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☆ 4月30日(金曜日) 旧三月十七日 庚戌(かのえ いぬ) 先勝:顧問先の会社の事務所が世田谷区内、多摩川のほとりにあるので、最近ちょくちょく出かけている。最寄り駅は東急田園都市線の二子玉川駅である。この駅名というか地名というか、「二子」というのも、「玉川」というのも、私の心に何となく引っかかっていた。二子玉川の駅のある辺りは、東京都世田谷区玉川であって二子という町名は無いのだ。先ず「二子」である。これは「双子」ではなく「二子」と書く。これは元々多摩川の対岸、川崎市高津区の地名だが、その辺りに二子塚古墳というのがあった事に因むのだそうだ。二子塚古墳は大阪の太子町のものが有名で、これは一説に推古天皇とその王子の陵墓だという。しかし、二子塚という名を冠した古墳は全国各地に沢山あるようだ。川崎の二子塚古墳もその歴史は律令時代にまで遡ることができるらしいが、どなたのお墓だったのかは何処にも記述を見つけられなかった。日本の律令時代は7世紀から10世紀頃の事を言うが、古墳が盛んに作られた3世紀から7世紀後半の頃とは7世紀の一時期が重なっている。多分当時の人は、大元の二子塚古墳というのを聞き知っていて、それにあやかる形で近くの古墳にもそう名付けたのかもしれない。何れにしろ、二子という地名は多摩川の対岸のものであり、現在も多摩川の神奈川側に二子新地という駅名がある。それが世田谷側の駅名にもなったのは、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄が大井町線の開業にあたって対岸から借りてきたのだそうだ。二子は当時三業地として賑わう歓楽街であった。そこで、繁華な二子への最寄り駅という意味を込めたかったのだという。次は玉川だ。多摩川の源流は山梨と埼玉の県境にまで遡ることができる。その源流に近い上流域を「丹波川」と書いて「たばがわ」と読むが、この「たば」が段々に転訛して「たま」になったというのが、有力な説のようだ。充てる漢字については、流域で麻が良く採れた事から「多麻川」。昔流域のあたりを大国魂命(おおくにたまのみこと)が治めで居たので「魂川」。など諸説があるらしいがどうもこじつけめいて胡散臭い。要するに「たば」が下流に行くにつれ、柔らかな音になり「たま」になった。それに、様々な趣向で適当に曰くありげな漢字を充てたというのが事実なのだろうとおもえる。元来日本語には漢字が豊富にあるせいで、おなじ音に様々な漢字を充てる傾向があるのだ。ところで、多摩川は奥多摩の山地から流れてくるから多摩川だとも考えられるのでは、という気もするが、これは逆で、奥多摩も三多摩も多摩川の流域にあるからその名が付いたと考えるのが正しい。私の住む埼玉県の「埼玉」も、「多摩地区の先(遠方)にある」から「さきたま」→「さいたま」となったのだそうだ。因みに、「玉川」という名称は江戸時代にまで遡ることができるそうだ。多摩だろうが多麻だろうが、魂だろうが、「玉」という、簡単で縁起も良い字に括っておけば良いという当時の役人なりの合理的発想だったのだろう。現在でも「玉川」はデパートや地名、施設などの名前に数多く使われている。「先(崎?)多摩」が「埼玉」となったのも、こんな理由かもしれない。ところで、二子玉川という駅名は「ふたこたまがわ」と「こ」を濁らないで発音する。これは二子新地駅も同じだ。ところが、地名としての「二子」は「ふたご」と「こ」を濁って発音する。これはいったい何故であろうか?ハウステンボスがある長崎県佐世保市では、「させほ」と言ったり「させぼ」と言ったりまちまちだそうだが、土地のバスガイドさんに尋ねたら、「させほもさせぼも、ほぼ同じ」と答えたという話がある。「ふたご」も「ふたこ」もこれと同類なのかもしれない。
2010.04.30
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☆ 4月29日(木曜日) 旧三月十六日 己酉(つちのと とり) 赤口: 昭和の日今日は昭和の日。私くらいの人間にとっては「昭和の日」というより「天皇誕生日」の方がしっくり来る。今の20歳代以下の人たちはどうだろうか?もう「天皇誕生日」いっても怪訝な顔をされるだけだろうな。この日は「大連休」の初日でもある。協調性に優れた我が国民は、相変わらず相当数が方々へお出かけになって道路渋滞や景勝地や行楽地の混雑に貢献なさるようだ。不況だ雇用不安だと色々あっても、連休になるとどこかに出かけるのだから、私が小さかった頃と較べれば、国民全体の生活はよほど楽にはなったのだ。今まで乱高下した気温も、連休中はなんとか落ち着いている様子なのはご同慶の至りである。連休を迎えても総理や閣僚の方々はお休みどころではあるまい。何しろ鳩山さんは米軍基地問題を解決するのを、止せばいいのに5月末と区切っておしまいになったけれど、百家争鳴一向に解決のめどは見えて来ない。現状の下では日本に米軍基地が必要であることには、殆ど全ての日本人が不承不承にしろ納得しているはずだ。かつてどこかのお気楽野党が非武装中立を掲げていたが、あれは他所の国々も皆信義を重んじ、信用できるのだというのが前提としてあっての話だ。軍事力の廃絶はゴールとしては相変わらず掲げるべきではあるが、今の現実の中では武力というものを保持しないで国や国土を守れるほど世間は甘くは無い。だからよんどころなく米軍の駐留に甘んじているのだ。さもないと、中国のように軍事費に国税のかなりの部分を費やさないとならない。幾ら費やしても今からでは無理だろう。そうなると国民の福祉などに遣えるお金など無くなってしまう。その辺は皆おぼろげながら承知している。ところが、米軍基地が自分の近所の話となると途端にイヤだダメだとなる。まるでゴミ集積場と同じ扱いだ。沖縄の人たちにとっては、今まで数十年間にわたって現実の切実な問題だったが、他の場所に住む我々にとってははっきり云って他所事だった。その他所事連中が、報道を見て迷走だとかリーダーシップが無いと批判する。自分を高みに置いての批判に過ぎないではないか。お気の毒なのは当事者の方々である。今まで自民党政権が何事も成し得なかった課題を背負わされ、民意を汲んで何とかしようとすれば、迷走だとかだらしないとか言われる。開かれた政府を実施しようと、色々それぞれに説明すれば、閣内不一致だとか閣僚の意見に齟齬があるとかいわれる。いったい我々は何を求めているのか?強いリーダーと卓越したリーダーシップなのか?それとも懇切に「説明責任」を果たし、その都度「民意」を汲んでくれる「気の良いおじさん」なのか?明らかにこの両者は相容れないものだ。それにしても、鳩山さんもそろそろハラをお括りになったら如何か?一郎さんと共倒れになるおつもりならともかく、事の黒白はさておいても、あれほど胡散臭く思われてしまった人だ。泣いて馬謖を斬る諸葛孔明になぞらえるのはこの際不適当かもしれないが、無理やりでも鳩山孔明となって、この点ばかりは「民意」をご利用になったらよい。それも出来るだけ速やかに、だ。事業仕分けもいただけない。税金の使い途の無駄を省くのは当たり前のことで、これも本来はもっと前からやっていてしかるべきものだ。それを推進するのは当然のことだと思う。