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鹿児島市の加治屋町と言えば、西郷隆盛や大久保利通など明治維新の原動力になった下級武士のたくさん生まれ育った場所として知られている。ここで紹介するのは、その加治屋町が生んだ大山巌である。天保13年(1842)西郷隆盛の従兄弟として、加治屋町で生まれた。西郷隆盛は文政10年(1827)に誕生しているから15歳違いである。寺田屋事件 文久2年4月23日(1862、5,21)に起こった薩摩藩士粛清事件であるがこれに参加し、帰藩謹慎を命じられる。 薩英戦争 文久3年7月2日~4日(1863、8,15~17)ではスイカ売り決死隊に加わり、英旗艦ユーリアスに乗り込んだ。 戊辰戦争 慶応4年/明治元年(1868)日本最大の内戦といわれた戦に参加。西南戦争 明治10年(1877)では政府軍として、城山攻撃に加わった。 その後、砲術を学び、陸軍身を置いた大山はにフランスで近代兵学を学んだ。帰国後、陸軍の近代化に努め初代陸軍大臣に就任した。日清戦争の司令官、日露戦争の満州軍総司令官として活躍した。日露戦争の戦いでは「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドックの如き猛将」など奉天大会戦に勝利した大山巌元帥の名声は世界を駆け抜けたという。東洋の豪傑のイメージとは逆にハイカラを好み、豪壮なシュロス(西洋城)に住み、大正5年(1916)に永眠、国葬によって栃木県・那須に葬られた。 参考資料 鹿児島市 史跡めぐりガイドブック 鹿児島市教育委員会編 現地案内板 など
2022.01.30
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パソコン歴30年以上ある私だが、メカに弱いことが露見した事件? がこのところ二つ相次いで起こった。 一つは、デジカメで写したSDカードのデータ消失事件である。いつものように、SDカードから写真を取り出して、ブログに転写する作業を進める途中の出来事である。それ以前の私のやり方が間違っていたのだろうか、いつもとちょっと違う場面が目の前に広がった。そこで以前の画面に戻そうと手探りで試行錯誤していたある瞬間に目の前にあったSDカード画面が凄い速さで消える方に動き出した。正に瞬足という感じでアレヨアレヨという間に消え去って、それをストップする暇もなかった。今、考えても私がどこをどう触ったのがいけなかったのか、思い出せない。慌ててSDカードに残っていないか再生しょうとしたが、何百枚もあった画面はすべて消失していた。すぐに復元出来ないものかとネットで調べたが、私の手には負えるもののではなくて、諦めた。落ち着いて調べてみると2021年4月6日以降から2022年1月6日までに撮りためた映像が全て失われるという結果となった。その間の画像は手帳で振り返ってみると、県内数か所の「史跡」の写真と一番の痛手は「甑島2泊3日の旅」の写真が失われた。ただ数は少ないがブログに取り上げた主要な写真は保存できているので良しとしよう。 この際と考えてネットでSDカードのことを調べてみると、これまで知らなかったことがわかってきた。それは「SDカードなどのフラッシュメモリーは寿命が短い。2,3年後にはデータが消失してしまうか、SDカード自体を認識しない」「SDカードのメーカーは、カードの寿命を通常5年から10年程度といっているが、実際は2年から3年程度を目安にした方がよい」などで、これまでの私の保存方法は間違っていたことがわかった。今後はパソコンに保存するなり考えよう。 二つ目はブロ友さんのブログにコメントを書いてクリックしてもこれまでにように書き込みができず「楽天ブログへユーザー登録していただかないとコメントには記入出来ません」という赤い文字がでる。私としては、ブログは書き込めて表示も出来るのに今更何が「楽天ブログへユーザー登録して・・・」かという思いだった。この件もネットで調べてみたが要領を得ない。それが5日くらい前のことだ。尽くす手もなくしばらく静観していて昨日、コメント欄に書き込むと何にもしていないのにすんなりこれまで通りと同じに書き込みができた。同じく私のブログにコメントをいただいたブロ友さんに私のブログでコメントを書き込もうとしても、「クマタツ1847」の私の名前が表示されないていないということで、これも返事が書けなかったが、上の空白欄に「クマタツ1847」を書き込むことで、こちらは曲がりなりにも書き込むことができた。しかし、昨日からはこちらも問題なくこれまで通りの操作で済むようになった。 一番目のSDカードの中身消失は私の人為的なミスということは明らかだが、二番目の問題は依然として私の気持ちの上でモヤモヤが残っている。
