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「シャレコウベが語る」松下孝幸 長崎新聞新書かなりマイナーな処から出ている新書なので読んでいる人は少ないと思うが、前作「日本人と弥生人」の内容をさらに深化させて、かつ読みやすくさせていた。2001年発行であるが、その間に土井が浜弥生人骨のルーツが中国山東省にあることを突き詰めたというのが、一番大きい。もちろん、それが直接祖先が中国からの渡来人であったというようなことは言っていない。それどころか、韓国の人骨はほとんど調べていないのが現状のようだ。著者は韓国には勒島意外には人骨が発掘されていない、などと言っているが、釜山大学にもあったし、ほかにもあったはずだ。勉強不足ではないか。面白かったのは、弥生時代の「殺人事件」を人骨の解明から推理したパート。土井が浜の124号人骨は以前よりも突っ込んだ推理がされていた。びっくりしたのは、14本もの鏃(やじり)が打ち込まれていた特異な人骨だというふうに展示されているが、当の館長は骨に総べて当っていないということで、実際は「体に打ち込まれなかったかもしれないと考えている」と言っている。そして、致命傷はここにはない鏃が頭に打ち込まれていたのである。それは鉄錆がついていたことで明らかになった。そして殺されて直ぐに顔面を破砕されている。これらのことから、シャーマンとしての責任を取らされたのだろう、と以前と同じ結論だった。もう一つ面白かったのは、青谷上地寺遺跡の脳が残っている人骨への所見だ。戦争があった、ということではなく、脊椎カリエスという病気を怖れて周辺地域の弥生人が全員を虐殺したという所見を述べているのである。傾聴に値する。紀元二世紀の遺跡だけに、これは一つの事件として覚えておくべきだと思った。
2011年12月16日
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「白土三平伝」毛利甚八 小学館四方犬彦氏の「白土三平論」が白土三平評伝の決定版だと思っていたのであるが、これはあくまで作品論であった。今年さらにその上を行く決定的に面白い本が出た。毛利甚八氏は「家裁の人」で知られるマンガ原作者であるが、千葉の白土家へ何度も足をを運び、白土氏から直接白土の人生を聞き、そしてなおかつ白土の住んでいた土地を調べて尋ねる、というドキュメンタリー作家の王道の調査を行った。実に面白い伝記評論だった。いくつか興味深かった点をメモする。戦前、プロレタリア画家の父・岡本唐貴は東京、大阪を転々としていたが、一時期大阪の鶴橋の近くにある朝鮮人部落にすんでいた。苦労して毛利氏はその地を突き止める。ここで幼い白土は高さんという人と仲良くなる。この辺りに、カムイ伝の被差別部落の原風景がありそうだと、毛利氏は考える。特に苔丸や竜之進が非人部落に逃げ込み、被差別の暮らしを身をもって体験し、自分の常識を高めていくというモチーフはここら辺りにあるだろうと。少年のころ、白土氏は「水中世界」という魚と漁をする人との葛藤の話を描いていたと言うのを聞いて毛利氏は思わず言う。「へぇ、そのころから弱者の立場から世界を見る視点は変わっていないんですねぇ?」白土氏は問われることが心外だという顔つきでこう答えたという。「だって、強い者から見る体験をしてないもの」社会への目覚めは早い。昭和21年(14歳)のころ、東京でアルバイトをしたりしているが、単独講和反対のデモに出かけたりもしている(19才のころ?)。そのころ、父・岡本唐貴もプロレタリア芸術運動の路線をめぐって仲間との乖離が進んでいたようだ。(「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房1983)日本共産党へ入党申請をしてなぜか申請を受け付けてもらえなかったらしい。どのような事実関係があったのかは不明だ。今では調べようはないかもしれない。1952年、20歳の登青年は血のメーデー事件の現場に居た。まるで白兵戦のような現場で、人が撃たれた所も見たという。「これは「忍者武芸帳」や「カムイ伝」にとって役に立った」と白土氏は証言している。確かに絵を描く人間にとっては決定的な体験だったろう。そして、ここまでの人生経緯がまさに父岡本唐貴(本名は登)の人生と瓜二つだったと言うことは、既に書いた。そういえば、白土三平の本名も「岡本登」である。そうやって、父から子へ「影丸」のように「サスケ」のように、「何か」が受け継がれていくことを「宿命」のように背負っていたのが、白土三平という人生だったのかもしれない。「ガロ」という雑誌名は白土作品の忍者名から取られたものであるが、我々の道という「我路」という意味合いがあった他、アメリカマフィアの名前も念頭にあった戸という。「カムイ伝」初期の小島剛夕との協力の仕方や、別れ方がこの本で初めて明かされていて、びっくりする。白土は岡本唐貴の血を受け継ぎ、長男家長の役割を生涯持った。その白土が今独りになっている。残念でならない。千葉の大多喜町に商人宿があり、白土がやがて「カムイ伝」の仕事場として使い、若きつげ義春が一人残されて大きく脱皮する舞台になったという。この商人宿がまだ残っているならば、せめて当時の風景が残っているならば、ぜひとも一度は尋ねて見たい場所になった。白土の「様々な人物やモチーフが重層的に描かれていく」長編小説の手法は、白土の口から出てきたこととして「戦争と平和」「静かなドン」を読んだ記憶から得ているという。「カムイ伝」第一部が終ったあとになかなか続きを書くことができなかった理由は度々証言しているが、今回一歩踏み込んだ発言があった。「情勢が変わってしまい物語を書きにくくなった。新左翼とかが出てきて状況が変わってきたし、共産国がうまくいっていないことがわかっていた。俺自身も、これ以上仕事をすると身体がぶっ壊れちゃうのが分かっていた」新左翼が「革命のバイブル」と持上げたのは、白土にとっては迷惑だったのかもしれない。また、おそらく共産主義的ユートピアの崩壊或いは北海道の地で僅かに実現、というイメージを第二部以降に持っていたのかもしれないが、それの修正を余儀なくされたのだろう。だから、我々は一生待っても、アイヌの蜂起に竜之進やカムイが参加するという物語は見ることができない、ということなのだろう。「主題はアイヌと組んで、いろんなことをやる群像が居て、一つのことを追求すると、多くのことが失われるというようなドラマを考えていた。その群像を持つ過去を描くのが第一部で、第二部はその人物たちの放浪と白いオオカミの物語を考えていたんですがね。」しかし、白土のドラマつくりの特徴は同じテーマが繰返し、繰り返し、現れるというところにあった。「カムイ伝」第二部の特徴は、毛利氏が述べているように千葉・内房の海に暮らした体験と教育論にあるのかもしれない。ただ、それからはみ出ているところが、実は白土の白土たるところなのだと私は思う。第二部はずっと雑誌で読んでいて、実は途中で単行本も買わなくなった。しかし、もう一度その全体像を再検討するべきなのかもしれない。白土三平という漫画家の全体像を、別の言葉で言えば、戦後マンガ史の全体を明らかにするために劇画界の大きな峰の全体像を明らかにするべき時期が来ている。この本はそのための、そのためだけの本である。
2011年12月10日
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「1億3000万人の自然エネルギー」飯田哲也 講談社前著「原発社会からの離脱」を読み終えて、対談なので充分に語りきれなかった飯田氏が提唱する自然エネルギー100%社会の実態を詳しく、分かりやすく紹介する啓蒙本が必要だという思いをしたのであるが、さすがにみんな考えることは同じだと見えて、既に10月にそういう本が発行されていた。まさに啓蒙本である。まるで絵本みたいに文字が大きくなっているが、大切な文は大きくして、データや説明文は図・表、小さい文字で賄っている。それによって、見た目よりも豊富なデータも載っており、一般人の啓蒙本としては、先ず必要な知識が得られるようになっている。おそらく、自然エネルギーの情勢は日進月歩であり、ここに書かれていることも、あと数年すれば大きく書き換えられるに違いない。一番書き換えられなければならないのは、日本における情勢であることは間違いない。これを読むと、再生エネルギー買取法が成立したとはいえ、このままではまだまだ飯田さんの提案の方向には舵を切っていない。アメリカだけを見ていてはダメだ。ヨーロッパの現実を見ながら、よその国の長所を取り入れて日本式のエコ社会を実現していくのは、できる。それは日本の得意とするところだ。一番の障壁は、政府の「意識」であることは、おそらく間違いがない。
2011年12月09日
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「原発社会からの離脱」自然エネルギーと共同体自治に向けて講談社現代新書 宮台真司 飯田哲也(2011年6月20日発行)大震災の後、トータル的に自然エネルギーについて語れる人はこの人しかいないという状態になって、ずーとマスコミに出っ放しになっている飯田哲也氏の震災後初めての本になった。時間がないから対談本になっているのは仕方ない。いつかきちんと整理した自然エネルギーシフトへの啓蒙書を出して欲しいと思う。対談相手は、私は初めてだが、社会学者の宮台真司氏。氏によっておそらく今回の対談は歴史的な広がりを持った。今回の原発問題が、何度も繰返してきた日本の社会システムの過ちをまた繰返していることが明らかになった。歴史の教訓からどのように未来デザインを描くのかをある程度は示した。今回の原発問題が、戦前の大本営の失敗の歴史的教訓をそのまま繰返していることには気がついていたが、その問題の本質に「官僚問題」があり、それは幕末から続いていることについては、今回初めて知らされた。またびっくりしたのは、お二人とも私と同世代の1959年生まれ。大学入学時代には、しらけ世代全盛期で、その中で違和感を感じ、(身動きが取れなかったのは私だけだろうけど)人生を模索しながら生きて来たことに共感を覚えた。飯田氏は特に理工系の学部に進んだけど、今西錦司ゼミの学生と付き合う中でどうも鍛えられたらしい。表立っては行動に移せないけど、議論だけはする雰囲気があった。それが後々、原子力村の中枢に入っても違和感を覚えてそこをステップに次ぎに移る素地になったようだ。以下、幾つかなるほどと思ったところをメモ。●【宮台】日本は、政治が主導的だった時代は明治維新以降、ほんの僅かな間しかなく、長く見積もって明治はんばぐらいまでしか続かなかった。それ以降は役人の力が巨大な官治主義が続きます。(略)大正になると政党政治つまり民治主義になるけど、政友会と民政党の政党争いの末、政友会が民政党浜口内閣のロンドン軍縮条約締結を統帥権干犯として批判したのを機に、軍官僚が総てを握る。(略)政治家と行政官僚はどこの国でも対立するわけですが、日本では圧倒的に政治家が弱く官僚が強いわけです。政治家の活動の余地は単なる利権の調整しかないので、ドブ板選挙をするしかない。政策にはほとんどタッチできません。●【宮台】自立に向けて舵を切ろう、アメリカに依存する国であることをやめよう。田中角栄はそう考えて、対中国外交と対中東外交でアメリカを怒らせる独自路線を走ろうとしたわけです。それが例の「ピーナツ」という暗号が書かれたものが誤配されて見つかったという発覚の仕方で五億円事件まで行く。(略)いろいろな政治家に聞いてもアメリカの関与は良く分からないのですが、「田中角栄のようなことをやってはいけないんだな」という刷り込みにはなりました。●【宮台】行政官僚には「無謬原則」がある。官僚機構の中では人事と予算の力学が働くので、「それは間違っていた」とは誰も言い出せない。これは大東亜戦争中の海軍軍司令部や陸軍参謀本部問題でもあります。●【飯田】世界では自然エネルギーへの投資額が毎年30%-60%ほど伸びています。10年後には100兆円から300兆円に達する可能性がある。20年後には数百兆円、今の石油産業に匹敵する可能性がある。日本はこの投資の1-2%しか占めていません。日本は「グリーンエコノミー」の負け組みなのです。新しい経済を生み出す側で負けてしまっている。一方で日本は化石燃料を年間23兆円、GDPの約5%を輸入しています(2008年)。石油、天然ガス、石炭です。(略)(石油と石炭の)二つが、今後貿易黒字を縮小させるなど日本経済の負担になっていきます。新しい経済の側でどんどんチャンスを失い、しかも日本の電力は石炭だらけですから、その石炭代と、それで増えたCO2を減らしたことにするためのクレジット代でますます電気料金が上る。原子力はコストパフォーマンスが極めてお粗末ですから、新しい原発はできず、稼働率は低く、事故だらけ。それをまた石炭で補う。という極めて暗い未来像になります。→常識的に言えば、自然エネルギーへの転換が、日本の未来にとって、中国対策にとってでさえも、米国支配からの脱却という面でも、ベストな選択だろう。芥川の「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である」という言葉が思い浮かぶ。唯一の心配は、飯田のこの試算がほんとうに正しいかどうか、ということだろう。●【飯田】霞ヶ関文学の本質はフィクションと現実を繋いでいく言葉のアクロバットです。●【宮台が飯田の半生を要約】p74
2011年12月07日
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「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」C.ダグラス・スミス 平凡社ライブラリー2000年発行、2004年文庫に収録された本書であるが、ここに書かれていることは、現代でも充分に通用する、どころか現代こそ大切な指摘が多々ある気がする。一章目において、著者は「タイタニック現実主義」について言及している。現実主義的な経済学者が「タイタニック」に、全速力と命令しようとしている。「スピードを落とすな」と。これがタイタニックの論理、「タイタニック現実主義」です。なぜそれが論理的で現実主義的に聞こえるのか。とても不思議なことです。ついこの前も、日本各地でこのような声が聞こえた。「(TPPという)バスに乗り遅れるな」。著者は言います。「『白鯨』の船長エイハブは自分の狂気を自覚していて、一等航海士にそれをこう説明する。「私の使っている方法と、やり方は総べて正常で合理的で論理的である。目的だけが狂っている」」思うに、目的を決定するのは、経済的智識や科学的思考ではない。ましてや、政治家や財界とのパイプでもない。豊かな教養に裏打ちされた「普通の感覚」なのではないか。つまり、私たちの直感を信じればいい。そうすれば、タイタニックは沈まなかったし、TPPでも歴史の批判に耐えうる決定をなすことができる、のではないか。以下、なるほどな、と思ったところはあまりにも多いのであるが、時間の許す限り書き写してみたい。●20世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった100年間は、人類の歴史にはありません。(略)ハワイ大学のランメルの「政府による死」という著書の中では、国家によって殺された人の数はこの100年間で、203,319,000、つまり2億人にのぼる。もちろんこの数字は大げさかもしれない。でも、大げさだから半分にするとしても、あまり結論は変わらない。(略)もう一つ驚くことがあります。それは国家は誰を殺しているかということです。(略)殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いのです。ランメルによれば、先の国家によって殺された2億人のうち、129,547,000、約1億3000万人が自国民だそうです。(p47-p48)●今の日本のいわゆる「現実主義」の政治家が、軍事力を持たなければ安全保障はできない、軍事力を持っていたほうが社会の安全を守られるといっているけれども、ではその根拠はどこにあるのか?証拠は?と聞きたいのです。頭の中の話ではなく、歴史の記録にある証拠はどこにあるか、ということを聞きたい。その証拠を見せて欲しい。日本の歴史で考えて見ましょう。日本政府はいつ一番軍事力を持っていたのか。軍事的にもっとも強かった時代は何年から何年までか、そして暴力によって殺された日本国民の数が一番多かったのはいつか。まったく同じ時代です。そういうことを考えるのが、現実主義ではないだろうか。今度は大丈夫だ、という根拠はどこにあるのか。その文脈で考えれば、日本国憲法第九条はロマン主義ではなく、ひじょうに現実主義的な提案だったと私は思います。(p53-p54)●貧富の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。(略)「正義」というのは、政治の用語です。貧富の差は経済活動で直るものではない。貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない。(p128-p129)●競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だと思います。暗黙のうちに存在する恐怖です。一生懸命働き続けなければ、貧乏になるかもしれない、ホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。(略)そういう恐怖があるのは、社会のセーフティネットが弱いからだと思います。(略)ほんとうの意味での安全保障(セーフティネット)のできた社会であるならば、その恐怖は減るはずです。その恐怖が減れば、健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか。(略)そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)」と呼んで見たいと思います。(略)すなわち一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれ個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。そして対抗発展の二つ目の目標は、経済以外のものを発展させることです。(略)経済用語で言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。(p138-p141)●20世紀、特に20世紀の後半には、第二章、第三章で紹介したような政治経済論が世界的な覇権をつかんで「常識」になりました。「正統な暴力」を独占する国家をつくって、安全と秩序を守ってもらう。そしてその国家を単位としながら、産業革命から始まった経済システムを世界の隅々まで広げる。この過程は1945年までは「帝国主義」と呼ばれ、1946年あたりから「経済発展」と呼ばれ、最近では「グローバリゼーション」と呼ばれている。(略)けれどもこのものの考え方はそのうち変わると思います。それは歴史の記録を見ればすぐ分かることです。覇権を握った「常識」はこれまでも変わってきた。だから経済発展の常識も暴力国家の常識も変わる。これから変わるというより、もう変わり始めているのです。(略)自動的に人間の意識が変わるとは思いません。もっと単純なことで、覇権をつかんだタイタニック現実主義にどんな力があろうとも、人間にはもう一つの、本来の常識が備わっている。そう信じたからこそ、そのような言い方をしたのです。誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている。幻想の中に居ても、その身に危機が迫れば、本来の現実主義に戻る能力を持っていると思うのです。(略)前に話したように、その変化が遅すぎて、大きな災難とともに訪れるのか、それとも積極的、意図的な改革によってなされ、それを回避できるのか、間に合うか間に合わないか、が重要です。ただ、仮に間に合ったとしても、人間が危機を意識し、産業資本主義、世界経済システムを変えることに成功したとしても、それは何かユートピアになるとか、地球を楽園にするというような、そういう甘い話ではない。それにはもう遅いのです。何年か前にある学生から聞いた言葉を借りると「放射能つきユートピア」しか成り立たないのです。災難はもう進んでいるわけですから、バラ色のユートピアの可能性は20世紀で潰れてしまった。しかし、この途中まで破壊された人間の文化、途中まで破壊された自然界にも、この破壊さえ止まれば希望は残っています。その希望は、文化と自然の両方が持つ大きな回復力にあります。(p223-p228)「誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている」私は去年の今頃、ソウル市の片隅にあるノリャンジンという受験生の寮が犇(ひしめ)いている処を歩いた。そこにあるのは、たった一畳か二畳の部屋のなかで何年も資格を取るために10枚27000w(1900円)の食券で何とか食いつないでいる年取った学生たちの姿だった。そんな部屋にさえすむことができない学生もたくさん居ると聞いている。若者の就職率、非正規率、ともに日本を追い越している韓国は、未来の日本の雇用状況だとも言える。外から見ると、韓国の酷さが良く分かるが、日本の現実に浸っていると、日本の酷さには気がつかない。でも、それはいつかきっと、みんなが分かる日が来る。既に今年、国民的体験で「現実的未来」は「放射能つき破滅」か「放射能つきユートピア」しかありえない、と分かり始めたように。
2011年12月06日
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前回岡山城下町を歩いたのは、学芸員の案内の下であったが、今回はこの本をタネに歩いてみた。今日歩いたのは、津山往来といって江戸時代山陽道のほかに岡山城下から倉敷方面に抜ける庭瀬往来と北の津山方面に抜ける津山往来があり、その入り口辺りを歩いたのである。シンフォニービルからオリエント美術館の西に下りると甚九郎稲荷がある。この名前のお方が相撲を取って橋を壊したらしい。つまり当時はこの辺りに堀があって小さな橋がかかっていたのである。現在天神山会館のある辺りは岡山藩の支藩の鴨方藩主の池田信濃守の中屋敷になっていたらしい。その周りをぐるりと堀がめぐっていた。その跡が今も公園や道路などになって残っているし、その当時の石垣も残っている。この堀から北側の弓町は下級武士のすむところだったらしい。岡山城下は基本的に1945年6月29日の岡山大空襲で焼け落ち、昔の建物、特に江戸時代の面影は見る影もないが、ここがそうだったのだと思って歩くと例えばこの昭和の雰囲気を残した弓道場の存在に気がつき、今は知らないが、この道場主の祖先は下級武士だったに違いないなどと思うのである。東に歩くと、津山往来の基点辺りに当る。この辺りに藩の御厩(馬を繋げて置く所)があった。出石町。この辺りは材木問屋が今も多い。商人の町だったのである。一つ路地に入ると、戦災を免れたところなので古い家がまだある。津山往来沿いに榎本神社がある。当時から商人の信仰を集めたらしく、尾張、摂津、讃岐、安芸、美作などの商人が寄進した玉垣が残っているらしい。1685年の石の手水鉢、1800年の石鳥居や、1860年の石灯篭などがある。国道を渡ると、番町に入る。この辺りは下級家臣の居住地。就実学園の道路を隔てた向かい辺りの小路に入ると、古い家も多いし、小道がどうやら江戸時代そのままの面影を残しているようだ。ここで行き止まりかと思えば、まだ先があり、結局階段を上って旭川に出ることができた。津山往来はこうやって旭川沿いに北へ繋がって行ったらしい。
