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今年の夏は、ひさしぶりに戦争についていろいろ考えました。まあ、みんなNHKがらみですけど(笑)。アニメ「この世界の片隅に」を鑑賞して、映画「ひろしま」は見逃してしまいましたけど、Nスぺを何本か見て、昭和天皇にかんする一連の報道を見て、それから、100分de名著では、ロジェ・カイヨワの「戦争論」を見て考えさせられました。…ってことで、もはや昭和天皇とはなんの関係もありませんが、カイヨワの「戦争論」について、いろいろ考えをめぐらせてみたいと思います。◇カイヨワは、戦争のことを(バタイユ風にいえば)「蕩尽」ととらえていたのですね。「蕩尽」というのは、おそらく「蓄積」の対義語なのだと思います。いわば、究極の消費ですね。蓄積がなければ、きっと蕩尽の必要もないんですよね。自然界のエコシステムは、ぐるぐる循環しているだけなので、蓄積もなければ、蕩尽する必要もないのだと思います。人間の場合は、農業生産を始めて以降、蓄積するようになったせいで、そのぶん蕩尽する必要がでてきたのでしょう。さらに近代の工業化によって、人間の蕩尽は、より破壊的なものになってしまった。それが戦争です。ちなみにバタイユは、セックスも、暴力も、スポーツも、祭りも、戦争も、みんな一種の蕩尽だと考えていたようです。つまり、過剰な生エネルギーの解放ですね。バタイユの場合は、そもそも太陽のエネルギーが過剰なのだから、たとえ蓄積のない社会でも蕩尽は必要だと考えていたようです。バタイユにとって「蕩尽」の対義語は、おそらく「贈与」なのですね。マルクスの場合は、「恐慌」が戦争をもたらすと考えていましたが、恐慌というのは、やはり過剰生産(≒蓄積?)の矛盾から生じるのですね。したがって、恐慌も、何らかの蕩尽によってしか解消されないという理屈だと思います。◇今回の「100分de名著」を見ていて、戦争には、多面的な効用があることが分かりました。ひとつは、蓄積された生エネルギーの解放。それから、社会的蓄積を蕩尽・破壊することによる経済循環。さらには、個人のアイデンティティの確立にも関係があるようです。戦争の場合、国家への帰属意識が個人にアイデンティティを与えますけども、それは、むしろ「帰属」というより「埋没」に近いもののようにも思えます。戦争においても、祭りにおいても、スポーツの応援においても、人々は集団のなかに埋没していきます。むしろ、ほとんどの人々は、この埋没によってアイデンティティを得るのではないでしょうか。◇今回の番組を見て、「蕩尽」には、《破壊的なもの》と《合一的なもの》がある、ということも知りました。アインシュタインは、エネルギーと質量が互換できるという経済原理を発見して、事実、核分裂でも核融合でもエネルギーは生まれるのですが、エネルギーの蕩尽にも分裂的な方法と融合的な方法があるのでしょうか??戦争はおおむね《破壊的》な蕩尽であり、祭りはおおむね《合一的》な蕩尽だということですね。セックスにも《破壊的》な面と《合一的》な面があるかもしれません。戦争は、対外的にみれば《破壊的》な蕩尽ですが、国内的にみれば、むしろ《合一的》な蕩尽だといえます。だからこそ、ナショナリズムの熱狂を共有し、国民としてのアイデンティティを得られるのですから。祭りは、一見すると《合一的》な蕩尽に見えますが、じつは過去の戦争の記憶を反復するような祭りも結構あると思います。たとえばヤマタノオロチを退治するような日本のお祭りなどです。それは、たんに過去の戦争を記憶・再生するためだけでなく、《破壊的》な蕩尽のエクスタシーを集団で反復しているのかもしれません。戦争にしても、祭りにしても、いわばハメを外した生エネルギーの解放なのですが、しかしながら、まったく無軌道な蕩尽というわけでもない。一定の同化のベクトルがあるし、解放のベクトルももっています。集団内への同化のベクトル、そして外側への破壊のベクトルですね。そのベクトルに従うことでしか、たぶん蕩尽することはできません。