2006年03月13日
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ミヒャエル・クレーベルク(Michael Kleeberg)著  越智和弘訳  『裸足(Barfuβ)』

このタイトルのような「つねに存在する微熱のようなこの不安」を説明するために本文からその説明部分を引用してみる。

「猫が家にいないことがわかっている間は、終始気持ちが安らぐことがなかったからだ。しかしこの濃縮された心配、つねに存在する微熱のようなこの不安を、Kはそれとして甘んじて受け入れた。なぜならその不安は、猫が本来やるべき自然なことをさせてやれていることを知る幸福感に必然的につきまとう影の部分として、Kにはほとんど必要とさえ感じられたからだ。そしてこの不安と幸福感の入り混じる複雑な心境こそが、Kが昔から想い描き、つねに探し求めてきた愛というものにぴったりの味覚を与えてくれた。」

ここでの猫はKが飼っていた猫だ。
その猫がいつの間にか家出をした。
猫にはよくある話だ。
いや、猫というものは本来そういう生き物だ。
それを家の中に閉じ込めて飼うこと自体、不自然なことなのだ。
猫の欲しいままに放っておけば、猫は幸せだろうけど、安否を気遣う自分を不安が微熱のように襲う。

このジレンマというかダブルバインドというか、猫に限らず、相手の好きなようにさせている場合にこの手の不安は起こるものだ。
支配欲とまではいかないまでも、自分の想定しているものと違う行動をされると、軽い苛立ちにさいなまれる。
大昔のいばっていた父親のように、自分の言うとおりに行動しないと苛立ちが一気に噴出する人もいまだにいることにはいるが、現代はほとんどのひとは苛立ちを覚えても、微笑を絶やさないで済むほど軽い。
そう、微熱程度なのである。

この微熱のような不安を100%除去することができるのかどうか、正確なところはわからないけど、きっと無理なんだと思う。
だから誰かを好きになったら、その人の好きなように行動させればこの微熱のような不安は常に付きまとう。
ということでここでは微熱のような不安が愛の証と置き換えられている。

「あなはた幸福ですか、それとも苦しんでいるのですか?そんなのはバカげた質問だ。幸福というものは、そもそも苦しいものなのだ。幸福だと自覚することは、ある種の拷問なのだ。それは、もはやこれ以上も望むべきものが何もなく、ただ失うものだけがある状態なのだから。」

やっぱり愛と自虐的行為って、切っても切れない関係にあるんだろうな。
だから行き過ぎると時として恐ろしい結末を迎えるのかもしれないな。





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最終更新日  2012年04月07日 03時21分44秒
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