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千葉県浦安市は完全に埋め立てで造られたものだと思っていたのですが、そうでもなかったようです。すでに鎌倉時代から人が住んでいたようで、江戸時代には幕府の直轄領として堀江・猫実・当代島などの村が置かれていました。猫実村の庚申塔江戸時代の1715年に、猫実村の庚申講の信者によって建てられたものです。庚申塔の正面には金剛菩薩が刻まれ、その下には「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿が刻まれています。現在の浦安市内には江戸川の支流である境川が東西に流れ、江戸時代には境川の北側が猫実村、南側が堀江村として集落が発展していました。歌川広重「名所江戸百景 堀江ねこざね」ここを江戸と呼ぶかどうかはさておき、いかにも広重的な構図です。江戸時代の境川は、川幅が1.7mほどの小川だったのですが、海面埋立事業によって川幅も現在の5mまで拡張されました。現在の境川昭和の初めまでの境川は、川底が透けて見えるほどの清流で、飲料や炊事・洗濯にも使われていたそうです。また東京湾への玄関口として、川面には漁船が数多く係留され、魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られていました。1971(昭和46)年に漁業権が完全に放棄されたようで、現在の境川も見るに絶えない汚染された川になっていました。
2010/05/17
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旧江戸川の河口から約3kmほど上流に行った所には、妙見島と呼ばれる天然の島があります。川幅の狭い旧江戸川の中で、なぜここに島が出来たのか、とても不思議な感じがします。江戸川区側から見たところコンクリート囲まれて高く護岸されていますが、人口の島ではありません。今では想像できませんが、江戸時代には風光明媚な島だったようです。歌川広重「名所江戸百景 とね川ばらばら松」題名には利根川とありますが、江戸川の妙見島の風景です。浦安市側からみた妙見島ばらばら松の風情も今は昔です。
2010/05/16
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柳島から続く浅草通り沿いには「梅屋敷」があり、江戸時代には梅の名所として知られていました。元は伊勢屋彦右衛門の別荘で「清香庵」と名付けられていましたが、庭に梅が多く植えられていたことから「梅屋敷」と呼ばれるようになったそうです。中でも「臥竜梅」と名付けられた一株の梅が有名で、龍が大地に横たわっているように見えたことから、徳川光圀が「臥竜梅」と命名したと言われています。歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」八代将軍の徳川吉宗も鷹狩の帰りに梅屋敷を訪れるなど、梅の季節になると江戸の行楽地として賑わっていたそうです。さらには広重に浮世絵を通して、臥竜梅に魅せられた人が海外にもいました。ゴッホ「花咲く梅の木」広重やゴッホを魅了した梅屋敷でしたが、1910年の大雨による隅田川の洪水で、梅屋敷の梅は全て枯れてしまい、梅屋敷も廃園となってしまいました。現在は浅草通り沿いに梅屋敷の碑が建ち、一株の梅がひっそりと植えられています。
2010/05/15
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東京スカイツリーを間近に見上げる墨田区業平から江東区亀戸にかけての一帯は、江戸時代には柳の木が多かったことから柳島と呼ばれていました。柳島の北側を流れる「北十間川」柳島には南北に流れる「横十間川」があり、北十間川とT字型に合流しています。その北十間川と横十間川が合流する場所には、「柳島の妙見さま」として信仰された法性寺があります。歌川広重「名所江戸百景 柳しま」北十間川と横十間川が合流し、川端に本性寺が描かれています。こちらが現在の法性寺木々に隠れていますが、同じ場所に建っています。法性寺は墨田区の中で最も古い寺院で、1492年に建立されました。現在は鉄筋コンクリートの建物に変わっていますが、「柳島の妙見さま」は葛飾北斎も深く信仰していたそうです。さらには近松門左衛門とも縁が深く、境内には北斎の顕彰碑と共に、近松門左衛門の碑が建っていました。
2010/05/14
