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伊賀市心念寺の枝垂れ桜 天和元年(一六一六)大超寺の前身大善寺開山の暁誉上人の弟子珍譽上人が開基したとつたわります。 伊賀の桜の名所として有名。このしだれ桜は松尾芭蕉の門弟で、この心念寺の住職であった杉野配力 (すぎのはいりき)の名前にちなんで、「配力桜」と名付けられています。 全体を西側から撮りました。南北に見事に咲き拡がっています。 こちらは愛宕神社のソメイヨシノ 無名庵は現在の伊賀市上野赤坂町の芭蕉生家に地元の弟子達に依って 建築された庵で芭蕉没後市内、愛宕山大福寺境内に移築され土芳達の サロンとして活用されたようです。 その後は「冬扇一路」に収められたら「伊賀実録」によると、解体された無名庵 の木材で宝暦五年(1755)に藤堂采女元甫が赤坂の別邸の六々庵に移し再形庵と改称したとあります。 その後宝暦十三年(1763)に息子の藤堂采女元福の時、農人町東出に移したと「無名庵之記」にあります。 無名庵は二回移築され再形庵となってからも移築されたことになります。 ソメイヨシノは満開寸前でした。
2020年03月31日
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伊賀市 いとう旅館 鳳凰の間の格天井 見事な天井絵が63枚描かれてます、シャンデリアも当時のままのようで 時代が百年近くもどったような気がしたので、お聞きしたら営業は 大正五年(1916年)からということなので百年以上で、しかも建て始めた のは明治の中頃からなのでそれ以上たっているということになります。 鳳凰の間の天井の絵は全て鳳凰です。 ご主人のお話では明治時代に外堀内側に在った家老屋敷の格天井をもらい受けたということ でしたが明治初期の古地図には藤堂釆女家の上屋敷は無く、多分、侍大将の屋敷からだと 思われます。 鳳凰の間の千本組子細工欄間です 鶯の間には、江戸時代のうぐいす箱が床の間右側に飾られています。 有名な数寄屋師、笛吹嘉一郎さん設計の茶室の前の額です。 昇旭庚と書かれてあるのでしょうかお茶屋時代は「旭桜」といった ということなので名前に関連付けたのでしょう。 表千家宗家の書だそうで、宗家は、隠居すると宗旦を名乗ったそうで、書名はそういわれれば そう読めるますか。 その茶室の塗り壁です、調べたら甘木漆喰松葉引きというようです。 二階から庭を撮りました。今も手入れが行き届いていいます。
2020年03月31日
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伊賀市久米川流域を散策すると堤防の向こうの道に道標の様な物があり 「子や春(す)みち」の道標の横に開運薬力眼力稲荷神社の石碑 この分かれ道の坂を上ると突き当たりに伊賀國久米 米井山 得楽寺(子安堂)がありその横に開運神社があるようです。そこはまたの機会にしました。 伊賀市守田町 八幡神社〔長岡八幡宮〕拝殿 由来記によると 五世紀末「人皇二十五代武烈帝の御宇、伊賀国造中田麻呂勅を奉じて九州宇佐より阿蘇山の地に勧請す、 山城国石清水より遥か以前の造立なり」とあり現在の大分県宇佐市から約千五百年前に造立されたことになります。 以来畿内に通ずる大和街道の要所に鎮座し、木津久米両河川合流の豊饒肥沃の地に農耕生活を営んだ 古代人の信仰の対象であった。 当時四十九院村には、農耕神を奉斎した日吉(ひよし)、高松社(たかまつしゃ)あり。 奈良聖武帝の御代僧行基、諸国に精舎(この久米山の東側にその伝説の旧四十九院があります)を建立 の際(740年代)、弥勒院を日吉社(ひよししゃ)境内地に造立とあります。 以後、弥勒院鎮守社として近世江戸末期まで世に謂う神佛習合時代として続いています。 拝殿の後の本殿 五世紀に元になる神社がありそこへ周りに在った神社を合祀、八世紀に四十九院建立の際に行基に 依って再興整備されたことになります。 八幡神社に隣接している伊賀市九品寺(くほんじ) 寺伝では、奈良天平年間、聖武天皇の詔命により、行基菩薩がこの地に49院を建立したのが当寺の 由歴で、その後、大同2年(807年)に、巖如(げんにょ)上人が、その本坊跡地に弘法大師の霊場 のひとつを建立して中央山蓮台寺と名付けたとされている。更に時代の変遷のうちに荒廃を極めた 当寺だが、明応年間(1491年頃)になって、天台宗の高僧の慈接(じしょう)大師真盛(しんせい)上人が 伊賀の地を訪れた折りに、当地に念仏道場を再建し、寺号を改め天台宗袖合山九品寺と称されるようになった。