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別府で海地獄を後に妹夫婦に送ってもらい、大分市に向かう。鹿児島に帰る高速バスに乗るためである。予定していたバスの時間まではまだ3時間くらいの余裕がある。それではということで、またまた私の提案で「大分城址公園」に行くことにする。ここは現役時代最後の5年間の監査の仕事で毎年大分の会社に来ていて、いつも前は通るが立ち寄ったことのないそれでいて気になっていた場所である。 下は外堀で石垣である。 ここから4枚は城内である。内堀と櫓廊下橋というらしいが、私も初めて見た。1996年(平成8年)復元された。 訪れた大分城址公園は府内城(ふないじょう)があった場所である。また大分城とも呼ばれるとのことだ。現在は西丸跡には1966年大分文化会館が建てられ(2013年10月末閉館予定)、三の丸跡には大分県庁、大分市役所などがある。 城外には松栄神社がり、さらのその境内に稲荷神社がある。 府内城見学を済ませ、駅前駐車場に車を入れて、周りを見渡すと、大分駅は新築中で見えるのは建築現場の囲いだけである。その中で駅前広場の前に上の写真の「大友宗麟像」が世の中を睥睨するかのように立っている。宗麟は戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名として、またキリシタン大名として有名である。一時は強大な勢力を誇ったが、のち薩摩の島津義久に敗れ豊臣秀吉下の一大名に甘んじたといわれている。 駅前からアーケードを抜けて高速バスの停留所のあるトキハデパートに向かう。2時半ごろの福岡行きに乗り途中基山PAで約1時間待ちで鹿児島行きのバスに乗れば8時半ごろには帰り着くとのことで、予約。予定していた熊本まで出て乗り換える便よりも1時間早く帰れることになった。万々歳である。 4人でトキハデパートの食堂に入り、軽めの昼食をとる。それでも私は「天ざるそば」で満腹になった。(全然軽めじゃない?) 楽しみにしていた高速道路上からの由布岳や由布院も天候不良のため、満足はいかなかった。こうして4泊5日の旅は終わった。
2013.01.31
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1月23日北九州市門司区~小倉南区~大分県へと4泊5日の旅程も今日で終わり、鹿児島へ帰る日となった。 22日、国東半島の真木大堂と富貴寺を見学した私たちは、縁あって予約していた「さわやか 別府の里」温泉に向かった。大分県は日本一の温泉源を誇るだけあって、別府の街に入り山の方向を見るとあらゆる場所から温泉の蒸気が噴出している。日本で二番目の温泉県である鹿児島でもこれほどまで街中で噴気をみることはない。さすが、温泉の街・別府である。 ここに一泊して温泉や料理を満喫した私たちは、「別府地獄めぐり」で有名な8地獄の一つ「海地獄」に行くことにする。別府地獄めぐりは「海地獄」「鬼石坊主地獄」「山地獄」「かまど地獄」「鬼山地獄」「白池地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」の8つで完結し、通し券を買うと大人一人2000円である。 8地獄めぐりは、とても時間もないし我々が向かったのは、地獄の中でも一番大きい「海地獄」。私は2回目である。一人400円を支払い中に入る。高い気もするが、「地獄の沙汰も金次第」とはこのことか? と思いながら入場。 2,3か所に分かれた海地獄を見たあと、売店で「温泉卵」を買って食べる。アツアツでとてもおいしかった。そのあと、少し離れた大温室へ。バナナもたわわに実っていた。 海地獄の中にも血の池地獄を思わせる地獄がある。 ここの見学も終わり、鹿児島に帰るために、高速バスが発着する大分市まで義弟の車で送ってもらうことになり、一路大分に向かう。北九州に行くときは、婿殿の車だったので、鹿児島に帰るには公共交通機関しかないので、日豊線回りのJRか高速バスを利用することは、この旅の計画段階から決めていた。別府には鹿児島直行の高速バスがあるのだが、夜行便になっており、どうにも時間が合わない。 このあとは、後日ということで、今日はここまでとします。
2013.01.29
