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日本インターネット映画大賞(外国部門)に投票します。今年の映画館での鑑賞本数は101本でした(韓国旅行での鑑賞含む)。よって、その中から20本も選ぶことでさえ困難だったことをお察しください。で、いざ選んでみると、自分の置かれている境遇とか、悩み事とか、興味関心がそのまま反映しているとことに改めて驚くわけです。詳しくはリンク先をご覧ください。ベストテンの邦画編はこちら。なお「午前10時の映画祭」の作品は作品賞の対象から外しました。作品賞投票ルール(抄) ・選出作品は5本以上10本まで ・持ち点合計は30点 ・1作品に投票できる最大は10点まで【作品賞】(5本以上10本まで) 「息もできない 」 6点 「フローズン・リバー 」 6点 「ロビンフッド 」 4点 「インビクタス/負けざる者」 4点 「フィリップ、きみを愛してる」 2点 「ベストキッド 」 2点 「グリーン・ゾーン 」 2点 「プレシャス 」 2点 「カティンの森 」 1点 「ゾンビランド 」 1点【コメント】「息もできない」と「フローズン・リバー」どちらを上にするか最後まで迷った。両者とも貧困がテーマ、単に悲劇性だけが出てるわけではないという意味で秀逸なものがある。前者は神話的な構成が素晴らしい。後者は見事なサスペンスである。「ロビンフッド」はスカッと楽しめるハリウッド映画の中では久々のヒットだったので三位にしました。しかし、イーストウッド監督の「インビクタス」は今年も水準以上のものを見せてくれました。恐れ入るしかありません。-----------【監督賞】 作品名 [ヤン・イクチュン ] (「息もできない」)【コメント】11月この映画のロケ地を探してソウルのカンアク区を歩きました。少し違うところを歩いたのかもしれませんが、坂にびっしりとへばりつくように家が密集していて、その家の総てに屋上には貸家用の家がありました。障害者の子供と母の二人連れがゆっくりとその上に上がっていきました。このようなところに住みながら、労働人口の半分以上が非正規という現実の中で、監督はこの物語を作ったのだなあ、と思いました。【主演男優賞】 [ジム・キャリー ] (「フィリップ、きみを愛してる」)【コメント】この映画のために死ぬほど痩せたというだけではない、フィリップの生き方自身が、私はジム・キャリーの「さまざまな仮面を使い分けるけれどもその本質はシリアスな顔にある」人生と重なるような気がする。【主演女優賞】 [メリッサ・レオ ] (「フローズン・リバー」)【コメント】ファーストシーンは衝撃的だ。てっきり老婆を写しているのだと思っていたら、幼い子供を持つヒロインだった。しかもあれで40歳後半だという。ものすごい役つくりである。あれで一気にこの作品世界に入っていけた。【助演男優賞】 [該当者なし ] (「 」)【助演女優賞】 [ミスティ・アップハム ] (「フローズン・リバー」)トレーラーハウスに住む若くて気の強い、そして精神的なもろさを持つ少数民族の女性を存在感持って演じていた。【ニューフェイスブレイク賞】 [キム・コッピ] (「息もできない 」)【コメント】演技経験のない彼女をよくぞ見つけてきたと思う。終わってみれば、彼女しかいない。他の韓国女優陣で出来る人を思いつかない。【音楽賞】 「オーケストラ!」【コメント】最後の12分間のチャイコフスキーは映画史に残る名場面でした。【ブラックラズベリー賞】「運命のボタン」途中までは非常に素晴らしいサスペンスだったんです。「あれ」が出てくるまでは。椅子からずり落ちそうになりましたよ!特別賞 よくやった!で賞 「午前10時の映画祭」「フォロー・ミー」は今回初めて見た。素晴らしかった。本来ならばベスト5に入る作品。「パピヨン」は30数年ぶりに見た。自覚していなかったが、私の人生に影響を与えていた映画だと分った。今年一年、つきあっていただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
2010年12月31日
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ずーと毛嫌いしてきたアメリカホラー映画ですが、去年の「スペル」以来、その呪縛が解けたようです。それと機を一にしたように最近は怖くない吸血鬼映画「トワイライト」シリーズなども出てきています。監督 ルーベン・フライシャー 出演 ウディ・ハレルソン (Tallahassee) ジェシー・アイゼンバーグ (Columbus) アビゲイル・ブレスリン (Little Rock) エマ・ストーン (Wichita) アンバー・ハード (406) この「ゾンビ」モノも、ちゃんとホラーものの原則「怖い」「汚い」「驚く」は踏襲しているのですが、それ以外に「青年の成長」「パロディ」「恋と友情」も入れ込んでいて、まるで遊園地みたいなてんこ盛りのエンタメになっています。途中で登場人物が確定して以来、たぶん大丈夫だろうな、と思いながらも「ゾンビ」モノである以上は「普通の人が突然ゾンビに変わる」という映像もほしいところなので、いつ四人のうち一人がゾンビに変わるか、最後までどきどきせざるを得ないかという面もあるので、アイディアの半分は先が見えるのだけど、やっぱりどきどきしながら見るというのは、ちょうど質のいいお化け屋敷と同じです。やっぱり一番秀逸だったのが、ビル・マーレイの登場場面。マーレイ大好きな映画仲間がいるのですが、大きく宣伝されていないだけに見逃していないかものすごく心配です。この作品は見逃しちゃいけないでしょ、という作品です。ウディ・ハレルソンは十二分に魅力を出したけど、アビゲイルちゃんは今回は残念でした。その代わりエマ・ストーンが気の強い女性でニートの青年が惹かれるのも分かる気がしました。楽しい一本でした。でも続編は要らないです。ましてや、3Dなんて! それよりも、もっと新しい映画にアイディアを出せ!と言いたい。今年の映画館での映画鑑賞はこれで終わり。これからまとめをしていきます。
2010年12月29日
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こんな風な作劇は好きです。虚実を織り交ぜてエンタメに徹して、いい男といい女が出て、最後は「こうして彼は伝説になった」という風に締めると言う作り方、好きです。監督 リドリー・スコット 出演 ラッセル・クロウ (Robin Longstride) ケイト・ブランシェット (Marion Loxley) ウィリアム・ハート (William Marshal) マーク・ストロング (Godfrey) マーク・アディ (Friar Tuck) (以下完全ネタバレです。お気をつけください)途中、八割がたまではこれは史実を基にした物語かと思って見てしまう。良く分からないけど、時代考証的に凝っているなあと思わせるイギリス十字軍のフランス領侵略、ノッティンガム領の村の造り、ロンドンテームズ川の風景。一方で、時代考証をしすぎたためなのか、ロビンフッドは弓の名手のはずなのに、少しリーダー的素質のある弓手に過ぎなくて、逃げるゴトフリーを射るけど失敗してしまう。しかし、このあたりが監督と脚本家の仕掛けた巧妙な罠だったと今は分かる。話が進むにつれ、ロビンフッドは実はイギリス全土を巻き込んだ自由思想家の息子だと知らされる。のちにロビンフッドの口から語られる「自由憲章」の中身は明らかに、ルソーの社会契約論のそれだし、アメリカの憲法を髣髴させるのである。12世紀のイギリスにそんな思想運動があったとは、私は知らない。そんなふうに疑っていると、なんと愚王のジョンは、イギリス諸侯をまとめるためとはいえ、その「自由憲章」を認めるというのである。-おかしい……初めてそう思うようになった。そのあとはスペクタル場面、フランス軍の海岸上陸の仕方はほとんど第二次世界大戦の海兵隊の上陸の仕方だ。あんな上陸艇、12世紀にはおそらく無いのではないか。雨のような弓で射殺される描写はほとんど「プライベートライアン」である。ロビン率いるイギリス軍は卑劣な内乱工作を使ったフランス王の裏を取り、圧倒的な団結力でスカッと勝利する。その前後でロビンは神がかり的な弓の腕前を二回見せるのだ。「自由憲章」はジョン王の裏切りであっけなく闇に葬られ、そしてお尋ね者(アウトロー)になったロビンはそこから初めて「伝説」を始めるのである。終わり。こういう終わり方は好きです。この巧妙に張り巡らされた「嘘」が終盤になってわかって、その「映画的嘘」を分かったことがなんとも心地よい、というのがやっぱりエンタメの醍醐味ではないだろうか。今年のハリウッド映画に関して言えば、この映画がベストワンです。無骨だけれども賢く、行動の人をラッセルクロウが見事に演じ、情熱と男勝りと色気を渾然一体とさせたマリアンをケイトブランシェットが演じ、見事だった。ロビンが感情を表に出さない分、マリアンの感情がひしひしと伝わり、それがロビンの行動となってドラマを創っていくというのが上手くできていた。ケイトは主演女優賞ものの演技だったと思う。
2010年12月21日
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これはまだ未見の作品だった。アメリカの有人宇宙飛行船計画(マーキュリー計画)の七人の飛行士の物語である。監督 フィリップ・カウフマン出演 サム・シェパード、エド・ハリス「ライトスタッフ」というは、「ライト兄弟のように空を飛ぶスタッフ」ということではなくて、「正しい資質」という意味のようである。男はいつの時代でも、世の中で一番乗りを目指す。そのためには命を顧みない男たちがいる。アメリカの冒険心を三時間かけて描き出した大作ではあるが、今回は流石に長かった。(193分)私はこの手のアメリカ映画に乗れないと言う事もあったのであるが、ところどころはいいところはあった。ただ、ソ連とのロケット競争を正当化するために、宇宙計画が進められたことを考えると、あまり一生懸命になれないのである。途中で尿意を催した宇宙一番乗りの宇宙士のように途中で尿意を催したことが影響しているのかもしれない(^_^;)。昔かたぎのアメリカの妻は大いに夫を立てていたようである。もちろん二人きりになると、文句を言うが、それでも妻を一人きりにしたことが別れる原因にはならない。現代アメリカとは大きな違いであり、現代日本に近い。これくらいがいいんじゃないだろうか。
2010年12月12日
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11月は韓国旅行があったので、日本で見た映画は二本だけになりました。韓国では四本見ました。詳しいことは韓国旅行記に書くつもりですが、題名は「ソワハムケ ヨヘガヌン ボプ」(牛とともに旅するボプ)「プタン コゲ」(The unjust)「トゥ ヨジャ」(2人の女)「ぺスティバル」(フェスティバル)「エクリプス/トワイライト・サーガ」前回の映画は狼族の彼が登場して横恋慕して、最後のほうで新しいドラキュラ族たちが登場してきて、話が動き出して終わりということで、非常に退屈だった。狼族の彼がベラのことを好きだというのは既に織り込み済みなので特に新鮮な話が展開すると言うわけではなかったのである。監督 : デビッド・スレイド原作 : ステファニー・メイヤー出演 : ロバート・パティンソン 、 クリステン・スチュワート 、 テイラー・ロートナーさて、今回は話は全然展開していないといえばそうかもしれない。けれども終始退屈しなくて、とても愉しんだ。観客が10人もいなかったということが気にはなるけど。編集の仕方が適度に「この物語ファンのために作っている」ということで、映画を見てきたものには周知のことは省略して上手いし、その上で今回は一人ひとりの背景を簡単に紹介し、適度にクライマックスシーンは持ってくるので結末は分かっていても見させてくれるし、三角関係に対しては、適度に緊張感を持たせて持続させるという韓国TVドラマが得意な恋愛ドラマの王道を、なんと日本よりも早くアメリカが達成してしまっていることに嫉妬さえ覚えるのです。特に萩尾望都「ポーの一族」でも使われているが、、彼らがドラキュラ族に加わるきっかけとなった事件は、当然もう何百年も前の話であって、貴族の世界やら、南北戦争の世界やらが背景に少しだけ見せてくれるのがたまらないわけです。さて、次回は当然、ベラがドラキュラ族になるかならないか、というこどがクライマックスになるわけでしょう。一年に一回のお祭になってきました。楽しみです。「ミレニアム2 火と戯れる女」監督 : ダニエル・アルフレッドソン原作 : スティーグ・ラーソン出演 : ノオミ・ラパス 、 ミカエル・ニクヴィスト 、 レナ・エンドレ体調が悪くて半分以上寝てしまった。しかも初めての鑑賞。全く付いて行けず、感想書くのはできません。
2010年12月09日
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監督 : ファン・ホセ・カンパネラ出演 : リカルド・ダリン 、 ソレダ・ビジャミル 、 ギレルモ・フランチェラ 、 パブロ・ラゴ 、 ハビエル・ゴディーノこの題名の意味をずっと考えながら見ていた。作品はそのほとんどを「人の視線」で映っている。頻繁に移動する映像と、フォーカスが切り替わる映像で確信的にそれをしているのである。しかし、それならそうと徹底してくれればいいものを時々「監督の視線」でしかないような映像もあるものだから、興ざめする。犯人は誰か、という映画かと疑っていたら、いとも簡単に犯人は絞られてしまう。じゃあ何が「秘密」なのかとずーと思っていたら最後はラブストーリーに決着するという趣向であり、まあ面白い映画ではあったが、うーむ、もうちょっと呻るような演技と映像を見せてほしかったと思う。期待していただけに欲求不満。
2010年10月29日
