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師走の風のなか、三万人以上の首切り(厚生省調べ)の世を歩いていると、同じように感じる人が多いのか、薔薇豪城さんもあの人のことを書いている。自意識自意識が大きくなると、「あたかも炎症を起こしているかのように腫れあがっており、今や風に当たっても痛いという「自意識の痛風」に陥って」行くと言う。元厚労相幹部を殺してしまった小泉某もその類だと言うのである。私のいうあの人とは小泉某のことではなく、ましてや小泉躁のことでもなく、同じく自意識過剰気味の知識人夏目漱石のことでもなく、やはりおおきく自意識過剰気味のところもあった石川啄木のことである。このまえ、石川啄木の「一握の砂」を買った。初版本の体裁(四首見開き)で作り直した文庫オリジナルである。一握の砂この歌集に恋愛の典型を見る人もいるかもしれない。けれども、私は今回読んでみて、石川某は一歩間違えれば、小泉某や加藤某になったかもやと思った。もちろん、かれは自分の感情をみごとな三行詩にまとめる力がある。その前で止まることは出来ただろうと思う。そして結核症による全身衰弱で石川啄木はは26歳で死んでしまう。その点ではまさに格差と貧困の犠牲者でもあった。次に紹介する詩を書き写しながら、現代に甦る青年を見た気がする。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふこみ合える電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心いつも遇ふ電車の中の小男の稜(かど)ある眼このごろ気になる鏡屋の前に来てふと驚きぬ見すぼらしげに歩むものかもこころよく人を讃めてみたくなりにけり利己の心に倦めるさびしさ大いなる彼の身体が憎かりきその前にゆきて物を言ふ時 「彼」とは東京朝日新聞主筆、池辺三山。会社の上司である。気の変わる人に仕えてつくづくとわが世がいやになりにけるかなつかれたる牛のよだれはたらたらと千万年も尽きざるごとし一度でも我に頭下げさせし人みな死ねといのりてしことあまりある才を抱きて妻のためおもひわずらふ友をかなしむ たぶんこれは自分のことだろう。打ち明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬどんよりとくもれる空を見ていしに人を殺したくなりにけるかなはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見るこの次の休日(やすみ)に1日寝てみむと思ひすごしぬ三年(みとせ)このかた友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむなにかひとつ不思議を示し人みなおどろくひまに消えむと思ふわが抱く思想はすべて金なきに因するごとし秋の風吹く どうだろうか。なんか無差別殺傷事件を起こした者の遺した歌に見えないだろうか。
2008年12月03日
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「魔王」の発表が2004年の12月。小泉という時代の申し子が自民党に歴史的な大量得票を与えた一年前に、伊坂はこれを書いた。犬養という歯に衣をを着せぬ言動で急激に人気急上昇中の野党政治家について、主人公の安藤はこのように言う。「国民は犬養の思うがままに誘導される。説明もないのに、いいように解釈して、物分りがよく、いつの間にかとんでもないところに誘導される。「まだ大丈夫、まだ大丈夫」「仕方ないよ。こんな状況なんだし」となんて思っているうちに、とんでもないことになる。」今回の伊坂のテーマは「政治」である。この文庫収録の安藤弟が主人公の続編「呼吸」では、犬養は首相になっていて、国民投票がテーマになる。「魔王」伊坂幸太郎 講談社文庫 (「BOOK」データベースより)会社員の安藤は弟の潤也と二人で暮らしていた。自分が念じれば、それを相手が必ず口に出すことに偶然気がついた安藤は、その能力を携えて、一人の男に近づいていった。五年後の潤也の姿を描いた「呼吸」とともに綴られる、何気ない日常生活に流されることの危うさ。新たなる小説の可能性を追求した物語。主人公が冒頭のようなことを言っていたからといって、この小説は反ファシズムを訴えた作品だと判断すると、いつものように読者はどこかに置いてけぼりを食うだろう。だけど、単にゲームのように愉しめばいいのだ、と思っている読者がいたら、やはりそれも置いてけぼりを食う。言い換えれば、この微妙な匙加減が、伊坂幸太郎という小説家が現代に受けている秘密なのだろうと思う。伊坂はなかなか本音を見せない。そしてとても頭がいい。そしてとても誠実である。一言で言えば、現代的に「やさしい」のである。伊坂の立ち位置はどこか。私はそれを見つけたような気がした。主人公の兄弟の言葉ではなく、弟の奥さんのこの言葉がそうなのではないか。少し長いが、引用したい。「ムッソリーニの話なんだけど」店を出て、会社まで歩いているところで、蜜代っちが言った。「犬養?」「ううん、今度は本物のムッソリーニ」彼女は笑う。「ムッソリーニは最後、恋人のクラレッタと一緒に銃殺されて、死体は広場に晒されたらしいんだよね」「あらら」「群衆がさ、その死体につばを吐いたり、叩いたりして。で、そのうちにね死体が逆さにつるされたんだって。そうするとクレラッタのスカートがめくれてね」「あらら」「群集はさ、大喜びだったんだってさ。いいぞ、下着が丸見えだ、とか興奮したんじゃないの。いつの時代もそういうノリなんだよ、男たちは。いや、女たちもそうだったんだろうね。ただ、そのときにね、一人ブーイングされながら梯子に昇って、スカートを戻して、自分のベルトで縛って、めくれないようにしてあげた人がいたんだって」「あらら」私は言いながらも、そのときのその人の立つ状況を思い浮かべ、その度胸に圧倒された。「それはまた勇敢な」お前はその女の肩を持つのか、と罵倒され、暴力をふるわれても文句が言えない場面だったのではないか。「まあ、実話かどうかわからないけど、なんだか偉いなあ、とは思うのよね」蜜代っちは大切なものに息を吹きかけるような口ぶりだった。「実は、わたしはいつも、せめてそういう人間にはなりたいな、と思っていたんだ」「スカートを直す人間に、ってこと?」「ほかの人が暴れたり、騒いだりするのはとめられないでしょ。そこまでの勇気はないよ。ただ、せめてさ、スカートがめくれているのくらいは直してあげられるような、まあ、それは無理でも、スカートを直してあげたい、と思うことぐらいはできる人間でいたいなって、思うんだよね」この人気絶頂の時期に、敢えて、小泉人気に棹差すような小説を、しかしスカートを直すだけの小説を、しかし影響力ははあるからとても効果的な反ファシズムの小説を作る、それが伊坂幸太郎の立ち位置なのだ。この小説の50年後の世界、「モダンタイムズ」が上梓されたという。どういう小説なのだろう。興味はあるがやはり文庫になるまで待つんだろうな。
