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平良アイリーンという人の書いた『アロハ! ヒューレン博士とホ・オポノポノの言葉』という本を読みましたので、ちょいと心覚えをつけておきましょう。 その前に、何で私がこの本を読んだかと申しますと、ハワイの「ホ・オポノポノ」って、要するにニューエイジ系の自己啓発思想なんじゃないの? と思っているからで、いずれそっち系のことについての論文を書く時にどうしても言及しておかないとまずいだろうと思ったから。 で、とりあえず「ホ・オポノポノ」については、ほとんど知識のないところから読み始め、今もなおこの本しか読んだことがないので、これから私が書くことが「ホ・オポノポノ」について正しい認識かどうかってのは保証できません。できませんが、とにかく書いておかないと自分の理解がどこまで進んだか分からなくなるので、書いちゃいます。 で、この本から私が学んだところから行きますと、「ホ・オポノポノ」ってのは、もともとはハワイに伝わるトラブル解決法らしいんですな。で、「ホ・オ」というのは「目標・道」という意味で、「ポノポノ」は「完璧」という意味。つまり、何か人間同士、部族同士でトラブルが発生した時、「本来あるべき完璧な道は何か」ということに立ち返り、いわばその「正道」に戻して、トラブルを解決する、そういう一種の方法論であると。 で、その伝統的な「ホ・オポノポノ」を、個人的に用いる・・・ということはつまり「自己啓発思想」的な発想で用いるようなものに変化させたのがモーナ・ナラマク・シメオナ女史という人で、この人が唱導した「SITH (Self Identity Through Hooponopono)」というのが、今日的な意味での「ホ・オポノポノ」なわけ。で、モーナ女史の元で学んだイハレアカラ・ヒューレン博士という、見た目はハワイの土産物店で土産物を売ってそうなおっちゃんが、今はSITHの元締めみたいなことをしていて、本書の著者である平良アイリーンさんは、ある時ヒューレン博士の講演会に出てすっかりSITHにはまって、日本におけるホ・オポノポノの普及に努めています、的な感じらしい。 さて、そんな状況を踏まえた上で、じゃあ「SITH版ホ・オポノポノ」ってのは一体何をすることかというと、一言で言えば「クリーニング」をすること。ある意味、それに尽きるのかなと。 で、SITHの世界観からすると、ひとりの人間は3つの部分に分けられる。「アウマクア(超自我)」と「ウハネ(表面意識)」と「ウニヒピリ(潜在意識)」がその3つで、我々人間が自分の意志でどうこう出来るのはウハネの部分だけ。ウハネがウニヒピリを上手にケアしていると、我々はアウマクアを通じてディヴィニティー(まあ、宇宙存在というか、神みたいなもの)とつながることが出来、万事うまくいくと。 ところがウハネがウニヒピリの暴走に引きずられると、ボロボロになってしまう。 ではウニヒピリってのは結局何かと言うと、「記憶」なのね。それも個人としての記憶ではなく、人類が、というか、宇宙がこれまでずっと存在していた間に溜め込んだ記憶。で、この記憶の巣窟たるウニヒピリは、ウハネに向って毎秒毎秒、ものすごい数の記憶を我々に向って投影し続けるらしいんですな。 だから、我々人間はですね、常に記憶を通じて世界を見ている・・・ということは、ゆがんだ形で世界を見ているわけ。 そこで、ウハネ(自分の意識)でもって、ウニヒピリが訴えかけてくるあらゆる記憶を手放す必要がある。この「手放す」という作業が、SITHのいう「クリーニング」なわけよ。だから、SITH的ホ・オポノポノでは、クリーニングがすべて、ということになるんだなあ。 では、どうやってクリーニングするかっつーと、ちゃんとクリーニング用の呪文があるの。そう! 例の「ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています」の4つの言葉。あれを心の中で呟いて、ウニヒピリが「ほれほれ」って持出してくる記憶に別れを告げると。そうやって古い記憶と結びついた糸を一本一本切っていく。そしてそれが自分を自由にすることであると。 で、まずそうやって自分を自由にすることから始めないとダメ、とSITHは教えています。自分がまず先。で、自分をクリーニングして自由になると、そこから世界が変り始めるんだけど、それはもう自分の仕事じゃないのね。それは勝手に始まることだから。だから、とにかくまず自分をクリーニングすること。それこそが、あなた、あなた、あなたに与えられた仕事なのでありまーす。 ちなみにね、クリーニングするのは、「悪い記憶」だけじゃないのよ。「良い記憶」もどんどんクリーニングする。クリーニングするものの性質なんかどうでもいいの。とにかく、ウニヒピリが持出すものは全部かたっぱしからクリーニングする。そこを間違えちゃいけない。 だから、ある意味、簡単なのよ、ホ・オポノポノの実践は。 だって、日々、そして一瞬一瞬、我々は何かを感じて生きているわけじゃん? 街を歩いていても、「道にゴミが落ちていて、嫌だな」とか、「子供が遊んでいて、可愛いな」とか。そういうのが全部、ウニヒピリからのメッセージ、ウニヒピリが持出してきた記憶だから。だから、「嫌だな」にしても「可愛いな」にしても、心に思い浮んだ瞬間に、チャンス! と思って、「ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています」を呟いてクリーニングしちゃう。約束の時間に間に合いそうもなくて、焦ったりあたふたしたりしたら、それこそチャンス! その焦りやあたふたに向って「ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています」でさっさとお別れ。そうやって、常に自分を記憶から切り離し、ゼロの状態に近づける。それが、奇跡を起こす唯一の方法であると。 なーるーほーどー。 なるほどね。 ある種の自己啓発思想も、同じようなことを主張しているわけよ。つまり、今見ている世界は、あなたが作り出している世界だ、という発想。渋谷の駅前交差点を見て、「なんで東京ってこんなに人ばっかりなんだよ!」って思った場合、それは「人が多くて嫌だ」と思ったあなたが自分で作り出したヴァーチャルな世界を見ているのであって、本当はそこには誰も居ないのかも知れないって奴。 ウニヒピリが溜め込んだ記憶の海を、我々は常に見させられているんだ、というSITHの考え方って、これと同じじゃん。だから、記憶を切り離せば(自分をゼロに戻せば)世界は変るんだっていうね。 それから、世界を変えようとするのではなく、まずは自分に出来ること、すなわち自分を変えることをしろ、そうすればそれによって世界は変るのだ、という考え方も同じだよね。 あと、人間は過去に縛られていて本来生きるべき現在を生きていない、だからまず過去を手放せ、と教える自己啓発思想があって、たとえば「ACIM」系の自己啓発思想がそうだけど、「過去の記憶から自分を切り離せ」と教えるSITHも、同じことを言っているわけですな。 そういう意味で、SITHの言っていることって、要するに自己啓発思想が蓄積してきた知恵を、SITH流にうまくまとめあげたものだな、ということが分かるわけよ。 ま、「良い記憶」も切り離せ、と言っているところがちょっと斬新だけど。 で、私がこれをどう評価するか、ですけど、なかなかいいんじゃないの? 私も、御多分に洩れず、こう見えて結構過去に引きずられるタイプだからねえ・・・。過去の嫌な思い出に縛られて、身動き取れないってことも多いのよ。だからそういう記憶に「ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています」の呪文で別れを告げ、クリーニングできたらいいんだろうなと思う。結局それが、「今を100%の力で生きる」ってことなんだろうからね。 あ、あと、その4つの呪文の他にもう一つ、クリーニングに樹木の力を借りるっていう方法があって、「アイスブルー」って心の中で唱えながら樹木に触れるといいらしいよ。これも、やっちゃおうかな。 そうそう、樹木で思い出したんだけど、本書の中に出てくるヒューレン博士の言葉で一番私の心に響いた一節を書き抜いておきましょう: 「笑っている人がほんとうに幸せかがどうしてわかる? 涙を流してうつむいている人がほんとうに悲しみの中にいるかがどうしてわかる? まず、聞いてほしいのは、すべてがあなたの目に映っているということ。聞こえているということ。外に悲しみが見えたり聞こえたりするとしたら、その悲しみはあなたの中にあるということだよ。 木を見てごらん。その木を見て、あなたにはその気が嬉しそうに見える? それとも悲しそうに見える? 木は涙を流さないよ。木は大声で笑ったりしないよ。木はただ、そのいのち、アイデンティティーのままいるよ。雨の日も、晴れの日も、外側で起きていることが問題ではない、ただ自分の命を生きている。 その木を見たときに、あなたが美しいと感じるか、それとも醜いと感じるか。それはその木には関係のないことなんだ。あなたの中で起きていることなんだよ。 このことは人にも言えるよ。あなたが誰かを見て、どんな感情があるか、どんな反応が現われるか、あなたはそのことをまずはクリーニングするんだよ。 記憶とともにいつまでもいるよりも、あなたはクリーニングすることができる。クリーニングして、何かがまた顔を現したら、それをクリーニングする。あなたはそのことにもっと責任をとっていいんだよ。主人公はあなたなんだから」(142-143頁) 書き抜いてみて思ったんだけど、この一節だけで、ヒューレン博士の言いたいことってのはすべて言い尽くされている感がありますな。まあね、私もこのくらい気の利いたことが口をついて出るようになったら、大学も辞めてさっさと「生き神さま」にでもなろうかと思うんですけどね。 ってなわけで、私としては初の「ホ・オポノポノ」本、それなりにタメになりました。興味のある方にはおすすめです。アロハ! ヒューレン博士とホ・オポノポノの言葉 [ 平良アイリーン ]
August 31, 2018
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8月末〆切の原稿、なんとか書き上げて、ホッと一息。だけど9月25日〆切の原稿があって、一難去ってまた一難、一本書いてまた一本って感じ。 しかも、9月25日〆切の原稿はまだ一行も書いてないっていうね。ゼロ発進だよ。間に合うのかね。 まあ、間に合うんだろうね。 ただ・・・なんかこう、コレだ!っていうスジガキがないんだよなあ・・・。まあ、ちょっと見切り発車で書き始めてみて、そのうちどうにかなるのを待ってみるか、って感じ。
August 30, 2018
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私が愛用してきた iPhone 5 ちゃんが絶命寸前。もうメールも使えなくなって、今はただ電話としての機能しかないという。まあ、携帯電話としての基本に戻ったという言い方もできますが。 で、さすがにこれではいかんと思って機種変しようと思ったわけよ。狙うは「iPhone SE」。あのサイズ感がいいのよね~。 そしたら! もうないって。残っているのは128ギガのピンクのみだって。 ピンクか~・・・。ブラックかシルバー狙ってたのに・・・。 で、もう「iPhone 7」もなくて、今買うなら「8」か「X」だってさ。 うーん、だけど、あの妙に平べったい感じ、好きじゃないんだよな~。エッジが効いてなくて、てろっと角が丸いところも今一つ気に入らない。 「SE2」、いつ出るんだよ~。 ということで、一旦は引きさがって、もう少し検討することに。 さて、そんなこんなで機種変に失敗したワタクシ、昨夜はレイトショーで『ミッション・インポッシブル フォールアウト』を見て参りました~。 まあね、まだ見てない方もあると思いますので、あらすじは書きませんけれども、要するにテロリストに奪われた核爆弾を取り戻すためにトムたちが大活躍っていう。 で、思うんだけど、CIAにしてもIMFにしてもMI6にしても、よく爆弾盗まれるよね! あと、世界中に潜伏しているスパイのリストも、よく盗まれるんだ、これが。 爆弾盗まれちゃ、ダメ。あと、そもそもスパイのリストを作っちゃダメ。 ついでに言うと、組織内に裏切り者多すぎ! 採用人事もっとしっかり! あと、トムも頑張り過ぎ! 既にこの映画を観た人が口を揃えて言ってたのは、「この調子だと、いつかトムは撮影中の事故で死ぬね」ということですけど、確かにそうだわ。そろそろ、誰かが言ってあげた方がいいと思う。 ほら、よくジャッキー・チェンがスタントなしのアクションで怪我してすごいとか言われるじゃん? だけど、ジャッキーはせいぜい4階建てビルから飛び降りるくらいなもんでしょ。トムは飛んでいる飛行機にしがみつくとか、自分で習いたてのヘリを操縦して渓谷を飛び回るとか、そういうアレだからね。スケールが違う。 トム、もういいよ。もう落着こう。我々同世代、もうあと数年で還暦じゃん。生きて一緒に赤いチャンチャンコ着ようよ。 だけど、とにかくこの映画、支払ったお代以上のハラハラ、ドキドキ、ヤッター! 感を提供してくれますので、教授のおすすめ!です。チャラーーン!
August 29, 2018
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今日はちょっと大学の図書館に行く用事があったのですが、途中、本屋さんに立ち寄り、クルマの雑誌などをちょいと購入。 ところでこの本屋さん、チェーン店でありまして、基本的には新刊本を売っているのですけれども、その一角で古本も扱っている。「ついでに売っている」という感じで、古本部門の売り場面積もさほど大きいものではないんですな。 ところが、どういうわけか、私とは相性がいいのか、わりとここで拾いものをすることが多いんですわ。で、今日もテキトーにさらっと見ただけなんですけど、ここで5冊も買っちゃったよ。 で、今日の収穫ですけれども・・・〇玉村豊男 『旅する人』(中公文庫) 100円〇佐藤雅彦 『プチ哲学』(中公文庫) 100円〇大山倍達 『世界ケンカ旅』(徳間文庫) 100円〇宮下規久朗 『ウォーホルの芸術』(光文社新書) 100円〇前野ウォルド浩太郎 『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書) 278円 というラインアップ。 最初の玉村さんは、このブログでもしばしば取り上げるように、私がファンだから。二番目の佐藤さんのは、一種の自己啓発本かなと思い、前に一度買いかけたことがあったのですが、648円の定価だけの価値はないなと思って買わなかったの。でも、100円ならいいかなと。 大山倍達の本は、まあ私が格闘技好きだからですね・・・。そして宮下さんのウォーホル本は、私がウォーホルが好きだから、ということもあるけれども、ひょっとして将来、ゼミ生の誰かがアンディ・ウォーホルで卒論を書きたいとか言い出すかも知れないから。ちなみに宮下さんというのは、私と同い年の方のようで、しかも愛知県出身。そして『カラヴァッジョ』という本でサントリー学芸賞も取られているという優秀な方。まあ、多少のライバル意識もあって、お手並み拝見してみようというところもちょっとね。 そして最後、『バッタ』本ですが、これは前からすごく興味があって、買おうかどうしようか迷っていたもの。定価は920円だけど、その美本が278円なら、買うでしょ。 というわけで、ちらっと覗いただけにしては、そこそこいい収穫だったのではないでしょうか。 ちなみに、最近、私が買おうかどうしようか迷っている本の一つとして、深見東洲の『強運』という本がありまして。 そう、あの深見東洲ね。いささかクレージーな。だけどあまりにもクレージー過ぎて、私としては相当興味あるのよね~。あの人は一体どういう人物であって、どういう経済的バックグラウンドがあるんだろう? それにさ、この本、結局、自己啓発本であるわけだし、自己啓発本研究家としては、やっぱり一度は読んでおきたいところがありましてね。たとえジョークのネタとして使うにしても。 で、この本、今日私が行った新刊/古本書店にも置いてあったのですが、700円という値付けだったんですわ。ジョークのネタに700円は出さないでしょ! 100円のブツが出るまで待つーーーー当然、そういう方針でありまして。 ってなわけで、出勤の途中で古本ライフを楽しんじゃった! 今日も、いい日なんじゃないの?!【中古】 旅する人 中公文庫/玉村豊男(著者) 【中古】afb【中古】 プチ哲学 中公文庫/佐藤雅彦(著者) 【中古】afb【中古】 世界ケンカ旅 徳間文庫/大山倍達(著者) 【中古】afbウォーホルの芸術〜20世紀を映した鏡〜【電子書籍】[ 宮下規久朗 ]【中古】 バッタを倒しにアフリカへ 光文社新書883/前野ウルド浩太郎(著者) 【中古】afb
August 28, 2018
