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12月に沖縄でグスクと世界遺産を巡っている途中、沖縄平和祈念公園とひめゆりの塔に立ち寄りました。ひめゆり学徒隊の慰霊碑実はここを訪れるのは初めてです。慰霊碑の前にある「ひめゆりの塔」沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒によって編成された「ひめゆり学徒隊」、そのひめゆり学徒隊が避難していた「伊原第三外科壕」は、今も残っています。この狭いガマ(洞穴)の中に避難していました。そしてごの外科壕の中にアメリカ軍による手榴弾攻撃があり、約80名が命を落としたそうです。ここは修学旅行の定番にもなっているようで、隣接するひめゆり平和祈念資料館からは、笑い声を上げながら出て来る修学旅行生たちの姿がありました。今回は修学旅行コースの1つだったかも知れませんが、いつかはきっと自分たちの意思でここを訪れる日があると信じています。そしてひめゆり学徒隊だけでなく、「鉄血勤王隊」や「通信隊」など、沖縄戦では多くの学徒隊が命を落としていることも忘れてはならないと思います。沖縄平和祈念公園の「全学徒隊の碑」
2018/01/22
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中城城の本丸である一の郭と二の郭の間の城壁にも、グスク特有のアーチ型の門がありました。二の郭の門一の郭城壁から見た二の郭全景二の郭にも拝所があり、「シライ富ノ御イベ」の名前が付いていました。二の郭の先にある三の郭は「新城(みーぐすく)」とも呼ばれ、後になって増築された曲輪です。二の郭の城壁から見た三の郭二の郭から直接三の郭へは行くことができず、西の郭と北の郭の腰曲輪を経由することになります。二の郭から西の郭へ抜ける門搦手の埋門みたいに目立たない門でした。北の郭と三の郭の間には、大手門に大きな虎口がありました。三の郭虎口櫓台のような物見台もあったりして、城内で最大の門だと思います。三の郭に入ってみると、二の郭の城壁が目の前に立ちはだかっていました。これを登って二の郭に入るのは難しそうです。再び北の郭に戻り、裏門から城外に出て振り返ると、三の郭の石垣が見えていました。。アメリカ海軍東インド艦隊のペリーが幕末に中城城を訪れた時、この城壁を賞賛し、アーチ型の門をエジプトのようだと評したそうです。中城城の築城時期は明らかではありませんが、14世紀中頃に先中城按司が築城したとされています。1440年に護佐丸が座喜味城から移封すると、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築しました。しかしながら1458年、勝連按司阿麻和利が首里王府軍の総大将として中城城を攻め、築城の名手護佐丸もこの時に滅亡しました。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」日本城郭協会「日本100名城」
2017/12/27
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ユネスコ世界遺産(文化遺産)、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」巡りも、残すところ中城城のみとなりました。この世界遺産碑を見るのは2回目で、実は約10年前に中城城を訪れたことがありました。当時は登城道も整備されていなかったのですが、今回は登城道までの道が整備されている上、正門近くまでカートで運んでもらいました。中城城の正門当時は櫓門が建っていたと思われます。正門の手前にはガマ(洞口)があり、「カンジャーガマ」の名前がありました。カンジャーガマ鍛冶場の意味があるようです。中城城は不思議な縄張になっており、正門に近い方から一の郭・二の郭・三の郭の名前があり、南の郭・西の郭・北の郭が周囲に配されています。正門を大手門とみるならば、一の郭(本丸)が不思議な位置にあります。正門を通ると、まずは西の郭がありました。西の郭見えているのは一の郭の城壁で、いきなり本丸です。それでもすんなりと一の郭にたどり着くことは出来ず、西の郭からさらに南の郭を経由する順路となっていました。南の郭の虎口中城城には8か所の拝所があり、中でも南の郭には拝所が3か所あります。小城ノ御イベ(久高遥拝所)と御富蔵火神(首里遥拝所)雨乞イノ御嶽南の郭から一の郭の間の城壁には、グスク特有のアーチ型の門が置かれています。一の郭の門一の郭の内部一の郭はまさに本丸として機能していたようで、按司が政務を行う正殿が建っていたようです。一の郭の正殿跡一の郭にある拝所 「中森ノ御イベ」一の郭では、一部城壁に上がることができました。一の郭の城壁グスク特有の曲線に城壁には、内側に武者走りが設けられていました。一の郭は中城城の中でも最も高い場所にあり、城壁からは中城湾がよく見渡せました。