祭りの場合にも、ダンスのリズムのような規則性がなければ、蕩尽することは出来ない気がします。◇蕩尽は、もはや人間には不可避のものなのでしょうが、極限的な蓄積や、極限的な蕩尽は、いずれ循環不能な破滅をもたらします。なので、極限的な蕩尽にならないような持続的なシステムが必要とされています。破壊的な蕩尽よりは、まだしも合一的な蕩尽のほうが平和的かもしれないし、マキシマムな蕩尽よりは、まだしもミニマムな蕩尽のほうが持続的かもしれません。集約的な蕩尽よりは、分散的な蕩尽のほうが危機が少ないかもしれない。スポーツは、ある意味で、戦争を代替している面があると思いますが、現代なら、テレビゲームなども、そうした代替的な手段に見えます。いわば「仮想的な蕩尽」ってところでしょうか。最近では、ヴァーチャルリアリティの技術も発展してますので、セックス、暴力、スポーツ、祭り、戦争といったあらゆる蕩尽が、すべてヴァーチャルな空間のなかで計画的に処理できるのかもしれません。ただ、どうしても、蕩尽というのは「無駄」な印象があります。無駄に消費するからこその蕩尽なのでしょうが、せっかくなら、そのエネルギーをもっと有効活用できないものかなと思ってしまいます。ましてヴァーチャルな空間での蕩尽は、あまりに無意味に思えます。あらゆる物質とエネルギーの蕩尽が、そのまま生産や贈与に変換されるシステムだったらいいんですけども…。…また来年の夏に考えます。
2019.08.26
昭和天皇は、国民にも「反省」の機会が必要だと考えていたようです。しかし、その機会を逸してしまった。いまだに日本人の多くは、空気を読んだり、ノリを共有したりしながら、全体の趨勢に呑み込まれていくという体質を変えていません。さらに、あろうことか、日本の馬鹿げた心理学者などは、空気を読んだり、ノリを共有したりする技術こそが、社会人として必要な「コミュニケーション能力」と主張したりしています。局所的なエビデンスだけを集めていると、そんな矮小な見識に至るのですね。◇先日、「半グレ」を取り上げたNHKスペシャルを見ていたら、ある若者が「半グレ集団のなかではコミュニケーション能力が磨かれる」と語っていました。実際、そうなのでしょう。とくにヤクザ的な社会では、コミュニケーション能力こそが物を言います。しかし、いまや日本社会全体が、コミュニケーション能力だけが幅を利かすヤクザ的な社会になっています。そういう傾向は、体育会系化したバブル社会において非常に強まりました。「コミュニケーション能力があればよい」という発想は、やがて技術力や開発力よりも、営業力だけが物を言うような経済を生みます。たとえば、80年代のビデオ戦争において、松下のVHSがソニーのベータマックスに勝利したのは、技術力よりも強引な営業力のほうが上回ったからでした。現在の日本でも、まともな商品開発などそっちのけで、露骨な勧誘やら強引な営業やらが日常的におこなわれています。◇たしかにミクロな視点で見れば、空気を読んだり、ノリを共有したりできるほうが、個人として世渡りしていくには都合がよいでしょう。しかし、社会全体が、空気を読み、ノリを共有するばかりになったら、それは、結果的に国家の運命を危うくします。かつての日本人が戦争に突き進んだのも、軍隊が統制を失って、天皇の制御さえ効かなくなったのも、無批判な人々がなし崩し的に流されていったからです。◇日本的な意味でいうところの「コミュニケーション能力」とは、ある意味で”犬の感性”に近いものです。犬は、猫とちがって、「家長が誰か」を瞬時に察知する能力があそうです。家族のなかで誰がいちばんエラいのかを察知して、その権威に忠実であろうとする能力が本能的に備わっている。まさに日本人のコミュニケーション能力とは、こうした”犬の感性”のようなものであり、たえず集団のなかで誰に従うべきかを察知する能力を発揮しては、その力関係を空気から読み取り、長いものに巻かれ、全体の趨勢に従うことを本能的に目指しています。