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真木大堂に着いた頃から降っていた雨はここを出るころは止んでいた。再びナビを設定し待望の富貴寺(ふきじ)に向かう。ナビの命ずるままに進むとほどなく富貴寺の山門に到着。広い駐車場や食堂、土産物店などもいくつもあるが、私たち以外に人影もない。でもこういう閑散とした冬の雨もぱらつくような天気の中のお寺も風情がある。 富貴寺は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある天台宗の寺院。山号を蓮華山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基は仁聞(にんもん)と伝える。国宝の富貴寺大堂(おおどう)は、近畿地方以外に所在する数少ない平安建築の一つとして貴重な存在である(ウィキペディアによる) 富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態を持つ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた土地である。10数年前訪れた時には無造作なくらいに国宝の富貴寺大堂も開け放たれていて本尊や貴重な重要文化財の大堂壁画なども見ることも出来たが、今回は天気の悪いこともあり、本堂は閉ざされていた。それでもこの落ち着いた佇まいの大堂の素晴らしい曲線を持つ屋根を見ることが出来て心安らぐものがあった。少し斜めからも大堂を写してみた。 ここにも石仏や石塔が無数にあって飽きることがなかった。実はこの日もう一か所「熊野磨崖仏」にも行きたかったのだが、ここに行きつくためには、最後の数十メートルを大きな石がごろごろした坂を登らなければならない。この日は雨で滑ったりする危険があったので、国東半島に入る段階で今回は断念したのだった。 前回初めてここに登りついた先に大きな岩に磨崖仏の姿を見たときのの感激は忘れることが出来ない。私の予想を遥かに超えるものだった。その時は昔の北九州時代のコーラス仲間の友人夫婦と国東半島を回ったのだが,当時はまだ珍しかった彼のナビ付きの車の先導で両子寺や岩戸寺、川中不動など沢山の史跡を回った。その中でも印象深かったのが富貴寺と熊野磨崖仏だったからだ。 今回天候や時間の都合で行けなかったところが多かったが、機会を作って3回目の国東半島めぐりに挑戦したいものだ。
2013.01.28
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19日門司港レトロの門司港ホテル泊。20日同じ門司港レトロ地区の結婚式場「MARRY GORD]での結婚式を終えて、北九州都市高速道路を通って小倉南区の妹宅へ。夜は鹿児島勢8人の大家族がそこに泊まる。翌日、閑人の私たち二人を置いて6人は鹿児島へ帰って行った。 21日はその昔、私が北九州在住約12年間のうち、7年8カ月の若かった時代を過ごした小倉にある「松本清張記念館」などを訪ねる予定だったが、あいにく雨も降っていたのでためらっているうちに、従姉妹たちの来訪もあり、結局外出はやめてしまい、ゆっくりした休養の一日となった。 翌22日、今回予定していた別府温泉へ出発。妹夫婦と私たち夫婦4人の気楽なドライブ旅行である。この4人組では、これまでも臼杵・佐伯方面へのドライブ、九重山登山や山陰旅行、指宿など数えきれないほどいろいろなところに行っている。今回は、別府温泉一泊が決まっているだけで、あとは成り行きということで出発した。 義弟の運転する車で10号線を南下して昼前には福岡県から大分県境に近い道の駅「豊前おこしかけ」に到着。ここは10号線を通るときに寄るいつものスポットである。ここで簡単に昼食をとることにする。私は昔懐かしい「だんご汁」の入った「だんご汁定食」を注文する。大分の(熊本にもある)だんご汁は小麦粉をこねたものを手でちぎって細長く指位いものにしたもので一見うどんの親玉みたいにも見える。これを味噌汁状にしてある。私たちの世代が終戦後食べただんご汁を少し高級にしたくらいの素朴な食べ物である。 昼食も終わり、さてこれからどこに行くかということになり、皆どこでも良いと言う。もっとも年寄りの私に遠慮してのことだろうとは思ったが、私は10数年前に行った「富貴寺」のあの屋根のなだらかな曲線をもう一回見たいと思い国東半島(くにさきはんとう)行きを提案した。