2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全28件 (28件中 1-28件目)
1
色々なものを信じている周囲の大人の言った世界観教科書に書かれた自然の法則新聞を彩る残虐な犯罪行為テレビに映る遠い国の出来事誰かが口にした「幸せな人生」誰も口にしない、生きる意味“私は生きている”色々なことを、ただ信じている
2005.02.28
コメント(2)
恨み言を呟くために生きてきたわけじゃないんだ ましてやあなたを罵るために生きていくわけでもないんだそう、思いたいよ
2005.02.27
コメント(0)
理性や理論を重んじるそれらが何の対立項目であるかを考えながら主張できるのだろうか効率的とは何だろうそれは何のための合理化だろう合理的にやっていって一体どこでその掌を裏返すのだろう完璧ではないから生き残る余りに優れているわけでなく余りに劣っているわけでなく限りなく埋め立てていっても針の目の如き抜け道が残る人も社会も中途半端であり中途半端でなければいけず中途半端であるべきなのだそれが人や社会を存続せしめている
2005.02.26
コメント(0)
僕が何か異論を持つとしたら、それは日々、鈍感になっていく君へではなく鈍感も鋭敏も一括りにして変化の全てを“進化”“成長”と崇拝している奴らへだろう
2005.02.25
コメント(0)
花は、充分に水や養分を与えられていると咲かないらしい。ならば私は望む。 貴女の花も咲いてほしくない。 恵まれて、これ以上ないくらい 甘やかされて、これ以上ないほど 根の腐らない程度に存えてほしい。 死ぬまで、咲かないでほしい 死んでも、咲かないでほしい 貴女が何の花かなど知らなくていい 花が開いて枯れて用済みと貴女が捨てられる 私にはそれが堪えられない 綺麗だから好きなわけじゃない 蜜や花弁を楽しみに待ってるわけじゃない 緑の双葉のままでずっと、私の傍に居てほしい。
2005.02.24
コメント(0)
直接的に物を言うのが苦手「全部言ってしまったら相手が考える余地が無いじゃない」なんて誰かが言い続けてるせいだ全部言ってしまわなければ考えるだろうなんてそれこそ、甘えるな。
2005.02.23
コメント(0)
とてつもなく大きなお菓子の上に暮らしてた辺り一面スポンジケーキで遠くの方にはクッキーやキャンディも見えるようなそんなお菓子の国みんなでそれを食べていた何十年・何千年ってこれ、いつごろ無くなるんだろうね
2005.02.22
コメント(0)
私は私に危害を加える懼れのあるものが嫌いです。 針包丁長い爪カッターあなたの腕あなたの言葉
2005.02.21
コメント(0)
全ての嘘の中で他人の共感を得ようと吐く嘘が一番、醜いそれは何の価値も見出すことがない
2005.02.20
コメント(0)
天国という場所は時に関係など無く美しい花々が咲き誇ってそれは詰まる所人間以外の全てを犠牲にして確保される人間の幸せを象徴しているそんなものは無いのだと言ってしまえばそこまでだけど
2005.02.19
コメント(0)
逃げなきゃいけないあの場所には絶対に戻っちゃいけないまだ逃げ切れているからまだ足を掴まれてないから闘っていられる
2005.02.18
コメント(0)
―――― たとえば全く理性的ではなかった有名な老哲学者とか全く論理的な頭を持つ感情表現者の歌姫とか職業から安易に予想される人間像と個々と関わった時に見られる人間像が食い違うことは当人を含め関係する全ての者にとって不幸なこと誤解し驚き滞り疲れ自分は悪くないのだとその誰もが口にできる
2005.02.17
コメント(0)
苦しい?どうして苦しいか判る?答えが出ないことってどうして苦しいんだろうね自分を全て放棄してみなよ誰かの思考で0から∞まで全部すり替えてしまいなよ理由もへったくりもなく妄信してしまいなよ生きる事は善い事だって、君が昔何の疑問も無く信じていたようにねぇ多分君なんて存在しないのに居るんだと信じ込もうとするからそんなに苦しいんだと思うよ
2005.02.16
コメント(0)
そんな全く理性的でないこと愛しいと思った瞬間にイカレてる言葉に出来ない思いが溢れてる制御できずに泣き出すどうしようもなく痛いのか心地好いのかどうやって区別すればいい離れるのと手に入れるのとどちらが私を楽にする混沌私の入れない域領つ持の私
2005.02.15
コメント(0)
たとえば相手を殺そうと思ってやってる行動を全く平和な第三者が見て「それは酷いんじゃない」と冗談混じりに呟いたりする温度差まさに攻撃している最中の人間とそれを見つめる無関係の人間では思考のステージが違う「理解できない」と口にしたときに人は理解する努力を放棄している あなたが思う善意が 全ての人に当て嵌まるとでも 本気で思っていますか?さぁ するべき事をしてください
2005.02.14
コメント(0)
働く為に生きてるわけじゃない進学も就職も、私の人生には直接関わったりしない.只の資本.理由でも目的でもなく、悦びでもなく只のドライブ.
