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「落とし文」(ごみと環境を考える会のお便り)を通して、今日は楽しい出会いが2つもあった。どちらの人も既知の人だけれど、外から見ていたのと違って、ちょっと中に入れたかなっていう出会い。Aさん、70代。村のいろんな面で活躍をされているが、朴訥とした人柄で、真の意味での好々爺。私が伺ったのは夕方6時を過ぎていて、麦の脱穀を手伝いにきた親戚の人とアルコールを飲んだあとだそうだ。お便りを渡してすぐ退散しようと思っていたのが、奥さんにも引き止められて、図々しくあがりこんだ。「落とし文」の前号に、村の主催で見学にいったプラスチックの再生工場での感想を引用させていただいたのが縁で、「次号ができたら、オレにもおくらい」という約束を果たしにきたのだが。廃プラからできるたくさんの擬木。その擬木を土の中に入れれば、これはずっと残ったまま。「オレが山から木を切ってきて柵にし、その柵が朽ちる頃にオレも死ぬ。それが自然の姿だ」と言われたことが、今でもとても印象に残っている。ほろよい気分のAさんは「オレ、一杯飲んでなけりゃさあ、Nさん(私めのことですぞ)をこんなに強く引き止めなかったかもしれない。脱穀の手伝いに来てくれた人とも今日は話せたし、Nさんとも話せる。そういう意味で、今日は、オレにとってとってもいい日だ」にこにこしながら、そう言ってくださった。「そう言ってもらうと、うれしいな。Aさん、飲んでてくれて、私にとってもいい日ですよ」なんて話しているうちに、奥さんは煮物を出し、サラダを出し、ラッキョウ漬けを出し、ヨーグルトも出してくれた。もちろん飲み物はお茶です。 そう、この村の煮物はおいしいんだ。ずーっと以前、家庭訪問で回った時にも必ず出てきた煮物。材料は同じなのに、一軒一軒違って、それがどれもおいしい。私のところでは、会社ではもちろん、お茶かコーヒーのみ。家の方に来ていただいても、すぐに煮物を出すことはできない、造り置きがないから。「ちょっと上がって」って言われて上がったら、煮物が出るなんて、いいよねえ。早く真似ができるようになりたいと、今日は本当に思った。Aさんがメモを見せてくれた。そこには「諸悪の根源は、材木需要の低迷にあり」とあった。「諸悪ですか…。例えば、今のイラク戦争なんかはどうつながるんですか」「燃料だよ。石油に頼り過ぎているんだよ」「あっ、そうかあ。確かに、その利権ですよね」 日本のごみの6割は容器包装が占めている。Aさんは、プラの代わりに木材を加工して容器包装ができないか、それの推進に残りの人生をかけると言われた。今必要(絶対必要かはちょっとおいて)とされている厖大な容器包装に木材を使うことにより、需要が増え、林業も盛り返し、この村にも若い人が定着する。子どもも増える。加工工場ができれば、働き場所ができて、人口も増える。つまり一石何鳥にもなるわけだ。そして、Aさんも入っている「癒しの郷づくり」も、まさにこの点からだけでも追求できる。 お話を聞いて、なんかあったかーい気持になって帰ってきた。Bさん、こちらはまだお若くて多分30代前半。「落とし文」は版下を私が作り、印刷は役場でやっていただいている。Bさんの前任者の時からこの方法をとらせていただいて、私は「官民協同」の一つの形だと思ってお願いしている。村のごみデータの提供ももちろんしていただいているし。でも、Bさんは、多分、笑顔の苦手な方で、余計な仕事を一つ増やしているという意識のある私は、気楽に接触しがたい印象をずっと持っていた。ところが今回、「落とし文」(ごみと環境を考える会のお便り)も発展的解散をした方がいいのかもしれないと、ちょっと弱音というか本音を吐いたら、メールではあるが、励ましのことば(と私は解釈した)が返ってきた。これも、すごくうれしい出会いとなった。生ごみ問題をきっかけに生まれた「ごみと環境を考える会」だが、生ごみ収集ができるようになって、活動が激減した。生ごみ問題だけでなく「環境」も考えようという会だったはずなのに。でも、会全体が動かなくても、いっしょに考えてくれる人はいるし、活動できなくてもお便りを配ってくれる人も、読んでくれる人もいる。そしてBさんのような心強い協同者がいる。発展的解散なんて言っていないで、続けることに意義があるのかもしれない。自然との出会いも力をもらえるけれど、人との出会いは、もっともっと強い力を私に与えてくれている。私、人嫌いなんだけどなあ、本質的には…。
2004年06月30日
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「西の都から」と題して、哲学者の梅原猛さんが時々コラムを寄せている。きょう6月29日のタイトルは「旗が嫌い」。読んでみて、思わずウーン。夫は「さすが梅原さんだなあ」いろいろ言うより、少し長いけど引用する。・・・・・・・・ とうとうたる右傾化の流れである。長年リベラリストとして私が尊敬していた友人が、9.11の同時多発テロ以来急にアメリカの熱烈な擁護者になり、アフガニスタン戦争およびイラク戦争を讃美する論を声高く唱えて私を驚かせた。一方、マルクス主義に批判的であった私を政党の機関紙で保守反動と罵った学者たちは、ソ連及び東欧における社会主義政権の崩壊以来口をつぐみ、今このとうとうたる右傾化の流れに批判の声を上げようともしない。 私はあの戦争の日のことを思い出す。大東亜戦争と称する戦争が勃発したとき、ほとんどの日本人は政府の「鬼畜米英撃滅」のかけ声に乗せられて愛国の情を燃やしたが、私のこの戦争が必ずしも正しいとはいえず、必ず敗戦に終わるにちがいないと思っていた。しかしこの戦争に私自身が徴兵され、戦史するのはまず間違いないと思わざるを得なかった。この勝利と正義が信じられない戦争のために死ななければならない自分を深く見つめようとして、私は哲学を一生の仕事とする道を選んだのである。 戦時中、反戦論者であった私は、戦後、侵略戦争に反対する思想であるマルクス主義にひとときひかれたが、やがてマルクス主義によってもたらされた社会主義社会が決して人類を幸せにする社会ではないことを確信し、マルクス主義の批判者になった。それゆえ私は保守反動の思想家として罵られた。その罵りは国際日本文化センターの創設において頂点をきわめたが、私がセンターの創設に努力したのは、戦時中の論者のように日本を不当に神聖化せず、また戦後の論者のように日本を過度におとしめもせず、日本文化の伝統のすばらしさを認識し、それを世界史の動向の中で生かす学問を樹立したいためであった。 その後、15年間で日本は大きく変わった。戦争中、私は多くの好戦主義者に囲まれて孤独であった。そして戦後しばらくは多くのマルクス主義者に囲まれて孤独であった。しかしまた今の日本人の多くはいつの間にか好戦主義者になり、いつまでも平和憲法のもとに立つ私のようなかつて右翼とよばれた学者を、頑迷固陋(ころう)な平和ぼけの老人とみなしているかのようである。 私は天性の無器用者、世の中に合わせて容易に自分を変えていくようなことはできない。いや、そのようなことは私の誇りにかけてもしたくない。すばらしい伝統文化をもちながら、原爆を2度も体験したこの日本という国にあぐらをかいてどっしり座り、ひたすら人類の行く末を考えるより他に私の残された人生を生きるすべはない。 キョウハヘイケノアカイハタ、アスハゲンジノシロイハタ。多くの人は旗が好きであり、今勢いある旗のもとに何ごとか大声でわめいているようであるが、私の耳にはその声が野獣の叫びのように聞こえる。私は旗が嫌いである。・・・・・・・・ 私は哲学はわからない。だから梅原さんの本も『隠された十字架』が初めてであり、京都に関する著書の他は読んだことがない。『隠された十字架』は、尊敬する山の先輩から頂いた本で、法隆寺の謎をちょっとハスに構えた視線から解こうとした本で、私は大好き。私以上にはまっているのが夫で、上の色紙は夫のために、私が先輩 のA先生から頂いたものだ。信州では教員を対象とした(現在は一般希望者も参加できる)木崎湖夏季大学というのがあり、そこに梅原さんが講師の1人として来られ、その時(昭和43年だからかなり古い。)に頂いたそうだ。先輩のAさんは「梅原さんは何となく好きじゃなくて、処分しようと思ったけど」とくださった。「人類」の「類」が違っているのがご愛嬌。自分の立つ位置が変わっていなくても、回りの流れが変われば、結果として左岸に近寄ったり右岸に近寄ったり。それは梅原さんでなくても、誰でも感じていることだろう。朝、この記事を読んで、私も夫同様「梅原さん、いいなあ」と思った。けれど、日記を書くにあたって、何度も読み返してみると、物足りない。梅原さんの今日までの軌跡はわかった。でも平和ぼけの老人という言葉に反論する気はないのだろうか。"すばらしい伝統文化をもちながら、原爆を2度も体験したこの日本という国にあぐらをかいてどっしり座り、ひたすら人類の行く末を考えるより他に私の残された人生を生きるすべはない。"としか書かないのだろうか。"勝利と正義が信じられない戦争のために死ななければならない自分を深く見つめようとして、私は哲学を一生の仕事とする道を選んだ"のならば、今、自分の生きる方向を捜している人々に、何らかの示唆はできないのだろうか。哲学という学問は、平和の中に生きるエネルギーにはならないのだろうか。過去は過去として、今、高見の見物のような梅原さんの生き方、なんとなく好きじゃなくなりそうだ…。
2004年06月29日