但し、コトの性格として我々国民がそれによって意気軒昂になるかといえば、逆である。今我々国民の中にある共通する政治観は「閉塞」という言葉に尽きる。そういう雰囲気の中で、人民裁判じみたやり方で国が関わってきた事業をバサバサ切り捨てていくのを見せられるのは、閉塞感を上乗せする。ご本人にはお気の毒だが、真っ白なスーツを着た蓮舫女史が目玉を剥いてマイク片手に「切り込んで」いらっしゃるのを見ると、おぞましいものを見せられたようで、私ごときは本当に気が滅入ってしまうのだ。かといって今のこの時期に政治の空白を作ってしまうのは、如何にも危険で莫大な無駄でもある。他の野党は言わずもがな、自民党にしろ、脱藩組の○×党にしろ△□党にしろ、反民主、反鳩山というだけで、光明を予感させるものとは程遠い。前にも書いたが、政治はある面演出であり、我々国民大衆は「政治の雰囲気」に大きく左右されるものだ。鳩山さんも民主党の面々も、この閉塞感に突破口を開ける工夫を何とかしていただきたいものだ。何れにしろこの大連休の期間、お歴々にはご自愛をお祈り申し上げると共に、何とか「明るいネタ作り」をお考えになって欲しいと思う。・・・と、つい「小言こう兵衛」になってしまった。本当は、最初から書くつもりだったのは以下である。昨日の私のブログで、上野の森公園、国立科学博物館で開催している大哺乳類展で触発された内容について書いた。そうしたらPonjoiさんから早速コメントを戴いた。Ponjoiさんからコメントを戴いたのはこれで2度目である。拙ブログにも僅少であるとはいえ、ちゃんと読んでいただく方がいらっしゃり、時にコメントをいただけるのはありがたいことだと感激している。以下に戴いたコメントを引用させていただく。お邪魔します。地球の歴史を見た場合、ザット88%近くは未知の領域に属します。ところで地球の歴史の45億年を東海道・山陽新幹線の長さに置き換えてみたことがあります。すると、光合成活動を行うシアノバクテリアが出現したのは、大阪から神戸の先辺りになり、恐竜が現れたのは(新幹線の駅ではありませんが、分かりやすく表現する為に東海道本線の駅名で表示すると)大船あたりになります。そして恐竜が滅んだ1億5~6千万年とは多摩川よりもチョイとばかし東京寄りの辺りになります。===更に追伸として。私の話で肝心なことを忘れていました。私が書き込んだことからもお分かりいただけるかと思いますが、私の話では博多駅が地球誕生の時で、東京駅が現代という設定です。Posted by:ponjoi at 2010年04月29日(木) 07:45地球の歴史や人類の歴史を、カレンダーや時計に見立てて表現するのは方々で見かける。「新図詳エリア教科事典 生命・人体」(学習研究社 平成6年)では、地球の歴史は12時間に喩えたものが掲載されているし、カール・セーガンの「コスモス宇宙 第1巻・第3巻』(旺文社 昭和55年)では、宇宙の歴史を1年に喩えた資料がある。近くでは、小田原にある神奈川県立生命の星・地球博物館http://nh.kanagawa-museum.jp/に「地球時計」があったと思うし、その元祖はスミソニアン博物館に有ったように覚えている。(スミソニアンのは「宇宙カレンダー」であったかもしれない。)時計やカレンダーのほかに、東海道・山陽新幹線に喩えるのはPonjoiさんのコメントで教えていただいた。これも面白い。何億年、何十億年という長大な時間や巨大な数値、或いは逆に微小な数値を、我々の日常感覚で理解できる尺度に直してみると、新しい視野が開けて面白い。試しに私のブログでも書いた紫外線の波長を東海道新幹線で喩えて見ようとしたが、数百ナノメートルというのが、新幹線上でもたった数ミリににしかならないので、これは面白くなかった。宇宙の歴史でも地球の歴史でも、哺乳類の誕生や人類の登場など、我々の「知っている」イベントはカレンダーや時計の極々端の方になってしまう。それはつまり、我々に「自然は偉大であり、人間如きが思い上がってはいけない」という警告を示唆してくれる。同時に現実に今を生きている立場からすると、時計の端の小さい隅や、或いは大晦日の真夜中間近に、我々の「領分」がチマチマと固まってしまうのは物足りなくもある。私はふと、これを対数グラフで表現してみたらどうかと思った。例えば人類の登場した時を起点に、横軸は経過年数を対数で目盛る。縦軸は通常軸とし、人間の活動レベルを、プロットする。人間の活動レベルといっても様々な指数が有り得る。人口、占有する土地面積(或いは森林原野の減少)、エネルギー生産量、CO2排出量・・・そうして出来上がるグラフはどんな軌跡を描くだろうか?単なる想像であるが恐らくは初めのころは緩やかな傾斜を描き、その内傾斜角が大きくなって右上がりの直線を描くのではなかろうか?このグラフを眺めて、現在より先に延長してみるとちょっと恐ろしい雰囲気に浸ることが出来そうである。いずれやってみようと思うが、今のところ手を付けるほどの時間と根気がないのである。
2010.04.29
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☆ 4月28日(水曜日) 旧三月十五日 戊申(つちのえ さる) 大安: 望大哺乳類展に行ってきた。巨大なアフリカゾウと小指の先ほどのトガリネズミ骨格が、頚椎の骨の数は7個と同じである、というのに感動した。様々な動物の剥製を観ていると、良く似た知人や友人を思い出して、都度ニヤリとしていた。それやこれやで都合4時間ほども楽しんでしまった。哺乳類は約1億6千万年前に地球上に登場した。最初の哺乳類は夜行性の小動物で、当時全盛だった恐竜の目を逃れて森や林の奥で暮らしていたと考えられていた。しかし最近では、自由闊達とは行かなかったまでも、当時から陸だけではなく空や海でも哺乳類が暮らしていたといわれている。今回は哺乳類の中でも陸上動物がテーマだった。(7月13日からは、同じ場所で海棲哺乳類の展示が行われる。)だから、彼らは遠い昔に、海から陸に上がってきた動物の子孫ということになる。母なる海は生命にとっての揺籃であり、居心地も良かったろう。我々の体の中にも未だに海の名残や、潮の満ち干の影響が残っている。そういう「パラダイス」から陸上に上がってくるには、よほど強い動機があったに違いない。以前からそう思っていたけれど、それはどうもオゾン層に関係しているらしい。これは初めて知った。地球の歴史は約45億年前にまで遡ることができる。その後10数億年ほどの時間が経過して、約30億年前には、光合成をするラン藻類が現れた。光合成とは、具体的には太陽の光と二酸化炭素、それに水を利用して炭水化物を合成することを言う。当時の地球の大気は火山活動などによる二酸化炭素ガス(CO2)が主成分であった。生命は海の中にしかいなかった。ラン藻類による光合成も海の中での話である。ラン藻類は海水に溶け込んだ二酸化炭素ガス(CO2)と海水(H2O)を利用し、水面下まで届く太陽光の力を借りて光合成を行った。その結果炭水化物(グルコースC6H12O6)と酸素分子(O2)が作られ、余剰物質である酸素分子は大気中に放出された。その酸素の一部が紫外線の影響を受けてオゾン(O3)として大気中に蓄積されるようになった。オゾンは刺激臭のある気体で、生き物には猛毒である。