明治11年に天台宗真盛派として分派され、さらに昭和21年、天台真盛宗となって今日に 至っている。この伝によって、行基菩薩を開基、真盛上人を中興の祖としています。 仏教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品(じょうぼん、ちゅうぼん、げぼん)があり、 さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生(じょうしょう、ちゅうしょう、げしょう)とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方。 九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のことで九品寺の名前の由来だと思われるます。 九品の場合は「くほん」と濁らずに読みますが、「上品・下品」などは「じょうぼん・げぼん」と連濁するようで上品、下品の語源のようです。 菊岡如幻の墓 (1625-1703 江戸時代前期の国学者。 寛永2年生まれ。生家は伊賀(いが)(三重県)上野の豪商久米屋。北村季吟(きぎん)について国学,和歌をまなぶ。百科事典「世諺一統(せげんいっとう) ,郷土史「伊水温故」(これが伊賀史研究の教科書になっている),教訓書「柴栗草紙」などを 十三石仏 伊賀市有形文化財(北側一基) 九品寺から旧道を四十九方面へ行くとあります。 十三石仏南側 旧道をもう少し行くと南側に一辺2mちかい自然石に地蔵菩薩立像と十三仏坐像を刻んだもの。 室町時代の作。これは文化財登録されていないようです。 国道を越えた岡の上に鶴塚というものがありました。 鶴は吉祥と長寿の象徴で、「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされている貴鳥とされ、そのため死亡した鶴の遺骸を近くに葬って塚としたもののようです。徐福伝説の鶴塚(徐福が亡くなる時鶴になりたいと言った)が各地にあり伊賀にも徐福が忍者の技術を伝えた説がありますがこの塚には徐福伝説は伝わっていないようです。 このあたりに八幡神社に合祀された高松社があり、日吉社は旧四十九院に在ったようです。
2020年03月22日
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「凩に匂ひやつけし 帰り花」(こがらしに においやつけし かえりばな)句意「季節外れの狂い咲きの花が、草木を枯らす凩にも色艶をつけたのか、この庭園は寂しく冬枯れた中にもどこか全体に潤いが漂っている。 」元禄4年(1691)冬の作。美濃・大垣で詠まれています。「旅がらす 古巣は梅に なりにけり」(たびがらす ふるすはうめに なりにけり)句意「自分は旅烏のように所定めぬ漂泊の身。久しぶりに故郷にもどってみると、懐かしいこの古巣は今も昔も変わらず梅が咲き「冬の広場」の東屋の近くにあります。貞享2年(1685)春の伊賀上野での作「比古呂耳く支 烏も雪の 朝可奈」(ひごろにくき からすもゆきの あしたかな)(句意)鳴き声のやかましさに、日頃は憎く思っている烏も、雪の朝、真白い樹々の枝に黒く点々と止っているのを見ると、コントラストに風情を感じるから不思議なものだ。元禄3年(1690)冬の作。大津、義仲寺(木曽寺)での作句碑が真っ黒です。句碑のまわりに、雪が積もれば、句に詠まれた情景になるのかもしれません。「春なれや 名もなき山の 朝がすみ」(はるなれや なもなきやまの あさがすみ)句意ああ、もう春なのかなあ。こんな名もない平凡な山々にもうっすらと霞がたなびいてる。前回の句碑から東へ道路を越えたところにあります。貞享2年(1685年)芭蕉42歳の作。季語「霞」で春。2月中旬、『野ざらし紀行』の旅で帰郷していた芭蕉が、伊賀上野から奈良に至る山々の情景を詠んだ途中吟同じ句を刻んだ碑は、伊賀市三軒家の旧大和街道近くにもあります。甲子吟行の句の前詞に「奈良へ出る道ほど」とあり、碑の左下には「芭蕉庵桃青」と刻んであり『野ざらし紀行』の本文そのままです「木のもとに汁も奈ま須母桜か奈」(きのもとに しるもなますも さくらかな)春の広場に入った所の句碑句意は「桜の木の下で花見をしていると、そこに花びらが次々と句意は「桜の木の下で花見をしていると、そこに花びらが次々と降ってきて、おかげで汁椀といわずナマスといわず花びらで一杯になってしまう。