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幸加木神社の手前に建設会社があるのだが、その傍の道を歩いていると、上の写真の草に覆われた太鼓橋を見つけた。(あとでネットで調べると「幸加木中橋」という橋だった)。橋長3,55m、幅院、27mで仮設年代は不詳とのこと。しかしこの橋は写真で見る通り、廃橋になっており、この橋の少し上流側にコンクリートの橋が架けられて現在はその橋が使われているようだ。 この甲突川の支流である幸加木川を川沿い上流に行くと、幸加木神社の鳥居が見えてきて、神社に渡る石橋があった。「幸加木中橋」と言うらしい。橋長2,77、幅員1,2mという。この橋も仮設年代不詳だが、大正末頃ともいう。 下流側から大きく写す 上流側から写す この橋を渡り、鳥居をくぐるといよいよ幸加木神社境内である。川を右に見ながら森の中を進むと小さな本殿の前に石橋があった。「玉橋」という。これには「玉はし」と彫ってあり、大正8年の仮設という。 川に降りて写す この日目指した小野町の探訪はこの「南泉院歴代僧侶の墓」「木村探元の墓」「幸加木神社」「石橋」の4回で終わったが、予期していなかった石橋に遭遇したのは嬉しいことだった。まだまだ沢山の知らない、面白いものがあるという事が分かり、大きな収穫だった。 この後、国道3号線に出て鹿児島市街地に向かって歩き、途中 島津久光で有名な旧島津氏玉里邸庭園を訪ねたが、3月31日まで手入れのため休園になっていた。4月以降再訪して、又書く予定である。
2014.01.21
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木村探元の墓地を下り、道路を隔てたすぐ目の前に「幸加木神社」の表示板があった。この幸加木神社は鹿児島大学の資料によると「木村家の先祖、北条泰家が熊野三社権現を勧進したもの」とのことだ。 鳥居をくぐると、左側に4つの祠が並んでいた。近づいて見ると4つとも「木村家氏神」と書いてある。木村探元を生んだ木村家のものだ。 そこから幸加木川沿いの山道を進んで行くと小さな本殿があった。 その周囲には沢山の石造物が散在している。左から「荒神」「水神」「地神」である。 一番奥に小さな滝が見えたので行ってみた。高さ5,6mはあろうか。 滝の右側には不動明王を中心にいくつかの仏像がある。 この境内は、ほとんど訪れる人もないような静寂に包まれていたが、花を供えたり、手入れは定期的になされているようだ。写真を写すと真昼の好天にもかかわらず、半分くらいは、自動のフラッシュがたかれるほどの暗さだった。
2014.01.20
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南泉院歴代住職の墓を206号に戻り、更に進み小野公園を過ぎて幸加木バス停近くを左折し、幸加木川を少し上流へ行くと建設会社に行きつく。その建設会社の右側に次のような案内板を見つけた。 「木村探元の墓」(きむらたんげんのはか)木村探元時経は、延宝7(1679)年、城下千石馬場の甲突河畔(現在の平田橋の東たもと)に生まれました。 小さいころから絵を描くことがじょうずでしたが、23歳のとき江戸に出て、狩野探信の弟子になり、狩野派の絵を学びました。その後、鶴丸城内や京都の近衛家の障壁画などを描き、それがすばらしい絵だったので、世間の人たちから「見事探元」とたたえられました。また日本画ばかりでなく、和歌・茶道・書道にもすぐれ、晩年には雪舟に心酔し、狩野派の絵に雪舟の山水画をとり入れたといわれます。 磯別邸には、木村探元が描いたふすま絵が今も残っており、その一部は、尚古集成館に展示してあります。探元は、明和4(1767)年、88歳で亡くなりました。 それを見て足元の悪い細い坂を登って行くと左上には沢山の五輪塔? があり、少し先に木村家の歴代の墓標など数個の中心に上の探元の墓標があった。
2014.01.20