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先日、母と箱根にドライブに行った時、玉村豊男ライフアート・ミュージアムで玉村さんの『絵を描く日常』という本を買ったのですが、それを読了したので、心覚えをつけておきましょう。 玉村さんは、基本、エッセイストですが、その傍ら絵も描かれる。玉村さんのお父さんは日本画家の玉村方久斗ですから、素質という点ではもちろん、絵を画いたとしても何の不思議もないわけですが、それにしても一体どういうわけで二足の草鞋を履くようになったのか、私としても興味津々でありまして、そんなわけでこの本を購入に至った次第。 で、この本に拠りますと、そもそも玉村さんは子供の時から絵を描くのがお好きで、特に高校時代などは油絵に熱中され、芸大に行こうかと思っていた時期もあったらしい。しかし、結局、東大に進まれ、その後フランスに留学、そこからツアコンの走りみたいなことをし出して、やがてエッセイストになってしまわれたと。 で、絵のことはずっと忘れていたのだけれども、41歳の時に、それこそ漱石の修善寺の大患じゃないですけど、それまでの不摂生が祟ってか大量吐血をされ、その時の大量輸血が災いして肝炎に罹患されたんですな。で、体力もすっかり落ちて、それまでの生活慣習を大幅に見直さなければならなくなった。 で、その療養中の無聊を慰めるために、ふと、そう言えば昔、絵をやたら描いていた時期があったことなども思い出して、もう一度絵筆を執ってみようと考えた。 そして昔取った杵柄とばかり、久しぶりに油絵を描いてみたところ、どうもうまく行かない。あれ、こんなはずでは、と焦りながら、とにかく絵を描くことに熱中したんですな。 そしたら、病気のことが頭から追い出されてしまって、返って健康になってきたと。 しかも試行錯誤しながらキャンバスと格闘しているうちに大分勘が戻ってきて、それなりに自分の思うような絵を描くことが出来るようになり、また油絵の他にも色々試している内に、水彩画の魅力にもはまってきた。 で、そんなことをしているうちに段々、自分のスタイルも定まってきたわけですが、そんな感じでガンガン描きまくっているうちにどんどん絵がたまり、また彼が絵を描いていることが少しずつ世間に認知されるようになって、ついに画廊から声が掛かるようになる。そして、ついには某プロデューサーと契約を結んで、自分の描いた絵を売るというところまできた。つまり、図らずもプロの絵描きになってしまったんですな。 でも最初のうちは絵を売るということに相当、抵抗があったようです。というのも、絵を売るというのは、要するに絵を手放すということであって、自分でもよく描けたと思っている絵と離ればなれになってしまうのは相当辛いことなんですと。ま、そりゃそうでしょうなあ。 だけど、それがプロだ、ということに玉村さんは気付いていくわけ。自分の絵をずっと手元にとっておきたいなどと甘いことを考えるのはアマチュアだと。 その一方、原画を残しておいて、それを版画に直し、版画の方を売るという知恵もついてくる。何せ今は「ジクレー」という方法があって、原画をスキャンしてインクジェットで紙に転写する、なんてことが簡単に出来るようになったので、複製としての版画を作るのは簡単なんですって。というわけで、現代の技術の進歩の恩恵を受けながら、版画を売るということも始められるんですな。そしてその延長で、例えば玉村さんが描いた野菜などの絵をお皿に転写した、玉村さんブランドの食器類なども販売することも始められた。 一方、一応はプロの画家として画廊で絵を売るようになると、絵を見に来る、あるいは絵を買いに来るお客さんとのやりとりとかも発生するわけで、これがまたなかなか複雑らしいんですな。 たとえば玉村さんの画業を、軽く見る人というのが必ずいる。だから、画廊などでお客さんの相手をしていると、お客さんから「私も絵を描くのですが、玉村さんはどこのメーカーの絵の具を使われているんですか?」などとしばしば尋ねられるというのです。玉村さん曰く、これがもし本当に有名な画家だったら、お客さんはそういうことは尋ねないだろうと。 あと、画廊の人であっても「私も一応、芸大を出ているので、いつか玉村さんみたいに時間にゆとりができたら、私も絵を描いてみたいです」などと言ってくるのがいる。玉村さんとしては、「冗談じゃない、俺は暇つぶしに絵を描いているんじゃないぞ!」と言いたくもなる。 ま、そんなストレスもあると。 だけど、玉村さんの絵を見て、「このくらいの絵なら、私にも描けそうだ」と思ってくれる人たちが居るのであれば、それはそれでいいのかな、と思うようにもなったとのこと。 ま、そんなこんなはありますけれども、とにかっくこのような次第で、41歳にして絵を描くことを再開してから20年、エッセイストにして画家、ワイナリー経営者にして自分がデザインしたキッチンウェアなども販売する個人多角経営の玉村さんのスタイルが完成するまでの来し方を綴ったのが、本書『絵を描く日常』というわけ。 で、本書にはところどころに玉村さんの描かれた絵が掲載されていて、それを眺めるのも楽しいし、私はかなり楽しみながら読了することができました。絵のことを語ったエッセイとしては初めてのものだそうですけど、エッセイストとしての玉村さんと画家としての玉村さん、両方に興味のあるムキにはおすすめの本でございます。これこれ! ↓絵を描く日常 [ 玉村豊男 ]
August 27, 2018
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コーネル・コーワンとメルヴィン・キンダーの共著になる『賢い女の愚かな選択』(原題:Smart Women / Foolish Choices, 1985) という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 コレット・ダウリングの『シンデレラ・コンプレックス』(1981)とか、ロビン・ノーウッドの『愛しすぎる女たち』(1985)、あるいはペネロープ・ラシアノフの『Why Do I Think I Am Nothing Without a Man?』(1982)等々、異性とうまく付き合っていけず、幸福な結婚生活を送れない女性達の悩みを明らかにし、その状況への対処法を伝授する類の女性向け自己啓発本が、1980年代の前半くらいから1990年代初頭にかけてわーっと出るんですけれども、この本もそんな流れの中で読むべき一冊でございます。 だけど、本書には他の類書とは異なる決定的な特徴がありまして・・・何か分かります? そう! 著者が男性ということ! この種の本の著者が大抵女性である中にあって、本書はその点でまず大きく違う。この本は男性の視点、男性の立場から、男性選びに失敗ばかりしている世の悩める女性たちに「こういう風にすればいいよ~」と語りかけているのであって、その意味では画期的。ちなみに、コーワンとキンダーは、ロス・ハリウッドの近くにある「シーダーズ・サイナイ」という超有名な病院のセラピストで、ここに相談に来る女性たちに共通する「間違いだらけの男選び」に気付いたことから、この本を執筆しようと思い立ったとのこと。なるほど、って感じでしょ? で、本書の内容ですが、本書の冒頭近くで、1980年代ってのがどういう時代なのか、という一般的な世代論が語られます。 それによりますと、1950年代までは「男は男らしく、女は女らしく」という旧来型の男女観が当たり前のように横行していたので、良い悪いは別にして、女性は結婚して夫に頼っていればいいという状況があり、その意味では女性たちに悩みはなかったんですな。 ところが1960年代に入って、例のベティ・フリーダン大先生の『女らしさの神話』がどーんと出て、第二派フェミニズム運動が起こると、女性の自立が高らかに謳われるようになる。女性も男性と伍して社会でバリバリ働き始めたわけですな。同時に女性たちは、従来、いかに女性達が父権制社会の中で虐げられてきたかということに気付き始め、怒りの声を上げ始め、男性と同等の権利を主張し始めた。ここから男性対女性の、かなり辛辣な戦いの時代が始まるわけですよ。 で、この第二派フェミニズムが20年吹き荒れたら、1980年代半ばになっていたと。 で、さすがに20年もやっていると、どんな運動も飽きるものでありまして、今までみたいに男と女が互いに権利を主張しあってやいのやいの言い合うのにも疲れ果て、もういい加減、仲良くしようよ、昔みたいに、っていう感じになってくる。1980年代はその意味で、もう一度、「男女、愛和するの徳」に注目が集まるようになった時代だったわけですな。主婦たることを女の幸せと定義した1973年のマラベル・モーガンの『トータル・ウーマン』はその先駆け、1982年にはマーサ・スチュアートの『Martha Stewart Entertaining』が出て、良き家庭の演出者こそ主婦の務め的な風潮も出てくる。 ところが、第二派フェミニズムの流れの中で、高い教育を受け、社会に出て経済的にも自立した賢い女性たちが「よーし、この辺でいっちょいい男でもつかまえて、恋愛面・結婚面でもリア充しちゃおう!」って思って男と付き合ってみたら、これがどうも上手く行かない。ステキな男性を見つけたと思ったのも束の間、すぐにつまらなくなったり、付き合い始めたら碌な男じゃないことが判明したり。 あれ、おかしいな? 私にふさわしい『いい男』ってどこにもいないじゃん?! なんで? まさにこの「なんで?」というのが、1980年代のアメリカ女性たちの状況であると。 で、コーワン/キンダーによりますと、なぜこういう状況が生じているかというのは、割と簡単に説明できるというのですな。 つまりね、「なんで?」って思っている女性たちというのは、フリーダン以後の世代、すなわち第二派フェミニズムの洗礼を受けた後の世代なのですが、彼女たちを育てたお母さんの世代は、それ以前、すなわち旧弊な性差観のまま人生を生きてきた世代であると。だから、お母さんたちは、自分の世代の女性観でもって娘を育ててしまった。 だから、1980年代半ばに結婚適齢期を迎えていた女性達というのは、一方で母親から(と言うか、親世代の価値観から)「女は良き妻となり、自分の意志は押さえて、ひたすら夫に従順に従っているのが一番いいの」という考え方を吹き込まれ、それが無意識の中に定着しているわけ。しかし、他方では自分が育ってきた時代の風潮の中で「女だって男と同じように社会に出てバリバリ働いて、自立し、自己実現するのが理想」という考え方を身に付けてもいる。こうして彼女たちは、図らずも二つの相反する価値観を持っていて、そしてこの二つの価値観がしばしば互いに衝突するもんだから、それで訳が分からなくなって、結果として非常に愚かな男の選択をしてしまうと。まあ、これがコーワン/キンダーが考える現状説明であります。 だからね、女性が男性の選択に迷うようになったのは、1980年代の新しい現象なわけね。だからこそこの時代、先に挙げたような、「正しい男選び」のための本が次々に出版されたわけですが。 なるほどね。そうなのかもね。 でね、男の子の場合は、昔も今も、育て方の方針は変わっていなくて、「自分には何が出来るかを証明しろ」と言われ続ける。ところが女の子は、「自分には何が出来るか」ではなく、「自分には何が起こるか、期待しろ」と言われて育てられると。受動的な人間になるよう、小さい時から英才教育を受けちゃうわけ。で、これが後々、尾を引く。 例えば、バリバリのキャリア・ウーマンが、ある時ふと、「自分、こんだけ活躍しちゃったし、そろそろ結婚とかもしちゃおうかな」なんて思う(ちなみに、女性がこういう風に思うのには、生物学的な意味で、妊娠適齢期を意識せざるをえないから、ということもある)。 そしたら、これがまたうまい具合に、すごくステキな男性が現われるわけですよ。そしてその男性は、フェミニズムにも理解があって、キャリア・ウーマンとしてバリバリ働いて実績を挙げている彼女のことを応援してくれる。 そこで二人は恋に落ち、人も羨む結婚をすると。 しかし、結婚した途端、彼女の中で急激に仕事に対する意欲が失われるわけ。夫の収入は、二人で暮していくのに十分過ぎるほどだし、何も自分まで働かなくていいかなと。それに、今までバリバリ働いている中で、自分の本当にやりたいことを色々犠牲にしてきたのであって、余裕が生まれた今こそ、それを取り戻すいいチャンスかもしれない。とりあえず、仕事は辞めよう。そして絵画教室とかに通っちゃおうかしら・・・。 ほら! ここで彼女は「女の幸せは、夫に依存してのんびりやること」という、DNAに染みついた伝統的な価値観に引き戻されたわけですよ、無意識のうちに! ところが、そんなことをしているうちに、あーら不思議、彼女は最愛の夫から、いきなり「別れて欲しい」と言われてしまう。 何故なら、夫は、バリバリ働いているキャリア・ウーマンとしての彼女に惚れていたのであって、その惚れた女が結婚した途端、別人になったことに戸惑ったからでありまーす。しかも、彼女はあろうことか、自分に依存し始めただけでなく、彼女が前々からやりたかったことをやり始めたでしょ? そのことに夫は嫉妬したのでありまーす。何故なら、夫だって出来ることならば、働かないで自分のやりたいことをやりたいのよ、本当は。だけど、小さい時から「自分には何が出来るか、証明しろ」と言われて育ったので、本当にやりたいことは我慢して、社会の中で自分を証明し続けてきた。そういう状況なのに、結婚した妻だけが勝手に好きなことをやり始めたので、「ずるい!」という思いがこみ上げてきたわけですな。 ってな感じで、女性の側に二つの価値観が存在しているために、1980年代という時代、男女の関係はとっても複雑なものになってしまったと。 あとね、1960年代から70年代にかけて、女性たちが自分たちの権利を主張して、猛烈に怒っていた時代があったわけで、もちろんその怒りは正当なものも多く含まれていたわけだけれども、本質的に女性に対して母親的なやさしさを求めたがる男性陣としては、「怒る女」に対する恐怖を感じてもいて、一見、フェミニズム運動に賛同している風を装いながら、心の奥底では女性に対して恐怖心を抱いている男性も多い。このこともまた、1980年代に入って、パートナー探しが難しくなった原因の一つでもあるとコーワン/キンダーは指摘しております。 で、そういう中で、コーワン/キンダーは、結婚相手を探す女性たちの数々の誤りを個々の症例を挙げながら具体的に説明していくんですな。そして同時に、「男性というのは、こういうことを感じ、こういうふうに考えている生き物なのだから、こういう風にして接していくと彼の心を捉えられますよ」という感じで、男性の立場から、良いパートナーとしての男性の攻略法を伝授していく。もちろん、こういうタイプの男には近づかない方がいいですよ、というような警告も発しながら。 で、その辺の具体的な例示は一々示しませんけれども、最終的にコーワン/キンダーが女性達にアドバイスしているのは、ごく簡単なことでございます。つまりね、まず自分に対して正直に、自然体になれと。また男性に対して過度の期待をしてはいけないし、逆に過度の幻滅をしてもいけない。そして、「愛」と「スリル」を同一視してはいけない。愛というのは、相手を受け容れ、自分も相手に受け入れてもらうことから生じるものであるのに対し、スリルというのは、相手に受け入れられているかどうか分からないというところから来るのであって、その状態はワクワクするかもしれないけれども、愛ではないと。 あと、結婚相手にふさわしい男性というのは、たいていシャイで、見た目も悪かったりして、女性を一目で虜にするようなタイプではないことが多いけれど、そのシャイな仮面の下に、実に愛情深く、思いやりがあり、人間としてユニークな、いわばダイヤモンドの原石みたいな人であることが多い。だから、一回二回のデートですぐ判断しないで、仮面の下の本当の人間性を見い出すまで我慢して付き合ってごらんなさい、なんてアドバイスもあります。そんな風にしていけば、あなた方賢い女性は、必ずやあなたにふさわしい相手を見つけることができますよと。 ま、本書の内容ってのは、そんな感じ。 とにかく、1980年代という時代が、男女の関係という点でどういう時代だったか、ということを、かなり明確に示しているという点で、私にはなかなか面白く、ためになった本ではありますね。1985年の本ですから、今から33年前の本ではありますが、案外、今の日本においても当て嵌まるような症例というのが沢山紹介されていますから、現代日本の女性たちがこれを読んでも、「ああ、自分もまさにこの症例の女性と同じ愚を犯していた、だからいい男が捕まらないんだ・・・」的な気づきが促されるかも知れません。 その意味で、結婚を考えていて、身の廻りにいい男がいないなあ、なんて考えている世の女性たちには、一読をおすすめしておきましょうかね。【中古】 賢い女の愚かな選択 最良のパートナーを獲得する /コーネルコーワン,メルヴィンキンダー【著】,佐藤綾子【訳】 【中古】afb
August 26, 2018
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家内の愛車、マツダ・デミオの半年点検のため、今日はマツダのディーラーに行って参りました~! で、整備自体は、我々が近くのお店で昼飯を食べているうちに終ったのですが、いざお支払を済ませようと言う時に、いつもうちのクルマを担当してくれているMさんから、「釈迦楽さん、新しいロードスターのRFに試乗してみませんか?」との嬉しいお誘いが・・・。 マツダ・ロードスターには前に一度試乗させてもらったことがあったのですが、その時は1.5リッターの5速車だったんですな。でも今回は2リッターのオートマ車で、屋根だけが電動で開くRF。これは試乗させてもらうっきゃないでしょう。これこれ! ↓マツダ・ロードスターRF ということで、家内とその辺をしばらく乗らせてもらったのですけれども・・・ うーん、どうかな? マツダ車、特にロードスターは「人馬一体」というのが売り文句で、自分の身体のようにクルマを自由自在に操れる楽しさがあるというのが自慢なんですけど、どうも私とマツダ車の相性というのはイマイチで、そこまで人馬一体と言う感じがしない。例えば、ステアリングが細すぎる、アクセルが重すぎる、車体を重く感じる・・・というように、ちょっとずつ不満なところがあるわけ。あとね、やっぱり屋根だけが開くRFは、オープン・カーとして私にはちょっと物足りない。どうせなら、前のモデルにあったRHTの方が好きかな・・・。 ところが、家内が運転すると、普段マツダ車に乗っているということもあるのか、実に乗りやすいというのですな。パワーもデミオに比べて遥かにあるし、アクセルを踏んでグーッと加速する感じがたまらないと。 ふーむ! なるほどね。やっぱりクルマってのは、相性ですな。家内にとっては十分に人馬一体だというのですから。 というわけで、私としては、イマイチではあったのですけれども、家内にはアピールするところがあったので、例えば今乗っているデミオを、ロードスターに乗り換えるというのはあり得るかも。それだったら、私もたまに乗せてもらえるし、楽しいかな。 よーし、後は先立つものだ。頑張って働いて、デミオをロードスターに買い替えるだけのお金を稼ごうっと!
