全5件 (5件中 1-5件目)
1
沖縄の≪人権問題≫を考えるうえで、今後、無視しえない判断材料となるのは、反対運動を行なう沖縄の住民に向かって、若い警官が発した「土人」という言葉です。これについては映像も音声も残されています。警察官が差別的な意志をもって公務にあたり、そのうえ、あろうことか派遣した自治体の長が、その警官の立場を擁護した、という事件です。これによって、現在の沖縄問題には、背景としての「民族差別」の存在がうかがわれることになる。はたして松井一郎は、日本に「民族差別」が存在しないと証明しきれるでしょうか?それどころか、ネットの現状を見れば、そこには差別的な表現と思想があふれかえっています。その内容の大半は、基地を拒否しようとする沖縄の意志に対する侮蔑と恫喝です。おそらく現在の沖縄問題には、大衆的な次元と公的な次元で民族的な差別が背景として存在する。だからこそ、これはすぐれて人権上の問題なのです。たんなる愚衆ポピュリズムの話では済まされない次元に達している。こうした日本の自画像を、政府も社会も直視せざるをえない状況まで追い込まれています。もはやパンドラの箱は開いてしまったのです。
2019.02.25
沖縄で民意が示されました。これは前代未聞のことです。◇近代国家は、つねに辺境に対する暴力性を秘めています。福島の原発問題も、青森の六ケ所村の問題も、そうした側面の一端であるといえます。しかし、そうした暴力性は、表向きは覆い隠されています。◇今回の沖縄における県民投票は、日本における、そうした暴力的な国家の構造を、もはや否定しえない形ではっきりと「可視化」してしまいました。なぜ、こんなことになったのか。それは、長期政権にあぐらをかいた現閣僚と現官僚が、民主国家としての穏当な手続きと配慮をないがしろにして、あられもない暴力性をむき出しにしてしまったからです。その反動として、いまや白日のもとに示された民意。◇こうなってしまった以上、もはや日本の「沖縄問題」は、ロシアにおける「クリミア問題」や、中国における「チベット問題」と同様に、≪人権問題≫としての様相を帯びることになります。―はたして沖縄に人権はあるのか。―はたして沖縄に民主主義は存在するのか。そのことについて、これからは国際社会からの厳しい眼差しを受けることになる。安倍政権に、その覚悟があるでしょうか?
2019.02.24
二週連続で放送されたNHKの日曜美術館「シリーズ北斎」。1週目は、永田生慈氏の仕事と、六本木での「新・北斎展」を紹介。2週目は、滝沢馬琴と組んだ読本挿絵の世界を掘り下げていました。◇1週目で大きく取り上げられていたのは、最晩年の対幅「雨中虎図 & 雲龍図」と、同じく最晩年の大作「弘法大師修法図」なんだけど、どっちも応為っぽいよねえ(笑)。「向日葵図」も「西瓜図」に似て、やっぱり応為っぽい。こんどの宮本亜門の舞台「画狂人北斎」にも、いちおう応為(お栄)は登場するわけだけど、あえて応為の代筆の謎には触れなかったようです。しかし、やはり晩年の北斎の作品を語るときには、弟子の存在については触れるべきではないかと思います。晩年の作品に「北斎の生きざま」まで見てとったあげく、あとになって「やっぱり弟子の作品でした」なんてことになったら、赤っ恥だしねえ。そもそも脳出血で倒れた90近い老人に描ける絵か?って疑問は消えない。またぞろ欧米の研究の後追いにならないよう気をつけてほしいものです。◇今回のシリーズ企画で興味深かったのは、むしろ2週目の「読本挿絵」の回でした。「椿説弓張月」の存在が知れたことは、今回の大きな収穫!北斎が、滝沢馬琴のファンタジーをとおして画力を高めていったさまは、いわば現代のミュージシャンが、映画のサントラ制作をとおして音楽の幅を広げていくのに近い。そこには、北斎特有の「波頭」の表現が「龍の鈎爪」に姿を変えていく現場もある。それから、番組では「動的エネルギーの具現化」と言われていたけれど、「波」や「雲」や「風」がフラクタルな円の表現に収斂する現場もある。