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11月30日カレンダーもあと1枚残すのみ。早いような、遅いような時間の流れ…我が社は、年賀状の最盛期に入った模様。でも、毎年毎年その数は減少の一途をたどっている。「どんな図柄にしましょうか?」「……」(見本を見ていらっしゃる)「文字と絵柄の組み換えは自由にできますよ」「…… みんなどういうのを印刷するかねえ」「そうですねえ、皆さん好みが違いますから。ご自分の好きなのでいいんじゃないですか」去年もその前も、年賀状の時期になると必ずこういう問答が交わされる。そして去年に日記に書いたような気がする。結果は「どれが一番多いかねェ」「そうですね、これなんかは割と多いですけど…」「じゃあ、俺もそれにするよ」お客様がそう思うのだから、別に問題はないのだが、やっぱり一言書きたくなってしまう。年賀状だから、みんなと同じでもいいのかなあ。似たような図柄の賀状を交換しあって「お、あの人もあの印刷屋で刷ってもらったのか」なんて連帯感が持てる?一筆添えるから、図柄なんて二の次?他の人と同じという安心感それが今までの村の生き方のベースにある。目立つということは、即たたかれることにつながる…。そんな中での、合併反対の住民投票結果は、改めてすごいことなんだと思ってしまう。おっと、また脱線しそうだ。年賀状の注文は、もう20~30代は全くない。40代も個人はほとんどないし、会社がらみの営業用の賀状印刷くらい。主流は60~70代のお客様。事務所が2階にあるから、ゆっくりゆっくり時間をかけて、手すりに支えられて昇り降りされる。「あんたは、○○さんの嫁さんかねえ」毎年同じ質問をされる人。「いいえ、私は兄の方の嫁ですよ」(嫁って言われるのは、ホントは大嫌いなんだけど、こんな時はしょーないなー)教え子はほとんど注文になど来ないが、その父母が見える。「先生(この言葉を浴びると何か背中がむずむずするんだ)、たまには遊びに来たいや。○○も3人も娘作ってさィ。長野に家を作ってがんばってるわィ」「ええ、毎年、娘さんたちの写真の入った年賀状もらいますよ。○○君は子ども好きだから、うれしいよね」「3人とも嫁になんか出さずに、みーんな家に置いとくって言ってるわ」「ええー、それも困るねー。涙、涙の結婚式になっちゃうね。時々はこちらのお母さんたちの所へも遊びに来るんでしょ」「月に1回は来ねえなぁ。そんでも田植えと途中の草取りと稲刈りにはみんなで来てくれる。だから、1年分の米をやってるけどさィ」「たまには私んとこへも、○○君の顔見せに来てって伝えてくださいよ」なんて会話して…。まあ、年賀状印刷も風前の灯だけれど、1年中で最も人との出会いが多い時期だ。「どうせ出会うなら、いい出会いを」と心掛けてはいるけれど、器の小さい私にはなかなか難しいことだ。
2004年11月30日
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今日は期せずして、環境のお勉強を2つもすることができた。《古民家再生》中学時代の友人、I君から朝、電話が入った。「N村で古民家を再生しているんだけど、見に来ないか」以前から話を聞いていたので、昼から長野へ行くその前に行って見る事にした。県道からぐんぐん上がって、栗林という部落。残念ながら家の西側は山になっていて、標高が高いのに北アルプスは全く見えない。東側もスカーッと開けておらず、ちょっと景観としては残念。昔ながらのワラ屋根は整備してそのままとたんをかぶせ、低い天井を上げ、床暖房にするとか。まだ内装も外装もほとんどできていなかったが、施主の東京の女医さんが、友人と周囲の瓦礫や木材のかたづけをしていた。敷地内にあった杉の木30本を切り倒し、それを床材に使うそうだ。古材も使用するので、外材は全く使わないとのこと。女医さんが常時住むのではなく、四季折々に友人たちとエネルギー蓄積のために訪れるのだそうだ。正しく「癒しの里」そのもの。手間をかけ、自分の気に入った家に、時間をかけて造り上げていく…。確かに古民家を再生するその過程は、人間性を取り戻す素敵な体験だろうなと、ちょっと見て、ちょっと説明をしてもらっただけで思う。反面、ある程度財力と時間を持っている人でないとできないな、とも思った。でもでも、家を造るということは、無条件に楽しいかも。私はまだ自分の手(実際に手を使ってという意味でなく)で家造りをしたことがない。やってみたいなー。その時はI君、お願いねー。友人のI君は建築士、古民家再生や福祉の面でその能力をフル・フルに活かしている。古民家再生は、今一つのブームにもなっている。またリサイクル、そして環境問題でも大切な流れを生んでいる。《野口 健さん》長野県地球温暖化防止活動推進センターの主催で「アルピニスト野口健さんと『地球の環境を考える』シンポジウム」があった。野口健さんと言えば、7大陸の最高峰のサミッターであり、エベレストは当時最年少登頂者。そしてエベレストの清掃登山を4年間実施し、最近は「富士山から日本を変える」をテーマに活動している人である。私は、以前彼の書いた本を読んであまり好きになれず、非常に軽薄な人という印象を持っている。でも、本を1冊読んだだけで結論を出すのは早計だと思い、それよりも何よりも山の話を聞きたかった。私が彼を軽薄だと思ったのは、確かネパールかブータンだったと思ったが、現地の女性と簡単に結婚し簡単に別れたこと。いろいろな理由があり、彼もいろいろ苦労はしたけれど、性欲を満足させるためのようなところもあり、女性側から見れば、許せないなと思ったのだ。で、講演。エベレストでの体験話はおもしろかった。いや、おもしろく話してくれた。ヒマラヤで亡くなること、遺体のこと、すべて重くなく聴衆に嫌な感じを与えないようなおもしろさを調合して話してくれた。でも、私には軽薄さもやっぱり感じられた。加藤文太郎や松濤明(古い人ばっかりだね)のような悲愴感や孤高の人といった感じはない。もっとも、この2人に私は会ったことはもちろんなく、造られたイメージしか持っていないのだが…。早い話が、私が抱いている「山男」とはイメージが明らかに違っているということだ。ところが、話を聞いているうちに、彼の中にも筋が1本通り、こういう生き方もいいのではないかと、肯定するようになってしまった。彼の活動は常にマスコミを意識し、常に取り上げてられていることを、「売名行為」とする批判に対しては、「清掃登山などをしている映像がたくさん流れることにより、その山に登る人は自然にごみを拾い持ち帰るようになっている」だから、映像を流すことはとても重要なことなのだと。富士山も、かつては「世界で一番汚い山」という登山界での評価が、少しずつ変わりつつあるそうだ。ごみを拾ってもそのことが発信されてこそ価値を持つ。それが多くの人の次の行動を生み出す源になる。「ごみを拾いましょう、そして拾ったら、それを回りの人に伝えてください」と、彼は言っていた。エベレストで知ったことは、日本・韓国・中国の登山隊のゴミがダントツに多いこと(最近は日本隊も残さないようになてはいるが)。ヨーロッパの国は少なく、特にドイツ・スイス隊などは残していかないそうだ。それらの登山隊の本国に行ってみると、非常にきれいで、ヒマラヤだからきれいにするというわけでなく、基本的にごみを持ち帰るという理念が身についているのではないか、と。逆に山にゴミを残す国は、その国内自体も汚れているそうだ。この辺はうなずける。日本の道路を見てごらんよ。もう全く…4年間の清掃登山で、エベレストに残されたゴミはほぼ回収できたとのこと。そして、そのごみは日本に持ち帰り、保存して、折にふれて各地で「展示物」として公開しているそうだ。エベレストの清掃登山は、登頂から帰り、就職も内定した卒業間際の記者会見で、思わず口から出てきた言葉なのだそうだ。本心は、もう2度とあんな高い所には行きたくもないし、登山自体もエベレスト登頂で終わりにしようと思っていた。ところが、記者たちの「次の計画は何ですか」という質問攻めに合っているときに口から飛び出したことばで、本人もびっくりしたそうだ。意識せずに、彼の頭の中にエベレストのごみをめぐる種々なことが蓄積されていたせいだと、話していたが、このあたりが私が軽薄だと感じてしまう点なのだが…。今は、こういう行動の起こし方もいいなあと思っている。私みたいに石橋を叩く人間には決してできないことだし…知識人が、ああでもないこうでもないと理屈をこねて、時期を失した頃に行動を起こしても、なんの価値もない。彼のファンにはなりそうもないが、彼の行動にはエールを送りたい。これからもどんな活動をしていくか、楽しみに期待し、添えるところは私も行動していかなきゃね。このあとにあったシンポジウム「地球温暖化防止」も、野口がらみで聞いてきたが、いや、なかなかいいシンポジウムだった。まとめは、後日。
