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龍馬の像のある広場からすぐ下に、由緒のあるような立派な墓地群が見えた。降りていくと 日本写真界の始祖 上野彦馬先生墓地参道とあり、少し進むと 市指定史跡 上野(彦馬)家墓地という説明板がある。 私も初めて知る名前であるが、西洋文明の入口だった長崎ということを考えると、そういう人がいても当然かとも思った。 上野彦馬 天保9年(1838)~明治37年(1904)日本初の商業写真家として、幕末から明治の長崎を記録し続けた。また金星観測や西南戦争に赴いて記録を残した報道カメラマンとしても草分け的存在である。現在私たちが目にする坂本龍馬やグラバーなどの著名人の写真は、ほぼ上野撮影局で撮られた。彦馬は、上野俊之丞の四男として銀屋町で生まれた。俊之丞は日本で初めて写真機を輸入したり、蘭書や実験器具を自宅に置いていたことから、自宅には緒方洪庵などの蘭学者が常に出入りしていた。そういう中で育った彦馬も、当時確立されていなかった写真技術を自ら実験を重ねて研鑽した。一連の成果をまとめた「舎蜜局必携」は当時の化学の教科書として大変な評判を呼び、開設した写真局も遠く上海やウラジオストクへ支店を出すほどだったという。 すぐ近くには通事の墓地があった。これもいかにも長崎らしいので見てみた。 市指定史跡 唐通事 林・官梅家墓地の説明版によると概略次のようなことが書いてある。 福建省福州府福家の人、林公琰(りんこうえん)が日本に渡来し、大村藩の森氏の娘と結婚して生まれたのが林道榮です。道榮は有名な大通事となりました。学問が深く詩文に長じ書を能くし語学も抜群でした。その子、三郎兵衛が早く死んだので孫の勝五郎の後見として官梅三十郎をつけました。三十郎は平井仁左衛門の子 三郎兵衛の娘婿です。三郎兵衛の子が林家を継ぎ、三十郎の子孫が官梅家となりました。この両家の墓がここに並んでいます。 次は 市指定史跡 阿蘭陀通詞加福家墓地である。案内版には次のように書いてある。 加福家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄である。始祖吉左衛門はポルトガル語の通訳として勤めていたが、ポルトガル人の国外退去に伴って阿蘭陀通詞へ移行した。寛文4年(1664)小通詞となり、その後 寛文8年(1668)には大通詞に就任している。阿蘭陀通詞の大役である江戸通詞も勤めたが、元禄2年(1689)江戸参府の際72歳で没している。加福家は、吉左衛門の後、明治維新に至るまで八代にわたって阿蘭陀通詞を勤めている。吉左衛門の他に3代喜七郎、4代喜三、5代安次郎及び6代新右衛門がそれぞれ年番大通詞に就任し墓碑もほぼ原型のまま残っていることもあり、大変貴重であると言える。 風頭公園は長崎のハタ(たこ)揚げの名所でもあると聞いており、見ることが出来るかと思って行ったが、この日はハタ上げにあうことはなかった。しかし、思ってもいなかった写真界の始祖や長崎らしい通事・通詞の歴史などを偶然にも知ることができて大変貴重な勉強をすることができた。 長崎の記事はあと2,3回書くつもりだが、明日28日から31日まで北九州に行く用事があるため2月になってしまう。北九州では29日、ウエル戸畑で開催される「クローバー コンサート」4つの合唱団が奏でるハーモニー に男声合唱団 「楠声会合唱団」の一人として歌うことになっている。黒人霊歌4曲を歌います。その後、妻の妹宅に滞在し、北九州時代の合唱仲間たちと旧交を暖めたり、小倉の街をぶらついたりして31日帰鹿の予定である。
2017.01.27