放出された酸素分子は紫外線の中の242ナノメートル以下の波長成分を吸収して、酸素原子に光解離される。この酸素原子が酸素分子と結びついてオゾンとなる。(O+O2→O3)同時に、生成されたオゾンは320ナノメートル以下の波長成分を持つ紫外線を吸収し、酸素分子と酸素原子に分解される(O3→O2+O)。つまり、酸素とオゾンは共に紫外線を吸収する性質があるのだ。当時の大気中には紫外線を吸収する物質が無かったため、地上には直に強い紫外線が降り注いでいたが、ラン藻類の光合成が活発化して酸素濃度が上昇するとオゾンが増えて、地表面に降り注ぐ紫外線の量は急速に減少した。そうすると上記の反応は、それまでより高空で起こることになる。こうしてオゾンが作られる場所も高空に上昇して行った。それが成層圏に達して、オゾン層を形成することになった。紫外線は殺菌灯として利用されているように、生物にとって有害である。人間にとっては日焼けの原因になり、ひどくなると肌に炎症を起こさせるし、皮膚癌や白内障などの原因にもなる。つまり、オゾンは生き物にとっては強い有毒物質であると同時に、生き物に有害な紫外線を防ぐという二つの面を持っているのだ。従ってオゾンが地表近くに留まっていては、生き物が上陸して適応放散するなど起こらなかった。しかし、先に述べたようにオゾンがオゾン層としてはるか高空に形成された事で、生き物は毒性なしに紫外線を遮断してくれる、ありがたいスクリーンを手に入れることが出来たのである。そのお陰で、海中の植物は上陸し、動物も揺籃の海を離れて陸上に上がってきた(両生類)。約4億年前の事だ。現在でも動物プランクトンには、昼間は海中に沈み、夜になると海面近くに浮上してくるものが多いそうだ。これは、昔紫外線から逃れていた名残だとも云われている。35億年にわたって陸上生物の母であり保護者であったオゾン層は、大昔の生き物によって作られたのである。生命の力は偉大ではないか。こうして出来たオゾン層は、生き物のために紫外線のフィルターとして働くだけではない。オゾン層は、紫外線のエネルギーを吸収し成層圏の大気を暖めることで、地球上の気候の形成にも大きく関わっている。南極に端を発する海洋深層水の大循環にも関係することで、やはり地球全体の気候の安定にも、更には海洋生物の生態系にも大きく関わっていることが分かってきたそうだ。その地球と生物の、永年にわたる相互作用の賜物であるオゾン層に、急激で深刻な影響を与えたのが人間の所業だ。つまりフロンガスに代表されるオゾン層破壊物質である。フロンは、1930年にGMとデュポンから商品化された。無色、無臭で化学的にも熱的にも安定し、低腐食性、低毒性、無引火性という優れた性質を持っているフロンは「夢の物質」として持てはやされ、実に様々な分野で使用された。クーラーやフリーザーなど冷房・冷蔵・冷凍用の冷媒、電機・電子部品やプリント基板の洗浄剤、断熱材の発泡剤、スプレーの噴射ガス、フッ素樹脂原料などに盛んに利用された。私もヘアスプレーやライターのガスボンベに「フロンガス」と表示されていたのを覚えている。GMもデュポンもフロンの開発によって莫大な利益を上げた筈だが、「夢の物質」が一転、オゾン層を破壊する元凶と名指され、環境有害物質となってしまったわけだ。人間の叡智というけれど、それは常に近視眼であって、地球や自然の全視野からすると所詮は浅知恵である。人間の浅知恵は生き物の片割れとしてやむをえない事だし、それをダメだと否定し去ることは出来ない。「浅知恵」を否定すれば、過去の歴史も否定しなければいけないし、今後の人間の将来も有り得ない。大事なことは我々が常に「浅知恵」であることを、常に意識し続けることだと思う。そして浅知恵と分かればすぐに(「すぐに」である)撤回し、対策をとるべきなのだ。その対策も又新たな「浅知恵」であるだろう。それも又しょうがない。又すぐに撤回し、又知恵を絞る。その繰り返しなのだ。因みに1930年にフロンガスが発売され、それがオゾン層に有害だと云われ始めたのが1970年代。モントリオール議定書で製造及び輸入が禁止されたのが1987年。日本では1996年までにフロンの使用は全廃された。つまり、有害だと分かってからモントリオール議定書まで10数年。日本で使用が停止されるまでに20数年かかっている。これではとても「すぐに」には程遠い。モントリオール議定書では先進国でのフロンの使用は禁止したが、開発途上国での使用はまだ認められており、この点でも「すぐに」には程遠い。ところで、オゾンはヒドロキシラジカル、一酸化窒素、塩素原子などの存在によって分解される。これらのプロセスは自然にも発生するものであり、オゾンの生成と分解のバランスは保たれてきた。それがフロンなど、塩素を含む化学物質が大気中に排出されたことで、成層圏で塩素原子が増加し、オゾン層の破壊が進んだ。塩素原子は、たった1つでオゾン分子約10万個を連鎖的に分解してしまう。しかも塩素自身は化学変化の後に再び塩素原子として戻ってくる。だから、絶対量として少量でも、塩素はオゾン層に甚大な被害をもたらしたのである。この結果、成層圏中にオゾン濃度が極端に低くなった部分が出来、これがオゾンホールと呼ばれたのだ。幸いにして、20世紀末以来拡大し続けていた南極上空のオゾンホールは2050年頃に消失するとの予測結果が報じられている。国立環境研究所のグループが発表したものだ(2006年5月20日)。但し、これは現在の規制がそのまま継続され、予測するにあたって採用された仮定が正しいことを前提にしての話である。又一昨年には、アメリカ海洋大気局が、亜酸化窒素(N2O)が、現時点でオゾン層を最も破壊する物質であると発表した。亜酸化窒素は窒素酸化物の一種で、吸入すると顔が笑ったように引きつることから笑気ガスとも呼ばれ、歯科治療の鎮静用や、手術の際の麻酔用に広く使用されている。肥料を使用した際や、化学物質(硝酸など)の製造の過程でも発生するそうだ。又新たな心配である。我々は良く「安定」という言葉を使うがこの安定は一つではない。今、自由に曲げられる薄いプラスティックで出来た平面があると想像する。この平面に例えばパチンコ玉を置いてみる。そこでのパチンコ玉の「安定」には次の3つの場合がある。(1) 凸凹や屈曲の無い完全な平面では、パチンコ玉は一所に留まり「安定」する。但しちょっとでも力が加わると、パチンコ玉は何処まででも動いて行ってしまう。(2) 平面に割り箸のようなものを突き立てて押すと窪みが出来る。割り箸は先が丸い、角の無いものが良い。この窪みにパチンコ玉が有ると常に穴の底に留まり「安定」する。他から力が加わって少しばかり動いたとしても、直ぐに穴の底に戻る。(3) 今度は平面の裏側から先ほどの割り箸で富士山のような出っ張りを作る。この出っ張りの頂に、慎重に慎重にパチンコ玉を乗せると、この時もパチンコ玉は「安定」する。但し今度はパチンコ玉に少しでも外からの力が加わると、パチンコ玉は俄かに「安定」を失い、坂を転げ落ちる。自然や生き物の間のバランスは、言ってみれば上の(3)の「安定」を保っているのだ。だからちょっとしたことで「安定」が崩れると、加速度的に変化が生じる。我々は「天気はこのところ安定しています」とか、「佐渡の鴇の状況は最近安定しています」とか聞くと、とかく上の(2)の「安定」だと思い込んでしまうがそれは余りに楽観的過ぎるのだ。