富貴寺の前に「真木大堂」に行くことにし、ナビに設定。今頃の優れものはわけもなく連れていってくれた。あまりに簡単で、逆に物足りないほどだ。昔、妻と九州内をドライブしたころは、妻の口ナビでよく喧嘩をしながら試行錯誤したものだったが、それが懐かしく思い出された。現在の私の車にもつけてはいるが、ほとんど使ったことが無かったので、急ぎのときはこれを使うのも一つの方法かと思うことだった。 ウィキペディアによると「真木大堂は、六郷満山の本山本寺であった馬城山伝乗寺(まきさんでんじょうじ)の堂宇のひとつであったと伝えられる。伝乗寺は、養老年間(717年~723年)に仁聞(にんもん)菩薩によって開創された六郷満山本山の寺院の一つで、その中でも七堂伽藍を有する最大規模の中心的寺院であり、田染地区に36の寺坊を有していたという。しかし、約700年前に火災により焼失し、詳細な史料は残されていない。真木大堂に収められている国の重要文化財4件9躯の仏像は、伝乗寺の各堂宇に伝えられたものが、各寺坊の衰退によって一か所に集められたものだとされる」とある。 肝心な仏像は撮影厳禁なものが多く、ここではこれしか撮影しなかった。興味のある方は、真木大堂のホームページを参照ください。10数年前に訪ねたときは無かった大きな空調付の御堂が建てられており、そこに平安時代作の仏像が収められていたが、そのなかの一体「木造大威徳明王像」は六面六臂六足で大憤怒の相を表し白い水牛にまたがる明王像であり、大威徳明王像としては日本最大である。 また周囲には国東搭や庚申搭など石塔も多く散在している。 石塔が境内に散在し目を楽しませてくれた。また鐘つき堂も立派のものがある。 このあと、いよいよ富貴寺に向かうが後日のアップとします。
2013.01.27
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北九州二日目、いよいよ待ちに待った結婚式である。場所は北九州市門司区の門司港レトロ地区にある結婚式場「MARRY GORD」。聞くところによるとここは昔、某都市銀行の支店があったところらしい。リニュアールしてあるが昔のいいところは全て残してあり、なんとも言えない素晴らしい建物である。 今回は妻のただ一人の妹の息子の結婚式である。ほぼ一年ぶりに会う北九州の親戚も続々と到着し、ロビーで話の花が咲く。 宗旨はキリスト教ではないが、結婚式はキリスト式である。今日日、皆も抵抗もなくそれを受け入れている日本人は懐が深い? やがて披露宴会場へ。ピアノやサックスなどの生四重奏が入っている。次々と出される関門の海の幸中心の洋食をいただく。どれもおいしい。やがて「デザートビュッフェ」ということで結婚式では初めての経験をすることになる。まあ 写真をとくとご覧ください。 70数人の客にこのボリューム。ただただおいしくいただいた。 終わってその夜は我が家8人は妹宅に泊まる。花嫁・花婿も交えて夜は寿司パーティとなった。
2013.01.25
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北九州の門司港メトロの「マリー・ゴールド」であった甥っ子の結婚式に行ってきた。出発は鹿児島の自宅を19日午前10時過ぎ、一族7人を乗せた娘婿殿運転の車である。我が家の長男は仕事の関係もあり午後3時出発で追いかけてくることになった。鹿児島から総勢8人の大所帯である。 およそ1時間40分で宮原SAに到着。孫たちを先頭に大騒ぎしながらの昼食である。ここでの我が家の人気メニューは熊本ラーメンである。私は「阿蘇高菜ラーメン」と「高菜めし」を注文し約一年ぶりにおいしくいただいた。ここでは小龍包なども売っており、いつの間にかこれも買ってきていたので、遠慮なくパクついた。気が付くと一時間近くをついやしていたが、この日は門司港にたどり着けばいいだけのことなので、ゆっくり休憩した。 宮原SAから1時間30分で古賀SA着。この古賀に近づくにつれて、車の外には昨日の雪の名残が多く見られた。SAにはまだ処理しきれない雪が小山になっていた。ここでは思い思いにポテト菓子やソフトクリームなど食べていたが、私にはコーヒータイムとなった。ここでも約45分の休憩とする。 15時35分門司インターで高速を降りて、15時43分にはこの日の宿「門司港ホテル」に到着した。 