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12月23日~25日と伊賀上野天神祭が行われます。今年は土曜日曜になり人出が期待できます。神輿行列を先頭に、百数十体の鬼行列、絢爛豪華な九基のだんじりが城下町を練り歩く様は圧巻ですだんじり(楼車)に乗り込むところ上野天神祭は約四百年続く伊賀上野の秋を彩る伊賀最大の祭で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。ひょろつき鬼小さな子供に寄って行って泣かせます。鎮西八郎為朝鎮西八郎為朝は2m身長が有ったといわれたのでこの役の人も長身でした、さすがに2mはないと思いますが為朝の子孫が藤堂藩に仕えたといわれているので行列に並んでいるとのことでした。上野天満宮のなで牛 悪い所をなでると良くなるといわれている。菅原道真は、丑年生まれで遺言で「牛の行くところにとどめよ」といったので牛車に遺体を乗せて最後に牛がうずくまった所に埋葬しました。その場所が太宰府天満宮で、それで「なで牛」はみなうずくまっていたのです。役の行者伊賀は役行者を祖と する山伏達の修験の地でもあり、その役の行者が忍者の起源とする説も有ります。
2015年10月24日
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北泉邸、国指定登録有形文化財 北泉優子氏が館長脚本家で作家の北泉優子(まさこ)氏は、上野高校の出身NHKに入局されたのちドラマの脚本や小説を発表され「忍ぶ糸」や「魔の刻(とき)」が映画化されました。アマゾンで検索すると12冊の小説があがります。下見板張りの壁面に、明治の洋風建築の特色でもある「上げ下げ窓」設計、施工とも当時の上野市(現伊賀市)在住の寺社大工の安場直諒(なおあき)さんによるものだそうです。安場さんは堺や神戸に何度も行き洋館などを写し描きし、これを元に設計したと伝えられています。玄関ポーチもう一人の女性作家、岸宏子氏は昨年お亡くなりになったが、この人もNHKなどの脚本を書き1977年、銀河テレビ小説『巣箱』の脚本に対して、第14回ギャラクシー賞・選奨を受賞1990年には紫綬褒章、1995年には勲四等宝冠章を受章しました。父は作家横光利一氏といとこになりますが、宏子さんは一回しかお会いしなかったそうです。また「ある開花」は「夫、売ります」として映画化され「喜劇 売らいでか」としても舞台化され昨年まで浜木綿子主演で500回を超えて上演されています。この「ある開花」と北泉優子さんの「忍ぶ糸」は主人公が伝統工芸の組みひもに携わっていてその組みひもに対する関わり方、心性が改革を試みる方と受け入れる方で対照的ではありますが伊賀の女性を描くときやはり組みひもが大きな要素になるのでしょう。 新伊賀上野城主 伊賀文化産業協会の新専務理事の福田和幸さんの講座から
2015年10月19日
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伊賀市芭蕉祭が行われます。開催日:2015年10月11日(日)、2015年10月12日(月)式典が行われる俳聖殿俳聖松尾芭蕉の遺徳を偲び、芭蕉の命日である10月12日を、中心にイベントがあります。11日には「芭蕉祭記念講演会」~歌枕俳枕講座~、12日は式典が俳聖殿前で行われ、上野公園を中心に市内各地で俳句大会や史跡参観など芭蕉翁の功績にふれるイベントが開催されます。 http://www.basho-bp.jp/wp-content/uploads/2015/09/27sai.pdfまた10月10日(土)から12日(月・祝)までの3日間、伊賀上野の城下町では灯りのイベントを開催いたします。 風情ある夜のまち歩きをお楽しみください。 10月9日(金)~17日(土)までは食べ歩き&城下町探訪が楽しめる「城下町バル(有料)」を開催します!10月12日には蓑虫庵と芭蕉生家で10:00~15:00時まで、いがうえの語り部の会員が無料で案内いたします。蓑虫庵は伊賀芭蕉五庵の一つで現存する由一の庵です。芭蕉生家、道路沿いの碑 10月17日から11月3日(火祝)までの土曜、日曜、祝日の13:30~15:30に俳聖殿前にて かたりべの会員が勿論無料で定点案内をいたします、歴史街道スタンプラリーの スタンプもここで押します、どうぞお越し下さい。
