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議論というものを考えるとき、二種の賛否を考えなければならないだろう。議論内容に関する賛否と、そうした議論がなされることの政治性に対する賛否である。議論が政治的である、というのは、あることを議論するにあたっては、誰かがそれを問題として提示する権力を持っているということを意味している。議論をすること自体が、操作された結果である可能性があることは、今一度指摘しておく必要があるだろう。■金融知識の教育なんてものがあった以前、野村證券がCMをうちまくって、金融知識の教育についての大宣伝を行っていた。そこで野村證券は、お金の教育に賛成も反対も大切です、といったことを言っていたわけだが、もちろん、議論すること自体が、彼らの望む金融社会への入り口であることを知っていたからこそ、そうしたことに積極的に打って出たわけだ。そうした議論を公のものとして関心を高めること自体がひとつの目的を持ったものであり、その裏には、金融資本主義を推し進めようとする、当時の政府の考えがあったことは間違いない(これは当時、そうした機関の人間と頻繁に話す機会があったからはっきりと言える)。思ったよりも早く、金融の破綻があったから、大きな打撃を受けずに済んだが、あのまま行っていたら、さらに悲劇的な結果が起こっていたことは間違いないだろう。■議論には時宜が大切正しい議論とは、本当にそれをするべきタイミングにおいてするべきものである。特に議論が決定力を持つ場合、一般論は何の役にも立たない。議論は常に具体物と関係しているものであって、一般論で語れば、知らないうちに、自らの権利を脅かされてしまう危険がある。だからこそ、ひとつの事柄に意見を述べることと、その意見を述べる行為が引き起こす影響とは、峻別して考えなければならない。特にこの列島の、マイクを向けられると何かを語らなければならないと考えている人たちに警鐘を鳴らしておきたいし、世論調査を無意味に乱発するマスコミを非難しておきたい。そうであれば、議論を正当なものとするためには、どうしていまこの議論をしなければならないのか、という問題設定の妥当性が検証される必要がある。この点に考えの及んでいない「議論」というものは、排泄物と同等のものでしかない。■成人年齢の引き下げについてそんなことを考えたのは、この記事を読んだからだ。(丁寧にも、「識者の意見は、……賛否が分かれた」などとまとめてあるが、それはこの記者が上のような問題意識を一片も持ち合わせていないからだろう。)〔引用開始〕<成人は18歳>「まだ子供、絶対反対」「大人を自覚、賛成」--識者ら7月29日23時24分配信 毎日新聞 法制審議会が成人年齢を「18歳に引き下げるのが適当」としたことについて、若者の生活習慣や文化に詳しい識者の意見は、「自立が促される」「機運が高まっていない」と賛否が分かれた。当の若者たちの反応も「早く選挙に参加したい」「大人の自覚生まれる」「関心がない」とさまざまだ。 立教大教授で精神科医の香山リカさんは、成人年齢引き下げに賛成だ。「今の20歳が成熟しているかといえば決してそうでない。大学で学生を見ていると、20歳になっても学生であるために成年になったことを自覚しづらいようだ」と指摘した上で、「18歳に引き下げられると、高校を卒業すれば大人として扱われる、という分かりやすい線引きができ、本人の自立も促される」と語る。 一方、反貧困ネットワーク副代表でフリーターやニートなど若者の実態に詳しい作家の雨宮処凛(かりん)さんは「若者の間で、成人年齢を18歳まで引き下げてほしいという運動が高まっているわけではなく『上から目線』の議論。子供の結婚年齢など全世代にかかわる問題にもかかわらず、大人からも『引き下げて』という運動は広がっていない」と疑問を投げかける。「国民不在で議論が進んでおり、違和感がある。今後議論するにあたり、国民要望がどこにあるかをまず重視すべきだ」と述べた。 「夜回り先生」で知られる元高校教諭の水谷修さんは「今回は民法改正で成人年齢を引き下げようとしているが、民法だけにとどまらず『成人だから年金を18歳から払え』『払えないなら親が払え』という議論になる恐れが高く、絶対に反対だ」と批判する。さらに、少年法の対象年齢も20歳未満から18歳未満に引き下げようという議論につながりかねないと指摘。「親から見れば19歳まではまだ子供。今回の議論は拙速すぎる。もっと時間をかけてやるべきだ」と指摘する。〔引用終わり〕■賛否?読んでおわかりになったと思うが、議論内容の賛否が分かれているとは決して言い切れない。否定側は、間違いなく、議論の前提を問題としている。一般論として議論内容に賛否を表明することと、議論していること自体に賛否を向けることとは、しっかりと分けなければならないだろう。世論調査もしかり、投票もしかり、である。そうした種の調査自体がひとつの政治活動であることをよく認識し、適切な距離をとるべきものだと思う。それが、民主的成熟度の高まった国民が取る態度ではないかと思う。
2009.07.31