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隅田川は江戸城外堀の機能も備えていたため、江戸時代には5つしか橋が架けられていませんでした。江戸時代より前からあった千住大橋の次に隅田川に架けられた橋が両国橋で、江戸時代に入って最初に隅田川に架かった橋です。当初は「大橋」と呼ばれていましたが、新大橋が完成すると「両国橋」と呼ばれるようになりました。歌川広重「名所江戸百景 両国橋大川ばた」両国橋の名前は、武蔵国と下総国にまたがっていたことに由来しています。(後に武蔵と下総の国境は江戸川に変わりました)国境の幹線道路としても機能していたので、当時の両国界隈は賑わいをみせていたようです。歌川広重のみならず、この方も両国橋を描いていました。葛飾北斎「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」現在の両国橋両国橋のすぐ上流(右側)には、隅田川と同じく江戸城外堀の機能を持っていた神田川の河口が見えています。関連の記事江戸城外堀めぐり(牛込見付~浅草見付)→こちら
2010/04/30
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浅草寺の前の「雷門通り」を東に行くと、隅田川に架かる吾妻橋にたどり着きます。江戸時代には隅田川に5つの橋が架けられましたが、一番最後に架けられたのが吾妻橋です(すぐ下流には駒形橋がありますが、江戸時代には駒形橋はありませんでした)吾妻橋から見た隅田川江戸時代の隅田川沿いには高い建物もなく、コンクリートで護岸されることもないので、風情のある景色が広がっていたようです。歌川広重「名所江戸百景 吾妻橋金龍山遠望」金龍山は浅草寺の山号ですが、浅草寺の位置からすると、吾妻橋よりかなり上流からの構図だと思います。
2010/04/29
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浅草通りの隅田川に架かる駒形橋、その名前の由来となったのが駒形堂で、駒形橋の浅草側に建っています。駒形橋駒形堂駒形堂の建つ隅田川川岸は、628年に浅草寺の本尊である観世音菩薩が最初に奉安され、浅草寺草創の場所でもあります。江戸時代には渡し船が行き来し、船宿も建つほどの賑わいをみせていました。歌川広重「名所江戸百景 吾妻橋駒形堂」駒形橋から見た現在の隅田川東京スカイツリーの完成後は、新しい江戸名所になるのでしょうか。関連の記事浅草寺(2009年12月)→こちら
2010/04/27
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亀戸天神社は江戸時代から「亀戸の藤」と呼ばれ、毎年4月の下旬になると「藤まつり」が行われています。歌川広重「名所江戸百景 亀戸天満宮境内」同じ構図で撮ったつもりですが、広重の構図には及ぶべくもありません。と言うわけで、新名所東京スカイツリーを入れてみました。桜と同じく今年は少し早かったようで、見ごろはGWあたりでしょうか。藤棚も満開とまではいきませんでした。
2010/04/25
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1657年の明暦の大火の後、本所深川方面へ飲料水を供給する目的で、亀有上水が開削されました。水源は瓦曽根溜井(現在の埼玉県越谷市)で、四つ木(東京都葛飾区)まで水路が延びていたそうです。亀有上水の跡亀有上水は1722年に廃止されましたが、四つ木と亀有の間の水路では「サッパコ」と呼ばれる小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で引いていました。ここから「曳舟川」と呼ばれるようになり、柴又帝釈天や水戸街道に向かう人々によって利用されるようになりました。この曳舟は江戸の風物詩ともなり、歌川広重も「名所江戸百景」に描いています。歌川広重「名所江戸百景 四ツ木通用水引船」
2010/04/23
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新宿といっても葛飾区新宿で、読み方も「にいじゅく」です。江戸時代には水戸街道最初の宿場町があり、江戸との間には中川が流れているため、対岸の亀有との間は渡し船で行き来していました。中川は荒川と利根川(江戸川)の間を流れるですが、江戸時代ではこの中川が荒川・利根川水系の本流だったそうです。したがって江戸時代には中川という名前はなく、現在も上流部は古利根川や元荒川と呼ばれています。荒川や利根川の付け替えによって、今となっては取り残された感じの河川ですが、今ではのどかな河川敷が続いています。水戸街道付近の中川江戸時代にはそれなりの大河だったようで、当時は水戸街道を往来する人でにぎわったことでしょう。歌川広重「名所江戸百景 にい宿の渡し」
2010/04/22
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都営新宿線西大島駅の新大橋通り沿いにある羅漢寺ですが、周囲の光景に埋もれるようにしてひっそりと建っている感じです。羅漢寺山門山門のすぐ向こうに本堂があるのですが、いかにも窮屈そうな感じがします。目黒にある五百羅漢寺は元々ここに開山されたそうで、その名の通り五百羅漢が置かれていました。また当時はさざえ堂が建っており、その様子は歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。歌川広重「名所江戸百景 五百羅漢さざゐ堂」場所は同じなのですが、現在の羅漢寺と名所江戸百景の五百羅漢寺とは関係がないようです。