なんと豊かな花の一日であろうか。」。元禄3年(1690)春の作。伊賀上野の藤堂藩士:伊賀忍町の小川風麦邸での俳席で詠まれたものです。「汁もなますも」は当時の慣用句で「何もかも」という意味だそうです。元禄3年3月2日作 この句は、土芳の『三冊子』に「軽み」を発見した句とする記述があります。「ひばり鳴く 中の拍子や 雉子能声」(ひばりなく なかのひょうしや きじのこえ)対岸に向かった所の句碑句意は「ひばりのさえずる春の日、その鳴声に合いの手を入れるように雉子が拍子をつける。実に長閑な春のさかりである。」元禄2年春と元禄3年説がある。2年なら江戸、3年なら伊賀辺りでの作ということになる。のんびりとした春の田園を詠んでいるところから、伊賀の作説が有力か。「杜若 に堂りやにたり 水の影」(かきつばた にたりやにたり みずのかげ )句意は「杜若が水に映った影は本物そっくり。花も影もまことによく似ているものだ」寛文6年(1666)夏、芭蕉翁23歳、若き時期の作。芭蕉が仕えていた藤堂新七郎家の嫡男、良忠(蝉吟)が寛文6年(1666年)4月25日、25歳で死去しているのでその直後でしょうか。何に似ているかといえば杜若はそもそもアヤメ(菖蒲)に似ているので、その花びらが水に映っている姿などは尚更だというのでしょう。「はつ真瓜 たてにやわらん 輪にやせむ」(はつまくわ たてにやわらん わにやせむ)元禄2年(1689)夏の作。「奥の細道」の道中、山形県酒田で詠まれたもの。芭蕉翁は、瓜が大好物だったそうです。句意は「初物の真瓜をたてに割ろうか輪切りにしようか。はやく食べたい。」で、弟子達に対し「句なき者は喰う事あたわず」と戯れて発句を促したものだそうです。その場では「初真桑四つに断たん輪に切らん」と詠んだそうで、この句碑は推敲後の句です。「老の名乃 阿里登も知らで 四十雀」(おいのなの ありともしらで しじゅうから)まず「夏の広場」へ、公園の東側にありますが、句碑はさらにその広場の東の端にあります。元禄6年(1693)秋の作。句意は「かわいらしいシジュウカラ。その名称に「40歳」と初老を意味する文字がついている事も知らず、機敏に飛びまわり、楽しそうに囀っていることよ。」。芭蕉翁は「老い」を感じ始めていたのでしょうか。この句を詠んだ翌年に亡くなっています。元禄6年10月9日頃江戸での句「一里は皆花守の子孫かや」(ひとざとは みなはなもりの しそんかや)(真蹟懐紙/猿蓑)(句意)「この村里の人は、みんな(平安時代、桜の季節になると、帝に献上される桜の木を守る役目を負っていた)花守の子孫なのであろうか。桜を大切にしていることだ。」元禄3年(1690年)春 奥の細道の旅を終えた元禄二年歳末の芭蕉は近江(膳所義仲寺)で越年。翌三年正月三日に伊賀に帰り、しばらく在郷。三月下旬(陽暦五月初旬)に、ふたたび義仲寺に出る途中でこの句を得た(土芳筆『全伝』)寛弘の時代(1004年から1012年)上東門院彰子が、興福寺の八重桜を京の都に移植しようとしたところ、南都の僧徒らがこれに異を唱えた。普段無骨で有名な僧徒らにも美を愛でる心があったかとして感服した女院はこの計画を撤回して、伊賀の国余野の庄に花垣をつくりここにこの桜を植えて、以後開花の時には宿直をおいて警護させたという。以来ここを「花垣の庄」というというのである。花垣の庄は、伊賀上野から名張への途中
2020年03月20日
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「名月に麓の霧や田乃くも里」(めいげつに ふもとのきりや たのくもり) (続猿蓑) 元禄7年(1694)秋の作。季語は「名月」、「霧」。伊賀上野の無名庵ができ、月見の宴を催したときの吟。 (句意)皎々たる明月の下、はるかな山の麓沿いに夜霧が白じろと濃くたなびき、手前の田の面のあたりではうっすらと霞んでいるように見える 「目にかかる 雲やしばしの 渡り鳥」(めにかかる くもやしばしの わたりどり) 「芭蕉句選拾遺」宝暦5年(1755年) 年次不詳、秋の作。季語は「渡り鳥」。 (句意)渡り鳥の大群が、しばらくの間、雲かと見えるばかりに太陽を暗く遮り、やがてはるかな空の彼方に消えて去ってゆく。 宝永元年(1704年)『渡鳥集』には 「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」とあります。 愛媛県松山市の椿神社の玉垣に句が刻まれている。 