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私の長崎旅行のハイライトとも言える時がやってきた。それは、長崎の一般的な観光コースからは外れるが、坂本龍馬に関する「亀山社中跡」と龍馬像がある風頭公園に行くことである。 その後、寺町に行き、卍 深崇寺の左を亀山社中跡の案内版に従い坂道を登っていく。通りには上の看板・竜馬通りが何枚も掛けられていて地域の人々の竜馬を愛する心が伝わってきた。 かなり息が上がった頃に「亀山社中跡」に「長崎市亀山社中記念館」に着く。慶応元年(1865)というから明治維新の3年前になるが、坂本龍馬とその同志により結成された亀山社中。志士たちが集い、海運業や通商を行いつつ、幕末・維新においても重要な役割を果たした。現在の商社みたいなものか。そしてここからは中島伸幸(後に初代衆議院議長やイタリア公使)、長岡謙吉(龍馬死後、海援隊隊長を務め三河県判事)、陸奥陽之助(後の陸奥宗光として外務大臣を務める)など多才な人材を出した。老朽化した建物は専門家の調査の後、当時の雰囲気そのままに改修、復元し、平成21年(2009)に記念館としてオープンした。館内には龍馬のブーツや羽織のレプリカ、書状の写などたくさん保存展示されている。 亀山社中跡を出て再び案内版に従って風頭公園の龍馬像を目指す。冬の日の午前中とはいえ、好天にも恵まれて汗ばむ陽気で、防寒ジャンパーとセーターも脱いでしまい、腰に巻いて登った。自分の癖の早足のせいもあり、ゆっくり歩けばいいものを息を切らしながら登り、151,9mの高さの山頂に登ったときは、ホッとした。公園には地元の人々が軽い運動や散歩にたくさんみえていた。 坂本龍馬像は別の広場の入口にあった。腕を組み、袴にブーツ、視線は港の先の大海原を見つめる一人の男、全国にいくつかある龍馬像の中でも、彼本来の自由奔放で豪放な性格を表していると言われている。訪れるファンも多くこの日も2,3組の人々が逆光の中で写真を写していた。 右横にはためく旗は、「二曳」(にびき)と呼ばれる赤白赤の海援隊隊旗である。 司馬遼太郎「竜馬がゆく」の文学碑ー船が長崎の港に入ったとき、竜馬は胸の踊るような思いをおさえかね、「長崎はわしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。やがれ日本回天の足場になる」ともいった。ー(司馬遼太郎「竜馬がゆく」より)作家・司馬遼太郎氏のこの作品により、坂本龍馬の名は全国に知られるようになったという。 龍馬像のある広場から港のある長崎の街を望む。大きなクレーンがたくさん見える場所が三菱重工の長崎造船所。長崎在住時、営業マンだった私が日参した懐かしい場所である。 この文章を書くに当たり「長崎さるく」 05 龍馬と寺町等を参考にした。
2017.01.23
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前日1月10日鹿児島中央駅を出発し、先ず熊本城を見て、午後熊本を出て長崎に向かった私は長崎駅近くの日本二十六聖人殉教地をへて浦上地区に入った。そこでは、長崎原爆落下中心地公園から平和公園、浦上天主堂を巡り、懐かしい昔の職場にも寄ることができた。その夜はネット上の「楽天トラベル」で予約した「ホテル クオーレ長崎駅前」に宿泊した。この楽天トラベルは現役時代の出張の時からずっと利用しているが、ホテルの紹介内容がどの宿泊案内よりも充実しているので選ぶのに当たり外れがない。私のお気に入りである。今回もスタッフに皆さんも2,3の質問にも的確に答えてくれて、大いに助かった。聞いたおかげでこの日使う「電車一日乗車券」もフロントで買うことができた。他にもデジカメ用のSDカードを売っている場所も教えてもらった。 朝食を駅のアミュプラザで済ませて、この日一番目の目的地・諏訪神社に向かうべく電車に乗って諏訪神社に向かう。ここ諏訪神社は「お諏訪さま」と呼ばれ長崎の人々に親しまれている氏神さまで、10月に行われる長崎くんちでは旧市街地の踊町が様々な演物を奉納する。 おくんちの時には、この階段に観客は座って下の広場で繰り広げられる演物を見物するが、演舞を終わって更に下の階段を下って行こうとすると、興奮した観客が「持ってこ~い」と大声で呼び戻すため、何回も引き返しては演舞を繰り返す。 階段から踊場になる広場を見下ろす。私の長崎在住時にもこの階段席のチケットは入手できず、三体の御神体の御旅所となる大波止の踊場でまだ小学生だった長男と見学した。それも一回きりだったがどうして貴重な入場券を入手できたかは今になって記憶にない。そこでももちろん「持ってこい」の声がかけられ大いに盛り上がったことを覚えている。街中を練り歩くので、間近に見ることができて、その迫力や凄まじいものがある。