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「幕末」とか「倒幕」というと、どうしても江戸幕府になってしまいますが、鎌倉幕府にも倒幕の動きがあり、その動きもやはり西国から起こっています。播磨の赤松則村(円心)などの反鎌倉幕府派が蜂起すると、伯耆の名和長年が後醍醐帝を隠岐島から救出することに成功、護良親王も大和の吉野で檄を飛ばしながら、各地を転戦していました。その間、河内では楠木正成が再度挙兵、千早城でゲリラ戦法を駆使した壮絶な籠城戦を展開し、続々と押し寄せる幕府の大軍を河内に釘付けにしています。この動きに呼応するかのように幕府の御家人たちも幕府に反旗を翻し、足利高氏(尊氏)が六波羅探題を襲撃して京都を制圧すると、新田義貞は幕府の本拠地鎌倉を目指して進軍していきました。新田義貞が本拠地である新田荘(群馬県太田市)で挙兵した時、その数はわずか150騎だったと言われています。それでも越後や信濃など、関東各地の諸将が新田義貞の下に参陣し、新田軍の数は増え続けていきました。さらには足利高氏の嫡男である千寿王(後の室町幕府第2代将軍足利義詮)が合流すると、その数はさらに増え続け、最終的には20万の大軍勢になったそうです。新田軍は小手指原や分倍河原で鎌倉幕府軍を次々と撃破し、いよいよ鎌倉に迫ったのですが、天然の要塞である鎌倉の切通を突破することはできませんでした。そこで海沿いに稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め入り、北条高時とその一族が立て籠もる東勝寺がいよいよ決戦の舞台となっています。分倍河原(東京都府中市)にある新田義貞像(2014年12月)稲村ヶ崎にある「新田義貞徒渉伝説地」の碑(2012年9月)鎌倉七口の1つ、化粧坂(2014年10月)決戦の地である東勝寺は、北条執権邸のあった宝戒寺から東勝寺橋を渡ったところにありました。東勝寺橋東勝寺跡東勝寺のさらに奥、祇園山ハイキングコースの入口には、「腹切やぐら」と呼ばれる場所があります。北条高時は一族と共に自刃し、その中には内管領長崎高資、前の内管領でその父である長崎円喜、第15代執権の金沢貞顕などがおり、源頼朝以来続いた鎌倉幕府は、ここに滅亡しました。北条高時の首を守りながらも敗走して幕府軍を助けるため、「貝吹地蔵」が貝を吹き鳴らしたと言われています。その貝吹地蔵は、鎌倉天園ハイキングコースの瑞泉寺ルートの途中に置かれています。作者も成立年代も不明の大作「古典太平記」ですが、吉川英治先生がまさに命を削って書き上げた「私本太平記」で甦り、さらに1991年の大河ドラマでは、名作中の名作と言われる「太平記」が放映されています。大河ドラマ「太平記」より、第22話「鎌倉炎上」第18話からご覧になると、一連の倒幕の動きがわかるかと思います。(なぜか繁體中文の字幕が入るので、中国語の勉強にもなります)北条高時:片岡鶴太郎長崎円喜:フランキー堺金澤貞顕:児玉清赤橋守時:勝野洋後醍醐天皇:片岡孝夫足利高氏:真田広之新田義貞:根津甚八(途中で萩原健一さんが病気のため交代)楠木正成:武田鉄矢私本太平記全一冊合本版【電子書籍】[ 吉川英治 ]
2018/06/25
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鶴岡八幡宮の前の道を東に向かって行くと、突き当たった先に宝戒寺があります。宝戒寺山門訪れたのは3月のことです。山門の前には鎌倉ではおなじみの鎌倉町青年団による解説碑が建っており、「北条執権邸舊蹟」と書かれていました。大正7年に建てられた解説碑によると、第二代執権北条義時以後、累代の執権がここに住んでいました。「太平記」に登場する第14代執権北条高時の屋敷もこの場所にありました。。(北条高時が好んだ田楽や闘犬も、ここで行われたのかも知れません)鎌倉幕府滅亡後、北条氏一族の霊を弔うため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、北条氏の屋敷跡に建立したのが宝戒寺です。境内には北条一族と東勝寺合戦の戦没者を供養するための宝篋印塔が建てられていました。本堂の屋根には北条氏の三つ鱗の家紋が刻まれており、鎌倉幕府の栄枯盛衰を感じてしまいます。宝戒寺本堂宝戒寺を後にすると、いよいよ鎌倉幕府最期の地、東勝寺へと足を向けました。源頼朝が築いた武家の都鎌倉。それを平氏の北条氏が乗っ取り、最後は源氏によって陥落されるという、何とも皮肉な話です。
