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ひゃー。今日で2018年も終わりですか。 私はまた例によって昨日から二日かけて黒豆を煮ております。大掃除とか、大晦日らしいことをまったくしなくなってしまった私にとって、黒豆を煮るということだけが、お正月を迎えるにあたっての唯一の心構えのようなものなので、なかなか止められない。逆に、「今年はもういいや。黒豆は市販のものを買おう」なんて気になったら、それは自分の気力の衰えの証拠ですからね。そうなったら、私も終わりだなと。 今年は・・・総じて平穏な年で、悪いことがそれほど無かったのは良いとして、格別いいことも無かったかな。ただ、随分勉強はしたので、数年先、どーんと成果を出す時の準備の年だったのではないかと。 あと、9年間続けて来た柔術に関して、来年はいよいよ師範教伝を受ける決意をした、というのが自分としては結構大きなことで、もちろんまだまだ圧倒的に未熟だけれども、10年目にして一つの区切りをすることになった楽しみはあります。そういう意味でも今年は準備の年だったかな。 ま、来年も頑張ります。 それでは、本ブログの読者の皆様だけに明るい2019年が来ますように。良いお年をお迎え下さい。
December 31, 2018
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サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』には今でも白水社から2つの異なる日本語訳が出版されていて、一方は野崎孝訳で、これは1964年のもの(ただし1984年に廉価版の「Uブックス」が出た時に若干手を入れている)。で、もう一方は2003年に出た村上春樹訳。こちらにも廉価版が出たので、読者としては野崎訳を選ぶか、村上訳を選ぶかの二択が許されているわけ。 まあ、稀有な状況ですな。一つの小説について同じ出版社から2つの訳が出ていて、しかも同じ値段(950円)で買えるなんて、そんなこと普通ではありえない。 で、一つ言っておくと、私はもちろん、野崎孝訳世代なわけですよ。最初に『ライ麦畑』を読んだのは野崎訳だった。原書を読んだのはその後だから、とにかくこの作品への入り口が野崎訳だったわけ。で、2003年に鳴り物入りで村上春樹訳が出た時、一応、私もその訳書を買いましたが、読みはしなかった。野崎訳で読み、原書で読んでいるんだから、その必要が無かったんですな。 だけど、今回、サリンジャーについての連載をするにあたって、一応、両者の違いをチェックしておこうかなと。まあ、そんな風に思って村上訳を初めて読んでみたわけ。 で? どうだったかって? うーむ。言っちゃっていい? 言っちゃうよ。 野崎訳の圧勝だね。 ま、多分、これは世間の見方の逆を行っているんだと思います。私はいつもそうだからね。私の意見ってのは、大抵、世間の逆だから。世間は、多分、「野崎訳は古いしダサい。村上訳になってようやくこの小説もアップデートされた」と思っているのだろうと思います。 だけど、私から見ると、もうその差は歴然と言っていいくらい、野崎訳の方が『ライ麦畑』を日本語で再現していると思います。村上訳はね、あれはサリンジャーの小説じゃなくて、サリンジャーの小説の真似をした村上さんの小説みたいにしか見えない。村上節炸裂って感じだもの。それが気になって、気になって、もう読んでられない。 まずね、目に見えて嫌なのは、村上訳が妙にアメリカかぶれ(英語かぶれ?)なところ。 例えば小説冒頭のホールデンとスペンサー先生の会話のところで、村上訳はスペンサー先生のセリフに「あーむ」って入れるんだよね: 「そこに座りなさい、あーむ」とスペンサー先生は言った。ベッドに座れということだった。僕はそこに腰を下ろした。「流感の具合はいかがですか、先生?」 「あーむ、もっと良くなったら医者を呼ばんとな」とスペンサー先生は言った。 なに、この「あーむ」って。これ、普通訳すかね。むしろ野崎訳のように無視するか(最初の奴)、あるいは「いやどうも」(2番目の奴)などと訳した方がよほど自然だと思う。 この手のアメリカかぶれ・英語かぶれってのは村上訳には他にも沢山あって、「ジーザス・クライスト」とか、その手の間投詞をそのまま訳してあったりする。あと普通に「アントリーニ先生」と訳せばいいのに、「ミスタ・アントリーニ」と訳すとか。こういうのもすごく嫌。 あと、村上訳独自の言い回しってのがあって、例えば人の名前にスポットライトを当てる時に「くん」を付けるのよ。「フィービーくん」とか「ギャッツビーくん」とか。そういうのも気になるし、あるいは形容詞でいうと「うらぶれた」なんて言い方を何度も使われるとすごく違和感がある。 あと、最後の方でフィービーとホールデンが会話するシーンで、妹で10歳のフィービーが、高校生の兄ホールデンに「あなた」って呼びかけるんだよね。これもすごく不自然だと思う。私には妹は居ないけど、10歳の妹に「あなた」なんて呼びかけられたら、本当に嫌。ちなみに、野崎訳では普通に「兄さん」と訳されているんですけどね。 つまり、野崎訳がどこまでも「普通」に訳しているのに対し、村上訳はどこか色がついているというか、突出しちゃっているわけね。それが気になり出すと、すごく気になる。 あ、それから村上訳には日本語の言葉遣いにもおかしいところがある。167ページにキリストが12弟子を選んだことについて「でも彼(イエス)はきっとわりに見ずてんで選んだんだよ」と書いてあって、「見ずてん」のところにわざわざ傍点まで振ってあるんですわ。多分、「見ずてんで」ということばを「選り好みしないで」の意味で使ったのだろうと思うけれど、「みずてん」という言葉は漢字で書けば「不見転」と書いて、芸者が金次第でどんな相手とでも寝ることを言う言葉ですよ。元来、すごく下品な言葉。それをイエスに当てはめるなんて、日本語を知らないにもほどがあるんじゃないかい? だけど、上に述べたような細かいことだけじゃないのよ。実際には上に述べたようなことは瑣末なことで、問題はむしろそうじゃない部分の訳なのね。 訳として間違ってないんだけれども、野崎訳に比べ、村上訳は「切れ」が悪い。それは全体を通してそう。 例えばホールデンが母親から送られたスケート靴についてコメントするシーンを比べると・・・〈野崎訳〉 おふくろは見当違いのスケート靴を買ってよこしたんだけどさーー僕は競走用のスケートがほしかったのに、おふくろはホッケー用のを買ってよこしたんだーーしかし、それにしてもやっぱり悲しくなっちまった。僕はひとから贈物をもらうと、しまいには、そのためにたいてい悲しい思いをさせられることになる。〈村上訳〉 もっとも母が送ってくれたのは間違ったスケート靴だった。ほしかったのはレース用のシューズなのに、送ってきたのはホッケー用のやつだった。でもどっちにしても、けっこう哀しい気持ちになった。誰かに何かをプレゼントされると、ほぼ間違いなく最後には哀しい気持ちになっちゃうんだよね。 問題はね、最後の文の終わりね。野崎訳が「させられることになる」でピシッと切れるのに対し、村上訳は「なっちゃうんだよね」となっていて、なんだかずっこけちゃって、悲しみが伝わってこないわけ。野崎訳だと、この話をした時のホールデンの,一瞬、暗くうつむいた姿、目の奥の暗がりが見えるのに、村上訳だと「なっちゃうんだよね〜! ちゃんちゃん!」というイメージが出て来てしまって、どうにも締まらない。 要するにね、そういうことですよ。村上訳だと、あるセリフの言葉遣いと、それを言っている時のホールデンの姿とが、合っていないと(私には)思えるところが多過ぎる。本当に細かいところなんだけど、こういうのが積み重なって行って、私にとってのホールデンのイメージが、村上訳によって崩されてしまうんですな。だから、いちいち「ちげーよ」って言いたくなる。 野崎訳にはそういうところはないんだなあ。それから、もう一つ言わせてもらえれば、野崎訳より前の橋本福夫訳にもそういう不自然なところはない。この二人は学者だからね、訳すとなったら黒子に徹するところがある。 だけど村上さんは小説家だからねえ。やっぱり自分も書く人だから、筆が滑るんじゃないかなあ。 というわけで、異論・反論がたーくさんありそうですけれども、少なくとも私にとって『ライ麦畑』の訳は、やっぱり野崎訳にトドメを刺すと。そういうことですな。ライ麦畑でつかまえて/J.D.サリンジャー/野崎孝【1000円以上送料無料】キャッチャー・イン・ザ・ライ ペーパーバック・エディション/J.D.サリンジャー/村上春樹【1000円以上送料無料】
December 30, 2018
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昨日の話になっちゃうんですけど、今、東京都美術館で開催中のムンク展に行って来ちゃった! 本当は大学院生の指導をするために時間を空けていたのですけど、当該の院生が風邪を引いたとかで指導できないことになったので、一日ぽっかり時間が余ってしまったんですな。で、それならば、ということで前から気になっていたムンク展に行くことにした次第。 で、久々に上野まで出てみると、今、上野はすごいことになっていて、西洋美術館でルーベンス展、上野の森美術館でフェルメール展、東京都美術館でムンク展をやっているという、それこそ横綱揃い踏みみたいな状況。こういうところが東京の力ですなあ・・・。 だけど、この3英傑を見渡しても、やっぱり行くならムンクでしょう。叫びちゃんも来ていることだし。 で、家内と迷わず都美術館を目指したのですが、いきなり入場のために30分の行列ですよ。みんな帰省して、東京は空いているのかと思ったら、見通しが甘かった。 だけど、仕方がない。大人しく列に並んで順番を待つことに。 で、ようやく入場しても,中は中で大混雑ですから、押し合いへし合い、人の頭越しに絵を見るという、私が最も嫌いな美術鑑賞になってしまいまして。 が! それにも関わらず、ムンク、素晴らしかった! 今年一番、いやいや、この10年ぐらいに見た展覧会のうちで一番良かったんじゃないだろうか。もちろん、例の「叫びちゃん」も素晴らしかったけれども、それ以外の絵もみんなすごい迫力よ。色遣いといい、構図といい、実験的なところといい、あからさまな天才じゃん。 いやあ、すごかった。やっぱり行ってよかった。急に思いついて行くことにしたんですけど、これ見られて良かったわ〜。ラッキー! この展覧会、年内は今日までで、1月も20日までかな? しかし、これは一見の価値あり。否、必見の価値ありですよ。機会のある方はもちろん、機会の無い方も機会を無理矢理作ってご覧下さい。これこれ! ↓ムンク展 ところで。 今回の展覧会を見て思ったのですけど、ムンク展のような人気のある美術展を開催する時は、絵の展示位置をもう50センチくらい上にする、というのはどうでしょうか。 ゴッホ展とかピカソ展とか、絶対満員御礼になる展覧会ってあるでしょ。そういうのの場合、あと50センチ上に絵を展示してくれると、ある程度後ろからでも人の頭越しでなく絵が見られるじゃん? そうすれば絵の前に人が固まることもないし、万事スムーズにことが運ぶと思うわけよ。 どうですかね、この提案? ダメかな。 ま、ダメかも知れないけど、一考には値するのではないかと。もしキュレーターの方がこれを読んでいたら、一つ、ご考慮のほど、よろしくお願いいたします。
December 30, 2018
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ひゃー、実家に戻って参りました〜。28日はまだ仕事の人が多いのか、東名高速道路の上りも下りも特に渋滞しているところはありませんでしたね。あっさり帰ってきちゃった。 ところで、昨日今日の話ではないのですが、東名を使って思い出した話を一つ。 夏に帰省した後、名古屋に戻る時のこと、例によって足柄のサービスエリアでトイレ・ストップをしたのですが、足柄サービスエリア(下り)の男子トイレって、ものすごく汚いのね。一体全体、どうしたらこれほど汚れた状態をキープできるんだろうっていうほど汚い。それはもうずっと前からそう。 もう小便器の足下にこぼれた尿が水たまりを作っていて、文字通り足の踏み場がないくらいなのよ。しかもどの便器もそうなので、どうしようもない。でまた、その状態が年がら年中なのね。私なんざそれでも辛抱強い方なので黙っておりますが、むくつけきトラック運転手のお兄さん方ともなると、もう舌打ちもんですよ。「ちっ! 汚ねえなあ!」と。 で、この時ばかりはあまりにひどいと思い、サービスエリア備え付けの「ご意見コーナー」に行って、投書してやったのよ。ものっすごい罵詈雑言を。 東京・名古屋間をよく往復するもので、東名・新東名のサービスエリアのほとんどに寄ったことがあるけれども、それらのどこと比べても足柄のトイレは圧倒的かつケタ違いに汚い! もう足の踏み場もない! こんなに汚いトイレは日本国内では近年ほかで見たことがない! 責任者は一度、自分で男子トイレに入って用を足してみるがよい、これほど汚いトイレを放置している責任を痛感するであろう。こんなトイレを放置しておいて、東京オリンピックが迎えられると思うのか。おい、どうなんだ、お天道様に恥じること無く、この状態を良しと言えるのか。言えるのなら言ってみろ! ・・・とまあ、そんなことをもう少し迫力を加えて書いたわけね。で、それを投書箱に投じておいた。それが今年の夏の終わりのこと。 で、ついこの間、12月の半ばくらいに帰省した帰り、たまたま足柄サービスエリアのトイレに寄ったんですな。そしたら・・・ 改善されていたんです。 なんかね、小便器のところに足型のイラストが新たに描かれ、この足型に足を乗せて用を足すよう、促すような仕組みになっていたんですわ。で、その対策のおかげか、以前よりもかなり状態は改善しておりました。ま、まだ100%ではないけれど、前と比べたら大分良くなっていた。 ずっと汚い状態が何年も続いていて、私が炎の投書をした途端、改善されたということは・・・ 私のお灸が効いたってことじゃね? というわけで、私の勝手な思い込みかも知れませんが、多分、足柄の男子トイレの状況が多少なりとも改善されたのは私のおかげだと思います。はっはっは! 世直ししてやったわ! ま、これもまた私の、2018年の成果の一つ・・・かな。
December 29, 2018
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今、うちの大学で民族の大移動がありまして。というのは、第1人文棟という名の研究室棟の大改修に伴い、研究室が移動になる先生方があるためで、今日でその引っ越しが大部分終わったのですが、その結果、私の居る第2人文棟が閑散となってしまったんですわ。かつては20人くらいの先生方の研究室があった階が、今や5人の先生しか残ってませんからね。閑古鳥が鳴いて、ひと気がない。 昔はねえ、英語系の先生だけでなく、ドイツ語、フランス語、中国語、ポルトガル語の先生方の研究室がずらりと並び、「国際通り」と呼ばれたものですが。それが今や、見る影もなし。さみしいわ~・・・。「咳をしても一人」という俳句そのもの。 まあ、それはともかくですよ。 相変らずサリンジャー論の準備なんですが、そう言えばサントリー学芸賞を取られた小谷野敦さんの『聖母のいない国』という本の中に、たしかサリンジャー論があったのではなかったかと思い出し、再読することに。 そしたら、やはりありました。サリンジャー論・・・というか、正確には「フラニー」論ですな。 で、冒頭、小谷野さんがいかにして「フラニー」という作品に出くわしたか、ということが述べられているのですが、それによると、大学1年生の時、同じクラスの女子学生から『フラニーとズーイ―』を勧められて読んだ、とのこと。 あー、出た。出ました。やはりサリンジャーは異性のクラスメートから勧められて読むものなんですな。 で、そこから話は1990年3月に出た『ユリイカ』のサリンジャー特集号で、アメリカ文学者の志村正雄さんが『フラニーとゾーイ』を酷評されたことがあった、というところに飛ぶ。志村さんによれば、この小説は単なる神経症娘の戯言に過ぎんと。 で、小谷野さんも、基本的にはこれと同意見で、例えばこの中編の中でフラニーが人間のエゴをやたらに非難するけれども、例えば大学入試や就職試験ですら、他人を蹴落として自分が何かを得ることに当るのだから、エゴがいかん、などと甘いことを言っていたら、現代社会に生きることなど出来るはずがないと。 ただ、そうは言っても、色々と余裕のない若い頃には、フラニー的に世の中に充満するエゴに反応して苦しむこともあろうけれども、それもやがて世の中の仕組みが分かれば自然に治るもので、その程度のものを針小棒大に文学化しても意味がない。 それに加え、「フラニー」には、その回答編ともいうべき「ゾーイ―」という中編がくっ付いているのだけれども、この中でフラニーのアニキのゾーイ―が妹に対して与える解決法、すなわち、世の中の諸衆すべてがキリストだと思ってそれに尽くせ、という教えが安易すぎると。 つまり、問題設定も甘いし、解決法も甘い。だから、本来なら「こんな甘っちょろい小説なんか、読んでられねえよ!」と捨て置けば良かったものを、なぜか皆で寄ってたかって持ち上げてしまったもので、この小説の亜流みたいな甘々の小説が次々と書かれてしまった。困ったもんだ・・・。 まあ、大ざっぱに言えばそういう趣旨の論でございました。 で、これを読んで私がどう思ったかというと・・・「確かに」って感じかな。言われて見りゃー、そうだよね。 思うに、もう『フラニー&ゾーイ―』を書いていた頃のサリンジャーは、既に行き詰っていたんでしょうな。だから、「フラニー」にしても、描写は相変らずいいと思うのですけど、その内容は確かにお粗末だと思う。 私も大学生の頃は、サリンジャー病だったので、『フラニー&ゾーイ―』もその聖典の一つと見做して有難がっていたけれども、その病から立ち直ってみれば、これとか、『大工よ』とか、さらには「ハプワース」とか、つまらないもんですよ。 だけど、『ライ麦畑』は今読んでもすごくいいと思うし、『ナイン・ストーリーズ』も、そこそこいいと思う。 ただ、『ライ麦畑』はいい、と言う時、やはり大学生の頃思っていた良さと、今読んで感じる良さは違います。 昔は、やっぱり主人公のホールデンが大人の社会を「インチキ」だと感じる憤りに感じるものがあったけれども、今はそうは思わないもんね。今、改めて読むと、別にホールデンは大人の社会をそこまで批判していないし、そこまで潔癖じゃないということがよく分かる。 今読んでいいと思うのは、そういうところじゃないんだなあ・・・。その辺をね、今回の連載では言語化できればいいなと思っているのですが。 とまあ、そんな感じで、小谷野さん(及び志村さん)の論を読んで、私も『フラニー&ゾーイー』あたりは問題にしない、という姿勢で行こうかなと。ま、その決意がハッキリしたところは良かったかな。 さて、そんなこんなで今年もいよいよ押し詰まって参りました。今日はこれから実家に戻ります。明日からはまた、東京からのお気楽日記。どうぞお楽しみに~。【新品】【本】聖母のいない国 The North American novel 小谷野敦/著