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まずはこの記事。〔引用開始〕自民公約、10年で所得世界一2009年7月29日(水)19時46分配信 共同通信自民党の衆院選政権公約最終案の全容が29日、判明した。10年度後半には年率2%の経済成長を実現し、10年以内に1人当たり国民所得を世界トップに引き上げることを目指すと明記。景気回復を果たすことにより5年を待たずに国と地方の基礎的財政収支の赤字を対国内総生産比で半減させる方針を示した。少子高齢化対策として「今後3年間で幼稚園・保育園を通じた幼児教育の無償化」も盛り込んだ。〔引用おわり〕■気を引くキャッチコピーを目指して選挙前になると、たくさんばら撒くのが昔のやり方だったが、それが難しい時代に入ると、「言い方」が問題になってくる。自民が一生懸命獲得したい票は、日本が世界一になることを喜ぶナイーブな人たちの票のようだ。しかし、そういうナイーブな人たちは、ただの事大主義なので、すでに勝ちそうな民主に票を投じるんじゃないかと思うが。■所得って誰の?兎に角、一人あたりの所得というのは、もちろん平均値のことだ。このところの自民党の政策をみれば、この国民所得の上昇が、一部の限られた人たちの所得を上げるだけのものであることは間違いない。決してナイーブな人たちの財布が潤うわけではない。というより、もっと生活は苦しくなるだろう。■所得増大、物価もっと増大当然のことながら、ただの財源論や、新自由主義的な構造改革なるものをやっていく限りは、国民一人当たりの所得なるものが上がったとしたって、物価は確実にもっと増大する。貧困の問題も解決できなければ、地方格差の問題も拡がりをみせるだけだろう。■落ちぶれても一流世界一っていうと嬉しい人たちには困ってしまうんだが、政府が国民に提示してくるものは、二つあって、そのどちらを選ぶかをしっかり考えないと、2・26の二の舞が起こらないかと心配になる。政府は、まず国民生活の安定を提示しようとするわけだが、もちろん、視野が狭く能力の低い世襲議員たちには、ちょっと難問過ぎる。そこで彼らが頼るのが、「民族的自尊心」を優しく囁くことだ。「落ちぶれても一流」。一流であるという、あるいは、一流の国に属しているというプライドが、今の苦しい生活を耐えさせる。と考えているようだ。少なくとも、ナイーブな人たちの票が取れると考えているのかもしれない。その可能性はある。しかし、歴史的にみても、それは長くは続かないだろう。国民を我慢させて、その結果、その公約が失敗したら、大きな反動が来る。危険な賭けだ。■政治にはメンタルな強さが必要政治は、危険な賭けという思考停止ではできない。考え続ける知的体力とメンタルの強さが必要だ。リーチをかけてあとは運任せ、というのは、強い麻雀の打ち方ではない。リーチをかけるには、かけるだけの理由が必要である。世襲議員にも能力が高い人間がいるだと?そういうことを言うこと自体が、近代の政治制度のことをわかっていない、政治的認識力の低さによるのだよ。なによりも、私は、彼らにメンタルの弱さがあることを危惧する。ここ何代かの総理を見たってわかるじゃないか。
2009.07.30
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思い切って「国民の程度」と題しようかと思ったが、とりあえずそれはやめて、まずは、この記事。〔引用開始〕「国民の程度」低い? 細田幹事長発言、直後に謝罪2009/07/24 23:34 【共同通信】 自民党の細田博之幹事長は24日、報道各社のインタビューで、麻生太郎首相の言動や党内の混乱を取り上げたマスコミ報道に関連し「(首相が見送った)役員人事だろうが、閣僚人事だろうが、どうでもいいことだが、その方がみんな面白いんだから。国民の程度かもしれない」などと述べ、怒りをあらわにした。 内閣・政党支持率の低迷にいら立ちを爆発させたようだが、国民の政治意識は低いと指摘したとも受け取れるだけに、終了後に「誤解を招く表現だった。謝罪します」と述べ、発言を撤回した。 インタビューで細田氏は、経済指標の悪化に触れ「これだけ落ち込みがある割に、何とか支えている。経済界は評価している」と指摘した上で「国民に伝わらない。(首相は)字が読めないらしいですねなんて楽しんじゃってる。ぶれたらしいなんて。大したことはないんだよ」と強調。さらに「日本国の程度を表している。それは程度なんだ。国民の程度かもしれない」と述べた。 報道各社の世論調査についても「麻生さんをどう思いますか、鳩山由紀夫民主党代表とどっちがいいですかって、もういいかげんにしてくれっていう感じなんだけどね、本当は。それ聞いて何か意味ありますか」と不満をぶつけた。〔引用終わり〕■程度の低い国民考え方は大きく違うが、細田の怒りは正論だと思う。結局、この国の国民はマスコミが面白く作り上げる「争点」をひたすら印象的に消化し、わかってもいない頭脳で「わかったような意見」を吐く。やってきたことよりも、言葉遣いが支持率を変化させているといった不満は当然な気もしてしまう。政治家は言葉が命なんだ、といった、誰が言い出したのかわからないフレーズで、そういうことを正当化しようとする頭のわるいコメンテーターのことはさておき、いったい国民は何を見て支持政党を決めているのだろうか。小泉の手法に騙された国民だからこそ、私は国民の方を疑ってしまう。■寄生してきた自民党でもね、それでもやっぱり、私は細田の言っていることを可笑しく思ってしまう。だって、自民党の支持者なんて、政策を見る人たちなんかじゃなく、ひたすら直感に頼って自民党の「代議士先生」に票を投じてきた方々じゃないか。