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明日の朝出発し、下関港からフェリーで釜山港へ、そのあとはほとんど予定を組んでいないまたまた行き当たりばったりの旅です。どうなることやら。今回は、あまり古代にこだわるつもりはないのですが、どうしてもテーマは古代、平和、映画にならざるを得ない気がします。それとどこまで節約して旅が出来るかも‥‥‥もともと貧乏なのでそういう旅になります。空前絶後の円高ウォン安を楽しんできます(^_^;)。というわけでしばらくお休みします。大晦日には帰国後第一声を届けられると思うのですが。
2011年12月22日
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11月22日(月)雨 最終日フェリーはほとんど揺れることなくいつの間にか下関港に着いていた。もう少し厳しい税関検査があるかと思いきや、簡単に終ってしまい肩透かし。下関は雨だった。思えば、行きの朝も雨で韓国の20日間はずっと晴天か曇りだった。そして帰りも雨だったということになる。下関駅で300円カレーを食べる。店のおばさんに「韓国旅行中ずっと晴天で、ここに着くと雨なんでびっくり」「ここいらもずっと良い天気だったけど、今朝突然雨になったのよ」「この店のお水は韓国よりも美味しいですね」「あらそう。普通の水とは違って浄水器を使っているのよ」「韓国でもお店の水はたぶん水道水じゃないと思うんだけど、なんか此処のは水が甘く感じるんですよね。それに水差しに氷を入れるサービスは韓国にはないんです」「そう。ありがと」「あ、それからカレーも美味しかったですよ、本当に!」300円にしてはホントに本格的カレーだった。釜山のフェリー乗り場で駅前のグリーン商店街ではwが使えるという張り紙を見た気がしたので、今日の昼食を調達しようといってみる。レートがいいので得だと考えたのである。この商店街は幾つかの店が韓国料理専門店だったり、食材屋だったりする。ところが、二軒ほどに「ウォンは使えますか」と尋ねたところ、「そんなことは聞いたことがない」という。がせねた、韓国の側のいいかげんな情報だったのか、私の勘違いだったのか。電車の切符を現金で買ったらもうほとんど現金がなくなったので、コンビニでクレジットカードで買うことにする。ヨーグルト、おにぎり、お茶、漬物、ワンパック焼酎を買って802円なり。ウォンで言えば、一万W以上の買い物だ。韓国の物価が懐かしい。韓国ならば、半分くらいの価格で買えるか。けれども、この物価でまた生活していかなければならない。電車賃も行きと同じで5780円。韓国ならば、バスで釜山とソウルを往復できる金額である。……ただ、10時3分発の長い長い各駅停車の旅をして思い返した。日本のローカル線にはホントに乗客が乗っていない。運賃はこれが精一杯なのだろう。車窓からはスーパー等の駐車場に車が一杯の場面を何度も見た。やはりなんやかんや言っても、日本は車社会なのだ。その前提が変わらないのならば、高速道路無料化は日本経済効率化の起爆剤になるかもしれない。(……と、この時の日記には書いている。今は昔の物語)いつもそうだが、外国から帰ってきたこの時だけ、私は日本文化評論家になる。外国の眼から日本を眺めることができるからである。懐かしい日本の山並みである。やはり日本の山は岩山が少ないと思う。古事記では、日本を泥をこねて作ったと書いているが、それは朝鮮半島から来た人たちの実感だったのではないか。つまり、あの記述あるいは伝説は、渡来人一世が作ったものなのではないか。日本のどの家も、韓国のスタンダードな家から見ると、「お屋敷」に見える。反対に言えば、一般家庭の家の大きさの違いが客観的に言って日本と韓国の国力あるい民力の違いなのではないか。しかし、それがいつまでも続くとは思えない。携帯と薄型テレビの普及率は、おそらく韓国は日本を抜いているだろう。以上、22日間、私としては最大の旅レポートを終る。一年かかってしまった。また12月23日からは、気楽な一人旅をしてきます。果たしてどうなるやら。コーヒー缶120 朝食300 電車5780 昼食802計 7342円
2011年11月12日
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市場に戻る。キムチはさすがにいろんな種類がある。店先にはこの倍くらいの種類を売っていた。映画の時間だ。「フェスティバル」である。韓国特有のエロチックコメディである。リュウ・スンボンなどの演技派がたくさん出ていてものすごく期待していたのだが、外れてしまった。釜山繁華街公開一週目日曜日の上映なのに、観客がなんと私含めて6人しかいない。韓国の人たちはもうこのような下ネタ満載の映画には見向きもしなくなったということなのか。客の反応を一番期待していたのだが、コメディ映画で少しも笑いが起きないということほどつまらないものはない。SM、女装、人形フェチ、がさつ男という偏向性癖を持っている彼らが最後には「自分たちの居場所」を確認するとというような話のよう思えた。俳優たちは頑張っていたが、途中で寝てしまった。昼食はぶらぶら歩いていて見つけた「カマソッ」という処で石釜ボッサム定食というのを頂いた(釜山市中区光復洞3街5-51)。釜山のせいか、釜ご飯の定食屋はたくさんあるようだ。ここのメインは釜炊きご飯である。丁寧にも、最後におこげ汁を作って食べれるように専用の汁まで用意されている。韓国ではオコゲご飯が一つの料理にまでなっている。郷愁を誘うのであろうか。韓国では汁を入れて食べる。一方、日本ではそのまま食べるのが一般的だと思うのであるがどうであろうか。日本でも一定の年齢上はオコゲご飯が一般的だったと思う。好き派と嫌い派に分かれるのであるが、私は徹底的に好き派だった。母親にわざと作ってもらってお菓子感覚で食べていた。だから基本的にオコゲは柔らかい。ここの店のは固くて好みではなかった。その後はお土産を買いに市場に戻る。大長今(チャングム)テーマパークで、肝臓と糖尿に良いお茶をメモしていたのだが、昨日の弥勒山に忘れてきた。とりあえず、五味茶とトングル茶と棗茶を買う。棗茶は効能は少ないが、味を調えるためにブレンド用に買った。テーマパークで買うより、1/3ぐらいになったと思う。市場のスーパーで、コチジャンやお菓子、それと重たくなるので迷ったが焼酎の「チョウンデイ」を四本買った。コンビニで買うより安い。さて、ターミナルに戻ってチケットを買う。106200w。行きが10400円だったので、レートを考えるとwで買ったほうが断然安く付く。日本で帰りの予約を取らなかったのは、このためであった。これが帰りのフェリーのカナリア号である。市場で次回の韓国旅行のために四万円の換金をする(この時はもうこれ以上安いレートは無いと思っていた)。最後のレートは1370w/100円だった。船のジャッキから釜山港を眺める。帰りの下関フェリーはすべてが円建てになっていた。もう帰りの電車賃と食事代くらいしか持っていなかった私は少々あせる。これが二等の部屋である。フェリーの中で、私とほぼ同じ年代で釜山で旅をして来たという人と同室になった。焼酎を四本買った私は免税本数が3本ということに気がつき、彼を誘った。飲みながら旅の話をする。彼は四日間釜山のみを回って飲み屋などでいろんな人と話をしている写真を見せてもらった。私とはまた違った旅をしていて、面白かった。朝食1,500 本20,000 映画7,500 昼食7,000 お茶のお土産14,000 その他お土産30,000 財布20,000 スーパーでのお土産18,950 コーヒー2,800 船代10,620 夕食600円計 227,950w+600円
2011年11月11日
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11月21日(日)晴れ 21日目朝一番で国際ターミナルに行って今日のフェリーの切符を予約する。まさか満席ということはないだろうと思っていたが、無事取れてほっとする。行きと同じ大部屋の二等である。国際ターミナルから出たところにある教保生命ビルには、ずっと気になる石碑があったので近づいてみる。「必死即生骨肉之情」とは穏やかならぬ言葉である。後ろに回ってみると、「第三歩兵師団創設地」とあった。第二次世界大戦ではなく、創設は1947年12月とあるから、朝鮮戦争末期釜山が占領されそうになった時の軍だろうか。朝鮮戦争ではさぞかし骨肉相食む戦いになったことなのだろう。また、いっぽうではこんな車も見た。昨日か今日か、結婚式で盛り上がるのだろう。ちょっと日本にはないような派手さがある。南浦洞にもどって映画のチケットを買う。それから市場を散策。遅い朝食である。キンパbの値は数年前から値上がりしていて、どうやら1500Wに統一されたようである。不味いところもあるが、此処のは美味しかった。しかも野菜汁まである。ひやかし歩き。味噌の種類だけでこれだけあるのならば、料理の味付けは奥が深いんだろうな。朝の目的は、じつは古書通りに行って韓日辞書を買うことだった。ところが、なんと日曜日は一斉休みらしい。これは困った。通りには小学生の絵がずらりと飾られていた。歴史のある古書通りで、地域の自慢なのかもしれない。一軒だけ開いていた。もう選んではいられない。そこにあった一番大きな辞書を買う。いい辞書だといいな。20000wと安い。古書通りを出たところでこんな階段があった。やっぱり上に上ってみたい。昨日の階段とは違っておしゃれな家が途中に建っている。登ってみると、南浦洞の市場をすべて見渡すことができる。大きなビルでも、やっぱり貯水タンクはある。釜山の水道事情は特殊なのか。
2011年11月10日
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西面のロッテデパートに着いた。映画館のフロアにはチョン・ドヨン様がイ・チャンドン監督とニコニコしている写真があった。カンヌで主演女優賞を獲った「ミリョン(「シークレット・サンシャイン」)」の時に舞台挨拶に来たのだろう。今日見た映画はこれ(日本での題名「義兄弟」)じゃない。カン・ドンオォンが嫌いなので選択しなかったのであるが、この日公開されていた韓国映画で一番見ごたえがあったのは実はこれだったということは、日本で映画を見た時に思い知った。洋画では「レッド」をしていた。ポスターではどうしてブルース・ウィルスが一番目立っているのか。確かに主役だったけど、作品的にはモーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレン と同列に扱われていた。もう一つの洋画は「レット・ミー・イン」。日本では「モールス」として今年の夏に公開。日本の邦題は意味がないとブログ上では話題になる。韓国の題名は原題だけど、結局こちらのほうがよかった。とは、今だから読めること。このハングルを「LET ME IN」と韓国の人は読めるのだろうか。それから、ポスターを見る限りではまるで恐怖映画のような紹介をしている。違うんだけどなあ。結局映画は「トゥ・ヨジャ(「二人の女」邦題としては「女友達」を推薦)」を見た。夫の浮気に気づいた妻が、こっそりその愛人と会っているうちに、奇妙な友情関係が作られるという話です(話が単純なので、言葉が分からなくても何とかついていけました)。会場は公開週ということもあってか、150席ほどのホールに約9割方入っています。作品的にはダメでした。夫があまりにも無責任すぎる。濃密なドラマになっていない、となんとなく感じました。けれども、会場の反応には感心しました。最後のもっとも悲劇的な場面で、思いもかけず劇場は「大爆笑」していたのです。日本ではせいぜい「失笑」するくらいでしょう。だって明らかに監督は笑わそうとして絵を作っていないんです。韓国の映画ファンの作品をとことん楽しもうという「観客魂」を見た気がしました。韓国最後の夜の晩餐です。やっぱり焼肉が食べたい。南浦洞で最近できたみたいな安い焼肉屋に入りました。テベ三枚肉(豚肉)を頼みました。三人前からしか頼めないのですが、一人前が1900w(150円)と安いのです。焼肉は野菜で巻いて食べるのでとってもヘルシー。安いのでダメかな、と思ったけどお変わりを頼むとちゃんと持ってきてくれました。初めてですが、副菜に「ポンテギ」が付いていました。食べてみます。淡白な味のお肉という感じです。この日は太陽荘旅館二日目です。これで25000Wは安いと思いませんか。宿25,000 カップラーメン1,500 博物館本3,000 昼食3,500 たこ焼き1,000 映画8,000 コーヒー1,500 キョトンカードチャージ5,000 夕食8,700計 57,500
2011年11月09日
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面に地下鉄で行って、そこから10番バスに乗って、門?洞(ムニョンドン)壁画村で降ります。おじさんに「壁画村はどこでしょう」と聞くと、「あっちだよ」と直ぐ答えてくれました。有名らしい(遺跡めぐりをしているとこういうことはめったにない)。どうやら、観光地(?)らしく、壁に絵を描いている村ということで大きいカメラを持った中学生や若者のグループに3組ほどであったのでした。彼等は壁画を撮影しに来たのでしょうが、私の目的は違います。いつも脇役でお母さん役をしている女優が怪演した「母の証明(原題「マザー」)」という映画がありました。ウォン・ビンの兵役復帰第一作ということでも有名になりました。ドンジェ(ウォン・ビン)が住む村で殺人事件の舞台になったところのはずです。二人の住人に「ここは映画のロケ地ですか」と聞いて「そうだ」と言ってくれたので確かではある。ところが、雰囲気は確かにあるのであるが、映画のシーンにあるようなアングルがなかなか見つからない。夜のシーンが多かったので、壁画なんて映画では一度も出てこない。入り組んだ路地と坂道、そして貧民窟の雰囲気、あの映画の世界観です。結局殺人があった場所の特定はできませんでした。あれだけはセットだったのかなあ。暫らく歩いてみました。貧民窟ではないけれど、映画に使えそうな場所は幾つかありました。この辺りの家はことごとく貯水タンクを持っているのが特徴です。いや、これは釜山の町の特徴といっていい。釜山の水道事情なのでしょう。ここから見下ろす景色は釜山の典型的な密集住宅です。ところが、道を一歩隔てると隣には高級高層アパート群がある。韓国にはよくある風景です。なんというか、わざとやっているような気もします。「ここは開発に乗り遅れているんだぞ。早く取り壊しに応じろ」と言外に言っているのでしょうか。私的にはこの絵に芸術的価値を感じません。どうしてみんなが撮影しに来るのかがイマイチ分からない。撮影隊は一体何に美的価値を持っているのか。一旦降りて、今度は普通の住宅地をあがって見ます。坂道は子供たちの格好の遊び場所であるというのは、万国共通。モクハァ・スーパーマーケット。スーパーとは名ばかりの雑貨屋。日本ではこの手の店は街中ではことごとくコンビニに取って代わられたけど、まだ釜山ではそこまでは行っていないみたいです。何度も言っていますが、韓国の流通は日本のそれとは、二歩も三歩も遅れている。ロッテが流通を独占していて、あぐらをかいているせいでしょうか。電線の配線に職人的な技は感じられない。なんか素人が適当にやっているように思える。この坂道なんかには「芸術」を感じます。さて、バス通りまで出て、西面のロッテデパートで映画を見よう。
2011年11月08日
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次の目的地に行く前にこの日、街歩きをして気がついたことを幾つかコネタ的に紹介。。ディスカウントスーパーに入ったところ、柘榴4個1000wを「ざくら」と書いていたので、店長に指摘しました。「すみませんでした」とは一応言いました。こういう日本語の間違いに対して、指摘したら一応謝るけど、「ほんとうですか?それは大変だ!」という表情は全くない。つまりは「ケンチャナヨ」精神なんですね。街中にチャップリンの写真があったので、ちょっと文章を翻訳してみると「電気は国産だけど、燃料は輸入します」という電気会社のスローガンみたいなものが書かれてあった。どうも「国産」と「輸入」に関して、非常に敏感な世論ができているようです。当然李明博大統領の米国との二国間関税撤廃条約(FTA)の世論とのせめぎあいがこういうところにも現れているのかもしれない。街では「少女時代」(だよね?)の写真がずーと溢れています。この1-2年は彼女たちの時代なのでしょう。南浦洞でたこ焼きを売っていました。味を確かめるために、3個1000wを買ってみる。確かにカリカリと焼いて、中はトロリで、小さいタコも入っているのですが、何かが違う。あまり美味しくない。上手くいえません。出汁でしょうか。有名店らしい麺屋でビビン麺を食べてみた。少しの野菜とコチジャンと麺が絡んだ簡単なものです。まあ、安いだけがとりえの軽食ですね。この辺りは、釜山映画発祥の地である。それを説明する碑もあった。「幸座」という。さて、腹も詰めたことだし、これから壁画村に出かける。
2011年11月06日
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11月20日(土)晴れ 20日目太陽荘旅館の直ぐ隣に白山記念館というのがある。博物館フェチの私としては、ずっと気になっていた所。休館日と重なることが多くて中に入れなかったのであるが、今回晴れて入ることができた。白山安熙済(ペクサン・アンフィジェ1885-1943)は抗日独立運動家で、「この記念館があるところに白山貿易商会(1919-1928)を設立、運営し、1919.3.1の独立運動を始め、大韓民国臨時政府と国内外の独立運動団体を金と運動面で支援した人」だそうです。展示物は文字資料が多かったので割愛。資料館の片隅に何故か米が山のように積まれてあった。資料館の館長みたいな女性に聞いてみた。「これはなんですか」「貧しい人、孤児たちへクリスマスプレゼントをするためのものです」白山自体は素養は漢文学のようなのだが、今やこの記念館はキリスト教精神を持っている人の拠点になっているのかもしれない。「誰が寄付したのですか」と聞くと、「普通の人です」という答えが返って来た。袋には「白山 愛の米」と貼ってあった。観光案内所に行って、今日行くところを決めた。まず一度行ったことのある東山洞貝塚展示館に行く。貝塚展示館に入る前に小腹が空いたので展示館前のコンビニでカップラーメンを買って食べてみた。韓国のコンビニは例外なく食事ができるコーナーがあってお湯は常備しています。東山洞貝塚展示館に前に行った時は、ちょうど台風がやってくる直前で、周りを散歩するどころか、気が急いて中でゆっくりすることもできなかったのです。貝塚といっても、日本の弥生時代に当るものではなく、節文土器文化……縄文時代にあたる貝塚です。綺麗な模様の土器が出土しています。(もっとも、日本の縄文土器の美しさと精美さには叶いません。縄文土器は美的に言えば、世界一だと思う)この前叶わなかった図録も買って、貝塚はどの辺りですか、と聞いてみる。なんと、展示館のある前の広場一帯だった。この旅の習慣で「土器探し」を丁寧にやってみる。貝塚なので期待していたのだが、どうやら丁寧に埋め戻しているらしく全く見つけることは出来なかった。斜面に韓国のスミレが咲いていた。菫の花はどこでも一緒だけど、葉はその土地で微妙に違う。ここの葉は日本のそれより広い気がする。
2011年11月05日