2008年11月16日
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いつからこんなに涙もろくなったのだろうか。人が死ぬ話の「その日のまえに」を読んだときには、死ぬ話だから当たり前だと思っていた。けれどもこの短編集では、ひとは一人しか死なない。けれども、やっぱり喫茶店や食堂でずいぶんとごまかすのに苦労した。私は家で本を読む習慣を持っていない。もう20数年間、食べる時間が読書の時間であり、ふとした待ち時間が読書の時間だった。だからどうしても人前で読んでしまう。小学生から、中学生にかけて、いじめや、誇りや、不安や、後悔、そしてぱっと世界が開けたときの感動、そんなことに触れて涙がでて止まらない。きみの友だち新潮文庫 重松清重松清は本当にずるい文章を書く。ピュアな彼女や彼らたちが、試練に会う。そして克服していく。押し付けでない感動にやられてしまう。私が子供の頃には「いじめ」という高度に洗練された社会的なパワハラはなかった。と私には思える。だから彼ら彼女たちが極度に「一人ぼっち」を恐れる心情をイマイチ理解しきれていないと思う。でも、「小さい者たち」が必死に頑張る姿にはやはり世代を超えて訴えるものがあるだろう。これは、映画化されているという。この群像劇をどのように処理しているのか、何とか時間を見つけてみて観たい。
2008年10月20日
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本当は長い長い前ふりを書こうと思っていた。例によって、本の内容とは直接関係ないことで、私の経験のことを書こうと思っていた。けれども、書こうとして書けなくなった。覚えていないということではない。もう2年半前になるけど、はっきりとあのときの会話や気持や風景は覚えていて、決して忘れない10分間ほどの時間だった。きっちり書けば軽く制限の5,000字を越える。書くことで、この本の本質も伝えることが出来るかもしれないし、私にも防備録になるし、父親が生きていた証にもなるかもしれない‥‥‥。父から病気のことを教えてもらったときのことである。でも書けなくなった。不遜だと思った。馬鹿なことを考えていたと後悔した。よってこの本のこの一節を書き写して、この本の紹介としたい。この本は、ガンで死んでいく人々のことを扱った連作短編集である。その日のまえに 精密検査の結果が出るまでの一週間で、最悪の事態の想像は、塗り絵を仕上げるようにあらかた済ませていた。毎晩、会社帰りに一人でカラオケボックスに入った。マイクがハウリングを起こすほどの大声で叫び、ソファーのクッションを壁に何度もぶつけ、タンバリンで頭をめちゃくちゃに叩いた。運命としか名づけられないものにありったけの罵詈雑言を浴びせたあと、子供のように泣きじゃくった夜もある。自ら望んだ告知も断ろうかと携帯電話を何度も開いたが、そのたびに、妻に重荷を背負わせるのはずるいだろうと思いなおした。自分が死んでしまうことよりも、父親を喪ってしまう子供たちの悲しみのほうが胸に迫る。子供たちの寝顔を見た後はトイレに入って涙ぐみ、朝になって「おはよう」の挨拶を交わしたあとは洗面所で顔を洗いながら、やはり涙ぐんだ。 そんな一週間を過ごしたせいか、実際に告知を受けてみると、自分でも驚くほど感情は平坦だった。冷静に事態を理解して受け止めているというより、感情のどこに爪立てればいいのかわからない。「胸にぽっかりと穴が開く」と言うのは、ただ言葉だけのものではないのだと初めて知った。例えば、「潮騒」の主人公の男はこのように反応した。ひとりひとりに不幸は違う色でやってくる。小説だからこそ書けることがある。重松清以上に私にそのことが表現できるはずもない。不遜だったというのはそのことだ。「電車のかなでは決して読んではいけない小説」と言うことで、テレビで紹介されたらしい。その通りだと思う。それに付け足していう。イオンショッピングセンターのフードコーナーのような人前では決して読んではいけない本である。
2008年10月06日
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今日は世間一般では衣替えである。台風が近づいて来ているというのに、ビルの切れ目は雲ひとつない高い空。夏が去り、秋が来た。少し長いけれども、夏の終わりに紹介しようと思っていた詩を書き写す。1950年18歳の少年の詩である。ネロ 愛された小さな犬にネロもうじき又夏がやってくるお前の舌お前の眼お前の寝姿が今はっきりと僕の前によみがえるお前はたった二回ほど夏を知っただけだった僕はもう十八回の夏を知っているそして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出しているメゾンラフィットの夏淀の夏ウィリアムスバーグの夏オランの夏そして僕は考える人間はもう何回位の夏を知っているのだろうとネロもうじき又夏がやってくるしかしそれはお前のいた夏ではない又別の夏全く別の夏なのだ新しい夏がやってくるそして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく美しいこと みにくいこと 僕を元気付けてくれるようなこと 僕をかなしくするようなことそして僕は質問するいったい何だろういったい何故だろういったいどうすべきなのだろうとネロお前は死んだ誰にも知られないようにひとりで遠くへ行ってお前の声お前の感触お前の気持までもが今はっきりと僕の前によみがえるしかしネロもうじき又夏がやってくる新しい無限に広い夏がやってくるそして僕はやっぱり歩いてゆくだろう新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ春をむかえ さらに新しい夏に期待してすべての新しいことを知るためにそしてすべての僕の質問に自ら答えるために1950年、不登校の息子に業を煮やした評論家の谷川徹三が「お前はどうする気なんだ、大学にも行かないで」と問い詰めた。息子はやむえず「僕はこういうものを書いています」と二冊のノートを差し出す。それを読んだ徹三は友人の三好達治に相談し、その年「文学界」という雑誌に息子の詩が六篇載る。そのうちの一編がこの詩であり、そのノートはやがて詩人谷川俊太郎の処女詩集になる。二十億光年の孤独ここにあるのは、みずみずしい感性を持った若者が人生の朱夏の入り口で畏れそして決意しているさまである。そして僕は質問するいったい何だろういったい何故だろういったいどうすべきなのだろうと若者はそうして戦後の荒波の中に入っていき、58年が過ぎた。私なんかは夏が終わり、人生の白秋をむかえつつある現在、資本主義の矛盾が何度も何度も新しい段階を迎え改憲さえ叫ばれ、先が見えないこの世の中はなんなのだろう、何故なんだろう、どうしたらよいのだろう、と未だに彷徨している。世の中に新しい谷川少年はいるだろうか。