2017/12/26
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勝連城の一の曲輪(本丸)では一段と高い石垣が積まれており、これだけでも見ごたえ十分でした。布積み(日本城郭の打込み接ぎ)と相方積み(切込み接ぎ)が混じっており、途中で改修されたのかも知れません。それにしてもグスクの石垣技術の高さにはつくづく感服しますが、隅石の曲線はグスクならではでしょうか。(日本城郭では、隅石を算木積みで積み、角張っているのが特徴です)一の曲輪へ続く石段上に行くほど狭くなっているのが、防御上の工夫です。一の曲輪(本丸)一の曲輪にも御嶽があり、「玉ノミウヂ御嶽」の名前が付いていました。大きな霊石をご神体とする御嶽で、発掘調査では宝物殿の跡が確認されたそうです。また、二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、勝連城の落城の時はここが避難路となったと伝えられています。一の曲輪から振り返ると、勝連城の全景がよく見渡せました。勝連城の築城時期は明らかではありませんが、すでに13世紀にはここにグスクがあったとされています。15世紀の琉球王国の統一の中で、国王に最期まで抵抗した有力按司が「阿麻和利」で、1458年に琉球王によって滅ぼされるまで、勝連城を本拠地としていました。阿麻和利は北谷の農民出身で、幼少の頃は体が弱く、山に捨てられたと言われています。それでも聡明なために出世し、人々から慕われるとと共に、海外貿易によって勝連を発展させてきました。勝連城を訪れてみると、その築城の中に才知を見ることができました。交易と軍事に長けた阿麻和利の才能がわかるような気がします。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」日本城郭協会「続日本100名城」
2017/12/25
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勝連半島の付け根部分、標高100mの独立した丘陵部にある勝連城は、うるまの市内からもその石垣がよく目立ちます。勝連城の全景勝連城は三の曲輪から一の曲輪まで備えた連郭式で、それぞれの曲輪が城壁と石垣で囲まれています。西原御門の石垣三の曲輪へ続く石階段右側に城壁を見ながら横矢が掛かっており、本土の城郭と同じく防御設備が見られます。三の曲輪の城壁この城壁を右に見る格好となり、単なる交易拠点ではなさそうな感じでした。三の曲輪の城門おそらく櫓門が建っていたと思われますが、本土でこのクラスの石垣門を見るためには、勝連城の築城から100年以上は待たなければならないことでしょう。三の曲輪から見た二の曲輪の基壇野面積みと布積み(切込み接ぎ)が見られますが、途中で改修されたのかも知れません。二の曲輪には建物の礎石跡があり、舎殿が置かれていたようです。二の曲輪の全景二の曲輪と一の曲輪の間には、「ウミチムン(火の神)」が祀られ、「ウシヌジガマ」の洞口がありました。「ウミチムン(火の神)」(左)と「ウシヌジガマ」(右)「ウミチムン」は「三個のかまど」の意味があり、琉球古来の信仰である火の神を祀っています。ここからは久高島などの聖地を遙かに拝む場所であったとされています。さらに沖縄でよく見かける洞窟が「ガマ」で、「ウシヌジ」とは「身を隠す」の意味があります。勝連城が落城した時、城主の阿麻和利は「ウシヌジガマ」を抜けて読谷へ逃げ延びたの言われています。太平洋戦争の沖縄戦でも、ひめゆり学徒隊が避難していた場所も、やはりガマでした。琉球の城(グスク)に関して言えば、そもそもの築城目的が戦闘拠点ではなかったと思っています。信仰の拝所である「御嶽(ミタキ)」があり、何よりも交易は海からやって来ます。その海を一望できる場所こそ、グスクならではの築城場所でしょうか。中城湾の方向平安座島の方向
2017/12/24