August 25, 2018
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どういうわけか知りませんが、今日は朝から古の「リゲイン」のCMソングが頭の中をぐるぐるしておりまして。これこれ! ↓黄色と黒は勇気のしるし! これさあ、今見てもいいねえ。時任三郎、最高じゃん! 私が大学生の頃、バブル経済華やかりし頃でしたけれども、日本全体こんな感じでしたよね! 今とは勢いが違う! 「24時間戦えますか」って、日本全部がブラックだったんだから。 今、台風が来るっつーと、もうどの会社も「終業早目にして、皆さんお帰り遊ばせ」的な感じになっちゃって、結果、ラッシュアワーが早まるだけっていう風でしょ。これがバブルの頃だったら、誰も家なんか帰りませんよ。リゲイン飲んで、もう一仕事するわけだから。 昭和40年代半ばの丸善ガソリンの「Oh、モーレツ!」も、「リゲイン」のCMもそうだけど、国に勢いがある時のCMってやっぱすごいね。良い悪いは別にして。 さて、今日のワタクシはと申しますと、ちょいと野暮用で名古屋の官庁街に行ってきたのですが、お約束の時間よりちょっと早目に着いてしまったので、30分ほど時間を潰すにはどうすればいいかと思い、地下鉄駅の地図を見て「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」なるところに行ってみようと思いついた次第。 で、行ってみると、この資料館、「愛知県庁大津橋分室」という建物の1階に入っているんですが、この大津橋分室ってのがまたすごいデザインの建物なんだよね。これこれ! ↓愛知県庁大津橋分室の建物 調べると、この建物を設計したのは黒川巳喜と土田幸三郎とのこと。黒川巳喜って、黒川紀章の親父さんじゃないの。昭和8年竣工、もともとは愛知信用組合連合会の建物として建てられ、戦後、愛知県に寄贈されたらしい。 で、建物はなかなか立派で興味深いものだったんだけど、肝腎の資料館ってのが、またおそろしくお粗末なものでありまして。 愛知県・名古屋市、日本を代表する都市だと思うんだけど、そこが展示している戦争資料の内容というのが量的にはたったの1室、それもごくおざなりなもので、こんなもの展示したって何の意味もないね。 しかも私が部屋に入ると、どこか他所の部屋から役人がやってきて私を監視するわけ。で、おそらくその人が連絡したのだろうけど、5分くらいしたら警備員みたいなのがやってきて、その役人とチェンジ。役人の方はそそくさとどこかへ出て行きました。常設の展示ではあるけれども、普段、めったに見学者なんて来ないから、専属の監視員がいないんだね。だから、ごくたまに見学者があると、こういう扱いになる。 実際、こんなものを見学するために人が来るとは思えないけどね。それでも、こういうものを作った以上、予算も人も付くわけで、無駄だわな・・・。それにしてもこんな誰も来ない資料室に一応は貼りついているあの役人さんってのは、別室で一体何をやっているのかね。絶対、24時間戦えるようなバリバリの仕事、してそうもないな。のんびり、指の爪でも切っているんじゃないの? それにしても、大名古屋ともあろうものがこんなレベルの低い戦争資料館を運営しちゃダメダメ。いっそ閉めるか、やるんだったらちゃんとやりなさい。それでやるんだったら、単に戦争中の資料を並べるだけじゃなくてさ、そもそもなんで戦争のような愚行をやるって決めちゃったのか、とか、そういう根本的なところを考えさせるようなものにすればいいのに。 今のネット社会だって、窮屈なもんですよ。なんかちょっと人と違うこというとすぐ炎上するじゃないの。「自分のと異なる意見は潰す」っていう風潮。こういうのが、ちょっと形を変えれば全体主義になるわけで。そういう人間の心の仕組みを解明してさ、そういうところから未来において次なる全体主義を発生させないためのルールとか教育とか、そういうのを学問的に追究するような、そういう深い資料館にしてもらいたいもんですわ。 とまあ、5分もあればすべて見終わってしまうような展示でしたが、そんな展示だからこそ、色々考えさせられてしまったのでした。
August 24, 2018
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いやあ、秋田・金足農業高校、甲子園優勝おめでとうございます! 野球推薦もない学校のチームが甲子園で優勝とは、素晴らしい! ・・・え? 金足農業、優勝したんじゃないの? 準優勝? ウソ・・・。だってニュースでも新聞でも金足と吉田投手の話でもちきりじゃ・・・。え、優勝したのは大阪の高校? そうなの? さて、前々から読もう読もうと思っていたレオ・バスカーリアの『葉っぱのフレディ』、サクッと読みましたので心覚えをつけておきましょう。 これ、日本でも割と評判になった本なのではないかと思いますが、春、フレディという葉っぱがある木の枝に生まれて、同時期に生まれた他の葉っぱであるアルフレッドやベンやクレアと一緒に育ち、物知りの葉っぱのダニエルから色々な知恵を授かりながら成長していくと。 で、自然が夏から秋へと経めぐる中、太陽や月や星の動き、風のそよぎ、降り注ぐ雨など、葉っぱらしい経験を積んでいく。またその木の根本に集う人間たちを見下ろしながら、人間のために木陰を作ってあげられることに使命感と満足を得る。 そして、秋が深まると同時に、自分もアルフレッドもベンもクレアも、そしてダニエルも皆、紅葉していくわけですな。今までは皆、同じような緑色だったけど、紅葉してみると赤くなるのもあり、黄色くなるのもあり、紫っぽくなるのもあり。で、不思議に思ったフレディは、物知りのダニエルに「どうしてそうなの?」と尋ねるわけ。 するとダニエルは、同じ葉っぱでも生まれた場所や、それまでに個々が経てきた経験によって皆それぞれ変わっていくんだよと諭すんですな。 しかし、秋から冬に季節が変わると、これまで優しかった風が急に他人行儀になり、葉っぱはその冷たい風によって、一枚、また一枚と吹き飛ばされていく。中には木にしがみついたりするのもいるけれども、結局、皆散り散りになってしまう。 で、恐怖に駆られたフレディはダニエルに、「みんな、『引っ越していった』というような言い方をするけれども、本当は死ぬんでしょ? 僕も死ぬの?」と問う。死ぬのが怖いとも。 この問いに対し、ダニエルは、「確かに死ぬということは、初めての経験だから怖いかも知れない。しかし、万物はすべて変化していくのだ。死ぬというのも、その変化の一つに過ぎないんだよ。だから怖がらなくてもいいんだ」と答え、そして自らも散っていく。 で、最後に独りぼっちになってしまったフレディですが、そのフレディにも最期の時が訪れます。ある雪の朝。なんの痛みもなく、フレディは地面に積もった雪の上に落ちます。寒さは感じません。 その時フレディは初めて、それまで自分がその一部だった木を見上げるんですな。そしてその逞しさに見とれながら、自分が死んでもこの木は当分、生き続けるんだろうなと思う。そして、それと同時に「永遠」ということに思いを馳せる。 そしてやがて春が来て、落ち葉となったフレディは、次の命を育てるために土に溶け込んでいき、その永遠の変化の設計図に組み込まれましたとさ。 ・・・みたいな話。 基本、絵本ですからね。大人であれば、3分で読み終わります。2分かな。 で、この本の作者たるレオ・バスカーリア(本人は「ブスカーリア」と発音したとのこと)というのは、アメリカの教育学者ですな。教え子の自殺を経て、命の大切さを説く人となったらしい。 で、この「葉っぱのフレディ」ですが、これはですね、トランスパーソナル心理学の良き一例とされておりまして、つまり「死ぬ」っていうのは、単体としての人間からすると、すべての終わりだからすごく怖いこと、避けたいことになってしまうけれども、いや待てよと。 視点を一個の人間ではなく、悠久の大宇宙の視点へとトランスパーソナル的に変えてみる。すると一個の人間の命なんてのは、ほんの一瞬の時間でしかない。しかし、それにも拘わらず、その命というのは、大宇宙の計画の中に組み込まれた、とても意味のあるものであると。 そういう、人間を超越したものの視点から、自分の命ってのを眺めてみればいい。そうすれば、自分には何か与えられた役割があって、その役割はすごく小さなものかも知れないけれども、かけがえがないものでもあるということが分かってくるだろう。 そう考えれば、限りあるこの命のある限りその役割を全うし、死ぬときは泰然と死のう、っていう気にもなるじゃん? ・・・みたいな哲学があるわけね。哲学っていうか、ちょっとニューエイジ的な自己啓発思想。それを、絵本の形に託して表現してみました的な。 子供をダシに使って大人の読者に媚びるとは、あざといねえ・・・ いや、もとい! ステキな絵本ですこと! とにかく、こういうのが売れるんだよなあ。絵本のふりをした自己啓発本。もちろん、「ふり」っていうのは、作者も読者も共犯的に納得しているんだろうけど。逆に、これをマジで幼児に読み聞かせて、「ねえ、だから〇〇ちゃんも、死ぬのはちっとも怖くないんだよ~」とかって諭す親が居たら相当怖いわ。 ということで、噂に聞く『葉っぱのフレディ』ってのがどういうものか、ようやく分かったという収穫はありました。葉っぱのフレディ いのちの旅 [ レオ・バスカーリア ]
August 23, 2018
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ちょっと前の話になりますが、高知県立大で図書館の蔵書3万8千冊を焼却処分した、という話、ご覧になりました? 図書館を新設したのはいいけれど、旧図書館の蔵書を全部入れると、その時点で一杯になってしまうので、将来のことを考えてそれだけ焼却処分したというのですが。 これさあ、ははーん、と思うんだよね・・・。 実はうちの大学でも昨年、図書館のリニューアルをしたんですが、やっぱりそれを機に図書の処分をしたわけ。 なんでそういうことになると思います? あのね、図書館は図書を入れる館で、その館が大分手狭になってきたので、リニューアルしていいですか? とか文科省に尋ねるとするでしょ? そうすると「ダメ」っていう返事が来ます。 その代わり、「図書館の中に、コモン・スペース沢山作りますから、リニューアルしていいですか?」って尋ねるとするじゃん? そうすると「いいよ」って返事が来ます。 今、文科省は「コモン・スペース」ってのが大流行りなのよ。これを作るというと、すぐにお金がつくので、校舎もコモン・スペースつき、研究棟もコモン・スペースつき、ってな具合に、国公立大学の建物にやたらにコモン・スペースが出来ております。 じゃあ、コモン・スペースって一体なにか? と申しますと、これがよく分からない。テーブルとか椅子がおいてあるスペースで、何に使ってもいい(けれど、何に使っていいかよく分からない)スペースなんですな。 で、うちの図書館リニューアルに際しても、たーくさんコモン・スペースが出来ました。それだけでなく、撮影機器満載の「特別教室」とかも出来ました。ただ、特別教室は誰も使ってないし、コモン・スペースは学生が冷房の効いた部屋でおしゃべりをするために使っているようです。 で、その分、何が減ったかというと、蔵書スペースが減りました。だから、本を処分することになりましったっていうね。 で、そういうのは、教授会の議を経なくてもいいのね。今、文科省の指導によって、国公立大学はとにかく「学長のリーダーシップ」で何でもやることになっているので、その大学に勤めている教員には何の相談もなく、学長が「処分」って言い出したら、問答無用で処分されちゃう。 つまり、高知県立大のケースとほぼ同じ。だから、このニュース見た時には、私は「ははーん」と思ったわけよ。 うちの大学はさすがに焼却はしないと思いますが、しかし、本末転倒のことをやっているのは同じだよね。図書館の一番大事なものを捨てるわけだから。 しかもね、その処分の仕方が超おバカで、「最近、使われていない資料」から捨てるわけ。 お前ら、アホか! どこをどう押したら「使われない資料=要らない資料」っていう発想が出てくるんだよ! 書店じゃないんだぞ。図書館だぞ。何十年も使われていない資料だから、重要っていうことだってあるかもしらんじゃないの。百年に1回使われるかもしれないから、それを所蔵するってのが、本来、図書館の在るべき姿でしょうが。 とにかく図書館の蔵書処分問題って、日本の教育行政の今のありようを象徴していますな。流行の「コモン・スペース」ありきの、本質的な図書処分っていう。いかに教養のない連中が、教養の中枢を司っているかという。 私なんか、こういうことを「恥ずかしい」と思うけど、官僚は思わないのかな。恥ずかしいと思っていたら、自分の息子を裏口入学させるようなことするわけないか! さてさて、2週間弱の実家での夏休みも今日で終了。今日はこのあと、夕飯を食べてから名古屋に戻ります。明日からはまた、通常通りの名古屋からの配信。それはそれでお楽しみに〜!
August 22, 2018
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アメリカを代表するフェミニストの一人、グロリア・スタイネムの『ほんとうの自分を求めて』(原題:Revolution from WIthin, 1992)を読了しましたので、ちょいと心覚えを付けておきましょう。 これ、原書で350ページ、訳では500ページ以上ある分厚い本なので、「これは○○について語っている本です」みたいな形でまとめにくいところがありまして、今、これを書いている時点でもどういう風にまとめたらいいのか途方に暮れるところがある。何か一つのテーマについて集中的に語っているわけではないから評論集でもないし、プライベートなことをあれこれ書いているので自伝的要素もあるけれど、それが目的というわけでもなさそう。『嵐が丘』や『ジェーン・エア』といったロマンス小説について云々しているところもあるので、部分的には文学評論的なところすらあれど、もちろんそれがスタイネムの専門であるはずもなし。うーん、要は・・・長文の・・・ごたまぜエッセイ? というわけで、根っからのスタイネム・ファンとかフェミニストが読む場合はどうか分かりませんが、必ずしもそっち方面に関心が薄い人が読むと、結局、自分は何を読まされたのか、呆然としちゃうところがある。 だけど、その呆然とした状態のまま、本を一旦机の上に置いて、そこからずっとずーーっと後ろに下がって、遠いパースペクティブから眺めると、なんとなく、こういうことなのかなあ、というのが分かってくる。 つ・ま・り。 スタイネムさんというのは、女の女による女のための雑誌『ミズ』を創刊したりなんかして、非常にアクティヴなフェミニストであったわけですよ。で、彼女は女性を虐げている悪法・悪政・悪人どもと戦って来た。だけど、なかなか社会は変わらないと。いつまでたっても、彼女が戦わなくてはならない相手が減らない。 で、ふと立ち止まって、なんでかな〜、と考えた。そしてハタと気づいたのは、自分がやってきたのはもちろん革命は革命なんだけど、外側の革命、すなわち人間を取り巻く状況を変えようとしてきたのだ、ということ。だけど、外側の状況を変えただけでは,実はあまり効果がなくて、もし効果を上げようというのなら、内側からの革命を、すなわち個々の女性の内面を変えないといかんのじゃないかと。 もちろんね、今、女性たちが不自然に虐げられた状況にあるのは、彼女たちの外側にある社会状況がそういう役割を女性たちに押し付けたから。悪いのは、外側にあるものなのね。 だけど、まあ、これが今回の本の目玉だと思うのだけど、スタイネム曰く、人間が他の動物と異なるのは、「自意識」と「適応性」であると。ある意味、この二つこそ、人間を人間たらしめているものなわけ。 だけど、これが諸刃の剣でありまして、この二つがネガティヴに働くと,大変よろしくない結果をもたらす。 例えば、キリスト教社会において「神様は男」であると。女なんてのはダメだと。そういう通念がある。それを受け取った女性がこれを自意識の中に取り込み、それに適応しちゃう。「そうそう、私は女だからダメなんだ」という風に。と、一旦こういう風にプログラミングされると、そこから先は万事、それをベースに物事が把握されていくので、女性は自尊心を持てず、自尊心が持てないから,社会通念通りの現実が実現していく。 本書『ほんとうの自分を求めて』が追求するのは、ここね。女性たちよ、あなたたちが自尊心が持てないのは、社会通念を受け入れて、それに順応しているからでしょ? そんな社会通念を受け取る前の自分、自分の中の本当の子どもを再発見してごらんなさい。その子ども、すなわち本当のあなたは、自分がダメだ、なんて思ったこともないでしょ? そこから、そのまっさらな本当の自分か再スタートしてごらんなさい。それが自分を内側から変えること、すなわち「内側からの革命」なのよと。 本書にごたごたと無造作に、だらだらと盛り込まれている様々な描写、エピソード、教訓、そういったものは、すべて上に述べたような視点から書かれているんだ、と納得してしまえば、ある意味、統一性のとれた本であることが分かってまいります。 で、最終的にスタイネムが言うには、先ほどの「自意識」と「適応性」を、これからはポジティヴに利用しなさいと。自分の内面に革命を起こし、自尊心を取り戻して、その自尊心に適応しろと。そうすれば、未来は明るい! で、そういう内面の革命を起こすには、まず瞑想しなさい、巻末に瞑想のやり方、ちゃんと書いておくから!! ん? わかった! これ、「自分が変われば世界が変わる。そのためには瞑想しろ」って言っているんだから、まごうかたなき「自己啓発本」だ!! というわけで、これはすっごくだらだらと書かれた自己啓発本だったのです〜。正体見たり〜! 女性向け自己啓発本の現時点での最大の流行は、「女性はなぜ自尊心を持てないのか?」ということを解明しようとするものなんですけど、1992年に書かれたこの本は、その走りって感じですかね。さすがスタイネム姐さん、手回しがいいや。 で、この本、出版と同時にすごいベストセラーにはなるのですけど、メディアからは相当なバッシングを受けたんだそうで。「フェミニストの闘士だったスタイネム、ついにファミニズム運動を諦めたか」とか、「今や彼女は,フェミニズム運動の敵!」とか、「長年彼女を支持して来た人々はガッカリ」とか、「スタイネム、金目当てで自己啓発本を書き出したぞ!」みたいな書評をバンバン載せるわけね。で、一時期、スタイネム本人もしょぼぼんとしちゃうのですけど、そこでまたハタと気がつく。 もしこれが他人の著書であって、その著書をメディアが悪意をもって攻撃しているのであれば、私(=スタイネム)は猛烈に怒って、そのメディアを批判し、その著書を擁護する文章をどんどん書いたことであろう。しかし、それが自分の著書だというだけで、何で私はこんなにしょぼぼんとしているのか? と。 自分、自尊心なさ過ぎじゃね? そのことを自分は本に書いたつもりだったのに! かくして、彼女の本を支持するたーくさんの人たちの声にも励まされながら、彼女は復活したのでした、とさ。っていうおまけつき。 ま、そんな感じの本でした。 で、私として本書を薦めるかどうかとなると、ちょっと微妙。面白くなくはないけど、長過ぎるよ! こんなだらだら書かないで、もっとコンパクトにまとめられなかったのかと。でも、「フェミニズムが自己啓発と手を組む時」の決定的瞬間をチラ見した気はするので、研究上、タメにはなったかな・・・。
August 21, 2018
