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伊賀市に遺る近畿、東海で唯一の藩校これより大きくて遺っているのは岡山県備前市の国宝、閑谷学校(しずたにがっこう)しかないようです。この藩校は十代藩主、藤堂高兌(たかさわ)が津の有造館に続いて1821年に建設しました。この人は後に名君と呼ばれ財政を建て直した立役者です。講堂、16歳以上がここで教育を受けそれ未満は南側にある施設有恒寮で学んだようです。この扁額は藤堂高兌が財政難を藩政改革で立て直した米沢藩、藩主、上杉鷹山を崇拝していてに懇願して書いてもらったものです。というのも藤堂高兌が藩主になった当時の津藩の年間収入は3万5000両でしたが支出は5万1000両でそれを見た高兌は愕然として「義倉積米」という制度を導入しました。これは藩士の知行や扶持米のうち100分の1を積み立てるもので自らも藩主家の収入を三分の一に減らし、食費は四分の一に減額しました。 講堂の中、伊賀も安政の大地震に遭いこの講堂以外はほとんど倒れましたが講堂だけは無事だったそうです。明治初年のデータ「一目でわかる江戸時代」小学館によると藤堂藩は表高は323、950石で上から11番目で水戸藩と福井藩にはさまれている、年貢高は124、270石で家臣の知行高は29、411石、年貢高対比は23、7%になり他の全14藩中最も低いのが津藩。それは家臣が少なかったためで石高32万石程度の藩で比較すると、津藩士1,947人、福井藩士4,880人、鳥取藩士6,908人、岡山藩士6,545人。津藩士は圧倒的に少ない。高虎が一代で築き上げ、しかも短期間で急激に石高を伸ばしたことから、家臣の採用が追いつかなかったということか。講堂から見た庭。
2015年09月27日
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第32回上野城薪能が9月19日午後6時から行われた伊賀は観阿弥、世阿弥の生誕地で毎年この時期に薪能が行われ今年で32回を数えた。市長の挨拶で始まった時はまた薄暮だったのですがすぐに暗くなりました。市長による薪の火入れ清水という狂言世阿弥といえば日本史試験で頻出だったのが著書の「風姿花伝」ですが、これが覚えにくくて著書の趣旨とは違うのですが風の姿は見えないが花が伝えると覚えたのを思い出しました。伊賀市守田町の世阿弥公園は伊賀市の管轄になっているのですが以前、周囲に簡易トイレと倉庫が出来ているのを見てどうなっているのか理解に苦しみました。それ以前は草がぼうぼうの状態でしたしせっかく寄贈されたのに生かされていません。今、世阿弥公園に行ってきました数カ月前にあった簡易トイレと倉庫はなくなっていてゲートボール場が出来て地元の人達でにぎわっていました。この像のすぐ右に倉庫、すぐ左にトイレがありました。多分、このゲートボール場の工事に必要だったのでしょうがあまりにも配慮に欠けました。
2015年09月19日
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伊賀市の車川伊賀市荒木に行く途中、上野台地の東の車坂町を降りた坂下に川が流れている「これは何川」車の同乗者に質問された時、今まで気にもしてなかったので調べてみたらこの川が今から行く荒木山の麓から流れている車川で頂上付近に車塚古墳という前方後円墳があるのでこの名になったようです、車川からの坂なので車坂町。と言うことは、車塚の名前が一番前からあったことになりますが車というのは形から付いたのだとすると山の頂上付近の古墳は、前方後円墳(5世紀中頃まで)だということなので車の形に見えなくもないかと納得しました。須智荒木神社須知荒木神社は古事記に「安寧天皇皇子師木津日子命の子は、伊賀の須知稲置・那婆理(なばり)稲置・三野稲置の祖とされる」(伊賀市史 古代 )とありますのでこの須知稲置からの名前だと思われますが本当に名前通りの由来なのかは、確かでは、ありません。稲置(いなぎ)とは大和朝廷時代の地方官の名称で前方後円墳と安寧天皇の時代は合致しているので須置氏の古墳の可能性はありますが。荒木という地名も新たに開墾した土地という意味からだという説が有ります。と考えていると須智荒木神社の由緒が見つかりました。「由緒 当社は創祀については、詳らかにはし難い。須智の稲置の一族が、この地を 開墾し、ここに奉祀したものと考えられる。」とあります、やはり確かめられていることではないようです。