マックの文弊録
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☆ 7月21日(水曜日) 旧六月十日 辛未(かのと ひつじ) 友引:梅雨が明けたといわれたら、それまでの梅雨空から、関東地方は一転真夏日に突入した。先週の土曜日以来連日の暑さが続いている。気温が25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日という。地球温暖化のせいもあるのか、これだけでは間に合わなくなって、気象庁は気温35℃を超える日を猛暑日と命名した。2007年以来のことである。名前を付けられたからいざ、というわけでもないだろうが、以来毎年夏になると猛暑日というのを聞く。昨日は群馬県の何処だかで38℃を記録したのだそうだ。全国でも70箇所以上で猛暑日だったそうだ。今日も良く晴れているから、更に記録は更新されるのかもしれない。38℃という暑さは、以前にも何度か経験した記憶がある。中学生か高校生の頃だったのではなかったろうか。私も周りも38℃と聞いて、「ひゃー、暑いなぁー!」とあきれる程度であったが、誰かが「38℃というと人間の体温より高い。つまり体温を放熱できないから、熱が体内に貯まるばかりで大いに危険なのだ。」というのを聞いて、なるほどそういうことかと改めて感心した。理屈で云えば当たり前のことだけれど、日常の身の回りの事と、学校で教わる熱平衡の話は、改めて言われて見ないと中々結びつけられないものである。その時そう思ったことを覚えている。こんなに暑いと、エアコンも無かった昔はどうしていたのだろうと不思議になる。私の父は地方公務員で、国家公務員であった祖父が体を壊して亡くなったのを機に、それまでの東京での祖父の官舎住まいを引揚げ、家族と共に岐阜に移り住んだ。父は岐阜で奉職して結婚したが、祖母と4人の弟妹たちの面倒を見る必要もあって、我が家の生活は大変だったようだ。無論借家住まいである。私が生まれた当時は、市街の東の外れ、長森という所の米屋の屋敷の離れの六畳一間に、一家四人で住んでいた。その後、小学校三年の時に市の南方、徳川親藩奥平家の城址のある加納という城下町に移り住んだ。ここでも相変わらず借家住まいである。今度はしかし六畳二間の二軒長屋の一軒で、当時私は田舎の子から町の子に出世した気分で嬉しかった。昭和22年~40年代にかけての頃である。長森の家も加納の家も無論エアコンなんかあるわけが無い。夏は暑く、冬は寒く、それこそ自然のままの生活であった。中学校から高校に進むと、多少真面目に机に向かう必要が出てくる。六畳二間に家族四人では勉強部屋なんてものは望むべくも無い。父は教員であったから、家にも書斎は無理だが一応本棚と机のセットがあった。それが一間の半分近くを占領している。同じ部屋は昼間は客間も兼ね、夜は両親の寝室になった。もう一間は食事の場所であり、来客時の家族の待避所であり、居間であり、そして夜は我われ子供たちの寝間でもある。だから勉強部屋などは無理であり、唯一勉強コーナーを作ることが出来るスペースは玄関を入ってすぐの、一坪に満たない上がりかまちの板の間であったが、これは早々と妹が「私がここを使う!」と唾をつけてしまっていた。そこで父は、道に面して幅一間ほどの庭とはいえない位の空き地に、大工さんを頼んで、部屋の延長として板敷きの小部屋を作ってくれた。屋根は波型のプラスティックである。天井などは無く、見上げれば半透明のプラスティックを通して空が見えるのだ。部屋との仕切りはカーテンで、昼間は部屋が暗くなってしまうから無論カーテンなど引けない。夜にはカーテンを引けるから、辛うじて多少のプライバシーが得られる。部屋とはいえないスペースではあったが、それでも自分だけの空間が出来たので、私は無闇と嬉しかった。この小部屋は上も下も断熱材などは入っていないから、部屋の中の気温は殆ど外と同じである。冬は板の床を通して冷気が沁みてくるように寒い。しかし、寒いのは着込めばしのげる。問題は夏である。屋根はプラスティックの板一枚だから、どんどん熱せられる。窓は小部屋の隅にも開けてあったから風の通り道はあるものの、場所柄は岐阜だ。最近のニュースでも群馬と並んで猛暑記録の場所として岐阜の名前はニュースにもたびたび登場する。岐阜の夏はそれくらい暑い。繰り返すがエアコンなどは無い。要するに夏のさなかに温室の中にいるようなものだ。せめてもの涼味を求めて、プラスティックの屋根に水をまき、風鈴をぶら下げ、窓を開け放ってすだれを吊るしたりと色々工夫をした。そういう中で参考書を開き、勉強をしていたのである。まさに我慢大会だ。「艱難汝を玉にす」というが、玉になる前に玉の汗であったはずだ。よく熱中症にならなかったものだ。本当に今思うと、どうしてあぁいう中で我慢できていたのか不思議である。夜は夜で窓を閉めないといけないから、熱帯夜など随分寝苦しかったはずだ。何だか昔は皆我慢することに慣れていたようだ。エアコンが無かったのは私の家だけではない。あの当時はエアコンなんて物自体が無かった。扇風機はあったように記憶するが、部屋ごとにあるというようなものではなかった。冷蔵庫は多分普及し始めた頃ではなかったろうか。私の家には当時まだ無かったような気がする。八百屋だか氷屋だかへ行って、必要になると氷の塊を買ってきたように思う。それでも当時のことを考えても、さぞかし大変だったろうなぁと思うだけで、苦しかったとか、死にそうだったとかいう記憶はない。寒暑に関する記憶とはそういうものかもしれない。今は昔と違って、部屋を閉め切ってエアコンをガンガンかけ、熱中症になるといけないと、冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出して飲み、熱暑からは隔離されているはずなのに、暑い暑いと文句を言う。外に出れば早々にエアコンの効いた建物内に逃げ込み、ちょっとだけ外気に触れたのを「暑い暑い」と殊更にこぼす。昔は猛暑の中でも昼間は基本的に外、屋外で活動していたものだ。それで平気だった。私が東京に出てきた頃は、地下鉄銀座線にはエアコンは無かった。山手線や丸の内線にもクーラーなど無かったような気がする。それでも、夏場でもラッシュに揉まれて職場に通ったのだ。何より当時は「クール・ビズ」なんて無かったから、勿論スーツにネクタイ着用である。それでも熱中症などという言葉は耳にしなかった。熱中症というのは花粉症と同じで最近出来た病気なのだろうか?考えれば考えるほど不思議であるし、人間は自然から遠ざかるにつれて、どんどん軟弱になってしまったなぁと思う。青空に入道雲がもくもくと昇っていく。朝六時半になると近くの広場へ行ってラジオ体操をして、札に判こを押してもらう。帰ってくる頃には朝顔の花がもう萎れている。昼間は家中を開け放し、すだれを軒に吊って、夜になると渦巻き型の蚊取り線香を焚く。涼は打ち水をし、団扇か扇子で取る。昔の夏は懐かしい。懐かしいけれど、今更同じことをやってみようという勇気は無い。私自身も充分軟弱になってしまったのだ。
2010.07.21
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