いや、利益を誘導してもらえるから自民党を支持するという人たちもいるし、それはまだいいと思うのだけど、多くの方々は、意味もわからず、自民党の「代議士先生」が発する自尊心を保ってくれる言葉に乗っかってきただけだ。だから、細田が今さら、国民は何も見ていないと言ったところで、そういう政治をやって、そういう風に国民を飼いならしてきたのは、まさに自民党でしょ、とわざわざ指摘してあげたくなってしまう。小沢が、そういう手法で、民主の票を集め始めたものだから、以前は自らが受けていた批判を、民主に対してせざるを得ないのだろう。細田の国民批判は(訂正したってそうなんです)、正論だが、自民党にとっては痛し痒しのものでしかない。■衆愚もちろん、政権交代をしてみるべきだとは思う。しかし、この国の国民はそこから何も学ばないのではないかと危惧してしまう。本当に政治の変革が必要だとすれば、それは、国民においてであるのではなかろうか。衆愚の誹りを免れない状況にある気がしてならない。本当に生活が苦しくなったときに、「頼りになりそう」な人に一気に票が流れることを私は恐れる。それはまさに現代におけるヒトラーであって、そうした人を再び人類が選ばないようにするには、少しくらい国民がその危険を悟っていることが必要だろう。マッカーサーが帰米するときに、涙を浮かべて感謝の気持ちを表し見送った国民たち。ちょっと前まで鬼畜と呼んだ人間に対して、そうした態度をとれた人たち。そんな感じだから、政治家のせいだけにできないんだよな。■蛇足ところで、平沼ってアメリカに対してどういう態度を採るのか、今朝テレビで見かけて、気になった。世間の評価はいざ知らず、ああいうのこそ、本当のポピュリストというのだと思ったよ。
2009.07.25
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まずはこの記事。〔引用始め〕経済財政白書 格差拡大「非正規雇用の増加が主因」7月24日11時8分配信 産経新聞林芳正経済財政担当相は24日の閣議に、平成21年度の年次経済財政報告(経済財政白書)を提出した。白書は非正規労働者の増加によって「賃金、家計所得の格差の拡大傾向が続いている」と指摘し、格差の拡大傾向を明確に認めた。白書はその原因を「非正規労働者の増加」としており、高齢者だけでなく、若年層にも効率的に所得を再分配する制度が必要と結論づけている。 白書を作成した内閣府は、所得格差を示す代表的な指標である「ジニ係数」を分析した。その結果、雇用者のジニ係数は昭和62年以降は一貫して上昇。直近のデータがある平成19年も高水準で推移していた。 さらに白書は昨秋以降の世界的な景気後退に伴い「『派遣切り』などの形で雇用調整が行われた」と非正規労働者の雇い止め問題を指摘。実際に5月の完全失業率は5・2%と急速に悪化しており、内閣府は「仮に20~21年のジニ係数を推計すれば格差はかなり拡大しているだろう」(幹部)と失業者の増加が格差の拡大を加速させることに懸念を示している。 こうした状況を受け、格差拡大の要因についても「非正規雇用の増加が主因」と言い切った。1~3月の非正規労働者は全雇用者の3分の1を占めている現状を踏まえ、「正規と非正規との間には生涯所得で約2.5倍の格差がある」とのデータをあげ所得格差を問題視している。 さらに、非正規雇用が増加した背景として初めて、高齢化以外に「労働法制の改正」を原因にあげた。麻生政権はこれまで「小泉構造改革」で生じた“ほころび”の修復を掲げてきたが、白書の表現ぶりは「行き過ぎた規制緩和が格差拡大を助長した側面もある」と暗に認めた形だ。 来月の衆院選では自民、民主両党とも「格差の固定化」を防ぐため、低所得者に配慮した「給付付き税額控除」などの施策をマニフェスト(政権公約)に盛り込む方針で、今回の白書は格差をめぐる議論の根拠にもなりそうだ。 一方、白書は今回の景気後退について「過去にない『速さ』『深さ』で、『長さ』も過去の平均に達した可能性がある」と指摘。「(2007年までの)米国の景気拡大はバブルの要素を含み、わが国の収支改善も制約される」として日本の景気がピーク時の水準に戻ることは難しいとの見方を示した。その上で個人消費を中心とする内需と輸出など外需の「双発エンジン」で回復する姿が望ましいと結論づけている。〔引用終わり:下線引用者〕■竹中は内需主導の経済回復だと言いおったサブプライムローンを考え出した脳内金融工学者に負けないいきおいで、このひどい「小泉改革」を主導した竹中平蔵は、以前ある番組でひどい勘違い発言をしていた。他の出演者からの「対外依存の経済回復」という指摘に対して、「改革後は内需が拡大したからだったんですよ」と言い切った。勘違い甚だしい。経済回復は、内需の拡大ではなく、完全なるコストの削減によっていただけだったはずだ。それを可能にしたのは、「労働法制の改正」、すなわち、派遣業の製造業への適用であり、産業革命以来、悲劇を繰り返しつつ人類が積み重ねてきた叡智の否定でしかなかった。たいしたイノベーションもなく、新産業も大きく展開していなかった時代に、経済が回復したのだとすれば、それは間違いなく、弱者を切り捨て、産業の脆弱性を増大させたこととの引き換えによっただけであることは言うまでもない。この国が蓄え続けたインビジブルアセット(見えない資産)を切り崩した結果であって、あらたな需要が生み出されたためではない。そうした「経営側」の「リスクヘッジ」が可能になって、はじめてやつが言うところの「国際競争力」が手に入る。やつの言う経済回復なんてものは、搾取すればいいだけのことだ。学者じゃなくても思いつく。ただし、言うまでもないことだが、決してやってはいけないことだった。人間の尊厳の観点からも、そして、真に強い経済という観点からも。学者というからには、もうすこし頭を使ってほしかったものだ。小泉と竹中という日本近代政治史上最高のお馬鹿コンビがやってくれたことは、先代が築いた財産を食いつぶすという愚かな二代目の所業以外の何物でもなかった。それだけの資産を食い潰して、たいした変化を与えられなかったいま、状況はさらに酷くなっていることは言うまでもない。民主党が失敗したあとに、反動的な動きが起こることだけは警戒しておかなければなるまい。