なぜかと言うと伊賀天正の乱(1581年)で古記録古文書ことごとく焼失したそうです。石造灯篭(安政二年[一八五五]作の在銘を有す。)とある灯篭鳥居の横に聳えていて、圧巻です。安政元年に伊賀も大地震があったので奉納されたのでしょう。明治四一年一村一社で近隣の二九社を合祀しています。式内社とは延長5年(927年)の延喜式神名帳に記載された神社のこと。来る途中、赤い鳥居を見つけて参道を登ったら「荒木大明神あらきだいみょうじん」とありました両社の関係は分かりません。もしかすると、車塚古墳の登り口かもしれません。敢国神社・菅原神社・愛宕神社・浅宇田神社をあわせて伊賀五大社と称し、領主入国の折りに必ず参拝するのが例であったとあります。「畠うつ音やあらしのさくら麻 ばせを」の芭蕉の句碑
2015年09月12日
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NHKBSプレミアムで9月3日「家康 逃げる~天下への道 伊賀越え~」が放送されました。再放送は9月10日午前8時から放送予定です。 「本能寺の変が勃発した時、家康はわずかな供と京の近くにいた。孤立無援の大ピンチ!しかし、いち早く明智光秀を討てば、天下も夢ではなくなる。そのためには、一刻も早く本国三河に戻り、軍勢を整える必要があった。戻るためのルートはどれがいいのか?忍びの存在や落ち武者狩りの危険があっても最短距離の陸路か、安全を優先させ海路にするか、それとも…。家康の生涯で、最大の危機とも言われる伊賀越え、その実像に迫る」というもので家康の決断となぜ伊賀越えルートを選んだのかの検証で、伊賀在住の作家、多田容子さんも出演されていました。多羅尾から伊賀に入る御斎峠の碑堺にもどっての海路か、京へ行っての光秀に合流か、最短距離の伊賀越えかの三つ選択でなぜ伊賀を選んだのか天下取りレースに参加するためには危険を冒しても最も早いルートを選んだというのが結論だったと思いますが、私は前年の天正伊賀の乱で服部半蔵親子をたよって逃がれてきた伊賀者をかくまっていたのが大きな要因で伊賀者を掌握する自信が有ったのだと思います。実際伊賀者二百人が逃走警護に当たっています。前日多羅尾で一泊した家康一行が二泊目に泊ったという伊賀市柘植町にある徳永寺多羅尾から柘植までは27、8kmしかなく一日の逃走距離としては短いですが、一度も里の方に下りず山道ばかりを上り下りしていたからだと思われます。家康は礼として瓦に葵の紋の使用を許したとされます。この寺は天正伊賀の乱で織田方の手引きをした福地氏の菩提寺で福地氏も接待をしたといわれています。伊賀最後の峠、加太峠天皇がこの土地をお通りになった時土地の人々が、鹿と兎を獲って献上しました。天皇はたいそう喜ばれ、それいらいこの土地を「鹿伏兎」(かぶと)と呼ぶようになったと言われています。家康がこの峠を通ったことは異論、異説はないので確かなことです。
2015年09月05日
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伊賀市上野車坂町にある西麓庵跡 窪田猿雖(くぼたえんすい)の草庵跡元禄7年(1694年)の9月4日(亡くなるひと月前)にこの庵に遊んだ芭蕉は「新藁の出初て 早き時雨哉」 の句を残しています。西麓庵跡と東麓庵跡の碑の間は150mほどありすごく大きな邸宅だったことが想像できます。芭蕉の猿雖宛ての手紙に「車坂屋山の方に草罨御結被」(車坂ややまの方に草庵おむすびされ)とあるので屋山というからには丘が在ったのだと思われます、それで東の麓、西の麓の庵と命名されたのでしょう。 芭蕉五庵の内 東麓庵跡の碑窪田猿雖(くぼたえんすい)今の伊賀市上野片原町、上野天満宮の南の富商で 、父六太夫の別邸、初麓亭(後の東麓庵)が車坂町にありました、猿雖は、出家して意専と号し俳諧に専念、元禄5年に同じ敷地内に新しい庵を結びその庵号の命名を芭蕉にお願いしました。 その返書に「東の方藪際の古家 東麓庵 新罨定而西之方に付可レ申ト是 西麓庵」(東の方の藪際の古家 東麓庵、西の方に新しく定めし庵を西麓庵と申し付けることこれ可)とありそれ以来 東麓庵、西麓庵、とよばれ無名庵・瓢竹庵・蓑虫庵とともに芭蕉五庵に数えられました。しかし今、現存するのは蓑虫庵だけです。窪田猿雖(くぼたえんすい)の子孫は市内に今でもお住まいです。
2015年09月01日
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