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名護湾を見下ろす標高107mの山頂部に名護城(ナングスク)があります。名護城の城跡は神社の境内になっているらしく、両脇に石灯篭が並ぶ500段ほどの階段を、延々と登って行きました。そしてその長い階段の先にあったのが、普通に神社の拝殿です。名護神社拝殿琉球信仰の御嶽(うたー)ではなく、まぎれもなく神道の神社です。それでも屋根は沖縄赤瓦で、不思議なものを見ている気がしました。これまで登ってきた階段を振り返ると、名護湾が一望できました。今回のグスク巡りで共通していることは、必ず海の見える場所にあるということです。このことから、グスクは交易の拠点でもあったと確信しました。拝殿の先に道がついており、さらにその先に行ってみることにしました。さらに石段が山頂部に続いており、途中には曲輪と思われる削平地があります。「グスク=石垣」と考えていると、うっかり見落としてしまいそうした。斜面に沿って曲輪の跡がいくつかあり、こちらには琉球の信仰である拝所などもありました。(撮影はしていません)そして石段を登り切った先には、本丸と思われる削平地があります。名護城には、グスク特有の琉球石灰岩の石垣が全くありません。土塁で造られた単郭城郭には、本土でいう鎌倉時代の中世城郭のような印象すらあります。本丸の背後には日本城郭の堀切の跡はあったものの、戦闘拠点としては全く手薄な感じがしました。このことからも、本来のグスクの目的は本土と違い、単なる戦闘拠点ではなかったように思います。名護城の築城は14世紀の初めとされ、まさに鎌倉時代の築城です。築城主は北山城(今帰仁城)の名護按司で、中山尚巴志が琉球を統一してからは、名護按司が首里に引き揚げたため、以後は名護の住民がそれぞれ暮らしていました。以来、名護の人たちの信仰の地となっていましたが、昭和3年に現在の神社が建立されたそうです。
2017/12/23
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加藤清正や藤堂高虎など、16世紀の戦国時代には築城の名手、特に石垣造りの名手がいました。それから遡ること約1世紀、琉球にも護佐丸という築城の名手がおり、その護佐丸によって築城されたのが座喜味城です。座喜味城の城跡碑座喜味城は二の郭と主郭の2つの曲輪を持つ縄張となっており、それぞれの曲輪が城壁で囲まれていました。石積みも布積み(日本城郭では「切込み接ぎ」)が見られ、築城技術の高さがうかがえます。二の郭の門琉球の城(グスク)の特徴でもあるアーチ型の門で、琉球の城の中でも最も古いアーチ門とされています。二の郭の城壁(内側から見たところ)座喜味城は結婚式の撮影スポットともなっているようで、この日も二の郭で新郎新婦の撮影が行われていました。主郭から見た二の郭の全景主郭は一段高い場所にあり、アーチ門には石段が付いていました。主郭のアーチ門主郭全景(内側から見たところ)主郭の城壁は、一部登って見学することもできました。曲線の城壁とそこから望む太平洋が、グスクの特権でしょうか。座喜味城は15世紀の初め、築城の名手として知られる護佐丸によって築城されたと言われています。中山王である尚巴志が、1416年に北山の今帰仁城を攻略した時、護佐丸も中山の連合軍として今帰仁城攻略戦に参戦していました。護佐丸が戦後処理のために今帰仁城(北山)に留まっている時、築城されたのが座喜味城です。特に座喜味城のアーチ門は、現存の他のグスクには見られない技法であることから、現存する最古のアーチ門だと言われています。太平洋戦争では、城内に日本軍の高射砲陣地が置かれ、戦後もアメリカ軍のレーダー基地が置かれていました。沖縄返還後に復元事業が始まり、1982年に復元事業が完了しています。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/12/21
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今帰仁城の主郭(本丸)も石垣の城壁で囲まれており、14世紀中頃(1300年代)にはすでに石積みになっていたそうです。野面積みの石垣ですが、日本城郭でこれだけの石垣が造られるのには、あと200年ほど待たなければなりません。主郭には「里主所火の神」が祀られていて、尚氏による琉球三山統一後に建てられたものです。里主所火の神尚氏の中山から派遣された監守が、1665年に首里に引き揚げた後も崇めれてていて、現在も参詣者が絶えないそうです。主郭は本丸と同様の機能があったようで、建物の跡が残っていました。