2018/06/24
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河村城の大手方向からは、堀切を隔てた先に曲輪がいくつか配され、さらに堀切を隔てて本丸である「本城郭」があります。近藤郭の先にある堀切薬研堀のようです。本城郭ピクニックには最適な芝生広場で、この日も大勢の大学生がコンパをしていました。本城郭にある城跡碑本城郭の周囲にも曲輪が配され、堀切で隔てられているはずなのですが、あまり判然としませんでした。馬出郭の先端部河村城の歴史は古く、平安時代の末期に藤原秀郷の流れを汲む河村秀高によって築かれたと伝えられています。河村秀高の子河村義秀は、源頼朝の挙兵の時に平氏についたため、一時は領地を没収されてしまいましたが、1190年の鎌倉での流鏑馬の妙技が認められ、本領に復帰しました。現在も山北町に伝わる「室生神社流鏑馬」はこれに由来するそうです。「太平記」の時代、河村氏は新田氏と共に南朝方についたため、足利尊氏による鎌倉攻めの時は、新田氏と共に河村城に籠城したとの記録もあるそうです。戦国時代になると小田原北条氏の支配下となり、敵対する武田氏に備えて城郭が補強されたようです。武田氏と争奪戦を繰り広げた河村城でしたが、他の北条氏の城を同じく、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めにより、廃城となっています。
2018/04/30
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ゴールデンウィークまではあまり活動できていなかったのですが、連休に入ってようやく動き出すことが出来ました。向かった先は、同じ神奈川県内でも静岡や山梨の県境にある山北町、河村城です。現在は河村城址歴史公園として整備されており、大手口にある「馬違戸」に3台ほどの駐車スペースがありました。手前にいるのが、実は初見参の私の「彼女」、フェアレディZ(Z33)です。戦国の山城に場違いなクルマで来る私が悪いのですが、ゼットの方も狭いコンクリート舗装の道を走らされて、またもやご機嫌ナナメです。(それでも国道246号線に戻った時には機嫌も直り、東名高速ではご機嫌なゼットでした)現地の縄張図を見る限りでは、曲輪が複雑に配されており、どこが大手かわからない感じでした。河村城縄張図途中で改変されたのか、変な縄張です。駐車場のある「馬違戸」と「大庭郭張出」の曲輪の間には、大きな堀切が残っていました。大手の堀切跡堀切を越えて大庭郭に入ってみると、視界が開けて海と山のパノラマが見事でした。丹沢の前衛峰相模湾大庭郭跡大手方向の遺構を見る限り、戦国城郭にしてはあまり堅固な印象はなく、戦国時代の関東の「天下泰平」、北条氏によって改変されたものかと思われます。そして「大庭郭」の先の堀切には、障子堀が残っていました。障子堀(下から見たところ)障子堀(上から見たところ)障子堀と言えば北条流の築城術です。河村城が北条氏の支配下にあったことは間違いなさそうですが、甲斐・相模・駿河の国境にある戦国城郭は、そう簡単に割り切れそうもありませんでした。
2018/04/29
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鎌倉幕府の成立時期については、「イイクニつくろう」(1192年)と覚えましたが、最近では「イイハコつくろう」(1185年)となっているようです。守護・地頭を置いて、武士による土地支配が確立された1185年を実質的な成立とするならば、源頼朝が武士の頂点である征夷大将軍に任ぜられた1192年は、名実ともに成立したとも言えるでしょうか。そもそも「鎌倉幕府はいつできたのですか?」と、当の源頼朝に聞いてみても、「幕府って何?」と聞き返されるだけかも知れません。(「幕府」の呼び名は後世になってできたもので、源頼朝の時代には「幕府」という呼び名はありませんでした)「幕府」は征夷大将軍の居館や政庁を表す言葉であるため、「鎌倉幕府はどこにあったのか?」となると、源頼朝の居館および政庁のあった大倉御所がその場所になるかと思います。現在は小学校の敷地となっている交差点の角には、「大蔵幕府舊蹟」の碑が建っていました。1180年に源頼朝の居館が建設され、侍所などの政治機能もここにありました。鎌倉ではおなじみの鎌倉町青年会による史跡案内碑大倉御所の北側には源頼朝によって持仏堂が建てられ、源頼朝の没後は法華堂として頼朝の墓所となっていました。中央の階段を登ったところに源頼朝の墓所があり、左手には明治になって建立された白旗神社があります。白旗神社祭神は源頼朝です。白旗神社境内に建つ「法華堂跡」の史跡案内碑源頼朝墓所源頼朝の没年は1199年で、数え年で53歳でした。
