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今日で8月も終わり。もう今年もあと4ヶ月。時間の流れるのって本当に早い。8月に受けた(もちろん子ガラスが)2つの教員採用試験。見事、長野県は1次で落ちた。そして、なぜか京都市は2次まで行った。結果は9月下旬にわかる。長野県の通知は「2次試験の必要はありません」という、なんとも人をくった文面だった。子ガラス曰く「やっぱり、オレは長野には縁がないなあ」清明神社の占いも、当てにはならないね。4年になったとき阿倍野清明神社で占ってもらったら「あなたは長野に帰った方がいい」というご託宣をもらったのに。長野も京都も講師登録をすれば、勤務はできるそうだけれど、講師になると「いい先生ほど合格から遠のく」とも聞いた。学校の仕事を必死にやれば、当然試験勉強はできないからだ。先日の電話で「研究者になるのもいいなあ」と言い出した子ガラス。「認知意味論」なるものをテーマに卒論に取り組んでいる。担当教授などと頻繁に接し、その生活なんかを見たり、研究することの楽しさを感じ始めているらしい。それなら専攻科なんかに行かずに最初から大学院に行けば良かったのにィ。私の頃は、大学だって高嶺の花だった。4年間を過ごして、教師になるかならないか迷ったけれど、教育実習で迷いは氷解し、卒業…。今の子ガラスに比べれば、道の数は少なかったように思う。いろんな道が目の前にあるからこそ、迷う。迷えることが幸せなのかもしれない。迷って迷って、迷うのはいい。でもあることに首をつっこんでは「ああ、違うなあ」でまた別の道の繰り返しでは困る。下手すれば一生それで終わってしまう。でも、急ぐことないか。一生をかけて自分のものを見つけた方がいいのかなあ。頭ではそう思うけれど、現実はなかなか…。まあ、体重増加の分だけ、「すね」も太くなっているから…ウウー 涙夏の地下壕特別見学会より
2004年08月31日
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初めてのS大学のワンダーフォーゲルフェラインの同窓会が、松本市の美ケ原温泉で行われた。参加者は25人。全員だと何人になるのかは、私は知らない。オールS大(S大はたこ足大学で有名。医学部と人文学部は松本市、繊維学部が上田市、農学部が伊那市、工学部と教育学部が長野市。で、1年生の時に全員が松本市に集まり教養部生としていっしょに過ごした。ちなみに、田中康夫県知事の父上に心理学を学んだ記憶がある)組織で、県外出身者が多いせいか、今長野県に住んでいるのは、私一人だけだった。「フェライン」て何だ?って思うでしょ。私が3年のときに、S大ワンダーフォーゲルが分裂・解散して新たにワンダーフォーゲルフェラインを立ち上げた。フェラインはドイツ語で「クラブ」という意味なのだそうだ。略してSUWVV。3年だったからもうどっちでも良かったのだが、部員が1人、冬山で遭難し行方不明という事件があり、それをめぐって「ワンゲルは山岳部とは違って、冬山はやるべきでない」と言う点で1本化できずに解散。工学部が中心になってその意見を主張し、教育学部はそれに引きずられた感がある。農学部や繊維学部にあった道具を全て長野地区にまとめてしまったために、その2学部は土木工事のバイトをしてテントなどを新たに購入したそうだ。今回の同窓会で初めてそのことを知った。分裂・解散しなくても、今なら別の方法も考えられると思うけど、あの当時は何度も松本市に集まって話をした。若気の至りみたいな点も多かったのだろう。だから、SUWVVとしては、私たちは上から3番目の学年となる。美ケ原は、毎春、新人歓迎合宿が行われたところ。教養部のある旭町キャンパス(標高約600メートル)からキスリングをかついで、美ヶ原王ヶ頭(2034メートル)まで登るのが新歓。もう遥か昔のことでよく覚えていないんだけど、頂上近くにやたらヒメギフチョウがウジャウジャ飛んでいたことだけ記憶に残っている。今回も、2日めに合宿なみの早朝5時に起きて美ヶ原に登るという、一応案はできていた。南は鹿児島、北は…、おっ岩手県がいた、岩手から、全員集合したのが28日の午後5時。まずは、近況報告。みんなの話を聞いていると、曲がりなりにも山に一番親しんでいるのは私かもしれない。縦走とかはしていないけれど…、もっとも「住んでいる所が山だろ」とか言われたが。Tさんが言った。「合宿のとき、ロープウェイを使わずに死ぬ思いで登ったのに、ロープウェイからハイヒールをはいた女の人が降りてきた。そのとき、オレもいつかはああいう身分になりたいと切実に思った。そして、今はそういう山をやっている」これには一同爆笑。合宿の思い出やら山行の話やらで、一次会はあっという間に時間が過ぎる。広間から別の一室に移り、またまた延々と。でも意外とみんなまじめなんだ。もちろんお酒はぐいぐいと飲むんだけど、お酒に飲まれるということはなかったようだ。私は食前酒に出たナイアガラの白ワインが気に入って、後輩のI君が買っておいてくれたのを飲む。いや、雰囲気に酔いながら、量は控え目。なんせ、慢性肝炎なんだぞー。あれから何十年もたつのに、こうして集まると、学年の序列はそのまま生きているからおもしろい。そんなに大きく体型の変わった人もおらず、白髪と薄くなった人は結構いたけれど。2日め。翌日の早朝登山はどこへ行ったのやら…。で、5時に起きた者だけで、車で美ヶ原に向かう。霧ヶ峰・蓼科方面は雲海の中に浮かび、北アルプス方面は、山頂と裾野に厚い雲を抱いていた。高原はすっかり秋の風情で、マツムシソウの花ざかり。みんなが見たがっていた常念岳もすっかり雲の中。ここからなら、槍ヶ岳もきれいに見えるはずなのに、正しく♪槍や穂高は隠れて見えぬ 見えぬあたりが槍穂高~ だった。牛と戯れて、ホテルに帰ったのは8時。のこのこ朝食に現れた輩を優越感のこもった眼で…鹿児島からかけつけたU君は、松本空港から帰るために、ホテルを8時30分に立っていった。同じ鹿児島からきたI君は、スーツケース代わりの風呂敷包みを持って、ワインレッドのすてきな車で帰って行った。近間の私は最後まで見送って、同年の女性2人といっしょに、長野までドライブとおしゃべりを楽しみながら帰る。寝不足が応えて…ほんとに短い時間、学生時代に戻ったような、いや完全に戻っていたかなあ。
2004年08月30日
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今日は、給食の時間を20分ほど頂いて、中学校生徒会の正副会長と園芸委員長の4人にお話しを聞いた。えっ? なんの話かって?村を通るオリンピック道路は1998年のオリンピックの際に志賀高原と白馬村を30分で結ぶという歌い文句でできた道路だ。30分は無理だけど、この村にとっては便利な道路となった。けれど、糸魚川と中央道や長野道を結ぶルートの一つであり、とにかくトラックが多い。そのせいかどうか、車の待避所や沿道にはいつも袋に入ったままのごみが捨てられ、「拾えども拾えどもわが道路きれいにならざる」状態が続いていた。そこに、プランターの行列がこの7月頃からお目見えした。その主が、この村の中学校生徒会という訳なのだ。生徒会での取り組みを聞いて、ごみと環境を考える会の通信「落とし文」に載せ、全村の人に知ってもらい、生徒会を活動を側面から支えられたらという願いを持って、インタビューをお願いしたのだ。生徒会活動3本柱の1つに「清掃美化」を掲げてある。まあ、今どきの中学校ならばそうだろう。校舎内外の清掃美化が、通学路の清掃美化へ、さらに村内へと広がって清掃美化活動を展開していくうちに、オリンピック道路にも視野が広がり、「ごみは拾うだけだとすぐに元にもどってしまう。花を置けば、そのきれいさでごみを落とさないだろう」と考えてプランターを設置したそうだ。ここが偉いところで、私達の会でも実は「花でも植えて常にきれいにしていればそこにごみを落とす人はいないだろう」と考えたのだが、考えただけで終わってしまったのだ。プランターを置いた後の管理も、園芸委員会を中心に水くれや草取りなどを続けたそうだが、この猛暑では、水くれの大変さは想像してもあまりある。この活動の話も、とってもすばらしいのだが、もう一つ、とってもすてきなものが彼らにはあった。それは「笑顔」。何を聞いても、にこにことはじけるような笑顔で答えてくれる。若い人の笑顔を見ると、こちらまでエネルギーをもらって、前向き思考になるから不思議だ。こんな生徒たちがいるこの村は、すごい宝物を持っていることになる。こんな生徒たちを育んでいるのは、もちろん家庭であり、学校であり、友人であり、そしてこの村そのものなのかもしれない。4人の諸君、すてきなお話とすてきな笑顔を、どうもありがとう。さて、あとは、9月1日の発行で出せるよう、「落とし文」作成にがんばらねば。追記実はこの子たち、子がらすが教育実習をさせていただいたときの担当クラスなのだ(3年生は1クラスしかない)。こんなすてきな生徒たちと実習したのでは、もうイチコロで「教師になりたい」と思ったのも、ふか~くうなずけるよ。