2009.07.24
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■「みんなが言っている」と「うちはうち」小さいころ、それはおかしいよみんなに聞いてごらんなどといって、大人に会話を打ち切られた経験は、この国にいれば、多くの人に共有されていることだろう。そして、それを言った当人が、別の場面では、他人は他人うちはうちなどと言うのも、きっと経験済みだろう。このような人は、みんなが正しいという命題と、みんなの意見はうちには関係ないという命題、のふたつを、まったく矛盾無く使ってのけていることにおかしさを感じていない。詐欺師か、それに気づけるだけの脳みそを有していないのどちらかなのだろう。もちろん、これら二つの言い方は、単に、自分の意見を押し通すためのレトリックに過ぎない。結局、自分の意見があって、相手がそれに納得顔をしないときに、恣意的に持ち出す方便にすぎない。自分の意見を押し通そうとしていることにさえ気づいていないのであれば、そうしたやり方に罪悪感や羞恥心を感じる必要がないわけで、頭が悪いというのは幸せなことだなあと感じ入ってしまう。■こどもの逆襲しかし、次のこともまた、大変な頻度でお目にかかれることだろう。こどもの「みんな持ってるから買って」である。もちろん、これに対して、大人は「うちはうち」理論を持ち出すのだが、つぶさに観察するに、意外と、こどものこの攻勢は成功を収めやすいように思う。一度は、「うちはうち」で断られても、結局、「でも、みんな持ってる」が勝利を収めたという経験はないだろうか。こうして考えると、やはり、この国では「みんな」が強いわけだ。■本論さて、ここからが本論である。まずは、この記事。〔引用開始〕内閣支持最低、16.3%=民主支持初のトップ-時事世論調査(7月16日15時4分配信)時事通信社が9~12日に実施した7月の世論調査によると、麻生内閣の支持率は前月比7.8ポイント減の16.3%と急落、昨年9月の政権発足以来最低となった。不支持率は同7.6ポイント増の64.2%。政党支持率も、民主党が1998年の結党以来初めて自民党を逆転した。東京都議選など地方選での同党連敗で示された麻生太郎首相への逆風が裏付けられた形だ。 内閣支持率が2割を切ったのは、3月以来。首相が自民党役員人事をいったん検討しながら断念し、指導力不足を露呈したことなどが、下落につながったとみられる。 政党支持率は民主が18.6%(同3.1ポイント増)で、自民は15.1%(同3.3ポイント減)。以下は公明4.6%、共産1.7%、社民1.3%、国民新0.2%。支持政党なしは55.7%だった。 「首相にふさわしい政治家」は、鳩山由紀夫民主党代表が34.3%(同0.3ポイント減)で、麻生首相の15.1%(同8.8ポイント減)を大きく引き離した。次期衆院選比例代表の投票先も民主が37.4%(同3.5ポイント増)となったのに対し、自民は19.5%(同5.3ポイント減)に落ち込み、差がさらに広がった。〔引用終わり〕■頭がこんがらがったそれぞれ政策を掲げている政党への支持って、短期間にこんなに変わってよいものかね。結局、だれかが一生懸命マニフェスト選挙を訴えたって、政策選挙を訴えたって、この国の衆愚の民たちは、変な印象でしか選んでいないってことなんじゃないか?あの人は信用できそう、とか、あの人は頼りない、とか、もう、みんなで詐欺にあってくれって感じだよね。でも、もっと恐ろしいのは、それが、結局、勝ち馬に乗る結果になってるってことなんだよね。都議選で、「みんな」が民主党を選んだから、民主党。以前は、「みんな」が自民党を選んでたから自民党支持だったけど、みたいな脳みそがすでに何かの排泄物でできているような思考をどうしてできるんだろう?結果的に、そういう思考を疑われるようなことを恥ずかしいとは思わないのかね。一度信任したら、最後まで責任を持てよ、とまで言う気はないんだけど、言葉が軽すぎるでしょ。この国に充満する本当に重い精神病なんだと思うんだよな。
2009.07.16