2008年10月01日
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震度0横山秀夫 朝日文庫横山秀夫は文庫本になるとかならず読むことにしている作家の一人。この朝日文庫に関して言えば、同じく読むことにしている宮部みゆきの「理由」が朝日文庫だった。「理由」は視点(語り手)をくるくると変えながら、事件の本質を抉り出し、同時にその過程で家族をめぐる日本の姿を抉り出した力作であった。この小説も(「理由」ほど登場人物は多くないが)N県警察本部の6人の主要幹部(本部長警務部長警備部長刑事部長生活安全部長交通部長)の視点でくるくる変えながら、事件の本当の姿に近づいていく。(「BOOK」データベースより)阪神大震災の前日、N県警警務課長・不破義仁が姿を消した。県警の内部事情に通じ、人望も厚い不破が、なぜいなくなったのか?本部長をはじめ、キャリア組、準キャリア組、叩き上げ、それぞれの県警幹部たちの思惑が複雑に交差する…。組織と個人の本質を鋭くえぐる本格警察サスペンス。 結局この本で言いたいのは、最後の方である人の言うこの言葉に尽きるだろう。以下完全ネタバレです。犯人がわかってもOKという人だけ反転してください。行方不明の不破の奥さんは言う。「主人から色々聞かされていましたので、役所のことも分っているつもりでした。でも、ひとりも心配してくれないなんて‥‥‥。役所の人があまりにも身勝手に感じられて‥‥‥。同じ役所の人間がいなくなっているというのに、生きているか死んでいるかもわからないのに、手帳はどうした、机を開けろ、新聞記者に気づかれるな、役所のために嘘をつけって‥‥‥」不祥事が起きたならば、将来がなくなるのが警察幹部である。だから彼らの行動は「保身」が最優先される。「命」が優先されない。泰山鳴動し、遠く離れた神戸では5000人以上の人が死につつあったそのときに、この警察官舎では鼠一匹ならぬつまらぬ男の欲がらみの意地だけが残るのである。横山秀夫の小説は「男の意地」つまり「矜持」を美しく謳いあげる小説が多いが、この小説は見事に「汚く」描いている。その意味では、この6人の物語は、現代の霞ヶ関の5人の物語にかぶるだろう。さて、明日の夜から深夜バスで日曜の夜まで千葉の方に出張です。もしかしたら、明日の夕方もう一本記事がかけるかもしれませんが、一応月曜まで記事はお休みです。空いている時間で、千葉の遺跡めぐりをする予定です。
2008年09月10日
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容疑者Xの献身東野圭吾 文春文庫直木賞受賞作である。しかも今秋映画化。ついつい買って、一週間目。最後の半分はつい今さっきまで読んでいました。面白いことは面白い。けれども、東野圭吾の最高傑作ではない。結局は単なる謎解き小説に終わっている。私が湯川学「ガリレオ」シリーズよりも、『私が彼を殺した』『悪意』『眠りの森』などの加賀恭一郎シリーズが好きだということも影響している。直木賞はやはり「白夜行」のときに上げるべきであった。ついでに言えば、萩原浩や北村薫にもさっさと上げるべきだ。話がそれた。この小説は、こんな粗筋である。花岡靖子は娘・美里とアパートでの二人暮らし。物語は靖子の元夫、富樫慎二が彼女の居所を突き止め、訪ねてきた事から始まる。どこに引っ越しても疫病神のように現れ、暴力を振るう富樫を靖子と美里は大喧嘩の末、殺してしまう。今後の成り行きを想像し呆然とする母子に救いの手を差し伸べたのは、隣人の天才数学者・石神だった。最初に犯罪の首謀者が割れている。あとは探偵がどのように犯人を追い詰めるのか、と言う話だと思っていたら、やはりしっぺ返しをくう。意外性があるからこそ、最後まで本を置くことができないのではあるが、じつは最後はあまり意外性が無い。これだと映画化されたとき、必ず原作より違う話になるはずである。そうでないと、原作を読んで映画を見た観客からブーイングが起こるだろう。そこで映画のラストについて推理してみる。物語の鍵を握る石神哲哉には堤真一を配している。彼の演技の幅は広い。けれども一貫して朴訥な人物を演じているのでその路線で行くだろう。問題は北村一輝が柴咲コウの相棒刑事草薙俊平役になっていることである。原作では柴咲コウの役を草薙俊平がするのではあるが、草薙俊平は今回は独断でいろいろと動くので少し癖のある北村一輝を配したのだろう。となると、草薙俊平が暴走して石神を殺すことになるのだろうか。彼が一人で石神を追い詰め、石神は「計算通り」に自殺するのである。まあありふれた脚本ではある。もうひとつの可能性は、石神は実は人間を愛したのではない。と言う結末なのであるが、これは十分「論理的」なのであるし、意外性はあるし、シュールなのだが、いかんせん、人間的ではないので脚本的にはイマイチである。さて、結果はいかに。あと二ヵ月半後に分ります。この原作で、感動作は作れないと思うのであるが、果たして私を裏切ってくれるだろうか。
2008年08月19日
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今日で初盆が終わりました。こちらでは盆のことを「ぼに」と言います。こちらだけなのでしょうか。去年年末から今年にかけて、父親の病床の前で読んでいた本のひとつはあさのあつこの本でした。基本的にあっという間に読める本が良かったのです。あっという間に三冊読みました。 「The manzai」の三巻目と四巻目。ボケの貴史とツッコミの歩―。中学生のにわか漫才コンビ「ロミジュリ」を中心に繰り広げられる、ちょっと切なくてかなり笑える青春ストーリーである。なかなか癒された。二年前に「あさのあつこのデビュー作「ほたる館物語」」と言う記事を書いていて、じつは二巻目もひそかに読んでいたのだが、このとき三巻目が文庫版になっていて、読んでみた。主人公の一子は、山のおばあさんが未だに息子の修平が出征するときに「生きて帰って欲しい」と一言言わなかったことを悔いていることを知る。一人暮らしのおばあさんは未だにそのことで毎日苦しんでいる。一子たちはそのことを学級新聞に書こうと決心するのだが‥‥‥。少年少女のために物語を書き続けてきたあさのは決して説教くさい物語は書かない。今日届いた講談社からのMLであさのが最新文庫の宣伝で、このような文を書いていた。昨日「(戦争を引き起こす)芽は育ち始めているのかもしれない」と書いたが、あさのあつこも同じような問題意識を持っているような気がする。