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つまり赦していく過程は宜しくても全て赦し終えた後はやはり苦しいのです.止まるにしても動くにしても苦しいことではありますがその苦痛の程を比ぶれば私が動く方を惰性で選ぶこともあるでしょう.畢竟どれが最も辛いかということです.
2005.09.30
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世界が愛する者の為に在るのではなく、愛する者の存在自体が世界の全てになり得るわけです.人の目は少し特殊なレンズです.人の耳は少し特殊なマイクです.望むものしか拾いません.だからそれだけです.
2005.09.29
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色恋事に厭きることぐらい誰にだってあるでしょう?年がら年中、そんな冗談で暇潰してられないもの.
2005.09.28
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全てが通り過ぎればいい誰も私に気付かずに何も私に及ぼさずだけれど時に実際は私は誰かに引っ掛かり私は何かに溺れて縋る.
2005.09.27
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実のところ、どれだけ努力しようと我らが他者に対して可能な行為など彼を害すること、傷つけることしかない.しかし、それにより、その対象のところの者が満足したり、または、そのような幻想を持ち得る為に行動を起こした者すらも、それを「親切」や「優しさ」と名付けてしまうのだ.<攻撃>,<防御>他者に対して可能なのは前者のみで、そしてこの2つのみが我らの外界への反応の全てと云える.・・・だから君は、それがあの子にとって善いのかなどと悩まずに君の信ずるところを行えばいい.結果は後にしか無いのだから.僕らは傷つけあって生きてきたし、また、それを優しさとして許せるのだ.
2005.09.26
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傾倒していれば見えないものなどざらに在って、在って当然なのだ.箱の中に居る者が箱の外観を知ろうとするのは愚かであるし、言及するのは虚偽になろう.外観を見たくば外に出ねばならないのだ.(そして同じ箱に入れる保証は無い.)知識はそのとき覚悟と引き換えに得られるだろうから.
2005.09.25
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ソクラテスの「悪法もまた法なり」の言葉の後に誇らしげな声が聞こえる気がしたのです.「悪法もまた法なり、 其は我が守ったものであり、仕えたものであり、守るべきものである」彼が従った法とは恐らくは、国家が決めたそれではなく哲学者として彼が磨き続けた道徳律そのものだったのでしょう.
2005.09.24
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比較的客観的に、私は私の容姿が他人にどういう印象を与えるか想像できてそれが偶に、私の行動を妨げています。全く、莫迦々々しいことに。
2005.09.23
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誰かの迷惑になるという想いがいつも一番最後に私を追い詰めます。それは崖っぷちに立っている時に吹く、追い風でした。がんばって、踏み止まります。…でもがんばっても、落ちてしまうことだってあります。
2005.09.22
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たまに、存在していることが苦しくなる.悩むことなんて何も無くて、悲しむことも何も無いのに.それはとても自然に現れて感覚を覆う.何を聴いても耳障り、何を見ても目障り.死にたいわけじゃないし、死んでも存在は消えない.たとえば私が生まれてなかったらと考える. 妹は一人っ子になったかな、それとも姉に? 親友は私じゃない誰かと仲良くなって あの高校には私じゃない誰かが入ってて この部屋には誰が住んでいただろう? 昨日買った果物は誰の手に渡っていただろう?取り留めもなく考えて蓋をして“私”を放棄する.苦しみなんて一過性.そのうち消える.いつだって“私”はタブーなんだ.考えてはいけない.考えてはいけない.
2005.09.21
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ここよりも地獄的なところだってあるだろうしそこよりも地獄的なところだってあるのだろう.
2005.09.20
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私は生きるため、矛盾を許容できるしあなただって、できるのだ.
2005.09.19
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いつだって、できなかったことを思い出す。いつかやろうとして、いつまでたっても手放せない。そのうち諦めて捨てる。目一杯すまない気持ちで。私がそれらに負わせたのは、何ものなのだろう?