2005.02.13
コメント(0)
私は憎しみで出来ていますこの口から漏れ出る音は全て貴方への呪詛です貴方が私の目の前で唐突に滑稽にグロテスクに死んでくれたらといつも願っています
2005.02.12
コメント(0)
“大勢の人”は弱い人や傷つきやすい人が好きだから君が好かれようと思って弱いフリや傷つきやすいフリをするのは何も悪いことじゃないただ私が苛つくだけでそれはとても自然で、だから皆、無意識のうちにそうしている告げることは次のように弱いフリをする 傷つきやすいフリをするそうして得られるものだけに目を向けないで失っているものもあるんだよねぇ 憶えていて
2005.02.11
コメント(0)
私は私の育った環境を良いとも悪いとも云えないそれは私が過去を告げる相手により「恵まれてる」「かわいそう」どちらも言われた事がある 私が自分の環境をどうとも思っていないのに こいつら他人の環境の事をよく言うよ言われるたびに、そう思うようになった小さい頃は言われるたびに真に受けて「恵まれてる」と言われたら少し幸せになって「かわいそう」と言われたら少し落ち込んで一喜一憂して疲れる毎日だっただから多分、私に「恵まれてる」と言った人は 恵まれない自分の環境を嘆いて 可哀想な自分を可愛がる理由にしていたんだろうだから多分、私に「かわいそう」と言った人は 少しマシな自分の環境を喜んで 辛い毎日を無理に回す為の優越感にしたんだろう―――どちらも私を踏み台にして他人と自分を比べるのは疲れる。不幸自慢は中学生までにしてくれ。私は未来を嘆いて病気になったあの時でさえ、決して過去を嘆いたわけじゃなかった全て過ぎてしまったものだから今、私が五体満足で生きていられるだけで傷痕がどれだけ体中に残っていても見えない後遺症がどれだけ残っていても不便過ぎなければ充分だそうしてラインを下げて毎日を廻す為に多分、底辺から眺めたらどんな不幸な奴でも嘲笑できるから言い訳がましいなぁと思うし、首の怪我はやっぱり治ってないんじゃないかとも時々思う。
2005.02.10
コメント(0)
まず、己の周りに意志を疎通すべき他者のいない事を懼れる次に、意志を疎通すべき他者の言語を理解できぬ事を懼れるそして 他者の言語の中にその本心を見つけられぬ事を懼れるどこまで行っても、怖がりは怖がり。
2005.02.09
コメント(0)
第三章-嘘をつく権利について-この章を読むにあたって、私が意識しなければならないこと・およそ成立する社会は道徳的・倫理的ではありえない・倫理は隣人愛には全く関与しないものであるそれでは以下に、カントと同時代人の話を要約する。・バンジャマン・コンスタン氏より「真実を話すことは義務である」という道徳原理を無条件の遵守を要求するものとして受け入れるならどんな社会であれ存続できない。まず、此処で一つの仮定が語られている。それは実際にはカント倫理学に於いてでさえ普遍的に無条件の遵守を要求するものではない。・カント『人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて』 彼らが話し合った一つの例を紹介する。友人が私の家に逃げてきた。その後、友人を狙う殺人鬼が私の家を訪れ、私に友人がこの家の中に居るかと訊ねる。私はこのような事態に於いても、嘘をついてはいけないのか。この事例についての当時のカント達の議論も的外れを極めるが、それを指摘している筆者もカナリ本題から外れ気味だ。要らない議論が多過ぎる。いや、当時の彼らの的外れっぷりを描こうとしてこうなったのかもしれないが、何だか単純な話をわざとややこしく説明されたようで目の疲れに対して満足感があまり得られない。---では、無駄な議論を纏めます。---コンスタン[中間原理]「真実を述べることは義務であるが、これは権利と切り離せない概念である。