2010/04/20
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江東区新大橋の地名や、汐留から葛西に続く「新大橋通り」で知られる新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として、江戸時代の1693年に造られました。当時は同じ隅田川に架かる両国橋を「大橋」と呼んでいたため、こちらは「新大橋」と名付けられました。何だか二番煎じのような命名ですが、それでも新大橋は世界的にも有名な橋かも知れません。歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」広重のみならず浮世絵の代表のようなこの作品は、ゴッホが影響を受けて模写したことでも有名かと思います。広重やゴッホの作品にも登場し、すぐ近くに住んでいた松尾芭蕉の俳句にも出てくる栄誉ある橋です。こちらが現在の新大橋で、橋の途中には「大はしあたけの夕立」のレリーフが埋められています。
2010/04/18
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東京の八幡宮と言えば、深川の富岡八幡宮が最大の規模を誇っています。その深川の八幡宮ですが、元々は江東区の南砂に勧進されたと言われており、現在も「元八幡」として富賀岡八幡宮が残っています。富賀岡八幡宮。こちらが本家本元なのに、富岡八幡宮に比べると普通の神社といった感じです。富賀岡八幡宮のある「南砂町」の他にも、「北砂町」や「東砂町」の地名があるように、元々は「砂町」の地名が存在しており、江戸時代には「砂村」と呼ばれていました。その「砂村」の地名の由来となったのが砂村新左衛門で、富賀岡八幡宮の境内には顕彰碑が建てられています。砂村新左衛門は越前(福井県)の出身で、新田開発の第一人者でした。荒川河口付近で湿原の広がるこの一帯を干拓し、江戸時代の1659年に「砂村新田」を造成させています。富賀岡八幡宮のある南砂一帯には湿原が広がっていたようで、歌川広重の「名所江戸百景」にもその様子が描かれています。歌川広重「名所江戸百景 砂むら元八まん」荒川河口付近の構図かと思うのですが、ここを干拓するのは相当な苦労があったことだと思います。東京湾の向こうに描かれている山並みは、木更津や富津付近の房総半島でしょうか。富賀岡八幡宮付近から見た荒川河口「砂村」から「砂町」に変わった現在では、なかなか当時の風景を想像することができません。
2010/04/17
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江戸川区(小松川)と江東区の区境を流れる旧中川は、荒川から分流して再び荒川と合流する小さな河川です。大河の荒川と比べると小川かと思うほどの川ですが、江戸と房総を結ぶ元佐倉道(千葉街道)では、旧中川を橋ではなくて渡し船で渡っていたそうです。歌川広重「名所江戸百景 逆井のわたし」江戸川区側(東側)からの構図だと思うのですが、当時の旧中川はそれなりに川幅があったようです。さらには山が描かれていますが、方角的には秩父山系でしょうか。(今となっては信じられない風景ですが…)江戸時代はのどかで風光明媚な場所だったようですが、現在は逆井の渡し跡にも鉄橋の逆井橋が架けられています。明治に入った1879年に逆井の渡しは廃止され、橋が架けられました。村費によって橋が架けられたのですが、工事費用を賄うために、有料の「賃取橋」だったそうです。成田山の参詣客で賑わった旧千葉街道も、現在は首都高速7号小松川線に変わっています。
2010/04/16
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下総の国府が置かれた江戸川東岸には「国府台」の高台があり、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。歌川広重「江戸名所百景」~鴻の台とね川風景(題名は利根川ですが、現在の江戸川です)こちらが現在の国府台付近の江戸川戦国時代には国府台城が築かれていたのですが、現在の国府台城跡は「里見公園」となって、桜の名所として知られています。今年も里見公園にお花見に行ったのですが・・・見込み違いとか見当外れとはこのことを言うのでしょうが、まだ桜が咲いていませんでした。満開になると一面の桜で染まる国府台城の空堀もこんな感じです。同様に気の早い人もいるもので、すでに花見の宴会が始まっていました。関連の記事国府台城(2008年11月)→こちら弘法寺(伏姫桜)→こちら下総国分寺→こちら
2010/03/27