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統営から釜山の西部バスターミナルに着いた。地下鉄カードのチャージを済ませて、フェリー乗り場のある中央駅で宿を探すことにしました。四十階段という観光名所らしきものをあがっていきます。この辺りは古い町並みが続いています。ライトアップした釜山タワーが見える。いわば、釜山の下町ですね。このクリーニング店では、ウエディングドレスをずらりと吊るして、ご主人が夜中までアイロンかけです。この通りには、印刷屋が続いています。古い機械が多い。競争に勝てるのだろうか、と要らぬ心配。下町をほろ酔い気分で歩くおじさん。結局宿は、名前に釣られて「太陽荘モーテル」に入りました。とっても古くて心配したのですが、25000wで、インターネットまで付いていて、まあまあ綺麗で、主人は気さくな方だったので、ここに連泊することに決めました。少しインターネットをしてから8時から夕食に出かけます。すぐ近くの「セマウル食堂」に入りました。ここは居酒屋にも拘らず、美味しいマッコリが一杯1000wで飲ませてくれて、ツマミも温トーフキムチが5000wです。キムチチジミが3000wととっても安い。もちろん美味い。お勧めの食堂がひとつ増えました。この日、ケーブルカーで弥勒山に登って降りる間に、大事なメモ帳を落としてしまいました。この旅では、日記帳と一緒に、いわゆるメモ帳をずっと携帯していました。ここに地図を書いてもらったり、意思疎通のためのメモを書いたり、書いてもらったり、そして慶州の食堂で出会った定年の日本人男性の住所や、慶州の金君のアドレスを書いてもらっていたのです。全く残念で、大変申し訳ない。見ているはずがないですが、もしわたしの書いたアドレスが残っているならば、連絡が欲しいものです。朝食800 コーヒー2,000 バス1,000 ケーブルカー9,000 おみやげ6,000 バス1,000 昼食4,500 つまみ5,000 バス1,000 統営→釜山10,800 カードチャージ5,000 宿25,000 夕食10,000 合計 80,300w
2011年11月04日
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弥勒山から来た道を帰ります。バスの中から橋沿いの町をパチリ。ここが、朝鮮戦争のときに激戦地になったんだね。アガシが薦めてくれた忠武キンパブの店は港に沿ってありました。その有名店の前には、さすが統営、お約束のようにイ・スンシンの亀船の復原船が浮かんでいます。中に入るには、お金がいるようなので遠慮して、その隣の資料館(無料)に入ってみました。これは亀船の内部構造です。思ったより、丸い形をしているのだなあ、と新発見。そして思ったより、複雑な構造です。韓国の刀は実に様々な形があるようです。忠武のり巻きの名店は二軒並んであるようです。左の方に入りました。これが統営名物・忠武キンパbです。普通ののり巻きにキムチとイカのキムチ和えが付いているだけのようです。美味しかったけど、特別な料理には思えなかった。私はのりまき部分が特別なのだという期待を抱いていたのです。けれども後から考えると、このおかずがあくまでもセットであり、絶妙なバランスをとっていたのでしょう。船で漁に行くとき、安価で栄養のある弁当として、欠かせないものだったのかもしれない。後でわかったのですが、おかずの方はお替り自由だったそうです。惜しいことをした。近くは市場だったので少し歩いてみました。この辺りで獲れるのは牡蠣といろいろな魚と昆布みたいです。日本と同じような港町の風景です。僅かな敷地に人口が密集しているために、山すそまでびっしりと家を建てる人たち。ただ、日本と若干違うのは、韓国ならば一区画に必ずあるとんがり屋根の協会は日本では珍しいことと、埠頭にあのような常設に近い「だべり場」は日本では作らないだろうな。露天で干し魚を5000wで売っていたので、数日の酒の肴に買って置きました。バスターミナルに戻って、コーヒー店のアガシにお礼を言って、釜山行きのバスに乗りました。着いたのは6時前。かって知ったる釜山です。
2011年11月03日
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ともかく韓国の(たぶん)名山のひとつに比較的楽に登ることができたのはラッキーだった。高さは461mとそんなに高くはないのですが、海沿いに聳えているので、とっても高く感じるし、第一景色が素晴らしい。平日の金曜日にも拘らず、実にたくさんの人が登っているのです。気持ちは分かります。一族郎党で来て、弁当を食べています。農村の様子もよく見えます。棚田を作っている。頂上の標札では、入れ替わり立ち代り記念写真を撮っていました。私も、実はここでは見せませんが、この旅で唯一の記念写真を撮りました。私は普通どの旅をしても「自分の写真」は撮りません。よくありとあらゆる景色に自分か友達のポートレートを入れないと気がすまない人がいますが、私はあれが理解できない。「旅の記念」は自らが何かを感じた「景色」があれば「必要充分」だと私は思っているのです。記念写真を撮る労力は一枚でも多くの写真を撮ることに費やします。でも一年か二年に一回ぐらいは、突然死んだときのために近影を撮るようにしています。統営の港町もよく見える。ここは基本的に岩山であって、所々怖いなあ、と思うところもあるのであるが、登ってみると爽快であった。けれどもこの女性のように、あそこまで岩の突端にはいけませんでした。コーヒー店のアガシが提案してくれなかったら、決して思いつかなかった素晴らしい「観光地」でした。一度は本格的な山登りをしたいと思っていたし、慶尚南道の海も見たいと思っていたので、とっても満足して山を降りたのでした。
2011年11月02日
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弥勒山に登る。所々に高山植物や木々の説明版があった。花の季節はおもに4-7月だ。だから何も無い。唯一葉が残っていて良く分かるのはこのトッカルの木だった。頂上付近の総合案内板である。歩いた順番は、一番のケーブルカー乗り場から二番、そして13番、14番(閑山海戦展望台)、12番、11番(朝鮮戦争展望台)、6番、9番、8番、頂上へというふうに歩いたのでした。少し大変だったけど、軽装でこんな高い山に登れるのはめったにない経験なので思いもかけず、大変よかった。14番のビューポイントに行って初めて知ったのであるが、秀吉との朝鮮戦争で李将軍(イ・スンシン)が最初の大勝利を収めたのがここ統営の閑山海戦だったらしい。1592年7月、北側からやってきた秀吉海軍73隻とイ・スンシンの53隻が対峙する。イ・スンシンは火に強い鉄甲でかためた亀船で組織する。そしてなんと鶴翼の陣をひくのである。兵法は良く知らないけれど、一般的には少ない兵力ではしない戦法ですね。それに釣られたのか、秀吉軍は正面突破を図る。戦いの経過がどうだったのかはよく知らない。ともかく李将軍は勝利し、一躍、現在に至るまで韓国でもっとも有名な英雄になる。ここで見ていて分かるのであるが、確かに大艦隊が通る水道はここしかない。しかも、ここに73隻が通るには一番狭い水道なのだ。万が一、ここでその戦いを見ることができたならば、手にら汗握るスペクタル場面を見ることができただろう。別のビューポイントでは、1950年の朝鮮戦争のときの北朝鮮とアメリカ軍との戦いの展望台もあった。これは海戦ではなく、陸上の戦いではあるが、「統営上陸作戦」と名づけられている。どうやら、統営市街地すべてが戦場になったみたいだ。帰り道では、閑山海戦の前哨戦、唐浦海戦のビューポイントもあった(どうやら港にいた三隻の秀吉軍を沈めたみたいだ)。韓国では、もっともっと手に取るようにこの戦いの詳細を知る人が山のようにいるんだろうな。吉備の鬼の城のような山城もこの山々の何処かにはあるみたいだ。
2011年11月01日
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去年の11月に行った韓国旅行のレポートを再開します。一年経ってしまいました。今回のシリーズで終わらせる決意です。今までのレポートは左カテゴリーの韓国旅行(09~)を見てください。11月19日(金)曇り 19日目モーテルを辞して9時に観光案内所に行ったら、まだ開いていなかった。当てが外れて案内所に備え付けのハングルの観光マップを持ってバスターミナルの中のコーヒー店で今日一日の作戦を練ることにした(全く予定を立てていないのでした)。ぶつぶつ言っていると、店のアガシ(お嬢さん)がやってきた。「観光に行くなら、ケーブルカーに行ってみては」「何があるんですか」「景色が素晴らしいのよ」「ありがとう。他にお勧めはありますか」「何処か行きたいところはあるの?」 「考えているんです」「あと、李将軍の祠とか。食事は?」「食事はしたいです」「それなら、マンファタンというところで、ここの名物の忠武のりまきというのを食べるといいわよ」「そうか……それがいいかも。山に登って景色見て、それを食べて決まりだ」アガシに感謝して、改めて9自半に案内所に行くと開いていた。日本語はできなかった。日本語サービスの電話を仲介してのやり取りになった。重たい荷物をケーブルカーの事務所で預かってもらうよう連絡してもらう。ケーブルカーとマンファタンの行き方を確認してバスで向かう。今朝の朝食である。統営(トンヨン)は寂れた港町だというイメージだったのだが、町の中は新しい道路が多く、なんでこんなに新しい建築物が多いのかわからない(近くに大工業地帯でもあるのだろうか)。若い人も多い。しかし、隙間産業のごとく、やっぱり普通の薬局の前に野菜売りの行商をしているハルモニはいたりするのである。ケーブルカーに乗るのは久し振りだ。弥勒山行きである。最初だけがたりと揺れる。ほんとうはほかの客と一緒に乗りたかったけど、グループごとに選別されて部屋の中は私独りで寂しい。けれども、登っていく景色はこのときだけだと思い、写真だけはばしばし撮った。次第港町の統営の姿が見えてくる。次第と山の向こうの海も見えてきた。さあ、着いた。弥勒山に登る階段がちゃんと付いていた。
2011年10月31日
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駅前の抽象的な銅像。「歴史の」なんちゃらと書いている。思うに、韓国国民も歴史の過酷さの前にこのように自らを責める(かのようにように見えた)こともあるのだ。もうこのような像になれば、何がなんだかわからなくなる。バスターミナルに戻って今日は釜山に出来るだけ近い統営(トンヨン)に泊まることにした。ターミナル前の地下道でハルモニが木製品を売っていた。素朴な手作り感のあるしゃもじや櫛、箸や皮膚やツボを刺激する製品が1000w-3500wと安い(かのように思えた)。そろそろお土産のことを考え、自分用の合わせて五つほど買った。バスの待ち時間、ロッテリアでコーヒーを飲みながら日記を書く。アジョッシ(おじさん)がゴミ回収に回っていた。ロッテリアで雇われたというよりは、ターミナルの清掃人という感じだ。背中にミファ(美化)の文字があった。韓国では人口の半数が失業者だという。最低賃金は3800w(?)という信じられない水準だ(日本円で約260円)。このおじさんもそれぐらいで雇われている気がする。このコーヒーセットぐらいの価値しかないのか。韓国の人たちが、我々から見ると眉をひそめるくらいに上昇志向が高いのも、こういうことも背景にあるだろう。午後9時前に統営に着く。地方のバスターミナルから直ぐにモーテルを見つけることが出来なかったのは、ここが初めて。暗くてよくわからないが、近くにEマートがあるし団地もある。街という感じがしない。新興住宅地という感じだ。整然と区画されていて、しかも空き地がまだある。この高速バスターミナルはおそらく最近ここに移されて来たのだろう。とりあえず近くの店で食事をした。肉料理はやっぱり3人前からじゃないとダメということで諦めてテジャンチゲ(豚肉鍋)にした。あまり美味くない。それはそうと、メニューの下のほうに「ご飯、キムチ、豚肉>国内産」ということを書いていた。実は今回の旅で度々目にした表示だった。思うに、牛肉輸入自由化をめぐる09年の蝋燭デモをはじめ、あの牛肉騒動は単なる一過性のものではなく、韓国の国民全体を代表する意見だったのだろう。それほどでなくても、もしかしたらあの運動がこのような「意識」を喚起したのかもしれない。ともかく、昔では見られなかった表示だ。モーテルはどう読めばいいのか「the # モーテル」にした。最初4万Wと言っていたが、私が一人だというと、3万Wにしてくれた。嬉しい。設備はインターネットも付いて4万Wの水準である。朝食5,000 全州→光州6,400 コインロッカー1,200 昼食8,000 バス2,000 お土産8,000 ワッフルコンボ3,000 光州→統営12,800 おやつ1,400 夕食6000 宿30,000計 82,600
2011年10月04日
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駅前の観光案内所で、映像文化センターの場所を聞いて行ってみる。大きな建物だった。ここで商売をしている感じはない。六階のうち一階はスタジオとかの広場の機能、2-3階は子供向けの企画をしていた。四階では7000wの費用は要るが、日本でも10月に公開していた3D映画していた。5-6階は子供用の施設だった。要するに、子供に良質な映像文化を与えるための公共施設だった。つくづく韓国は公共施設が充実している。チラシを見るとちょうど明日から3日間、「第一回光州女性フィルムフェスティバル」が開かれるようだ。明日のオープニングはなんと日本映画「カモメ食堂」だ。朝のケーブルテレビでも映画をしていたし、ソウルでも若者が「かもめ」というお握り屋を開いていたし、韓国にはこの映画に対する根強いファンがいることは確かなようだ。韓国の女性問題(ジェンダー情勢)を知る絶好の機会なのだけど、残念ながら時間がない。一番興味深い韓国の映画を上映するのは、20、21日なのだ。センターを出て元に戻る。公共施設の壁にずらっと絵を描いているので、何かと思えば、警察と住民が仲良くしている絵だった。光州東部警察署なのである。さすが光州事件を「国家的に」反省したその中心地だけある。(光州事件の国立墓地もあるし、金大中は大統領になったし、事件跡はしっかり観光名所になっているし)ここから100mばかりは芸術とおりと言われている。キャンパスや画廊等、芸術のための店が多いのである。そしてこの裏通りにはマッコリを飲ませる店が多いので、マッコリ通りとも言われている。実は6-7年前、初めて光州を訪れたとき、インターネットで知った店をタクシーで探してもらってマッコリ(伝統酒、トントン酒)を飲ませてもらったことがある。全羅南道の食習慣を知らなかったので、マッコリを頼んだだけで副菜が10種類も出てきて、そのあまりもの量に何処かで間違ったのではないか、本当は違う料理を頼んだのではないか、と本気で心配しながら言葉がわからないからニコニコしながら食べて、最後のお勘定のときにホントに5000wだけで済んだことに心底感動した覚えがある。今回の目的はあのときの店にもう一回いってみたいということであった。歩いていると、芸術通りのひとつ中に入ったところに、あのときのようなたたずまいの店があった。あの時はすっかり暗くなっていたので、店の外観はわからないが、中は靴を脱いで上がる板敷きの昔の雰囲気を持った店だった。とりあえず入ってみる。「何名だね」「一人なんです」「それだとダメだよ」あの時はタクシーから電話してもらって、道まで迎えに来てもらったので店の好意だったのかも知れない。普通伝統酒は一人では断られることのほうが多い。仕方ない、諦めることにした。たぶんこの店だったと思う。観光案内所では、お勧めの店としてノクトゥ店というのも教えてもらっていたのだが、歩き回っても見つけることが出来ない。路上販売では、野菜を売っているのだが、焼肉を乗せるサンチュがひとやま1000wは高い気がするが、唐辛子ひとやま2000wは安い。これが全部売れてやっと五万wくらい。こんなで、生計が成り立っていくのかなあ。オリ(鴨)の専門店に入る。鴨料理はそれこそ2-3名で一人前の料理なのだが、ここにはタンもクッパもある。餅クッパとマッコリ(市販)を頼んだ。なんと餅クッパの中の鴨はゴマのよう大きさだった。韓国では鴨とはこんなにも高級なものなのか。文化の違いとしか言いようがない。あまり食べる気がしなくなった。珍しいことだけど、餅を中心に残す。
2011年10月03日
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11月18日(木)晴れ 今回の旅はずっと晴天に恵まれている。ソウルで映画館を出たとき雨が降っていたので驚いて3000w水玉模様の傘を買ったのだが、結局地下街に入るまでの20mに使っただけだ。傘は大元旅館においてきた。朝食はバスターミナル前の食堂でとった。コンナムル・クッパ(もやし雑炊)である。食の全州を確かめたかったのであるが、さすが駅前の食堂は普通のちょっと不味い店の味だった。卵を入れているところと、ニンニクの量が多いのが新鮮だったかもしれない。全州で本当の「食」に出会うためには、やっぱり有名店に行かねばならないのかなあ。ともかく時間の関係で、全州は早々に辞して光州に向かう。全羅南道の島の景色を見たい。遺跡は昨日で終った気がするので、韓国の別の面を見たいという気がしたのである。けれども相変わらず、何の計画も立てていない。光州の観光案内所で聞けばいいや、と気軽に考えているのであった。高速に入るとまたもや霧(アンゲ)が深くなっていた。韓国の天気予報は日本ほど細かくはないが、霧の情報は頻繁に出てくる。この時期、お昼まで内陸部では霧が消えない。確かに車の運転には非常に危ないだろう。光州の高速バスターミナルはちょっと見ぬ間に綺麗に改装されていた。私はここの観光案内所で以前大変お世話になっていたのだか、ターミナルの外にあった案内所は中に入っていて、しかも日本語が出来る人が居なかった。当てが大変外れた。パンフだけをもらって、5.18広場に行くことにする。以前来たときは、まだ「光州5.18」を始めとする光州事件の概要に詳しくなかったので、県庁前広場が観光地のひとつになっていたのが理解できていなかったのであるが、まさかここを舞台にあんな銃撃戦がしかも1980年というつい最近にあった事をあとでしり唖然としたものである。行ってみると、ここも様相が一変していた。県庁はなんとかそのまま保存することになっているようだが、その裏に実に広大な「文化の殿堂」という建物を建てているらしい。大きなアートシアターも入るようだ。市民たちが立てこもった県庁を間近に見たかったのであるが、遠くから眺めるだけになった。それでも、30年立った今でも建物の弾痕等は生々しく、いかに大きな「戦争」だったかを語っている。隣の生命保険のビルから軍隊が狙撃していたらしいが、それは既に取り壊されていた。県庁前広場を挟んで、その前は光州の繁華街である。屋台では、ポテトチップスの串刺しみたいなものを売っていた。若者が溢れかえっていた。ひとつ通りを離れたところに、簡易「占いの館」があり、中学生か高校生が入りこんでいた。見てみると、手相1000w(70円)、人相2000w、四柱による占い5000wと非常に安い。他にもクンパプ(宮合‥‥‥男女の生年月日時を五行にあてて相性を占う)、事業運、愛情運なども占うようである。喧騒が少し止むところに、学生独立運動記念館というのがあったが、そこは資料館ではなく会議室のようなものだったので直ぐに退散。光州は戦前の朝鮮独立運動の中では、ソウルの3.1独立運動に次いで、学生主導で起こった最大規模の独立運動が起こったところではある。資料館もあって、以前来たときには行ったのだが、今回は時間の関係で行かない。
2011年10月02日