『NO.6 #4』を書いていたころ、いや、このシリーズを書いている間中、わたしはずっと「希望」ということを考え続けていました。 希望とは未来を信じること。 今のこの世界で、わたしは本気で未来を信じながら、ものを書いているのだろうかと。今でも考えています。(このシリーズ、まだ続いているものですから)。 考えても、考えても、どうにも答えがつかめません。 絶望しているわけではないのです。こんな時代ですから、危機感は相応にもっているつもりなのですが(的確ではないかもしれませんが)、絶望しているわけでも、諦めているわけでもないのです。でも、真実の希望をどこまで 手にしているかと問われれば、首を傾けるしかないのです。心許ない話なの ですが……。 飢餓、戦争、破壊、貧困、殺人、絶望……。 人の内側でも外側でも、変化はおこり、大きくうねり、わたしたちは急流に浮かぶ笹舟のように、いつ渦に巻き込まれてもおかしくないような日常を送っています。 『NO.6 #1』を書き始めたころ、まだ微かでも瞬いていた希望の光は、もはや、わたしの視力では捉え難くなりました。 わたしの視力が鈍ったのか、 光が衰えたのか。 あれ? またなにやら、愚痴っぽくなってきました。用心、用心。物語は愚痴やら言い訳をなにより忌み嫌います。同時に、未来を信じるための足掻きを促すのです。 こんなものさと斜に構えたところからも、どうでもいいやと投げ捨てたところからも、物語は生育しません。僅かな光に目を細め、そろりと半歩、進みだす。その半歩からしか生まれないのです。 自分の半歩を信じることが、未来を信じることとどこかで繋がるのかもしれません。 この物語を読んでくれたあなたとともに、そろりと半歩、踏み出してみましょうか 二〇〇八年 夏さて、今日で柔道が終わった。男子は二個しかメダルが取れなかった。あとは全部初戦近くで敗退。それは、日本柔道が世界柔道に負けた、と言うことではない。心技体が必要な柔道なのに、特に心が無かったためである。それだけだ。(田村に関しては心ではなく、たいが無かった)ともかくいつものことだけど、これで私のオリンピックは終わり。明日からたった三日間だけど、今年初めてのぶらぶら旅に出かける。大阪辺りをうろつこうと思う。もしかしたら、メールで記事を書くかも。
2008年08月15日
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剣客商売(6)池波正太郎 新潮文庫藤沢周平を久しぶりに読んだあとに、久しぶりに池波正太郎を読みたくなった。藤沢ほどではないけれども、池波も大好きな作家で、「仕掛け人・藤枝梅安」は最終巻まで、「鬼平犯科帳」は20巻ぐらいまで、そしてこの「剣客商売」シリーズは5巻まで読んでいた。まだテレビシリーズが始まる前である。池波正太郎にはまた池波なりの味があって、男気があって好きなのだ。気持ちのいい保守主義を愉しむという面もある。「剣客商売」は63才ながらまだ剣の腕前は人を寄せ付けない秋山小兵衛と朴訥の息子である剣豪秋山大治郎に、田沼意次やその娘の三冬が絡み、いろんな事件を解決していくというもの。田沼意次がまだ収賄政治家の象徴のようにみられていた時に、この作品ではいち早く経済手腕に優れた政治家として登場させている。小兵衛は世間の酸いも辛いもよくわかった御仁で、しかも若い女房を嫁にして全然ストイックではない。この巻ではついに大治郎と三冬が結婚に至る。その祝いの席で田沼意次は小兵衛に囁く。結婚に至るきっかけになった事件について曰く、「今このときになって抜け荷が行なわれるとは、つくづく情けない。一日も早く国を開き、異国との交易を盛んにしなくては、いまに日本の天下は立ち行くことがかなわなくなる。そのときを夢見て、私も働いているのじゃが、なかなか思うようには行かぬ」田沼意次が開国論者だと描いて見せるのである。日本はそれから何10年もたったあとに開国に踏み切るわけだから、先を見通した政治家であった、といいたいのだろう。真偽はともかくとして、池波らしい政治家像である。またあるとき小兵衛は嘆息して曰く「戦国の世が終わり、徳川将軍の下に天下泰平が何百年と続いているのは結構なことだが‥‥‥わしはな、かえって戦乱絶え間なかった頃の方が、人のいのちの重さ大切さがよくわかっていたようなきがするのじゃ。今は戦の恐ろしさは消え果た代わりに、天下泰平になれて、生死の意義を忘れた人それぞれが、恐ろしいことを平気でしてのけるようになった。」戦争を潜り抜けた池波が言うから説得力がある。池波正太郎が自民党支持者であったのは、本人が何度も書いているから、明らかである。けれども池波は決して弱いものいじめは許さない。政治家の奢りは許さない。池波のような人ならば、十分に納得できる保守主義者である。池波は時々エッセイで、自民党の腐敗ぶりついては苦言を呈していた。どんな人がいうよりも、池波のような人がいえば自民党も堪えただろう。惜しい人を亡くした。もうずっと前だけど。
2008年08月11日
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時雨みち藤沢周平 新潮文庫映画「山桜」を観て、藤沢周平フリークの私としては、読んだ覚えの無い話だったので、原作本を買ってみた。はたしてあと数冊残っているはずの未読本の一冊だった。久しぶりに藤沢周平の世界を堪能する。全体的に「意外なラスト」集だといっていい。海外サスペンスがすきだった藤沢の面目躍如たる短編集である。「山桜」に関して言えば、やはり原作が上だった。映画の田中麗奈はがんばってはいるのだか、例えばラストの処理など原作の方がはるかに印象に残る終わり方なのである。映画の方が優れていると思ったのは、原作には無い嫁ぎ先の姑の人物造型である。磯村の姑を永島暎子が演じていて、いかにも憎たらしげでしかもプライドもある役。富司純子が演じる東山紀之の母親と好対照になっていた。以下幾つかの短篇を選んで短評。「帰還せず」まるで「第三の男」みたいな展開。藤沢らしいのは、男が死んだあとに女の情が残るところ。「飛べ、佐五郎」KYな男の顛末。「滴る汗」秀作である。慎重の上にも慎重を重ねた公儀隠密に掛けられる初めての疑い。の可能性。彼は唯一の証拠をどのように処理するか‥‥‥。一人称で語る文体。男がどこで間違えたのか。それは客観的な読者であるわれわれは知っている。「幼い声」ちょっと意外なラスト。「新ちゃん、またね」といったその声だけが後々残るという仕組み。「亭主の仲間」映画「ノーカントリー」を思い出した。明確な根拠の無い、底なしの悪意と言うのはどこかに存在するのかもしれない。「おさんが呼ぶ」題名から察するに最後は失語症の「おさんが呼ぶ」のだろうと推測する。男に愛の告白をするのだろうか、しかしこの時代にはそぐわないと否定する。男が危機のときに思わず叫ぶのだろうか‥‥‥。というような最後の場面を想像しながら読んだ。ラストは意外にも‥‥‥。