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東京都議会議員選挙の結果が出たので、今回も覚書程度に記す。■予想されたこととはいえ残念な結果今回の結果は、やっぱりな、という気持ちとともに、大変残念だった。それは、自公が負けたからでは、もちろん、ない。生前の筑紫哲也が言っていたが、この国にはもともと判官びいきという言葉があって、そういう気質をみな持っていたのに、最近はみな勝ち馬に乗ろうとする。そのような時世を憂う、という気持ちが大きい。弱くなった自民に入れろと言っているのではない、勝ちそうになったから民主に入れるのは、結局、郵政で意味もわからず、自民に入れたのと同じじゃないかという気がする。何でも民営化の流れで、ひどい生活環境が作り出されたが、同じ轍を踏まないかと心配になる。■国政だってさ今回の都議選において、国政状況を理由に挙げた方々いらっしゃって、卒倒しそうになった。もちろん、民主政の成熟度は民度によるわけで、サイコロ振って投票先を決めたって、宗教の教祖が言う人に入れたって、簡単に否定できるものではない。ただ、テレビから垂れ流される排泄物的情報からイメージをつくりあげて、意味もわからず投票するのだとしたら、サイコロや宗教的投票と何ら変わらんのじゃないかと思ってしまう。結局その程度の都民レベルなのだと思ってしまう。全員とは言わないが、民主に入れた人間の多くは、幸福実現党に入れた人たちと変わらんのじゃないか?■石原の責任転嫁石原の新銀行東京なる身内機関は、都民一人あたり3000円の追加投資を行った。石原の長男が、今の債権者が困るみたいなことを馬鹿面で言っていたが、ちょっと調べれば、たいした条件の融資でないことはわかるし、経営を立て直そうとしたら、他の銀行と条件はあまり変えず、他の部分での力を伸ばすしかないことくらい明らかだ。すなわち、今の状況でうまくいくはずがない。一部の良識的な投票者たちは、新銀行東京へのNoをはっきりと投票用紙に乗せたはずなのに、当の厚顔無恥の都知事は、それを内閣のせいにすりかえることができる結果となった。■わからないと言えない田舎者当然のことながら、残念な気持ちは、民主がひとり支持を集めたことによる。どこかが一つというのが現代民主主義の観点からすれば大変気持ち悪い。確率論的に言っても、それぞれの主体がそれぞれ理由を考えたときに、このような結果になることは大変可能性の低いことだ。であれば、結論は簡単で、都民があのアメリカという国と同じように、政治的判断力を持っていないで、イメージだけで投票するという愚を犯しているということなのだろう。よくわからないことを、わかった振りして投票しているということだろう。各メディアの白痴化的世論調査という世論操作がこれに拍車をかけている。田舎者だらけだ。東京は田舎者の集まりだ。■ちっぽけなヒロイズムもう少し、政党というものを疑う視点が共有されてもいいんじゃないかと思う。すくなくとも、批判精神が必要な若者には、それがあっていいんじゃないだろうか。もちろん、無駄になる。白票も、多くの場合無党派への投票も、無駄になる。だが、こうした「無駄」が、制度の土俵を敢えて避ける行動が、制度を鍛え変えてきたのではなかったか?それができなくなったとき、制度疲労に耐えられなくなった組織は、大きな反動とともに滅びたんじゃなかったか?自分の票が無駄になるということを受け入れられる、ちっぽけなヒロイズム、この無駄死にが制度に息吹を与えているというちっぽけなヒロイズムが、本当に成熟した民主国の国民にふさわしいように思う。■蛇足ところで、自民が必死だ。しかし、メディアの垂れ流す情報に身を沈めているウンコマンたちにはわからないのだろうが、自民がもうダメだというのは、15年前から言われていたことだ。小泉がまったく意表を突く手で、自民を復活させたかに見えたが、実は、それが自民崩壊を助長した。いま、麻生をどうしたところで、もうダメなのだよ。お前はもう死んでいるのだよ。と誰も言わないのはなぜだろう。自民はもうダメ。民主もおそらくダメだろう。俺はそのあと、ワイマール共和制の二の舞にならないことだけを祈っている。あるいは、明治維新前夜のようにならないことだけを祈っている。
2009.07.13
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都議選、行きます。まだ決めていない方々のために少しだけ(頑張って中立的にしたつもり)。決めていないというのは、迷っているか、情報が少ないからであるわけで、何も考えずにココに入れようなんて決めている人たちより民主的だと思う。そんな民主的な人たちが投票を棄権しないでほしいと思う、今日7月12日。【候補者一覧および候補者所信】http://www.senkyo.janjan.jp/election/2009/13/00008783.html【白票だって立派な意思表示だと、ちょっと読んで考えた高校生の感想文】http://www.senkyo.janjan.jp/senkyo_news/0907/0907020169/1.php【争点】●新銀行東京⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%8A%80%E8%A1%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC●築地移転問題⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%B8%82%E5%A0%B4●オリンピック⇒これには賛否両論あるし、私も意見はあるのだけれど、こんなものを政治家を選ぶ争点にするのは望ましくないだろう。●教育・医療等の生活環境⇒東京なんだから良いはずだとか悪いはずだとかをやめて、自分の生活実感から考えるべき。全体への福祉充実型が良いのか、利益誘導型(経済重視)が良いのか。●国政への影響⇒国政は国政でやれば良いと思われる。もうすぐ衆院選は来るわけですし。