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今日は母を連れて箱根にドライブに行ってきました。 10時半ころ家を出て、東名で御殿場まで行き、乙女峠を通って仙石原へ。今日、まず向かったのは「箱根ラリック美術館」。ベル・エポックのフランスにおいてアール・ヌーヴォーを極めたガラス装飾の第一人者ルネ・ラリックの作品を展示している美術館でございます。 なんで今日、ここへやって来たかと申しますと、この美術館にくっついて「LYS」っていうレストランがあって、きれいなお庭を見ながらランチが楽しめると聞いたので、ここでお昼を食べようじゃないかと思ったから。 「LYS」のランチ・コースは一種類のみ。なのでそれを注文。で,食べてみた感想ですが、うーん、絶賛まではしないけれども、各テーブルから見られる庭の景色の良さと、プロ意識の高いウェイターさんたちのサービスの良さも含めて、まずまず、合格点を出しておきましょうかね。コーヒーもお代わり自由で、美味しかったし。 で、ノンビリと食事を終えてから、美術館の方にいってみたのですが、ルネ・ラリックの何たるかがおおよそ分かって、なかなか面白かった。 じゃあラリックってのはどんな人だったかと申しますと、美術学校みたいなところを出て、工房に弟子入りして修行して、そろそろ自立しようかって頃、知人から香水のラベルのデザインを頼まれるんですな。というのは、この頃、小瓶入りの香水が市販されるようになり、ブルジョア階級まで香水を使用することが可能になったから。それまでは香水は貴族が大瓶で商人から納入してもらうものだったのですが。 で、ラベルのデザインを頼まれたラリック君、ラベルだけじゃ嫌よ〜、いや、いや、ってわけでガラスの香水瓶ごと作ったら、その意匠が素晴らしいってんでいっぺんに評判になり、一躍有名に。で、有名になったもんだから当時の名女優サラ・ベルナールに紹介される機会を得、彼女から舞台用の宝飾品のデザインを頼まれたので作ってみたら、これがまた意匠が素晴らしいってんでいっぺんに評判になり、再び有名に・・・ってな感じで、人から何かを頼まれる毎に才能開花しちゃって、一躍、アール・ヌーヴォーの申し子になったと。 でまた、彼の生きたベル・エポックってのがいい時代だったんだよね。いい時代だったからベル・エポックと言うわけだけど。文明開化しちゃって、電車は通るわ、きれいな踊り子さんがレヴューで踊るわ、街灯はつくわでパリの街もどんどん賑やかになって。女の人も髪の毛ばっさり切って、タバコ吸ってさ。女の人がタバコ吸い始めたんで、ラリックも女性用の灰皿をガラスで作ってみたら、その意匠が素晴らしいってんでいっぺんに評判になり・・・ってなもんで。時代とラリックがめちゃくちゃタイアップしてやんの。 で、肝心のラリックのデザインですが、これがまた繊細にして大胆。センス抜群。あきらかに天才だよね。ほら、ガラスっていうと、アメリカのルイス・ティファニーとか、フランスのエミール・ガレっていう選択肢もあるわけだけど、ワタクシが思うに、ラリックの方が遥かに上じゃね? というわけで、ラリック美術館、結構、堪能してしまいました。面白かったっす。これこれ! ↓箱根ラリック美術館 で、ラリック美術館のお隣にあるのが、我が家が箱根に来たら必ず寄るという「箱根湿生花園」なものですから、当然寄るでしょ。 実は今日は父の遺影も持って来たのよね。だから、その小さな写真立てに入った父の遺影も持って湿生花園を一回り。ちょうどキキョウとかワレモコウとか、虎の尾とかミソハギとか、秋を彩る草花が咲き始めた頃だったので、父も喜んだことでしょう。父はここが好きだったからね。 今日の箱根は,気温21度。半袖では少し肌寒いくらい。もう、山の上は秋ですわ。 で、そんな秋の気配を堪能した後、芦ノ湖スカイラインを通って元箱根を目指します。 と! 芦ノ湖スカイラインを快調に飛ばしているその時、親子の鹿が目の前に! ひゃー! いやあ。八ヶ岳周辺ではよく見かける鹿ですが、箱根で見かけたのは初めて。母もビックリするやら、喜ぶやら。今日本は鹿が増え過ぎて問題が生じているのは知っていますが、目の前に大きな野生動物が出てくると、やっぱりちょっと感動しますな。 で、そんな鹿の登場に驚きながら、元箱根の「Life Art Museum」に立寄り、玉村豊男さんの絵を眺めつつ、また彼の新著を一冊購入。私は、割と玉さんのファンなのでね。これこれ! ↓絵を描く日常 [ 玉村豊男 ] で、これで今日のドライブの旅程すべて終了〜。箱根新道・小田原厚木道路・東名と通って帰路についた次第。帰りに新百合ケ丘の駅ビルに寄って、いつものように「つづらお」で「にぎわいそば」を食べたりもしましたが。 というわけで、毎年、この時期、両親を連れて箱根にドライブに行くという恒例行事を、母一人になってしまいましたが、行った次第。母がまだ元気なうちは、このくらい、お安い御用でやんす。
August 20, 2018
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家内は一足先に名古屋に戻り、姉の一家も帰ったので、我が家は今、母一人子一人状態。 で、そうなると食事をどうするかっちゅー問題が生じてくるわけですよ。今までは姉や家内がわいわい作っていたのですが。 母一人であれば、それこそ有り合わせのもので済ませてしまうわけですが、そこに私が加わると、そうも行かない。といって、高齢の母に私のためだけに毎回ご飯を作らせるというのも申し訳ない。 そこで! 私が一計を案じて、このところお昼は冷凍食品で済ませることにしたのでーす! 実は、これには深慮遠望があるのよ。 母は昔の人ですから、あまり冷凍食品を食べないわけ。食べるとしたら「枝豆」とか、そういう素材系のものだけで、調理したものはあまり食べない。 そこで、私が居るうちに、冷凍食品をあれこれ試してみて、もし母の口に合って気に入るものがあれば、私が名古屋に戻った後、一人になった時でもそれを利用できるでしょ? 最近の冷凍食品は、以前のものと比べたら大分進化したし、美味しくもなりましたからね。 というわけで、このところ毎日、お昼は冷凍食品にしているのですけど、一昨日はね、ニチレイの「えびピラフ」を試してみました。そしたらこれが結構おいしくて、母も大いに気に入ったという。よくある冷凍食品のチャーハンより、母にはこちらの方が合っているかなと。これこれ! ↓冷凍食品 業務用 ニチレイ えびピラフ450g×12袋 というわけで、これは大合格。 そして昨日は日清が出している「古奈屋のカレーうどん」というのを試してみました。これこれ! ↓【送料無料】【日清食品】【冷凍】日清 日清古奈屋 カレーうどん 1人前×14袋 巣鴨 古奈屋カレーうどん【ラッピング不可】 これはね、かなり美味いっす! 作り方も簡単なのよ。300ccの水を鍋で沸騰させ、そこに凍ったままのうどんと具材をドボン。ついでに粉状のスープの素もドボン。後は適当にかき混ぜながら4分煮るだけ。これで、結構本格的なカレーうどんが出来るって寸法。これもまた、母の気に入るところとなりました。 で、今日。今日はね、マルハニチロの「あんかけかた焼きそば」をトライ。これこれ! ↓冷凍食品 業務用 マルハニチロ 五目あんかけ焼そば340g×12袋 ケース これ、電子レンジの調理時間が一人前7分弱掛かるんですけど、うん、完成品を食べてみたら、これがまた結構美味しかった。 いやあ、今のところどれもいい感じだなあ。すごいね、最近の冷凍食品。 ってな感じであれこれ試しているわけですけど、こうやって味比べしていると結構楽しいもんですな。 さてさて、ここまでは至極順調。で、次の一手はどうするか。ワタクシ的には、お好み焼きあたりに行ってみたらどうかなと思っているのですけど、どんなもんでしょうかね。ちょっと楽しみです。
August 19, 2018
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マラベル・モーガンという人の書いた『トータル・ウーマン』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、1973年に弱小出版社から出版されるや、すぐに50万部が売れ、1974年にアメリカで一番売れたノンフィクション本となったベストセラーでございます。 で、1973年とか74年なんつったら、ウーマン・リブ運動の真っ只中と言ってもいい時期。それで『トータル・ウーマン』と来たら、こりゃすごいフェミニズム本だと思うでしょ? ところが、さにあらず。フェミニズムとかウーマン・リブとか、その類いの運動の180度対極にある本よ。 で、この本の内容ですが、冒頭、マラベルさんご自身がご主人となるチャーリーさんからプロポーズされた時の思い出から語り始められます。当然、甘ーい話ですわなあ。 ところが甘かったのも束の間、世の大抵のご夫婦同然(?)、その甘さはあっという間に消え去り、さらに7年後に生まれた娘が4歳になる頃にはマラベルさんとチャーリーさんの仲は冷えきっていたと。 しかし、このままじゃ後10年もしないうちに,夫婦互いに憎み合うようになるぞと思ったマラベルさん、夫婦関係の改善に乗り出します。まず結婚関係について専門家の書いた本を何冊も貪り読み、セミナーにも出、さらに信仰深いマラベルさんとしては聖書も研究し、戦略を練ったと。 で、その戦略を実際にチャーリーさんに適用してみたら、あーら不思議、チャーリーさんのマラベルさんを見る目が劇的に変わり、二人の関係は新婚当初のようにラブラブなものに! かくしてマラベルさんはご自身の成功を元に、単なる主婦ではなく、いつまでも夫から愛され、子ども達から信頼される家の光、すなわち「トータル・ウーマン」になるためのセミナーを起ち上げ、さらにはこの本も書いて、悩めるアメリカ中の主婦たちに自分の後に続けと獅子吼しているのでありまーす。 つまり、冷えきった夫婦関係を元に戻し、最高の家庭の幸福を作り上げるのは一家の主婦たるあなた! そうあなたの仕事なんです! っていう本なの。「トータル・ウーマン」とは「完璧な主婦」の謂いであり、世の女性達よ、完璧な主婦となって、女の幸せを突き詰めろ! っていう本。この前このブログで扱ったベティ・フリーダンの『女らしさの神話』が、女たちよ、主婦なんてつまらない身分はかなぐり捨てて、社会に出て自己実現するのよ! と獅子吼していたのとはまったく逆の本なのね。この対照、ある意味、すごくない? っていうか、ひょっとしてこの本はベティ・フリーダンの『女らしさの神話』に対する、主婦の側の反論なのかもね。「主婦の何が悪いっていうの!? 聖書にだって女の役目は夫を助けることだって書いてあるじゃない。あんたら、偉そうなこと言ったって、しょせん女の幸せの何たるかも知らない哀れな連中でしょ。そんなに男に伍して働きたかったら働くけばいい。その代わり、夫に愛想つかされて離縁されるのがおち。フリーダンとやらも離婚したんでしょ。フェミニストなんぞ、みんな一人寂しく惨めに死になさい! 完璧な主婦たる私たちは、夫の愛に包まれ、子ども達の笑顔に囲まれた最高の幸せの中で充実した人生を歩むのよ!」っていうね。 とはいえ、単なる主婦からトータル・ウーマンになるには、それなりの修行が要ります。 では、マラベル流・完璧な主婦になるにはどうすればいいのか? という話になってくるわけですけれども、結構すごいこと書いてあるよ! 少なくとも私はちょっとビックリ。 マラベル曰く、まずね、とにもかくにも「家の主は夫である」ということを認めろ、と。あなたが今住んでいる家は夫の城であって、その城の王様はあなたの夫なのだから、すべての舵取りは夫の仕事、妻たるものは、差し出がましい口は挟まず、ひたすら夫の言うなりになれと。 ひょえ〜〜〜!! すげー! 1973年という時代にそんなこと言っちゃうマラベルすげー!! でもね、マラベルさんの観察によれば、世の失敗した結婚の例(っていうか、大抵の結婚はそうなんだけど)を見ると、大抵、この点で女は間違うと。つまり、自分が家を切り盛りしている気になって、夫を自分のいいなりにしようとする妻が多過ぎる。だけど、それをやって結婚生活が成功しているのを見たことがないとマラベルさんは言うわけ。 逆に、結婚生活が成功しているのは、夫唱婦随を徹底しているカップルの場合だと。だから、結婚生活をうまく回して行きたいなら、夫唱婦随になればいい。マラベルさんの主張はそういうことですな。たとえ、夫がへまばっかりしているように思えても、そこはぐっと我慢して、「あなた、最高よ! あなたの考えに賛成! 私はいつもあなたの味方! あなたの行く方向に私もついて行くわ!」と言うだけで、万事うまく行く。 と、ここまで話を聞くと、何と言う時代錯誤! 封建社会じゃあるまいし、なんで女が男の後に従わなきゃいけないのよ! と思うでしょ? だけど、マラベルさんのこの先の説明を聞くと、なるほどと思うところもあります。 つまりね、男と女は違う、とマラベルさんは言うんですな。女が欲しいのは愛。だけど男が欲しいのは愛じゃない。賞賛だと。 で、世の(この場合、アメリカ中の)殿方は、賞賛という面では空っぽのグラスみたいなものだと、マラベルさんは言います。空なの。で、空のグラスを傾けても何も出て来ないように、賞賛を受けていない男性をどう動かしたって、そこから女の欲しい愛なんて出て来ない。 だから、女性の皆さん、もし夫の愛が欲しくば、先ずは夫の空っぽのグラスを満たしなさいとマラベルさんは指摘するわけ。 えーーー。だって、私の夫に賞賛すべきところなんて一つもないもん。そう思ったあなた。だけど、あなたの隣に居る男性は、かつてあなたが恋し、結婚したいと思った人なわけでしょ? 夫だって、あなたを愛し、あなたと結婚したいと思ったから結婚したのであって。だから、もし今の夫に賞賛すべきところがないように見えても、そこは恋愛時代・新婚時代のことを思い出して、とにかく夫を褒めなさいと。あなたのこういう所,好きよ。あなた、まだまだカッコいいわ。あなたならきっと今回の仕事、うまくやり遂げられるわ、だってあなたいつも立派に仕事をこなしてきたじゃない。私、いつもすごいなあって、感心していたんですもの・・・。こんな言葉を一言掛けてあげれば、あなたの夫は、俄然、あなたのことを見つめ直し、あなたへのプレゼントを手に、いそいそと家に帰ってくるようになりますよ、と。 マラベルさんのアドバイスをまとめると、もし今の冷えきった夫婦関係を改善したいなら、夫を変えようとしないで、まず自分が変わりなさいと。そしてとにかく先に与える。夫は妻からの賞賛を欲しがっているのだから、その欲しがっているものを与える。そうしたら、夫はあなたにその何倍もの愛を返してくれて、白馬の王子様に変わりますよ、と、まあそういうことですな。 つまり、マラベルさんのアドバイスの中には、「世界を変えたいなら、まず自分が変われ」「受け取りたいと思ったら、まず与えよ」という、自己啓発思想の二大テーゼがちゃーんと入っているんですな。だから,この本は自己啓発本、それも女性向け自己啓発本と言えるんです。 だからね、妻は夫に従うべし、という点だけ見ると、なんだか時代錯誤に見えますけど、その内容をしっかり見れば、主導権を握っているのは女だ、ということでもあるんです。こうやれば、自分の思う通りの夫に仕立てられますよ、夫を自分の手のひらの上で転がせますよと言っているようなもんですからね。男は馬鹿なんだから、それを認めて、頭のいい女がうまく操縦すればいいじゃんと。 私見ですが、マラベルさんの言っていることは、かなり当たっているんじゃないかな。特に、女が欲しいのは愛、男が欲しいのは賞賛、っていうところは卓見のような気がします。 で、このあと、トータル・ウーマンはセックス面でも活発! 誘惑されるばかりじゃなく、夫を誘惑しちゃえ! 的なノウハウが書いてあったり、あと、子育ての面で、いい親になるにはどうすればいいか、的なノウハウが書いてあったりもして、その部分もなかなか読ませます。 で、最後の方になって、マラベルさんの宗教観が語られるセクションが来る。ま、それ以前に書いてあることからして、マラベルさんが保守派であることは分かり切っていますが、結構、マジな感じで神とつながった実感を得た時の事なんかを語ったりしております。本書全般、聖書からの引用も多いですしね。 とまあ、本書の内容はこんな感じ。 ちなみに、マラベルさんは「トータル・ウーマン」のセミナーを各地で実施してきたのですが、アメフトの「マイアミ・ドルフィンズ」の本拠地近くで実施した際、ドルフィンズのメンバーの奥さんが結構沢山、セミナーに参加したそうで。それでマラベルさんのセミナー受けて、その奥さんたちがトータル・ウーマン、すなわち完璧な良妻に変身したせいか、次のシーズンでドルフィンズは全勝、スーパー・ボウルでも勝って全米ナンバー1になったとか。いやあ、マラベルさんの影響は、そんなところまで及んでいたのね・・・。 まあ、なかなか面白い本ではありました。っていうか、家内にも是非読ませたい! これこれ! ↓【中古】 トータル・ウーマン / 板橋 好枝 / 講談社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】 ところでこの本、最初のうち訳がぎこちなくて、なんだか読みにくいんですわ。読み進めて行くと,段々気にならなくなるのですが。 で、読み始めた当初、「誰だよ、この下手っぴーな訳をしているのは・・・」とか思って訳者の名前を確認してビックリ。津田塾大の板橋好枝先生じゃあーりませんか。ひゃー、お見それしました〜。 しかし、板橋先生って・・・フェミニスト、なのかと思っていましたが、違ったんでしたっけ? フェミニストがこの本訳すってのも変な話ですが。 しかもこの本(私が読んだのは講談社文庫版)、巻末に曾野綾子氏と渡部昇一氏による推薦文が付いているんですけど、まずその人選がすごいよね。曾野綾子と渡部昇一。 特に渡部昇一氏の推薦文はすごいよ。「ウーマン・リブの風潮に断乎として目もくれず、『主婦こそ完全なる女性』と宣言したのがこの本である。女の幸せとは,夫があって子供があり、しかも夫を幸福にし、子どもを幸福にしている女性に見出されるという『古き良き時代』のテーゼをかざしてこの著者は揺ぐことがない。そういう女性が『トータル・ウーマン』というわけである。/結婚している女性も、これからしようとしている女性も、必ず一度は読むべき本である! そしてこの著者と意見を異にする時は『自分は結婚する資格があるのかどうか』と一度考えてみるとよい」なーんて書いてある。 板橋先生〜! これで良かったのでしょうか? 先生の女性観って「女たるもの、主婦になって幸せになれい!」でしたっけ? 意外〜!
August 18, 2018
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東京に居るうちに東京でしか出来ないことをやっておこうと、今日は五反田にある Good Day Books という洋書の古書店に行ってきました。実はアメリカン・ペーパーバックについての原稿を頼まれておりまして、それの資料探しのつもりだったのですが。 が! わざわざ五反田くんだりまで行ったのに、なんと、Good Day Books はとっくの昔に閉店していたのでした・・・。 マジかよ,ネット上ではまだ存在しているような雰囲気アリアリだぞ。閉店したなら、閉店したと、ちゃんと書いといてくれよ! というわけで、出だしからこのザマだよ。こういう時には、じたばたしてもろくなことがないんだよな・・・。 だけど、せっかく都心まで出ちゃったんだもの、じたばたするしかないでしょ。 ということで、都営浅草線・都営三田線と乗り継いで神保町へ。 久々の神保町ですけど、この街も変わったねえ。岩波ホールの隣、昔、信山社があったところも、なんだかブック・カフェみたいになっとるぞ。 で、これまた久々に北沢書店に赴き、スタインベックの『Tortilla Flat』のシグネット版を500円でゲット。だけど、安い古本だったせいか、店員が「このままでいいですか」とか言ってむき出しで渡してきやんの。北沢のサービスも落ちたもんだねえ・・・。 気を取り直してお隣の小川図書も見たけど収穫なし。で、お次はすずらん通りにあると聞いた「羊頭書房」を探すも見つけられず、仕方なく我が愛する「ボヘミアン・ギルド」の2階でリトグラフなどを見ながら目の肥やし。池田満寿夫の小さなリトグラフが3万円くらいで売っていて、なかなかいいものだったのですが、とりあえず今回はパス。 で、お次は三省堂。ここはね、洋古書を見に来たのではなくて別な用事。小学校英語教授法の授業を来年から担当しなくてはならないので、その参考になるような本を偵察に行ったの。 が、ちょこちょこ立ち読みしたけど、大した本がないねえ・・・。全然参考にならんじゃん。小学校英語、始まったはいいけど、誰もが迷走していて、何を教えるべきか、どう教えるべきかの定見がない。こんな見切り発車な状況で始めちゃっていいのかよ・・・。 ということで結局,何も買わずに売り場を離れたのですが、今、三省堂では8階で古書市をやっているということだったので、ちらっと覗いてみることに。しかし、実際には店のほんの一角にわずかばかりの本が並べてあるばかりで、まったく気が乗らず。さらに4階には「三省堂古書部」なるコーナーがあると知ったので、そこもチラ見したのですが、まあ、今が今欲しい本も見当たらず。 それにしても三省堂も迷走しているなあ。昔は新刊書の本屋としてビシッとしていたけど、今はあっちで古書部、こっちで絵を売り、そっちには本と関係ない食料品みたいなのを売ってたりして統一感まるでなし。何コレ? その後、「ブックブラザー源喜堂」まで行ったのですが、あいにく夏期休業中だってさ。ついてないねえ。 というわけで、5時間かけて書店巡りをして、結局ゲットしたのは1冊だけ。まったく情けない。 もう、アレだ。日本でアメリカン・ペーパーバックの古い奴なんて手に入らないんだ。もう諦めよう。今度ポートランド行った時に、パウエルズでしこたま買えばいいじゃん。 というわけで、今日は一日、くたびれ儲けの銭失い(足代はそれなりにかかるからね)に終わったのでありました、とさ。ガッカリ。
August 17, 2018