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帰りは松菊里村のなかを歩いてみた。20軒ほどの村の中に松菊1里農民会館もある。ホントは食堂か小売店がないかな、と思って探したのだが、こんな小さな村では小売店さえなかった。綺麗に整えられた家が多い。全体の雰囲気は同じでも、日本の屋根とは微妙に違う。干し柿や黒豆、空豆の殻を干していて、家の前には野菜を植えている。典型的な農村なのだ。この家、よく見ると玄関がない。「玄関を持つ必要がない」という韓国の精神構造に少し興味がある。キムチや味噌のための壺が一軒の家につきどうしてこんなにも種類が必要なのか。信じられないという思いはある。ハルモニが漬けているのだろうか。本格的な家ではキムチや味噌やお酢は総て手作りで、しかも総て味が違うのだろう。バスの時間までまだ一時間半もあったので、歩いてチョチョンの町まで行くことにした。
2011年09月30日
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道沿いにはこのように、風通しのよいところにみんなが休める処がある。農作業の合間にここで食事をしたり、休みには酒宴を開いたりするのではないか。映画で見たことはあるが、実物を見たのは初めて。この休みどころの下にはすぐ村がある。後で寄って見よう。この周りには韓国式のお墓が実にたくさんある。火葬が増えている韓国にあって、ここは昔ながらの伝統が残っているのだろう。実に人口の2-3倍は墓がありそうだ。きちんと墓誌をそろえている墓も多い。なくなった年を例えば「光復(日本の敗戦)后41年」としているような墓がほとんど。韓国にとって1945年がいかに節目に当たる年だったかを改めて思う。墓誌には男はどこの生まれであり、どう育ち、どういう仕事に就いたかを必ず書く。女はどこの生まれで、何人の男女を生んだかというようなことが中心に書かれているように思えた(総て漢文で書かれているので感覚で言っています)。2193金海金氏のだれそれ」と名前だけついている夫婦の墓もあった。これは池氏(夫)金氏(妻)のキリスト教徒の墓です。妻は金海からはるばるお嫁に来たんですね。韓国は夫婦別姓なんです。このあたりは円墳ではない方墳が多い。山直里支石墓は歩いて10分ぐらいのところにあった。周りに土器は落ちていない。墓の損傷が激しく、二回発掘調査をしたが何の遺物も出なかったらしい。この支石墓を見てふと思ったのが吉備の楯築遺跡の謎の立石は支石墓の支石を作ろうとしたのではないか、あるいは既にあった支石墓を壊して新しいあの双円墳を作ったのではないか、という発想である。しかし、楯築の立石はあまりにも高い。しかも楯築の場合は、立石に加工は施されてはいない。無理は承知である。この支石墓は修羅を引くときの名残か三本の長方形の溝があった。こういう支石墓を造るには、確実に100人以上の労働が必要である。だとすると、これが造られた2500年以上前の時期にはこの周りに家族を考えると300-500人の人が住んでいたということになる。だとすると、現在とほとんど変わらないのではないか。私はこの石に寝転んでしばらく秋空を眺めていた。こんな時間が旅では貴重な時間になる。慶州やソウルの寒空が嘘のように穏やかな空だった。大きな支石墓に寝転ぶのはこれで二回目だ。支石墓って、ホント寝転びやすい。気分は2500年前の時空を飛ぶ。
2011年09月28日
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もうすっかり秋です。去年の11月、22日間かけて生涯で一番長い韓国旅行に出かけた記録が16日目でストップしています。旅日記はあるのですが、それをパソコンに書き写すのがなぜか手間取ってなかなか進みません。でも早く済ませないといけないので、いつまで続くか分りませんが、再開します。11月17日(水) 17日目 8時前、モーテルに荷物を預け観光に行くといって出る。いい宿である。パン屋で朝食を買う。辛そうに見えるが、全然辛くない。ここのバス停留所にはなんと時間表がある。韓国に来て初めて見た。それだけ本数が少ないということなのだろう。待っていたおばあちゃんに「チョチョン行きのバスは幾らかかりますか」と聞く。バスに乗るときお金を払うのでスムーズに乗るために知っておいたほうがいいと思ったのだ。おばあちゃんは「分からんよ」という反応。発音が悪かったかな。でもチョチョンに行きたいということは伝わっていたので、バスが来たときに教えてくれた。時間表は書いているけど、バス番号とかはないので、バスの前に書いている行き先を素早く読まなくてはならなかったので独りだと見落とす恐れがあった。見落としたならば1時間待たなくちゃいけない。昨日の観光案内所では、松菊里行きのバスはないのでチョチョンで降りてそこからタクシーですぐ、と聞いていたのでバスの運転手には「チョチョンについたら教えてください」とは伝えておいた。ところが、チョチョンに着いたときに「どこで降りるのか」と聞くので「この辺りかな」とモゴモゴ言って「実は」と切り出してみた。「松菊里遺跡に行きたい。ここで降りてタクシーで行きます」というと、「タクシーはない」という衝撃の答。そういえばそんな感じの村である。そもそも車が通っていない。タクシーなんかが通るはずがない。あせっていると、バスはなんと遺跡の前に来た。ラッキー!!「ちょご!ちょご!(そこ!そこ!)」バスはなんと遺跡前に行くのだった。バスの運転手はどうしてタクシーなんかにこだわっていたのか不思議だっただろう。「ありがとう!」と言って私は降りた。写真の赤い所が「現在地」である。見ようによっては何にもない田舎の一本道に下ろされたのと同じだけれども、私はドキドキしていた。松菊里遺跡は長い間日本の弥生土器、住居へ最も大きな影響を与えただろう遺跡だった。丸い住居と弥生土器に似た形質の土器。資料館が開く時間にまだ間があったので、回りをぶらぶらすることにした。資料館の裏は発掘のあとを整地したのか広場になっていた。見てみるとお立ち台が設けられていて、先月10月には松菊里の考古学イベントが開かれたようである。以前にこの遺跡を訪れた日本人団体によると、この遺跡には標識ぐらいしかなくて寂しいところだったとHPに書いていた。どうやらこの数年で大きく様変わりをしていて、資料館にあった説明では2015年まで大規模な整備計画があるらしい。広場の直ぐ隣の畑を歩いてみる。網目模様のある土器を見つけた。あるじゃないか。俄然元気が出る。その下のほうの畑に降りたならばもっと下の地層になるだろう。そうしたら土器はもっと見つかるかもしれない。探してみる。現代の酒壺の欠片しかない。土器探しに夢中になってあっという間に1時間以上経った。北側の丘の上から資料館のあたりを写す。いわゆる微高地の丘の上が遺跡になっているのが分かる。資料館は無料だけれども遺物はほとんどない(無人であった。事務室には誰もいなかった)。ただし、いろいろと解説はしていた。初めて知ったのであるが、この資料館の周りは遺跡のほんの一部であって、実際は丘に沿ってずっと広がっているらしい。しかもこの遺跡には丸い住居だけでなく2つの形があった。方形の建物とくの字型の建物である。だとすると、弥生黎明期に来た渡来人はなぜ丸い建物しか採用しなかったのかという疑問が新たにわいてくる。もう下を向いて土器を探すのが習慣になってしまった。ところが土器を水道で洗ってみると、どの土器も高熱処理された土器で、どうみても紀元前の土器じゃない。今日は土器は諦める。ふと見ると帰りのバスが帰っていった。午前10:45。時間表を見ると、うっかりしていたが、このあと13時30分以降にならないと通らない。しかたない。ゆっくりすることにする。本当は午前中で切り上げて光州を回ろうと思っていたのだが、予定を簡単に変えるところが私の旅である。直ぐ近くに山直里支石墓の案内があったので、歩いて行ってみよう。
2011年09月27日
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門が少し開いていたのでパチリ。やっぱりここの家も日本で言うところの玄関がない。みんな縁側から部屋に入るのだろうか。どうも韓国の信号は良く分からない。三叉路で体面に変わった信号があるのはまだよく見れば意味があるが、どうして一方側に信号が付いていないのか。扶蘇山城麓まで歩いた。ここに観光案内所がある。松菊里遺跡の行き方を聞く。幸いにもこの辺りから急速に足の痛みが引いていった。いったいなんだったんだろ。元気が出てきて扶蘇山に登ることにした。以前来たときとは違うコースをたどることにした。扶蘇山(海抜106m)は百済サビ時代の山城がぐるりと回っていて、その下の都を守っている。私はわざとコースを外れてこのようにその城壁伝いに歩いてみた。時々道がなくなる。今回の旅の癖で、土器探しが始まった。三つほど見つけるが、確かなものだと思えない(結局途中で捨てた)。見晴台にたどり着いた。夕方の金河(クムガン)(昔の名前は白馬江)が綺麗だ。ここから小さな扶余の町が見渡せる。そしてこれが百済の最後の都だったのである。ここからさらに西に行くと、百済滅亡の折に多くの女人が貞操を守るために命を投げ捨てたという落花岩(ナッカアム)やそれを祀ったゴラン寺があるが以前行ったので今回は行かない。夕陽を浴びて、松林の森が妖しく紅く色づいていた。一番下に下りてみると、これから整備されるであろう王宮跡の広い敷地があった。これから10年後に来ると、扶余も大きく変わっているに違いない。この写真は最大規模の建物跡(東西35m、南北19.25m)。そのあとモーテル前の食堂でトンカス(豚カツ)を食べた。韓国では何故か豚カツがカルククス(うどん)と同じ価格。ボリュームがあり、美味しい。少し肉が薄くて質が悪いのを除けば、こんなに大きくてカリカリに揚げていて、私は好きだ。ご飯が少なめなのもよい。そのあとモーテルに帰り、せっかくなので少しネットサーフィンをした。11月1日の記事のコメントにローマ字で「今、扶余です」「釜山-晋州-釜山-金海-慶州-大邸-ソウル-議政府-扶余と移動してきました。明日、松菊里遺跡に行って、私の今回の遺跡めぐりの集大成になるはずです。23日には、帰っているはずです」と書いたのだが、果たして通じていなかったかもしれない。キンパブ2,500 シップ薬2,000 宿30,000 定林寺博物館2,000 イヤホンガイド3,000 本(国立博物館+茶戸里遺跡)9,000 昼食7,000 扶蘇山入山料2,000 コーヒー1,500 夕食4,000合計 66,000w【お知らせ】明日から6日ほど旅に出ます。広島を経て九州に行くつもりです。と、言うわけでしばらくお休みします。ご了承ください。もしかしたら、ネットカフェから更新するかも知れません。
2011年07月29日
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ちょっと遠かったが、国立博物館まで歩いていった。やっぱり新しく文化会館なるものを併設中だった。この10年で扶余の地は建設ラッシュだ。一時この地方へ首都移転の構想があったからだろうか。扶余国立博物館。私の訪れた初めての地方国立博物館である。日本で国立博物館というと、ものすごいりっぱなものを考えがちであるが、韓国には主要な都市にはたいていある。日本で言えばほとんど県立博物館と考えてもよい。そうとは知らずに、最初に来たときは感激してここの展示物で韓国の遺物のほとんどを見た気になったものだ。これは博物館前に展示している天王寺出土の石佛。同体に比べ頭が大きい。柔和な表情をしている。高麗時代作。博物館の入り口にはやっぱり今も松菊里遺跡の模型が飾られている。この遺跡はおそらく日本では一番よく知られている遺跡で松菊里型といわれる丸い竪穴式住居は日本列島に数多く広がった。しかし、そのままストレートに広がったわけではないことも今回気がついた。例えばこのような三角の石包丁は日本ではほとんど見つからない。また校成里遺跡の有溝石斧も日本では珍しい。扶余の西を流れる金河流域では細形銅剣が広く採用されたようだが、日本では珍しい。中国、韓国、日本の歴史年表をしばらく眺めながら、私はしばし妄想にふける。例えば、私の小説の主人公を西暦150年に韓半島に渡らせたとすると、金官伽耶国が成立して100年、百済は170年、楽浪郡は270年、高句麗は190年の歴史を持っている。ということを頭に入れながら話を作る必要があるな、などと思っていた。実際は伽耶国のキムスロは100歳以上生きていたことになっているから、彼が渡韓した時にはまだ生きていることにしてもいい。実際、国造りを始めたばかりだろう。しかし、その頃百済は国の体裁を充分持っていたと考えていいだろうし、中国を背景に楽浪郡は大都会だったろう。しかし、鉄を力に武力に依らなくても大国と充分渡り合える経験を彼は金海伽耶を通じて持つことになる。そして20年朝鮮半島に居て、日本列島に帰ると倭国大乱の真っ最中だった。……百済最盛期の最高傑作、百済金剛大香炉が展示されていた。以前来たときには他へ出張していて見ることの叶わなかった代物だ。複雑な装飾が全面を覆っていて素晴らしい。しっかり見ることができた。ただし、照明が暗く、やっぱり上手く撮れていなかった。申し訳ない。隣になにやら新しい建物が出来ていたので、こっそり入ってみる。文化財保護センターみたいなものだった。気がついたのは、あまりにも発掘土器が少ないということ。もしかしたら、完品土器しか採取していないのではないか。まさか聞くわけにも行かず、こっそりと出る。足が痛くてずっとビッコを引いているのだけど、タクシーを拾うのが嫌で観光案内所の方向に我慢して歩いていると、以前昼食で入ったことのある食堂を見かけた。サトクッパブ食堂。片言と手振りで注文したのが懐かしい。たぶんあの時と同じでサトクッパブを注文。やっぱり青とおがらしが出てきた。味噌はお店ごとで工夫があるのだろう。見慣れない小皿があったので聞くと「貝だ」という。やはり近くに河があるので採れるのだろう。貝の塩からである。この店は全体的に味付けは辛い。汁ご飯には牛のなにかの肉が入っている。あとで「サトは牛の肉だと思うけどどこの肉ですか」と聞くと、「牛の頭だ」という。牛の頭というと、ソモリクッパブだけかと思っていたら、こんな呼び方もあるのか。微妙な違いがあるのだろうか。さすが肉を食べる文化を持つところは奥が深い。弾力のある美味しい肉でした。この店は釜でじっくり汁を煮ているのが売りなのか、外に出るとこのような釜場があった。ともかくお店の人と(気楽に)話せるようになったのは、この7年間の私の大きな成長である。
2011年07月28日
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11月16日(火)晴れ 16日目 非常事態発生。昨夜から急に足の甲が痛み始めた。最初はこむら返りかと思った。しかし、朝になっても痛みは治まらない。かえって少し増したような気がする。じっとしているとなんでもないのだが、右足に体重をかけると痛くて歩くのが大変つらい。腫れてはいないみたいだ。考えられるのは昨日の大長今テーマパークで転んだときに足を挫いたのか。しかし、あの時は痛くなかったのだ。遅く来る筋肉痛だろうか。もしひびがはいっていたら……。歳を考えると急に不安になる。ここで撤退か?とりあえず一日様子を見ることにした。しかしこのモーテルには泊まりたくない。昨日泊まろうとしたら無理やり特別部屋の500w高い部屋を取ろうとしたのだ。昨日泊まったのは、30000wの適当に綺麗な部屋だったけど、今日は高くていいから快適な部屋に泊まりたい。脚は痛むけど、部屋を変えることにした。朝食を食べながら部屋探しをする。キンパブはなかなか温かくておいしかった。薬屋で貼り薬を買う。ちょっと歩いてソンハクモーテルにする。値段を聞くと「三万w」という。まあいいや、その部屋で行こうとすると女将さんは「コンピューターしたいか?」と聞く。したい、というと素敵な部屋に案内してくれた。4万Wでもおかしくない部屋だ。まったくもって宿選びは博打である。少し元気が出たので、昼前に足を引きずりながら観光に出る。扶余に来たのは2回目である。前回は三回目の韓国旅行のときに、2003年ごろ?、日帰りで来たのだ。初めて見る地方の町だった。大都市ソウルに慣れた眼に、中心街の店でも薄汚れた店があってショックを受けた覚えがある。ところが、今回見回してみると、潰れそうな店はほとんどないし、こざっぱりとしていて綺麗な町じゃないか。足が丈夫でありさえすれば、街中の観光は総て半日で済んでしまいそうな小ささなのである。私の目がどうやらいつの間にか韓国に慣れたようだ。埃だらけの道路や窓も、慣れてしまえば不快ではない。宿から歩いて直ぐのところに定林寺址(チョンリンサチ)博物館があった。博物館は最近出来たらしいけど、見覚えのある塔があった。昔は一面原っぱの中にぽつんとあの塔だけがあった。扶余に都があったとき(百済シビ時代)、残っている唯一の百済遺跡である(新羅統一の折に総て破壊されたらしい)。538年からある石塔だとすると、日本にもない古さだ。石塔の前まで歩く元気はない、ゆっくりと博物館を回る。小学生の団体見学が来ていた。定林寺の伽藍配置はこのようなもので、飛鳥寺や山田寺、また中国の寺とも比較していましたが、全然違う独特な配置だそうです。この時代の仏像は、確かに奈良時代の仏像に似ている。
2011年07月27日
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チャングムテーマパークはそれなりに楽しめました。と、まあ一般観光をしたあとバス乗り場のほうに帰っているとMBC(韓国2大テレビ局のひとつ)の大きな建物があった。隣は明らかに撮影スタジオであった。誰かスターが歩いていないかなとか、中を覗き見できるところはないかな、とか探したけど無理だった。なるほど、こんな人里はなれたところに大きな車で移動しながら撮影しているわけだ。韓国ではいたるところにこのような前衛芸術のような像が置かれている。偉人のリアルな実物よりも大きめの銅像とこのような前衛芸術が韓国美術の二つの潮流である。バス時間の調整のためにテーマパーク内の食堂で軽食を食べた。まつりソーメンとお品書きには書いている。普通の熱いソーメンなのであるが、お祭のときにこのようなソーメンが出るので名づけられたらしい。揚州駅に戻り、チョンゴク駅に向かう。ところがソヨ山駅で電車は止まり、そのあとは一時間に一本の電車に乗り換えなければならないということが判明した。これで行ったら、悪くするとここで一泊しなければならない。迷った末、行こうとした遺跡は青銅器時代ではなく旧石器時代の遺跡で博物館もなさそうだということもあり行くのを諦めた。駅でジャガイモのかりんとうを買ったらこれがまた食べ応えがあった。ソヨ駅のトイレです。珍しく近代的。ここは逍遥山登山の入り口で、入り口のほうまで行ってみるとものすごい数の食堂が並んでいた。韓国のハイキング熱は日本の比ではない。韓国人口の三分の一が集中するソウルの市民たちは、暇があると近くの山に登りたがる。それが自然に親しむことだと勘違い思っているようだ。お店の隣ではキムチを作るために白菜を漬けていた。ものすごい量である。入り口辺りに「フリーダムピースミュージアム」というのがあったので、博物館フェチの私としては期待していったのであるが、今日は月曜日、やっぱり休み。やっぱり軍人教育のための戦争博物館の雰囲気だった。どうやらFREEDAM PROTECT PEACEという意味らしい。漢字で言うと「自由守護平和博物館」となる。韓国の軍隊がどれだけアメリカナイズされているのか見たかったのであるが、残念である。しかしこの門、「平和」の文字を間違っている。彼らの主張がどれだけ「いいかげん」かこれを見ただけでも良く分かる。近くに基地があるためか、迷彩服や軍隊の車が目立った。これが、まあ韓国屋台フードのカルチャーショックの代表選手、ポンテギである。カイコのさなぎを煮ている。今回は釜山に帰ったときに食べたけど、味の癖はない。でもそれほど美味しいものでもない。栄養食だと思えば食べれます。ソヨ駅からソウル南部バスターミナルまでなんと約2時間かかった。けれども電車賃は充分昨日チャージした分で賄えた。(約2000W-150円)地下鉄がソウル市民の足だということが良く分かる。一号線の最初のほうは地上線である。おじいさんが自転車に乗って入ってきた。もちろん堂々と老人専用座椅子に座る。自転車で乗り入れてもOKなの?彼は二駅ぐらいで直ぐ降りたけど。バスセンターで扶余(プヨ)行きの切符を買う。旅のお供にコーヒーと野菜トーストを買った。その場で温めて作ってくれる。扶余まで2時間の旅、今日は移動だけで午後は総て潰れた。けれどもこれでソウルとは完全におさらばである。扶余に近づいた。バスの車窓から川辺の夕暮れが美しい。宿は近くでとり、夕食は歩いて迷った末にもやしキムチ鍋で軽食にしてその後焼酎を飲んだ。もしかしてこの酒がいけなかったのか……。バス1,000 大長今テーマパーク5,000 ソーメン5,000 お菓子2,000 コーヒートースト3,000 ソウル→扶余11,000 宿30,000 夕食とおつまみ8,000合計 65,000W