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じつは、昨夜、実家で夕飯を食べたときに、どうしても母といっしょに飲みたくて、母の作った「梅酒」を氷と水で割って、小さなワイングラスで飲んでしまった。もちろん泊っていくわけにはいかず、その夜のうちに帰らなければならないことは、重々承知で。量にすれば多分100?くらい。普段は村の公民館でも、アルコールを入れれば必ず歩いて帰ってくるのに、この日は、母と過ごして、気持ちが楽になっていたんだろうな。飲みたかったんだ。飲んでから3時間、お茶をがぶがぶ飲んで、出発。風船をふくらませれば、酒気帯びになるだろうなあ。走ること10分。N市に入る。えーっ、おまわりさんがいるーッ。おまわりさんがいて、対向車線の検問(検問って感じはしなかったけど、ワゴン車を止めて、何か運転手と話していた)をしている。小さくなって通り抜けた。こちらの車線の検問もどこかでやっているんじゃないかと、それからしばらくびくびくびく…。おかげで眠くもならず、適度の緊張度で家まで帰り着いた。やっぱり、●●●●は、決してしてはいけない。見つからなかっただけで、違反したことにかわりない。ふかーく反省。もう2度としませんからーァッ
2004年06月28日
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実家の母と半日を過ごしました。それだけで、元気をもらって帰ってきました。母親ってすごい。私もそんなになれるかなあ。******** 信濃毎日新聞6月26日の1ページを使った自民党の選挙用ポスターが目を引く。小泉さんが体を斜に構えて視線は正面を見据え、そのやや後ろに阿部さんが控えている2ショットの写真が載り、あとは政権公約。2ショットのポスターなんて珍しいでしょう。なんかみえみえ作戦だよねえ。小泉さんを止めさせたら、もっと鷹派が出てくるぞという、某さんたちの言葉が形となった?????テレビでも小泉さんが「テーマは日本」とか言うコマーシャルが流れていたっけ。思わず「えっ、『日本』?今さらなの。なら今までのあなたのテーマはもしかして『アメリカ』だったりして…」皮肉りながら…ここまで書いてお昼のニュース。聞いていて、またまた腹が立つやら笑えるやら…トップニュースは、NHKTVで放映した今朝の党首会談で、小泉さんが「アメリカが起こした戦争に日本が参加するのではなく、日本が攻撃された(または攻撃される)場合に、アメリカが日本を守ろうとする戦争に、日本もいっしょに戦うことを可能にするために改憲するのだ」という発言をしたこと。まあ、今さら目新しい発言ではないけれど、アメリカが自国の利益に全く関係しない戦争なのに、本当に戦う意志があると信じているのだろうか。沖縄に駐留している米軍の指揮官が「自分たちは沖縄や日本を守るためにいるのではない」と、かつて明言している。そりゃそうだろう。真剣に沖縄を守るつもりならば、沖縄で米兵が起こしたような数多くの事件は起り得るはずがない。米軍にとって、沖縄はまだ占領地…そんな意識しかないはずだ。日本が攻撃されて、アメリカが困ること(ちょっと乱暴だけど)。それは、イギリスと共に全面支援をする味方を1つ失うこと。でも、これとても、いればいた方がいいだけで、失っても、そう大した衝撃にはならないだろう。もう1つは、極東におけるキーストーンを失うことかな。でも、これも日本人にああだこうだと言われて基地を借りているよりも、直接の支配地にした方が米軍にとっても楽だしより有効活用ができるだろう。あっ、基地運営の厖大な費用がアメリカの自前になるか…。これはアメリカにとって大変な出費だ!基地維持の費用と土地提供ということだけで、アメリカが日本を守るか、甚だ疑問。「ヤス」「ジュン」と呼ばれる関係はいいけれど、小泉さんが思っているほど、盟友にはなっていないのに。アメリカが日本を守るという戦争は、今のイラクであり、かつてのベトナムであり、アフガニスタンであり…もとに戻る。今回の新聞の自民党のポスターも「この国を想い、 この国を創る」から始まって「自民党は、政権政党として 日本の中長期的な課題を見据え、新しい日本を創造していきます。」1 日本の経済をもっと元気にします。2 「官」から「民」へ行政の構造改革を進めます。3 信頼され、安心できる社会保障制度をつくります。4 暮らしと国の安全を守ります。5 地域と都市の再生、中小企業が元気に活躍する社会をつくります。6 「三位一体」の改革で地方の時代を開きます。7 夢の持てる農林水産業を実現します。どの新聞にも掲載されるし、あらゆる方法でPRをしているから、関心のある人なら目にするだろうこれらのテーマと項目。自分自身のためにこの日記に記録しているけれど、入力しながら、「うそだ、こんなの」の連続だった。3 先日の国会での年金法の強硬採決が記憶に新しいのに、この表現はどう解釈したらいいのだろうか。4 戦争参加を認めようとしているのに?5&6 地域を合併によって潰そうとし、その地域で働いている中小企業は、今、存続の現実に直面しているのに?「この国を想い、この国を創る」私たち国民は、憲法によってあなたたち政治家に国創りを委嘱しているんです。「この国の民を想い、この民の安心して住める国を創る」が本筋です。だから、くどいけど、どんな戦争も否定している現「日本国憲法」を支持します。まちがった解釈をし、自分の都合の良い解釈をし…そんな勝手な人間を育てないように、現「教育基本法」を支持します。
2004年06月27日
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またまたお疲れモード。お仲間のページを回っただけで、今日は止め。明日できることは、今日無理せずに明日にしよ!ってね。
2004年06月26日
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2004.6.25 2003.7.7(1年たっても、写真の腕は全くあがっていないなあ。でも昨年よりアジサイの開花が2週間近く早い)終日雨降り。アジサイは一際鮮やかになり、雑草も活き活きしている。ああ~、また草取りしきゃなんないなーと、私はうんざり。まあ、私の大切な植木たちも、活き活きしているから我慢、我慢。************雨の思い出1雨の日の小さい頃の思い出がある。どうってことのない中味だけれど、いつも思い出すんだなあ。確か小学校1年生の頃。学校から帰ってくる途中で、水たまりに足をとられて転んでしまった。手にはこうもりを持っていたので、体を手で支えることができず、前倒しに転び、怪我とかは全くなかったけれど、洋服の前の部分が泥だらけ。当時はまだ全面舗装されてなく、雨が降るとぬかるみがたくさんできていた。そこで、1年生の私は、洋服(ワンピースをきていた、もちろん普段着)を脱いで、シュミーズ(懐かしい言葉だねえ)姿になって家まで帰ったのだ。なんで洋服を脱いで、下着姿になったのか、その理由は今は全く覚えていないが、多分、汚れたものを身につけていることが恥ずかしかったのかもしれない。今なら、当然そのまま洋服を着て帰るところだけれど。小さい頃の私は、結構潔癖なところがあったのかもしれない。今はずいぶん、いい加減になったし、だらしなくもなったし…。そう、亡くなった父と喧嘩したことがある、その潔癖さなるが故に。幼児誘拐が多発して、学校では「知らない人に声をかけられても相手にしてはいけない。いっしょに行ってはいけない」という指導がされた頃があった。小学校高学年の頃だったかな。家に帰る途中で、知らないおじさんが声をかけてきた。「○○ちゃん、今、帰り?」私の名前を知っていても、私にとっては知らないおじさん。で、私は返事も黙礼もせずに、とっとと足早でその場を去った。夜、父にそのことを話すと「そりゃあ、□□さんかもしれないな。父ちゃんの知り合いかもしれないから、話はしなくてもいいから、『こんにちは』くらい言って帰った方がいい」と言われた。そこで、喧嘩が始まった。指導通りにした私と、大人の世界の判断との食い違い。今の私ならジロッとにらみつけて、相手に恐怖感を抱かせて、御満悦で帰ってくるかもしれないよ。雨の思い出2山岳会の夏合宿で剣岳に入ったときのこと。ずっと雨が続き、日程を消化できずに繰り上げての下山途中。剣御前から室堂に向かうために下りきったところで、沢を渡ろうとした。沢の名前は忘れたが、多分雄山方面からの小さな沢だったと思う。晴天ならば、チョロチョロの、涸れた沢かと思うような小さな川が、増水していて、丸木橋の上まで水が来そうになっていた。6人パーティーだった私たちは、安全のためにザイルを出し、その丸木橋の両側で確保しながら、渡り終えた。そのとき、アベックの2人連れが渡りはじめ、女性の方が橋で滑ったのか、風に煽られたのか、よくわからないが、とにかく川に落ちた。すでに川は濁流となっており、女性の姿は見え隠れしながら下流へと流された。私たちも、連れの男性も下流に向かって走ったが、追い付く早さでは無論ない。結局、この女性は約1時間後(だったかな)に遺体で発見された。私たちがザイルを出している間に、水かさは目に見えて上がり始め、わずか10分前後でものすごい濁流となった。鉄砲水の類だったのかもしれないが、雨の恐さ、山での雨の恐さを身にしみて感じた遭難だった。
2004年06月25日