よって他人に危害を加えようとする人間には知る権利が無いので、彼は真実を述べる義務を課せられない」※氏は嘘をつくという違法行為を認めているのではない。この場合、嘘をつくことは違法行為にならない。でも、事実と結果としては何も変わらないよね。。カント「私が述べる真実と事実そうであったかという事は別問題である。そもそも殺人鬼が私の言葉を信じるのか。それに、もしも私が“彼は家の中に居ない”と嘘をついたところで、彼はその時本当に家を抜け出していて、家の外で殺人鬼に殺されるかもしれない。」(私が人殺しに与える答えと友人の運命の間に因果関係は立証できない。)※法律の分野で云われる“蓋然性”までは顧みない論旨である。「嘘は他人に危害を与える場合に留まらず、全ての場合に於いて認められない。それは法律の源泉を汚すものである。」※しかしこれは法律の存在と矛盾する意見である。「『正直であること』は契約によって発声する全ての義務の基盤にある義務である。いかなる例外も認められない」※例外事項を探す試みは既に違反する可能性を秘めている。---以上が議論であるらしい。議論が議論にならなかったようだ。---コンスタン氏の言い分は私が思うに、カント氏の根本的な倫理観と似ている。ただし、前者には隣人愛という防波堤が掲げられており、後者は隣人愛には懐疑的だ。それだけの違いであり、考え方は似通っていると思われる。第二章までのカント倫理学を纏めてから上の殺人鬼の例を見ると、これらとは違う意見が出るはずだ。まず、第一に“真実を述べなければならない”と決めたのは誰であるか。それは法律か。否、主体(自分)である。真に倫理的な行為とは“それが義務であるからという理由からのみで義務を行うこと”であるが、それが義務であると決めるのは他でもない自分なのだ。だから、もしもコンスタン氏のような人物が殺人鬼に対して真実を述べたところでそれは倫理的行為とは呼ばれないだろう。主体が主体以外のものを(それが法律であれ何であれ)言い訳に使った時点で倫理的行為は消失する。・<法>つまり普遍的義務とは自らが義務と定めたものである。ゆえに「真実を述べよ」は至上命令にならず、倫理的行為も変化し続ける。主体は普遍的実体が普遍的実体として決定される瞬間、まさにその点のことなのである。↓カント氏が他者の幸福と倫理を切り離そうとした試みについて↓・義務(倫理的行為)と他者の幸福が対立するような状況では常に後者が前者を阻む。「他人の幸福を害するわけにはいかなかった」だから「しようがなかった」と言い訳するのだ。カントはそれを根源的な嘘、最初の嘘と云う。結局、罪悪感は残るものなのだ。・他者の幸福について考える時、それは誰までの幸福なのか。多種多様な「隣人」がいるのに私はその中の誰の幸福を考えれば良いのか。そして、私が考える他者の幸福は本当にその人にとって幸福であるのか。(↑義務を他者の幸福と同一視する倫理には避けて通れない問題である。)自己犠牲の欲望とでもいうところか。自分の幸福よりも他者の幸福は言い訳にし易い。それが“善”であると蒙昧な人々に広く認識されているからか。前章までの理解不可能具合が嘘のように理解しやすい章だったというか内容が簡素だったというべきか。この章を読んで前章での疑問が一つ消化された。
2005.02.08
コメント(0)
弱い人間ばっかり全く以って厭になるもしも権限あったなら全員殺して廻るのに
2005.02.07
コメント(0)