2022.01.28
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いきなりの話題だが島津義弘は島津本宗家の第17代当主だったいう説と、そうではなかったという説がある。つまりは、義弘は当主になったのか、ならなかったのかという歴史家の見解が二つにわかれているということだ。このことを今日ブログに取り上げたのは1月24日(月)の地元南日本新聞の月曜日連載記事、歴史作家・桐野作人氏の「かごしま街道見聞記」に「加治木島津家と精矛神社」(くわしほこじんじゃ)が掲載されその中の義弘の記事に触発されたからである。 その記事の17代当主云々の部分を紹介する。前略 注目すべきは、その末尾に義弘の名前を「檀越島津十七代 藤原義弘 敬白」と刻んであることである。 義弘が島津家の当主(17代)になったか否かは、重要な研究テーマになっている。近年では、新名一仁氏が義弘を「特別な舎弟」として惣領権を兄義久と共有していたとみている。また同氏は、関ヶ原合戦後、義弘が息子家久に宛てた書状で家久を「十八代」として、自身を十七代になぞらえていることも指摘している。 後略 以上のように述べながら、十七代であったとは断言はしていない。 一方「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」の著者・川口素生氏はその著書の中で次のように言う。前略 江戸時代に成立した「島津国史」や「寛政重修諸家譜」が義弘を島津家嫡流の第17代当主とする一方で、「加治木古老物語」などは義弘を歴代当主とは見ておらず、地元の鹿児島では義弘を、第16代当主・島津義久(貴久の嫡子で、義弘の兄)の守護代(代理司令官)と見なす意見がある。また、義久が天正15年(1587)、もしくは文禄4年(1595)に隠居し、家督を次弟の義弘に譲ったという見方もある。 中略(川口素生氏はその後、義弘の子・忠恒のち家久が当主についたときのことを次のように述べてもいる)ちなみに、家久は義久の三女で従姉に当たる亀寿を正室に迎え、義久の引退後に島津家嫡流の第17代当主、薩摩藩初代藩主に就任している。(ということで義弘は当主には就いていないという見解をとる) 他には「島津義弘の賭け」の故 山本博史氏は明確には言っていないが、その著書では上の系図と同じ「島津家正統系図」を使っている。 更にいえば、上記新名一仁氏はその著書 「不屈の両殿」島津義久・義弘 の最後に次のように述べている。 前略 最後に付言しておくが、義弘を「十七代当主」として認めるべきではないと言っているのでは無い。むしろ、義弘がみずから「十七代当主だと主張していたこと、忠恒以降の歴代藩主が義弘を「十七代当主」と認定し、薩摩藩が系図・家譜を作成して「正史」としてこれを確定させたこと自体が、近世島津家の歴史認識を考える上で重要なのである。と述べている 私は一歴史愛好家としてあまり深く考えることはなかったが、「島津家正統系図」などに鑑み、これまで島津義弘を第17代当主として書いてきた。これからも歴史学者の研究を注目していきたいと思う。
2022.01.26
