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伊賀市喰代の百地氏城跡へ行きました。百地丹波城は藤林氏や服部氏とともに伊賀上忍三家として知られる百地氏によって築かれた城です。1581年(天正9年)に織田信長の軍勢が伊賀へ侵攻したいわゆる「天正伊賀の乱」の際に落城しました。百地氏の菩提寺であり、当時の館跡だと伝わる麓の青雲寺の境内には百地氏歴代の墓がある。百地丹波守城趾とあり砦趾とかかれていたり城跡とかかれていたりしますが城より砦と呼ぶ方が相応しいのではないでしょうか、城と言うと立派な石垣をイメージしますので。北側の虎口、土塁が切れて降りられる道があります。百地城跡の砦の中です。柏野城跡に比べ広く格の違いを感じさせます。天正伊賀の乱(1581年)では百地氏は滅んだと言われていますが子孫が伊賀地区に居るとの説もあります。南側の1番大きな虎口百地伝説伝説は、今はむかし、南都(南朝の都が吉野にあった)の頃、当代の百地丹波守は、北面の武士として、吉野朝に出仕し、宮廷の守護に当たっていましたが、たまたま式部の官にある官女と恋愛関係におち入り、深く将来を約しました。任満ちて丹波は伊賀へ帰りましたが、式部も期をうかがって宮仕えを辞し、丹波のもとへ来ることになっていました。式部が約束どおり吉野を出発したという知らせに、丹波は日を計って島ヶ原に迎えに行きましたが、式部は他の道から来たので行き違いになり、式部は丹波の留守中に、愛犬を伴って丹波の砦に到着しました。美しい官女の来訪に、かねて式部のことを知っていた丹波の妻は嫉妬に狂い、家来と語って式部を殺し、邸内の古井戸に投げ込みました。丹波は帰宅後、式部の愛犬の白犬が邸内にいることを認めて不審に思いましたが、白犬の案内で、式部が井戸に落ちて死んでいるのを発見しました。そして、女房も同じ井戸に身を投げて死にました。丹波は、この井戸を埋め、塚としてその塚の上に樒(しきみ)を植えて、自身は高野山に登り僧となって、二人の菩提をとむらいました。それで、この塚を式部塚とも樒塚とも呼ぶようになりました。と伊賀流忍者博物館の案内にあります。式部とは女官の呼び名で紫式部や和泉式部などと同じです。その式部塚塚に、鋏を供えると悪縁が切れるとの伝承があり各地から縁切りの象徴「はさみ」が奉納され所狭しと置かれています。ほとんどが新しいものです。最近話題の不倫の典型としてそれを裁ち切るために増えているのでしょうか。伊賀四国八十八ヶ所の石仏が帰り道沿いにあります。元は百地砦の内だったのではと言われる永保寺から百地城跡へは、ほとんど崖になっている。伊賀の忍者には上忍、中忍、下忍がいました。その上忍は与野の千賀地服部、有名な服部半蔵が出た服部家です。東湯船の藤林長門守、藤林家は甲賀と接していて婚姻関係もあったようです。そしてこの喰代(ほおじろ)の百地丹波守です。この百地氏は元は名張地区の出身でこの地から南の今の名張市まで百地氏が仕切っていて一番広い地区を仕切っていました。織田信長の次男、信雄(のぶかつ)勢が攻めてきたはの第一天正伊賀の乱(1579年)で百地丹波守は鬼瘤越えの馬野口に出撃し迎え撃ち、得意の神出鬼没の山岳戦で撃退しました。織田勢は伊賀衆の抵抗によって敗走、三千人以上の損害を出したといいます。しかし第二次天正伊賀の乱では1581年(天正9年)に織田信長の軍勢が伊賀へ侵攻した際に落城しました。百地氏の菩提寺であり、当時の館跡だと伝わる麓の青雲寺の境内には百地氏歴代の墓があります。百地氏は最後には柏原城で戦ったが紀州高野山に落ち延びたのいう説もあり子孫は伊賀地区におられるそうですので落ち延びた人がおられたのは確かなことだと思われます。藤林長門守と百地丹波守の二つの戒名は、一字違いであることから同一人物との説(奥瀬平七郎説)が生まれた。江戸時代は千賀地服部氏は伊賀藤堂藩の家老になり藤堂釆女と名乗り伊賀のトップになりました。藤林長門守も藤堂藩に役職を頂き三代目の藤林保武は萬川集海(伊賀甲賀の忍術の全てを記した)を著しました。今でもこれがテキストになっています。百地氏は藤堂藩に仕えた記録はありません。藤堂高虎の馬まわりを勤めたという説が有りますがこれもはっきりしません、有力土豪として地位は保ちにました。
2020年02月05日