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細かいグラフや表のぎっしり詰まった仕事をして、いささか、いや、かなりお疲れモード。今日は短い日記にしよう(いつも、そう思っているのに、書いているうちに、だらだらと…)。1 長野地裁の判決 田中康夫知事の選挙人登録だぶりで、泰阜村の方を取り消す判決。 判決理由は、生活の基盤が長野市にあり、泰阜村にはないと考えるということ。 今、鷲沢長野市長が、田中知事の住民票が泰阜村にあることを提訴しているが、それにも大いに影響する判決だ。2 (信濃毎日新聞 6月24日) 3000人集まって、泰阜村へ転入する運動が起きた。 疲れ果てた頭でちょっと思い出せないが、豊科だか穂高だかのある人の呼びかけ。泰阜村に住民票を移し、税金を払う。住居は泰阜村民の家の1室を借りる。道こせや運動会などに出席して住民たる責任を果たす。自立でがんばろうとしている泰阜村の応援団だ。 3000人集まらない場合は転入しないそうだ。少しの人数では税金は微々たるものだから。 発想がいいねえ。でも、今日の判決をどう判断するのかな。3 (信濃毎日新聞 6月22日) 国家公務員I種試験合格者、信州大学11人。 昨年度は1人だったそうだから、10倍の伸び。昨秋から公務員試験対策講座を新設した結果だそうだ。今は、公務員、教員、秘書、何でも講座が大学に設置されている。私たちの頃ってそんなのあったっけ……? 東大、京大、早稲田が3けたの合格者で、あとは2けたとなる。この人たちがキャリア組となって政治の実験を握っていくわけだけど、この公務員試験も、自薦の枠があってもいいよね、今どきだから。頭のいい人たちがキャリアになったら、それこそ心配だよ。法の解釈もうまくスルスル新解釈はするし、一般のごく普通の人の悩みなんてわからないだろうし。でも、国際舞台で日本がそれなりにやっていくには、頭が良くなければできないだろうし。だけど、頭がいい人よりも、ホットな人の方が、日本の場合はうまくいくかもしれない。最近の日本を見ているとね。やっぱりお疲れモードで、支離滅裂になってきた。本日は、これにて。
2004年06月24日
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シロバナヤマホタルブクロ(地元産)とった蛍をこの花の中に入れて持ち帰ったところから、この名がついたそうです。ホタルブクロを見たからには、本物の蛍も見なきゃあと今日は、近くまでほたるを見に行ってきます。・・・・・ただいまー、今帰ってきました。ほたるは、3匹だけ見つけました。結構大きかったので、源氏蛍かなあ。3匹のうち、1匹はたんぼの畔の上で、動きもせずに弱い光を放っていたから、もしかしたら「ウジボタル」かもしれない。えっ、ウジボタル? 幼虫のことですよ。昨年の日記を見たら、7月7日に見に行っているので、今年はまだ早すぎたのかもしれない。高架橋のオリンピック道路の下を沢が流れ、小さいたんぼが4~5枚、対岸は杉林が少し。手前には、「びっくらんど小川」が煌々とした電燈をつけて、四方に光を放っている。そして、昨年とさらに変わったのは、沢に沿った道をはさんで、「知事公舎」が復元され、歴史資料館も建設中。ますます人の臭いが強くなっている。なのに、ここの蛍たち、がんばっている。あまりに劣悪な環境になってきているから、かえって死角になっているのかもしれないけど。蛙が一斉に鳴き出す。ダンプなどが走り去って、瞬時の静けさが訪れたときに鳴くのかなと思ったが、むしろ逆だった。静かなときは蛙も黙り、けたたましい爆音が聞こえると蛙も喜んで?合唱する??????。「ゴロスケ ホッホー」の声も2箇所で聞こえて、あれは求愛の歌かな?私も歌いたいなあー。闇夜に紛れて、♪ララララーラーうそうそ、冗談。それでなくてもこんな暗がりに白い服を着た(虫予防)人間が、何をするでもなく立っているのを見て、さっきからオリンピック道路から分かれてきた車がスピードを落として私を観察しているではないか…それにしても、まだ10時前のせいもあったけど、世の中、明かりが多すぎる。犯罪防止のためもあって、誰もいない施設も、電気だけが煌々としている。夜は暗いもの夜は暗くていいんだそしたら、蛍も安心するのにねえ。6.23沖縄戦、終結の日沖縄の戦争は「出血・持久戦」と言われ、本土決戦のための準備が整うまでの時間かせぎを強いられていた。その本土決戦準備の一つに「松代大本営」も入っている。沖縄と松代の切っても切れない縁というものは次のとおり。4月1日、米軍が上陸した沖縄では、それまでの水際で敵を迎え撃つという方針を変え、島内に引き込んでゲリラ戦で敵に被害を与えつつ、持久戦を展開していた。嘉数高地や前田高地での死闘は、夥しい死者を出しながらも、確かに1ケ月近くも時間を稼いでいる。海軍の大田司令官が打った有名な「沖縄県民かく戦かえり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」という電文を打ったのはこの頃だ。しかしこの2箇所での抗戦後、兵力もなく武器もないすでに戦う力の残っていない沖縄の実情を、32軍司令部から大本営に何度も連絡が来ているそうだ。しかし、大本営からの支持はさらなる時間かせぎであった。長野県松代への大本営移転工事の進捗状態を見に、6月に入ると宮内庁や東部軍司令、阿南陸相などが相次いで視察にくる。その頃は、3箇所にある地下壕も7割から9割が完成されており、特に天皇陛下の避難する地下壕は9割以上ができていた。この視察で、大本営移転はもうできると踏んだのか、大本営は沖縄に戦争終結の指示を伝える。その指示を受けた32軍は、牛島長官が自決し、まとまった戦いが終結したとされるのが、今日6月23日なのである。もちろん沖縄戦が終結したのは、松代大本営との関係が全てではない。けれど、大きな理由の一つに、上記のような松代大本営との因縁がある。
2004年06月23日
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社員のIさん、帰り際に合併への怒りをぶちまけた。彼は隣のS町の住人で、S町はO村とN村との合併に向けて法定協議会(この名称は絶対に使わず「合併協議会」と称しているが)を立ち上げている。会社にはこの3町村の住人がいる。色分けは、積極的反対が3人、何となく反対が1人、本籍が長野市なのでどっちでもというのが1人、そして長野市との合併賛成派が1人。Iさんが、合併反対をはっきり意志表示しはじめたのは、合併して新しくできる町の名前を公募したあたりからだ。そして、5つの名前の中からどれを選ぶかのアンケート調査の段になって「まだ決まったわけじゃないのに、合併へ誘導している」と、ことあるごとに言うようになった。合併や自立の財政的な問題は、複雑怪奇でよくわからないにしても、合併への手順がおかしいということは、この町名の件でかなりの人たちが気づいている。「最初に合併ありき」ということに。Iさんは30代で既婚、子どもが1人。この世代が、O村でももっと活発に意志表示をしてくれると、合併に向けて坂をころがり落ちるような現象は止まるかもしれない。「S町の財政状態が3町村の中では一番厳しく、自立は無理。合併して特例債をもらわなければ今の借金は返せないって言われているけど…?」と水を向けると、「ホントにそう。体育館だって前のがあったのに、それを何千万もかけて解体し、何億も使って新しいのを建てた。お金がないのになんであんなの建てるんだろうってみんな思っている。合併するから、借りられるだけ借りて新しいものを建てる。自分が建てたってことだけを残したいんだよ」怒れ、怒れみんなもっと怒ろうよ!N村は10月に「3町村で合併」「長野市と合併」「自立」の住民投票をする。S町も数日前に、合併協議会の答申がある程度固まったところで、住民投票をすることを決めた。これも、最初は住民投票に反対していた議会が、住民の意向を無視できなくなり、決めたということだ。さて、O村はどうするの?村長は、合併協議会終了後に「何らかの形で住民の意向調査をする」と議会で答えている。住民投票条例制定の請求に反対意見を添付して議会に出した村長と、それをそのまま受け入れて、請求の否決をした議会と…。S町の議員と同じくらいのアンテナは、この村の議員だって持っているだろう。アンテナを錆びたままにせずに、やすりで磨いて(ちょっと古いか、この表現は)、村民の声をよーく聞いてよ。まちがっても村長の声ではなく、村民の声をね。
2004年06月22日