建物跡礎石も石垣で造られているのがお見事です。城壁で囲まれた主郭のさらに奥には門があり、その先にも曲輪が連なっているようです。主郭の先には「志慶真(しげま)」と呼ばれる曲輪があり、建物の礎石跡も残っていました。志慶真の曲輪跡本丸からは一段低い場所にあり、城主に使える人たちが生活していたとされています。志慶真から見た主郭城壁今帰仁城の主郭から降りてくると、周辺にはいくつかの集落跡がありました。ムラ跡主郭を中心として、城壁で囲まれた城下町が形成されていたのかも知れません。その意味では、大陸の城郭都市の影響が大きいのかと思います。14世紀の琉球は、北部地域を北山・中部地域を中山・南部地域を南山が支配した「三山鼎立の時代」で、中国の史書にもその三王の名前が登場します。今帰仁城を拠点とする北山王は沖縄本島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかしながら1416年に中山(首里城)の尚巴志によって滅ぼされ、中山が監守を今帰仁に設置して以降、監守の居城として今帰仁城を利用していました。1609年には薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。監守が住まなくなって以後は拝所となりましたが、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れているそうです。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、今帰仁城も世界遺産(文化遺産)に登録されました。日本城郭協会「日本100名城」(90/100)
2017/12/20
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今帰仁城の石段には1月下旬になると寒緋桜が咲き、毎年「今帰仁グスク桜まつり」が行われるそうです。その石段の先には曲輪の跡があり。「大庭(うーみゃ)」と名付けられていました。首里城の御庭(うなー)と同様の機能があったとされ、発掘調査では大庭を取り囲むようにして、正殿・南殿・北殿の礎石跡が見つかっています。そして今帰仁城の大庭にも、琉球のグスクには必ずと言っていいほど存在する御嶽(みたき)がありました。ソイツギ(城内下之御嶽)跡大庭のから一段高くなった所には、「内原(うーちばる)」と呼ばれる曲輪の跡があり、ここからは太平洋が一望できました。見えているのは伊平屋島でしょうか。御嶽の存在もさることながら、グスクの特徴として、海が見渡せる場所にあることが挙げられます。このことからも、戦闘拠点というよりも、むしろ交易の拠点であったり、神聖な場所であったことがうかがえます。内原から見た大隅(うーしみ)の曲輪跡内原は女官が暮らしていたとされ、最も神聖な御嶽である「テンチジアマチジ(城内上の御嶽)」がありました。斎場御嶽と同じく、かつては男子禁制だったようです。内原からさらに高い場所にあるのが主郭で、いよいよ今帰仁城の本丸に入って行きます。
2017/12/19
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今帰仁(なきじん)は、ぜひ訪れてみたい城の1つでした。これまで画像でしか見たことのなかった城壁が目の前にあります。大隅(曲輪の名前)の城壁この高石垣と曲線美は、琉球のグスクならではでしょうか。平郎門グスク特有のアーチ型ではありませんが、ここが大手門のようです。平郎門を抜けると、左右に見通しの良い平地があり、かつては城壁で囲まれていたようです。カーザフの城壁もっと高い城壁があったのかも知れませんが、日本城郭の縄張のセオリーからすると、大手周辺があまりに手薄な気がします。平郎門からは、直線の長い石段が続いていました。この石段は1960年代になって造られたもので、本来あった旧道は発掘調査によって見つかったものです。旧道跡
2017/12/18