2004年11月28日
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布引岳 南峯 北峯昨夜からの強風に、今朝は鹿島槍ヶ岳からは雪煙があがっていた。稜線は、冬の季節風が強くて、飛ばされそうだろうなと想像。南峯直下のスロープに雪煙があがっているのが、わかりますか。画面中央のは雪煙でなく、雲ですよ。強風ではあったけれど、このあたりは、南風が吹いていた。低気圧に南の海上から暖かい空気が吹き込んだのかな。午後から勉強会。人と顔を会わせて話すのは楽しい。憲法談義をしてきた。
2004年11月27日
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11月27日土曜日午前1時10分だけれど、26日の日記にします。ふー、今やっと11月23日にあったシンポジウムの記事を書き上げた。というと、かっこいいけど、書き上げたなんてもんじゃなくて、叩き台にするべく文字を羅列したといった方が正しいかな。毎月25日から始まる魔の2週間に既に突入。今月は年賀状もひっかかり、年末・年始の特別編成の広報などが多くてイライラの連続。それでなくても更年期障害が尾を引いているのか、自分でも嫌な性格に陥っている。回りの従業員にも悪いなあと思いつつ…。イライラ解消の術は今のところない。おっ、一つあった! 夫にからむこと…。というわけで、正規の勤務時間では、電話や来客(年賀関係が多いから、ほんとうに煩雑に席を立つ)で集中できず、仕方なく夕飯後から深夜の作業を、昨日から始めたというわけ。私は、イベントや講演会、シンポジウムなんかの記事は大の苦手。紀行文ならありのままに書いていけばいいけど。きっと、まとめる能力が低いのだろう。部分部分しかとらえられず、全体を把握できない。ああー、これで記事になるのだろうか。とまあ、今日は愚痴のオンパレードとなりました。少しでも発散できれば、慰めにもなるし…さてと、これから眠りまーす。
2004年11月26日
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24日は実家から朝帰り。朝6時、車のエンジンをかける。世の中、こんなに汚れなくきれいだったのかと思うくらいのミルキーワールド。濃密なミルキーで、運転が心配になるくらいだ。フロントガラスは氷り、暖気運転すること5分。荷物を整理して、身だしなみを整えて車に戻ると、「えっ!」家の周辺はすっかり霧が消えている。標高約600メートルの実家から、長野に向かう。250メートルくらいを徐々に下っていく。霧って高い方から消えていくんだね、知ってた?時速50~60キロで走る私の車と、霧の消えていくスピードがほぼ同じ。ミルキーワールドに突っ込んでは、しばらく走ると後方には朝日が当たっているという感じだ。午前6時20分頃の中野市の、とある場所の風景です。おかげで、東の山から陽が指す光景をはっきりしたものだけでも3回も見てしまった。まず、実家から2分くらいの場所、次は小布施、そして落合橋を過ぎて堤防道路を走る頃には、戸隠西岳と高妻山の茜色に染まったシルエットが青空に突き刺さっていた。思わず、車を停めてシャッターを押す。しばらく見愡れる。心の中に巣食っていた霧(こちらはミルキーとは言えないかな)も、だんだんに薄れていくような…左・高妻山 右・飯縄山 長野大橋下の堤防道路よりもうここから家までは、霧の姿は谷間にたゆとうっているだけで、周囲の自然のきれいなこと。よく事故を起こさずに帰宅できたなあって。で、家で待ってた景色はいつもの鹿島槍ヶ岳たちでした。鹿島槍ヶ岳、五龍岳、唐松岳(左から)またまた鹿島槍ヶ岳ノロケ話で、今日も終わります、チャンチャン!
2004年11月25日
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私がまだ結婚する前のことです。弟が亡くなって、当時、弟が住んでいたK市役所に死亡届けを出しました。それからしばらくして、父が「●(弟)だけ1人の戸籍にしておくのは可哀想だから、こっちへ戻そう」と言い出し、母も私ももちろん賛成。そして、父はK市役所に住民票の移動をしに行きました。ところが、「亡くなった人が申請できるはずがない。従って住民票の移動はできない」と拒否されたそうです。父は事情を説明して、ぜひとお願いしたのですが、受け入れてもらえず、しょんぼりして帰ってきました。確かに亡くなった本人が住民票の移動なんか申請できるわけはありません。弟が亡くなったとわかって実際に死亡が確認されるまで数カ月あったのだから、この間に住民票を移動してしまえば良かったのに、とさんざん家族で悔いましたが、時すでに遅し…でした。その後、父はお酒を飲んでクダまきが始まると、「●の戸籍、残念だなあ」「1人で寂しいだろうなあ」を連発したものです。戸籍上、記入されていてもいなくても、家族であることには変わりはないのですが、私も父に似て古い型の人間なんですね。今回、若ガラスの住民票を移動して、弟の戸籍などを思い出し、ちょっと感傷に浸ったのです。戸籍なんてさ、ずーっとずーっと昔、税金をとるために作られたものなんだからさ…。
2004年11月24日
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いえいえ、私ではありません。若ガラスの住民票を京都市に移したのです。本当はもっと早くしなければいけなかったのだけれど。バイクの名義変更に必要であり、就職活動にもプラスになるかもしれない、そんな理由からです。おっと、もう1つ、大事な理由があったわなー「京都市をお客さまとして見るのではなく、そこに住んでいる市民として日夜接してほしい」ってことね。こちらからの転出は11月10日。転出届けって14日以内に該当自治体に出さないとだめになるんですね。だめってことは、もう1回、転出届けをもらえばいいのかなあ。それともどこにも属していない宙ぶらりんということなのかなあ。先日京都に行ったときに持っていき、「14日以内」を連発してきたのに、帰省した折にまだ出してないと知って「おい、おい、国籍なしになるか」とさんざん脅しておいたのだ。これで晴れて京都市民。Y子さん、よろしくね。ああ、ふるさとの村は、また1人、人口流出だ。若い人が可能性を試すためにどんどん村外に出ていく。別の世界を知ることは素敵なことだし、村を外から見つめることも必要なことだ。例え村に職場があったとしても、一度は外界へ飛び出してほしいよ。では、合併との関連はどうする!職場があるかないかの問題とは、また別の次元のことのような気がするなあ。
2004年11月22日
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信濃毎日新聞より上高地周辺で、オオイチモンジの幼虫を手に入れるために、マニアや業者が植樹であるドロノキを切り倒すケースが目立っているという。オオイチモンジが産卵するのは枝先が多いから、その枝先が欲しいがために、木そのものを切り倒し、必要な部分を持ち去るという悪質なやり方だそうだ。さらに、木に上って幼虫のいる枝先だけをハサミで切って持ち去るケースの方が全体的には多いから、上高地周辺から「拉致される」オオイチモンジの幼虫の数は予想できないほど多いと考えられるとのこと。成虫になった蝶を採集するより、幼虫を育て羽化させた方が翅も傷まず、商品としては高く売れるのだ。オオイチモンジは長野県では天然記念物指定になっている。中部山岳地方(長野・群馬・栃木・山梨)と北海道に棲息していて、蝶マニアにとっては喉から手が出るほど欲しい蝶の一つなのだ。オオイチモンジってどんな蝶?って方はこちら。オオイチモンジこの蝶、私も1頭だけ持っている。ヒメギフチョウの鼓動との出会い以前、まだまだ蝶を自分のものとして我が手の内に置いておきたかった頃のこと。上高地で初めてオオイチモンジの姿を目にした。タテハチョウの仲間ではわりと大きく、おおらかに舞う横真一文字の白い線の入ったこの蝶が大好きになった。けれど、上高地でこの蝶を採集するなんて、いくらなんでも私は想像だにできなかった。上高地のあの風景の中にいてこそのオオイチモンジという感覚だったからだ。ところが、友人と上高地の裏玄関、島々谷を遡ったとき…。なんとオオイチモンジが舞っているではないか、それも複数で。当然、ネット(捕虫網)へ。この時には何の迷いもなく、うれしかった。業者がターゲットとする蝶マニアは、専ら大人の「蝶お宅」。宝石のような蝶の数々をお金で買って標本箱へずらりと並べ、悦に入る。そう、通販なのだ。子どもたちが観察をしながら蝶を育てるのとは訳が違う。卵なり幼虫なり蛹を自分の足や目で探し、食草を与え、温かい(おっと、幼虫は温かい感じとはちょっと違うかな)成虫の蝶に触れる…こんな接し方ができれば、安易に商品を購入する蝶マニアには堕落しないと思うのだが。「自然は大事にしなきゃ」「生き物は殺しちゃいけないよ」のまちがった部分だけが浸透してしまった結果なのだろうか。私も標本作りに夢中になっていた時代があったから、あんまり大きなことは言えないが…。いや、そういう時代があったからこそ、虫たちの命の大切さや、「やはり野におけ~」の真髄を強調できるのかもしれない。来年夏に向けて、環境省上高地事務所では対策を練るそうだが、ボランティアなんかも募って、ぜひぜひオオイチモンジを守ってほしい。