エライ人間にならば、なんら合理性や正当性がなかろうとも、無批判に従いますし、逆に、末端の弱い立場の人間には、その主張がどんなに合理的であり正当的であろうとも、けっして従属しようとはしません。それが日本人です。つまり、集団内の誰に従うべきかは、主張そのものの正当性や合理性によってではなく、関係性の主従や優劣によって決められるのです。それが日本の社会なのです。このような”犬の感性”をもった人たちで構成される社会は、いとも簡単に非合理な方向へと全体が流れていきます。まさに、それが、かつての戦争でした。思えば、南京事件のときに、日本の軍人たちが見境なく略奪・暴行をはたらいたのも、ある種の集団的な「ノリ」だったのだろうと思います。パワハラ的な上官に無批判に従っているうち、誰ひとり全体のノリに逆らえなくなったのでしょう。現在の日本人でさえ、そのときのような状況に置かれれば、まったく同じ行動を取るのだろうな、と思います。
2019.08.24
余談ですが、エルサレムを最初に侵略・占領したのは、アラブ人でもなければ、ユダヤ人でも、ローマ人でもなく、テュルク系のヤカラーでした。本来なら聖地とは無関係な、新参セルジューク朝の不逞の輩が集団でやらかした横暴だったのです。それが十字軍の発端になって、アラブ人と、ローマ人・ユダヤ人の1000年以上にわたる、その後の血みどろの戦いにつながっていきます。一部のヤカラーによる余計な行為が、本来なら争うべきでない民族同士の1000年の抗争につながったのです。歴史って、そんなものですよね。◇同じようなことは、南京事件にもいえます。あれは天皇の意志でもなければ、国民の意志でもなく、まして国家の正式な決定のもとに遂行されたのでもなく、一部のヤカラーが引き起こした、まったく余計な犯罪です。しかし、結果的には、その負債を、いまもなお日本国民全体が背負う羽目になっています。◇日本人のなかには、いまだに旧日本軍の行為を英雄視し、擁護する者がいます。彼らは得意になって「愛国」などと口にしていますが、ちっとも愛国ではありません。たんに迷惑なだけです。むしろ、そういう連中がいるおかげで、いまもなお日本国民全体が、旧日本軍のヤカラーと同一視されてしまうのです。たとえば、ドイツ人みずからが「ヒトラーは悪人であり狂人だ」といえば、だれも文句は言いません。ロシア人みずからが「スターリンは悪人であり狂人だ」というなら、べつに疑いはもちません。しかし、下手にヒトラーを英雄視しつづけるドイツ人がいたり、下手にスターリンを崇拝しつづけるロシア人がいると、世界は、彼らに対して疑いの目を向けざるをえない。同じことは日本にもいえます。そもそも南京事件を起こした連中に「愛国心」などあったでしょうか?彼らが本気で、「天皇のため」「お国のため」と略奪・暴行をはたらいていたのなら、たんなるバカとしか言いようがありません。なぜなら、彼らの犯罪行為は、何ひとつ日本の利益にならなかっただけでなく、かえって中国に誇張宣伝され、米国が原爆を使う口実になったからです。敵国のほうに大義名分を与えてしまった。「日本に反撃したい」という中国の目的に利用され、「原爆を使って覇権を確立したい」という米国の目的に利用され、結果として日本の都市部はさんざん爆撃され、沖縄やサイパンでは住民が大量に殺戮され、広島と長崎に原爆が投下される結果をまねきました。それもこれも、一部のヤカラーの余計な暴走が引き金になったのです。そして半世紀以上たっても、まだ日本国民の負債が消えていません。まったくもって余計なことをやらかした反日的行為というべきです。◇しかし、一部の日本人のなかには、南京事件をさえも擁護したり、それを必死で誤魔化そうとしたりする者までいます。一体どういうつもりなのでしょうか?たんに歴史を知らないのでしょうか?それとも当事者の子孫か何かでしょうか?ほんとうに迷惑な話です。そんな人たちがいるせいで、まるで日本人全体までもが、いまだに南京事件の当事者と同一視されます。南京事件を起こした連中には「愛国心」などなく、たんに私的な暴力性をここぞとばかりに解放していただけです。たんなる不逞のヤカラーなのです。だから、日本人は、彼らの行為をけっして「日本国民の行為」と認めてはいけない。あくまで狂ったヤカラーの犯罪として徹底的に糾弾すべきであり、彼らを真の国賊として永遠に葬るべきです。得意げに「愛国」などと口にする連中にかぎって、旧日本軍を批判する人々をすぐさま「反日」呼ばわりしますが、そのような主張こそが、まさしく「反日」的なのであり、ちっとも「愛国」的ではないのです。真の反日とは何なのか。真の国賊とは誰なのか。よほどのバカでもなければ、だれでも理解できることです。