2015年10月08日
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「藤堂高清の墓はどこにありますか」と案内している時に聞かれたが寡聞にして知らなかった。「藤堂藩は六代以降は高清の血筋になっていますよね」ますます分からない、そこで後で調べてみました。藤堂高清、1585~1640年 藤堂虎高の三男。藤堂高虎の異母弟にあたる。1614年の大坂冬の陣では真田丸の攻防で銃弾を股に受けるほど奮戦した。 翌年の夏の陣では伊賀名張の守備を命じられたが、密かに6人の家臣を引き連れて藤堂軍を追い、河内千塚で高虎に参陣を願ったが許されなかった。同じく無断出陣してきた弟・藤堂正高と共に八尾の戦いに許可なしで参加し、50の首級を得る大活躍をしたが、認められず罰せられ伊勢三ヶ野村(旧一志郡)に蟄居させられる。1619年に罪を許され伊賀上野城代となった。その後、よく宗家を補佐し1640年8月15日死亡した。遺体は伊賀上野の長者屋敷に葬られた。とあります、長者屋敷とは伊賀国分寺跡のことでしょうが墓はどこを探しても見当たりません。そもそもなぜ国分寺跡に葬られたのでしょうか、高虎は1630年に亡くなって津市の寒松院と伊賀市の上行寺に御墓が有ります。母も同じ実弟で大坂夏の陣の時 伊賀上野城の留守居役を命じられていながら高清と行動を共にした正高は1629年6月27日死亡し、伊賀市上野恵美須町の山渓寺に御墓が有ります。 藤堂正高の墓実弟でも分家してからは寺を別にしたのでしょうが、兄と同じ寺ではいけなかったのでしょうか二人より後に亡くなった高清が伊賀国分寺跡とはその場所が由緒正しい場所だということでしょうか。しかし墓がないということはその後の子、孫の代に移されたのでしょう。高清の死去時、その子、高英は年若かったため、重職である伊賀上野城代は、百戦錬磨の藤堂采女元則が指名されました。高英は伊賀附より津附に転じて後に侍大将となります。孫の高明は津藩の侍大将、初代を高清とする藤堂出雲家を継ぎます。その高明の四男、藤堂高治は享保8年(1723年)9月、藤堂高陳の養子となり久居藩主となる。さらに享保13年(1728年)、藤堂高敏の養子として津藩主となった。以降、高虎の血統は断絶し高清、高明の子孫が代々津藩、久居藩の藩主となる。とあり本当に高虎の血筋は断絶し高清の血筋、曾孫が藤堂藩を継いでいきました。藤堂高清―高英(子)―高明(孫)―高治(曾孫)伊賀市史には藤堂高清の記載がありません、1640年に藤堂采女が城代に就任の記載のみです。藤堂出雲家を探していると「地域社会における「藩」の刻印 津・伊賀上野と藤堂家」 藤田達生監修・三重大学歴史都市研究センター編の目次の中に藤堂藩領における藩主・重臣家墓地、四 藤堂出雲家を見つけました、さっそく伊賀市上野図書館に行ってきました。その中に藤堂出雲家、高清7000石で伊賀上野城代に、供養塔は津市青谷、青谷墓地と伊賀市 上行寺にとありました。上行寺のどこにあったのでしょう、五輪塔の供養塔の写真が載っていましたので探しに行きました。ありました、高虎の墓の後ろ、東側に高清の五輪塔が右には夫人の五輪塔ありました。十二代続いた藤堂藩の六代以降の祖先、藤堂高清の墓が寺の墓碑案内図にも載っていないとは。
2015年10月02日
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