私のお気に入りは「龍踊り」(じゃおどり)と「コッコデショ」と呼ばれる太鼓山である。今でも懐かしく秋になるとテレビでおくんちをよく見ることにしている。 諏訪神社の階段を下って案内版に従っていくと桃渓橋((ももたにばし)に到着。架橋当時はこの中島川の上流部に位置していて、桃の木が立ち並ぶ渓流だったそうだ。僧卜意(ぼくい)が架けたこの橋は当時の姿を今に伝えている。 中島川石橋群の案内図。私が思っていたよりも多くの橋がある。 これが有名な眼鏡橋。桃渓橋から歩いて街の中心街に近づくとこの美しい眼鏡橋にたどり着く。川面に映った影が双円を描いて眼鏡のように見える。江戸時代の長崎土産は南蛮渡来の眼鏡で会ったところからその眼鏡にちなんで命名されたという。幾多の水害による流出を免れ、日本最古の石橋と言われる。現地保存のために、両脇にバイパスを作り、洪水防止が図られている。国の重要して文化財である。 このあと、寺町に行き、坂本龍馬ゆかりの亀山社中跡や風頭山頂の龍馬像などを訪ねる。
2017.01.21
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長崎駅から歩いて日本二十六聖人殉教地を訪ねたあと、そのまま浦上方面に向けて歩き続けた私は乗り物に乗るきっかけを無くして、結局長崎駅から8つ先の松山町の電停近くまで3km弱の道を歩いていた。そして着いたところが上の写真の「原爆落下中心地公園」である。 この上には長崎原爆資料館、左の小高い丘の上には平和公園があり、その中に平和祈念像がある。またすぐ山手500mくらいの方向に浦上天主堂があり、その浦上天主堂の手前200mくらいに私が34歳から37歳まで転勤先として働いていた職場もある。この一帯は長崎の祈りの中心地と言っても過言ではない。 上の案内版には次のようにある。 爆心地から北東へ約500mの小高い丘の上にあった浦上天主堂は1914年(大正3年)に献堂式をあげるにいたった。そして1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊るされた。東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが昭和20年(1945年)8月9日、午前11時2分原子爆弾の炸裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で昭和33年(1958年)に新しい天主堂建設のためにこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザペリオと使徒である。しかし風雪にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現在の現状のまま内部及び表面の補強を行った。 長崎市は原爆で亡くなられた方々の冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されない願ってこの銘板を設置する。 原爆殉難者名奉安の塔 原爆落下中心地公園から左先の小高い丘の上にある平和公園に向かう。あの日、水を求めてたくさんの人が亡くなったのを慰霊し、たくさん水を飲んでくださいと平和の泉がつくられた。 もう夕方になっていたが、北村西望作の長崎平和祈念像はこの日も平和を願って大空に手を突き出していた。 浦上天主堂 天主堂にある石造物群。天主堂正面左手表庭にある。原爆で破壊された聖人の石像が並んでいる。どれも熱戦で黒く焦げ強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けた痛々しい姿である。 昔の職場にも寄ってみた。私は65歳で引退したあと、親会社の仕事を再びすることになり、その仕事が九州管内の各県にたくさんある関連会社を毎年2,3泊で一回づつ訪ねる仕事だった。当然その時にも長崎の職場も5年にわたって訪問し、社員とも顔なじみである。7年ぶりの訪問で皆に会えて楽しいひとときだった。 また、長崎在住のとき家族5人で暮らした場所も浦上天主堂の左方向の山手だったので、この浦上地区は散歩コースでもあり、いろいろな思い出が去来した。