2004年08月25日
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Tさんの自分史、読み直して、誤字脱字の再チェック。ソ連が参戦した8月9日の数日前、老黒山という旧満州の地点から大隊本部の指令で、最後に移動したTさんの中隊は、大隊に合流できなかった。行き合う他の部隊に聞いても埒があかず、中隊長は自分の判断で方向を決めたというくだりがある。校正の時にTさんに聞いた。「通信機がないんですか。最初の指令が変更になった時はどうするんですか」「通信機は大隊本部に1台あっただけ。連絡専門の兵隊が伝えてくる」えええっー!昔よく見たアメリカの戦争もの『コンバット』なんかは、ほんとうに少ない人数でもきちんと通信機を持ち、煩雑に連絡しあって作戦を遂行していた。連絡を取り合わないで、どうやって一つの作戦ができるのだろうか。いくら物資が不足しても、最低必要なものじゃないだろうか。しかも、このTさんの部隊は輜重隊。命をつなぐこの部隊との連絡がとれなくなったら、戦う前に餓死じゃないか!(Tさんたちはおかげで、武装解除された時に、食糧をみんなで分配して、それは有難かったそうだけど)好き勝手に行動して、勝てるわけがないよ。ニューギニアやインパールや、あちこちで食糧や弾丸や、そして指令を断たれて、地獄を見ながら亡くなった兵士がたくさんいる。「靖国」で会った彼らは決して黙って英霊になっているわけではないだろう。怒れ! 怒れ! 怒れ!*****女子レスリング銀メダル、伊調ちはるさんの表情と、銅メダル、浜口京子さんの表情との違いは、どこから来るのだろうか。
2004年08月24日
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22日、叔父が叔母に抱かれて帰郷した。長野にリンゴ狩りに来たときの、にこにこした顔で真っ赤なりんごに手を伸し、首には、退職祝いに私がプレゼントしたマフラーを巻いて。昨年秋に故郷の志賀高原で、小学校の同級会が行われ、参加するつもりでいた叔父だったが、パーキンソン病が進み、1人で来るには不安があって断念。今年2月11日に、誰もが予想しなかった突然の死で、ついに故郷には来れないまま別の世界に旅立ってしまった叔父。その気持を汲んで、叔母が叔父の遺影を抱いて帰郷してくれた。1日めは、叔父が学んだ信州大学、卒業間際に結核と診断され、教職の夢が断たれた時に洗礼を受けた教会、須坂高校、高校や大学の友人たちと散策したであろう城山公園や臥竜公園…等々。そして叔父の父母(私の祖父母)、兄(父)、甥(弟)が眠っているお墓参り。2日めは、志賀高原。朝から雨が降っていたけれど、高原に入るとと徐々に雨は止み、途中からは青空に変わった。叔父がなくなって半年。叔父にとっても叔母にとっても、一つの気持の区切りになってくれるといいな。全く予想もしなかった「死」で命を断ち切られた叔父…予想もしなかった「死」で半世紀を共に過ごしてきた生活を断ち切られた叔母…私だって、最後に見舞った病床の叔父を姿を思うだけで、「なんで!」と悔しさが溢れ出てくる。「死」はいつも突然に来るものかもしれないけれど、納得できる「死」ではなかった。でも、でも、叔父が帰りたかった故郷に戻り、みんなで故郷の自然に入り、たくさんの思い出を語って。そんな私達を、別の世界のみんなが見て…どちらも、少しは心が平らになるかもしれないそれを時間が後押ししてくれる決して忘れはしないけど、でも、時間は悲しみを癒す強力な助っ人ではある…
2004年08月23日
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図書室+図書委員会主催の「夏のこわ~いおはなし会」が午後7時30分からあった。私は図書委員を3月で止めたけれど、人手がいるということで、ボランティアでお手伝い。本当のスタッフは昨日と今日の午前中にも出てお化け屋敷の準備をしたそうだ。何をそんなに準備したのかなと思っていたけど、行って見てびっくり。公民館の中を上手に使ってセットが組まれ、やっぱり委員が若手になったせいかななんて、うれしさ半分、ひがみが半分…なんてね。(こうして図書委員体験者が増えることも、図書館誕生への一つの道なのだ)まず、和室で元館長さん得意の「こわ~いお話」の素語り。これだけでも充分に恐怖を与えられた子どもたち(小学校3年以下)は、数人で、又は親同伴で、ずきんおばけの案内で、恐怖の扉を開けるのだ~~~クラゲおばけ、人おばけ(人がそのままメイクして立っている)、ちょうちんおばけ、額縁おばけ、化け猫、ミイラ、こちょこちょおばけ(羽根ぼうきで足元をこちょこちょ)、火の玉などなどがうまく配置されている通路や部屋を通り過ぎる。効果音も視聴覚委員会所蔵のものを使ったので、ばっちり。私は、ちょうちんおばけを担当。ちょうちんを出すタイミングがわからずに(子どもたちが足音を立てずに入ってくるんだもん)、出しっ放しにして、スイッチで点滅させたり…したものの、あんまり効果的でない。結局、天井の柱の陰までひっぱりあげておいて、壁から黒子になった上半身をせり出して入場を確かめて、子どもたちのはるか頭の上からちょうちんを急激に下げて目の前におばけを出現させる。結構効果があった、ひッひッひッ幼稚園児は結構泣き出すんだよねー。入口でああでもないこうでもないと、しゃべりまくるおませな女の子も、おばけを楽しませてくれる。【格言 おしゃべりは自分の弱さを露呈させないカムフラージュである】乗り乗りの親は、子どもたちに上手に恐さをプラスしながらお化けの前を通りすぎてくれる。自分がこわがってしまい、子どもそっちのけで、「キャーキャー」叫ぶ親も。そんなの見ると、ホントにこんなので恐いんだろうかと、逆にこちらが恐くなってしまう。60人くらいの子どもたちが通り過ぎるのに、約50分。疲れたぁー。腕が疲れたぁー。ミイラ男なんか、体中に巻いた木綿布がぐっしょり汗で濡れていた。子どもたちも楽しんで、お化けたちも、大いに楽しんだ。これは定番になりそうだぞ。毎年、夏のお化け体験もいいものだ。時間が予定より遅くなったため、用意してもらった打ち上げビールを飲めずに帰らなければならなかった…恨めしやぁ~~~~
2004年08月21日
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やっとやっと20000アクセスになりそうです。20000番目の方、ご申告ください。おやきをプレゼントしちゃいます。
2004年08月20日