2008年08月07日
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「ららら科学の子」矢作俊彦 文春文庫1968年から1998年へ。タイムスリップをした男がいた。実際にはSF的な仕掛けではない。20歳から50歳へ。中国に密入国していた男が30年ぶりに日本に帰ったのである。その事情を含め中国の闇組織との対決を縦軸に、30年ぶりに見る日本の男の新鮮な驚きを横軸にすすめる小説。男の新鮮な驚きが面白い。吉野家の宣伝の布にカラーの写真がついていることに驚く。携帯やパソコンに驚く。長嶋や王が監督に、田淵は引退、星野は中日の監督になっていて、みんな年寄りになっていることに驚く。コンビニに入る。「店内はものすごく明るく、ガラス戸のついた冷蔵庫に囲まれていた。そこに食べ物と飲み物がぎっしりつまっていた。棚には、菓子とインスタント食品、日用品が並んでいた。あまりの種類に彼はたじろいだ。声を出したら、物が一斉に襲い掛かってくるのではないか。彼はひそかにおびえた。」アメリカの政府首脳がアラブ諸国を「ならず者国家」と悪いように言うのが彼にはピンと来ない。「昔の映画だと、かっこいい主人公はみんなならず者だったんだ。お尋ね者とか流れ者とか。相手を悪く言うのは、ちょっと違うんじゃないかと思ってさ。」「明け方、昔のドキュメンタリーの再放送で、彼は佐藤栄作がノーベル平和賞を採ったことを知った。思わずベッドの上に跳ね起きた。確かにあの首相だった。沖縄返還と引き換えに、アメリカに日本を売り渡そうとしていた男だった。」等々の描写が続く。ちょっと長いけれども退屈せずに読むことが出来た。
2008年08月06日
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暑い。窓を開け放して寝ても、全然涼しくはない。昨日はスティーブンオカザキのドキュメント映画「ヒロシマナガサキ」を見ながら、いつの間にか寝てしまったけど、中盤まで見事なドキュメントを見させてもらった。トルーマンは原爆を日本の生産拠点に使うと放送する。(ちゃうやろ!!)最初8月6日は何の日か知らない、と次々とのたまう渋谷の若者たち。(情けない)500人の被爆者にインタビューしていったらしい。それを編集しながら一人ひとりのインタビューを時系列で出していく。そういうやり方で、あの日、何が起きたのか、全体を示そうという試み。エノラ・ゲイの搭乗員は「これで戦争が終わると思った」と呟く。(想像力の欠如)ある被爆者は「未だに妹の名前が言えない」と呟く。(この一言の重みにはちょっとやられた)半分近く見たときに意識を失いました。(^_^;)アメリカでは去年これが全米放映されて大きな反響を巻き起こしたらしい。それだけの力がある映画である。熱帯夜にはちょっと軽めの小説を。探偵倶楽部東野圭吾 角川文庫おそらくバブルの終わりのころの連載だったのだろう。96年に祥伝社文庫として刊行されている。金持ち専門の会員制の探偵倶楽部に時々依頼される難事件の数々。「さまよう刃」もサスペンスではあるが、謎解き小説ではない。今はあまりこのような純粋な推理探偵小説は書くことが無くなった東野圭吾であるが、むかしは謎解き小説は得意中の得意だった。この小説は探偵が物語の中でほとんど活躍しないというところにミソがある。美男美女の探偵カップルは、依頼されたあとは「調査結果」が出来るまではめったには登場しない。ビジネスライクなのである。けれどもいつでも事件の本質はつかんでいる。「われわれは無駄なことはしない主義なのです。」探偵の仕事は犯人逮捕ではないから、依頼人にその辺りは一任して調査結果を置いて去っていく。まあ頭の体操にはいい作品。
2008年08月05日
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さまよう刃東野圭吾(角川文庫)長峰の一人娘・絵摩の死体が荒川から発見された。花火大会の帰りに、未成年の少年グループによって蹂躪された末の遺棄だった。謎の密告電話によって犯人を知った長峰は、突き動かされるように娘の復讐に乗り出した。[BOOKデータベースより]長峰は犯人の部屋で娘を陵辱したテープを見つける。そのときに少年が帰ってきた。激しい怒りがこみ上げてきた。同時に急速に手足が冷えていくのを覚えた。長峰の心の奥底に潜んでいた何かが、彼自身でさえその存在を自覚したことのなかった何かが、むっくりと頭をもたげた。それはたった今まで彼の胸中を支配していた悲しみの感情を、ぐいと隅に押しやった。犯人の一人を殺害し、さらに逃走する父親を、警察とマスコミが追う。正義とは何か。誰が犯人を裁くのか。世論を巻き込み、事件は予想外の結末を迎える―。重く哀しいテーマに挑んだ、心を揺さぶる傑作長編。[BOOKデータベースより]いくつかのブログをみさせてもらった。みんな、長峰に同情的である。最初の殺人こそは衝動的であったが、もう一人の犯人の少年を追うのは、非常に理性的、計画的である。けれども、多くの人は長峰に同情的である。少年法の厳罰化を望む人も少なくはない。こう書いたからといって、私はその人たちに反対するわけではない。最初の殺人、あのようなシチュエーションで犯人が目の前にあれば、それは殺してしまうでしょ、とは思ってしまう。私には娘や息子はいないので、自分に置き換えるわけには行かないが、けれども第二の殺人のためにすべてを投げ出した主人公を匿ってしまう、かもしれないとさえ思う。それだけ被害者の親の感情を説得力ある筆致で描くリアリティのある小説だった。長峰を匿うペンションオーナーの和佳子の存在が救いだったと書くブロガーも少なからずいた。和佳子は一方で長峰を説得する。自首して裁判で少年法や世の中のあり方について問いただすことが出来るのはこの事件で注目を集めている長峰さんにしかできないと説得する。しかし、作者は和佳子の存在を肯定的に描いているわけではない。結局彼女の発した言葉で悲劇を生むのであるから。結局小説らしく、悲劇だけを残して、問いかけだけを残して物語を終わらせている。長峰の「感情」は理解できる。けれども少年法の厳罰化を望むかといえば、話は別である。実は今年6月11日、秋葉原事件ですっかり陰に隠れてしまったが、少年法が変わっている。改正少年法が成立 被害者、遺族ら傍聴可能に(共同通信社) 原則非公開の少年審判で、殺人などの重大事件について犯罪被害者や遺族の傍聴を認める改正少年法が11日午前の参院本会議で、自民、公明、民主各党などの賛成多数で可決、成立した。 改正少年法は「殺人など他人を死傷させた重大事件」を対象に、家裁が加害少年の年齢や心身の状態などを考慮し傍聴を許可する内容。被害者らが不安や緊張を感じる恐れがある場合は、弁護士や支援者の付き添いも認める。