2004年11月21日
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2日程前から、体の色がやけに黒ずんで、特に腰のあたりはほとんど黒くなってきた。ちょっと異常な状態だなーと思っていたら…ついに腰の部分に穴が開いた。私の体のことではない。今秋、久方ぶりに我が家の山椒の木から蛹になって、冬を越していたアゲハのことなのだ。幼虫から蛹になるときに遠くまで歩いた彼をやっと探し当て、昨年のように突然姿を消さないように、会社の玄関のちょっとした場所に移動しておいた。壁の色に似たベージュのきれいな蛹になっていたのに。穴の開けられた蛹の殻を調べてみた。なんとまだ8ミリぐらいのちいさな蛹が入っていた。たぶんコマユバチかなんかの蜂の蛹だろう。ということは、先に穴を開けてでた蜂がいたはずだから、アゲハの蛹の中に複数の蜂の卵が産み付けられていこということになる。蜂の蛹が4つも出てきたという記録もあるくらいだ。それにしても、せっせと葉を食べ、酷暑も豪雨にもジッと耐えてきたアゲハの幼虫が、やっとの思いで蛹になって来春の羽化を待っていたのに、最後の最後で蜂の幼虫に体液を吸い取られ、ミイラになった蛹から別の生命が飛び出すなんて…あまりにもひどい。まるでSFのエイリアンではないか。昨年も羽化までいかず、今年も最後にみた3匹の幼虫の1匹はやられた。あと2匹、どこかで無事に羽化してほしい。残された1つの蜂の蛹、どんなのが出てくるか見きわめてやるッ。*************今までスズメだとばかり思っていた小鳥たち。よーく見ると、そうではない。最近、早朝に小さい集団で来る小鳥たちがいる。白とうすい紅色、そして長い尾が記憶に残る。野鳥大好きさんに教えを請いながら、どうやら「ベニマシコ」かなということになった。で、今朝も姿を見せた。この小鳥たち、落ち着かないんだ。常にあっちゃこっちゃと飛び回って、よーく観察させない。もう一度図鑑を見る。ベニマシコにしてはやっぱり紅が薄いし、もうちょっと尾が長いような気がする。ページをめくっていくと「エナガ」…、この方が似ているかなって感じがしてきた。本当はベニマシコの方が冬鳥だし、留鳥のエナガより珍しそうだから、ベニであってほしいんだけど…。もう少し観察してみよう。エナガ(スズメ目エナガ科 約14センチ) ベニマシコ(スズメ目アトリ科 約15センチ)(共に山渓の『日本の野鳥』より)図鑑で見ると明らかに違うのは分かるんだけど、実際に見ると、素人目にはよくわからないんです。
2004年11月20日
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実はね、17日に若ガラスが帰ってきたんですよ。でも、もう明日には再びあちらに帰ってしまんうだけど。私たちが京都に行ったから里心がついた………てなことは全くなく、最初から帰ってくることになっていたんですよ。推薦入試が始まるから大学は休みだそうで。17日に帰ってくるんなら、わざわざ京都まで出向くことはなかったのに、なんて思わないでください。若ガラスをダシにして京都に行ったのですから。3泊はちょっと短いようで物足りなく感ずるけれど、その位がお互いにちょうどいいのかも。家に帰ってくると、私たちの生活と半日ずれるし、ついつい口を出してしまうことになるから、両方で疲れる。電話で話しているのが、一番優しくなれるような気もするよ。クリスマスはもちろん帰ってこないから、ケーキを買うのはやめよう。・・・ンー、やっぱりケーキ食べたいな。ちっこいの買ってこよう。あっ、焼き鳥してやろうと思って鶏肉買っといたのに、作るの忘れてた!ねぎもYさんがたくさん持って来てくれたのに…。「ああー、食いたかったなあ」(互いに別のパソコンに向かって、楽天日記書いてるんですよ)「わりい、わりい、ごめん」明日の昼の大阪行きの列車に乗るべく、駅まで送っていきまーす。おやすみ。
2004年11月19日
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最後のゴジラ作品が作られた今年、ゴジラ誕生から50年ということもあって、NHKBSでここずっとゴジラ作品の放映がされている。第1作は見そびれたが、今日で4作品を見た。最初の頃の特撮は、今の技術からすれば本当に稚劣なもので、子どもっぽいストーリーだけれど、何か魅かれるものがあるんだ、私は。なんとなれば、夫の携帯では私からの着メロは、この「ゴジラ」のメロディーなのだ。♪チャチャチャン チャチャチャン チャチャチャチャチャチャチャン♪っていうやつ。ゴジラのようにおっかないお母だからと、若ガラスが子ガラスだった頃に設定し、そのままになっている。私がゴジラに魅かれるのはそのせいか? いやいや、まさか…今日のは、1983年制作の「ゴジラ」。30周年の特別作品でそうそうたる出演者、小林圭樹=内閣総理大臣、田中健=新聞記者、沢口靖子=後に田中の恋人、宅麻伸=沢口の兄、夏木陽介=科学者、石坂浩二、武田鉄矢、内藤武敏、金子信雄、などなど。《ストーリー》日本の貨物船が原因不明で音信不通に。数日後に乗組員が不審な死に方をし難破している船を新聞記者が発見。ただ1人の生存者(宅麻)が見つかり、彼は「巨大怪獣にやられた」と主張するが受け入れられず、そのことが洩れないように政府によって隔離される。その後、ソ連(懐かしいね)の船が核攻撃によって沈没。アメリカに攻撃されたとして報復を準備するソ連。しかし、日本のP3C哨戒機が現場を上空から撮影した写真には、海中にゴジラの姿が映っており、日本国の首相は米ソの大使を呼び事実を説明。これによって米ソによる核戦争は回避され、同時にゴジラの存在は公に発表される。ゴジラ攻撃作戦がこの後展開されるわけだが、2000年代になって実際に起きていることを、20年前の作品で取り入れている点は、世界の流れを非常に的確にとらえていると、つくづく感心してしまった。1. 原水爆実験の申し子であるゴジラは、日本の原発の原子炉をエネルギーとするために東京湾周辺に近づく。それに対して、米ソでは核を使って殺そうと日本政府に申し出る。もちろん首相はそれを拒否するが、両国からは「攻撃され被害を受けたのだから、報復する権利がある」という、どこかで聞いたような主張をする。現首相と違うところは、ソ連にもアメリカにも真っ向から、核使用を強く否定するところだ。「もし、ニューヨークやモスクワにゴジラが現われたら、あなたたちは核を使用しますか」強国に尻尾を振ることなく、自国民の安全を第一に考える首相。今、日本に欲しいのは、こんな首相だよねえ。2. 核攻撃は回避できたものの、ソ連の核ミサイル(宇宙に設置してあるミサイル)がゴジラによる事故で発射されてしまう。ソ連が東京湾に核発射システムを持ち込んでいたのだ。標的は東京にいるゴジラ。これはアメリカ軍の迎撃核ミサイルを発射してもらい成層圏で爆発させることに成功するのだが、その迎撃核ミサイルの発射基地が、なんと「嘉手納」なのだ。思わず、「うん、ありそうなことだよなあ」3. ゴジラも持つ渡り鳥の帰巣本能を誘う電磁波で三原山に誘い出されたゴジラは、最後に灼熱の火口に落ちていく。その時のスタッフの寂しい表情は、まったくターミネーター1のラストシーンに似ているのだ。ゴジラは「I'll be back」とは言わなかったけれど。人間のした原水爆実験の申し子であるゴジラ、時には、モスラやラドンと協力して宇宙怪獣と戦ったり、公害によって生まれたヘドラーをやっつけたりと、何となく人間の仲間のような描き方が多い。私のように、ゴジラに少しでも愛着を持つ人間が意外に多いせいかもしれないなー。*************ゴジラシリーズに触発されたわけではないだろうが…17日「新防衛大綱原案」18日「自民の改憲大綱素案」自衛軍をもって、中古護衛艦を他国に売り渡すこともできるし、北朝鮮同様に中国に対しても警戒感を強めていかなきゃ。中東から東アジアの石油に日本は大半のエネルギーを頼っているのだから、そこの安定が大事だよね。そのためには各国と協力してどんどんそのエリアに入り治安を維持していく必要もあるでしょ。自衛軍(自衛隊じゃないよ)の武力行使は当然できるよね。緊急事態が発生したら、首相が国家緊急事態を布告して、その間は私たちの基本的権利や自由は制限されるらしいよ。どんな日本であっても、自国に愛国心を持つことは絶対必要だよね。********こんなんで本当にいいのだろうか。いいはずがない。