その後の「北斎漫画」などの絵手本も、一見すると多様な画題に取り組んでいるようだけど、やはり、すべての事物を大小の円の組み合わせで描いてるし、むしろ多様な事物のなかに「共通の本質」を見出していたというほうが正しい。◇北斎は、あらゆる事物を「円」で描くのであって、けっして「直線」では描きません。たぶん、そこが応為との最大の違いだと思います。北斎が「直線」を用いるのは、あくまで背景として空間(奥行き)の表現をするときだけです。読本挿絵のなかでは、爆発的な閃光が放射状の直線で描かれていましたが、これも一種の空間的な表現(あるいは非日常性の強調)だといえます。ところが、応為の筆と疑われる作品では、しばしば事物そのものが「直線」で描かれてしまう。そして「直線」が前面に出ることによって、画面全体は、やや平板になってしまう。まさに「弘法大師修法図」なんかは、そういうふうに見えます。さらにいうならば、北斎の描く人物は、下半身に踏んばりと躍動があるけれど、応為の描く人物は、やや下半身が棒立ちのように見えるんですね。
2019.02.20
いままで見た映画のなかで、好きな作品を教えてといわれても、ついつい昔見た映画ばかりを挙げてしまって、あらたに見た映画がフェイバリットに加わることなど、最近はほとんどないのだけれど、『ラ・ラ・ランド』は、あらたなフェイバリットに加わりそうな作品です。◇とくにミュージカル好きというわけではないけど、この映画は、観る前から少しの予感があって、なぜかオープニングの高速道路の長回しのシーンから、胸がいっぱいになってしまって涙があふれました。夜景の見える丘で歌い踊るシーンでも、天文台のプラネタリウムにふわりと舞い上がるシーンでも、なぜか不思議と涙があふれてしまうのでした。夢のように美しいのに、どこか悲しくて切ない。◇愛し合い、ともに夢を追った二人。でも、たがいの夢を追うなかで、いつしか距離が離れ、夢を実現したときには、もう離れ離れになっている。なぜ一緒になれないのだろう?そりゃ、長い月日のなかで色んなことがあるからですよね。いろんな出会いもあれば、別れもあるから。ただ、それだけの話です。よくある話なのです。…でも、よくある話だけれど、けっして「よくある映画」ではない。ありえないファンタジーを描く映画はありふれてるけれど、よくある人生の断面を、これほど味わい深く描ける映画は少ない。>>そのあたりのことはこちらに書きました。◇最後の場面、夫婦がふらりと立ち寄った地下のジャズバーで、ミアが「SEB'S」の看板を目にした瞬間からは、もう、つらくて、悲しくて、涙が止まりませんでした。セブが最後にピアノで弾いたメロディは、彼がおそらく5年のあいだに繰り返し思い巡らせただろう、想い出と、淡い夢を、走馬灯のように描き出していく。ミアにも、同じものが見えたのでしょうか?◇夢追い人に祝福を。それが、この映画の主題です。そして、二人の夢は叶いました。ミアの夢は、セブが自分の店を開くこと。セブの夢は、ミアが女優として羽ばたくこと。ミアは「店の名前は《チキンスティック》よりも《SEB'S》がいい」と言い、セブは「君がパリにいったら、女優の仕事に専念するほうがいい」と言った。はたして、すべてが思ったとおりになりました。だからこそ、最後に遠くからお互いを見つめた二人は、しずかに頷いて、そのことを確認しあったのですよね。でも、いちどしかない人生、ひとつの選択しか許されない人生は、つねに胸を締めつけられるような後悔にも満ちている。ミアは、セブの音楽を理解して、ジャズのことが好きになっていたのに。セブは、ミアの故郷の話も、女優だった叔母の話も、すべて覚えていたのに。二人こそが、お互いの夢のことを、誰よりも理解していたのに。それでも、5年の月日のなかで、それぞれの歩む道は分かれてしまう。◇再会した二人はひとことも言葉を交わしません。ただ、見つめ合って頷いただけです。それだけで、言葉にするよりはるかに多くの記憶が二人のあいだによみがえり、そして「なぜ一緒になれなかったのだろう?」という想いが、一瞬のうちによぎるのだと思う。でも、答えは分かり切っています。…それが人生だからです。◇この映画を見て、なぜかわたしが思い出したのは、山中貞夫の「人情紙風船」。あるいは、ベルイマンの「野いちご」でした。