2019.08.22
「なつぞら」に、なんの前ぶれもなく田中裕子が登場ッ! まあ、事前情報はあったんでしょうけどね…。わたしが知らないだけで(^^;突然「なつぞら」が異次元ドラマにっ!(笑)凄まじい日テレ感のなかで、田中裕子とすずのツーショットにしばし釘付け。ハリカちゃんに子供が生まれるのね…と目を細めるanone。そういえば、ハリカちゃんも孤児だったよね…。坂元裕二が書いたのは、血のつながりのない他人同士が、本物の家族のような絆を結んでいく物語でした。仙台出身の奥山玲子の話が、なぜ北海道の孤児の話に入れ替わってるのか疑問だったけど、それって「タイガーマスク」でも「ジョー」でも「ハッチ」でもなく、「anone」へのオマージュだったんですね! たぶん…(笑)anone [ 広瀬すず ]楽天で購入
2019.08.21
昭和天皇が「下剋上」とまで表現した者たちを、靖国神社が合祀してしまった意味。すなわち、靖国神社は、たんに東京裁判の視点を振り切っただけでなく、アジアの視点も、そして天皇の視点さえも振り切って、合祀を強行したといえます。そのうえで天皇を靖国に参拝させようという横暴な企ては、いまもなおクーデタとしての意味を帯びます。◇とくに近年、靖国神社については、西郷隆盛などをふくめた賊軍合祀を進めるべきとの議論があります。たしかに、日本人は古来、「怨霊を鎮めるために敵味方を問わず神と祀るべし」という発想で、平将門のような逆賊をさえ祀ってきました。しかし、たとえ国内の逆賊を合祀したところで、そこには、やはりアジア的な規模の視点が欠如しています。日本軍に蹂躙されたアジアの人々の魂は、いっこうに鎮まりません。西南戦争に「国家統一を目指す」という大義があったならば、アジアの盟主たらんと目論んだ近代日本の戦争にもまた、「大東亜共栄」「八紘一宇」「五族協和」といった建前はあったのです。そのことを省みれば、「敵味方を問わず神と祀る」という精神のうちにも、アジア的な規模の視野や配慮は欠かせないはずです。靖国自身がアジアを敵視し、またアジアから敵視されるかぎり、鎮魂とはほど遠い状況が今後も永久に続くでしょう。もちろん、あらゆる逆賊を一緒くたに合祀すればいいという単純な話じゃありません。現時点でさえ下剋上をやらかした逆賊と一緒くたに祀られることへ、はげしい嫌悪感を抱く人々はいます。あらゆる日本人に「反省」の機会が必要だと昭和天皇が考えていたとすれば、その機会を逃したことが大きな禍根になったと思わずにいられません。靖国の名にそむき まつれる神々を思へば うれひのふかくもあるかこの憂いの深さの淵源がどこにあるか、あまりにも明白ではないでしょうか。
2019.08.20
NHKスペシャル「拝謁記」。昭和天皇が、くりかえし「下剋上」という言葉を使っていたことに、衝撃をおぼえました。下剋上とは、すなわち、下の人間が、天皇の権威と権力を奪い取っていった暴挙のことです。軍部の人間は、口先では「お国のため」「天皇のため」とうそぶきながら、実際のところは、錦の御旗を利用して、その権威と権力を天皇から奪取していました。その結果、国家の意思そのものを歪めていました。これをこそ「反日」と呼ばずして、いったい何と呼べばよいのでしょう?いまなお、こうした軍部の行為を擁護しては「英霊」などと呼び讃える者もいます。そして、そのような連中にかぎって、まっとうな軍部批判をする人にまで「反日」とのレッテルを張りたがります。しかし、真の反日と呼ぶべきなのは、いったい誰なのか。まともな日本民族ならば、もはや誰にだって分かることですよね…。◇三島由紀夫の「牡丹」じゃありませんが、じつは国家の権威を借りながら、私的な暴力性を解放して喜んでいた人間が、とりわけ日中戦争時にはウジャウジャいました。そんな連中の犯罪行為の負債を、いまだに国民全体が背負わされています。まさに彼らこそが日本史上稀にみる「反日」なのであって、まちがっても「英霊」などと讃えてはいけません。