2004年11月18日
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N市のスーパーに寄った。最近改修して店内外共にきれいになって評判も上がっている。大根の千枚漬けに入れるゆずを買った。1個255円。たかーい!でもあの大量の千枚漬けを少しでもおいしく食べるために、清水の舞台から飛び下りるつもり(大袈裟かもしれないけど、主婦の感覚はこんなものだ)で篭に入れた。レジに行く。このレジ係さん、咳きが激しい。時々咳き込みながら顔を真っ赤にしてバーコードに光線をあて…咳き込みながらだから、声に出す品物の値段も、客にはよく聞き取れない。最初は、具合悪くて大変だなあと同情で見ていたが、途中から常識を疑うようになった。ここは食料品を扱っているんだよねッ。こんなに咳きをしているのに、マスクをしていない。マスク云々よりも、こんな症状の人をレジに出すべきでない。いや、店内におくべきではない。思わず周囲を見回した。誰かお店関係の人、気づいてくれないかなあ。店内は比較的すいていて、このレジは私一人。「あなた、なんとかしなさいよ」と強く念じたら、やっと彼女、マスクをポケットから取り出してかけた。品物は包装されているものが多いけど、でも、食べて大丈夫かなあって思ってしまった。でも、いいこと(悪いことかも?)もあったんだ。咳きで焦っていたのか、鰺の開いたものを私は4枚袋に入れていたんだけれど、彼女は「あじ3枚」とかいってレジを打っていた。4枚ですよって言いかけたけど、迷惑料だと思って黙ってしまった……やっぱりずるかったかなあ…。
2004年11月17日
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京都のスーパーで、聖護院大根を3つも買ってきた。その1 葉はばっさり切ってある、ものすごいいびつな聖護院大根 80円 (若い定員曰く「不格好だから安い」)その2 茎付きで「丸大根」と書いてある大根 200円 (若い定員曰く「採れた所が聖護院じゃないから安い」)その3 茎付きでラップにくるまれ、「聖護院」と書いたテープが張られているもの 350円錦市場で見かけたもの(葉先まで付いていた)はなんと800円の定価が付けられていた。だから、夫も私もなんかすごーく得した気分で、どれが一番おいしいかを比較する意味もあって3つも買い込んだのだ。レジのおばさんが「聖護院で作ったから聖護院大根で、そのもとは丸大根なんですよ」と夫に教えてくれたとかで、ますます得した気分になったのだ。15日の昼、まず80円なりの聖護院を薄くスライスし、塩漬けにする。夜、昆布を入れた甘酢の中に、塩漬けした大根の水気を切って入れ、軽く重しをかけて漬け込んだ。残りの200円と350円の聖護院も同様にスライスして塩漬けする。そして16日の昼、最初に漬け込んだものをちょっと味見とばかりに食べてみる。「うーん、本物と歯ざわりが全然違うぞー」あの、ぼったりとした歯ざわりが全くない。「やっぱりさあ、素人が作ってあんなにおいしければ、京都の特産にならないじゃん」さあ、ここまで書けば、賢明な方は、何を勘違いしたのかお分かりでしょう。「千枚漬け」は聖護院蕪から作るのに、聖護院大根だと勘違いしたのです、私ども夫婦は。16日の午後、私はネットで「聖護院大根は本当に丸大根と同じなのか」を調べたくて検索したんです。そして、初めて「そう言えば、千枚漬けは蕪の味だアーーーーッ」てことに思いが行き、大根と蕪を間違えたことに気づいたのですよ。大体630円(大根3本の合計)ぽっちで、あの千枚漬けを何十袋も食べられると思ったのが浅はかでした。もともとは「なんで10枚くらいしか入ってない千枚漬けが650円とか630円もするんだ」というケチケチ根性と、スーパーにあった280円という千枚漬けの存在を不思議に思ったことから始まった「原材料買って作り安くいっぱい食べたい作戦」だったのです。あーーーーーーーーーーー~~ッどうするんだー、あの大量の甘酢漬け(まあ、不味くはないけどさあ)!!!!!聖護院大根なら煮るととっても柔らかくて美味しいそうなのにィ!!!!!ずくをやんで(方言です!「さぼって」というような意味)1個くらい残しておけば良かったアァーーーーーー!こうなったら、意地でも聖護院蕪で千枚漬けを漬けるぞーッーーーーーー!!!※この日記にいただいたお二人のコメントは、昨日の日記にいただいたものです。日記を移動したものの、コメントは移動できなかったのでそのままになっています。ごめんなさい。
2004年11月16日
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朝、大阪までフットサルの試合に行く若ガラスと別れて帰途につく。ただし、私はどうしても天智天皇陵が見たい。で、やはりY子さんに教えていただいた新撰組発祥の地であり会津藩・松平容保(かたもり)が本陣を置いた金戒光明寺をうーんと宣伝した。山科を通るルートを選択するために。「ほら、NHKで新撰組の隊士が階段かけあがるでしょッ(その実、私の記憶にはなかった)。あのお寺見に行こう」乗ってきた、乗ってきた!私は天皇陵への誘いで言ったのだが、ここが実はおもしろかった。昨日も見かけたのだが、「京都スカイ観光なんとか」という腕章を巻いた、要するに観光ガイドさんがいて、丁寧に説明してもらった。左右に釈迦が没する前後のエピソードを描いてある涅槃図とか、会津藩が京都守護職につかなければならなかった理由とか(この部分は14日のテレビ「新選組」の内容とちょうど一致していてガイドさんの話を思いだしながら番組を楽しんだ)。京都の古地図の説明など、今回の旅ではやっと歴史を学んだという感じがした。「容保」を私は読めなかった。夫に、「京都に来るときくらい、歴史をちゃんと勉強してこいよ」と言われた。悔しいけれど、歴史全般については夫の方が良く知っている。さらに、講のご一行と前後したので、お坊さんの話や読経までいっしょに聞くことができた。このお寺も浄土宗。お経を聞きながら、父の17回忌を心の中で営ませていただいた。「ガイドがいると、よくわかっていいなあ」「いるといないとじゃ全然違うね」「うん」ニヤリッ「大事だよねえ、ガイドって」「???」「私もどんどん地下壕へ行こッと。やっぱり見学する人にガイドしてやらなきゃね」「・・・・・・」千枚漬けの大好きな夫は、どうしても聖護院門跡まで行くというので、歩いて行ってみた(単に聖護院つながりです)。大きな石碑が建ち、寺務所というところもあったけれど、もうお寺ではないようだ。周囲に畑があって、聖護院大根なんかが植えてあればいいなあと思ったけれど…。両側の道にからたちが垣根になっていて、蛹が板塀などにくっついていた。手が届けば1ついただいてこようなどと思ったけれど…。あるお宅ではガレージの屋根から「アブチロン」の枝が流れ落ちていて感激。京都だから地植えができてこんなに大きくなれるんだろうな。いいなあ。会社の受付に、私の小さな「アブチロン」が置いてある。お客さんの中にもこれを話題にする人がいて、たまたま先日は夫と話をしたようで記憶に残っていたらしい。私が見つけると同時に彼も見つけて「ほら、同じ花あるぞー」と教えてくれた。入口付近を埋める花たちをじゃま扱いにしていた夫も、お客さんとの会話となると、花を見直すのだろうか…。さてさて、早く陵へ行かなければ時間がなくなってしまうと焦っていた私。夫の「えーっ、行くのか」という言葉にも全くめげずに、カーナビを「天智天皇陵」に合わせる。ところが、これが失敗。信仰住宅地のほそーい道をくねくねと入り、第一疎水につきあたった。気持ちのいい川べりだ。これが南禅寺の方まで流れている。疎水に沿って歩けたらいいなあ。よし、今度来たら歩いてみよう。次回のテーマが一つできた、うふふ。