2017.01.19
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熊本城からバスセンター方面に下りて昼食場所を探していると辛島町に出ていた。そこからサンロード新市街のアーケードに入っていくと、お目当ての熊本ラーメン屋を発見。高菜ラーメンを頼んだ。まあまあだったが、家族で北九州に行く時走る高速道路のSA宮原のフードコートの熊本ラーメンの方が私の舌にはぴったりくる。 辛島町電停から5駅の熊本駅へ電車で行く。熊本駅から今日2度目の新幹線・さくら56号で新鳥栖駅へ。長崎駅への乗り継ぎのためここで約30分の待ち合わせであるが、新幹線のためだけに造られた文字通り新駅のため、コンビニがあるくらいで喫茶店すらない。正直もう少しどうにかならないかと思った。 待合室で待つこと30分、やっとホームに出ていると、かもめ25号が入ってきた。 列車の旅1時間30分で7年ぶりの長崎に到着。その間、車窓からの眺めも満喫した。当時転勤族だった私は若い頃ここ長崎はちょうど3年間家族ともども住んでいて「おくんち」や「精霊流し」など子どたちと一緒に見た思い出なども重なって大変懐かしい場所である。また地元の方々も町内はもちろん、営業マンだった私のお得意さんたちも親切でいい思い出ばかりが残っている。 駅から浦上の方に歩いて約5分NHKのある坂を「日本二十六聖人殉教地」の案内版に従って急坂を登ると西坂公園に行き着く、その入口の右側に殉教跡碑がある。 案内版には次のような記述がある。 慶長元年12月19日{1597年2月5日)6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁止令のため、大阪、京都に捕らえられ、長崎に護送され長崎の町に面したこの地で処刑された。 この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられた。 また、歴史の街長崎ぶらり散策には次のようにある。 長崎県指定史跡 昭和31年4月6日指定劣勢100年祭を記念して昭和37年(1962)高さ5,6m 幅17mの御影石の台座に二十六聖人等身体のブロンズ像を配した記念碑が建立された。(彫刻家 舟城保武氏の作)また、昭和25年(1950)にはローマ教皇ピウス12世(ピオ12世)がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めている。 次回は原爆落下地点や平和公園、浦上天主堂のある浦上方面を訪ねたことを書きたい。
2017.01.17
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二の丸があった広場に神風連の戦死跡碑というのをがあった。熊本県の隣県の鹿児島に住む私は神風連という言葉は聞いたことがあったが、詳細については知らなかったので少し調べてみた。 神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる団体で神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体であった。その神風連が明治9年(1876)10月24日に旧肥後藩の士族大田黒伴雄、加屋夐堅(かやはるたかた)斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して反乱を起こしたのが神風連の乱だという。 この他、明治政府に対する反乱としては、佐賀の乱、秋月の乱、山口の萩の乱など全国各地で新政府に対する旧士族の反乱が多発するが、それに留めを刺したのが西南戦争である。 その西南戦争の時、鎮台兵士たちの妻子たちが弾丸の飛来を避けるため空堀に天幕を張って避難したと言われている。熊本鎮台司令長官・谷干城が籠城策をとり52日間守り通した。 加藤神社の鳥居 加藤神社は言うまでもなく加藤清正を祀る肥後総鎮守である。日本三名城の一つである熊本城の築城や県下全域にわたる発展の基礎を築いた祭神とする。加藤清正の生まれは尾張国。豊臣秀吉とは血縁関係にあった。