しかし自然界や生物界の安定は、(3)の安定であっても少しの余裕はありそうだ。例えてみれば(3)の出っ張りの頂も数学的な一点ではなく小さな広がりが有り、パチンコ玉のほうも数学的に完全な曲面ではなく、極細かく分割された多面体であるように私には思える。楽観的かもしれないが、自然にも生き物にもある程度の「復元力」があるように思える。そして、その両者は少なくとも地球上では相互に影響しあっているのだ。ちょうどオゾン層と生き物の関係のように。大哺乳類展に展示されていた動物たちは、こうしてみればそれぞれの歴史に壮大なドラマを秘めているのだ。そのドラマは壮大なだけではなく、同時に実に繊細なドラマでもある。こういう知的触発を与えてくれるのだから、入館料の1400円は本当に廉いと思える。因みに、会場にはジャイアントパンダの骨格も展示されており、その前腕の先には、以前遠藤秀樹先生の「パンダの死体はよみがえる」 (筑摩書房新書)に書かれていた、「パンダの親指」をしっかり我が目で確認することも出来たのである。これも、我が友人に似たバブーンの剥製に出会ったことと共に嬉しかったのである。
2010.04.28
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☆ 4月23日(金曜日) 旧三月十日 癸卯(みずのと う) 赤口:昨日のブログで21日の党首討論を題材に、「愚直と愚かは違う」と書いたら、Ponjoiさんという方からコメントを戴いた。私の文章では、「鳩山首相は自らを愚直と云ったのにも関わらず、谷垣総裁はそれを愚かと取り上げて噛み付いた」という文脈であった。だから、「この勝負谷垣さんの負け!」とも書いた。Ponjoiさんは、「お邪魔します。 一説によると鳩山総理は『私は愚かな総理大臣かもしれないが…』と言った後で、『私は愚直に見える…』と言ったそうですよ。」とご指摘をなさったのだ。こうなると、最近とみに直近の記憶力が減退している自覚のある私としては心配になってしまう。何しろこのブログにしても日付を取り違えることは始終であるし(昨日の分も間違えた)、人の名前は一拍二拍置かないと思い出さないことが多いし、何拍置いても思い出せないこともしょっちゅうなのだ。そこで、原典にあたってみようとネットの世界を渉猟してみたら、「衆議院TV」というのが見つかった。これはアドレスから見ると国の直営のホームページらしい。なるほど、最近は捜せば何でもネットに載っているのだ。一昔前と較べると、こういう風に調べ物をするのが、格段に便利になったものだと改めて感心する。この衆議院TVのページで、党首討論の行われた4月21日をカレンダー上でクリックすると当日の議事内容がリストで表示される。目的の党首討論は正式の名称は「国家基本政策委員会合同審査会(党首討論)」だったそうで、同日午後に53分間開催されている。その様子全部を収録したビデオを観ることが出来るのだ。さて、それを観てみた。その結果はPonjoiさんの仰る「一説」のとおりであった。本稿に関係ある要所だけをここに採録してみると(若しご興味がある方がいらしたら、ご自分でもご覧になってください。):まず谷垣さんが、「ワシントンポストには、オバマ政権の関係者に依れば、今回の最大の敗北者は哀れでますます愚かな鳩山首相だったとある。」と紹介した。続けて、「日本国の総理大臣に対して何たる暴言かと、怒り心頭であった。しかし原因はあなた、鳩山首相にある。」として、鳩山首相の「政治責任の自覚」が軽い、「うまくいかないときには責任を取らない」と批判し、行政改革、高速道路料金、公務員制度改革などを、マニフェストに違反する例としてお挙げになった。そして、「オバマ大統領と10分間で、何を話したのか」と締めくくられた。これに対して鳩山さんは、冒頭「確かにワシントンポストの云われるように、私は愚かな総理かもしれない」と、ここで自らを「愚か」と仰っている。ここで議場は沸いたが、それがどちらの側の席からかは分からない。分からないけれど、十中八九自民党側からだったろう。鳩山さんは更に続けて、「愚かだったか、愚直だったか、或いはそうも知れません」と述べ、ここで「愚直」という言葉が出たのだ。以後、辺野古基地建設問題を取り上げ、自民党旧政権への批判が展開された。谷垣さんはその後再び、「今のを聞いて改めて愕然とした。『愚かだったかもしれない』とは何事か。総理はもっと使命感を持て。」と発言し、「核セキュリティサミットの場で、何故正式の会談を持てなかったのか。」と続いたのである。事の顛末はこういう事であった。要するに鳩山さんは確かに「愚か」と、二度自ら仰っている。後は全て「愚直」である。しかし、最初の二度の「愚か」は、文脈から察するに、鳩山さんの気持ちでは「愚直」という意味で使われていたように思える。多分鳩山さんは、思わず「愚か」という言葉を使ってしまったことを後で後悔なさったことだろう。最初から「ワシントンポストの報道に関わらず、私は自分を愚かだとは思っていない。しかし愚直ということなら、それは確かにそうかもしれない。」とでも云えばよかったのだ。一方の谷垣さんの発言には、「愚か」だけで「愚直」は出てこない。従って、確かに私の記憶違いではあるけれど、昨日の拙ブログ(この「拙」も謙遜のつもりです。ハイ。)の全体のトーンを訂正することはしないつもりである。Ponjoiさん、何れにしろご指摘ありがとうございました。お陰様で私の記憶違いを正すことが出来ました。と、書いていたら今度は「浄玻璃の鏡」さんという方から、「不景気が長期化すると社会が右傾化しますが、昨今の偏向報道は異常な現象ですね。」というコメントを戴いた。(この方のブログは、非公開となっているので、此処ではリンクを貼りません。)ムムム。なるほどねぇ。昔は不景気や社会不安が長期化すると、政府は右傾化し、一方で大衆や学生は左傾化したものだけど。最近は「左傾化」とか「左翼」という言葉そのものが無くなってしまったものなぁ。そういう意味では、全体が右寄りの中で、それぞれがごまめの歯軋りみたいなことをやっているから、「社会の据わり」みたいなものが不安定になっているのかもしれないな。何となく細川さんや村山さんの時代に似ているところがあるような気がする。そうなると、「愚直対愚か」よりも、そちらの方に注意を向けるべきかもしれないなぁ。
2010.04.23