2011年12月05日
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「報道災害【原発編】事実を伝えないメディアの大罪」上杉隆 鳥賀陽弘道 幻冬舎新書今年の三月から六月くらいにかけて、本屋の棚は活気がなかった。読みたい本が並んでいなかった。何の本かというと、言うまでもなく原発関連の本である。3.11から約一ヶ月、すべての国民が情報を欲していたと思う。もちろん、テレビは24時間震災と原発の番組をしていた。けれども、テレビは、そして新聞も、政府と東電の広告塔となっていたかのごとく、記者会見発表を鸚鵡返しのごとく、繰返していた。その後、後出しジャンケンのように、次々と前の発表が覆されていく。そのことを批判しながら報道した大手テレビと新聞はほとんどなかった。だからまとまった原発の情報が欲しかった。そしてメディアの嘘を暴く本も欲しかった。いま、本屋の棚を見ると、原発関連の本が所狭しと並んでいる。そういう状態になるのに約3-4ヶ月かかった。今までと比べると早かっただろう。しかし、ほんとうに必要な時にはなかったことを考えると、遅かったともいえる。この本はそういう種類の本である。とくに、3.11直後のマスコミのどうしようもない病根、記者クラブ制度について、徹底的に批判した本である。日本報道協会を立ち上げて、記者クラブを通さずに独自に記者会見を行う道を初めて作った上杉隆さんと元朝日記者の鳥賀陽弘道さんの対談形式で急遽作られた本である。対談なので、マスコミの嘘が一つ一つ精査されて時系列的に分析されて出てきているわけではない。特に上杉さんは、当初クラブ記者から「デマ」呼ばわりされていて、相当怒りながら話しているので、ずいぶんと話が飛んでいる。それでもその怒りながら話した前半のほうが、とっても面白いという種類の本である。新書は最近特にそうなのだが、特に今回は雑誌的な価値があると思う。けれども、この特別な時期に書かれた雑誌なので、資料的価値は高い。彼らの発言で記憶に残したい発言要旨を以下に羅列する。●震災当日の官房長官会見にフリーの記者は入れなかった。週一回金曜にはフリーも入れるようになっていたにも拘らず。そして入れるようになったのは、3月18日から、一週間に一回。●工程表をだせ、と質問する記者は一人もいなかった。フリーの我々がしつこいくらいに言ってやっと出た。そして新聞は一面トップで、何の疑問もなく載せる。一面に批判はぜんぜんしていない。たぶんニューヨークタイムズだったら、「こんな工程表は実現不可能だ」と書いているはずです。●今後20-30年間、日本の漁業は絶望的です。海洋投棄は、海は広いから放射性物質は薄まるというバカな事をメディアは言っていますが、小学生でも習う食物連鎖を知らないのでしょうか。アメリカで日本から食材を運んでいた高級店は潰れています。半導体産業も潰してしまった。半導体は放射能汚染されるとダメですから、すでに輸入停止になっている。●原発事故が遭った直後に調べたら、朝日新聞は50キロ圏外、時事通信は60キロ圏外に逃げているのです。この原稿は原発から50キロはなれた支局から書いています、とか正直に書いてくれればいい。自分たちは安全圏にいながら、「安全です」と書き続けるのは罪ですよ。南相馬市の市役所の皆さんは激怒していました。●大げさでなく、ほんとうに全部なんですよ。今ニュースになっている原発事故の案件、ほとんど全部フリーランスの記者たちの質問がキッカケなんですよ。二号機の格納容器の漏れ、ベントの遅れ。それからゴムが溶けたという案件、メルトダウン、炉心溶融、プルトニウム、海洋汚染、住民被爆、しかし、それはだれか政府高官や東電が積極的に発表したということにしちゃう。●日経の記者が実際に「勝俣会長様」とちゃんとマイクを通して会見の場で呼びかけています。日本インターネット新聞社の田中龍作さんが勝俣会長のマスコミ同伴の中国旅行について追及していたんです。マスコミ側が払ったのは、たった五万円です。そのとき、うしろから日経の記者が叫ぶんです。「独りよがりの質問をしてんじゃねぇーよ!」●今回の震災報道、日本の報道だけ見ていると、読者は「安全だなあ」としか思えない。●「情報を出さなかったおかげでパニックにならずにすんだ」なんていう人までいる。正しい情報が出されなかったために、正しい対策がとられなかった。とられた対策が適切なものかどうかも判断できなかった。そのために被爆してしまった人がいる。そんな事実よりも、「パニックにならずにすんだ」ことを喜ぶのはおかしい。●普通の国なら原子力災害時には最悪の事態を想定して国民の生命を守ることを第一優先にしますよ。そしてメディアのほうも東電や政府が隠そうとする情報があったら「なぜ隠すんだ」と追求するのが仕事なんですね。ところが、日本の場合は東電が嘘をつけば官邸も騙され、そしてそれをチェックする機関であるはずのテレビ・新聞も一緒になって騙される。●ぎりぎりだった自由報道協会の設立。立ち上げたのは、2011年1月26日。オープンな記者会見の場を作ることができた。これが2ヶ月遅れていたならば、震災後、権力側から何の情報も出てこなかったかもしれない。でもホントは、政府の記者会見が解放されそうだった、後もう少しだった。●いまはiPhoneとかアンドロイド携帯が一台あれば、簡単に生放送ができてしまう時代なので、時代が味方をしている。●小沢一郎が自由報道協会の記者会見に出てきた段階で、記者クラブの敗北になっていた。桂敬一さんが「ネットの強さですよ。だいたい勝負あったと思います」と言った。●記者クラブでは各社でメモを共有する。そしてそのメモがデマだったら、間違えて各社でデマを流してしまう。→これの最たるものが、9月の厚生労働相辞任のときに起こった。●4-5年前、朝日新聞の本社前の食堂で衝撃を受けた。労働組合のチラシに「今期マイナス1%を要求」と書いてあった。要するに労組が賃下げを要求した。1999年に会社に強硬な要求をした給与担当部長が突然組合自身によって解任されたのは、有名です。朝日は、原発がなくても電力が間に合いそうだということは言わない。その同じ論理で、今の購読料が適正料金なのか説明責任を感じていない。社員の平均年収が1300万円であることが適正なコストなのかってことも説明しない。株も公開されていないから、全く外部に説明しない。●具体的な原発報道災害の例は、先ずメルトダウン、情報を二ヶ月隠蔽したことでそこから推測される健康被害、人的被害を食い止められなかった。格納容器損傷についても同じ。汚染水も海に漏れている。そして放射性物質の飛散、3月15日の放射線量を発表しませんでしたけど、定点観測では毎時40マイクロシーベルトという強い数値が出ている。飯館村、福島、二本松、郡山、白河、伊達、全部15日までに急激に数値が上がって、今すこしづつ下がっている。
2011年11月25日
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【送料無料選択可!】春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと (単行本・ムック) / 池澤夏樹/著 鷲尾和彦/写真文学者の池澤夏樹が今回の震災に対してどのような言葉を紡いでいたのかを確かめたかった。理学部出身の池澤夏樹が今回の震災と原発事故に対してどのような知見を持っているか確かめたかった。池澤夏樹は震災の当日、高知県の田舎で一報を聞き、仙台の親戚の叔母のために情報を集め、やがて23日には仙台に行っている。その後、何度も被災地に取材とボランティアで訪れる。行動する文学者の面目躍如であろう。しかし、その中で生まれる言葉はそれほど衝撃的なものはない。私たちの知見とそれほど変わらない。そのことを私はとりあえず、確認した。そうか、この数ヶ月の震災体験というのは、「国民的体験」なのだ。この数ヶ月、何を見て、なにを感じ、何をしたか、ということは、これからずっと先、何十年も先、語り継がれるべきことなのである。もちろん、所々はっとするような言葉はあった。それならば、進む方向を変えたほうがいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代のほうへ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソーラーパネルを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデラート・カンタビーレの日々。それはさほど遠いところにはないはずだと、この何十年か日本の社会の変化を見てきたぼくは思う。(p97) これを機に日本という国の局面が変わるだろう。それはさほど目覚しいものではないかもしれない。ぐずぐずと行きつ戻りつを繰返すかもしれないが、それでも変化は起こるだろう。 ぼくは大量生産・大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しになることを期待している。 人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているものはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。(p112)
2011年11月23日
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「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房 (1983発行)この本をなぜ読もうとしたか。それはこの著者が白土三平の父親であるからだ。なぜ父親であるというだけで、読もうとしたか。それは、白土三平にとって父親はとても大きい存在であるのにも拘らず、ほとんど語られてこなかったからである。この本の存在を知ったのは、「白土三平論」(毛利甚平著)による。途中で図書館の貸し出し期間が終わったので、まだ半分くらいしか読んでいないが、初めて纏まった岡本唐貴の著書に気がついた。もう一つこの画家に興味を覚えた理由に、わが郷土の人だということがある。岡本唐貴が生まれたのは、現在の岡山県倉敷市連島町西之浦の腕というところらしい。西之浦は良く知っている。彼の実家はそこの地主みたいなところらしい(いつか調べようと思っている)。父親はそれを嫌って若いときから家に居つかず、職業を転々としている。おかげで唐貴(本名は登)は三歳のときから暫らく笠岡の海のすぐ近くに住んでいた。カブトガニ戯れて遊んだ記憶が鮮明なようだ。その後、長崎に行く。小学校は西浦小学校に入り、その後五年の時に常盤小学校に転校、すぐに西浦に戻りここで卒業している。彼はここの裏山から晴れている時は四国の剣山が雪をかぶっているのが見えたと書いているが、現在はその間に水島と丸亀の工業地帯があり、絶対に無理になった。小学校時代に絵の才能を自ら認めるようになる。しかし、絵が得意な子供は日本中に山のようにいる。私も小学校中学生のころ、絵が得意でいつも五段階評価で五だった。何が彼を絵描きに、しかもプロレタリア画家にしたのか。小学校卒業(1916)後は、岡山市つづいて神戸市に出て、父の家業に従事した。働くことは楽しかったが、父は家業に失敗し、倒産寸前に追い込まれ、古本屋を始める。それを唐貴にまかせた。1917年米騒動と労働争議を目撃。「兵隊が機械的に人を殺すのを見て、言いようのない驚きを感じた」と書いている。驚くのはここまでの経緯が、ほとんど白土三平と酷似しているのである。白土三平(岡本登)も、ものごころ付く時から父親のために引越しを繰り返し、貧乏な環境で過ごし、小学校卒業後から直ぐに働き出し、独り立ち、そしてほとんど同じころに「血のメーデー事件」に出会い、警官が人民を倒すところを目撃している。恐ろしいくらいに似ている。この経緯で思うのが、やっぱり「サスケ」で大猿と同じ道をほとんど疑問もなく歩むサスケの姿である。唐貴はよく働き、一家を支えるまでになる。その時、父が脳卒中で倒れ、なくなる。1919年唐貴はいったん病を治すために店をたたんで郷里に帰る。直ったころ、遺産分けで50円の現金を手にする。かれはそれで全部油絵の道具を買った。白土三平はこの年のころには既に紙芝居の仕事にかかっていた。物語を作る方向にいっていた事で、少し父親との人生と違いが出始める。祖父・叔父の仕事を手伝いながら、唐貴は小作人が年貢を納めに来た時の葛藤を体験する。唐貴は帳面を付けているのだが、「葛藤は米の計り方にあり、升目の微妙な計り方が地主対小作の暗黙のたたかいの場になった。斗枡と一升枡の計り方は息を呑むような微妙な呼吸で、米ツブの流し込み方、升のきり方まで、すごい緊張ぶりで私はほとんど感じ入ってしまったことであった。これは農村生活のもっとも基本的な社会的・人間的対立と葛藤の象徴のようなものであることをそのとき深く感じさせられた」と書いている。この文章は私は重要だと思う。当時、小学校卒業で働いていた少年は山のようにいた。しかしほとんどは社会主義者にはならなかった。しかし、唐貴はすでに神戸という都会で一つの店を立ち上げ、運営、終らす体験をしている。その上で、権力が人民を殺す場面も見た。その上でこの封建時代の象徴のような場面をじっくり観察できた。宮沢賢治が金貸しの父親の職業を直感的に人道的立場から嫌っていたのとはまた違い、唐貴の場合は明確に「階級対立」という眼でこれらの職業を観察していたのである。ここから「プロレタリア運動」へは直ぐである。ちなみにこの場面は白土三平の「カムイ伝」の中でほとんどそのまま描かれる。何処かで父親から話を聞いていたのに違いない。唐貴は画家を志して17歳で神戸に出て、友人浅野孟府に出会う。そして二人で東京に出る。中央美術展で「夜の静物」入選。また、「神戸灘風景」も入選して1922東京美術学校に入学、1923年関東大震災に出会う。駒込の友人宅で震災。一瞬外に出るのが遅かったら、家に押し潰されていたという。坊ちゃんの画家との比較については既に述べた。唐貴はデッサンこそ残さなかったが、比較的詳しくこの日のことを描写している。相当ショックだったみたいだ。短い間に目まぐるしく、描き方が変わったと告白している。暫らく神戸三宮に居て、三宮神社の境内のカフェ・ガスというレストランでサロンみたいな交流をする。アナキスト、新聞記者、学生、労働運動家、詩人、文学的サラリーマン、それに画家、演劇人。のちの書き方で唐貴はこのように自らの青春を総括している。「私は神戸で、少年時代労働者街の近くに住み、又青年時代に神戸の東西にある工業地帯で、大きなストライキに出会い、身近な人たちもそれらの動きとの関連があった。私は身をもって社会の底辺におかされたと覚悟した時、生きていく道は、階級闘争のあの生命力をつかむことだと深く感じた。私は三科運動の崩壊を必然と受け止め、方向転換を志した。 階級闘争の道による人間回復、個人主義から集団主義へ、ペシズムからオプチシズムへ、ダダ的な破壊から、絵画の新しい生命力の回復へ。」1926年、いよいよ彼はプロレタリア美術運動に入る決心をする。1928年、共産党大検挙の巻き添えで第一回目の検挙。1929年、岡山県立美術館にある大作「争議団の工場襲撃」(正確には本人による再生)が完成する。1930年唐貴、結婚。1931年、日本プロレタリア美術家同盟書記長。39年再検挙。共産党に入っていなかったので不起訴になった。そのあと、唐貴は小林多喜二の通夜に立ち会う。つまりは、そのようなところまで唐貴は入っていたということである。唐貴は三時間ほどで多喜二ののデスマスクを写生し終える。この絵はそのときの絵ではなく、この画集の為にもう一度思い出して描いたものである。1943年、唐貴はあと一年半だと考えて、家族と共に信州に疎開する。この辺りは、非常に正確な情勢判断だった。唐貴は決して政治的人間ではなかったが、生涯をかけて階級闘争を闘うことで当時の情勢のもっとも鋭いところに居たのである。ここにも、情報の多寡が情勢の正しい判断に必要ではないという見本がある。信州で長女が生まれたときの喜びを画集に描いている。唐貴は戦後を複雑な気持ちで迎えた。「私はプロレタリア美術運動の出直しを、より広汎なより健康な民主主義的美術運動としてやりたかった。ところがふたをあけてみると、政治色の強い民主主義美術運動であった。」唐貴は「中に入ってみなくちゃわからんだろ」という理屈の元に日本共産党にも入党するのであるが、結局約10年後には離党している。唐貴の言う「より広汎なより健康な民主主義的美術運動」の姿は抽象的であり、しかも戦後の高揚とレッドパージが準備されているあの状況下で可能だったのかどうかは分からない。ただ、今の状況下では可能だったかもしれない。唐貴の美術理論は探してみないと分からないし、専門ではない私には理解できない(一部だけ探して読んでみた)が、一旦党に入り、離党し、晩年になって穏やかにプロレタリア美術を一貫して追求したこの姿に、私はやはり白土三平の姿を重ねざるを得ない。唐貴はこの自伝をあらわして直ぐに他界した。
2011年11月16日
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「ヤマト王権はいかにして始まったか」唐古・鍵考古学ミュージアム 桜井市埋蔵文化センター 編本書は2007年10月に行われたシンポジウムをもとに加筆・訂正されたものらしい。新進気鋭の考古学者が集まっていたので読んでみたのであるが、非常に刺激を受けた。以下各自の発表論文の私的メモを羅列する。【石野博信】●池上曽根遺跡ではAD50に環濠の溝を埋めた。奈良盆地で大々的に溝を埋めるのはAD180くらい。つまり、纒向で「新しいマチ」作りが始まるのがこのころ。水路を作っている。(5m×250m)-基盤整備事業●纏向遺跡のピークは土器編年で纒向2と3、庄内2と3、布留1-4であろう。●纒向では生きている人間が墓を見守っているという構造になっているが、吉備では高いところに墓があり、居住地を見守っている。と、いうことは纒向のまだ見つかっていない宮殿等の都は東の山の高いところ、おそらく東大寺山古墳の辺りになるだろう。●銅鐸工人が鉄つくりに転職したのか●愛知系土器が一番多い。大和が戦争に勝ったから東海の人間が奴隷としてやってきたのか、あるいは大和が負けて東海の人間がやってきたのか。しかし、土は大和の土を使っている。つまりよそから来て住み着いている。●卑弥呼共立の主導者は、わたしは楯築の被葬者一族ではないかと予想しています。ただし、マチづくりは吉備と発想が逆転している。箸墓古墳【橋本輝彦】●前方後円墳を構成している属性はもともと近畿にはなかったものばかり。しいて言えば、周濠、二重口縁壺、三種の小型精製土器。●施設(巨大な墓と槨、聖なる空間、円礫・礫推)、呪具(巫女形、家形の土製品、弧帯文様)、墳丘(墳形、葺石、墳丘の巨大化)、立地(丘陵)までが吉備に備わり、北九州は副葬品は真似されている。また、葬送儀礼に関して供献土器にに丹塗りの土器が採用されている。ただし、段築は纒向ではホケノ、石塚、東田大塚ではあったが、吉備にはない。これはヤマト箸墓から波及した。これ以降、浦間茶臼山(岡山)、那珂八幡宮(福岡)、丁瓢塚(兵庫)に波及する。急勾配と盛り土は纒向の特徴。吉備は山の上になる。結論、吉備の力が前方後円墳の出現にかなりの力を与えている。●纒向の大型建物群築造は3C前半。この時期に纒向の中心人物が居たのだろう。そして廃絶は3C後半になる。50-80年の歴史だった。●纒向の歴史は、2C末から4C始め。約100年間だった。楯築遺跡の弧帯石【松木武彦】●五世紀において造山古墳のように近畿と肩を並べるような大古墳を作り出せたのは、三世紀に古墳祭祀が生み出せる時に吉備が大きな役割を果たしたという伝統的な威信が保たれていて、ヤマト政権の中での格式が高かったからだろう●環濠が廃れて墳墓へ←吉備では環濠らしい環濠はなかったのではないか●画期は三回。1、須玖岡本、三雲の甕棺墓2、楯築 AD150年前後3、箸墓 AD250年 楯築との間に、伝統、神話楯築は「突如として出現した」鏡がないという特徴があり、あきらかに北九州の系統とは違う。そして墳丘が大きい。おそらく「王の物語」があるはず。四隅突出墓と比べると楯築ほど、隔絶、飛躍していない。●p146の図46は興味深い。吉備中心部の3Cの集落がここまで明らかになっていたとは思わなかった。上東が一番中心部で、川入、加茂、津寺に次の集落がある。●唐古・鍵が大アーケード街とすれば、纒向は郊外のショッピングモール、新しい流通、交通、人の動き方の変化あり●「私は箸墓を卑弥呼の墓と考えていますが、卑弥呼は倭国の乱といわれる混乱状態の中から、各地の有力者によって共立された人物です。だから、その乱れたなかからの統一の旗印となるためには、正当性を主張しなければならない。そしておそらく正当性の源泉が、人々の記憶や神話や、当時なりの歴史のなかに残されていた、北部九州の王たちと吉備の楯築に葬られた王の後継者たることにあったのだと思います。(略)私は、北部九州の人が奈良盆地に入ってきて武力で制圧したとか、吉備の勢力がそのまま移ってきて箸墓を作ったのだとは考えていません。私はやはり箸墓は、奈良盆地の人々が中心になって作り上げたものだろうと思います。」●倭国王師升が楯築の被葬者か。中国に107年使いを送ったのであれば、ギリギリ間に合う。
2011年10月22日