第2章-主体と自由の循環関係について-・カント実践理性の主体は分裂した主体である ┗1.「病的」な主体 ┗2.分裂した主体 ※ジャック=アラン・ミレールによる分裂の2つの選択肢 ┗1.病的なもの(幸福への欲望など) ┗2.道徳的善とそれに伴う全ての義務幸福と義務は相互に干渉しない。主体は分裂を放棄して完璧に病的になる事ができない。---以下、現象としての主体から---・人間は内面・外面どちらも因果律に支配されている・病的である心的傾向は<他律>に属する『因果律⊃他律』だろうか?・心理的自由≒心理的因果律に還元される決定論そこに自由は無論存在せず、自由の可能性の問題を解決しない。・循環思考からなる罪の意識⇔押し付けられた自由 (∵主体は根源的な自由と関係して初めて罪悪感を感じる)・我々の行為の内に本当に自由であるものは皆無であるが、我々はそれら全てに対し責任を負う・必然的な成り行きに流されている事を意識した時にこそ、主体は自らの自由を知る (∵「私はそうする他なかった。しかし悪いのは私だ」) ┗結果から見る、逆説的な自由・「強いられた選択」=自由を選択すること (主体として存在する為には自らの自由を信じねばならない)・人間は彼が信じているよりもずっと不自由であるが、同時に、彼が知っているよりもずっと自由である(フロイト)・他者の内なる欠如に見られる、主体の自律性と自由 ┗原因の<原因>は主体である ┗「<他者>の<他者>は主体である」 (発話されたという偶然性と他者の関連)・完全な自由(=意志が経験に左右されない状態)---以上、真に自由な主体まで---これらを三段階に纏めると↓のようになる。1.まず、疎外されねばならない(病的な領域へ追いやられる) 自らを自由と信じているが自由ではありえない、現象としての主体2.考えるシステム∨基盤である心的傾向(心術)3.誘引を行動原理(≒因果律)へ取り込む、絶対的自発性(=自由)である選択意志 <道徳に関する根源的な意志の方向付け> ※フェティシズムなどによく見られる上記3項目が主体の概念である3要素として位置付けられる。1.現象、表象あるいは意識されるものとしての「私」2.考える『もの』それ自体3.純粋統覚としての超越論的「私」・カントの“実践的自由”とはこの3番目を示す・「私は常に自由である」自由と必然の両者の基盤としての自由┗「私は常に心理を話す」発話行為レベルでの真理混乱するのは二つのレベルの違う自由が同じものとして扱われそうになる事。前章から保留された疑問:何故、倫理的行為の産物が倫理的行為の駆動力でありえるか。・主体の存在無しに自由はありえないが、主体の誕生は既に自由な行為の結果である。(主体の結果としての自由) (主体の原因としての自由)それが主体の定義であるからという理由に於いて、主体は自由でなければならない。倫理的行為(=自由)の産物である現象としての「私」。倫理的行為(=自由)を決定する純粋統覚としての「私」。これは還元されているか?鶏と卵の問題にならないのか??・実践理性に於ける自己は異質な物の中でのみ自由である(疎外の倫理)・倫理の核心:倫理的享楽の問題。また、それを「隣人愛」の名の下に手なづける方法の問題。理解できなかった;色々と疑問が残りながらも第3章へ。
2005.02.06
コメント(0)
人は群集の中に放り込まれてその何処かに線を一本引いて自分の側を味方、向こうを敵と大別するんだろうまるで善と悪のように カントについて学んでいくと彼の孤独が嫌でも目に付く。同時代の彼が知り得る世界に彼の味方は居たのか。全ての道徳的でない人々を前にして毒を呷ったソクラテスの如くに人々を眺め彼はどう想ったのだろう。全く倫理的であることは不可能だと彼が云った。私にはそれが彼の苦しみに思えてしょうがない。 私は理解していないだろう。だからこそ私は彼が真実、倫理的であったのならよいと願う。
2005.02.05
コメント(0)