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独身30台女性が、ある日王子さまならぬスパイに出遭って「夜も昼も」怒涛の展開のスリルと大冒険、夢の世界にいざなってくれて、いつの間にか「騎士と毎日」暮らすようになる、ハリウッド印突っ込み満載ラブコメディである。監督 : ジェームズ・マンゴールド脚本 : デイナ・フォックス 、 スコット・フランク出演 : トム・クルーズ 、 キャメロン・ディアス 、 マーク・ブルカス 、 マギー・グレイス 、 ピーター・サースガード楽しめました。デートムービーには最適です。独りで見ましたが……(泣)突っ込みは野暮というものなんですが、最初のところでトム君10人ほど殺しちゃうんですが、あれは同僚でしょ?それとやっぱり失礼極まりないのだけど、キャメロン・ディアスさんは年の割には老けちゃいました。少しイタイ場面もあります。とりあえず今度からは「安全で安心な処にいこう」と言われたら先ずは逃げることにしよう。
2010年10月22日
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「ザ・ウォーカー」と非常に似通った映画だということを聞いていたので、多くは期待しまい、と思い見たのです。ただ、シャーリーズ・セロンさまが出演しているので半分義務感で見ました。監督 : ジョン・ヒルコート出演 : ヴィゴ・モーテンセン 、 コディ・スミット=マクフィー 、 ロバート・デュヴァル 、 ガイ・ピアース 、 シャーリーズ・セロン確かに、件(くだん)の作品のように、世界が滅亡したあとのロード・ムービーであり、途中人間性をなくした者と戦ったり、逃げたりする場面はある。件の作品では『本』を運ぶことが目的であったが、この父親も「火」を運んでいるという。しかし、実際映画を見てみるとこの作品は件の作品とは描いているものが全くちがう。件の作品は結局アクション映画であり、悪人(ゲイリーオールドマン)から「キリスト教の聖典」を守るという話だった。この作品には『神』という言葉は確かに出てくるが、実はそれを飛び越えて『人間とは何か』ということを問うていると思う。父親が言う『火』とは具体的な火をおこす技術のことではない。(まだだれでも火をおこせる)「胸にある火」つまり「人間性」、どんなに飢えても人を喰うということはしない、食料を奪うために人を殺しはしない、という最後に残ったぎりぎりの人間性のことである。この世界がなぜ滅んだのか、どうやって滅んだのか、なぜ家や道路の建造物はそのまま残っているのに、人間や動物はいなくなっているのか、というのは良く分からない。(時々大地震が起きるし、常に空は雨雲に覆われているが、それはなにか関係しているのだろうか)大きな事実は動物も植物も基本的に自然はすべて滅んでいるということだ。だから人間は家に残った缶詰などを見つけて食べるか、食人、しか生き残るすべが無いのである。基督教文化圏では「文明とは自然を開発した国」という意味があった。しかし、この作品では開発すべき自然が残っていない。そのとき、弱肉強食なのだから、人を食べることも選択肢の一つではないか、そういう考えが生まれてもおかしくは無い。という選択肢も確かにありうるのではある。父親は神の使徒でもなんでもない。普通の父親だ。だから偶然手に入れた多量の食料を守るために危害の加える可能性のない盗人を殺すような目にあわせも厭わない。しかし、息子は純粋に「善き人」であろうとする。このあたりがとても「神話的」である。シャリーズ・セロンはこのような世の中になったら生きていけない、最初息子を連れて、最終的には独り死を選ぶ。されもひとつの選択肢ではあるが、セロン様にそれを選んでほしくなかった。最終的には「少しだけの希望」を描いて終わるのであるが、あれはちょっとした慰めに過ぎない。(エンドロールの「音」は南の楽園に着いた未来の音だという指摘があった。私は過去の音だと思っていた。どちらが正しいのだろうか)この映画の醍醐味は、究極のの選択の中で人間は何を選ぶのか、という点にあり、それはそれで見ごたえがあった。
2010年10月18日
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ムービックス倉敷では秋の500円の特別上映をしていて、今年は話題作だったけど、なぜか上映プログラムに乗らなかった2作を一週間づつ掛けていました。(「ハート・ロッカー」とこれ)と、いうことでもうDVDは出てるかもしれませんが、大画面で見るほうがいいと、遅くなりましたが、映画館で見てきました。監督・脚本 : ジェイソン・ライトマン原作 : ウォルター・キム出演 : ジョージ・クルーニー 、 ジェイソン・ベイトマン 、 ヴェラ・ファーミガ 、 アナ・ケンドリック 、 ダニー・マクブライド良作です。と、いうか身につまされました。ジョージー・クルーニーは妹の結婚式の当日、マリッジ・ブルーに陥って結婚式を止めたいと言い出した婿を説得するために、いいたくない言葉を言ってしまいます。「確かに結婚をしたならば、決められたレールを進まなくちゃいけない。けれども、今まで幸せだと感じたとき、君は一人だったか?」「いや独りじゃなかった」「昨晩、結婚を止めたいと思ったとき、君は夜中に一人じゃなかったか」「ああ、そうだった」これで婿殿はあっさり、マリッジ・ブルーを克服します。そのときまで彼は家族にとっては「いないも同然」の存在だった。仕事でいつも出張中だったから。この説得で、彼は姉から「ウエルカム、ホーム」と呟いてもらえる。ずーと独身貴族を貫いてきた彼が初めて「家族もいいな」と感じたとき、彼には残酷な現実が待っていたのである。彼がマイレージにこだわる気持ちは良く分かる。私もクーポン、ポイント、オタクなので。それ以上に「家族なんてなくてもいい」と彼はたぶんどこかの時点で諦めたと思うのであるが、その「やせ我慢」が、マイレージ集めに走った理由なのである。私の映画の趣味やら読書の趣味やら、このブログだって、ひとつの「逃げ」なのかもしれない。脅威の1000万マイル達成に対してあんまり達成感をもてなかったのは、無理からぬところである。妹夫婦に世界一周マイルをプレゼントしても「たった」50万マイルしか減らない。おそらく20年くらいかけて達成したのだと思う。彼がリストラした人たちが最後の場面で、家族の絆を話す。一方で、彼は空港の電光掲示板を見つめながら、唖然としている。この場面に、この映画の言いたいことのすべてがあるのだろう。
2010年10月14日
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「くそ野郎、俺は生きてる」小学校五年、自分で決めて自分のお金で初めてみた映画は「ポセイドンアドベンチャー」だったけど、その次の次に自分で決めてみた映画はこれだったかもしれない。最後老人になったスティーヴ・マックイーンが脱獄不能といわれた島を抜け出る。そのときの青い海とテーマ音楽が頭から離れないでいる。いや、その場面しか覚えていない。(You Tube参照)けれども私はそれ以降、「自由」という言葉を聞くと、非常に高い確率で「パピヨン」という言葉が思い浮かんでいた。あれ以降一度もこの映画を見ていないのにもかかわらず、「パピヨンにおける自由とはなにか」一言も語れないのにもかかわらず、だ。一体あれはなんだったのか。それを確かめたくて、おそらく37年ぶりに、大画面で「パピヨン」を見た。監督 : フランクリン・J・シャフナー出演 : スティーヴ・マックイーン 、 ダスティン・ホフマン 、 ロバート・デマン 、 ウッドロー・パーフリー 、 ドン・ゴードン(完全ネタバレです)胸に蝶の刺青のあるパピヨンは自称「無実の罪」で南米仏領ギアナの島の刑務所に入れられる。刑務所暮らしには経験のあった彼は最初から脱獄を考えていた。過酷な労働、非人間的な扱い、(ワニを素手で捕まえるのを強制させられたりする。看守たちはそれでワニ皮を手に入れるのである)。脱獄仲間のドガ(ダスティン・ホフマン)は偽札の名人だが、ある日彼を助けるためにパピヨンは看守を殴り逃亡を図りつかまってしまう。この刑務所には独房があって、一回目は二年、二回目は五年の罰が与えられる。そこで大抵の人間は死ぬか、精神をこわされるかされる。もちろん、それを狙っての独房であった。最初のころ差し入れをしていたドガの名前を最後まで割らなかったためパピヨンは食事を半分にさせられる。パピヨンは毎日の運動を怠らず、虫を食って生き延びる。ここの鬼気迫る映像が実はこの映画のハイライトである。これによってパピヨンとドガの友情は確かなものになる。パピヨンとドガたちは一度は脱獄を成功させる。そのとき、彼らを裏切るのは白人であり、修道所のシスターである。そしてパピヨンを助け、一時の平穏を与えるのは、島に隔離されたハンセン病患者であったり、半裸で生活している現地民であるという対比が面白い。シスターに密告されて兵士に銃で思いっきり足を殴られる。そのときの叫びから一転して五年後、独房から出てくるマックイーンを映し出す。この転換が素晴らしい。白髪にはなっているが、今度は五年の独房生活だったはずなのに、しっかりとした足取りで意志の強い姿で彼は出てくるのである。それだけでこの五年を彼がどのように過ごしたかがわかるというものだ。今度は潮流と鮫で脱出不可能といわれる島に島送りされる。そこには、ドガが暮らしていた。逃げなければ、自給自足の生活になっていて、悪くは無い。けれども、食料を盗みに来る影におびえるドガの姿を見て、隔離される生活の中で、ここには精神の自由はないとパピヨンは悟るのである。脱出は一か八かの確立である。最初一緒に島を出ると言っていたドガは土壇場になって島に残ることを選択する。パピヨンがうまく潮流に乗ったのを確認するドガの寂しげな表情がたまらない。最後の場面は青い海で終わるのだとばっかり思っていたら、現在はもう閉めているギアナの刑務所(おそらく本物)の草と泥で朽ちた映像で終わっていた。自由とはなにか。あえて言葉で言えば、自由とは勝ち取らなければならないものであり、その多くは「権力」から勝ち取るべきものである。ということになるのかもしれない。まさか、少年の私が、そんなことを自覚していたとは到底思えない。しかし、心の奥底に「自由」の核心の形が映像として組み込まれたように思える。名画というのはそれだけの力を持つということなのかもしれない。
2010年10月08日
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原題は「海雲台(ヘウンデ)」釜山市にある大海水浴場である。釜山に行ってみればわかるが、明らかに日本の大きな港町と海岸の景色が違う。これでもか、というぐらい高層建築が海沿いにニョキニョキそびえ立っているのである。韓国には地震がないから許可が降りやすいのである。だから市民が地震に無関心なのは当たり前。しかし、地震にたいする知識がないからと言って、いくらなんでも100m級の高さの津波を持ってくるのはどうかとは思う。まあ、その辺りはあまり突っ込んでも仕方ない映画ではあります。当然のことながら、対馬が崩壊するような地震なので、北九州は壊滅状態になるだろうし、他の釜山市内や韓国南沿岸も壊滅状態になるでしょうけど、そんなことは映画の隅っこにもありません。監督・脚本 : ユン・ジェギュン撮影 : キム・ヨンホ編集 : シン・ミンギョン出演 : ソル・ギョング 、 ハ・ジウォン 、 パク・ジュンフン 、 オム・ジョンファ 、 イ・ミンギ 、 カン・イェウォン 、 キム・イングォン日本は映画を見てげらげら笑うのが下手なのか、1/3ぐらい入った映画館の中で観客にほとんど笑いは起きませんでした。本来は大いに笑って、大いに泣いて、感情をぐらぐら揺すられて、細かいところはもういいや、と思いながらスッキリして劇場を出てくるべき映画なのでしょう。なんか、置いてけぼりを喰ったような気分で映画館を出たのでした。というのも原因の一つだろうと思います。アニメ以外で吹き替え上映しかないというのは、観客か作品そのものを馬鹿にしているとしか思えません。ソル・ギョングを久し振りに見ました。実生活で若い女の子と結婚したからといって、あんなにも子供のけんかみたいな演技して若い女の子の恋人の役をしなくてもいいのに。韓国の現代を代表する役者なんだから、もっと見応えのある作品に出て欲しい。
2010年09月30日
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(彼女たちはイタリアの街角で食事をしながら"言葉"の遊びをしている。自分を一言で言うとしたら、と聞かれ難しいとリズは答える。)『結婚は』『失敗したわ』『恋人は』『失敗したわ。ライター…』『それは仕事だ、君じゃない』監督 : ライアン・マーフィー原作 : エリザベス・ギルバート出演 : ジュリア・ロバーツ 、 ハビエル・バルデム 、 リチャード・ジェンキンス 、 ジェームズ・フランコ 、 ビリー・クラダップ 、 ヴィオラ・デイヴィスNYで離婚して、すぐにできた恋人とも別れ旅に出る。一年間、イタリア、インド、バリと暮らせる貯金はあったのかもしれないが、離婚訴訟で一文なしになったといっているから、全貯金をはたいて一年限定の旅に出た、つまり賭けだったのだろう。結局夫と恋人を自ら手放して、自ら傷ついて、それを癒すだけの旅だったとしか思えない。しかも、最後の最後までどうしてリズは二人を振ったのか、わからなかった。だからバツイチの二人が結びついても、結局恋多き女がたまたまバリ島で相性のいい男とめぐり合ったのだとしか思えない。その意味ではリズには共感できない。けれど、旅には出たくなる。無性に出たくなる。イタリアやインド、旅人の視線(町通りの水栓で顔を洗う老女、「おいしいわ」「おとといきやがれ」身振り手振りも既に言語のイタリア語、衛生状態の悪さと人口密度の高さに驚く最初の印象のインド)から、やがては生活者の視線に変わっていく映像が興味深い。滞在型の旅の面白さ、旅がしたい、旅がしたい、すくなくとも20日以上の旅が自分とはなにか、一言で言い表せるものを探してみたい