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沖縄本島の最南端、喜屋武岬近くにあるのが具志川城です。東シナ海に臨む城跡(ぐすくあと)には、サンゴで出来た琉球石灰岩の城壁が残っていました。首里城と違って、ここではサンゴ石の野面積みです。城壁には門があったのかも知れませんが、崩落していてよくわかりませんでした。虎口跡具志川城は三方を海に囲まれており、虎口を抜けると主郭の先に太平洋が広がっていました。虎口跡から見た主郭柵で囲まれた井戸のような場所は「ひーふちみー(火吹き穴)」と呼ばれ、海につながっています。「ひーふちみー」は、荷物の上げ下ろしや有事の際の避難に使われたとされたようです。主郭虎口(内側から見たところ)海に面した石垣には、見張りのための階段と武者走りの跡がありました。階段跡武者走り跡本土の城(しろ)について言えば、戦闘拠点としての役割が主だったと思います。琉球の城(ぐすく)では、交易の拠点としての役割が主で、海に対する物見は重要な機能だったのかも知れません。具志川城西側の太平洋南側断崖絶壁で囲まれています。東側その向こうが喜屋武岬です。具志川城の築城時期は明らかではありませんが、出土した遺物からは13世紀から15世紀に使用されていたとされています。また、築城主は久米島から逃れてきた按司とされています。首里城のような相方積みや布積みではありませんが、少なくとも本土では石垣すら登場しない時期、琉球では野面積みの石垣が存在していたことになります。
2017/12/17
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琉球の城(グスク)が軍事拠点ではなく、聖域であったとされる理由の根拠に御嶽(うたき)の存在があります。御嶽は琉球神道の神が存在する場所とされ、その琉球王国最高の聖地であるのが「斎場御嶽(せーふぁうたき)」です。斎場御嶽碑琉球王朝の時代は男子禁制で、琉球国王も女装して入ったそうです。中に入ると必ず小さな教室のような部屋に入り、ビデオで様々な注意事項を与えられるようになっていました。琉球神道に限らず、聖域に入るにあたっては、これくらいのことは当然かと思います。御門口(うじょうぐち)ここで一礼して出入りする人が多いのが印象的でしたが、先のビデオでは膝をついて拝礼していました。御門口から続く石畳ふと大学の探検部時代に訪れた西表島を思い出しました。西表島の山中にはもちろん石畳などはなく、道ともわからないような踏み跡をたどって、延々と亜熱帯林を抜けて行きました。石畳を抜けた先には、最初の拝所である大庫理(うふぐーい)があります。手前の台座のような石畳が、祈りを捧げる場所です。ところでこの日の沖縄は気温が20度を超えており、12月なのに上着はもちろんのこと、薄着の長袖でも暑いくらいでした。それでも斎場御嶽の大庫理では、ふと涼風が吹き渡るのが不思議です。大庫理の先にあるのが「寄満(ゆいんち)」で、琉球王朝では台所を意味しますが、世界中から交易品が集まる場所だったと解釈されています。沖縄ではこのようなガマ(鍾乳洞の洞口)が数多く見られます。「ひめゆり学徒」が最後に避難していた場所も、このようなガマでした。斎場御嶽の最奥部にあるのが、聖地の中でもさらに気高い拝所である「三庫理(さんぐーい)」です。三庫理前にある岩三庫理の手前には、「シキヨダユル」と「アマダユル」の壷があります。鍾乳石から滴る聖水を受ける壷です。探検部時代、鍾乳洞の中で石筍から水滴が落ちるのを数多く見てきましたが、露天でみるのは初めてです。三庫理にあるチョウノハナの香炉三庫理三庫理の空間を抜けると視界の先に太平洋が広がり、「神の島」である久高島を見ることができました。琉球を創ったアマミキヨが天から降りて最初に創った島とされています。私の両親ともにカトリック教徒であり、私自身もカトリック教徒です。宗教は違えども、琉球神道の聖地である斎場御嶽を訪れると、なにか通じるものを感じました。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/16
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識名園は琉球王朝の庭園であり、中国からの使節である「冊封使」などを接待した場所でもありました。識名園入口日本庭園は数多く見てきましたが、琉球庭園とはどのようなものか、非常に興味があります。中に入って見ると、まずは番屋が現れました。一瞬、台南市の徳記洋行の旧倉庫「安平樹屋」を思い出してしまいました。番屋の先にある通用門ガジュマルなどの亜熱帯植物が雑然と生い茂っている感じですが、これにも意味があるようです。視界を遮ることにより、外界から切り離された空間を演出しているそうです。沖縄の県花「デイゴ」かつての正門一見すると本土の薬医門形式ですが、琉球瓦の屋根に、本土にはない石積みがあります。正門から続く石畳の通路ガジュマルのトンネルを通っていると、まるで別世界にいるようです。