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SBCスペシャル「常念岳・夏」夜6時55分から約1時間。朝からこの時間をパソコンの横に張って、忘れずに見るように努力(?)。夫にもしつこくPRして…。常念岳の山頂は、実はまだ一度も踏んでいない。学生時代、ワンゲルの山行には参加できず、以後松本市に行くたびに安曇野の西の空に袈裟を広げた「常念坊」を見上げていた。4年程前、村民登山の候補地になり下見に行ったが、とても日帰り山行では無理という結論で西穂高に変更になった。この下見は4人で行った。須砂渡から約5時間半、ほぼコースタイムどおりに小屋のある常念乗越に到着。常念乗越から見た槍ヶ岳の鋭角的な穂先が印象的だったが、すぐにガスの中に隠れてしまい、穂高連峰は見えたのかどうか記憶にない。乗越から山頂に向かったが、夫がまずリタイヤ、私は半分程のところでリタイヤ、一番若いMさんも私と前後して引き返し、韋駄天のIさんだけが山頂まで往復してきた。が、が…、思わぬ事態が発生。この乗越から歩いた時間に比例して、下りで膝痛の辛さを味わうことになったのだ。4人とも蟹の横ばいみたいな歩き方で、登りに近いくらいの時間を要してやっとやっと車にたどり着いた。薄暗くなった須砂渡の林に、ササユリの花がふわーっと浮き出るように咲いていた姿を今でも覚えている。普段の車至上の生活と、年齢を加えた筋肉の弱りの結果だろうが、私はこれ以後、下りでは必ず痛みが伴うようになってしまった。村民登山で常念岳は無理だという大勢を、「いや、行ける行ける!」とごり押ししたYさん(しかもYさんは前日遅く参加キャンセル)を恨み(?)、今でも山岳会の例会などでアルコールが入ると、みんなで、笑いながらYさんを揶揄する(私なんかは笑いに乗じて、かなり真剣に批判しちゃう)。そういう思い出の山なのだが、もう一つ、この山の水量の豊富さには心底びっくりした。6月の梅雨シーズン中だったということもあるだろうけど、山の中腹までこんなに水量の多い沢沿いを歩くということが今までの山の範疇にはなかった。その一点だけで、常念岳が大好きになったのだ。最後の水場付近水が豊富ということは、生き物すべてが豊富で、特に森林の豊かさ…。松本市民がこの山に深い親しみを覚えるというのは、朝夕目にするという理由だけでなく、この山の水が山麓に住むヒトをも潤しているというそんな点にあるのかもしれない。昨日のテレビでも、最後の水場の風景が出ていた。休憩している人も多かったが、やっぱり圧倒的に中高年の女性が多い。今夏の最盛期には定員90人の小屋に500人以上も宿泊したというから、その凄まじさと、常念岳の人気の高さを伺える。こんな時期には行きたくないが、ゆっくりと2~3日を稜線で過ごしたい。やっぱり近いいつか再々度挑戦すべきかなあ。3度めの正直ということもあるし。高山蝶の研究で知られる田淵行男さんも、この乗越周辺を研究フィールドにしていたそうだ。テレビに映った穂高連峰や大キレットの姿もこびりついている。夫はいまいち乗り気ではなかったが、まあまだ彼は無理だろうし。誰か相棒を探して登る画策をしていこう。
2004年08月19日
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高原野菜の苗-御代田町仕事で軽井沢へ出張。ドライブ好きな私にとっては、るんるんの出張。小諸まで高速で、小諸からは浅間サンラインで追分まで。もう軽井沢は混んではいないだろうと思いきや、追分と塩沢湖で渋滞。渋滞も楽しからずや…?!(時間に余裕のあるときは、こういう気分になる)Tさんの自分史の校正を頂きにきたのだが、独り暮らしのTさん(男性)のために、おやきと卵焼きときゅうりのピクルスときゅうりの粕漬け を持って、まるでピクニック気分。渋滞のために到着したのは、お昼を回っていたけれど、Tさんの笑顔に迎えられて早速昼食。A子さん(奥様)のこよなく愛した広い庭は、少し荒れ気味だったけれど、季節の花が咲き、チョウが飛び、小鳥のさえずりが聞こえて、良き軽井沢の雰囲気が残っている。私の亡くなった実父と1才違いなので、父親と話しているような気になってしまう。3時間ほどかけて、校正を確認し、あとは四方山話。庭に飛んでくるチョウも、今年は少なかったこと。遠くに出掛けたときは、食事を作るのが面倒なので駅で「峠の釜めし」を買ってくること。必要にせまられて、蒸し器なんかも使えるようになったこと。A子さんに先立たれたことは、Tさんにとって大誤算だったこと。男やもめに何とやらと言うけれど、Tさんの寂しさが伝わってくる。Tさんは満州生まれで、内地の大学を出、満州映画会社に勤めていて召集。ソ満国境で輜重大隊に属し、直接敵と戦ったわけではないと言われるが、読むだけで青くなるような緊張の場面にたくさん遭遇されている。シベリア抑留の4年間、満州生まれの内地生活などが、繊細な表現で書かれている。読むたびに、胸がドキドキしたり、チクチクしたりのこの自分史は、教えられるものがとっても多い。千葉の館山で開かれる「戦争遺跡全国ネットワーク大会」のおみやげ話を約束して、軽井沢をあとにする。浅間山も裾野しか見えず、反対側の八ヶ岳も同様。軽井沢あたりは、ペンションとかお店の間に、荒れた土地が結構多く、御代田町まで行くと、キャベツとかレタス、もろこしなどの高原野菜畑が両側に続く。そして、小諸に入るとずーっと水田。同じ道路沿いでもおもしろいなーと思う。会社を抜け出した仕事は、私、だあい好き!
2004年08月18日
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仕事が暇になってきたので、久し振りにおやきを作った。具は「ささぎ(ささげ)」と「なす」で、どちらにも「みょうが」を刻んで入れる。風味が出て一味違うのだ。で、今日のおやきは更にみょうがづくしで、みょうがの葉(ちょうどチマキに使う笹の葉と同じくらいの大きさ)をおやきの回りに巻いて蒸かす。このあたりでは、七夕の日(8月7日)にこの「葉巻きおやき」を作るのだが、そんな頃は忙しくてやっちゃあいられない…といわけで。ささぎとなすは頂き物、みょうがは裏の庭から、もちろん葉もいっしょに採ってくる。葉を水洗いして水気をふきとる。水を入れて耳たぶくらいの柔らかさにして1時間ほど寝かせた粉(小麦粉)を適当な大きさにちぎり、みそ味をつけた具を丸め込んでいく。普通ならそのままで焼くなり蒸かすなりするのだが、今日のはその回りをみょうがの葉でぐるりと巻いて、蒸し器に入れる。10分から15分で蒸し器から出すと、鮮やかな緑の衣装をまとった「おやき」の出来上がりというわけだ。みょうがの葉も、笹の葉といっしょで、防腐剤の役目があるのだそうだ。夏場の「おやき」を長持ちさせる昔からの知恵だと教わった。ささぎの「おやき」は、義父の大好物。作るたびに食べられたらうれしいだろうになあと思う。今日は夫も「おやじ、ささぎのおやき、大好物なのになあ」とつぶやいた。おやきを作るたびに、「ああー、私も西山の人間になったのかなあ」と思う。それがうれしい時と、溜め息まじりの時と…。でも、今日の「みょうがづくしのおやき」は、我ながらきれいに、上手にできた(画像がないから、何とでも言える!)。みんなが来る前に、こっそりとささぎのおやきを1個、ペロリ。みんなが来てから知らん顔して普通に食べたから、いつもより1個余計で、合計3個も食べてしまった。食欲の秋が、早くも到来か……(^O^;)
2004年08月17日
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オオカメノキの実昨日、地下壕から実家に直行し、一泊。送り盆の前に母とドライブ。私が行かないと、足のない母のために、なるべく買い物(大きなもの、重いもの)をしたり、ドライブをする。送り盆の今日は、遠出はできず、2人のお気に入りの志賀高原の一沼と、初めての東館山に高山植物を見にいくことにする。しかも、家を出る直前に、電話があり、亡くなった弟の友人が2人、お線香をあげに来てくれるとのことで、ますます時間は忙しい。一沼では、トップの白い蓮の花。この花は、つぼみは水中にあって、花びらが開きそうになると、水上まで茎が伸びてくるらしい。水中にはまだたくさんのつぼみがあった。蓮池には、ピンクの蓮が。でも、蓮池は人が多くてね。高天原からリフトで東館山の植物園へ。これが失敗。発浦からゴンドラであがった方が直接植物園に行けるので、母にとってはこの方が良かった。リフトの終点からかなり急な木道を通るので、母は途中でリタイヤ。仕方なく一人で行き、急いでたくさんの花たちをカメラに納めた。季節的にはちょっと遅く、夏の高山植物はもう枯れていて、秋のそれが多かった。この植物園では大した労をかけずに、駒草はじめ、バイケイソウやミネウスユキソウなどをたくさん見ることができて、体や足の弱い人にはいいかもしれないな。東館山のりんどうリフト乗場で待っていた母と合流し、下りのリフトに乗る。