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1月14日(金)、それは突然の電話だった。この1月2日、施設にお世話になっている104歳の叔母が危ないという。時々様子は聞いていたもののそこまで悪い状態とは思っていなかった私達も驚く他のない知らせである。この2年間、コロナ禍のため家族にしか面会も許されず、私達も会っていなかった叔母への面会が施設のご好意で許されるということで、私達は急いで駆けつけた。ほとんど眠ったような状態だったが、私達の呼びかけに時々は「はい」と答えたり、薄く目をあけたりの反応はあった。その日は事なきを得て、家に帰ったが、17日(月)再びの電話で駆けつけて4時間ほど一緒に時を過ごした。眠る叔母を囲んで叔母家族といろいろな話をした貴重な時間だった。そして、20日(木)午後1時過ぎ、所用で街に出ていた私達に叔母逝去の悲報が入った。最初の連絡から一週間、長命だった叔母もついに力尽きたのだった。 合掌 このようなことで、まるまる1週間ブログもブランクができてしまった。しかし、それくらいのブランクは私にとっては普通のこと。今後はできるだけブランクの期間を短くするように励みたい。
2022.01.23
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昨日1月15日は小正月だった。だからというわけではないが、高校同期生5人でがMくん宅でささやかなランチ会を開いた。この集まりを開こうとなったのは、今年になって「八期歴史旅歩き会」というLINEでもつながっている高校同期仲間が今年になって未だに顔を合わせていなかったことと、ゲスト会員の「本○どん」が鹿児島市内の「西田文化協会」主催の歴史懇話会でこの日第一回目の講演をされる予定だったのが、急速なコロナ患者増加により延期になったことにより、参加する私達にもいきなり空白の時間ができたことなどによるものだった。懇話会は計画によると「薩摩島津家の770年」というテーマで1月から隔月で11月まで6回にわたって開催の予定である。 話題は談論風発で修まるところを知らず。「本○どん」の今回の講演の概要など説明があったが、大変なご苦労であることが伺えた。そういう話が終わると、小学校入学が昭和21年という終戦翌年のことであり、幼稚園どころではなかったことや、それぞれが食べたいものもなくて、代用食を食べたこと。芋のツル、かぼちゃの花など何でも食べたことなどで盛り上がった。本○どんから「あのころからいも(さつまいも)ばかり食べたので、もうからいもは見たくもないという人もいるが、今もからいもは大好き」という話など他愛ない話が尽きず、11時半から始まったランチ会は16時まで続いた。もちろんMくん宅の玄関で手の消毒をしてから家に上がらせてもらって、マスク着用での話である。こういう集まりは駐車場にも何台も車を停めることができて、家も広いMくん宅ならでは出来ないことであるが、いつも奥様にはお世話になっている。寿司などは出前でとってもらって会費制だが、お茶、コーヒー、お吸い物や、和え物、漬物などいつも心を尽くして接待していただく。感謝! 感謝の他なし。日置市に帰られる本○どんが私を車で送ってくださるということで、帰りはお世話になった。 家に帰ってみたが、この日は初釣りに出かけた息子はまだ帰っていなかった。しばらくすると、家の前に車が停まって息子のご帰還である。この日の一番の釣果は縦縞入の「マハタ」である。高級魚である。65cmのまあまあの形であった。 下の写真は鱗をとったところである。
2022.01.16
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上の写真は「古地図に見る かごしまの町」より武・荒田の水田地帯(『薩摩沿革地図』 中文政前後鹿児島絵図写) 鹿児島中央駅の西口側にある武岡が私の終の棲家であるが、子供の時も疎開先から鹿児島に帰ってきたあとそれまでの我が家(当時は武町と呼ばれていたが現在は中央町と呼ばれ駅近くの繁華街になっている)は戦火で焼けていたので、5年間武岡麓の借家に住んだのでこの周辺一帯は切っても切れない縁のある土地である。上の文政前後の地図の辺りには幕末の頃はお寺がいくつかあり、建部神社があり、神社下から田上方面に向けて農家が散在する農村だったそうだ。 下の写真は上の地図の右側に位置する場所で太平洋戦争前・昭和10年頃の地図だが、私達が住んだ昭和23年頃から私達がここを去って区画整理が行われるまでは、大体このままの状態ではなかっただろうか。 