2010年09月27日
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昨夜から今朝にかけて雷交じりの雨が降り出し、空気がこっそり秋に変わって、私自身はこの数年間いいたくていえなかった人に啖呵を切った夢を見て、なんだか気持ちよく目を覚ましたのでした(^_^;)さて、この映画も気持のいい映画でした。ただし夢のように、映画館から出たその時点で内容に付いては忘れてしまうような種類の映画です。特攻野郎Aチーム THE MOVIE正直途中ついていけない場面もあった。次から次へとあたらしい作戦、裏をかく作戦の連続で、爆弾も派手に使っているし。こういう映画が疲れるようになったということは、もしかしたら歳をとったということなのだろうか。それとも体調が悪かったんだろうか。監督 : ジョー・カーナハン 出演 : リーアム・ニーソン 、 ブラッドリー・クーパー 、 クイントン“ランペイジ”ジャクソン 、 シャルト・コプリー 、 ジェシカ・ビール 、 パトリック・ウィルソン アメリカ事情に詳しい人ならば、イラク戦争や、いくつかのひねりの効いた風刺やコブシにも気がついたのかもしれないが、まああんまり深めるようなことじゃ無いだろう。明らかに死んでしまうような場面でかすり傷を追わないでぴんぴんしているのも、もちろん深めるようなことじゃない。果たして私が年を食ったのかどうか、もう一度シリーズ物があったら見てもいい。ところでエンドロールのあとの映像の意味はなんだったんだろう。
2010年09月23日
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先ずは見ないことには、何もいえない。批判的なうわさは幾つも聞いているから、「映画を見ることはこの映画を利することになるから見ない」という人がいる。それもひとつの見識だけれども、私はその人たちはこの映画を批判することはできないと思っている。映画は実際に見ないと褒めることも批判することもできない、というのは私の譲ることのできない見識である。監督・出演 : ルイ・シホヨス 脚本 : マーク・モンロー 出演 : リック・オバリー 、 チャールズ・ハンブルトン 、 ジョセフ・チズルム 、 サイモン・ハッチンズ 、 マンディ=レイ・クルークシャンクと、いうことで見てみた。私の感想は、ドキュメンタリーとしても、そのテーマもやっぱり褒められた映画ではない、というものだ。あらかじめ結果ありきの「イルカ虐殺批判映画」をつくろうということはドキュメンタリー作家としては「あり」だと思っている。ムーア監督の映画はそもそもそうだ。ドキュメンタリーに「中立的な視点」なんてあってはならない。主張がぼやけるからである。ただし、その描き方は工夫しなければならない。自分の主張を押し付けるだけならば、ひとりの意見を延々と講演のように流し続ければよい。マイケル・ムーア監督は極めて政治的なテーマを「笑」と「パフォーマンス」でエンターテイメントとして見せた。多くの反対意見も載せて、それを「笑」と共に反論して見せた。そこが素晴らしかった。この監督はパフォーマンスもやって見せる。しかし、それは形だけで全然笑えない。反対意見に反論もしたけれども、インタビューの中に少し入っているだけで、説得力は無い。隠しカメラの設置にむけて、まるでスパイ大作戦であるかのように見せる。それは「狙い」なのだろう。しかし、テンポは悪い。最後に衝撃的な場面を持ってきたのも「狙い」だろうが、アレで二時間持たせるのはつらかった。隠し撮り自体が悪いとは思わない。戦場で人が人を殺すところを撮ろうとしたらならば、隠れて撮るしかないだろう。監督にとっては「イルカ虐殺」は戦場で撮るのと同じ意識だったのだろうし、映画全体では警察含めて太地町全体が「敵」になるように編集している。私には隠し撮りの言い訳のように思えた。ドキュメンタリーとして褒められた映画ではない、といった所以である。そのテーマはどうか。映画の最後にテロップがつく。「映画の中で、太地町は鯨肉と偽ってイルカ肉を販売していると言ったが、町はそれに反論している。イルカ肉から基準値以上2000ppmの水銀が検出されたと言ったが、全てのイルカ肉がそううかどうかは分からない」確かそんな意味のテロップだった。はたしてこれが外国版の映画にもつくテロップなのだろうか。こんなテロップがついてもなお、アカデミー賞を獲ったというのだろうか。映画の中では水俣病の映像の紹介に多くを割いているのだ。水銀の恐ろしさを目いっぱいあおって、こんな最後の一言で事実の公平さを保とうとしているというのか。これだけで私はテーマに説得性はなくなった、と思った。この映画で言いたいことは単純である。イルカはこの太地町で年間二万数千頭も捕獲され、若くて使えるのは世界のイルカショウのために売られていき、あとは食用にされる。食用肉は水銀が高濃度で入っていて危険である。イルカの捕獲は賢い動物の虐殺であり、許すことができない。イルカの飼育も音に敏感なイルカにとっては苦痛でしかなく、反対である。イルカは確かに漁ではない。魚ではないからだ。けれどもりっぱな猟だと思う。種としての頭数の危機が無い限り、それに対する制限が国際的に決められていない限り、私は許されるべきことだと思う。イルカがかわいそう、というのはたんなる感情の問題である。ただし、町や漁協側にも問題はある。実際はきちんとした頭数管理はできていないのが現状である。IWCは大きな鯨の管理で精一杯で、小さな鯨については手が回っていない。太地町の人たちは種の危機が無いのかどうかについては、学術的な裏づけをもっているのだろうか。太地町立のくじら博物館では説明版でこっそり「地域的管理機構の設立が必要である」と主張はしているが、果たしてなにかしているのだろうか。もちろん映画はそんな問題意識は持っていない。ただひたすら蛮行を止めろ、と叫ぶだけである。この映画、編集の仕方ではおそらく全く違った映画ができるだろう、と思う。8月6日私は紀の国半島一周の旅の途中太地町に寄った。私が半日太地町に行っただけで知ることができたことがある。この写真を見てほしい。くじら博物館でやっていたショウの写真である。これは、イルカショウではない。鯨ショウである。えっ、鯨ってこんなに小さいの?小さいのだ。鯨の種類は千差万別ある。鯨とイルカは同じグシラ目であるということを日本人はほとんど知らない。鯨とイルカを区別しているのは、その体長だけだということを日本人はほとんど知らない。4メートル以下の体長の鯨は全て「イルカ」なのである。(だから鯨捕獲には鷹揚な日本人もイルカ捕獲にはびっくりして「良くないことだ」というのである)ゴンドウ鯨はIWC規制の管轄外である。もしかしたら、現在流通で出回っている鯨肉のほとんどはイルカの一歩手前のゴンドウ鯨なのかもしれない。そこから「イルカ肉を食べてどうして悪い」という発想が生まれるのはごく自然な成り行きだろう。実際太地から勝浦を通って新宮に行く途中、堂々とイルカ肉料理とかいた看板も国道沿いに掲げてあったのである。だからといって太地町で「鯨肉と偽ってイルカ肉を売っている」ということにはならない。くじら博物館前の売店のお兄さんに聞いてみた。「太地町でそんなことをしているといった映画があると聞いたのですが」彼ははっきりと答えた。「少なくとも太地町では決してそんなことはしていません」。私はこの映画のドキュメンタリーとしての描き方もテーマ設定も稚拙だし、褒められたものではないと思う。しかし、鯨肉をめぐって、まだまだ日本人のわれわれにも知らされていない「事実」はあるように思う。そのことを「われわれ日本人の立場から」世界に発信するドキュメンタリーができてもいいのではないだろうか。いまとのころ、どのテレビ局も自治体も、この映画から目を背けている。くさいものに蓋をする。それこそが日本人の最も臭いところではある。
2010年09月01日
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オリジナルは実はまともには見たことが無い。だからほとんど初見と同じなのだけど、一つ一つのエピソードがとても丁寧で、完全に登場人物たちに自分の気持ちをシンクロできる、とてもいい映画だった。監督 : ハラルド・ズワルト 出演 : ジェイデン・スミス 、 ジャッキー・チェン 、 タラジ・P・ヘンソン 、 ハン・ウェンウェン 、 ワン・ツェンウェイ 、 ユー・ロングァン ジェイデン・スミスはとてもいい役者になった。見事な感情表現、たった一人で出ていても充分にみせる存在感、カンフーの技の切れをみてもどれだけ彼が訓練したのかよく分かる、そのプロ根性、将来本当に楽しみだ。どうやらオリジナルと変わったのは、舞台が中国北京になったところ、競技が空手からカンフーに変わったところみたいだが、それがいい効果を生んでいる。北京は日々変化している街だ。(私が行ったのが10年くらい前、あんな近代的な設備ができたてるんだ、とびっくり)それなのに、三千年の歴史は深いからすぐ身近にとても古いものがある。日帰りで世界遺産の万里の長城にいける首都だし、横丁に入ればたぶん今でもジェイデン・スミスが逃げ込んだ裏道が広がっているはずだ。その北京の魅力が最初から最後まで出ていて、「行ってみたい」と率直に思わせる映画になっている。カンフーは云わずと知れたジャッキー・チェンのお家芸。その彼が先生になるのだから、その教え方、精神論、全てが説得力がある。しかも中国だから、アメリカと違って敵方の生徒たちがカンフーやっている、大規模な大会があるのは、至極当然何の違和感も無い。(ところでカンフーの聖地みたいだったあの山、武当山というのかな、どこにあるのだろう?)ひとつ気になったのは、怪我をおして決勝戦に出たとき、観衆が沸くのはいいけど、お母さんだけは心配な顔をしてほしかった。あんなに喜んじゃいけないでしょ?転校生がいじめられて、奇跡的に強くなっていく、これはいまやひとつの物語のスタイルといっていい。そのスタイルの完成度から云ってこの作品は最も高度なところまで行っていると思う。
2010年08月25日
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ボンペ病という遺伝を原因に起きる難病の子供を持った親が、残り少ない子供の命を救うために研究の第一人者の学者と組み、製薬会社を起こす。という予告編だけで全てがわかってしまうような映画かもしれない。しかし、結果見てよかった。実話である。しかも家族愛の物語である。頑固な学者にハリソン・フォード、八歳と六歳の娘と息子のために大会社の部長職を投げ打ち会社を立ち上げるお父さんにブレンダン・フレイザーという適役を得て、アメリカ映画はこういう話はめっぽう得意なのだということを改めて感じた。精一杯病気と戦う魅力的な娘、ビジネススキルを精一杯使ってプログラムを成功させようとする父親、一つ一つのエピソードが実に生き生きとしている。監督 : トム・ヴォーン 脚本 : ロバート・ネルソン・ジェイコブス 出演 : ハリソン・フォード 、 ブレンダン・フレイザー 、 ケリー・ラッセル 、 メレディス・ドローガー 、 ディエゴ・ヴェラスケス 、 サム・M・ホール 現実にはベンチャー企業が苦労して薬を作ってハッピィエンドというわけには行かない、大製薬会社に吸収合併されても実際の薬を作るほうに舵を切るし、博士の酵素がそのまま薬にはならないということや、簡単には父親の娘や息子に臨床実験の許可が下りない(実験で使わせてもらわないと彼らの命には間に合わない)という、「現実」の複雑さのエピソードが後半を占める。本来ならばテーマを散漫にするこれらのエピソードが、かえってこのテーマの「緊張感」に結びついている。ボンペ病というのはよく分からないのだが、いっとき日本のTVドラマでもよく使われた子供の筋ジストロフィー云々という体が動かなくなってやがて死に至る病みたいである。その進行を止める薬がこのようにして現在開発されつつあるというのがわかり、昔の悲劇の定番病つまり「悲劇という運命」を実は人間は切り開いているのだ、とわかり別のところで感激したのである。20年前と違い、発見の早い胃がんや乳がんなどは不治の病ではなくなった。しかし、一方では発見の遅れたすい臓がんや肺がんは不治の病なのである。今人類は私の知らないところで「運命」を切り開きつつあるのかも知れない。
2010年08月24日
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四方田犬彦は「七人の侍」がいまやひとつの映画ジャンルと化しているので、この作品が古典として映画の原型としていき続けているのだと言っている。その特徴として五点上げている。一、圧倒的な敵の脅威に晒されている脆弱な共同体が存在する。二、共同体を支援するために、外部から助っ人が駆り集められる。三、助っ人たちはそれぞれに無用な人である。彼らは強烈な個性を持ち、世界の周縁に貶められて生きている。彼らを組織することはけっして容易ではないが、やがて卓抜なる指導者の下に全員が纏まる。すると全体として超人的な能力が発揮される。四、激しい戦闘の後、助っ人たちは敵を敗北へと導き、共同体を守り抜く。五、生き延びた助っ人たちは、死んだ同胞の為の喪に服す。(「『七人の侍』と現代」岩波新書 )私は、この『オーケストラ!』もそのジャンルのひとつであると主張したい。監督 : ラデュ・ミヘイレアニュ 出演 : アレクセイ・グシュコブ 、 メラニー・ロラン 、 フランソワ・ベルレアン いや、違うのじゃないか、という方は当然おられると思う。三と四は確かにそれらしき筋はあるかもしれないが、一と二と五は違う、というかもしれない。そもそも、発端は共同体の中の一員が『昔の夢を追い求めて?』オーケストラを再結成したのであって、外部から駆り集めたのではない?それに、誰も死ぬことは無い?果たしてそうだろうか。この映画は、アンドレがアンヌ=マリーを招聘したのはまるでマリーが○○であるかのようにミスリードする脚本になっている。よって、最後の演奏が始まるまで、彼がコンサートを開く本当の目的は観客の我々にも知られることは無い。彼の本当の目的は、娘の生い立ちを明らかにすることではなかった。まさに『共同体』を守るために、彼は『オーケストラ』を駆り集めたのである。当然、一見外部の人間でもあるアンヌ=マリー・ジャケはその決定的な要員である。共同体とは何か。『それはまるでコミュニズムと同じだ。コンサートの間だけ、僕たちは"究極のハーモニー"に入ることができる』アンドレは言う。最初はばらばらだった演奏が、本来の『中断されたハーモニー』の正統な後継者であるアンヌのバイオリンが奏でられることで、みごとにハーモニーを完成させる。言葉は一切無く、音楽だけでそれを描き、しかも音楽の間に全ての感情と過去と未来まで描いた脚本のすばらしさは、『映画を見ていてよかった』と思わせるに充分な『音と映像』であった。いくらなんでも、まるっきりリハーサルなしで(しかもアンヌはチャイコフスキーを一度も演奏したことが無い)あそこまでみごとな演奏などできるはずは無い、という突っ込みは瑕にはならない。これこそ、映画の魅力『大いなる嘘』なのだから。