2019.08.18
「いだてん」第30話。史上最低視聴率だったそうですが、それほど内容が悪かったわけではありません。視聴率との関連はともかく、やはり前回の内容のほうに問題があったと思います。いちばん大きな問題は、高石勝男(斎藤工)を物語の中心に据えてしまったことですね。これが脚本のせいだったのか、それとも演出のせいだったのかは分かりません。じつはストックホルム編のときにも、三島弥彦(生田斗真)を物語の中心に据えてしまったことが、ドラマの勢いを停滞させた最大の原因だと感じていました。たとえ同じ物語、同じシーンであっても、どの人物の表情を中心に撮っていくかで、まるで見え方が変わってきます。今回のように、オリンピックの選手選考の物語を描く場合でも、それは、あくまで田畑政治の苦悩をとおして描くべきだったと思います。高石勝男の姿でさえ、カメラの据え方やカットの割り方が違えば、それを、あくまで田畑政治の表情をとおして描くことができたはずです。たとえば、過去に、もっとも成功した大河ドラマとして、宮崎あおいちゃんの「篤姫」がありますけれど、あの作品などは、その点において、非常に模範的だったと思う。すべての出来事を、ひたすら主人公(あおいちゃん)の表情をとおして描いていたからです。歴史的な出来事は、さまざまな場所で起こるわけだし、そのつど当事者も異なるわけですが、それでも、最終的には、すべての出来事が、主人公である篤姫(あおいちゃん)の表情によって意味づけられていた。あのドラマは、そういうスタイルを一貫して崩しませんでした。だから、物語の軸がぶれないし、散漫にならないし、視聴者としては、とても感情移入しやすい。それこそが大河ドラマにとっては王道だと思います。もちろん、例外はあります。たとえば、三谷幸喜の「新選組」のように、回ごとに物語の中心人物がどんどん変わっていく群像劇もあります。あの作品の場合は、山本耕史や、堺雅人や、佐藤浩市が、そのつど主役並みにスポットを浴びて活躍していました。けれど、それを成功させるためには、脚本の意図と、演出の手法と、役者の魅力とが、ぴったりと噛み合わなければいけない。それぞれのキャラが主役を凌ぐほど魅力的でなきゃいけないし、視聴者が感情移入できるだけの十分な伏線も必要です。それをやるのは、とてもハードルが高い。あくまで「いだてん」の場合は、金栗四三と田畑政治を中心に物語っていくのが正解なのだと思います。回ごとに中心人物が変わるのは、あまりにリスクが高い。いきなり斎藤工が話の中心になっても、視聴者は戸惑うだけです。ちなみに、古今亭志ん生のサブストーリーが並行するスタイルについて、当初から賛否両論あるようですが、わたしは、それ自体が悪いとは思ってません。むしろ金栗四三と田畑政治の物語がしっかりとした軸になれば、志ん生のサブストーリーも相対的な視点として有効に機能するはずです。◇NHKは、視聴率を回復しようとするあまり、それを安易な対策で改善しようとしてるっぽいのですが、かえって熱心なファンまで失望させかねない悪循環に陥っています。おそらく上層部は数字を見て判断しているでしょうが、数字だけを見ても、なんら本質的なことは見えてきませんし、もちろん視聴率主義のバカな批評家の話を鵜呑みにしても、しょせん彼らはネットの感想を拾って適当な記事に纏めているだけです。ほんとうに質の良い仕事を正当に評価せず、逆に責任だけを押しつけていくような本末転倒をやれば、かえって能力のあるスタッフほど、やる気を失くす結果になるでしょう。まあ、これはNHKにかぎった話ではありませんけど。バカな企業ほど、そういうことをやりがちですよね。