2018/03/17
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「鎌倉アルプス」天園ハイキングコースの終点、鎌倉市二階堂にあるのが永福寺跡で、鎌倉町青年会による史跡碑が建っています。鎌倉ではおなじみの鎌倉町青年会による史跡案内碑。建立されたのは、実に大正9年です。天園(六国峠)には何度も訪れているため、その度に永福寺跡の前を通っていたのですが、草の生い茂る原っぱだったので、足を止めて訪れることはありませんでした。今回の天園からの帰り道では少し様子が違っていたので、立ち寄ってみることにしました。建物の礎石跡など、伽藍が復元整備されています。永福寺は源頼朝によって建てられた寺院です。初めて知って驚いたのですが、源義経や藤原泰衡など奥州合戦の戦没者の慰霊のために建てられたそうです。現地にある永福寺伽藍図永福寺の伽藍は奥州平泉の中尊寺にある二階大堂大長寿院を模して造られたそうです。(中尊寺を訪れた時、金色堂と松尾芭蕉の「奥のほそみち」ばかりが気になって、二階大堂大長寿院は全くスルーしていました)伽藍の中央にある二階堂跡永福寺に限ったことではありませんが、建造物などの遺構は全く残っていなくても、地名がその歴史を物語っていることはよくあることです。(戦国時代の城跡を探している時は、地元に伝わる「城山」や「館山」などの地名を手掛かりにしたこともありました)現在も住居表示となっている「鎌倉市二階堂」の地名も、この永福寺の二階堂に由来しているそうです。
2018/03/15
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鎌倉アルプスの六国峠(鎌倉天園)から、ハイキングコースの終点まで下りてくると、すぐそばに瑞泉寺の山門があります。せっかく鎌倉に下りてきたので、散策してみることにしました。瑞泉寺山門本堂(仏堂)瑞泉寺は夢窓国師(夢窓礎石)による開山で、夢窓国師の作庭による庭園が有名です。本堂の裏側にある庭園は、「瑞泉寺庭園」として国の名勝にも指定されています。本堂と庭園高校の日本史では「夢窓疎石」ではなく「夢窓国師」と覚えたので、夢窓国師の方がなじみがあります。(日本史のテストでは、つい「国士無双」と書いてしまったことがありました)夢窓国師の作庭による庭園は、瑞泉寺の他にも各地にあります。世界遺産の西芳寺(京都)や天竜寺(京都)の庭園をはじめ、永保寺(岐阜)や恵林寺(山梨)の庭園などがあり、いずれも国の名勝に指定されています。夢窓国師の作庭としては、これまで瑞泉寺庭園以外で恵林寺庭園しか訪れたことがありません。(そもそも庭園には全く造詣がなく、恵林寺では「風林火山」や武田氏代々の墓所、「心頭滅却すれば火自ずから涼し」の山門の方に興味が向いていました)そんな庭園音痴ではありますが、前回瑞泉寺庭園を訪れた時の印象は、はっきりと覚えています。今回再び瑞泉寺を訪れて、いかにも鎌倉らしい庭園の造りに、またまた感銘を受けました。京都が公家の都ならば、鎌倉は武家の都です。鎌倉のダイナミックな自然地形を活かしつつ、瑞泉寺庭園には他にない質実さと武骨さを感じるのは気のせいでしょうか。天女洞この岩庭の上は一般公開されていませんが、夢窓国師によって「偏海一覧亭」が建てられ、相模湾や箱根・富士山を借景にした大パノラマが広がっているそうです。
2018/03/14
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日本史の教科書ではおなじみの金沢文庫、京急本線の駅名にもその名前がありながら、これまで通過するばかりで訪れたことはありませんでした。北条実時の金沢文庫は現存しておらず、その場所も特定されていません。称名寺にある「文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)」の地名が金沢文庫の場所と推定されています。称名寺庭園から見た文庫ヶ谷の方向池にはミシシッピアカミミガメとクサガメが泳いでいたのですが、一度池の水を全部抜いてみるのもアリかと思います。称名寺と文庫ヶ谷の間には隧道があったことがわかっており、現在も中世の隧道が残っていました。中世隧道(文庫ヶ谷からみたところ)現在では近代のトンネルが通っており、その先の文庫ヶ谷と推定される場所には、神奈川県立金沢文庫が建っています。神奈川県立金沢文庫現在の金沢文庫には、称名寺に伝来した美術工芸品・古書・古文書などを収蔵する、博物館として運営されています。