2010年07月19日
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全く前知識なし(誰か主演女優賞にノミネートされていたよ、ぐらい)で見た作品。よって、最後まで展開を予想して見る事ができて面白かった。監督 : ロネ・シェルフィグ 出演 : キャリー・マリガン 、 ピーター・サースガード 、 エマ・トンプソン 、 アルフレッド・モリーナ 、 ロザムンド・パイク 、 オリヴィア・ウィリアムズ 、 ドミニク・クーパー 1961年、ロンドン。労働者階級の上といったところのお嬢さんが、お嬢さん学校に通いながらオックスフォードを目指している。という設定がいかにも英国映画らしい。60年代版、「プライドと偏見」。16歳、知性と感性を備えた優等高校生のジェニーは、将来の安定の為だけに大学の勉強にうるさい父親を疎ましく思っていたが、この時代なので知り合った年上の男性と音楽会に行くにはちゃんと親の許可をもらう。しかし、親の許可さえあればパリへの一泊旅行へも行く。16世紀の英国では、貧乏貴族はダンスとマナーのみに血道を上げ、いかに格上の男と結婚するかが全てだった。20世紀後半になっても、ジェニーの父親の認識はそう変化はない、というのが楽しい。少し背伸びをする少女に年上の男の甘い声。当然観客の我々としては、彼女が騙されているのではないか、と疑いながら見ている。しかし一応冒頭見えていた違和感の映像は、彼が上流階級ではなく一種のブローカー業をしていることでそんなにひどい男ではないと言うことになってしまう。でも、なんかおかしい。このままで終わるはずが無い、という一抹の不安は残る。二人の仲はどんどん進む。ジェニーは17歳を過ぎて男にバージンをささげる。二人は婚約する。ジェニーは高校を中退する。父親が二人の結婚を認めたからだ。「大学の回り道をするよりも手っ取り早く金持ちと結婚するほうがいい」。我々は観客だから、危なかしいと思っているが、果たして父親とジェニーを愚かだといえるだろうか。ジェニーは女性教師と女性校長に啖呵を切って見せる。言葉は忘れたけど、「そのとおりだ」と思わなかっただろうか。原題は「an educatrion」Theではないところが、このテーマをよく現している。
2010年07月16日
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あんまり褒められた作品ではありません。それは想定内。では何でそんな作品を見たのかというと、ひとえに私の予想を確かめたかったから。映画の予告編は、近未来、月基地で三年間の鉱物採集のためのたった一人で出張をしている男がいる。ところが、その期間が終わりかけたころ、もう一人の自分を見つける、というSF作品でした。もうそれだけで話の筋はわかるでしょ?でも私は思いましたね。予告でここまでばらしているのだから、単なる「アレ」ではないと。それを確かめたかったわけです。ところが、なんとまあ単なる「アレ」だったわけです。これにはびっくり。よって、私は私の考えた粗筋を述べてこの作品の感想に代えたいと思う所存です。(以下ネタバレ)監督・脚本 : ダンカン・ジョーンズ 出演 : サム・ロックウェル 、 ドミニク・マケリゴット 、 カヤ・スコデラーリオ 、 ベネディクト・ウォン 、 マット・ベリー 、 マルコム・スチュワート「アレ」とは何か。当然「クローン」ものというわけです。映画では、危険な作業ということで、地下に何体もの彼のクローンを置いていて、三年が過ぎると彼の疑問を増やさない為、あるいは今回のように突発事故で死んだときにすぐに代わりを補充できるようにクローン覚醒システムが作動するわけです。(映画ではクローンの生存期間は三年にプログラムされていて、それを過ぎると自然と死に至る様になっていたようだ)しかしそれは余りにも愚かな「設定」といわざるをえません。この映画の「設定」では彼が掘っているのは、月の特殊な鉱物で、これのおかげでなんと地球の70%のエネルギーをまかなうようになったらしい。つまりは地球の生命線をこの「彼」が握っているわけです。財政的にも、倫理的にも、たとえ企業の儲け論理が働いたとしてもそんなリスクを負うでしょうか。そこで、私の考えた粗筋はこうです。映画では、三年間通信機器の故障ということで地球との交信ができず、家族の「記憶」を抱えながら男は一人寂しさを慰めていたわけですが、私は、あの記憶もその周りの地球の風景も怪しいとにらんでいました。クローンはもしかしたら、何百何千も毎年作られていたのかもしれない。彼は3年の記憶しか持っていないけれども、この月の基地は実はもう何千年も経った基地なのかもしれない。そして、地球は既に滅び去っていて、地球の最後のプログラムで、「人類の遺伝子を残す為に」彼が働いているのかもしれない。最後、月の裏側から一人旅をして「彼」は地球の姿を眺める。そこには「記憶」の地球とはかけ離れた抹茶の地球が浮かんでいた。というあらすじなんですが、こっちのほうがリアルではないでしょうか。
2010年07月08日
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韓国のなんでもない坂道が、どうしてこんなに傑作を生むのだろうか。それはこの坂道にへばりつくように生きている人々が、その「恨(ハン)」を解くために日々血のにじむような想いをしているからに他ならない。監督・製作・脚本・編集・出演 : ヤン・イクチュン 出演 : キム・コッピ 、 イ・ファン 、 チョン・マンシク 、 ユン・スンフン 、 キム・ヒス 二人が結びついたのには二つの偶然がある。ヨニはサンフンにとっては母親に面影が似ていたし、妹と生まれ変わりのようにも思えた。ヨニにとっては、男の姉の家庭は家族の再生の象徴だったのだろう。本人たちが遂に知ることの無い「運命的事実」も観客のわれわれだけに二つ提示される。ヨニの母親を殺したのは、サンフンであり(だったでしょ?だよね)、サンフンを殺したのはヨニの兄なのである。これは「運命」としか言いようがない。ひとつの暴力は、もうひとつの暴力を生む。サンフンの父親の暴力はサンフンの暴力を生み、サンフンの暴力はヨニの兄の暴力を生む。その暴力をとどめる力は「母性」しかない。しかし、最初の悲劇はサンフンの父がなぜかその「母性」を殺したところからその悲劇の連鎖が始まる。ヨニの父もベトナム戦争という暴力によって、間接的ながらヨニの母を殺す。暴力の連鎖を止めるものも、母性以外にはない。ヨニの膝枕以外にはないのである。暴力の前に小さな花は無力である。けれども、暴力をとどめるのも、小さな花の囁き以外にはないのである。「これからは私のために生きて。しあわせになれるよ」原題は「トンバリ(糞バエ)」である。この主演・脚本・監督を務めたヤン・イクチュンの仕事はそれぞれが素晴らしかったのではあるが、この題名だけはいただけない。裏意味で「取り立て屋」という意味でもあるのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。内容がこれでは誤解するだろう。こんど、ソウルを歩いたときにこういう坂道を探してあるこうと思う。どうもソウル漢江の近くらしい。サンフンが立っている街角にカンアクク(冠岳区)という地名がハングルで書かれていた。
2010年07月02日
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1987年、ハーレム。16歳の黒人少女プレシャスが二人目の子供を妊娠し、退学になった。少女は生活保護の母親と一緒に暮らしている。母親は子供の父親が少女の実父であることを知っている。しかし、母親は少女に大怪我を負わすような虐待と罵倒を繰返す。校長の勧めで少女は代替学校に通う。そこには、基礎の読み書きを教える優しく美しいレイン先生がいた。監督・脚本 : リー・ダニエルズ 出演 : ガボレイ・シディベ 、 モニーク 、 ポーラ・パットン 、 マライア・キャリー 、 シェリー・シェパード 、 レニー・クラヴィッツ 学校の先生をしている映画仲間がこの作品をえらく褒めていたので、一週間の限定上映でなおかつ一日一回しかしない厳しいスケジュールではあったが、見逃さないように気をつけた。なるほど、彼が感心したのも頷ける。代替学級には教育の原点があった。冒頭、学級崩壊している普通学級の情景が映る。数学の先生は真面目に授業を聞いている前列の生徒のみ当てていく。こんな教育では駄目である。プレシャスは数学の授業は好きだが、ノートはとらない。(後でわかったが読み書きができなかったのだ)いつも最後列で好きな男先生とデートしていることを妄想しながら聞いている。プレシャスは数学だけは理解できるというからおそらく頭は悪くないのだということがここで分かる。文字が分からなくても論理を重視する数学は理解できるのである。こういう、どこにでもいる落ちこぼれの女の子なのではあるが、いかんせん、家庭環境が悪すぎる。そういう少女が立ち直るところまでを描いた映画である。びっくりするのは、代替学校に集まる少女たちは、なるほど口や態度は悪いけれども、基本ものすごく「素直」だということだ。冒頭の30人くらいの学級よりもこの7-8人の少人数学級、しかも本人の程度に合わせた授業が、どれほど青少年の学力を伸ばすものなのかをみごとに映し撮っている。ちょうど、世界教育水準1位のフィンランドがこのような教育を実施している。最後のカウンセラー室での母親の独白はさすがにアカデミー助演女優賞を取っただけあるものだった。しかもそこだけまるでドキュメンタリーを映しているかのように、母親の独白に合わせてカメラが動いていた。面白い表現だった。プレシャス(宝物)とその二人の子供の将来が気になる。決して明るいものではないような気がする。しかし、それまでの人生よりも前向きになったのは確かだろう。
2010年07月01日
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アメリカにひとり暮らす娘を訪ねて、はるばる北京から父はやってきた。反対を押し切って若者と渡米したのに、娘が離婚したというのだ。長年連れ添った妻とは死に別れたばかり。最近は料理教室にも通い、働いている娘に次々と料理をつくる。けれども娘は中国式の食べきれない料理の山の夕食に辟易する。ちょっと知識人で、融通が利かなくて、でも人当たりはとてもいい(その点では臨機応変の対応はできる)優しいお父さんの話である。監督 : ウェイン・ワン 原作・脚本 : イーユン・リー 出演 : ヘンリー・オー 、 フェイ・ユー 、 ヴィダ・ガレマニ 、 パシャ・リチニコ娘の不倫にうすうす気がついていて、本当は叱りたい。近所の男に聞く。「言うことの聞かない娘にどう接したらいいのだろう」「蹴り上げることですな。甘い顔をみせたらいけません」元CIAだったというご近所さんの言葉には同意しつつも、男は決して娘にはそんなことはできない。モルガン教の勧誘、近衛兵のスカーフ、イラン政変の難民、ロシアの男‥‥‥。現代地方アメリカの断面を映しつつ、何のドラマも起きない日常を淡々と映しながらも、映像は緊張しており、少しも退屈にならない。「小津映画を髣髴させる」という解説には頷く。親子の和解が余りにも突発にやってきたのは、少し不満ではあるが、説得力はあった。どこの国でも、どんな立場であろうとも、父は娘のことを想い、娘は父を嫌いになれない。ヘンリー・オーの佇まいが、加藤周一に似ていて、何だか加藤翁と娘との知られざる和解の一幕のように見えて仕方なかった。
2010年06月28日
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前回は会いアンマンを創っていく過程と、いい加減さと正義感を併せ持った主人公のキャラクターが面白くて退屈しなかった。 今回はキャラ紹介とバージョンアップハ無し。主人公はまたもや世界の警察の「一つの機構」に組み込まれる過程がなぜか描かれているように思える。退屈極まりない作品。監督 : ジョン・ファヴロー 出演 : ロバート・ダウニー・Jr. 、 グウィネス・パルトロウ 、 スカーレット・ヨハンソン 、 ミッキー・ローク 、 ドン・チードル 、 サム・ロックウェル 、 サミュエル・L・ジャクソン けれども、スカーレット・ヨハンソンのスパイ姿とアクションはなかなか決まっていて、良かったです。括れた腰と長い足がくるくると敵に巻き付いてあっという間に男を倒していくというのは、ちょっとしびれます。 (株)マーベルの次回大作のつなぎになっている。しかしこの会社、なんとも怪しい会社のように思えてきた。怖い、怖い。
2010年06月21日