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「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」広瀬隆 文芸春秋社160pに「ハリウッド王家の谷の人命禄」というのが乗せられている。全部書き写すと大変なことになるので、一部だけ。61年から82年にかけて癌でなくなったハリウッドスターと監督を並べているのである。61年 ゲイリー・クーパー(前立腺癌)62年 マイケル・カーティス監督(癌) トーマス・ミッチェル(癌)69年 ロバート・テイラー(肺癌)73年 ジョン・フォード監督(癌) エドワード・G・ロビンソン(癌)75年 スーザン・ヘイワード(脳腫瘍)79年 ジョン・ウェイン(腸癌)80年 スティーヴ・マックィーン(肺癌)82年 ヘンリー・フォンダ(癌)その数、なんと59人。これらはみんな、西部劇になじみが深い人ばかりだった。しかもおそらくこれは氷山の一角である。脇役や映画スタッフはここには載っていない。スターたちは基本、癌の死亡を隠したがる。衰えて死んでいったイメージを持って欲しくないからだ。だからヘンリー・フォンダが癌で死んだことはあまり知られていない。マックィーンは例外だ。癌との闘病がニュースになっていたから。そして、ジョン・ウェインも例外の中に入る。ジョン・ウェインはなぜ死んだか。西部劇の主なロケ地はネバダ、ユタ、アリゾナの三州だった。そしてネバダ核実験の主な被災地はネバダ、ユタ、アリゾナ州なのである。1951-58年にかけて、ネバダでは、大気中の98発の核実験が行われた。そんなとき、「征服者」という映画の一団がハリウッドから車を連ね、ユタ砂漠で二ヶ月の撮影を行ったのである。その時の主役がジョン・ウェインだった。当然近くの住民にも影響がある。しかし、そのことに気がついたのは、ずっと後だった。セント・ジョージの住人1200人近くが訴訟に立ち上がり、24人に絞って訴えたという。この本ではその結果は出ていない。広瀬隆の本を初めて読む。あまり科学的ではないが、無視できない内容。関係ないけど、図書館で見かけた猫君です。
2011年10月19日
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「方丈記私記」堀田善衛 ちくま文庫しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読み返させたものであったか。それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢しての我々日本人民の処し方、精神的、内面的処し方についての考察に、なにか根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすよすがとなるものがある、と感じたからであった。また、現実の戦禍に遭ってみて、ここに、方丈記に記述されている、大風、火災、飢え、地震などの災厄の描写が、実に、読むほうとしては凄然とさせられるほどの的確さを備えていることに深くうたれたからであった。またさらにもうひとつ、この戦禍の先のほうにあるはずのもの、前章および前々章に記した「新たなる日本」についての期待の感及びそのようなものはたぶんありえないのではないかという絶望の感、そのようないわば政治的、社会的変転についても示唆してくれるものがあるように思ったからであった。政治的、社会的変転についての示唆とは、つまりはひとつの歴史感覚、歴史観ということでもある。堀田善衛は「方丈記」という字数にして9000字あまりの文を、東京大空襲に遭った1945年3月10日から上海に出発する3月24日の間、集中的に読んで過ごしたという。ほとんど暗証できるほどになぜ読んだか。その説明が上記の文章である。ここに書いている「絶望の感」とは、具体的には、堀田が3月18日に出合った光景をさしている。1945年3月18日、堀田善衛は焦土の東京・深川をあてどもなくさまよい、冨岡八幡宮に出たところで昭和天皇の焦土視察に遭遇するのである。そこで見たのは焼け出された庶民の土下座であり、涙を流しながら「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました」という小声の呟きだった。堀田は心底驚く。その時の感想が以下の文章だ。人民の側において、かくまでの災厄をうけ、しかもそれは天災などではまったくなくて、あくまで人災であり、明瞭に支配者の決定に基づいて、たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがあるはずであった。(私は政治学に籍を置いていたことがあった)けれども、人民の側において、かくまでの災厄をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、と私にしても、何程かはやけくそに考えざるを得なかったのであった。前回に書いた新たなる日本が果たして期待できるものかどうか……。しかも人々のこの優しさが体制の基礎になっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないことになるてあろう。政治であって同時に政治ではない政治ほどにも厄介なものはないはずである。(p65-66)堀田はこれを「無常観の政治化」と呼ぶ。それは長明の以下の文章に直結するのである。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。これ以前の青年堀田は、すこしレーニンを齧り、天皇のいない日本を夢想していた。しかし、焦土の東京でそのような「新都」は夢なのだと悟ったのである。長明から受けた感覚というのは、そういう歴史感覚、「歴史というものがあるからこそ、我々人間が持たなければならぬ不安、というものであった」。少しわかりにくい。堀田はそこから考えを進めて、戦中戦後の「歴史の転換期」においては、常に「古京はすでに荒れて、云々」でしかない、つまり「歴史はそういう形でしか、人々の眼前に現出することができないのだ」と思い知るのである。堀田はもちろん、方丈記を戦中戦後の「転換期」のなかで「再読」した。それがゴヤの伝記等に結実したのだろう。我々には、また我々の課題がある。我々に課せられているのは、これまた、震災後の「転換期」のなかで、「方丈記」を「再読」することではないのか。原発事故があって、「たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがあるはずであった。けれども、人民の側において、かくまでの災厄をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、」今のところ、人民はホント「優しい」。期せずして、来年の大河は「平清盛」である。映像でも我々は平安末期の戦乱と、地震と、火災の災厄を見ることになるだろう。
2011年10月17日
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「慶州は母の呼び声」森崎和江大市の日は夕方までにぎわうので、下校のときに樹かげでしゃべり合っているアブジたちに会う。顔を赤く染めて三々五々に談笑していて、朝鮮人はほんとうに悠々と暮らすのだなあとおもう。スリチビに寄ってマッカリをサバルになみなみとついで飲んだ人たちだ。三、四人でチョッタ、チョッタと踊っている。夏も冬も。スリチビは飲み屋のこと。マッカリは濁り酒のことといつか私も知った。踊っているアブジのそばでは木につないでいた牛の手綱をといている人、牛車をがたがたと動かしている人、長い太った太刀魚の頭と尾を結び合わせて輪にして、チゲにぶら下げている人などがいる。そのかたわらを頭上に荷を乗せ、「何をぐずぐずしているの!」と言っている風情でオモニがどなっていく。ゴムシンに入った砂をぱたぱたと爪を動かして払い、去っていくオモニ。私はこの人々の間をかきわけるように歩いた。市の終わりはぬくもりがあった。チョゴリの襟元に覗く胸は男も女も日焼して厚い。1927年朝鮮大邱生まれである。殖民二世として17歳まで大邱、慶州、金泉で暮らした。まるで昨日見たかのように鮮やかに提示する戦前朝鮮の少女から見た景色があまりにも、鮮烈だった。おそらく戦後に、何度も何度も、知らずに育っていた植民地朝鮮での生活とはなんだったのか、自分に問いかけたのだろうと思う。そして詩人としての文章力がこの白眉の半自伝的文学を成立させたのだろうと思う。この本を読んでいると、戦前の朝鮮のぬくもりまで伝わってくる。幼年の眼から見た朝鮮と、少女の眼から見た朝鮮はまた違うが、そのために立体的な朝鮮像が浮かび上がってくる。この本は思わぬ収穫だった。この本を手引きにして、もう一度大邱(私は大邱を大邸と今まで書いてしまっていた。申し訳ない)と慶州に行きたいと思っている。大邸(たいきゅう)府三笠町というのが、森崎さんが生まれた町である。もちろん今はそんな地名はない。釜山の古書店に行けば、昔の地図はあるだろうか。彼女は鳳町小学校に通い、近くに新川、寿城橋がある。片倉製糸には友達がいる。彼女はその工場で年端も行かない少女たちが働いているのを見て心を痛めている。慶州では市街地を西に外れると、武列王陵がある。彼女の家族はそこにハイキングをしている。そこからはトガン山が見える。その麓に石窟庵があるという。市街地を越して雁鴨池の辺りに慶州中学校があり、彼女の父はその校長として赴任したのである。家族もその官舎に住んだ。官舎から東に行くとふん皇寺があり、三層の石塔がある。その先に小さな村があり、日本人もすんでいて、松永さんという人と親しくしていたらしい。そのように昔を偲びながら、あてどなくぶらぶら歩くのもいいかもしれない。
2011年10月13日
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「失敗学のすすめ」畑村洋太郎 講談社文庫大きな失敗が発生するときには、必ず予兆となる現象が現れます。ハインリッヒの法則に従えば、ひとつの大失敗の裏には現象として認識できる失敗が約30件はり、その裏には「まずい」と感じた程度の失敗とは呼べないものを含めて300件もの小失敗があるからです。(略)しかし現実には、こうした失敗の予兆は放置されることがほとんどです。なぜなら失敗は「忌み嫌うもの」であり、できれば「見たくない」という意識が人々の中にあるからです。(p89)この本には、いわゆる失敗の種類、原因、対策のほとんどが網羅されていると思ってよいだろう。たとえば、第三章「失敗情報の伝わり方、伝え方」のところでは目次だけでも、我々には「そのとおりだ」ということ、管理者には「耳のいたいこと」が並んでいる。曰く、失敗情報は伝わりにくく、時間が経つと減衰する。失敗情報は隠れたがる。失敗情報は単純化したがる。失敗原因は変わりたがる。失敗は神話化しやすい。失敗情報はローカル化しやすい。客観的失敗情報は役に立たない。失敗は知識化しなければ伝わらない。六項目による記述。当事者が記述できないときはどうするか。決して批判をするな。問題はこれをどのように生かすかにかかっている。私は著者が失敗を学門にまで高めた功績を認めつつも、もっと厳密にそれを実行することを求めるものである。それには理由がある。そもそも、この本を買ったのは畑村氏が菅元首相が組織した第三者機関「事故・調査委員会」の委員長に就任したからである。今年中に中間報告を出す予定になっている。この委員長はどこまで「頼りになる」か見極めたかったのである。この本を読む限りでは、未曾有の原発災害が二度と起きないための処方箋を畑村氏が強いリーダーシップで出し切ってくれるだろうと期待できる内容である。ところが、今はそれに私は懐疑的だ。この感想を書くに当って、調査委員会の動きを調べたが、ほとんど聞こえてこない。それどころか、第一回の6月7日の会合のときに畑村氏はこう言っているのである。「原因究明の動作ができなくなってしまう」として「責任追及は目的としない」としたのである!!!!なるほど、責任追及を始めれば、歴史的には中曽根や正力、あるいは安保体制そのものにまでふみこむ必要があるだろう。それは確かに難しい作業になるかもしれない。しかし、第七章「致命的な失敗をなくす」の章で著者は「リーダーにより失敗は三倍違う」とかいているのだ。リーダーの失敗を問わないで、どうやって本当に建設的な提案ができるというのか。私はせめて中間報告で、来春から始まるだろうストレステストに対して本格的な建設的提案をしてくれることを望む。
2011年10月12日
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「日本人と弥生人」松下孝幸 祥伝社この前の旅で土井が浜ミュージアムで様々な啓示を受けたため、もっと知りたいと関連本を買ったわけです。松下孝幸さんは館長です。専門は考古学ではなくて、形質人類学者である。ずっと考古学の本ばかり読んできた身にとって人類学が考古学の隣にいることを失念していました。本人は自らのことを「骨屋」と呼んでいる。もちろん誇りを持っていっている。「骨は美しい」のだそうだ。骨屋からみると、日本人や人類のいろんな面が見えてくる。ちょっと前までは顔の長い日本人は稀だった。だから、そのいい例として藤田まことさんのことをあげている。彼のデビュー時、「てなもんや三度笠」の売りは藤田まことの「顔の長さ」だった。しかし、晩年彼の顔の長さが話題になることはなかった。彼が変わったのではない。「はぐれ刑事純情派」に共演する真野あずさも充分馬面ではあるが、そういう顔は約15年間で普通になった。人骨で男女の性差を見極めるのは何処か。もちろん骨盤があれば一発だ。しかし、それ以外では頭蓋だという。眉毛の辺り、男性はこの部分が隆起していることが多い。またおでこが男性は鼻の付け根のところから後ろに向かって折れている。女性の場合は前頭部が膨らんでいる。これは子供も同じで、要するに女性は大人になっても頭の形が変わらないのだそうだ。また、全般的に女性の骨は角が取れて丸く、女性は骨になっても優しいのだそうだ。年齢は意外にも頭蓋の縫合の部分である。一般に頭は15種23個の骨からできている。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いにおいて、壮年、熟年、老年という感じに分類するのだそうだ。身長はどうするのか。全部の骨が残っていなくても、大腿骨から身長を測る「計算式」があるのである。死因の判定はどうか。残念ながらすべての死因はわからない。外傷や病気の痕跡、例えば脊椎カリエス、骨膜炎、梅毒、ハンセン病などである。将来はわからないといっている。私が一番聞きたかった部分では、DNA鑑定で親族関係がわかるのかどうか、ということであるが、この本の出版時94年ではそれは「将来の課題」ということになっていた。その他興味深いところでは、奈良・平安時代、人骨どころか墓地さえ見つかっていない。もしかしたら、奈良・平安時代は一般人は墓を作らなかったのではないか、ということだ。野垂れ死にみたいに「ほって置く」というのは考えにくいが「ほかに説明の仕様がない」のだそうだ。朝鮮半島だけでない、大陸から船で人が渡ってきたのは充分にありうると著者は言う。「実際には本の数日、長くても一週間ぐらい辛抱すればあっさりと日本についてしまっている」だからベトナムからの難民ピープルは水分補給としてスイカを積んでいたそうである。今回、北朝鮮からの脱北者は簡易エンジンがあったにせよ、5日で日本近海に着いた。風を読む知恵と度胸さえあれば、大掛かりな船がなくても大陸にはいけたし、来れた。そのことはやはり重要だろう。ただし、中国人の骨と縄文人の骨の相関関係は「ない」のだそうだ。著者も頭を抱えている。
2011年09月18日
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【送料無料】日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか著者は1950年生まれの哲学者である。釣りが好きらしく、田舎によく行っていたらしい。やがて群馬県の山村、上野村で東京と同じくらいの日数を過ごすことになる。そういう生活からひとつ気がついたことがあるらしい。1965年以降は、あれほどあったキツネにだまされたという話が、日本の社会から発生しなくなってしまう。それも全国ほぼ一斉にである。著者はその理由をことあるごとに山村の「かつてだまされた経験のある」人や「だまされたという話を人づてに聞いている」人から、聞いてみる。そして幾つかに分類してみせる。そこで浮かび上がるのは、単なる田舎の文明化とか、環境破壊だけにとどまらない、日本人の精神構造の変化を感じ取るのである。例えば著者は1965年の革命をこのように整理する。ひとつ、高度成長期の人間の変化である。「人間が経済的動物になった」「経済的価値があらゆる物を優先する価値になった」ひとつ、「科学の時代」に対する人間の変化。キツネにだまされるのが当たり前の話から迷信へと変わっていった。ひとつ、コミュニケーションの変化。電話とテレビである。情報は全国一律の、しかも時間差がなく伝えられるものになった。ひとつ、教育の向上と共に起こった村人の精神世界の変化。必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになったとき、「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化していった。ひとつ、死生観の変化があった。都市の様に死が個人のものになっていった。伝統的な死生観は、死ぬと魂は村にとどまる、という考えが薄れていった。その結果、響きあっていた自然、あるいは自然の生き物たちとの結びつきが変わったとしても、それは当然の結果であろう。ひとつ、自然観の変化自体があった。かつて日本では自然はジネンと発音されていた。(略)ジネンはオノズカラ、或いはオノズカラシカリという意味の言葉である。今日でも私たちは「自然とそうなった」とか「自然の成り行き」という表現を使うが、(略)自然に帰りたいという人々の伝統的な思いはシゼンに帰るということより、ジネンに帰る、つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったということがわかる。オノズカラのままに生きたい、ということである。ここまでは、「人間のキツネにだまされる能力が衰弱した」という説である。ひとつ、キツネの側も変わったのかもしれない。1956年からは「拡大造林」という新しい形式が導入された。天然林を伐採し、跡地にスギ、ヒノキ、カラマツ、アカマツなどの苗木を植え、育成していくもので、この森の変化が「人をだますことの出来る」老ギツネが暮らせない時代を作りだした。焼畑も消滅した。野鼠や野うさぎを獲るために養殖ギツネが放牧されたことも影響しているかもしれない。おそらく、これらの説のすべてが「キツネにだまされることのなくなった」事の理由なのであろう。著者の論理展開は一部強引断定的なところがあり、私は全面的に賛成できないのだけど、先に人類学的に見て日本では史上類を見ない急速な骨格の変化がちょうどこの頃に起きていることからも、1965年を堺に全国的に「キツネにだまされる能力」を日本国民の共有的な能力として喪失したことに、私は同意するものである。実は、この本を読みながらしきりに、昔大学時代、常民文化研究会(民俗学研究会のようなもの)というサークルで民俗調査をしていたときのことを思い出していた。あのとき、1981年の夏のことだけど、ふと村人から「じつはね……」と教えられたことがサークル内では後々までに話題になったものである。「あの家はキツネつきの家だったんだよ」。そういうものが信じられていた時より、15年経っていた。ならば、そのような形で聞くことは充分にありえただろうと思うのである。また、あの村に行きたい(ホントは台風がなければ、行く予定だった)。しきりに思った。
2011年09月09日
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今年も岩波文庫「読書のすすめ」をでいただいた。毎年この時期に呉れるのだと実は今年気がついた。気がついたときには既に第15集に入っている。こんななんだったらきちんと取って置くんだったと今思う。もちろん寄稿人によって当り外れはあるのである。それだけではない。今回冨岡多恵子さんが書いているのであるが、「こういうひとたちの読書のすすめ、あるいは読書法が、本など読まなくても心身健康でマトモに生きているひとにははたして役に立ってきたのかどうか。本が常に必要で、いわば本に密着して生きる職業の人の本談義は、たとえば大工さん―本職が仕事で使っている鑿(のみ)や鉋(かんな)の使い勝手や銘柄を素人にあれこれいうようなものではないかという気もする。」この言葉には共感する。私は最近必要があって「鏝」という漢字を初めて知った。荒鏝、ブロック鏝、煉瓦鏝、塗りつけ鏝、仕上げ鏝、目地鏝……、そんな言葉は50年生きていて、必要なかった。それでも生きていけた。世の中には読書を必ずしも必要としない人もいるのだということは、いつも頭の隅に持っておく必要がある。私のような別に「本に密着して生きる職業」ではなくても小さい頃から常に本が友達だったような人種は別である。私にはあり難い無料本なのである。今回赤川次郎さんがこんなことを書いている。これまで若い世代の人々に、私は、「読書は人生の予防注射になる」と言ってきた。(略)必要なのは「強さ」ではない。時として打ち負かされ、絶望しても、またそこから立ち直る「しなやかさ」である。けれども、私ももう63才になった。「人生の予防注射」は必要ないだろう。むしろこれからは、今までの人生で埋められなかった隙間を埋めていくような読書がしたいと思っている。私はどっちのために本を読んでいるのだろう。あいかわらず、手当たり次第の濫読はやめれそうにない。でもそろそろ、隙間を埋めていくのもいいかもしれない。煉瓦やブロックは綺麗に正確に積むことだけが重要なのではない。最後の目地仕上げが綺麗かどうかで全然仕上がりが違ってくる。目地鏝で僅かな材料を掬い取り隙間を埋めて綺麗に仕上げる。というのもなかなかな「仕事」なのである
2011年07月01日