施行日は政令で指定し、公布から6カ月以内。少年法の厳罰化ではない。けれども「少年の更生」を趣旨とした家庭裁判所の裁判で、柔軟な対応が難しくなる可能性はあるだろう。ブログ「杉浦ひとみの瞳」で弁護士の杉浦さんは少年法改正は拙速ではいけないで、問題点の第一にそれを挙げています。詳しくは読んで頂きたい。ここは議論のあるところでしょう。私は杉浦さんの主張を支持する。この小説を読んで長峰の「感情」に寄り添ったものならば、第二第三の問題点の方に注目していただきたい。「これまで加害少年と会う機会など与えられてこなかった法制度が変わり、加害少年の審判を見届けることができるとするならば、親はどんなに辛くても行くのではないでしょうか。「お母さんが見届けてきてあげるから」となるのではないかと思います(これは想像です)。でも、ある精神科医に話したところ、「それは無茶なこと。被害者の精神状態は大変なものになるだろう、自殺の危険性だってあるかも知れない。」と強く反対をされました」と杉浦さんは言います。最終調整で「被害者らが不安や緊張を感じる恐れがある場合は、弁護士や支援者の付き添いも認める。」とはなったが、小説を読んだ者にとって、それがあまり意味のあることとは思えない。さらに、「ご存じでしょうか?審判廷というのは5メートル四方くらいの狭い空間です。畳の部屋にすれば、15~16畳くらいでしょうか。ここに裁判官と、書記官、調査官と、少年、その保護者、付添人(弁護士)が入ります。そして、この狭い空間に被害者のかたが同席することになります。子どもが殺されて49日で、目の前にその犯人の(と疑われている)少年がいるわけです。思いも寄らない行動にでる衝動に駆られることはむしろ必然ではないでしょうか。」と杉浦さんは言います。小説のカイジのようにどんなひどい人間でも、少年である限りは数年後に出所できるわけです。小説的には自分の身体を凶器と化してでも飛びついて犯人を殺そうとする親が出現してもおかしくはないと思います。単に今まで被害者の親のことはほとんど考えていなかったから、一部の被害者の言い分をそのまま認めました、と言う法律の作り方は、背景に「想像力の貧困」がある。それが結局昨今の「法の厳罰化」「自己責任」に結びついている。小説を読むことは「想像力の貧困」を打ち破る手助けになる。とにもかくにも法は成立してしまった。悲劇は起きなければいいのだが‥‥‥。
2008年07月09日
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梶山季之が死んだとき、私は15歳だった。彼の名前は知っていた。川上宗薫と並ぶポルノ作家としての名前をなぜか知っていたのである。だから、彼が死んだときに出た新聞の書評が彼の死を心から惜しんでいるのを読み、違和感を覚えた記憶がある。当時私が通っていた本屋は週刊誌や文庫やカッパブックスくらいの新書ぐらいしか置いていなくて、つまり私は梶山季之を見損なっていたのである。梶山 季之(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)は、日本の小説家・ジャーナリスト。週刊誌創刊ブーム期にトップ屋として活躍、その後『黒の試走車』『赤いダイヤ』などの産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説、時代小説、風俗小説などを量産するが45歳で死去。ルポライターとして梶季彦、少年向け冒険小説として梶謙介のペンネームがある(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)今回初めて彼の作品を読んだ。元トップ屋ということもあり、なかなかの社会は作家なのである。この前に観劇した青年劇場の「族譜」に興味を覚えて原作を読んだ。岩波現代文庫に収められていた。族譜梶山季之は植民地化の朝鮮はソウルの生まれである。だから、いくつかその時代を映した朝鮮を舞台にした小説がある。1961年に発表。早い時期に日本の植民地化政策がいかに卑劣で徹底していたかを告発している。観劇のときにも感じたが、「創始改名」政策ほど、日本の植民地化政策の卑劣さを感じることはない。創始改名は決して法律として強制されるものにはなっていない。あくまで自主的なものとして最初は宣伝される。「内鮮一体」として、それまで何かと差別されてきた朝鮮の方々も日本名を名乗れるようになり、差別から解消されるのですよ、と呼びかける。朝鮮語に「恨(ハン)」という言葉がある。いろんな意味に訳されるが、もともとは祖先に対する感情なのである。祖先に顔向けできないようなことがあったときに、それを解消するまで「恨」はなくならない。だから、それがなくなることを「恨を解く」というのである。それほどまでに、朝鮮民族にとって、祖先は自分の内内までにしみこんだ感情の元になっているし、それを集大成した族譜、姓は大切なものだ。創始改名したものには、就職にも入学にも有利に働き、それまで低調だった改名率は一挙にあがる。当局が、今までの生ぬるい態度を捨てて、強制的に創始改名する方針に出始めたのは、このころからであったろう。釣り上げた魚に、餌をやる莫迦はいない。創始改名したら、日本人と同等に遇しようと表面では甘い餌をさらしながら、その実当局が考えていたのは、何であったか。---それは日本国民であるがゆえに、果たさなければならない義務、つまり徴兵だったり、徴用だったのである。また税金であり、供出だった。従来の志願兵制度を一挙に徴兵制度に切り替えるための準備工作だったのだ。(その証拠にまもなく膨大な兵士を要する大東亜戦争が起こった。)水原の有力者、薛鎮英の一族は700年も続いている族譜を持っていた。(李王朝ですら300年の歴史しか持っていない。しかもその族譜は戦乱で焼けている。)娘の婚約者を何の根拠もないのに、思想犯として逮捕し、後見人として身請けするのなら、創始改名して出直せと圧力をかける。娘は断腸の思いで婚約者よりも族譜のほうを選ぶのである。婚約者はその後獄死をする。原作は劇とは違い、創始改名した日に自殺した鎮英の遺言により、物語の主人公谷六郎は貴重な族譜を大学に寄贈することを頼まれる。日本人にとっては救いのある終わり方ではある。劇では、白装束の娘から一方的に谷六郎は責められ終わる。族譜の内容を言って聞かせる演劇の第二部のほとんどはこの原作の中にはない。改めて、ジェームス三木の脚本はうまいことこの原作を膨らませていると感じた。そして日本人に非常に厳しい劇になっていたのだと感じた。ネットサーフィンしていると、なんとこの原作で、韓国の中で映画化されているという。「族譜」(輝国人の韓国映画)監 督 イム・グォンテク「風の丘を越えて」「酔画仙」韓国の中で、谷六郎という人物を配置できたのが、なんとなく救われる。哲さんが「朝鮮の植民地統治は史実に反する」発言への抗議賛同願い を書いている。賛同したい。