December 28, 2018
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前々から気にはなっていたんです。気になるでしょ? 深見東州という男。あれは一体、何者なのか? あれほどインチキ臭いのに、何故あれほどのゲストを呼んでイベントが出来るのか? で、その深見大先生の自己啓発本が『強運』という奴。まあ、自己啓発本を研究する上で、一度は読んでおきたいなと。 だけど、何としても定価では買いたくない。できれば108円で買いたい。 と思って、このところずっと古本屋に行く度に探していたんですけど、今日、ついに見つけましたよ。200円でこの本の美本を売っているのを。108円じゃなかったけど、まあ、この辺が妥協点かなと。ちなみに私がゲットした本は、平成10年初版、平成20年版で、この時すでに67刷だからね。かーなーりーのベストセラーではありましょう。 で、早速読んでみた。 要するに、これはアレですね、スピリチュアル系自己啓発本ですな。それも「守護霊系」の。人間一人一人は、それぞれ守護霊に守られているのであって、この守護霊を大事にし、そのパワーを活用すれば、強運は身に付くよと。 例えば織田信長なんて、5000人の大守護霊団がついていた。だから、あれだけの業績を挙げられたのだと。 なんで織田信長が5000人もの守護霊がついていたことがわかるかというと、過去の出来事には「神界ビデオ」ってのがあって、許可をとるとそれを見せてもらえると。それで深見氏はその事実を知ったらしいのですが。 はい、そういう感じでーす。 でも、じゃあ、守護霊に気に入られるようにするにはどうすればいいかというと、まず前向きに生きること、くよくよしないこと、失敗は失敗としてそれをバネに次を頑張ること、人を恨まないこと、人の不幸を望まないこと、自分一人の幸せを望まないこと。天の助けは2割、自分の努力が8割だと思って努力することだと。 まあ、どの心がけも悪いことじゃないですよね。だからこの本、有益か無益かで言ったら有益よ。 しかも。この本はさらに魔法の呪文も教えてくれる。 クワバラクワバラとか、ナムアミダブツとか、そういう呪文も昔からあるけれども、そういうのはもう古い。家電製品だって新しいものの方が大抵は優れているわけだから、ナウな呪文を唱えようと。 ということで、深見先生、5つほど「パワーコール」を教えて下さっております。 じゃ、それはどういうのか、と言いますと・・・ 残念! それは教えてあげられないの。だって、それを人に教えちゃうと、パワーが落ちるらしいので。それは自腹でこの本買った人だけが秘かに学ぶものらしいのよ。 さらにこの本には袋とじがついていて(袋とじだよ、世のお父さん方の大好きな!)、幸運を呼び寄せる各種図像(パワーマーク))が載っている。自分の願いがどういうものであるかに応じた図像を選び、それをコピーしたりなんかして身に付けたりすると、ご利益があるらしい。 つまり、パワーコールとパワーマークの組合せで、強運を招きよせることが出来る。 そんな大層なものを200円で手に入れた私はどんだけ強運なんだと。 ま、そういうことですわな。 というわけで、前から一度は読んでおきたいと思った深見東州大先生の『強運』をついに手に入れ、これから先の私自身の赫々たる武勲が楽しみなワタクシなのであります。さあて、とりあえず金運アップさせてから、宝くじでも買うかな!【中古】 強運 ツキを呼び込む四原則 タチバナかっぽれ文庫/深見東州(著者) 【中古】afb
December 27, 2018
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今日、お昼頃、自宅で昼ご飯を食べていたら電話が鳴りまして。最近、自宅に来る電話はほとんど何かの勧誘だったりするので、あまり気が進まないまま取ったのですが、そうしたらなんと、某新聞社からの書評依頼でした。危ない、危ない。もう少しで無視するところだった。 もちろん、依頼は受けました(私、書評の仕事は好きなのよね~。だって、本とお金をもらって勉強できるんだもん)が、それにしても今時、電話での依頼とは・・・。メールってものがあるじゃないの。 それにしても、最近、いい依頼が多いなあ。やっぱりアレかな、ホ・オポノポノの実践のおかげ? それはともかく。今現在依頼されているサリンジャーがらみの仕事で、今日、W・P・キンセラの『シューレス・ジョー』という小説を読み終わり、その映画化である『フィールド・オブ・ドリームス』を観ちゃった。 原作の『シューレス・ジョー』は、1960年代のカウンター・カルチャーを通過した後、結婚して、今はトウモロコシ農家をやっている主人公レイ・キンセラのお話。何せヒッピー上がりの農業ですから、多少、素人っぽいところもあって、今も農家の経営はカツカツというところ。 ところがそんなある日、レイは天の声を聴きまして、トウモロコシ畑を潰して自前の野球場を作れと。そうしたら、「彼」がやってくるから、と。 で、そんな天の声にマジで従ったレイは、周辺住民の「あいつ、マジやばいんじゃない?」の声にも耳を傾けずに本当に野球場を作ってしまうんですな。 そしたら、八百長疑惑で野球界から追放された悲劇の人、シューレス・ジョーがトウモロコシ畑の中から現れた。本当はもうとっくに死んでいるんですけど、追放された野球に未練があったんでしょうな。で、レイの作った野球場で久々にボールに触れる。で、「今度、仲間連れてくるわ」とか言って、またトウモロコシ畑の彼方に消えちゃう。で、実際、彼はお仲間を連れてこの野球場で野球を始めるんですけど、どうも彼らの姿が見えるのは、レイと奥さんのアニー、それから娘のカリンなど、純粋な心を持った人だけみたいなんですな。 で、なるほど、「彼がやってくる」ってのは、シューレス・ジョーのことだったんかい、とレイが思っていると、またまた天の声が聞こえてきて、今度は「彼の痛みを癒せ」と言われる。 で、今度は誰のことかな~と思っているうちに、ハタと、「この場合の『彼』って、サリンジャーのことじゃね?」と思いつく。レイやアニーの青春時代だった60年代に彼らのアイドルとなり、しかしその後沈黙して世捨て人になってしまったサリンジャー。彼を癒せってことなんだと解釈したレイは、自宅のあるアイオワからボストンまで出かけてサリンジャーを探し出す。で、よく分からないけど、彼をボストンのフェンウェイ球場に、ほとんど誘拐するように連れ出して、久々に野球を見せるわけ。 そしたら、今度はレイとサリンジャーの双方が、「ムーンライト・グラハムを癒してやれ」というメッセージを受け取ると。で、調べてみると、この選手はマイナーリーグの選手で、現役時代、ただの一イニングだけメジャーの試合に出たのだけど、ヒットを打つこともなく終わってしまった。その後、彼は現役引退し、医者になって地元の名士になったものの、メジャー・リーガーとしてヒットを打てなかったという点で、後悔を持ち続けている。それを癒せ、ということなのかと。 で、レイとサリンジャーは、アイオワへ向かう途上、ミネソタ州チザムの町へ行ってみるのですが、調べてみるとグラハムは既に亡くなった後。しかし、突然、グラハムと名乗る若者がヒッチハイクしてきて、自分は野球の選手だと言う。で、彼を乗せたまま、レイとサリンジャーはアイオワに戻ると。 で、そのグラハムも含め、球場には大分色々な古の名選手たちが顔を揃えて野球を始めるのですが、その一方、レイの家計は火の車で、新たに債権者となった義兄から、野球場ごと土地を売れと矢の催促。しかし、今球場を売ったら、せっかく蘇ったシューレス・ジョーたちの居場所がなくなるということで、レイは断固、義兄の申し出を拒絶。 しかし、見える人には見える古の名選手たちを見ようと、全米から人が集まってくるんですな。そして彼らから入場料をとることで、借金を返済できるメドも立つ。 そんな中、この球場でプレイするキャッチャーが、実はレイの親父であることが分かるわけ。実はレイの親父さんも、若い頃は野球選手で、プロを目指していたものの、その夢はかなわなかった。それが今、レイの野球場でその夢が実現したんですな。ひょっとしたら、「野球場を作れば『彼』がやってくる」とか、「『彼』の痛みを癒せ」というのは、父親のことだったのかも知れないわけですよ。 で、そんなこともありーの、野球をめぐってそれぞれ夢破れた人たちが、レイの作った球場で、その夢を実現するということが次々と起こるわけ。 そして最後、サリンジャーもまた、かつて野球選手になりたかった、ということが判明する。そしてサリンジャーは、シューレス・ジョーたちに誘われて、彼らの世界へ行くことになる。そしてそこでの経験を元に、何十年かぶりに新作を書くということを約束しつつ。 みたいな話。 で、この話を映画化したのが『フィールド・オブ・ドリームス』なわけですが、はっきり言って、映画版の方が原作よりはるかにいいね。原作はねえ、なんじゃこれ、っていうレベルです。小説としては三流もいいところ。だけど、原作の無駄なところを色々省いて、言葉ではなく映像で説明しちゃうと、それなりに説得力のあるものになるから面白いものでありまして。 でまた、キャスティングもよくて、主人公を演じるケヴィン・コスナーもいいし、シューレス・ジョーを演じたレイ・リオッタもいい。今や「やばい奴」ばかり演じるようになったレイ・リオッタですが、この映画ではとてもいい役どころで。 ただし、映画版では、何を日和見たのか、サリンジャーの役を架空の黒人作家「テレンス・マン」に変えちゃったんですな。もちろん、映画的には変えて正解かも知れないけれど、サリンジャー的観点からこの作品に接している私としては、おい何やってくれたんだよ、って感じ。 でも、まあ、いいです。 とにかく、サリンジャー的観点から言いますと、この映画も、隠遁者サリンジャーをもう一度日の当たる場所に連れ出したいという、1960年代を生きた人間の共同幻想の一部なんだということは分かりますからね。 というわけで、原作40点、映画版76点という辺りで、点数設定しておきましょうかね。【中古】 シューレス・ジョー / W.P. キンセラ / 文藝春秋 [文庫]【ネコポス発送】【中古】フィールド・オブ・ドリームス 【DVD】/ケビン・コスナー
December 26, 2018
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子供の頃、クリスマスが好きだった。誕生日も好きだったが、誕生日は一方的にプレゼントもらうばかりなのに対し、クリスマスはプレゼントをもらう楽しみだけでなく、人にプレゼントをあげる楽しみもあって、もう最高だった。 子供の頃は、嫌というほど時間があったので、期待を込めてクリスマスを待ちに待つ時間も楽しかったし、当日ともなれば、心おどりが止まらなかった。 今、なかなかそういう心のゆとりが持てないなあ。 今日、クリスマス当日だというのに、普通に3コマの授業こなしたからね・・・。疲れ切って家に帰って、チキン食ったら疲れて寝ちまったよ。あーあ。 で、書斎を見渡せば、土砂崩れでもあったのか? と思うほど、本やら資料やらが散らかり放題で途方に暮れる。子供の頃は、イエス様のお誕生日に申し訳がないと思って、自室をピカピカに片づけたものだったが。 せめて喫緊の原稿が一段落したら、何とかしなくちゃなあ。
December 26, 2018
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サリンジャー研究では大先輩に当る田中啓史先生の『ミステリアス・サリンジャー 隠されたものがたり』と『イエローページ サリンジャー』という本を2冊並行して一気読みしましたので、心覚えを。 ・・・と言いたいところなんですが、うーん、どうかな。前者後者とも、未収録短編の筋書きの解説とかも多く、それを既に読んでいる側としては、特に新しい情報もなく。また『ミステリアス・サリンジャー』の方は、後半、サリンジャー作品の深読みの試みがなされていて、作品に登場する数字の意味とか、そういうのが事細かになされているのですけれども、そういうのは、今が今、私の興味の対象ではないので。 ただ一つ、『ミステリアス』の方に、映画『愚かなり我が心』のセリフが『ライ麦畑』に使われているところがあるという指摘があって、サリンジャーがあの映画に激怒した、その名残がはっきりとした形で残っているというのは、私としても使える情報だったかなと。 だけど、まあ何と言いますか、先日読んだ竹内康浩さんの本もそうですけど、サリンジャーの作品の深読みって、今の私には興味無いな。深読みしなくたって、十分に面白いんだもの。その面白さだけで十分って気がする。それに、サリンジャーがどういう人か、という情報にも興味がない。ただ、サリンジャーのファンはサリンジャーに会いたがるという現象だけは興味がある。それは、彼の作品の特異な魅力がもたらす現象だからね。そんな作家・作品って他にない、という意味で、すごく面白いと思う。 そこで、今、主人公がサリンジャーに会いに行くばかりか、サリンジャーを誘拐してしまう、という筋書きの小説、『シューレス・ジョー』を読んでいるところ。最近、そんな小説やら映画ばっかり見ているので、もうなんだか、私までニューハンプシャーのコーニッシュの地理に詳しくなってきた感じがしますな。 ま、この小説と、その映画版に関しては、また後日。
December 24, 2018