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市川の真間にある手児奈霊堂は、「手児奈」という女性の奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、1501に弘法寺の日与上人によって世に広められました。手児奈霊堂手児奈霊堂の境内に小さな碑が建っていたのですが、何が書いてあるのかよくわかりませんでした。手児奈の奥津城処なのでしょうか・・・手児奈については様々な伝承があり、・美人だったために多くの男性から求婚され、自分のために人々が争うのを見かねて、真間の入江に身を沈めた。・ある国の国造の息子に嫁いだものの、親同士の不和から海に流され、漂着したところが故郷の真間の海辺であった。・継母に仕え、真間の井戸の水を汲んでは孝養を尽くした。など、美談と言えば美談ですが・・・いずれにしても手児奈の伝承は、万葉集を始めとして多くの作品に登場してきました。奈良時代に山部赤人が下総の国府を訪れた時、手児奈の伝承を聞いて、「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」と詠った歌が、万葉集に収められています。また、歌川広重の「江戸名所図会」の中にも、手児奈霊堂と霊堂前の「継橋」が描かれています。江戸名所図会「真間の紅葉 手古那の社 つぎ橋」現在は手児奈霊堂の参道前に、継橋が復元されていました。継橋関連の記事弘法寺→こちら
2010/03/22
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東京23区内で最も高い場所は東京タワーになるのでしょうが、自然の山での最高峰は港区にある愛宕山です。愛宕山は鉄道唱歌にも登場しており、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と歌われています。また歌川広重の浮世絵にも、愛宕山からの東京湾の眺めが描かれています。歌川広重「名所江戸百景 芝愛宕山」標高26mの愛宕山「山頂」には平らな土地が広がっており、愛宕神社の境内となっています。愛宕神社社殿愛宕神社の境内は、幕末の「桜田門外の変」で井伊直弼を襲撃する前に、水戸藩士たちが集合した場所でもありました。標高26mとは言え、ここだけが高くなっているため、わかりやすい集合場所だったことでしょう。愛宕神社の参道は急な階段となっており、「出世の石段」と呼ばれています。1624年に讃岐丸亀藩の曲垣平九郎が馬でこの坂を駆け上り、山頂の梅の枝を取って将軍に献上したことから、馬術の名人として名を馳せることとなりました。そこから「出世の石段」と呼ばれるようになったそうです。愛宕神社の創建は江戸時代に入った1603年で、江戸の防火・防災のため、徳川家康によって建立されました。(とは言いながら、明暦の大火や関東大震災で社殿が焼失してしまいました)今ほど高い建物がなかった頃は、江戸市中で最も眺めの良い場所であり、山頂からは東京湾も見渡せたようです。歌川広重「江戸百景」また1925年に日本初のラジオ放送が行われたのもこの愛宕山で、現在はNHKの放送博物館が建っています。
2010/02/28
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汐留近くの海辺に面する「浜離宮恩賜庭園」は、海水を引き入れて潮の干満によって趣を変える、「潮入」の庭園です。清澄庭園や旧安田庭園なども潮入の庭園だったのですが、現在も実際に海水を引き入れているのは、浜離宮恩賜庭園だけとなりました。「潮入の池」の遠景潮入の池には「中島」が浮かび、御茶屋が設けられていました。明治になって、アメリカのグラント大統領やドイツのフリードリッヒ皇太子などが、ここで明治天皇に謁見したそうです。庭園のすぐ横はもう海となっており、昔は船着き場もあったようです。歌川広重「名所江戸百景 芝うらの風景」この時は津波警報発令中でした。。。庭園の広さは25万平米もあり、園内には四季折々の植物が植えられています。ちょうど梅や菜の花が見ごろになっていました。元々この地は将軍家の鷹狩の場所だったのですが、1654年に4代将軍家綱の弟で甲府城主の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子である家宣が6代将軍になると、この屋敷は将軍家のものとなり、名称も浜御殿と改められています。1709年に6代将軍家宣によって植えられたとされる「三百年の松」以後何度か造園や改修工事が行われ、11代将軍家斉の時にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。園内を見て感じたのですが、庭園もさることながら、軍事拠点としての機能も備えていたのではないでしょうか。そもそも入口(大手門)が総石垣造りで、枡形までありました。当時は渡櫓まであったようで、まさに城郭そのものと言った感じです。園内の至る所には土塁が築かれており、回遊式の泉水庭園にしては不自然な印象がありました。これは築山ではなく、明らかに土塁だと思うのですが・・・さらには石垣で築かれた内堀まであり、園内には火薬所も置かれていたそうです。庭園に石垣の内堀はあまりにも似つかわしくなく、まさに城郭といった感じでした。