2011年07月26日
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11月15日(月)晴れ 15日目モアモーテルは綺麗なモーテルでした。宿運は続いている。現金が少しになったので銀行で四万円のみ換金した。1360W/100円になっていた。少しレートが上がっている。議政府駅からさらに北の揚州(ヤンジュ)にむかう。そこに「大長今(チャングムの誓い)テーマパーク」があるのだ。このとき、私もいまさらにチャングムを見ていて、11月に行ったころには済州島に島流しされた辺りであった。さすがに観光スポットだけあって、駅にパンフや案内所はあるわ、バスの運転手はテーマパークというだけで分かってくれるわ、とっても楽である。この京畿道パンフを見ていると他の地域に先史時代の遺跡がある。ちょっと遠いけれどついでに行き方を教えてもらう。大長今テーマパークはバスで15分ぐらいのところにある。セットを見てみると、ほとんどのシーンはここで撮っていたということがわかる。水刺間(スラッカン)らしき台所は場面に応じて幾つかの場所が使われていたことが分かった。どこもそうだったが、撮影用の場所なので実際に見てみると、ゴミゴミしていて綺麗ではない。しかし、テレビで見るとそれがライトマジックで本物に見えるのである。中国の観光客が多く来ていた。あちらでも放送されて有名なのだろう。チャングムとミン・ジョンホが時々出会っていた書庫である。一番印象的なのは、チャングムが母の形見の書物を隠した処です。隠したのは建物の下ですが、そのそばの松ノ木の根元には母と韓尚宮が一緒に作った柿の酢を壺に入れて隠した場所があります。これをめぐってすれ違いドラマの醍醐味を見せてくれたわけですが、ちゃんとそこには壺が埋められていて、何故か「龍の彫り物」が入れられていました。どういう意味なんでしょ?実はこのあと、ふと躓いて転んでしまった私でした。足捌きがオカシイのか良く転ぶ私ですが、むかし柔道をしていたおかげでいまだかって転んだときに打ち所が悪くて怪我をしたことがないのが自慢です(時々自分から一回転して受身をします)。ところが、このとき大きな失敗をふたつしました。ひとつはどうやらこのときに日本から持ってきていた万歩計を落としたらしいのです。今まで韓国旅行で一回万歩計を落としています。今回は気をつけていたのですが……。この日から毎日二万歩近く歩いていた記録が途切れることになりました。そして、さらにもうひとつ。幸い、このあとすぐに歩けるようになったので、まったく問題ないと思っていたし、事実ずーと全然痛くなかったのですが、この夜大変なことが起きてしまうのです。それはまた明日の話。お茶の試飲所があって、日本人に対して熱心な商売をしていました。それぞれのお茶の効用がここではきちんと実物を添えて書かれていたので、私的にはとっても勉強になりました。もちろん買いませんでした。旅の最終日に釜山の市場でこれの約1/4ぐらいの値段で、五味子茶とあまどころと棗茶を買ったわけです。その後四ヶ月ぐらいかけてお茶でいただいたわけですが、効果のほどは分かりませんでした。でもたぶんその他の要因だと思いますが、体調は好転したのでまた市場で買いたいと思います。
2011年07月25日
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タサン遺跡を目指してバスは漢江の水の調整所みたいなダムを通り過ぎる。遺跡の前で下ろしてくれたのはいいけど、そこからさらに1キロぐらい歩かないといけないらしい。まあ、それはいい。どうも雰囲気が古代遺跡ではないみたいだ。地図の絵を見ると、真ん中当り、昔の貴族の家みたいなところに茶山(タサン)遺跡地(ユジョクチ)と書いてある。行ってみてわかったのだが、どうも朝鮮時代の超有名な人のお墓があるところらしい。私しゃ、来る前に観光案内所の人に聞きました。そうすると彼は「1000年以上前の遺跡らしい」とか「青銅器時代の遺跡らしい」とかいっていた訳です。真っ赤な嘘でした。みなさん、安国駅前の観光案内所で少し日本語が出来るイケメンの男の言うことは絶対信用しないでください!!と、一応言って置こう。韓国の場合、「遺跡」というとまさに「のこっている跡」ぐらいの意味で、日本のように「古代の跡」という意味ではないということを肝に銘じた。そういえば、韓国で「古墳」といえば、単に「古い墳墓」ぐらいの意味だった。そんなこんなで、一応タサンさんのお墓も参ってみました。彼の住居もきちんと保存されています。博物館ありました。実学博物館です。タサンさんは天文、物理、地理に貢献した偉い学者さんのようです。初期の朝鮮通信使にも二回参加しているらしい。やっぱり地元の食堂の味を確かめたくて、目に付いた「チュオタン(どじょう汁)8000w」という看板に惹かれて入ってみました。そしたら(客は私一人しかいなくて閑だったのか)ご主人がしばらく付き合ってくれました。ここのご主人は54歳。根っからここの住人らしいのですが、高校で少し日本語を学んだらしく、片言の日本語と片言の韓国語で少し話をしました。「ここに観光できたのですが、ここの遺跡を青銅器時代とか三韓時代の遺跡かと間違ってきてしまいました」「そうです。ここは400年前くらいの遺跡です」「今分かりました(^^;)」等々話をしている間に料理が来ます。私には少しから辛かったようです。おかずも珍しく1/3ぐらい残してしまいました。「この鰌はこのあたりで獲れたものですか?」「そうですよ」「このおかずの牡蠣もここで獲れたものですか?」「そうですよ。このおかずの総て、私が畑で作ったり、獲ってきたものです」所謂、パンチャン(おかず)は地元の食材が使われていることには気づいてはいたが、彼の食堂のようにあんまり人が来ないような食堂では本当に材料も自給自足なのかもしれません。これは今日の最大の「収穫」でした。写真のテレビを見ているのがご主人です。この遺跡はソウルの中を流れる大河漢江の上流にあります。あまり開発されていない漢江をみるという目的もあったのですが、遺跡の護岸はちょうど工事中であまり見ることはできませんでした。元来た道を帰って中央線に乗りました。今日は日曜日、にわかハイキングたちの集団に囲まれてしまいました。泊まりは地下鉄一号線を北に走って議政府(ウィジョンブ)駅にしました。ここにプデチゲ(部隊鍋)通りがあると、かの安国駅前観光案内所でもらったパンフに載っていたからです。プデチゲ(部隊鍋)はずっと軍隊の兵士が食べていたものだと思っていた。しかし、発生はそうではなく、朝鮮戦争で食べるものに困った庶民が空腹を満たすため、議政府では在韓米軍の横流しのハムや肉などを炒め、「プデ炒め」として売ったのが始めだといわれています。この「おでん食堂」はそれを一番最初に作った店だということで行ってみた。プデチゲは安い料理だという印象だったけど、ラーメンを入れると一食8,000w。焼酎もつけたので私的には高い夕食になった。味は単にいろんな具が入っているラーメン鍋です。場所は泊まりのモアモーテルのおばさんに聞いて行ったのだが、帰ってプデチゲ通りのどこに行ったか聞かれたのでおでん食堂だというと、明らかに不満顔。「みんな猫も杓子もあの店に行って本当は旨い店はほかにあるのに」という顔だった。地元の反応は古今東西同じである。ちなみに入る前に通りの値段だけはチェックしたが、値段協定があるのか総て同じ値段だった。通りの近くで、バッティングセンターがあったので少し運動。キョトンカード15,000 バス2,000 コーヒー1,000 キムパブ1,500 昼食8,000 夕食11,000 宿30,000 バッティングセンター2,000合計 70,500W歩数 17,720歩
2011年07月22日
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11月14日(日)晴れ 14日目今日は昨日買った地図で見つけた茶山(タサン)遺跡へ行くことにした。9時過ぎにモーテルを出て、安国の観光案内所で行き方を聞くという手順。男の案内員が「チョンチャンリ駅で降りて2003-1から3のバスに乗ってください」と教えてくれた。その通りに待った。二回もバスに乗り過ごしてしまい、一時間以上も待ってしまった。ずーとひたすら待っていればそんなことはなかったかもしれないが、20-30分ずーと待つのが勿体無くて、目の前のロッテデパートに登ってしまったのが悪かったのだと思う。ここはデパートの屋上。閑散としています。でも日曜のデパートです。昼からダーツ投げのアトラクションでもあるのかもしれない。観光地ではない処のロッテデパートは、地下が食品売り場、1-2階婦人、3階紳士、4階食堂のオーソドックスなデパートだった。こういう食堂のカレーは6,000w-7,500wのそれなりに高価なカレーです。待ちに待った。昼近くになって小腹が空いたのでデパート前の小店でオモニからキンパブを買った。1,500w(120円)、最近少し相場が値上がりしている。2003番バスがやっと来た。「タサン遺跡に行きたいのですが」「わしはそんなの知らんよ」とバスの運転手さん。思いもかけない返事である。このまま諦めるか迷ったが、それも悔しい。確か電話の1330番は日本語ガイドの電話だったよな、と思いかけて見ることにした。果たしてそうだった。調べるというのでしばらくしてかけ直すとあの案内書の兄ちゃんのいったのと似ても似つかない行き方。「電車に乗り換えてトクサ駅という処から2001-2番のバスに乗ってください」とのこと。今まで観光案内所の「若い人」は優秀である、という認識をしていた私ですが、改めました。「若い男はその限りではない」地下鉄から中央線に乗り換えて電車に揺られながら地図を見ていると、可愛いアガシ(お嬢さん)が「どこかお探しですか」と綺麗な日本語で声をかけてくれた。「この遺跡に行こうと思っているんです」「昔お父さんに連れて行ってもらったことがあります」「なにか博物館みたいなものはありましたか」「昔でしたから……」「ところで日本の方ですか」「いいえ、母親のほうが日本人なんです」なるほど、韓国なまりのほとんどない完璧な発音である。「その荷物、荷台に上げたほうがいいですよ」と彼女は親切に私のリュックサックに気を使ってくれた。「うん、ただ少し重たいので……。持ってみます?」女性には重たいだろうとは思っていたけど、果たして彼女は一センチも持ち上げることが出来なかった。「だから上に上げたくないんです。今回遺跡を見るために韓国をいろいろ回っているんですが、そこで買った本でちょっと重たくなって……」ということで、なぜ韓国の遺跡を回るか説明。歴史の話に移っていった。「いま、朝鮮半島の歴史では中国が古朝鮮を建国したということを主張していて、朝鮮の国土がなくなってしまうという問題が起きています」という話題を持ち出してきた。韓国にとっては領土問題は竹島だけではないようである。彼女によると、中国側の根拠はたった一人の中国人(名前失念)が当時建国したということらしい。「そうだとすると、おかしいですね。朝鮮民族がどのくらい住んでいたか、というほうが問題です」ことの当否はどうであれ、私は断然彼女の肩を持つのであった(^^;)。ひとつ驚くことがあった。私は話しぶりから大学生だろうと思い、彼女に「どこの大学ですか」と聞いた。「高校生です」時々感じることだけど、このときほど韓国の若者の成熟度を感じたことはなかった。日本の若者とは違って、明確に自分の意見を持っているのが韓国なのである。彼女は途中の駅で降りていった。トクサ駅(一つ前の写真)で降りて、バスに乗った。ソウル市内から続く漢江(ハンガン)に沿って東に40分くらい走ったのであった。
2011年07月21日
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昔の弓道場だったと言う黄鶴亭といのがあった。その上に登る道がついている。馬鹿となんとかは登りたがるので登っていくと、やっぱり頂上には運動公園があった。ハラボジがやっぱり運動している。見晴らしはやっぱりそんなにいい訳ではない。これは防衛上か大統領府の青瓦台は枝が邪魔をして良く見えない。向かいの山が山城で、南側にソウルタワーが良く見えた。写真は南側。かすかにソウルタワーが建っているのが見えるだろうか。今日の午後の目的は近くの光化門文化ホールで行われている伝統演技常設公演「PAN」を観ることにあった。写真は文化ホールから青瓦台方面を眺める。山の麓が大統領府である。チャンゴや銅鑼、鐘、太鼓の打楽器音楽を間奏としてパンソリやユンノリ、仮面ノリの触りで構成された「韓国芸能を見た気にさせる」公演である。それぞれに字幕がついていて、韓国芸能の入門篇にはいいと思う。パンソリはやっぱり「感情のうた」だった。今日の触りは「清沈歌」。庶民の孝行娘が王妃になる夢物語と突然父親の目が治るという奇跡物語である。あらすじは荒唐無稽なのであるが、「父親の目から涙がぽたり、ぽたり、ぽたり、」と落ちるさまを謡うその間が素晴らしい。感情が揺さぶられる。仮面ノリも本来の風刺性が薄まっている気もするが、アドリブなどは理解できたので楽しく見れた。総勢13人ほどの小さな楽団だか、客は200席ほどの部屋に80人ほどしか入っていない。一日の日当10万W(7千5百円)も貰っていないだろうなあ、と思いながら見ていた。終ったあと、出口のところで銅鑼や太鼓を叩いて送ってくれたので写真を撮ることができた。若い女性はみんな美人です。みんな一つか二つの一芸を持っている。おばちゃんたちは記念写真を撮っていたが、私はそんな度胸はありませんでした。そのあと観光案内所に行って明日の行き方を聞くつもりだったが、ミョンドンで見つけることが出来なかった。諦めて市庁広場に行った。G20サミットの記念行事がまだ行われていた。南大門市場まで行った。ホットクを買って小腹を満たす。ここの観光案内所は両替もしていたのを思い出したからだ。しかし行ってみると、銀行より高い気がしたので取りやめる。ソウルの地下鉄はふと気がつくと、東京と同じように乗降が自動ガラスで仕切られていた。変なところで日本に追いついている。乗り換えの忠武路駅では無名か有名かは知らないが、歌手の弾き語りをしていた。観客は日本と違い、中高年男女を中心に20名ほど。韓国の中高年は演歌と言っていい歌謡曲を真面目に聞く。歌謡曲がまだ生活に根付いているのではないか。この駅は映画のレリーフをはめ込んでいている。ソウルの駅はこのように駅ごとにコンセプトがある。そのあと景福宮のコインロッカーから荷物を元に戻す。景福宮西側の通りにある多福モーテルに宿を決める。写真を撮るのを忘れたが、木造の部屋で古いから30000Wと安いのだが、わりと綺麗な所だった。当りである。夕食はその近くのモッサム屋で一人分のモッサムを了承してくれた。モッサムとは豚肉をキムチで包んで食べる料理。此処のも美味しかった。コインロッカー1,000、故宮博物館の解説器1,000、昼食8000、「PAN」30,000、キョトンカード5,000、ホットク1000、宿30,000、夕食10,000、ティー2,800合計 78,800W歩数 22,556歩
2011年07月20日
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昨年11月1日から22日にかけて決行した韓国旅行の記録をまた始めます。どこまでいけるか分りませんが、早く終わらせないと次の旅が待っています。今までの旅行記は左のカテゴリーの韓国旅行(09~)を参照ください。11月13日(土)晴れ三泊したので大元旅館を辞することにした。以前と違ってここで宿泊者の交流はなくなった。シャワー室が各部屋についたのが原因だろう。今度ソウルに泊まる時は違うところに泊まれる様に準備しておこう。けれども一泊35000wが上限だ。景福宮にいくと閲覧式をしていた。故宮博物館に行ってみる。大幅な展示替をしていた。御真(オシン)は当代隋一の画家が選ばれ描いている王の肖像画らしいが、それほど芸術的価値があるとは思えない。建物を建てるときに火災から守るための護符である。「龍」の字で「水」という字を書いている。という。歴史ドラマでは王宮の医者はみんな鍼治療に長けていた。このような教科書があったようだ。これは王妃用のかんざし。そういえば、チャングムでも王妃様がまったく同じものを挿してた。このとき、ベトナム阮朝(1802-1945)の宝物の企画展をしていた。これは皇帝勅封である。改めてベトナムも漢字文化圏なのだと感じた。この前と同じようにここの食堂で故宮料理を一品だけ頼んだ。コルドンバン(骨菫飯)である。19世紀末料理本「是議全書」に載っていたという。味の薄いビビンバというかんじだった。景福宮を西に歩く。ここには観光地化されてていない昔ながらの韓屋が並んでいる。旅館があったので入ってみたけど部屋は空いていなかった。良く分からないけど「瓦葺きだけが韓屋だと!保存するなら、全部購入しろ!」と書いているのではないか?日本と主張する部分がちょっと違う。なぜかいざというときにバリケードに使うものがあった。なんに使うのだろうか。誰か教えて!社稷のほうに歩く。ソウルはいま紅葉真っ盛りであることに気がついた。
2011年07月19日
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ソウル市内の永豊文庫でソウルの地図を買いました。本の売り上げ総合ベストを見ると、第二位に「サンデル教授の今正義の話をしよう」が入っていて、第十位に「1Q84」が入っていました。湯浅誠さんの「ドンと来い貧困」(中央のヘタウマの少年が描かれている本)が平積みされていました。湯浅さんの本は岩波新書の「反貧困」も翻訳されていて、探してもらいました。荷物になるので帰国直前に買おうと心に決めていたのに、つい忘れてしまった私でした。チョンノのマッコリ通りを歩く。一人だけどダメ元でどうしてもチャレンジしたい居酒屋があったのです。大元旅館で知り合った人に連れて行ってもらったことが一回あります。今まで一番美味しいマッコリでした。その後、一人でこわごわ入ったときには、アルバイトの女性と言葉が通じなくて結局すごすごと帰ったことが一度あります。今回は会話力が向上したのか、度胸がついたのか、女将さんと思しきオモニに「一人だけど、いいですか」と聞くと快く入れてくれました。洗面器になみなみとマッコリが入ってきました。唯一といっていいツマミは巨大なホッケです。本当にうまい。ホッケも改めて食べると、どうしてこんなに旨いのか分からない。このホッケの厚みと絶妙の焼具合、そしてマッコリとの相性、そして何よりマッコリの濃厚な味とあっさりとした酸味。お店の壁には一面にこのような落書きがあります。いうなれば、この落書きがこの店の目印みたいなもので、お店の名前は結局分かりません。 本来二人分の分量(これだけ飲んで食べて13000w)ですが、全部食べて呑みました。女将さんに「ほんとうにうまかったです。一番旨い」といって出て行きました。この店で飲むことがてきたので、ソウルに来た目的のほとんどは達成した気分になってしまいました。 外に出ると、G20のせいなのか、大仰な警備振りです。少し迷ってしまいました。ちょっと大きな交番がありました。こんなことを聞いてもいいのかな、とおもいながら道を聞きました。「(地図を見せながら)此処はどこですか」すると上司と思しき男が(どういうことや)というような顔をして「オイ、日本語が出来るヤツ!」と大声で言います。(なに言ってやがんでぇ。俺の韓国語は完璧なはずや)すっかり酔っています。もう一度、「此処はどこですか」すると、若い女性警官が私の側にやってきて、「此処はココです」とボールペンで指し示してくれました。頭が固くて威張り散らす上司と、優秀な若い女性、良くありがちな場面に接して私は嬉しくなって礼を言って出ました。上司としてはG20でぴりぴりしているところに変な奴が来て頭にきたのかもしれません。帰りに景福宮を見ると、夜の八時前だというのにすごい人だかりです。どうやら今日が光化門のお披露目だったようです。日帝がここに政府を持って来ていたときにとうとう取り潰した景福宮の門です。前回は雪の景福宮のときに来たし、どうもここには節目節目のときに来ているようです。さて、本当はまだ22日目まで旅は続くのですが、日記や写真の整理がまだですので、続きはまた次の機会にさせてもらいます。キョトンカード5,000 宿代29,000 昼飯4,500 お握り1,200 本代5,000 夕食13,000合計 57,700w歩数 30,109歩
