働110番に電話する、一人でも入れる労組に入る、ともかくも一人でも立ち上がれ、一人でも立ち上がれ、一人でも立ち上がれ。けれども一人では闘えない。
2006年01月15日
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年末年始に観た映画はことごとく外したみたいです。よって今回はさらっと書いておきます。「理想の女」(監督 : マイク・バーカー出演 : スカーレット・ヨハンソン、ヘレン・ハント )女は貞節に生きるべきか。奔放に生きるべきか。うーむ、なんなのだろう。だめでした。私ヨハンソン苦手なのかもしれません。なんか、かまととぶっている気がするんですよね。自分に身近な題材ではないからかな。「SAYURI」突っ込みどころ満載なのは覚悟済み。着物や小物はいいものを使っているんじゃないかな。むしろこれはハリウッドが見た中国の代表的女優の覇権闘争の物語なのではないかな。チャン・イーモウに見出されたコン・リーが次の女優のチャン・ツィイーにバトンを渡す映画。しかしチャン・ツィイーに精神の安らぎはない。それは彼女が選んだ道が芸者(芸で身を立てる道)であったから。ミシェル・ヨーは別畑だからむしろチャン・ツィイーに協力できたわけである。そう考えるとなぜ中国の女優が日本が舞台の映画に選ばれたか納得できる。もっともこれは「ハリウッドの見方」であって、実際の芸者の心の中が分からないように、彼女たちの心の中は分からない。「キングコング」これには期待していたんです。「男の純情」の物語だと思うから、コングに感情移入できるのではないかと。ところが、コング、純情すぎました。ほかの言葉で言えば、ほとんど子供です。ナオミ・ワッツきれいなんだけど、コングから奪い取るほどこっちには度胸ないし。(^^;)ずっと思っていたのは、なぜ今「キングコング」?ということ。結局、ピータージャクソンが一度の成功でわがままを押し通したということではないか。「ロード・オブ・ザ・リング」には現代的なテーマを感じたけど、この作品にもきっと環境破壊云々はあるのかもしれないけど、私はそのことについても共感できなかった。結局、ジャック扮するあの監督のように監督の壮大なる我がまま物語のように思えた。
2006年01月06日
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