2010/02/27
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「築地本願寺さん」と親しまれている築地本願寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言います。お寺にしては珍しい造りで、インド様式の石造りの建物です。元々は1617年に、西本願寺の別院として、第十二代宗主准如上人によって建立されました。浅草近くにあったことから、「江戸浅草御坊」と呼ばれていたのですが、1657年の明暦の大火によって寺院は焼失してしまいました。そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、1697年に再建されています。(ちなみに、この時に海を埋め立てたことから、「築地」と呼ばれるようになりました)当時は和風の建物で、安東広重の「名所江戸百景」にも「築地御坊」の屋根が描かれています。その後、関東大震災で再び本堂が焼失し、1931年に東京帝国大学の伊東忠太博士の設計により、1934年に落成されて現在に至っています。ちょうどこの日は東京マラソンが行われており、本願寺前の新大橋通りにはランナーの行列ができていました。
2010/02/26
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南千住の小塚原刑場跡にも回向院ありますが、南千住は別院で両国が本院になります。両国回向院の境内にも、南千住と同じく著名人の墓所が並んでいました。竹本義太夫の墓所人形浄瑠璃「竹本座」の創始者で、近松門左衛門の名文「曽根崎心中」を人形浄瑠璃で世に送り出しました。(「お初天神」の記事→こちら)鼠小僧次郎吉の墓所そう言えば南千住の回向院や浜松の犀ヶ窪にも鼠小僧次郎吉の墓所がありました。墓石を削って持ち帰るとギャンブルのご利益があるそうですが、あまりに削る人が多いので、現在は墓石の前にある石を削るようになっています。(それでも削れすぎですが…)その鼠小僧の墓所の横には、「猫塚」がありました。落語の「猫の恩返し」に回向院が出てくるそうですが、その猫塚だそうです。さらには「南無阿弥陀仏」と書かれた碑がたくさんならんでいました。海難供養の碑で、江戸時代に海難で亡くなった人の供養塔です。「勢州(三重県)」や「紀州(和歌山)」の文字が多く見受けられます。樽廻船や菱垣廻船の船乗りたちでしょうか。両国の回向院は、1657年の明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられました。明暦の大火では10万人以上の死者を出す大火災で、江戸城の天守も焼け落ちたほどです。その明暦の大火の無縁仏を葬るため、徳川家綱によって「万人塚」が建てられたのが回向院の始まりです。以後は「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」を理念として、現在までも守られてきました。歌川広重「名所江戸百景 神田明神曙之景」関連の記事回向院(南千住)→こちら本妙寺→こちら(明暦の大火の火元とされていますが、江戸東京博物館で新たな説を聞きました)
2009/11/22
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隅田川に最初に橋が架けられたのは、江戸に幕府が開かれる前の1594年のことで、千住大橋が第一号でした。千住大橋橋を通っているのは、現在の日光街道である国道4号線です。松尾芭蕉は船で隅田川を上って千住宿に降り立ちましたが、当時陸路で日光街道を行く場合は千住大橋を渡って隅田川を越えていました。歌川広重「名所江戸百景 千住の大はし」当時は高野槇で造られ、木材の調達は伊達正宗が行ったそうです。最初は単に「大橋」と呼ばれていましたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋が架けられると、千住大橋と呼ばれるようになりました。その後の千住大橋は何度か付け替えが行われましたが、関東大震災の時も焼け落ちることがなかったそうです。そして昭和2年に現在のような鉄橋となりました。さらに千住大橋脇の隅田川の壁面には、安藤広重や葛飾北斎の浮世絵が描かれています。その中に混じって番付表が描かれており、よくよく見ると相撲の番付ではありませんでした。川の番付です。旧国名が付されており、江戸時代に書かれたものだそうです。行司役は江戸の隅田川と両国川、宮戸川ですが、「はて、両国川と宮戸川って?」実はどちらも隅田川で、流域によって名前が違うようです。さらに番付がもう1つ描かれていました。橋番付で、同じく江戸時代に書かれたものだそうです。こちらは橋の長さで番付が決まっているようで、行司を務めるのは両国大橋、千住大橋と江戸大川橋(現在の吾妻橋)です。