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イアン・ハミルトンが書いた『サリンジャーをつかまえて』(原題: In Search of J. D. Salinger, 1988) をそれこそ何十年ぶりかで再読しましたので、心覚えをつけておきましょう。 今からちょうど30年前に出版されたこの本、当時ですら既に四半世紀近くに亘って隠遁者となっていたサリンジャーの初の本格伝記ということで大いに話題になったものでした。その後サリンジャーについての伝記は何種類か出ましたが、どうせ伝記を読むなら出た順に読む方がいいだろうと思って、久方ぶりにこの本を手にとった次第。 著者のハミルトンは、基本イギリスの詩人なんですが、ロバート・ローウェルの伝記を書いて成功したことで味をしめ、伝記シリーズ第二段としてサリンジャーに目を付けたんですな。それは、もちろんこの「最も有名な未知の人」に対する興味ということもあったでしょうが、それ以上に、彼自身、若い頃にはサリンジャーの信奉者だったからということが大きかった。その辺りの事情についてハミルトン自身が綴っているところを引用しますと・・・: 私自身の信任状を提出しよう。『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは十七歳のときであるが、その後何ヵ月ものあいだ、ホールデン・コールフィールドを気取っていたのを覚えている。私はまるでお守りのように、どこへ行くのにも常にこの小説を携えていた。私がそれまで読んだどの本よりも、これは滑稽で、感動的で、人生を「正しく」観察しているように思われた。私は潜在的友人たち、特に女の子にこの小説を読むように勧め、それで彼らをテストした。この本が気に入らないというなら、これに心が動かされないなら、そんな奴は相手にしない。だが、気に入ったというなら、それだけですでに友情の基礎が築かれたように感じられた。ともに語りあえる友人がここにいるぞ、というわけである。私は長いあいだ、『ライ麦畑でつかまえて』を発見したのは自分だと思いこんでいた。私はダラム州ダーリントン市の古本屋で偶然これを見つけ、冒頭の文章に惹かれて買ったのである。(8頁) ひゃー!! もう、これ、私・釈迦楽の行動と全く同じじゃん。結局、サリンジャーにやられる人って、皆、一様に同じ行動をとるんだよね・・・。そういう行動を取らせる魅力が、サリンジャーの作品にはある、ということなのですが。 だけどハミルトンは、このプロジェクトを企画していた時には既にサリンジャーの呪縛から逃れ出ていたし、そもそも彼はそれほどナイーブな人ではないので、名うての隠遁者の伝記を書くとなれば、当のサリンジャーから相当な反対と妨害があるだろうと予期していたんですな。 だから彼は、通常の伝記のスタイルを取らなかった。そうではなく、日本人には「森鴎外の『渋江抽斎』方式」と言えば通じるようなスタイル、すなわち調査の結果だけではなく、調査の過程自体を書くスタイルを取るわけ。サリンジャーの過去を暴くに当たって、どういう方面に探りを入れたか、誰に手紙を書いて情報提供を呼びかけたか、それによってどういう情報が手に入り、どういう情報が得られなかったか・・・と、そういう調査過程も合わせて書いたんですな。だからこの本は、サリンジャーについて明らかになった諸事実が面白いだけでなく、いわば推理小説的な面白さも持っているわけ。 つまり、ハミルトンという人は、十分に外連味のある人なのよ。役者やのぅ、っていうね。だからこの本は下世話な意味で面白いんですけれども。 でも、とにかくハミルトンの取材によって、数多くの未公開書簡が掘り起こされ、それによってこれまで謎に包まれていた若き日のサリンジャーの姿が明らかになった、ということは確かで、その意味で本書には学術的価値も十分にある。 で、じゃあ、本書が描き出すサリンジャーの姿ってのはどうなのかというと・・・まあ、嫌なやーつーだよね。友達にはなれそうもないという意味で。っていうか、こいつ、そもそも友達一人もいないだろうなって感じがひしひしと伝わってくる。 で、その嫌な奴感は、この本の終りに一層、強まることになる。っていうのは、ハミルトンがこの本を出そうってなった時に、サリンジャー側が、私信を伝記の中に使ったことを根拠として本書の出版差し止めの訴訟を起こしたから。 で、その裁判は1審でハミルトン勝訴、2審でサリンジャー勝訴となり、最高裁が上訴を棄却したので、最終的にはサリンジャー勝訴が決定。かくしてハミルトンは2度の大幅な書き直しを余儀なくされ、今の形で出版されることになった次第。だから、もし最初の版が出ていたら、もっと面白いものになっていたのかもね。 ということで、とにもかくにも、本書はサリンジャーがどういう人物なのかということを、本の内側と外側の両方で指し示した、ということが出来るでしょうか。 ま、そういうことも含めて、面白い本であることは確かだし、後で述べるように、私も今回、本書を再読して幾つかの事実関係を再確認したところはあって、再読して良かったなと思うのですけれども、一つ言っておきたいのはですね、本書がサリンジャーの人となりを露わにしたとはいえ、それは我々、かつてのサリンジャー・ファンにはあまり影響を及ぼさないってことですな。 つまりね、我々はある意味、ストックホルム症候群なのよ。だから、他人がサリンジャーのことを悪く言えば言うほど、サリンジャーのことをかばいたくなるの。だから、いかなる伝記がサリンジャーの嫌な奴ぶりを明らかにしても、「へえ、そうなんだ。で?」って感じ。 そして、我々がサリンジャーから離れるのは、それは彼が嫌な奴であることが分かったから、じゃないんだな。まったく別の理由・・・っていうか、理由すらないのね。理由はないんだけど、「うー。もういいかな」っていう日が突然来る。 でもそれはサリンジャーが嫌いになったということではないので、「彼とは今でもいい関係なの」的な感じなんだなあ。多分、私以外のサリンジャー・ファンも、大体そんな感じじゃない? でも、とにかく、何十年も前に読んだ本ゆえ、忘れていたことも多々あって、読み返してみて面白かったです。【中古】 サリンジャ-をつかまえて /文藝春秋/イアン・ハミルトン / イアン・ハミルトン、海保真夫 / さて、ここからは業務連絡なんだけど、これから私が書く原稿の参考になる事実をピックアップしておくと、○1974年に出た海賊版短編集は2万5千部が出た。○「最後の休暇の最後の一日」の主人公グラッドウォーラーの軍隊番号はサリンジャーのものと同じ。○サリンジャーはローレンス・オリヴィエに会ったことがある。そして彼から「エズメに捧ぐ」の舞台化を打診された。その際、オリヴィエは主人公のX軍曹を演じるつもりであった。○サリンジャーは兄タイプに弱い。ヘイミッシュ・ハミルトンしかり、ウィリアム・ショーンしかり。○サリンジャーが宗教がかってくるのは1952年から。それ以前は、大人になりたくない子供に、そうならなくて済む道を示せなかったが、東洋的宗教に染まってから、それが出来るようになった。○1953年、アメリカで禅ブーム。○アメリカの学会でサリンジャー・ブームが起こるのは1956年から60年。ティーン・エイジャーの時代であり、学生が大学教師に、何が読みたいかをリクエストできる時代になっていた。○バディの説教癖をはじめ、サリンジャーの作品には、教師が弟子を教える物語が多い。○ハミルトン以前、1960年5月にメル・エルフィンが『ニューズウィーク』誌にコーニッシュ訪問記を書いている。エリア・カザンがサリンジャーに『ライ麦畑』の舞台化を提案し、サリンジャーが「ホールデンが嫌がると思いますから」と言って断ったという伝説は、この取材記に端を発している。カザン自身はそんなことは言ってないと証言。○その後、『タイム』と『ライフ』誌がアーネスト・ヘイヴマンをコーニッシュに派遣し、エルフィンと同様の成果(無成果)を挙げている。その他、『ピープル』誌や『パリス・レヴュー』誌まで、同様の記事を出したことがあるし、インチキ記事も沢山あった。 ま、大ざっぱに言うと、こんな感じかな。 さてさて、30年前はサリンジャーのまともな伝記って、これしかなかったんですけど、今はその他にも大部の奴が2つあるし、その他、伝記の傍証となるような本もあれこれあるので、今後はその辺りを読んでおきましょうかね。
December 23, 2018
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さてさて、師走も残すところあと10日というところまで来ましたね。 で、年末企画の第○弾ですけれども、今年一年、私自身にとってどんな年だったか、ベスト5形式で振り返ってみようかなと。 では早速第5位から!第5位:お酒を飲まなくなる そう、今年の個人的なトピックの一つとして、お酒を飲まなくなったなと。 いや、別に完全に飲まなくなったわけでもなく、それ以前にお酒で失敗したとか、そういうことでもないのですが、何となくね。ここ数年、人間ドックで脂肪肝気味などと言われるし、まだまだこれからやりたいこともあるので、少し健康に留意していこうかと。以前は晩酌的にホンの少量ながら週4くらいで何か飲んでいたのですが、それもほとんど止めちゃった。第4位:白骨温泉に行った これ、結構、子供の頃から、あの白濁した温泉に入ってみたい、という願望があったのですけど、それを遂に実現したという。白濁したお湯もそうですが、意外に硫黄臭の強いお湯で、帰宅してからもしばらく身体から硫黄臭が抜けなかったのを覚えています。第3位:母の句集を作った 父が亡くなる前年、父の句集を作ってあげたら、えらく喜んで、いい親孝行になったので、今年は母に句集を作ってあげました。やっぱり喜びましたねえ。俳句のお仲間からの評判も良かったようで、父亡き後、少し元気になってくれたかな?第2位:ポートランド滞在 初めてポートランドに2週間ほど滞在しましたが、いつも行くロスとはまた異なる面白さがありました。アメリカって言っても、土地土地によって印象が違いますからね。まあ、それはどの国でも同じでしょうけれども。しかし、「元気なスモールタウン」という感じで、色々勉強になることがありました。スティーブ・ジョブズの母校、リード大学を訪問したのもいい思い出です。第1位:結婚20年、時計を買う 1998年に結婚した我ら夫婦、今年で結婚20年となりました。永久に新婚のつもりで、という結婚当初の誓いは守られております。今もなお、毎日会えて楽しい。 我々は結婚指輪をしない代わりに、10年毎にお揃いの時計を買う約束をしているのですが、20年目ということで、ポートランドのティファニーで素敵な時計を買っちゃった。今後10年、この時計を大切にして、30年目にはまた別な時計を買うことにしましょうかね。 ま、今年はこんな感じかな~。 ベスト形式にはそぐわないので入れませんでしたけど、今年の私は例年以上に勤勉だったかな。8月と9月にそれぞれ論文を書き、この先もう1本書くつもりだし、それに加えて今は来年から始まる連載の準備でおおわらわ。これらの原稿は、私の次の本と、そのまた次の本に組み込むつもりなんですけど、つまりこの先、本2冊分の計画があるということですからね。 大体、私は本を1冊書くのに、1000冊程度の参考図書を読むのですが、1000冊読むのに大体8年掛かる。年間120冊読むからね。3日に1冊、一週間に2~3冊のペースですな。これをずーっと続けるのですから、勤勉にならざるを得ないという。 でも、こんなに勤勉になったのは、最近ですよ。若い頃は遊んでばっか。若い頃にもっと勉強していれば、私ももう少し何とかなったのかも知れないなあと思いますが、そんなこと言ったって仕方がない。今はとにかく、研究が楽しくて仕方がないので、それをやるのみ。 さて、それじゃあ今日も一日、本を読むぜ!
December 22, 2018
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今日はお休みの日だったので、お昼、外食することにし、長久手にある「スキレット・ダイナー」というお店で激ウマ・ハンバーガー食べちゃった。久々のグルメ・バーガー、美味しかったっす。 ま、それはいいのですけれども、そのお店に行く途中、私が贔屓にしてきた「べら珈琲」という喫茶店が潰れて、病院になっているのを発見! ウッソ~! このお店、たっぷりと量のあるウィンナー・コーヒーをエルメスのカップに入れて供するのが売りで、ゆったりとくつろげ、雑誌も私好みのものを取り揃えてあり、入店する時は「お帰りなさいませ」、店を出る時は「行ってらっしゃいませ」と声を掛けられるのもベタで好きだったのに~。 前にも書きましたが、私が贔屓にする店はことごとく潰れるね。なんでだろう。 それを言ったら、家の近くにあった「アルザス」という手作りハム&ソーセージの店も今年、潰れたんだよな・・・。ここ、ドイツ人の同僚が、「あそこのハム・ソーセージは旨い」と太鼓判を押した本格派で、私も好きだったのに~。 悲しいわ~。 ま、それはともかく。このところずっと忙しかったので、今日はちょっと遊んじゃおうかなと思って、スキレット・ダイナーから真直ぐ家に帰らず、赤池にある「プライム・ツリー」というショッピング・モールに行っちゃった。 で、中に入っている眼鏡屋さんで、眼鏡を新調することに。近視が進んだのか、3年前に作った眼鏡が合わなくなっていたんですよね。 昔は、眼鏡を作るというと、結構大がかりなイベントで、値段だって7万円位はしたような気がしますが、今ははるかに安いもんね。だから気軽に買い替えられる。ブルーライトを透過させないレンズをチョイスしたので、仕上がりは1週間後ですけど、新年を新しい眼鏡で迎えるのはちょっと楽しみ。 その他、様々なお店を覗いてみたり、ペットショップに行ってワンちゃん、猫ちゃんを見て癒されたり、さらに伊藤園のカフェで抹茶フローズンを飲んだりしてのーんびり。 ってなわけで、お気に入りのお店が潰れていたのはショックだったけれども、それは別として束の間の休息を楽しんだ一日だったのでした。
December 21, 2018
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今日の午前中、人間ドックに行って参りました。まあ、私もいい年齢になったことだし、いつヤバい病気になるかも知れませんからね。なるならなるで、早期発見に努めないと。 さて、それはともかく。 連載原稿の第一回目の締め切りが近いもので、毎日、『ライ麦畑』のことばかり考えているのですけれども、最近、ふと生じた疑問を一つ。 この小説の最後の方で、ホールデンが妹のフィービーに手紙を渡すべく、フィービーの通う小学校に行くシーンがあるのですが、そこでホールデンは校舎の壁に「F*ck you」という落書きを見つけ、ゲッソリする有名なエピソードがある。 まあ、それはいいのですが、問題はこの「F*ck you」の日本語訳ね。 我が国最初の翻訳である橋本福夫さんの訳だと「誰かが壁に『F*ck you』(註・お〇〇こしようという意味)と落書しているんだ。」(←もちろん〇〇の部分もちゃんと書いてある)となっている。つまり、原語のまま出して、注書きで説明しているわけ。 で、この注に書いてある「お〇〇こしよう」が、いわば一人歩きをしてしまったのか、その後に出た野崎孝訳でも継承されてしまったんですな。「誰かが壁に『オ○○コシヨウ』って書いてあるんだな。」という風に。 でまた、この野崎訳がさらに一人歩きして、『ライ麦畑』を論じている人の文章の中に「お〇〇こしよう」という言葉がそのまま使われていることもままある。 だーけーどー。 純粋に英語の問題として「F*ck you」って、そういう意味か? 私はどちらかというと「(Go) F*ck yourself」の意味ではないかと思っているのですが。つまり「自慰でもしてろ、クソ野郎」という意味なのではないかと。少なくとも「I want to have sex with you.」という意味ではないような気がする。だって、基本、罵詈雑言、悪口の類なんだから。「おまえとしたい」では悪口にならないでしょ。 ちなみに、村上春樹による新訳ではどうなっているかというと、「そこの壁にもまた「ファック・ユー」って落書きがあった。」となっていて、そもそも日本語に訳してない。まあ、村上訳は小説のタイトルからして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』となっていて、原題をカタカナ表記しただけで、訳してはいないからね。その意味で、ちょっとずるいというか。 いずれにせよ、しばしば野崎訳の責任に帰させられる「オ○○コシヨウ」は、橋本訳からの継承だ、ということははっきりさせておかないといかんかなと。 ところで1952年に出た橋本福夫訳は、確かに古いのだけれども、例えばブラジャーのことを「乳押さえ」とか訳してあったりして、逆に今読むと面白いところがある。「乳押さえ」・・・。趣があって、いいじゃない? ま、色々比較しながら読むと、面白いですよ。
December 20, 2018
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大学の実習田でとれたもち米を学内で販売するという連絡が回ってきたので、早速一袋申し込み、今日、買ってきちゃった! 1.4キロ入りの一袋で450円也。あと、立派な葉付きの大根が1本100円で売ってましたね、それは買わなかったけど。 いやあ、私、こういうの嫌いじゃないのよ。なんか、いかにも田舎の大学っぽくて、ほんわかしていいじゃない? で、事務の人にお金を払う時に、「私の他に、どんな先生方がもち米買うんですか?」と尋ねたら、「先生方で買うのは釈迦楽先生くらいで、たいてい事務系職員が買っていきますね」ですって。 ふーん、そうなんだ。何で他の先生は買わないんだろう、もち米。 で、買ってきたそのもち米を、同僚の先生方に自慢して見せて廻ったのですが、反応が薄いんだよね。微妙な薄ら笑いを浮かべて、「それ買って、どうするんですか?」だって。 どうするって、食うんだよ! あのね、私は大学産のもち米で、家内におはぎを作ってもらうのであーる。おはぎは、私の大好物なのであーる。 赤飯はすごく嫌いなのに、おはぎはすごく好きなんだよね。材料は一緒だけど。 大学から帰ると、夕食の前にまず一つ食べるのだ。これが楽しみなのだ! わはは! ということで、同僚からは不思議そうな目で見られるけれども、大学のもち米を家に持ち帰って、かなり嬉しい私なのでありました、とさ。
December 19, 2018