ヤナギランの群生は、先程の植物園のものよりもずっと生き生きしている。ハハコ草も大群落。母はそれを見て「あの花、"カヤイブシ"っ言ってさ、昔はいぶして蚊を寄せ付けないようにしたもんだよ。本名はハハコ草っていうのかぁ」と感慨深げ。実家の町の真中を流れるY川の川原にたくさんあったそうだ。「今はあんなに川も整備されたけど、昔はね、松の木なんかもあって、ジコボなんかのキノコもたくさんとれたもんだよ」「ふーん、松の木は覚えていないなあ。でも、川で泳いだ覚えはあるよ。かじかもいたし」リフトの終点から、湿地帯を回る小さな遊歩道を歩く。水芭蕉の葉っぱはおばけになり、足元からノバトが飛び出して…ここで、うれしいものを見つけた。ウメバチソウの大群落。私はこの花が大好きなのだ。清楚で。こんな所にこんなにたくさんあるなんて。まだつぼみの方が多くて、あと3~4日で開いたら、きっとすばらしい風景になるだろうな。時間に追われて帰宅。テレビとデジカメをコードでつないで、さっき撮ってきた画像を大きな画面で母に見せた。テレビで見ると、多少のボケは気にならず、植物園まで行けなかった母も少しは楽しんでくれた。友人たちとおしゃべりや思い出を楽しんで、夕方5時、送り盆。*************仏壇のろうそくの火で、樺を家の前で焚き、その火を小さなちょうちんの中のロウソクにつける。「お盆、帰れ~、お盆、帰れ~」と称えつつ…お墓までそのちょうちんを下げて、家に訪れていた仏様の目印にしつつ、お墓まで送っていく。再びそのちょうちんのろうそくの火で、お墓の前で樺を焚き、お線香をつけて供える。仏様はまた天国に戻っていくのだそうだ。「お盆、帰れ~、お盆、帰れ~」仏様をお送りした私も、いそいで家に帰らなければ…「また、来るねー」「車、多いから気をつけろー」なんか、忙しいお盆だったなあ…。
2004年08月16日
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8月15日日本が敗戦した日。午前9時、家を出て、松代の象山地下壕へ。本当は停めては行けない象山神社の駐車場へ車を停めようと行ってみたけれど、10時前なのにすでに満杯で、道路まで不法駐車している。あきらめて、市営駐車場までもどる(最初から清く正しく?行けば、問題はなかったのに…)。カメラ(フィルム)と、案内するときの資料を持ち、首から名札をぶら下げて、歩き出す。途中で、懐中電燈と、名刺を忘れたことに気づく。まあ、いいや。私は大勢の人数を案内するのが苦手だ。人数が増えると、どうしてもガイド風になってしまって(ガイドだからいいんだけどサ)息切れがしてくる。空気を吸う時間がとれなくて…?最近、高校生とか中学生とかのクラス単位のガイドをしていないせいもあるかな。うまい具合に、地下壕入口にはすでに入ってきたばかりの人がほとんどで、これから入ろうとする人はたったの1人だった。よし、彼を今日の最初の人にしよう……神奈川から来たその人は、以前に地下壕を訪れた先輩から「長野に行ったら、必ず地下壕を見てこい」と言われたそうだ。うれしい伝達をしてくれたものだ。最初の遺物「電線の配線板」(なんの変哲もない棒が岩の穴にささっている)のところで、「この板にまずガイシを付けてそこへ電線をつないだんですけど、ガイシって知ってますか」と話すと、「ええ、私はトンネルの中に電線や電気を布設する仕事をしてるんですよ」という返答が返ってきた。そして「トンネル工事では必ず電気を布設しなければならないということが、当時も法律で決まっていたはずですから、当然つけたんですよね」とも。「ええ、坑木などで、天井を整備したところから、電線を通し裸電球をつけて行ったようですよ」じつは、この裸電球、私の村でも見つかっている。請負工事をした土建屋さんがずっと保管してくれていて、平和祈念館建設が浮上した頃に、寄附していただいている。確か「帝国電燈」という銘柄が入っていたはずだ。早く祈念館ができて、それらを展示できればいいんだけれど…。本筋に戻って…この神奈川県の30代の男性は、この松代から出されたズリ(岩を碎いたもの)が、戦後東京へ運ばれ、東京が復興される際の道路の下の砂利として使われたことにショックを受けたと言われた。そのズリには、地下壕で働いた朝鮮人・日本人の汗や涙や、そして流された血や、亡くなった人の思いが混じっているのだから。1人を案内しているはずだったのに、途中からどんどんくっついてくる。申し訳なさそうに聞いているので「今日はボランティアで案内してますので、よろしかったらいっしょにどうぞ」と誘うと、やっと安心したようにいっしょに歩く。くっつく人、離れる人、様々…。約1時間20分くらいで入口に戻ると、神奈川の彼は「いい日にここに来て良かったです。ただ入っただけでは、この地下壕の意味がよくわからなかった。ありがとうございます」と挨拶されて帰って行った。こう言われるのが、本当にうれしい。下手なガイドでも、ないよりはずっとマシなのだ、うん。さてさて、午後から戦争展の写真撮り直しと、リレートーク撮影のために行く予定でいたが、あとからあとから見学者が入ってくる。今やっている3人ではとっても手が回らない。まっ、いいか、戦争展の方は誰かが撮ってくれるだろうと、午後も地下壕にいることにする。いや、実は地下壕の方の写真も先日失敗しているので、これも撮り直さねばならないのだ。もう1回、今度は茅野からいらしたご夫婦を主体に、くっつきの人たちと壕を歩く。今日地下壕を訪れる人は、観光のついでの偶然という人は少なく、ほとんどが「地下壕に来たくて来た」人が多い。この茅野のご夫婦(30~40代)は象山地下壕を見学したあと、舞鶴山(天皇御座所)の方も見たいということで、ごいっしょする。当時の建物がそのまま地震観測所として使われているが、1号舎(天皇の地上御座所)、2号舎(皇后の地上御座所)、3号舎(宮内庁関係者等)の高さが順に低くなり、さらに三種の神器を格納する予定だった「賢所」の高さは、1号舎よりも遥かに高いということに、とても興味を示された。「帰ってから、友達にもぜひ見学するようにって伝えますよ」うれしいな…。再び象山地下壕に戻り、ガイドのお仲間の様子を写真に撮って、それやこれやしているうちに、壕を閉鎖する4時近くなり…。ああー、疲れたぁーでも、心地よい疲れではあるよねぇーしかも、書いていただいた感想には、地下壕見学から、憲法9条の大切さに言及した人も多くて、うれしいよ。と4人のガイドは満足。こうして8月15日の、特別見学会は終了したのです。
2004年08月15日
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信州西山町(しんしゅうにしやまちょう)だってどこの名前なのって言いたくなるくらいに、村民が冷めている。住民アンケートの中では一番多かった名前だそうだ。もっとも、アンケートに答えた人の割合は発表されていない。合併協議会(実際は法定協議会)で決定時期を1回遅らせて検討し、予定より送れて決定。この決定を受けて、今度は各町村の議会で来年正式に決定されるそうだ。その前に隣村と隣町では合併是非の住民投票が行われる。協議会では「西山」という名が、地域から発生したものではなく、善光寺平周辺の人達によってつけられたものであるということに、少しひっかかりを持つ人もいたようだ。最近でこそ、おやきで有名になり、西山大豆とか西山豆腐などがブランドとして出てきているが、少し前は「西山から嫁はもらっても、西山に娘はやるな」という言葉が歴然としてあったそうだ(そんなこと知らないで私は来てしまったーッッッ)。また、O村出身ということは、できるならば言いたく無かったそうだ。まあ、今はそんなことないだろうから、西山と付こうが付くまいがいいんだけど。新しい町の名前が決まって、さあ、みんなで進むぞーっていう雰囲気がない…。戦争展始まる13日から15日までの予定で戦争展が長野市で始まった。実行委員に名前は出したものの、幽霊で、結局なにも協力できず、口惜しかった。せめて、写真をと思って、性能のいいデジカメを持っていったけれど、使いこなしていない私の撮った写真はろくなものがなかった。反省。明日もう一度行かずばなるまい。13日、「午前中、戦争展に行ってくる」と言い置いて家を飛び出す。