2019.08.14
2年前にNHKが放送した「眩(くらら)~北斎の娘~」について、当時はわたしも熱狂的にいろいろとフォローしたし、結果的に、国内外で高い評価を得て、葛飾応為という絵師の再評価に一役買ったけれど、一部には、あのドラマに対して、「ちょっと物足りない」という厳しめの評価もあったようです。じつをいうと、わたし自身、そう感じていた面がなくはない。それは、長塚京三の配役についてです。病床から立ち直ってなお絵を描きつづけようとする北斎の、異様なまでの「業」というか「執念」のようなものを表現するには、長塚京三という役者は、ちょっと品がよすぎるというか、格好よくてスマートすぎる気がした。あのドラマには、医者の役で麿赤兒が出演していたのですが、もしも麿赤兒が北斎役を演じていたら、もっとドロドロとした絵師の凄みを表現できただろうと思います。あるいは、長塚京三よりも、息子の長塚圭史のほうが、より北斎のイメージに近かったかもしれません。逆に、長塚京三を起用するならば、北斎役ではなく、ツンデレな馬琴役のほうがハマったかもしれない。あのドラマでは、野田秀樹が滝沢馬琴を演じていましたが、ちょっとキャラクターとして分かりにくかったのです。むしろ長塚京三のほうが、キャラクターが明解だった気がする。いずれにしても、これはキャスティングに起因する問題だったのですよね。◇話は変わりますが、あのドラマには、じつは編集でカットされていたシーンがありました。特集番組の中でチラッと映っていたのですが、善次郎(松田龍平)が絵を描いているシーンが、本編に出てこなかったのですね。おそらく、そのシーンでは、「お栄の才能に及ばない」と悟っていく善次郎の姿が、もうすこし詳細に描かれていたのだろうと思います。わたしは、そのシーンも含めた長尺のディレクターズカット版を見てみたいのですが、去年発売されたブルーレイでも、とくに再編集はされていないようです。
2019.08.11
NHKで放送された「この世界の片隅に」をじっくりと鑑賞。つくづくフォークルの「悲しくてやりきれない」ってのは、不思議な歌だなあ、と思いました。…よく知られているように、この曲は、期せずして発禁処分になった「イムジン河」の代用品として、パシフィック音楽出版に強制され、軟禁状態におかれた加藤和彦が無理やり作らされたものです。「イムジン河」の音符を逆にたどっていたら、ひょろっと思いついたメロディだともいわれています。しかも、そこに、これまたフォークルとは、縁もゆかりもない、ジャンルも世代も違う、サトウハチローという御大が、なんの打ち合わせもないところで歌詞をつけてしまった。◇この曲は、だれの表現の意思ともいえぬところに出来てしまった、いわば偶然の産物であり、ある意味では、さかさまの歌です。パシフィック出版でもなければ、加藤和彦でもなければ、サトウハチローでもなければ、イムジン河の作者でもない。日本人でもなければ、朝鮮人でもない。だれの意思でもない、何らの「表現の意思」とも無縁なところから、ぽわん、と生まれてきてしまった歌。そんな歌が、これほどの普遍性をもってしまっている。山田太一や、周防正之や、井筒和幸や、片渕須直といった人たちに、繰り返し、繰り返し使用され、いまや時代と空間を超えて、世界中で聴かれています。◇それをコトリンゴが、ぽわん、と歌っている。映画のなかでは、ボーっと生きてきた一人の無力な女性が、気づいたら、知らない土地に嫁いでいて、まったく無力なままに、選べなかった家族や、選べなかった時代や、選べなかった国家の運命に翻弄されていきます。そんな悲しくてやりきれない人生に、この誰の意思でもなく生まれた、さかさまの歌が、ぽわんと乗っかって、ぴったり寄り添っていく。そして、特定の誰かのものではない、普遍的な悲しみを歌っています。
2019.08.09