こんな所車で入ってもいいのかなと思いながら、疎水から本圀寺という日蓮宗のやけにけばけばしたお寺まで行ってしまった。またもどって、あきらめつつ京都東インターへ向かう。もちろん私は陵へ入る道をさがしながら。あったーッ!交番の前から参道(?)が始まっている。交番前に車を止めて、私だけ行ってみる、「早く来いよなー」という夫の声を背に受けて。入口。Y子さん、気味悪いって言ってたなあ…歩き始めます。これは帰りに撮ったもの。従って2人連れとはすれ違っただけ。1本だけ、紅くなりはじめていました。途中から道は細くなり、針葉樹の樹林に入り、あたりは一層薄暗く。引き返そうかなーと迷っているうちに、前方から大学生のゼミみたいなグループが来ました。人気に力を得て前進。これが天智天皇陵です。古墳の中では、素性が信じられる古墳の一つだそうですから、多分天智天皇はこの中のどこかにいるのでしょう。いつか皇室関係がオープンになってこの中も調査できたら、いろんな新しい事実がわかってくるのでしょうね、きっと。京都薬科大学は、この陵の山を借景にしている。また、陵のすぐそばまで住宅が侵入し、「○○封じ」という地名の所すら住宅に占領されていた。以前みた長屋王の古墳なんて、天智天皇と規模が違うから古墳のみがむきだしという感じがして、住宅とは向こう三軒両隣といった感じだった。畏敬の念なんてのは、陵にはもう感じられないのだろうな、あまりにも昔、むかーしの話で。以上、京都の旅でした。忙しかったけど、まっ、3人で過ごせた時間があったので、最高としましょう…ね。Y子さん、ご協力ありがとうございました。
2004年11月15日
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ただいまぁ。夕べ家に着いたのは19時30分。日記は書けず…今朝、こっそり仕事の合間に写真だけ3点アップしました。詳しいことは後々少しずつ。上の2点、どこでしょう?京都まで行って幼虫の写真、撮るなって?京都の幼虫だから撮ったの。なにか京都の幼虫ははんなりしているでしょ?うそうそ、単に焦点がぼけただけ。*******************中央道と名神高速の合流点から早くも渋滞気味。大津ICから京都東ICまで4キロの渋滞。予定より1時間遅れの10時30分に若ガラスの所へ。すぐに出かけるつもりが、学校と卒論と就職と教授の話を始めたら、途中で打ち切れずに(私は車の中でもいいと思ったんだけどね、実は)、お昼まで話し込む。うーん、なかなか難しい。簡単に判断できない要素がたくさんある。最終的には本人が取捨選択していくしかないのだが…。3人寄れば文殊の智恵のはずなのだけれど…ウーン。京都の町は紅葉にはちょっと早いようだが、観光客と観光バスが列をなしている。この日のコースは、結果的には知恩院-祇園-河原町Y子さんから教えていただいた知恩院に続く新門前町。骨董のお店が並んだりして楽しそう。そもそもその骨董屋さんのできた訳が、日露戦争の捕虜と関係しているとネットで知って、「戦争大好き」の私は一層の興味を持った。夫も知恩院は初めてで、また骨董なら義父にもお土産話ができると思ったのだろう。珍しく目的地一致。若ガラスは今日はナイト役に徹するらしく、何も言わない。夫との旅は、目的地をはっきりと決めていかない。だから、私が前日までに資料を見つけておきさえすれば、それが大体主ルートになってしまう。そこまではいいんだけれど、それを元に、周辺をふらつきたい私は、いつもジーンズにスニーカーという出で立ちなのに、夫は目的地と目的地は車でつなぐということが多い。若ガラスのところへ車を置いていった方がいいという主張は、やっぱり通らず。案の定どこも入れない。知恩院前の駐車場は退場する車を待って車の行列。あ~あ。三門の一本北側に路上駐車が3~4台あったので、その中に突っ込む。でも、真正直(?)というか、気が小さい私め(?)は、それが気になって観光には集中できなかったのだ。七不思議を見て(うぐいす張りは以前より音が大きくきれいになった感じがしたよ)一周し、御廟の方へ上がる。トップの写真はその石段でのもの。ここまで上がったのは私も若ガラスも初めて。「千姫ってだれ?」という驚くべき若ガラスの質問にあきれ、「ねえねえ、お父さん、説明してやって」と夫に振る(笑)。その千姫の大きなお墓を中心にだんだんと小さくなる墓石の群れ。ああ、亡くなっても序列ははっきりしているんだ、ここでは。高台まで上がると、眼下に平安神宮の朱の鳥井が見え、あっちこっちに大きなクレーンのアームが林立している。およそ京都らしからぬ景観にがっかり。境内には椿が咲く。ここは浄土宗総本山。実家も浄土宗で、今年は父の17回忌。諸般の事情で全員そろっての法要はできなかったので、ここでその分をお参りし、お線香を買う。「駐車違反て何点取られるの」(若)「免停になるの(おいおい、若ガラスよ、免許持ってるだろ。免停になんてならないだろう)」(若)「レッカー車で移動かなあ」(姥ガラス)小走りに駆け寄った車のフロントには・・・・なーんにも張ってなかった。良かったー。「こんな運のいいこともたまにはあるさァ」(殿ガラス)さて、車をどこかの駐車場に入れて、新門前通りと若ガラス御用達の河原町の「丸善」、そして夫のたっての願い「錦市場」へ行かなければ。すごいねえ、京都は20分100円て書いてある。ちょっとした土地を持っていたら駐車場にすればいい、などと文句を言いながら、どんどん離れてしまいそうなので、観念して入れる。管理人に、「新門前通りってどこですか」と訪ねると「そこを通ってまたもう少し向こうへ行ったら聞いてみて」??????結局別の道を歩いて川端通りに出てしまったようだ。でも「新門前通り」と書いた看板を見つけたから、帰りはそこを通って駐車場まで行けばいいやと思うそばで、帰りはまた見失うだろうなという予感が(大当たりだった)。辰巳稲荷から格子のきれいな町家を通って河原町へ。舞妓さんに扮した女性が何人も記念写真を撮ったり、そぞろ歩いている。すれ違いざまに顔を見ると、すごーい厚化粧。びっくり。人、ひと、ヒトの波。若ガラスが、後ろから「ちゃう、ちゃう、こっち」「あっち」と行き先を指示。あっ、なんでも1000円ショップがある。隣は3百○○円ショップ。覗こうとすると、男2人に負ける…前進!丸善。若ガラスは専門書のフロアーへ。夫と京都関係の本がずらーりと並べられているところで『日帰りで歩く京都なんたら』というのを買う。今買っても、今回は間に合わないんだけど。まあ、次回に備えよう。数日前に新聞を騒がせていた『京都観光検定』なんていう本も山積みになっていた。「錦市場」何となく知っているという若ガラスについて行き過ぎて戻りながら到達。最初はここで今夜の食材を買って若ガラスの部屋で食べようと思っていたのだけれど、半日歩き回って面倒くさいのはイヤと3人が3様のイメージを描いてやめ。夕食はどこかで食べることにして、おみやげを買うことに一致。夫婦で出てくると、おみやげが大変なんですよ、田舎では。ちなみに今回は、私達が泊まりで出てくるために、親戚の人に泊まってもらっている(義父のつきそいというより義母のつきそいという感じ)から彼女の分。よくお見舞いに来る夫の従姉妹の分。義母の頼みで、訪問看護婦さん3人分と、来週往診にみえる医師の分ということで、大変なんですよ。野菜をもらう近所のおじさんとかにもと言われたけれど、もうその辺は私がバッサリとカット。そんなに買ったらお土産宅配にしなきゃならないじゃあないかッ!もう、全く!でも、錦市場って楽しいね。狭い道路をはさんで両側にいろんなお店が並んでいて。和菓子大好きな私はついつい手が出てしまう。夫は前にテレビで見たとかで「ここは、お茶屋さんが仕入れるところだから、結構値段がいい高級食材が並んでるんだよ」と言っていたが、本当だろうか。そんなに高級品ということはないような…。かつてはということじゃないだろうか。今はやっぱり観光客相手みたいな感がしたけれど。行きは良いよいで、帰りは結構遠くまで来たなあって感じ。白川通りを通って辰己稲荷へ。川沿いに御茶屋さんがずらーッと並んでいる。「○○が無事就職が決まったら、ああいうとこで祝杯あげるか」と夫。大丈夫?就職もお金も…気に入っていた和食屋さんがつぶれた?らしいということで、行き当たりばったりに食事。途中で食事となると、私が運転手になるから飲めない。そこがちょっと残念。夫と若ガラスで飲めばいいのに、若ガラスはデザートに「アイス」だって。まあ、いいでしょう。狭い部屋に夫と私はシュラフにもぐる。若ガラスは、購入した専門書『認知意味論なんたらこーたら』に目を通すって。では、お先にお休みー。13日夜中に、地震ありませんでした??