2018/03/04
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京急本線に金沢文庫という駅がありますが、「あの金沢文庫かな?」と気にはなりつつも、通過するだけで降りたことはありませんでした。日本史の教科書でおなじみの金沢文庫は、鎌倉幕府の重臣北条実時が創建した称名寺にあります。北条実時が居館の中に建てた持仏堂が称名寺の始まりで、二代目の北条(金沢)顕時が伽藍の整備し、さらに三代目の北条貞顕によって七堂伽藍が完成しました。鎌倉幕府の崩壊と北条氏の滅亡により、称名寺の伽藍も当時の姿を失ってしまい、現在は江戸時代に再建された建物が残っていました。称名寺惣門(赤門)1771年に再建されたもので、再建当時は茅葺だったそうです。塔頭光明院表門1665年の建造で、移築物を除けば、横浜市で造営年代が判明している最古の建造物です。仁王門1323年に作られた「称名寺絵図並結界記」の伽藍図にも描かれていますが、現在の仁王門は江戸時代後期の1818年に再建されたものです。仁王門を通ると、北条(金沢)貞顕の時代に造られた庭園が広がっていました。称名寺庭園1320年作庭の浄土式庭園で、池に架かる反橋と平橋の先に金堂があります。反橋の上から見た平橋と金堂金堂1681年の再建で、再建当初は茅葺でした。金堂の隣には茅葺の建物があり、こちらが釈迦堂です。釈迦堂茅葺の屋根ですが、再建は金堂よりも新しく、幕末の1862年の再建です。称名寺の伽藍には再建された建物以外にも、三重塔や講堂などもあったようです。また、庭園は浄土曼荼羅の構図に基づいて作庭されたもので、時代的にも浄土庭園の形態を残す最後の庭園と言われています。 しかしながら、称名寺の伽藍と庭園が完成した1323年から10年後、鎌倉幕府と共に滅亡していまうとは、皮肉な話だと思います。
2018/03/03
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律令時代の相模国府の場所については、諸説があって特定されていません。それでも相模国の国分寺のあった場所は特定されており、海老名市にあったことがわかっています。相模国国分寺遺蹟碑相模国分寺も他の国分寺と同じく、七堂伽藍の伽藍配置だったようです。現地にある復元図聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されたのは741年のことで、すでに8世紀半ばには平城京の天平文化が全国各地に広がっていたことになります。南面廊跡かつて金堂や僧坊のあった場所には、礎石が残っていました。金堂跡僧坊跡今は礎石だけが残る伽藍の跡ですが、ここに天平の甍を頂く建物があったと思うと、歴史のロマンを感じます。さらに七重塔のあった場所には、基壇も一部残っていました。七重塔跡高さ65mの七重塔が建っていたそうです。海老名駅東側の海老名中央公園には、七重塔が復元されていました。実物の3分の1スケールなので、周囲の景色に埋もれてしまった感があります。現在も相模国分寺は存続しており、真言宗の寺院になっていました。本堂境内の鐘楼にある梵鐘は、1292年に国分季頼が物部国光に鋳造させ、寄進したものです。物部国光鋳造の梵鐘(国指定重要文化財)歴史の教科書では、741年の「国分寺建立の詔」によって、全国に国分寺が建てられたと習いました。東大寺の大仏など、奈良の都だけでなく全国各地に統一の仏教寺院が建てられたことは、実は大いなる偉業だと思っています。
2018/02/28
