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ただの引用。イザ!「21歳の「ハローワーク」東大生も「雇用に不安」」より。■■■引用開始東京・臨海副都心にある国内最大のイベント会場、東京ビッグサイトに昨秋、数千人の「21歳」たちが集まった。人材会社が主催する来春卒業予定の大学3年生向け就職合同セミナー。数百社のブースで埋め尽くされた広大なフロアに紺色のリクルートスーツ姿の学生がすし詰め状態となる異様な熱気に、東京国際大学経済学部3年の嶋正男さん(21)=仮名=は、ただただ圧倒されていた。「ショックでした。すごく気軽な気持ちで、携帯だけ持っていればいいやとノートもペンも持たず、埼玉から手ぶらで1時間半かけて来た。どのブースでも同い年の学生が熱心にメモを取って質問していた。完全に出遅れましたね」 車が好きで、学生生活の一番の思い出は洗車のアルバイト。授業には出たものの、「経済のケの字も分からない」という。セミナーでも有名企業を一通り回ったが、全く興味が持てなかった。帰り際に自動車部品メーカーのブースが目に入り、何となくひかれた。 以降、トヨタ自動車、デンソーなど車関係の大手企業を回っている。第一志望は「やっぱりホンダかな。やるとしたら営業」と話すが、企業研究をしたかと尋ねると「何それ?という感じ」。ホンダの創業者である本田宗一郎氏も「知らない」と言う。 「でも、周りの友達に比べると自分は目標が定まっているほうだと思う。2030年ですか? 僕は41歳…。家庭を持って小さな家に住んで、年収は500万円くらいもあれば十分かな。車は今はデミオだけど、クーペに乗っていたいですね」 ■全入“1期生” 嶋さんら来春の就職を目指す21歳たちは「大学全入時代」の“一期生”とされる。嶋さんも指定校推薦で、勉強はほとんどせず大学へ進んだ。ただ、社会に入るのは厳しい。昨秋からの急速な景気悪化で、内定を取り消された今春の卒業予定者は高校、大学を含め少なくとも約1200人。現在、就職活動中の学生をめぐっては「就職氷河期の再来」も予想されている。 ビッグサイトではさまざまな「21歳」たちが交錯していた。早稲田大学商学部3年、家野敬士さんは31歳。一度大学を除籍し、好きな音楽で食べていこうと友人とCD制作会社を作っていたためだ。そこそこの稼ぎもあったが、将来への不安を否定できず昨年9月に復学した。職を求める21歳の群れに交じって、家野さんは「スーツを着られる幸せ」を感じたという。 また、「高校時代からホリエモンに憧れていた」という中央大学法学部3年、藤田祐司さん(21)=仮名=は将来の独立起業を目指して証券会社を希望していたが、最近では「だいぶ焦ってる。起業どころじゃない。派遣村のニュースも、以前なら何とも思わなかったと思うけど、食い入るように見てしまった」。 興味深いデータがある。東京大学が平成18(2006)年に公表した「学生生活実態調査」。東大生に将来自分がニートかフリーターになる可能性を聞いたところ、そう思うと答えた東大生が28%もいたのだ。さらに、そうした立場を「本人の責任」と考える学生が46%だったのに対し、「社会の責任」と答えた学生も35%いた。 担当した東大大学院経済学研究科の森建資教授(60)は「いま同じ質問をしたら、さらに高まるのではないか。雇用だけでなく年金も含め若い世代が割を食っているという感覚は今の若者に強い。東大生も例外でなく、ブランドだけでレールに乗っていけると思っている学生はほとんどいないと思う」 ■「ゆとり」で二極化 「あなたの2030年を想像してみてください」。ビッグサイトで出会った21歳たちに尋ねたが、楽観的な嶋さんを除けば明確な答えは返ってこなかった。代わって東大の森教授は、いわゆる一流大生たちの今後について「社会や職場の危機に直面したとき、パニックになりはしないか」と懸念し、こう指摘する。 「受験の点数と社会人としての適応力は全く別もの。社会が不安定になればなるほどその傾向は強まる。かつて大学生はそこに気づいていたからこそ、自分で問題を見つけて取り組む知的好奇心を持っていたが、今そうした若者は少ない。必然的に東大の地位も下がっていくと思う」 とはいえ、将来への不安は、嶋さんのような難易度が低い大学の学生のほうが、より強いのではないか。千葉市にある敬愛大学の「キャリアセンター」でセンター長を務める高田茂さん(57)の答えは意外だった。