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衝撃的なのは、やはり映画だからこそ表現できる300万人も餓死したという北朝鮮の生活の再現である。肉があればご馳走と喜ぶ息子。流通が完備していなくて、道沿いの市場で日用品を買う生活。昔の国民的英雄のサッカー選手でさえ、直ぐに貧困に陥る余裕のなさ。炭鉱で働くヨンスの家は、きちんと仕事もしているし、家もある。特別な家庭ではない。子ども一人、妻一人の三人家族である。けれども、妻が悪性の結核に陥るとすぐさまそれが薬を買うことができないヨンスにとっては、死を賭した脱北につながるのである。監督 : キム・テギュン 出演 : チャ・インピョ 、 シン・ミョンチョル 、 チョン・インギ 残された妻子、そして妻が死んだ後の11歳のジュニの生き方は悲惨である。子どもにあそこまで残酷な収容所は世界的にももうないだろう。しかし助監督を初め30人あまりの実際の脱北者がスタッフとして参加しているらしいから、あまり嘘はないものだろうと思う。餓死や暴行で次々と死ぬ子どもたちを引きずりながら処分場へ持っていく衝撃。「すれちがい」は韓国ドラマの得意芸ではあるのだが、こういう題材でそれはないだろうという展開だった。満天の星の空から一粒だけジュニの頬に雨が落ちたのは、オモニの泪だったのだろうか。病気が即人の死につながるような、それが当たり前のようにある国は国家としての体をなしていない。最低生計費も保証できないような国は国としての資格はない。ただ、あんまり日本もおおいばりではいられない。現在わたしは最低賃金生活をしているが、二週間を半分過ぎて明日ついに赤字転落の予定である。食事を切り詰めてはいるけれども、明日病院の診療で5000円近く出費の予定。それで一気に破綻してしまう。つまりは現代の最賃とはそういう水準だということだ。安心して病院にも行けないということなのである。
2010年05月27日
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嘘で固めたスティーブの人生、もともと、幼少期に里子だとうことを隠され、差別されて育ったスティーブは大きな傷を負ったに違いない。ところが、その部分はバッサリ切って、突然大人になって結婚して子どもまで生まれて、警官という堅い職に就いているところから始まる。母親の情報を手に入れるために警官になった彼ではあるが、その母親から冷たくされて、ゲイだということをカミングアウトしながら、詐欺人生を送るようになるのである。監督・脚本 : グレン・フィカーラ 、 ジョン・レクア 製作総指揮 : リュック・ベッソン 出演 : ジム・キャリー 、 ユアン・マクレガー 、 ロドリゴ・サントロ 、 レスリー・マンスティーブの傷ついた心が背景にあるのだが、それを微塵も見せないジム・キャリーの壊れっぷりが痛々しい。フィリップに一目ぼれした表情だけがおそらく『本当』の彼なのだろう。「君自身にも本当の自分がわかっていない」とフィリップに愛想をつかれるが、偽装死までして愛を貫く。「この愛、本当だという証拠を示してくれ」「ない」しかし、今も拘禁中とは。ジム・キャリーのキャリアも結局とこの『顔』が彼の得意分野なのかわからない。彼のキャリアと重なり、事実を元にしたこの映画が、違った意味でかなりリアルな話に思えた。。まさにジム・キャリーありきの作品ではある。
2010年05月24日
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英国紳士と米国から流れてきた元ヒッピーの女性がロンドンで出会い、夫婦になる。その二人と妻の浮気調査を命じられた探偵の、主に三人を中心に描かれる会話劇。DVD、ビデオが販売されていなくて、今回を見逃したら一生見られないと思い、午前10時からの映画祭で企画されていた最終日に行った。最賃生活初日なのであるが、決して責めないで頂きたい。映画の中でべリンダも言っている。『もちろんよ。音楽や芸術を取り去ったら、生きていてもつまらないと思うわ』監督 : キャロル・リード 出演 : ミア・ファロー 、 トポル 、 マイケル・ジェイストン ミア・ファローが可愛い。いい天気なので自分は要らないとゴミ箱に捨てた上等な帽子を、失業者のオバサンがかぶっていると知った時の彼女の笑顔。独身主義だったけど気が合って自分の知識に新鮮に驚いてくれる娘と結婚までした男は、やがて英国上流階級のしきたりに妻をはめ込もうとすることで『すれ違い』が起こる。現代の日本でも良く起こりうる夫婦の危機をね妻に恋をしている探偵を絡めて見事に描いている。やっぱり夫を愛していると覚った探偵が、夫婦の再生を仕掛けるために取った手段とは?72年のロンドンの風景がこれでもかというぐらい出てくる。ロンドンの街を歩きたくなる映画である。妻の心情を代弁するようなアンニュイなテーマ曲が素晴らしい。素晴らしい。観てよかった。
2010年05月21日
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イラク将軍「バクダッドに進攻してそれで勝ったと思うな。戦いはこれからだ」イラク知識人「この国のことは俺達が決める」ロイ・ミラー「ふざけるな!戦争の原因だぞ」(ちょっと粗筋)イラク戦争開戦から4週間後。ロイ・ミラーと彼の部隊は、砂漠地帯に隠された大量破壊兵器の行方を追う極秘任務で、イラクの首都バグダードを駆けずり回っていた。混乱のさなか、大量破壊兵器が隠されているとみられる倉庫に踏み込むが空振りに終わる。国防総省の動きに不信感を覚えた彼は、同じ疑念を抱いていたCIA調査官ブラウンと共闘することに。部隊を離れ単独で調査を開始し、執ような妨害工作に苦しみながらも謎の核心に迫っていく。監督 : ポール・グリーングラス 出演 : マット・デイモン 、 グレッグ・キニア 、 ブレンダン・グリーソン 、 エイミー・ライアン イラク戦争の原因である大量破壊兵器が存在していなかった問題を初めて正面から扱った作品。なおかつ、エンタメとして成立、なおかつ、高速カット割のグリーングラス印。こっちのほうが「ハート・ロッカー」よりよっぽどいい。最初集中力がなくて混乱したが、後半どんどん引き込まれていった。「ユナイテッド93」でデビューしたグリーングラス監督の9.11問題にけりつける集大成的作品。 確信犯であるアメリカを半分免罪しているという批判あるようだけど、ここまで自国の醜部をエンタメ作品に昇華しているのは、やはり凄いことだと思う。それに引き換え、偽情報を利用して大戦争を始めたアメリカを最後まで「信頼している」と白を切って自衛隊を派遣した某小国のK元首相にこの映画を見せてやりたい。
2010年05月14日
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今月は8本の映画鑑賞で終わった。それともうひとつトピックが。今月からひかりTVを観るようになった。あと一ヶ月は無料期間でその後ずっと見るか決めるのだけど、韓国テレビのバラエティを字幕つきで見れたり、時代劇専門や邦画専門番組を見放題、思わず専用録画機を買ってしまった。レンタル代が減ることを考えれば、出費増はあまり大きくないと思う。五月から黒澤明特集楽しみではある。映画鑑賞ではあまり詳しく語りたくない作品を記録。「抱擁のかけら」監督・脚本 : ペドロ・アルモドバル 出演 : ペネロペ・クルス 、 ルイス・オマール 、 ブランカ・ポルティージョ 、 ホセ・ルイス・ゴメス 、 ルーベン・オカンディアノ 途中意識が飛んだので正当な評価はできない。あとでアルモドバル監督だったと知る。ある程度頭の中で考えないと全体像が見えてこない映画なのだと知るべきだった。ペネロペの七変化が素晴らしい。(4.9)「ソフィーの復讐」監督・脚本 : エヴァ・ジン 出演 : チャン・ツィイー 、 ソ・ジソブ 、 ファン・ビンビン 、 ピーター・ホー 、 ヤオ・チェン 、 ルビー・リン ソ・ジソブ目当てか九割女性だったが、話の構造上、全く無個性で魅力なし。かわいそうに。気がついたのは、あれほどハングルに誇りを持っている韓国なのにエンドタイトル、一切ハングルを使わず、漢字で表現しているということ。二国間の歴史的関係のせいか。チャン・ツィイーの俺様映画だった。別の言葉でいえば、一人頑張っていた。 (4.10)「アリスインワンダーランド」監督 : ティム・バートン 出演 : ミア・ワシコウスカ 、 ジョニー・デップ 、 ヘレナ・ボナム=カーター 、 アン・ハサウェイ 大切な箴言はたくさん聞いた気がするのだが、夢の後のように、ほとんど覚えていない。アリスが二十歳の意味は何か。旅立ちのとき、という意味か。(4.19)ついでにDVD鑑賞良作と評判の「茄子アンダルシアの夏」をやっと観た。監督・脚本・作画監督は、高坂希太郎。手堅い演出。てっきりジブリの次代エースかと思いきや、今年夏の映画は違った。エンディングの歌は忌野清志郎だった。やはり自転車だからね。NHK「大仏開眼」録画観た。吉備真備は「孫子」の「戦わず勝つが最上」を実践しようとする姿を描く。八世紀では下道(吉備地方)はもう牙を抜かれた一地方だ。それがなぜ力を持ったのか。「理」を通したからだという演出。一応納得。光テレビ録画した「恋空」携帯を使った恋、不良ぽいけど誠実、は合格点。しかし、後半早送り。
2010年04月30日
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1年前、釜山で観たときスター男優の濃厚な同性愛シーンに韓国俳優の覚悟をみました。今度はじっくり内容の吟味をしようということで、字幕つきのを見ることにしました。監督・脚本 : ユ・ハ 出演 : チョ・インソン 、 チュ・ジンモ 、 ソン・ジヒョ 、 イム・ジュファン 時代は高麗の末期。高麗は大きく揺れていた。王は正体不明の刺客に命を狙われ、強大な権力を持つ国家・元からは政治的な圧力をかけられ続けていた。その圧力は後継者問題を巡り、更にエスカレートしてきた。そのため王は重大な決断を下すことになる。幼い頃から寵愛する護衛隊乾竜衛の隊長であるホンリムに、王妃との間に子供を宿すことを命じたのだった。王に対しては絶対でありながらも茫然自失となるホンリム、望まぬ交わりを拒めぬ王妃、そして国家を守るための自らの決断に揺れる王。それまでバランスを保ち続けていた3人の運命はその日を境に大きく狂い、国家も大きく動き始めていく(goo映画より)。ウーム、釜山で見たのと印象は全く変わらない、残念だ。字幕で見ても、うじうじ三角関係だった。今気がつきましたが、私の大好きな「マルチュク青春通り」のユ・ハ監督だったんですね。想いが伝わらない片思いを時代の中で描くというコンセプトは同じなんだけど、何しろ国を背負っている人たちが三角関係で悩むのと、現役高校生が悩むのとではやっぱり話が違う。監督はどうして歴史ものを撮ろうと思ったんだろう。題名がどこから来るのか不思議だったけど、途中で歌った高麗の俗謡からとった訳ですね。それに大きい意味を持たせるならば、餅を上げた妃に一番の愛があったということになるのですが、話の中心はそうではない。最後の展開は字幕無しのときは判らなかったが、結局隊長は王様を相当愛していたと思う、お互い可愛さ余って憎さ百倍状態だったわけだ。女優(ソン・ジヒョ)の濡れ場演技にも敬意を表する。 結局誰にも共感できない普通の歴史文芸大作だった。観客はチョ・インソン 、 チュ・ジンモ目当ての女性ばかり。さぞかしあの濡れ場には居たたまれない思いをしたことでしょう。
2010年04月21日
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最後までエイリアンが難民になるのが納得いかなかった。UFO不時着より2-3年後の話ならばまだいい、地球諸国も混乱し、その間の一時しのぎとして政治的にこうなって、エイリアンたちも"なし崩し的に"居ついてしまうのもまあ、わかる。この設定をもし納得出来ていたならば、以下のようないいところもあるのだから賛辞を送っていたかもしれない。リアルな社会風刺映画。エイリアンという「異物」を世界に投げ込むことによって、ヒトという種の無責任性、暴力性、欲望、政治性、そしてヒトに開かれている宇宙という「可能性」を、ノンストップのエンターテイメントSFとして、TVのドキュメンタリ形式を借りながら、「社会風」とも取れる映画として処理した監督に、もしかしたら賛辞を送っていたかもしれない。監督 : ニール・ブロムカンプ 製作 : ピーター・ジャクソン 出演 : シャルト・コプリー 、 デヴィッド・ジェームズ 、 ジェイソン・コーブ 私は納得いかない。人間というわれわれの最もよく知っている好奇心旺盛な彼らが、まさか28年もUFOの秘密を一切調べることも出来ず、あるいはエイリアンと「人間的な」交流もほとんど持てなかったのだとは、よって彼らの母星の歴史などもほとんど知らずにいたとは、どうしても納得できない。
2010年04月17日