2008年07月06日
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シジミ 「石垣りん詩集」(ハルキ文庫)より夜中に目をさました。ゆうべ買ったシジミたちが台所のすみで口をあけて生きていた。「夜が明けたらドレモコレモミンナクッテヤル」鬼ばばの笑いを私は笑った。それから先はうっすら口をあけて寝るよりほかに私の夜はなかった。このシジミに加藤某を見るのは私だけだろうか。
2008年06月12日
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とある、地方の三流高の三年生たちの日常を描く。前巻(06.12月の記事参照)の続編だけど、これだけ読んでも大きな支障はない。ポプラ文庫新刊の目玉として新装丁された。この二巻目はこの文庫のための書き下ろし。「ガールズ・ブルー2」ポプラ文庫 あさのあつこ命を削るような持病は持っていて見た目は儚げな美少女なのだけれども、仲間内では一番攻撃的で芯の強い美咲。ボーとしているだけの美少年に見えるけれども、動物に好かれるという「才能」を持っていて、いつの間にか将来設計を決めていた如月。デブで引っ込み思案だけれども、家庭の事情もあって、仲間内では一番社会的な自覚が高いスウちゃん。そしてこの小説の一人称語りの主体であり、仲間内では一番成績は悪いけれども、性格はよさそうだし時々読者がはっとするような人や世界に対する観察眼を持っている理穂。この小説は主にこの四人組の「おしゃべり」で構成されている。 それでも、あたしたちはしゃべって、しゃべって、相手のおしゃべりに耳をかたむけて、相槌をうったり、頭を横にふったり、たまに黙って考え込んだりしながら生きている。コンビニの前に座りながら、駅の構内にたむろしながら、横断歩道を渡りながら、しゃべって、聞いて、頷いて、首をかしげている。そんな言葉に濡れるのなら文句はない。むし暑い夕方、にわか雨に出会うようなものだ。気持ちいい。気持ちよくないのは、型通りの挨拶とか、教師の小言とか、もっと偉い人の説教とか、テレビの騒ぎとかだ。それはつるんとして突起がなく、いつだってしゅるしゅるとあたしたちの上を滑っていく。しゅるしゅるを侮ってはいけない。と、このごろ、あたしは思うのだ。 しゅるしゅるが集まって、けっこうな流れになる。いつの間にか、押し流れてしまいそうな‥‥‥そんな不安を覚えることが、まあ本当にまれにだけどあるのだ。 言葉には突起が欲しい。衣服や動物の毛にくっついて運ばれるちゃっかりのものの種子のように、滑らないでくっついてきて欲しい。あたしたちを無理やり押し流すんじゃなくて、あたしたちの内にちゃんと留まっていく突起のある言葉が、欲しいのだ。これが本当に落ちこぼれ理穂の言葉か?と疑ってはいけない。理穂はたぶん回りも本人も気がついてなくて、おそらく一人理穂に片思いしている大学生の睦月だけが気がついているのだろうが、恐ろしく文才のある女の子なのである。なにしろラ・ロシュフコーの「箴言」が愛読書なのである。この本を読んでいると、つくづく競争原理を導入する新学習指導要領は彼女たちを潰すのではないか、と思う。彼女や彼の「才能」を潰す。新学習指導要領の採点項目には「病気に負けない強い心」なんてのはあるだろうか。「動物に好かれる」なんて項目はあるだろうか。「新聞を毎日読む」なんてことはどうだろう。「つるんとした言葉と突起のある言葉の違いを示せ」なんていう出題はするだろうか。今日さんの今日の記事「自己責任論の教育版・学習指導要領」 にありました。ある授業でこういう会話がされたそうです。「『先生ぜんぜんわかんないよ』と叫ぶ子がいました。『それじゃ、わかんない原因はなんだと思う?』と生徒たちに聞いてみました。『先生の授業のやり方が悪いから』には手が挙がりませんでした。『教科書が悪いから』には一人の子が手を挙げました。残り30人がいっせいに手を挙げたのは、『私の頭が悪いから』でした。びっくりしました。何かあればすぐ他人のせいにしたがる子どもたちが、こと勉強については自分の頭が悪い、と思っている。ここにストレスの根本があるのではないか、と思いました。」(あきる野市・中学理科・雨滝洋介・『子どもと教育』45p・ルック・2005・1月号)どうすればいいのだろう。一つの答がこの四人組の生き方にあるかもしれない。彼らはおたがいそれぞれの「能力」を認め合っています。尊敬しあっている。だから決して彼らは卑屈にはならない。そして次第に自分の生きる道を見つけていきます。あさのあつこは、教育基本法を改悪されたいまの世の中を眺めながらこの小説を執筆したのでしょう。彼女の想い、危機感が良く伝わる小説です。
2008年04月27日
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いまだかつて犬も猫も飼ったことはない。犬に関してはトラウマがある。三歳の頃、犬のオバケに食われる夢を見た。それが私の覚えている最初の夢で、以来オバケのQ太郎にはずっと親近感を覚えていた。二歳上の兄たちが父親に反対されて犬ころを裏山の砂ダムの近くで長い間飼っていたことがある。いつの間にかいなくなったようだ。生き物は飼ったことはある。10歳の頃、番の文鳥を手乗りにすべく、ヒナから飼った。手乗りの練習をしているとき、ある日窓から飛び出した。そのまま野生化してくれればいいのだが、彼らは家の周りで時々見つけた。おそらく餓死したに違いない。これもひどいトラウマになった。そういえば、夜店で飼った金魚を死なせて、金魚の墓を母と一緒に作ったこともあったけ。「ブラフマンの埋葬」小川洋子著 講談社文庫最初に感じ取ったのは体温だった。そのことに、僕は戸惑った。朝露に濡れて震えてている腕の中の小さなものが、こんなにも温かいなんて信じられない気持ちがした。温もりの塊だった。物語はが裏庭で瀕死の生き物を見つけたところから始まる。どんな種の動物なのかは最後まで明らかにはされない。犬ではない。水かきとひげを持っていたのだから。はこの生き物に-謎と言う意味-と名づける。ブラフマンはしだいと元気になっていく。ブラフマンはどこにいるのか。机の下の暗がりに隠れている。僕と視線が合うと、自分の一番可愛い顔を見せようとするかのように、大きく目を見開いて瞬きさえしない。自分もたった今、ここへ置き去りにされたばかりで、何がどうなっているのか分らないのです、という表情をする。やはりブラフマンは目をそらさない。僕が言葉を発するとき、目があっていなければ、その言葉は中をさ迷ってどこにもたどり着けない、と信じている。ブラフマンの目は赤ん坊の目のような気がする。何の邪心もない。それと同じような目を、私は最近毎日毎日病室で出会っている。ブラフマンも、赤ん坊も、病室の男の目も、気負った欲望はなくて、まっすぐに見つめてくる。命そのもの、と言えるだろう。はブラフマンと相対し、ひと夏の貴重な経験をする。私はこの本を読んだあと、犬を飼いたいと切実に思うようになった。既にトラウマは解消しているから飼えるだろう。隣が兄貴の家だから、数日家を留守にしても頼んでいけるだろう。とは隣り合わせである。ならば、命の素晴らしさを感じてみたい。
