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久しぶりの好天。窓からは遠くに白い雲が見えるだけで、暖房を切った室内温度、只今17度。私の居る居間のデスク・トップの前にまで、お日さまが入ってきている。のんびりとした、心までほかほかするような日和である。鹿児島の冬は、お日さまさえあれば、なんにもいらない。 かみさんはコーラスの講習会のため桜島に行ってしまった。残った私も今日は4時から“おじさんコーラス”の練習のため3時過ぎのバスで練習に行かなければならない。それまでこの空気を楽しむ。 写真の通り、我が家の冬の雑草園は荒れ放題。なにおか言わんや!そのなかで一つ“万両”だけが多くの実をつけている。ここに引越して30年。いつの間にか株数が増えて、12株にもなっている。また、いつかいいことがあるのだろう。そんなことを思うなんとも嬉しい日和である。
2012.01.29
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(その二から続く) 天文館にある千石神社(伊勢殿屋敷跡)の説明を受けた後、別な道を通って再び城山の方向へ歩く。中央公園の手前にある「医学院跡」という記念碑の前で説明を聞く。ここは島津家第25代当主、重豪(しげひで)が開いた現在で言う医学校の跡である。重豪はここでの医療技術者の養成には武士階級だけではなく、町人百姓にまで道を開いた。また、蘭学やオランダ語にも興味を示し、ローマ字も書いた。そして後に明君と呼ばれる曾孫の斉彬の才能を高く評価し一緒にシーボルトと会見している。藩校 造士館を造るなど優れた人であった。 そこから城山の麓に歩いて数十mで照国神社へ。ここは28代島津斉彬を祀ってある。鳥居の高さ20mという巨大なものである。今も第2次世界大戦時にグラマンからの砲弾の痕が残る。国旗「日の丸」制定の由来を書いた表示板もある。照国神社の隣に「探勝園」がある。ここは鶴丸城二の丸の庭園だった所だ。島津斉彬、久光、忠義の銅像があるが、いずれも大分県竹田市出身の彫刻家 朝倉文夫の作である。照国神社にはお参りしても、なかなか気がつかない人が多いが、一見の価値がある。 初め2時間の予定で回り始めたのだが、Y・Iさんも力が入り(生徒のどんぐりの会のメンバーが熱心だった?)3時間オーバーの歴史散歩になってしまった。3回に分けて書いたが、此の他にも沢山の史跡を見て、説明を聞いて、いままで知らなかったことを沢山学ぶことが出来た。これから勉強したいテーマもいくつか見出すことも出来て大変貴重な時間だった。 終わって天文館の「いちにいさん」でY・Iさんを囲んで食事をしながら、皆から沢山の質問もあり、それにも丁寧に答えてもらい、楽しい鹿児島市中心部の歴史散歩は終わった。
2012.01.20
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(その一から続く) 次に城跡の道路を挟んで向かい側にある鹿児島市役所の建物の説明を受ける。この建物は昭和12年(1937年)竣工であるが、当時の岩元市長が先見の明があって建物の裏側も城山から見えるからということで、正面と同じようにきれいなタイル積みにした。ここも国指定の登録有形文化財である。 一つ「ああ そうだったのか」という面白い話を聞いた。それは「下馬評」という言葉の由来である。日ごろ何気なく使っている「下馬評」はどういう意味だと思いますか。史料としてもらった「古地図」のなかに「下馬」という場所があった。鶴丸城の本丸正門の下に位置していて現在は裁判所などがある一帯である。Y・Iさんの説明によると、そこは登城する武士たちが馬を下りる場所であり、主人が仕事をする間、馬を曳いてきた供の者たちが、うわさ話や批評をする場所であった。そこから第三者が興味本位で話す批評などすることを「下馬評」と言うようになったとのこと。現在ならさしずめお抱え運転手つきの高級車が待機する駐車場というところだろう。日本全国この「下馬」があったのだろうか。目からうろこという気持ちで聞いた。 国指定の登録有形文化財であるコリント様式を誇る南日本銀行本店、鹿児島銀行本店別館の説明を受けながら山形屋デパート前へ。ここは鹿児島の人間なら知らない人はいない九州でも有数のデパートであるが、その歴史を聞いて驚いた。創業は宝暦元年(1751年)で大正6年には神戸以西におけるデパート第一号として開店したとのこと。第25代島津家当主,島津重豪(しまづしげひで)のいわば企業誘致に応ずる形で山形から岩元家が創業した。1号館壁面に今も残るレリーフには「呉服太物商 山形屋商店 呉服太物類 琉球反物類」とある。