2009/08/06
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江戸時代初期に造られた神田上水は、玉川上水と並んで江戸の二大上水と呼ばれています。今回はその神田上水の跡を辿ってみることにしました。現在飯田橋から浅草橋(隅田川)までを流れる神田川は、江戸時代には江戸城の外堀として機能していました。歌川広重「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」こちらが現在の神田川です。御茶ノ水~水道橋の神田川江戸城の外堀でもあり、将軍のお茶の水を汲んでいたことからも御茶ノ水の名前が付いています。将軍のお茶の水もさることながら、江戸市中に水道を供給するためには、外堀を水道が横断する必要がありました。そこで「懸樋」と呼ばれる水道橋を外堀に架けて、江戸市中へ水道を供給していました。御茶ノ水~水道橋の間にある「神田上水懸樋跡」の碑さらに上流には水戸藩の屋敷があり、江戸市中に入る前に、ここを神田上水が通っていました。水戸藩屋敷(小石川後楽園)の神田上水跡地下鉄有楽町線の江戸川橋駅にその名があるように、現在の神田川は江戸川と呼ばれていました。江戸川公園内には、神田上水の堰である「大洗堰」が復元されています。大洗堰跡ここで一旦堰き止められて、神田上水として水戸藩邸(小石川後楽園に流れる神田上水と、江戸川(神田川)に流れる水に分かれていたそうです。当時松尾芭蕉が神田上水の工事に携わっていたそうで、松尾芭蕉が住んでいたとされる住居がありました。関口芭蕉庵歌川広重の「名所江戸百景」にも、神田川と関口芭蕉庵が描かれています。歌川広重「名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま」関口芭蕉庵のある江戸川公園のすぐそばには、現在の神田川が流れています。護岸工事が施されて、当時の江戸川の面影はないことでしょう。ここまで来ると、源流をたどってみたくなるのは、悲しい性分です。神田上水の源流を尋ねて、神田川の上流へと向かって行きました。川沿いの遊歩道を上流へと向かって行くと、途中で妙正寺川と合流します。早稲田付近。左が神田川、右が妙正寺川現在の神田川は、コンクリートで護岸された川岸が続き、神田上水の跡は見る影もありませんでした。中野付近。振り返ると東京都庁と新宿パークタワーが見えていました。杉並区に入ったところで、さらに善福寺川と合流しました。神田上水の源流がどこにあるかは知っていたのですが、まだまだ先は長そうです。さらにひたすら上流を目指し、ようやくの思いで神田川(神田上水)の源流に到着しました。ここが神田川の源流です。コンクリートで固められて味気なかった川面も、ここまで来ると瀬音の聞こえるせせらぎになっていました。そしてその先に目を向けると、井の頭公園の井の頭池(吉祥寺)1590年に小田原北条氏が滅亡した後は、徳川家康が関東に移ってきました。水の手確保の必要性を感じた家康は、井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とする神田川水系を利用して、上水道を整備しました。これが神田上水の原型となっています。元々神田川は真っすぐ日比谷方面に流れていたのですが、徳川秀忠の時代になると、飯田橋付近で東へ流路を付け替え、江戸城の外堀としての機能を持たせました。(現在の神田川)江戸市中に神田上水を流すため、懸樋が外堀に渡されたのも、この時です。高い土木技術で造られた神田上水でしたが、後に玉川上水が整備されると、役割を失って廃止となりました。関連の記事江戸城外堀めぐり(牛込見附~浅草見附)→こちら小石川後楽園→こちら
2009/07/25
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上野の寛永寺と同じく江戸城の北東にあり、鬼門除けとして祀られているのが神田明神です。神田明神の「随神門」目がチカチカしそうなほどド派手な門ですが、欄間には大国主命の神話と四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)が描かれています。そしてこちらが神田明神の拝殿です。祭神は大己貴命(大国主命、大黒様)、少彦名命(恵比寿様)、そして平将門です。神田明神は720年に創建され、元々は大手町の平将門の首塚周辺にあり、平将門を崇敬する東国武士の信仰を集めていました。徳川家康が江戸城を造った時、鬼門除けのために現在の場所へ遷座されています。以後は「江戸総鎮守」とされ、「なんだ神田の大明神」のシャレにもあるように、江戸の町民の信仰を集めてきました。歌川広重「名所江戸百景 神田明神曙之景」関連の記事江戸城その1→こちら江戸城その2→こちら
2009/07/16
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