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サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の冒頭、主人公にして語り手のホールデンが「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、先ず、僕がどこで生れたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」(野崎孝訳)と語り始めるのは有名だと思うのですけど、問題は冒頭の「もしも君が」という部分でありまして。 これ、原文だと「If you really want to hear about it, 」となっているので、翻訳者の野崎さんはこの「you」を「君」と訳したわけですな。ちなみに村上春樹訳ですと「こうして話を始めるとなると、君はまず最初に・・・」となっているので、村上さんも「you」を「君」と訳している点では変わらないわけね。 では、このホールデンが語りかけている「you」は誰なんだろうっていうね。 それについては、村上春樹さんと柴田元幸さんの対談(『サリンジャー戦記』)の中に言及がある。引用しますと:村上: 僕はそれとは逆に、この小説における you という架空の「語りかけられ手」は、作品にとって以外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの「君」っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けみたいになっている部分もあるし。柴田: それは、僕も村上訳を拝見していちばん思ったことですね。野崎訳のほうが、どちらかというと、独りごと的なんですね。村上さんの訳は、ホールデンがだれかに語りかけている。でも、その語りかけている you というのがどこにいるのかというのが、問題というか、すぐにはわからないわけですよね。そこは訳の違いとしてすごく面白いと思いました。 (25頁) その後、二人の対話の中で、ホールデンが語りかけている「君」は、ホールデンのオルターエゴなんじゃないかとか、セラピストなんじゃないかとか、あるいは、ホールデンが親しく「君」と呼びかけている人は本当は存在しなくて、それこそがホールデンの孤独の内実なんじゃないかとか、様々に推測されていく。 まあ、それはいいとしましょう。人それぞれの考え方だからね。 しかし、個人的な感想から言うと、私はこの「君」というのが誰を指しているのか、疑問に思ったことが一度もない。だから、上で村上さんと柴田さんが云々している類の問いは、私の中には存在しないのね。 だって、この「君」が誰を指しているのか、私は知っているんだから。 誰だと思う? 私だよ。釈迦楽、釈迦楽。ホールデンは、私・釈迦楽に向ってこの打ち明け話をしているのよ。そんなの、当たり前じゃん。 普通、そう考えるんじゃないの? この小説を読んだ世界中の若者が、「この『君』とは、私のことだ」と思って読んでいたのに決まっているじゃないの。 まあ、それはいいとしましょう。人それぞれの考え方だからね。 ところで、実は我が国には野崎訳・村上訳の他にもう一種類、『ライ麦畑』の訳が存在する。それは橋本福夫訳の『危険な年齢』という訳本で、ダヴィッド社から1952年12月20日に初版が発行されたもの。作者は「J・D・サリンガー」となっているところが面白いんですが。 しかし、1952年12月って、早いねえ! だってこの小説がアメリカで出版されたのは1951年の7月16日だよ。1年ちょいで日本語版が出たということじゃん。しかも、日本語版の出版は12月だけど、橋本福夫さんのあとがきは11月25日付けになっているから、実際の訳出作業はもっと早い段階に終っていたことになる。 で、この訳の冒頭の一節がどうなっているかと言いますと: 諸君がほんとうに僕の話を聞きたがっているとしても、諸君の知りたがるのは、きまって、第一に、僕がどこで生まれ、幼年時代はどんなふうだったとか、両親はどんな職業についていて、僕を生む前はどんな生活をしていたとか、何だとかそういったような、デーヴィッド・カッパーフィールド式の身の上話なんだろうが、正直なはなし、僕はそんなことを喋りたてる気にはなれないんだ。(3頁) となっているんですな。 気がついた? そう、橋本訳は「you」を「諸君」と訳しているのよ。つまり複数形で訳している。 これ、言葉を補えば、「読者諸君」という意味ですよね? 私が思うに、ここが橋本訳の決定的な欠陥だったのではないかと。 だって「読者諸君」と言ってしまったら、ホールデンは直接「私(=一人一人の読者)」に語り掛けているのではなく、本としての体裁を意識していることになっちゃうじゃないですか。映画や演劇の中で、芝居をしている俳優が、突然、観客に向って話しかけてくるような演出がありますが、ちょっとあれを思い出させるというか。「今、舞台(スクリーン)の上で進行中の出来事は、お芝居です」ということを示してしまっている。 これじゃ、ダメなんだ。・・・と、私は思うわけですよ。これでは「ホールデンが、私に直接語り掛けている」という感覚が持てない。 だから橋本訳は長生きせず、その後に出た野崎訳で『ライ麦畑』の真価が表に出たのではないか、というのが、私の見立てね。 その意味で、村上さん・柴田さんが「ホールデンが語り掛けている『you』は誰なんだ?」と問うのに対し、私はそれは問題にせず、むしろ「ホールデンが語り掛けている『you』は単数なのか、複数なのか?」と問う。そしてその答えは「単数に決まってんだろ!」ということで。 ま、そんなことをつらつら考えているわけですよ。
December 18, 2018
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今、うちの科では、来年度のゼミ生の振り分けをやっておりまして。で、今回振り分けられたこのゼミ生たちが、「国際文化コース」としては最後の世代となる。何しろ、コース自体がお取り潰しになっちゃったもので。 で、そのゼミ生の数が、なんと7名! ま、そのうちの一人は留学する予定なので、実質6名ということになりますか。 それにしても、このところ3名とか4名でずっとやって来たので、ほぼ2年分のゼミ生がやってくるような感じ。大分多いなという感じがします。 といっても、これは私のゼミが特に人気があるから、ということではなくて、学生の数は変らないのに、定年などで先生方の数が減るものですから、自然、負担増ということになるんですな。 まあ、文科省が怖ろしいほど大学に金を出さないので、定年などでガンガン教授が辞めていくのに、補充が一切できないのね。だから、必然的に負担増になるじゃない? すると、若い先生方、準教授や講師クラスの人たちが、「こんなところにいられねーよ!」って感じで辞めちゃうわけ。だから、残った先生方はさらに仕事がきつくなる。 そういう悪循環を、文科省は高みの見物よ。あの連中は、そうやって我々を飼い殺しにして、崩壊するのを待っているわけね。一つの大学ではどうにも立ち行かなくなって、仕方がないから、幾つかの大学で連結せざるを得ない状態になるのを待っているのよ。そうして2つの大学を1つにまとめれば、それが文科省の「手柄」になるんだから。「無駄を省きました」というね。 というわけで、来年度は普段の倍の忙しさになるということがほぼ決定・・・。はあ・・・。 だけど、これが最後のゼミ生かと思うとね、せめてそういう不満は隠して、楽しくやりたいなと。 最後のゼミ生7人(6人)、歓迎しましょう。来年4月からヨロシク!
December 17, 2018
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昨夜、私がこちらに来ているということで、東京で働く甥っ子が実家に遊びにきました。 で、一人暮らしでろくなモノも食ってないんだろうと思い、ガツンとステーキを焼いてやることにしまして。で、それを母にやらせるのも申し訳ないと思ったので、ワタクシ自ら焼くことに。 しかし、実は私、あまりステーキを自分で焼いたことがないんです。料理全般は得意なのですが、ステーキは焼くだけなので、料理と言えるのか? というところがあって、いつも家内任せ。 しかし、知識だけはあるわけですよ。おいしいステーキの焼き方の。 ということで、とりあえずその知識を頼りにとにかく焼いてみた。 先ずは冷蔵庫で冷えていたステーキを室温近くまで戻す。そして両面に塩コショウ。今回は敢えて洒落た粗挽きのコショウは使わず、ラーメン屋とかでテーブルの上に置いてあるような奴を選択。 そしてステーキ肉を買った時にもらってきた牛脂をフライパンで溶かし、かなり高温になるまでフルパワーでフライパンを熱する。そしてそこに一気に肉を投入! で、最初はなるべくいじらない。表面にカリッとした焼き目がつくまで我慢。で、そのくらいの焼き色がついたら頃合いを見てひっくり返し、中火に落としてじっくり火を通す。 そしてそろそろミディアム・レアというところでもう一度フルパワーで加熱して焦げ目をつけ、さっとフライパンから取り出す! この間、ざっと1分から1分半くらい。 で、牛脂の残っているフライパンに、モランボンが出しているパウチ入りのステーキソース(洋風の方)をフライパンに入れて一気に熱くし、沸き立った瞬間に火から下ろして先ほどのステーキの上にジュワッと。 ま、ざっとそんな感じ。 そうしたら・・・ あらま、完璧! 実に実にジューシーなステーキが焼けたのよ。 まあ、なんでも出来る子だねえ、我ながら。天才かしら。 というわけで、甥っ子もうまい、うまいと食べてくれたので、良かった良かった。 それが昨夜のこと。今日は今日で、午前中から父の墓参りに行き、お昼は母と軽く外で食べ、夕食後に名古屋に戻る予定。今日の夕食も私が鍋を作ります。今日はタラとホタテを使った寄せ鍋。なーに、市販の寄せ鍋用の汁を土鍋に入れ、タラとホタテを入れ、鍋用にパックされた野菜一式を入れ、あとは豆腐とマロニーでも入れればおしまい。〆は雑炊にして、卵でとじようかなと。 今回は仕事がらみの短期間の帰省でしたが、そこそこやるべきことはやったので、満足して名古屋に戻ることにしましょうかね。
December 16, 2018
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今、日本中で絶賛公開中の映画『ライ麦畑で出会ったら』(原題:Coming Through the Rye, 2015)という映画を観て参りました〜。 あまりにも絶賛なので、名古屋では上映すらしておらず、東海地区でこの映画が観られるのは三重県にある一館だけ。関東地方全体でも4館しか上映していないのですが、幸い、ムーヴィックス橋本という上映館が実家の近くだったので、わざわざ東京まで上京してこの映画を観たという。往復の足代考えたら、結構、高くつく映画でございました。 では、この映画、どういう内容かと言いますと、主人公ジェイミーは、とあるアメリカ東部の私立の寄宿制男子校に通う高校生。彼には愛すべきダメダメな兄ちゃんが居て、この兄ちゃんが良い意味でジェイミーのメンターになっていたのですが、この兄ちゃん自身が共学の高校で色々羽目を外して退学になってしまって、「俺のようになるなよ」的な観点から弟のジェイミーには規律の厳しい寄宿制男子校を勧めたこともあり、それでジェイミーはこの高校に転校してきたと。 ところがジェイミーは、スポーツよりも演劇に関心があるユダヤ人、ということで、体育会系が肩で風を切るこの高校の校風にはまったく合ってない。それで何かと校内でいじめに合うわけ。また彼のルームメイトとなり、この学校でジェイミーにとって最初の友達になってくれたある男が、次第にワル仲間とつるむようになり、ジェイミーと疎遠になってしまった上、大麻にも手を出すようになってしまうんですな。で、ジェイミーの兄貴も最初は大麻を吸い出したことから運が傾いていったこともあり、ジェイミーは何とかこの友人を立ち直らせようと、学校当局に告げ口をする。しかし、告げ口しているところを当の本人に見られてしまったりして、ジェイミーの評判はさらにがた落ち。 で、そんな辛い高校生活の中、ジェイミーの心の支えはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』であり、自分はホールデンの(そしてサリンジャーの)最良の理解者であると自負したジェイミーは、この小説を劇にして自分が主役のホールデンを勤めることを夢見るんですな。そして実際に小説を元に脚本を書き上げる。 で、ジェイミーとしては,この劇をまず高校内で上演し、そこで評判をとって、ゆくゆくはオフ・ブロードウェイで上演し・・・と思っているわけ。だから、そのためにサリンジャーの承認を得ないとまずい。そこで彼はサリンジャーに手紙を書き、あるいはサリンジャーのエージェントに手紙を書き、なんとかサリンジャーと接触を試みるのですが、それはことごとく失敗する。 しかもさらに悪かったのは、サリンジャーに宛てて書いた熱烈なファンレターが盗まれ、それがいじめっ子たちの手に渡ってしまったこと。その手紙の中で「通っている高校の生徒たちは馬鹿ばかりで・・・」的なことが書いてあったために、いじめはさらに激化。ついに部屋に花火を投げ込まれるところまでいくんです。 そこで我慢の限界を超えたジェイミーは、意を決してトランクに荷物を詰めて家出ならぬ寮出をし、サリンジャー本人に直接会いに行くことにすると。サリンジャーがニューハンプシャー州のコーニッシュという小村に住んでいるらしい、ということだけは、とある雑誌に書いてあったのを読んでいたんですな。 しかし、一人で行くのは心細いということで、彼が『ライ麦畑でつかまえて』の脚本を書くにあたって、サリー・ヘイズ役に当て書きしていた某女子校(彼の通う男子高とこの女子校の間には協定かなにかがあるのか、演劇クラブなどで協同することがある)の美人の女の子を誘って行こうとするんですな。ところが、女子校の入り口まで行ってみると、彼女は別の男子校の生徒とラブラブのご様子。不人気なジェイミーには高嶺の花って感じ。 一方、同じ女子校に通うディーディーという女の子は、実は前々からジェイミーのことが好きだったんですな。で、ディーディーはめざとくジェイミーのことを見つけ、何をしているのかを問う。で、彼がこれからサリンジャーに会いに行くというので、「じゃ、私も!」ってな具合で彼に同行を申し出ると。 で、ディーディーの両親は、割と放任主義の人たちなので、ディーディーが学校をさぼって男の子と一緒にニューハンプシャーまで長距離ドライブをするということに、最初は難色を示したものの、何となく許してしまうんですな。ということで、少なくともディーディー側は両親公認で、二人は旅に出る。 で、旅の途中、当然、モーテルで一泊することになるのですが、なにせこの映画は1969年の時代設定なので、高校生の男女がモーテルで同宿するなんて、なかなか許される時代ではないわけ。そこでとりあえず若い夫婦と偽ってなんとかモーテルに泊まることに成功する。 で、さすがに若い男女が一つベッドで寝るとなりますと、そういう雰囲気になるのであって、ディーディーの方がむしろ食い気味にジェイミーに迫ったりするのですが、ジェイミーの方にそういう大人な世界に入ることにためらいがあって、この時はなにもなく終わってしまう。 翌朝、いよいよサリンジャーの住むコーニッシュに入るのですが、これまでも数多くの人たちがサリンジャーに会いにこの町にやってきていたので、町の人たちも心得たもので、ほぼ全員がそういう侵入者にわざと間違った道を教えるわけ。それでなかなかサリンジャーの家にたどり着かないのですが、ついに遊んでいた子供たちの口から、サリンジャーの住まいを探り当てた二人は、サリンジャー本人と会うことに成功する。 この映画のスゴイところは、サリンジャーが姿を現すというところでして、クリス・クーパー演じるサリンジャーは、ジェイミーと会ってくれるんです。だけど、もちろん、『ライ麦畑』のホールデンや何かはすべて自分の創作物であって、それを他人に触らせる気は一切ないと明言するんですな。どれほど忠実な脚本であっても、それは一つの解釈だと。ホールデン役の役者が舞台に立った時点で、それは解釈だと。そんなことを許すつもりは一切ない! と、慇懃無礼にジェイミーを一蹴してしまう。 で、もちろん憧れの人から拒絶されたジェイミーはガッカリです。で、とぼとぼと二人は帰路に就くのですが、途中、絶望したジェイミーは、もう寄宿学校には戻らないで、メイン州に住んでいる兄貴のところに行く、などと言い出すわけ。何だったら君も一緒に来ないかと。しかしディーディーは、それはいいけど、私は家に戻らなければならないから、とりあえず一旦帰ろう、その後であなたが旅立つのは止めないけれど、と説得。 家に戻る途中、もう一泊することになった時に、ディーディーは「自分の親に電話してくる」と言いながら、実際にはジェイミーの家に電話して、彼の親に心配しないよう連絡を取るわけ。そしてその時、ジェイミーが兄の住むメイン州に行きたがっているという話もする。 で、ジェイミーの親から、ジェイミーの兄はメイン州に住んでいるどころか、既にベトナムで戦死していることを聞かされるんですな。 