2005.09.18
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第四章仮象#カント「超越論的理念」 超越論的分析論…真実の論理…知識とその対象の一致 超越論的弁証論…仮象の論理…知識とそれ自身の一致・類似項目@ラカン言葉と“もの”は関係なく、真理が言語活動自体の内に存在する。→「外部の欠如」理性と“もの”は本来、関係無い。理性は経験とは無関係である。が、「精神」「世界」「神」の3つは強迫的に反復されている事から必要な理念であると推察できる。a.真理の必要条件「知識は悟性・理性の一般的・形式的法則と一致しなくてはならない」(これは真理と虚偽の区別に必要であり、これが満たされないと「非-もの」定義として存在しないものとなる。ex.四角い円)b.弁証論(≒仮象の論理)―純粋論理→実質的な真理「知識とその対象の一致」a,bより 客観的演繹「論理的に見て不可能ではない」→「それは真である」 仮象=真理-経験可能な対象 仮象=真理+経験できない対象#「人格性に関する誤謬推理より導かれるもの」(<「超越論的理念」)・公式・任意の時点に於いて、それ自身の数的な同一を意識するのは、この意味において人格である。私が私について意識する=「この時間は統一的個体としての私の内にある」=「私は全ての時間に於いて、数的に同一に存在している」公式は“私”の思考の一貫性――統覚の超越論的統一――の形式的条件の一つである。他人が外的直感の対象として、私の同一を結論づけることは不可能であり私が、私を見る<他者>の視点から私を見る見方のみが私の同一性を結論づける。類似項目@ラカン<自我理想>「悟性が自分を見る理性の視点から自分を見る見方」(悟性を、理念という虚焦点へと向かわせる統制作用)『逆さの花瓶』(理想自我と自我理想の区別,同一化の次元からシニフィアンの次元への移行)・花束(⊃「主体としての私」)悟性によって創造される一連の概念、或いは全時点に於いて想起する全ての表象に付随する「我思う」の集合体・逆さの花瓶「周りに何かを持つ無」⇔「統覚の超越論的統一」カント↑直接的に思考の対象にならない。・第二の鏡「一貫性」「統一」を見ることを可能にする。(弁証論的仮象の誕生)※花束の中に「主体としての私」が存在する。私は花束や花瓶などの全体像を見ることはできない。『私は私自身について考える私自身を考えることはできない』byカント『最高次の概念』全ての地点を見渡すことができる地点・視点.全ての地点はそこで統一体を為して見える.知識の主体が直接到達できない視点.最高次の概念は「統制理念」という仮想の視点を実現するが、主体はそれにより分裂を引き起こすか、自ら疎外されるかのどちらかである.#純粋実践理性の要請1.自由 2.魂の不死 3.神の存在(このうち、自由は前身である「分析論」の中枢的役割であり、意志の決定要因であり、「理性の事実」であるため 実際に要請と呼べるのは2,3のみである。)*超越論的理念には無くて、純粋実践理性に在るもの意志と道徳律の一致としての「最高善」(意志の向かう対象であり、2,3はこれの為に存在する)2:「最高善」への永遠の改善の可能性3:それらを統一体として見渡すための視点つまり2,3は前述の悟性と理性である.2:永遠に改善し続ける倫理的主体=悟性3:それらを見渡す地点に在る神=理性これらから解かるように、純粋実践理性の要請する魂の不死とは感性を超えたものではなく、「時間的条件」下に在る感性的なものの無限の持続である.
2005.09.17
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仲間や先人を捜していたようなもの.cogito,ergo sum を疑えるような人をずっと.誰かに理解されたくて理解してくれる幻想を重ねられる人を捜している.
2005.09.16
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笑って生きようと思ってたのにこんな当然のことをどうして忘れていたんだろう?幸せになろうとする意志をちゃんと守らなきゃいけないんだ.
2005.09.15
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結局これは支配欲なんだろうけどそれでもいいやと開き直ることもたぶん大切なんだと思った。
2005.09.14
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中学の教科書だろうと思う。陽の落ちる場所と都とではどちらが近いかと訊ねて意外な答えをよこした子どもを褒めていた話。孔子だったと思うけど定かではない。人を莫迦にしたような話だな、というかこれを教科書に載せた連中が生徒を莫迦にしてるんだな、とその頃は思っていた。後者は今でも変わらない。「昨日よりも十年後の未来の方が近いのだ」とそう言う人に会って、久々に陽の落ちる場所を思い出した。私には十年後よりは昨日の方が近いし過去も未来も一つの数直線状の+か-だ。どちらが近いかと言われれば絶対値を取るしかない。時計の針を折り曲げるかのようなことを言った人は過去に戻りたくてしょうがなかったのか未来に進みたくてしょうがなかったのかそれとも物理的な不可逆性に囚われているだけなのか。“昨日”は知っている場所。“明日”は知らない場所。一秒前に私は居るけど一秒後に私は居ない。十年後どころか一月先だって見られる保証は無いくせに。
2005.09.13
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他人の本能や思考を分析して演繹的に自分を照らすことはできる.それでも自分自身を観測するのは不可能だ. 私は何をしただろう.変化は何から生まれただろう.憶測が幾つあっても推論は続かない.全ては繋がっているし、何の帰納的解釈も生まれ得ない.ただ、今生きているという結果だけが私を満たしている.今生きていて、相変わらず不安で、それでも生きている. 不安が人を死に至らしめることは、もう無くなるだろう.口の中にはまだPZCの味が染みついていて選ばなかったものをずっと教えてくれている.