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☆ 4月20日(木曜日) 旧三月九日 壬寅(みずのえ とら) 大安: 上弦、靖国神社春祭今日も再び冷たい雨が降っている。この頃、夏日と寒の戻りのような日が繰り返し、波瀾めいた天気が続いているが、春の歩みは確かに進んでいる。車窓から見る木々は日毎に新しい葉を噴き出している。それはまさに噴き出すと言い表すのがぴったりする勢いだ。それぞれの木はそれぞれに新緑の進み具合が異なり、噴き出した若い葉の色もそれぞれに違う。遠望すると、去年までの樹形の上から、濃淡様々な「抹茶ミルク」の霧を吹きかけたようだ。それが、車窓に流れる花を近景に配して見えると、あらためてしみじみするほど美しい。日本のこの時期は好きだ。昨日は新政権になってから何度目かの党首討論が国会で行われた。自民党の谷垣総裁の持ち時間は35分、公明党の矢野代表は15分だった(と思う)から、こういうところでも国会での勢力数がものを云うらしい。それはともかく、私はこの党首討論の始めのほうをたまたま観ていた。ちょうど、例の米軍基地に関する問題をめぐって、谷垣自民党総裁と鳩山首相がやり合うものであった。谷垣さんは、先日の核セキュリティサミットで鳩山首相がオバマ大統領と10分間しか話せなかったことを論い、ワシントンポスト紙で鳩山首相が「最大の敗北者」と酷評されたことを責め立てる。鳩山首相は、それに対して色々反論し、「私は愚直に見えるかもしれないが・・・」と自らの姿勢を弁じた。すると、谷垣さんは、「日本国の総理大臣が『私は愚かだったかもしれない』とは何事か!従来の現行案であれば、2014年に普天間基地は返還だったのだ。」と問い詰めたのである。私はこの刹那、「おかしい!」と強く思った。鳩山さんは「愚直」といったのだ。それを谷垣さんは「愚か」と解したのだ。これは谷垣さんの日本語能力を疑わざるを得ない。或いは、谷垣さんは鳩山さんの言葉を、「政治討論」の場を意識して、わざと捻じ曲げたのだ。「愚直」と「愚か」とは自ずとその意味は明らかに違う。「愚」という字は「禺」(グ、グウ)という部分で音を表し、下の「心」と組み合わせて、「心の働きののろい事」という意味を表す形声文字である。だから、「愚か」とは文字通り馬鹿でのろまということだ。しかし更に「直」という字を組み合わせた「愚直」は、単なる愚かとは異なる。直訳すると「愚かに見えるほど真っ正直」、或いは「馬鹿正直」という意味になるが、これは必ずしも悪い意味ではない。むしろ謙遜の気持ちをこめて、自分の正直さを言う意味になるのだ。日本人には、世界の大多数を占める未開人種とは異なり、古来「謙遜」という床しい心情がある。「愚」という字だけを見ても、愚兄、愚見、愚妻、愚生、愚誠、愚僧、愚息、愚衷・・・など、全て謙遜の意味を込めた言葉である。愚兄も愚息も、兄や息子のことを本気で愚かだなどとは思っていないし、いわんや愚妻においてをや(!)である。愚見や愚衷も自分の意見や真心に、実は秘めた自信を持っての言葉である。だから鳩山さんは、「私は傍から見れば愚かに見えるほど、誠心誠意率直に正直に専心してきた」とおっしゃったのだ。謙遜とは更に深いところでの静かな自信を示すものだ。だから鳩山さんのココロは、「アンタたちがどんなに謗ろうと、私はこの道を正しいと信じていくのだ。」ということなのだ。それを、肝心な「直」の字を取り去って、或いはわざと無視して、「一国の総理が自らを愚かとは何事か!」と国会の場で噛み付いた谷垣さんは、お気の毒だが愚昧の極みで、負け!である。しかし、今朝になって幾つかの報道に接してみると、どれも押しなべて「谷垣流」になっている。つまり「総理は自分を愚かだと云った。谷垣氏は『一国の総理が自分を愚かとは何事か』と云った。」と、そればかりで、「愚直」と鳩山さんが云った言葉は無視されてしまっている。報道機関とは、同時にほぼ言論機関でもある(必ずしも同一ではないが)。それが、こんな報道をしているようでは、これは意図的であれば偏向報道、意図的でないとすれば、愚かさを露呈したものとしか言いようが無い。もう一つ、谷垣さんは普天間基地の移転問題に関して鳩山さんが持っているという「腹案」を明らかにせよと迫っていらした。これもおかしな話だ。腹案というのは、明らかに出来ない、秘めておくべき案のことをいう。それを明らかにせよというのは、相手方を攻めているように見えて実は逆だ。「何か大事なことを内緒にしているんでしょ?意地悪しないで私にも教えてよ!」というのだから、相手に擦り寄っている姿勢は否めない。とても反対政党の党首が論戦の場で言うべき言葉ではなかろう。鳩山さんは、「腹案を基にして相手(米国)と水面下で折衝している最中だから・・・」とおっしゃった。それなら「腹案」は全部ではないにしろ、その一部は米国内のしかるべき人間は承知している筈だ。ならば自民党は、前政権党であり現最大野党としての沽券にかけて、その人脈と情報収集能力を駆使して、米国側から直接情報を得るようにすれば良いではないか。その上で、国会の席では、「我が党が独自に得た情報では、総理の腹案なるものは、これこれこういうものだとの確証を得ている。それに対してはかくかくしかじかの問題と懸念がある。それについて総理は如何にお考えか?」と論戦を挑めば、自民党としての力量を示すことも出来るであろうに。そうしないで「隠してないで、皆に教えて」というのでは、如何にも情けないし、少なくとも今度の選挙で自民党に入れようという気持ちにはならない。鳩山さんは、お育ちのなせる業か、その性格によるものか、答弁を聞いていると、お遣いになる言葉も説明の仕方も、随分丁寧だ。それが「オバマ大統領に・・・していただいた。」とか、「スピーチの機会を与えていただいた。」という表現になると、対米追随とまで云わずとも、何となく米国の下でわが国自体がへりくだっているように思え、誇り高い日本国民としては物足りなさや頼りなさを覚える。一国の宰相として、もっと毅然として欲しいという気がする。こういう辺りが国内の問題でも随所に現れるため、それが「民主党は頼りない」とか、「実行力が無い」という印象に繋がり、畢竟世論調査での人気低下になっているのではないだろうか?私は、小沢さんのように「世論調査など関係ない」とまで言うつもりはない。しかし世論調査は実質人気調査に過ぎない。国民の政治意識の実態を表すものではないことは確かだ。あれは設問の仕方と回答の解釈の仕方で、いかようにでも「料理」出来る余地がある。その結果が、必ずしも政党や政府の実際の力量を示すものでもないことは確かだ。しかし、この世論調査は「政治の雰囲気」を大きく左右する。そして、我が国民は(どこの国民でもこの点は同じだが)この「雰囲気」の中で生きているものだ。だから鳩山さんは、国会の論戦や、毎日行われている記者会見の場では、もう少し工夫されたらよかろうと思う。端的に云えば、もっと一文一文を短くして、明確な「言い切り」型を採られるのが良かろうと思う。例えば「腹案」を明らかにせよと迫られたら、「腹案は腹案だから腹案なのだ。明らかにしてしまったら、最早腹案とは言わない!(心密かに、『バァーカ!』)」とでも仰ればいい。吉田茂さんか小泉純一郎さん辺りなら、そう仰ったんじゃなかろうか?こういう辺りが一般には「リーダーシップ」などと受け取られるところだ。必ずしも正鵠を得た判断とは云えないが、事は「印象」の問題である。愚直は、庶民や一介の政治家としては勿論美徳であるが、一国の総理や、党の総裁としては不満足である。しかし、お育ちや性格からすれば、鳩山さんにこういうものを求めるのは無理かもしれないな。この点は、谷垣さんも同じだと思う。その辺が、最近の自民党議員の離脱と小党乱立の原因にもなっているのだろう。それにしても、与謝野さん、平沼さん、舛添さんは、党首討論の場に出るチャンスは相当難しいだろうな。公明党の矢野さんが15分だったから、皆さんは出席できたとしても、それぞれ5分程度かそれ以下の持ち時間になってしまうのではないだろうか?そうすると皆さんは「見せ場」をどう演出されるのだろうか?さて、最後に、再び。あくまでも愚直は愚かではない!