下の地図は県立図書館にあった「鹿児島市全圖」から武・武岡周辺を抜粋した部分だが、この地図も私の知る時代のもとほとんど変わらない。 下の地図は「県別マップル 鹿児島県道路地図」から鹿児島中央駅周辺を写したもの。赤く表示された鹿児島中央駅の右側が「桜島側出口」(東口)で左側にレールと共に「九州新幹線」と書かれた方向から新幹線は入って来る。左側が私達の住む武岡方面で西口がある。ただ、鹿児島本線とはT字型に入ってくるので駅舎は同じである。区画整理と新幹線とトンネルによって武岡以外は全く昔の面影は失われてしまった。 地図の左側から一般道の武岡トンネルを写した写真が下。 武岡トンネルから左に20mくらいの場所には新幹線トンネルがある。数え切れないほどある九州新幹線のトンネルこれで終わり、これを通過すれば鹿児島中央駅に滑り込む。私の記憶ではこのトンネルの辺りから左側に「島津どんの墓」があり、遊ぶ場所でもあった。新幹線立ち入り禁止の柵の前に「武小學」発祥之地の記念碑がある。この記念碑の説明文には「鹿児島市立西田小学校は明治8年12月8日、西郷南洲翁の揮毫による『武小學』の門札を掲げ、ここ武岡の麓、笑岳寺跡に創立された。西田小学校創立130周年に当り記念事業の一つとして『発祥之地』なる記念碑を建立した。平成17年12月7日 建立」とある。後に私の母校・武小学校も開校したのだが、この記念碑は「武小學」として発祥しながらも、あくまでも「西田小学校」の発祥之地だということを主張している。 このすぐ下が西郷屋敷跡の「西郷公園」であるが、二階堂家の屋敷もあった。 私は40年前に鹿児島に帰ってきて、仕事も落ち着いた頃、区画整理された昔の借家跡や友人宅を探し回ったことがあったのだが、2,3の表札でそれらしい家を見つけただけで何もわからなかった。そこで、今回は最後と思って念入りにまわってみた。結果は同じで知人の家や昔の名残を見つけることはできなかった。70年の月日は過去を捨て去っていた。
2022.01.12
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今日は書く予定だった「昔住んだ場所の古地図と現在地図・写真など・・・」をアップしようと先日現在の写真を写してきたのだが、写真取り込みに失敗! 捲土重来を期す! (大げさだなあ) そこに娘から電話が来て「今、山形屋デパートに来ていて、全国有名駅弁大会をやっているけど買って帰ろうか」とLINEが入った。急遽我が家3人集合し鳩首会談。(これも大げさだなあ)息子は他にも 中部国際空港の「みそかつサンドこんがりトーストタイプ」も頼んだが売り切れだった。「いかめし」は娘夫婦のお土産である。今日は11日の「鏡開き」の「ぜんざい」を今日が休日ということで一日早く娘家族分も妻がつくったので、娘家族は先日の「七草がゆ」に引き続き「鍋」持参である。 駅弁選択結果。 私が「近江牛ステーキ&焼肉弁当」 息子が、北海道 厚岸駅前 氏家待合所の「氏家かきめし」 妻が東北新幹線 八戸駅 「こぼれイクラととろサーモンハラス焼き弁当」
2022.01.10
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(鹿児島中央駅付近だが正月のものではない) 今日はもう1月4日。今年の正月3ヶ日もアッという間に通り過ぎていった。でも、まあいいかっ! 松の内は7日まである。できるだけ正月気分でいたいが時は容赦しない。 元旦は我が家を入れて3家族が午後4時に集合し「しょがっで」が始まった。因みに「しょがっで」とは鹿児島弁だが、それは「正月礼(しょうがつれい)」のことで、正月に親族が揃って挨拶を交わす会のことだ。広く親戚や知人宅などを正月に訪問することも「しょがっで」だ。子供ころは「しょがっで」で何軒行く親戚・知人宅があるかが大きな問題だった。なぜなら必ず「お年玉」をいただけるからだ。それは現代の子どもたちも変わりのないことだと思うが、最近は気軽に訪問できるような気風が無くなっているので子どもたちにとっては嘆かわしいことだろう。我が家ではジジ・ババから孫たちへのお年玉の他、娘家族と息子家族とのやり取り? 孫も一人新人社会人になったので従兄弟たちへのお年玉を渡したりしてしばらくの間そのセレモニーが賑やかだった。 