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「清冽 詩人茨木のり子の肖像」後藤正治 中央公論社Yー夫の安信への愛情は、終生変わることはなかった。それは茨木の死後刊行された詩集「歳月」の中に詰まっている。この評論の中に、茨木の未公開日記の本の一部が紹介されている。それを読んで「なんて美しい日記なんだ」と思った。引用を始めたら膨大な量になるので省略する。茨木の強い意向で、葬儀、お別れ会、詩碑などは断ったという。茨木は葬儀が嫌いだった。「日々の出会いを雑に扱いながら、永訣の儀式には最高の哀しみで立ち会おうとする人間とは一体なにか?席を変えてお酒など飲むときもしみじみ故人をしのぶでなく、仕事の話、人々の噂で呵呵大笑、あっけにとられるばかりである」だからである。「永訣は日々の中にある」というのが信条だった。そして、密葬のあと知人の向けて二百数十通、事前に茨木が準備していた「別れの手紙」が郵送された。見事だった。私もこんなふうに死んでいけたら、とふと思う。死んだら誰かに頼んでブログに「別れの記事」を用意しておこうかしら。詩と人生がイコールで結ばれるだけではない。茨木の少女時代からの知人に、重ねてどんな小さなことでもいいから、とこのように聞いたという。「茨木の詩と茨木その人との乖離を感じたことはありませんか。また宮崎医院に住んだことにかかわって嫌な思いではありませんか」両人は頸を振る。まったくないと断言する。そう、彼女には正しい意味の品格があった。同人誌「櫂」のなかまたちは彼女の品格を愛した。現在数少ない同人の生き残り谷川俊太郎にインタビューしている。「茨木さんは一貫して自分と向き合い、きちんと書いてきた詩人ですよね。社会とも向き合ってきた。それは彼女の美質だけれど、表現されるものもまた行儀がよくて、パブリックすぎるといか、へたをすると教訓的になってしまう。」一方、谷川の元妻岸田衿子はこのように言う。「難解な現代詩の中で茨木さんの詩は平易で分かりやすいといわれてきた。でも実は、深いものを分かりやすく書くのが一番難しい。(略)一方で、わかりやすそうで難解という詩も茨木さんにはある。」茨木はカタブツ一筋というのではなかった。ユーモアを好み、自身を嗤う精神に富んでいた。人として可愛げがあった。それは散文にも見られるし、詩にも見られる。生前茨木の出した詩集は八冊を数えるのみである。谷川俊太郎などを除けば、一般的に詩人とは到底職業として成り立つものではない。夫・三浦安信の遺族年金が月十万ほどあったらしい。不足する生活費を文筆業の収入によってまかなうことを茨木は生涯維持した。親族の援助は一切受けなかったという。純然たる詩人では稀有のことだと後藤は言う。「清冽」という名をこの評伝につけた後藤さんの感覚を私は支持する。現在、NHK朝のテレビ小説で「おひさま」のヒロイン陽子さんのモデルは実は茨木のり子ではないか、と私はひそかに思っている。二十歳で敗戦、それまでは軍国少女だったけど、豊かな感性とまっすぐな気性は生涯変わらなかった。鶴形荘内の出の母親が結核で亡くなるのが、のり子十一歳のとき。父はあかひげ的気質を持つ医者で、仲のよい弟は医者の道に進む。幾つかのところは違うが、いくつかのところで重なっている。育ちのよさと、まっすぐなところが茨木を見るような気がしてならない。ついついまた見てしまいそうである。
2011年06月15日
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「清冽 詩人茨木のり子の肖像」後藤正治 中央公論社今年前半で一番感銘を受けた本になった。初めての茨木のり子の評伝である。十三章からなり、一章一章にかなりのページ数を割いて茨木の詩そのものが載る。それが全然手抜きに感じない。後藤正治は茨木の詩をよく読みこんでいるし、文章そのものがたぶん影響を受けて簡潔にそして核心を衝いて書かれている。去年の秋から今年にかけて文庫版の「言の葉」全三巻が刊行された。私はこれが茨木の全集そのものなのではないかと思っていたが、どうやら間違いだったようだ。茨木は生前全集を編むことを出し渋ったという。これも不十分、これも恥ずかしい……。そういって当初の全集の企画がずいぶん削られて自選集になった。それは、茨木の自身にたいする厳しさであった。茨木のそれは変わらぬ資質なのであった。事実、茨木の書いた総ての詩で、大げさに書いたり、事実でないことを書いたりしたことないと私は確信した。君が代に対しては「私は立たない 座っています」もそうであるが、「ビデオデッキがない/ファックスがない」し、夫安信に対する純愛も「一人の男(ひと)を通して/たくさんの異性に逢いました」し、「じぶんの感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」の厳しさも、真っ正直に自分を律しているのである。天皇のこの発言に関して茨木は「四海波静」を書く。「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる(略)野ざらしのどくろさえ/カタカタと笑ったのに/笑殺どころか/頼朝級の野次ひとつ飛ばず/どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット/四海波静かにて/黙々の薄気味悪い群集と/後白河以来の帝王学/無音のままに貼りついて/ことしも耳をすます除夜の鐘」茨木にしては、きつい表現である。それほどに戦争は茨木の原点だった。「私が一番きれいだったとき」への自分自身への厳しい想いを生涯持ち続けた。ただ、この詩に関しては、天皇よりも矛先はあまりにも反応がなかった「群衆」に向けられている。どうして狂歌のひとつも出てこなかったのか、この問いは実は現在にも続く問いである。ふと思い出す。私も天皇死去の際のマスコミ報道に疑義を抱いて当時働いていたところの機関紙に「もう二度と元号は使わないだろう」等々の詩を載せてもらったことがある。私にはお咎めはなかったが、機関紙担当者は大目玉を食らったらしい。それはそうと、私はその後結局元号はどうしても使わざる得ないときには使ってしまっている。茨木さんのように、自らの発した言葉を練りに練って責任を持つということは出来ていないのである。意外な一面に、買い物をするときには、服なんかは「私これにするわ」とあっさりスパッと決めるらしい。私の買い物は、たいていはああでもないこうでもないと、時には半年か、PCなどの高額になると三年以上買おうかどうか迷うのと対照的である。茨木の気質は厳しさであるが、もうひとつの気質は初々しさだという。「汲む」という詩で「夕鶴」の山本安英に影響された経験を詩にしている。「初々しさが大切なの/人に対しても世の中に対しても/人を人とも思わなくなったとき/堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを/隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」と山本に言われそれが生涯の気質になった。「すべてのいい仕事の核には/震える弱いアンテナが隠されている きっと……」もう少し書きます。
2011年06月14日
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「愛と美と文学-わが回想-」中村真一郎 岩波新書1989年の発行である。そのとき私はちょうど次々と発刊される加藤周一著作集(平凡社)を追っていた。当然のことながら、中村真一郎は数少ない加藤周一の友人であるということは知っていたので、本屋で手にとった覚えがある。ところが、加藤の共通の友人である福永武彦のところは大きく筆を割いているのにも拘らず、加藤周一のところはどれも一二行で終わっていたのである。私は資料性の無さというよりも、加藤のために憤慨して本を買うことはなかった。あれより22年たち、中村真一郎はむろんこの後数年し逝き、加藤周一も二年と少し前になくなった今、もう一度この本を紐解いた。いや、初めて紐解いた。やはり加藤周一が認める文筆家だけあって、加藤が新書二冊かけて綴った伝記「羊の歌」が1960年で終わっていたのに対して、同年代の中村はたった一冊で89年までを書ききった。簡潔にして的確、稀代の文章家ではある。中村は生涯二回深刻な神経症を患うほどに繊細な神経を持っているが、一方でそんな自分を生涯にわたって分析してきたらしい。後に加藤は中村の「四季」四部作の完成を評して、「荘周胡蝶の夢」の故事を例にひいて「中村がこの小説を書いたのか、この小説が中村の人生を作ったのか」と言ったらしい。中村も「これはまさに肯綮に当った知己の言で、この全体小説は私の一生と一体をなすものである。私はこの作品を書き上げるために、人生を生きたのである」と書いている。現在偶々(たまたま)私小説巷間(ちまた)に流行るが、中村の場合は全体小説と謂う。「年表を広げながら外界の社会情勢と物語の中の事件とを関連付けた展開を行うことは止め、事件そのものをちょうど現実の経験が記憶の中に生きている状態を模倣するように描く」外界の社会情勢を眼中に入れない私小説とはおのずから大きく違う小説家である。それが成功したか、失敗したかは知らない。しかし、青年時代から30年以上かけてこの小説のためにメモを溜めていたというのだから、壮大な大河小説だったことだろう。また、そのことを言い当てた「古い仲間の加藤周一」を紹介することで、私は中村における加藤周一像の一端を知ることができて、満足だったのである。この自伝でも中村は「中学時代に世を去った父」のことを「封建的貴族的感情と近代市民精神との極端な対立を、矛盾としてでなく調和として生きた、近代日本独特の人物だった」と分析し、自らの人格形成に決定的影響を与えたことを認めているのである。中村真一郎という文学者の入門書として、あるいは、しばらくその文学に耽溺したあとの重要な自伝として、この冊子は重要な位置を占めると思う。私はあくまで、暫くは加藤周一に耽溺しておきたいので他にもいろいろと面白いところ(現代の貧困問題を言い当てているところとか、色好みの裏話等)はあるのだが、ここまでとする。
2011年05月24日
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「苅谷俊介の考古学対談」新日本出版社俳優(悪役が比較的多い)苅谷俊介が、玄人はだしの考古学ファンだということは知っていたが、その実力は良く知らなかった。この本を読んでみて、玄人はだしではないと思った。アマチュアの顔をした専門家である。専門的知識は学位論文もものにしているだけあって、充分学者になれる。しかし、立場はあくまでもアマチュアだから、「箸墓は卑弥呼の墓だ」と断定してはばからない。この本の凄いところは、1999年から2005年まで考古学者との対談を載せているのだが、所謂この時期の代表的な考古学者は網羅しているということである。成果を挙げ、名を上げた学者を此処までそろえる対談はこの本だけだろう。すこし、考古学をかじった人が見たならば、みんな肯くとおもう。大塚初重、森浩一、小林達雄、河上邦彦、金関恕、戸沢充則、西谷正、石野博信である。あと五年、いや二年企画が早ければ佐原真がこの列に加わっていたのは間違いない。対談の前半時期にはまだ存命だったのだが、佐原真はすい臓癌と闘っていたため、苅谷さんも対談は遠慮したのだろう。以下、防備禄である。●(苅谷)まきむく石塚古墳は、もともとは陸橋部つきの円丘で、馬蹄形の周溝があって陸橋部を前方部として区画した。箸墓も方形壇付円丘であったものを前方後円形に作り変えたのではないか。箸墓の後円部から出てくる特殊器台型埴輪と前方部の二重口縁壺の年代差はお祭の時期の差である。したがって、二回目のお祭に前方部をつけたのだろう。●(苅谷)考古学の定義を変えて欲しい。過去の遺物から過去の人間の生活・文化様相を探る、というだけでなく、それを未来の人間の指針になる、未来にどう提言するのかが、考古学本来の目的であるということを新たに定義してくれると、遺物の見方も変わってくると思う。●(小林達雄)一万年以上続いた草創期から晩期まで全縄文時代を通じて、各地に約75の土器様式の盛行と消滅および変遷があります。その分布圏の境界を見ると、大枠で今日の東日本、西日本の区分や方言などの言葉遣いのまとまりと重なります。●(河上邦彦)昔は前期古墳の始まりを四世紀中ごろあるいは初めと考えていた。しかし、ここ二十年前くらいから三世紀末と考えるようになってきた。前期が百年以上続いたことになる。そのなかで「石囲い木槨」や変化にとんだ埋葬施設があった。ホノケ山が三世紀前半から中ごろまで、中山大塚が三世紀後半から末、黒塚が四世紀初頭に造られ、そのあとに下池山が築造されたらしい。(苅谷)前期古墳の共通性は、長い木棺を使い、粘土床を使い、副葬品を大量に入れる。その前段階のホノケ山の木槨(石室の代わりに木で部屋を作り木棺をいれる)から石室に移るときになにか政治的なことがあったのですか。(河上)その変化はどのような理由かは分かりませんが……。(苅谷)そこに最古級の前方後円墳の箸墓古墳が卑弥呼の墓がらみで注目される(笑)。(石上)全長280mの箸墓が最初の巨大古墳として現れます。それが三世紀中ごろから後半です。ホノケ山が80m。ですから箸墓を契機に埋葬施設が変わったとも考えられます。(苅谷)その変化には、ヤマト政権の確立という大きな政治の動きが背景にあったのでしょう。(石上)政権を「芽生えー発展ー確立」期があると考えると、箸墓段階は発展期に当る。ホノケ山はその前の段階に当る。(苅谷)古墳時代は年代としてホノケ山の段階から始まったと考えていい。それがヤマト政権につなかっており、その墳墓の形式が全国に広がって統一されていくということですね。●(苅谷)邪馬台国が九州にあったとすると。(石上)三世紀前半の九州には大きな墓がありません。ただ、福岡県糸島の平原遺跡から40枚の鏡が出ている。(略)鏡を持つ財力はあったが、墓を造るために人を動かす力がなかった。国としてのまとまりは、財力が高いところか、権力が大きいところか、どちらが国のまとまる要素があったか、私はハッキリしていると思いますが。●(西谷)共通する社会発展段階にあったものの、朝鮮半島まで来て倭国には入っていないものがあります。筆、青銅の容器、最近では光州の遺跡から木製品ー車輪が出て、注目されています。
2011年05月23日
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「日本と朝鮮半島の2000年(上)」NHK出版2009年に放映された同名のETV特集は私も欠かさず見ていた。この本はその番組のブック化である。本になると、そこから零れ落ちた話題も入っている。また、本を読んで改めてなるほど、と思ったことも多い。あまり専門的ではないが、一方では最新の知見が得られるという利点もある。ということで、読んでみた。いか、なるほど、と思ったところ(ちなみに私の興味を持っているのは古代のほうなので、一章二章の感想しかありません)。●勒島には水平な縁取りを持つ弥生土器、抜歯の人骨が出るなど、北九州在来の人の骨があった。一方、壱岐の島には朝鮮半島系の遺物が多く存在する。この頃は、日本とか韓国とかの違いはない。東亜大学のイ・トンジュ助教授が解説する。●全羅南道の栄山江流域には13もの前方後円墳が存在する。すべて5-6世紀のものである。●前方後円墳の存在は何を語るか。広開土王は四世紀末に金官加耶国を一時蹂躙する。このあと、金海は衰える。そうなると、五世紀になって栄山江流域から須恵器や鉄を導入したのかもしれない。大和政権だけでなく、北部九州や西日本も行った。王権レベルとは違う交流があった。この頃はまだ大和王権は全国支配をしていなかった。●和歌山県の隅田八幡宮には継体天皇と百済の交流を裏付ける「人物画像鏡」がある。●咸安は安羅加耶があった国。此処の高台に安羅高堂会議が開かれた遺跡がある。任那復興会議の場所である。日本からやってきたのは、的臣(いくはのおみ)、吉備臣、河内直(かわちあたい)、移那し(えなし)、麻都(まつ)など現地在住と加耶人との間に生まれた人物(父親は渡来系氏族、母親は百済人か加耶人)も参加している。彼等は安羅に一時的に滞在していた倭人なのか。彼等は役人というよりか、ひとつの集団。しかし540年ごろ、任那復興会議は失敗する。それまでは独自の外交が出来ていた吉備などの地方豪族は、562年に加耶が新羅によって滅ぼされ、次第にそういう自由がなくなっていく。吉備の衰退はこの頃から始まっていたのかもしれない。
2011年05月22日
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「最古の農村 板付遺跡」山崎純男 新泉社博多湾に面した福岡平野の中央部にある板付遺跡は、水田稲作が始まる弥生時代の基本的内容を明らかにした遺跡として有名である。実は、2005年の12月二回の大雪に見舞われながら敢行した北九州平和と古代を訪ねる旅において、私はこの遺跡に訪れている。その時の記事がこれだ。この写真以外にも豊富な写真を撮ったのであるが、なんとその次の年に落雷と思われる事故によって、保存していない総てのデータを喪失するという事件が起きた。痛恨の極みである。この記事の復元田んぼの写真を見ても分かるように、弥生時代早期、稲作の技術を日本で始めたそのときから、水路、堰、畦ともに現代とほぼ変わらない技術水準、少なくとも板付遺跡の南、博多区の三築遺跡で5C-中世の水田跡が発掘されているが、やや新しい機能も付加されているが、構造的にまったく同じ水田が作られていたことがわかっている。福岡平野で最初に伝播した水田構造が、古墳時代まで継承されて大きな変化を見せていない。驚くべきことである。最新の炭素同年代の測定を信じるならば、約1500年間変化がなかったことになる。その間、何世代の交代があったのだろうか。20年交代だとして75世代。その間に環濠が流行ったこともあった。小さな戦争もあった。奴国の中心地となり、中国から金印を戴いたこともあった。倭国騒乱となり、やがて卑弥呼を宗主に祭り上げた。やがて五世紀ごろに此処も大和国の律令体制に入ってしまう。確かに戦争もあった。しかし、それ以上に大和は最初加耶との交易権を独占し、その次に鉄の大事な輸入先であった栄山江流域をも百済と同盟関係を結ぶことで潰してしまった。磐井の叛乱は最後の抵抗だった。以後この地には大宰府が置かれ、都に対する重要な港としての位置しか持たなくなるようになる。……というようなことを妄想してみました。板付遺跡の面白い遺構に「水田に残る無数の足跡」がある。洪水によって保存されたのである。出てきた足跡の調査を県警の鑑識課にお願いしたという。餅は餅屋である。歩いた足跡にメジャーを当て、歩幅を計測し、足跡に石膏を入れて足跡のレプリカを作る。結果は「この歩いた人は歩幅や足の大きさから見て、身長は164センチ前後、歩行途中で滑りそうになり、あわてて体勢を立て直している」とまで分かったという(わりと背が高い。江戸時代になると、日本人の背が低くなることを考えると、この時期の日本人は現代の人とあまり変わらない様子だったのかも)。9人がこの水田を歩いていたことも分かった。また、農作業のときは全員素足で動いていたことも分かった。3000年前の宗教や政治体制その他色々と分からないことは多い。けれども、3000年前のあるときのほんの一瞬の出来事がこんなにも鮮やかに浮かび上がる考古学の不思議に感動する。さらに分かったことは、回りの樹木のあとからこの水田は途中一度14年目ぐらいに大きな水害にあっている。そして28年目に大きな洪水にあって永遠に使われなくなった。そのときこの水田と一緒に生きた弥生人の人生が見えた気もしたのである。
2011年05月21日
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「茨木のり子集 言の葉3」ちくま文庫このシリーズ本たいそう売れたそうな。結局彼女の詩のほとんど、彼女の短文のほとんどを網羅している。時代がやっと茨木のり子に追いついてきたのかもしれない。前にも書いたけど、詩は何度も何度も引用されて、初めて生きてくる。だから、私はできるだけ彼女の詩をブログで紹介したいと思う。以下のこんな詩の中に、みごとに旅のエッセンスが籠められていたりする。「顔」かくれ里と呼びたいようなずいぶんへんぴな山奥の村で道に迷った岨道を通りかかった老女に尋ねるとやわらかなお国なまりで指さしてくれたあねさんかぶりの手拭の下のほのかな笑顔のよろしさおうなという忘れていたことばがぽっかり浮かびまさか山菜の精ではないでしいょうね女も晩年に至ってこんなふうにじぶんの顔を造型できる人がいたこの里にそれを認めうるひと ありやなしあわててまばたきのシャッターわが脳裡に焼きつけたいつでも取り出せる大切な一枚として3月初めに読んだとき、以下の詩は「私の合格作品」の中に入ってはいなかった。けれども、震災が起きて、計画停電が起きて、エネルギー問題を考え始めたときに、この詩が「真実を衝いている」ことに思い至った。「時代おくれ」車がないワープロがないビデオデッキがないファックスがないパソコン インターネット 見たこともないけれど格別支障もない そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまますぐに古びるがたらくたは我が山門に入るを許さず (山門だって 木戸しかないのに)はたから見れば嘲笑の時代おくれけれど進んで選びとった時代おくれ もっともっと遅れたい電話ひとつだっておそるべき文明の利器でありがたがっているうちに盗聴も自由とか便利なものはたいてい不快な副作用をともなう川のまんなかに小船を浮かべ江戸時代のように密談しなければならない日がくるのかも旧式の黒いダイアルをゆっくり廻していると相手は出ないむなしく呼び出し音の鳴るあいだふっと行ったこともないシッキムやブータンの子らの襟足の匂いが風に乗って漂ってくるどてらのような民族衣装陽なたくさい枯草の匂い何が起ころうと生き残れるのはあなたたちまっとうとも思わずにまっとうに生きているひとびとよそうだ「何が起ころうと生き残れるのはあなたたち/まっとうとも思わずに/まっとうに生きているひとびとよ」。
2011年05月16日