2010.04.22
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☆ 4月17日(土曜日) 旧三月四日 丁酉(ひのと とり) 赤口: 春の土用この二三日寒い日が続いてきたが、昨晩からこの辺でも雪になり、朝方には家の屋根や近所の生垣の陰はうっすらと白くなっていた。都内でも明け方まで霙だったようだ。日本のどこだか聞き漏らしたが、40センチもの積雪を観た場所もあるようだ。こういう気候の急変があったり、大雨や大風などが吹くと、勢いテレビのニュースに注目することになるが、その度に気になることがある。ニュースではこんなことを云う。「・・・朝晩は冷え込み、遅霜のおそれもあるので、気象庁では注意を呼びかけています。」「はぁ、そうか」とは思うが、この「気象庁の呼びかけ」を私は一度も聞いたことも、受け取ったことも無い。官庁が注意を呼びかけるのだから、相手は我々国民であるはずだが、気象庁は少なくとも私には呼びかけてくれていないようだ。恐らくはこういうことだと思う。気象庁は関係官庁や自治体、それに報道機関などに対して、どういう形だか知らないけれど、「遅霜が降りる可能性がある」という声明を発しているのだろう。それで声明を受け取った側、例えば報道機関ならテレビやラジオ、インターネットなどのニュースで、それを我々国民に知らせているのだろう。ところが、「気象庁(別に厚労省でも防衛省でも同じだが)は○×□と呼びかけています。」というのを聞くと、余りに身近な柔らかい表現なので、つい「聞いてないよ。私は呼びかけられていないぞ!」と思ってしまう。もっと云えば、テレビなどが「気象庁は○×□と呼びかけていて、私はそれを聞いたけれど、あんた達は聞いてないでしょ。」とか、「これは私が云ったんじゃなくて、気象庁が言ってるんだよ。だから一応伝えておくよ。」と言っているように聞こえてしまう。・・・私のひがみ根性だろうか?「呼びかけ」というのは基本的には、呼びかける側が呼びかけられる相手に、直接行う動作のはずである。それが中継者を介してしか伝わらない時には、「呼びかけ」などとはいうべきではない。或いはせめて「気象庁は報道機関や自治体を介して国民に呼びかけています。(だから私がこれを仲介します)」と中継者の立場と責任をはっきりしたほうが良い。そう思うのである。それにしても、今朝は寒かった。先月あたりから寒暖の入れ替わりが激しく、桜も咲き時も散り際もどうしたらよいか相当迷ったことだろうと思う。また、このところ日本だけでなく世界のさまざまな場所で、地震が起こり、火山が爆発し、豪雨に見舞われ、規模の大きい災害が多発している。その都度日本の政府は緊急援助としてお金を出し、時に人も出さなければならないから、税収の落ち込みやナントカ手当ての拠出によってよりも、そちらの方で日本のお金が無くなってしまうのではと心配になってしまう。最近はそこいらじゅうでCO2による地球温暖化を問題にしているが、実はもっと大きな気候変化の流れの中では、別の動きが始まっているのではないだろうか。ちまり、今地球は間氷期の終わりに差し掛かっている?つまり、温暖化よりもむしろ氷期に向かっている?このところの不安定に変動する気候や、噴火や豪雨などは、間氷期から氷期に移行する際の予兆ではないのか?大きな周期の移り変わりの境目では、微分係数が最大になるものだ。だから色々不安定になることがあっても不思議ではない。と、いうことになると、地球は温暖化よりもむしろ寒冷化に向かうことになるな。・・・などといっても、私自身がなんらの科学的な根拠を持っているわけではない。これを適当に膨らまして巧妙に「呼びかけ」をすれば、新興宗教か泡沫政党くらいは作れるかもしれないという程度である。
2010.04.17
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☆ 4月13日(火曜日) 旧三月二十九日 癸巳(みずのと み) 赤口:戒名を考えた。私のではない。知人の一人から依頼されたのだ。私の父の戒名も父が自分で考えた。彼は誠実一辺倒の教師だったが、どういう訳だか自分の死後には随分の拘りがあった。墓は作らなくて良い。自分の家の宗派の総本山に納骨してくれればそれで良い。墓など作っても末永くお守りしてくれる者など居ないし、毎年お参りに来てくれる人だっていつかは絶えるだろう。彼の子供(私と妹の二人だ)には男の子が居ない。女の子しかしない。つまり普通の道理で言えば彼女たちはいずれ他家に嫁ぎ、父の興した家の系統は途絶える(父は三男で長男ではなかった)。それに長男(私のことだ)は、故郷を離れて首都圏に定住しており、郷里の岐阜に戻る日が来るかどうか分からない。戻ったとしても、その次の代を継ぐものが居ないのは同じだ。教師の同僚や部下は、思い出して詣でてくれるかもしれないが、それもそう長いことではない。そうであれば、代々の自分の家の信じた宗派の総本山に納骨して、永代供養してくれるほうが良い。そう云われればその通りで、私も妹も、未だ存命だった母も反対はしなかった。彼は、自分が亡くなって遺骨が戻ったら、その一部を長良橋の上から、下を流れる長良川の清流に散骨して欲しいとも云った。父が東京から青年時代に移り住み、長きにわたって暮らし、教職を奉じ、妻を娶り、その風土を愛した岐阜という町への気持ちとしては大いに肯えるものであったが、公衆衛生法とか何とかの制限で出来ることではなかった。今で言えば遺骨というのは「生ごみ」とでも分類されるのだろうか?更に父は、戒名も自分で考えていたのである。戒名については、私は父の生前には知らされておらず、彼が息を引き取って葬儀の段取りをする時に初めて、「お父さんは、もう戒名を自分で用意なさって居たんだよ。」と母から聞いた。戒名を付けるというのは、坊主の専権事項のようなもので、どんな戒名にするかはお布施の額如何に依るらしいことは、当時私も何となく知っていた。院号が冠せられたり、大居士が付いたりすると、結構な額が必要らしい。それは、故人の信心の深さや、人徳や人品云々とは無関係である。そうなると地獄のみならず仏の世界も金次第ということになってしまう。第一戒名の如何によって、あちらの世界での身分にまで違いが生じるのだろうか?これも、あの世から帰還した人が居ない以上分からない。けれども父が其処まで反骨的な論理を組み立てて、戒名を自作したとは思えない。私の父は、本棚や椅子、植木鉢の棚や何やら、自作するのが大好きだったから、戒名も自分で作ってやろうという軽い気持ちからではなかったろうかという気がする。たぶんそうであったろう。その戒名、坊主は何となく面白くなさそうな様子だったけれど、最後には「良く出来た戒名でございます。」とそつのないことを言っていた。さて、先ごろ知人の係累の方が亡くなった。といっても、知人の直接の親ではなく、ほんの幼いころに父親を亡くした知人が、子供の頃に仕事で忙しかった母親と同じくらい、或いは親以上に随分お世話になった人だったという。年初から体を壊して入院して、肺気腫を患っていることが判明し、最後は大して苦しむこともなくあちらへ逝かれた。彼は身内の縁が薄く、老妻と二人暮らしで、知人は彼の入院中、まるで自らの親のように見舞っていらした。容態の急変の連絡を受けてから、逝去まではすぐの事だった。人間は生まれた時も死んだ時も、色々と手間がかかる。長年にわたってこの世に、この社会の中で生きた果て死であるから、生まれた時よりも死んだ時のほうが色々雑事は多いようだ。その大半は、葬儀屋というプロが仕切ってくれるので、遺された者はその指図に従って忙しくさせられている内に悲しみの気持ちを紛らせることが出来るようになっている。彼の場合は、身内の縁も薄かったし、社会の一線を離れてからの時間も長く、ご本人の生き方も淡々としたものだったようで、葬儀に関わる一切も極々簡略に行なわれた。式次第も所謂無宗教のそれで、極近しい身内だけの密葬であったそうだ。しかし、遺された老夫人の意向で、位牌を作り仏壇にお祭りする段になって、戒名をどうするかという話になった。色々相談された挙句、知人を経由して私の方に依頼が来たのだ。私の父の戒名にまつわる話をしたことがあるのを、知人は覚えていらしたらしい。最初は困った。何しろ戒名だ。私の得意な冗談や酔狂は通じない。