2004年11月14日
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明日、予定では朝4時出発で、京都に向かいます。今、Y子さんに教えていただいた場所などを、ネットで調べてプリントアウトしました。「もう心は京都だなあ」と夫。当り前ではありませんか。雪が降りそうでちょっと心配なんだけど…。夫と私の交代運転です。若ガラスと合流して、ちょっと早い秋の京都を楽しみます。彼の進路相談も、3人で真剣に話してこようと思っています。道中、けんかしないように行って来ます。モチ、イヤリングなんかもしていきますよー。楽しい報告ができるといいけどなあ。るんるん!!!
2004年11月12日
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60年前の今日、「いい日、いい月、いい時間」と縁起をかついで、「11月11日11時」に松代大本営地下壕工事が始まったのです。午前11時に、最初の発破がかけられました。松代大本営工事というのは、太平洋戦争末期、激しい空襲を受ける東京から松代に大本営を移し、本土決戦態勢を組もうと計画した工事です。もし、本土決戦が実現していたら、沖縄戦(兵隊約10万人、一般民は10万人以上死亡したと言われています)と同じ場面が、この松代を中心に繰り返されていたと言われます。で、追悼のつどいも、今年で第16回。催しの名称も「松代大本営工事朝鮮人犠牲者追悼のつどい」が、日本人にも犠牲者がいたことがわかった数年前から「松代大本営工事朝鮮人日本人犠牲者追悼のつどい」となりました。犠牲者といっても、朝鮮人に関しては実数などはわかっていません。300人説から100人説、70人説と種々あり、全く霧の中。犠牲者どころか、松代で働いていた朝鮮人の数はおよそ6000人余りということしかわからず、その人たちの名前もほとんどわかっていないんです。わずかに、30数名の強制的に変えられた日本名(創氏改名)でのみ確認されているだけなのです。長野俊英高校(旧名・篠ノ井旭高校)が、犠牲者の遺骨を探して故郷に返してあげたい、祈念館を建てて松代大本営の実態と歴史を伝えたいと願って、もう20年。私の所属している「松代大本営の保存をすすめる会」も高校生といっしょにと発足して19年。今だに、新しい犠牲者の遺骨は見つからず、祈念館は建っていない。詳細は松代大本営の保存をすすめる会長野俊英高校郷土研究班-教育実践《準備》つどいは午前10時30分から始まるが、準備のためにスタッフが集まるのは9時。最近は諸々の事情で、私はつどい開始時からの参加だったが、今年はちゃーんと9時に行きお手伝いをしようと…。毎度のごとく、あたふたと飛び出し、会場着9時2分。会場と言っても野外。晩秋の象山西側の祈念館予定地。晴れていれば、北アルプスがズラ~リ見えるのですが…。受付のテント張り。ああ、運動会準備以来だなあ。献花台の準備とか、横断幕の設置とか。大変だったのが、鎮魂の舞い「僧舞(ソンム)」を舞う舞台作り。イベント用の畳を12枚借りそれを敷くのだけど、下が雑草茂る場所だけに、前の週に草刈りをしたにせよ、ツンツンと残骸が立っている。熊手でならしたり、体重にものを言わせて畳の上から踏み付けたりして、準備万端整ったのが、10時15分。ふうーッ無事、つまづいたりせずに踊っていただきました。これは今年のではなく、一昨年のものです。《迷い子》それでなくても気温の高い今日、山から行った(いつもみんなにからかわれる「もう雪降った?」)私はセーターを着ていたせいもあって、汗タラーリ。あとは写真を撮ればいいやと一休みしていると、会の携帯にこの場所がわからないという電話が何本も入る。中でもSBCテレビさんが説明してもわからない。仕方なく手のあいていた自称若者の私がメーン道路との分岐まで出ることにする。もちろん歩いて。分岐で待てど暮らせど来ーぬ人は~。仕方なく、道路に出たがっている車を誘導したりして…?待つが来ない。つどいは始まったし、マスコミへの対応は大事だし。だけど、こっちだって会報の写真撮らなきゃ困るんだよ。結局、迷い子とは合流できずに引き返す。地元だろSBCさん、しっかりしてよ!(かなり経ってからいらっしゃいました)《電池切れ?》迷い子さんのおかげで、私も途中からの撮影となり、少々焦り気味。朝鮮大学生の姿はちゃんと撮れた。次は11時に合わせて全員で黙祷のはずが、献花だと言われ、またまた焦った。順番を確かめているうちに、報道陣は献花台のある5番壕入口へ移動している。一番後から場所取りに加わり、献花を撮影。1枚撮ったところで、シャッターが降りなくなった。表示も全くしなくなった。エーッ、電池切れ? 突然切れるなんてことあるの!頭は真白、アーッ、会報はどうなるの?「あいつ、何やってるんだ」と回りのマスコミさんに思われたくないから、押せないシャッターを必死に押す………これは昨年のものです。終わりまで待たずに、抜け出し、先程の場所に戻って、念のためにもってきた別のデジカメを出す。まあ、献花の写真は誰かに借りることにして、ここからはちゃんと撮るぞ。鎮魂の舞いが始まった。シャッターをオンにする。レンズが……………エーッ?!!!!!! 出ないーーーーーッ!あっちこっち触ってみる…電池が入ってないッ!もうーッ。仕方ないから、親しい方に訳を話してその方に撮影していただく。というわけで、写真が古い理由がおわかりでしょう。古いといってもカラーのない時代ではなく、モノクロ用データしか残っていなかったのです。〈原因その1〉 突然表示が消え、シャッターがおりなくなったのは、レンズを交換した際にGタイプのレンズだったので絞りリングを細小絞りにセットしたのは良かったのだが、ロックしなかった。焦点を決めるためにレンズを回した際にロックが外れ、エラーに続いて表示が消えたということらしい(自分で書いていてもちんぷんかんぷん)。〈原因その2〉 電池を入れ忘れることが結構あるので前夜早々と入れておいた。ところが、夫がそのあと充電。私は入っているものとばかり思って、朝確認しないで飛び出したというわけだ。会報12月号、どうする、千恵子さぁーん!《たった一つ良かったこと》朝、私達が準備している頃から、1番壕口に車が入り人の姿が見える(ここは普段は入れない)。ずっと気になっていた。1番壕は信州大学理学部が借り受け、宇宙線の観測機器を設置して測定している。つどいの最中、カメラのない私は手持ち無沙汰で、1番壕の方が気になって仕方がない。K先生をつついて「あの人たち何してるんでしょうね」K先生も乗ってきた。「行ってみようか!」2人でそっと抜け出して、1番壕に柵をかいくぐって行ってみる。そこにいたのは、地震計メーカーさんだった。信州大学から壕の一部を借り受けて、新しい地震計ができるたびに、この壕でその性能を試しているそうだ。今回も新機種がきちんと作動するかどうかを、昨日から試験にきていると、話してくれた。しかも、扉をあけて壕の中に入ってもいいとさえ言ってくれる。「ただし、私達が借り受けているところだけですよ。信大の方は入れませんから」ええ、結構、結構。私は1番壕は初めて。K先生は2度め。壁面はコンクリートが吹き付けてあり、30メートルくらい入ると急に開けた。天井まで6メートル前後、幅も4メートル以上で、20本の壕のうちでは最も大きいようだ。途中2番壕とつながっている所は扉が閉まっていたが、その扉も大きい。2番壕も電波が飛びやすくするために天井を高くしたと聞いているが、1番、2番共にそういう性格を持っているのだろうか。小さな小屋様の中に器械が設置されて、地震のときのあの波線が動いていた。新潟中越地震もあったし、この人たちの意欲もきっと大きなものだろう。心からお礼を言って、急いでつどいに戻った。これが一番良かったなー。(ちょっと不謹慎ですね、はい)《今日の本題》長ったらしい日記をここまで読んでくださった方、ありがとう。この最後の部分が、私にとって今日のメーンなんです。このつどいに5年ぶりに出席してくださったAさんとお話をしました。彼はこんな痛烈なことを言ってくれたのです。「よくがんばっていますね。でもね、一人よがりの活動になっていませんかねえ。もっと魅力のある活動をしていかないと、伸びませんよ。よくあるんですよね。気が着いたらいつの間にかなくなっていたという団体がたくさんありますよ。謙虚になって活動を振り返ってみましょうよ。大切な活動をされているから、あえて辛らつなことを言わせてもらいました」納得してはいけないんだけれど、納得しちゃいそうです。頂いた言葉、大切に噛み締めて、みんなで考えてみよう、早急に。