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〈大雪渓-花と水〉「コミヤマカタバミ」今回、初めて出会った花。途中からごいっしょした白馬村ガイド協会の方に教えていただいた。なんとも清楚で可憐な花。大きいもので草丈10センチ、花は5枚の花弁で、開くと白い桜の花のような感じがする。一人歩きのおばちゃんが、蛙の卵を見つけて喜び「もりあおがえるかなあ」、おたまじゃくしを見て「早く蛙にならなきゃ水たまりが干上がるよ」と声をかけ、溝に落ちたサラサドウダンの花に見とれて、その本元は?と上を見上げて歓声をあげ…。サラサドウダン上の斜面には大きな大木がありました。下を見て、上を見ている私に、「何かあるんですか」と声をかけた登山者もいました。「こんなにドウダンツツジが咲いているんですよ」「あっ、ホントだ。サラサドウダンですね。落ちているのも見事だね」と同調してくれました。こんな固まりが4箇所に。もりあおがえるは樹上で孵化するから、これは違う蛙でしょう。もしかしてひきがえる?ルリシジミ全国どこにでもいるチョウですが、鮮やかな個体でした。カメラを近付けても逃げなかったのが、最高にうれしい。ずっと前後して歩いていたガイドさんが、気にしてくださったようで、ガイド役を買って出たらしい。ガイドの資格をとって30年という、銀髪に赤いバンダナのロマンスグレーのおじさんは、大雪渓と八方尾根を専門にガイドし、近畿ツーリストの自然ツアーと提携しているそうだ。去年の村民登山で唐松岳に行った時に、近ツーがいたっけなと、思い出した。仕事は数年前にリタイアし、今は「好きなことでお金をもらえる幸せ者」なんだそうだ。まだツアーは本格的でなく、この日は「1週間に1回、様子を見にこないとね」という日なんだって。「今日は、キヌガサソウに会いたくてきたんです。咲いてますか」「もうじき、出てきますよ。大丈夫」で、たくさんの彼女たちに会えたことは19日の日記に書いた。コミヤマカタバミのすぐ後ろにあるの広い葉が、「ミヤマホトトギス」って言ったかなあ。黄色い花が咲く。前に南アの塩見岳への登りの樹林帯にたくさん咲いていた。黄色いホトトギスにしばらく会ってない。見頃は今月下旬だそうだ。白馬岳周辺は水が豊富だということは昨日の日記に書いた。〈長走沢〉水量が増えるとと、徒渉できなくなって登山者が缶詰めになる沢がここ。〈金山沢〉砂防ダムなんだろうけど、落差がものすごく、飛沫が飛んでくるような感じがする。バックの山は、多分小蓮華あたりかな。地図を調べてみます。〈白馬沢の雪渓〉村営白馬尻荘の屋根でとかげになっている山荘の人この反対側の屋根では、上半身裸になったとかげもいて、見ただけでブルブルブルあとはまた時間ができたら、左のページにアップしたいと思います。〈南風原町の快挙と米海兵隊の移転案〉信濃毎日新聞6月21日朝刊●南風原町にある沖縄陸軍病院壕を2005年から公開●在沖縄米海兵隊約2600人をキャンプ富士とキャンプ座間に分散移転構想が米政府内で浮上沖縄に関するニュースが二つ載っている。陸軍病院壕は「ひめゆり学徒隊」が看護補助として動員され働いた場所であり、病院の南部撤退の際には、自力で動けない重症患者に青酸カリを飲ませて処置したところだ。壕の中には入ったことはないが、南風原文化センターには、戦争資料の展示とともに、壕内のジオラマが作られていて、様子を推測することはできる。この壕のある南風原町の「黄金森」一帯には壕が30本ほど掘られたが、風化・崩落が進んでいるそうだ。そんな壕の一部を「原状をなるべくそのままに保ち」ながら一般公開が始まる。教育委員会の学芸員は「実物だけが持つ"教育力"」に公開の大切な意義があり、「平和への意識をつくり出していくのは南風原の使命」とも語っている。当面は壕の公開だが、じょじょに黄金森一帯を平和学習のできる公園にしていくそうだ。さすが南風原。戦争遺跡を文化財に指定したのは、この南風原町が日本で最初。沖縄戦の中でも激戦地区で犠牲者の数も多い南風原町だからこそできたことかもしれない。けれど、同じ沖縄でも、糸数壕は入壕料を取るようになったし、ガラビ壕は周辺地主たちの通行拒否で見学困難。さらにチビチリガマは、遺族の気持を逆撫でするような心ない見学者のため、中には入れない。こういう状況の中で、町をあげての「実物だけが持つ"教育力"」の提供に羨望の気持を持つ。松代大本営地下壕跡もその教育力を大切にしながら運動をしているが、被害と加害、天皇制もからんでなかなかむずかしい。でも、南風原の心意気に私たちも見習いたい。沖縄の海兵隊は16000人。そのうちの16%を移転するという計画。よく言われる「海兵隊は殴り込み集団だ」と。戦地でまっ先に敵の中に突進するのはこの海兵隊なのだそうだ。どうしても気が荒み、人格的にも行動的にも破綻している兵士が多くなる。米国防総省で進めている世界規模の米軍再編の一端だそうだが、自衛隊の軍隊化、日米軍隊の共同、そんなところがチラチラ見えてしまう。沖縄から兵士が減っても、同じことではないか、これじゃあ。
2004年06月21日
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大雪渓2-樹木白馬駅の近くから見た白馬三山。右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓、そして天狗岳へと続いている。大雪渓は白馬岳と杓子岳の間。時間が経つにつれ、山容全部が姿を表わし、ガスは谷間を埋め尽くすように下降していく。雪渓は谷間だからなあ、なんて不安はもうここまで来れば吹き飛んで。雪解け時期のせいもあるが、白馬岳は水が豊富な山域だ。ずっと谷筋に登山ルートがあるせいもかもしれないが。松川沿いに進み、猿倉への道の途中で、あまりにもりっぱなブナの木に何本も出会った。そのたびに車を止めてパチリ。幸い後続車も対向車も来ず。豪雪にも負けず、豊富な地下水に支えられて育つと、こんなブナになるのだろうか。駐車場からの白馬岳猿倉荘の下に駐車場ができていた。以前は山荘の前だったが。駐車場から山荘を通らずに、林道沿いに登山道に入れる。登山届けを出すならば山荘経由で(ちゃんと出してね)。それからギンリョウソウを見たい人も山荘経由をお勧め。このブナの木にはたくさんの木が寄生していたが、幹にたくさんついているキノコは私には座禅をしている仏陀のように見えるんですよ(手塚治虫の作品に出てくるヒョウタン何とかにもそっくりだけど)。歩き出してじきに出てくる最初に目立つブナです。桂の木もたくさんありました。何となく暖地性の木だと思っていたので、白馬にこんなにあるのを知って意外でした。でも桂は桂なりに、白馬の自然に溶け込んでいるんです。〈しのぶ会-命のバトン〉肝ガンで亡くなった知人の奥様(享年75才)のしのぶ会に出席した。発病以来15年目の死去。C型肝炎の感染は出産後の輸血が原因で、慢性肝炎→肝硬変→肝がんという公式のような経緯をたどり、最後は肺や脊髄への転移もあったとのこと。私だってすでに病歴20年を過ぎているのだから、O・Sさんの場合は、発病するまで感染がわからなかったことが不幸な結果につながってしまったのだろう。時代の相違もあるけれど、輸血したあとすぐに、病院側が私の血液検査を続け、数値が上がった時点で即入院・治療、以後も治療の継続をしたことが、20年経ってもまだ元気で山へ行っている私でいられるのだ。夫君のOさんは、奥様のO・Sさんが亡くなられた後で私に「女房の記録の必要なものはみんな提供するから」と言われた。それがすごく引っ掛かった。私は自分が長く生きるために奥様の記録が欲しくてOさんに近づいているのではない、と思ったからだ。しのぶ会にも遠慮しようと思ったが、再度Oさんから「ぜひ出て」と言われ、また楽天仲間で肝炎仲間の啄木鳥さんに「自分も自分の資料は全部HP上に公開している。利用できる人には利用してほしい」という内容の示唆を頂き、本日の出席となったのだ。Oさんは挨拶の中で何度も「C型肝炎は今非常に多い。感染していることに気づいていない人もまだまだ多い。早く発見し、早く適切な治療をすれば、完治する場合もあるし、少なくても10年は命が長らえると思う。まだ検査してない人は、ぜひ早めの検査をしてほしい。それは妻のSも生前から願っていたことだから」と繰り返した。自分の病の記録を残し、次の人の治療に少しでも役立てば…………こんな命のバトンもあることを知った。
2004年06月20日
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夕べ雨がぱらついたのに、今朝は曇天。しかも時間が経つにつれて、雲海の上に鹿島槍ヶ岳が見え始めた。こうなったら、体がうずく。「ねえ、1時間ぐらい、いっしょに写真撮りにいかない?」と、一応夫に義理立てする。予想通り断られたので、「じゃあ、1人で行ってくるよ。行き先は、西股か大雪渓か、八方尾根」と言い残して出発。分岐点で迷いながら、結局行ったところはここ。まだまだ小屋の下200メートルくらいは雪渓が続いている。小屋はまだ営業はしていません。準備中。白馬尻から大雪渓を見る。スカッとした晴天ではなく、靄がかかって青空はなかなか見えず、写真よりは明るい感じがしたけれど。登山者もちらほら。よって「ベンガラ」によるルートもできていない。雪渓恐怖症の私は小屋から100メートルくらい登ってみたが、それ以上は行かず。でも、小屋から下の方が急傾斜だった。熟年のご夫婦が数組小屋の周辺で休憩中で、私は、見栄を張って、「恐くないよー」とばかりバンバンと下った。白馬大雪渓を選んだのは、キヌガサソウに会いたかったから。私の記憶には雪渓尻にキヌガサソウの大群落があったことがインプットされている。ちょっとシーズン的には早いので心配したが、猿倉から雪渓までの間にも、もう咲いていた。小屋周辺はまだ出たばかりで、つぼみとか生まれたてのキヌガサソウがたくさんあって、これもまた初めてで感激した。小さなつぼみ開きかけ直径15センチ(葉も入れて)くらいのキヌガサソウ。葉と葉が重なっていて、これから大きく広がっていくのだろう。これは、葉が10枚、花びらも10枚。葉と花びらの数はほぼ同じだそうだ。7枚のものは花びらも7枚というように。(ちょっと色が悪くて、あとでできたら修正します。)家から車で1時間、歩いて1時間(もっとも今回は写真撮り撮り、花や虫や木をきょろきょろ見て歩いたので、1時間40分かかったけど)で、大雪渓へ行ってしまうのだから、幸せ者だ。うん。まだたくさん話があるんだけれど、今日は、とりあえずここまで。確か昨日のも「とりあえずの日記」だったなあ。
2004年06月19日