田舎の、しかも長男の嫁が、迎え盆の日に出かけるなんて、ものすごい勇気がいるのだ。そういう類の勇気の積み重ねが、開きなおりに変わり、かなり強くなったはずなのに、まだまだ弱気がポロリとこぼれる。戦争展はお盆をはずして欲しかったよなあ。初日、オープニングと、フォトジャーナリストの森住卓さんの講演会「イラク・占領と核汚染の日々」と、一般展示と若者トークがあったが、講演会のみ聞き、あとは会場の写真をパチパチ撮りまくり、駆け足で家へ。森住さんは撮った写真をスクリーンに映しながら、イラクの話をされた。☆森住さんも一時(2時間くらい)拘束されたが、ガイドが戦士団に彼のしていることを必死に説明し、内容がわかると解放されたそうだ。しかも戦士団は「すまなかった。あなたの取材したいところがあったら、私たちが護衛するので教えてほしい」とまで言ったそうだ。☆イラクでの核汚染が進んでいる。・劣化ウラン弾の放置や、劣化ウラン弾によって破壊された戦車や建物の放置による汚染・フセイン時代の核施設に保存されていた天然ウランの持ち去りによる汚染 フセイン政権が倒れたときに、核施設の関係者は米軍にその施設の厳重管理を何度も言ったにもかかわらず、とりあげず、まず第一に彼らが抑えた場所は「石油省」だったそうだ。このことからもブッシュは何のために戦争をしたかは明白。 核施設内にあるドラム缶やプラスチック容器がほしくて、住民はもちだしたが、中に入っている黄色い粉(天然ウラン)を外に捨てた。中味が何であるかを知らずに。急性原爆症や白血病などが多発。その粉は空中を舞い、川に入り、やがて海へも行くだろう。 病院で奇形の子どもがたくさん誕生している。1日に4例の無能症の子どもを撮影した。病院の医師が「あと30分くらいでこの子の命は消えるだろう。この子を写真で撮って実態を全世界に伝えることが、この子が誕生した意味だと思う」と訴えそうだ。 湾岸戦争以来、墓地が不足し、サッカー場を墓地にしているところもあった。米軍は核汚染ひとつをとってみても、全人類、全生物にたいして、犯罪を犯したといえる。一般マスコミの報道では決して知ることのできない事実が、伝えられた。高遠さんの写真を持って、心待ちにしている子どもたちの姿もたくさんあった。「自己責任」で、イラクの真実を伝え活動している人達の行動をしばらずに、もっともっとイラクのたくさんの事実を、私達に伝えてほしい。
2004年08月13日
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午前中、残りの仕事を片づけて、午後から大そうじ。【チョウと話したよ】汗をだくだくと流しながら、窓をキュッキュッ。「おばさん、おばさん、何してるの?」「だれ? この忙しいのに、何か用?」えッ? 誰もいないじゃないのー。あまりの暑さに幻聴だぁー!「おばさん、ここ、ここ!」1頭(蝶は頭と数えます)のヒカゲチョウが、窓の横のドアにとまっています。「ええッ! 今呼んだの、君なの?」呼びかけてきたのは、クロヒカゲだったのです。「そうだよ。ねえ、何してるの?」「明日から休みに入るから、大掃除してるの。そんなとこでとまってないで、あんたも手伝いなさいよッ」「ボク、飛ぶのと蜜を吸うのと、交尾することしかできないもん」「そっか……………………………… じゃあさあ、ちょっとモデルになってくんない?」「モデル?」「そう、チョウチョの写真撮ろうと思ってもさ、みんなジッとしていてくれないから、撮れないんだよ。ぼけたりね…。やってくれる?」「いいよ、きれいに撮ってね」商談成立で、窓ふきをちょっと休止して、「カメラッ!カメラーッ!」マクロのレンズに取り替えてる暇はなく、広角のままで撮影会と相成りました。なんか、このクロヒカゲくん、ホントにわかっているみたいに、ジッとしてるんだよね。レンズを10センチくらいまで近付けても、ジッとしてるの。よく見かける馴染みのチョウだけど、こうやってよくよく見ると、きれいなチョウだよね。「クロくん、きれいに撮れたよ。今日の楽天にアップするからねえ」「楽天?アップ? よくわかんないけど、おばさんの顔、笑ってるから、ボクもなんとなくうれしいよ」てな、会話をしたつもりで、クロくんは、ふわふわと玄関からお帰りになりました。【正体見たり、葉切り蜂】少し前から、アブチロンの葉が食い荒らされているのに気づいていた。何かの幼虫かなと思って探したが見つからず、証拠の糞も下に全くない。水不足で変形したかななんて思っていたら、玄関の窓ふきをしていて、見つけたッ!蜂だあっ!蜜蜂くらいの蜂が、口で器用に葉を切り取る。その造形はお見事。円形、だ円、カーブと様々で、1枚の葉がいろんな形に切られている。葉脈だけのものもあるし。ボケ気味ですが…出たばかたの新葉が好きと見えて、若い葉ほど被害が大きい。1センチ四方くらいに切り取る(噛み切る)と手足で抱えて、運び始めた。よし、こうなったら、巣までつけてやるぞッ。「カメラッ!カメラーッ!」 慌てるまでもなく、アブチロンから2メートルくらい離れた外階段の鉄枠の小さな穴の中に入って行った。うわー、見えない。しからば、仕事中の葉切り蜂の姿を写そうと、三脚をセットして待つ。さぼってばかりいられないから、窓をふきふき待つ。…………待てど暮らせど、葉切り蜂はこない。さっきのクロヒカゲのようにはいかなかった。葉アリや、落とし文は知っていたけれど、葉切り蜂は初めて見た。明日から被写体待ちだ。【ここにも芸術蜘蛛】今度は、外階段と外壁の掃除。シュロぼうきで、サッサッと掃き降ろしたり、蜘蛛の巣を払って下まで行くと、おおッ、ここにも芸術家がいました。女郎蜘蛛かなと思うけど、この足先の糸の張り方が珍しい。「カメラッ!カメラーッ!」これは、ジッとしていてくれるので(巣を壊されるのかと恐怖に震えているのかも)、いとも簡単に撮れました。撮影後は、もちろん巣は壊し……………………ません。こんなきれいな巣造りしてる蜘蛛だもん。えっ、それで大掃除したのかって?しましたよ、一番良く働きましたよ。4時45分の打ち合わせに間に合わせるために、いそいでコンビニへ行って、アイスクリームを買いました。この間に社長はボーナスを配ったようです。くそッ(怒る必要ないか…?)自分にプレゼントの前プレで、アイスを食べるまで抑えられない喉の乾きのために、アイスコーヒーを1パック買って、車の中でゴクゴクッ。アイスが溶けては困る、遅くなっては困る…で超早飲みしたので、飲んだか飲まないかわからなかった。あー、損した!知らん顔して、みんなとアイスクリームを食べて…5時、皆さんは退社していきました。さて、12時を回りました。ペルセウス流星群を少し見て、サッカー見て。という予定です、あくまでも予定です。
2004年08月12日
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明日で我が社も盆休みに入る。明日はボーナスを支給する。私は名前だけ役員だから、ボーナスはもらえず、計算するだけの人。巷では景気回復傾向だなどと解説しているが、末端ではむしろこれから厳しくなるんじゃないかなあ。仕事は去年に比べて増えている。それなのに利潤が上がらないのはどうしてなのだろうか。単価が安くなっているしか考えられないと夫と話した。価格が安くなり、仕事の納期は早くなり、原稿の入りは遅くなり…こんな馬鹿な話って……ブツブツブツブツ∞そんな中でも、ボーナスは働いている人にとっては、うれしくもあり、なくてはならないもの。だから、きちんと計算しなければ…と、資料を出したものの、去年どうやって計算したか、すっかり頭からすっとんでいる。大体、経理のケの字も知らない私に、いきなり義父のあとをやれという方が無理なんだッと、カッカッしながら、会計事務所へ電話する。「あのー、すみません。算出方法を教えてください。去年のことすっかり忘れてしまっているんです…トホッ」説明されている途中で、「あっ、そうだった。思い出しました。すみません」なんだかんだと文句は言っても、計算するようになって、夏、冬、夏ともう3回めなんだから、「もうちょっとしっかりしろよー」と自己叱咤。計算が終り、お札を数える段になって、義父が「なるべくシワのない札を従業員には入れてやるんだ」と言っていたことを思い出した。ふーん、義父は義父なりに、すてきな配慮をしていたんだなー。よし、私も…。だけど今回銀行から来たお金には新しいものはなかった。だからできるだけ新しいもので勘弁してもらおう。昨年の夏からボーナスからも、社会保険関係を差引くことになった。率は下がっているのだろうが、我が社の場合は、12回の給料と2回のボーナス、計14回差引かれることになる。私たち役員はボーナスがないから、引かれない。つまり12回差引かれるだけ。その分率が高いわけではないから、これって役員に得と言えるのだろうか。だとすれば、うちみたいに家内工業みたいな小さい会社の役員なんて得にはならないけれど、大手の社長なんて、一般従業員と比べて、ものすごく得するんじゃないのかなあ。これも上に甘く下に厳しいシステムといえるのかもしれないな…とお札を数えながら…いいなあ、ボーナス。ボーナス出たつもりで、自分に何かプレゼントしようかなッ
