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り 「俤や姥ひとり泣く月の友」 (おもかげやうばひとりなくつきのとも) 「姥捨伝説」が主題、姥捨山に来てみると山の姿も哀れに趣深く、月の光も美しく照り輝いている。 その昔、この月を眺めて独り泣いていた姥の姿が浮かんできて、何ともいえぬ物憂いた気持であるが、今宵はその俤を偲んで月を友としよう。 俤は姥のおもかげ 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は姥捨の月を見ようと越人を伴い美濃の国を発つ。15日、信州、姨捨山の月を見て詠まれた句。 芭蕉は「笈の小文」の旅で伊賀に帰りその後、関西地方を周り翌年、岐阜を発ち、信州更科へ名月を見る「更科紀行」の旅に出る。 8月15日夜(中秋の名月)、更科に到着。姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、 江戸へ帰る。それまでの旅とは違い、門人知己を頼らない旅で、それだけに旅情も深いものがあった。 芭蕉自筆の『更科紀行』(沖森文庫本)は、伊賀市所蔵の重要文化財になっています。 「行春や鳥啼魚の目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ) 奥の細道旅立ちの句 (句意)うららかで花咲きそろう春は格別である。 その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を 光らせているように思われるものだ。 深川にて乗船。この当時の風習では、長旅に出る人の送別は、一駅先の宿駅まで同行することになっていた。 千住大橋付近まで見送られた。 千住は当時、奥州街道(1597年)・日光街道(1625年)第一の宿場。ここまで芭蕉庵から約10kmある。 この句を旅立ちの記念とした。 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」しずかさやいわにしみいるせみのこえ 出典は『奥の細道』 元禄2年(1689年)5月27日(新暦7月13日)、山寺(立石寺)で詠まれた句。 『俳諧書留』に「山寺や石にしみつく蝉の声」、『初蝉』(風国編)には「さひしさや岩にしみ込蝉のこゑ」とある。 芭蕉の名句がすべて「わたくし」ではないけれども、一見風景描写としてある作でも、ただ山中が 静寂だということだけでなく、そこに旅人としての自分を点在することに依って、感吟となっています。 「此秋は何で年よる雲に鳥」このあきはなんでとしよるくもにとり 亡くなる16日前の句 今年の秋はどうしてこんなに身の衰えを感ずるのだろう。なんだか急に年を取ったかのような気がする。 秋の空を寂しく眺めやると、遠く雲に飛ぶ鳥の姿が目に入るが、その頼りなげな様は、あたかも旅に 病む私の心のようで、旅の愁いをひときわ深く感ずることである。 出典は『笈日記』(難波部) 元禄7年(1694年)9月26日、大坂、浮瀬亭で詠まれた句。 『笈日記』に「此句はその朝より心に篭てねんじ申されしに、下の五文字、寸々の腸をさかれける也。」とある。 難波にての句。この日、朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也とは、 ずたずたに腸をさかれたようなという、意味は非常につらい非常に悲しいということです。 「行く秋や手をひろげたる栗のいが」(ゆくあきや てをひろげたる くりのいが) (続猿蓑) 芭蕉最後の伊賀で、伊賀門人に対する別れの句。 元禄7年、51歳。『追善之日記』によれば、「五日の夜なにがしの亭に会あり」としてこの句が掲出されている。元禄7年9月5日ということです。 「行く秋」は、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」や「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と同様に留別の 文脈を含んでいる表現。「いが」は「伊賀」にかけているのかもしれない。「手をひろげる」のは 掌をひろげるのか、両腕を広げるのかは不明だが、この時代の人々のボディランゲージからすれば 前者であろう。しかし握手の風習も無いからこれは単に栗の毬の開いた状態を描写した吟とするのが妥当かも知れない。 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる 出典は『笈日記』(支考編)。「病中吟」と前書きがある。 元禄7年(1694年)10月8日、大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で詠まれた句。 「八日の夜ふけて、かたはらに居ける、呑舟といふ男を召して、硯にすみする音のしけるを、如何ならんと、人々いぶかり思ふに、」としてこの句を詠んだ。 「絶筆句」とされるが、翌9日に「清滝や波にちり込青松葉」きよたきやなみにちりこむこあおまつば と詠んでいる。12日、芭蕉は死去。 みるさと芭蕉の森公園の句碑は以上です。
2020年07月26日
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長田地区から常住寺 左の山が長田丸間の道がふるさと芭蕉の森公園の入口常住寺の石碑でしょうか豊臣秀吉・徳川家康も信仰したといわれる大聖歓喜天の文字北の長田丸は百田藤兵衛が南の朝屋丸を福喜多将監が築いたもの。ふるさと芭蕉の森公園の入口から長田丸を望む芭蕉句碑散歩では44番目、芭蕉の森公園内では最初の句碑「雲とへだつ 友かや雁の 生きわかれ」 遠い雲を隔てて私は江戸に出て行きます。これが旅立つ雁の生き別れです。「雁」と「仮」とを掛けたか?芭蕉が江戸に下った際に、どのような手づるが有ってのことだったのかは不明です。広く流布している説では、日本橋本船町名主小澤太郎兵衛得入(俳号卜尺 <ぼくせき>方に草鞋を脱いだというのがある。 また、杉山杉風宅という説もある。寛文12(1672)年、29歳。伊賀上野を後にしてこの年から江戸に定住。この年は、3作現存する。『芭蕉翁全伝』(竹人著)には、「かくて蝉吟子の早世の後、寛文一二子の春29歳仕官辞して甚七と改め」とあってこの句が引用されている。 このいわゆる『竹人全伝』では、芭蕉は江戸下向まで藤堂新七郎家に奉公していたことになっていて、この6年前蝉吟死去直後京に出て、季吟の下で古典を学び、かつ修行僧として禅寺にあったとする定説とは相反する。「野ざらしを心に風のしむ身かな」芭蕉 芭蕉の野ざらし紀行の旅にかける想いは並々ならぬものがあって悲壮感と気負いとが吐露され、それが「野ざらし」の表題ともなっています。旅の進行とともに肩の力は抜けていきますが、芭蕉俳諧に一大転機をもたらした旅でもありました。なお、この旅の目的には、昨年亡くなった伊賀上野の母の追善のための里帰りも含まれていました。野ざらしになることを覚悟した初旅と次の紀行文「笈の小文」の「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」とは、ずいぶんと気分が違います。「古池や 蛙とびこむ 水の音」 芭蕉芭蕉が蕉門という自分の俳句スタイルを確立したと言われる余りにも有名な句江戸深川で詠まれた句で伊賀とは直接の関わりは薄い。「旅人とわが名よばれん初しぐれ」笈の小文の紀行文の句「野ざらし」と比べて精神的余裕は大変な相違です。『野ざらし』の頃と比べて芭蕉は既に十分有名であったし、これから先の伊賀までの旅路には多くの蕉門の弟子たちが師の訪れるのを手ぐすね引いて待っている。 「しぐれ」は、秋の降ったりやんだりする「定めなきもの」の象徴としてここに提出されていますが、悲壮感はなく、むしろ、この旅は、尊敬する先人達と自分との対比を意識するぐらいの心境ではないでしょうか。
2020年07月23日
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