芭蕉死後に日から目に変わっているので推敲ではなく 「渡鳥集」の後の「芭蕉句選拾遺」に「目にかかる」と誤記したという説が正しいように思います。 「山吹や笠にさ須べき枝の乃形」(やまぶきや かさにさすべき えだのなり) 須 さんづくり おおがい 元禄4年、44歳。江戸赤坂の庵にて。 (句意) 山吹が咲いている。これを笠に插して花笠にするのによい枝ぶりである 「影待や 菊の香のする 豆腐串」(かげまちや きくのかのする とうふぐし) 元禄6年(1693)秋の作。江戸、岱水亭にて (句意)「菊薫る今宵の影待は、ご馳走の豆腐田楽にさした青竹の串にまで、庭前の菊の香がしみこんでいる感じでまことにさわやかな思いがする。」 伊賀上野は豆腐田楽が名物です。でも、この句は江戸で詠まれたものです。 影待ちは日待ちと同意で村の近隣の仲間が特定の日に集まり,夜を徹してこもり明かす行事 「君火を焚 よき物見せむ 雪丸げ」(きみひをたけ よきものみせん ゆきまろげ) 句意「(よくおいでになった。)君は炉の火を焚いて温まっていなさい。その間、私は庭の雪で雪だるまを作ってお目にかけよう。芭蕉翁の茶目っ気を感じますね。 一番東の子供向け遊具がある広場にあります。 貞享3年(1686)冬の作。江戸深川にて、曽良に対しての句 「志保羅新起名や小松吹く萩芒」(しおらしき なやこまつふく はぎすすき) なぜかほとんど漢字で書かれています 出典は『奥の細道』 「小松と云所にて」と前書きがある。現在の石川県小松市 元禄2年(1689年)7月24日、奥の細道の旅で芭蕉は金沢から小松に入り3泊している。 「時雨をや もどかしがりて 松の雪」(しぐれをや もどかしがりて まつのゆき) 寛文6年(1666)冬の作。寛文6年(1666年)4月25日、に良忠(蝉吟)25歳で死去した年の句 句意「松は、時雨がどれだけ降ろうが紅葉しない。それでも松が待っていたら、雪が松を真っ白に染め上げてくれたことよ。」。松と「待つ」がかかっています。 「両の手に桃と桜やくさ乃餅」(りょうのてに ももとさくらや くさのもち) 上の句が真ん中に次に右、左と刻まれています。 出典は『桃の実』(兀峰編) 元禄5年3月3日桃の節句。この日、芭蕉は門人其角と嵐雪を招いて歌仙を巻く。すでにこの時期、其角も嵐雪も、芭蕉が唱導する「軽み」の俳諧に従わず、師弟間には強い軋轢が存在していたのです。 ということは桃と桜は其角と嵐雪、くさのもちは芭蕉でしょう。 「苣はまだ青葉ながらに茄子汁」(ちさはまだ あおばながらに なすびじる) (句意)もはや初夏なのに目の前のお膳の汁には、春野菜であるちさ(チシャ菜)が、花もでない青葉のまま、 そのうえ盛夏のものである茄子までがはいっていて、青々として香り高いちさと色鮮やかな紫の初茄子 とをご馳走をしてくれた主人如舟に対する感謝の意をあらわしたものです。 元禄7年夏。最後の西上の旅の折、芭蕉一行は島田で船止めに遭ったが塚本如舟に歓待されて3日間逗留した。 なお、「駿河路や花橘も茶の匂ひ」・「五月雨の空吹き落せ大井川」・「たわみては雪待つ竹の気色かな」もここでの句。 広澤虎造の三十石船「秋葉路や 花橘も 茶の香り」 は芭蕉の駿河路や、の句を参考にしたものです。 「う免若菜丸子の宿乃登ろろ汁」(うめわかな まりこのしゅくの とろろじる) (猿蓑) 元禄4年正月、『猿蓑巻の五』 (句意)新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ 汁もおいしい季節を迎えていることだろう。 乙州の旅立ちへの激励が込められた芭蕉餞別の吟。餞別吟として古来最高の句とされている。 土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「工みて云へる句にあらず。ふといひて、宣しとあとにてしりたる句なり。梅、若菜と興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体なり」と記されている。 丸子は、静岡県中部、静岡市内のもと東海道の宿駅。当時とろろ汁が名物であった 藪椿門波葎乃若葉哉」(やぶつばき かどはむぐらの わかばかな) (句意) 藪には赤い椿がたくさん咲いている。一方、門には葎が生い茂り、緑の若葉が鮮やかだ。赤と緑との取り合わせは見事に美しい。 葎むぐら。とは、つるくさの名。くきに細いとげがあり、秋、小さな花を開く。 貞亨5年(1688年)、芭蕉45歳の句。 芭蕉が伊勢神宮参拝の際、伊勢市船江町大江寺二畳軒(二乗軒)で詠んだ句。 「藪椿」は初案だったらしく、芭蕉句集などには 「芋植ゑて門は葎の若葉かな」(いもうえて かどはむぐらの わかばかな) 『笈の小文』には「いも植て」とある。 この句を作った句会は伊勢市大江寺で催された。周りには里芋畑が青々と茂っていて、寺の山門 付近は葎がうっそうと繁っていたのであろう。 ところで、この時代、里芋と俳句は、里芋に俳味(灰味)があるというので相性がよいとの俗説があった。
