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鹿児島県日置市日吉日置2154-1にある岩屋観音を訪ねた。日置市指定文化財で有形民俗である。下の説明版(拡大できます)のような由来から子宝と安産に霊験あるとして、参詣者が多いという。 案内板に出てくる山田昌巌について調べてみた。説明版にも一部あるように、山田の地頭15代・山田有信の奥方は子供がいないことから、天正5年(1577)秋、この観音に丑の刻詣りをして我が身に代えて男児を授かるように祈願したところ満願の夜不思議ないい兆しがあり翌年7月元気な男児を生み千代太郎と名付けたという。その時期は父有信は日向高城で大友氏の大軍に囲まれていた。昌巌は慶長3年1598)弱冠21歳で福山(現在霧島市福山町)の地頭に任じられた。昌巌の武名を高めたのは、後に関ヶ原の合戦で島津義弘のもとにわずか32人だったが駆けつけて、美濃大垣に着いたのが9月13日 決戦のわずか2日前だったという。運命の9月15日早朝 島津軍1500は石田三成の陣する笹尾山の南に布陣し昌巌は先手の島津豊久(日向佐土原城主・島津義弘の甥で後に永吉島津家2代目当主に御せられる)に配属され、豊久勢の右備えとなった。そして有名な「島津の退き口」で義弘とわずかな人数で郷里の土を踏む。寛永6年(1629)昌巌は肥薩国境の要衝・出水の第3代地頭となる。天下に名声をはせた山田昌巌(1578~1668)は出水に40年在位し、91歳で大往生を遂げた。(南日本新聞 月曜日連載「さつま人国誌」桐野作人 等から引用) 歴史に残るような鹿児島の積雪をもたらした冷気も今日を峠に去ったようだ。我が家の庭に降り積もった雪は昨日の朝が15cm。朝起きた時の室内温度4°c。鹿児島市最低気温ー5,3℃。 奄美大島の奄美市で115年ぶりの雪。伊佐市大口で25cmの積雪。同じく最低気温 -15,2℃。
2016.01.26
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昨夜は高校時代の同期会・新年会だった。鹿児島市の天文館にあるホテル・パレスイン鹿児島が会場である。この数年は忘年会を新年会に切り替えているが、一番寒い時期であり、幹事は参加者の把握に気を揉んでいる。今年も最初は39名の参加申し込みがあったものの、寒い寒いという天気予報が次々に出されたこともあって、前日までに7名の欠席連絡があり、32名という数になった。しかし、当日一人の参加申し込みがあり、やっと卒業年度の昭和33年と同じ33名の参加で先ずはめでたしめでたし。しかもその中には東京から一人、福岡から一人、鹿児島も遠距離からの参加者も数人ありということで嬉しいことだった。 21時前に終わって二次会の案内もあったが、山の上の住宅団地に住む私は、積雪でもあれば帰れなくなるので、二次会には参加せずに引き上げた。途中バス停に歩いていると、先の方に光のトンネルが見えてきた。 そこを抜けると、そこに広がる光景は鹿児島ではこれまで見たことのないものであった。帰ってネットで調べると、中心街地に大規模なイルミネーションで光の空間を創り出す鹿児島市の新しい冬のイベント「天文館ミリオネーション」LED電球数100万(ミリオン)球とイルミネーションを合わせた造語「ミリオネーション」として、今年が第一回の開催で1月31日までとの情報があった。 今にも雪が降り出しそうな南国には珍しい夜にもかかわらず、カップルや家族連れなど多く賑わっていた。 そして、一夜明けて予想通りの風景が広がっていた。テレビでは鹿児島市の積雪は1cmと言っているが市街地より高台にある我が家の周辺はこの有様である。 我が家の塀の上の雪は朝7時頃には4cmだったが、現在8cmくらいと倍増した。メールや電話で今日のおじさんコーラスの練習は中止という連絡が入った。
2016.01.24
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皆さんご存知の幕末の志士・坂本龍馬(1836~1867)が鹿児島県の霧島温泉で新婚旅行を兼ねて傷の治療に来たことをご存知だろうか。これまでいろいろな本やテレビでも紹介されているのでご存知の方も多いと思う。 1866年、寺田屋における坂本龍馬襲撃事件(寺田屋遭難)において左手に大きな傷を負った龍馬は西郷隆盛等の勧めで妻・お龍と霧島を訪れて83日間滞在する。そしてこの塩浸温泉を中心に周辺の温泉で傷を癒したと言われる。翌年、京都近江屋で暗殺される龍馬にとってお龍とともに過ごしたこの霧島での生活が生涯でもっとも楽しい時間ではなかったかと思われる。