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相模国には一之宮が二社あって、一社は鎌倉の鶴岡八幡宮、そしてもう一社が寒川神社です。歴史で言えば寒川神社の方が古く、「延喜式」でも「名神大社」と定められていることから、鶴岡八幡宮より寒川神社の格式の方が高いのかも知れません。一の鳥居と表参道入口一の鳥居からは並木道の参道が約1kmにわたって続いており、途中には二の鳥居が建っていました。二の鳥居最後の三の鳥居は、神池橋(太鼓橋)を渡ったところにあります。神池橋と三の鳥居現在の神池橋は平成23年に改築されたもので、公募により名称も「太鼓橋」から「神池橋」に改められたそうです。三の鳥居から続く砂利の参道沿いには、寛政8年(1796年)当時の一の鳥居の柱が置かれていました。一の鳥居は、高さが一丈一尺(約33m)あったそうですが、安政の江戸大地震と関東大震災により倒壊してしまったそうです。拝殿の前には門が2ヵ所あり、南門と神門がありました。南門昭和4年(1929年)の竣工で、元々はこちらが正門の神門でした。神門平成5年に建てられた門です。寒川神社の祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)の「寒川大明神」です。拝殿江戸の南西(坤)の「裏鬼門」に鎮座しており、寒川神社の拝殿は南西を向いています。参道脇に建つ「寒川神社太鼓橋記」によると、寒川神社の創建は古記により神亀4年(727年)とも神護元年(765年)とも言われています。「重修寒川神社太鼓橋記」の碑関八州の守護神として崇敬され、唯一の八方除けの守護神として信仰されてきました。
2018/02/27
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関内から横浜港へ通じる道には、かつて居留外国人が馬車を走らせており、「馬車道」の由来ともなっています。1867年の馬車道沿道では、各商店が競って柳や松を植栽し、ここが「近代街路樹発祥の地」です。馬車道では1869年(明治2年)、町田房三が「あいすくりん」の販売を始めました。これがアイスクリームの発祥で、これを記念して母子像が建てられています。また、馬車道には日本で初めてガス灯が設置された場所でもあり、当時のガス灯が復元されています。ガス灯は1872年(明治5年)に高島嘉右衛門の「日本ガス社中」によって設置されました。さらに馬車道を行くと、「写真の開祖 下岡蓮杖の顕彰碑」がありました。下岡蓮杖が野毛に日本初の写真場を開業したのが1862年(文久2年)のことで、その後の1867年(慶応3年)に横浜太田町に写真館を開業しました。1869年(明治2年)に日本人の出資によって東京・横浜間に乗合馬車が開業しましたが、この時の出資者の一人が下岡蓮杖でした。
2018/02/12
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明治維新は政治体制だけでなく、生活のすべてを変えてしまうほどの大改革だったと思います。それでも「文明開化」の言葉には、どこか希望と明るさが感じられ、「西洋に追いつけ」だけでなく「追い越せ」の言葉の中に、明治のバイタリティーを感じます。現代の生活では当たり前であり、むしろ必要不可欠となっていることも、この時代に始まったことも多々あります。今回は山下の旧外国人居留地の発祥をご紹介します。まずは山下公園にあるのが、「西洋理髪発祥之地」の碑です。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」1871年(明治4年)の「斬髪脱刀令」に先だって、1869年(明治2年)に日本初の「西洋理髪店」が横浜で開業しました。旧山手居留地の境、堀川の川べりにある山手迎賓館には「機械製氷発祥の地」の碑があります。山手迎賓館(結婚式場です)1879年(明治12年)に「ジャパン・アイス・カンパニー」が設立され、当時は同じ開港地である函館五稜郭の外濠の氷を船で運んでいたそうです。そして山下公園近くの海岸通りにあるのが、「銀行発祥の地」です。開港後、香港上海銀行(現在のHSBC)横浜支店が、最初に設立されました。居留地の境である日本大通り界隈は、通信やインフラの発祥の地でもありました。日本大通りの旧山下居留地にある横浜港郵便局は、外国郵便発祥の地でもあります。今では廃れてしまった電報も、横浜が発祥でした。現在の横浜地方裁判所(横浜市指定歴史的建造物)は、横浜電信局のあった場所です。「電信創業の地」のプレート東京電信局との間で電報の取扱が開始されたのは、1869年(明治2年)のことでした。日本大通りには「近代下水道発祥の地」の碑があり、開港記念広場にはレンガ造りのマンホールと下水管の遺構が残っています。開港記念広場から続く大桟橋通りには、かつて横浜電話交換所があり、「電話交換創始の地」とされています。また、現在の開港記念広場辺りには、かつて外国人向けの日用食品街である「お貸し長屋」があり、「近代のパン発祥の地」の碑があります。