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伊賀市柏野字宮ノ前にある柏野城は、西から東に延びる丘陵の先端部に築かれた城で、西側の尾根を 堀切で断ち切っている。 北側を除く主郭周囲には土塁がめぐり、西側の土塁は3~4mほどの高さがある。 北側と東側は切り立った崖になっており、東側には2段の曲輪(江戸時代は丸といった)が造られて いる。 南側に虎口が設けられているが、その下もちょっとした崖になっている。 また、北西部にも虎口があり、その外側下(西側の堀切と北側の空堀との境目)に珍しい三つ叉構造 をした土橋を見付けた。 柏野公民館から北に上ったところにまた文化財標がありそれを右に曲がります。 この他にも、伊賀地区には中世城館跡が580ヵ所以上あり、代表的なものに福地城跡や竹島城跡、 壬生野城跡があります。 南東部は切り立った崖が自然の要塞感がある。 天正伊賀の乱では 柘植口(加太峠)から丹羽長秀、滝川一益(かずます)ら一万二千、福地城に陣、柘植を焼き払い 柏野城へ霊山に陣を構えたのち丹羽、滝川攻撃 柏野城落ちる。、とあります。柏野城は福島宗雄が 築いたといわれる。「三国地誌」に「城山 按福嶋宗雄ノ堡址アリ」と記されている。 虎口に続く道、この左が虎口なっている。 曲輪の土塁のうえに石碑が建てられています。 ここが柏野城跡の内 小ぶりな城跡ですが見所は多く歴史的にも天正伊賀の乱(1581)では六つの郷から集まり 戦った所ですが一万二千もの大群にはひとたまりもなかったでしょう。 虎口に登るにも三段の自然の崖が土塁に続きます。
2020年02月05日
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伊賀流忍者手裏剣打大会としては11回目そして全日本としては第一回全日本忍者手裏剣打選手権大会 が伊賀流忍者ショーが行われている忍者広場て行われました。 全国予選300名が参加 土曜日に決勝一回戦ニ回戦が48名で行われ日曜日に三回戦回戦準々決勝、 準決勝、決勝を12名でトーナメント方式で行われました。 準々決勝で敗退した人は佐賀県、長崎県からの方でした。 この人が最年少の参加者で高校一年生、準々決勝まで進み特別賞を受賞しました。 中学一年から参加しているとのことでした。 野猿佐助さん 18歳 神奈川県横浜市の人でバック転で始まり九字を切ってから打ちました。 そして優勝、なんとニ連覇だそうで紙一重の優勝なので連続優勝とは驚きました。 優勝が決まりケーブルテレビのインタビューを受ける。 午前中に行われた団体戦の優勝チーム、富山県高岡からの出場だそうです。 決勝戦に残った上位三名なんと決勝一投目は三名同点になりサドンデスの延長戦が行われ順位が 決定しました。 右側の富山高岡忍者が三位 左のサイチャン愛知保育士が2位 野猿佐助 1位18歳 中一から参加 ニ連覇達成
2020年02月02日
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テレビドラマ「スカーレット」では現在穴窯と格闘して灰かぶりの緑や赤のビードロのガラス状の 自然釉薬を目指しているようです。 温度の高い還元焼成にならないとその状態にならない。 温度の低い酸化焼成では自然釉薬は産まれないようです。 酸化焼成とは、燃料が完全燃焼するだけの十分な酸素がある状態で焼かれる場合の焼き方の事であ り、それに対して還元焼成とは、酸素が足りない状態でいわば窒息状態で燃焼が進行する焼き方を言 う。すなわち不完全燃焼になるので、極端な還元焼成の場合は、 煙突からもくもくと黒い煙が発生する。適度な還元焼成ならば、排ガスとして一酸化炭素が少なからず排出される事になる。 焼成雰囲気が酸化焼成か還元焼成かで焼き物の色が激変する。たとえば、織部の緑色は、酸化では緑 であるが、強めの還元焼成をした場合は正反対色の赤になる。 戦国時代にはこの状態が多いのですが古田織部の織部焼ではみられます。 穴窯は登り窯より温度が上げられますが、調整が難しく薪の調整を徹夜で続けることになるようです。 伊賀焼でも自然に灰をかぶって出来た緑色のビードロ釉、割木のおきがたまって黒く炭化した茶色の (こげ)、そして少し灰をかぶって朱くなった火色の三拍子そろったのが伊賀焼の見せどころとされています。
2020年02月01日
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