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先日,町田の中古レコード屋で買ったCDやLPをあれこれ聞きながら仕事をしているのですけど、今回買ったものの中ではビーチボーイズのものが印象的ですなあ。 ビーチボーイズの作品の中で,特にアーティスティックな面で評価の高い『ペット・サウンズ』、これはね、私としては個人的にそれほど評価しないの。世評によれば、これを聞いてビクリツしたビートルズが『サージャント・ペパーズ』を制作したということになっていて、それだけ優れたコンセプト・アルバムなんだそうですが、うーん、それほどのものか? 『サージャント・ペパーズ』の方が圧倒的にいいじゃないか。 しかし。 LPで買ったベスト盤の冒頭に入っていた「グッド・バイブレーション」、これは改めて聴いてみて、すごい楽曲だなと。 別に聴こうとしなくても、有名な曲ですから、勝手に耳に入ってくる。だから、今までまともに聴いたことなかったのよね。しかも、ビーチボーイズって、イメージ的にちょっとお馬鹿っぽいじゃん? カリフォルニアの太陽燦々ビーチでサーフィンして女の子ひっかけてイェーイ!みたいな。だから、私には無縁の人たちかなと。 しかし、今回、自分が買ったレコードの曲としてじっくり何度も聴いてみると、「グッド・バイブレーション」ってすごいね。 何度も変調したりなんかして曲の構成もすごく複雑だし、使っている楽器にしたって、テルミンまで動員しているんだよね。 ひょっとして、ブライアン・ウィルソンって天才じゃね? そんなの、私に言われるまでもないか・・・。はい、失礼しました。 というわけで、今更ながらビーチボーイズのすごさに開眼した次第。 否,「海岸した」というべきかな? ビーチボーイズだけに・・・。
August 16, 2018
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実家に帰省していると、おやつの時間が充実します。というのも、姉の一行と私の一行が代わる代わる外出しては、お土産に甘いものを何かしら買ってくるからで、お茶の時間ともなると、テーブルいっぱいにお菓子が広がるという・・・。カロリー的にはどうなんだ、というところはありますが、まあ、そりゃ口福なひと時には替えられませんわなぁ・・。 で、本日夕方のお茶の時間に登場したのは「やわらかシロコッペ」なるもの。これこれ! ↓これが「やわらかシロコッペ」だ! ふわふわのコッペパンに色々なものを挟んだシロモノですが、これ、名古屋の「コメダ珈琲」が作っているんですね。普段名古屋に住んでいる私なのに、知らなかった・・・。 で、甘い系のシロコッペをあれこれ食べてみた結論として、私がオススメするのは「クッキー&バニラクリーム」という奴。細かく砕かれてバニラクリームに混ぜ込まれたクッキーのサクサクという歯ごたえが楽しく、なかなか乙なものでしたよ。 ちなみに明日のおやつはもう決まっていて、「アンテンドゥ」というパン屋さんの「天使のほっぺ」という奴。まあ、見かけはカスタード入りメロンパン的な形状ですけど、さてさて、天使のほっぺという名前に負けないほど美味しいでしょうか。楽しみなところでございます。 さて、ブログだけ見ると実家に戻って以来、遊んでばっかみたいですけど、これでね、結構勉強もしているのよ。8月末締め切りの原稿があるもんで。 で、今書いている原稿は、アメリカン・ペーパーバックについてのものなんですけど、これを書くに当たって私が活用しているのが、神田にある「小鷹信光文庫」というライブラリー。これこれ! ↓小鷹信光文庫 これ、アメリカン・ペーパーバック研究の先達、小鷹信光大先生の蔵書の寄贈を受けた早川清文学振興財団が、この分野に興味のある読書子に資するために蔵書を完璧に分類し、ウェブ上でも検索できるようにしたものなんですが、使ってみるとすごく使い易いんだ、これが。小鷹先生がいかに沢山のペーパーバックを所蔵していたかもよくわかりますが、それを整理して活用できるようにした財団も偉い。まあ、素晴らしい文化遺産ですよ。 例えば、同じくアメリカン・ペーパーバックを山のように所蔵していた植草甚一氏の蔵書が、氏の没後、散逸してしまったのと比べると、天と地の差。植草氏のジャズレコードのコレクションは、タモリさんが引き継いだので、まあ、幾分はマシですが。 私が所蔵しているわずかばかりのペーパーバックも、いずれ小鷹先生のコレクションに追加してもらおうかな・・・。そうやって、好事家が少しずつ寄付していったら、このコレクション、さらに素晴らしいものになるのではないでしょうか。 とにかく、小鷹信光文庫を利用したのですから、それに恥じない文章を書かないとね。せいぜい頑張ります。
August 15, 2018
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今日は渋谷・東急東横店で開催されている夏の古本市に行ってきました〜! 今日が最終日だったもんでね。 で、いつものように、見始めて5分以内になんでもいいから1冊買う。これが私の定めたルールというか、古本の神様への貢ぎ物ということでありまして、これをやっとかないとその後、なかなかいい掘り出し物に当たらないんですな。 ということで、今日は見始め5分以内に河出文庫から出ていたウィリアム・バロウズ著、鮎川信夫訳の『ジャンキー』の美本を450円でゲット。ついでに、講談社現代新書から出ていた『大リーグ物語』という新書を一冊。これは、今年、うちのゼミ生で、アメリカのMBLについて卒論を書いている奴がいるものですから、そいつに貸してやる資料ということで。 で、5分以内に首尾よく2冊も買ったのですから、今日はさらにいい本が買えるかな・・・と思ったのですけれども、残念ながら後が続かず。寺山修司の『アメリカ地獄めぐり』(芳賀書店版)が2000円で売っていたので、どうしようかなとも思ったのですが、さほどの美本でもなかったことから今回は断念。その他、今日は寺山修司ものが結構目に入って、サンリオから出ていた詩集(宇野亜喜良が表紙絵を担当していた奴)が何冊もあったのですが、結構高いものだし、今が今、寺山のものを集めるタイミングでもないよなと思い直して、断念した次第。 やっぱり、この手の古本市は、最終日に行っちゃいけませんな。初日に行かないと。 それでもね、毎年、この古本市に来ているのに、今年だけ行かないというのはなんとなく惜しい気がして、収穫なしだとしても、年中行事として束の間、古本ハンティングを楽しませてもらったのだから、良かったかなと。 ところで、最近耳にしたんですけど、五反田の駅の近くに、洋書の大きな本屋さんがあるんですってね。Good Day Books とか、確かそんな名前だったと記憶しているのですが。 もし、今回の実家滞在中にもし時間的余裕があったら、そっちの方にも行ってみようかな。
August 14, 2018
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今日は家内の誕生日。ということで、二人で横浜の赤レンガ倉庫にでも行って、軽くランチでも・・・したいところだったのですが、実は我が家から横浜まで行くには何度も電車を乗り換えないと行けないものですから、ちょっと面倒くさくなっちゃって。 というわけで、クルマでふらっと出かけて、「リンガーハット」に寄り、長崎チャンポンを食べちゃった。ひゃー、ロマンチックじゃないねえ・・・。 だけど、野菜たっぷりチャンポン(私)も、冷やしまぜ麺(黒)(家内)も、おいしかったです。 で、特にどこかに行く当てもないし、そのままちょっとだけ足を伸ばして、多摩センターにあるGUの大型店に行っちゃった。 で、結局買ったのは私のジーンズとベルトだけという。おいおい、家内の誕生日じゃなかったのかい? でも家内もあれこれ試着して、楽しそうだったので、いいことにしましょうか。 で、帰り道。昼なのに夜のように真っ暗になったかと思うと、さーっと冷たい風が吹いて来て、やばい雰囲気。途端にバリバリと雷鳴がし始めて、すぐ目の前にどっかんどっかん落雷が。そしてそれを追うようにものすごい驟雨! いやあ。なかなかのスリルでございました。このスリルの中、クルマの中に家内と二人きり、「吊り橋効果」で少しは惚れ直してくれたかな? で、帰宅後、姉が買って来てくれたケーキで、家族皆でお祝いをし、夕食はピザ・パーティーと相成った次第。 とまあ、ごくごく平凡な誕生祝いになってしまいましたけれども、まあ、平凡な日々こそ幸せと思って、家内には納得してもらいましょうかね。
August 13, 2018
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今日は恒例、家族でのバーベQを楽しみました。 これに関連しての今年の一つのトピックは、バーベQ用のコンロを変えたこと。 昨年まで使っていた奴は、家内と結婚する前から使っていますから、かれこれ四半世紀近く使ったことになるのかな。で、コンロ本体はビクともしていないのですが、使用する鉄板がサビサビのコゲコゲで、ちょっと限界かなと。 ということで、今日は食材の調達の前にコンロ自体の買い替えをすることに。 で、近場のホームセンターで見たところ、まあ、こんなもんだろうというのが3,500円くらいで売っていたので、それを購入。安いものですな。あと炭と着火材も購入し準備万端。そしてその足で食材も調達。 で、今回もまず鶏もも肉の網焼きから始め、トウモロコシの醤油つけ焼き、サツマイモの焼き芋(ホイル焼き)、牛カルビ、牛薄切り肉の鉄板焼き、そして〆に焼きそばという布陣でしたけれど、やっぱり炭で焼くと何でも美味いんだよね! 死んだ父の仏前にもビールと焼き肉をお供えして、一緒に楽しんでもらいました。父も生前、夏の家族のイベントとして、バーベQを楽しみにしていてくれましたからね。 ちなみに、今回は炭に着火する際、炭を着火材の回りに円錐形に(つまりネイティブ・アメリカンのティピのような形に)並べてみたのですが、そうすると炭自体が煙突のような役割を果たすらしく、火のつき方が例年以上に早かった! こうするといいよ、ってなことをテレビか何かで見たので、それを試してみたわけですが、やっぱり物知りの言うことを素直に聞くと、いいことあるな。 というわけで、焼き担当として奮闘した分、ちょっと疲れましたけど、楽しい一日を過ごすことが出来てご満悦の私なのでした、とさ。
August 12, 2018
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昨日の夜、実家に帰省し、今日はいきなり小学校時代の親友Tと二人で町田にLPレコードを買いに行って参りました〜! 買いに行くのは、ディスク・ユニオンとブックオフなんですけど、もちろんレコード店としては前者が本格派。 だけど、こういう中古レコード屋さんとかに買い物に来る連中って、ちょっと古本マニアに通じるところがあって、一癖も二癖もありそうな中年のオヤジばっか。それが目の色変えてレコードの棚から一枚一枚レコードを掘り出している様は、ちょっと怖い。店内にはレコードが刷れる音だけが異常な大きさで響き渡るという・・・。 で、そんな中に場違いな王子様然と舞い降りた私、それでも頑張って買いましたよ。 ここでも掘り出しモノは・・・○ビーチボーイズ『ペットサウンズ』CD 650円○キャロル・キング『つづれおり』CD 350円○マル・ウォルドロン『レフト・アローン』CD 550円○ビーチボーイズ『バラーズベスト』LP 500円○サイモン&ガーファンクル『水曜の朝、3時』LP 350円 ってな感じ。 で、そこからブックオフにショバを変えまして、そちらでは・・・○パーシー・フェイス『グランプリ20』LP 450円○アンディ・ウィリアムス『ワンダフル・ワールド・オブ・ヤング』LP 500円○アンディ・ウィリアムス『ゴッド・ファーザーのテーマ』LP 260円○フランク・シナトラ『マイ・ウェイ』LP 260円 をゲット。やっぱり中古レコードは安いねえ! で、これだけしっかりゲットした後、今度はもう一人の親友Eも含め、3人で喫茶店にしけこみ、2時間ばかり互いの近況報告をしたりして楽しい、おじさん3人によるミニ同窓会。 まあ、でも、年齢的に出る話題は親の介護とか、そんな感じの渋い話ばかり。 で、定年まで後10年。その頃までには色々解放されて、自由な身になるのかなと。そしたら、また子どもの時みたいに暇に飽かせて3人で遊ぼうやと。それはまたそれで楽しいんじゃないかしら。 というわけで、定年を楽しみにする3人のおじさんは、それぞれ家に戻って行ったのでした、とさ。今日も、いい日だ!
August 11, 2018
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昨日は仕事帰りに道場に寄って稽古に汗を流してきました。リアルに柔術、リア柔なんですけれども。 で、今日は師範のA先生に稽古を付けていただいていたのですが、その際、一つの気付きがありまして。 これは私の気付きというよりは、A先生ご自身の気付きなのですが、先生曰く「技の解説、もしくは技を掛ける際のコツを語る時に、相手の身体をどう動かすかということに言及していたら、それはその時点で間違いなのではないか」と。 ま、八光流に限らず、格闘技の技のかけ方を口で説明するとなると、例えば「相手の肘を制する」とか、「相手の身体を少し前に引き出す」とか、ついそういうことを言ってしまうことがある。それはつまり、相手の身体をどう動かすか、ということに言及しているわけですな。 だけど八光流に限って言えば、それは少し違うのではないかと、A先生はそう仰います。 で、A先生ご自身が本部道場の宗家に技を習う時にも、宗家先生は決してそういう風には説明されないというのです。 相手の身体をどう動かすかではなく、あくまで自分の身体をどう動かすか、ということをいつも注意されると。 八光流の技は、自分の身体の姿勢を正すことがまず何と言っても重要なのですが、そうやって正しい姿勢によって技を掛ければ、自動的に相手が崩れるように技として完成しているので、相手の身体をどう操作するか、ということに意識を向けないほど、より正しく技が掛かるのではないか。A先生は、A先生自身、最近そう思うようになったと、その時稽古を受けていた私やOさんに仰ったのでした。 ううむ。なるほど。 これって、自己啓発思想にも通じるような気がする。 自己啓発思想の中心テーゼというのは、「他人や世界は変えられないけれど、自分自身は変えられる。っていうか、変えられるのは自分だけ。だから自分を変えなさい。そうしたら、不思議なことに、他人や世界が変わることになりますよ」というもの。 それを踏まえると、今日A先生が我々に伝えてくれた八光流のスタンスも、まさにその考え方じゃない? そういうことも含め、今日は技術的な意味で技を教わっただけでなく、それ以前の心持ちの点まで教わったような気がして、このことは記憶に留めておこうと思った次第。 さて、そう言う意味で今日の稽古はリアルに充実していたのですけれども、もう一つ、大きなトピックがありまして。 実はうちの道場の三段保持者の仲間の何人かが、来年の春ごろ、師範教伝を受けに本部道場に行くことになり、その仲間から私も行かないかと誘われちゃったんです。 2010年の春に入門して今年でまる8年。来年の春で9年が経つわけですけれども、そろそろ・・・か? いやーーーー、どうしよ、どうしよ。私なんかまだまだ全然ダメダメなのに。 しかし、同期入門のFさんをはじめ、親しい仲間が行くことに決めたとなると、ううん、ここはひとつ、勇気を出して行ってみるか?? 悩むなあ・・・。 まあ、まだ後半年ありますから、その間、じっくり考えて、それから決意することにしましょうかね。 さてさて、今日はこれから東京の実家に帰ります。しばらくは東京からのお気楽日記、お楽しみに~!
August 10, 2018
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このところ女性向け自己啓発本ばかり読んでいたので、ちょっと気分転換にナポレオン・ヒルの『悪魔を出し抜け!』(原題:Outwitting the Devil, 2011)を軽く読んでみました。以下、心覚えを付けておきましょう。 本書が書かれたのは1938年のこと。つまり、ヒルの主著『思考は現実化する』(1937)の出版の翌年。まあ、ヒルが文筆家として乗りに乗っていた時期に書かれたものと言っていい。 が! 本書はその後72年間に亘って封印されます。 それは何故かと言いますと、本書がヒルと悪魔の対話から成る本であり、また教会や学校を強く批判した書であることから、(ヒルの奥さんであったアニー・ルーらが)世間の批判を怖れたため。で、ヒルが1970年に亡くなった後もナポレオン・ヒル財団の倉庫の奥に放置されていたのですけれども、その後ヒルの身内も亡くなったこともあり、今や悪魔との対話の本だからといって焚書の対象になるといった時代でもなくなったことから、財団CEOのドン・グリーンがライターのシャロン・レクターに依頼して、レクターが処々に解説を差し挟む形での出版が実現したと、まあ、そんな次第。 で、そんな本書の成り立ちもさることながら、本書がヒルと悪魔との対話篇だってところがまず面白い。 ま、自己啓発本の中には、神さまとの対話篇とか、仙人みたいなじいさんとの対話篇というのが、一ジャンルとしてあるわけですよ。日本においても『嫌われる勇気』とか『夢をかなえるゾウ』とか、色々あるでしょう? 自己啓発本に限らず、ソクラテスの著作なんかもすべて対話篇なわけで、啓発系のジャンルでは昔からそういう手法はある。で、その手法をヒルもまた使っていたというところが面白いわけ。 ただ、相手が悪魔っていうところは斬新。さすがヒル。 で、ヒルのインタビューに悪魔が答える、という形で本書は進展していくのですが、それによると悪魔はこの世の98%の人間を支配しているというのですな。支配が及んでいないのは、人類のたった2%だけ。じゃあ、この98%の人間と2%の人間を分けるのは何かと言うと、悪魔曰く、「自分で考える人間かどうか」だと。つまり、98%の人間は自分で考えようとしないというわけ。自分で考えない代わりに、彼らは「流される」。で、流されるままの人間は、もう悪魔の言いなりだと。 で、悪魔は食欲、性欲、出世欲など、様々な欲望を賄賂として人間の頭に入り込み、人々に「流される」習慣を植えつけるんですな。で、習慣というのは、要するに「繰り返しのリズム」であるわけですけれども、この習慣形成のリズムこそが悪魔の用いる最大の武器たる「ヒプノティック・リズム」であって、悪魔はこのヒプノティック・リズムによって人間を支配してしまう。 ここで本書から少し離れて解説するならば、ヒルがここで言っているヒプノティック・リズムというのは、結局、「ネガティブな思考」ということなんでしょうな。こういう思考法が定着(=習慣化)することによって人間はどんどん下降の渦の中に巻き込まれてしまうと。 で、人間ってのは、生まれた時には真っ新な状態なので、悪魔が如何にヒプノティック・リズムを行使しようとしてもなかなかうまく行かない。 ところが人間というのは、環境から大きな影響を受ける。その影響というのは、例えば教会であったり、学校であったり、あるいはこれらを一足先に通過した大人であったりする。 例えば教会は子供に「怖れ」を植えつける。そして学校は学校で、自分の力で考えない習慣を子供に植えつける。つまり教会と学校はいわば悪魔の代理人のようなもので、悪魔の代わりに下処理をしておいてくれるというわけ。だから教会に通い、学校に通った後では、子供たちはまんまと悪魔のヒプノティック・リズムの餌食になるというわけ。 ま、ヒルはこういう形で既存の教会制度や学校制度を痛烈に批判しているわけですな。だからこそ、本人や遺族がこの本の出版をためらうことにもなったわけですが。 ちなみに、特に学校制度について、悪魔自身、「もし学校がこういう風だったら、自分にとっては不利になる」という形で学校制度改革を語っている部分があるのですが、それはね、学校制度改善への提言としてかなり有効なものだと思います。例えばこんな感じ:*可能な限り何事も生徒が自発的な行為により学んでいくという明確な体制を作る。また、授業の内容は、日常生活の問題とつながりのある具体的な作業を必要とするものとする。*あらゆる成功はアイデアをつかむところから始まる。生徒には、自分の頭に浮かんだアイデアが自分の人生で望むものを手に入れるのに実際に役立つものかどうか判断する方法を教える。*生徒には、時間の配分の仕方と使い方を教える。そして何よりも、時間が人間の持つ財産の中で最も重要で最も安価なものであることを教える。*生徒には、あらゆることについて明確であるように教える。その最初が、人生の明確な目標を持つことなのだ!*生徒には、習慣の原則が持つ長所と短所を、その本質と可能性の両面から教える。説明の際には、子供も大人も経験する日常生活の具体的な場面を可能な限りたくさん例に挙げること。*生徒には、一時的な敗北と本物の失敗の違いを教える。そして、あらゆる失敗に含まれる、それに見合うだけの成功の種を見つける方法も教える。