「勝敗ライン」なる判断は勝手にやってくれって考えるべきではないか。【蛇足的一言】政党政治というものに大きな意義があることは認める。ただ、組織票を計算して、それにどれくらい浮動票を上乗せできるか、という戦いをしているのを、「さもしい」気がする私は、政党を避けて、死票になるのも悪いことじゃないと思っている。自分の投票した候補が負けて悔しい、というのは、選挙をギャンブルと勘違いしているからで、政治をギャンブルに任せてたら大変でしょう。ちゃんとしたことをやってもらおうと思うなら、それなりに考えて選ばないといけないと思う。それでもいいのがいないなら、どうせ高々一票なわけだから、非政党候補とか、白票とかで「無駄」にするのだって大切だろうと思う。無駄にできる人たちが増えて、そういう大人な人たちが増えて、政治ははじめて自分たちのところに帰ってくるというパラドックスがあるように思う。白票を入れる自分を、そんな時間を、楽しいと思える、そんなちっぽけなヒロイズムが、求められているのかもしれない、と思う。ただ、もし良い候補を自分なりの観点で選べれば、それはそれで、すばらしいことだと思う。冒頭の候補者一覧を見たら選べるかもしれない。
2009.07.11
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おわかりのこととは思うが、私は村上春樹に好意的だ。一時期、すこしつまらない作品シリーズが連発されていると感じたことも無かったわけではないのだが、紆余曲折のうえ至ったのであろう現在の村上春樹を総体として評価している。■村上の作品は文体が無いのか多くの村上批判者たちの言に、村上の文体にはコンテクストや風土がないといったものがある。柄谷行人や松浦寿輝などの批判がこれにあたる。おそらく、蓮見重彦なども同様の見解なのだろう。コンテクストが文学性の用件であるのかどうかはさておき、村上は私にとっては夏目漱石と類似した作家だと思える。第一に、「先進国」の「最先端」の「文学」の影響を専ら受けていること。第二に、「伝統」との断絶があること。第三に、「伝統」を知らないわけではなく意識的に決別していること(同時に「先進国」の「文学」からも意識的に決別しているようにも思える)。第四に、大衆に受けていること。村上の文体をとやかく言う人間は、ヴォネガットを読んだことがないだけなのではないかと私は疑う。彼の文体は初期ヴォネガットによく似ているし、初期のフィッツジェラルドの雰囲気にそっくりだ。村上の文体をとやかく言うためには、それが村上固有のものである必要があろうが、残念ながらそうはいかない。そしてさらに重要なことに、これは夏目漱石がイギリス文学から多大な影響を受け、独自の文体を「作った」ことと類似していることだろう。『猫伝』についてはさておき、漱石の重要な作品は、それまでのこの列島における文体からすれば、大きくかけ離れたものであることは今さら指摘するまでもない。もちろん、しかし、漱石が「伝統」を知らなかったわけではない。彼の漢詩の才能については周知のことである。では、村上はどうか。「日本文学」を知らないのか。村上がプリンストン大学で、「第三の新人」を講じたことも周知のはずである。村上も漱石も「伝統」を知らないわけではなく、意識してそれとは異なる方向を目指していると考えるべきではないか。以上のことで、村上を批判する人たちを反批判できたなどとは私も思ってはいない。ただ、村上を批判する人間の中に、漱石を評価する人間が多いのはどうしてだろうか、と思ってしまうのである。そして、村上に対する批判は、そのまま漱石には当たらないのか、と思ってしまうのである。いうまでもなく、漱石に文体があるならば、村上にも文体があることになる。私はこの対偶命題を真と捉えたいのである。大変に軽い、申し訳ない言い方なのだが、漱石が画期となった「伝統」があり、村上が画期となった「伝統」がある。「伝統」に寄生するものたちが、あたらしい「伝統」にある種の嫉妬心を抱いているように思えてならない。■村上の作品はマンガか村上の作品をマンガとの類似として捉える見解も多く見られる。これはどの要素が似ているのかについての論じ方は様々であるため、一概には肯定も否定もできないが、マンガと似ているというからには、多種多様に存在するマンガに共通する要素があるという立ち位置に立っているのだろう。では、マンガとは何か?…わからない。申し訳ないが、わからない。マンガは多種多様すぎる。小説と呼ばれるものたちの多様性と同じくらい多種多様だ。それをひとくくりにマンガというジャンルで呼べるほど、私は蛮勇をふるえない。いや、まちがっていた。要素なんて考えるから悪いのだろう。機能としてのマンガに注目しようか。マンガとは、視覚情報を加えた情報伝達ツールである。と言ってはダメか。そこから無理やり、マンガというものの要素を搾り出せば、「読みやすい」ということになろうか。その意味において、村上の作品がマンガと類似性を持つのだとすれば、村上がヴォネガットを真似た理由と一致するわけで、確かに当たっている。これは何も言っていないに等しい。だが、私は意外にこのポイントは重要ではないかと思う。グーテンベルク以後の近代において、情報伝達のコストは圧倒的に文字で行うのが安くなった。世界の距離を一気に縮めたのは間違いない。そこでの重要なポイントは、発信のコストが安くなったことに尽きる。受信者の方は、聞くよりも読む方が理解に要するコストが高くなっただろう。