チェックインを済ませた後、明日の結婚式場である「マリー・ゴールド」の場所を探したり、しばらく門司港レトロ地区を散策した。 私はここが整備されてから5回目くらいの訪問だが、「バナナたたき売り発祥の地」の記念碑を見たのは初めてだった。 「人力車」や「オルゴール館のおじさん人形」など面白いものが多い。 この日泊まった門司港ホテル この夜、家族8人で大宴会? をやった 旬の居酒屋「海門」。クジラ料理やレトロ地区の名物になっている「焼きカレー」など子供から大人まで楽しめる料理で大満足だった。蛇足ながら、鹿児島の芋焼酎も数種類置いてある。 食事の後、周辺を散策。木々がイルミネーションできれいだった。あとの結婚式や別府・大分の旅は後日です。お楽しみに。
2013.01.24
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明日から北九州に行くことになっているが、親戚にお土産を持っていかなくてはと、約40km位先の薩摩川内市まで行ってきた。鹿児島市(人口約60万人)の方が大都市なのに、何故わざわざ薩摩川内市(人口約10万人)まで? と。 それは上の写真の「のせ菓楽」に米粉を使ったパンがあると聞いたからだ。親戚のなかに「アレルギー」体質の子供がいて、小麦粉のパンを食べることが出来ないので米粉パンを持って行ってやろうというのが、そもそもの発想である。行ってみるとここは、パンのみならずケーキも全て米粉を使っていると言う。パンは保存が効くようにと冷凍がしてあったので買おうとしたら、店員さんから「そのお子さんは牛乳や卵は大丈夫ですか」との質問あり。すぐ北九州に問い合わせてみると牛乳・卵も駄目とのこと。しかし事前に注文をすれば、豆乳を使って作ってくれるとのことで、プロの対応に感心することだった。 しかしここで、アレルギー対応の「ケーキのスポンジ」を買うことが出来たので、とりあえずそれを届けてあとは母親に任せることにする。その他のお土産のお菓子類も買う。 それより前、日置市にある都市農村交流施設・チェスト館に寄り、「地鶏のたたき」や「文旦」などを買う。この「地鶏のたたき」は近所の人から聞いて一回買って以来、我が家もリピーターになった食べ物で、これも北九州にお披露目しようと思って買ったものだ。 チェスト館を過ぎてしばらく走ると左側に「田の神さあ」が目についた。以前からここにあるのは知っていたが、今日はカメラ持参だったので、すかさず車を止めてパチリ。 上の写真が右側にあり、下の三体の「田の神さあ」がすぐその左側に設置してある。石碑にある通りこの清藤地区の基盤整備を行ったときに、散在していたものをここにまとめたものと思われる。この「田の神さあ」につては、拙ブログでも何回も取り上げているが、宮崎の一部を含む南九州の田園地帯に残された独特の石像である。尚、石碑には伊集院町とあるが、平成の合併により、現在は日置市伊集院町となっている。
2013.01.18
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1月7日の朝、鹿児島でも「七草粥」を食べる風習がある。鹿児島では「七草ずし」(雑炊の意味らしい)とか「七とこいのずし」と呼ぶことが多い。 我が家の簡単なレシピは、買ってきた七草の他、そこらにあるゴボウや人参や里芋、油揚げなど何でも放り込んでいるようだ。これに小さく切った餅を入れて、味噌仕立てで食べる。見かけは決して良くないが、大変おいしい。 ただ若い人の家庭では、どれくらいの家庭でそれをつくって食べているのかは皆目見当もつかないし、一般家庭でも作らなくなった家庭が多いようだ。もっとも6日のスーパーにはセットになった七草が沢山売り出される。雑煮を作らない家庭もあるくらいだから、寂しいことだ。 それでも鹿児島では「七草祝」の風習もあり、1月7日はおめでたい一日である。それは数えの7歳になった子供に晴れ着を着せて、神社の祈願を受けた後、親戚や友人宅を7軒回って七草ずしをもらうというものである。 七草ずしを戴くにはお膳にお椀を載せて親戚など7軒を訪問し、「七歳になりました。これからもよろしくお願いします」などと挨拶をして、お椀に少し装ってもらうものだ。差し上げる方は、お祝いやお菓子を一緒に差出し、もらう方は記念品を置いて帰る。 しかしこの風習も残念ながら忘れ去られつつあり、最近はその目出度い姿を見ることもほとんど無くなった。