部屋に戻ったディーディーがそのことをジェイミーに問いただすと、ジェイミーは、もし自分が兄の死を語ったら、本当に兄は死んだことになってしまう。だから行方不明ということにし、自分でもそう信じようとしていると告白する。それを聞いたディーディーは、ホールデンだって,死んだ弟のアリーのことを語ることでアリーを生かしたのだから、あなたもそうすべきだと諭すんですな。(そして、多分、この夜、二人は結ばれる)。 で、結局ジェイミーは寄宿学校に戻ることになる。 で、もちろん無断外泊をしたジェイミーは校長先生に呼ばれるのですが、この校長先生が割と話の分かる人で、ジェイミーからサリンジャーに会ったことを聞いた先生は、そのことを次の学生集会の時に全校生徒の前で語ることを罰として彼に課すわけ。 で、気の進まないままジェイミーはサリンジャーを探し出し、彼に会った話を(いじめっ子を含めた)全校生徒の前で語るんです。 すると、そんなことをしたらますますいじめられると思っていたジェイミーの予想に反して、むしろ他の生徒たちはジェイミーの行動に感心してしまうわけ。そして他の先生方も、たとえサリンジャーに許可が得られなかったにしても、校内演劇は収益を上げるものではないのだから無断上演してもかまわないのではないかとアドバイス、かくしてジェイミーは最初の試みをやり遂げるんですな。ただし、自分がホールデンを演じるのではなく、一番役にふさわしいと思われたテッド(いじめっ子の一人)に託して。 そしてその劇は大成功のうちに幕を閉じる。それまで彼をいじめていたテッドが、わざわざ彼のところに詫びを入れにくるほどに。 そして、ジェイミーはこの成果に自信を得て、もう一度ディーディーと一緒にサリンジャーのもとを訪れ、上演が大成功のうちに終わったことを彼に報告する。サリンジャーは、「これまでもそういうことは何回もあったが、そんなことは知らん。あの小説は私だけのものだ」と言うだけ。ただ、素っ気ないながらも「君はクリエイティブなようだから、自分で自分の本を書け」というアドバイスはしてくれる。 そして、この時にはもうジェイミーは,サリンジャーから承認されようがされなかろうが、どっちでもいい、と思えるところまで成長していたわけ。いずれ自分の作品を書く、という自信が生じていたから。そして、ジェイミーとディーディーの二人は、この前の時のガッカリ具合とは見違えるほど、希望に満ちてサリンジャーの家を辞することになる。彼に手渡そうと思って持って来た脚本を道に落としたことも気づかずに。 幕。 みたいな映画。 先ず、先にも言ったように、このサリンジャー映画の特色は、サリンジャー本人が登場する、というところ。で、その役をクリス・クーパーが演じているのですが、私が思うに、このキャスティングはいいのではないかと。クリス・クーパーって、目つきが厳しくて、偏屈っぽくて、他人に心を開かなくなったサリンジャーっぽい。(この「サリンジャーっぽい(salingerish)」という言葉が,この映画ではキーワードになっているのですが) あと、この映画を観て気づかされたのですが、『ライ麦畑』を映画にしようとする多くの試みの中で、「兄貴」が重要な役割を果たす、ということ。本作でも主人公ジェイミーは、死んだ兄貴に対する思いが大きいのですが、前に観た『ライ麦畑をさがして』でも、主人公ニールは、ゲイだった兄が父親に拒まれて自殺したことがトラウマになっているという設定だった。 しかし・・・何なんですかね、コレ。小説版『ライ麦畑』では,ホールデンはむしろ弟のアリーの影響が大きくて、兄貴のDBに対しては、アンビヴァレントな感情を抱いていることになっているのですが。どうして映画版だと、いつも兄貴の存在が大きくなるんだろう? この件は、一考に値するかもね。 ま、それはさておき、上のようなことを除くと、まあ、普通の映画というか、『ライ麦畑』にやられた人は、誰しもサリンジャーに会いたくなるものなので、そういう思いを映画化するというのはよくあることなんですけど、この映画のもう一つの特徴はですね、これが実話だということ。 そう、この映画を撮った監督のジェームズ・サドウィズは、実際に高校生の時にサリンジャーに会いに行き、実際に彼に会った、という経歴(というか、武勇伝)の持ち主なんですな。で、その武勇伝を語ったら、高校時代の成績がBだったのにハーバード大学に入学を許可されたと。 ほほう。サリンジャーに会って握手すると、それだけでハーバード大学にも入れるのか。すげーな。 それはちょっと驚くね。だけど・・・。 私が本当に驚いたのは,実はこの先よ。 ワタクシ、さほど映画ヲタクではないので、映画を観たからといって、いちいちパンフレットとか買わないわけよ。だけど今回に関しては研究の一端として観ているので、一応資料にしようと思ってパンフレット買ったわけ。大枚850円も出して。 で、家に帰ってからそのパンフレットをチラチラ読んでいたんだけど、そしたらビックリよ。 だって、映画の解説の中で、ワタクシの名前が出て来たから。「アメリカン・ペーパーバック研究の第一人者である釈迦楽氏によると・・・」とか書いてあるんだもの。ワタクシの本からの引用もあったりして。書いてくれたのは翻訳家・エッセイストの青山南さんなんですが。 ひゃー。マジか。俺は「第一人者」だったのかっ! いやあ、そんなアレじゃないすけど・・・ちょっと嬉しい・・・。 パンフレットを買わなければそんな嬉しいことを書いてくれる人が居るなんてことにも気づかずにいたわけで、わざわざ名古屋から東京まで出てこの映画を観た甲斐があったって感じかな。 というわけで、色々な意味で、この映画観て良かった〜!これこれ! ↓ライ麦畑で出会ったら
December 15, 2018
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今年、アメリカ・ロック史の授業やって良かったなと思うのは、今まであまり聴いてこなかったアーティストのことを、必要に迫られて調べ、講じなければならなくなったこと。おかげで、「あらま、こんなステキな曲を歌う人だったのね」的な発見がありまして。 例えば最近の例だと、ジェイムズ・テイラーね。 まあ、聞く名前だなとは思っていたのよ、昔から。だけど、だからといってすぐに代表曲が思い浮かぶ程は知らなかった。 だけど、ウッドストックの喧噪が終わった後、すなわちジミ・ヘンだとかジャニス・ジョプリンだとかが相次いで死んじゃった後、1970年代の伝統回帰の時代に現れた数多くのシンガー・ソング・ライターのことを語るとなると、どうしてもこの人のことを数に入れないとまずい。 ということで、今更ながらネットでこの人の映像を探して見てみるのだけど、そうすると確かに良いんだよね。特に「Fire and Rain」なんて最高じゃん。これこれ! ↓James Taylor, Fire and Rain もう、この年齢になると、懐メロだけ聴いていればいいな、って気になりますな。
December 15, 2018
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今日は年末企画第3弾、「今年読んだ本ベスト5」の発表と行きましょうか。第5位:ジョー・ヴィターリ著『人生が変わるホ・オポノポノの教え』 引き寄せ系自己啓発本の著者が、ハワイ発祥の自己啓発思想「ホ・オポノポノ」に出会い、色々戸惑いながらそのコンセプトを受け入れていくまでの過程を描いていて、それなりに面白かった。自己啓発思想一般と同じく、「ホ・オポノポノ」も、インチキ臭いと言えばインチキ臭いのだけど、しかし実は深い思想があるんじゃないかと思わせるところもあって、意外に読ませます。人生が変わるホ・オポノポノの教え (PHP文庫) [ ジョー・ヴィターリ ]第4位:小林泰彦著『ヘビーデューティーの本』 この本を読んで、アメリカの1960年代末を語るには『ホール・アース・カタログ』に目配せしないといけないんだ、ということに気づかせてくれたという意味で、結構、自分にとって大きな意味を持った本だったかなと。ヘビーデューティーの本 (ヤマケイ文庫) [ 小林泰彦 ]第3位:エリザベス・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』 死にゆく人間が何を感じ、何を考えるか、そして最終的に死にどう向き合うかを調査した本。割と最近、父を亡くしたこともあり、父はどういう風に死を受け入れたのだろう、そして自分が死ぬときはどうなんだろう、なんてことを色々考えさせられました。 また、この人のことを知った後、様々なアメリカ映画の中でこの人についての言及があることに気づき、この人の言説がいかにアメリカ社会に蔓延しているか、気づかされました。【店内全品5倍】死ぬ瞬間 死とその過程について/エリザベス・キューブラー・ロス/鈴木晶【3000円以上送料無料】第2位:ジョニー大倉著『キャロル 夜明け前』 永ちゃんの『成りあがり』も良かったけど、この本もいい。っていうか、『成りあがり』を読んだら、この本も併せて読まないとダメ。と思う位、伝説のバンド「キャロル」という一つの現象を理解するうえで、欠かせない資料なのではないかと。いい本です。キャロル夜明け前新装版 [ ジョニー大倉 ] そして栄光の第1位は・・・・第1位:マルクス・アウレーリウス著『自省録』 よく新聞の読書欄で、偉そうな学者さんが、偉そうな感じで、偉そうな本を推薦してくること、あるじゃない。それと同じような感じに受け取られると嫌なんだけど、信用して! 私は絶対に、面白い本しか推薦しないから。 とにかく、マルクスはローマ皇帝なんだからね。その皇帝陛下が、自分自身の経験から人生訓垂れちゃって、しかもそれがめちゃくちゃクールなんだから、読むしかないでしょって感じ。この本はね、読むと人生観変わりますよ。ある意味、武士道の本と言ってもいいかな。日本のサムライたちよ、この本を読め!【中古】 自省録 岩波文庫/マルクス・アウレーリウス【著】,神谷美恵子【訳】 【中古】afb あとね、目下私の最大の関心事であるサリンジャーについて言うと、久々に『ライ麦畑でつかまえて』を再読して、すごく面白かった。これはやっぱり大した小説だなと。改めてそう思います。だから、番外でこれも載せちゃおう!番外:J・D・サリンジャー著『ライ麦畑でつかまえて』【店内全品5倍】ライ麦畑でつかまえて/J.D.サリンジャー/野崎孝【3000円以上送料無料】 一方、買った古本の中で一番インパクトがあったのは、もちろん1974年にアメリカの大学生グループが違法で刊行した『Uncollected Short Stories』(Vol.1 & Vol.2) を美本でゲットしたこと。これがダントツの第1位。ちなみに第2位は、『Whole Earth Catalogue』の実物をアメリカの古本屋でゲットしたことかな。これこれ! ↓Uncollected Short Stories さてさて、今年も沢山の本を読みました。来年は今年以上に、いい本に出合えるといいな!
December 13, 2018
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『小説家を見つけたら』(原題: Finding Forrester, 2000)という映画を観ましたので、心覚えをつけておきます。以下、ネタバレ注意ということでひとつ。 ニューヨークは下町のブロンクスに住む16歳の黒人少年ジャマールは、いつもダチとバスケットをするのが楽しみなごく普通の少年。 で、彼らがいつもバスケを楽しんでいる場所を見下ろすように立っている古いアパートの上階に、年寄りの爺さんが一人住んでいて、よく窓から双眼鏡で何かを見ているんですな。で、それが気味が悪いということで、そのバスケ仲間の少年たちが、その人の部屋に忍び込んで何かを盗んでくるという賭けをする。 で、その役を引き受けたジャマールが非常階段と窓を使って部屋に侵入すると、その部屋は至るところに本が置かれていた。そして、誰もいないと思っていたところに急にその爺さんが現われたので、ジャマールは,何かを盗み出すどころか、自分のカバンを置いて逃げてしまうわけ。 ところがそのカバンの中にはジャマールの大切なものが入っていた。 ジャマールは、他の教科はそこそこなんですが、国語だけは得意でものすごい読書家だったんですな。それだけでなく、自分でも思いつくままに文章を書いてもいた。で、彼のカバンの中に入っていたのは、書きためたノートだったんです。 で、ジャマールはその大事なノートを置いて来てしまってがっかりするのですが、ある時、そのアパートの近くに居た時に、上からカバンが降ってきた。 で、家に帰ってカバンの中身を確かめてみると、彼のノートはすべて揃っていただけでなく、そこに書かれていた文章すべてが添削されていたんです。 で、驚いたジャマールは、思い切って今度は玄関からその不思議な爺さんを訪ねることにする。 もちろん、最初はけんもほろろの対応をされるのですが、何度かそういうことが続いた後、ついに中に入れてもらえることになり、一応、二人は顔見知りになる。 丁度その頃、全米的な学力テストの国語の部で高得点を挙げたジャマールは、通っていた高校の推薦で、私立の超有名校に奨学金で通えることになるんです。しかも、その高校はバスケットボールも強かったので、そちらにも入れることになった。 で、名もない下町の高校から、超有名進学校に転校したジャマールは、最初のうち、それぞれの高校のあまりの違いに驚くことばかりなのですが、たまたまクロフォード教授の国語の授業に出たところ、ウィリアム・フォレスターという、20世紀の古典を書いた作家の作品を読む宿題が出たんですな。で、そのウィリアム・フォレスターの小説の扉に載っていた著者の顔写真を見て、それが例のアパートの謎の爺さんだということにジャマールは気付く。 ウィリアム・フォレスターは、処女作で傑作を書き、ピューリツァー賞を獲って、将来を嘱望されるも、それ以降50年に亘って何一つ作品を発表しないまま隠遁してしまい、今はどこにいるのかすら分からない状態。ジャマールが知り合ったのは、そういう伝説の作家だったわけ。 で、作家志望のジャマールは、ますますウィリアムに興味を持ち、いわば彼に弟子入りする。そしてあれほど世間から隔絶していたはずのウィリアムも、ジャマールの若い才能に惚れこんで、彼を積極的に仕込んでいく。ちょうど高校では学内小説コンテストを開催するということで、ジャマールもこれに作品を出すことにするんですな。 ところが、国語の教師クロフォードは、そんなジャマールの急速な進歩を訝り、彼が盗作をしているのではないかと思って、彼の出品作を厳密に調べ上げる。そして、彼の出品作の冒頭の一節が、ウィリアム・フォレスターのエッセイの引用であることを突き止めるわけ。 それもそのはず、これはウィリアムの指導方法の一つで、自分の作品の冒頭の一節をジャマールにタイプさせ、そこから先は自分で自由に続けていって、独自の作品を作らせる、そういう練習だったんです。そしてその出来が良かったことから、ジャマールはそれを出品作にしてしまった。まさか、ウィリアムがその文章を前に公開したことがあるとも知らずに。 で、いじわるなクロフォードの策略で、ジャマールは盗作を全校生徒の前で告白するという恥辱を受けるか、さもなくば退学を迫られるという窮地に陥る。 しかし、その前に重要なバスケットボールの対抗試合があって、ジャマールは学校の上からの指示で、もしこの試合で活躍し、高校に名誉をもたらすことが出来たら、退学処分は免れさせてやる、ということになる。 で、その試合、デッドヒートの末、最後、ジャマールのフリースローが決まれば勝利というところで、ジャマールは2本のフリースローを2本とも外すんですな。(それはひょっとするとわざと外したのかもしれない) で、バスケットで処分を免れるという道から外れたジャマールは、もちろん、盗作の告白も拒否しているので、小説コンクールの審査の場で盗作を宣言された上で退学にさせられることになる。 ・・・はずだったのですが、ここでウィリアム・フォレスター登場! 伝説の作家が50年の沈黙を破って公けの場に姿を表すと。 で、この場で、衆目の中、ある短編を読み上げる。それは素晴らしい文章で書かれたものだった。 で、この突然のハプニングに、自分でも元作家志望だったクロフォードも感激して、今ウィリアムが読み上げた文章を絶賛するのですが、ウィリアムは、実はこれは自分が書いたのではない、ジャマールが書いたものだ、と宣言する。そして学内騒然となる中、クロフォードは「たとえそうでも、既にジャマールに与えられた処分は覆らない」と主張するのですが、彼の上司である学校長がこれを否定して、ジャマールに栄冠を与えると。 その後、ジャマールはこの高校で学生生活を堪能し、数多ある大学から進学の誘いを受けるほどの名士になっていく。一方、ウィリアム・フォレスターは、ジャマールとの付き合いでアパートの外へ出る勇気、人間との付き合いを再開させる勇気を得、もう何十年も帰ったことのない故郷、スコットランドへ旅立っていく。 ところが、卒業も間近となった頃、そのフォレスターの弁護士がジャマールに会いに来て、彼が亡くなったことを告げるんですな。