2005.09.12
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「死にたい」と鮮明に思えば思うほど「生きたい」という希望が頭を擡げるものだ.しかしそれらが生や死への意志ではなく只の反発だとしたら?誘導起電力のように、人格と無関係の力であったら?バランスを取ったものは本能とすら呼べないかもしれない.
2005.09.11
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意識的に信じようとする意志は常に疑うことを念頭に置いている.「神を信じよ」と口にする者は既に神を疑う可能性を認めている. Traugott.全くの外側からそれを擁護しようとする試み.
2005.09.10
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当然の事というものがある.数学だと公理.他では何ていうのか知らない.それは何ものによっても証明されない.でも、たとえば「私は此処に在る」という言葉と同じように肯定しなければ何も積み上げられないこと.・・・そしてその存在を許してしまえないのがあなたなのだろうなぁと思うのです.
2005.09.09
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矛盾を内包してしか存在できないものもある.たとえば現代社会とか教育としての道徳とか.もしもあなたが愚鈍でないなら、指摘しないのは何の為?保身を考えるのは人として正しい行為だ.だけれどそれが保身だと忘れるのは愚かだ。知っていて.憶えていて.『道徳とは常に不可能を要求するものである』昔の人はいいこと言った。
2005.09.08
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感覚と言葉の隙間を埋めようとしてもどんな海溝より深いそれは存在する何を以ってしても埋められない.それらの間に架かっているは虹の橋.あなたは信じていますか?
2005.09.07
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私にとって、倫理とは私だけの為にあり どれだけの奇麗事をがんばって連ねても 哲学も神も何もかも同じ方向に ただ生きる為だけに 私が私の生に納得する為だけに. どう足掻こうと私は私の体から抜け出すことはできないし その尊い限界が私を人で在らしめ続ける. 断絶こそが存在に関わる大前提で. 個人は世界と対峙する. けっして世界の中には存在できない.倫理とは私だけのものです.君だけのものです.何者にも縋れないのです.
2005.09.06
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四六時中、一人の事しか考えられなくなるほど誰かを好きになったことなんてあるのだろうか?“好きな人”、安心をくれる人。どこにいても安心できない私に、息をする場所をくれる人。 寂しいから夜中ずっと電話してました。ごめん。 何かが不安でしょうがなかったんです。 でも多分あなたのせいもあるんだ、それは。 色んなことが、いっぺんにあったので 今になっても何が何だったのか分かりません。 私はあなたを好きだったから付き合っていたのでしょうか? どう考えても私があなたのことを想っていたとは思えないのです。誰かにとって私が何でもなくなっても、まだ続いているこんなどうしようもない考え自体が、私の問いへの答えなんだ。 あなたが私以外の人を好きになってくれてよかった。 友人としては大好きです。幸せになってください。私がもしこんな事を言われたら莫迦にしてんのかって怒るだろうけどこれが今の本心で、他に言い方が思い当たりません。あー・・・もういいや、ごめんなさい。
2005.09.05
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動物の中で最も凶暴なものどんな凶器よりも恐ろしいもの分かりますか?分かりますよね。わたしや、あなたです。
2005.09.04
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傷の舐め合いでも良いと思った。それでも似た者同士が集まっているうちは何となく楽になれるものだ。 憐れむ相手も近くに見えて. 蔑む相手も近くに見えて.好くより嫌う方が簡単なように同属の中に在る方が幾らか孤独よりは生き易いのだから。
2005.09.03
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畢竟、それは神を呼ぶときに自分の胸の内に現れる偶像に救われているのだ.おそらく救いという唯一面のみに於いては神の呼び方に関わらず似ているのだろうから.
2005.09.02
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最近の人は食事代削ってCDや服を買うんだって。無駄なことって人間らしいことの代表よね。それに結束してきたものが崩壊していっているの。“社会的”でも“動物”でもなくなりそう、人間。野生の動物って道徳的よね。少なくとも誰も「道徳心に欠けてる」なんて批難したりしないもの。だんだん動物から離れていっているの。死が進化のゴールだと言いたいなら言えばいいわ。もしかしたら違うところに行けるかもしれない。行けなくても終わるだけよ。それだけよ。誰かは満足で誰かは文句を言うわ。それだけのことよ。
2005.09.01
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