2008年03月08日
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なかなか書評を書く時間が作れない。本だけは何冊も読み終わっているのですが‥‥‥。「誰か」宮部みゆき(文春文庫)今多コンツェルンの広報室に勤める杉村三郎は、義父でありコンツェルンの会長でもある今多義親からある依頼を受けた。それは、会長の専属運転手だった梶田信夫の娘たちが、父についての本を書きたいらしいから、相談にのってほしいというものだった。梶田は、石川町のマンション前で自転車に撥ねられ、頭を強く打って亡くなった。犯人はまだ捕まっていない。依頼を受けて、梶田の過去を辿りはじめた杉村が知った事実とは…。 (「BOOK」データベースより)宮部みゆきは文庫本が出ると無条件に買うようにしている。そのわりには、二年前の正月の「模倣犯」五冊以降彼女の書評はこのブログには載せていない。実はこの二年間、彼女の作品を読んでいない。宮部の文庫は何冊かは発行されているのだが、実はすでに図書館で借りて読んでいたのである。一時期図書館に通い詰めたことがある。前の職場を辞めて、「これ以降は節約のためにすべて本は図書館で借りるぞ」と決心したためであるが、実際やってみると、常時十数冊は「読みかけの本」を作っておかないと不安になってしまう性質があるために、続かなくなってしまった。(図書館の本は長いこと借りれない)そして案外映画や読書におカネをつぎ込んでも、年間数万で済むことも分かった。(そのぐらいならなんとかなる。)で、話は前後するが、図書館通いをしていたころに単行本で何冊も宮部の本を読んだのである。そろそろそのストックも切れかけている。これから宮部みゆきの書評が増えてくるかもしれない。さて、この本は久しぶりの現代ミステリーである。やはり宮部はファンタジーよりも、時代劇よりも、ミステリのほうがおもしろい。彼女はひつこいぐらいに一つの事象の周りの描写をする。(最近特にその傾向が顕著になってきているのだが。)その描写力があるから、ミステリとしての興味を持続できるし、最近のテーマである「事件にならない事件」も成り立つのである。直木賞受賞作「理由」から続く、宮部の新境地である。軽犯罪あるいは「未遂の故意」と言うのは、確かに魅力的なテーマではある。そういうことの中に案外「深い闇」があることが多いし、何よりも身近な「闇」だからだ。このシリーズ、続編があるようだ。文庫化が楽しみだ。
2008年03月08日
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臨場横山秀夫(光文社文庫)臨場―警察組織では、事件現場に臨み、初動捜査に当たることをいう。‘終身検視官’の異名を持つ倉石は、他の者たちとは異質の「眼」を持っていた。‘終身検視官’、死者の人生を救えるか―。組織と個人、職務と情、警察小説の圧倒的世界。 (「BOOK」データベースより)横山秀夫にはハズレがない。一貫して組織の中の個人の矜持を謳い上げ、同時に周到にめぐらした伏線とキレイナ落とし所を用意して、必ずエンタメとして成立させている。直木賞騒動で無冠の帝王となった今、自分の本は作品の質で売るのだ、という作者のプライドがそこかしこに溢れている。しかし、これはもろ刃の剣である。最高のものを求める緊張感がいったん途切れると、あまりにもご都合主義的な短編集になることがある。この短編集はまさにそれだったように思えた。「赤い名刺」「眼前の密室」「鉢植えの女」…みんな結末に話を持っていくために「みえみえ」の伏線を張っている。しかし、「餞(はなむけ)」だけは違った。事件性がほとんどないのに、この短編の数ページでいったい何度作者は「どんでん返し」をしたことか。そして最後は見事な人情話に持っていく。この職人技には唸った。この一遍だけでやはり横山秀夫にはハズレはない、と言わざるを得なくなった。
2008年03月08日
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雪崩のような報道も ありきたりの統計も鵜呑みにはしないじぶんなりの調整が可能である地球のあちらこちらでこういうことは起こっているだろうそれぞれの硬直した政府なんか置き去りにして一人と一人のつきあいが小さなつむじ風になって電波は自由に飛びかっている電波はすばやく飛びかっている電波よりのろくはあるがなにかがキャッチされなにかが投げ返され外国人を見たらスパイと思えそんなふうに教えられた私の少女時代には考えられもしなかったもの 茨木のり子「あの人の棲む国」(文庫「倚りかからず」より)茨木のり子は「一人と一人のつきあい」を、おそらくその頃つきあいを始めたばかりの韓国の詩人のことを思って書いたのだろう。けれども私には、別の「つきあい」として読んだ。‥‥‥そもそも詩とはそのように読まれるものである。それは、ブログの「つきあい」として読んだのである。ブログの最大の特徴であり、能力は「繋がる力」である。私自身もブログを始める前は、ここまで全世界、或いはあらゆる素敵な人たちとつながることが出来るとは思っても見なかった。中国、韓国、フランス、アメリカ‥‥‥或いは一定分野の専門家、或いは市民運動家‥‥‥(具体的に書こうと思ったけど、文章が散漫になるのでやめます。去年一番びっくりしたのは、映画「選挙」の批評(批判)を書いたら当の監督から反論が来たこと)私はその人たちとのキャッチボールを大切にしたいと思います。その人たちと常時「連帯」が組めるとは思っていません。人と人とはかんたんに分かり合えるものではありません。毎日病院で顔をつき合わせている瀕死の父親と息子が分かり合えないのだから電波のつながりのブログの向こうの人たちといつも分かり合えるとは思っていません。ましてや、「運動」を創るなんて‥‥‥けれども、ふとした瞬間に人と人とのつきあいは「小さなつむじ風」になることがあります父親と息子が今日は分かり合えた気になることがあります。共謀罪のときにブログが一定の連帯をし、少しだけ運動の成果を持ったことがあったように、一瞬のつむじ風になることがあります。ブログには可能性がある。なにかがキャッチされなにかが投げ返され一人ひとりは倚りかからずそれぞれの硬直した政府なんか置き去りにして
2008年02月02日
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