2011年05月13日
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そのあと、映画「息もできない」のロケ地を探してソウル大学入り口駅を降りて、町を歩いていきました。冠岳区(カンアクク)という処がロケ地なのですが、いざ入ってみると駅四つ分はあるとても広いところなのでした。駅から西側に歩くと、貧しい家並みが続く。至る所に、まるで長屋そのものの寺がある。少し方向を変えて坂を目指して歩く。商店街を横切り、さらに上に登っていくと、ほとんどの家は二階三階建て構造で、総てその上に借家を設けている。借家の証拠に階段が着いています。韓国ドラマでは六割がたの確立で出てくる屋上の借家です(呼び名があったのですが忘れました)。一体なぜこういう形式が広がったのか。親のために二世帯住宅を作るつもりが、こずかい稼ぎのために借家にしたのが広がったのでしょうか。あとで気がつくのですが、ここら一帯はこの形式の家ばかりなのですが、ない地域にはまったくないのです。これはなぜなのでしょうか。坂の一番上まで行ったけど、映画ほどは寂れていないので違う場所だったようです。一番上の建物はちょっと小奇麗なお寺(ウンチョン寺)がありました。さらに上に行く遊歩道が整備されいたので、○○ほど高いところに登る私は登ってみることに。この山にはなぜか水晶になる石がごろごろしていました。こんな可愛い花も咲いています。やっと頂上に着きました。ちょっとした登山気分です。ところが、此処にいたってやっと鈍い私も気がつき始めたのですが、ソウルの山はほとんど例外なく頂上付近にアスレチック施設が作られています。日本だと見晴らしのいい場所がどこか設けられているところですが、そんなものは全然ありません。おそらく東には韓国一のソウル大学が見えるはずだし、西には市街地、北には漢江とソウルタワーが見えるいい立地のはずなのに、立ち木で何も見えません。この価値観の違いは何なのでしょうか。長い間独裁政権だったことが影響しているのでしょうか。たいていはおじいさん、おばあさんが健康のために熱心に運動しています。この日もなんと四人も来ていました。これは平行棒ですね。一旦設置すれば、電気代はかからないし、安上がりです。日本でも気軽に運動できるこういう施設を作って欲しいものです。山を降りて坂道を下ります。その時はまだ「息もできない」のロケ地を諦め半分で探していました。韓国の映画には坂道のある作品が多いのです。ここでへばりつくように生きている人々の、恨みや悲しみや喜びが傑作を生むのかもしれません。チンピラで借金取立てを糧としているサンフンと高校生のヨニの、たぶん恋愛映画といっていい物語です。二人を結びつけた要素は、この町のどうしようもない貧困であり、暴力です。ひとつの暴力は、もうひとつの暴力を生む。サンフンの父親の暴力はサンフンの暴力を生み、サンフンの暴力はヨニの兄の暴力を生む。ちいさな町の片隅の関係ではあるが、宿命的な「暴力の連鎖」が描かれます。そしてまるでギリシャ悲劇を思わせるかのような神話的結末を迎えるのです。しかし、貧困が生む単なる悲劇物語にしていないというところが、凄いのです。暴力の連鎖を止めるものも示している。暴力の前に小さな花は無力ですが、暴力を止める力も小さな花の中にこそあるのです。そのときです、知能障害のある男の子とお母さんが坂道を登ってきて私とすれ違ったのです。お母さんはずっと子供を叱りながら歩いてきました。そのあと私は坂の下のバス停まで歩いたのですが、なんと30分もかかってしまいました。あの親子はいったいどのくらい歩いて家にたどり着いたのでしょうか。
2011年05月12日
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地下鉄一号線で漢江を渡り、ノリャンジンという駅で降りた。ちょっと前、ひかりテレビのKSBワールドでドキュメントをしており、ここにぎりぎり底辺の生活をしながら、試験に受かることだけを夢みて勉強一筋の生活をしている20-30代の若者のことをやっていて、。ぜひとも来たかったのである。雑貨やをみると、そういう若者に特化して品揃えをしているのが分かる。勉強台に寒さを和らげるスリッパ、座布団などが店頭に並んでいる。駅の裏側の坂を上っていくと、明らかに今までのソウルと違う雰囲気に包まれている。どの家もコンブバン(勉強房)とコシオン(孝試院)の看板のある家しかない。所謂、受験生の寮の町なのだ。孝試院はうなぎの寝床だと聞いている。一ヶ月の家賃は相当安いはずだ。確か、昔のハングル仲間で韓国に留学した女性も孝試院で生活するのだといっていた。彼女は総額100万円で半年の語学留学をしたはずだが、その後どうなっただろうか。玄関には英語で「成功への門」と書かれている。スーパーの中の不動産屋には孝試院27万wと書いていた。その辺りが相場なのだろうか。歩いていると、勉強房が一番古い建物で、その次が孝試院、そして少しきれいな建物で孝試テル(ホテルのもじりか?)というランクがあるのが分かってきた。芸術家が集まる孝試院の裏庭だろうか。ガラクタのような前衛芸術が転がっている。この街のひとつ道を隔てるだけで、実はこのような高層高級アパート群が建っている。韓国においては、このようなアパートに住める人達はいちおうの勝ち組なのである。駅前は私が降りたときには寂しかったのであるが、お昼になったとき、どこから人が出てくるのか、ごった返していた。食堂みたいなものもたくさんあって、3500wや4000wの料理もあったのであるが、人が並んでいる食堂を良く見ると、セルフサービス式の食堂だった。これだけで4500wである。全員見事に若者である。男子学生たちは韓国に珍しく一人食事が多い。これで済ますつもりだったのだが、ふと見るとお握りの店「カモメ」があるではないか。映画好きならば直ぐにピンと来ると思うが、明らかに映画「カモメ食堂」にちなんだお店です。ちょうど二日前の朝、ケーブルテレビの映画専門チャンネルで「あっ、日本映画のカモメ食堂をしている」と嬉しくなったばかりなので、この映画は韓国の映画通には案外人気なのだと分かっていた。この間ずっと韓国でこの時間帯に映画を見てきて、一様に朝の六時台の映画は「パイラン」「喧嘩の技術」「チング」等々少しマニアックだけど、名作といわれるものが流れていたのである。ふらふらと入っていきました。テーブルに椅子が8席ほどしかない小さなお店です。20代か30初めの初々しい若い夫婦が店を切り盛りしています。サラダお握りを頼みました。出てきたのを見て「大きいですね」というと、奥さんのほうがにこりと笑いました。食べてみます。もう少しきつめに握ったほうがいいかな。「面白い味です」と言っておきました。ご主人のほうも、さりげなくずーと私のほうを気にしているようです。日本人の感想が気になるのでしょうね。味噌汁を(本当はセルフだったみたいですが)入れて持ってきてくれました。「これは旨いです」ちゃんと出汁をとっていました。たぶん若い夫婦が冒険をしながら出した店なのでしょう。頑張ってほしいです。そのあともう少しこの界隈を散策しました。読書室(トクソシル)というのがあって、わりときれいなビルになっています。その前に10枚27000wというのがあって、これはおそらく食券だと思われます。KSBのドキュメントではここでアルバイトしながら、寝袋で寝泊りをしている青年もいました。韓国の求職戦線は激烈です。難しい試験に通らないと就職できない。それで何年も浪人をしながら、例えば警察に、そして消防の試験をとるわけです。そういう試験に通ったものだけが、まともな生活が出来ると信じられているし、たぶん現実がそうなのでしょう。
2011年05月11日
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11月12日(金)晴れ 12日目今日は少し風邪が治まった。昨日からテレビは「G20ソウル」一色である。私の泊まっている大元旅館は景福宮や青瓦殿(大統領府)のすぐ近くなので、ことさら警備が厳しそうだ。地下鉄の景色を写している振りをしてその奥に用もないのに警官が四人もいるところを写して見ました。地下鉄に乗った後に気が変わって、昌徳宮に行くことにした。その途中で団成社(映画館)が潰れているのに気がついた。私の辞書には出ていない単語が多いので良く分からないが、「既存の……100%明け渡し完了。104年の団成社と一緒に行う事業主に仕えます」と書いているように思える。潰れたけど、社長が変わったのだろうか。伝統ある映画館なので続いて欲しいと思う。このとき、街にはテレビドラマの「大物」のポスターがいたるところに貼ってあった。「砂時計」「春の日」「善徳女王」のコ・ヒョンジョン主演で、クォン・サンウ共演。KSBの一押しドラマである。昌徳宮は工事中でちょうど入場できなかった。これでわざわざ見に来たのに、入れなかったのは三度目。いつも定休日だったり、時間がなくなったりして、ついに一度も入ったことはない。この宮の隣に現代(ヒョンデ)グループの巨大な建物がある。さすが大統領(李明博)を輩出した会社だけあってG20のために巨大な垂れ幕を作っている。「はしゃいでいるな」と思った。一方では、G20のせいだろうこのようなちょっとした道が通行禁止になっていたり、地下鉄のロッカーが総て使えなくなっていたり、地下鉄の中のビデオでテロ啓発CMを流していたりする。つまり、韓国のテロに対する警戒は日本とは比べ物にならないほど「本物」である。その韓国が、テポドン騒ぎの時には微動だにもしなかった。北朝鮮のミサイルをいかに「非現実的」なものに見ているかはこれでも分かる。ヨンピョン島事件があったときでさえ、少し警戒が厳しくなっただけなのだ。日本の騒ぎようは、結局五兆円もする防衛費を捻出するための「空騒ぎ」であると私は強く言いたいと思う。ちょっと安国(アングッ)駅の周りを散歩してみた。テレビのロケでも良く使われているようだ。この辺りは街の真ん中ではあるが、古い建物が残っている。リヤカーである。下のタイヤは予備にしては小さい気がするのだが……。タイルが少しお洒落ではある。このようなレンガとタイルで覆われた小道は、しだいとなくなりつつある。安国駅地下鉄の中にあったポスターである。これは墓の宣伝ではない。6.25戦争(朝鮮戦争)60年に対して戦没者に感謝の意を捧げよう、という啓発ポスターなのである。
2011年05月10日
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浜岡原発の停止を支持します。経団連会長の会見を見ましたが、菅首相を口汚くののしってはいるのですが、いざ原発停止の是非を聞かれるとしろどもどろになるなど、まるで小学生の先生への告げ口みたいです。「民主党の決定はブラックボックスで結論だけがでてくる」ということだけはその通りだと思います。閑話休題、明洞餃子で美味しいキムチを食べて10年前を思い出したので、そのあとに行った処も思い出した。てくてくと明洞を歩く。いまや、日本語の看板はありとあらゆる所にある。日本風のラーメンもだいぶ進出してきたようだ。怖くてまだ一度も食べたことはない。人人人である。さあ、着いた。明洞教会である。協会に続くこの坂のところで10年前の時はなにかのデモの起点になっていた。日常的にデモがあること(その時のホテルまで案内してくれた添乗員がさらりと政治に対しての自分の意見を言ったことに対しても私はカルチャーショックを受けていた)や、それが教会が基点になっていることにも、私はカルチャーショックを受けた。あの時は曜日のせいか、時間のせいか、教会の中に入ることは出来なかった。今日初めて入ってみる。厳粛ゴシック建築、その大きさにびっくりする。パンフによると、韓国最初の本堂で「韓国カトリック教会の象徴」らしい。1892年に聖堂の設計に取り掛かり、1898年に完成したとある。その後の激動のソウルを体験してきた教会なのだろう。「1980年代、近・現代史の激動期に韓国社会の人権向上および民主化の聖地としての役割を果たし、現在では祈って宣教する共同体として世に向かっている。」(迷訳である)と書いている。大聖堂の平面はラテン十字架形の三廊式で、本堂の高さは23m、鐘塔の高さは45m、装飾的な要素を排除した純粋なゴチック様式らしい。この日はあまり政治デモは見かけない。G20を応援する若者のパフォーマンスがあった。映画の前にスターバックスでコーヒーを飲みながら、日記を書く。映画はCGVに入ってみた。初めて。映画館は複合ビルの最上階にある。途中、明洞の周りのビル群を上から眺める。すると、明洞の華やかな顔とは裏腹に、誰かが住んでいるかもしれない倉庫みたいな屋上家や畑に使っているかのような屋上もあった。映画は「プタンコレ(the un JUST)」(邦題「生き残るための3つの取引」)というものである。作品ごとに体格と顔つきを変える演技派ファン・チェンミン(「ユア・マイ・サンシャイン」)とリュウ・スンボムの主演。警察の上司が汚い部屋で飲んでいる部下の刑事のところにやってきて、対等に飲みあいながらギリギリの話をする。細かい演出がにくく、高村薫の原作の映画化をこの監督ならば出来るかもしれない、と途中までは思っていた。最初から汚いことをする刑事と検事が主人公で本格的なポリティカル・サスペンスになっている。と途中までは思っていた。しかし、後半で大失速。あんなラストじゃいただけない。日本には来て欲しくない。しかし、これには八割がたの観客が入っていた。現在の韓国映画としてはヒットといっていいだろう。俳優に対する期待があったのだろうか。映画が跳ねると雨が降っていた。急いで傘を買ったけど、300m歩いて地下鉄に入り、外に出たときにはやんでいた。結局、それ以降一度も雨は降らなかった。このとき地下鉄で、ものすごいものを見た。上のブレブレのものはなにか。写真ではない。日本にもあるけれども、地下鉄構内にあるCM用のテレビである。そこでなんとCGを使っていると思うが、地下鉄で毒ガスのテロ攻撃があったという政府の広報をしていた。地下鉄で爆発もあり、毒ガスも発生し、市民は防毒マスクを被り、お年寄りや子供を守りながら避難しましょうと「啓発」する映像である。G20の最中とはいえ、日本ではとうてい考えられない映像だ。韓国は本気なのだ。毒ガスサリン事件があった日本では、いざという危機に対して、まったくのほほんとしている。嗚呼、あまりにも現在では自明のことなのでもうこれ以上は言うまい。大元旅館に帰って宿を29000wの個人部屋に変える。洗濯はしてくれていなかった。忘れていたみたい。直ぐにやります、といわれたけど、自分ですることにした。外に出て食べにいく。中華料理店で中華丼を頼んでみた。味付けはやっぱり辛い。失敗した。キョトンカードチャージ5,000 風呂15,000 昼食7,000 映画8,000 コーヒー3,300 傘3,000 靴下5,000 宿29,000 夕食6,000 つまみ1,500合計 82,800w歩数 11,634歩
2011年05月09日
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新しくブログを立ち上げました。映画用のブログです。ときどきこちらの方にも書くので、休むことが多くなるかもしれません。ブログのミラー化は目指しません。根がめんどくさがり屋なもので。11月11日(木)曇り一時雨 11日目 朝食は大元旅館のトーストとコーヒーで済ませる。旅館のおじさんに荷物を置いておくこと、洗濯をしておいて欲しいことを頼む。旅館の中庭に情報ノートがあった。前の住人は中国のピザの取り方を得意げに書いてあった。つい対抗心を起こして40分くらい掛けて今日までの遺跡や博物館への行き方を書いた。「俺はこんなすごい所へ行ったんだぞ」と誰かに伝えたかったのかもしれない。けれども「すごい事」は書いたとたんに相対化され、ぺらぺらのノート2Pの落書きに過ぎなくなる。実はソウルでどこに行くかは決めていない。2-3箇所行きたいところはある。それはひかりテレビで見たドキュメンタリーの撮影場所だったりして曖昧な記憶なので迷うのは分かりきっている。ところが、今日は朝から調子が悪い。私にしては珍しい風邪気味なのである。昨日は一日中咳とくしゃみをしていた。今日はあまり歩かないことにしようと心に決める。地下鉄に乗る。ソウルの地下鉄は駅によっては様々な路線が入り組んでいるので、相当に複雑ではある。路線は色分けされているので、その目印に向かって歩いていけばまず迷うことは無いのであるが、ときに乗換えで相当歩くことになるので注意が必要である。(写真は駅構内の案内図)二つ乗り換えて明洞(ミョンドン)に向かった。今日は楽な観光をしようと心に決めた私は、まず思ったのが韓国のテレビドラマでよく見るチルジルバンに行きたいということであった。汗をかいて風邪を吹き飛ばしたいということがひとつ。あの風呂施設(宿泊施設?)がどんな仕組みなのかずーと疑問だったということがひとつである。テレビドラマによると、韓国の人たちはお金がないときにあそこで横になってとまることがあるらしい。男女が一緒の休憩所で横になっている。どんなもんなのだろう。最初入ったところは垢すりつきなどのコースモノしかなくて、価格も21万ウォンと高くてとても入れない。次ぎに入ったところは、風呂だけで1万5千ウォンという。とりあえずここに入ってみることにした。ところが、入ってみると、テレビドラマのように休めるところはないという。やっぱり違う。帰るわけにもいかないので、汗をかいて風邪を飛ばすことに専念することにした。午前中だったので、見事に私の貸切である。けれども流石にお風呂を写真に撮る勇気はなかった。脱衣所の入り口だけをこっそりと撮る。三種類ぐらいのサウナがあった。お風呂の種類も四種類くらい。要は日本によくある郊外型のお風呂屋さんである。値段はバカ高いけど。サウナで汗を流したが、風邪は飛んでいってはくれなかったようだ。ジムの人は一時間半もいた私に「お風呂が好きですね?」と呆れていた。日本的笑顔を返しておいた。せっかく明洞に来たので、明洞餃子(ミョンドンキョジャ)に行ってみた。なんと順番待ちの行列が出来ていた。さすが観光地である。でも直ぐに入れて(合い席にすわって)直ぐに料理が来た。味の良さと効率の良さで成り立っているのだろう。この店は思い出の店だ。約10年前、初めての韓国旅行で初めて入った店がこの店だったのである。二泊三日のソウルフリーのバック旅行で、明洞駅前のホテルに泊まり、荷物を置いてふらふらとたどり着いたのがこの店だったというわけだ。初めて食べた韓国料理である。思えば第一印象は大切である。当初はまだ日本語の看板もあまりなくて、例に漏れずハングル酔い(ハングル文字しかないので位置が分からなくなる)をしていた。唯一分かったのが「明洞餃子」という漢字の看板。入って「イゴジュセヨ(これください)」という覚えたての単語を言うと、「ああ、マンドゥね」という。韓国ではギョーザのことを饅頭というのだ。それならどうしてあんな看板にしているのだ、と不安に思っていたら、なかなかの量のギョーザが出てきた。ギョーザの味はよかった。その味もよかったのだが、頼んでもないのにご飯とスープとキムチが出てきたのだ。その時はまだ韓国料理に必ず副食が、特にキムチがつくということを知らなかった私である。最初の旅の第一目標は「本場のキムチ(つまり韓国の本場の味)を食べてみたい」ということだった。思いもかけずそれを早々と達成できて私はびっくりした。そのキムチの味は、それまでに食べたどのキムチとも違い、濃厚な味で、しかもこんなに唐辛子をふんだんに使っているのに、それほど辛くないのだ。キムチは無くなりかけると、頼んでいないのに直ぐに足してくれるのに二度びっくりする。思えば私はラッキーだったのかもしれない。その後、私は店に付くキムチの味に大きな上下があるのに気がつく。キムチが美味しい店は、料理の味も間違いなく美味しいのである。最初に食べたキムチが、韓国としては第一級のキムチだったために、私はその後「本場のキムチは美味しいよ」と何度も人に言うことになる。あの時は5000wだった料理も今は7000w。饅頭一品がこれでは、韓国の相場としてもかなり高い。それでも行列を作って並んでいるのは、ほとんどが韓国民である。ただし、彼らが割りと頼んでいるのは、カルククス(うどん)のほうなのだ。うーむ、もう一回来なくちゃいけないかな。