実は二人が知り合った頃、既にフォレスターは癌にかかっていた。余命が短いことは本人も分かっていたわけ。そしてその短い余命は、ジャマールの存在によって楽しいものとなった。 そのお礼に、フォレスターはジャマールに、ブロンクスのアパートと、そして50年ぶりの新作を託すんです。そしてその新作は、ジャマールの序文が付けられて出版される。 というお話。 死を目前にした老人と高校生との交際、そして高校生の窮地を、最後、老人が助けるという点で、ちょっと『セント・オブ・ウーマン』を思い出させるような筋書きですけれども、なかなか面白い映画でした。 で、もちろん、この映画もまたサリンジャーがらみなのでございます。だって、そりゃ、一作だけ20世紀の古典を書いたまま、何十年も雲隠れ、という設定は、サリンジャーを想定しているとしか思えないじゃないですか。 そういう意味で言うと、この映画ではショーン・コネリーがサリンジャー役、ということになりますな。 ま、似てはいないね。サリンジャーとショーン・コネリー。 だけど、これは、やっぱり読者のサリンジャーに対する願望の映画化だとは思うんですよね。この映画におけるウィリアム・フォレスターのように、サリンジャーもまた、表向きは偏屈に見えるけれども、それは何かに傷ついているからそうなのであって、その表面を一枚めくれば、実はいい人なんだと。そして若者が窮地に陥れば、まさに「ライ麦畑のキャッチャー」のように、その若者が落ちていかないように守ってくれるはずだと。 そして、いつの日か待望の新作を披露してくれるはずだと。 そういうサリンジャーに対するファンの潜在的な願望が、こういう形を取ったのではないかと。 ま、ワタクシはそのように解釈した次第。 ところで、この映画ではショーン・コネリーもさることながら、ジャマール役の黒人の若者がとても魅力的な演技を披露してくれるのですが、後でメイキングを観たら、このロブ・ブラウンという16歳の少年は、まったくのド素人なんですってね。そんなド素人がですよ、ショーン・コネリーを向こうに張って、堂々の演技・・・否、ショーン・コネリーを食うような演技を披露している。ロブ・ブラウンなくしてはこの映画は成立しないだろうと思われるほどの逸材だったと。 その意味で、この映画は「Finding Forrester」ではなく「Finding Rob Brown」だったのではないかとすら言えるというね。 いやはや、アメリカって、すごいね。人材が。やっぱり、まだまだこの国をなめちゃいかんですたい。小説家を見つけたら [ショーン・コネリー/ロブ・ブラウン]|中古DVD [H]【中古】
December 12, 2018
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1949年の映画『愚かなり我が心』を観たので、心覚えをつけておきましょう。 これ、サリンジャーの短編、「コネチカットのひょこひょこおじさん」の映画化ということになっておりまして、後のアカデミー賞女優スーザン・ヘイワードの出世作。で、サリンジャーの作品が映画化された唯一の作品でござます。 が! これを観たサリンジャーは、映画の出来に激怒しまして、以後、自作の映画化を一切許さなくなったといういわくつきの映画。 で、実際に観てみたのですけれども、まあ・・・普通? ありがちな映画って感じがしたけど。 で、原作では大学時代の女友だちであるエロイーズとメリー・ジェーンが久々に会って話をするのですが、エロイーズにはラモーナという小さな女の子がいる。ところがこのラモーナには虚言癖があって、空想上のボーイフレンドのジミー・ジメリーノといつも一緒にいるんですな。 要するにね、エロイーズがちょっと不安定なのよ。で、その不安定さが娘のラモーナに鏡像のように反映しているわけね。だから、一層エロイーズはラモーナに当ってしまう。 じゃなんでエロイーズは不安定なのかというと、夫ルーとの結婚生活がイマイチうまく行っていないから。そしてなぜそうかというと、エロイーズにはルー以前にウォルトという恋人が居て、このウォルトのことが忘れられないからなんですな。 で、じゃなんでエロイーズはウォルトと結婚しなかったのかというと、戦時中、兵隊だったウォルトは、日本製ストーブが爆発するというアホな事故で死んじゃったから。 で、そういうどうしようもない状況の中でもがいているエロイーズが、親友のメリー・ジェーンに抱きつきながら、「あたし、昔はいい子だったよね」と言いながら涙にくれると。まあ、そういう短編なわけ。 だけど、これじゃ映画にならんじゃん? ということでハリウッドは盛大に色々な尾鰭を付け加えました。 大学時代、あるパーティでエロイーズはウォルトに出会い、恋に落ちるけど、ウォルトは兵役に取られて、思うようにデートも出来ない状態になると。で、そんな会いたいけど会えない状況の中で、二人はこっそり、逢引を続けるのですが、ある夜、大学の女子寮のエレベーターでいちゃついているところを寮監に見つかってエロイーズは退学になってしまう(このエピソードは短編にもある。ただし短編では、その時の相手がウォルトだったとは明記されてない)。 で、その後も二人は、軍隊の休暇が取れる度にデートし、やがてエロイーズは身ごもってしまうんですな。 で、それをエロイーズはウォルトには言わないまま、ウォルトは軍役についている時に事故死してしまう。死ぬ直前、エロイーズに宛てた手紙の中で、結婚を申し込んだまま。 で、失意のエロイーズは、メリー・ジェーンと付き合っていた(けれども、以前、エロイーズにホの字だった)ルーを奪い、半ば強引にルーと結婚、そして二人の間の子供としてラモーナを生んでいたと。 で、もちろんその時点でエロイーズはメリー・ジェーンと喧嘩別れしたことになっていて(当たり前だよね)、今回、数年ぶりに会った、という設定なわけ。 で、結局、エロイーズはルーと別れることになり、ルーはメリー・ジェーンと再婚する(どうも最近、二人はエロイーズのいないところで頻繁に会っていたらしい)と。そして最初のうち、ルーはラモーナの親権は絶対に渡さないとか言っていたのですが、エロイーズがラモーナに別れの抱擁をしているところを見ていたルーとメリー・ジェーンは、つい情にほだされて、ラモーナの親権をエロイーズに譲ることにしましたとさ。 みたいな話にされちゃった。 ま、エロイーズのもろもろの行動もひどいけど、この時代のメロドラマなんてこんなもんじゃないかい? というレベルの出来ではあるかなと。何せこの映画でスーザン・ヘイワードはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされているんだし。 あとね、エロイーズのものの分かった親父さん役をやった俳優さんが結構いい味を出しております。 それから、何と言ってもこの映画、あのジャズの名曲「My Foolish Heart」のオリジナルだからね。あの名曲はこの映画から生れたんだから。 ただ、サリンジャーの読者という立場から言わせてもらうと、私はこの作品、もっと若い人達の話だと思っていたんですな。ここが私が一番、違和感を感じたところ。だって今時、学齢期以前の子供を持ったママ友なんて、若いじゃん? その感覚で読んでいたものだから、子連れとはいえ、若者たちの話だと思っていたわけ。 だけど、映画を観ると、まるでおじさんとおばさんの映画よ。『カサブランカ』のハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンみたいな感じ。 っていうか、この映画の脚本を書いたジュリアス・エプスタインとフィリップ・エプスタインの双子は、『カサブランカ』の脚本書いた人たちだからね。 ま、プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは、この映画作るに当たって、ごくごく単純に考えていたみたいね。サリンジャーってのが最近売れているみたいだから、そいつの短編を映画化しよう。脚本は『カサブランカ』の脚本書いた双子、監督は『チャンピオン』撮ったマーク・ロブソン、主人公にはユニヴァーサルからスーザン・ヘイワード借りてきて。あとは感傷的なメロディー作らせたら一番のヴィクター・ヤングに「My Foolish Heart」作らせればオッケーだろ、くらいに考えていたらしいことは、ゴールドウィンの伝記『虹を掴んだ男』(下・306-307頁)に書いてある。で、これほど安易に作った映画なので、『ニューヨーカー』の批評家ジョン・マッカーテンは「奥さんたち相手のメロドラマそのもの・・・二年前にこの高級誌に発表された短編からこんな作品ができるとは信じがたい」と酷評されたんですと。 でもゴールドウィンはその数カ月後、懲りずにサリンジャーの新作『ライ麦畑』の映画化権獲得に乗り出す。で、サリンジャーに「どんなに金を積まれても、絶対に作品の映画化を承諾しない」と、剣もホロロな対応をされたと。 ま、そういうことらしい。 でも、とにかく、これがサリンジャーを激怒させた映画かあ、というのをついに観ることが出来て、一応は満足したワタクシなのでありました。愚かなり我が心 [DVD]
December 11, 2018
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COTYのカー・オブ・ザ・イヤーが「ボルボXC40」に決定したというニュースが入ってきました。これでボルボは2年連続の受賞、勢いがありますなあ。 ということで、「今年を振り返るシリーズ」第2弾として、釈迦楽カー・オブ・ザ・イヤーを決定して参りましょう。 が、その前に今年一年の総括を。国産車編トヨタ ビッグニュースとしてはクラウンのモデルチェンジとカローラの復活? あと、近々入るニュースとしては、プリウスのマイチェン、RAV4の復活、エスティマの消滅か。 どうでもいいな。 そう言えば、先ごろ、キャプチャーの1年点検の時にトヨタのパッソ(旧型)を代車にもらったんだけど、これがまた大八車にエンジンつけたかのような乗り味で、こういうのに乗っちゃうと、クルマってのは楽しいものだという感覚はまったく身に付かないだろうなと。トヨタって、あれだけクルマを沢山作っていながら、コスパと打算でしかクルマを見ていない気がする。日産 ここ何年か、新車を出さないメーカー。クルマ作るの、もう興味ないのかな。前にディーラーでe-ノートに試乗した時、名前も住所も免許証の提示も何も要求されなかったところを見ると、クルマを販売することにも興味なさそうだしな。終ったな。Nissan is Gone.ホンダ レジェンドとCR-Vの復活。どちらも、売る気なさそう。それにしてもレジェンドのデザインは醜い。かつての、あのセンスのいいホンダ、クルマ好きの心を捉えていた頃のホンダはどこへ行ったのか。マツダ 日本のメーカーで、クルマ作りに夢中なのは、ここだけ。モーターショーに出ていた「ヴィジョン」の比類なき美しさはどうよ。あんな、タメ息が出るほどのデザインが、日本のメーカーから出たなんて信じられない。そしてそのデザイン言語に沿って今度新しくなるアクセラのデザインも素晴らしい。 しかも、今度のアクセラに搭載される「スカイアクティヴX」エンジンの画期的なこと。内燃機関の発達をギリギリまで推し進めようとするこのメーカーの心意気たるや。今、買う価値のある日本メーカーって、ここだけでしょ。スバル 色々問題山積みの会社だけど、アメリカでは売れております。今年はフォレスターが新型になりましたが、フォレスターは3代目が一番デザインが良くて、あとは落ちていくばかり。その他、ちょっといいなと思うのはXVだけど、変速機がCVTなので魅力半減。効率のいいATと、かつて「VIZIV」で魅せたデザインの切れを取り戻せば、ちょっとはマシになるのでしょうが。三菱 美しかった「デリカD5」が、最悪のデザインになって登場。どの車も変な顔になっちゃって。スズキ 何と言ってもジムニーの新型化。これは素晴らしい。他にラパンやハスラーやイグニスのデザインもいいし。まあ、堅実だよね。ダイハツ トコットのデザインが受けているようですが、それほどとも思わず。以前、コンセプトカーとして出していた「マッドマスター」をそのまま出してくれればいいのにね。外国車編 面倒臭いからまとめて講評しちゃうと、まずベンツEクラスの直6復活と、独自のハイブリッドシステムは素晴らしいらしい。さすがだね。デザインも攻めているし。やっぱり王者の風格。一方、BMWもアウディもあれこれ出すけど、どれもデザインがイマイチなのでコメントなし。デザインを見ないで乗れば、いいんだろうけどね。 フランスではルノー・新型メガーヌが採用した4WSはすごい出来らしい。後部座席に座った人が酔うという噂はあれども、ちょっと乗ってみたい気がする。プジョーは508が新型になりますが、まあ、普通のデザインですな。 イタリアでは、アルファのステルヴィオですかね。まあまあ。イギリスのジャガーやロールスもそうですが、どこもみんなSUVを出すようになって。 そしてボルボは何と言ってもXC40が出色。 ということで、色々好き勝手なことを言いましたが、今年の釈迦楽カー・オブ・ザ・イヤーは・・・ もちろん「ボルボXC40」でーす! 昨年に引き続き、今年もCOTYと同じ~。 まあ、アクセラが年内に発売されていたらアレですけど、そうでないなら、他に対抗馬っていったらスズキ・ジムニーしかない。でもジムニーは乗り手を選ぶクルマだし、一般的な観点からしたら、デザインの美しさ、動力性能、安全性能、取り回しの良さ、値段、どれをとってもXC40ほどのクルマはそうない。我が愛車ルノー・キャプチャーと取り換えてもいいと思えるのは、今、これだけ。 ということで、今年もクルマ好きをワクワクさせてくれた国産メーカーはマツダだけでした。来年はどうなのかな・・・。ま、日産はあんなだし、期待薄か・・・。
December 10, 2018
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竹内康浩さんという方の書かれた『ライ麦畑のミステリー』(2005年)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 竹内さんは、もちろん面識はないのですけれども、私より2つ年下ですがほぼ同年代、しかもこの本の前にもう一冊、『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』(1998年)という長いタイトルのサリンジャー本を出されていて、もう何も言いたくないって言っていたのに、もう一冊書いちゃうくらい、私なんぞよりよっぽどサリンジャー研究者って感じの人。 ちなみに、前著『もう何も言いたくない』は、「Suzuki Yoriko」さんに捧げられていて、誰? って思うのだけど、本書の序章を読むと、どうもこの女人は竹内さんの高校時代のガールフレンドだったらしいのね。だけど、残念なことに、ご病気で急逝されて。それで竹内さんは前著をこの方の命日に出版されたと。まあ、そういうことが書いてある。 ふうむ。そういう感じか。いきなり読者の方が照れるようなことを書くんだねえ・・・。そういうのはむしろ秘して書かない方が・・・ まあ、いいか。 ところで、本書のタイトルは『ライ麦畑のミステリー』なんですけど、注目は「ミステリー」という部分。そう言えば、田中啓史先生という、今は75歳くらいになられているはずのサリンジャー研究家もかつて『ミステリアス・サリンジャー 隠されたものがたり』という研究書を書かれているのですけど、サリンジャーというと、ミステリアスな作家というイメージがものすごく強くて、その作品を読み解く=ミステリーの解読という趣になることが多い。 竹内さんも本書のあとがきの中で「(この本に書いてきたことの是非は)サリンジャー本人に聞けば、正確な答えが得られる問題だ」と言っているように、本人に聞けばいいんですよ。だけどそのサリンジャーが雲隠れするもんだから、好き者同志があーだこーだと詮索しなくてはならなくなる。逃げるサリンジャー、追うファンってね。 で、本書は、そういう意味で、「ミステリーの解読」に気合い入れちゃった一例と言えるのではないかと。 で、ミステリーの解読となると、作品の精読をするしかない。そしてその上で、作者が意図的に作品の中に置いて行ったと思しき様々な手がかりやシンボルを拾いまくり、それが意味するところを推測しまくるしかない。 これは、まさに古典的な「ニュークリティシズム」の手法そのものじゃないかっ! 今から40年から60年くらい前に流行っていた分析手法! 懐かしい~! で、何を隠そう、私もこの手法が大好きで、その後に流行る「脱構築批評」とか、そういうのが全然分からない人なんですけど、実はこの手法には一つ、大きな欠陥がある。 それは、「ちょっと~、それって、穿った見方過ぎるんじゃないの~」っていう奴。「考え過ぎよ~」っていう。 で、竹内氏の『ライ麦畑のミステリー』も、かなりこの批判が当てはまるのではないかと。 例えば、『ライ麦畑』の中で、主人公ホールデンが妹のフィービーにレコードをプレゼントしようとするのだけど、それを酔っ払っていた時に落として割ってしまう、という件がある。