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モスラではありません。使いなれないレンズで、ぼけました。手すりを一生懸命吸っているんですよ。見えるでしょ。水気はなし、甘味もなしのはずなのに。社員のIさん曰く「鉄分を吸いにきている」「エーッ!!!!!!」「ずっと前にNHKのTVでやってましたよ。ある場所の水たまりにチョウがたくさん来るから成分を調べたら鉄分が多かったって」 おいおい、いくら鉄分が欲しくても、チョウは直接鉄粉から栄養を吸収できるのかい?とりあえずの日記です。
2004年06月18日
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クジャクチョウ陽の当たる壁に止まって、目のあるきれいな翅を開閉していた。ゴマダラチョウそろそろオオムラサキも出てくるかなと、友人宅の榎を見に行く。成虫がいなくても、運良ければあの緑の宝石のような蛹に会えるかな…なんて淡い期待を抱いて。どちらも見ることはできなかったが、ゴマダラチョウが来ていた。もちろん今年初見。ミスジチョウの仲間が多い昨今なので、最初はオオミスジかななんて思ったけれど、飛び方もちがい、青っぽい白を身に纏っているから…。オオムラサキのような派手さはなくて、白と黒のツートンカラーの清楚なゴマダラチョウは、私の好きなチョウの一つなのだ。ウスバシロチョウほどのんびりとはしていないが、タテハチョウの中では、比較的のんびり屋だろう。そのゴマダラチョウが、榎の幹を歩いて移動。もしかしたら産卵するかなと、期待して見ていたけれど、その気配はなく、かといって樹液を吸うのでもなく、ただただテクテク。運動不足だから脚の運動でもしていたのかしら。(笑)まさかねえ、私じゃあるまいし。ぼつぼつミドリシジミも出てくるかな。また飯縄山へ行ってみようか。家の周辺のクリの木もチェックポイントではあるなあ。朝の散歩をしてみようか(これは少し早起きしないといけないから、ちょっときついかも)。チョウの話、山の話、草木の話、思っただけでも、笑みがこぼれてくる。
2004年06月17日
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インフォシークエンレイ草-ただし花は散っている(昨年6月の鹿島槍ヶ岳西股出合近辺で)画像が100枚をとっくに超していて、古いものを削除しては入れ替えて、何とかがまんして使っていた。楽天以外にHPを作ってそこに画像をストックすればいいことを知った。インフォシークにHPを開設したのはいいけれど、何度挑戦しても楽天に画像を引っ張ることができなくて、しばらくほっておいた。それが本日、back packerさんに教えていただきながら、やっと成功したというわけだ。大きさも楽天よりは大きく載せられるし、これから数に規制されずに写真を載せられる。うれしいな。back packerさん、何度もありがとうございました。
2004年06月16日
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「有事関連7法が成立」というトップ見出し(でもそんなに大きいスペースではない)を載せた朝刊は、1面、2面、3面、5面そして31面(信濃毎日新聞は全部で32面)に7法に関した記事が掲載されている。それほど大きなできごとなのに、世の中が全く静かなのはなぜだろう。《危機が迫っていると感じさせる法律》理解力の低下した頭で、記事を読んでいくうちに、「あれっ、今、日本は戦時下なんだっけ」と思ってしまった。「有事」という言葉を使ってはいるけれど、これは戦争に他ならないし、関連7法の要旨を読んでいくと、もう明日にでも「有事」が発生しそうな感じを受けてしまう。それほど危険が迫っていると印象づける法律だ。いやいや、政府はこれから「想定される有事を類型化して基本指針の中で示す」のであり、それに基づいて、各自治体は、地域の特性を踏まえて「国民保護計画」を策定するのだそうだ。その指針や計画はもっともっと危機感あふれる内容となるのだろう。自分の目で、頭で分析・判断した情報を持っていないと、なんなく組み込まれてしまうこと必定。《政府の「有事」に関する情報収集と分析力は》ただ、日本の政府が、日本に起こり得る有事を具体的にどんなふうにとらえているのか、興味は津々。いつかのNHKTVの何かの番組で(「その時」の日露戦争だったかな)、日本政府の情報収集の下手さと、入手できた情報の分析力のなさは日露戦争時にすでにあり、それが連綿と太平洋戦争まで続いていった旨を放送していた。その立場から考えると、今の政府がその当時からどんなふうに進歩しているかどうか、ちょっとはわかるかも。もっとも、その辺はアメリカからの指導があるから……????《やっぱり連想するよね》確か、太平洋戦争中には「国家総動員法」なんてのがあった。否応なく国民の一人ひとりを戦争に駆り立てた法律。その時代にいなかったから、総動員法から国民がどんな印象を受けたのかはわからないけれど。ところが、解説に"国民の役割については「必要な協力に努める」との表現にとどめた。太平洋戦争時の「国家総動員」のような印象を受けるからだ。"というくだりが出てきて思わず苦笑……政府の思惑どおりの反応をしている自分に。ふぅー、あぶない、あぶない。「必要な協力に努める」といっても、政府が認めるいくつかの「正当な理由」以外は「努める」どころか「強制力」を持ち、罰則が定められている。「思想や良心の自由は保障されている」けれど「戦争反対」という思想や良心の自由は保障されてはいない。詭弁?《米国に頼らずに自力の防衛はいかが》100歩譲って、本当に日本にとって危機が迫っているのなら、自力で防衛をした方がいいのでは。「改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)」では、「日本有事」に際して米国が必要としている物品はもちろん、自衛隊の役務も提供できる。しかも「米軍行動円滑法」では「日本有事」のために米軍が行う行動全てが迅速・円滑にいくよう、日本政府、自治体、国民は全面協力する法律だ。「日本有事」もどのようにも解釈を拡げられるし、武器以外の物品とはいうものの、今でさえ爆撃機の燃料を日本は提供している。米国とつるんでいるから、問題が生じるのであって、本当に必要ならば、日本は自力で国を守るのが本筋だ。だけど、私は、憲法9条を支持している。
2004年06月15日
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昨日、72才で逝かれたK先生の墓前に、遺稿となったエッセーを載せた会報をお届けに伺った。その際に、奥様と短時間お話しすることができた。松代に平和祈念館が建つまで見届けたかった日本が進むべき道を正しく選ぶのを見届けたかったと、K先生は言われたそうだ。・・・・自分たちの不甲斐なさに胸が痛くなった。人工呼吸機も拒否し、吸痰もせずに、最後まで必死に自力で痰を出そうと努力されたK先生。私は、人工呼吸機をつけ、管での食事、動くことすらできないという生き方にずっと疑問を抱いてきた。それは「自然な生き方、なおかつ自然な死に方ではない。特に本人が望んでいなかった場合は」と、ずっと思ってきた。今でもそれは変わらないけれど、K先生の奥様はこんなことを言われた。「人工呼吸機をつけての生き方は自然ではないが、病を得て亡くなるということも、自然な死に方ではない」と。病は人の一生の中に、始めからインプットしてあるわけではないから、その病によって死ぬのは不自然だということだそうだ。寿命を全うして死ぬのが「自然な死に方」。それは全く同感ではあるが………病を否応なく得てしまって、家族や医師の助けを借りながら闘って、乗り越えられなかったときは、どうしたらいいのだろう。私はその時どうしたいと、息子に言葉を残したらいいのだろう。いや、亡くなった父は、私にはっきりとした言葉を残しただろうか。わからない自然な生き方自然な死に方そんなものがあるのだろうかわからないよ
2004年06月14日
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サミットで、小泉首相は、日本歴代首相として初めて真中で写真に納まったそうだ。日本でも内閣が成立して写真を撮るときに、場所とりで押し合いへし合いした場はニュースなどで見たことがあるけれど、今回はサミットの会場から撮影場所までの道程を解説づきで流した局があった。最終的に、後ろに行きそうな感じだった小泉さんを、ブッシュさんが肩を抱えて自分の隣に引き出している。アメリカにとって、今や日本は協力者としてなくてはならない存在であることを強く印象づけた場面だった。小泉さんが唐突に北朝鮮を再訪問したのは、参院選を控えて党内での足場固めもあったかもしれないが、どうやらこのサミットに焦点を据えてのことだったと、新聞などでは解説している。もちろん参院選もにらんではいただろうが、解説どおりサミットで「北朝鮮の最新情報を知っているのは自分」という切り札を切りたくて訪朝したのだとしたら… 小泉さんて好き嫌いは別にして善悪は別にして日本を破滅へ導くか否かは別にして先を読むことのできる戦略を講じることのできる政治的かけひきの得意な久々の大物なのかもしれない。あまりに稚劣なあまりに見え透いたあまりに手立てを持たぬ今までの首相たちとは少し違うのかもしれないずる賢さは一流他の意見を聞かないという一流国民の側に立てないという一流強者にへりくだる術の一流まだ斜め読みなので理解していないんだけれど「有事法制の中で、自衛隊法の改正を巧妙にしてしまった」「本来ならば、今までならば、一つひとつの法令を国会で話し合うべきものを、一括して通過させてしまう巧妙さ」と書かれた小泉政権のやり口。平和憲法を捨てて、ブッシュに仕えるそのココロは、何なのだ!