2011年05月07日
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そのあとやっと池山洞古墳群に登った。遠くから見れば、登山のような苦労を思い浮かべていたのだが、登ってみればなんと10分少々で第一の古墳にたどり着くなど、案外近くであった。ただし、私は土器が落ちていないか、登りルートから外れた道を登っていったので、ずいぶんと時間がかかった。二人組の男の人から何か声をかけられたので、「疲れました!」と返した。私の変な登り方を聞かれたと思ったので、「土器を探しています。ありません」と言うと、「日本人ですね !」と言って握手を求めてきた。うーむ、この握手の意味はやはり「日本人がふるさとをわざわざ訪ねてきた」ということなのか。もっと話しかけられるかと思いきや、彼はすたすたと登って行った。この写真の古墳の真ん中の頂上に豆粒のような二人が見えないだろうか。それがその2人である。これが44号墳である。一度発掘調査済みなので、この墳土は後で盛ったものであるが、実際よりは大きくなっているという。私はそういうことは軽々しくしてはいけないと思う。たとえば、私のようにこの古墳の上に登って当時のひと達の気持を推し量ろうとするものがいる。もちろんこの上で神事をしたわけではないので、この高さが大きく問題ではないかもしれないが、この高さからやっと母なる川の洛東江が見える。川が見えるか見えないかは、場所の選定に左右されたのか否か、重要な情報だと思うのです。標高300mの山の上の稜線に延々と作られたこの古墳は、思うに韓国古墳群の中でも一番の景観を持つだろうと思う。古墳に上りながら疑問に思ったことは四つほどあって、博物館に戻って質問したのであるが、メモがなくなった。省略する。いつの間にやら、三時を過ぎていた。博物館の人に近くの名物料理を聞く。いつもクッ(汁)やタン(湯)の付く料理ばかりなので、それとは違う料理がないかと聞く。するとホンチョントッペギという店を教えてくれた。お礼を言って辞す。実は博物館の横を発掘していた。立ち入り禁止の看板を乗り越えて入ってみる。日本と同じようにビニールシートを張って保存している。土器は見つかりませんでした。(^^;)店は、歩いて10分ぐらいのところにあった。料理(トッペギ)は結局カルビタンとほとんど変わらない骨付き牛肉の汁でした。面白いのは、ここでもやはり副食(パンチャン)に玉ねぎと青唐辛子が出てきたということ。ここの食文化は伽耶の文化だという確信を深める。この店は道の中一面いろんな形の色模様が付いた石ばっかり置いている。なるほど、博物館の人が好みそうな店です。「この石は拾ったのですか」「そうです」びっくりです。帰りのバスから洛東江が見えました。この川が金海も通るし、釜山も通る。そしてはるか倭の国まで通じる大動脈になったというわけです。これでしばらくは考古学の旅もおしまいです。後、考古学関係は主には扶余に行ったときだけになる。だから慶尚南道地域の古代めぐりはこれでおしまいということになる。それぞれの遺跡は事前知識は全くなく、行き当たりばったりで行ったのではあるが、それぞれは非常に貴重な体験が出来て、有益な旅であった。大邸に戻り、地下鉄で東大邸まで行き、そこから17:40発のソウル行き高速バス乗ることができた。ソウル高速バスセンターに着いたのが、21:20分。バスセンターの周りを少し歩いてみて、宿を探したけど、ひとつもないのです。想定外。そうか、ソウルは地代が高いから、バスターミナルといえども、街の中心街にはモーテルはやっていけないのだ。仕方なく、先ずは地下鉄の駅で夕食。ハルモニククスという店で豚丼(チェユクトッパン)です。うん、新しい味です。独りお食事で安くて美味い店、探せばあるじゃん。仕方なく、いつものお宿、大元(テォン)旅館をめざす。着いたのが、夜の10:30。どうかな、とおもったのだが、やはり予約なしでは一人部屋はなかった。ドミトリーならばあるということで、そこに泊まり、明日は部屋に入ることにした。さあ、これからはしばらくはソウル暮らしです。コインロッカー1,000 栗とジュース1,300 地下鉄(3回乗車)3300大邸←→高麗5,600 タクシー4,000 博物館2,000 昼食5,000 大邸→ソウル24,100 夕食4,500 大元旅館19,000計 69,800W歩数 16,769歩
2011年05月06日
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博物館では思いもかけない歓待を受けた。日本語に堪能なガイドが付いてくれただけでなく、「外国人の入館があるとプレゼントがあります」と言って伽耶時代の器台をあしらった湯飲みまで呉れたのである。「こんな壊れ物は到底バックに入りきらない。迷惑です」とは思ったけれども、感激して頂いた(^^;)。以後私のバックは見た目確実に二割増しになった。いや、嬉しかった。湯飲みなんて今までの旅で買おうとも思わなかったけど、加耶地方独特の「穴」が開いているこの器台はたいした記念になった。運搬には苦労したけれども……。ちょうどこのときは企画展をしていた。大伽耶の遺物と日本遺物との比較展。大伽耶の遺物とまるっきり同じ形の遺物が日本の遺跡から出るわ出るわ。西日本から関東にかけて、ほぼ全地域から大伽耶遺物が出土している。3Cぐらいから始まった日本と高麗との交流が非常に密度の高いものであったことを証明している。(写真の中の写真は日本で出土した遺物です)ガイドの人にはまず鉄のことを聞いた。「高霊の鉄の産地は二箇所。ミスン山と(上手く聞き取れなかった)山です。」展示説明を見ると、山の上に鉄鉱石があって、その麓が1993年に調査されている。写真を見ると、なんでもない山のように見える。「韓国でも鉄鉱石は掘らないといけませんが、それでも地表に出ているところはあるそうです」日本の最古の製鉄遺跡は吉備の千引カナクロ谷遺跡(6C初め)であるが、金海加耶が滅亡し、高霊伽耶が滅亡するのが6Cのことだ。伽耶の滅亡前後に製鉄技術者集団が日本に亡命してきたということは、十分に考えられることである。単なる製鉄技術を持っていただけでなく、鉄鉱石を見つける「目」や「足」そして「カン」を持った人間(日本で言うところの山師)が日本にやってきたのが、決定的だったのかもしれない。写真は左から純粋鉄鉱石、中間が鉄が混じった石、一番右が砂鉄である。持上げてみて、鉄のようには重くはない。この高霊で製鉄が始まったのは4Cらしい。どのように見つけたのかは「不明です」とのこと。ここの常設店の展示には、なんとすべて日本語の解説がついています。(写真は三韓時代の鉄斧。王陵を作っている様子)博物館から山のほうに向って歩いていくと、古墳展示館があります。ここには権勢を誇った王墓44号墳の発掘成果を実物大に再現している。この説明から判るようにここでは殉葬が広く行われている。確かに殉葬は福泉、大成洞、慶州でも行われていたのではあるが、どうやらここでは最大規模(40名)のそれがあったようだ。それが、44号墳である。従者だけでなく、一般庶民の夫婦、10代20代の少女などが殉死させられていた。骨まで残っていたので、きちんと解明されたらしい。王の墓の周りに多数の竪穴式石槨墓があるのはそのすごさを物語っている。日本の古墳に骨は残らないのだから、本当は殉死はあったかもしれないと主張する学者もいるようであるが(彼の根拠は単に文献にあるからというに過ぎない)、この殉葬のあり方を見れば、日本ではありえない考え方だったということがわかる。大きな墓ならば、必ずひとつの墳墓の中に殉葬のための木棺や石棺が必要であるし、同じ穴の中に葬るのならば、それの痕は必ず出現する。朝鮮半島で殉葬を行ったのは、おそらく王族だけだろう。そして(百済は別として)朝鮮半島の王族は日本にやってこなかったか、もし来たとしても朝鮮半島の習俗を日本に適用するほど彼らの力は強くなかったのだ。そうして、日本には「殉葬をするべし」という思想が無かったのだ。だから日本は平和な思想を持っていたと直ちに結びつけるつもりは無い。けれども、先進技術を取り入れた当時の日本列島の人々が「決して」殉葬は取り入れなかったということに、私は習俗以上の強い「意志」を感じるのである。プレゼントの中に入っていたパンフに近くの加耶大学の教授が、「高霊こそ、記紀神話の中で語られている高天原である」と主張し、研究所とそのことを再現した公園まで造っている案内があったのである。日本語の説明が充実しているのも、「日本人はぜひとも高霊へ故郷として訪ねて欲しい」という気持があるのかもしれない。でも、私はその主張には大いに反対する。高霊遺物が日本のあちこちに散在していることは認めつつも、此処の王の系統は決して日本の天皇の系統には連なっていないと確信する。このような徹底した殉葬思想を持つ人々が大和政権を作ったはずはないと思うからである。馬鹿らしくて加耶大学を訪ねようという気にもならなかった。
2011年05月05日
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11月10日(水)晴れ一日中吹いていた風は今日はやんだ。昨日は季節の変わり目だったのか。今日はあまり寒くもない。気持ちよい快晴である。この旅は寒いのを覚悟してムートンのセーターとウィンドブレーカーを持参しているが、まだ一度も着ていない。8時過ぎにモーテルを出て地下鉄にむかう。コインロッカーに荷物を置こうとしたのである。ところが、ちょうどG20の真っ最中だということで韓国全ての地下鉄のコインロッカーが「使用禁止」になっていた。私の荷物には、カップ麺の代わりに今や図録が五冊ほど入っている。重たい。元に戻って高速バスターミナルに行くと、流石に大きいターミナルなのでロッカーが存在していた。それにしても、全ての駅のロッカー封鎖は過剰防衛だ。私はてっきり大邸でG20があるんだと思ってしまった(実際は会場はソウルのみ)。バスターミナル前でおばあちゃんが栗を焼いていた。「いくらですか」「☆△□×」良く分からないので小銭を全部渡してみる。「観光かい?」「観光です。美味しそうですね」「日本に栗はあるか?」「あります。こんなふうに焼くのはないです」800w取って4個袋に入れてくれた。ちょっと忙しくさせたためか、半焼でおいしくなかった。でもすぐに身体が温まる。縄文時代、栗が主食だったのも肯ける。大邸の地下鉄のチケットはこのようなコイン式である。つまりごみを出さないチケットということなのだろう。これは今までの旅の中では大邸しか採用していない。大邸駅の観光案内所で大伽耶(後期加耶時代)の都、高霊(コリョン)の池山洞(チサンドン)古墳群の行き方を教えてもらう。ソンタンモ駅の市外バスターミナルに行ってそこから高麗行きのチケットを買えという。昔海印寺に行ったが、そのルートの途中の町らしい。なんとか午前中に高霊につけそうだ。バスの運転手は70を越えていそうなおじいさんだった。例によってものすごい飛ばす。高霊に近づいた。池山洞古墳群って、あれ?普通に高い山の上にあるじゃん。おいおい登山かよ。上手く時間を使えたら、午後は大邸の博物館に行こうと思っていた目論見はこの時点で放棄する。バスターミナル前でタクシーを拾う。バスは無いと聞いていたからである。運ちゃんが4000Wだという。見ると、メーターを倒していない。実際帰りは20分で歩いて帰れたので、彼は高く吹っかけたのである。こういう仕打ちにはつくづく嫌になる。(と、日記には書いているが、吹っかけたとしても1000Wぐらいだったろう。めぐじらを立てるほどではない。貧乏旅が身についてバス代よりもタクシー代が高くつくのが我慢ならない私なのでした)大伽耶博物館前につきました。これは池山洞古墳群のすぐ下にできています。博物館の敷地にないに入るとすぐに大伽耶時代の家を再現してあった。ちょっと勘違いして2-3世紀で既に土蔵があったのか疑問に思って、後で博物館学芸員に質問した。彼女は「あくまで、柱のあとなどを基にした想像だ」と、いいかげんな答え。大伽耶の滅亡は6世紀なのだから、土蔵ももしかしたらあったかもしれない。日本ではずいぶんと後になるが、韓国では早くから家の中に竈がある。取っ手のついた土器はあのように甑(こしき)として使われる。そして博物館フェチの私は何はともあれ、大伽耶博物館に入るのですが、そこで思いもかけないことが‥‥‥。
2011年05月03日
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国立博物館からバスセンターに戻る。大邸(テグ)市に移動のためだ。移動時間二時間、出発の時には明るかった景色が着いた時には真っ暗になっていた。しかしその時間はあっという間に過ぎた。隣り合った若い男性に「大邸にはどれくらいで着きますか」と聞いたことからずっと話をして途切れることがなかったからである。お互いに片言の語彙しかもっていなくて、暗い中で辞書を時々引きながらの日本語韓国語チャンポンの会話になった。時間をかけて、自己紹介や旅の目的や仕事のことなど、興味を持っていることを話していったのである。細面で少し小柄の優しい面立ちの青年でした。キムさんといいます。彼は29歳。現在、小学校の臨時教師をしているのだという。今回は大邸で5日後に教師採用試験があるので、その準備と勉強のために大邸に向っているのだという。住所は慶州市にある。「(小学校の仕事は)疲れますか?」「オモシロイ」彼は日本語で静かに言った。子供に囲まれて優しく教える彼の姿が目に浮かんだ。けれども彼が本当にめざすのは、社会科の中学校の先生なのである。臨時教師では安定した職業ではないのだろう。非正規が全労働者の6割近くを占める韓国社会の断面がここにもある。とっても真面目で勉強熱心。試験のことに関係するのでもないのに、日本語の会話をとても楽しんでいるさまに好感を持ったのでした。話は私の遺跡めぐりのことに移る。キムさんは金海金氏の系統である。遠くまでたどれば、慶州の偉人、統一新羅の立役者金庚信(キムユシン)将軍まで辿れるのだという。日本で祖先は清和源氏だと聞くと眉唾モノであるが、族譜の継承が命より大切な韓国の場合は十分にありうることだろう。「それはすごいですね」「アニエヨ!(そんな事はないです)」自分から言っておきながら、ひどく照れていた。まあ、実際は慶州市内には金庚信の子孫は山のように存在するのかもしれない。彼にしてみれば、言っては見たものの日本人に素直に驚かれたのは意外だったのかもしれない。けれども彼の歴史好きは、このアイデンティティにもあるのかもしれない。それはそうと……、私はこの旅で感じたことをいって見る。「韓国は博物館も立派で、野外教育も熱心で、日本とは違う。すごい」「……わたしの考えですが、韓国の教育水準は日本より低い」彼は断固とした感じでこのように言い、この点では私と大きく意見が分かれた。私は「ハジマン……(いや、違う)」と言い、彼も「いや違う」と言う。彼なりに韓国の教育政策に不満があるのかもしれない。しかしそこまで突っ込んだ話はできなかった。「楽しい時間だった」ということで、お互いにメール交換をしたのであるが、実はそのメモ用紙を旅の後半で落としてしまった私でした。彼からの連絡はまだない。泊まりは東大邸のロイヤルパークモーテルへ。古いモーテルなので設備面はいまいちだったけど、一泊三万Wと安かったし、女将さんは気さくな人だったので満足でした。夕食はともかくもマッコリが飲みたかったので、それがメニューにあるところを探してしばらく歩く。しかしマッコリは市販のビンが出できたので味はイマイチだった。料理はヘジャンク(豚の骨付き鍋)です。ここでまた副食に青唐辛子が出てきた。味噌をつけて食べる。金海と同じである。慶州と蔚山は副食が多く、金海より遠く離れた大邸で同じ副食が出る。つまり、大邸は加耶地域であり、慶州、蔚山は新羅地域であるということなのだろう。1500年前の地域割りがまだ食事の伝統に受け継がれているのではないか。これは私の仮説である。バス1,000 朝食2,000 コインロッカー1,000 バス1,000 バス1,000 昼食6,000 バス1,500 博物館2,000 バス1,000 慶州→大邸5,900 宿30,000 夕食9,500計 61,900W歩数 16103歩
2011年04月30日
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バスで国立博物館に行く。市内では四回ほど「どこに行くのか」とあたかも親切者らしく向こうから道を教えようとする人に出会った。みんなタクシーの勧誘である。さすが第一級の観光地。今までの旅でこんなにもひつこい勧誘は一度もなかった。全員丁寧にお断りする。国立慶州博物館は二度目だ。三つの館があって一番大きいのは考古館。ここで、金尺古墳群での疑問を質問するのが来館の目的である。その前にNOフラッシュならば写真OKということなので色々と見て回った。この製鉄の場面は鐘を鋳造しているので、後代の模型だろうがわかりやすくて興味深い。新羅では紀元前57年(?)からAD300年に及ぶ350年間、木棺墓と木槨墓が採用されたらしい。木槨墓は二世紀中ごろから採用されている。鉄器を供えている墓が多い。隍城洞(ファンソンドン)遺跡は単なる製鉄遺跡かと思っていたら、新石器時代の櫛文土器や石剣まで出ていて、かなり長い間慶州の中心遺跡だったことを知る(写真は隍城洞遺跡出土の新石器時代の櫛文土器)。実は慶州大学の助手さんから詳しい場所は教えてもらっていた(慶州市隍城洞ユリム小学校前のシンフンロイヤルアパート)のだが、純粋に今は跡形もないということだったので見物に行くのはやめたのである。しかし、それでも一度いってみる価値のある遺跡かもしれない。そこから見える山や川、そして空気を吸うということ。さて、博物館のインフォメーションで質問をした。しかし、日本語ができる人がいなく、かつ学芸員ではなくガイドだったので、時間がかかったわりにはハッキリとわからなかった。一応答えてくれた質問は以下のとおり。一、古墳に葺き石があった。一部ではなく古墳全体に敷いてものなのか。川原の石を持ってきたものなのか。→古墳全体に葺き石をしている。川原から持ってきたらしい。二、古墳の周りに土器は置いていないか。つまり、日本の埴輪に似た現象はないか。→周りに土器は置いていない。三、双円墳や双方向へ突起のある円墳、一方へ突起のある円噴は普遍的にあるのか→双円墳は夫婦のものである。そのほかの形のものは、後代に至り崩れたものだろうということ。(正確かは不明)四、鉄鉱石はどこから取ってきたのか。前1cからか。この鉄の産地が大きく広がらなかったのはなぜか。→ウルサン市の北側、タルチョンという処から鉄鉱石を持ってきたらしい。何故そんな遠くで見つかったのか。あるいはそれ以上の詳しいことは不明である。ガイドの人はそれなりに一生懸命答えてくれたのではあるが、少し突っ込んだ質問はやはり大学研究者クラス或いは教授クラスでないと無理だということも判ってきた。日本の場合は、博物館の学芸員は研究者も多くいて、たいていは答えてくれる。考古学に関していえば、学問的水準は明らかに日本のほうが高い。と思う。日本の人たちがそれなりの報酬をもらっているかどうかは別問題である。これは慶州龍江洞の文官土偶。6世紀。しかし、良く見ると明らかに西洋顔。シルクロードから流れてきた人である可能性が高い。これは金庚信の墓から出てきたと伝えられている十二支像。これは以前蔚山に行ったときに遠くて諦めた盤亀台の線刻画のレプリカ一部である。クジラ漁をしている。全世紀から新羅時代まで聖なる場所だった。