「残念ながらほとんどありません。うちのような大学は大半が推薦入学で、これまでの人生も無風、無競争できてしまった。学力だけでなく、社会に対する意識からして学生は二極化している」 高田さんは、大手商社社員からキャンパスの「就活請負人」に転身、すでに敬愛大が2校目だ。「彼らはゆとり教育の一期生でもあるが、ゆとりで生まれた時間に何をしたかといえばバイトにゲーム、携帯いじりくらい。そうした生活が、就活でもボディーブローのように効いている」と指摘し“教え子たち”に向けてこんなエールを送った。 「キャリアセンターと就職課の違いはキャリア教育を施す点。つまり『生きていくためにはどうするか』を教えるということです。うちの学生が有名大生に勉強で勝てることは絶対にない。ただ、社会に出て、同じ営業という仕事でなら勝負できる可能性はある。こんな時代だからこそ、学生には20年後の逆転を目指してもらいたいのです」(引用終わり)■■■これをただの自己責任論として読んでは意味がない。もっと早い段階での「教育」について考えるきっかけになればと思う。東大生の一部は「雇用に不安」を抱えることが「可能」であるわけで、それを「偉い」と考えるのは、「情けない」と感じるのと同じくらい間違っている。大切なのは、彼らは不安を感じることが可能であるが、それは彼ら個人個人の性質に帰するものではなく、やはり、彼らを育てた「教育」環境によるということだ。この格差こそ、考えなければならない(ここで言っている格差が経済格差だなどと勝手に呑み込まないでほしい。さらに、私は不安を感じられない東大生は、不安を感じられない「格の落ちる」大学の学生と全く同質だと思っているわけで、学歴格差でもない。「受験マシーン」として育てられた東大生がいるならさらに不幸だろう)。結局、教育は、社会の理念と合致していなければならないわけで、どのような初等=義務教育を備えるかを、われわれはもう少しまともに議論しなければならないのだろう。点数主義がいけないと言っているわけでもないし、教育の悪平等を非難したいわけでもない。ただ、ある層には与えられて、ある層には与えられないものが、今の教育制度では埋められていない可能性があることは考えておかなければならないだろうと思う。今回は、ただのきっかけ。(ちなみに引用文中小見出しの「ゆとり」は故意に誤解をねらったものにしか思えない。)
2009.06.28
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前回、『1Q84』について、いわば読後の覚書としていろいろと適当に書いたが、今回は敢えてこちらの関心に合わせた読解を記したい。■物語からの自由この作品は、現実と物語の関係を描いたものだと前回指摘した。そして、桎梏としての家族の物語や宗教の物語が、人々に救いや癒しだけでなく、抑圧をも与えることまで指摘した。この作品は、こうした抑圧としての物語からわれわれは自由になれることを描いている。その意味で、ひとつの「現代における啓蒙書」となっている。青豆や天吾は、ある種の物語(家族の物語)を拒否した存在なのである。■物語の喪失、リトルピープル、「自由からの逃走」さて、しかし、われわれは物語から自由になれるが、物語はそもそもわれわれに必要なものであった。そうした物語から自由になった者たち、あるいは、物語を奪われた者たちはどうなるのだろうか。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、教会の権威や身分制社会を奪われ自由を与えられた人々は、大きな権威を求めて一気にファシズムに走ったと指摘した。ここに「リトル・ピープル的現象」を見ることができるかもしれない。■物語への自由しかし、この作品は、私たちが物語を選べる存在だと主張しているようだ。現実をどのような物語で解釈するかを選べる存在だと主張しているようだ。偶然があたえてくれる物語。他者との出会い。それが生きる力となることを伝えてくれる。このリアルな現実に物語を見出すことこそ人間の条件なのかもしれない。積極的な意味においても、消極的な意味においても。■ふかえりと天吾がセックスした意味は以上のように考えれば、ふかえりが「お祓い」として天吾とセックスをした意味が理解される。天吾が父親に会いに行ったとき、その寓話として「猫の国」の話が出てきた。猫は村上にとって自由の象徴なのだろう。