ベルイマンは39才。デミアン・チャゼルは32才。山中貞夫は28才。みんな若いときに撮っているのですよね。それなのに、彼らの作品には、すでに人生の悲哀や後悔があふれている。でも、若いエネルギーがあるからこそ、これほどまでに胸の締め付けられるような作品が撮れるのかもしれません。◇とくにミュージカル好きではない私にとって、歌や踊りが素晴らしいことだけが作品を評価する基準ではないし、逆に、歌や踊りが駄目だからといって、作品を評価しない理由にもならない。わたしが素晴らしいと思ったのは、この映画が、おそらく今まで観た中ではじめて、「ミュージカルならではのドラマ話法」というものを、たしかな実感をもって理解させてくれたこと。ミュージカルといえば、とつぜん歌いだしたり踊りだしたりすることに、違和感をもつことも多いのだけれど、この映画には、一般的なドラマのリアリティとは違う、ミュージカルならではの話法がありました。夜景の見える丘で、口で話すのとは裏腹に、歌い踊りながら心を近づけていくシーンにも、グリフィス天文台で、プラネタリウムのなかへ舞い上がっていく幻想的なシーンにも、《そこでこそ歌い踊る必然性》を、たしかに実感させてくれたのですね。◇デミアン・チャゼルは、とくにミュージカル専門というわけではないようですが、今後も注目していきたい監督です。ちなみに最近は、英語の発音に忠実であろうとする流行があるらしく、わざわざ「デイミアン」と英語なまりにも表記されるようだけど、彼がフランス系であることを考えれば、むしろ「デミアン」もしくは「ダミアン」と表記するほうが、よっぽど正しいんじゃないかという気がします。過度な英語至上主義は、かえって鬱陶しいですね。
2019.02.10
父親に殺された小学4年生の女の子は、事件当日、家から逃げ出そうとしたところを、父親に連れ戻されたのだと報道されています。◇日本には「ホンネ」と「タテマエ」がありますが、虐待やハラスメントを行う人間は、「タテマエ」の部分ではそういうことをせず、つねに人目につかない部分で暴力的にふるまいます。それは家庭や職場など、自分よりも弱い立場の人間しかいないような"密室的な空間"です。彼らは、自分の行為が公に晒されることを非常に恐れます。まさに、加害者の父親は、自分の家庭内の暴力を外に知られないように、娘を家の中に連れ戻し、結果、殺してしまったといえます。おそらく彼は、自分の行為を「教育」であり「しつけ」だと弁解するでしょうが、これもまさに、虐待やハラスメントを行う人間に典型的な理屈です。職場でパワハラを行う人間の場合も、例外なく、自分の行為を「指導」であり「教育」だと言うのですから。◇虐待やハラスメントを行う人間というのは、「強い者が弱い者を指導すべきである」という価値観の中に生きています。彼ら自身が、そういう価値観のなかで育ってきたために、それと同じ価値観を次世代に引き継ぐのが当然と考えています。したがって、彼らは、成長するにつれ、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけ、そうした弱い人々に支配的にふるまうことで、あたかも自分が一人前になったかのごとく錯覚します。彼らが社会や職場で成果をあげるのも、まさに弱い立場の人々を従わせ、ときには責任を押し付け、さらにはフラストレーションの捌け口にすることによって、自分の目的を実現しているからです。本来、人間の能力や経験値というのは、「強い弱い」とは無関係なはずですが、彼らにとっては「弱い者が強い者を指導する」などありえない話で、「強弱」こそが人間の優劣を決定づけているのです。ある意味で、彼らは非常に野蛮な価値観の中で生きていると言えます。◇虐待やハラスメントを行う人間にとって、暴力の実態が外部に知られることは致命的な打撃です。弱者への支配のうえに成り立っている彼らの人生は、虐待やハラスメントが封じられた瞬間に成り立たなくなる。極端にいえば、虐待やハラスメントの許されない空間では、彼らは、生きることすらできなくなってしまうのです。
2019.02.09
全5件 (5件中 1-5件目)
1