---全章での本題---命題「道徳律=超自我」について哲学が“道徳律”と呼ぶもの(≒カントが“至上命令”と呼ぶもの)は超自我の事である、というフロイトの説から。第1章・倫理的な主体にとって快楽は何の意味も持たない(倫理の王国) ※快楽は低俗,高尚に関わらず経験的である・「病的」な領域と倫理は完璧に断絶されている (再生が必要。ゆえに徐々に歩み寄ることはできない)・カント「病的なもの」=倫理的でない全ての物事 しかし「正常なもの」の対立項ではない ※正常性(一般的日常生活)は大抵、病的である ┗義務と無関係の欲望の対象により意志が決定される(人間生活の本質的特徴の一つ)・合法も違法も合法性(義務を果たす/果たさない)の領域に属する・倫理は合法性の剰余である(合法⊃倫理)・倫理的=義務の為だけに義務を果たす・意志の神聖性=人間主体には到達できない理想 (完全に倫理的に行動する状態)・動機・誘引の不在が或る時点から誘引として機能し始める 真の動因=駆動力(動因)の欠如としての純-形式 ※欲望が虚空の周りを循環するイメージ『欲望の対象を全て取り除いた後に目的を持たない只のエネルギー(駆動力)としての欲望のみが残る』という事なのか??何か違う気がする;形式のための形式。何処に行く為でもなく動くためだけのドライブ(駆動力)。純-形式・・・?(゚д゚;循環気質で、社会主義思想でも見てるみたいだなぁ。。。倫理の王国内での事は俗世に居るうちは理解しえないんだろうか;次章への保留事項・倫理的行為の産物が倫理的行為の駆動力であるという循環構造について理解すること
2005.02.04
コメント(0)
とりあえず、内容を纏めてみる。じゃないと何が本筋かサッパリだ。長くなりそうなので、序章までで一旦区切る。序章より・ラカン『道徳律とは純然たる欲望にすぎない』(否定的意見)・倫理の名に値する「倫理」は――― 可能---ラカン | 不可能---フロイト・カントが伝統的倫理と隔絶する2項目 ┗1.義務について実行の可・不可は問わない (道徳とは不可能な事を要求するもの) ┗2.倫理は善(=幸福)の分配ではない・倫理はその定義からして剰余である(日常生活の妨害)疑問・序章で頻出する“主人”って誰だ。ラカンのセミナーっていくつまであるんですか(;´Д`)
2005.02.03
コメント(0)
枠というものはそれが内と外を明確に定義するからこそ枠と呼ばれるのであって外界の何者も受け入れるようではそれは枠としての役割を果たさない国家というものについて考える時によく思うこと。グローバリゼーション、それは結構。でも一体どこで国家というものを誇示するのだろう。“国”という纏まりはまだまだ必要なのにそれを曖昧にしようとする試みが多過ぎる。
2005.02.02
コメント(0)
昨日、アレンカ・ジュパンチッチという名前だけでツッコミを入れたくなる(←失礼)著者の「リアルの倫理」という本を買った。副題は「カントとラカン」。ラカンは一、二度聞いたことのある名前だけど著書が出てこない。カントは言うまでも無くイマニュエル・カント。 まだ本当に読み始めたところなのだけれど、笑いが止まらなくなりそうだった。私は哲学にも精神学にも詳しくはないので、意地悪な私の友のように間違いを発見して笑っているわけではない。書いてある事が愉快なのだろう。言い換えれば爽快。著者の学派の頭が書いている『序』で私の考えを否定してくれた。本当に具体的に私の思考そっくりそのまま書いて“―――は間違いだ”と書いてくれたのだ。これは期待できる。まさに捜し求めていた本そのものだろう。 学派の長の曰く、カントはフロイトの思想的原点であるとか。カントで有名なのは定言命法。あれはどちらかというと一般道徳倫理的な説だったと、高校倫理の知識で私は思った。だから、これからそれがどういうふうにフロイトと繋がっていくのか楽しみだ。日記タイトルに-1-と付けたのは、2があるかもしれないと思ったからだ。そんな読書感想文は、他でやってる日記サイトでやればいいと思う人が数人いるかもしれないけど、あっちは友人も見るんだ。こういう事に詳しい奴らの前で感想を書くなんて恐ろしい事できない。という事で適当に書いていきます。
2005.02.01
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1
![]()
![]()