9歳で秀吉の小姓となった清正は、その後功績を挙げ、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では「七本槍」の一人に数えられ、天正16年(1588)、肥後の統治に失敗した佐々成政の後を受け、小西行長とともに入国、肥後の北半分を領する大名となった。入国当時の居城は隈本城、現在の県立第一高校の場所にあり、清正、27歳の時だった。 清正が隈本城築城に着手したのは、肥後入国後の天正末から文禄年間、慶長の初めとか諸説がある。その間、文禄・慶長の役の主力として肥前(佐賀県)に名護屋城の築城の逸話を残している。文書上の築城着手は、関ヶ原の戦い最中の慶長5年(1599)で7年の歳月が費やされ、清正は「隈本」を「熊本」に改称。熊本城築城だけではなく、治山治水に尽力したことで、領民の厚い信頼を得た。 慶長16年、大阪から熊本へ帰国する途中に病に倒れ、同年6月24日未明、熊本城内で亡くなった。清正の死後は、当時11歳の忠広が跡目を相続したが、当時の将軍・徳川家光と相対していた徳川忠長と親しくしていたという理由等で寛永9年(1632)に改易され、加藤家は出羽国庄内藩にお預けとなった。そのあとに肥後藩主として当時豊前小倉城主だった近世細川家の3代目細川忠利だった。それ以降11代、240年にわたり細川家による熊本統治が続くのである。 清正公が文禄の役の記念として持ち帰ったものであり、帰国後に橋づくりの原型とされたものである。 熊本地震により崩壊た石垣の中から観音様の石造物の一部が発見されたということが鹿児島の地元新聞にも取り上げられたことがあって、興味を持っていたが、今回それを加藤神社の一角に保存されているのを見ることができた。 崩落現場から出てきた観音像の一部。他の部分もどこかにあると思われる。 行幸橋の近くに威風堂々立つ加藤清正公像 城の周囲はほとんどフェンス等で囲まれて立ち入り出来ないものの、見学者や観光客のためにここ桜の馬場の城彩苑は食事処、お土産屋さんなどが開店しており、賑わっている。 護国神社 熊本市観光ガイドブック 熊本城等を参考にした。
2017.01.16
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せっかく手にした「ハロー! 自由時間クラブ」のJR九州全線3日間乗り放題チケットを北九州は戸畑への日帰り合唱練習だけの使用ではもったいない。あと2日間を何とか有効利用しようとベストな案を考えた私の結論は、熊本、長崎への一泊一人旅である。 熊本では何を置いても先ず現在の熊本城を見たい。熊本城は加藤清正が約400年前に7年の歳月をかけて築城し、その後も西南戦争で焼失したりしたものの長い歴史のなかで復元されたりで日本を代表する城の一つに数えられてきた。ところが昨年(2016年)4月14日夜と16日未明に起きた熊本地方を震源とする震度7の地震により、石垣の崩落などが64ヶ所、建造物では北十八間櫓と東十八間櫓は石垣ごと崩れ、国指定重要文化財13棟全てが破損してしまった。その後テレビや新聞でニュースを見るたびに心配していたが、復元には数百億円の費用と20年くらいの年月を要するという。 これから20年 自分の年齢は? う~ん これはもう今行くしかない。というわけで、北九州の戸畑から日帰りした翌日1月10日、新幹線・みずほ604号で鹿児島中央駅を出発し熊本駅に9時37分には到着。駅の案内所で熊本城に行くには、 熊本城周遊バス しろめぐりんが便利との話を聞いて乗車。バスの女性運転手からいただいたのが下の写真のパンフレットである。「今こそ見てほしい熊本城」とある。我が意を得たり。 案内に従って降ろしてもらった二の丸広場から左へまわり一周することで歩き始めた。 二の丸広場から見る左から大天守、小天守、宇土櫓 戌亥櫓 ここは建物の真下の石垣が崩れることがなかったので建物が残った。 角度を変えて戌亥櫓を見るとほんとに奇跡的に残ったと思われる。 このように石垣が何らの被害を受けていない場所もある。 石垣が崩れて木々も倒壊している場所もある。 小天守と大天守 原型を留めない石垣群 その一方で力強く復興工事も始まっている。 実際に見るとテレビやその他の写真で見ていた飯田丸五階櫓など見ることができない場所もあったが、肉眼で見る現場は凄まじいものであった。 次回は城内や周辺にある神社や銅像などを紹介したいと思う。