*生徒には、精神の調和を保つことの重要性を教える。そして、精神の調和は自制心によってしか保てないことを教える。*生徒には、この世で自分が占める空間は、自分が世の中に提供するサービスの質と量によって決まるということを教える。*生徒には、拗ねての問題には適切な解決法があり、その解決法はたいていその問題を作り出した環境の中に見つかることを教える。*生徒には、あらゆる限界は、自分が自分の意識の中で作ったか、あるいは他人が作るのを許したか、そのどちらかでしかないことを教える。*生徒には、常に自分自身に対して正直であることを教える。すべての人間を満足させることはできないため、自分自身を満足させられればそれでいいということを教える。 ま、ほんの一部を抜粋しただけですけれども、これら、教育論として、なかなか素晴らしいんでない? とまあ、こんな感じで、ヒルは悪魔にインタビューし、悪魔が人間をコントロールする際の巧妙な手口を明らかにさせつつ、その悪魔を出し抜いて、悪魔の手から脱出する方法をも悪魔自身に告白させるという方法で、ヒル自身の主張を悪魔に語らせていると。 で、もちろん上に述べてきたことから推測されるように、悪魔のヒプノティック・リズムから脱するには、なによりもまず「自分の頭で考える」ことである、ということが示されます。 そしてもう一つ、本書のキーワードとなっているのが、「代償の法則」。 「代償の法則」というのは、ラルフ・ウォルドー・エマソンが1826年1月8日の日記に記した「我々が知っているのは、代償の法則である。あらゆる不備は補われ、苦しみは癒され、犠牲は報われ、負債は返済される」というもの、つまり「何かを失えば、その分必ず何かを得る。何かを得れば、その分何かを失う」ということ。 ヒルはこのエマソンの知恵を、失敗に直面した時に使えと(悪魔を通じて)言います。ヒプノティック・リズムとは、要するに「代償の法則」のことなのだと(327頁)。 だから、何かに失敗した時、簡単に絶望したら、それはヒプノティック・リズムの負の側面に巻き込まれるだけ。しかし、この失敗は成功がすぐ其処にあることの兆し、あるいは成功するために取る手段を変えろという教えとして受け取り、さらに強固な意志をもって成功を求めれば(=ヒプノティック・リズムを肯定的に使えば)、その飽くなき意志が習慣となり、かならずや成功を手に入れられるであろうと。 ただし、ヒプノティック・リズムは、環境を使って人に影響を与えるので、自分をどういう環境に置くかが結構重要。つまり、配偶者や友人など、自分の周囲に居る人々の人選には慎重にならないといかんよと。(ちなみにヒル自身の成功哲学の中に「マスター・マインド」という側面があって、大きなことは一人では成し遂げられない、必ず良き協力者を集めるように、とアドバイスしているのですが、悪魔が環境面について触れるのも、ヒルのマスター・マインドを換言したものと解釈できる。) ま、本書の内容と言えるものは、大体、上に述べたような感じですかね。 で、本書の本質的な部分とは関係ないのですけど、本書を読んでいると、所々でヒルお得意の歴史改変言説が顔を出す。そこがまた超面白い。 例えば「流される人間」の例として、サミュエル・インサル(トーマス・エジソンの個人秘書からシカゴ・エジソン社の社長になり、成功しながら、1933年の株価暴落の際に逃亡、失墜した)を挙げ、「私がこう断言できるのは、インサルのことをよく知っているからだ。世界大戦のときにいっしょに働いていた頃から、彼が軽率にも自分から逃げ出そうとしたあのときまで、彼の失敗の原因はすべて知っている」(365頁)などと書いているのですが、果して本当にそうなのか? あるいはこんな記述。「彼(フランクリン・ルーズベルト)が大統領になって数日後に開かれた特別補佐官との会議の席で、私は彼に一番大きな問題は何か尋ねた。すると彼はこう答えた。『大きいとか小さいとかは関係ない。問題はただ一つ。国民の恐怖を止め、それを信頼に置き換えることだ』」(367頁)。まあ、ヒルがルーズベルト大統領の補佐官であったというのは、ヒルご自慢の履歴の一つなのですが、そうであったという証拠は何一つないという。 とまあ、おそらくはホラ話であろうこともちょこちょこ混ぜながらの本書ですが、ヒルの著作の面白いところは、たとえそういう虚実取り混ぜたようなところがあったとしても、本質的にはなかなかためになる、人間性の本質を突いたようなことを書く、というところでありまして、この本なんかもまさにそんな一例ではないかと。 ということで、対話型自己啓発本のユニークな一例として、面白いっちゃー面白い本ですよと言っておきましょうかね。悪魔を出し抜け! [ ナポレオン・ヒル ]
August 9, 2018
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なんか家の近くに雑貨カフェができたらしいという噂を聞きつけたもので、モノは試しと行ってみることにしました。名東区新宿にある「stock」というお店なんですが。 行ってみると、倉庫をリノベした案外大きな雑貨屋さんで、とりあえず中に入って見てみることに。 1階と2階と両方あるのですが、鉄骨剥き出し系の今時のお店で、置いてあるものはハワイとカリフォルニアの匂いのするものがメイン。陽光と潮風とアロハ・スピリットのお店ですな。1階の奥には、アメリカンな工具とかも置いてあって、DIY方面に興味のある方にもいいかも。 で、そんなセレクションの中から、家内はサーフボードの刺繍のある可愛いガーゼ・ハンカチを、私は「アロハ」っぽいマグカップをゲット。なんでアロハかというと、今、ワタクシの中でハワイ・ブームだから。なんとか研究にハワイの要素を取り入れて、ハワイに行きたいなと策謀を巡らせているところなの~。 で、このお店はカフェでもあるので、こだわりの豆を使ったコーヒーと、それからこれまた力を入れているというアイス(ジェラート)を注文。店内の一角にあるテーブル席でいただくことに。どちらも美味しかったです。 で、他にお客さんがいないのを幸い、オーナーの若いご夫婦(と3カ月の赤ちゃん!)にお話を伺うことができました。 それによると、このお店は1年ほど前に出来たそうで、ご主人は別に建築関係のお仕事もなさっていることもあり、倉庫物件のリノベはご自身(とお仕事仲間)で半分遊びながらやってしまったのだとか。で、時おりハワイやカリフォルニアにご夫婦で商品の買い付けをしに行ったりしながら、あまり忙し過ぎない程度にこのお店を続けていければいいなと。 なるほど~。なんか、いいじゃないですか。アロハな感じで。 で、我々もカリフォルニアには詳しいので、ロスやその周辺の街の噂を交換したり、我々の行ったことのないハワイの事情を伺ったりと、結構、話が弾んでしまった。 ちなみにハワイは、ブームに見舞われてアメリカ本土のお金持ちが大挙した結果、めぼしい不動産を皆買われてしまい、もともと現地に暮していた方々にとっては手が届かないほどの値段になってしまって、隅に追いやられるようなことになっているのだとか。また、治安も少し悪化していて、レンタカーでビーチに行き、サーフィンなんか楽しんでいると、地元の悪い連中にすぐに目を付けられ、車上荒らしをされたり、色々持っていかれてしまうのだとか。持ち主が波の上に居るのが分かっているので、堂々と盗めるわけね。 とまあ、夢のハワイも、現実的にはかなり夢から醒めるようなところがあるみたいですが、それはそれとして、一度は行ってみたい・・・。 オーナーご夫妻と随分話しこんでしまいましたが、お二人共カリフォルニアとハワイを愛する人達ですから、気さくでいい感じ。カフェ・コーナーには、私の好きなカリフォルニア系雑誌も各種おいてあるし、またいつか、コーヒーとジェラートを食べに遊びに行こうかな。 これこれ! ↓stock ってこんな店
August 8, 2018
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先日、ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』を読んだ際、その中にヘンリー・A・ボウマンという人の書いた『現代人のための結婚論』(原題:Marriage for the Moderns, 1942)という本が大学の教科書にも使われ、第二次大戦後の女性たちのあるべき結婚観に大きな影響(=悪い影響)を与えた、とディスられていたものですから、どんなもんかなあと思って、この本も読んでしまいました。 で、ボウマンがなぜこの本を書いたかと言いますと、本人曰く: 「第二次大戦後、社会生活のなかのいろんな伝統が急速にくずれていきつつある。父親(夫)が支配者であった前代の家庭生活はくずれてしまった。だからといって新しい民主主義の過程は何ら一定の型をつくり出していない。この二重の原因のために、社会も世論も今日結婚について何一つはっきりした観念も理想も提出していない」(483頁) ボウマンとしては新しい時代にふさわしい新しい結婚観を確立しようとばかりに本書を叩き台として提出したと、まあ、そんな感じなんですな。 で、本書冒頭、ボウマンは男と女は本来的に違う生き物だっちゅーことをまず頭に入れろと主張します。勿論違うというのは、どちらかがより優れているとか劣っているとかいうことではないし、違うと言っても重なり合うところもある。さらに個人的な差異もあるから一概には言えない。だけど、違うことは違うのだから、互いに補いあっていくことが大事。男女がダンスをする時のように、競い合うのではなく、男が右へ動けば女は左に動く、といった具合に、お互いに調子を合わせることで楽しい結婚が可能になるのだ、と述べているのですが、まあ、総論としてごく普通だよね・・・。 で、その後、段々具体的な話になっていくのですが、例えば結婚ってのは適齢期があると。あんまり若すぎても責任がとれないし、結婚した年齢の精神年齢のまま夫も妻も人間的成長が止まってしまうことが多い。他方、あまり遅くなりすぎて、互いの人間性が固まってしまった後では、二人の人間がまじりあって成長するという側面がなくなってしまう。だから、人間性の急速な成長が終わりかける頃、即ち男だったら二十代後半、女だったら二十代前半がいいそうで。 あと、若い時にはついのぼせ上って、本当にふさわしい結婚相手を見つける前に、そうでない相手と結婚してしまって失敗することがある。だから、以下の何項目かの質問からなる自己診断票(「あなた方二人は共通の関心事を持っているか? それは相手の関心事にあなたがつきあっているだけではないか?」とか、「あなたは相手にぞっこんだが、あなたの親友があなたの交際相手のことを良く思っていない場合、案外、第三者である親友の意見が正しいとは思わないか?」といった質問事項が並んだもの)に正直に答えてご覧なさい、てなことも書いてある。 その他、結婚前に性交を行うことの是非だとか、婚約期間の長さはどのくらいがいいかとか、婚約期間中の「ペッティング」(久々に聞いたな、この言い方!)の是非とか、そんなこまごましたことも。 あと、他人が一緒に暮すのだから、齟齬はあると。だけど、そういう齟齬が起った場合、すぐに小言を言ったり、嫌味を言ったりしても、あまり建設的ではない。夫や妻がある気に入らない行動を取るにも、それ相応の理由があるのだから、その本質的な理由まで遡って、それを理解した上で、どう解決すればいいか考えなさい、なんてことも。 あと、性的なことへの言及も結構多くて、そこが「現代人のための」というところなのでしょうけれども、性的な相性については、最初からバッチリということはないので、少しずつ相手の意向を汲み、相互に合わせていかなくちゃいかん、それでこそ、結婚して何年もたってから最高の相性を得るということになるんだ、とかね。あと、夫たるもの、女性の生理的なことは身をもって体験しようもないのだから、せめて外側からしっかり観察して、相手のことを慮ってあげないとダメ、ってなことも書かれております。 ・・・とまあ、ざっと通読して、さほど変なことを言っているということもなければ、むしろ常識的なことばかり書いてあるので、単に「ふーん」って感じで読了。 で、ちょっと調べてみたのですけど、この本が出版された当初の書評とかを読んでみても、「『現代人のための』という風に書いてある割に、保守的なことしか書いてなくて、そこがちょっと期待外れ」ということが書いてあって、出版当時ですら既に「古い」という判定を下されていたのかなと。あとね、アマゾンで本書(原書)のレビューを見ると、「この本、チョー笑える」とか書いてあって、その基本的な考えかたの古さを揶揄するようなものばっかり。 実際、本書の中で想定されている夫婦関係の中で、妻が社会に出て働いているというケースはほぼ皆無。夫は外で働き、妻は家を守るという部分はそのまま残しておいて、その上で、「昔のように夫が家の中の独裁者を気取っていたら、これからの新しい夫婦関係は成り立ちませんよ、夫はもっと妻のことを優しく気遣わなくては」という主張だからね。 ま、ベティ・フリーダンが本書をディスるのは、おそらく、この点だね。この本のアドバイスに従っていたら、妻は家の中に閉じ込められちまうじゃないかっ!! というところに、フリーダンは激怒したのでありましょう。 ま、でも、とにかく本書を読んだことによって、第二次世界大戦後のアメリカにおける新しい・・・しかしその実、古い・・・結婚観を垣間見ることができたので、読んだ甲斐はあったかな。 しかし、そのこともさることながら、この種の「結婚指南本」っていうのは、実は昔からそれなりの歴史があって、例えば有名なところでは、オランダ人のテオドール・ヴァン・デ・ヴェルデが1926年に発表した『完全なる結婚』というのがある。一種のハウツー・セックス本で、医学書なのかエロ本なのか、世界中で物議を醸しつつ、世界中で大ベストセラーになった奴。以来、この種の本は定期的に話題を提供し、その時代その時代の結婚観やセックス観を知る良き指標になっております。 だけど、そういうのをまとめて通史として研究したものがないんだよね。でもこれって、社会学のテーマとして、恰好のものなんじゃないの? 私がやってもいいんだけど、そこまで手が回らないかなあ・・・。誰かやらない?
August 7, 2018
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昨日の深夜、NHKのEテレでやっていた『奇跡のレッスン(柔道編・前編)』という番組をたまたま見たのですが、これがなかなか面白くて。 途中から見たので、前提があまり分かっていないのですが、どこかの中学校(?)の柔道部に、フランスでオリンピック柔道チャンピオンのリネール選手を育てた名コーチ、ブノワ・カンパルグさんがやってきて、そこの子供たちに柔道の指導をする、というもの。 で、ブノワさんは、初日、この子たちが普段どういう練習をしているのかを黙ってずーっと観察しているんですな。で、確かにその子たちは従順だし、指導の先生の指示をよく聞くし、型の反復練習も熱心にこなす。こんなに若い時から、型だけはほぼ完ぺきだと。だけど、その反面、自主性がなく、技にも独自性というか、主体性、自分なりの工夫、機を見る姿勢がまったくない。で、先生の指導法もいかにも日本っぽいそれで、やたらにどなりまくり、指示通りに動かすばかりで、子供たちの主体性を伸ばす感じのものではないんですな。 で、二日目からブノワさんがコーチングに乗り出すのですが、最初は柔道はまったくしないの。じゃあ何をするのかと言いますと、子供たちをプールに連れて行って、水泳の練習をする。 柔道なのに水泳? と思うわけですが、そこはブノワ流。ちゃんと理屈がある。 水泳で水に浮くには、脱力しなくちゃダメ。だけど、この脱力というのが武道でも重要だ、というわけね。だからまずプールで全身の力を抜く練習をするんです。 そして次に、体を自在に操る練習として、手はクロール、足は平泳ぎの泳ぎ方で泳ぐ練習をさせる。これが結構難しいらしく、子供たちも四苦八苦。でも、この練習によって、普段から体に染みついてしまっている「決まった型の動き」を一旦リセットし、上半身と下半身を意識的に別々に動かす術を身に付けさせるのが狙いだったんですな。で、ここまでが二日目。 次、三日目は、呼吸法と体幹を鍛える練習。心拍数の上げ下げを繰り返すことでスタミナを蓄え、腹式呼吸と胸呼吸を交互に行うことで体力の回復を早める術を身に付けさせる。これが実際の試合ですごく役立つと。 そして三日目の午後になってようやく柔道の練習に入るのですが、そこはやっぱりブノワ流なので、決まった一種類の技の反復練習なんてしないの。 じゃあどうするかと言うと、大外刈りを掛ける練習をしつつも、相手の体が崩れたと見たらすぐに方針を変え膝車に切り替えるとか、とにかく臨機応変に連携しながら複数の技を掛ける練習をするわけ。しかも、掛ける側と受ける側が同意の上で決まった動きをするのではなく、掛ける側が積極的に動き、受け手を翻弄しながら技を掛ける。要するに、より実践的な練習なんですな。そういう動きの中で臨機応変に技を掛けあうことで、相手のスキを突いたり、スキを作り出したり、瞬間の判断で掛ける技を変えたり、ということを練習する。 でも、やっぱり日ごろの練習方法が身についてしまっているので、初めのうち、子供たちは苦労します。それでもブノワ・コーチの適切な指示によって、最後の方になるに従って、子供たちも自分から動き、機を見て思いがけない技を繰り出す、なんてこともできるようになってくる。 で、なによりもだんだん、子供たちが生き生きとしてくるのよ。ただ先生に怒鳴られて、決まりきった型を反復するのではなく、「この練習は〇〇を鍛えるため」というのがはっきりしている合理的な練習を、それぞれ自主的に取り組むわけですからね。 だから、同じ柔道の練習でも、旧来の練習法が白黒テレビ的なのに対し、ブノワ・コーチの練習法はカラーテレビを見ているような感じがする。生きた練習というか。 まあね、私はリネールの柔道が好きではないし、日本柔道の良さというのはあると思いますけれども、こういうフランス的合理主義を日本の武道に取り入れるというのは、一つの選択肢としてアリなんじゃないかなと。実際、日本柔道はリネールの前に何度も屈しているわけですし。 ちなみに昨晩私が見たのは「前編」で、この先「後編」をやるのだと思いますが、もしチャンスがあれば後編も見ちゃおうかな! 合理的な指導法というのは、柔道のみならず、大学教育の場でも考えるべきものだと思いますのでね。
August 6, 2018