2011年04月29日
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バスで少し戻って、慶州大学校に行った。博物館の場所を聞く。本屋で聞くと、この棟の三階にあるという。けれども、探せどもそれらしき部屋がないのだ。この棟は芸術学部の棟らしく、廊下にそれらしき作品を飾ってあった。四人ほどに聞いて、やっと学生の案内人を立ててもらってたどり着いた。博物館の助手らしき人に館内を案内してもらった。写真は撮ったが、公開はしないと約束したのでパンフの写真のみ紹介。半分は青銅器時代の遺物で興味深いものだった。キムチャンホ遺跡や忠孝洞遺跡そして隍城洞遺跡の遺物などで面白いものもあった。写真左下の鉄製の小さな壺見たいなものは、青銅器を作るときに流し込む土器(坩堝)だそうだ。日本では見たことはない。最初博物館の床の上をワックス掃除したばかりらしく、泥の付いた靴で入ろうとすると、止められた。スリッパを探しに行ってくれたが、結局見つからず、「いいです、いいです」と素足で入ろうとすると、「それだけは……」という感じで止められた。結局、古墳群を歩き回った靴で入ってしまい、恐縮した。助手さんは最初何をしに来たのかと相当不信に思っていたようだ。完全韓国語会話だったが、いろいろと冷や汗モノだった。ついでに茶戸里遺跡で拾ってきた土器の破片を鑑定してもらった。三つは茶戸里時代のもの、ひとつは新羅時代のもの、二つは朝鮮時代のもの、あとは土器ではなく石だったりした。そのとき、ついに怒られてしまった。「遺跡から土器を取ってきてはいけません。私も日本に行ったときにそれはしていけないと教えられました」「ごめんなさい。あの……、あなたに預けましょうか」「それはいい」たぶん「これからはやってはいけませんよ」という意味なのだな、と勝手に判断。この鑑定隅の土器も日本に持って帰った(^^;)。叱られたのですが、考古学的には至極全うなことで、誠実な人と出会えてなんか嬉しくなった。と、いうことで助手さん鑑定の茶戸里遺跡土器はこれです。新羅時代になると、高温で焼くので日本の須恵器に近くなります。そして朝鮮時代になると、陶器になります。「ここをどうやって知りましたか」「大学には博物館が大概あります。ここに博物館があるのかないのかは知りませんでした。but、ここに来ました」という説明で、やっと不信なものを見る目が和らいだような気がした。「これからどこに行きますか」「国立博物館に行って、後は分かりません。大邸にいこうかな」ふーん、という感じだった。バスで市内に戻り、バスセンターの近くで昼食です。表通りから離れていて、人が沢山入っている店にはハズレはない。はず。ということで、この店を選んだ。この店の名物料理は「マッタケの焼き物料理」なのであるが、(大)5万W、(小)3万Wで、まったく手が出ない。豆腐鍋(スドゥブチゲ)にした。驚いたことに副食が9皿付いてきた。昨日の食堂も多かったので、これが慶州地域の伝統なのだろう。私の目に狂いはなく、全部美味しかった。りんごと柿をクリームで和えているのは、この果物がこの地方の産地だからに違いない。何かキノコらしきものもあった。
2011年04月28日
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11月9日(火)晴れ昨晩から急に冷たい風が吹き出した。いよいよ冬への天気の変わり目である。予想外だったのは、風が吹き止まず、返って酷くなったこと。古墳の上や高いところにいたときには、台風並みの冷たい風が吹いた。バスセンターで市内バスの乗り場を教えてもらい(わざわざ100mぐらい付いてきてくれた)郊外の古い古墳群に行く。金尺里(クムチョンニ)古墳群である。(慶州市乾川邑)観光地の大王陵は既に行ったことがあるのでね今回は行かない。とりあえず余り観光地化されていない古墳を見たかったのである。説明版は以上のとおりである。統一新羅以前というと、2世紀から6世紀ということか。王陵とあまり大きさは変わらない。街中の観光地と違い、誰もいない。思う存分登り、時々草の生えている表面を削って敷石らしきものがあるのを確認した。疑問が幾つもわく。やはりそのあたりは国立博物館を訪ねて聞いてみようと思う。このような見事な双円墳もある。まるで楯築遺跡のような円墳の両脇に方墳がくっついているかのような形のもの。あるいは、一方だけ方墳がくっついているかのようなもの。様々な形があった。気がつけば、1時間以上ここを歩いていたと思う。土器も拾ったが、明らかに現代のものだと思われるので無視。しかしこの石は自然なのか人の手が入っているのか判断できずに持ってきてしまった。(古いけどシュガーフライみたいな形)たぶん単なる石だけど、結局捨てきれずに日本に持ち帰った。古墳の周りでは田んぼが広がっている。わらのまとめ方がユニークである。民家も数軒あった。慶州はスレートではなく、瓦葺の屋根が多い。地域の伝統かもしれない。この廃屋を写したのは家の構造が良く分かるからである。2部屋どちらとも窓(?)から入れるようになっている。沖縄とよく似ている。寒い土地柄なのに、何故こうなのか。りんごが旬である。たわわになっている畑を写していると、トラクターのお兄ちゃんがすぐに飛んできた。「なにをしている」「観光です」「観光か。ヨルシミハルケヨ(頑張れよ)」と去っていった。こんな寂しいところなので、りんご泥棒と思ったのかもしれない。
2011年04月27日
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バスで三つ前の停留所に戻った。茶戸里遺跡でもう少し土器を探してみたが、やはりないようである。けれども、きちんとした説明版があったので、何だか遺跡に来たんだ、という気になれた。この説明版のすぐ近くに「住南鴨宮」という鴨料理店がありました。さすがに池のすぐそばで鴨料理の店は出せなかったようです。けれども鴨料理がこの地域の名物料理になるのは必然のように思えます。昼を迎えて車が次々に止っていきます。既に鯉焼も食べて腹がいい具合だったのにもかかわらず、私は「この店は美味しい。地方によくある名店に違いない」と直感が働きました。ここで食べないと一生後悔する。ただし、鴨料理はやっぱり人数がないと食べれませんでした。私は店の第二の名物らしきコンククス(豆乳冷麺)を頼みました。私の感は当たりました。今までで最高のコンククスでした。なんともいえない濃厚な豆乳に見事に伸びのある白い麺。キューリが入っています。やはり副食には青唐辛子を味噌に漬けて食べるのですが、この味噌が絶品で、つい唐辛子全部食べてしまいました。腹が一杯になったけど、食べてよかった(もう要胃カメラのことなど完全に頭からなくなっています)。バスはきれいに乗り継いで金海に帰ることが出来ました。途中の地方の町で、市場ではなく、コンビニの前で普通に野菜などを売っているハルモニを見ました。いつも思うのですが、どうしてこのような商売が成り立つのだろう。近くに小さなスーパーもちゃんとあるというのに。しかし、スーパーは汚く、とても安くて新鮮なものを売っているようには思えない。不効率なハルモニたちの対面式商売が成り立つ所以なのだろう。この韓国の流通事情をもっと改善したならば、「韓国のダイエー」を作れるのにと、いつも思う。(二年前、ソウルの「架け橋」で出あったH氏は、総ての元凶は四大財閥が利益を独占しているからだ、と言っていた。流通の場合はロッテデパートが足かせになっているのだろうか)金海につくと、慶州行きのバスがちょうど出たところでした。1時間待って15:10発のバスに乗る。途中こんな景色が見えた。つまり30棟以上、いっせいに高層住宅を作っているということなのでしょう。それはつまりひとつの街が誕生するということです。何故そういうことが可能なのか。財閥のひとつ、建築会社の「現代」元会長は現在の大統領ではあります。慶州(キョンジュ)市内に入ると、ずっと田園地帯が続きます。きれいに規格された田んぼです。最初見たとき百済の都のあった扶余(プヨ)とは違うなあ、と思ったことを思い出しました。新羅と百済の地域の違いではなく、近代が生んだ経済格差ならびに経済政策の違いなのだとその後学びました。慶州に着くと、すぐ近くの宿をとることにした。モーテルを訪ねると四万wという、これはパス。その向い側のモーテルだか旅館だかわからない大きい建物に聞く。受付のところには三万wと書いている。「三万W?」と聞くと「2万5千w」という答え。一人旅用の値かもしれない。ここに決める。キリン旅館である。風呂はシャワーだったが、十分きれいだ。ここの旅館も「当たり」である。ここの部屋にはカレンダーが置いてある。いかにも安宿に相応しく所々に紙魚(しみ)が付いているのであるが、よく見てみると味がある。ひとつ気が付くのは、11月には3日とか23日とかに祝日がないのだ。日本とは違うのである。そういう意味でも隣の国とわが国とは違うリズムで生きている。しかし、平日ながら何々記念日は多い。11月3日は「学生独立運動記念日」。15日は「民防衛の日」である。17日は「殉国先烈の日」。何か謂れがあるのかもしれない。30日はなぜか「貿易の日」である。また、さりげなく旧暦の日にちも付いている。日本よりははるかに旧暦が位置づいている国なのである。今日は早く宿に着いたので、7時までまったりとテレビを見ていた。日本にもケーブルテレビで韓国チャンネルがあるように、韓国のケーブルテレビにも日本チャンネルがある(「チャンネルJ」)。ちょうど朝ドラの「純情きらり」をしていた。こうやって字幕で見る宮崎あおいの演技は改めて素晴らしいと思う。彼女はほとんど喋らない。それでしっかり感情だけは十二分に伝えている。チャンネルを切り替えて韓国女優の何人かと比べてみたが、無言の演技に関する限り、あおいちゃんが群を抜いて居る。夕食を食べに行きました。「シクタン(食堂)」と書いているところで、客が入っている処を探した。所謂地域色のある定食を食べたかったのである。日替わり定食らしきものがあったのでそれを頼んでみる。副食だけ9品出て、5000wである。総て食べることのできる副食だということを確認したあと焼酎を頼む。みせのアジュンマがもう一人食べている男性も日本人だと教えてくれた。声をかけてみる。初老の男性で、一週間韓国を旅しているという。良洞民俗村と仏国寺に行ったとのこと。この旅で初めて日本人と喋るので追酔いに任せ興奮して、私一人いろいろと自説を喋ったような気がする。住所交換したのであるが、なんとその後大事なメモをなくしてしまう。ごめんなさい。バス1,000 金海←→茶戸里(往復)5,000 朝食1,200 おでん・鯉焼2,000 コンククス5,000 コーヒー1,000 金海→慶州5,900 宿25,000 夕食8,000計 54,100w歩数 11,357歩
2011年04月26日
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住南貯水池を少し観光することにした。住南貯水池の散策路は閉まっていたのですが、池のそばからでも鴨が群れをして泳いでいました。此処は遺跡とは違いりっぱな観光地となっていました。もうお分かりと思いますが、ラムサール文化館とは地名を冠したのではなく、渡り鳥環境保護条約であるラムサール条約を冠した記念館でした。館の中は子供にもわかりやすい展示がキチンとれていて、もちろん入場無料です。職員は四人はいたと思います。文化施設に対する韓国の情熱は、歴史施設ばかりに向けられているわけではないのです。友好都市の条約を結んでいるところと鳥民具の交換をしているようです。日本の釧路とか。ベトナムの鳥の民具はこんな感じです。雰囲気があって面白い。タイの鴨民具があまりにも韓国のそれと類似しているのにびっくりする。韓国の鴨民具は夫婦和合の象徴として広く韓国内では売られています。また鴨の埴輪は青銅器の時代、二千年以上前から韓国では出土している。昔から神の使いと考えられてきたという証拠である。日本でも鴨ではないが、鳥を仮面のモチーフとしている祭りが弥生時代にあったと思う。渡り鳥は昔から神の使いとしの役割があった。いいことも悪いことも、鳥がもたらしたのだろう。もたらすのは決して鳥インフルエンザだけではない。文化館でバスの時間を聞いて、もう一度茶戸里遺跡に戻ることにした。その前に腹に何かを詰めておこうとおでんをふた串と韓国のたい焼き(たぶん鯉焼)を買った。このたい焼きは思ったよりはボリュームがあった。
2011年04月25日
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去年11月の韓国旅行記を再開します。八日目から始めます。五日分ぐらい17回ぐらいの連載になるかな。前回までの記事は、左のカテゴリー「韓国旅行(09~)」をご参照ください。11月8日(月)晴れ 八日目茶戸里(タホリ)遺跡にいくために8時にモーテルを出る。今日も晴天暖かい。朝食はゆで卵にした。金海バスセンターの冷たいベンチで食事です。安いというイメージなのだが、最近はコンビニで買うと二個が1200wなんだね。ジュースはモーテルの備え付けです。遺跡に行くには、金海バスターミナルに行って馬山(マサン)方面のトクサン行きのチケットを買い、トクサンで降りて今度は1番-3番のバスに乗って茶戸里(タホリ)で下ろしてもらうという道筋である。写真は金海を出てすぐに目に付いた奇怪なスローガン。後でよく見ると、チュハナ教会という文字が見えるのでキリスト教の奉仕の精神なのだろうけど、あまりにも軍隊チックなスローガンです。トクサン行きのバスの運転手は陽気な若いおにいちゃんだった。出発時には馬山行きなのにトクサン行きの人間しか乗らなかったので、「全部トクサンだ!」と私の隣のオバサンと始終世間話をしていました。このバスは市内バスのように途中でどんどん人が乗ったり降りたりするのですが、直通バスのように前払いで申告制なのである。たぶん正確には管理できていないと思う。トクサンで降りて反対車線のバスに乗ると聞いていたのであるが、茶戸里にいくと知っていたお兄さん運転手は「あっちに行け」と言う。結果、それに従って正解だった。反対側ではなく、角を曲がった停留所で待つのでした。反対側のバスに乗ったら帰ってしまうところでした。一応、行き方は聞いていたけど伝言ゲームだったので微妙な間違いはあるのです。知らないところに行くときには何度も何度も周りの人に確認しながら旅をしていくのが鉄則です。当然バスに乗るときには「茶戸里で下ろしてください」と頼んで乗ります。乗り換えてバスで10分くらい走ると、突然「ここで降りろ」といわれた。素晴らしい。ホントに何もないところだ。昌原市茶戸里遺跡とはどんなところか。午後になってやっと見つけた説明版にはこのようにあります。昨日の金海博物館では、茶戸里遺跡の特別展示をしていて、遺跡発掘中の空中写真を撮っていました。この写真の赤い点のあたりに下ろされました。2009.2月の写真なので現在とほとんど景色は変わっていません。この遺跡では一号墳からこのような木管の墓(BC1)がそのまま出てきたということで注目されたようです。もっとびっくりするのは、同時期、豊富な文房具か出土したということです。と、いうことは、楽浪郡つまり中国との交流があったことが分かるということと、この時代に既に「文字」を使用していたということです。ともかく写真を手がかりに発掘したところの原っぱに下りてみる。ここは貝塚ではないので、土器がごろごろ転がっているということはない。しかし、昨年発掘したばかりなので、まだ草が生えていないところがある。それらしき土器を幾つか拾う。今回はあまり自信がない。全部現代の土器かもしれない。当初は住南(チュナン)貯水池で降りろ、と聞いていた。そこにラムサル(?)文化会館があるというのだ。もしかして、既に遺跡の資料館ができているのかと思い歩いていって見ることにした。バス停三つ歩くのは思ったよりも遠いものでしたが、歩いていると、この遺跡のすぐそばは大きな池が広がっているのだということが判ってくる。写真は住南貯水池の南側に広がっているトンパン貯水池。これがこの池の概要です。当初橙色の14号線を右から左にバスで来て、信号の処で乗り換え、青色の30号線を北に上がり、最初の曲がり角で下ろされたのが茶戸里遺跡です。そこから右上に歩いていって、二つの池の真ん中あたりに赤いポチがありますが、そこがラムサール文化館でした。茶戸里遺跡はこのような湿地に広がる遺跡だったようです。
2011年04月24日