2017.01.13
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1月29日に北九州市戸畑区の「ウエルとばた」で「クローバ・コンサート」が開かれる。そのチラシによると 4つの合唱団が奏でるハーモニー 出演団体 ☆女声コーラス「おおたに」 ☆女声合唱団「飯塚マミーコール」 ☆混声合唱団「田川合唱団」 ☆男声合唱団「楠声会」(賛助出演) となっている。福岡楠声会は福岡のメンバー中心に編成されているが、元は同じ大学で男声合唱を歌った仲間が鹿児島に本部を置きそれぞれの地域で歌っているということだ。3年に一回の鹿児島開催の演奏会には東京を初め全国からOBが集まり、100人を越す男声合唱を披露してきた。もちろん福岡のメンバーも然りである。今回急遽上記演奏会に賛助出演させていただくことになり、30人くらいの演奏をしたいということで、鹿児島にもオファーがきた。 昔々その昔、北九州に12年住んだことのある私は戸畑で歌いたいと思い恥ずかしげもなくそれに応じたのだった。若い頃北九州で一緒に歌った仲間にもそのことを年賀状に書いて知らせたが、果たして当日来てくれるのかどうかは定かでない。 そういうことで、1月9日、鹿児島中央駅を新幹線に乗って出発した。そのチケットが面白い。女性50歳以上、男性60歳以上に入会資格のある「ハロー! 自由時間クラブ」の会員になれば、全九州エリア版ではJR九州全線に連続する3日間乗り放題で16,000円である。(その他の規定を知りたい方はウェブ検索でどうぞ) さくら548号で鹿児島中央駅出発から1時間30分の11時5分には博多駅着、戸畑集合の13時30分までは十分な余裕である。 現役時代、最低でも毎月一回は福岡の九州支社詣でがあったが、当時は新幹線は無く、会議の時間の関係で航空機を使っていた。ただその後の懇親会と称する飲み会やホテルに泊まることも多く、博多駅周辺は馴染みの場所でもあった。2009年の5月に引退する頃は博多駅は大改装中で現在の姿を見るのは初めてだった。 筑紫口 因幡うどんも懐かしいうどん屋さん。 ごぼ天うどん480円、かしわ飯のおにぎり220円 安上がりでも懐かしく腹いっぱいになり満足。博多口 特急 ソニック23号にて13時ちょうど戸畑駅着。同じ列車から仲間がたくさん降りてきて合流し、駅を出てすぐ左側にあるウエルとばたに行く。 ロビーには、2016年ユネスコ無形文化遺産登録の「山、鉾、屋台行事」戸畑祇園大山笠行事」として見事な提灯山笠などが展示されていた。 この日の練習は私たちに与えられた時間14時~15時。 合同の混声合唱曲の練習 15時~16時の2時間で終了。その後おじさん合唱団の有志? たち懇親会と称するものに行ったが、私は明日からの熊本、長崎一人旅に備えて鹿児島に帰った。戸畑から特急きらめき13号、博多から新幹線・さくら63号に乗り継ぎ、鹿児島中央駅に19時49分帰着した。
2017.01.12
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元旦以来の初の日曜日。今日はおじさんコーラスの歌い初めだった。練習曲は今年初めてのステージになる1月22日の「曽於市合唱フェスタ2017」で歌う5曲である。 練習1時間後の休憩時間には1月の誕生日の団員の挨拶があり、その後全員で「♪。.:*・゜ハッピバスデーツーユー♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦」を合唱した。これは毎月、月初めの練習日の恒例行事である。 明日から3日間ちょっと出かけます。久しぶりの自分へのご褒美かな?皆さんのブログへの訪問は帰ってきてからということにさせてください。
2017.01.08