地方ではまだ普通に行われているのかもしれない。 私が以前書いたエッセイが出てきたのでここに再現したい。 エッセイ「七草がゆ」 2009年1月記 今年は1月7日、昼ごはんに「七草ずし」を食べた。私は勤務日であったが、娘や孫たちも我が家に食べに来るというので、昼休みに自宅に帰った。お呼びしていた婿のお父さんもみえて、賑やかな昼食になった。 七草ずしと言えば、私たちの子供の頃は7歳になると、この日は男の子は紋付き袴、女の子は振袖姿で親戚や友人の家を回り「七ところずし」をもらって歩いたものだった。今もそれをする家庭もあるようだが、その晴れ姿はほとんど「七五三」のものになってしまった。 私の七草の思い出は、疎開先の東郷町でのものだ。終戦の翌年だったにも関わらず、誰かのお下がりだったのか、紋付き袴姿で2,3軒親戚を回った記憶がある。そのとき一人の従兄弟が「写真機があれば、写してあげるられるのになあ」と言って残念そうにしていたのを忘れることが出来ない。敗戦後のことでそれすら出来ない時代だった。 七草ずしは物心ついてから鹿児島を離れる22歳まで毎年食べていたが、就職して親元を離れて北九州に行ってからは、食べる機会がなかった。当時、意識はしていなかったが、私にとっては、いわゆる「おふくろの味」となっていたのであろう。結婚すると北九州育ちの妻に私があれこれ指南しながら鹿児島風の「七草ずし」を作ってもらった。ところが毎年作ってくれても、もう一つどことは言えないがピンとこない。少し違うぞと言いながら20年近くが過ぎて、一家で鹿児島に引き上げてきた。 そこで同居した母に材料から作り方まで「七草ずし」を教えてもらった妻曰く「お父さんの教えてくれたものは違っていた・・・」そこでも私のいい加減さが露呈してしまった。それから後は、七草ずし作りの名人になり、今は亡き母を超越してしまったかのようなおいしいものを作ってくれる。孫たちも毎年我が家で食べるのを楽しみにしているようだ。 同じようなことは「かいのこうつい」(かいのこ汁)でもあった。これも我が家では昔からお盆の8月14日と15日の朝食べる習慣があった。結婚の後、これも同じような経過をたどり、今日我が家に再び定着したものとなっている。 ただ一つ我が家の伝統食から無くなったものがある。それは元日の朝食べる里芋の八頭の親芋で作った味噌仕立ての雑煮である。それは大きな親芋を丸いまま入れてあり、お椀からはみ出しそうだった。元日の朝はそれだけを食べて学校の新年の会に行ったものだ。今でも叔母の家などでは、それを食べているようだが、我が家ではいつの頃からかその風習は無くなり、普通の雑煮で祝うようになった。 その他にも沢山ある節季ごとの風習や料理など伝統的なものが、少しづつ無くなっていくようで、寂しい気がしてならない。十五夜の飾り、お盆の提灯を持っての墓守、先祖の命日のおはぎつくり、餅つきなど私たちが子供のころ祖父母や親から教えられてやってきたことが、だんだん無くなってきた。 昔からのそのような節季ごとの風習を出来るだけ子や孫に伝えるのも、我々のつとめであると思いそのようにしているが、孫たちも興味を示してくれていて嬉しいことだ。子供のときからいろいろなことを教えたり体験させることが、大切だなあと思うこの頃である。(完) ということで、今年も七草ずしを腹いっぱい食べることが出来た。餅の大好きな私は小さく切った餅を五個も入れてもらった。
2013.01.07
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4日の鹿児島はこの冬一番の冷え込みとなったが、街の楽器屋さんに用事があるという妻につきあって、二人で出かけた。2日に照国神社に初詣に出かけたばかりだったが、鹿児島一の繁華街・天文館や山形屋デパートなどぶらぶらするのは、この数年滅多にないことである。 足を鹿児島港のある方面に向けて、ドルフィン・ポートに行きついた。ちょうど昼時だったので、お節料理に飽きた私たちは「筑豊ラーメン山小屋」に入った。ここの「昭和ラーメン」は私のお気に入りである。というのも現役時代、佐賀市の鍋島にあるグールプ会社に毎年一回出張していた時に、この「山小屋」が会社の近くにあり、数日滞在のうち1日か2日は昼食にここのラーメンを食べていたからだ。 この昭和ラーメンに大した特徴があるわけではないが、チャアシュー2枚の他に、茹で卵を二つに切って、目玉のようにして載せてある。