2020年03月20日
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古池や 蛙飛びこむ水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)蓑虫庵内 貞亨3(1686)年 43歳。作。初出(蛙合かわずあわせ) 芭蕉は、貞享3年春、江戸蕉門の門弟多数 を深川芭蕉庵に集めて、蛙を主題とする会を催した。蛙といえば、和歌の世界では春の川辺に鳴くカジカガエルを詠んだものだったので鳴き声を詠むとされていたが、この発句においてはじめて飛び込む音をとらえたところが革新だった。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が蛙の枕詞のようになっていた「山吹や」と置いたが採用せず「古池や」と定めた。和歌の決まり事を知っている人にとっては大変革新的だったのです。古池やを最後に定めたということは古池を見て詠んだのではなかった。句碑は、もと深川の草庵に建てられていたもの。 昭和初期に当時の庵所有者菊本直次郎により移建。 蕉門開眼の象徴の句とされていて上部の貫通穴がはそれを表しているとされているます。「よくみれはなつな花さく垣ねかな」(よくみればなづなはなさくかきねかな)蓑虫庵内 貞亨3年、43歳。 春の七草であるナズナ(ペンペン草)の花はめだたぬちっぽけな花で、だからよく見ないと目にはとまらない。垣根の陽だまりに可憐に咲いている。詩人の目は これをしっかり見ている。進境著しいこの時期を代表する佳作。支考が芭蕉の弟子になる決心を三年迷った末に決め芭蕉の前に来て「牛阿(おもね)る聲(こえ)に鴫(しぎ)たつ ゆふべかな」の句を披露したところ芭蕉が返事として詠んだ句です。 支考はその句を詠んで腋の下から汗が滴ったと後に語っているます。「みのむし乃 音を聞きにこよ草乃庵」(みのむしのねをききにこよくさのいお)上野恵美須町銀座通りロ-タリ-貞亨4年(1687)秋、深川芭蕉庵での作。芭蕉は、この句をもって秋の虫の音を聴く会を開くべく俳友に芭蕉庵へ来るようにさそったのです。清少納言によれば、蓑虫は「ちちよ、ちちよはかなげになく」となっているので、そこでみなさん、私の庵に来て蓑虫の声を聴きませんか、というのです。 伊賀上野の服部土芳は、貞亨5年3月4日庵を開き、些中庵<さちゅうあん>と名づけたのですが、3月11日、折りしも『笈の小文』の途次伊賀上野に立ち寄った芭蕉をそこに招き句会を開いた。このとき芭蕉は一枚の面壁の達磨の絵を土芳に贈った、その画讃にこの句があったので、特に許可を得て蓑虫庵としました。蓑虫庵も音読みするとさちゅうあんと読めます。芭蕉は2月末から3月中旬まで一筋東の岡本苔蘇の瓢竹庵に滞在していました。「初さくら 折志もけふは よき日奈里」(はつざくら おりしもきょうは よきひなり)伊賀上野菅原神社内句意月並会の初会合が開かれました。折りしも今日は桜が開花し、実に良いタイミングで好い日になりました。 貞亨5年(1688)3月8日。『笈の小文』の途中、伊賀上野の薬師寺にて。伊賀蕉門の者達が月例句会を立ち上げた設立総会の日当時、句会が開かれた薬師寺はこの菅原神社の北側にありました。「草いろいろおのおの花の手柄かな」(くさいろいろおのおのはなのてがらかな)伊賀市図書館前貞亨5年(1688年)8月、『更科紀行』出発に際して美濃の門人達に残した留別吟4句のひとつ。句意草はさまざまな種類があり、おのおのがもって生まれた味わい深い花を咲かせるものだなあ。昭和五十八(1983)年十一月十一日来日中のアメリカ合衆国レーガン大統領が衆議院本会議場において演説、そのなかでこの句が引用された。当時の内閣総理大臣と大統領右側に内閣総理大臣 中曽根康弘氏の書でこの句が刻まれています。左側にドナルド・レーガン大統領の書Many kinds of plants And each one triumphant in its special blossoms.Ronald Reaganpresident of the USAが刻まれています。