樹林帯を抜けて視界が開けた時、目の前に現れたのは、日本庭園でもよく見る「池泉回遊式庭園」でした。それでもよく見ると、琉球と中華が入り混じっています。石橋中国の使者である「冊封使」を接待した庭園とあって、中華のテイストにあふれています。六角堂こちらも和風ではなく、中華風でしょうか。池の水源となっているのが「育徳泉」で、こちらはグスクと同じく琉球石灰岩の石積みで造られていました。育徳泉育徳泉からは、やはり琉球石灰岩の石畳が続いていました。そして石畳の先には、本土の大名庭園でもよく見かける御殿があります。御殿琉球瓦の書院造です琉球では御殿と書いて、「うどぅん」と読みます。識名園の創建時期は明らかではありませんが、18世紀の終わり頃の第二尚氏王朝の時代だとされています。中国と琉球の文化が混じった様式には、中国皇帝からの使者をもてなす目的であったことがよく見てとれました。「勧耕台」と呼ばれる展望台沖縄の高台にしては珍しく、ここからは海を見ることができません。これも中国大陸を意識していたとされています。太平洋戦争の沖縄戦で破壊されたものの、1975年から20年をかけて復元されました。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
2017/12/15
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「玉陵」と書いて、「たまうどぅん」と読むそうです。(むしろ「たまうどぅん」と読んで、「玉陵」と書くのかも知れません)玉陵碑首里城の西隣にある玉陵は琉球国王の墓所で、ガジュマルの樹々の間を抜けた先に番所と玉陵があります。かつては東の御番所と西の御番所が置かれ、発掘調査の結果、現在は東の御番所が復元されています。玉陵の前門琉球石灰岩による総石垣造りで、相方積みの石積みが見事です。玉陵は1501年に尚真王が父の尚円王の遺骨を改葬するために築いたもので、以後は第二尚氏王統の陵墓となりました。玉陵は東室・中室・西室の3室に分かれています。左から東室・中室・西室(国指定重要文化財)琉球の葬制は風葬で、遺体は中室に安置された後、王と王妃の遺骨は東室、その他の限られた王族の遺骨が西室に葬られました。太平洋戦争の沖縄戦では大きな被害を受けましたが、戦後になって復元され、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました
2017/12/14
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琉球の聖地である「御嶽(みたき)」、各地のグスクでは必ずと言っていいほど目にしてきました。首里城にある数々の御嶽の中でも、守礼門と観会門の間にある「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」は、琉球国王が外出する時に、安全祈願を行った場所です。園比屋武御嶽石門(国指定重要文化財)石門は神社で言うところの拝殿にあたりますが、御嶽では本殿はなく、その後ろに広がる森が信仰対象となります。日本様式と中国様式の合わさった琉球石灰岩の石門は、尚真王の時代の1519年に創建され、竹富島(八重山諸島)の西塘によって造られました。1933年(昭和8年)に国宝に指定されましたが、太平洋戦争の沖縄戦で大破し、1957年の解体修理を経て、1986年に復元が完成しています。そして2000年11月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されました。「園比屋武御嶽石門」の揮毫は、平山郁夫先生によるものです。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/13
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奉神門から先が正殿のある「御庭(うなー)」となり、ここからが有料エリアとなります。奉神門毎朝8:30になると、奉神門では御開城の儀式が行われます。今回早起きして首里城に来たのも、この儀式を見るためでした。銅鑼が鳴らされ、門番の方の「うけーじょー(御開城)」の発声を合図に門が開くと、修学旅行生達も一般観光客の人達も城(ぐすく)めぐりの私も、皆ぞろぞろと中へ入って行きました。奉神門の先には「御庭(うなー)」があって、その奥に正殿があります。正殿御庭は様々な儀式が行われた広場で、色違いの「磚(せん)」と呼ばれる敷瓦が敷いてあります。