で、そのレコードというのが「リトル・シャーリー・ビーンズ」という曲だとされているのですが、実はそういうタイトルの曲は存在しないと。ただ、内容からして多分、「All I Want for Christmas Is My Two Front Teeth」というコミックソングなのではないかと。 まあ、ここまではいいよね。実証的で。だけど、ここからの考察が穿っちゃうんだなあ。 サリンジャーがこの曲のタイトルを「シャーリー・ビーンズ」に変えたのには理由があるはずだと。それは多分、「shellin' beans」の意味、つまり、豆を鞘から剥け、というサリンジャーのメッセージに違いないと。そしてそれはユダヤ教のカバラ思想、即ち外側の殻を突き破って核へと侵入せよ、ということをサリンジャーが言わんとしているに違いないと。 しかも、サリンジャーはこの歌を歌っているのが「エステル・フレッチャー」であると言っているけれど、そんな歌手は存在しない。おそらくこれはフランス語の「Est elle Fletcher?」、すなわち、「フレッチャーさんてだーれだ?」という謎かけに違いない。そしてその場合、フレッチャーとは、おそらく、1913年に「よく咀嚼してモノを食べましょう」ということを提唱したホーレス・フレッチャーを指すに違いない。つまり、豆(サリンジャーが言わんとしていること)をよく噛んで食べなさい(拳拳服膺せよ)、というサリンジャーのメッセージがここには込められておるのじゃ。 はい、皆さん、御唱和くださーい:「うっそ~!!」 まあ、これは一例ですけれども、竹内さんがこの本の中でやろうとしていることは、こういう類の分析なのであります。ミステリ~!! もちろん、中には面白いだけでなく、鋭い指摘もあって、例えばホールデンが「好きな本」として挙げている小説は、雨の中で誰かが死ぬ、といった筋書きの本ばかりなのだけど、そこに何らかの再生も描かれていて、その意味で救いがあるものばかりである。その一方、ホールデンが「嫌いな本」として挙げているのは、やっぱり雨の中で誰かが死ぬんだけれども、死にっぱなしというか、死の要素ばかりで再生の要素がないものばかりである。故に、サリンジャーは「雨の中の死と再生」ということを考えていたのであって、それが『ライ麦畑』の最終場面に活きてくるのだ、なんていう分析は、はあはあ、なるほど、と素直に納得できる。 とまあ、本書で竹内さんがやられている分析のうち、私にとって納得できるのが4割、「うっそ~!」って思うのが6割くらいの比率だったかな。 しかし、私が思うに、その納得できる4割すらも、普通に一般の読者が『ライ麦畑』を読む上で、見過ごしていることばかりだと思う。 例えば(これは竹内さんのみならず、他の研究者もこぞって指摘することだけど)、ホールデンが赤いハンティング帽を前後逆さまにかぶるのは、野球のキャッチャーのかぶり方で、ホールデンは最初から自分の「キャッチャーになりたい」という願望を表に出しているのだ、とか。あるいは、ホールデンが死んだ弟アリーの遺品の中で、特にミットを持っていることもそうだ、とか。 もちろん、最初からそういうことに気付いて読んでいる人もいるだろうけれども、大抵の人は、そんなこと考えもしないで『ライ麦畑』を読んでいると(私は)思うんですよね。 そんなこと気付きもしないで読んでいる。そして、それにも拘らず、この小説に大きな感動を呼び起こされている。 だとしたら、竹内さんがこの本の中で行っている分析は、ある意味、すべて無駄なんじゃないだろうか。だって、人は普通、竹内さんが「この小説の真意はこれだ!」と指摘していることなどまったく意に介せずにこの本を読み、この本を楽しみ、この本に感動しているのだから。 そこよ、私が指摘したいのは。 つまり、私だったらむしろ、竹内さんのような精緻な読み方をしない一般の人達は、この本のどこに感動するのか、ということを問題にしたい、と思う。 しかし、そういうと私がこの本を全否定しているみたいに聞こえちゃうけど、必ずしもそうではなくて、サリンジャー好きというのは、どうしてもこの方向に行ってしまう、というのは私にも分かるんです。ただ、それはマニア向けの話であって、大多数はそうじゃない、ということを忘れてはいけないと思うわけね。 でも、とにかく、マニア向けの本としたら、なかなか面白い本ではありました。豆が剥きたいなあ、と思う人には、一読の価値ありなんじゃないでしょうか。ライ麦畑のミステリー / 竹内康浩 【本】
December 9, 2018
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サリンジャーものの映画化、という方向性であれこれサーチしているのですが、その一端として『ライ麦畑をさがして』(原題:Chasing Holden、2001)という映画を観てしまいまして。そしたら、これがまた噴飯モノのトンデモ映画だったという。 本作の主人公ニールは、なんとなんとニューヨーク州知事の御曹司(ちなみに『ライ麦畑』には、ホールデンが「自分の父親はNY知事である」と嘘をつくシーンがある)。なのですが、母親を亡くし、父親は知事として忙しいのみならず、今はガールフレンドがいるようで、それも気に入らない。しかしそれ以上にニールと父親の仲を裂くこととなったのは、ニールの兄ピーターの一件。どうもピーターはゲイだったらしく、それが知事のキャリアに悪影響を及ぼすということで、父親はピーターを受け入れず、それでピーターは自殺したんですな。で、兄を慕っていたニールは、自殺を図った兄を発見した時、絶望して窓ガラスを手で突き破って、まあ、いわば衝動的に後追い自殺的な行為をした。それで、精神病院に2年くらい入れられていたのかな? で、そんな入院生活の中で、ニールの心の支えとなっていたのが、サリンジャーの『ライ麦畑』だったと。彼は1953年に出版された、例の赤いハンチングを被ったホールデンが表紙になっているシグネット版の『ライ麦畑』をボロボロになるまで読み込んでいて、何よりもこの本を大事にしている。 で、精神病院を退院したニールは、高校の残りの単位をとるべく、全寮制の高校に転校することになります。もちろん、すべては父親が仕組んだことでありまして、要するに精神病院に入っていたような息子にウロウロされたのでは仕事に差し支えるので、遠くにやってしまおうと。 で、転校先の高校の寮は、苛めっ子がいて、ちょっとだけニールももめたりするのですが、そんなクズみたいな高校に一人だけ、TJという可愛い女の子がいた。この子は家が若干貧しく、そのせいか盗癖があったりするのですが、映画の流れからして当然、ニールとTJは恋に落ちる。 さて、そんなある日。ニールの寮の寮長であり、国語の先生でもあるパターソン先生の授業で、サリンジャーの『ライ麦畑』の後日譚を考えろ、という宿題が出る。 なにしろニールにとっては何よりも大事なサリンジャー&『ライ麦畑』ですから、ニールはこの宿題に必死に取り組むわけ。で、これまでも何度もトライしたように、この際、サリンジャー本人に取材しようと思って、サリンジャーに手紙を書くわけ。 しかし、そのニールの必死の問合せにも、サリンジャーは代理人を通じて断りの返事を寄越すんですな。 で、絶望したニールは、ある夜、TJを呼び出して、一緒にNY経由でサリンジャーの居るニューハンプシャー州コーニッシュまでヒッチハイクで行こうと決意する。 で、当然親にも内緒で、いわば駆け落ちした二人は、NYにやってくる。時は期せずして12月8日(今日じゃん!)、すなわち、サリンジャーファンだったマーク・チャップマンがジョン・レノンを殺害した当日。 ニールはその偶然を重大視するのですが、田舎者のTJにとってはそんなことはどうでもよく、夢に見た大都会を堪能したい気分でいっぱい。とりあえずサリンジャー探しの旅は翌日に延ばして、二人はNYを楽しみます。何せニールにとっては勝手知ったる我が町。しかも州知事の御曹司ですから、ピアノの生演奏をしてくれるような高級レストランにも知り合いが一杯。気の合わない父親ですが、こういう時にはニールも父親の七光りを利用するわけ。 しかし、その頃には州知事の息子が、高校の校長の部屋から銃を盗み出した上、女の子を誘拐して失踪したというニュースが出回っていて、二人は警察に追われる身に。そこで二人は、たまたま知り合った娼婦の紹介でしょぼい安宿を見つけ、そこで一夜を過ごすことに。煙草を買いにニールが外に出た隙に、TJが安宿の従業員からレイプされそうになるといったハプニングこそあれ、まあ、二人はここで初めてのちょめちょめをしたりして、ちょっと幸せになると。 ところが、翌朝、ニールはTJが飲んでいる薬を見つけてしまうんですな。それはニールの兄が使っていた薬と同じだったので、ニールはTJが動脈瘤を抱えて余命いくばくもないということを知ってしまう。(まあ、なんて可哀想!) でもとにかく警察にも追われていることだし、まずはサリンジャーのところまで乗り込む前に、ニールの祖父(どうも画家らしい)の住んでいる田舎町に行ってかくまってもらうんですな。 で、どうやらニールの父親は、ニールが祖父のところに行くかもしれないと考える頭もなかったのか、祖父はニールの失踪の件を知らないんですな。それでもニールとTJの様子からして何やら妙なことが起こっていることを察知し、お前さんたち、何をしようと構わないけど、それをやって気が済んだら、親父さんのところに帰りなさいよ、何せピーター亡き後、親父さんの親族はニールしかいないんだから、と諭して二人を送り出すと。 で、ニールとTJはいよいよサリンジャーの元へ向かうのですが、ここで大喧嘩。ニールはこれまでピーターが死んだことをTJに黙っていて、あたかも彼が普通に生きているように話をしていたわけ。で、そのことにショックを受けたTJは、えらく怒って、ニールのクルマを降りてしまう。 で、ニールはそんなTJを放り出して、とりあえずサリンジャーの住むコーニッシュへ。 で、コーニッシュで町の人達にサリンジャーの住んでいるところを聞き出そうとするのですが、なかなか教えてくれない。それでも、金に釣られたガキから住まいを教わったニールは、サリンジャーの家の敷地に侵入! そして、家から出てきたサリンジャーらしき人に向って銃を構える! (なんで?!) だけど、結局発砲はせず、銃をその場に置いて立ち去り、引き返すことに。 で、その途中、救急車が道をふさいでいるところに出るのですが、搬送されようとしていたのはTJだったのでした。(やっぱり!) そして、飛行機が遅れて親族もまだ来ないまま、TJは一人、ニールに看取られて天国に旅立ったのでした。 で、一人病院の廊下でうなだれているニールの元に、彼の父親が迎えに来て、そこで親子久々の抱擁! そして二人で病院を去るところで幕と。 はぁぁぁ?? 何コレ。 とんだ茶番だぜ。 あまりのクオリティの低さに唖然・呆然よ。 まあ、映画の中に『ライ麦畑』の要素を盛り込もうとしているのは分かるよ。ニールの兄ピーターは、ホールデンの兄のDBと、死んでしまった弟のアリーを足して二で割ったんでしょ。アリーが死んだ時、ホールデンがガラス窓を素手で叩き割ったエピソードも入っているし。 あと高校の国語の先生のパターソン先生は、『ライ麦畑』のアントリーニ先生を模したんでしょうなあ。 そしてTJは、サリー的な要素とフィービー的な要素を持った子、ということになるのかな? ホールデンのNYでの放浪の中には、ピアノ弾きや娼婦、それに女衒なんかも出てきますが、この映画の中にもそういうのが形を変えて出てくる。ホールデンの父親が裕福である、という設定も、映画でも形を変えて出てますし。 つまり『ライ麦畑』の内容と映画の筋書きを重ね合わせようとした意図は分かる。 だけど、そういう意図がいちいち見え見えってのも、興醒めじゃないかい? まあ、文学かぶれの高校生が、学内演劇か何かをやるというので、目いっぱい背伸びして考え出した脚本、みたいなレベルで、そういう学芸会でやるんだったら、良く出来ましたで済むけど、プロの映画作品として見たら、お粗末過ぎて笑う気にもならないよ。 あと、強いて言えば、本作はある意味、ニールという登場人物を通してホールデンを再現した、とも言えるわけで、ニール役を演じたDJクオールズという俳優が、ホールデンっぽいかどうか、ということが問題になるわけですが、うーん、どうかな。クオールズはユダヤ人なので、それっぽい顔立ちではあるのだけれど、ちょっと神経質すぎるというか、キツイ顔過ぎるかな・・・。ワタクシのイメージだと、ホールデンはもう少し背が高くて、背の高い人にありがちな、もう少し茫洋とした顔立ちではないかと思っているのですが。 まあ、でも、とにかく、一目でもいいからサリンジャーに会いたいっていう『ライ麦畑』ファンの潜在的な願望をこういう形で表現しました、という例ではあるので、作品としてどうのというよりも、現象として記憶しましょうかね。 それにしても、「茶番」という言葉がこれほどふさわしい映画も、他になかなかないよね・・・。[DVD洋]ライ麦畑をさがして【中古】【ポイント10倍♪11/29-20時〜12/17-10時迄】【中古】 ライ麦畑をさがして 竹書房文庫/入間真(訳者),ショーン・カナン(その他) 【中古】afb
December 8, 2018
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師走ももう1週間が過ぎ、あと3週間ちょいで今年が終るのかと思うと、信じられない気がしますなあ。半年くらいまえにお正月だったような気がしているのに。 さて、しかしそうなりますと、このブログも段々、年末シフトになって参ります。 ということで、今日は早くも「今年観た映画ベスト」を発表していきましょう。第3位 『キングスマン ゴールデン・サークル』キングスマン:ゴールデン・サークル 【DVD】 『キングスマン』の続編ということで、どうせ駄作になるのだろうと思っていたらさにあらず。冒頭、主役のエグジーがかつてのライバル・チャーリーに奇襲をかけられ、プリンスの曲に乗ってロンドンの街を縦横に走り回るシーンからもうノリノリよ。悪役ポピー演じるジュリアン・ムーアもいいし、ムーアに囚われの身になっているエルトン・ジョン(本人)も最高。ジョン・デンヴァーの「カントリー・ロード」を歌いながら殉死するマーリンも素晴らしい。心地よく笑える映画でした。第2位 『トレインスポッティング2』T2 トレインスポッティング 【DVD】 前作で仲間を裏切って一人高飛びをしたマークが何十年かぶりに故郷に戻ってみると、かつての仲間は相変らず社会の底辺をうごめいていた。で、彼らから奪った金をマークは返すのですけれども、そう簡単に許してもらえるはずもなし。若気の至りでやってしまった罪について、中年すぎたおっさんがその罪滅ぼしをする、その顛末を上手に描いております。前作もそうだったけど、ほろ苦い後味の中に、どこかすっきりする部分もあって、観た後の爽快感が快い。いい映画です。第1位 『ダンケルク』【メール便送料無料】ダンケルク[DVD]【D2018/6/13発売】 これは映画館ではなく、WOWOWで観たのですけれども、さすがクリストファー・ノーラン監督、映画としてまず美しい。戦争映画なのに、美しい。ドイツ軍に包囲された英仏連合軍の数千名の兵隊をどうやって避難させるか、という大きな課題を、かかわった様々な人の立場から映像だけで物語っていくという手法。ほれぼれでございます。映画の出来としては、第2位に挙げた『T2』も素晴らしいのですが、こちらは映画でしか表現できない映像美という部分が付け加わっているので、その分を加点して1位にしました。 この3作、特に1位、2位は出色の出来と言っていいんじゃないでしょうか。 ちなみに番外の第4位は、『エンドレス・マーダー』でございます。日本では多分、DVDスルーだと思いますが。そして断トツの最下位は、フランス映画『ELLE』ですね。エンドレス・マーダー 【DVD】 さてさて、今年はこんな感じでしたけれども、来年は早々にサリンジャー映画が来るということで、これも(仕事柄)楽しみです。
December 7, 2018