わたしが考える「日本のしたたか女ランキング」!これまで堂々の第一位は、なんといっても竹内まりやでした(笑)。彼女は、結婚そのものもしたたかだったけど、それ以上にしたたかだったのは、ジャニーズ関連のマーケットを確保してみせたこと。竹内まりやと工藤静香がメリー喜多川とつるんでいる、という事実を知ったとき、このうえない嫌悪感とともに、思わず「やっぱり…」と呟かずにはいられませんでした。もちろん竹内まりや本人にも、それなりの才能はあるのですから、まったくなんの才能もないメリー喜多川なんかとは大違いだし、メリー喜多川の浅はかさにくらべたら、竹内まりやのしたたかさのほうが、はるかに上だとは思う。とはいえ、彼女たちには何かしら、共通するニオイのようなものがあります。だからこそ、類は友を呼ぶのです。◇わたしが思う「したたかな女」というのは、内助の功でもなければ、自分自身の能力でもなく、男性の能力を自分の権力のために利用する女のことです。そして、彼女たちは、そうした男性の本来の仕事や志を、結果的に歪めてしまう面がある。メリー喜多川が、弟であるジャニーの仕事を大きく歪めてしまったように、竹内まりやも、あまりにもジャニーズに接近しすぎることによって、夫である山下達郎の仕事を歪めてしまったように見えるのです。したたか女への嫌悪感は、ここに起因します。余談ですが、こうしたしたたか女と比べてみると、純粋に自分の力だけで生き、そのバイタリティをもって、複数の若い男たちをグイグイ引っ張っていく渡辺えりの、なんと逞しく、美しく、潔いことでしょうか!彼女には、みずからの意志で結婚して離婚する資格と自由と栄光があります。◇さて、滝川クリステル。日仏のハーフである彼女が、日本の保守中枢に喰いこむことで足場を固めてきたのは、すでに周知のとおりです。しかし…!まさか、ここまで露骨に踏み込んでくるとは。ここまでくると、逆にちょっとアッパレです。もはや野心以外のものが何も見えません(笑)。小澤征爾の息子に狙いを定めたのも、結局はそういうことだったんだろうなあ…。でも、彼女はもっと上を目指そうとしている。もはや「世界的指揮者の嫁」ごときでは満足しないのです。彼女は、首相夫人にまで昇り詰めようとしている。小泉進次郎が首相になったとき、彼女が卑小な野心のために裏から日本の政治を歪めるのではないかと、それだけが心配です。
2019.08.08
「偽装不倫」は、回を追うごとに、安っぽさが目についてくる。もうダメかも。まったく笑えないコント演出といい、メインキャスト以外の配役の安っぽさといい、予想をはるかに上回るB級っぷり。これは原作のテイストなのでしょうか?そうだとしても、もう日テレとは思えないような、信じられないくらいのセンスのなさです。…もしかして、ヤケクソで作ってる?鉄道オタク、わんこそば、ド田舎喫茶、居酒屋コントと、次から次へ繰り出される笑えないコメディの連打に、完全に心をへし折られました。正直かなり辛いです。◇前期以降、日テレのドラマに、本来のキレやセンスが感じられません。視聴率の取れないドラマ部門は放棄することにしたのでしょうか?2クールぶち抜きの「あなたの番です」も、秋元康のバズり商法だか炎上商法だか知らないけど、やたらと犯人フラグだけ撒き散らすようなヤケクソな内容。とてもバカバカしくて、犯人を考察する気にはなりません。むしろ今期にかんしていえば、フジのほうが丁寧にドラマを作ってる気がする。「朝顔」も「ルパンの娘」も、作りがしっかりしているので安心して観ていられます。
2019.08.08
遅まきながら「いだてん」の第29話。ロサンゼルス編です。演出は、第一部でストックホルム編を担当した西村武五郎。◇今回は、「なぜ田畑政治がメダルの獲得にこだわったか」を、当時の日本の暗い世相に絡めて物語っていくという趣向でした。(すくなくとも、クドカンの意図はそうだったと思う)田畑は、メダル獲得によって当時の日本社会に光をもたらそうとしたわけですね。そのためには、選手を使い捨てることも厭わなかった。その田畑の残酷なまでの意志を、選考から外されていく高石勝男(斎藤工)の物語と対比しながら、描こうとしたようなんだけれど…残念ながら、いまひとつ心に響いてこない。