娘家族の長男が東京から初めて帰ってきたのだが、羽田空港でPCR検査を済ませて帰ってきた。1月5日、明日には上京の予定である。沖縄の大学に行った息子家族の長男は12月24日に帰ってきたが、1月4日から授業が始まるということで、2日の最終便慌ただしくで沖縄に帰って行ったようだ。 そういう正月だったが、「しょがっで」以外は特別なこともなく、テレビを見たり、新聞・本を読んだりの3ヶ日だった。ただ私をお守りしてくれるパソコンのマウスが元旦くらいから迷走を始めて、思うように動いてくれなくなった。何回も試行錯誤を繰り返すがうまくいかない。ついに昨日3日になってしびれを切らした私はバスに乗ってパソコンのアプライドに新品を買うべく出かけた。鹿児島中央駅から歩いて12,3分の距離を歩いて10時20分には到着。事情を説明すると、古いマウスを見せてくれとのことで見てもらうと5分くらいで「ゴミが詰まっていました。ゴミを取り除いておきましたので、帰って試してください。だめな場合はパソコンも持ってきてください」とのこと。帰ってドキドキしながら試すと一発でOK。もし駄目なら、先日も持ち込んだデスクトップの重たいものを再度運ばなければならなかったのだ。もちろん、免許返上済の私も先日バスで運んだのではなく、息子や娘に依頼して運んでもらったのだが。 こうして、また友人たちとのメール交換やブログ(その後は今回が初めて)を書けるようになったのだ。めでたしめでたし。明日は誕生日。誕生日恒例となった6回目の「上町五社詣り」(鹿児島五社詣り)が今年もできそうだ。ただ連れ合いが年末年始の動き過ぎで足が痛いという。でも一緒に行けそうとのことである。天気がこれまでと違って曇り空予報だがここは行くしかない。
2022.01.04
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 先ずは正月にふさわしいめでたいニュースからです。「霧島神宮」の本殿、幣殿、拝殿が国宝指定を答申されたことです。地元の南日本新聞によると、「国宝指定の答申を受けた霧島神宮の社殿はきらびやかな装飾に彩られた圧倒的な内部空間、斜面を利用し自然と調和した建物の配置といった、約300年前の建築技術が高い評価を受けた」という。 (下の写真は南日本新聞掲載の「拝殿」) 更に「極彩色に囲まれた素晴らしい内部空間。龍柱は圧倒的」と専門家はいう。「2本の龍柱は高さ4メートル、巻き付いて昇るように龍と雲が彫られている。」「中国や琉球から伝わったもので、華麗な色使いにも大陸との共通点がある。」アジアに開けた南九州ならではの装飾と強調。詳しい制作方法は分かっておらず、指定を機に研究が進むよう期待する、という。 上の南日本新聞掲載の「拝殿」以外の写真は2012年11月23日に写したのだが、この日は「勤労感謝の日」ということもあり、国宝指定答申とコロナ騒動の谷間を縫う形での参拝者で賑わっていた。国宝指定の場所には近づく事もできないほどの人出だったが、あとで知ったのは、普段は立ち入り出来ない拝殿だそうで、12月2日から答申を記念した特別拝観が始まり、一日4回事前予約した計約200人が参加できる狭き門のようだ。有料の予約にもかかわらずもう定員に達したそうで、いつ拝観できるのかはわからない。しかし、一回は見てみたいと思っている。 余談だが、鹿児島県の国宝は鹿児島市の照国神社所蔵の太刀「銘 国宗」の一件のみだという。 下の写真はコーラスの先輩・「ほていさん」作の来年の干支・寅(虎)。今年もいただいた。後から昨年の干支・丑(牛)が名残惜しそうに見ている。 下の写真は12月28日、次男が佐多岬近辺の船釣りでの釣果。手前がブリ、奥がカンパチ。長さ70cmのクーラーからはみ出て、いずれも80cmあった。この他に65cmクラスのカンパチ3本の釣果があり、近所におすそ分けしたが、正月用すると大変喜ばれた。我が家もしばらくは魚料理が食卓を賑わすことになりそうだ。 縁起のいい正月を迎えることができたが、これからの一年もいい年であるように願うばかりだ。
2022.01.01
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