2004年06月12日
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ゴイサギ裏の土尻川に午前中、ゴイサギが現われた。「ゴイサギ」とは、もちろん図鑑を見て分かったのだが、最初は専ら「変なカモ」の印象だった。それが川縁を歩き回り、小魚を捉えているうちに、後頭部のトサカが見えて、「サギ」になり、白色とグレーのセンスの良い配色で「ゴイサギ」と分かった。 2匹もハヤを捉えたのに、なぜかつつくだけで口に入れることはせずに(そんなに大きい魚ではなかったが)、川べりを歩いたり、木陰で休んだりしただけで、ゆっくりと飛び去った。ムササビ午後、3時の休憩時、またゴイサギが来ないかとベランダに出ていた。左手のクリの木に何か動いている。社員のIさんを呼んで、双眼鏡で観察。まず灰色なのでテンやイタチではない。尻尾が大きいのでリスかなと思ったけれど、顔つきが違う。「ムササビ」か「モモンガ」のどちらかだろうということになり、なぜか広辞苑で調べてみる(ヤフーで調べたかったが、フィルム出力中で不可能だったのだ)。ムササビの挿し絵が出ていて、それがまさにぴったり。対岸のケヤキあたりの高木から川を超えて舞い降りてきたんだろうと。帰りはクリの木の上から対岸の川辺に舞い降りて、あとは、歩きだろうと思い描いた。なぜだろうこんな小さな空間の中で、いろいろな動植物を観察できるのはホントにうれしいんだけれど、喜んでばかりはいられない。最近、狸や狐、イタチやテンなどが道路で交通事故死する姿が増えている。日本鹿やカモシカもすぐ近くの峰で確認されている。動物たちが里へ降りてきているようだ。この現象は、なぜだろう。おまけところで、ムササビの出現に思わず、一人、胸の中で笑ってしまった。えっ、なぜかって?私の最愛の人物と関係があるけれど、支障が出るので、ここに書く事はできないの。
2004年06月11日
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会報の発送作業で、最後に封筒の数を数えた。分担の3列分をそれぞれ3回数えて数字をメモ。確認のために、別の人が数え直したら・・・・・2列分が違っていた。うわー、自信なくしたなあ。仕事をしていても、あまりに多い仕事数に一つをやっていても、別のものが気になりそれをやり出してみると、また別のものが気になり結局あせっているだけで、仕事はほとんど進まない。これは集中力の欠如に他ならない。back pakerさんによると、高齢化はバランス力を7割も失うそうだから、集中力もかなり減るのだろう。集中力が出るように…もう一度思い出そう登山の一歩をどんな高い頂きでも一歩一歩歩いていけば、必ず行き着くことを今までもそうしてクリアーしてきたんじゃないか。山を見つめて、気持を静めてそっか、私の守護神・鹿島槍ヶ岳(勝手に決めている)が梅雨で見えないせいかもしれない。鹿島のオーラが伝わってこないから…。と妙な落ちで、睡眠不足を補うため、今夜はこれにて。おやすみなさーい。
2004年06月10日
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つばめ2つあるツバメの巣の片方から3羽の子つばめが顔をのぞかせている。かわいんだー。巣の下まで行って「おっはっよ、元気いいじゃない」とか言いながら手を振ると、あわてて巣の中に姿を隠す。でもね、すぐに少しずつ頭をもたげて、私を見る。害がなさそうだとわかると、頭をすっかり出して、子つばめも私を見るんだよねー。上方で、親つばめらしいのが盛んに鳴くから、あまり長居はしないようにしているけど。どの世界も、若い世代は好奇心が旺盛だ。毎朝あいさつしてやろ。どこかで馴れるかもしれない。ところでこの親つばめの方。ところかまわず落としてくれる糞は、いささか迷惑なもの。今年は餌が豊富なのか、その糞もなかなか太くて立派なのが車の上にもたくさん落ちている。電線の下をはずして駐車しても、なんら変わりはなく、毎日それとの戦いだ。観察の結果(?)、つばめは電線に止まっている時だけでなく、空を飛びながらも糞をしている。昨日なんか、宙返りしながら人の目前でしていくんだもの、正しくサーカスの如く。きっと、便秘なんかしてないんだろうなあ。********多国籍軍に日本も参加。なぜ国連軍ではないんだろう。新聞の解説では、多国籍軍の任務の中に、治安維持と人道支援があり、日本は人道支援組だから、憲法違反ではないという政府の見解だという。少しずつ確実に、「戦争のできる国」「戦争をする国」に変貌していく日本。日本は私の国でもあるのに…。********高遠さん高遠さんがやっと人前に出てきたのをテレビで知った。表情も帰国した頃よりもずっと生き生きしていたし笑顔も出て、カメラの視線を気にしていなかった。良かったなー。あの3人の中で、最も遅い社会復帰。個々の性格の違いももちろんあるだろうが、女性が故の痛手も深かったのではないかと想像してしまう。雅子さんのこと彼女ほどの聡明さと意志の強さと、そして伴侶の援助をもってしても、つぶされてしまう程の力を、皇室、いや宮内庁をはじめとした天皇制遵守をしたい人たちは持っているのだろうか。あらためて、日本における天皇制の根の張り方の深さと強さを感じてしまう。そして、天皇制は決して過去のものでなく、今に続いていることを再認識。けれど、実際に戦争に関わった天皇たちはいざしらず、現在の天皇一族は権力をもがれ、自由を奪われ、人としての(あくまでも人です、神ではありません)生き様を奪われ。特に、女性の立場から見ると、雅子さんには全面的にエールを送りたくなる。(ちょっと脱線して、皇室典範が女性天皇を認めるように変えられたら、雅子さんはなお辛いはず。愛子さんに自分と同じような思いをさせたくはないだろうから)高遠さんにしろ雅子さんにしろ、日本という国は、男女平等になったとはいえ、名目的で、まだまだ男尊女卑があらゆるところに残っている。皇室ほどではないにせよ、田舎にいけばいく程、女性の権利は小さくなるのは事実だ。それに抗するのはもちろん一人では不可能だし、夫の援助があったにせよ、突き崩すのは至難の技。人と人の接する温かさがあるという田舎、女性の人格や権利をつぶそうとする田舎。どちらに感ずるかは、その人次第だけれど。まあ、田舎と皇室は、ある意味では同じレベルとも言える。「癒しの里」づくりも結構だけれど、私は、どんな女性も自分の生き方ができるようなそんな基礎をつくりたい。それこそが「癒し」にほかならない。
2004年06月09日
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《2ミリの家》梅雨2日め。アブチロンの葉裏に、体調5ミリのかたつむりを発見。家の大きさは2ミリ。生まれたてかもしれない、貝が半透明で柔らかい感じがしたから。梅雨だもんねえ。裏の土尻川の対岸ホウの木につやつやした葉がたくさん付いた。そういえば花の咲いたのはまだ見たことがないなあ。まだ幼木なのかもしれない。なら、母木はどこだ…?岐阜高山で食べたホウ葉味噌、おいしかった。あれはまだ結婚したての頃、2人で旅行した時に食べた味。小さいコンロの上で炭火で焼きながらの味が懐かしい。雨に濡れて光るホウ葉が文句なく若々しい。梅雨だもんねえ。ホウ葉に限らず、雑木林は元気がいい。小鳥たちのように鳴きはしないけど。竹の子は雨中なのに、雨後の竹の子だし。クリの木は、あの独特な香りを放ち始めたし。とげで武装していたたらの芽も、深緑の仲間入り。言葉にならないけど、音にならないけど、雑木たちのおしゃべりが聞こえてくる。だって、梅雨だもの。主のような大ケヤキだけが葉をすぼめてうなだれているように見える。多分、小鳥たちをその懐に入れ雨から守るために…梅雨だから。「今日は見えるかな…」毎朝眺める鹿島槍ヶ岳が、ここ数日見えていない。「おいでー、登っておいでー」と呼びかけくれていた山が、煙雨の彼方。梅雨だもん、仕方ないさ。*************《仕事のぐち》昨日と今日、忙しくて参った。昨日の日記はお休みし、今日の会議は欠席。入稿の際に「とりあえず紙面を造ってみて」「組んでもらわないと、イメージがわかない」と言う人が、最近は結構多い。そんな言葉を聞くと、「あなたねえ、自分でどんなページを造りたいの」「どこまでこだわって書き、どんなふうに人に伝えたいの」と聞きたくなる。一昔前なら一字一句数えて割り付けて、最初からどんなページになるのかを、編集者は予想していたはずだ。それがパソコンの発達で、組替え自由、ページ入れ替え自由、文字の増減自由。自由自在の今は、原稿に対してもこだわりを感じず行き当たりばったりで何か真剣さが不足しているようなかく言う私めが、この典型的な人でありまして………この日記の書き方を見ていると、正しくそうではありませんか。ということで、今日はチョンッ!