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ベティ・フリーダンの『新しい女の創造』(原題: The Feminine Mystique, 1963)、何度目かの再読ですが、これまで心覚えを付けたことがなかったので、今回、あらためて要点をメモっておこうかなと。 この本、冒頭の一節がいいんだよね: 長い間、ある悩みがアメリカの女性の心の中に秘められていた。二十世紀の半ばになって、女性たちは妙な動揺を感じ不満を覚え、あこがれを抱いた。郊外住宅の主婦たちは、だれの助けも求めずにひそかにこの悩みと戦ってきた。寝床を片づけ、食料品を買いに出かけ、子供の世話をし、夜、夫の傍に横になる時も、「これでおしまい?」と自分に問うのをこわがっていた。(12頁) アメリカ中の(中産階級の)女性達を襲うこの得体の知れない「不充足感」は一体何? という問いから始まる本書は、その原因を、当時のアメリカ社会が女性達に期待し、押しつけた「女らしさ」の概念だ、と喝破するわけ。 じゃあ、その「女らしさ」ってのは何か? そうしたものへの期待は、一体いつ頃から生じてきたのか? ま、答えから言ってしまうと、女性たちに「女らしく」振る舞うよう期待する、といった風潮がアメリカに生まれたのは、第二次世界大戦後だと、フリーダンは見ております。 それ以前のアメリカにはそういう意味での「女性観」というのはなくて、1920年にアメリカ全体として女性参政権が確立(これは19世紀後半以降、奴隷解放運動と軌を一にしながら進められてきた女性解放運動の大成果)してから、男女同権の考え方はむしろ普及していた。とりわけ第二次世界大戦が始まって男性が兵隊に取られちゃうと、その分の労働力不足解消のため女性が外で働くことも一般化しましたから、家庭外で働く女性なんて別に珍しくもなかったわけですよ。女性誌だって、女性の目を家庭外に導くような特集をしばしば組んでいた。 ところが第二次大戦が終って、海外で死ぬような思いをしてきた兵隊たちが大挙して帰国すると、状況はがらりと一変。愛情に飢えて帰国した兵隊たちの結婚ブームが始まり、ベビー・ブームがそれに続く。そして美しい妻がしっかりと守ってくれる「家庭」こそこの世の天国であるという考え方がアメリカ中に蔓延し出す(これは他の国では見られない特殊事情とのこと)。フリーダン曰く「不況に続いてはじまり、原子爆弾で終った戦争の直後に、女らしさを賛美する風潮がアメリカの全土をおおった(132頁)」。 かくして第二次大戦後のアメリカでは、女性のつとめとは良き妻・良き母であることであり、その活躍の場は家庭だ、ということになっていくんですな。例えば『レディース・ホーム・ジャーナル』誌は職業欄に堂々と「主婦」と書き込める女性達を賛美し、著名な女性文化人類学者マーガレット・ミードの『男性と女性』という記事を掲載、女性が高等教育を受け、職業に就いたりすると「男性化」してしまうというミードの見解を広めたりした(本書を通じ、フリーダンはミードに対して批判的)。またヘンリー・A・ボウマンの書いた『現代人の結婚』(1942)という本が大学の教科書にも指定されて、多くの女子大学生に「男性と競って社会に出ようとするのは理に反している。それぞれの適したところに従い、男は外で働き、女は家を守るという協力関係こそが理想」という趣旨の主張を植えつけた(98-99頁)。 で、第二次大戦以後のこうした風潮に「科学的裏付け」を与えたのがフロイトね。 フロイトは1856年生まれで1939年歿ですけど、アメリカには1909年に一度だけ行ったことがあって、ウィリアム・ジェームズなんかに歓待されてすっかり嬉しくなっちゃったりするのですが、アメリカでは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、すなわち1920年代から30年代にかけて「フロイト・ブーム」が到来します。で、フロイトの学説も一般によく知られるようになる。「女児がある時、男児にはある身体の一部分が自分にはないことを発見、結果、彼女はそれを欲しがるようになると同時に、自分同様それのない母親を始め女性全般を軽視するようになる。またその願望は抑圧されて父親を欲するようになったり、または男児の母親になることで代理的に満足させることを試みるが、しょせん完全には願望を満足させることはできないので、結局、本能を昇華させる術を持たず、劣った性となる」という奴ね。 しかし、まあ、こういうフロイトの説というのは、彼の育った19世紀後半のウィーンの中産階級の文化を背景としているので、それを全人類に普遍的なものと考えていいのかどうかは分からないわけですよ。しかし、フロイトの人気とそれをコアに据えた心理学ブームの影響で、この「科学的事実」は正当性を問われることなく普及してしまう。しかもフロイトの難しい学説がそのまま普及するのではなく、それを分かり易く解説、あるいは曲解したような「ポップ心理学」として普及しちゃうわけ。だから、例えばマリニア・ファーナムとファーディナンド・ランドバーグの共著になる『現代女性・失われた性』(1947)なんて本がフロイトを援用して次のように主張するのを、アメリカの人々は鵜呑みにし始めるわけ: 「女権拡張運動は、政治改革や社会の改革をとなえて表面的には正当だったが、その核心は重い病にかかっていた。女性をきたえ成長させようとすることは、セックスに喜びを感ずるに必要な、感受性、従順さ、そして抵抗なしに依存的な生活、また、性生活の最後の目的―受胎ーをめざして送ろうとする気持などを、妨害するものである。切り開くという男性の道に、女性本来の育てるという道からはずれて、女性を歩ませようとしたのは、フェミニストがおかした重大なあやまりである。故に、女性は教育があればあるほど、性的には不完全になるということが心理学上考えられるのである」(90-91頁) 「心理学」の偉い先生方が唱えるこうしたフロイト心理学の成果としての結論、すなわち「女性の本来の道は家庭にあって、夫に従順に従い、子供を産むこと」という結論は、女性雑誌などによってもさかんに広められ、これがアメリカ中の女性達を「洗脳」することになると。 かくしてアメリカ1950年代も末頃になると、アメリカ女性の平均結婚年齢は20歳を下回るようになるんですな。で、女性の大学の進学率もドンドン落ちて、1920年には47%であったものが、1958年には35%に下がる。またせっかく大学に進学した女子学生も、1955年には60%が結婚、および結婚の邪魔になるという理由で退学するようになっていく(13頁)。 で、それを後押しするように、女性誌は主婦に役立つ情報とかを満載するようになるわけね。先に挙げた「職業=主婦」というのがアメリカ女性のもっとも望ましく、また誇らしい姿とされるのもこの頃の話。世界で最も豊かなこの国で、主婦たることはなんたる光栄、というわけ。 で、女性誌が主婦を持ち上げるのには、経済界の要請もあっただろう、とフリーダンは見ております。というのも、主婦はその家庭の主たる消費者だから。アメリカの購買力の実に75%が主婦の手にある(150頁)となれば、主婦を家庭に閉じ込め、そこで彼女たちが感じる閉塞感を、モノを買う行為に昇華させようと。こうなってくると、もう、女性を主婦に留めておこうというのは、国家的な陰謀という感すらしてくる。 だけど、アブラハム・マズローが言うように(本書を通じ、フリーダンはマズローの人間の充足理論にかなり立脚している:例えば226頁)、人間というのは本質的に成長を求める生き物なので、主婦として家庭の中に閉じ込められ、成長の機会を奪われた女たちは、いずれ空虚感を抱き始めるのは避けられないんですな。これが本書の最初に書かれた一文「もうこれでおしまい?」という問いに込められた不充足感。これが女性たちを悩ませ始める。 で、この不充足感を満たすため、女性達もあれこれ試みます。例えば、主婦としての仕事が足りないんだろうと考えて、ものすごい時間をかけて家中を磨き上げるとか。あるいは更にもう一人、二人と子供を産み足すとか。 あるいは過剰なセックスに充足感を求め、例えば不倫に走るとか。1950年代に不倫小説の人気が高まるのは、おそらくこれが背景だろうと(187-188頁)。1948年と1953年に出された例の『キンゼイ・レポート』なんかもこうした時代の風潮を捉えております。 しかし、こうした代理的な行為では、根源的な不充足感はまったく解消できない。もはや彼女らにとって家庭は、第二次大戦中の収容所と同じものになってしまうんですな。で、収容所での生活を楽にするための特効薬は、何も考えないこと。望みも疑問も抱かず、ロボットのようにルーティーンに順応すること。こうすれば、少なくとも苦しみはなくなるわけ。 だけど、それはもはや人間らしい暮らしではない。むしろこの状況に苦しみ、どうにかしたいと悶えている女性の方がまだ救いがある(228頁)。 じゃあ、どうすればいいか。そこでフリーダンが主張するのは、「世間の風潮に従って、『主婦という仕事はやりがいのある、そして天与の女性の仕事だ』という大嘘を、大嘘だと認めよう」ということ。主婦業は、人間が自己実現するための「職業」なんかじゃないと。だから本物の職業について、男性と同じように自己実現しよう――これがフリーダンが本書で主張する、最大のことでございます。 しかし、そうは言っても本物の職業に就くのは大変。だからその準備として、まずは高等教育を身に付けようとフリーダンは言います。地域で行われている「フラワーアレンジメント」のクラス、みたいなおざなりなものじゃなくて、ちゃんとした大学や大学院で単位を取り、学位を取り、資格を取れと。で、その上でバリバリ社会に出て働けと。 もちろん、こういう行為に出るのは、相当な抵抗を予期しなくてはならないとフリーダンは言います。まず、地元の主婦サークルから除け者にされる。夫から愛想を尽かされる。妻が勉強したり、働いたりしている時に子供が怪我でもしようものなら、よってたかって「お前のせいだ」って言われる。 だけど、こういう抵抗があったとしても、それでも社会に出て自己実現した方がいいとフリーダンは言います。しかも、こういう風に充実した生活が持てれば、今までのように主婦の仕事を完璧にこなそうとしなくてもいいんだ、という風に考え方もかわってくるので、適当に手を抜いたり、インスタント食品を利用したり、夫にサポートしてもらったりしながら、手早く家の切り盛りを片づけることもできるようになる。また性生活だって、不充足の時にセックス・マニアとなり、夫から逆に敬遠されていた時と比べると、遥かに素晴らしい性生活を送れるはず。 で、本書の最後の一文、「ほとんどの女性は、まだ自己を求め始めてもいない。しかし、人間として自分をまっとうしたいという女性の内なる声が、女らしさを賛美する声に、もうかき消されることのない時がそこまでやって来ているのだ」(275頁)につながると。 ま、フェミニズム第二波のスタート地点ともなったフリーダンのこの本は、こういう内容でございます。 で、この本の影響はすごく大きくて、この本がきっかけとなってフリーダンは当時のフェミニズム・ブームの立役者となり、NOWというフェミニズム団体を起ち上げたりして活動に専念、その結果、離婚せざるを得ないことになったりして、フリーダン個人としても人生航路が変わるほどの事態になるわけですけれども、それほどのブームとなれば、当然批判も受ける。 本書の内容そのものは、確かにそうだよね、という部分が多いわけですけれども、例えば「フリーダンは、アメリカ中の主婦に『主婦業なんて放り出して、社会に出ろ』というけれども、じゃあ、家のことは誰が面倒を見るんだ?」という疑問が出てくるのは無理からぬところ。それに対してフリーダンは本書の中で、「そんなの、家政婦に頼めばいいじゃん。最初のうち、外で稼いだお金の大半を家政婦に支払うことになって、プラマイゼロになっちゃうかもしれないけれど、いずれ出世すれば、給料も高くなって、そんなの問題なくなるからさ」というわけ(257頁)。 ここが、本書で最も批判されるところなんです。つまり、じゃあ、その家政婦は誰がやるんだと。女性、しかも下層階級の女性じゃないかと。 フリーダンは「主婦業なんてまともな仕事じゃないから、女性達はそんなものは放り出して社会に出て自己実現しろ」というけれど、社会出た女性たちに代わって主婦業を代行するのは、より貧しい女性たちじゃないか、というわけね。フリーダンは、自分たちの階級、すなわち中産階級の女性のことしか目に入ってなくて、下層階級の女性たちは家でも主婦業、外でも主婦業していろと言っていることになるじゃないかと。 まあ、この批判は、確かに痛いところを突いているのではないでしょうか。 とはいえ、フリーダンのこの本が、第二次大戦後から15年程の間に起きたアメリカの意識変化を捉え、女性にとっての問題をえぐり出したのは事実。その意味で、本書の存在意義は揺らがないと思います。 というわけで、久々に読み返した本書、再読に足るものであったと言っておきましょうかね。新しい女性の創造改訂版 [ ベティ・フリーダン ]
August 6, 2018
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つい先日、今日は期末試験の監督をしなきゃいかん、退屈なので、何か読むものを持っていかねばと思っていた矢先、柴田元幸さんの『ケンブリッジ・サーカス』という本が新潮文庫の新刊として出版されたことが新聞のサンヤツ広告に出ていたのを見かけたので、大学に行く途中、書店によってこれを買い求め、試験の間、ずっと読みふけり、読み終わらなかった分は帰宅してから読んで、結局、あっという間に読み終わってしまった次第。 私は知らなかったのですが、本書は別な出版社から出ていた同名の単行本と、さらに別な単行本を合わせた合本の文庫化ですな。 で、私はてっきりこの本はエッセイ集なんだろうと思っていたのですが・・・実際に読んでみると、これはエッセイ集というよりは、短編小説集、あるいは短編小説とインタビューをオムニバス的に合わせたもの、あるいはインタビューすらも小説化した小説集というべきかなと。 例えば「妻を直す」という一編。「留守番電話の調子がおかしくなった」という一文から始まり、やがて「次にファックスが壊れた」という一節があって、ああ、盛んな文筆活動の中で酷使された機器が次々に壊れて困ってしまう、というエッセイなのかなと思うじゃないですか。 ところが、この次。「そろそろいろんなものが壊れはじめる時期かなあ、と思っていたら、今度は妻が壊れた。もともと朝の起動は決して早い方ではないのだが、朝になっても自動起動設定が作動せずいっこうに起動しない。ヒューズを見てみたが、体全体用と脳系統用、二本とも切れていない。バッテリーランプはいちおう点いているので、非常用強制リセットボタンを押してみると、体がピクッと動いて、脳系統作動インジケーターも黄色に(正常なら緑)点灯した。何とかなりそうである。」(138頁)と来る。 あーーー。そういう系ね・・・。 とまあ、一事が万事、こういう感じですから、多忙な柴田センセイの日常を垣間見ることが出来るのではと思って本書を手に取ると、ガクッとくるかも。 ま、ワタクシ的にはですね、いっそ純粋なエッセイの方が好みでありまして、その意味では例えば大昔の『生半可な学者』とか、そっち系統の本の方が好きかな。また、本書『ケンブリッジ・サーカス』に限って言えば、「ポール・オースターの街」と題された章が一番好き。これはポール・オースターの愛するニューヨークの街の描写、そしてポール・オースター本人へのインタビューとして秀逸。どことなくカポーティの『カメレオンのための音楽』に似たノンフィクション・ノベル的な手法が感じられ、しかもそれが成功しております。 それにしても・・・。 本書の私小説パートを読んでいて誰しも驚く(だろうと思う)のは、ほぼすべての文が、分身譚を語っているところ。 つまりね、この本全体を通じて「少年時代の自分自身に出会う」という趣旨の文章ばっかりなわけ。 例えば「バレンタイン」と題された一文。「路地へ入っていくと、小学生の男の子が目の前を歩いているのが見えて、参ったなと君は思う。/参ったな、あれは僕じゃないか、と君は思う。/バリカンで雑に刈り上げた髪や、いかにも「ゴム靴」という感じの運動靴からしてそもそもいまどきの子供ではありえないし、道にお金が落ちているんじゃないかと思ってるみたいな歩き方はやめなさい、と母親に言われたあの背の丸まり方といい、すり切れたジャンパーといい、それに何と言っても、右のポケットに入れたこぶしに見るからに力が入っている様子からして、間違いない、あれはかつての君だった子だ。」(21頁) ま、こんな感じで、柴田センセイはやたらに自分自身、それも過去の自分自身の亡霊に出会いまくるんです。 スチュアート・ダイベックへのインタビューの途中でも、柴田センセイの子供時代の亡霊が現われて、ダイベックを草野球に誘ったりする。否、それどころか、インタビューされているダイベックまで、「かつて育ったシカゴの街を歩くと、僕はいつも、現在だけでなく過去を歩いている。(中略)そしてこうやって、君(柴田さんのこと)が育った町を歩きながら、僕はいまこの町を、かつての君の目で見ようとしているんだ」(186頁)と言い出し、少年時代の柴田センセイの亡霊を呼び出すようなことさえし出す。 あと、柴田センセイには今は市民権をとってアメリカで暮しておられる兄上がいて、本書にはその兄上とオレゴン州で久しぶりに再会した時のことも本書には書かれているのですが、そのパートでも柴田センセイは、高校卒業してすぐに親元を離れ、やがてアメリカに渡って様々な職業に就いて今日まで暮して来た兄上と、同じくアメリカに憧れながらアメリカ文学の教授として日本で教鞭を執ることを選んだご自身を対比させているようなところがあるのですが、これもまた、兄上のことを「そうであったかも知れない自分」として見ておられることは明らか。その意味で、これもまた分身譚の一つと言えるでしょう。 とまあ、この手の文章がこれだけ並ぶと、もうこれは確信犯というか、柴田元幸という人の感性に備わった本質的な何かなんだろうな、としか思えません。 常に過去の自分が身の周りに居て、彼から批判されているような気がしたり、あるいはまた過去の自分の情けない姿に同情したりするという感覚。過去自分と現在の自分、二人の自分の二重の見方で今を生きるという感覚。強迫観念に近いこの自分の二重性って、一体何なんだろう? 翻訳家なるものが、他人の声を自分の声として発する、そういう二重性を常に含む職業なのだとしたら、翻訳家としての柴田元幸さんにとって、自分の中に常に二人の自分が居るということは、果たして有利なことなんだろうか。 ま、予想外に小説小説していた本書を読了して、そんなことを漠然と考えていたワタクシなのでありました、とさ。ケンブリッジ・サーカス (新潮文庫) [ 柴田 元幸 ]
August 5, 2018
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授業で学生にヘミングウェイの短編「インディアン・キャンプ」その他を読ませた授業で、筆記試験の他にレポートを課し、まあ、とりあえず論文の真似事みたいなことをしてみろと言っておいたのですが、そのレポートを採点している内に、段々、情けなくなって参りまして。 いや、レポートのレベルが低すぎるとか、そういうことを嘆いているんじゃないの。もちろん、嘆くに足るほどのものではあるのですが。 私が何に嘆くかというと、それらのレポートから感じられる学生たちの想像力があまりにも乏しく、そのヒューマニズムがあまりにも脆弱だから。 例えば「インディアン・キャンプ」の中で、ある白人の医師が、難産で苦しんでいるインディアンの女性に帝王切開を施す場面がある。 で、その医師は、急にその場に呼ばれたので、医療器具を持ってないわけね。釣に来ていたところを呼び出されたものだから、釣道具しかない。だから、釣で使うジャックナイフとテグスで手術をするわけ。もちろん麻酔なしで。 で、そんなですから、そのインディアンの妊婦さんは悲鳴を上げる。で、その悲鳴がすごいので、その場に居合わせた医師の息子(小学生レベル)が、「お父さん、なんとかしてあげられないの?」というのですが、その医師は「無理無理。だって麻酔持ってないし。それに悲鳴なんか大したことないんだ。俺なんて耳にすら入って来ないよ」と言う。 で、この場面を取り上げて、最近の学生どもは「ヒドイ!」と非難・批判するんだなあ・・・。この場面から白人のインディアンに対する差別と女性に対する差別、さらには人間の苦しみに対する無関心が明らかに窺われる。だから、この医師は最低な奴であって、息子も最終的にはこの親に愛想を尽かすのだと。 異口同音にそう言うんだよ。一人として、それ以外の感じを抱かないの。 いやあ。私は絶句するね。 一体これのどこが悪いのか。私にはまったく分かりません。この医師はむしろ親切気のあるいい医者ですよ。すごく人間味がある。黒沢明の赤ひげみたいなもんだ。 だってさ、プロの医者であれば、患者の悲鳴が耳に入ってこないというのは当たり前じゃん? プロがそんなの気にしててどうすんだよ。 じゃあ、何かい? 優れた小児科医は赤ん坊の泣き声に一々反応するのかい? 赤ん坊に注射をしなければならない場合、その注射が絶対に必要であり、それをしなかったらむしろ危険であって、多少チクリとはするだろうけれども、本質的に赤ん坊に何の害もないことがハッキリしているのだったら、赤ん坊が泣こうが喚こうが、医者はさっさと注射するでしょうよ。それを一々、赤ん坊が泣くのに反応して、注射をためらうような奴がいたら、それはプロじゃないよ。 用心のために言っておくけど、「医者が患者の悲鳴に無関心」というのは、「この場合」という条件つきだよ。これは「医者が患者の言い分に耳を貸さない」というのとは全然違うからね。シチュエーションをよく考えてご覧なさい。難産で苦しくて悲鳴を上げているのだから、状況は医師である彼にはよく分かっているわけですよ。だから、この場合、状況をその女性の口から説明してもらう必要なんかひとつもない。逆にこの状況下で当該のインディアン女性に「どうしたんですか? どこが痛いんですか?」なんて聞く医者がいたら、それは単なる馬鹿です。 あと、麻酔がないことにしたって、麻酔がないから手術はしないで放置する場合と、麻酔がなくても手術を強行し、とにかく赤ん坊を取り出してしまう場合とを比べて、後者の方がより危険が少ないと考えたら、もちろん、手術を強行するでしょうよ。これはまさにそのケースじゃん。放っておいたら、そのインディアンの女性は、赤ん坊もろとも死ぬかも知れないんだぜ。 ま、そうは言っても、もちろん、ここには白人のインディアンに対する差別はあります。それは明確にある。インディアンの女性の方が白人女性よりタフだからなんとかなるだろう、と高をくくっているところは確かにある。 だけど、それがどうした。これは100年前の小説なんだぜ。「政治的正しさ」みたいな概念などかけらもない世界。当時、一般のアメリカ人からすれば、インディアンは野蛮人に見えたでしょうし、野蛮人だからタフだと考えたところで、それを人種差別と誰が非難できるのか。単にノーマルな感性ですよ。それを、今の建前で裁いてどうするんだって。 医師は、ごく普通の当時のアメリカ人としてインディアンに接し、その中で苦しんでいる女性を自分の力の及ぶ限りで助け、しかも親切なことに、後でもう一度様子を見に来ると約束し、さらにちゃんとした病院の看護師を派遣するとまで約束しているんだよ。すごくいい医者じゃないですか。 そういう、ごく平凡な親切気を備えた医者を掴まえて、どうして「人種差別主義者の、女性差別主義者の、人でなし」って見做せるのか、私にはまったく分かりません。それは現実的でないし、そんな風にしか人を判断できないのであれば、人を判断する時の基準としての彼らのヒューマニズムはあまりにも脆弱だとしか思えない。 おいおい、しっかりしてくれよ。文学ってのは、ごく普通の人間を描くものなんだぜ。そのごく普通の人間を、ごく普通だと見做せないのだったら、文学なんて分かるわけないし、文学が分からないんだったら、そもそも人間が分からないってことじゃないの。そしてそれはすなわち、ヒューマニズムが欠如しているってことじゃないの。 若い学生さんたちには、もっと想像力をたくましくして、自分自身の感覚として、登場人物の立場になりきって考えてもらいたい。「差別」とか、そんな宙に浮いた得体の知れない抽象概念じゃなくて、生身の人間の感覚で判断する力をつけてもらいたい。ハンナ・アーレントがアイヒマンのことを「あれは化け物ではなくて、その辺にいるおっちゃんだ」と喝破した、その意味を考えてもらいたい。マジでそう思いますな。そうじゃなきゃ、大学で勉強する意味なんてないよ。