2004年11月11日
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自衛隊のイラク派遣延長が、公明党が了解したため、1年の延長がほぼ決まったようだ。かつての沖縄戦、今度のイラクでの香田さん、自国民の命さえ守れない国が、イラクの人道支援だって?お昼のニュース(NHKラジオ)のトップが、「国籍不明の潜水艦を宮古島近海の日本領海内で発見」と大々的に報じていた。一体何ごとが起きたのだろうと、体を堅くした。確かに防衛上、領海侵犯だから重大ニュースなんだろうけど、国民の危機感を煽り立てるような報道の仕方だった。空自、海自が「いざ鎌倉!」と駆けつけたようだけれど…。潜水艦は中国船だったようだ。つい先日、中国を仮想敵国に想定した作戦を作ったとか作らないとかというニュースが新聞に載っていた。敵国にされた中国としてはおもしろくないよね。余計な作戦など作るからだよ。どうせするなら、世界一の軍事国、日本中に基地を持っているアメリカを仮想的国にした作戦を作ってみたらいかが。日本の心臓部分をがっちり握られているアメリカに、日本は太刀打ちできるのかい。なにか、おかしい。なにか、意図的なものが目に見えない部分で作られている。
2004年11月10日
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一面の朝霧。今日は晴れるぞーと、何かに期待したくなる。何か?…何となく…さ。子ガラス、結局来年1年は講師として勤めることになりそう。もう親の脛はかじっていられないと考えたのか、新年度から下宿先を変えるという。家賃、現在の半額ほどの所へ。トイレ・台所・シャワーは共同使用だって。「部屋代くらい補助してやるから…」と出そうになる言葉を、ぐっと飲み込む。これが自立なんだ…彼の意志を尊重しよう…自分の希望を、意志を、どこまで高く持ち続けていけるか。がんばれ、子ガラス!*************霧もすっかり消え、西の空に鹿島槍がくっきりと姿を見せている午前10時30分。この時間、この天気なら、Yさんも畑に出ているだろうと、先日から用意しておいたミルクティーの缶を持って、会社を脱出。いたいたいたッ、ねぎ畑の中で、草取りかな。「Yさーん、お茶にしようよーッ」ここ2~3日見せたことのないような満面の笑みを浮かべて呼び掛ける。「おー、今そっち行くわー」「なんだや、車のエンジン切れや。あんたの環境なんとかの持論に反するぞーッ」やられたッ!広ーい畑には、枯れた小菊の丸い(何とか仕立て)のがいくつも重ねてある。今年の干ばつのせいで、村中に配って秋の香りを楽しんでもらうことはできなかったって。「1日、フルに働いたって、女性のパート代にも追い付かない。これじゃあ、日本の農業がすたれるのは当然だよなあ」「日本の自給率は4割だそうだけど、孤立したって食べられなくなるってことはないはずだ。栽培できる土地はあるんだから」といいながら、周囲の土地を眺め回す。「あそこも荒れ地、こっちも荒れ地」の説明のあとに「土地が個人のものだってするのがおかしいよなあ」「えーっ、国家のものにしろっていうの!」単純に気色ばむ私。「いやいや、そうじゃねえさあ。その地区のものにすりゃあいいんだわ」近所の高齢者の畑も請負って、何とか緑を残していこうとしているYさん。そういう話を聞くと「私も畑、やってみたいなあ」とまたまた単純に。「いやあ、やめた方がいいぞ」「アハハ、今の仕事を止めたらのは・な・し」赤大根と、中太大根とを畑から抜いてもらう。くさくさしたときに、こうして話せる相手が、村のあちこちにいる。幸せなのかな、もしかしたら、わ・た・し。
2004年11月09日
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長野絹子さん 青い目の人形(飯田市、名前は不明)「長野絹子」こと「ミス長野」は予想よりも大きく、そしてきれいだった。《青い目の人形》昭和2(1927)年、日米経済摩擦が激しくなり、アメリカで出稼ぎ日本人をはじめ日本人排斥運動が強くなっていた。そんな状況を憂いたのが、同志社大学・京都大学で神学を教えたことのあるシドニー・L・ギューリック博士。日本人移民擁護の運動を始め「世界児童親善会」を設立。「平和を望む者は子どもの純粋な心にそれを書き込まねばならない」という彼の理想が「青い目の人形を日本に送ろう」という運動につながった。自分の持っている人形を日本に送ろうと呼びかけ、20000体ほどが集まった。そのうち12739体を日本に送った。日本の受け入れの中心は文部省や「日米関係委員会」の渋沢栄一委員だったそうだ。全国に送られたこれらの人形は、現在まで残っているものはわずかで、全国一現存している長野県でさえ29体だそうだ。展示してあった資料によると、私の村の小学校(当時は2校)にも送られた記録はあるが、人形そのものは残っていない。アメリカと戦争になってから、「敵国の人形」と廃棄された人形が多いと思われる。満州分村をしなかったこの村も、人形の存在までは目が届かなかったとみえる。ほとんどが30センチくらいの普段使いの人形で、名前は圧倒的に「メリーさん」が多かった。なんせこの人形たち、ちゃんとパスポートを持っているのだ。もちろんそれが紛失して名前のわからないものも多い。《長野絹子さん》これは「青い目の人形」の答礼としておくられた58体の日本人形(市松人形)の中の一つ。それぞれの県名をつけて「ミス長野」とか「ミス鹿児島」とか呼ばれている。長野県の場合は養蚕県ということで「絹子さん」。新潟にいけば新潟美人で「新潟雪子さん」になるんだそうだ。青い目の人形と比べて、こちらはよそ行き姿で、持参金ならぬ持参品が多い。銀のタンスとかお茶道具とか長持、扇子、たんすなど、絹子さんは全部で36品を持参している。東京と京都の人形師が、全国の子どもたちの「一銭募金」から生まれたお金を元に制作。これら58体は、アメリカにわたってグループに別れてアメリカ各地を巡回したそうだ。アメリカでは人形は「見るもの」でなく「遊ぶもの」。歓迎されればされるほど、触れられる結果、傷みも多かったそうだ。また、この「長野絹子さん」にいたっては、実は6年前まで「ミス樺太」だと思われていたという。巡回する間に、人形本体と名前を書いた台座とが別々になってしまい、「ミス樺太」さんの台座にくっついていたそうだ。しかし、日本出発時に記録してあった和服の紋様から、「絹子さん」であることが判明した。その「長野絹子さん」が、今年やっと里帰りができたのだ。目的は、修復。77年前と同じ、子どもたちや全県からの募金で。この里帰り運動の中心は「信濃教育会」。少年義勇軍を多数送った団体である。(前略)アルミ缶集めや街頭募金をした子供たち、貴重な年金からの募金、厳しい企業のみなさんからの賛助等々、多くの方々からの浄財、そして信濃教育会の長年のこだわりによって、ここまできました。今も「世界中を平和にするよ」の子供の声を共有しつつ募金活動は続けられており、「子ども世界平和宣言」を、ここ信州の地から世界へ発信しようとの願い実現ニ向かっています。(後略)(パンフレットの信濃教育会長あいさつより)「子ども世界平和宣言」か…。すばらしいね、ぜひ実現してほしい。でもやっぱり、信濃教育会は、過去の事実をきちんととらえる事も必要だ。自分たちにとって負の航跡を。とはいえ、この人形大使の足跡を追い、あの頃と違った世相の今、きちんと修復してアメリカの子どもたちにもう一度送る。人形を通じて、子どもたちが人種を超えて、お互いを理解し、好きになっていってほしい。ねえ、絹子さん、雪子さん、メリーさん、ミミーさん。
2004年11月07日
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土曜日、本来はお休みの役場のNさんが、仕事で来社。夕べは宿直、午前中は仕事で、「眠い」という彼にコーヒーをいれる。合併の話、地震計の話などして30分。帰り際に「寝不足のようだから、これから帰って眠ったら?」と言った私に帰ってきたことばは、笑顔にくっついた「これから、子どもと遊ばなきゃ!」だった。なんていい言葉なんだろう。「子どもと遊ぶ」なんてホッとする言葉なんだろう。我が家では久しく聞かない言葉…玄関を出て行く彼の背中が、とってもとっても温かく見えた。世の若いお父さんたち、がんばれー!