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「調べる技術・書く技術」野村進 講談社現代新書ノンフィクション作家のハウツー本である。体験に裏打ちされた知恵と、ノンフィクションの取材の仕方の本は少ないという希少性とで、大変興味深いものであった。ノンフィクションを書くときの絶対不可欠な条件があるという。「これを書かなければ、死んでも死に切れない。」というような切実なテーマは普通の人にはないが、しかしそれなりに突き詰めておく必要があるだろう。幸いにも、特別ノンフィクションではないが、私には三つのテーマがある。ところが、私の悪い癖で、もう30年くらい書く書くといいながら書いていないのが、大学のときの卒論で失敗した中江兆民論と社会人になってすぐに志した加藤周一論である。この15年の間に志した弥生時代を舞台にした小説も閑になったら直ぐ書けけるかというと、この半年の経過がそうではないと言う事を立証した。しばらくまた忙しくなるけど、このくらいが一番創作環境はいいのかもしれない。直ぐには役に立たないかもしれないが、重要だと思ったところをメモしておこうと思う。●テーマ決定のチェックポイント1、時代を貫く普遍性を持っているか。 海面下の氷山が、まったく思い寄らない場所に、その突端を突き出しており、調べれば調べるほど新たな突端が見つかるようならば、しめたものだ。あなたの選んだテーマは、時代を貫く普遍性を持っているのである。2、未来への方向性を指し示せるか。3、人間の欲望が色濃く現れているか。 この視点は新鮮だった。「人間は論理ではなく感情で動く。その感情を突き動かしているのは、煎じ詰めれば欲望である。」4、TVなどの映像メディアでは表現できないか、もしくは表現不可能に近いか。5、そのテーマを聞いた第三者が身を乗り出してきたか。……プロの編集者に一度相談してみるのは必要かもしれない。●ともかく動いてみる。……そうだよね、それが私には足りないところだ。●情報収集の方法。 資料を得るメディアは、その鮮度の順番から言うと、ネット、テレビおよびラジオ、新聞、週刊誌、月刊誌の順番。一方情報の確度からいうと、単行本と新聞が比較的高く、最下位にはネットが来る。 森健が運営している「moriken.org」で各紙や各メディアのニュースを手軽に読むことが出来る。 新聞をパラパラめくっていて、気がつく情報も多い。検索では分からないこと。 プロの書き手を目指すなら、たとえ一食抜いても本にお金を注ぎ込むべきだ。……プロは目指さないんですけど。でも傾注に値する意見ではある。●情報は袋ファイルに入れている。……私も一時期やったことがある。あのときの袋は20年ほど経過した今、もう一度見直す必要があるかも。●単行本の読み方。1、インタビュー集や対談集を手始めに読む。2、入門書から出発し、徐々にレベルを上げていく。3、対象となる人物や出来事を様々な角度から論じている複数の本を読む。4、精読すべき本、通読する本、拾い読みでかまわない本を選別する。……気に入った本は2-3回読む。これもあまり出来てていないなあ。5、資料としての本は乱暴に扱う。……つまり書き込み等をたくさんしようということ。だから基本的に買わなくてはいけないのだが、貧乏金無し。つらいところではある。この本も図書館で借りた。(だからこんなに詳しくメモしている^^;)●一次情報の質は作品の質を決める。つまり取材対象の人選は大切である。 住んでいる地域が分かるならば、とりあえず104番で聞いてみる。公表していないならば、じかに現地を訪ねて家を探す。所属する会社や組織が分かっているならば、そこから辿っていける。……加藤周一論ならば、矢島翠さんということになる。もしくは、別れたドイツの女性。そして、まだ存命ならば、詩にも出てくる妹さん。……けれども、とってもそんな勇気はない。●取材の申し込みの例文などやお礼状なども載せていて、いざというときには、もう一度読み返そう。 相手が電話に出たならば、必ず「今お電話よろしいでしょうか」と相手の都合を聞く。「突然お電話差し上げまして、大変申し訳ございません」礼儀は丁寧すぎるぐらいでちょうどいい。「誠実」が最も大切。他のところでは「原稿をこちらが送稿したのに何の連絡もしてこない編集者の多いことと言ったらない。心配なので電話すると、ちゃんと届いている。」と書いている。……私もこれに似た経験がつい最近あった。ある機関紙に原稿をメールで送った。これでいいのかどうなのか気になるので、何回か電話したのであるが、ちようど祝島に行くときと重なっており電波が届かない状況になっていた。そのこともあるから、私のほうからは何度も電話したのである。震災のばたばたしているときと重なっており、いつもすれ違いになっていた。結局機関紙を見ると、ちゃんと原稿が載っていた。電話が通じないのならば、せめてメールで返事するなりしておいて欲しかった。私は三回も電話したのである。彼のほうから、電話がかかったという形跡はなかった。期待していた編集者だけに非常に残念であった。●取材を断られたときの食い下がり方が、たくさん載っていて、面白い。●ここで肝要なのは、なぜその人物にあいたのか、あって何を知りたいのか、もう一度自分に問いかけて、明確な答を出しておくことだ。●取材の事前メモの要点などもここに載っている。質問事項をノート一ページほどにメモしたら、質問の重要度に従って◎や○印をつける。そして、質問事項を大づかみに覚えてしまう。●取材当日、絶対にしてはいけないのが、遅刻である。遅くとも15分前、出来れば30分前にいく。遠方ならば一時間前にいくぐらいがちょうどいい。中には入らない。もんの前で待っておく。余裕を持つ持たないでは、先方の印象が全然違う。●インタビューの聞き方。しゃべることの倍を聞くつもりで。「相手と同じ大きさの声で話す」というのは黒田清の弁。 メモをしない方法もある。数字などは小さいメモに書いて、あとは直後にファミリー・レストランに駆け込んで直ちに書く。案外出来るものである。……わたしも短いインタビューで何回かしたことがある。案外出来る。●初対面の印象は重要。それこそがその人の本質に近いことがままある。だからその日のうちにノートに出来るだけ詳しく書く。1、顔つき、体つき。2、服装、ファッション。相手の靴。3、表情。とくに目と口の動き。4、しぐさ、癖。たとえば、腕を組む、こちらの目を正視しない等々。5、視覚以外の感覚で感じたこと、たとえば、声の調子、握手のときの手の暖かさ、握力の強弱、体臭、香水の匂い。●最後にお勧めしたいもの。活字に限らない。映画でも芝居でも、絵画でも音楽でもあらゆる表現ジャンルでまず自分が関心を持ったものにどんどん接近していく。それから自分の関心と多少はずれていても、世評の高いものに触れてみる。最初は広く浅く、徐々に狭く深く、いずれは広く深く、方向性を変えながら、貪欲に吸収していく。するといつの間にか自分のなかに「貯水池」みたいなものが出来上がっているのに気がつくだろう。貯水池にだんだん水が溜まっていき、あふれ出たものが、自分のテーマなり、自分の表現なりになる、そういったイメージが私にはあるのだ。
2011年04月22日
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池内了の指摘にいちいち頷く。寺田寅彦は「文明が進めば進むほど、天然の猛威による災害が、その激烈の度を増す」(「天才と国防」)と書いている。反対にいえば、東海大震災のときはこの程度ではすまない、ということだ。阪神大震災でも被害が大きかったが、都市が直撃になれば、今回の比ではない。もう「想定外」ではゆるされない。今度はM9でなくても、浜岡、福井に多大な被害が出るということは、既に指摘されている。「豆腐の上に立地する国」に原発を立ててはいけなかったのである。特に危険なのは中部電力の浜岡原発である。(略)運転を強行しているのは、危険性を認めればメンツを失うことを危惧しているとしか考えられない。メンツより人の命のほうが大事なのは言うまでもない。原子力専門家は、とりあえず中部電力ににたいして浜岡原発の運転中止を迫るべきだろう。ジャーナリズムの怠慢についてひとつひとつその通りだと思う。記者会見の様子がテレビ放映されているが、「まだ確認されていない」「今後報告する」「現段階では明確にいえない」というような逃げの回答への追及が極めて弱いのだ。原子力推進派しか専門家として招聘していない、等その通りだと思う。今後の原発政策の展望について、一番分かりやすく語っていたのは、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏と「ミツバチの羽音と地球の回転」の監督である鎌仲ひとみさんとの対談であった。まずは飯田さんは「原子力ムラ」の問題点を指摘する。よく言われるのは、東電と保安院は同じ通産省だから私はそれぞれ独立させればいいとおもっていたが、飯田氏によればそれでも機能はしない。なぜならば、どちらも先祖を辿れば、東大工学部の何々先生の出身だと仲のいい人ばっかりで、お互いに痛い所をつくようなことは決してしないのだそうだ。それでも、このムラのなかで原子力安全委員会は、文部科学省や旧動燃・旧原研という村を仕切る役割があり、原子力安全保安院というのは、経済産業省の「電力村」を仕切る役割がある。二つは、戦時中の陸軍と海軍のようなもので、政治構造としてはまったく同じ構造。「戦艦大和と原発や再処理工場は、世界の現実を見ようともせず、過去の成功体験に浸って巨大技術に突っ走る点でも同じです。参謀本部の無能さや思考回路も同じで、国民を平気で犠牲にする思考までそっくりです」メディアと世論は変わるか鎌仲「基盤はまだ変わっていないですね」飯田「今のところ変わっていない」「安全にやれば原発はまだ使えるのではないか、と思っている人は、基本的に三つのことが分かっていない。一つは経済的観点。二つ目に日本の原子力がこれから急激に減っていくということを知らない。日本では運転開始から40年を経過した原子炉は安全面から鑑みて順次停止されていくことになにっています。そのことを前提にして日本のエネルギー政策は考えなくてはならない。三つ目は原子力以外に極めて有力な選択肢があるということが知られていない。この三つのことが認知されれば、そういう(東京新聞、原発続けるべきだが56%)アンケート結果になりません。」鎌仲「福島知事と同じようなことが、日本中の原発立地自治体で起きてくる。そのときに地域が生きていく方向性がどういうものなのか、祝島の挑戦には大きな意味がある」自治体は残念ながらそうはならなかった。どう思うのか。飯田「太陽エネルギーはわれわれが化石燃料で使っているエネルギーの一万倍降り注いでいる。屋根や空き地など、使っていない平面の5%を探せば、一兆キロワットをまかなえる。」「世界全体で見ると、風力発電は毎年30%づつ、市場を拡大しており、2010年に原子力の半分に当る2億キロワットに達し、あと3-4年で原子力の3.8キロワットをほぼ追い越すだろうといわれています。」「いま、200万キロワットの風力を3000万キロワットに増やし、太陽光で7000万キロワット、それに地熱、と小水力とバイオマスを加えれば、自然エネルギーで30%を供給することは出来る。
2011年04月20日
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大江健三郎がル・モンド紙のインタビューに答えて語っている言葉が、とても鋭いものに思えた。「広島・長崎の原爆死した死者が、私らを、核兵器を相対化する視点から遠ざけました。私らは、そのようにして根本的矛盾を意識しながら、しかも日本の事実上の再軍備、アメリカの軍事同盟を受け入れたのです。これが日本という国のあいまいさの中心に居座ることになりました。」日本という国の「あいまいさ」についてはたぶんノーベル文学賞受賞スピーチで述べた通りなのだろう。しかし、それが原発政策に対しても貫く原則になっていたということは、私はこの発言で気がついた。「日本のあいまいさを、堅固な外交政策として安住させたのが、アメリカの核抑止政策への理由のない信頼です。それと原子力発電所の安全性への理由のない確信とは、つながっていないでしょうか」そして大江はその意味がさらに「危機的な行き詰まりに至っている」という。「1994年に私の言及した「あいまいな日本」は、なお猶予期間のある、あいまいな国でした。あいまいなの対義語は、はっきりしているです。」そのあと、大江は原発問題に対する言及を「あいまい」にしたまま、沖縄問題への意思表示をあいまいなままにしてはいけないと、良く分からない言葉でインタビューを終わらす。このわかりにくさが大江の欠点であり、私が大江を読まない理由ではあるのであるが、しかし「理由のない信頼」という言葉はいかにも文学者らしく「的を得た言葉」であった。石橋克彦氏の以下の指摘はこの四週間私が思い続けてきた日本の危機管理の弱点をきちんと言葉にしてくれていた。半藤一利氏の「昭和史1926-1945」を読むと、日本がアジア太平洋戦争を引き起こして敗戦に突き進んで言った過程が、現在の日本の「原発と地震」の問題にあまりにも似ている事に驚かされる。「根拠のない自己過信」と「失敗したときの底の知れない無責任さ」によって節目節目の重要な局面で判断を誤り、「起きては困ることは起こらないことにする」意識と、失敗を率直に認めない態度によって、戦争も原発も、更なる失敗を重ねた。そして多くの国民を不幸と困難の底に突き落とした(落としつつある)。「世界」論者が一様に言っていたのは、(専門家たるもの)「これは「想定外」だというような言葉を、軽々しく使わないのが「専門家」と称する学者や企業の責任なのだ。」ということだ。坂本義和氏しかり、池内了氏しかり、飯田哲也氏しかり、石田力氏しかり、その他しかりである。ひとつ気がついたのは、日本はまたひとつの世界共通語を作っていたということだ。「フクシマ」。「フクシマを繰返すな」「フクシマを教訓に」。この言葉がどのように育っていくのか、それは我々日本人にかかっているだろう。神保太郎の「メディア批評」を読んで、改めて原発に対する日本のマスコミの批判性のなさ、腰砕け、腐敗を思い知った。13日の新聞は総てのマスコミ新聞が原発問題について言及している。しかし、日本原子力の父正力松太郎を社主としていた読売だけでなく、脱原発につながる論説はひとつもなかったと言うのである。
2011年04月19日
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「人は愛するに足り、真心は信じるに足る アフガンとの約束」中村哲 澤地久枝 岩波書店中村哲さん関係の本を読んだのはこれがはじめてである。講演を聞いたこともない。噂だけは聞いていた。立派な人だ、という噂である。医者なのに、アフガンに行って、人の命を助けるために、井戸を掘るようになった、ということも聞いていた。自衛隊派遣の対極にある人、という印象だった。2008年8月第一回目のインタビューが終わった直後にに、伊藤青年の死亡事故が起きる。中村医師は、日本人として一人残って用水路堀りの仕事に専念している。中村医師は、ペシャワール会という600万人の食料を保証するための事業を完成するためのNPO団体を運営するために、表立って発言している。しかし基本的には九州男児、あまりパフォーマンスは嫌いな性質だということがわかった。澤地久枝という一級のジャーナリストの聞き手を得て、立体的な中村哲像が浮かび上がってきていると思う。伯父が火野葦平で、彼は戦前に転向して「麦と兵隊」という従軍小説を書く。戦後火野は1931年の港湾ゼネストを背景にした「花と龍」という小説を書く。この中に、実は中村医師の父親勉も参加している。勉は日本共産党の傘下にあった全協に派遣されてその総指揮に当たったのだ。しかし、逮捕されてやはり一時転向した。母方の祖父は玉井金五郎、いわゆる川筋の顔役だった。……「革新」と「任侠」。そして「文学つまり思想」。この三つの系譜をみごとに受け継いだ人物が、中村哲という人物なのではないか。昨年6月図書館に予約して半年後にやっと読むことが実現できた。本来ならば、少しでも支援するために買ったほうがいいのだろうけど……。以下印象に残ったところをメモする。「(北朝鮮の拉致問題について)私はいま、家内の里の大牟田というところにいるんですが、あそこは何百人だか、何千人だか、強制連行で朝鮮人が連れてこられて何百人も死んでいます。そのことは皆、忘れているんですね。拉致という行為そのものは、国家的犯罪ですから、北朝鮮が悪くないなどととうことは一言も言いませんが、それ以上のことを日本はした。大牟田の炭鉱で数百人が死んでいて、一番労働条件の過酷なところに朝鮮人労働者は回されている。その合同葬儀がちようど、横田めぐみさんの拉致などを連日報道しているときにあったのです。在日の知り合いに、意見を聞いたら、「先生、それを言うと日本中から袋叩きにあいますよ」というのです。つまり、彼ら自身も自粛するような、このムード。これは戦時中のムードに近いものじゃないかと感じました。自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍で突いても平気だという感覚、これがなくならない限り、駄目ですね。」澤地「人の行動原理を律するという意味で、儒教というのは十分宗教的だとおっしゃいました。ご自身はクリスチャンでいらっしゃる。そのクリスチャンであることと、十分宗教的であるという意味での儒教的なものが、実際にパキスタンや、アフガニスタンで活動をなさるときに、ご自身の中でどのように生きているのか」中村「(略)私が馴染まされたのは、陽明学の「論語」です。(略)王陽明が考えるのは、実は、われわれの智識以前に事実があるのだと。その事実を感得するかどうかで、その人の徳の高さが決まるのだというのが、大体われわれが習った論語の読み方です。その「事実」は、イスラム教の中にもあるわけで、(略)だから「キリスト教の仲間だけで通用する言葉でなく、そのあたりを歩いている普通のイスラム教徒にもわかる表現で語ろう」ということも出てきます。」「マドラッサで学んでいる子供をタリバンというのですが、それはアラビア語です。単数形がタリブ、複数形がタリバンですが、マドラッサで学ぶ子供のタリバンと、政治勢力としてのタリバンは違うのです。その区別も良く分からずに「タリバンが終結している」というので爆撃して「タリバンを80名殺した」と新聞に載る。死んだのは皆、子供だったとかね。タリバン=過激思想の持ち主じゃないんですよ」澤地「日本の対アフガン政策のリアクションとして、一部の人にしろ、テロ行為を容認する人たちが、対象攻撃に日本を加える可能性が大きくなっている、既にそうなりつつあると言っていいですか」中村「次の世代はそうでしょうね。いま、残っている世代、大人の世代は、それなりの親近感をもってやってきましたけど、次の世代は日本人=欧米人という見方をせざるえないでしょう」一番多いとき24人の日本人スタッフがいたが、今もこれからもスタッフは一人つまり中村医師一人だと中村氏は言う。「(あとを引き継げる現地スタッフは)正直言ってこれからも育たないと思います。それは、やはりある人格を中心としたひとつのまとまりなので、どんな優秀な人がやっても、決して代役がきかないのです。」用水路は日本のそれが誰が作ったのかもわからないようにやがて名前は忘れられるという。「そうやって人の名前は忘れられる。しかし、そのものは残っていく。」中村「首都カブールに行きますと、東京銀座かおまけのきらびやかなアーケードができていて、何か起きないほうがおかしい。あれを見て、普通の正義感のある地元の人が、怒らない筈は無いと思うんですね。」澤地「それは石油をもとにした大金持ちがいるということなんですか」中村「いやいや、そうじゃないんです。国外からの援助で潤った政治家や商売人たちが、それを作っているんです。かたや餓死者が次々と出ているという状態、かたや、大金持ちが庶民では生涯できないほどの贅沢をしていて、それを外国の軍隊が守るという、この構図。これが崩れないわけがない。そのなかで、テロ特措法だのなんだの、むこうで聞いていると、トンチンカンなものを議論しているという気がしてならないです。」(国会での証言)アフガンの農村では復讐というのは、絶対の掟である。一人の外国兵死亡にたいして、アフガン人の犠牲はその百倍と考えていい。陸上自衛隊の派遣は有害無益、百害あって一利なし、というのが私たちの意見です。
2011年04月16日
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花見自粛ムード、見直しの動き(4/8読売)とういう動きになっているようです。「井の頭公園では、園内に設置した宴会自粛を求める看板が撤去され、アナウンスでの自粛要請もやめた。公園を管理する都西部公園緑地事務所は、「報道などを通じて(自粛を求めた趣旨が)周知できたと判断した」としており、方針を撤回したものではないと説明している。 中央区も区内11か所の公園に設置した宴会自粛を求める看板を撤去し、花見の際はマナーを守るよう求める看板に切り替えた。区水とみどりの課によると、「世論も変わってきた」として区長の指示で方針を変更したという。」けだし、当たり前なり。しかしながら、看板どころか、アナウンスまでしていたとは!!これは実質的に「自粛命令」の「撤回」なのであるが、「方針を撤回したものではないと説明」する。つくづく、日本の役所というか、お上は同じようなことをしかしない。昔、「撤退ではなく転進である」といっていた支配層もいた。方針は撤回はせず周知した ごめんなさいあっ、本の感想でした。「吉武高木遺跡 最古の王墓」シリーズ遺跡を学ぶ 新泉社 常松幹雄福岡県福岡市の西、吉武地区に青銅器を伴った金海式の甕棺墓が発掘された。弥生中期後葉の須玖岡本遺跡が奴国の王墓三雲南小路遺跡が伊都国の王墓であることは間違いは無い。弥生中期初頭のこの遺跡は、それらの国に先立つ王墓ではないかとみなされています。この時代が何世紀になるのかを書いていないのは、土器の炭素年代がまだ確定しないからですが、金海式の甕棺が出ていることが気になります。ちょうどこの頃から木棺墓から甕棺墓に移行しており、著者は遼寧青銅器文化複合から細形銅剣文化複合に移った頃だと主張しています。文化の質が変わるということは、なにかの大きな変化があったということです。隣の吉武大石遺跡は武士の遺跡だとみなされています。あまり副葬品が無いのです。副葬品は多紐細文鏡、細形青銅器、磨製石剣、ヒスイ勾玉、碧玉管玉が出土しています。北九州では前期の支石墓の時代(田村、新町)から、弥生時代前期中ごろ木棺墓(伯玄社)の時代を経て、吉武高木、中期前葉から中期中ごろの墳丘墓の吉野ヶ里をへて中期後葉の須玖岡本、三雲南小路の時代に至る。吉武大石では多くの体内に残った青銅器破片が出てきた。戦闘の証拠である。吉備の遺跡からはこのようなことは無い。清水遺跡は丁寧に葬られた骨に大量の矢が刺さっていたが、これはむしろ勇者を送る儀式だったという説がある。戦争が日常化した北九州、大きな悲劇があった山陰、戦争を回避した吉備、そしてそれを最終的に実現しようとした大和という私の仮説はまだ全然揺るがない。この遺跡は飯盛山の裾野に広がるのどかな田園地帯にあるそうだ。飯盛山登山を済ませた後でゆっくり遺跡めぐりもいいかもしれない。北九州はまだまだ未知の歴史が隠れていそうだ。
2011年04月08日