2004年06月08日
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子がらす台風が去って行った。寂しいな。infoseekから画像が引っ張れない。教えていただいても、理解いまいちでだめ。あ~あ。*********まず友人が手足や胸元に発疹がでて、皮膚科の診察で「毛虫の毒ですよ」という診断。草とりをしていて、毛虫を見た覚えももちろん触れた覚えもないそうだ。「毛虫が毛を飛ばすらしい」という話を聞いたが、話す方も聞く方も?????数日後、子ガラスが手足、首筋、頭髪の中に発疹が出て、そして大事なあそこ周辺にも出たそうだ。前日に中学校で草とり。しかも、子ガラスの奴めが、半袖で作業したって。友人の発疹を見ていたし、話も聞いていたので、幸い振替休日だったので皮膚科へ。いやしくも「先生」に親の付き添いはおかしいので、私は車の中で待っていた。やはり「毛虫のせい」という診断で、塗り薬を頂いてきた。待合室に「毒毛虫に注意」というポスターが張ってあったそうだ。「黒くて黄色も混じって、このくらい(2~3センチ)の毛虫だった」という説明に「名前は? 何の幼虫?」と質問したが、子ガラスはそこまでは見てなかった。何とまあ科学的でないこと!社内でも「保育園児が園の畑に行って、大勢発疹した」とか「触らなくても、刺激を受けると、毒毛を飛ばす」「その毒への抗体が体内にできて、抗体があるうちは、ちょっとかいただけで発疹が出る」などと話題沸騰。村の診療所では患者が多くて、薬が品切れ。「1~2日したら届けるから」と言われた人もいるそうだ。会社の川に面した所の草が目立ってきた。「草で死ぬ事はないから、毛虫騒ぎがおさまるまでそのままにしとこ!」と言ってはみたものの、日に日に伸びる草に、今日はがまんできなくなり、子ガラスを送ったあと、1時間ほど草とりをした。もちろん長袖、軍手、長靴だが、毒毛は綿などの布は通過してしまうそうなので、その上に雨具を着た。汗たらたら。作業終了後、急いでシャワーで、ついたかもしれない毒毛を洗い落とした。さあ、明日、これで何もなければ、いいけどなあ。
2004年06月06日
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信濃毎日新聞6月5日付け「じょうほう交差点」熱く語って交流名物ユース復活北海道2年ぶりにというタイトルで、礼文島にある「桃岩荘」というユースホステルが、2年間の休業から営業を開始したという記事。桃岩荘は、かつてニシン漁の番屋として使用していた建物を改築。1967年にオープンし6月から9月まで営業している。 夕食後、宿泊客が一緒に語り合うミーティングや、8時間かけて島を縦断するツアーを通じて、友情が芽生える家庭的な雰囲気が人気の秘密。一時閉鎖となったのは、営業開始を控えた昨年5月、裏山のがけが崩れたため。このほど防護壁工事が完了した。(後略)確か私も宿泊したことがあったっけなーと、机の中からYHの会員証を引っぱり出して見た。独身時代の、まだ初々しい(自分で言ってはなんだけれど、でもまだ心身共にぜい肉のない、青いりんごのような(* -*;))写真がまず目に飛び込んできた。こんな時代もあったんだ…と、ちょっと感傷的になりながら、ホステルのスタンプを見ていくと、確かに「礼文島 桃岩荘YH」印が2つ、押してあった。就職して最初の年の夏休み、ためたお給料で2週間の北海道独り旅(といっても予約は全部したが-YH9泊、共済組合の旅館2泊、車中泊2)に出て、その時に桃岩荘に泊った。新聞に載っていくYHの写真を見ても、もう思い出せないのだけれど、夕食後のミーティングは、広い板場でやった記憶がある。思えば、あれが番屋故の場所なのかもしれない。即席にできたグループで、満潮が迫っているのに(満潮になると、ルートが波の下になって戻れなくなる)、礼文ウスユキソウを見に行き、足首まで上がり始めた波の上を冷や汗をかきながら戻ってきたことと、利尻富士を見たくて礼文を選んだのに、雲のせいで、8合めくらいまでしか見られなかったことぐらいしか覚えていない。1人旅、1人山旅の多い私だけれど、この頃からもうその習癖は出ていたようだ。結婚してからは、夫と車で行くことが多かったが、YH会員証を見ていると、若い頃の旅の形をまた経験するのもいいなあと思う。時間に余裕ができたら、アタックだっ!************「白銀は招く」もとい、「初夏の山は招く」今日も後立山はばっちり見えた。山が「おーい、○○○よう、登っておいで」って呼んでいるように思える。「源平木」の友人と、近い将来、五龍遠見尾根を詰めて(「ただ長いだけ」だなんて言わないで。この稜線からずっと鹿島槍ヶ岳を見て歩きたいし、長いからこそ、今までまだ踏み入れてないのだ)五龍岳に登ろうという約束をしているから、その下見を兼ねて、行ける所まで行ってみようかな…。小遠見までしか行ってないから、今までは。あっ、中遠見あたりまで行ったッけ。もうそろそろ、村民登山の準備をせねばならないなあ。今年はどこに行こうかねえ。みーんな膝痛を抱えたロートルになってるし。
2004年06月05日
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《菖蒲湯》菖蒲湯って民俗行事といってもいいのかな?昔から連綿と続いているものは、みんな入れてもいいだろう。6月4日、宵節句。1月遅れのお節句の前夜、菖蒲ともぐさ(よもぎ)を数本束ねて、玄関の両側に吊り下げる。別の菖蒲をお風呂に浮かべて入るのが「菖蒲湯」。私が小さい頃は、長い菖蒲を頭にはちまきのように巻き、菖蒲やもぐさをたわし状にまいて石鹸をつけて体をこすった。菖蒲ももぐさも独特の香りがあり、その移り香が、かぜや諸病気、へび(ちなみに、今年初の御対面は6/3にシマヘビ君でした)、害虫(即ち邪悪なもの全て)から守ってくれると聞いている。これは、実家もここも全く同じ。夕方、仕事に追われながら「菖蒲、どうしようかな。畑まで行くの、いやだなあ」と思っていたら、以心伝心、先輩友人のYさんから「菖蒲、もってくぞ」と電話がきた。「うわー、助かったぁ」太い、1m以上もある香り豊かな菖蒲にもぐさをつけて、束ねてもってきてくれた。早速、会社の玄関にも吊り下げ、お風呂の中にも菖蒲を浮かべた。夕食後、菖蒲たわしで体を洗おうとしたけれど痛いので、香りが移るように軽くふれるようにして洗った。これで、かぜもひかないぞ。ご近所さん、菖蒲を吊り下げている所が1軒もなかった。どうしたのかなあ。ここまで書いて、「えっ、もしかしたら菖蒲湯って明日の夜なの?」疑問がムクムク…でも、それにしては夫も義母も入ったけど、「明日だよ」なんて言わなかったし。えっ、えっ、もし明日ならどうしよう。**(広辞苑しらべてる)**(ヤフーで検索中)**まっ、いいか、明日も菖蒲湯にすればいいんだよ。これじゃ、民俗行事が間違って伝わっちゃうなー。《教育実習おわり》最終日、またまたスーツで登校した子がらすは、何となくスーツ姿も身についてきたような…。午後7時30分生徒たちから心のこもった記念品を頂いて帰ってきた。「あ~、これで、明日とあさってだけはのんびりできるー」が、彼の全てを物語っている。明日、帰京する予定が、同級生からサッカーとバーベキューのお誘いを受けて、1日延びた。親の誘いより同級生の誘いの方が何倍も強力!子がらす先生のおかげで、いい事もあったんだ。毎朝、会社の外階段をそうじしたり、花に水くれをしているときに通る中学生数人。子ガラス先生がここの人間だとわかってからは、彼らの発する「おはようございます」が、前よりも大きくなったんだ、しかも笑顔付きでね。
2004年06月04日