内海兵吉がフランス人に製法を習ってパン屋を始めたのが1860年のことで、当時は焼き饅頭のようなものだったそうです。その後、イギリス人の「ヨコハマベーカリー」を受け継いだのが打木彦太郎で、現在も元町に「ウチキパン」として営業されています。「食パンの発祥」のウチキパン大桟橋通りにはかつて「居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)」の本拠地があり、当時の防火貯水槽の遺構が残っています。そして居留地消防隊が、「消防救急発祥」とされています。大桟橋通りを挟んで、消防救急発祥の地の向かいには、かつて「ヨコハマ・ホテル」がありました。現在はレストランかをりの本店があり、ここが近代ホテル発祥の地です。開港から間もない1860年(万延2年)にオランダ人によって造られたもので、ハイネやシーボルト、クラーク博士なども宿泊したそうです。市民レベルでも明治維新は確実に行われていて、「西洋に追いつけ 追い越せ」の精神でこの時代を生き抜いた人たちには、本当に感服します。
2018/02/11
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現在の生活では当たり前となっていることも、その発祥を辿ってみると意外と最近の出来事だったりします。特に旧外国人居留地のあった横浜は、西洋文化が多く発祥した土地でもありました。今回は元町・山手にある「横浜発祥」のあれこれです。まずは元町にあるのが食パンの発祥、「ウチキパン」です。「SINCE 1888」とあるように、明治21年の「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」が始まりです。フランス山(港の見える丘公園)は、ボウリングとクリーニング業の発祥の地となっていました。ボウリング発祥の地の碑碑文をよく読んでみると、1864年に長崎に次いでボウリングサロンが開場されたそうです。さらによく見ると、「横浜ボウリング発祥の碑」とありました。クリーニング業発祥の碑1859年(安政6年)、東海道神奈川宿の青木屋忠七氏が、山下居留地の横浜本町で「西洋洗濯業」を始めたのがクリーニング業の始まりだそうです。旧山手居留地にある「山手公園」は、「日本最初の洋式公園」とされています。横浜居住の外国人から山手方面に専用の遊園地を望む声があり、1870年(明治3年)に開園したのが山手公園です。その山手公園はテニス発祥の地でもあり、テニスコートの脇には「日本庭球発祥之地」の碑がありました。1878年にレディース・ローン・テニス・アンド・クロッケークラブ(現在の横浜インターナショナルテニスクラブ)が、テニスコートを建設したのが始まりです。山手公園の南側にある妙香寺は、意外なものの発祥の地でした。妙香寺山門「本牧山」の扁額が架けられています。妙香寺境内にある「日本吹奏発祥の地」の碑「薩摩藩洋楽伝習生」(サツマバンド)が、寄宿舎として練習をしていたのが妙香寺でした。その「サツマバンド」を指導していたのがイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンで、「君が代」を最初に作曲した人です。同じく妙香寺境内にある「国家君ヶ代発祥之地」碑フェントンは日本に儀礼用の国家がなかったことから君が代を作曲しましたが、最初の君が代は洋風のメロディーだったそうです。妙香寺から再び山手の方へ戻る途中には、キリン園公園があります。公園の片隅には、「日本最初の麦酒工場」の碑がひっそりと建っていました。1870年(明治3年)、アメリカ人のコープランドが「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を建設し、日本で初めてビールの醸造を開始しました。その後はキリンビールが事業を引き継ぎ、キリンビール発祥の地でもあります。麒麟麦酒開源記念碑
2018/02/10