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2010.11.7(金海)国立金海博物館に行きました。三度目の訪問です。できるだけ写真も撮ったのですが、照明が暗くて鮮明なものがありません。ショックだったのが、私のブログのプロフィールに使っている「龍と亀の合体した神様」の模型(私は韓国のガメラだと呼んでいる)が撤去されていたということです。韓国では伝説上の動物ですが、悪者ではないんですよ。……ということを確かめに来たわけではないのです。国立博物館だったら、教えてくれるでしょ、ということでやってきたのです。でもそれは後回し。とりあえず展示を楽しみます。国立博物館は、古いということあって、デジタル機器はほとんどないですが、伽耶地域の各地域の代表的な遺物が展示されていて、贅沢です。これは侠川玉古墳群田出土の馬鈴。ちょっと見難いけど、文字や絵の描かれている土器はちゃんと出土している。慶尚大学の先生、話がちょっとちがうやん。ちなみにこれは普州大坪里遺跡から出てきた彩文土器です。青銅器時代の遺跡からは良く出てきます。これは勒島遺跡から出てきた板状鉄斧と鹿角製柄部刀である。よく覚えていないけど、この博物館で40分ほど瞑想して(寝て?)、小説の構想を練ったのを覚えている。よく覚えていないけど、主人公はこの金海の町で大事なことを学ぶことだけは外すことはできない。よく覚えていないけど、時代はやっぱり二世紀の初めしかないかな……ということになる。と、いうことはキムスロは100歳近いおじいちゃんか……。そんな瞑想?をしに来たのではなく、聞きたいことがあってきたのでした。これは鉄鉱石と製鉄のためのふいごの写真です。「鉄の産地はムルグムにあるらしいが、果たして尋ねることはできますか?」さすがに国立博物館、日本語ができる学芸員がいるだけでなく、質問に対してもインターネットを駆使しながらもなんとか答えてもらえた。「確かに鉄鉱石は梁山にもあるが、洛東河を渡って金海方面にも鉱山は延びているそうです。つい10数年前ぐらいまで鉱山があって、今は閉めています。」前人未到の山みたいで、どうやら訪ねるのは無理みたいです。諦める。(ムルグムはしかし、鉱山の観光資源化は検討されているらしい)下の写真は製鉄過程です。ここから行ける青銅器時代の遺跡ということで、茶戸里(タホリ)遺跡の行き方を詳しく聞いた。明日の午前中はそこに行く。「韓国の博物館は大きくて、最新のデジタル技術を使い、分かりやすく金を掛けたものが多いですね」と大坪里博物館のことなどを思いながら褒めてみると、この学芸員(女性)は、大成洞の学芸員と違いどうも高学歴なのを鼻に掛けているのが見え見えで「可愛くない」のです。「国の方針として民族の歴史を知らせ無くてはならないということになっていて、予算は出るのです。でも今の若者はただ展示しているだけならば通り過ぎるだけになってしまう。昔は博物館でメモをしている学生は多かったのに、今はほとんど見ない。今はどんどん馬鹿になっています」彼女は今の若者にそうとう批判的である。それはそのとおりだろうと思うのだけど、言外にデジタル技術を導入していない国立博物館を擁護しているだけとも思えなくありません。でもまあ、いくら民族主義が強いと言っても、この文化政策には賛成です。「(朱蒙なんかは)テレビの時代劇だということで笑いながら見ている。彼等はまるで朝鮮時代のような服装をしている。中学生とかが見学に来て解説するときには、テレビの時代劇を見て学習する人がいるけど、あれをそのまま信用しないでください、とは言っている。」私も建物が青銅器時代も朝鮮時代も同じなので、それはないだろうとは思っていた。国立博物館の隣には子供用の体験施設を作っていた。確かに文化施設には金を掛けている。民族主義の表れであろうとも、文化の発展にはリアルに自らの歴史を知る必要があるというのは真理である。これはぜひとも某政党も真似をして欲しい。すっかり暗くなった。歩いて宿方面に帰る途中、お洒落な喫茶店があったので入ってみる。韓国では押しなべて本格的なコーヒーは高い。ここで一番安いコーヒーはエスプレッソ。4000W。ちょっとした食事と同じ値段である。韓国の食堂の値段が安すぎるのか。何故このような値段体系になるのだろうか。これはインテリアではない。暖房機である。上の傘から輻射熱が来て、けっこう暖かい。韓国には珍しいデザインが時々ある。宿の近くでカルビタン(焼酎つき)を食べた。いまいち。朝食1,300 バス2,000 宿泊35,000 昼食5,500 本15,000 コーヒー4,000 夕食9,000合計 71,800w歩数 22,505歩これでしばらく韓国旅行レポートを一休みします。この連載の間に見た映画や企画、本がたまったせいです。これまでの連載で、旅の約三分の一がすみました。遺跡探訪は旅の前半でほぼ終わって、そのあとは気楽な韓国探訪になって行きます。早いうちに連載を再開したいと思います。
2011年01月24日
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2010.11.7(金海)大成洞(テソンドン)古墳群は釜山の福泉古墳群と同じく末山里古墳のような円墳ではありません。竪穴式の(木槨や石槨の)墓が丘の上に続いています。福泉のように高い山ではなく、ちょっとした丘にあるところが特徴です。丘の北のはずれにこの前来た時には気がつかなかった展示施設があったので入ってみました。そしたら、墓をそのまま移設保存展示していました。この丘は時代を経て墓の上に墓を作っているようなのですね。奥にある大成洞博物館ではきちんとしたジオラマがあって、そちらを見るとどれも殉死した(された?)従者が一緒に葬られているところが異様です。この博物館には、日本語が堪能なアジェンマ(おばさん)のガイドがいました。いや、大学の専攻は日本語学科だったらしく、今一生懸命考古学の勉強をしているとのことでした。いろんな専門的な質問にはあまり答えてくれませんでしたが、ついつい私の問題意識を語り始めてしまったり、私の疑問に「どうしてだろう……」と素直にあいづちを打ってくれたりして気持ちよかったので一時間以上もおしゃべりをしてしまいました。写真は木槨墓を作っている過程です。彼女は日本の埴輪の起源をいまだ「殉死者の代わりに始めた」と信じていました。日本人でもまだ居るかな?そういうことを知っていること自体彼女がしっかり日本の歴史を勉強しているという証拠なのですが、それにしても彼女の教科書は古い。写真は日本と鉄の交易をしている場面のジオラマです。大阪の船の埴輪を参考にして作ったそうです。現在では故近藤義郎教授が唱えた「継承祭器の特殊器台が変化して古墳の周りに置くようになり、それが変化して埴輪になった」という説が定説になっている。「えっ、そうなの?」「疑問に思うのならば、インターネットなどで調べてみて」「それじゃ、特殊器台という漢字を教えて」……というようなやり取りもありました。ここの博物館の展示は分かりやすいです。正直、国立博物館よりはよっぽど分かりやすい。ジオラマが多いのです。流石に大坪里青銅器博物館のようにはデジタル機器が使われていない。ここ6-7年の韓国デジタル事情がこういうところにも現れているのかもしれません。製鉄のジオラマも分かりやすく作られていました。もっともこのジオラマの元になった製鉄遺構は何世紀の遺跡なのかが分からない。木槨墓が作られると、巫女がその上でなにやら祈っています。王の継承儀式でしょうか。土器を割って墓に埋めるという儀式をしていたようです。当時の兵隊組織の服装を七種類ぐらいに分けて展示していました。これも根拠は何なのか分かりませんが、4Cだとしたら、なかなか重装備です。騎馬兵がいたのは確かなのでしょうが、そうだとしたらなかなか手ごわいでしょうね。ここの図録は思いもかけずに日本版でした。解説文で怪しい日本語もありますが、伽耶文化を知るには詳しい解説があってお得でした。博物館をでると、こんな建物がどーんとあって、一応中に入ってみました。そしたら、広島の被爆者の記念館みたいに名前がずらーとあって入り口のところに大きく「美しい名前を金海は永遠に忘れません」と書いている。うーん、良く分からないけど、全国の金海金氏の記念ドームみたいなものなのかな、とはあとで写真を見ながら思ったことです。これは明らかに寄付で建てられた建物だろうけど、その力のすごさに少したじたじです。
2011年01月23日
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2010.11.7(金海)首露王陵である。韓国ドラマ「キムスロ」さんの墓ですね。まるで昔からこんなりっぱな建物が周りを巡っているかのようであるが、2002年ごろに来た時には王陵だけがぽつねんとあったのを私は知っている。次に来た時には大きく変わっていて、まだ建築中でした。だからこの写真の門も石垣もまだ築6-7年です。さて、だんだんと韓国の歴史にも詳しくなってきた私は、この親切にも日本語で書かれている説明版を読んでおやおや、と思ったわけです。どこがおかしいか。読めますか。ここに書いているのは後世の歴史書「三国遺事」で書いていることをまるで歴史的な事実のように書いているのです。日本で言うと「古事記」で神武天皇の墓を説明しているようなものです。だからAD42年の誕生とか、AD199年に158歳でなくなったとかは全く怪しいものです。これが首露王陵だという根拠は唯一「平地にあること、領域が設定されていた点」のみみたいです。朝鮮時代で整備されて現在のような形になったということなので、最初から円墳かどうかというと、疑問です。大成洞古墳は竪穴式石室あるいは木槨墓です。よって初期の王陵も当然竪穴式木槨墓でしょう。と、いうようなことをこの後行く国立博物館の学芸員の方に聞きました。彼女によると「伽耶地域で円墳を造り出したのは新羅の影響が大きい。だから初期の伽耶の国である金海の古墳群は円墳ではないのです」とのことだった。(つまり暗にこの王陵の円墳としての根拠はないと言っていました)首露王陵はさすがに天皇の墓と同じような位置づけなのか、発掘調査はされていないらしい。もしこれが首露王陵だったとしても、円墳ではなかったことは確かでしょう。竪穴式木槨墓は日本の初期古墳に採用されている。いや弥生晩期の楯築遺跡も変形円墳だが、埋葬形態は木槨墓だった。一方で、金海の王族の墓に埋葬されていた遺物は日本の初期古墳群から出ていないと記憶している。すくなくとも楯築からは出ていない。墓を作る技術は持っていても、伽耶式の王族の祭を継承することは良しとはしない人物が楯築の王の主である。金海の武士階級が吉備にやって来たのではないか。そして二世紀後半金海の墓以上の巨大な個人墓を作った。その流れが箸墓古墳まで及ぶのではないか……。すみません。話がほとんど自己満足な妄想の世界に入っていったので元に戻します。遅い昼食を食べました。首露王陵前にある食堂で、テジクッパ(豚汁飯)。以前も金海で食べたときに出てきたのであるが、ここで副菜に生のたまねぎとししとうが出てくる。それをコチジャンみたいなお味噌(ここの店はかなり甘い。店によってこの味噌の味を変えているのかもしれない)をつけて食べる。美味しかった。公園入り口に許黄玉(キムスロのお后)の像があった。最近できたのだと思う。やはり三国遺事を根拠にして作っている。33年~189年のお人。昔の王族はどうしてこうも長寿なのだろう(「古事記」もそうです)。阿羅陀国(インド?)から来たということになっている。この公園を少し北に行くと大成洞(テソンドン)古墳群の上がり口があります。
2011年01月22日
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2010.11.7(金海)金海は、故ノムヒョン大統領の故郷ということもあるのか、近年急激に開発され出したけれども、普通の道端にまだこのように菊の鉢植えなどを置くような所がある。中心地もまだ田舎の雰囲気を残しています。土器探しで我を忘れて興奮し、すっかり時間を食ったので今日は金海泊に決めました。早く宿を決めようと思って中心地の韓屋体験館に行くと、中学生の団体がいて、伝統染物の布をキャーキャー言いながら乾かしていたり、矢を焼き物の筒に投げ入れる(?)という遊びをしていました。素泊まりで5万wならばここに泊まることも考えたのですが、事務所で資料を見ると、このような体験コースがセットで付いてきていて、大変お高いのですごすごと出て行くことにしました。ときはまさに実りの秋。韓屋体験館を出た道端には地方からトラックがやってきて、次々とこれらの農産物を駕籠売りし始めました。これはホバクコグマ。かぼちゃサツマイモ、とでもいう種類のサツマイモらしい。大きいです。(値段は付いていなかった)すぐ近くの密陽はりんごの産地だったはず。この地方でもりんごを沢山作っているのだろうか。この駕籠5000w(400円)は安いと思います。一人旅、しかも毎日宿を代える私ですので、とうてい買うことはできません。ふらふらと体験館隣の民俗博物館に入った。前来た時には月曜で休みだったのです。左はパントル(パン焼き石)、おそらく二日前に咸安で食べた「昔なつかし菊花プルパン」の大きいタイプの焼き器だと思う(前の記事では国花プルパンと書いたけど菊花の間違いでした)。アルミニウムの弁当箱と一緒に軍隊用の飯盒などもおいてある。飯ごうごはんはどうやら韓国の古い男にとっては郷愁を誘うものらしい。釜山の学生街でそういうことを主張するランチを食べたことがある。昔ながらの「とっぽん便所」も再現していた。トイレの形は45年前の我が家の便所とよく似ている。ただし、私のところは肥桶は外にあって外から取れるようになっていたように思う。首露の墓の前に、この前来た時にはなかった観光案内所があった。歩いていけるモーテルの場所を聞くことにした。以前きたときに墓の料金所で聞いたときにはモーテル街は遠く離れたところにしかないという説明で、そこまで二時間かけて歩いていったことがある。今回はそんな愚は犯したくなかった。歩いていけるところで高くても3万5千w以下という条件を言うと、少し無理をして交渉してくれて4万Wのホテルを5千Wおまけしてもらった。ところが、書いてもらった地図がいいかげんで、それから一時間以上探し回ることになった。結局金海では宿は簡単に見つからないということか。この写真はそのとき通った市場の値段。野菜は決して安くはない。このレタスなんか二個240円だ。韓国の感覚からしたらとっても高いだろう。モーテルを探してウロウロ歩いていたらハルモニ(おばあちゃん)が私を呼び止めた。どうやら段差があって手押し車が前に行かないらしい。ひょいと持上げて道路に下ろしてあげる。「ありがとうよ」という感じでさっさっとおばあちゃんは向こうに歩いていった。カメラが間に合わなくて、車の右に上半身だけ写っているのがおばあちゃんです。もちろん普通のことをしたのだけど、日本のおばあちゃんのことを考えたのです。日本のおばあちゃんは道ゆく人にこういうこを気軽に頼めるだろうか。やっとモーテルに着いた。何人もの人に場所を聞いて見つけることができた。歓楽街にあるモーテルなのだが、さすがに本来は4万w。綺麗だし、インターネットはできるようになっている。やっとリュックサックを置いて、金海の町に繰り出すことにした。
2011年01月21日
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11月7日(日)晴れ8時のバスで金海に向う。切符はこれである。⇒の左が釜山で、右が金海という意味である。金海と書いて「キメ」と読む。最初の文字が「金(キm)」で次が「海(へ)」という漢字に対応している。連音して「キメ」になるのである。その右にくっついているのは、隣接しているスーパーの宣伝なのであるが、今回つくづく見てこれが「アップル」というファッションアウトレットの店だということを初めて知った。わりと大型のアウトレット店なのであるが、韓国でも出来ていたんだと認識を新たにする。朝飯はアウトレット店前のファミリーマートで買ったお握りとコーヒー。セットで買うとコーヒーが少し安くなる。金海バスセンターにはやっぱりコインロッカーはなかった。韓国ではロッカーは本当に少ない。金海は三回目である。だから本当は此処は半日で済ませるつもりだったので、バスセンターに荷物を置こうと思ったのだ。結果的に半日ですむということには(思いがけないことが多く重なり)ならなかったのである。大判の図録が五冊入ってぱんぱんに張ったリュックサックを背負って先ずは歩いて鳳凰洞(ポンファンドン)遺跡に向う。以前来たとき、ここの山には登ったが、その周りは整備中だったので行かなかったのである。上の写真は鳳凰貝塚の整備前の写真。これは整備後の写真である。今回私はこの山の下側をぐるりと歩くことにした。鳳凰洞遺跡周辺はいまや遺跡公園になっている。この一帯は韓国で(一番大きい?)貝塚だったので、もしや、と思い斜面を削ってみるとびっくり!!!一発でこんなものが出土した!!山に上がる階段の下で出土したのではあるが、これは明らかに韓国土器特有の甑の「とって」の部分です。つまり(おそらく)このような土器のとってだと思われる。(国立金海博物館より)国立金海博物館ではなぜか独立の展示までしていた。めずらしい出土物ではないと思うのだが何故なんだろう。そのあと場所を移動して公園から離れて民家の畑の前を歩いてみた。そしたら、耕すと畑から続々土器が出てくるのでしょうか、溝に沿って土器らしきものがたくさんうち捨てられています。この民家では畑の横にこんな土製の竈を作っていました。日本ではむかし庭で秋刀魚を焼くことはあるけど、煮炊きをする竈を置くことはあったろうか。ぐるっと南を回ると同じ貝塚のはずだが、このあたりは会?里(ヘヒョン二)貝塚という名前になっている。貝塚展示館が出来いました。そこでは、土器の展示はなくて、貝塚の土層をそのまま展示していました。こんな感じで、ここは本当に広範囲にしかも深く何百年にも渡って貝塚の層があるのだと分かります。普通に歩くだけでいくらでも土器を拾うことが出来ます。この貝塚は説明文を読むと、1907年、日本人の今西龍より発見され、戦前だけでも八次に渡る学術調査が行われたらしい。そういう関係からか、日本文の説明もあるし、非常に考古学的な説明文になっている。写真は1914年の鳳凰台の姿。展示館の横の山に登る坂の斜面を探してみると、動物の骨がありました。草食動物のような骨でした。結局、この日拾った土器、遺物は以上の通りです。いや……本来、日本に持ち帰ってはいけないものです。日本の文化財保護法では拾ったものであるにせよ、関係者に渡さなくてはなりません。おそらく韓国でも同様の法律があるはずです。分かっています、分かっているんですが、このあと行った大成洞古墳博物館の学芸員の方にも見せたけど、「あっ、甑の土器だねえ」とか「牛の骨かしら」という感想だったんですよ。そのとき、子供も「これ、土器かな」と言って土器を持ってきて、確認すると喜んで持って帰っていました。お咎めはなかったので、まあ大目に見てやってください。
2011年01月20日
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2010.11.6(蔚山・釜山)博物館の前には、実際の福泉古墳群が並んでいる。4C-6Cの古墳群なのだが、なぜか咸安やこれから行きたいと思っている高麗の池山洞古墳群のような円墳ではなく、丘陵に竪穴式の墓が並んでいるのである。総て竪穴式の木槨墓か石槨墓である。竪穴式式の墓は朝鮮半島のほうが日本より早かった。そして3世紀半ばから伽耶地方から大型の石槨墓も始まる。大和で竪穴式石室が始まるのは、三世紀末。一方、百済の古墳は横穴式石室である。新羅のそれは積石木槨墳である。これは大和政権が明確に伽耶の影響下で発生したことを示しているのではないか、という説もある。(私は木槨墓は新羅からもでているのだから、そうとは言い切れないと思っている)前回時間がなくて歩かなかったので、初めてこの王墓の丘を散策した。中央にあるドームの中には、木槨墓(54号墳)と石槨墓(53号墳)が発掘当時そのままで展示されていた。特に54号墳には「殉死」の跡が残っていた。4Cの朝鮮半島で殉死の風習があることにショックを覚える。明らかに倭とは違いがある。日本では殉死はなかったはずだ。そういえば、韓国では埴輪を墓の周りに立てる習慣はないようだ。(殉死に付いては他の遺跡でまた考えます)青銅器文化時代から王権が育ち、個人の威信を高める様々な装置が発生し、殉死さえも見せる朝鮮半島。弥生の中期から王権が育ち始め、後期にいたって近畿まで広がるも、朝鮮半島の王としての威信財はその初期段階ではほとんど伝わらずに、共同体的な祭の古墳を作り出した日本。朝鮮半島と似ている部分とかけ離れている部分。それが何故起きたのか、そこの部分がとっても面白い。今日の遺跡めぐりはこれで終わり。釜山に泊まることにした。沙上駅にもどり、マックで日記を書いた。やっぱり若者が多い。そのあと、モーテルに泊まろうかどうしようかと思ったが、土曜日なのでモーテルが5000w増しになる可能性がある。昨日のビチモーテルのとなりの旅館にした。25000wのわりには部屋は綺麗だ。バスルームも比較的綺麗だ。これは当たりだった。旅館選びはつくづく「博打」だと思う。丁と出るか、半と出るか。ビチモーテルの前、沙上のヨンナムジャン旅館、覚えておこう。バスターミナルのそばという絶好の立地。これからの釜山の定宿の候補の一つだ。昨日お金を使いすぎたので、今日の夕食はコンビニで済ませることにした。チンロとC1とこの「チョウンデイ」を飲み比べてきたけれども、このチョウンデイが最も美味しい。しかしツマミは失敗した。安くて美味くて腹が膨れるツマミはないものか。コインロッカー1,000 バス2,000 タクシー10,000 昼食6,000 バス1,700 バス1,700 マック2,000 夕食3,750 泊まり25,000合計 52,150w歩数 11,356歩
2011年01月19日
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