「家はみな杖に白髪墓参り」(いえはみなつえにしらがのはかまいり)伊賀市芭蕉菩提寺 愛染院内句意は、「故郷の盆会に一族の者と墓参りにでかけた。みな年老いてしまい、杖をつき白髪の者もいる。自分もまた同じように、年をとってしまったものだ。」元禄7年(1694年)芭蕉51歳(亡くなった年)の作。旧里にかへりて盆会で詠んだ句、この愛染院での句「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」(かずならぬ みとなおもいそ たままつり)句意「自分の事を、ものの数には入らない人間だとは思ってはいけないよ。どうか私の心からの手向けを受けておくれ」 前句と同じ元禄7年7月15日、伊賀上野での松尾家盂蘭盆会(魂祭=玉祭)の際の作。芭蕉51歳。 元禄7年6月2日、江戸芭蕉庵において寿貞尼死去。享年不詳。 寿貞の死を芭蕉が知ったのは6月8日 、京都嵯峨野の落柿舎でのこと。 芭蕉の人生で女性が登場するのはこの人、一人と言っても過言ではない。寿貞尼は正妻ではないので、文字どおり「数ならぬ身」だったのかも知れない。あるいは、生前寿貞尼は、自分が「数ならぬ身」であると卑下し、それを芭蕉が慰めていたのかもしれない。一句は、寿貞尼への芭蕉の愛情表現、少なくとも芭蕉にとって寿貞尼は「数ならぬ身」ではなかったのでしょう。「旧里や 臍の緒に泣く 年の暮」(ふるさとや へそのおになく としのくれ)季語: 年の暮詠年: 貞享4年(1687) 出典: 真蹟懐紙(句切・笈の小文)句意: 久しぶりで故郷の生家に帰って来た年の暮。自分の臍の緒をふと手に取ってみると、遠い幼児のころや、亡き父母の慈愛の昔がしきりに思い出されて、ただ懐旧の涙にくれるばかりである。へその緒は生誕の日付を記して大切に保存して母親が死んだ時に棺に納める風習があるが何故か兄が保存していてそれを見せられ母の慈愛に触れ涙したという。「冬籠りまた寄りそはん此はしら」(ふゆごもりまたよりそわんこのはしら)芭蕉生家無名庵跡句意は、「今年は久しぶりに自分の草庵で冬籠りをすることになった。いつも背を寄せ親しんできたこの柱に、今年もまた寄りかかって、ひと冬閑居を楽しむことにしよう。」元禄元年(1688年)冬、芭蕉45歳の句。 貞亨4年(1687年)10月25日、芭蕉は江戸を立って『笈の小文』の旅に出る。 元禄元年(1688年)秋、芭蕉は関西からの帰り道、中山道を通った『更科紀行』の旅から江戸に戻り、八月下旬、芭蕉は久しぶりに江戸深川の芭蕉庵に戻った。門人たちは残菊の宴や月見の宴など盛んに俳席を設け芭蕉を歓待している。こうして年の瀬を迎えた芭蕉が、その折の心境をしみじみと述懐し詠んだ句。『一所不住の境涯を求めながらも、馴れ親しんだ棲家に心惹かれる芭蕉の姿がある。「無名庵」は芭蕉生家の裏庭に門人達が建ててくれた庵で、元禄7年8月15日、芭蕉は新庵披露をかね月見の宴を催し、芭蕉は元料理人なので後に月見の献立と言われる料理でもてなした。芭蕉は庵の名前を付けずに大坂に行ったので(10月12日に死亡)後に無名庵と呼ばれた。
2020年03月04日
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「左末ゝ能 事於もひた太す 桜哉 」(さまざまのことおもひだすさくらかな)伊賀上野城東(句意)この桜を眺めていますと、ご奉公していた昔の思い出がさまざま止めどもなく蘇って来ます。書は、浜松の俳人、大蕪庵(松島)十湖とも上野町会議員の奥森春陽(安次郎)とも伝えられていたが筆跡から松島十湖氏で間違いないようです。右下に書かれているのが桃青かと思われるこれが有るために解読が難しかった。貞享(じょうきょう)五年(一六八八)四十五歳の作で、『笈日記』『笈の小文』(おいのこぶみ)などに「おなじ年の春にや待らむ故主蝉吟公の前庭にて」と前書きがあってこの句が載ってる。「当時良長は23歳に成長し探丸と号し」との記載があるので蝉吟が死亡前後に誕生したものと思われる。貞享五年(1688)3月13日作 父蝉吟死後22年 伊陽山中初春(伊陽は伊賀の美称) 芭蕉「やまさと者 まんさい遅し 梅花」(やまさざとはまんさざいおそしうめのはな)【伊賀市上野丸之内 上野公園東口】元禄4年(1691)の初春、伊賀上野の生家に帰省中の作。季語は「梅」。昭和42年(1967)9月10日、財団法人芭蕉翁顕彰会と実業家町野七右衛門により、建碑。