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「関内」という正式な地名はなく、吉田橋の関所の内側を「関内」、関所の外側を「関外」と呼んでいたそうです。吉田橋の関所跡関内は現在の日本大通りによって分けられており、東側が外国人居留地で西側が日本人居留地となっていました。1870年当時の地図南北が逆になっていますが、真ん中の大通りが日本大通りで、左側(東側)が外国人居留地、右側(西側)が日本人居留地です。かつての日本人居留地のあった場所にも、関東大震災後の近代洋風建築が多く残っていました。旧横浜商工奨励館から日本大通りを挟んだ西側には、横浜地方裁判所のビルがあります。横浜地方裁判所・簡易裁判所(横浜市認定歴史的建造物)1929年(昭和4年)の竣工です。旧横浜港の海岸近くには「横浜三塔」があって、それぞれ「キング」・「クイーン」・「ジャック」の愛称で呼ばれています。神奈川県庁本庁舎1928年(昭和3年)の竣工で、「キングの塔」と呼ばれています。横浜税関本関庁舎(横浜市認定歴史的建造物)1934年(昭和9年)の完成で、「クイーンの塔」と呼ばれています。そして「ジャックの塔」は、国の重要文化財に指定されています。横浜開港記念会館(国指定重要文化財)横浜港開港50周年記念事業として建設され、1917年(大正6年)に完成しましたが、関東大震災で全焼したため、1927年(昭和2年)に再建されています。日本大通りから馬車道にかけての本町通り沿いは、かつての金融機関や商社の近代建築物が残っています。ジャックの塔から本町大通りを挟んだ向かい側には、関東大震災で倒壊した開通合名会社のレンガ遺構がありました。開通合名会社は日本人によって設立された商社で、建物は明治時代に建てられたとされています。旧本町旭ビル (横浜市認定歴史的建造物)1930年(昭和5年)に江商(現在の兼松)横浜支店として竣工しました。旧川崎銀行横浜支店(横浜市認定歴史的建造物)1922年(大正11年)の建設で、現在は「損保ジャパン日本興亜横浜馬車道ビル」となっています。旧三井銀行(現在の三井住友銀行)横浜支店1931年(昭和6年)の竣工で、現在も三井住友銀行横浜支店として使われています。旧横浜銀行集会所1937年(昭和12年)の建築で、現在も横浜銀行協会のビルとして利用されています。旧安田銀行(現在のみずほ銀行)横浜支店(横浜市認定歴史的建造物)1929年(昭和4年)の建設で、安田銀行が富士銀行に変わった後も、富士銀行横浜支店として使われていました。現在は東京藝術大学大学院の校舎となっています。旧第一銀行(現在のみずほ銀行)横浜支店(横浜市認定歴史的建造物)現在は「YCC ヨコハマ創造都市センター」となっています。本町通りから馬車道を海岸側へ行くと、ひと際大きな赤レンガの建物が目に入ってきました。旧横浜生糸検査所(横浜市認定歴史的建造物)震災後の1926年(大正15年)に再建されたもので、現在は横浜第二合同庁舎の建物となっています。馬車道の通りを行くと、ドームを備えたひときわ豪華で優美な建物がありました。旧横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)本店本館(国指定重要文化財)1904年(明治37年)の竣工で、現在は神奈川県立歴史博物館となっています。2018年4月28日まで、工事中のため閉館しています。近代建築物の優雅さと豪華さの中に、当時の財閥の財力を見たような気がします。
2018/02/09
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関東大震災で壊滅的な被害を受けた横浜港でしたが、震災後の復興事業で数多くの建築物が建てられました。旧外国人居留地の周辺には、震災後に建てられた近代建築物が残っており、古くからの国際貿易港らしい、レトロでエキゾチックな雰囲気が残っています。そんな歴史的建造物を求めて、まずはかつての山下外国人居留地、日本大通りの東側から散策を始めました。まずは日本大通りの南端、横浜公園の向かい側に建っているのが旧関東財務局のビルです。1928年(昭和3年)の創建で、元々は日本綿花(現在の双日)横浜支店の建物でした。1960年(昭和35年)に関東財務局として使用が開始され、現在は「THE BAYS」として横浜DeNAベイスターズが運営しています。旧横浜三井物産ビル関東大震災前の1911年(明治44年)の竣工で、日本で最初のオール鉄筋コンクリート造りです。現在は「KN日本大通りビル」となり、オフィスビルとして利用されています。旧横浜商工奨励館(横浜市認定歴史的建造物)1929年(昭和4年)の竣工で、現在は「横浜情報文化センター」となっています。日本大通りから海岸通りに入ったところ、開港記念広場の西側にあるのが旧英国総領事館です。1931年(昭和6年)の竣工とされ、1972年(昭和47年)まで領事館として使われていました。