2004年08月11日
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広島、長崎と59回めの原爆忌が続き、15日を控えて、戦争関係の記事が新聞にたくさん載っている。☆蘭 信三(あららぎ しんぞう) 満蒙体験を語り継ぐ(信濃毎日新聞8/10) 語り継ぐ活動は、個々人の満州の体験の記憶を「解凍」することによって、私的な体験を「公的な体験」へと昇華する作業。その結果、個々人の記憶が地域の歴史、社会の歴史として共有化されるだけでなく、同時にそれは、語り手と聞き手の双方が、自らの人生に関わる事柄をさらには地域の歴史を了解するプロセスとなる。この活動自体が、満州移民のひとつの総括にほかならないのである。☆秋葉広島市長 2005年8月9日までを「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年」と宣言。世界の子どもたちに被爆体験記を読み語るプロジェクトの展開に強い決意を示した。☆伊藤長崎市長 長崎市では、被爆の実相や命の尊さを学ぶことにより、多くの若者たちが平和について考え、自ら行動するようになりました。私たちは、混迷を深める世界情勢の中にあって、この若者たちの情熱に希望の光を見い出しています。(中略)長崎市はこれからも被爆体験を継承し、平和学習の拠点都市として、平和の大切さを発信し続けます。 それぞれの立場で、琴線に触れた格調の高いことを言われている。日本の良心はまだ充分に機能していると、ジーンとした。武器で戦い、武器で守る平和でなく、語り合い、心と心の連帯で、平和は創られる。そのことを改めて教えていただいた原爆忌だったように思う。そして、ほんのわずかではあっても、自分もその平和創りのためにできることがある、と思うと、勇気が湧いてくる。うんうん…ふつふつと力が湧いてくる…閉じられた世界で悩むのではなく、多少無理でも、視野の開けた世界…それは絶対必要条件だうんうんうん…
2004年08月10日
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8月9日、長崎原爆記念日まだ一度も足を踏み入れたことのない地いつか訪れたい地*******毎日夕方から夜にかけて、ティンパニーの競演が上空をかけ巡る遠雷がだんだんに近づいて…という雷ではなくて、音沙汰が全くないのに、いきなり頭上でドドーンッ外を見て、しとしと雨が降っているのに初めて気づくこんな雷の日々が続いている天気予報によると、明日の長野地方は最高気温が29度だそうだ*******5日の日記に書いた、村長さんにこにこの視察・研修は、新潟県新発田市の視察だったそうだ。この村で唯一の共産党議員が出している「小川民報」で知った。新発田市も旧新潟県知事公舎を移築して、県や市政資料館になっている。移築した場所は五十公野公園の一角で、公園は新発田市の文化やスポーツ、歴史、観光などの中心地になっているそうだ。9万人の新発田市で、入館者は毎年2000~3000人、維持管理費は1200万円、入館料は50万円前後。人口約3500人弱のこの村ではどうなるかってことを言いたいのだろう。全くその通りなのだ。けれど、知事公舎はすでに出来上がり、隣の私邸もほぼできあがっている。補正予算で増額して、敷地内に民俗資料館の建設も決まって、工事中の今。悔しいけれど、死に財産にならないように、工夫していくしかない。ただし、どういう過程を経て、どういう論議を重ねて、知事公舎がこの村に来たかを頭の中に叩き込んで、決して忘れてはいけない。この村の文化施設やスポーツ施設は、本当にあっちこっちに点在している。これは歴代為政者の施策の無さの現れだろうが、それを逆手にとって、その文化・スポーツ施設を巡るハイキング&ドライブコースなんかも楽しいと思う。今までと同じような発想で対しても、じり貧は目に見えている。と、書いてきたが、なんか虚しさばっかり残って、これ以上書くのはやめたッ。
2004年08月09日
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盆前の仕事が集中していて、刷りが間に合わず、一部始業9時の変則日曜出勤となった。〈お墓そうじ〉この地域ではお盆前8月の上旬にお墓の掃除をする習慣がある。朝6時に夫を叩き起こし(?)、ばけつとタオルと、ほうきと鎌を持って、お墓へ。数年前にお墓を直して、地面をコンクリートにし玉砂利を敷いたおかげで、草取りの苦労はなくなった。ばけつに水を汲み、タオルで墓石を拭く。蜘蛛の巣やコンクリートの隙間から出ている小さな草を抜けば、もう仕事は終り。ついでに、会社の裏と駐車場の隅の草取りもしてしまう。今日は朝飯前の仕事をずいぶんやった。偉い、偉いと自己讃歌。シャワーを浴び、海苔ととつけものとみそ汁で朝飯を済ませて、さて始業。本当は今日、千畳敷へ行くはずだったのになーと、空模様を見い見い、溜め息をつきながら…〈ちょびっと地下壕案内〉千畳敷へ行けなかったので、午後2時間だけ、松代の地下壕へ会報の写真撮りを兼ねて出掛けました。今日は「夏休み親子見学会」。私は今日はフルに案内活動ができないので、でも、ちょっとでもいいから案内したく早めに必要な写真を撮ってしまい、三重県と福井県からきたご夫婦を案内した。途中で東京から来たご家族4名とも合流しつつ…。朝日グラフで地下壕を知った人、テレビ放映で知った人、友人に「長野に行くなら、必ず地下壕を見てこいよ」と言われてきた人、様々。外気温34度、壕内およそ16度。最初は気持いいと言っていた人たちも、途中から半袖から出た腕を抱えていた。朝鮮人の強制連行、沖縄(沖縄住民)を捨て石にした本土決戦の準備の一つ、などの話をしながら、地下壕は国民を護るためものではなかったことを伝えたかった。東京からいらした家族中の青年がこんな感想を言った。「朝鮮人の話を聞いてくると、昨日のサッカーの中国からのブーイングの意味もわかった」って。地下壕は、壕そのものの歴史だけでなく、そこから、もっと広く、もっと深く、世界のの歴史や現在の歴史をも学ぶことのできる場なのだ。案内させてくださった見学者の皆さん、ありがとうございました。
2004年08月08日