これは儀式の際に、位の順に並ぶための目印でもありました。かつての儀式の復元模型正殿の創建は発掘調査の結果、14世紀末頃と見られています。その後は何度か焼失と再建を繰り返し、18世紀初めに再建された正殿も、沖縄戦で焼失してしまいました。現在の正殿は、沖縄戦まで残っていた正殿をモデルにして、平成4年に復元されました。復元された正殿には、中に入って見学することもできます。正殿内部は1階と2階に分かれていて、1階は主に国王自ら政治や儀式を執り行う場所で、2階は常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した場所でした。2階にある「御差床(うさすか)」は国王の玉座で、様々な儀式や祝宴が行われたところです。御差床(うさすか)「中山世土」の扁額は清の康煕帝によるもので、「琉球は中山が代々土地を治める」の意味です。御差床の向かいには、「唐破豊(からはふ)」の部屋がありました。日本城郭の建築物では「唐破風」と書きますが、首里城ではなぜか「唐破豊」と書くようです。御差床は1階にもありましたが、2階の御差床に比べると、質素な感じがしました・1階の御差床こちらは日常的に使われていたのかも知れません。首里城では、国王が日常の執務を行った「御書院」の広間があり、南殿に隣接しています。御書院の間意外なことに、純和風です。御書院からは、「鎖之間(さすのま)」と庭園を眺めることができ、御書院・鎖之間・庭園で国の名勝に指定されています。鎖之間琉球瓦に障子張りの組み合わせが奇特な感じです。庭園こちらは蘇鉄と松の組み合わせが妙です。首里城は1429年の尚巴志による琉球王国統一後、1879年まで琉球国王の居城でありました。実際の築城時期はもっと古く、14世紀半ばだと言われています。1469年の政変で第一尚氏王統から第二尚氏王統へ政権が移り、1609年には薩摩藩の支配下に置かれたりしましたが、琉球王国の形態は450年間も続いています。ところで幕末の黒船来航と言えば、浦賀沖の出現が有名かと思います。実はその1ヶ月半前にペリーは黒船を率いて琉球に来航し、上陸までしていました。この時は首里城を訪れて国王に面会したそうです。後の太平洋戦争では城郭が殆ど滅失し、戦後は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、1972年から復元整備が進められ、1992年に正殿・北殿・南殿等の内郭の復元整備が終わりました。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録されました。日本城郭協会「日本100名城」ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/12
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首里城に限らず、琉球の城(ぐすく)の見どころは石積みにあると思います。城壁がなだらかな曲線を描き、隅石の角が上に伸びる「角がしら」もグスクの特徴の一つです。観会門から久慶門に続く城壁淑順門の城壁「角がしら」が見られます。首里城について言えば、遅くとも15世紀半ば(1400年代の半ば)には、現在の城壁が造られたとされています。観会門と瑞泉門の間にある城壁四角く整形した石を積む「布積み」と呼ばれる技法ですが、日本城郭でいうと石積みの間に隙間のない「切込み接ぎ」と呼ばれる技法で、江戸時代に入った17世紀(1600年代)以降に見られる積み方です。右掖門の城壁石を六角形の加工した「相方積み」と呼ばれる技法で、本土では「亀甲積み」と呼ばれる技法です。首里城に石垣が積まれた時代、本土では石垣すら登場しておらず、また布積みや相方積みと同じ「切込み接ぎ」の技法となると、さらに150年後の話になります。久慶門の城壁上が相方積みで、下の方に布積みが見られます。漏刻門の城壁左側が相方積みで、右側が布積みになっています。琉球石灰岩は加工しやすいのもありますが、本土より150年も技術が早いのは、やはり大陸の影響でしょうか。
2017/12/11