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ネットアンケート調査「2011年東京都知事選挙、誰に投票しますか?」でなんとそれまで一位だった(らしい)石原が順位が落ちて、小池さんがダントツ一位に急上昇した。現在までの回答数:3068 と圧倒的に少ないが、4月2日11時20分現在関東の人が支持しているのは小池氏が1位(25.53%)、東国原氏2位(14.89%)、石原氏3位(14.89%)、わたみ氏4位(6.38%)です!!! (昨日より少し下がっているけど、まだ一位をキープしている)過去の回答数の推移を見ると、昨日大きく変化したということがわかる。もっともあまりにも回答数が少ないけれども、昨日が最大の回答数があったことを考えると、「変化」は起きていると思える。まだ石原優位は動かないとは思うが、都民、今が踏ん張りどきだ!!がんばって欲しい。(関東の方、アンケートに協力を!少しでも盛り上げましょう!)「閑人生生」朝日文庫 高村薫からさらに言葉を捜した。世界はこの国よりはるかに貧しい国がいくらでもあるが、問題は貧困そのものではなく、それを取り巻く状況の希望の無さである。(略)なぜなら、今日食べる者がない一人の絶望は、私たちの漠とした不安な気分を刺激しながら、深く静かに広がってゆくだろうからである。それなりの努力と困難を経なければならない希望より、不安のほうがはるかに広がりやすい。緩やかな社会構造の転換を果たせないまま行き詰ったこの社会に、そうして衰退の予感と希望のなさが広がっていくとき、何が起こるか。政治家は自らの無能と失敗を糊塗するために、たいていは最後は軍事的緊張の演出へ走るものと相場は決まっている。(2007.10.8)お握りを食べたいと言って餓死した生活保護申請の事件が起きた年である。しかし、それとは別に現代の状況をも言っている気がしてならない。被災者の方々は多くの人が「頑張ります」と明るく宣言している。そういわなければ心が折れてしまうということももちろんある。それ以上に個人個人は希望を持って頑張っているのだろう。しかし、最終的には政治が問題になる。政治が今こそ、希望を語るときだ。希望とは何か。働く場所を確保することである。国の消費指数を上げることだ。あらゆる家族が将来の夢を語れる環境を作ることだ。子供に「未来」がある社会である。原発無しのエネルギー政策を準備することだ。決して、大企業だけを優遇してGNPの上げ下げや株価の上げ下げに一喜一憂することではない。最初のボタンのかけ間違いを許すべきではない。政治家が無能でそのことに気がつかないあほんだらだったとき、この著者の最後の言葉が本当に気になる。希望は、「希望を語る」ということなのだ。
2011年04月02日
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「閑人生生」朝日文庫 高村薫高村薫の2007年9月から2009年7月、つまり安倍政権の終わりから民主党政権誕生直前までの週刊「アエラ」連載の時評である。高村薫はかつて「神の火」で虚無を抱えたトロツキストの原発襲撃計画を描いて見せた。だからといって当然この時評では原発に関する言及は無い。正直、少しは期待していたので残念。常に世の中に怒っている人はいる。とんでもない言いがかりをつけるおじいちゃんもいるが、高村薫は「いいほう」だと思い、耳を傾けてみることにした。それにしても、ほんとうに重大な事件は往々にして小さな姿をして現れることや、意図的に詳細が隠される場合があることを、久々に考えさせられた。そういうとき、お上が必ず持ち出すのは、事実が多くの知るところになれば無用の混乱を招く、という理屈であるが、それがほんとうに現実的な対処といえるケースは、たぶん地球に隕石が落ちてくるときぐらいだろう。多くは当事者たちの責任逃れと、対処の難しさを隠すための方便であり、被害を少しでも減らそうという人間的な意志が働かないのが、国や行政というものだ。かつての水俣病も、近年の血液製剤による薬害も、アスベスト被害も、皆そうして拡大し、気がついたときには、助かるはずの命の多くが失われていたのである。(2008.9.29)この文章は、「事故米」という農薬汚染やカビの生えた米が焼酎やおかきなどに不正に転売されていいたことが明らかになったことに「消費者に健康被害が出る可能性は無い」ということで農林水産省が血相を変えず、大事にしなかったことを憂いているわけである。このケースはほとんど今回の原発放射能被害に関しても当てはまる。「総ての情報を速やかに明らかにする」と国民は未だに信じていない。実際東電の協力会社の社名も明らかになっていない。IAEAの調査が公表されてやっと40キロの地域の放射能の値が発表される。「事実が多くの知るところになれば無用の混乱を招く、という理屈であるが、それがほんとうに現実的な対処といえるケースは、たぶん地球に隕石が落ちてくるときぐらいだろう。」原発事故は隕石が落ちてくる事態ではない。あらゆる手立てをうてば、助かるはずの命があるという状態なのである。今の首相はたしか「血液製剤による薬害」のときに活躍した大臣だったそうな。
2011年04月01日
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「本は、これから」岩波新書珍しく文学的な書名である。電子ブックの登場で「本は、これから……どうなるのか?」いろんなタイプの書き手、読み手、書店、古書店、図書館、取り次ぎ、装丁、編集の位置からの短文を37そろえている。以下、私が線を引いたところ(抄)である。池澤夏樹われわれは本を読みすぎるのだ。その大半は読み捨て、読み流し。かつて新井白石のような優れた知識人が生涯に読んだ本の何十倍もの量をわれわれはただ消費している。紙という重さのある素材を失ったために文筆の営みはすっかり軽くなり、量産が可能になった分だけ製品はぺらぺらのものばかりになった。そもそも人類の智の総量が変わるはずないのだからインターネットによって生産を加速すれば中身は薄まる理屈だ。→まさにその通り。私はおそらく、江戸の知識人よりも多く本を読んでいると思うが、その中味は到底彼らに追いつかない。それどころか、こんな文章を書いて、「中味を薄める」お手伝いをしているというわけだ。しかし、世代は変わるのだ。新しいがジェットは若年層を突破口に社会に浸透する。今の子供たちはもう固定式の電話をほとんど使わない。韓国とシンガポールではあと二年もすれば教科書が電子端末に変わるという。実を言えば、今の段階で電子ブックなどよりずっと恩恵をこうむっているのはこのインターネットによる古書のシステムだ。かつては欲しい本を探して神田の古書店の棚を尋ね歩いたものだが、今はたいていの本は即座に手に入る。古書というものの概念が変わってしまった。それはまた、手元の本を惜しげもなく放出できるということだ。必要ならばまた買えばいい。日本中の本全体が一種の共有財産と化してきた。池内了記録媒体としての電子書籍(やたら記憶が得意なシリコン頭にうってつけである)、自分のあたまを鍛えるための紙の本(考え想像するカーボン頭に最も相応しい)という棲み分けができそうである。岩楯幸雄(幸福書房社長)でも、五年後にはどうなっているのでしょう。新宿・渋谷に超大型店が出店し、大型店通しの潰しあいが始まっています。それぞれが一人勝ちを狙っているのでしょうが、それは無理でしょう。電子書籍の影響を近い将来全部の店が公平に受けるのだとすれば、ダメージは大型店が一番大きいはずです。多くの借金や高い家賃を負担しているはずだからです。アメリカでは大型店の廃業が始まっているそうです。そう、5年後はどうなっているのか分からないのです。老人大国の日本で若い人が営む小さな本屋が、もしかしたら一番必要とされる時代がやってくるかもしれません。健闘を祈ります。→私はおそらく、三年後には電子書籍を手にしていると思います。新し物好きですから。けれども、一方では老人が陽だまりの中、、20年積んだままにしている中江兆民全集や植木枝盛全集、マルエン全集などを読むことや、何度も読んだあの本やこの本を読むことを夢見ているというわけです。本屋の未来、この社長の言うとおり、これからは個性的な本屋さんの時代かもしれません。私ならば、こんな本を並べるのだけどなあ、というのはあるのだけど、誰か雇ってくれないかしら。
2011年03月03日
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「消費税で日本崩壊」斉藤貴男 ベスト新書斉藤貴男は昔からの反消費税論者である。それというのも、フリーのジャーナリストになったときに総て自分で税金を計算して申告するようになって、税金の使い方に怒り、敏感になったのだという。面白いことに、一時期またフリーでなくなったことがあった。そうすると、急激に「怒り」がなくなったのだという。税金は本当に複雑だ。私も一時、或団体の金庫番をしたことがある。そのしくみの複雑なこと!!四年間もやって、決算もしたのに、未だにその仕組みがわかっていない。国民の九割近いサラリーマンの源泉徴収というしくみは、日本国民の税金の使い方に対する意識を確実に麻痺させているといっていいだろう。日本の民主主義を著しく後退させているという著者の主張には肯けるところがある。消費税の問題は昔からその逆進性等の問題が挙げられてきた。今回は知っていることはあえて書かない。新たに知ったことのみ、その一部をメモする。加藤寛元政府税制調査会会長インタビュー 2010.8 「日本は財政危機でも何でもありません。財政危機だから消費税引き上げが必要だという論法は間違っているのです。(略)日本がギリシャのようになるわけがない。約900兆円の国債発行残高があるが、国民の金融資産が1300兆円もある。500兆円くらい景気対策に使っていいんです。しかしそれをやらずに守っている。だから、どんどん円が強くなるんですよ。(略)ぼくが財政赤字を煽るのはおかしい、と言うと、大蔵省の役人は『先生、それは分かっています』といいましたよ。『でもそういわないと増税できない』とね。」……ただし、加藤氏は累進性の所得税だけに頼ると、労働意欲がそがれるから消費税には賛成らしい。しかし、そういうことが国民の合意となるのか。労働者は飴と鞭でしか動かないと思っている金持ちの発想である。数値だけを見ると、日本の消費税率は確かに高い。(略)主要国の国税収入に占める比較で言うと、イギリス 22.5%ドイツ 27.0%イタリア 27.5%スェーデン22.1%日本 22.1%‥‥‥驚きである。日本と先進消費税高率国、特にスェーデンと全く同率なのである。『アメリカはこうしているから、まずアメリカの真似をしましょう』という論調ばかりなのに、こと消費税に関して言えば、アメリカのアの字もでてこない。それもそのはず、アメリカには国税としての週費税を導入していないので、比較のしようがないのだ。零細事業者が追い詰められている一方で、消費税は大企業、とりわけ輸出比率の高い企業にとっては甘い蜜そのものだ。(略)輸出戻し税の還付金の額は、2010年度総額3兆3762億。同年度消費税収入12兆475億の約28%に相当する。(略)これでもリーマン・ショック以来の世界同時不況の性で随分減った。わずか2年前、2008年度の消費税の還付総額は7兆円にも迫ろうかというボリュームで、消費税全体に占める割合も、約40%ほどに達していたのだ。おりしも、エックスチャンネルさんが「「財政危機」煽る財務省の大ウソが暴露された」という記事をアップしてくれた。20日の日曜討論で国民新党の亀井亜紀子議員が追及した内容を深めたものである。これを見ても、消費税増税の根拠は崩れている、必要なのは法人税減税ではなく、て国民消費を以下にアップさせるかという仕組みつくり(つまり福祉の充実等)なのである。改めて亀井議員に発言の真意を聞いてみた。「財務省は最初から消費税ありきなのです。無利子非課税国債を発行して困る人はいません。にもかかわらず、提案しても話が進まない。それで党に財務官僚を呼び、日本の財政状況について平時なのか非常時なのか聞いたら『平時です』と答えたのです。そもそも財務省は、海外に対しては『日本は対外金融資産が豊富で、国債の9割以上は国内で保有しているから財政危機ではない』と説明しているのに、国民に対しては『900兆円もの借金で大変だ』と言う。海外と国民に対する説明が違うのです」 相手によって主張を百八十度変える二枚舌財務官僚。次はぜひ国会で追及してほしい。
2011年02月22日
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【送料無料選択可!】幸せつなぐ毎日の食卓 野菜食堂こやま (単行本・ムック) / 小山 津希枝 著「やっぱり野菜とらなあ、おえんなあ」と思い、料理本を買いました。買うともれなく実演講演とサイン会が付いてくるというので、ちょいと参加。一時間半も時間があるので、色々料理を作ってくれるのかと思いきや、ずーと喋りっぱなしでした。元気なオバサンという感じの著者です。原則は四つ、1、旬のものを食べる。→納得です。安くなった野菜を私も買うようにしています。2、ヘタから皮から、総て使う。→細かく切れば、総て使えるそうです。農薬の心配は?という質問に「繊維が豊富なので、玄米と一緒に食べれば特にそうだが、農薬なども掃除してくれる。とのこと。3、アク抜きをしない。4、砂糖を使わない。→砂糖は「自然」じゃないのだそうです。料理の最大の特徴は「野菜の重ね煮」です。野菜には陽野菜と陰野菜があります。写真にあるように、陽野菜は根菜やイモ類(あまり使わないけど、魚介類や穀物)で、上に登ろうとして身体を温める働きをします。陰野菜は葉物類やきのこや海草。下に根を伸ばそうとする。身体を冷やす働きがあります。これらの働きを生かした煮かたをして、野菜の力を生かしてバランスの取れという主張なのだそうだ。むつかしい理論は眠たかったけど、今日実演した野菜を食べて美味しかったので、やってみようと思います。おこと汁の材料の野菜を、水も調味料もなしで上に塩をかけただけで煮たものなのです。けれども、にんじんは思いっきり甘く、大根はしっかりと味がしみていて、アゲもおいしかったりのです。料理の下ごしらえは、上の写真にあるとおりです。結局、サインは時間がなくてすぐ帰ってしまったけど、料理の一品一品は面白そうなので、ためしてみます。
2011年02月18日
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「アメリカからが消える」堤美果 扶桑社新書抜書きです。本当は、総てのアメリカの「現実」を紹介したいのですが、それをすると流石に出版社から抗議が来るだろうし、時間的にも無理です。ただ、美果さんが「に打ち勝つ一番の方法は、何が起きているのか正確に知ること」というのに、私は賛成するし、この手の話では要約的な文章では人の意見を変えることは出来ない、具体性だけが説得力を持つと、私は思うのです。ここで紹介する事実は本の一部です。詳しくは本を読んでください。なお、講演会のときにもらったサインを付けて起きます。「心をこめて 2010 12.18 MK」と書いているのでしょうか。この前の講演会の彼女の印象、ひとつ書き忘れていました。彼女はが付くほど、とても真面目なのです。クリスマステロ以降一挙に「ミリ波スキャナー」(空港で全身が裸の読みイメージになって映し出される機械)の生産が伸びた。(一台1500万円)世界で何百万台と発注される。「ワシントンエグザミナー」は国土安全保障省の役人、秘書官を初めとする幹部の多くが、警備産業のロビー活動に従事しており、関連企業に幹部として天下りしている実態を報告している。AP通信によると、次のステップとして、人々の頭の中を読み取る装置を開発中だという。(略)製品化されれば、人々はセキュリティチェックの場所でテロ関連画像を見せられ、反応する瞳孔の開き方や心拍数の変化、体温の上昇などの最新式の「読心センサー」に取られることになる。また、対象者の掌を通して「敵対的な思想」を感知する技術を開発している。9.11当時テロを間近に目撃したリサ・ウィリアムは当初のインタビューで監視されていることの不安は無いか、との問いに「何故そんなことを思うんでしょう?テロとの関連を疑われるような行動を取っていなければ、問題ないじゃ無いですか」と言っていた。九ヵ月後の2009.10月リサは警官に呼び止められる。四時間に渡る尋問を受ける。何故、何を調べられているのかも最後まで知らされなかった。それ以来前とまるきり行動が変わってしまったとリサは言う。「監視カメラの前を通るときは、息が苦しくなるようになったんです。銀行でも書店でも、自分が不自然な態度になっていないか心配で長居ができなくなりました。友人との電話も短くなり、Eメールも一通送るのにすごく時間がかかります。何日も迷った挙句、結局返信しないものもたくさんありました。自分が書いた文章の中に、疑いがもたれるような単語が入っていないかどうか、何度もチェックするようになったからです」アメリカはベトナム戦争の頃から、拷問は政府が雇った代理人によって行われてきた。そこには時間の制限も無い。「愛国者法」によって、国内外の収容所で軍はテロ容疑者を無制限に拘束できるようになったからだ。容疑者たちは国際法で権利が守られる「戦争捕虜」ではなく、そうした権利を持たない「適性戦闘員」というカテゴリーに分けられる。2009年11月カリフォルニア州立大学で学費値上げに抗議する学生たちが警察に暴行を受け、百人近くが逮捕された。2009年3月、バージニア州警察が作成した「テロリストの脅威に対する評価」レポートの中には、アルカイダやハマス、ネオナチなどと並んで「中絶支持」「税制改正推進」「憲法と矛盾する現政権の政策糾明」などの社会問題にかかわる学生たちの名前がテロリスト欄に記載されていることが明らかになっている。2009年7月、ワシントン州オリンピアで「民主化を求める学生たち」「港の軍事化を止める会」のグループに陸軍が雇った人物が潜入し、ひそかに活動内容の情報を軍や警察、政府機関に流していたことがわかった。2004年6月21日、アメリカ最高裁判所はある判決を下した。路上で捜査官から名前を尋ねられたアメリカ国民は、決してこれを拒否してはならないというものだ。これによって、市民の「黙秘権」は、実質上無効になったのだった。2008年4月3日、アラバマ州にあるウェストエンド小学校で六年生の男子生徒二人が逮捕された原因は、死神ノートに名前を書かれた人が死ぬとという内容のアニメ「デスノート」だった。彼らがアニメを真似てノートに他の生徒や教師の名前を書き、「デスノートごっこ」をしていたのを見た教師が校長に連絡したのだ。学校側から通報を受けて少年たちを逮捕した警察は教師たちをきびしく注意したのだという。「「テロとの戦い」の最中ですから、こうした危険な行動は見逃せません。先生だけでなく親御さんにも、子供たちが見ている漫画や友達の会話、遊びの内容などを、しっかり監視してもらわないと」いくつかの州では警察が子供たちに「友達が怪しげな行動を取ったときに、近くの大人に知らせる方法」をビデオを使って教える時間を設けている。「デスノーとごっこ」をした少年たちには、裁判手続きがとられた後、学校側から無期限停学処分が言い渡された。(アメリカでも報道規制があるが)日本でも、イラクへの自衛隊派遣についての「報道協定」が作られている。イラクの戦場における隊員の状況を報道する際には、防衛庁(当時)の許可をとらねばならないという条件がつけられたのだ。(まだ成立していないが)2007年下院を通過している「過激思想取り締まり法案」というのがある。成立すれば、インターネット上のブログその他に検閲が入り、が取り締まられることになる。「テロにつながる危険な思想を芽のうちに見つけ出すことで、テロリストの脅威から国民を守るため」という目的らしい。この「芽のうちに」ということが、どのように運営されるかわからないということで、反対運動が起きている。反対運動家はさらに言う。「政府はおそらくもっともらしい名前の付いた法律とセットにしてくるでしょう。「テロ対策法」はいわずがもがな、「女性差別禁止法」でも、「性的犯罪取締法」でもなんでもいいのです。要は定義が曖昧で、主観によっていくらでも変えられるものであればいいのです」……ここまで読んで、先ほど成立した都の「青少年保護禁止条例」が将来とんでもない威力を発揮する可能性について想像してしまった。「言論利の自由を取り戻そうとする人々」も大きく広がっている。堤未果の著作の特徴は最後に必ず「希望」を書き加えるところである。しかし、これはいったん法律が通ったあとのアメリカの活動であり、私は日本はその前段階だと思っているので省略する。下の写真は昨日の岡山市林原美術館である。日中からこんなに雪が降るのは、晴れの国岡山では珍しいことだ。会社更生法を適用した林原は、戦後散逸の危機にあった元岡山藩主池田家の財産を買い取ることで、貴重な文化遺産(源氏物語絵巻等)を一箇所にまとめることが出来た。学者が池田藩の忍者の一代記をまとめることが出来るのも、池田家文書が一箇所にまとめられているからである。財産の整理はしなくてはいけないだろう。しかし、散逸しないように出来ることならば公的機関に売るというようなことが、林原の「社会的責任」だと思う。
2011年02月15日
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「アメリカからが消える」堤美果 扶桑社新書この前の講演会に行ったときに、サインをもらうために買った本です。純粋に間近で著者を見たかったということで、おそらく講演と同じ内容なのだろうと分かった上で買いました(2010年4月発行なので、「ルポ貧困大陸アメリカ2」よりも最新情報が読めるという計算もありました)。「頑張ってください」と目の前で言ったときに、目もあわせられなかったへタレの私でした(^^;)予想とおり、内容的にはこの前の講演会で私がメモしたことと同じでした。ところが、ショックの度合いは非常に大きい。様々な具体的な事実が、多くのことを語るのです。「おわりに」のところで彼女は書いている「歴史を振り返ればは、それが最も必要とされるときに押さえ込まれてきたことが見える。 とはいえ、それを可能するにのは政府ではない。 を押さえ込むために作り出された日常のなかの様々な仕掛け、それらにあおられ人々との間に拡大していく。そのにわたしたちの無知と無関心が力を与えてしまい、いつの間にかが押さえ込まれ、社会全体が閉じられていくのだ。 9.11後のアメリカで私が目にした「人は理解できないものにをいだく」という法則は、時代や国によってさまざまなバリエーションで使われる。 たとえテレビやラジオ、新聞や裁判所など、様々な民主主義のが残っていたとしても、学校や職場、政党内で自由な論議がなされているかどうか、しっかりチェックする必要がある。 それを感じ取るアンテナの精度は、与えられた情報の利用と質に比例する。(略)に打ち勝つ一番の方法は、何が起きているのか正確に知ることだ」昔「笑顔のファシズム」という本がアメリカで出版され、訳本が日本に出回っていたが、いつの間にか私の本棚から消えていた。アメリカとて黙って見過ごしていたということではない。そのことはこの本の一番最後に詳しく書かれている。けれども、その前に「何が起きているのか正確に知ること」が必要なのだ。日本のわれわれも同様だ。この本で幾つかの「事実」を知ると、「あのアメリカでさえこうなのだから、日本はあっという間に監視社会になって、言論の自由は奪われるかもしれない」という気持ちと、「いや、そういう反面教師が既に存在したのだから、きっと日本の良心は大丈夫だ」という気持ちが二つある。ともかく、ここに書いている「何が起きているのか」を幾つか、ブログ上で紹介することは、大切なことではないかと思うので、抜書きしたい。 続く。