その寓話のなかで主人公が見えなくなるというところが大変に示唆的だ。すなわち、それは天吾が家族の物語から自由になったことを意味する(猫の国に行くことと、自分の出自の秘密を知ることはパラレルだ)。そして同時に、天吾が見えない存在になったことも象徴されている。すなわち、自分を自分として支えるだけの物語(家族の物語)がなくなったのである。そうしたとき、ファシズムに走った大衆のように、この小さき人間は、大きな物語に回収されやすくなってしまう。「お祓い」が必要な理由はそこにある。そして、その「お祓い」は、自分の原風景を見せるものだった。天吾は、ふかえりとの「結合」のなかにあって、自分の本当に求めているものがわかった。人間は、他者とのつながりによって、自分が見えるとでも言っているかのように。ふかえりは、その意味において「パシヴァ」なのである。■自分の物語を探し育む天吾は、自分の個の物語に気づく。個の物語は多くの者にとって自分では気づきにくいものなのかもしれない。大切なのは、その弱き萌芽を自分の中で大切に育てることだろう。天吾はそれを選んだ。ところで、それが二人の関係(天吾とふかえりの)から生じたというのは興味深い。個の物語は弱いが故に、親密な場所で育てなければいけないと言っているようだ。■物語の複数性ただし、そうした個の物語もまた他者を傷つける可能性があることを知らなければなるまい。私たちは、自分の物語が絶対だと主張してはならないのだろう。そこに物語が並立し、さまざまな救いが存在する可能性が生じる。また、他者の物語が、自分の物語を作り育てる手助けをしてくれる。自分の物語は、他者なしには発見できないものだと教えてくれる。私たちの現実は、複数の物語が共存し、そうした物語の重なりのうちに見出せるものなのかもしれない。われわれの現実に対する物語の可能性とは、われわれの存在の根源に関係したものなのだと思う。そこに絶対の救いがあるかはわからないが、たまに癒しはあるのだろうと思う。あるいは、そう信じたい。■■■参考■■■まったく異なった角度からの『1Q84』評。「ひとつの読み方」の方が読みやすいか。こぶた新聞「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)」「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)――ひとつの読み方」
2009.06.12
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review1のつづき■どこから来たのかわからないわれわれ村上の作品でずっと言われてきたことがある。それは、主人公に家族が「いない」ということである。今回、この問いにも村上は答えたように思う(さらに言えば、この兆候は短編集『神の子どもたちはみな踊る』から窺い知れた;ところで上のエルサレム賞受賞講演において、村上が自らの父親について語ったことは衝撃的であった)。しかし、その問題について語る前に指摘しておかなければならないことがある。それは、村上にとって「家族」の問題は軽いが故に語られてこなかったわけではなく、この作品の言い方にあえて絡めて言うならば、「あまりにも中心にありすぎて」語られてこなかったのだろうと思える。それほど、小さからぬ問題だったと思える(あるいは、この問いもまた、村上への重荷として圧し掛かっていたのかもしれない)。主人公の二人(この二者は質的に重大な違いがある)は、双方とも「家族」について重大な問題を提起しているのだが、まずは、本当の主人公というべき天吾について書き始めよう。天吾は父子家庭に育ち、父親を実の父親ではないと疑っている。最終的に本人はそのことを確信するのであるが、実のところははっきりとはわからない。あるいは、それが本当だとしても、ここにおける主題「自分はどこから来たのか」に対する回答は冷徹なまでに与えられないこととなる。つまりは、「自分とは何者か」という問いを「自分はどこから来たのか」という問いに回収することができないようにつくられているのである。ある種の人々は、「自分とは何者か」という問いに対して「出自」を持ち出してわかった気になっている。だが、村上が注意深く指摘しているように(私には読めるのだが)、それはひとつの「物語」でしかない。自分が日本人であるといったところで、誰々の子であるといったところで、それは私の何を表しているのだろうか?