書の原型は、芭蕉真跡懐紙。(句意)辺鄙な山里には万歳も遅い。正月も半ば過ぎて梅も花盛りを迎えた今頃、やっと来たことよ。藤堂修理長定邸にて (名張藤堂家三男)古地図に現在の上野農人町川崎邸西隣に自分屋敷がありました。「まゆはきを俤にして紅粉の花」(まゆはきをおもかげにしてべにのはな)句意: 女性の眉履きの姿を思い浮かべさせるように咲いている紅花よ。だんじり会館前奥の細道の句 現在の山形県尾花沢市での句 紅花は伊賀の名産でもあった。因みにベニバナの古名の末摘花は「花が茎の末の方から咲きはじめるのを順次摘み取るところから」だそうです。左にドナルド・キーン氏の英訳「They make me recall a lady’s powder puff There saffron blossom.」が刻まれています。訳したドナルド・キーン氏は2008年文化勲章受章、2011年の東日本大震災後、日本国籍取得2019年亡くなりました。「きてもみよ甚へいが羽織花衣」(きてもみよじんべいがはおりはなごろも)句意は「甚平さん、普段着(甚平羽織)姿でいいから、早く花見に来なさいよ。満開の桜を前にしたら、どんなに華美な着物を着ていたってかなわないから。」意味を二つ重ねた詞を二つ使っている事で、凝った句だと言われています。「きて」:着て・来て、「花ごろも」:花見用の華やかな服・満開の桜。芭蕉が28歳で、俳号を宗房と名乗っていた頃の句。この頃は、技巧的で、誰かに呼びかけるような句が多いような気がします。でも、若々しさを感じる句です。自然注曰従天謂道(ちゅうにいわくてんにしたがうをみちという)従道謂自然矣(みちにしたがうをじねんという)東野芭蕉桑門 (関東の出家して修行する人の意味か)真跡(元禄初期と推定)「升かふて 分別かわる 月見かな」(ますこうてふんべつかわるつきみかな)【伊賀市上野丸之内 旧市役所南】元禄7年(1694)の秋の作。季語は「月見」。平成6年(1994)12月2日、(句意)今夜は十三夜の月見に赴く約束だったのに、途中、升市で名物の升を買ったら、急に世帯気が起きて了簡が変り、月見はやめて戻ってきたわい。1694年(元禄7年)9月13日、松尾芭蕉 死のひと月前、住吉大社の宝之市神事に参拝し、名物の升(一合升)を購入した時の句。9月10日に発病して具合は悪く、この日、長谷川畦止亭での月見に参加する予定であったが、キャンセルした。翌日の句会で、この句を披露し、心変わりした非礼を詫びるとともに、心配無用と言いたかったのでしょう。しかし、回復することなく、10月12日に没しました。「たひ人と 我名よばれん はつしぐれ」(たびびととわがなよばれんとしのくれ)上野市駅(忍者駅)前駐車場貞亨4年(1687)冬の作、『笈の小文』の旅への歓送の句会で詠む 。季語は「初しぐれ」(句意)潔い初時雨にぬれながら、道々で「もうし旅のお人よ」と呼ばれる身に早くなりたいものだ。 初めての旅『野ざらし紀行』における句「野ざらしを心に風のしむ身かな」と比較した時、その精神的余裕は大変な相違です。『野ざらし』の頃と比べて芭蕉は既に十分有名であったし、これから先の伊賀までの旅路には多くの蕉門の弟子たちが師の訪れるのを待ってくれている。
2020年03月03日
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藤堂高虎の残念石 京都府木津川市加茂町大野の勝手・春日神社下の府道(天理加茂木津線)に面した河原には、 2~4m程の花崗岩の切り石(約 15 個)がひと固まりとなって残されています。これらは、徳川幕府 が大坂城を修築した際に、藤堂高虎(とうどうたかとら)によって石垣に使用するために切り出され た巨大な石材の一部で、切り出された石材は、木津川に降ろし舟で木津川・淀川をくだり大坂城まで 運ばれま した。一方、大坂城へ運ばれなかった石材は、何らかの事情で大坂城へ行けなかった(備蓄用に集積との説も)石は残念石と呼ばれています。 1620年代、徳川秀忠から大阪城修復を命じられた高虎が、木津川沿いにあった常念寺に30日間宿泊して石垣の切り出し作業の陣頭指揮をとったそうです。 元和6年(1620)、徳川幕府が大坂の陣で廃墟となった大坂城を再築した際に、普請総指図役(大坂城修築の総責任者)藤堂高虎により石垣に使用するために京都府木津川市の大野山から藤堂高虎に よって切り出された巨大な石材の一部です。切り出された石材は、木津川に降ろし舟で木津川・淀川をくだり大坂城まで運ばれました。 