2011年02月14日
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「古代朝鮮墳墓にみる国家形成」吉井秀夫 東京大学出版会最近朝鮮半島の考古学事情が分かる本を多く出版されるようになった。やっと、という感じである。弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島との結びつきは決定的なのに、ずっと昔の資料とか断片的な事実しかし紹介されなかった。結果、七世紀に作られた「古事記」や「日本書紀」によって1-3世紀の弥生時代が説明されるという事態が多くなり、私は本当に忸怩たる思いだった。これはひとえに、最近の韓国の発掘が一段落ついて、多数の新しい事実が知られてきたということによる。そして、この著者は2.5年間、韓国大邸の慶北大学に留学して韓国の考古学事情に精通している気鋭の学者なのである。しかも去年の二月出版の本である。幸いにも、ここで扱われた遺跡の幾つかを去年の11月に歩いたということもあり、非常にイメージ豊かに読むことができた。幾つか新たに学んだことをメモしておく。私用のメモなので多くはちんぷんかんぷんだと思います。御免なさい。高句麗、百済、新羅の王都が、いずれも落葉広葉樹林帯に属していて、日本の古代国家にかかわる地域のほとんどが照葉樹林帯に属している。農業生産をはじめとする経済的基盤が少なからず異なっていた可能性のあることは、いつも念頭においておく必要があるだろう。墳丘先行型 日本の古墳 鴨緑江・漢江・栄山江流域、中国長江流域の土槨墓 墳丘後行型 洛東江、錦江流域、中国中原地域青銅器時代の開始時期については、紀元前10世紀まではさかのぼりそうであり、放射性炭素AMS年代測定法による測定結果を受け入れれば、紀元前13世紀までさかのぼる可能性がある。さらに、刻目突帯文土器に代表れる文化が従来の青銅器時代前期に先行する、と考える説があり、それを認めれば、青銅器時代の始まりはさらにさかのぼることになる。このように、青銅器時代の相対的・絶対的上限がさかのぼった結果、少なくとも朝鮮半島南部において本格的に青銅器が使われ始める段階は、青銅器時代の開始よりもかなり遅れることが明らかになっている。朝鮮半島で多く出土する銅剣には琵琶形銅剣と細形銅剣があるが、後者は食鉄器時代を代表する遺物であるとする立場で、本書は叙述することにしたい。麗水半島に幾つかの支石墓群があるが、積良洞(チャクリャンドン)支石墓のみ七本の遼寧式銅剣と一本の遼寧式銅戈が出土した。他の支石墓との階層構造がある。プヨの松菊里遺跡52地区の箱式石棺墓について。大きく掘った土こうの中央部をさらに掘りくぼめて、その中に石棺を築造する二段墓こうの構造を持つ。方形墳丘状の墓域。よって、支配者階層集団により築造された特定集団墓。いっぽう、2.5キロはなれた南山里遺跡は青銅器は出土せず。墓こう規模が小さい。松菊里の一般成員の墓域であると指摘されている。昌原徳川里遺跡の石築。金海ヘヒョンニ貝塚上面の石棺墓の石築。大邸・辰泉洞(チンチョンドン)立石を囲む石築。との関係性。燕系の鉄器が初期鉄器時代の始まり。朝鮮半島南部における初期鉄器時代を代表する土器は、平底・長卵形の胴部の上端に、粘土帯をはりつけた粘土帯土器である。粘土帯には断面円形のものと、断面三角形のものとがあり、前者から後者に変化する。また、青銅器時代に見られた丹塗磨研土器が姿を消す一方で、黒色磨研長頸壷が副葬品としてよく用いられるようになる。さらにこの時代に入って、石器類が次第に姿を消す。大同江流域と錦江流域および栄山江流域に青銅器の出土が集中。鋳型も見つかっている。この両地域が朝鮮半島各地で用いられた青銅器の主な生産拠点であったと考えられる。原三国時代の始めを李は、木棺墓群の出現、瓦質土器の出現、本格的な鉄器文化の成立、といった朝鮮半島南部での考古資料の変化と、高句麗の政治的な発展や、漢四郡の設置などを指標として定義した。その開始時期を金元龍が定義した紀元前後ではなく、紀元前一世紀初めとした。
2011年02月11日
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『司馬遼太郎の歴史観』中塚明 高文研ずいぶんと前になるけれども、この先生の講演を聞きに行った。去年は韓国併合100年。ほとんど注目はされてはいないが、岡山でも何度もこのテーマで勉強会は開かれていた。中塚明氏は日朝関係の歴史の専門家であり、ひっぱりだこだったようだ。そのときに買った本である。本の内容は、講演の内容と大きく被る。この講演でも大きな話題はやっぱりNHK『坂の上の雲』である。現在第一部第二部が終わり、日露戦争に突入している。このNHKの大掛かりな国民洗脳運動については、また稿を改めて書く必要があるが、今回はその中で、テレビの中でも全く『無視』された東学党農民軍の蜂起について書こうと思う。朝鮮の人民が初めて社会変革のプログラムを持っての大衆運動であった、と著者は言います。特に重要なのが、第二次蜂起です。そもそも日清戦争は、東学党の『乱』から朝鮮王宮を守るためという口実で軍隊を進めたのですが、日本軍が最初に大砲を撃ったのは清国軍に対してではなく、朝鮮王宮に撃ったのでした。そうして王宮を占領し、言いなりの政府を作ることが最初の仕事だった。日本では知られていなくても、韓国全土には知られていた。だから、韓国の主権を守るために第二次蜂起があるのである。第一次とは広がりも規模も比べ物にならない、日本侵略反対の旗印をハッキリさせて立ち上がった抗日闘争だった。それに対して、日本軍はどうしたか。珍島に追い詰めて全滅させたのである。犠牲者は三万人を越えたといわれる。日本のどの教科書にもこれは出ていないらしい。この本をいまさら読んで、しまった、と思った。去年の旅の後半、私は光州に行ったのだけど、何故ここにそんなにこだわったのか忘れてしまって、半日いただけで別の場所に移ったのでした。この講演を聞いたときに、1980年金大中が再起した黄土峠(ファントジ)の10万人大集会というものがあったそうなのですが、それが、それが東学党と政府軍との激戦地だったたらしいのです。それを見に行こう、東学党の「乱」をもっと勉強しようと、決意していたはずなのにすっかり忘れていました。これは宿題です。何を持って「乱」とするのか、「運動」とするのか、はたまた「騒動」とするのか(大塩平八郎の乱は当初大塩騒動と呼ばれた)、それは革命理論の中心課題なのだろう。現在エジプトでおきていることは「乱」なのか、「運動」なのか。運動だとすれば、それはなぜ運動と呼ばれるのか。その辺りは、これからまた勉強していきたい。
2011年02月10日
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いま「日本の名著」を少しずつ読んでいるということは既に書いた。一番最初に読んだのが「佐久間象山・横井小楠」である。訳者・編者の松浦玲は昭和六年生まれでこの全集の中では若い部類に入る。月報では1970年6月6日、べ平連のデモで忙しかった小田実を呼び出して対談している。松浦自身が50-60年代安保闘争の闘志だったからである。松浦はこの対談の最後で小田実にこんな質問をした。「そこで僕のほうから小田さんに伺いたいのだけれども、政治に対するかかわり方としてこれは、ひとつは象山や小楠たち儒者のように権力側から求められて宰相として理想的政治を行うという生き方、この場合は求められなかったり首になればそれで終わりだ。もう一つは自分たちの理想を実現するためには革命をやって新しい権力を作るという方式、明治維新でいえば大久保や西郷、現在で言えば社会主義、共産主義革命ですね。しかしこれは目標実現の過程で統一戦線とか政治的妥協とか、組織悪だとかいろいろ出てきて、遠回りをしているうちに、肝心の理想のほうがどこかにいってしまう例が多い。そこでベ平連ですが、この二つのどちらでもないということは良く分かるのだけれども、小田さんがおっしゃっているのは、権力が邪悪なことを執行しているのをゲリラ的に麻痺させ阻止しようということですね。そういうことを永遠に続けていこうということなのか。それとも状況によっては多数党になったり権力を取ったりするのか。」小田実は以下のように述べた。少しはしょる。こう言っている。「私は在野に徹するということがひとつ。権力の中に入らない。そうすると永久に批判勢力に止まるだろうという考え方をするけれど、僕はそうは思わないのだな。……私は一つは戦後の時代に青年前期を通過したということがあって、権力なしで人間は暮らしていけるのではないかと、時々考えるのですね。戦争末期、敗戦初期はそういう状況だったでしょう。だから、そういう面がわれわれのやっている運動の中で可能な面として出てもいいのではないかと思うのですよ。」「戦争末期、敗戦初期はそういう状況だった」という認識は間違っていると思う。けれども実に小田実らしい言い方た。(この対談はおそらく突然松浦のほうから言われて小田は軽く答えたものに違いない。小さな月報なのでおそらくここに出たきりだったろう)べ平連は永久的にゲリラ戦法は取ることはできなかった。ベトナム戦争が終結したとき、そのまま組織を維持させる道もあったと思うのであるが、小田はいったん解散させる。その後紆余曲折があったが、私は小田実の人生を全部知っているわけではないので、軽々しいことは言えないが、結局「在野に徹する」ということは貫いた。そして、大きい影響力を持った。その姿勢はりっぱだと思う。小田を戦後の思想家の一人に連ねるかどうかは、小田の著作集を一通り読んでみないとなんともいえない。私の「思想家」というときの基準は二つ。「その思想が広く影響力を持つこと」「その思想に一貫性があること」。江戸明治と違い、現代の政治家のほとんどが二番目の基準のために思想家の部類に入らないということは言うまでもない。この対談で面白いと思ったことのもう一つは、松浦の最初の「問いの立て方」である。ひとつの「正義の思想」があるとする。その思想は時には政治の表舞台に立つことはあるが、その多くは長続きしないし、時には無力である。一方「革命家」がいる。彼らは困難ではあるが、政治を変えることが出来る。しかし歴史は「目標実現の過程で肝心の理想のほうがどこかにいってしまう例が多い。」ことを語っている。市民運動の走りであるべ平連はどこに向っているのか、松浦は興味があったのだろうと思う。憲法九条は「正義の思想」である。これは極めて「現代の課題」だ。私たちはこの思想をどのように生かしたらいいのだろう。ひとつの処方箋はきっと歴史の中にあると思う。私は「佐久間象山・横井小楠」の解説の中で、1862年の朝廷から「攘夷督促」の要求が来たときに、横井小楠の解決策と一橋慶喜の解決策とその後の歴史を読んで、まるでこれは今現在の「普天間問題」だと思った。詳しくはまた別のところで述べる。
2010年12月27日
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中央公論社が昭和40年代に刊行した「日本の名著」全50巻というものがある。古本屋で時々見かけるのであるが、食指が動かなかった。ちらっと読むと、全50巻で日本書紀から始まって柳田国男まで、日本の重要な思想は網羅しているように思える。元日本思想史の学徒だった者として魅力的な人選ではある。ところが、ほとんどが「訳文」全集なのである。確かに昔の人の文章は読み難い。しかし、この手の全集は一つは資料的な価値として家に「置いておく」ものである。訳文ではいざというときに「引用」しようにも「ありがたさ」が無いと思われた。引用するような「論文」を書くような必要はさらさらないのに、そういうことを考えるところがまあ私の悪いところなのだろう。この前、たまたま「佐久間象山・横井小楠」の巻を買ったときに、全集目録を見てみるとびっくりした。各巻の責任編集者の顔ぶれがあまりにも凄いのだ。私はこの全集がほしくなった。刊行より30-40年を経て、いまやほぼ全員が鬼籍に入っているが、歴史的な史家、思想家、小説家が八割がたを占めているのである。この巻の編集者の「解説」を読むだけでも意味がある。これから少しずつ揃えていくことにしようと思う。堤未果講演会のときに古本祭りをしていたので、少し買い揃えた。中には橋川文三の「藤田東湖」など魅力的な本もあったけれども、経済的な理由と荷物になるという理由から、今回は避けた。今回買ったのは以下の通り。「聖徳太子」(中村元)中村元はご存知の通り、仏教思想の最高峰の学者である。日本思想史の中でいつも一番最初で大きく扱われる聖徳太子をどのように論じているのか、とても興味がある。「慈円・北畠親房」(永原慶二)永原慶二は唯物史観の立場から日本中世史をリードしてきた人だ。北畠親房が出てくる小説はこの前読んだばかり。面白そうだ。「新井白石」(桑原武夫)桑原武夫が江戸時代の思想家を論じていたなんてびっくり。彼の中江兆民研究は学生の頃夢中で読んだ記憶がある。「本居宣長」(石川淳)本居宣長にはあまり興味が無いけれども、石川淳がこの稀代の学者であり、文学者であり、変人をどのように料理したのか、とても興味がある。「石田梅岩・富永仲基」(加藤周一)この本に関していえば、加藤周一編集なのでずっと買おうかどうか迷っていた。著作集で取り上げられている論文だと思ったので、止めていたのだが、今回ちょっと読んでみて、読んだ覚えが無い。しかも、石田梅岩の訳文まで手がけている。発見と驚きと収穫だった。「佐久間象山・横井小楠」(松浦玲)松浦玲はあまり知られていない史家ではあるが、横井小楠に関していえば、第一人者である。今回、横井小楠の「国是三論」を一読して、びっくりした。また、その解説はとても刺激的だった。また機会があれば論じたい。「徳富蘇峰・山路愛山」(隅谷三喜男)著者は進歩的キリスト教者なのに、なぜこの「民権から国権に転向した」ふたりを取り上げたのか(二人ともキリスト信者ではあるが)、とても興味がある。「柳田国男」(神島二郎)実は私は大学時代に「常民文化研究会」(常民とは柳田の造語で民俗的な意味での民衆)に入っていたということもあり、二回ほど合宿して民俗調査を行った。その頃柳田を一生懸命読んだ。また、神島二郎は丸山真男の高弟の一人。政治思想史の神島が柳田をどのように述べるのか、興味がある。「読みたい本はあまりにも多く、人生の時間は限られている。」加藤周一のレベルからすれば百分の一ほどではあるが、私もまた、同じような悩みに悩まされている。
2010年12月26日
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「夢一途」吉永小百合 集英社文庫1988年までの吉永小百合の自伝です。韓国旅行のフェリーに乗る前、下関駅の古本屋で旅の慰みに買った本です。読んでみてびっくり。吉永小百合の生の声が詰まっているということでも貴重なのですが、それがそのまま戦後映画史となっているという意味でも非常に貴重だと感じました。なにしろ、彼女は1959年「朝を呼ぶ口笛」(生駒千里)でデビュー、88年の「つる」(市川崑)までに100本の映画に、多くは主演で出演したまさにクゥィーンオブジャパンムービーなのです。1961年にはなんと16本の映画に出ているし、62年には10本だけど、その中には「さようならの季節」「キューポラのある街」「若い人」63年には11本「青い山脈」「いつでも夢を」「泥だらけの純情」「伊豆の踊り子」「光る海」などの代表作を作っているのである。「いつでも夢を」では日本レコード大賞を受賞し、そのあと68年には全国リサイタルを22ヶ所で開催している。だから彼女が身体と精神の過労で病気になるのは時間の問題だったのだろう。71年声が出なくなる。そして岡本氏と結婚、73年から一年間の休養をしている。その間は、女としての素材だけで輝いていた彼女が自分の意思として輝いたらどうしたらいいのかを模索していた時期であったようです。この頃から一つ一つの映画に対して彼女なりの「演技プラン」を立てるようになる。自ら工夫するにせよ、監督の言いなりになるにせよ、自立した女優になっていく。その中で、大女優になったかどうかは、私は判断がつかない。ただ、吉永小百合にしか出来ない役というものを、彼女は少しづつ掴んでいったようだ。彼女が大きく筆を割いている映画は以下の通りである。1975「青春の門」(浦山桐朗)1978「皇帝のいない八月」(山本薩夫)1980「動乱」(森谷司郎)1982「海峡」(森谷司郎)1983「細雪」(市川崑)1984「天国の駅」(出目昌伸) 「おはん」(市川崑)1985「夢千代日記」(浦山桐郎)1987「映画女優」(市川崑)1988「つる」(市川崑)「映画女優」では田中絹代の一代記を吉永小百合が演じた。この映画で市川監督は「けものの匂いのする女」として田中絹代を描こうとしたようだ。しかし、吉永小百合は「そんなすごいものは、実際の田中絹代さんの気魄の向こう側にしか存在していません。せめての努力しか、私にはありません。私の中のありったけの気魄をこめてこの役にぶつかっていきました」と控えめに書いている(実際の映画を書いていないので判断できません)。そしてこの映画を撮るまで「原節子さんの道を選ぶか、田中絹代さんのような生き方をすべきなのかと、絶えず迷っていました」と告白している。しかし、彼女は「映画女優」の道を選んだ。ただし、「私は田中さんのように壮絶にいは生きられないけれど……。けものの匂いは漂いそうに無いけれど……」とも書いている。このときにおそらく彼女は、自分の立ち居地を定めたのだろうと思う。だから、吉永小百合はこれからも決して田中絹代のように自らの歯を抜き、老婆になるような汚れ役はしないだろう。彼女はいつまでもお嬢さんの役か、お母さんの役で終わるだろう。それでも吉永小百合の果たしてきた役割は限りなく大きいと私は思う。
2010年12月19日
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「マルクスは生きている」不和哲三 平凡社新書買ってから一年以上置いたままでしたが、やっと読み終えることが出来ました。マルクス入門書としても良くまとめられている(ということは、私にぴったり)でもあるし、「現代の課題」についても、マルクスが驚くほど予言して、その処方箋を書いてきているという記述にいろいろと刺激を受けたわけです。不和哲三はもともと学者肌の政治家でしたが、常に大衆に呼びかけることを仕事にしてきただけに、「人民」の興味の引きそうな話題を持ち出すことに長けています。現代に生きるマルクス、という意味では沢山の指摘があります。この前のNHKの番組のまさに先取りをしていたようにも思えます。(09年5月発行)その一部を抜書き。マルクスは「資本論」の中で、資本主義が、その運動の中でそのときの現役労働者の数をこえる「過剰な」労働者人口を必然的に生み出し、その労働者人口が何百万という「産業予備軍」を形成することを明らかにしました。(略)マルクスは「産業予備軍」の存在をプロメテウスを釘付けにしたヘファイトスの「楔」にたとえ、ここに労働者階級を資本の支配と貧困に縛り付ける「楔」があると語りました。(略)この「楔」は現代の日本ではどうなっているでしょうか。いま「派遣切り」の大量解雇が社会の大問題になっています。マルクスは、資本主義的搾取から労働者を解放するには、資本主義制度そのものを廃止する社会変革が必要であることを誰よりも明確に断固とした一貫性を持って主張した革命家でした。しかし彼は「来るべき革命の日までは労働者は過酷な搾取を黙って我慢すべきだ」という待機主義とは、まったく無縁でした。マルクスは、労働組合の組織と運動の正当性を主張した最初の社会主義者だったし、利潤第一主義の横暴から労働者や国民の利益を守る社会的な強制、すなわち「社会的ルール」づくりの重要な意義を理論づけた最初の社会主義者でもありました。……そのあと「ルールある経済社会は世界の発展方向になった」と続きます。ヨーロッパでは当たり前になっているその発展方向に大きく遅れているのは日本である、ということは間違いありません。マルクスが「共産党宣言」で恐慌が資本主義の「死に至る病」であることを指摘してから既に160年、資本主義はこの「病」から自分を解放するためにあらゆる手立てを尽くしてきたが、ついに解決策を見出すことは出来なかった、ということです。最後に動員されたのは、経済への国家の介入でした。しかし、ケインズ流の介入も、それに取って代わった「市場原理主義」的な介入も、危機の到来を防止することは出来ず、到来したのは「百年に一度の危機」を自認せざるをえないほどの世界的な経済危機でした。……「地球温暖化」も資本主義の「大洪水よ、わが亡き後に来たれ」という無責任主義から出てきたものだと不和さんは指摘します。そういう意味で、中国がどれだけ理性的な対応をするかが、これから求められています。
2010年12月18日
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「ヒロシマ-壁に残された伝言」井上恭介 集英社新書古本屋で手に取った一冊。2003年発行だから、今はおそらく絶版になっているだろう。新書は回転が速い。全くの玉石混交で、中には良書もあるのだが、その多くも出版の波の中で埋もれることが多いだろうとは想像できる。この本はそういう良書の一冊ではないだろうか。広島市袋町小学校の剥げ落ちた壁の奥に、白墨で書かれた伝言が見つかった。NHK広島放送局の著者は被災者の救護所として使用されたここに伝言を残した人、あるいはその対象、家族を訪ね歩く。半世紀の時を越えて、ほとんど意味の分からなそうな伝言を家族が見たとき、彼らはいとも簡単にそのかすれた文字を読み、「ああそうだったのか」とつぶやいたそうだ。「書家でもなければ芸術家でもない人が書いた、しかもただ人を探すという目的のために書いた、文章ともいえない文字が、人の心をこんなにも揺さぶるのか」と著者は書く。あの日、まさに地獄の広島で必死で家族を探した日々。家族はやすやすと「これみてごらん、お母さんの字じゃ」と判じ、「おかあさん、よう書いたねえ」「みんな仲良うせいということじゃ」と呟く。あるいは、見つかった文字から生前の父の言葉を思い出し、自分を奮い立たせた人もいた。伝言ともいえないような一言に、発見当初は関係者を見つけるのは難しいだろうと思われた一言に、思いもかけずすぐに娘さんが名乗りを上げる。当事八歳、しかし彼女は当時の国民学校と母親の様子を鮮明に覚えている。父親が当時のことを書いた遺書を書いていたからだ。村上敏夫。この救護所で全身ガラスまみれ、片目は飛びたして胸まで垂れ下がっていた妻を看病しながら、市役所職員の彼は昼は市内を飛び回っていた。彼は昭和22年8月6日の第一回平和祭で、市長が読み上げる初の平和宣言の草稿を書いた人である。当時はアメリカの統治下であり、投獄はもちろん、命も保証の限りではないと考えていたという。そのとき書いた遺書を繰り返し読んで平和の語り部として生きた村上啓子さんは、すぐにこの文字の意味を悟った。片目を失い、全身に傷を受けていた母親の姿は、良く知る人が見ても誰か分からないほどだった。だから柱に名前を書いたのではないか。村上さんはその文字の前で泣き崩れる。そしてその後、村上さんはニューヨークに行き、9.11テロの遺族に被爆者として会いに行く市民団体の一人となる。伝言は一部保存されて「袋町小学校平和資料館」になった。2005年の夏、私はもしかしたらそこを訪ねたかもしれない。全く覚えていない。平和を求めるには、想像力が必要である。私は改めてそのことを思う。