自分が不安になったときにこそ、われわれは違う選択肢を探らねばならないのではなかろうか。家族は多くの場合、「肯定軸」にもなるが、「桎梏」にもなることを忘れてはならないだろう。天吾が家族不在であることは、この物語における重要なプロットである。■この時代の救いかたや、ヒロインである青豆は、「証人会」という宗教(モデルは明らかだろう)を信仰する両親に育てられ、「桎梏」としての「家族」が色濃く影響している存在だ。彼女はその信仰を10歳のときに捨てるのであるが、そこまでの習慣のようなものはもちろん深く刻まれている。そう、それは<運命>のように。誰が自分の性格を選べただろうか。誰が自分の出自を選べただろうか。それが満足のいくものであればまだよいだろう。だが、それが自分を傷つけるものであればどうだろうか。偶然が<運命>をつくってしまっている。そこに既存の「物語」はどれほど役に立つのだろう(そして、その「物語」が他者を傷つけないという保障はどこにあるのだろうか)。そのような根源的問題を持ちながら、彼女は愛に生きることにする。もっと性格にいうなら、「愛という物語」に賭ける。それもやはり偶然に彼女にもたらされたものだ。だが、彼女がそれを選んだ。大切なのはそこだ。■愛と暴力物語は人を傷つける。また桎梏である。だが、それを害悪だということはできない。大切なことは、その物語が、いかなる「手続き」を経たものかということだろう。人は物語に苦しめられるが、物語がなくては生きていけない。しかし、物語は人を傷つける。その矛盾を解消するものは何か。アウフヘーベンするものは何か。それは、やはり愛と呼ばれるものかもしれない。もちろん、愛の物語もまた、人を傷つける。控え目に見積もっても愛は暴力的だ。それから逃れるために別の空気さなぎをつくることもできる。しかし、大切なことは、傷つき傷つけられるわれわれが、そのことをしっかりと弁えたうえで、勇気をもって他者へ架橋することではなかろうか。それを愛と呼んでもよいだろうか。暴力はなくならない。それは愛と表裏一体だからだ。だが、救いがないわけではない。われわれはある種の愛を否定できる。これが大切だ。否定の選択肢がないところには、肯定の選択肢もないのだ。■どのように物語るかこそが現実だこの作品のもっとも大きな主題は、現実をどのように見るのか=どのように物語るのか、ということをわれわれは選べるという主張なのだろうと思う。どんなに否定したくても、人間に普遍的価値や普遍的事実などない。どのように物語を紡ぐか、という選択肢が残されているだけだ。青豆は、「愛の物語」を選んだ。そして、それに呼応するように天吾も物語を紡ぐ決断をした。『空気さなぎ』と同じように、この作品もまた、象徴的に終わっている。最後に、一か所だけ引用することを赦してもらおう。「物語は彼女がその通路の扉を開けようとするところで象徴的に終わっている。その扉の奥で何が起こるのか、そこまでは書かれていない。たぶんそれはまだ起こっていないことなのだろう」この作品は、読んでいる者によって引き継がれなければならないのだ。■小説の書き方私の読了後メモは以上で終わりだが、この作品は、村上が小説の書き方を教えてくれているようにも読める。小説の書き方の本にも多く目を通したことがあるが、ずっとプラクティカルなアドヴァイスになっているように思う。それは読んでみてのお楽しみだが、ひとつだけ指摘しておけば、村上は事実の提示する順番がうまいのだ。裁判において、自分が有利になるような証拠の出し方をする検察のように。書かれていないことは、存在していないことだと知っている。村上春樹の作品を読んでいると、アラン・パーカーの『エンゼル・ハート』を思い出す。っていって、気持ちをわかってくれる人はどれくらいいるんだろうか。(了)■■■関連■■■「物語からの自由、物語への自由、物語の複数性――『1Q84』書評」「リベラル・デモクラシーのための最良の教科書」「偶然と機会の音楽」「宗教の政治性」「Communicability(1)」「Communicability(2)」「伊勢崎賢治「インド論批判の巻」(1)」「伊勢崎賢治「インド論批判の巻」(2)」「村上春樹・宮沢賢治・アリジャン」「個的にあまりに必然」
2009.06.05