改葬後の現在も正面玄関には創業当時の銅版、大理石、シャンデリアなどが使われている。 山形屋のすぐ近くに納屋馬場(なやんばば)がある。ここは島津家第18代当主、島津家久が、鶴丸城を作ったとき、薩摩藩指定の魚市場として漁商組合の48人に開かせた。ただ現在は水産物屋一軒が残るだけで、他業種に転換している。 そこから少し歩くと鹿児島随一の繁華街天文館である。この天文館の由来にもなっている「天文館跡」の記念碑がある。ここも島津重豪がヨーロッパの文明を取り入れて1779年に天文観測や暦の作成などを行うためにここに明時館(別名天文館)を建てた。そして当時の幕府とは別に「薩摩暦」を作った。農事暦みたいなものだった。(その三に続く)
2012.01.18
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なんと元日以来の更新である。よくサボったものだ。それはさておき、昨日17日の鹿児島は絶好の散歩日和だった。たまたまそういう春のような陽気になることを予想していたわけではないのだが、「鹿児島市中心部の歴史散歩」を企画していた日が昨日だった。私が調子の良い「晴れ男」だったのか。鹿児島の歴史にも強いコーラス仲間のY・Iさんが歴史案内をしてくれるというので、どんぐりの会の仲間を誘って総勢6名で県文化センター(宝山ホール)前に行った。 私たちより早く着いて待っていてくれた、Y・Iさんから「鹿児島の古地図」(天保14年、1843年の古地図)をもらって、今日の案内場所などの説明を受ける。私はその古地図を見ただけでも嬉しくてもう大興奮である。その古地図には彼の手によって、当時の主だった建物や道路の名称や現在の電車通りなども書き込んである力作である。 説明は「西郷隆盛像」のことから始まったが、大久保利通や西南戦争のことまで話は及び歴史好きの私も知らないことが多く楽しく話を聞いた。あの篤姫で大きくクローズアップされた「小松刀帯像」も近くにあるので、これの説明も受ける。今更ながら、36歳で亡くなったのが惜しまれると思った。同じ場所にある鹿児島市の中央公民館も見慣れた建物なのだが、これも説明を受けると初めて知ることばかりだ。昭和2年10月(1927年)開館したが、現在も使われており、建物はロマネスク調で窓枠はイスラム調というのだそうだ。御影石と少し柔らかい感じの加治木石が使われている。国指定の登録有形文化財である。ここは740名収容で私たちの学生時代演奏会といえばここしかなかった。現在はこの隣に県文化センター、与次郎ヶ浜に市文化ホールなど立派なホールが沢山ある。いい時代である。 その後「人間会議道路賞」を受賞したという今もがガス灯の灯る鶴丸城跡の下の道路を通って鶴丸城二の丸跡に建つ県立図書館前へ。ここも私にとって馴染みの場所だが、ここには75万冊の蔵書があるとのこと。因みに国立国会図書館には3500万冊あるそうだ。 この二の丸跡から北側は少し高くなっていて本丸跡になるのだが、現在は「鹿児島県歴史資料センター黎明館」になっている。この一帯は史跡でも史料でも鹿児島の歴史を知る上で欠かせない場所である。(その二に続く)
2012.01.18
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何はともあれ、新しい年を迎えた。新しい年を迎える日はいつもの日常なのだが、そうであってはならない“新しい何かが始まる日”であってほしいと願うのも自然な気持ちである。 昨年の東日本大震災、それに伴う福島原子力発電所の問題、そこから派生した九州電力の問題、日本の戦後政治のつけが吹き出したような財政危機、沖縄問題、原発問題・・・などなどいま日本が抱えるこういう問題は早くから予想できたのではなかったのか。 しかもそれらが露呈された今でも揚げ足取りの政争に明け暮れる政界。東北では今尚、30万を越える人々が、この寒い冬を、正月を避難先で過ごしおられるこの現実を一体どうしようとするのか。我々個人の力ではどうしようもないもどかしさを感じながら新年を迎えた。 個人の限界を感じながらも、新しい年を迎えて自分なりにやらなければならないこともある。この新しい年をどのように生きるか。まあ、この際、あまりむつかしく考えるのはよそう。先ず、自分がしっかり生きることからしか何事も始まらない。今年もやりたいことは、いっぱいある・・・。それ等をこれからの生き方にしたい。内容? それは一年をかけて少しづつ書いていきたい。 今年もよろしくお願いします。
2012.01.01
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