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昭和15年1月5日生まれの私の誕生日、今年は喜寿でもあり、何か記憶に残るようなことをしようと思った私は歩いて鹿児島五社(上町五社)詣りをすることにした。 我が家のバス終点を9時50分発のバスで妻と二人で出発、10時35分に一位の神社・南方神社(諏訪神社)に到着、ここが昔から五社詣りの出発点だという。 鹿児島五社が上町に集中しているのは、鹿児島城から見て北東いわゆる鬼門と言われていたことに起因するらしい。それだけではなく、もともと上町は薩摩藩の中心地として栄えた場所で現在も多くの史跡が残されているいわゆる歴史の宝庫である、 この南方神社(みなみかたじんじゃ)の小さな裏山の300m位の場所に私は中学2年生の途中から、昭和37年学校を卒業して小倉市(現在の北九州市)に行くまでの約8年住んでいたこともあり、この辺り一帯は懐かしい場所でもある。 ここは諏訪馬場(すわんばば)と呼ばれた通りで私がここに住んでいた頃は、毎年8月28日に諏訪市が開かれていて、農機具販売などを中心にしたテントの店が両側に数え切れないほど並んだものだった。 南方神社を10時45分に出発し二位の八坂神社へ。 3が日は過ぎていたが、正月だけあって参拝客がちらほらという感じである。鹿児島の祇園祭もここからの出発である。 八坂神社拝殿前から桜島を望む。ここを11時00分に出発し再び引き返す形で南方神社方向の稲荷神社に向かう。 八坂神社から稲荷神社へ。 ここは、鎌倉初期に島津家始祖が創建したという。孫の高校受験のお守りを買う。稲荷神社を11時35分に出発し春日神社に向かう。 春日神社を11時55分に出発し若宮神社に向かう。 12時15分五社全てをまわることができた。歩き始めるまでは、2時間以上の時間を要するのではと思っていたが、各神社ともお詣りの時間は5分くらいではあったが、全てをまわって1時間30分しか経過していないので逆に驚いた。 五社それぞれについては、過去に当ブログの中で触れているので、今回は詳細については省いた。
2017.01.06
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明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い致します。 年の初めの我が家の行事、初詣は今年は恒例の二日ではなくて元旦に行くことになった。その理由は単純で2日、3日の箱根駅伝を心ゆくまで見たいと言う娘の一言で決まったのである。元旦の初詣にすれば、元旦の8時30分から放送が始まり14時30分までの「ニューイヤー駅伝2017第61回全日本実業団対抗駅伝競走大会」を全部見て、それからそれぞれの家庭から照国神社に15時に集合し初詣を済ませて親元の我が家の団地に上がってくればいいというわけである。まんまと娘の策略に乗せられた我が家も息子家族もその通りに動くことになった。 箱根駅伝はともかく実業団駅伝はあまり見たことがなかった私たち夫婦も、それならばとばかり朝から動きながらもテレビを見ることになった。なんとそれが当たりであった。鹿児島実業高校が高校駅伝で全国制覇をしたときのメンバー中、双子の市田兄弟が大東文化大を経て旭化成に就職し、今年は二人共ニューイヤー駅伝のメンバーに選ばれていたのだ。そして4区の市田兄が区間賞、5区の選手も区間賞、そして6区の市田弟が大会新記録での区間賞をとって旭化成に18年ぶりの優勝をもたらしたのだ。こういうレースの目撃者になれたことで娘には感謝である。 行き先の照国神社(島津斉彬祭神)はいつもと同じである。毎年32万人くらいの人が初詣に訪れる鹿児島県一のスポットである。その大鳥居の下に娘家族4人、息子家族4人、我が家から夫婦と次男の3人の合計11人が集合。ところが元旦の初詣は簡単ではなかった。これまでの二日のときは普通に歩いて本殿まで行けたものが、今日は大鳥居の先まで長蛇の列である。まあそれでも、35分くらいで本殿にたどり着くことができた。大都会の有名神社の初詣ほどではないが、この田舎でもこれくらいの時間を要するのだと感慨深いものがあった。 終わって我が家へ。いつものように小さな床の間も簡単な正月の設えをした。ここに11人と従姉妹の娘・Tちゃんとその娘・Mちゃんも加わって大賑わいである。
2017.01.01
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