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監督 : ジョン・リー・ハンコック 出演 : サンドラ・ブロック 、 ティム・マッグロウ 、 クイントン・アーロン 、 キャシー・ベイツ 、 リリー・コリンズ 、 ジェイ・ヘッド 、 レイ・マッキノン以前『ロルナの祈り』という作品のことを書いたときに、対人関係でひとはよいとか悪いとかではなく、四つのタイプの別れるということを書いたことがある。以下のように。営業力強化研修なるものを受けたときに、人は良いとか悪いとかではなくて、四つのタイプがあることを学んだ。人はセールスを受けたときにどのように反応するのか。正確ではないかもしれないが、こうである。ひとつは、協調型。非常にフレンドリーに接してくれる。けれども買うというところまではいかない。ひとつは、攻撃型。批判もするし、さっさと拒否をしてすぐに結論を出す。ひとつは、優柔不断型。もうちょっとで買いそうだと思ってずっと話をして時間を無駄にしてしまう。そして、ひとつは、むっつりスケベ(名前を忘れた)型。表情をまったく変えない。興味を持っていないのか、失敗だな、と思っていると「じゃあ買います」と言うタイプ。ロルナはむっつりスケベタイプだったが、この作品の白人主婦サンドラ・ブロック演じるアンは完全に『攻撃型』である。夫は協調型なので、アンをいつも立ててうまく治まっている。堂々たる演技である。良心的な保守層というべきか。もともとつい最近の実話を元にして作っている作品で、最後にはラストからたった四年後の現在の本人たちが写真で登場していたりする。彼らの家族はねやっぱり「アメリカンフットボール選手として金になるから拾ったのだろう」というパッシングを受けていたらしい。サンドラはそれを跳ね除けるだけの説得力のある演技を求められていた。それは成功していたと思う。真実はどうであれ、映画の中の彼女の誠実さだけは信じることが出来るというところまで演じていた。彼女は曲がったことが大嫌い、行動に起こさないのが大嫌いなだけなのである。それを証明することはこの映画の目的でもあった。キャシー・ベイツがなんで家庭教師役で出て来るんだ、と思っていたら、決して危ない人になるわけじゃないけど、あの『場面』のために出てきたのね、と納得。
2010年04月08日
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丁寧に作っているところと矛盾いっぱいの部分と、不思議な脚本だ。監督・脚本 : ウェイ・ダーション 出演 : ファン・イーチェン 、 田中千絵 、 中孝介 、 シノ・リン 、 レイチェル・リャン 最初のほう少しもたつくが、しだいとこの寄せ集めのバンドは、漢民族、先住民族、そして日本人と台湾の抱える「支配と融和」の問題自体の象徴なんだなあ、と分かり始める。04年に台湾旅行をした。その時の感想はこことここに書いているが、日本語の通じ具合について、このように書いている。「台北駅から一時閑弱で行ける田舎に行ってきました。日本統治時代、金鉱が出たため栄えた鉄道の線で、今は岡山県の芸備線よりも寂れています。そこの場末の駅にある店はなんとなく懐かしい感じがしました。アイスキャンデーを買おうとしてまごまごしていたら、おばあちゃんが「あんた日本人ね」と正確な日本語で聞いてきました。田舎に行っても、簡単な日本語なら、お年寄りになるほど通じるというのは本当なんだ、感動しました。この体験は一度や2度ではありません。駅のきっぷ切りのお爺さん。町の朝食屋のおばあさん。隣にいる若者は日本語は解さないのに、彼らには通じるのです。もちろん日本統治時代の日本語教育の結果ではあるのですが、彼らの話してくる態度にほんのかけらも日本に対する敵対心は無かったのです。同じく戦前日本語教育を徹底していた韓国ではついにこういう事は無かった。また、台湾の看板に時々思いだしたように日本語が付いてるのです。まるで日本における英語みたいな感覚です。台湾の中に抗日戦線があったのは事実ですし、それを顕彰する施設もあります。しかし、日本軍の残酷さを告発する施設はみつける事が出来ませんでした。」 この映画でも、月琴を奏でるおじいさんが片言で友子に話しかける場面があります。あの距離感が、台湾と日本の距離感なのだという気がします。日本人女優田中千絵が痛々しいほど頑張っている。ドキッとする表情をすることもあれば、いらいらとした気持ちを単に叫ぶだけじゃあだめだよ、と言いたくなる時もある。この映画が台湾史上no.1の興行収入を得たからと言って作品の質がNO.1ではないというのはよくある話ではある。私にとっては「 悲情城市」 がやっぱり一番。
2010年04月05日
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霧の晴れた橋の上で、二つの集団難民が行きかう。1939年、ドイツがポーランドに侵入し、10数日後にソ連が進入した。二通りの難民が同時に発生したのである。「こちらに行くと危険だぞ」と両方とも言う。まさにそのとおり、ポーランドの50年にも及ぶ悲劇の始まりであった。監督・脚本 : アンジェイ・ワイダ 出演 : マヤ・オスタシェフスカ 、 アルトゥル・ジミイェフスキ 、 マヤ・コモロフスカ カティンの森事件は一万人以上のポーランド将校がソ連によって惨殺されて森の中埋められた事件である。長い間、語るのもはばかれたタブーであったというから、てっきり穴を掘り返しして真相を究明したのは何十年も経ってからだと思っていたら、もう数年後には掘り返されて映画にもなっていたのである。それもそのはず、1944年までポーランドはドイツによって占領されていて、ポーランドがソ連の犯罪を糾弾する為の愛国映画が必要だった為である。その時点で、さまざまな証拠品もとり揃っている。そして次には、ポーランドはソ連の支配下に置かれる。そうすると、一転、カティンの森事件は「にくきナチの仕業」として愛国映画が出来上がるのである。(もちろん国民のほとんどはソ連の仕業だと知っている。しかし、そのことは決して口には出すことは出来ない。)戦後、ポーランドの人たちは新たな闘いを強いられるのである。カティンの森事件の本質は、けっしてソ連軍の残虐性なのではない。他国への侵略によって、国の自由がなくなることはどういうことなのか、そのひとつの象徴を冷静に描いている。ワルシャワ蜂起に参加したという女性が、ソ連の言論封殺に逮捕されながらひそかに抵抗を決意している風貌もよかったし、ほんの一瞬の恋が、直後に砕ける若者のエピソードもよかった。乾いた映像、ワイダがカラーで描くとこうなるのだということがよくわかった。アンジェイ・ワイダよ、これで終わってほしくない。この映画は素晴らしい。しかし、今だからこそ描ける「抵抗映画」をぜひとも完成させてほしい。
2010年03月30日
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「俺は死にたくない…あと5センチで破片は喉を血まみれにして…生きるか、死ぬかだ…子供が欲しい…」監督・製作 : キャスリン・ビグロー 脚本・製作 : マーク・ボール 出演 : ジェレミー・レナー 、 アンソニー・マッキー 、 ブライアン・ジェラティ 、 レイフ・ファインズ 、 ガイ・ピアース 、 デヴィッド・モース淡々とした映画だった。普通にいい映画だった。狙いはわからないでもない。ドキュメンタリータッチで描いたり、有名俳優を使わなかったり、戦争の背景を一切説明せずにえがくのは、ひとえに戦争の現実を再現したいからである。戦争は、どんな重装備で守ったとしても、やはり死んでいく場所なのだし、殺していく場所なのである。普通にいい映画だった。唯一の欠点は、この映画がハリウッド映画では一番優秀だった作品に贈られるアカデミー最優秀作品賞監督賞を獲ってしまったということだ。もっと、「ドラマ」という「虚構だけど人間の本質をえぐり取る」二時間を提供してもらいたくて、私はオスカー作品を見に、ちょっと遠い映画館まで足を運んだのである。
2010年03月29日
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「本当はお前も知りたかったんだろう?……次はオーストリアだ」「どこでも一緒だ……」「今度は、英語が通じるぞ、海もある……」「俺は泳げないんだ……」泳げない早撃ち名人のキッドが二度目の弱音を吐く場面である。全く覚えていなかった。彼らはボリビアの軍隊が周りを囲んでいることを全く気がついていなかった。だから最後の有名な時が止まる場面まで、まだこの事態をすり抜けることが出来ると信じていたのである。出演: ポール・ニューマン, ロバート・レッドフォード, キャサリン・ロス 監督: ジョージ・ロイ・ヒル中学生のとき、今は無き水島プラザで観た映画だ(おそらく夏の名画映画二本立て)。いくつかはまったく覚えていなかったし、いくつかはまざまざと思い出した。そのときの気分まで。13歳の私は、二人乗り自転車の有名な場面と最後の場面を見るためだけに映画館に足を運び、「かっこよかったねえ」「キャサリン・ロスはかわいかった」というようなことだけを感想として持って帰ったような気がする。あの時、私はこんなにも幼かったのだし、世の中のことを知らなかったのだということを(この30数年間いちどもこの映画を見直さなかったこともあいまって)見せ付けられた気分である。ボリビアの田舎町で軍隊の一斉射撃で蜂の巣になる直前までの「ブッチキャシィディとサンダス・キッド」(原題)は決して邦題の「明日に向かって撃て!」というようなかっこいい生き方をしていなかった。作品の80%の彼らは、ひたすら追手の影におびえて、本当に無様に、無様に逃げ回る映画だったのである。(その意味では6人のプロの追ってたちが最後まで姿をみせない演出は素晴らしい。終盤ボリビアに姿をみせたという白い麦藁帽子の保安官は果たして本当にアメリカから追ってきたかは、全く怪しいものだと思う)この作品が作られたのは1970年、ヒッピーが全盛で、若者は消費社会の中で自由を謳歌していた。中には、不良もいたのだろう。「本当の自由は違うのだ」ということをアメリカの良識が示した作品であり、よく似た作品である「俺たちに明日は無い」とは全くテイストが違う作品である。(体制批判は全く無い)本当に二人がすきで、犯罪の片棒を担ぐまで協力していたキャサリン・ロスがなぜ急に「アメリカに帰る」と言い出したのか。かたぎの仕事に戻ろうとして「他にも仕事はあるわ……」と慰める彼女に、キッドは「畑仕事は、俺は耕せない」と断り、ブッチは「牧場の仕事はしたことがある。あれはきつい仕事だ。俺には出来ない」と弱音を吐く。その言葉を聞いて呆然とする彼女のショット。生涯彼らにはかたぎの仕事が出来ない、と悟った瞬間である。彼女に去られたあと二人の姿は観かけも無様になっていた。客観的に観れば、全く無様な彼らが、こんなにも「かっこよくみえる」ということも、やはりこの映画は狙っていたとは思う。「自由」「かっこよさ」「責任」それらはその後もアメリカの映画の中で何度も何度も現れる。
2010年03月28日
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「シャーロック・ホームズ」見た。全く新しい解釈のホームズ。「ルパン三世」のフジコちゃーんのようなアイリーンの存在、やっぱりいなくちゃ困るワトソン博士。ミステリーは味付け、見事な19世紀末の英国CG、ちょっと癖ありのアクション。面白かった!監督 : ガイ・リッチー 出演 : ロバート・ダウニー・Jr 、 ジュード・ロウ 、 レイチェル・マクアダムス 、 マーク・ストロング 、 ケリー・ライリー今度のホームズは事件に関わっていないと生活破綻者という設定、しかし性格破綻者ではない。その辺りをロバート・ダウニ―・Jr.が絶妙の存在感で見せる。ホームズの鬱屈はまだよくわからない。彼の人生でおそらく貴族階級独特のいろいろな挫折があったという気がする。役者が役者ですから‥‥‥。執拗にワトソンの婚約をじゃまするが、ワトソンに嫉妬している気配もある。そして生涯唯一二回負けたというアイリーンに対する複雑な思いは、全くそのままルパンとフジコとの関係をトレースしているようにも思えるのだが、穿ちすぎだろうか。あんまり真剣にやっていないが、一応最後には種明かしもしている。もうすこし誰にでもわかる伏線を張っていてくれたならばよかったのだか。何も考えず楽しめる映画です。
2010年03月20日
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身につまされる話だった。監督 : マーク・ウェブ 出演 : ズーイー・デシャネル 、 ジョセフ・ゴードン=レヴィット 、 クラーク・グレッグ 、 ミンカ・ケリー 、 ジェフリー・エアンド 、 マシュー・グレイ・ガブラー 、 クロエ・グレース・モレッツ お話はありがちな男女の話ではある。最初に「これは恋物語ではない」と説明がある。だとすればどんな話なのか、と推理する。女の子は両親の離婚の影響があって、ずっと続く恋なんて無いものだと思っている。男は、一目ぼれで運命の恋を信じている。そんな二人の「恋を巡る哲学の話」をコメディにしているのかと思ってみていた。しかしそんな風には徹底しない。単純な恋の話を時々時系列を行ったりきたりしながら(そのとき、出会って何日目という最初からの表示が役に立つ)割と丁寧に描かれる。基本的に男目線で描かれることもあり、彼の気持ちは手にとるように分かった。女の気持ちは……いくつかのヒントはある。デパートデートで急接近。(たとえ自分を護ってくれるにしても)暴力には到底我慢できない。けれども、やっぱり彼女は一言で言えば「わがまま」ではある。だから悪いということにはならないが……。そしてありきたりといえばありきたりの結末に。しかし、身につまされる話だった……。
2010年03月18日
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メリル・ストリープの表情のなんとまあ、ころころと変わることか。「ダウト」「ジュリー&ジュリア」あるいは「マンア・ミーア」この一年間で、色々と彼女の主演作を見てきたが、ぜんぶちゃんと役つくりをして、全部みごとに役になりきっている。そしてこの役は時に妻、女、母の顔になり、経営者の顔にも、少女の顔にさえなる。えらいものだと思う。監督・製作・脚本 : ナンシー・マイヤーズ 出演 : メリル・ストリープ 、 スティーブ・マーティン 、 アレック・ボールドウィン 、 ジョン・クラシンスキー 、 ケイトリン・フィッツジェラルド さて、友達と話をしていて、最後アダムは果たして「友達」としてやってきたのか、「恋人」としてやってきたのか、議論になった。(映画見ていない人は何のことかさっぱり分からないと思います。すみません)私はあの男の性格上、理性的に元夫との関係、彼女の性格、自分の性格すべて分かった上で別れをいったん言ったのだから、あれは単に友達、あるいは仕事上の付き合いとして来たのだと思った。もし、それだとしても「大人の恋の物語」として瑕にはならない、と思う。