珍しくも真面目に考えなければならない。第一戒名なんてしみじみ親しんだことなどない。如何に博覧強記を自負する(?)私だって、その範囲は流石に戒名にまでは及ばない。夏目漱石先生のお墓に詣でるために訪れた雑司が谷霊園では、ついでに戒名を調べてみようと色々見て歩いた。護国寺の墓所にも行ってみた。しかし、特に参考に出来るような知識を得ることが出来なかった。余談だが漱石先生の戒名は「文獻院古道漱石居士」とおっしゃる。権力や権威嫌いで、何となく偏屈で、斜にかかったユーモア人間という印象の漱石先生としては、質素で変哲もない墓石を想像していた。ところが辿り着いてみたら、かなり大きく、背の高い立派な墓石に、鏡子夫人と並んで上記が刻んであったのは少し意外だった。大居士ではないが、戒名には院号まで付いている。これは勿論ご当人が考えたものではないだろう。ご遺族の方などが、大文豪に相応しいものとしてお付けになったのだろう。あの世からご自分の戒名を知ることが出来たら、漱石先生は何とおっしゃるだろうかと考えると、可笑しかった。さて、依頼の戒名である。墓地でのヒントが得られなかった私は、書物やインターネットで「戒名の付け方」などというものを調べてみようとも思った。しかし、これはいよいよとなって止めた。そういうものを調べれば、山ほどの知識は得られるだろう。宗派によっても様々な規則や慣習の違いがあるだろうし、そういうものを調べだせばきりがなくなる。規則やしきたりが煩瑣であるからこそ、戒名を付けるのは坊主の飯の種になっているのだろう。それにいくら調べても所詮素人の一夜漬けだ。中途半端な前例踏襲は却ってよろしくない。そう考えて、以前から私でも知っていた「最後は居士にする」と、「故人の名前から字を貰い受ける」という二つの「常識」だけを使うことにした。そうして、後は故人の人柄や生きていらした歴史などを、知人を通じて聴取することにしたのだ。その結果、故人は、戦後はシベリアに抑留され、帰国後は進駐軍に関わるなどして苦労された(当時は大概の庶民が似たような苦労をされたと思う)。その後結婚され、長男であったにもかかわらず継嗣の地位を弟に譲り、夫婦で慎ましく暮らしていらしたそうだ。子供はなく、知人を我が子のように可愛がったそうだ。知人の記憶では、いつも誠実で優しく接してくれたそうだ。そこで、私が考え出したのは、故人の名前の二文字を織り込んで、「家を成して清く整え、これを慈しみの心を以って保ってきた」という意味の戒名だ。最後は慣例に従って居士の二文字である。本当は、ここに戒名の六文字をご披露したいけれど、これは「故人情報」に関わることであり、ご本人の承諾も得られないこともあって、差し控えさせていただく。しかしこの戒名は、知人はもとよりご遺族の老夫人にも大変気に入っていただけたそうだ。戒名はご本人よりも、故人を偲ぶ遺族のものである。今日は故人の四十九日で、位牌を祭って法要が(読経は無く、身内だけで)行なわれたそうだ。知人は携帯電話のカメラで新しい位牌を写した写真を送ってくれた。見てみると立派な出来で、真新しい戒名が鮮やかに輝いている。改めて良かったと思えた。故人はあちらで自分の戒名をどう思っておられるか知る由もないが、生きているほうは何だかほのぼのとした気持ちになることが出来た。こうなると味をしめて自分の戒名も考えてみようかという気になる。友人に「君の戒名考えてやろうか?」と売り込みもしたくなる。希望者が増えてきたら、お礼をいただくようにしようか?たくさんお礼をいただければ、奮発して殊更に立派な戒名を考えてやろうか・・・そうなると、とどのつまりは坊主と同じになってしまうな。
2010.04.13
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☆ 4月12日(月曜日) 旧三月二十八日 壬辰(みずのえ たつ) 大安: 世界宇宙飛行の日Sさん;冠省。図らずも随分のご無沙汰になってしまいました。お元気でいらっしゃいましたか?先日、これも随分お久しぶりにてTさんと会いました。その際あなたが「IT・・・・・サイト編集長」におなりになった由聞き及びました。何はともあれご出世おめでとうございます!思えば随分以前、未だ「割烹P」が在りし頃、そこで偶然お会いしていつものように話し込んで以来の事だと思います。その折は確か「IT ・・・・・」を立ち上げるとか、そんなようなお話を伺ったような事を記憶しています。この度御社のサイトを訪問し、あなたのお書きになった「『失われた十年』を省みて、IT基盤を再考しよう」という趣旨の稿を拝見しました。あなたの大写しのご尊顔も拝見しました(いきなりあなたのクローズアップ写真が出てきて、ちょっと驚きました!?)。米国製ミニコンから分散処理、イメージング、DBアクセラレータ、ERP、そしてE-Commerceと辿ってきた私は、この40年間というものITの世界での、随分の様変わりを目の当りにしてきました。当時は未だITという言葉もなく、「コンピュータ業界」とか「情報処理業界」などと云っていました。それがITという言葉になり、今では最早「IT=Information Technology」と呼ぶような(先端技術としてカッコいい雰囲気の)ものではなく、いよいよ上下水道網や道路・交通網のような「環境」になってしまいましたね。企業や個人はITシステムを構築・駆使するのではなく、そんなものは所与のインフラとして受け入れ、その受益者としてそのインフラを利用しながら、自らの意図や企図をどうやって実現していくのかに集中するようになったようです。そう思えば、「IT」もやっと人間の生活や活動に定着できる水準にまでなったと云えなくもありません。昔、ある人が「あの政治家(小渕恵三元内閣官房長官だったか?)は、『ITって何だ?イットって「それ」って意味の英語じゃないか?』だってさ。分かってないよねぇ。」と言ったのを思い出します。今ではITは実際「イット」という指示代名詞で呼ばれるに相応しいものになったのでしょうね。私は会社が行き詰って以来、いわば逼塞状態の中に押し込められて来たような状況ですが、この3月からある会社の非常勤顧問として、細々ながら活動を始めております。この会社、ITとは全く関係の無い基礎化粧品を生業としており(背景には電子医療機器というものがあるのですが)、私はその直属の販社の一つで、トップの「よろず相談役」のような立場になっております。私が化粧品!そんな事をお聞きになると、大笑いされるか、驚倒されるかのどちらかかもしれませんが、これも人の縁繋がりでやってきた話です。この縁も、かつて外資系の法人を預かっていた時代の部下から、事務所移転のメールを貰って昇進を知り、お祝いのメールを送ったことが契機になりました。「IT」はその際に(メールのやり取りの際に)利用しましたが、ITそのもののお世話になった気はしません。しかし、考えてみれば、こういう縁の繋がりが維持されてきたのも、またそれをきっかけにして新しい縁が始まったのも、これはインターネットメールという「ITインフラ」が無ければあり得なかった話ですね。今はその会社にTwitterやSNSなどのインフラを応用して、同社の特色である「アフターケアと成功体験を重視したクチコミ販売」をどう活性化できるか、考えを温めて仕掛けてみようと思っています。(まだヒマで、いささか欲求不満にもなっていますので。)ITの世界でもSaaSという言葉が(余り流行しないままに)いつの間にか「クラウド・コンピューティング」という名前に置き換わられ、実在の手応えのある基盤から、それこそ「雲の彼方に」遊離していきつつある感じです。そういう中で、ITインフラの「提供者側」のロジックと「受益者側」のロジックをどう合わせていくか。これからの興味は、私にはそういう面にあるような感じがします。Sさんの「IT基盤の再認識」がこの辺りにどういう光をお当てになるのか、機会があれば伺って見たい気がします。それにしても、U大先輩を囲む会を最後に開いてからずいぶんの時間が経ってしまいましたね。思えば当時、我々は皆無邪気で闊達な(そして傍若無人でもある)青年(中年)でした。(U大先輩ご自身を除いて。)その後、Tさんは調査会社を「卒業」され、S2さんも別の機械メーカーに移られ(彼は「環境・情報・・・ナントカ」の分野で、O大学の招聘研究員にも併せてなられたそうです。)、Hさんはベンチャー企業で社長として新素材の販売に携わっておられ、皆さんそれぞれにITの世界を離れて活動されています。しかし、彼らとも未だに相互に連絡を取り合うことができ、時に応じて繋がりを再活性できるのも、ITが極当たり前のインフラとなって我々の中に定着してくれたお蔭だともいえます。中でもあなたは、未だそのITの「内側」の世界にいらして、光を当てようとなさっている。お仕事には大いに期待申し上げます。さしずめ私は今、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ. 花を買ひ来て美酒をたしなむ」・・・石川豚木の心境ですかな!(この文細部にご注意のほど。)近々またお目にかかって、お互いに話し込める機会があればと思っております。それまで、どうかご自愛のほど。頓首