この卵の黄身はオレンジ色と言ってもいいほど鮮やかでおいしい。博多ラーメンほど豚骨だしが強くはないが、私の知る範囲では熊本ラーメンに近い。どっちにしてもくせになる味である。 ここの店のもう一つの楽しみは食べ放題の「辛炒め高菜」の漬物である。ラーメンに入れて良し、ごはんのおかずにしてまた良し。食欲が進む。鹿児島のラーメン屋は、大根の漬物を出す店がほとんどで、これはこれで凄くおいしいのだが、山小屋の高菜も負けていない。 この後、天文館方面に引き返し、タリーズコーヒーに入り、アメリカンを中カップで飲んで満足して帰った。 今日の写真はドルフィン・ポートから見た桜島。桜島は季節や時間、写す場所などにより、様々な表情を見せてくれるので、飽きることがない。この日も冬空とは思えない青空の下に美しく映えていた。
2013.01.05
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鹿児島では親戚の家などに正月に年始の挨拶に行くことを正月礼(しょがっで)と言う。私は5歳から終戦後の小学3年生の途中まで東郷町(現在の薩摩川内市)に疎開していたので、田舎での正月も印象に残っている。「しょがっで」も母方の3人の叔母の家を訪ねるのが恒例だったが、それぞれの家で子供にまで写真にある高膳でもてなされた。大体写真にあるような料理だったと思うが、特に印象に残っているのが、クマエビを上に載せた雑煮であった。大きくなって得た知識だが不知火海の「ケタ打たせ魚」で捕ったクマエビを焼いて雑煮にいれるものだが、20センチもあるので、お椀から大きくはみ出していた。当時は沢山収穫できたのであろうか、子供にまで必ず一匹づつ、ついていたものだった。 世も移り変わり、我が家のおせちもいつの間にか高膳から重箱に変わっている。というのも私が社会に出て、20年間県外で暮らし、その間結婚もして、妻の実家の雑煮(長崎雑煮にも似ているようだだが、鹿児島の雑煮にも似ている?)になってしまった。そして30年前鹿児島に帰ってきたのだが、私の母もすでに年齢を重ねていたため正月の準備も全て妻がするようになった。時の流れである。 この写真にある「八つ頭の雑煮」は私が鹿児島を出て行くまでは我が家の元日の朝の定例食だった。元日の朝だけはこれ以外の料理を食べた記憶がない。我が家の普通の雑煮は「しょがっで」の客が見えたときに私たちもご相伴をして初めていただくものだった。 今は元日の朝も普通の雑煮? を食べるようになったが、昔入れていたクマエビは今では高価になりすぎて、庶民には手の出せないものになってしまった。もっとも高価な割には干からびていておいしくもないものだが・・・。(負け惜しみ)(爆笑)で、現在ではクルマエビがその代役をつとめるようになった。
2013.01.03
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昨日から正月礼(しょがっで)に来てそのまま泊まり込んでいる娘一家と一緒に例年の通り照国神社に初詣に行った。見事な植木の鶴がいる。 ここ照国神社は鹿児島市の繁華街・天文館(島津第25代重豪が作った天文観測所)にも近く鹿児島県一の初詣客を集めることでも有名であるが、我が家も毎年ここに初詣でする。 ここ照国神社は島津氏第28代当主・薩摩藩第11代藩主で薩摩藩の富国強兵に成功し、また西郷隆盛など幕末に活躍する人材を育て名君の一人と謳われる島津斉彬が祭神である。 照国神社に向かう参道の右側に「日本中を探しても、もうほとんど見当たらない石造建築物がある。鹿児島には、この貴重な石の建築物がいくつか残されている。この県立考古資料館もその一つである。1883(明治16)年市で開催された第24回九州沖縄連合共進会のパビリオンとして建てられ当時はネオゴシック風のモダンなスタイルが話題になったそうだ。県立博物館になったのは、昭和28年からで、博物館の本館が旧図書館に移ってからは、考古資料館として使用されている」(写真の説明版より抜粋) 考古資料館前には貴重な蘇鉄が植えられている。 考古資料館の敷地内にはこのような「桜島爆発記念碑」もあったので写してきた。
2013.01.02
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