2010年03月13日
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原題ウォナンソリ韓国の片田舎、老い耄れの牛と一緒に暮らす老い耄れの夫婦の一年と少しを追うドキュメンタリー。監督・脚本・編集 : イ・チュンニョル 出演 : チェ・ウォンギュン 、 イ・サムスン 対象が動きの無いものであるためか、カット割が非常に凝っている。それだけではなく、時々動きのある「絵」も交互に使い、飽きが来ないように工夫している。また、効果音楽もよく使われていて、最近流行の音楽なしのドキュメンタリーではない。しかし、ナレーションは一切無い。その代わり、饒舌の妻の喋りがうまいこと状況説明になっており、全編にずっと聞こえてくる「牛の鈴音」が通低音として終わった後も耳に残る。印象としては、若者の野心に富んだ技術力の高いドキュメント映画である。監督のプロフィールはまだ見ていないが、韓国では映画大学が盛んなのであるが、それのドキュメント部門のひとつの頂点だと思う。テーマは余りにも明確であり、他の紹介記事が詳しく書いているだろうから私はほとんど述べない。言いたいことをきちんと主張しいてるという点でも教科書的なドキュメンタリーではある。すなわち、牛との係わり合いを通じて愚直なまでの韓国のアボジの仕事人生と近代化の中で残してきた生活と自然を見せようというものであろう。韓国の人口の五分の一がソウル市に集中していて、およそ半分が首都圏在住という小国韓国の過疎化問題は、韓国の人達にとって無視できない問題なのだろう。妻が言う。「子供たちの世話にはなりたくない。迷惑を掛けて、しかも気詰まりだ」常に偏頭痛に悩まされていつ倒れるか分からないような夫が言う。「死ぬまでは働きたい」。牧畜民族である韓国国民とわれわれとは、牛に対する思いは相当違うだろう。それはあのような地方都市にまだ民間の牛市場が堂々と営業できていることからも伺える。山田洋次「息子」と重なり合うテーマであり、あの映画と違うのは、はるかにこちらの父親のほうが貧しいということだろう。しかしこちらのほうにはまだ妻がいる。
2010年03月04日
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冒頭女性らしき人の足のつめから映像が始まる。それは労働に疲れた皺だらけの皮膚であり、だんだんと競り上がって女性の顔が映し出されたとき、私はてっきり老婆が映されたのだとばかり思った。ところが、びっくりこの女性が主人公のレイなのである。さらに後で聞いてびっくり、なんとこの女優、私と同じ歳の1960年生まれなのだ。監督・脚本 : コートニー・ハント 出演 : メリッサ・レオ 、 ミスティ・アップハム 、 チャーリー・マクダーモット 、 マーク・ブーン・ジュニア 、 マイケル・オキーフ この女性に、5歳と15歳の息子がいる。トレーラーハウス暮らしの彼女の当面の夢は、冬水道管が凍らない少し贅沢なトレーラーハウスに移ることなのだ。アメリカ最北部のワーキングブア(彼女は店で働いている)の現実である。もう一人の女性がいる。こちらはモホーク族のライラ。まだ若い。同じくトレーラーハウス暮らし。夫は(おそらく)不法入国の仲介のときに失敗して氷の川に落ちて死亡し、一人娘は夫の親に取られて一人暮らし中である。めがねを買う金が無くて、文字が見えなくて、失業中だ。彼女たちは、三度フローズン・リバーを渡る。モホーク族の自治区の警察の目が届かない部分と、冬だけに凍る道なき道を通る、限定版の不法入国の仲介を、お互い最初はいやいやながら始めた為である。一回の彼女の取り分はたった1200ドル(12万)である。しかし、これが貴重な現金なのだ。そのために彼女たちは一回目はいやいやながら、二回目は少し積極的に「危ない川」を渡る。二回目のときに、思いもかけない行き違いで、ひとつの命が失われそうになる。そのとき、やっと彼女たちはこの「川」が単なるビジネスではなく、危険でしかも命がかかっていることを知り、おそらく「絆」が生まれたのである。もうしたくないと思った仕事であるが、よんどころない事情で彼女たちは三度目の川を渡り、そして……。想像していたのと違った。もっと暗く、そして動きのある映画かと思っていた。タランティーノが絶賛、というと変な勘違いが起こる。しかし、この映画は確かに傑作の部類に入るだろう。フローズン・リバーとは本当に映画としては素晴らしい舞台設定である。心も冷えるような氷点下の世界といつ割れるかひやひやとする緊張感がずっと続く。それはそのまま、この映画のカラーとなっている。私はどこかでへんな思い違いをしていて、レイは最後のところで、俳優生命をかけて氷点下の川を歩いて渡りきる場面があるのだと思っていた。映画が終わりに近づくにつれ、ずっとどきどきしていた。そのことはすなわち急展開のラストか悲劇につながるのではないかと思っていたのだ。だから、最後の展開は非常に意外であり、同時に「ああ、この映画はこんな映画だったんだ」といい意味で、驚かされたのである。素晴らしいラストだった。蛇足今日、このブログがなんと80万アクセスを超えたようです。深夜だったので、誰が80万目の人だったのかは確認していません。ともかくも、ありがとうございます。今回も何も企画は持っていませんが、来年の今頃、100万アクセスの時には何かしようと思っています。
2010年03月03日
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見終わった直後は、「いい映画だった。合格点である。しかし、いくつかは不満なところもある」という程度の作品であった。それだけでもマアすごいのであるが、クリント・イーストウッド監督だから自然とハードルは高くなるのではある。だから見たあと一日たって感想メモには延々と不満点から書き出していたのである。それが2月6日のことだ。どうしていままで記事にできなかったかというと、一つは忙しかったということ。ひとつは、そんな瑕などどうでもよくなってきたのだ。じわじわと「グラン・トリノ」や「ミリオンダラベイビー」でも起きた「後で効いてくる症候群」が症状を現し始めたためである。とはいっても、もう記憶が薄れているので詳しくは書けないのだが、一番の効いてきた点というのはこういうことだ。「あまりにも淡々と描いているので、つい見落としがちなのであるが、マンデラの言う、そしてそれを受け入れたマンデラの同志たちの"赦し"とは半端なものではない」ということなのである。監督・製作 : クリント・イーストウッド 原作 : ジョン・カーリン 出演 : モーガン・フリーマン 、 マット・デイモン 、 トニー・キゴロギ 、 パトリック・モフォケン 、 マット・スターン マンデラ自身がつい一年前までは単なる選挙陣営の敵ではなく、時には命まで狙われたはずの相手を赦し、スタッフの中に組み込み、自分の部下や同志たちにそれを強制するということの意味はそれはそれで非常に大きな葛藤があったはずなのだ。また、白人の側にも、マンデラたちは「許せないテロの仲間」であり、「既得権を奪う理不尽なやからたち」なのである。その二つの感情がどのように近づいていくのか、行かないのか、それを見届けるのは、ひとえに私たちの「想像力」如何にかかっている。映画では表面はとてもあっさりと描いているのである。スポーツは確かに愛国心を鼓舞するのに利用しやすいツールではある。しかし、ツールが悪いのではない。目的さえ全うなものならば、こういう使い方を私は支持する。国として、人種を超えてまとまる、その目的のためにまるで「出来すぎ」のようにマンデラはスポーツを利用した。ともかくこれは全て事実なのだ、そのことを何度も何度も自分に言い聞かす。飛行機が軌道を外れてワールドカップ競技場の上を、「すわテロか」とビクつく警備の上を、すれすれに応援の意を示して飛んだのもまったく事実なのである。日本に対してまさに歴史的な大差で破った最強のチームオールブラックスに、このワールドカップで南アフリカチームが勝利をもぎ取ったのも、歴史的事実なのである。まるで嘘のような奇跡、改めて知るそのことの意義を私は反芻する。そして思うのだ。今また、南アフリカは最低の犯罪率に戻っているという。そうか、こんなに早く映画が公開されたのも、意味があることだったのだ。イーストウッドは今年の南アフリカサッカーワールドカップに合わせてこの映画を作ったのはだ。南アフリカはもう一度、スポーツの力を借りなければならない時がきている。そのとき、すでにマンデラはいない。この映画がその代わりなるように、作られたのである。映画のセリフは何も語らない。しかし映像は雄弁に語っている。私のイーストウッドベスト映画はまだ「グラン・トリノ」ではあるが、この作品もなかなかでした。
2010年03月02日
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二月はわりと忙しくて、映画館で映画を六本しか見ることが出来なかった。しかも秀作が多い。毎年、正月映画が一段落つくこの時期、きちんとした映画が多く配給されると私は感じている。よって、語るに値しない映画も一月のそれと違い半減している。一本だけであった。ということで、一応記録として載せておく。「ラブリー・ボーン」私の過去10年ベスト映画(「ロード・オブ・ザ・リング」)を作った監督作品だということで、それだけで見たのであるがつまらない作品だった。監督・脚本 : ピーター・ジャクソン 原作 : アリス・シーボルド 出演 : シアーシャ・ローナン 、 マーク・ウォールバーグ 、 レイチェル・ワイズ 、 スーザン・サランドン 、 スタンリー・トゥッチ 彼女があの世とこの世とにいる必然は、あのゴミ捨て場の決定的な場面で元彼とキスをするためだったのか?私はぜったい納得いかない。なお、2月に観た映画でまだ記事化していない「インビクタス」「フローズン・リバー」「牛の鈴音」は順次記事にしていきます。
2010年03月01日
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安心してみていられる役者たちによる自分探しと理想的な夫婦の物語。監督・脚本・製作 : ノーラ・エフロン 出演 : メリル・ストリープ 、 エイミー・アダムス 、 スタンリー・トゥッチ 、 クリス・メッシーナ 、 リンダ・エモンド 気になったのは、二人とも、料理の写真は載せていなかったのかしら。ついには出てこなかった。それだと文章の妙だけで読者を獲得していたということになる。それはそれですごいことだとは思うのだけど、つまらない。「ひとつのコメントには100倍の読者がついている…」そうなのかしら。私のブログ、特に楽天ブログは機械アクセスが多くて全く読者数がわからない。映画を見る前は、ブログで当てて有名人になろうとする女の子の話だと思っていて、それはブログを勘違いしているのではないか、といぶかしがっていたのである。でも、あくまでも自分に対する挑戦として始めていて一安心。。「締め切りを決めて」「課題を持って」ブログを始める。それはひとつのブログのあり方だと思う。料理のことはよくわからないけど、そこは好感を持った。(って、そんな話ではないか‥‥‥)
2010年02月26日
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この一月も合計6本(韓国旅行で見た一本を入れる)を映画館で見ているのだが、中には記事にするほどの意欲がわかない作品もあるのである。実は去年100本以上見た中でも記事にしていないのは二つあった。ショー・ペーンがアカデミー主演男優賞を取った「ミルク」とケイト・ウィンスレットが主演女優賞を取った「愛を読む人」である。両方とも疲れていたのか、途中で意識が飛んでしまった。たぶん集中してみていたならば、それなりの感想ももてたのだろうが、残念であった。さて、それでも見た映画と読んだ作品は記録のために全部ブログに載せるのがやっぱり私の方針なので(DVDや雑誌、解説本はその限りではない)記事に書く意欲のわかなかった今月見た二本についても記録としてだけ載せておこうと思う。「Dr.パルナサスの鏡」監督 : テリー・ギリアム 出演 : ヒース・レジャー 、 クリストファー・プラマー 、 ヴァーン・トロイヤー 、 アンドリュー・ガーフィールド 、 ジョニー・デップ 、 コリン・ファレル 、 ジュード・ロウ思った以上にヒース・レジャーが出演していて、びっくり。彼は薬漬けのため死んだのだと思っていて、「ダークナイト」はもしかして演技というよりは薬のせいかもしれないなどと邪推していたのだが、きちんと人間の演技(この役の男は決してきちんとした人間ではないが)もできるのだということを証明した。ジョニー・デップはまったくカメオ出演なので、彼を目当てに映画館に行くとひどい目に遭うと思う。しかし、(時々意識が飛んだのではっきりいえないが)ストーリーとしては、破綻していると思う。「かいじゅうたちのいるところ」監督 : スパイク・ジョーンズ 出演 : マックス・レコーズ 、 キャサリン・キーナー 、 マーク・ラファロ 声の出演 : ローレン・アンブローズ 、 クリス・クーパー 、 ジェイムズ・ガンドルフィーニ半分近く眠ってしまった。かいじゅうは彼の分身なんだよね。でも、それが何なのという感想しかもてなかった。(これだけ寝ていると当たり前か……)
2010年02月07日
