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特別公開されている島原の角屋 島原は日本で最初にできた遊宴の場 公認の花街です最初にできた場所は御所の近くです 御所に近いということで移転移転先の六条柳町で繁盛していたが ここでも風紀を乱すとのことで 現在の場所、島原へ島原は揚屋(客をもてなす家)と 置屋(太夫や芸妓派遣する)に 分かれています。揚屋は「客をもてなすを業とする也」と江戸時代の書物にあるように現在の料理屋や料亭と同じような処でしょうね。島原は遊宴の場にとどまらず文芸も盛んな町だったようです。そして揚屋は客を泊めることはなかったそうです。太夫と花魁の違う点は・・・太夫は芸を売る商売歌や舞、音曲の他、茶道、華道、香道、書道、俳諧など貴族が受ける教養を身につけておられたようです。しかし、非公認の祇園が繁盛し 立地の悪さから島原が寂れてきました。玄関を入ると中庭が左に見えます。富士山に見立てた庭石飾り井筒(かざりいづつ)趣を添えるために作られた井戸青銅のように見えますが「織部」とのことです。座敷から見た中庭天井板が網代に組んであるので「網代の間」(あじろのま)28畳あります。写真は少し明るくしていますが昔の明かりは”蝋燭”だけこのように薄暗いと思います。と観光ボランティアさんの話です廊下を通って奥の座敷へ
2017/03/04
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特別公開されている島原の角屋島原は日本で最初にできた遊宴の場公認の花街ですが最初にできた場所は御所の近く御所に近いということで移転させられ移転先の六条柳町で繁盛していたがここも町の中、風紀を乱すとのことで現在の場所、島原へ大型の宴会場として発展しますが町中にある非公認の祇園が繁盛し立地の悪さから島原が寂れてきました。前回にも書きましたが島原は揚屋(客をもてなす家)と置屋(太夫や芸妓派遣する)に分かれています。揚屋も庫裏と同等の台所を備えていたようです。角屋の台所も広く大勢のお客をもてなしていたことが想像できます。お客さんはここから座敷に揚げていたのでしょうね。三宝さんお客さんの料理はここで・・・繁盛していた当時を忍ばせます。厨房、調理場、水屋、昔の表現は・・・なんでしょうか手前の台に出来上がった料理を並べたのでしょうか。帳場客用の階段は別にありましたので2階座敷へ料理を運ぶ階段でしょうか。西郷隆盛が行水に使用したタライ刀タンス刀掛け屋敷の歴史を感じさせられます。お座敷のほうへ・・・。
2017/02/28
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