2006年03月29日
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ヘッセ著  高橋 健二訳  『クヌルプ』

ヘッセはぼくの大好きな作家のひとりである。
日常としての宗教心というものに疑問をもちつつ、一種のタブーとされる芸術とか美とかいう人の心を惑わす抽象的概念に対しての洞察が深い。
クヌルプというのはこの物語の主人公で、働くことを放棄し放蕩している。
でもその率直な性格からだろうか、友達が多く、泊まる宿には困らない。
そんなクヌルプと友人の美に対しての会話を引用してみる。

「まったくそのとおりだよ、クヌルプ。なんでもふさわしいときに見ると、美しいんだ。」
「そうだ。だが、ぼくはまた別な考え方もする。いちばん美しいものはいつも、満足とともに悲しみを、あるいは不安を伴うとき、美しいのだ、と考える。」
「ええ、どうして?」
「こう思うんだよ。ほんとに美しいお嬢さんだって、たぶんそんなに美しいとは思われないだろう。そんなひとにも盛りのときがあり、それが過ぎれば、年をとって死ななければならない、ということがわかっていなかったら、何か美しいものがもし未来永久にわたってたえず変わらず美しかったとしたら、それはぼくを喜ばすかもしれないが、ぼくはそれを冷たい目で見、こんなものはいつだて見られる、何もきょうでなくてもいい、と考えるだろう。これにひきかえ、衰えやすいもの、いつまでも同じではいないものを見ると、喜びばかりでなく、同情をもいだくのだ。」
「そりゃそうだ」
「だから、どこかで夜、花火があげられるときほど美しいものを、ぼくは知らない。青や緑の光の玉ができて、暗闇にのぼってゆく。ちょうどいちばん美しくなったとき、小さい弓形を描いて消える。それをながめていると、喜びを、そして同時にまた、すぐに消えてしまうのだという不安を抱く。それが結びついているから、花火がもっと長くつづく場合よりずっと美しいのだ。」

移ろい行くものの儚さか。
非日常的な美しさも、恒常となることで日常化する。
美という概念を日常からの差異と定義することができるのであれば、日常化した美しさはもはやその価値を失ってしまう。

逆に、日常の事象の中にサインやコノテーションを見出すことができたのであれば、それは美への意識にも似た非日常への興奮を呼び覚ます。
それらは対自的であるがゆえに、移ろいやすく脆い。
掬っては消え、掬っては消え。。
でもきっと、手の平に目には見えない何かが残る。
それが嵩となったとき、対自と即自は融合されるのかもしれないな。





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最終更新日  2012年04月18日 22時08分20秒
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