2004年11月06日
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今年は、近所のどこにも柿がなっていない。木にも、軒先にも。もちろん軒先の柿は「干柿」だ。春の遅霜にやられてしまい、実がつかなかったという。近隣に比べて、この村に熊の出没を聞かないのは、もしかしたら柿の不作のせい?去年、知人に頂いて100個近くも干柿を作ったのに、今年はどうしよう。干柿がないからって、日常生活がどうなるってもんじゃないけど、私の好物でもあり、季節の風物詩でもある。軒先の「柿のれん」も、隣村まで行かないと見られないかなあ。ああー~
2004年11月05日
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今、22時30分。やっと終わった、給料計算。今日は朝から5つの新聞関係の校正のやりとりやら、フイルム出しやらで、てんやわんや。そして、今日から年賀状発売。で、早速注文をしにきてくださった方も。有難いけど、今日は応対するのが嫌だった。会社の中で、みーんなが応対に出るかどうか、かけひきをしている。私の不機嫌さを悟ったらしい若手のIさんが応対してくれた。てなわけで、今日いらしたお客さまには、一切お茶を出さず、ごめんねー。***********気が立っていたり、その他もろもろで、夕飯の用意もしなかった。夫も何か感じているのか、何も言わない。つまり冷戦状態だ。ああー、この楽天日記。最近愚痴が書けなくて、うっぷんの晴らし場所がない。素性がばれているからだ。やっぱり、そろそろ曲り角かなあって思う。年齢じゃないよ、それはとうに曲がっているから。まあ、明日の給料日に間に合って良かった。ふうーっ……
2004年11月04日
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県道長野大町線の通行止めも解除され、久しぶりに村を脱出しました。母の用事と、伸び放題の髪をバサッと切るために。用事を全部済ませた夕方4時。「ちょっと一沼まで行ってみようよ」志賀高原方面を見ると霧が降りてきているようで、行っても無理かなと思ったけれど、「迷う時は行ってみろ」という信条(?)は、今回も大正解でした。晩秋、夕暮れの一沼さすが16時30分という時間には、カメラ隊は誰もおらず、母と2人で霧に呑まれそうになりながら、でも満喫です。こちら、坊平付近。白樺と紅葉のコントラストが見事でした。右上の樹間に見える白い線は、ぐぐっとせり出しているループ橋です。************【プロのはさみ】数カ月ぶりの美容院。伸び放題の髪を短くカットしてもらう。頭の形の悪い(赤ちゃんの頃に寝せられてばかりいた?)私のヘアースタイルを、何とかまとめてくれる美容師さんにはいつも感心。1本のハサミと櫛とで、手際よくカットしていく。大体の形を作ったあとは、指の先で髪の厚さを測ったりして両サイドを均等にしたり。さすがプロだ。私は印刷業でプロになっているだろうか。もちろん……なっていない。前の仕事も途中で止めざるをえなかったし、何をやっても中途半端だよなぁ。プロを見て、我が身を振り返りちょっと落ち込んだ。
2004年11月03日
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里中満知子さんの漫画『天上の虹』を、図書室から借りたのは、これで5回めくらいだろうか。持統天皇の一生を縦糸に、いろんな歴史上の人物が配されていて、歴史に弱い私でものめり込むおもしろさがある。もっとも、あまりの登場人物のややこしさに、時々系譜図に戻らないと混乱してしまうのだが。今回は、楽天友達のoliveさんの「天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかった」というお話を読んで、刺激された向きもある。それはそれとして、中大兄皇子と鎌足が中心になって行った「大化の改新」。土地は国のものであり、民は「租庸調」という税を払うという律令国家の第一歩がこの改新から始まり、長いながーい歳月をかけて、現在の国家ができた。今、交付税でしか生きられない弱小自治体と決めつけられ、合併を強要される小さな村にいると、国家というものが、うっとうしくなってくる。もっと言えば、国家なんかわが村にとっては不用なのではなかろうかとさえ…。里中さんのまんがの中でも言ってたぞ「国の宝は民」だって。その民の幸せを否定して、民の納める税を民のために使うことなく…。100歩譲って、自国の危機を救うための戦い(予想される危険でなく、現実の危険)に使うならまだしも、勝手に戦をしかけた国を応援するために莫大な援助をしている国家。ガソリン・灯油の高騰にどうやって冬を迎えようと悩む民を尻目に、あちらの国には燃料の無料供与ときた。最も許されないのは、自国の民の命を冷酷な判断で犠牲にしたこと… 元に戻って…民の納める税は、例え些少であろうとも、民の豊かな生活を支えるものであってほしい。ねえ、中大兄さん…、いや、里中さん(かな?)。(ちょっと八つ当たり的だったかな…)**********3町村との合併反対が圧倒的に多かった我が村の投票結果。「反対」の中味を「長野市への合併」にもっていこうとする動きがある。それを防ぐには、「民の一人ひとりがどこまで腹をくくれるか」という点につきる。「あなたの世代はまだできる。でも、今70・80代にそれを言うのは酷だ」これをどうやってはね返せるか…だ。
2004年11月02日
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どちらも晩秋の木々。人間で言えば熟年組。人の目をひくような鮮やかな紅葉と、深く沈む静かな林と…。いろいろと重い、思い…の1日だった。3町村ともに、議会では臨時議会や全員協議会を開いたり。役場庁舎の中も何か慌ただしくただならぬ雰囲気で、足を踏み入れるのも遠慮するような雰囲気だったと、友人の1人が言った。明朝、私は校正を持って役場に行く。昨日の日記に書き込みをいただいた方たちのコメントを読んだり、友人と話したり、役場の職員と話したり…。改めて「自立」の大変さを身に沁みて感じている。隣の2町村は3者択一だったから、もう方向性ははっきりしている。私の村は「反対」の中味を明らかにするステップが残っており、もう一山越えなければいけないのだけれど、まさかこの中味が「長野市と合併」とはどうやっても解釈できないから、遠からず「自立」という言葉が前面に出てくるだろう。S町以外の村長は共に「意外な結果」とコメントした。町長の思惑通りの結果になったのはS町だけだけれど、それがこんどは、合併する相手を失った。互いに法定合併協を立ち上げて、細部を摺り合わせたというのに、何という不思議な結果になったのだろう。スタート時から、町村民の意向把握が甘かったのか、従来通りに行政主導でいけるだろうと踏んだのか…。「自立」に向けて出帆しつつあると思うと、嬉しさとやる気と、そして大きな危機感と、いろんなものが沸き上ってくる。
2004年11月01日
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