2010年12月16日
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「武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新」磯田道史 新潮新書今年の正月映画になるというので、読んでみたのだが、大変面白かった。もう6年も前の新書だけれども、ベストセラーという言葉に反発して読んでいなかったことを後悔した。磯田氏は岡山市生まれということで、今まで何回も学習講演に来ているのである。一度お話を聞いておけばよかった。常に現代の視点から、そして和文や史学常識の無い庶民の視点から書いている。いまどき珍しい学者なのである。いくつか面白いと思ったところを抜き書きしたい。「なぜ明治維新は武士の領地権を廃止できたのか。」という興味深い質問に対して明確に答えている。いやあ、こんな根本的な問題について、武士の具体的なデータが揃っていなかったこと事態に私はびっくりした。答えは簡単で、「江戸時代の武士にとって、領地とは、まず「石高」の数字であってリアルな「土地」を必ずしも意味するものではない、ということである。」「本来、武士が領地を支配するには、次のようなことをしなければならない。まず直接領地に行って農作を励ます(1、勧農)。もし領地で事件・訴訟がおきれば処断・裁決する(2、裁判)。そして、秋になれば、田畑の様子を観察して、いくら年貢を取るか、つまり租率を決定する(3、租率決定)。そして現実に年貢を取る(4、年貢収納)。」「戦国時代にならば支配システムでもよいが、世の中が平和になって、零細農民が精密な農業をする江戸時代になると時代に合わない。」「(これを藩士の代わりに藩がする)官僚機構こそ、加賀藩の場合、何を隠そう「御算用場」であった。」「江戸時代の藩官僚の行政能力は、見事なまでに、明治国家に移植されていくのである。「蔵米知行」の制度が確立すると、領主は全く領民の顔を見ることも無く、年貢を取ることができる。」「これが日本の「封建制」の実態であった。領主と土地のつながりが極限まで弱められた領主制とまでは言わないが、近世日本の領主制はヨーロッパなどの感覚で言えば、とても封建制といえるものではなかった。」「現実の土地から切り離された領主権は弱いものであり、トップダウンの命令ひとつで比較的容易に解体されたのである。しかし、武士の領主権が現実の土地と結びついていた鹿児島藩などでは、そうはいかない。西南戦争など激烈な「士族反乱」を経験しなければならなかった。」日本の仕事組織がトップダウンの命令に弱い秘密もここにあるのかもしれない。 猪山家でもっとも収入が多いのは直之であったが、彼のお小遣いは信じられないほど少ない。年間わずか19匁である。この年は閏月があって1年13ヶ月であったから、月々約5840円であったことになる。悲惨というほか無い。 確かに直之は加賀百万石を担うエリート官僚であり、草履取りを連れて外出する身分であった。しかし家来の草履取りのほうが、むしろフトコロはゆたかであった。草履取りは食事と衣服が保障されている上、年に給銀83匁と月々50文(2050円kuma注)の小遣いをもらっていた。それだけでなく、年3回のご祝儀があり、どこかに使いに出るたびに15文の現金収入があったのである。しょっちゅう人前で土下座をし、つらい家事労働をしなければならなかったが、親元に帰れば田畑もあったし、いかに主人が金を持っていなかったかはよく知っていたはずである。 これは本当に悲惨です。ちなみにおばば、妻にも小遣いはあった。 武士の俸禄が米で支給されたのは建前であって、実際に武家屋敷に持ち込まれたのは、ほとんどが銀であった。(実際は銀札。関西は銀、関東は小判だったらしいKUMA注) 猪山家は一年間に27回も貨幣の両替をしている。サムライは金勘定をしないイメージがあるが、そうではない。生活が米の換算レートに左右されていたから相場にも金融にも鋭い目をもっていた。 決済回数で言えば圧倒的に銭使いの機会が多かった。銀は借金返済や頼母子講などの金融関係や、お布施や初尾などに使われるだけで、日用品の購入には使用されていない。映画のチラシに使われている「絵に描いた鯛」は長女のお熊の「髪置祝い」(2歳の子供の長寿と健康を祝う儀式)に使われている。子供に白髪のかつらをかぶせるという。はたして、映画ではどう描くか。ちなみに直之の長男成之の時にはもっと豪華になる。倹約しているが、かなりの出費になったようだ。成之の出産総費用着帯から七夜(初七日)まで銀108匁(約40万円)、このほかお披露目用の絹の産着等で合計158匁(約60万円)。産婆・医者・鍼灸医への謝礼23%、薬代4%、供応費20%、出産費用21%、産着代32%。ところが、このうち半分以上支払ったのは、妻の実家だったらしい。妻の実家は嫁に行った後でも、予想以上に経済援助をしていた。配達便は案外安い。金沢から江戸まで小包が5000円、書簡は700円くらいだったらしい。何かに便乗させたのか。成之は初任給を父母にささげている。一銭たりとも手をつけた形跡なし。さすがに武士の子「孝子」である。明治維新になって多くの士族がリストラされた。武士の商法はほんとうに失敗ばかりだったらしい。直之の親戚でそれまで町人の妻になった娘は一人もいなかったのに、明治五年にはその結婚に異を唱えてはいない。「右様の縁談、当時流行の由」と書いている。この59歳の男、たった2-3年で武士の考えをけろりと変えている。この前後に彼の家では牛鍋も食べている。この変わり身の早さ。海軍に出仕できた猪山家のような家は、年収が今の感覚で3600万円にもなる。対して官員になれなかった士族はわずか150万円ほどである。これが士族にとっての明治維新の現実であった。新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、さんざん利を得たのである。官僚が税金から自分の利益を得るため、好き勝手に制度をつくり、それに対して国民がチェックできないというこの国の病理はすでに、このころに始まっている。ここは大変重要な指摘である。家督は成之にゆずって既に隠居のみの直之であるが、明治五年9月25日、鉄道開業のニュースを聞き、自分が時代の遺物になったことを悟る。新政府の目指すものが、鉄道開業に代表される文明開化であり、これには莫大な予算がかかること、そのため、安然として何もしない士族の家禄は削減されざるを得ないこと、悟ったのである。…と著者は書いている。もう少し直之の「新政府」観を見ていこう。太陽暦が導入された明治六年正月になると「今、一両年のうちには、まるでヨウロッパ同様に相成るべく候。さだめて上(政府)には華士族も廃し、四民同体となし、米屋も廃し、麦作のみにてパンを食わし、」と(日記に)書き、もう何が起きても不思議でない、と思うようになっていた。直之は「廃禄の説は新聞紙にも数度論もあり」もはや「天下の人心」が士族の家禄廃止を支持していると正確に認識していた。しかし、その一方で、士族の「活計の道も立てずして、廃禄に」追いやるのは、皇国の「万民保安の御趣意」に反する(明治6・5・29)と考えていたのであった。…もうこのときから、直之に代表される都市無党派はマスコミによって世論を知り、そしてそれに流されて「仕方ない」と思い、それでも心のうちに「正論」を呟く、という現代の「型」ができているのに、私はただただ驚く。
2010年11月25日
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伊波洋一「普天間基地はあなたの隣にある。だから一緒になくしたい。」かもがわ出版11月28日に沖縄県知事選挙があるが、普天間基地の完全撤去を主張する元宜野湾市長の伊波洋一さんが、世界一危険な基地、普天間基地はどのような基地で、なぜなくさないといけないのか、どうしたらなくせるか、なくしたらどうなるのか、をこれまでの実績含めて全面的に展開した本がこれである。2010年10月10日発行のほやほや、ではあるが、県知事選挙がまじかに迫っている、ぜひ読んで、色んな方法で全国から力を結集し、この選挙をなんとしてでも勝利したい。沖縄が変われば、日本が変わる。アメリカも変わる。 普天間飛行場は、以上述べたことからも分かるように、戦後日本政治の縮図のようなものです。アメリカに占領されて基地を押し付けられたという点でも、アメリカの世界戦略の影響をもろに受けてきたという点でも、日本政府が沖縄県民、日本国民の利益よりアメリカに追随することを選んだ結果が現れているという点でも、そういえます。 「普天間基地はあなたの隣にある」という、この本のタイトルの意味を分かってもらえたでしょうか。ですから、逆に、普天間飛行問題を解決することは、沖縄を変え、日本を変えることにつながると思います。「だから一緒になくしたい」のです。普天間基地はアメリカの環境基準にも明確に違反し、存在が許されない基地なのですが、決して日本政府はそのことでアメリカを責めない、どころか擁護する。それで宜野湾市長の伊波さんがアメリカに乗り込んで告発するところは、今までの経過がホント良く分かりました。アメリカの世界戦略がこの14年間(96年のSACO合意以降)どのように変わったのか、魑魅魍魎の沖縄情勢がやっと頭に入りました。しかも、伊波さんは普天間基地を県内移設を止めさせるどころか、日本のどこにも移設させないのは、今がチャンスだというのです。そうなのです。普天間飛行場はグァムに移転するのです。辺野古に作られようとしているのは、これまでの普天間飛行場代替施設とは違うものです。普天間飛行場の危険性を除去するために、沖縄県内に代替施設を建設しなければならないというのが、辺野古へ基地建設する理由でした。その理由はもはや成り立たなくなりつつあります。普天間飛行場の無条件返還を実現するために、いまががんばりどころです。伊波洋一さんが(当選して)県知事になったとたんに、2014年の普天間のヘリ部隊、海兵隊のグァム移転が始まる。「無条件返還」を勝ち取るには、そのときから綱渡りの政治が始まるだろう。しかし、ひとつわかるのは、それは伊波さんしかできないことで仲井真現知事には決して出来ないことである。(仲井真知事は決して米国に直接行って要望するようなことはなかった)。もしこれが出来たならば、安保条約のしたでも、拡大一途の米軍の日本基地政策の転換を意味し、それは非常に大きな一歩となりうるのである。楽天の【楽天政治 LOVE JAPAN】に伊波洋一さんのネット献金のコーナーが設けられました。(伊波さんの政策やホームページはここから見ることができます)今年から始まったネット献金、最初は楽天カードしか使えず、使いにくかったのですが、今はイオンカードやJCBカードも使えるようになって「使える制度」になりつつあります。最寄でカンパの道があれば、それが一番ですが、それがない場合はぜひともご協力ください。
2010年10月25日
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1食100円「病気にならない」食事 幕内秀夫 講談社+α文庫つい、タイトルに惹かれて買っしまって、思ったほどには100円レシピは載っていなくて、最初のころは中身の無い本だなあ、と思っていたのですが、しばらく読むと、目からウロコの指摘が相当あって、私の食生活がかなり改善できそうです。一応メモとして、気に入った指摘のみ。人間が生きるためにどんな栄養素をどれだけ必要としているかは、科学的にまだ必要とされていない。「六つの基礎食品」「一日三十品目」とか国の「食生活改善運動」こんなものは一切無視してかまいません。雑穀で、おかずを一品減らせます。お米屋さんを利用しよう。お米のブレンドは米屋の腕の見せ所です。ブランド米よりはるかにおいしいお米を手に入れることができます。「お米のマイスター」の表示がひとつの目安。また選んだ米を精米してくれない店は米屋ではなく単なる販売所です。つきたての米を食べましょう。子供はお米だけで成長していきます。ねこまんまも、お茶漬けも子供の好むものは「生きるための食事」です。朝はごはんと味噌汁、漬物で充分。夜はそれに一品加えるだけで充分。副食は漬物で相当まかなえます。漬物を買うときは、香料、着色料、防腐剤の三つが入っているものだけを避けましょう。旬の野菜が一番おいしくて安い。ポン酢は万能調味料。無添加に惑わされない。原料の段階で添加したものは表示が免除されるので注意が必要。味噌の場合ならば、「原料が国産かどうか、発酵年数がどれくらいか」のほうを重視すべきです。弁当はごはんと常備食を詰めるだけで弁当用のおかずは何も作りません。冷蔵庫をあけて昨日の夕飯の残り物をいれるぐらい。我が家の常備食で弁当によく使うのは高菜の炒め物。あとはいかなごの釘煮。梅干です。コンビに弁当はできるだけ安いものを買う。安いほど、揚げ物やわけの分からない食肉加工品が少なくなるからです。要は、伝統的な和食しかも粗食こそが、栄養的にも経済的にも優れているということを書いているのですが、私の生活にぴったり来たわけです。
2010年10月12日
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「茨木のり子集 言の葉 2」ちくま文庫落ちこぼれ 和菓子の名につけたいようなやさしさ落ちこぼれ いまは自嘲や出来そこないの謂落ちこぼれ ばかばかしくも切ない修行落ちこぼれにこそ 魅力も風合いも薫るのに落ちこぼれの実 いっぱい包容できるのが豊かな大地それならお前が落ちこぼれろ はい 女としてはとっくに落ちこぼれ落ちこぼれずに旨げに成って むざむざ食われてなるものか落ちこぼれ 結果ではなく落ちこぼれ 華々しい意志であれ (詩集『寸志』1982より「落ちこぼれ」)「言の葉」の第二集もすぐに買って読む。ここには70~80年代の詩とエッセイを載せる。 なぜか、私の感性にぴったり来る詩が多く、○の数も増えた。「意志」として落ちこぼれてずいぶんと経ったけど、「華々しい」とは全然誇れません。むざむざ食われてなるものか !今回○をしたのは以下の詩です。「握手」「わたしの叔父さん」「四月のうた」「くりかえしのうた」「兄弟」「居酒屋」「トラの子」「古譚」「詩集と刺繍」「癖」「自分の感受性くらい」「知命」「青梅街道」「夏の声」「廃屋」「顔」「木の実」「四海波静」「子供時代」「落ちこぼれ」「冷えたビール」「言葉の化学」「訪問」「隣国語の森」 エッセイも大変興味深かった。機会があればまた取り上げます。
2010年10月10日
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「なにもない旅 なにもしない旅」雨宮処凛 光文社知恵の森文庫本の紹介知らない町に迷い込み、貧乏臭い宿に泊まり、温泉に入ってビールを飲めばあとはすることもなく、うら淋しい気持ちになる。そんな旅を私は愛してやまない─寸又峡温泉、高知、韓国、立石、亀戸、川崎、鶴見、御徒町、湯西川温泉、三浦半島、苫小牧、木更津、網代鉱泉、阿字ヶ浦など、「つげ度」の高い場所を求めてのしみじみ脱力紀行。何らかの拍子にこの紹介文をネットかで読んで、「読みたい!」と思って本屋を探したけれどもまだ置いていなくて、やっぱりネットで注文して読んで見ました。9月20日発行のほやほやです。読んでみると、予想とおり脱力系の「読む人を選ぶ内容」の数々。「うんうん」とか「そりゃ、いくらなんでも…」とか、突っ込みを入れながら読んでいき、三時間で読み終わってしまった。222pで720円は高いなあ、と思いながらもこの「びみょーな後悔感」がこの本の内容そのものだと気がついたので、一応書いておきます。帯には現代版「貧困旅行記」と書いているのですが、そりゃあ都会で暮らす編集者の感覚です。私にとっては極めて普通の旅です。ほとんどの旅が一泊やら日帰りとかで一万円ちょっと掛かっているので、基本的に私よりは贅沢な旅をしています。ともかくも旅の醍醐味は「好奇心」です。小さなことに大発見をした気分に浸り、ちっょとした体験に冒険小説並みのどきどき感を覚えること。それには出来合いの観光地は絶対つまらない。私の旅の信条はできるだけ観光コースに乗らない旅なのですが、この本はそれを追体験できるから面白い。処凛さんもやっぱり絵馬とかの文はじっくりと眺めるし、面白い張り紙やら看板はつい写真に取ってしまうし、居酒屋の隣に座ったときにはその世間話をじっくり聞くし、なのでした。つげファンだったら気に入るエッセイかもしれません。ところで、この旅の間ずっと雨宮処凛のお供をしていたぱぴ子という友達はとてもマネージャーという雰囲気ではないけれども、定職をもっているにしては時間の自由度がありすぎる。何者なのだろう。
2010年10月07日
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「呉子」中公文庫 尾崎秀樹訳戦国時代初期、楚の宰相をつとめて、兵法書としては非常に有名な書。「孫子」ほどには哲学的な洗練は無いが、とても具体的で、「三国志」「水滸伝」その他あらゆる戦争物を書こうとしたならば、たぶん一度は紐解くべき内容が入っている。気になった部分のいくつかをメモする。「戦争の原因として五つ挙げられる。名誉欲、利益、憎悪、内乱、そして飢饉だ。また軍隊の名目にも五つある。義兵、強兵、剛兵、暴兵、そして逆兵である。(略)剛兵とは私憤から兵を起こすことであり、暴兵とは礼節を踏みにじり、略奪をほしいままにする戦争をいい(略)剛兵には外交折衝であたり、暴兵には策略を用い…」「斉の人間は剛毅で国も富んでいるが、主君も臣下も驕りたかぶって、人民をなその政治は寛大ですが、人民をないがしろにしております。俸禄は公平でなく、軍の内部は統一がつかず、第一線の部隊がしっかりしているかと思えば、後方部隊は手薄だといった按配で、充実はしているが堅固とは言えません。この斉を討つためには、味方の兵を三つに分け、敵の左右を脅かした上で追撃することです。そうすれば斉の軍隊はつえいえざるにちがいありません。 秦の人間の性格は強靭で、地勢は険しく、その政治はきびしくて、賞罰も適切だから、人々もまたほかに奪われまいとして譲らず、勝手に闘おうとする傾向があります。この秦の軍隊を攻撃するためには、まず利益があることを見せびらかして釣り、兵を引くことです。兵は功をあせって統制を乱し、指揮官の命令を聞かず攻めてきたところを、伏兵を用意しておいて、うまくチャンスを捉えれば、敵の指揮官を討ち取ることも可能です。」敵を知り己を知らば百戦危うべからず、とかいう曖昧な言葉ではなく、極めて具体的です。もっともこれを実行に移そうとすれば、「そんな理屈通りいくか!」と現場から不平不満は出てきそうではありますが、極めて高所から全体を眺めた「戦略」だと思います。いまから2000数百年前の日本にはこのような複雑な思考をする人はいたでしょうか。いなかったと思います。日本列島には文字が無かったからです。頭のいい人はいたと思います。そうでないとあんな見事な文明は築けない。しかし、文字が無いと、やはり高度に洗練された思考はできないのです。
2010年09月29日
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茨城のり子さんの自選作品集の刊行が始まった。思いのほか、知らない詩が多くて大変よかった。「茨木のり子集 言の葉1」ちくま文庫全三巻です。一巻目は1950-60年代です。エッセイやラジオドラマ、童話なども入っています。山之口獏さんについて書かれたとっても素敵な詩人評伝も入っています。気に入った詩には○をすることにしています。下手をすると全部に○をしそうな雰囲気にもなりますが、そうはならないのが「詩」です。詩は科学ではありません。いくら好きな人の文章でも、全て説得されるわけではない。科学ならば、完璧な文章を書けばすべて気に入るでしょうが、「詩」には好き嫌いがあるのです。○をした詩は「もっと強く」「小さな渦巻」「いちど視たもの」「敵について」「ジャン・ポウル・サルトルに」「悪童たち」「わたしが一番きれいだったとき」「山の女に」「あほらしい唄」「はじめての町」「蜜柑」「せめて銀貨の三枚や四枚」「女の子のマーチ」「汲む-Y・Yに-」「本の街にて -伊達得夫氏に-」「りゅうりぇんれんの物語」。たぶん他の人が選んだならば全く違った詩になるでしょう。(実際詩集の題名にもなっている「対話」も「見えない配達夫」も入っていません)「ことばの力 平和の力」で紹介した考え方の具体的な例になっているような気がするので、「小さな渦巻」という詩を紹介したい。ひとりの籠屋が竹籠を編むなめらかに 魔法のように美しくひとりの医師がこつこつと統計表を埋めている 厖大なものにつながるきれっぱしひとりの若い俳優は憧憬の表情を今日も必死に再現しているひとりの老いた百姓の皮肉はとなって誰かの胸にたしかに育つひとりの人間の真摯な仕事はおもいもかけない遠いところで小さな小さな渦巻をつくるそれは風に運ばれる種子よりも自由にすきな進路をとりすきなところに花を咲かせる私がものを考える私がなにかを選びとる私の魂が上等のチーズのように練られてゆこうとするのもみんな どこからともなく飛んできたりふしぎな磁力でひきよせられたりしたこの小さく鋭い龍巻のせいだむかし隣国の塩と隣国の米が 交換されたように現在 遠方の蘭と遠方の貨幣が 飛行便で取引されるようにそれほどあからさまではないけれど耳をひらき目をひらいているとそうそうと流れる力強いある精微な方則が地球をやさしくしているのが わかるたくさんのすばらしい贈物をいくたび貰ったことだろうこうしてある朝 ある夕私もまた ためらわない文字達を間断なく さらい一篇のの詩を成すこのはかない作業をけっして。
2010年09月15日
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