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今日、研究室で仕事をしていると、トントンとノックをする音。誰かと思ったらうちの科の3年生で、ゼミの件で相談したいと。 で、要するに来年1年、海外留学するので、本来であれば来年の4月にゼミ入りしたいのだが、それを再来年に伸ばしてもらっていいか? という相談なんですな。 まあ、もちろん、そういう希望があれば、こちらとしては認めざるを得ないので、別にいいですよ、と答えておいたのですけれども、ちょっと興味があったので、「留学って、どこに行くの?」と聞いてみた。 すると、最初の数カ月をセブ島で、残りをオーストラリアで、との答え。 何? セブ島? そんなところに行ったら、遊ぶしかないじゃん! 脳ミソにしわが増えないで、水着の跡がつくだけじゃないの?? でも、よくよく尋ねてみると、今、フィリピンって、語学留学生の受け入れに熱心で、受け入れた留学生を一日16時間、英語漬けにする、というのを売りにしているらしい。なるほど、新しい産業ですな。観光プラス語学という。 つまり、セブ島で英語に慣れてから、オーストラリアに行こうというわけね。まあ、それならいいか・・・。 しかし、それにしても最近、アメリカに留学するという学生の話を聞かないなあ。なんでだろ? で、その学生に「なんでアメリカに行かんの?」と尋ねると、その学生曰く、「お金が・・・」と。 要するに、アメリカとかイギリスに留学すると、費用が高いんですって。一方、カナダとオーストラリアはその点、安いので、どうしてもそちらを選ばざるを得ないと。 なるほどね~。それで最近、「カナダに行きます」「オーストラリアに行きます」という留学生ばっかりなんだ。 まあね、もちろん、カナダであれオーストラリアであれ、行けば勉強になると思うので、それはそれでいいんですけど、どうなのかな・・・。イギリスにはイギリスの長い伝統があるし、アメリカはアメリカで色々な問題をかかえていて、でもそういうのに触れることで触発されることって多いと思うんですよね。 だけど、オーストラリアだと、その辺が、ねえ・・・。カンガルーには出会えるかもしれないけれども。 まあ、どこへ行くかは学生の勝手だけれども、なんだかなあって思ってしまったのでした。
December 6, 2018
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ロック史の講義をしているんですけど、これ今年の後期から始めた奴なので、自転車操業なの。つまり、前の週の予習して、次の週に講義するという、非常に危ない綱渡りをやっているわけ。 でも、予習自体が楽しいので全然苦にならない。やっぱり、私はロックの子なのね。 で、1954年のビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」からスタートして、エルヴィスを通り、チャック・ベリーを通り、ビーチボーイズを通り、ビートルズを通り、ボブ・ディランを通り、その他あれこれ通って、今週は「ウッドストック・フェスティヴァル」をやったの。ジミ・ヘンだのジャニス・ジョプリンだの、ジェファソン・エアプレインの世界ね。 で、来週からイギリスに飛びまして、ハードロックに入るわけね。そう、クリームだ、レッド・ツェッペリンだ、ディープ・パープルだ、ブラック・サバスだ、みたいな奴。で、この流れでクイーンに行って、さらにアメリカに飛んでキッスだ、エアロスミスだって話になる。 もっとも、実は私はイギリス系のハードロックが苦手で、ツェッペリンさんだのパープルさんだのサバスさんあたりは聴き込んだことがない。クラプトンさん系、ジェフ・ベックさん系もダメ。 だけど、まあ、それでも、ここまでは我慢しましょう。 問題はここから先よ。 プログレッシヴ・ロック。そう、これが私にとって鬼門なのでありまーす。 キング・クリムゾン、ELP、ピンク・フロイド、イエス。この辺、全然ダメ。こいつらの何がいいんだか全然分からん。 っていうか、曲が長い~。ピンク・フロイドの『狂気』とか、切れ目ないし。「原子心母」とか、23分もあるし。なんなんだよ。 いやあ。プログレって、はまる人はめちゃくちゃはまるみたいだけど、好き嫌い、分かれるよね。ワタクシはダメだ。分からん。 だけど、自分が分からなくても、「ロック史」という講義だからね。無視するわけにもいかない。一応、それぞれのバンドの代表曲くらいは聴かせるつもり。 で、その次にグラム・ロックの紹介をするつもりで、そこではもちろん、デヴィッドのボウイさんが登場する。 プログレに悩まされた後でボウイを聴くと、やっぱりホッとする。大体、美しいからね、ボウイさんは。ボウイの odd eye を見るだけでもほれぼれ。 ところで、ハードロック苦手系のワタクシにとって、ハードロックとヘヴィメタって、どこが違うのかよく分からないなと思って、あれこれ調べていたんですけど、一つ、面白い両者の対比があったんです。 「シネマ一刀両断」というサイトにあったのですが、それによりますと・・・ハードロックは髪を伸ばす ヘヴィメタルは筋肉をつけるハードロックは安い酒を飲むヘヴィメタルは処女の生き血を飲むハードロックはホテルに娼婦を呼ぶヘヴィメタルはホテルに悪魔を呼ぶハードロックはギターの弦をぶっちぎるヘヴィメタルはヒトの動脈をぶっちぎるハードロックはモラリストと戦うヘヴィメタルはドラゴンと戦うハードロックはメンバー同士で喧嘩をするヘヴィメタルはメンバー総出で聖戦をするハードロックは路上でカツアゲをするヘヴィメタルは地獄で拷問をするハードロックは地べたを這いつくばるヘヴィメタルは大空を舞う だそうで。 いやあ、上手いねえ! これで大体、ハードロックとヘヴィメタの違いが分かるよね。すごく参考になりました。 「人に教えることは、自分が学ぶこと」とはよく言ったもので、講義にかこつけて、私も大分ロックに詳しくなりました。
December 5, 2018
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ウェス・アンダーソン監督2001年の映画、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』という映画を観ました。 ちょっと前の映画なので、ネタバレも構わずあらすじを言ってしまいますが、ジーン・ハックマン演じるロイヤル・テネンバウムには妻エセルと3人の子供(チャス・マーゴ・リッチー、ただしマーゴは養女)がいて、一時期は羽振り良くやっていたものの、浮気やら何やらで家族を顧みず、家にも寄りつかずに好き勝手にやっているんですな。で、子供の養育はエセルが一手に引き受けるのですが、教育熱心だった甲斐あって、チャスは科学と経済の天才、マーゴは幼い文豪、リッチーは天才テニス・プレーヤーと、早くから才能を発揮する。 しかし、この天才児たちは長じてからそれぞれ苦労することになる。チャスは飛行機事故で妻を失ったトラウマから精神不安定になり、残された二人の子供を徹底管理して育てているものの、幸せとは程遠い日々を過ごしている。マーゴはニコチン中毒となり、様々な男たちと浮名を流した挙句、年上の精神科医と結婚するも、仮面夫婦状態。リッチーは、血の繋がっていない姉マーゴを秘かに愛しており、そのマーゴの遍歴を知るに至ってテニスに熱中できず引退、今は船に乗って十年以上も各地を放浪している始末。 そしてエセルは夫に愛想を尽かし、自分の会計士を務めている黒人のヘンリーと、本気で付き合ってみようか思案中。 要するに、一家離散状態なわけですよ。 で、このバラバラ家族の家長ロイヤル・テネンバウムですが、さんざん家族を放り出して勝手なことをやっていたものの、ついに破産して、長年住み続けたホテルから追い出されてしまうんですな。そしてそれを機にそれまで放置していた家族の元に帰り、もう一度家族の温かみを取り戻したいと思うわけ。 で、さすがにそのままでは帰れないと思った彼は、末期がんで余命いくばくもない、という大嘘をついて、家族の元に帰ってみたと。 しかし、もちろん、22年間も家族を放り出していたのですから、おいそれと家族団らんが復活するはずもなし。それどころか、彼がそこに見たものは、バラバラ家族の無惨な残骸だった。 さてさて、我がまま男のロイヤルは、崩壊寸前の家族を立て直すことが出来るのか? 妻や3人の子供たちは、ロイヤルを受け入れるのか? そして彼ら一人一人の状況は、どうなるのか? ・・・ってなお話し。 まあ、ある意味、アメリカ版フーテンの寅さんみたいな感じですよね。といって、寅さん映画のような爆笑シーンがあるわけでもなく、といってまったくつまらないわけでもなく、何とも不思議な映画です。 ところで、何で私が今更この映画を観たかと言いますと、これまたサリンジャーがらみなのね。 町山智浩さんの『映画と本の意外な関係!』という本に、この映画がサリンジャーにオマージュを捧げたものだ、と書いてあったものだから、どんなものかしらと思って観てみたわけよ。 町山さんによれば、子供たちが全員天才だ、というシチュエーションが、『ナイン・ストーリーズ』におけるグラース家の物語に似ていると。 しかも、グラース家の長女、ブーブーの嫁ぎ先が「テネンバウム」なのよ。そんなによくある名前ではないですから、この両者の一致は確かに気になる。 ま、そういう風に拾っていくと、多分、グウィネス・パルトロウ演じるマーゴが、グラース家で言えばフラニーになるのでしょうが、マーゴもフラニーも毛皮のコートを着ているという共通点がある。もちろん、色々人生に絶望して無気力に陥っているというところもマーゴとフラニーは共通します。 じゃあ、チャスはグラース家の誰にあたるのか、リッチーはどうなのか(ゾーイー?)、などと言い出すと齟齬は出てきますが、まあ、この映画を撮るに当たって、ウェス・アンダーソン監督の頭の中に『ナイン・ストーリーズ』のことが多少はあっただろう、と推測するくらいなら、さほど的外れではないのかもね。 少なくとも、フラニーを映像化するにあたってグウィネス・パルトロウを持ってきたというのは、割といい線行っているかも。それは認めよう。 でも、その程度かな・・・。 ま、しかし、とりあえず町山さんの説を確認できたので、収穫有りということにしておきましょうかね。【中古】洋画DVD ザ・ロイヤル・テネンバウムズ(特別価格)
December 4, 2018
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サリンジャーの話ばっかりで申し訳ないんですけど、今はそれが一大事なもので。 サリンジャーの短編ってのは、『ナイン・ストーリーズ』という短篇集に含まれた9編以外は公刊されておりませんで、基本、英語圏ではそれらを読むことは出来ないということになっているんです。 しかし、これがまた不思議なことに、日本ではほぼ全短編が翻訳されていて、読むことができる。アメリカ人が読めない作品を、日本語でなら読めるという、妙なことになっているわけ。 まあ、それはいいのですが、そうは言っても蛇の道は蛇。アメリカにだって海賊版というものがあるわけですよ。非合法ですが。 で、その非合法な海賊版短篇集というのが1974年に2冊組で出ましてね。もちろんサリンジャー側は猛抗議しましたが、出回っちまったものは仕方がないと。 で、その海賊版のことは私も昔から知っていたのですが、そんなものは伝説上のもので自分が入手するような類のものではないのだろうと思っていたわけ。 が! この世には大人買いってものがありまして、ついにワタクシ、その伝説の海賊版を入手しちゃったというね。2冊揃いの美本で。 実際見てみると、確かに海賊版らしく奥付もなくて、値段も書いてない。でもしっかりサリンジャーの未公刊短編が印刷されております。 ま、「海賊版でもいいから、サリンジャーの作品をくまなく読みたい」というファンの願望が、こういう形を取るのだ、ということを言うために買ったわけ。ちょっと高かったけれども、こういう実物を持っているということが、研究者としては重要なわけよ。 というわけで、私自身、学生時代にその存在だけは知っていた伝説の本を入手して、いささか感慨にふけっているワタクシなのであります。
December 3, 2018
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さっきまで「M-1グランプリ」を見ていたのですが、私が最高点をつけた「かまいたち」が決勝ラウンドに進めないと分かった途端、興味を失うという・・・。このコンビが実力的に断然上だったのに、審査員たちのセンスを疑うな。(もっとも、後で家内に聞いたら、和牛も明星も決勝ラウンドは面白かったとのこと) それはさておき。 昨夜は八光流柔術の道場の忘年会がありまして。道場仲間と酒杯を重ねて参りました。 まあ、ワタクシもこの道場、古株なので、参加される大半の方々とは顔なじみなのですけれども、今年初参加の片が何人かいらして、その中に最近ご夫婦で入門されたカップルが居られまして。 で、ご夫婦で入門っていうのも珍しいのですけど、前からちょっと気になっていたのは、お二人の年齢差。ひょっとして相当の歳の差カップルなのかなあ・・と思ってはいたのですが、昨夜、ついにその差が22歳ということが判明! 奥様のお母様とご主人が同い年と伺ってひゅーひゅーですよ。 本当は、お二人のロマンスについて伺いたかったのですが、ちょっと席が遠かったので、また次の機会に、ということで。 席と言えば、今回は師範のS先生のお隣に座れたので、来年の4月に私が目指している師範教伝についてあれこれ聞いてしまった。あと、色々お話を伺っているうちに、やっぱり技の話になり、酒席であるにも関わらず、ついついその場で実際の稽古が始まってしまうという。これ、八光流宴席あるあるなんですけどね。でも、その中で、S先生から「仮に師範の段をとったとしても、慢心してはいけない、それはただスタート地点に立ったということしか意味しないのだから」と教えられたことは、肝に銘じておきましょう。 あと師範のA先生の御師匠さんのお話しも面白かった。その先生はもう亡くなられているのですが、その先生が亡くなる1週間ほど前、A先生は稽古をつけてもらったと。で、もうやせ細ってガリガリの状態であったにもかかわらず、A先生を投げ飛ばされたというのです。 八光流は力ではない、ということを如実に物語るエピソードでございます。 で、その時、その先生がA先生に対して言われた最期の言葉が「ヘタクソ!」だったと。 その話を面白おかしく語られたA先生ですが、「師匠からもらった『ヘタクソ!』という最期の言葉は、今なお、自分が頑張る力になっている」とおっしゃっておられました。 いいねえ、いい話だねえ。 というわけで、今年も道場の仲間と共に楽しく飲むことが出来たのでした。 それにしても、昨年、この忘年会に参加してからもう一年経ったのか・・・。一年が経つのは早いねえ。
December 2, 2018
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このところ毎日、連載準備と卒論添削で忙しいもので、どこにも遊びに行けない・・・。 ってなわけで、昨夜はレイトショーで『ヴェノム』を観に行ってしまいました。この程度の息抜きがないとね。考えさせる映画ではないので、気分転換に見るには丁度いいくらいの娯楽作品ですが、以下、ネタバレということで。 ライフ財団のマッド・サイエンティスト、ドレイク博士は、ガン治療の開発を口実に、宇宙外生物を地球に持ち込み、それを人間に寄生させることで、人間と寄生生物を合体させ、人間の側がその地球外生物の住むところに移住可能にしようと目論んでいたんですな。で、トム・ハーディ演じる正義派ジャーナリストのエディ・ブロックは、ライフ財団が何やら人体実験をしているらしいという情報を掴み、それを暴露しようとするのですが、ライフ財団からプレッシャーで逆に職を失う羽目に。 ところが、ライフ財団のある研究者が、罪の意識からドレイクの悪の計画を暴くことを決意。エディに連絡して財団の研究所に侵入させるわけ。 で、そこでエディは自分の知り合いのホームレスが人体実験に使われているのを発見。彼女を助けようとして、逆に自分が宇宙生物シンビオート「ヴェノム」に寄生されてしまう。 で、普通、シンビオートに寄生されると、宿主は死んでしまうことが多いのですが、たまたまエディはシンビオートとの相性がよく、生き延びるんです。しかし、ライフ財団のドレイク博士からすると、自分たちが研究してきたシンビオートがエディによって盗まれたような形になってしまったので、何とかこれを取り戻そうと、エディを捕まえにくる。 しかし、エディに寄生したヴェノムにはまた、独自の目的があった。 実はヴェノムと同じシンビオートがもう一体、地球に入ってきたのですが、こいつが極悪で、地球にさらに多くの仲間を呼び寄せようとしているんですな。そいつらが地球に入り込んだら、もうこの星はおしまい。 そこで、ヴェノムは、宿主であるエディと協働して、この悪いシンビオートをやっつけようとする。 ところが相手のシンビオートもまた、巧みにライフ財団のドレイク博士に寄生し、彼を操って自分の計画を実行しようとする。 さてさて、ヴェノムとエディは、この悪役シンビオートとドレイク博士を倒し、地球を守ることが出来るのか?! ・・・みたいなお話。 ま、私が敢えて採点するほどの映画じゃないんですけど、エディ役のトム・ハーディと、彼に寄生したヴェノムの掛け合いが、アメリカ特有のバディ映画(例えば『明日に向って撃て!』みたいな)の伝統を受け継いでいる感じがして、ちょっと面白いかなと。 ところで、この映画は夜の11時くらいに終わったのですが、同じ頃に別なシアターで終った映画があったらしく、そっちはすごく大入りだったようで、客がぞろぞろ出てくる。 で、後で調べると、『ヴェノム』と同じ頃に終る映画って『ボヘミアン・ラプソディ』しかないんですよね。すごいな。すごい人気だね。 まあ、これを機に日本にクイーン・ブームがまた訪れてくれれば、クイーン・ファンとしては喜ばしい限りなんですけどね。
December 1, 2018
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