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1月17日、風はいくらか冷たいが、晴れで最高温度12度という陽気に誘われて久しぶりにリュックを背に歩いて出かけた。家にと閉じこもる一日よりも、動く一日にしたいという想いもあった。歩き始めたら快適で、いつの間にか背中が汗ばむほどである。鹿児島の冬は少々寒くても、お天道様さえ輝いてくれれば快適である。 最初は家から歩いて30分ほど先の小野町の史跡を3つ回って帰るつもりだったが、途中考えが変わり、帰りに一部バスを利用したものの、10時15分出発して家に帰り着いたのは3時45分。途中休んだのは、マックで軽食を摂った20分くらいのもので、バスの10分と合わせても30分くらいのものだった。終わってみれば、4時間くらい歩き回っていた。13Kmから15Kmくらいは歩いたか。 前段が長くなったが、話を本筋に戻そう。この日の一番先の訪問箇所は上の写真にある「南泉院歴代住職の墓」である。ここは私の住む団地を下ると行き当たる、国道3号線を伊敷方面から左に曲がってくる206号線上の小野高山バス停の右上にあった。入口の案内板に次のように書いてある。 南泉院は、照国神社のところにあった天台宗の寺院で、宝永7(1710)年徳川家康を祀る東照宮の別当寺として建立されました。当時新しく寺院を建てることは禁止されていましたので、鶴田村(現在のさつま町)大願寺の寺籍を移し、大雄山南泉院と改称して開山したものです。寺領は500石、実相院、観相院、吉相院の3つの支坊をもち三州天台宗の触頭(ふれがしら)として、藩内有数の大寺院となりました。小野高山が南泉院領であったためこの地に歴代住職が葬られています。墓は上段に開山偏詢周僧正、その下段に2世から11世までの石塔が並んでいます。 平成元年3月31日 鹿児島市指定史跡に指定されました。 上段にある開山 偏詢周僧正の墓 2代から7代の墓が並ぶ 墓地の中央部には8代から11代の墓 11代の墓は一際目につく 市の案内板の記述にもあったように南泉院跡は現在は照国神社となっているが、その照国神社は南泉院が廃仏毀釈で無くなったあと、第28代島津家当主・斉彬公を祀るために建てられたもので、西南戦争の最後の戦いでも有名な城山の麓にある。市内の中心部にあり、初詣や六月燈では毎年沢山の人出で賑わう。 (続く)
2014.01.18
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今日は買い物の帰り、近所のお孫さんがおばあちゃん(まだおばあちゃんと言うには少し若い60歳そこそこではあるが)の車に乗せられてきれいに着飾り出かけるところに出くわした。 ああ この女の子も、もう7歳になったのだと想い「おめでとう、神社に出かけるの」と聞いたところ、「これから七草粥をもらいに行くところよ! お宅にも貰いに行こうと思ったが留守だったからやめたのよ」と本気とも冗談ともとれる口調で我々夫婦に言いながら車を走らせて行ってしまった。 そう 鹿児島では、この日数え歳で7歳になった男の子も女の子も神社にお参りをする風習がある。その後親戚や親しい近所の家を7軒回り、持って行った重箱にその家の「七草粥」を詰めてもらうのだ。重箱一つに少しづつ7軒のものを入れてもらうので、大した量ではない。貰いに来てもらった家は事前にもらいに行きますという事前の連絡があるので、七草粥と祝いの金子を入れた袋を用意して置くのだ。家庭によってはその後、親戚を呼んで祝宴を開くところもある。 鹿児島では3,40年前まではこの七草祝の方が七・五・三の祝いよりも盛んだった気がする。 さてその七草粥だが、ものの本による七草粥というものと鹿児島の(我が家だけかも分からないが)ものとは、似て非なるものである。 各家庭によって違いがあると思うが、我が家のものを紹介しよう。そもそも鹿児島では「七草ずし」(なのかんずし)と言う。つまるところ中身は「雑炊」である。春の七草の他、里芋や人参など何でも入れる。そして大きな特徴は餅を入れること、味噌仕立てであることだ。 見かけは雑炊そのものなので、写真のアップはしないが、今日の我が家は娘一家も来て食べるので夕食にそれを作って食べた。大人から子供まで年一回の「なのかんずし」をフーフー言いながら美味しくいただいた。
2014.01.07