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『1Q84』を読んだ。実を言うと、ここ数年、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が気になっていて、もう一度読まなければならないと考えていたのだが、いろいろな事情があって、それが完遂されていなかった。そんな折に現れたのがこの作品だった。だから敢えて間違ったことからいえば、この本はかの本の書き直しである。これは間違いではあるが、間違いというものは常に一片の真理を含んでしまっているものなのだ。しかし、書評家でない私は、まとまった作品としての書評を提示することはできない。いいところが感想文である。ただ、もはや小学生でない私は、感想とあらすじをごちゃ混ぜにしたりはしないだろうと思う。だから、これは薬にもならないが、とりあえずのところ毒にもならない文章となろう。ではなぜそんな時間の無駄のようなことをするのか(しかも読み手にとっても)。その答えを私は説明できない。『1Q84』を読めばわかるといえばよかろうか。いずれにしても、人に読んでほしい作品だということを主張する人間がここにもひとりいる、というくらいの事実にはなるだろう。■高次方程式村上春樹の長編を読むのは(あくまでもひとつの読み方ではあるが)、高次方程式を解くのに似ている。そしてその作品群は時間を追うごとにその次数を高めてきたともいえる。ある種の変数に対応する可能性のある実数群があって、それらは場面(コンテクスト)とともに変移し、一般的な頭脳では全体的に把握することはまずできない。それができるなら、ベルクソンがいったような意味で狂気の域にいることになる。しかし、もしかすると村上自身が書くうえでもそうであるのかもしれないが、われわれには、村上の作品を読んできたという強みがある。それゆえ、なかば直観的に見抜いた「書かれようとされていること」を少しは日常言語に翻訳できるかもしれない。もちろん、それで「わかった」ことには全くならないのだが、そうした言葉の積み重ねこそが、実は文学なのではないかと思う。村上自身も「理解とは誤解の総体」であるようなことを述べていたはずだ。いずれにしても、村上はわれわれが普通には理解できない何かを、小説において描き出そうとしている。言い換えれば、彼は小説にしかできないことをやろうとしている。■『キャラクターズ』の編集者は誰だったのだろうかつて、やはり新潮社から、東浩紀と桜坂洋による『キャラクターズ』という失敗作があった(失敗とは別の意味における成功であるのは間違いないが)。私見では、桜坂が東の暗黙に想定していたプロットに気づけずに、いや、自身の創作家としての直感を信じることができずに自滅した(もちろん、はじめからそうした構想を言明できていなかった東も同罪である)。やはり、小説には構想力が必要とされる。思いがあれば伝わるというのは嘘だ。思いがあるからこそ、伝え方を磨かなくてはならない。その意味においても、ここまで来た村上(ノーベル賞候補!)が、これまでの作品群のプロットを意識的にすべて組み込むような形で、あるいは原点回帰として、この作品を書いたことの意味は大きい。『キャラクターズ』で問題にしていたことの少なくともひとつは、語り語られる主体であるキャラクターと、それを書く人間との関係性(ポジション)であった。あるいは、作品と作家の<領域>性に関する問題だった。徹底的に俗的なプロットとそれを批評する目を同じ器に入れてしまおうという試みであった。その問いは、文学とは何か、文学の可能性とは何か、文学に何ができるのか、という問いに等しい。もっとはっきり言えば、現実と物語にはいかなる関係があるのか、という問いであったし、現実には救いがあるのかという問いでもあった。『キャラクターズ』は失敗したが(そして別の意味で成功したが)、村上はこの作品で、見事にこれらの問いに答えたと思う。彼は、忌野清志郎が「僕は音楽を信じているんです」と言ったのとまったく同じ意味において、「僕は小説を信じているんです」と堂々と答えた。■マトリョーシカさて、書評なんてできるわけがないしする気もない私は、気づいたことを漫然と指摘するだけになるだろうとは思うが、まずは『キャラクターズ』で取り上げた問題から語りだそうか。『1Q84』は、入れ子構造を意識したつくりとなっている。すなわち、小説の書き手のことが書かれた小説である。もう少し突っ込んでいえば、物語る者を記した物語である(文体も意識してそうされている。