なぜなら、この高石という人物に共感するための準備がないからです。これまで何のストーリーも描かれてこなかった人物に、いきなり共感しろといわれても無理ですよね…。伏線がなさすぎる。この人に共感するための事前の伏線がもっと必要だったはずです。観ている側としては、彼の立ち位置もよく分からないし、なぜ周囲の仲間が彼に同情するのかも分からないし、本人の苦悩を共有することもできません。◇どうも、こういった点で、演出家は、脚本の読み込みが浅い気がします。たんに形だけの演出をしてしまっている。どんなカットが必要で、どんなカットが不必要かを、結果から逆算して考えることができていない。ひとつの印象的なカットを加えるだけで物語が意味を帯びます。その工夫が不十分だと思う。◇噂によると、NHKは、視聴率を回復する目的で脚本を改変したりしてるらしい。そんな浅はかなことをすれば、内容が悪くなるのは当然です。本来の脚本の意図や、全体の有機的な繋がりが失われますから。ストックホルム編もやや失速したけれど、ロサンゼルス編もまた失速してしまいそうです。
2019.08.07
韓国に対する日本政府の強硬な姿勢は、国民の共感も得ているようで、政権の支持率が上昇しています。ナショナリズムを煽り、他国との対立を煽れば煽るほど、なぜか政権の支持率が上昇してしまうという構造は、じつは韓国と同じです。それは、日本人の民度が韓国人の民度と大差ないという事実を意味しています。このことは深刻です。◇日本は、今回の日韓の対立を、経済的な我慢比べによって乗り切ろうとしています。まだまだ経済的な体力でなら、日本のほうが上回っている、という判断があるからです。しかし、金の力で屈服させられるうちはいいとして、今後、徐々に経済力が弱体化していった場合、日本の外交は悲惨なことになっていくでしょう。そうでなくとも、こんな馬鹿げた我慢比べを周辺国とやりあっていたら、それだけで経済的な体力を消耗させ、みすみす自らのアドバンテージを失っていくはずです。それは、第三国に付け入る隙を与えるだけでしょう。すでに、そのことに気づくことすらできないほど、日本人の民度は、韓国並みに下落しはじめています。◇ある日本政府の高官は、「日本には外交カードが100枚くらいあるんだ」などと自慢げに語っていました。しかし、これほど愚かなことはありません。日韓双方がむやみやたらにカードを切るほどに、たがいの体力が消耗するだけで、何らのメリットもないからです。10枚もカードを切った日には、双方ともがフラフラになるでしょう。相手もろとも弱体化していくだけのことです。かりに外交担当者が、「勝たなければ気が済まない」というメンタリティで臨んでいるならば、それこそ馬鹿国家の仲間入りをした証というほかはありません。それは外交の目的を履き違えています。外交の目的とは、結局のところは共存の道を探ることでしかなく、どちらか一方が勝ち切ることでも、負け切ることでもありません。そんなことは、ありえないからです。◇相手を打ち負かそうとする頭の悪い外交は、米国のトランプ流に端を発し、中国から韓国へ、そして、ついには日本にまで感染しつつあります。日本にも、すでに「自国民ファースト」を叫び続けるような、中朝並みに民度の低い馬鹿な国民が増加しつつあります。その結果として、他国民への感情が悪化することも問題なのですが、それよりもっと問題なのは、国内での不寛容が広まってしまうことです。自国政権への批判に対して「非国民的」というレッテルを張り、その主張や表現の多様性を抑圧しようとする傾向が強まるほど、社会の容貌は、中国や北朝鮮の一党独裁国家へと酷似していきます。そのことにあらかじめ気づく能力さえ失くすほど、日本人の民度が、中朝並みに落ちようとしています。政権もまた、そんなバカな国民に迎合するだけの存在になりつつあります。これが、いちばん深刻です。
2019.08.06
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