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「生きていくのに愛はあったほうがいいけど、お金はなくてはならないものなのよ」監督 : ジュリアン・ジャロルド 出演 : アン・ハサウェイ 、 ジェームズ・マカヴォイ 、 ジュリー・ウォルターズ 、 ジェームズ・クロムウェル 、 マギー・スミス 時は1795年。だそうだ。まったく何の予備知識もなく見始めたのだが、「またもやイギリス貧乏貴族の時代劇だなあ、「プライドと偏見」の世界だなあ」と思っていたら、なんとその作者の伝記映画でした。時代の制約の中で、精一杯自立心を持って生きようとする女性は、それはやはり面白いところがある。オースティンの「高慢と偏見」という小説は、日本で言うとどんな位置づけの小説になるのだろうか。漱石の「こころ」だろうか。有名な小説の成立背景を知るということでは、英国人には意味があるのかもしれないが、私にとってはやはりイマイチ。貴族習慣のみに目が行ってしまう。それにしても、アン・ハサウェイが美しすぎる。もう少し庶民的な顔の方がリアルになったと思うのだが。冒頭の言葉はジェインの母親が言った言葉、反発する彼女ではあるが、その言葉の意味を一番理解していたのかもやはり彼女であった、という話である。
2010年01月25日
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私は非常に面白かった。しかし、残念ながらムーア監督の狙いである「社会問題のドキュメンタリーをエンターテイメントとして提示して、広く世間に問題提起する」というには、この作品はインパクトが少ないように感じる。監督・脚本・出演 : マイケル・ムーア 前回の「シッコ」と比べて違うところは何か。「笑」がないのである。医療保険に絞った前回は、あまりにも単純明快な矛盾があったので、ムーアは見事に「深刻なのに笑える」作品を作ることができた。今回はテーマがあまりにも「複雑怪奇」なので、ムーアが映像に工夫を凝らせばこらすほど、却って「スリラー」になってしまうのである。映像の奥に「資本主義の不気味さ」だけが見え隠れする恐怖映画になっている。 と思っていたら、途中から感動的な展開も見せるのである。ムーアの取材中にリーマンショックがあり、大統領選挙、の経過のなか、「1%の富裕層が底辺の95%より多い富を独占」する金持ちだけが利益を得る資本主義の底知れない力を見せるとともに、すべての人が平等に「投票権」をもつという「人民の力」が姿を見せ始めるのだ。 終盤、ムーアはニューディール政策を始めたルーズベルト大統領の最後の演説(1944年1月11日)を実写フィルムで見せる。それはアメリカ憲法で保障された「幸福の追求」をより具体的に実現するための新しい権利章典の提唱だった。ルーズベルトが掲げた権利は以下の通り。 社会に貢献し、正当な報酬を得られる仕事を持つ権利 充分な食事、衣料、休暇を得る権利 農家が農業で適正に暮らせる権利 大手、中小を問わず、ビジネスにおいて不公平な競争や独占の妨害を受けない権利 すべての世帯が適正な家を持てる権利 適正な医療を受け、健康に暮らせる権利 老齢、病気、事故、失業による経済的な危機から守られる権利 良い教育を受ける権利 この演説の後すぐにルーズベルトは亡くなり、この権利章典は法制化されなかった。ムーアはこれを実現するのがアメリカの使命だと訴える。そして敗戦国の日本、ドイツ、イタリアはこれを行ったという。 「ちゃう、ちゃう」と私はつぶやいた。 確かにムーアの言うように日本には「団結権」があり、「自由に学問をする権利」はある。このルーズベルトの「第二の権利章典」はまさに日本の憲法25条をはじめとする諸権利の具体化だと思う。実際ムーアは来日記者会見で、「彼の部下たちは日本に渡り、医療保障や住宅や仕事の確保、組合に入る権利など憲法の作成を手伝った。当時、敵国だった日本に対する彼の寛大さに今も多くの人が涙しているが、同時に『今の自分たちにはその保障がない』という悲しさから泣いてしまう」と語っている。しかし、ムーアさん、アメリカにも一定の団結権があるように、そしてデトロイトでストライキで戦った労働者が1人当たり6000ドルの未払い給与と退職金を勝ち取り、「これは当たり前の合法的なことだ。しかし、戦わなければ勝ち取れなかった」といったように、日本でもこれらの権利は「戦わなければ勝ち取れない」という現実があるのだ。例によってエンドタイトルは印象的だった。カントリー調の「インターナショナル」は初めて聞いたし、「貧しき者は幸いである」と言ったキリストは「だから彼らに殺された」と歌うロックに私は肯くのであった。
2010年01月13日
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最後の12時間はついつい一晩と半日をかけて見てしまった。正月に撮りだめしていた深夜テレビ番組を見たのでコマーシャルを飛ばしたり、ときどき早送りしたりして、約8時間で済んだけど、それでもさすがに体調を元に戻すのに2日もかかってしまった。。さて、今回はCTUが無くなりFBIと協力して黒幕を追いますが、ネタバレなしで感想をいいます。今回のテーマは、このシリーズの最大のテーマである「目の前の50人のバステロを助けるために、違法な手段でテロリストかもしれない人物を拷問したり、同僚を危険に晒したり、一部市民が巻き添えになるかもしれない危険を知りながら協力を頼んだりしてもいいのか」「緊急超法規的手段か法律遵守か」ということである。ジャックバウアーは既に公務員ではない。CTUさえ解散させられている。しかしジャックは常に本能的に前者を選ぶのである。彼にも後悔はあるのだろう。しかし彼は自ら「本能」だといった。もちろん、超法規的手段を選ぶといっても、愛する人を殺した人間に対する「復讐」の行動規範は彼には無い。ここがよくあるテーマと違うところだ。彼は常に「国家に対する忠誠」のために行動する。ただ、大統領のためではない。あくまでも「国家のため」というところがジャック・バウアーの最後の「プライド」なのである。そのために家族を犠牲にしてもいいのか、というのがシリーズ前半のテーマであったが、今ではわざと独りになってそのテーマからは逃げている。後半になってちらりと顔を出すが、そのときは彼は迷うことなく家族を選ぶようになった。彼も学んだのだ。しかし、一方では彼はもはや自らの力で「家族と国家のジレンマ」を解決できない。さて、今回(ジッャクが最後あのようになるので)シリーズ最終章かというと、本格的な大組織の壊滅までには至っていないので、たぶん次ぐらいになるのだろうが、もうそろそろ終わりにするべきだと思う。9.11直前から始まったこのシリーズは、そのときどきの世相を映しながら悩めるアメリカをまさに体現して来た。次回は今回少しだけその尻尾が見えたアメリカのネオコンの実態をキッチリ伝えるラストシーズンを作ってもらいたいものである。
2010年01月12日
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今年の映画評一発目はノリノリで元気になれるこの映画1966年イギリス…不良高校生が更正の為に乗り組んだ船は、24時間、ロック・ミュージックを流す海賊ラジオ局だった。ロック規制強化をする政府と、それに対抗する海賊ラジオ局の攻防を描いた痛快ストーリー。監督・脚本 : リチャード・カーティス 出演 : フィリップ・シーモア・ホフマン 、 ビル・ナイ 、 リス・エヴァンス 、 ニック・フロスト 、 ケネス・ブラナー 、 トム・スターリッジ 音楽映画苦手の私が最後まで楽しめたので、それだけで合格です。そもそも1日45分しかヒットレコードをかける時間がない貴族の国イギリスの文化状況こそが信じられない。そういえば、私の少年時代、NHKエフエムは6時からの一時間しか若者向けの番組が無くて、後はずっとクラッシックだった。他のラジオ局が無かったら、とてもラジオなんて聞いていなかったと思う。当時のDJのことや、ひとつひとつのロックナンバーのことなどを知っていたならば、いろいろ楽しめたのだろうけど、まあ終わりのベタな展開も含めて楽しめました。正月のクイズ番組で、井上順が日本で初めて、70年代のCMで写真撮影のときに「はいチーズ」と言ってピースサインをしたのだということを紹介していたが、ピースサインだか、ブイサインだかは知らないが、既にこの時代イギリスでもやっていたのだということを気がつきました。伯爵がF.C.ホフマンだったということを今知りました。役者ですね。
2010年01月02日
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昨日の記事の「ハピネス」のホ・ジノもそうだが、韓国の実力派監督の作品は基本的に見逃すべきではないということを肝に銘じよう。「殺人の追憶」「グムエル 漢江の怪物」のポン・ジュノ監督の作品である。監督・原案・脚本 : ポン・ジュノ 出演 : キム・ヘジャ 、 ウォンビン 、 チン・グ 、 ユン・ジェムン 、 チョン・ミソン枯野をひとりのオンマ(母)がやってくる。立ち止まる。後ろを振り向く。誰もいない。オンマの中で音楽が奏でられる。彼女はおずおずと踊りだす。表情は陶酔しているようにも見えるし、泣いているようにも見える。これがオープニングである。同じ母ものと言っても、「マラソン」のような感動ものの親子物語ではない、と最初に宣言したというわけだ。ついに母親は「オンマ」としか呼ばれず、名前は出てこなかった。母親に名前を与えない、という監督の意図はわれわれに更に重たいものを突きつけてくる。たしかに普通にいる母親ではない。特別なこともする。しかし、映画が終わってみれば、母親とこの息子の関係は、お互い罪をかぶせ、そして罪を被り、そして善いとろも、全てをひっくるめて愛し合っている。そういう濃厚な親子の関係はもしかしたら普遍的なものなのかもしれない、とわれわれに突きつけている。たとえば、母親は息子が5歳のときに二人で生きてていくのがつらくなり、農薬を使って心中を図っている。しかし、安い農薬を買ってしまったために、未遂に終わってしまった。息子は、ふとした拍子にそこの過去を思い出し、「もう二度と会いたくない」という。しかし、そう言ったことはすぐに忘れてしまう。ここに二人における貧困と愛が見える。前世代の韓国映画のおける代表的な「恨(ハン)」(克服すべき課題)は「南北問題(朝鮮戦争)」「光州事件(独裁政治)」であり、「アメリカ(米軍)」であった。しかし、最近の韓国映画をみていると、もうひとつ加わっているように思う。それは「貧困」である。韓国映画はつねに何かに対して「申し立て」をせずにはいられない。特にポン・ジュノ監督はそれを独自のかたちで突きつける。手作業で漢方薬を作り、闇鍼でやっと暮らせる生活、街頭の無い(韓国ではいたるところにある)坂道、援助交際少女の現実、雨でぬかるんだ道、韓国の田舎のなんとも貧しい風景が底に広がっている。過去の話ではない。2006年の韓国の田舎なのである。90年前後のIMF危機は、韓国の末端に至るまで「貧困」をみごとに根付かせたようだ。そういう背景のなかで、このクライムサスペンスは、一つ一つの映像を緊張感を持って最後まで描ききる。冒頭と最後がみごとにつながっていく。それにしても、韓国の科学捜査の何という杜撰なことか。本当にこれが現実なのだろうか。映画として成り立つということは、観客の本土とがそれを追認しているということなのだから、現実なのだろう。
2009年12月29日
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主演の二人が素晴らしい。「ユア・マイ・サンシャイン」で体重を数十キロ増やして純朴な農業独身青年を演じたファン・ジョンミンは、今度は反対に痩せこけて登場する。ソウルでディスコを経営していた放漫な青年が肝硬変になって生活改善療養施設(?)の「希望の家」で過ごすうちに、つき物が取れるように優しさを取り戻す役を演じている。その施設で8年前からすごしている肺気腫(?)の女性がイム・スジョンである。彼女は「箪笥」の美少女役で鮮烈に日本に登場し、そのあと「アメノナカノ青空」「サイボーグでも大丈夫」「サッド・ムービー」「角砂糖」と、主演を張れる女優として大事に育てられてきた。死を意識しながら、恋を自覚し始める女性を繊細に演じている。監督: ホ・ジノ出演: イム・スジョン / ファン・ジョンミン / コン・ヒョジン原題は「ヘンボク」(幸福)です。幸せは、身近にあるときには気がつかない、という何度も描かれたテーマを、真正面から描く。「これが幸せね」とか「あれが幸せだったのか」とか野暮な台詞は一切無いが、観客には明確に伝わる内容であった。「北の駅から」で主演のお父さんを演じた俳優パク・イナンが肺ガンに犯されていてファン・ジョンミンと同部屋になる。死期を医者に告げられたのだろうか、禁煙していたタバコをすった日に自殺する。この日からファン・ジョンミンは変わっていくので、重要な役なのである。生真面目な老人男性をきちんと演じている。あのテレビ主演以来、テレビや映画では脇役ばかりである。このような脇役俳優が健在であるからこそ、韓国映画は成り立っている。「死」と向き合う作品は映画の王道である。「愛」「死」「性」これが全世界に通じる映画の三大テーマだ。日本でも「死」をテーマにして「その日の前に」「60歳のラブレター」「宣告」等々たくさん作られたはずだ。しかし、話題にならなかったし、満足いくものは無かったのではないだろうか。色々と小細工をかけてみたり、オムニバスにしてみたりして、俳優に信頼し、テーマを正面から描く作業をしてこなかったのではないだろうか。いま之を満足な出来で作れるとしたら、山田洋次しか思いつかない。しかし山田は悲劇を真正面から描かない。いつも悲劇の一歩手前で終わらすのである。やはり妥当な監督を思いつかない。こういうテーマでは、日本映画は韓国映画にずっと負け続けるということなのだろうか。くやしい。これを書くまで気がつかなかったのであるが、監督は「八月のクリスマス」「春の日は過ぎ行く」「四月の雪」のホ・ジノであった。言葉に出来ない思いを、生と死と愛をずっと描き続けてきた作家である。韓国映画は玉石混交である。しかし、実力のある監督は基本的に安定している。
2009年12月28日
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