2010.04.12
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☆4月4日(日曜日) 旧三月二十日 甲申(きのえ さる) 先負: キリスト教国では復活祭Kさん;Sさんから、「散りきらない内のお花見の誘い」のメール連絡があったこと、あなたにもコピーしてお知らせしました。その中であなたのことに言及して、「郷里の作楽神社に因む『天莫空勾践 時非無范蠡』という言葉があります。Kさんにも是非我々の范蠡候補として、ご参加を誘ってみてください。」とありました。幸い、当日はあなたも少々遅ればせながらも参加するとの連絡を戴いて嬉しく思います。さて、そうなると「范蠡」です。何しろあなたは「范蠡候補」に挙げられたのですから。現代っ子のあなたの事だから、范蠡なんて多分ご存じないでしょう。私もこの言葉は随分久しぶりに聞きました。此処で簡単に説明しておきますから、范蠡としての役割を受けるにしても、断るにしても、Sさんには堂々と造詣の深いところを見せて、当日はちょこっとばかり良い気分になってください。何しろSさんは雑学の大家でインテリ好きだから。先ず「范蠡」は「はんれい」と読みます。中国の昔の人の名前ですから、中国で実際に「hanrei」と発音していたはずは無いのですが、一応ほかの漢字と同様「日本風」の読み方(音読み)です。中国には、古くから「天莫空勾践 時非無范蠡」という詞があり「范蠡」はこの中に出てきます。これは「天、勾践(こうせん)をむなしゅうするなかれ。 時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず。」と読み下します。中国の昔、「春秋時代」という頃(紀元前770年から紀元前402年。大昔だ!)のこと。この頃中国では幾つもの王朝が争い交替した不安定な時代でした。この時代、越という国には、「勾践(こうせん)」という王様がいましたが、越は呉という国との戦に負けてしまいました。敗戦国の王となった勾践はクサってヤケになっていましたが、范蠡(はんれい)という忠臣がこれを励まし、奮励努力をして、とうとう呉の国を打ち負かすことが出来ました・・・そうです。この事から、「天莫空勾践 時非無范蠡」は、「運に恵まれず、不遇をかこつていても、嘆いたり悲しんでばかりいてはダメだよ。その内范蠡さんのような頼りに出来る人が現れて、きっと力になってくれるよ。」という意味の詞になったのです。ま、「人は人の信頼と力によって支えられているものだ。己一人の不運と思っていても、良き人を得れば解決できる。」というようなことですな。さて話は変わって、日本には鎌倉時代(1330年代)に、後醍醐天皇という方がいらした。この方は、色々な事情から、言ってみれば「短期リリーフ」として天皇の位に就いたのだけれど、ご本人は、そんな事情にもかかわらずやる気満々で、貴族の序列にとらわれない能力主義による人材登用を実施するなど、様々な改革を断行しようとした。官僚を排除し、各界から広く人材を集め、行政改革を断行して政治主導を確立する・・・。いつの時代でもこういう人がトップに就くと、旧勢力からは疎んじられるもので、京の都の保守派の坊さんや貴族など様々な連中を初め、時の軍事政権を仕切っていた鎌倉幕府からも、後醍醐天皇を辞めさせようと圧力が強まった。それで鳩山さんじゃない(!)後醍醐天皇は、「この際諸悪の元を断たねばならない。そのためには旧勢力の打倒だ!」と、小沢さんじゃない(!!)鎌倉幕府を潰す計画を立てるのだけれど、腹心の部下として信用していた吉田定房という人がこの計画を、小沢さん、じゃないって(!!!)幕府方にチクってしまった。その結果、幕府は直ぐに後醍醐天皇をクビ(廃位)にして、代わりに光厳天皇を朝廷のトップに据えてしまった。政争に負けた後醍醐天皇は、京都を離れ、隠岐の島(島根県)に流されてしまうのだけれど、その途中天皇の忠実な部下であった児島高徳さんという人が天皇を救い出そうとしたが出来なかった。そこで、児島さんは、天皇が落延びる途中で宿泊していた、美作(みまさか)院の庄(現在の岡山県津山市、Sさんの郷里です)の宿に、監視の目を逃れて忍び込み、庭にあった桜樹の幹を削って現れた白い木肌に、「天莫空勾践 時非無范蠡」と書いて天皇を慰め、励まそうとしたのだそうです。「後醍醐天皇さんよ、昔の中国の勾践王のように落延びる境遇になっても、嘆くことはありませんよ。きっと范蠡のような頼もしい部下が現れて助けてくれますよ。」という意味を込めたのですね。実際のところは、こう書くことによって、児島さんは自分をちゃっかり天皇に売り込んだのかもしれない・・・!?隠岐の島に流された後醍醐天皇は、やがてどうにか島を脱出して京都に戻ったけれど、再び拙い事になり、それでも自分が正規の天皇だと主張して、結局京都の南、奈良県の吉野辺りに朝廷を開いた。これを南朝といって、京都にある朝廷(北朝)とが競合しながら並び立つ南北朝時代になるのです。このあたりの経緯は、最近の政治の世界に似ているところがあって、随分ややこしくも面白いのだけれど、それはここでの本題ではないから省きます。さて、後醍醐天皇のお宿になった「院庄館跡」は、作楽神社として1922年(大正11年)に国の史跡に指定され、1973年(昭和48年)以降津山市教育委員会によって発掘調査が行われました。境内は整備され、百本ほどのソメイヨシノが植えられて、以来津山市の桜の名所の一つになっているのだそうです。地元では、「桜ほろちる院庄、遠き昔を偲ぶれば・・・」と言う歌が花見の時には良く歌われるそうですが、上のような歴史があるのですね。また、作楽というのは桜の古名でもあるという話も有りますが、私は良く知りません。また、作楽神社には、忠臣児島高徳さんに因んだ「たかのり煎餅」なんてものがあるそうだけど、美味しいのかどうかも知りません。Sさんのメッセージは、上のような故事を踏まえての事なのです。さて、これであなたのことを「范蠡」になぞらえた理由が分かりますね。Sさんも今、新しい勤務先でリストラや人事に関与しなければならない責任を負わされているそうです。比較的新参者の執行役としては、生え抜きの同僚や、上司・部下たちに囲まれて不条理な目にあい、自らを勾践になぞらえたくもなるのでしょう。その点、長きにわたって半ば逼塞状況を強いられている私も同じようなものですね。つまりは、Sさんも私も色々辛い目にあっている。「せめてKさん、范蠡の積りになって、花見の時でも慰めてよ!」というココロなのですね。さぁこれであなたも立派范蠡候補です。当日はヨロシクお願いしますよ。間違っても范蠡を范文雀と間違えたりしないように。ところで、Sさんのご先祖は、何でも後醍醐天皇が隠岐の島から戻ってくる時に備えて、坪井という交通の要衝でお迎えすべく、警護役として勤めていらしたのだとか。Sさんの叔父上は、この事を本にまで書いておられるとか。でも本当かどうか・・・ねぇ?しかし、深い薀蓄と広範な人脈を持つSさんのこと、一族の御先祖が後醍醐天皇にご縁があったとしても、驚くものじゃありません。でも、当日は余りこの件でおちゃらかしたりしないよう、お互いにSさんのことを慮って自制しましょうね。そして、少しでもご馳走になれるよう心がけることにしましょう。
2010.04.04
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