だが、発信者のコストは圧倒的に安くなったため、この世に大きな変革をもたらした。そして、教育に「読めるようになる」ことが加えられたのも、それに応じたことであることは言うまでもないだろう。この観点から、マンガを考えたらどうか。マンガは、文字と比して、圧倒的に読み手のコストが安い。だが、圧倒的に発信側のコストは高くなってしまう。20世紀は、そのコストバランスからくる総コストが、いまだ文字に敵わなかった時代だと言えよう。だが、21世紀の情報環境においては、もしかすると、マンガの逆転があるかもしれない。会議資料や、政府のプレゼンテーション、あるいは、学者の論文において、「わかりやすさ」が最重視され、マンガが文字に取って代わるかもしれない。〔まとめるとこう〕 受け取りのコスト 発信のコスト 伝達のコスト 総コスト口頭情報 ○ ○ × △文字情報 △ △ ◎ ○視覚情報 ◎ ×→○? ×→○? △→◎?それが良いことなのかどうかは、はっきり言ってわからないのだが、この観点は、文字情報なるものが、近代という一時代的遺物である可能性をあぶり出してくれはしまいか。もし、そうであれば、村上の作品のマンガとの類似性――わかりやすい(理解できるかどうかはともかく)――が、新たな時代の門を叩いている可能性は否定できないように思う。■マンガところで、私はマンガも読むのだが、マンガに文学性が無いとはとても思えない。もちろん、文学性があるものも無いものもあるというのが正しい。それは、小説と呼ばれるものたちとて同じことだろう。そのうえで、現在において、小説にマンガが勝っている点を挙げれば、「日常性」ということに尽きるように思う。マンガの方が、圧倒的にアクチュアリティを持っているし、リアリティを持っているように思える。残念ながら、小説にはマンガに敵うだけの「日常性」がない。大きな問題関心を持った小説はたまにあるが、あれだけ多く出版されていながら、この「日常性」を扱っているものは少なく、秀作と呼べるものになると皆無に等しい(時代物の中に現代のアクチュアリティを持ち込んだものはあるが)。現代に生きる「個人の生活」を描く小説に出会えないのは悲しいことだ。マンガにはそれがある。そして、その点において、村上は少しだけ見込みがある。■風土ふたたびテクスト論の観点を持ち込めば、村上のテクストはある種のコンテクストの結節点に位置しているわけで、その由来を「風土」なるものに求めるべきだと考えるのは、ただの思い込みに過ぎないのではないかとも思える。というのも、村上は多くの作品から影響を受け、土地を超えたある種の<風土>に根ざしている作品を書き上げていることは間違いないように思えるからだ。村上の批判者たちは、村上の小説を好んで読む人間たちが、まるで詐欺にあっているかのように言うが、そこにはもう少し深い理由があると私には思える。以前から幾度か指摘してきたように、村上は、この時代の作家の中でも、最もはっきりと小説家(それに文句があるなら、物語作家)としての役割を自覚している。そして、そうした高踏な文章を書く批判者たちよりも、読み手の「生」に変化を与えることを達成してきた。多くのファンをつくってきた。全員がファンになるわけではないが、はっきりとファンを宣言する人間は間違いなく多い。結局のところ、村上の文章には「風土」は無いのかもしれないが、現代人が十分に共感できるだけの<風土>があるのだと思える。■デモスとしてのわれわれ近代という時代に生きるわれわれは、建前上、デモス=市民として、近代コンスティテューションのもと生活している。それは、「風土」に根ざしたエトノスとしてではなく、デモス的個人として社会契約に参加している。参加するがゆえに国民なのだと言うこともできよう。そうであれば、村上の「風土」無き「文体」は、前近代的批判者たちの批判を超えて、真に<近代>的な作品だと言えなくはないだろうか。デモスとしてのわれわれのエートス=倫理=<風土>に最も適したものだとは言えないだろうか。残念なことながら、こうした近代の前提は、おそらく、いつまでも古いエトノスから挑戦されつづけるだろう。だが、そこにこそ、今なお夏目漱石が読まれている理由があるし、村上春樹がこれからも読まれ続けるだろう理由があるように私には思える。
2009.07.09
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一時期、「戦後の民主主義教育」を批判したい人たちが(結構な人がそのなかで育っているのにもかかわらず/からこそ)、「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」をその象徴として槍玉にあげていた。私はそうした運動会の実践を見たことがないのだが、それを戦後民主主義教育の象徴と捉えるのは、勝手に誤解して、批判するという、よくある「保守」的態度に他なるまいと思う。■「保守」について思い出したもうだいぶ書いていないことなので忘れかけていたが、私が「保守」と呼ぶ場合、基本的には次の要素を含んだ態度のことをいうのだった。1.直感的に判断する。2.自分の直感に対する反省的吟味がない。3.違和感を最大の敵とする。4.どうして違和感を感じるかまでは考えない。5.ラベルを貼ってわかった気になる。たとえば、「運動会の徒競走で順位をつけない」ことに違和感を感じ、そんなことをしている(らしい)「教育」に対して、直感的に「おかしい」と感じ、その理由がよくわからないから、「戦後民主主義」というラベルを貼ることで、精神的安定を手に入れようとする。