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《研究授業、無事終了》昨日の研究授業も、「主眼が弱い」とか「インタビュー方式は生徒の興味をひいたが、途中で手持ち無沙汰になった組もあった」とか「教材に工夫が見られた」とか「板書の仕方に一考がほしい」とか「AETの位置も考慮に入れた方がいい」とか、いろいろ指摘をいただいたようだ。でも、おおむね好評で及第点を頂いて来た。研究会のまとめはまだもらってこないが、教頭個人の授業記録と感想を一足早くもらってきた。教頭の記録の中の「1日1日と力の伸びていくのが目に見えた。教採、大丈夫。自信を持ってぶつかってください」という言葉がうれしかったようだ。いつもなら「今日の授業、どうだった?」「まあまあ」という会話しか成り立たないのにこの日は「研究授業どうだった?」「ちょっと待ってて」・・・にやにやしながら教頭の記録を見せた。それが上記のもの。「板書の仕方だけで、一つの研究テーマになるんだから、どうってことないよ」「主眼がばっちり書けたら、実習生じゃなくて正式な教員だよねえ」とかの慰めの言葉も、全く関係ないくらい、ホッとした表情の子がらす。まあ、ごくろうさん。この夜は、親子3人とも、何となく安心して、パソコンには向かわずに、10時に眠ってしまったのです。**********《松代大本営地下壕、長野市と合同調査》午前中、2時間をもらって、松代の地下壕へ。今日は、地下壕の合同調査を長野市とやる日なのだ。先日の長野市との懇談にも出席できなかったから、今日はなんとしても参加したかった。いつも予定の組めない私めは、参加を期待されておらず、調査開始の時間ぎりぎりに姿を表わすと、「よく来れたねえ」と一応歓迎してもらえた。長野市からは観光課から3人。その中の1人、課長補佐という人の態度は、今どきまだこんな役人面・態度をした職員がいるのかと、びっくりするような人だった。片手をポケットに入れたまま、無表情、というより「なんで、俺がこんな奴らといっしょに…」という気持がありありと出ている。なぜ合同調査なのか60年経って、崩落の危険性がある場所、天井からの水滴落下によって変化をし始めている床の岩盤、危険防止の支保工の林立、立ち入り禁止の柵になっている木柱の安全性、湿気によるカビやキノコの菌類の繁殖、緊急避難口がないこと etc.1年間に13万人前後の見学者が訪れる地下壕。より安全に、しかし「原状」を損なわず、地下壕の存在や本質を正しく知ってほしい。そのためには、直接管理している長野市と、保存と公開を目指して、案内など直接壕に関わっている私たちとが、地下壕の現状をいっしょに調査し把握するのはとっても大切なことだと思う。実際は、私たちは事前調査をし、あまりの変貌に驚いて、その現状を長野市に知ってほしいと懇談し、そして今回の合同調査になったわけだが。一生懸命説明しているのに、補佐さんは途中でプイと別な所へ移動したり。説明を聞こうとしない態度があらわ。壕から出て、それこそ10分ほどのまとめの会だったのに、それにも憮然。「何か、お気づきのことございましたか」と、こちらはあくまでも礼儀正しく下手に出ているのに「先日の懇談会の見解と全く変わりありません」が返事では取りつく島もない。「それでは今日の合同調査の価値はないので。私たちも長野市にすべてやって欲しいといっているわけではなく、ここを訪れる人たちが、安全に、そしてきちんと学んでいってほしいから、そのために、いろんな面で協力したいと思っています。その辺をご理解ください」という事務局長の言葉に、若手の2人は深くうなずいている。にもかかわらず、補佐さんは…あんた、なんにも感じなかったの?「私たちも文化庁の史跡指定になるかどうか、やきもきしているんです。指定になれば、保存方法ももっときちんと別な方法を考えられると思う。指定にならなければ、今度は長野県や長野市が史跡指定すればいいわけで、文化庁の指定待ちというところです」最後に、補佐さんはこう発言された。この言葉も長野市からは何度も聞いている。補佐さんの嫌そうな顔を無視して「これからも、ときどき、ごいっしょに調査や懇談を続けていただきたいと思います」で結んだが、解散になってから文句があふれだした。「なに、あれ? あんなお役人面した人、まだいるんだねえ」「私たちだって長野市民だよね。緑のテーブル(だったかな、市民からの苦情などを受け付けるところ)に投書すべきだよ」「若いお二人、今回の合同調査実現のために私たちとの間に入って苦労したんでしょうね。かわいそうに」「あの若手さんたち、最初は表情良かったのに、地下壕出てくる頃には、暗くなってたよ」私は市民ではないけれど、我が村にも1人いたなあ、あんな人が。でも退職したけど。とまあ、いろいろあったけれど、合同調査はやはり1ステップの前進だろうな。60年経った地下壕は、岩盤が堅いとはいえ、変質しはじめる年数だと、地質学者も指摘している。大切な戦争遺跡、「原状」を保全しながら、次世代につなげていかなければ。(6/4記)
2004年06月03日
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子ガラスの教育実習もラスト週に入り、明日はまとめの研究授業だそうだ。現在完了形を理解させるために、ペアを組み、在外国の有名スポーツマンと、そのリポーターに分かれて、インタビュー形式で学ぶのだそうだ。現在完了形なんて、とうに忘れてしまったお母だけれど、活発で楽しい授業になってほしいと思う。中田、小野、松井、杉山マルコスなど、インターネットから写真を探し出し、プリントアウトしてお面を作っていた。中学3年生にお面は通用するかなと思ったけれど、2週間彼らと生活してみて、出てきた発想だとのこと。毎晩家での準備は深夜を過ぎる。そして今日は、学校から帰宅したのが、午後9時だった。子ガラスも大変だけれど、指導していただく先生も大変だ。自分の仕事以外に実習生の指導もしなければならず、感謝。(それに比べて、家のお父。アルコールが入っていたせいもあるけれど、「こんなに遅いなんて、まだ学校にいるのか心配だから、電話してみる」と大騒ぎ。そんなことしたら、子ガラスが迷惑するだけだからと、やっと思い止まらせる。まあ、子ガラスも朝出るときに一言遅くなる旨を言うべきだよね)今、またまた夜中の零時になろうとしているが、最後の指導案の確認をしている。指導教諭の撮ってくれた授業をしている子がラスの写真が印刷された指導案の表紙。予想される授業の流れや、座席表に記入された各生徒の特徴や指導ポイント……なんか、ジーンと来た。「○○が先生かあ…」3週間やそこらで上手な授業なんてできるはずがない。だから、元気な楽しい授業をやっておいでよね。今夜くらいは少し早めに寝なさいよ、子ガラスくんよぅ。
2004年06月02日
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朝、包丁で左手人指し指を爪の部分もいっしょに切ってしまった。おかげで、人指し指での入力を中指でカバー。時間がかかること。*********☆あなたの町の新しい名称☆新しい町の名称候補信州西山町=しんしゅうにしやままち信州町=しんしゅうまち信州美山町=しんしゅうみやままち西山新町=にしやましんまち西山町=にしやままち望岳町=ぼうがくまち名称アンケートはがきの締きりまであと6日。合併するかしないか決まってないのに、なぜここまで準備するのか、村民はみな疑問。町名募集にどのくらいの応募があったのかも不明。(これは私の情報収集不足かも)応募せずに批判してはいけないが、ピンとこない名前ばっかり。リンクさせていただいている「睦ちゃんさん」のところのように「四国中央市」というダイナミックな名前がいいよね。さしずめ「北アルプス山麓町」とか、「鹿島槍ヶ岳正面町」もいいよな。「自然いっぱい町」なんてのはいかが。「自然息吹き町」「かわせみ通り町」「木漏れ陽町」うん、いい、いい。ああ、応募すれば良かったかな。いやいや、遊んではだめ。貴女は自立志望でしょ。おさだまりの合併方針で、おさだまりのすりあわせで、おさだまりの町名に…詰まるところ、おさだまりの脳みそなんだ。
2004年06月01日
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