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kopandaさんのブログに「左馬」の記事を見つけた。曰く「招福の左馬は、馬の文字を左右逆に書きます。『うま』の逆が『まう(舞う)』になるので縁起が良いとされています」 私が当時「左馬」について知ったことは、天童独特の飾り駒や根付駒として人気をよんでおり、福を招く、商売繁盛などに結び付くということだったが、なるほどその謂われについてkopandaさんの記事を読んで納得することだった。 それを見て思い出したのが、我が家にもあった「左馬」の将棋の駒である。これは、私の現役時代の話だが、そのころ毎年全国の販社の新年会を兼ねた会議が箱根湯本のホテルで開催されていた。ところが平成3年の11月に山形にあった関連会社の工場が新築移転したため、工場見学を兼ねて平成4年の会議は山形で開催されることになった。 山形に行くのに寒さが苦手な私は防寒服や滑り止めの革靴などを用意して行ったことを20数年経った今も鮮明に覚えている。 山形市の工場での会議や工場見学を終えた私たちは天童温泉に移動し、そこで新年会が開かれた。そのとき参加者全員に配られたのが上の写真の「左馬」である。右の「こけし人形」は、せっかく山形に来たからと記念に買って帰ったもので、その他に「紅花染めのハンカチ」や「ずんだ餅」など買って帰った記憶がある。 ネット上で「左馬」の写真を見るとなんと1,450,000枚もアップされているようで、一部見てみたが、この将棋の駒の他 酒瓶、食器類などに「左馬」が多く使われている。
2014.01.06
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今年の我が家の床の間飾りである。 床の間の掛軸は前にも拙ブログで紹介したが、今年1月2日に満96歳になった叔母(父の妹)が私の還暦祝いに自ら描いてくれたものである。これを描いてくれたときは、83歳だったと思う。 なお「至誠」の文字は書道の得意な孫が書き入れたもので、おばあちゃんと孫の合作と言う私にとって貴重なもので、思い出の逸品である。 その我が家に今年も元旦に叔母が年始に来てくれた。そして自分の掛軸が見える場所に数時間座り、この掛軸を当然のことながら見ていたのだが、絵に関しては一言も発しなかった。 しかし、叔母は大元気で、頭もしっかりしている。食欲も旺盛で足元もしっかり。絵も週一回描いている。この調子なら百歳越えは間違いなし。今や我が一族のシンボルである。
2014.01.03
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2014年 新年あけましておめでとうございます。皆様には輝かしい新年をお迎えのことでしょう。今年もよろしくお願い致します。 大晦日 朝起きたとき久しぶりに気怠い感じがして、「ん この感じはなんだ」と思いながら家人に頼まれた買い物に近くのスーパーに出かけた。車を降りたとき、少し身震いがして、「おっ ついに風邪にやられたか」と思いつつ家に帰り「かぜのひきはじめに 〇〇〇」という漢方薬と「生姜シロップ」を飲んでゆっくりしていた。食欲はいつもの通りで変わらない。大晦日恒例の食事や習慣もいつもの通り、済ませて更に薬も服用して新しい年になった午前一時ごろ休んだ。 元旦はいつもより遅い7時30分ごろ起床。今までであれば、これくらいの風邪は一晩寝れば、どこかに吹き飛んでいたのが、この朝は相変わらず身体が重い。それでも、いつもの通り元旦の食事を済ませ、3時からは10人くらいの親戚も来宅。客に風邪の症状を悟られることもなく、接待も終わった。 しかし、それが終わると緊張も切れて、少し熱も出てきたのか身体がホヤホヤする。娘一家も来ていたが、夜8時前には「お先に 失礼 お休みなさい」ということで、眠りについた。夜中に何回も目が覚めると、少し熱があるようだ。起きだしてポンカンを食べたりして気分を誤魔化す。そして今朝は9時起床。眠りは深くはないが、なんと13時間も眠ったことで、熱も下がり、先ず先ずの気分と体調である。 娘一家も一緒の賑やかな食事の後、皆で恒例の初詣に「照国神社」に行くと言う。私は用心して日を改めて行くことにして、留守番を買ってでる。一人で箱根駅伝をテレビ観戦。 まさに「鬼のかく乱」とはこのことか。この数年風邪も避けて通っていたものが、原因も分からずに罹ってしまった。自重すべし。でも明日には全回復の見込みである。
2014.01.02
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