August 4, 2018
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今日は前から見に行きたかった「長谷川利行展」を見に、碧南市にある碧南市藤井達吉現代美術館に行ってきました。 で、せっかく碧南に行くのだから、ご当地グルメ、それもB級グルメを食べてやろうじゃないかと調べたところ、どうもこの辺では「碧南焼きそば」が名物とのこと。ならばそれを食べようと店に目星を付けていざ出発。 が! 寝坊して家を1時半頃出たので、現地に着いた頃にはもうランチの時間を過ぎてしまい、目星を付けておいた店はどこも既に準備中。まあ仕方ない、適当に開いている店に入ろうと思ったのですが、どこも店が開いてない。っていうか、そもそも店がない。 えーーー。碧南って、こんな感じ? 碧南の人、外食しないの? で、グルグル走り回った結果、ようやく一軒の「すき家」を発見して、とりあえずそこに入る的な。なんで碧南まで来てすき家で食べないといかんのか、というところはありますが、何と言っても腹が減っていたので、意外に旨かったという。 で、若干納得できないながら、お腹を満たした私と家内は、ようやく目当ての碧南市美術館に到着。長谷川利行展を見ることに。 で、見るとやっぱりいいんだ。まあ、ハッキリ言って人物画に関してはあまり感心しないのだけれど、風景画と静物画はとてもいい。特に白い絵の具の使いかたに独自のものがあり、長谷川利行の絵、としか言えないような世界を創っております。 だけど、客が少ない! 我々以外にこの展覧会に来ている人なんて、ほんの二、三人しかいない。 おいおい、愛知県民よ。名古屋人よ。長谷川だよ。利行だよ。長谷川利行の絵がこんなに沢山、一堂に見られるんだよ。なんで見に来ないんだ。お前らゴッホとかピカソとか、そんなのしか興味ないのか? まあ、その分、ゆったり見られたからいいけどね。 でも、こんなに沢山、利行の絵が見られるチャンスなんかそうないよ。まだ会期始まったばかりだから、とにかく見に来なさい。これこれ! ↓長谷川利行展 さて、展覧会をじっくり見てすっかり満足した我らが次に向かったのは、「tata」というカフェ。ま、ここもネットで見て評判が良さそうだったので行ってみる気になったのですが・・・ ・・・行ってみたら、お休みだった・・・。 定休日ではないのですが、ケーキが売り切れたから今日はもうおしまい、だってさ。そんなことある? カフェって、普通、定休日以外は営業するものなんじゃないの? で、しかし、何か飲みたいよね、ということになり、ちょっと遠いけど、以前一度行って割と良かった「和カフェ たらそ」という、西尾市の海を見下ろす崖にあるカフェに行くことに。 で、30分くらいドライブしてそこまで行き、海を見下ろすテラス席を確保したのですが・・・ 蚊が多かった! 前に来た時はたしか秋だったので、そういう心配はなかったのですが、今のような真夏、周囲は森、みたいなところで外のテラス席に座れば、蚊の猛攻撃に晒されるのも当然。いやあ、リラックスしに来たのに、全然リラックスできなかったわ~。一応、蚊取り線香は点けてもらったんだけどね。 で、そこから帰路についたのですが、この辺りって、特に高速道路などがあるわけでもないので、家に帰るにも一般道をずっと行かなくてはならない。途中、渋滞もあったりして、結局、家まで帰るのに相当な時間を食っちゃった・・・。 というわけで、色々、思い通りに行かないことの多いドライブとなってしまいましたが、とにかく長谷川利行の絵を見られたことだけは良かった。その一事をもって、今日もいい日だ、と言っておきましょうかね。
August 3, 2018
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昨夜、名古屋大学名誉教授で、航空力学とりわけ燃焼工学(デトネーション)の世界的権威であられた藤原俊隆先生の訃報を目にいたしました。『日本航空宇宙学会誌』の記述によると、平成28年6月29日に逝去されたとのことですから、亡くなられてから既に2年あまりが経過していたということになります。先生は1939年のお生まれでしたから、享年は77ということになるでしょうか。 藤原先生は岡山県のご出身。姫路西高校から東京大学へ進学、そのまま大学院博士課程を終え、東大助手を勤められた後、名古屋大に赴任されたのですが、その間もシカゴ大学及びNASA附属エイムズ研究所でも上級研究員を勤められるなど、世界的にご活躍された斯界の第一人者であられました。 東京大学時代には、物理学科に進むか、数学科に進むかで迷われていた際、当時東大の若き数学者であった谷山豊氏(後にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明する際に用いた「谷山・志村予想」の提唱者)から「数学科に来いよ」と誘われるほどに数学が得意だったそうで、この卓越した数学力が、後年の航空力学・燃焼工学の研究に役立ったとのこと。 そんな優れた理科系の研究者と私にどんなつながりがあったのかと申しますと、私は先生の最後の弟子として、6年間もの間師事していたんです。無論、燃焼工学を習っていたわけではなく、英語を習っていたのではありますが。 そう、藤原先生は名古屋大学を定年退官された後、私設の「FF研究所」を設立、そこで燃焼工学の研究を進めつつ、傍らで英語の指導をされており、たまたまそのことを知った私が先生の個人指導を受けることになって、2006年の10月18日に入門して以来、2012年まで毎週金曜日の朝にFF研究所に通っていたのでした。 FF研究所で私の他に英語の個人指導を受けていたのは、例えば留学を視野に入れた高校生とか、そういう人もいたようですが、他に県内超有名進校の数学の先生で、数学の博士論文を英語で書いていらしたK先生など、多彩な人たちが集まっていた。数学の博士論文を内容面と英語の両面で指導できる人など、日本にそう沢山いるはずもなく、そういう意味でもFF研究所の英語クラスは、非常に面白いところでした。 かくして私は、藤原先生と6年間に亘って親しくさせていただいていたのですが、そういう風に近くで接した先生は、まあ、タフで社交的で、しかも底抜けに陽気な辛辣さ(先生の満面の笑顔を湛えながらの毒舌は素晴らしかった!)を持ち、しかも大らかで優しかった。航空力学・燃焼工学・数学といった、私には手も足も出ない分野の世界的権威であり、しかもネイティヴ並みの英語を操り、さらにスポーツ万能で学生時代は柔道、後年にはテニスを楽しまれたのですから、もう、どの方面でも私に勝てるものがない。それでも、同じ大学関係者であることもあり、また好奇心旺盛で私のやっている文学研究にも興味津々であられたことから、私のことはいつも贔屓にして可愛がっていただきました。例えば、私の研究を面白がられた先生に慫慂されて、日本航空宇宙学会の中部支部で講演をしたことがありますが、こんな場違いな面白い経験が出来たのも、まったくもって先生のおかげでした。 指導を受けていた時間、先生から伺った様々なお話も非常に面白く、スケールが大きかった。先生は国際的な学会のチェアマンでもあったので、ヨーロッパやアメリカや北欧などに出向かれることも多く、そういうところから帰られた直後などは、出張先での学会の様子や思わぬ出来事などを面白く話してくださる。ロスに行かれる時には、必ずハリウッドのとあるステーキハウスに行かれるのですが、そこでは女優の卵がウェイトレスをしていることがよくあるのだそうで、そういうところできれいなウェイトレスさんをからかってきた、などとニコニコしながらおっしゃっていましたっけ。藤原先生は、とにかく陽気で人懐こいので、外国に行ってもすぐに地元の人と仲良くなってしまい、馴染みになった人たちから「トシ、トシ」と呼ばれて人気者になってしまうのでした。 そう、ロシアの方から帰られた時はよくキャビアをお土産にいただきました。それも特上のベルーガのキャビア。藤原先生曰く、「日本では、結婚式かなんかでキャビアが出るけど、もったいぶってクラッカーの上にほんのちょっと乗せたような、しみったれたのが出るじゃないですか。あんな貧乏くさい食べ方はないですよ。映画『007』でジェームズ・ボンドがどうやってキャビアを食べるか御覧なさい。こうやるんですよ」とか言って、大きなスプーンで山盛りのキャビアを一掬いすると、それをそのまま口に放り込んでガハハと豪快に笑われる。そんな先生でした。 それから、何かの折に、「飛行機は何故飛べるか」ということを数式で示しながら、英語で説明してくださったことがありましたが、いかにも楽しそうにさらさらと数式を書いていかれる、その様に圧倒されたこともありましたっけ。 そう、最新の「スクラムジェット」について説明していただいたこともありました。それによると、既にNASAではマッハ15ほどで飛べるスクラムジェット機を開発していて、実際に飛行実験も行われているのだとか。しかしそれは極秘の実験飛行なので、そんなスピードで飛べる物体がレーダーなどで把握されると、それは「UFO」として扱われるのだとか。 しかし、そんなご専門のお話をしてくださる中で、時折、「僕ももう少し頑張れば、ノーベル賞を獲れたんじゃないかなと思うことがある。人生の中で、それだけが後悔すること。今でも、ノーベル賞発表の時期になると、心が痛むんだ」なんておっしゃったこともありましたっけ。 一方、英語関係のことで一番印象に残っているのは、「バッド・イングリッシュ」のお話。英語は国際語だというけれど、イギリス人やアメリカ人が話す英語は、国際語ではないと。国際語としての英語というのは、そういうネイティヴが話す以外の英語、すなわち、第二外国語として様々な国の人たちが話す、文法もなにも間違いの多い英語であって、そういうバッド・イングリッシュこそが国際語なんだと。 だから、おかしな英語だってどんどん喋ればいいんですよ、ワハハ、と豪快に笑う藤原先生にどれほど励まされたことか。 しかし、そうは言いながら、「理科系に進まなかったら外交官になりたかった」とおっしゃる藤原先生は、初めてアメリカに行くに際し、分厚い英語の文法書を熟読し、十分な文法力をつけて備えたとおっしゃっておられましたから、そうは言ってもバッド・イングリッシュのままではいかんよ、常にブラッシュアップしないと、というのが真意であったかも知れません。 そんな藤原先生との楽しい英語セッションが6年も続いたある日、私が例によってFF研究所に出向くと、あの陽気な先生が珍しく元気がなかったことがありまして。その直前、海外旅行に行かれていたので、また沢山のお土産とお土産話をしていただけるのかと思っていた私が戸惑っていると、「いや、釈迦楽さん、今回の旅行は最悪でした」と。 行きの飛行機から具合が悪くなり、現地でもずっとホテルで寝ていたというのです。それで帰国してすぐに病院に行ったところ、咽頭がんであることが判明したとのこと。そして、その時のレッスンを最後に、その後のレッスンはすべてキャンセルされたことは言うまでもありません。 私が最後に先生にお会いしたのは、2012年2月17日、たしか名大病院に入院されていた先生を家内と一緒にお見舞いしたときでした。先生は、病気の診断と治療計画のことを私に教えて下さったのですが、途中、言葉に詰まられ、懸命に涙をこらえられる場面がありました。 帰りしな、先生に「何か要るものはありますか?」と尋ねると、クラシックのCDが欲しいと所望されたので、「ショパンはどうですか?」とお尋ねすると、「うん、いや、ロマン派は少し悲しすぎるな。もう少し明るいのがいい」とおっしゃられたのを、今なお鮮やかに記憶しております。 ところが、その後、残念なことに、先生とは完全に音信普通になってしまいました。一度、FF研究所の英語受講者全員に向けての一斉送信で「今までありがとう、さようなら」という趣旨のメールをいただいたきり、メールアドレスを削除されたようで、返信も電話もできなくなり、FF研究所もお閉めになられたんです。そして、その年の夏、お中元を贈ったところ、受け取り拒否で戻ってきてしまった。こうしたことは、あの社交的であられた先生の意図とは到底思われず、おそらくはご家族の(奥様の)意図だったのだろうと思いますが、とにかく、先生の教え子であった我々は、先生に接触するすべを完全に失ってしまったのでした。 その後、私は、折に触れてネット上で先生の消息を探ったのですが、今から数年前に、先生が姫路西高校の同窓会に奥様同伴で出席されたということを知りました。それで、ああ、先生は名古屋を引き払われて、故郷の岡山に帰られたのかなと思い、少なくともまだご存命であることを知って喜んだことがありました。しかし、その後、また先生の消息はぷつりと途絶えてしまった。 そして昨晩、久しぶりにネットで藤原先生の名前を検索したところ、日本航空宇宙学会が出した先生の訃報がヒットした次第。その文章によれば、我々FF研究所関係者のみならず、先生が所属しておられた学会の方でもここ数年、先生の消息を掴んでいなかったとのこと。 かくして、先生が亡くなられてから2年も経ってから、先生の訃報に接することになったわけですけれども、6年間もの間、毎週顔を合わせていた先生と、こういう形で関係が途絶してしまったことがなおさら悔やまれ、しかもあれほど人懐こく、社交的だった先生が、その最晩年の闘病生活の中で、かつての友人・知人・弟子たちの顔を見ずに過ごされたことが本当に幸せだったのかという疑問に苛まれたことでした。たとえ咽頭がんの治療の過程で声を失われていたとしても、筆談でもいいから、先生ご存命の間にもう一度お話がしたかったなあと。 私がこれまで「先生」とお呼びした方々の中でも、個性とバイタリティの面で突出しておられた藤原俊隆先生のご冥福を心からお祈りいたします。合掌。
August 2, 2018
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夏休みに入るまでとっておく、とか言いながら、結局、山田稔さんの『マビヨン通りの店』というエッセイ集を読んでしまいました。 山田さんの若かりし日、同人誌を始めた頃のこととか、これまでの人生の中で様々に関わってきた人との思い出なんかが綴られた本なんですけれども、だからといってものすごく濃密な人との関わりが書かれているわけではない。人と関わることはお好きなのだろうけれども、その親密さにどこか山田さんなりのラインが引かれているようで、とことんべったりのお付き合いはされない感じがする。端的に言えば、淡いわけね。淡交。そういう、つかず離れずの独特の間合いで色々な人と接してこられた、その一端が披露されている本。 あまり濃密でない分、人とのお付き合いの中に空洞があるわけよ。見てない部分ね。その空洞を想像力で補えば、それはエッセイの域をはみだして小説になってしまう。山田稔という人のエッセイが、時に小説のようになっていくのは、そういうところに起因するのではないかなと。まあ、この本を読みながら思っていた次第。 ところで、山田さんは京大を出て京大の仏文の先生になった人ですから、必然的に関西の人文学の人脈に連なるところがある。ということは、例えば桑原武夫とか、伊吹武彦とか、生島遼一とか。はたまた桑原武夫の弟子でもある多田道太郎とか。そういう人達の話がちょこちょこと出てくる。 例えば1952年の秋、山田さんがまだ学生の頃、卒論の資料として使うためにアメリカの有名な評論誌『ケニヨン・レヴュー』を、新進気鋭の学者だった少し年長の多田さんの研究室に借りに行く場面の描写は以下の通り: 当時は東一条西北角にあった京大人文科学研究所分館の二階の南端に、彼の研究室はあった。三名の助手共用の相部屋だった。 半ば開かれたままのドアを押して入り、書架で仕切られた狭い空間の入口のところで、おそるおそる名前を告げた。 椅子の背にもたれかかって雑誌を読んでいた額の広い人がこちらを振向き、「これですね」と雑誌を示しつつ、黒ぶちの眼鏡ごしに、ふかく落ち窪んだ眼でじっと私を見た。根ぶみされているような気がした。 「あんたニュークリティシズムに興味あるの。ブラックマーの論文わりとおもしろいですよ。済んだら返しといてね」 それだけのことを彼はよどみなく言った。 (177頁) これだけで、たったこれだけで、三人相部屋の助手の中で多田道太郎だけが突出した才覚を持っていたことが分かるように書いてあります。素晴らしい! とまあ、そんな感じで、私もまたいわゆる学界なるところに所属している身として非常な興味をもって山田さんの文章を読むわけですけれども、やっぱり引っかかるのは、上の例一つとっても顕著な関西学界の雰囲気ね。 確実に分かることは、これが東京の学界だったら、資料借りに来た学生に「あんた」って呼びかけないな、ってこと。このこと一つとっても、関西の学界の独特の雰囲気が分かります。 なんだろう、この、人の家に土足で入ってくるような感じ。もう、すごく・・・嫌と言ったらあれだけど、慣れないと言いましょうか。東おとこの私には到底考えられない感覚。 もちろん、関西には関西のデリカシーというものがあるのは分かるのよ。だけど、その感覚が当方にないものだから、うひょ~ってなる。 だけど、多分、こういう「あんた呼ばわり」の学界だからこその活発な交流ってのがあって、それが関西学派を作り上げてきたのでしょうな。 ちなみに、私思うに、山田さんにはこういうコテコテの関西的なれなれしさというのはないような気がする・・・と思って調べたら、やっぱり山田さんは関西のご出身ではないね。福岡の人、門司の人ですな。 さらにちなみに、我が日本アメリカ文学会にも当然関西支部というのがあって、私もその支部の代表の方々と顔を合わせる機会が何度もありましたが、やっぱり上に書いたような独特の雰囲気を感じたことがありました。何かそこに、私の知り得ない世界があるのよ。知らないから、見通せない。ブラックホールみたい。 関西って、私には謎なんだなあ・・・。 なんだか、山田さんのエッセイ集から離れちゃいましたけど、ま、なかなか面白い本ではありました。でも、これが山田さんの最良のエッセイ集かどうかは分からないので、もうちょいあれこれ読んでからおすすめするものを決めましょうかね。マビヨン通りの店 [ 山田稔(仏文学) ]
August 1, 2018
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今日の午後は、ほぼ半日かけて、期末試験の採点をやっておりました。 私は採点作業ってのが嫌いでね。しかし、やらないことには成績が付けられないので、やることはやるのですけれども、5枚つけてはタメ息、10枚つけては天を仰ぎ、20枚つけては限界に到達してお茶を飲みに行く的な。もう、効率悪いこと限りなし。 で、そんな苦行を少しでも軽減するべく、インターネットで音楽を掛けながらやるんですけど、ちょっと前まで「Accuradio」というサイトをよく使っておりました。 だけど、最近、なんだか急にBGM専門のサイトが増えたような気がしない? YouTube で幾らでも探すことができるのですけど、例えばこんな感じ:これこれ! ↓カフェ・ミュージック まあ、例えばこのサイトをしばらく聴いていると、YouTube の方で勝手に同様なサイトを幾つもピックアップして提示してくれるので、一旦聴き始めれば、後はもう聴きたい放題よ。 昔は有線とか、わざわざ加入したりしましたけれども、今はもうこういうサイトが無数にあるから、実質、有線を引いているようなもんだよね。 ま、気分によってこの種の音楽をセレクトしながら、苦行のような作業を少しでも軽減している昨今のワタクシなのであります。
August 1, 2018
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