ここから大阪城に運ばれた加茂の石は、日本古城友の会「大阪城石垣調査報告書」によりますと、 本丸側と二の丸側で確認されているそうです。 個々の石には、その石を切り出した組(班)毎の固有のシルシ(マーク)が彫られています。 現在七つのシルシが確認されているそうで、この石の一と二を組み合わせたものは藤堂式部(家信)のものだそうです。 京都府の道路敷設計画「赤田川樋門改修 及び 府道天理加茂木津線バイパス整備」に伴い、残念石の 集積地一帯が埋め立てられる見通しとなりました。大野の残念石は支障物と見なされ、刻印が確認 されている残念石(3個程度)を保存する予定ですが、残りのほとんどの残念石が地中に埋められるかもしれない危機に瀕しています。 藤堂藩城和奉行所跡 奈良市古市の奉行所跡の蔵と向こうに土塀 現在の南京都府と奈良県の山城・大和の領地、すなわち「城和領」は、元和三年(1617)に大坂の陣の報奨として加増された南勢田丸城付五万石の領地がありましたが 元和五年(1619)徳川頼宣の和歌山転封(紀州藩成立)に伴って伊勢国の多くが紀州領とされたため、山城・大和のうちで五万石が替地として与えられたのです。 この奉行所に天理教(天理教系信仰)教祖中山みきが勾留された。中山みきが生活していた三昧田村や 庄屋敷村は藤堂藩の所領だった。慶応2年(1866)、小泉不動院(奈良県大和郡山市・真言宗醍醐 派)の訴えにより、無許可で祈祷をしているとして、中山みきを2.3日間勾留し、最初の弾圧事となる。 幕末の天誅組騒動のときにもここで裁いた。 天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した、捕縛された。藤堂藩士がここへ天誅組浪士を連行したことでも知られています。 城和の政(まつりごと)はこの奉行所の北側にあった陣屋で行いました。(この写真を撮っている所) 古市陣屋は、 古市城の一郭で陣屋の西側に城の堀がかつてはあったようでした。 土蔵が建っているところが勘定場の在った所、ここから北へ鍵形の交差点までの道路西側の宅地一帯が陣屋跡でした。 尚、帯解寺の近くにある龍象寺に陣屋門を移築しています。 藤堂藩は伊賀より西は伊賀部隊により津より東は津藩が中心に行いました。 したがってこの奉行所は伊賀の担当でした。 京都の事は伊賀が中心なので江戸時代最後の山崎の合戦も伊賀部隊の鉄砲隊が発砲し始まっりました。
2020年03月01日
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り 京都府木津川市加茂町の藤堂高虎供養塔を探しに行きました。 その坂の登り口に在る道標。 左 いが 右 なら と刻まれている。 藤堂藩が建てた伊賀街道の道標で加茂町には数カ所あるそうです。 藤堂高虎供養塔 「寒松院殿道賢高山権大僧都神儀」と銘があり254cmx49cmあります。 寒松院とは高虎の法名です。高虎のお墓がある東京・上野公園内のお寺は高虎が開基したお寺で、寺号も寒松院と云います。徳川家康が75歳で死ぬ際、高虎の手を取って今までの功績に感謝しつつ「心残りはあなた(高虎)と私(家康)は宗門が違うため、来世の浄土が違ってしまうのが寂しい」と涙を流された。高虎は「私は至らない者ですが上様と同じ天台宗に改宗します」と即座に得度し、戴いた法名が「寒松院」でした。 燈明寺の北の谷を間にした丘陵の尾根、通称「イシバ山」にあります。燈明寺の墓地で,代々の住職の供養碑と共にあります。 燈明寺は天台宗の寺院なので家康との逸話とも符合します。 加茂町史には 藤堂高虎 宗国史(高虎年譜) に、元和 6 年(1620 年)に高虎自身が 90 日間、加茂の常念寺に滞在して石切りを指導したと記されており、加茂で切り出された石材は、大坂城京橋口西側の外堀内外各 25 間、 内堀の一部、西空堀の本丸側で使用されています。 燈明寺は明治の廃仏毀釈で御霊神社になっています。藤堂高虎供養塔はこの裏の北の谷を間にした 丘陵の尾根、にあります。 江戸時代の初期、寛文三年(1663)には藤堂家の支援で燈明寺の本堂、三重塔を修理しました。 その三重塔は大正3年(1014)に横浜市、三渓園に委譲され昭和6年(1931)に旧国宝(のち重要文化財)に指定され今も関東最古の塔として三渓園のシンボルとして親しまれています。
2020年03月01日
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