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遅ればせながら、アジアカップ優勝おめでとう。MVPになった中村は当然だろう。中村、26才。線の細いまだ青臭い若者だと思っていたのに。そんな蛹はとっくに脱ぎ捨てていたんだ。鈴木、前回のワールドカップで、ヘディングを1度決めただけで、海外組となり、まだまだ実力不足だと思っていた。でも、今回のアジアカップで、特に最終戦を見ていて、決してそうでないことを知らされた。FWでも、ただボールを待つFWでなく、むしろ玉田に最終パスを出すために、体を張っていたように感じた。私の好きな鹿島アントラーズ勢も、もっと出てほしいと思ったけど…。でも、みんな心憎いほど落ち着いていた。中国のブーイングがかえって日本の結束力を高め、意識を高めることになったそうだ。精神的にも体力的にも強くなっている。すごいよ、フル代表の面々!今回のアジアカップでは、中国の日本に対するブーイングが問題になった。日本側は国民みんなが、歴史を見直す必要があり、ですね。重慶から始まって、なぜブーイングされるのか、やはり考えてみるべき。いい機会だから、きちんと歴史を学ぶべきだろう。自虐史観だ、なんだかんだという前に。でも、戦争中のこと、小泉さんのことを考えても、あのサポーターの態度は許せない。私もどちらかというと、反米だが、でも米国人一人ひとりにあんな態度はとらないし、個人は決して嫌いではない。最終戦で中国が負けたとたん、帰る中国人が多かったことなんかを見ると、彼らはサッカーを愛しサッカーを応援に来たのではなく、サッカーを通して、サッカーの場を借りて、反日行動をしにきただけではないか。彼らが見るのはサッカーでなくてもなんでも良かったんですよ、きっと。おかげで、日本の選手たちが伸び、一致団結ができたことは、お礼を言うべきなんでしょうか。逆に、中国の選手たちのフェアなプレーがとっても印象に残っています。教育の恐ろしさも感じたし、歴史を見つめることの大切さも感じたし、中国の人たちが、まだ国際的なつきあいになれていないんだなと思った次第です。オリンピックの北京大会、大丈夫なのでしょうかね。と、ここまで書いて、この反中国感情の台頭って、もしかしたら誰かが先導していることなのかもしれないと思った。全く、平均的日本人の反応を示す私は、いつも何かがあっても、当局のねらい通りの反応をしている。経済上昇中の中国へのやっかみ?日米同盟を強化するには、北朝鮮だけでなく、大国・中国へも国民が敵対感を持った方がやりやすい?そこまでは考えなくてもいい…。??にっぽん チャチャチャ
2004年08月07日
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広島原爆忌 59回め(6日の日記だが、実際は7日に書いているので、7日の情報も入っている)平和記念式典で献花した小泉純一郎首相は、「平和憲法を順守(遵守)するとともに、非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶に全力で取り組む」とあいさつした(6日午前、広島市中区の平和記念公園)「平和主義、基本的人権の尊重、そういう前提で憲法9条改正の議論がなされるべきだと思う」と述べ、改憲論議でも平和主義の原則を守るべきだとの認識を示した。非核3原則についても「日本政府の基本方針だから、今後もこの原則を堅持していく」と強調した。 イラク多国籍軍への自衛隊派遣に関しては「憲法の枠内で派遣している。自衛隊の諸君は人道・復興支援に日本国民の善意を代表して汗を流してくれている」と述べた。(記者団の質問に)(以上、6日のヤフーニュースから)どんな厚顔で、こんなあいさつをしたのだろうか、小泉さんは。夜のニュースなどを全く見ることができなかったので、7日の朝刊で、少し詳しく知ることができた。小泉さんのあいさつは "小声で早口" だったため、よく聞こえなかったそうで、ヤジが飛んだという。また、広島市長は、憲法改正論議やイラク派兵を強く批判し、平和憲法を護ることを訴えたそうだ。広島にはまだきちんとした常識が残っている、安心。そこに住む民の声を背負っている人ほど、強くなれるし、正論が持てる。ということは、小泉さんは、全く民の声とはかけ離れた所に生きているんだろうな。世界遺産になっている原爆ドームに恥じないよう…日本人の一人として…地球の一員として…私は平和をひたすら祈ろう
2004年08月06日
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校正を届けに隣村のK村へ行く。私の村からK村へ行くには、標高1000メートルの大洞高原を越えて行く。このルートは、アルプスや戸隠西岳が見え、池もあり、野花が咲いて、ちょっとした観光ルートなのだ。校正誌といっしょに、カメラもそーっと持ち出して…標高1000メートルはもう秋が始まっていました。萩が咲いて葛の花です。この根からは葛粉を採取するそうです。ススキの叢の中では、「スイーッチョン」と昼間からウマオイの歌声が流れて…山はやっと夏山らしい様相を呈してきたのに、実は夏を飛び越していきなり秋になっているような気がする。*******〈笑顔なのに〉昨日、役場へ行った際に、観光バスから村長や議員たちが降りてきた(他にもいたのかもしれないが、私が見たのは)。両手にビニール袋を抱えていたから、もしかしたらどこかへ研修旅行に行ったのかもしれない。にこにこしながら歩いていた。特に村長の笑顔が印象的だった。きっと和気あいあいと車中を楽しんできたのだろう。その姿を見て、ちょっと複雑な気分になったのだ。和気あいあいはとってもいいことだけれど、それはあくまでも個人として人間としてであって、いざ議場では対等に意見を戦わせるだけの力量が、どちらにも欲しい。「一人ひとりはいい意見を持っていても、いざ村長の前ではそれを言うだけの力がない」小さな自治体では、こんな声をよく耳にする。村長には逆らえない。逆らえばあとでどんなしっぺ返しが来るかわからない。だから、議員の目や耳は住民ではなく村長に向いている、選挙の時以外は。本当か嘘かは、わからないが、多分100パーセント嘘とも言えないし、100パーセント本当とも言えないだろう。もちろん全部の議員がそうだというわけでもないだろうが。******〈真田町の粘り〉長野県真田町では、合併のための住民投票実施の請願を議会で2度否決され、反対意見を付けて議会に提出した町長の解任請求(名称不確か)を出したとニュースで言っていた。私の村の某友人は、障害のある子を持っている。その友人が言った。「合併するかしないかの住民投票をぜひやってもらいたいなあ」政治運動(これは政治運動なんてのではなく、私たちが生き方の根幹になることだと思うんだけど)には積極的でないと思っていた彼がつぶやいた言葉に、しみじみとした重さを感じた。その理由は"彼の子どもはある障害を持っており、N市にある障害児用の施設を使いたくても、この村が負担金を払っていないので利用できない。だから、N市と合併すれば、その施設を利用できるようになる。合併はN市としてほしい。今、近隣合併ばかり話題になっているけれど、N市としたいという人だって結構いる。一人ひとりの希望をきちんと示すには住民投票しかない。だから、もう一度住民投票の請願を出してほしい。"ということだった。その施設利用云々は、合併する、しないと関係なく、村に要望するべきことだという話はしたが、この友人のように、いろいろな理由を背負って住民投票をしてほしいという人は多い。切実な気持をもっている人と、「合併するかしないかわからない」人(投票反対の理由に、わからない人に投票させるのは酷だから、アンケートの方がいいというのがあった)のどちらを優先すべきか…。そんなことはわかりきったこと。自分の未来は自分が切り拓くことだし、自分の村の将来は自分たちが決めること。そういう1票を、昨年の村議選では投じたはずなんだけど…。秋は楽しみたいけれど、あきらめの秋にはしたくない。
2004年08月05日
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まずはご覧あれ私? 撮り手です…〈台風半過の〉 やきもきさせた台風もどうやら日本海に抜けたようだ。でも台風一過というほどスカッとは晴れ上がらず、もう半日早く台風が抜けていたら、小躍りするくらい晴れただろうな。 文句を言ってはいけない。山に行けるんだから…。 5時に起きてお弁当つくり。梅とわさび昆布を入れたおにぎり。ウィンナーと卵焼き、ゴーヤのみそ漬け(夫が大好き)と醤油漬け(私が大好き)をスライスしてタッパーに詰める。あとは、取り立てきゅうりとおみそ、飲み物は前日に冷凍庫で氷らせてある。非常食兼行動食にバナナとあんパンと水ようかん(私だけ)。今日はまだある、ほたて貝柱の缶詰めにサラミ(私は嫌い)。夫の山復帰祝いも兼ねて。用意しながら、「私一人ならコンビニおにぎりなのになあ」と苦笑。まあ、今回だけだから…… 「ストックを持っていくのは沽券に関わる」と見栄を張る夫に「ヘビ除けにもなるし、熊が出たら武器になるでしょ!」と、あくまでも私主導なのです…。〈しゅっぱーつ!〉 朝7時、夏山にしては遅い出発。マイクロ2台に分乗した一行35人は、一路大渚山に向かった。 