地の文=ナレーションと一人称の文=キャラクターの考えがうまく織り合わされている箇所が散見されるはずだ)。「物語」(=物語内の物語)が「現実」(=物語内の現実)に対していかに力をもっているのかを記しつつ、同時にその<物語>(=現実の物語『1Q84』)が<現実>(=われわれの生きている現実)に働きかけることを狙ったものだ。今回、この作品が初日で70万部ほど売れたのは、作者と編集元による作戦だが(敢えて内容について前もって宣伝せず、読者たちの期待を煽った)、それはこれを売ろうとしてのことではなく、むしろ、この作品内の「物語(『空気さなぎ』)」との類似性を演出したかったからに他なるまい(ジワジワ売る方法だって十分考えられたが、それでは意味がなかったのだ)。この意味において、彼らはマクルーハンテーゼ「メディアはメッセージである」をさらに拡張したのだといえよう。■リトルピープルと小市民この作品にはリトルピ-プルが出てくる。そして、ありがたいことに、作品内でその存在についてある程度解釈までしてくれている。いわく、ジョージ・オーウェル『1984』の「ビッグブラザー」に対応するものだと。ビッグブラザーとリトルピープル。これはどのような関係を持っているのだろうか。つまり、対応するとして、それはどのような軸で対応しているのだろうか(いうまでもないことだが、対立するということは、同じ軸をもってこそ可能であり、その意味で、イコールの関係でもあるはずだ)。私見では、この両者の存在によって語られる悲劇は同じなのだが、それを導く機制に対する眼差しの違いとして捉えることができるだろう。ビッグプラザーは独裁的につくりだされる監視社会を象徴するが、リトルピープルは小市民の欲望として監視社会がつくりだされる事実を強調した象徴だといえるだろう。村上は、多くの作品で嫌悪感とともにこの小市民的なるものについて語っている(たとえば、『沈黙』や『スプートニクの恋人』を見よ)。■空気さなぎと物語この作品のなかに出てくる空気さなぎは、空気中から糸を紡ぐことによってつくられる。それはいったい何を意味するのだろうか。この訊き方に問題があるのであれば、われわれはこれにどのような意味を見出すことができるだろうか(What is the meaning of 'kuhkisanagi'?ではなく、What is a meaning of 'kuhkisanagi'?だ)。私の解釈はこうだ。この存在がそのまま他者を傷つけてしまう「現実」において、われわれは身を守るための「物語」を紡ぐ。たとえば、傷ついたときに。たとえば、大切な人を失ったときに。あるいは、そうした傷を二度と受けないように。「物語」は人を守る。しかし同時に、「物語」は閉じ込める。意思を殺す。「物語」は救いであるし、呪いである。そして、われわれは「物語」の負の側面を無視できない<現実>に生きてしまっている。さらに、そうした時代に量産される<物語>たちが、まったくそうした<現実>に答えようとしていない実際がある。物語が救いにならず、むしろ呪いとなってしまっている時代に生きている。村上自身は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』において、そうした現実に対する「答え」を出し切れずにいたように思う。あるいは、『ダンス・ダンス・ダンス』においても。『羊をめぐる冒険』で素朴に提示された問題は、いつの間にか大きくなり、村上に重荷として圧し掛かっていたように私には思える。今回、村上はその問題にひとつの回答を出した。それをすっきりと語る術を今私は持たない。『1Q84』を読んでもらうしかない。ただ、それがどのようなものであるかだけは語ることができるだろう。それは、まるで、信仰告白に似ている。あるいは、希望に。■壁と組織『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同様に(というか、そのプロット導入として?)、今回も「壁」が、ささやかながら、象徴的に用いられている。この壁については、村上がエルサレム賞受賞時に行ったスピーチをみれば、その象徴するところがわかるだろう(参照)。壁は、(ある意味としては)システムのことだ。さらに、そのシステムは、小市民的な欲求である「物語」として生み出される。つづく
2009.06.05
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