もちろん、精神的安定を手に入れる必要があるのは、自分の知らないことが起こっていることに対する田舎者的危機感がそれを命じるからに他ならない。だから論理演繹的に、6.田舎者である。も付け足そう。ちなみに、蛇足も蛇足だが、この「保守」は、別に政治的志向を表した表現ではない。誤解させるようで申し訳ない用語法なのだが、この「保守」層は、なぜか保守的政党を支持しやすく、自分たちを保守と名乗る。それじゃ、あまりにちゃんとした保守がかわいそうだからということで、私が「保守」と表記しているわけで、べつにこれら二者はぴったりとは重ならない。いわゆる左翼政党支持者にもこの「保守」はたくさんいる。政治的に左翼だ右翼だ言うことの不毛さは実はここにあって、自分がどういう意味で左翼か右翼かわかっていない人間が、適当なことを名乗るものだから、困ってしまうというわけだ。いずれにしても、「保守」は権威に弱い。権威に対して適当な距離を取れないために、もう少し言えば、権威との付き合い方を教育されていないために、そうしたことが可能な家庭で育っていないために、権威に対してアンビバレントな感情を抱く。何らかの権威を愛し、その対照となっている権威を憎む。それがひっくり返ることは多々あって、転向なんていう面白いことばが存在する空間を形成してくれている。すべては、教育が足りていないことによる。権威とうまく付き合えないことによる。■違和感の原因はいずれにしても、どうして「手をつないで一緒にゴールをきらせる」ことが悪いことなのだろうか?一応断っておけば、私もこれに違和感を感じている。だからこそ、しっかりと考えないといけない。実態のよくわからない「戦後民主主義教育」のせいにしてもしょうがない。おそらく、そもそもの話、この国は運動会は軍隊を作る道具だったのではないかと思う。狙いが、子どもたちを競わせてなるべく卓越した成果を求めさせることにあるのだから、そうした前提を否定するような修正については、違和感を覚えるのだろう。前提と違っているじゃんか、と。そして、そうした修正をしたい側は、子どもたちが国家の道具になることを危惧しているのかもしれない。もしそうであるならば、戦前、軍隊になるべく競争をさせられていた者たちが、戦後、企業の戦士となって戦わせられていたことを思えば、むしろ遅いぐらいの修正にも思える。そして、同時に、そうした本当の意味での戦後的価値観(企業戦士優位の世の中)が崩れてきたからこそ、そうした変化についていけなくなった人々が時代的雰囲気に違和感を覚え、その(こちらはまさしく)象徴的事柄である「非競争運動会」に憎悪を感じるのだろう。昔は良かったなあ、と。私も含めて。■修正ズレそうであれば、理由がないわけじゃなさそうな修正なのだが、やはり、この修正には問題があるように私には思える。「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」に対して、運動が得意な子どもたちから、自己表現の場を奪うな、といった批判があるらしい。繰り返すが、私はそんな運動会見たことないから、そんな批判が実際にあるのかも本当は知らない。いかにもありそうなところが怪しくさえある批判だ。ともかく、そうした批判に対して、運動会を実践する側はどのように答えるのだろうか。足の遅い友だちのことを思いやろうよ、とでも言うのだろうか。ぼく負けてもいいから思いっきり走りたい、と足の遅い子が言ったらどうするのだろうか。そんな優劣ばかりを競う社会にしないためにやっているんだ、と言うのだろうか。しかし、軍隊や企業で戦うのが当然という価値観を子どもたちに与えるのと、競わないほうが良いという価値観を子どもたちに与えるのは、同じくらい間違っているんじゃないかと思う。戦前=戦後の社会に、軍隊か企業戦士しかいなかった(どちらも男性中心主義社会)のに対して、彼らが、理想とする社会は、労働者しかいないのだろうか?ブルジョア的社会に対する反発から、競争を象徴的に嫌悪し、非競争を愛する、という態度は、どこまでいっても「保守」でしかない。そこに修正のズレがあるように思えてならない。■しっかり修正はっきり言って、運動会のそもそもの機能を批判するのだとしたら、どうして運動会自体を止めないのかと私は思ってしまう。もちろん、そうしたことが、先ほどの逆批判(ぼくたちの自己表現の場を奪うな)から逃れられていないことはわかっている。だから、私は、運動会なるものを、もっと個人的な競技にすれば良いのにと思う。出たいやつが出ればいい。好きなようにやればいい。勝ちにこだわるやつがいてもいいし、こだわらないやつがいてもいい。敗者がいるから勝者がいる社会はやはりどこかおかしい。無理やり敗者を土俵に上げて相撲をとろうとするジャイアニズムよりも、そこで卓越を競いたい者たちが競うのを皆でみるショーパーソンシップの方がずっと強い日本を作ってくれると思うが。そういえば、私が小学生のとき、何日もかけて運動会の予行練習をさせられたものだ。誰のための運動会なのだろうか。それを主導するのは「サヨク」な人だったのもおもしろい。運動会の予行練習に力を入れるっていうのは、どうしてもヒトラーがベルリンオリンピックの予行に力を入れたこととダブっちゃうんだよね。
2009.07.03
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