ほぼ稜線まで見える後立山を横目に見て素通りするのは、ホントはいささか辛いものがあったが…。 小谷温泉を過ぎ、雨飾荘を過ぎ、鎌池到着。8時30分。大渚山の頂上が少し見えている。ここで、開会式。諸注意、連絡事項、準備体操をして、トイレも済ませて。もう一度マイクロに乗り込んで、湯峠まで。〈温泉仲間&山仲間〉湯峠 9時30分。うんうん、晴れている、雨飾山もばっちり。風は台風の影響か、まだかなり強い。下見に来たときも風は結構あったから、地形的に風の通り道のような感じがする。空地には1台の川崎ナンバーの乗用車が駐車していた。 ここにはこんな石碑とお地蔵様が建っている。昔、農作業を終えて新潟県糸魚川方面から小谷へ湯治に来るときに、かならずこの峠を越えるので、「湯峠」と名前が付いたそうだ。お地蔵様はもちろん、無事の旅を願ってのもの。 碑文には> 明治十九年七月建立> 是従> 温泉へ二十六町> 越後大久保村へ三里> 同 山口村へ三里> > 温泉仲間とある。その湯峠から、今日は、小川村の山仲間が登山をする。なかなかいいじゃないか……うんうんうん。〈登る〉9時55分発。 山自体はゆっくり登っても1時間30分ということで、とにかくゆっくり、休みを多くとって登る。疲れるんだ、この登り方。 今日は大勢なので、ヘビたちもおそれを為して姿は全く見せない。でも、私は後ろの方から…。 下見でUターンしたところを軽く過ぎて、これからは未知の世界。 ブナ林が続き、太い幹の根元にこんな石仏が…。なんでこんな所にあるんだろう。両手を合わせてやさしい顔だちの仏さま。私も両手を合わせて…、さて何を祈ろうか。「また、山に行けますように……」かな?「仲よく……」かな?いやいや、まず今日の登山の無事終了を祈ろうではないか。〈頂きにて〉 最後の急登がいくらか手応えありだったが、1時間15分で頂上に到着。 なんということだ、目と鼻の先に、日本海が見えるではないか。糸魚川の町と姫川河口も。こんなに近いとは予想しなかった。多分この季節は見えないだろうと思っていたので、これはうれしかった。あとで知ったが、大渚山から直線距離で20キロとのこと。どこが海かわかりますか。海は空へと続いていました。 西は当然、白馬乗鞍、小蓮華、白馬三山、鹿島も多分あれだろう。そして朝日岳、雪倉岳が続く栂海新道。東は雨飾山、妙高、金山などの頸城山群の一部、乙妻、戸隠山、西岳と、ぐるっと360度の展望が開けていた。 水蒸気の靄が薄くかかって、後立山方面は見る見る間にガスの中へと姿を隠す。やはり、夏山、お昼にはすっかり見えなくなった。 山頂で焼肉するのが念願だったというMさんは、ガスと鉄板とジンギスカンを持ち上げ、にこにこしながら参加者に振る舞い肉。私は彼の話を事前に聞いていたので、「小玉すいかでも持ち上げよう」と思ったけれど、思っただけで、すいかは1袋のジンギスカンに変わった。いっしょに焼いてもらって、主に夫が食べる。 余裕の山ならではの楽しみ方だ。〈コメント集めて〉 今回の村民登山は、テーマの一つが「同行の友とのふれあい」とあって、全員の顔写真と、全員の登頂コメントを頂こうと計画した。顔写真はKさんと夫、私はコメント集め。「簡単すぎて、あと1時間は歩きたかった」「海が見える山は初めてでうれしい」「ただ高い所へ行けばいいってもんじゃない。ゆっくり自然に浸るのもなかなかいい」「毎年村民登山があるから、山に登れる。楽しみにしているからまた来年も」「行かれる限り参加したいから、また来年もお願い」「私の住んでいる村ではこんなイベントがなくて、こちらはいいですね」等々。小学生のこんなコメントがありました。「遠足で村の飯縄山へ登った。この山より飯縄山の方が楽だったけど、あっちは道がコンクリートで歩きづらかった。この山の道はふかふかで、歩いていて気持が良かった」そのお母さん「今までは岩とか砂とかの道を歩く山だったけど、今回の道はとっても歩きやすい道だった。こういう山も時々入れてほしい」そうなんです、腐葉土が積もっているでしょう。足が気持よく吸い寄せられ、弾むように歩けるんです。〈メーンイベント???〉さてさて、コメントを取ったあとは、わが夫婦のイベントです。集団の中で恥ずかし気もなく2人で雨飾をバックに2ショットを撮ってもらいます。ほとんどの参加者は、この恒例行事を知ってらっしゃるので、ただにこにこして見ていてくれました。撮影者の「じゃまじゃま、そこの人ちょっと後ろへ行って!」なんて声にも抵抗せずに、協力してくれました(心の中じゃ「あいつら、調子に乗って!」なんて思っていたかなあ)。撮影者は1度しかシャッターを押さず、「大丈夫かなあ、1回だけで」と心配だったけど、「もっと撮ってー」とは言い難く…(やっぱり、逆光気味で顔は真っ黒でした、ウー)〈仏さま、感謝〉 2時間は比較的早く過ぎて、その弾力のある道を今度は下ります。道に張り出している木の根につまづかないように、やはりゆっくりと下りました。 途中、撮影ポイントの1つ(?)、頂上の直下のガレ場をバックに、やはり2ショット。でもこれもいまいちでした。私が撮ってあげた人のは結構素敵に映っているんだけどなあ。「仏さま、無事に終りそうです。ありがとうございます。」途中、鎌池で鎌池周遊と閉会式をして、雨飾荘着2時40分。〈露天風呂〉さあ、最後はこれもお待ちかねの露天風呂。村営の露天風呂と、雨飾荘の屋内風呂&露天風呂に別れて入りました。雨飾荘の露天風呂は、もとは混浴だったのを、木の板を間に入れて境を造り、男女別々にしたとか。その木が一枚板になっておらず、校倉造りみたいなので、ある距離に近づくと、見えるンですねー。びっくりしたあ。まだまだ日が高い露天風呂は、頭が熱くなるのと、アブがたくさん寄ってきて、ゆっくり入っていられないのです。お湯をアブにかけながら、何とか粘ってそれでも10分。登山でかいた汗(大してかかなかったけど)を流して、すっきりとした気分で車中の人となりました。帰り道、不帰嶮がくっきりと見えて、やっぱりアルプス的な山もいいなーなんて思いつつ…さて、来年の希望は「富士山」が多かったのですが、高齢化の山岳会ではご期待に添えるかどうか…。〈打ち上げなど〉 今回は、準備に一切参加せずに一般参加者だった夫。運営の悪さを指摘した。事務局をしていた夫の代わりを私がやり、事前の準備は夫よりも良くしていると自負していたが、当日は、村民登山に参加する癖のある面々は私ではもちろん牛耳れない。今回は、会の正副会長が腰痛・肉離れなどで、鎌池待機組になったため手薄だったこともあって、山を下ってからばらけた面が確かにあった。事前打ち合わせが不十分だったこともある。それを外から見ていた夫。感じたことを来年に生かしてほしいな。打ち上げでは、富士登山の是非で喧々諤々。アルコールも手伝って、いろんな議論ができた。生意気な私の言い方も、なんだかんだといいながら、受け入れてくれる。脱線ばっかりしている会だけれど、本音でぶつかることのできる私には貴重な会なのだ。なんと、この打ち上げ、山にいる時間より長かったー。エゾアジサイのハッとするような青が樹林の中できれいでしたマイヅル草の実が少し赤味がかっていました〈お詫び〉2ショットの写真、期待されていた方、ごめんなさい。映りが悪くても年賀状用なので…
2004年08月03日
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結論を言いますと、写真はちゃんと撮れました。2ショットの写真を。写真的にはあまり良くないのですが。でも、山でも打ち上げでも「仲いいじゃないですか」(私、そんなに仲悪いーだなんて身近かな人に言った覚えないんだけどな。いくら目は口ほどに…っていってもさ)「●●年前のシャッターは、オレが押したんですよ。覚えてますか」と、笑顔の会話ができました。で、昨夜は打ち上げがなが~くて、日記を書けず。今日はこれから会議で書けません。心配していただいた皆さん、すみませんでした。うまくすれば今深夜、無理をしなければ、明日ちゃんと書きます。もうしばらくのご猶予を。ちょっと気持が軽いんです。ふわふわフワ~
2004年08月02日
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