そしてこれが、日本の新婚旅行の始まりと言われている。 この橋を渡る。 湯治碑 龍馬とお龍 現在も公衆浴場があり、誰でも入ることができる。ただ龍馬とお龍が入浴したのは川っ淵にあり、現在は使われていない。 龍馬がとお龍が散歩したという「龍馬の遊歩道入口」があり、この近辺の名所・犬飼の滝と和気神社のある和気公園まで4kmの案内がある。私はは数年前まで毎年この霧島で開催される「龍馬ハネムーン・ウオーク」に数年前まで毎年参加して10km~25kmコースにその時の気分に合わせてコースを選択して歩いていたので、犬飼の滝も和気神社も行ったことがある。因みに現在もコースを少し変更して毎年開催されている。 石段もきれいに残されているが、この日は小雨模様のため苔むした道は危なそうだったので一段も登らなかった。
2016.01.16
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1月6日 大阪へ出張する次男を鹿児島空港に見送った後、すぐ近くにある嘉例川駅を久しぶりに訪ねた。まだ松の内だったので、立派な門松も飾られており、これまで数回訪ねた時にはなかった佇まいを見ることができた。 嘉例川駅は霧島市隼人町嘉例川にあるJR九州・肥薩線の無人駅である。開業は明治3年(1903)1月15日に営業を開始したというから今年で112年を数える。平成15年に開業百年には「嘉例川駅開業百周年記念碑」が建てられ「肥薩路 汽笛鳴るなり百周年」という文字も刻まれている。 駅舎内も歴史を感じさせる。 駅舎内からホームを望む。 駅名表示板 一つ先は「霧島温泉」である。 駅近辺の名所案内板 高屋山上陵天津日高彦火火出見尊(山幸彦)(あまつひこひこほほでみのみこと)案内塔 大正9年(1920)3月30日当時の皇太子(昭和天皇)が高屋山上陵参拝のため乗降りした。当時のことで上陵までの乗り物は人力車だった。東郷平八郎も同行したという。 郷愁を感じる駅舎とホームの佇まいである。 見学を終えて駅舎を去ろうとしたとき、関係者と思われる方と出会い「一分後にはやとの風が入って来ますよ」と言葉をかけられた。なんというラッキー。すぐホームにとって返した。時を置かず「はやとの風」が入線。 5分間停車なので、乗客は社外に出て,山の新鮮な空気を吸ったり、写真を撮ったり、また私たちみたいな見物客は車内に入って見学することができる。 嘉例川駅には他にも名物がある。駅弁「百年の旅物語 かれい川」である。私はまだそれを食したことはないが、テレビの映像では何回も見た。駅舎内で土・日発売、車内販売は予約が必要でとのことだ。JR九州主催の「九州駅弁ランキング」で2004年3位、2009年まで3年連続で1位になった。(この文章を書くのに一部ウィキペディアを参考にした)
2016.01.12
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ブログ「中期高齢者である田舎人のタワゴト。」の「本〇どん」と島津家久・豊久公のゆかりの永吉島津家の菩提寺天昌寺跡にある墓地で待ち合わせてお会いした。お互い後期高齢者となったこの歳になって、先日来ブログ上での友達になったばかりだが、年が同じで、メールをやりとりする中で、共通の知り合い・友人が多くいることもわかり、そして何より島津家のことを中心にした歴史好き同士という共通点があることから、初対面から大いに話が弾んだ。 しばらく天昌寺跡で興味あるいろいろなことをお聞きしたり、写真を写したりした後、本〇どんから「是非今日案内したい場所があるので、自分の車の後をついて来ませんか」ということで、私も車の後を追いかけた。道が狭くなったり、広くなったり、追いかけること10分弱で目的地に到着。とても自分一人では探し当てることのできないような場所だった。そこは草田原という。 本〇どんによると、現在の永吉の街の辺りは当時は海や湖であり、「草田原」という畑のみの丘陵地に当時は集落があったと思われるとのことで、なるほどと納得する丘陵地が広がっている。 畑のあぜ道に車を止めて見えた風景が上の写真の「大辻石塔群」だった。大きな木の下に整然と並ぶ石塔群に一幅の絵を見るような気がした。この石塔群はどいうものなのか。入口の案内版に次の様に書いてあった。「大辻石塔群は日置南郷を支配した桑波田氏(くわはたし)のものと思われ、このほか浜田や天昌寺、永吉中和田にも供養塔がある。桑波田氏は紀氏(きし)の一族でその子孫は新田神宮の神官や伊集院の郡司になって栄えた。