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守礼門から正殿に至るルートはもう1つあって、久慶門から入るルートがそのルートになります。(首里城の見学コースとしては帰路になるため、最後に久慶門を出る格好になります)久慶門かつては通用門としての役割があり、主に女性が利用していたそうです。久慶門(城内から見たところ)久慶門から右掖門へ至る間には「寄内ノ御嶽」があります。寄内ノ御嶽御嶽(うたき)は聖地や拝所のことで、信仰や祭祀の場所です。首里城に限らず、琉球の城(グスク)では随所に見ることができ、首里城では「寄内ノ御嶽」と呼ばれる場所が2か所ありましたが、いずれも場所は確認できていません。右掖門が「寄内御門」とも呼ばれていたことから、北東城郭の内側が「寄内」と考えられています。その右掖門の入口までは、これまでと違って長い坂道が続いていました。右掖門坂の途中で城壁の石積みは変わっており、布積み(手前)から相方積み(奥)に代わっています。日本城郭でいうならば最も進化した「切込み接ぎ」になるのでしょうが、ここまでの技術は五稜郭など一部の城郭でしか見たことがありません。右掖門(城内から見たところ)右掖門の先にある淑順門が、国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門です。淑順門現在の見学ルートでは正殿のある「御庭(うなー)」からの出口になっていますが、かつてはここが「御庭」への入口でした。
2017/12/10
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亜熱帯の情緒あふれる12月の沖縄。アジアモンスーンに吹かれながら夜の国際通りを歩いていると、南国テイストの中にノスタルジーを感じてしまいました。(街並みは那覇と全く違うのに、在台時代の台北市街地を思い出してしまいます)オリオンビールと沖縄料理に島唄のライブと、なかなか名残惜しい夜でしたが、次の日は早起きなので早めに切り上げました。そして翌朝一番で向かった先が首里城です。(朝一番にも理由があります)首里城第一の門である「守礼門」首里城の守礼門は、札幌時計台・高知はりまや橋と並んで「日本三大がっかり」の1つに数えられています。日本城郭で言うと大手門にあたるため、櫓門のような大きさを想像していたならば、がっかりなのかも知れません。(個人的には首里城は二回目でもあり、がっかり感はありませんでした)守礼門の扁額には「守礼之邦」すなわち「琉球は礼節を守る国」だと書かれています。元々の守礼門は16世紀に建立され、国宝にも指定されていましたが、沖縄戦によって破壊されました。現在の守礼門は昭和33年に復元されたものです。守礼門から正殿に入るルートは二通りあって、観会門・瑞泉門・漏刻門から広福門を通るルートと、久慶門・右掖門・淑順門を通るルートがあります。(首里城の見学コースとしては、観会門~広福門が行きのコースで、淑順門~久慶門が帰りのコースとなっています)第二の門「観会門」城(ぐすく)特有のアーチ型の門で、門の両脇にはシーサーが置かれています。「観会」は歓迎の意味で、かつての中国からの使者である「冊封使」などを歓迎する意味もあったそうです。元来の門もやはり沖縄戦で焼失してしまい、現在の門は昭和49年に復元されました。観会門の先には、泡盛の名前でも知られる「瑞泉門」があります。第三の門「瑞泉門」「瑞泉」とは「めでたい泉」の意味で、瑞泉門の手前にある湧水が名前の由来になっています。龍の口から湧水が流れる「龍樋」瑞泉門も沖縄戦で焼失し、平成4年に復元されました。最後の漏刻門を抜けると、正殿のある内郭へと入って行きます。漏刻門「漏刻」は水時計の意味で、かつては櫓門に水槽を置き、漏れる水の量で時間を測ったそうです。内郭に入ってみると、今度は日時計である「日影台」が置かれていました。日影台水時計に日時計と、昔の琉球では時間にうるさかったのでしょうか。(「なんくるないさー」とはいかなかったようです)さらには「万国津梁の鐘」が供屋の中に置かれていました。現在の鐘は復元ですが、元々は1458年に鋳造され、首里城の正殿に掛けられていました。当時の正確な場所がわからないため、とりあえずここに置かれているようです。「万国津梁」とは「世界の架け橋」の意味で、鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれています。しかしながら、この鐘が何に使われていたのか、今もって不明とのことでした。内郭には朱塗りの「広福門」があり、ここから先が「下之御庭(しちゃぬうなー)」、すなわち正殿のある「御庭(うなー)」の前広場となります。広福門
2017/12/09
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