鎌倉時代に万揚坊覚辨(まんようぼうかくべん)が郡司となって日置南郷を支配、以後、孫六左衛門が島津忠良との戦いに敗れるまでの300余年の間、この地に道をつくり田畑を開いて現在の永吉の基礎を築いた」 下の写真は向かって左側から見た石塔群 向かって右側から見る。綺麗に2列の並んでいる。ただ本〇どんの説明によれば、元々ここに数基の石塔はあったらしいが、ほとんどの石塔はこの辺りの畑のあちらこちらにあったものを、集めて整然と並べられたものという。あぜ道から石塔群までのコンクリートの道も本〇どんが会長を務められる「永吉南郷会」によって比較的最近造られたものだという。また会では年間数回の近辺史跡の清掃作業をされているが、もちろんここも入っていて、清掃されているとのことだ。永吉の集落を車で走るとあちらこちらに史跡の方向案内板が黄色地に黒字と赤矢印で書いてある。会では「永吉地区史蹟マップ」も独自に作成されており、これもいただいた。 正面から一部を写す 五輪塔(これは最上部の空輪は欠落していると思われる) 改めて同じ永吉にある天昌寺跡墓地の五輪塔墓標群と見比べてみると「大辻石塔群」はいかにも小さくて単純で古い時代のものを思わせる。 大辻石塔群の五輪塔の地輪の文字は梵字? なのか未だに読解されていないという。現段階では謎の文字だという。 永吉地区にはまだまだたくさんの史跡があるが、この日はその中の幾つかを巡ることができた。機会をみて紹介したい。
2016.01.09
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元旦の地元南日本新聞の第5部に二面ぶち抜きで「最強イケメン 島津豊久」というタイトルで戦国時代の島津豊久が大きく取り上げられた。 それによると「戦国時代の薩摩の武将・島津豊久が脚光を浴びています。関ヶ原の合戦で奮戦し、命と引き替えに伯父の義弘を守りましたが、知名度は高くありませんでした。最近、漫画やゲームで新たな命を吹き込まれ、大暴れしています。豊久人気の秘密に迫ります。」とある。 私はたまたま昨年の秋、その豊久公が眠る鹿児島県日置市吹上町永吉にある「天昌寺跡墓地」を訪ねて、11月13日と17日のニ回に渡ってそのことを当ブログに書いた。そのことがきっかけで、豊久公のことを詳しく調べてみようとする中で、墓地の入口にあった「永吉南郷会」というここをボランティアで守っておられる団体の会長を知り、メールやお互いのブログでの交流が始まった。 その会長「本〇どん」のブログ「中期高齢者である田舎人のタワゴト」を読む中で、その活躍の凄さに驚いた。島津豊久公ゆかりの地である関ヶ原周辺の地元の方々とのお互いの地元での祭りへの参加、また永吉での「天昌寺まつり」の開催。島津家現当主との交流などとどまる事を知らない。興味のある方は「中期高齢者である田舎人のタワゴト」と書き込んでウェブ検索することができます。 新聞記事では記者が実際に関ヶ原町を訪ねて見聞したことが書いてある。(拡大すれば、なんとか読めるでしょう) ここでは、ゲーム「戦国無双4」の紹介や地元市役所の社会教育主事による寄稿文、そして、本〇どんへのインタビュー記事などがあり、その中で、このところ全国から歴男、歴女の訪問が多くなったことなどが書いてある。(拡大できます) 平野耕太作の漫画「ドリフターズ」(漂流者)の紹介。(拡大できます) 天昌寺跡墓地入口 島津豊久公の墓標
2016.01.04
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と言えば怒られそうな南国・鹿児島の元旦です。元旦の鹿児島の朝の最低気温は2,6℃とテレビが伝えていましたが、現在の室内はエアコンも切り、それでも暖かすぎて窓を開けていて、それで20℃ちょうど。 明けましておめでとうございます。皆さま、お正月を楽しんでおられることと思います。本年もよろしくお願いいたします。 我が家からは鹿児島のシンボル桜島が見えないので歩いて5分くらいのところまで出かけてみた。 ところがいい天気にもかかわらず、桜島が霞んでいる。まるで自分を見るようだ。上の写真は拡大して見ることができます。それでも霞はとれません。(笑) 我が家の元旦の朝の設え。 それより前、12月29日に次男坊が今年の釣り納めに野間池(池ではありません、磯釣り場です)に行って50cm超のメジナをはじめ4枚の釣果があって帰ってきた。近所に配ったり刺身で食べたりしたが、大半は冷凍してある。
2016.01.01
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