1854年に日米和親条約が締結されたのがこの場所で、現在は開港資料館となっています。さらに開港記念広場の先には、現代と近代の入り混じった、味わい深い建物がありました。1929年(昭和4年)に建てられた、横浜貿易会館ビルです。日本大通りの一本東側、旧外国人居留地の一角には、日本最初のプロテスタント教会、「横浜海岸教会」があります。1875年(明治8年)に創建されましたが、関東大震災で消失したため、現在の教会堂は1933年(昭和8年)に再建されたものです。1923年の関東大震災では、旧山下居留地の建物がほとんど倒壊する中、倒壊を免れた建物もありました。旧露亜銀行横浜支店1921年(大正10年)に建てられ、2011年に改修されてからは結婚式場として利用されています。関東大震災以前から残る建築物は本当に貴重で、一部だけでも残っているのは奇跡でしょうか。旧居留地48番館1883年(明治16年)に建てられたモリソン商会の事務所で、横浜では現存する最古の洋風建築物です。英国七番館(横浜市認定歴史的建造物)元はバターフィールド&スワイアの建物で、震災で全焼しましたが、外装だけは残っていたため再建されました。英国七番館からさらに海岸沿いを行くと、日本・イギリスの皇室やマッカーサーも利用したクラシックホテル、「ニューグランド」があります。1927年(昭和2年)建造のホテルニューグランド本館(横浜市認定歴史的建造物)大正の終わりから昭和の初めにかけて建てられた近代建造物は、美しく華やかで贅沢でありながらも、どこか質実さを兼ね備えているように思います。そんな近代建築物に魅せられたのは、皮肉にも台北に赴任している時のことでした。震災や戦火を免れた台北市内には、日本統治時代の近代建築物が数多く残り、現在も現役の建物として利用されています。もしかしたら日本国内では、横浜が近代建築物の最後の砦かも知れません。
2018/02/08
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神戸南京町・長崎新地中華街と並んで、「日本三大チャイナタウン」と呼ばれているのが横浜中華街です。いずれも安政の五箇国条約で開港された場所にあり、外国人居留地と深い関係がありました。横浜中華街も旧山下居留地にあって、「中華街大通り」の西口には「牌楼」の1つ、善隣門が建っています。善隣門善隣門(内側から見たところ)内側から見ると扁額の文字が「中華街」ではなく、「親仁善隣」と書かれていました。中華街の門は四神相応に基づいているようで、中華街大通りの東側、東急東横線の元町・中華街駅側には、「青」の青龍をモチーフにした朝陽門が建っています朝陽門南側に回ってみると、「赤」の「朱雀門」がありました。朱雀門そして西側には「白虎」の延平門があります。延平門柱の上に白虎の彫刻があります。横浜公園に近い北側には、「黒」の玄武門がありました。玄武門前日に麻雀をやっていたせいか、気が付けば東・南・西・北と回っていました。その他、中華街の中央部を東西に通る関帝廟通りには、東西それぞれに門が置かれていました。関帝廟通りの東側入口にある天長門西側入口にある地久門そして中華街の中心にあるのが、三国志に登場する関羽を祀った関帝廟の廟所です。関帝廟の門関帝廟横浜中華街にはかつて清国総領事館が置かれており、その跡地である山下町公園の横には、媽祖廟の廟所があります。媽祖廟辛亥革命の後は中華民国領事館が置かれていたようで、日本に亡命していた孫文もここを訪れていたかも知れません。
2018/02/07
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江戸幕府による「鎖国政策」には、ネガティブな印象を持っていません。むしろ鎖国の250年間で文芸・工芸・美術など、現在にも誇れる日本独自の文化が完成されたと思っています。それでもその独自の文化を守るため、近代化は早晩避けて通れなかったかも知れません。その鎖国政策の終焉となったのが1854年の「日米和親条約」で、その締結の地が横浜でした。開港記念広場にある「日米和親条約調印」の碑調印の相手は、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督です。ペリー提督の応接所となっていた場所には、横浜開港資料館が建っています。1931年(昭和6年)にイギリス総領事館として建設され、1981年(昭和56年)から横浜開港資料館となっています。1854年の日米和親条約の4年後、1858年には日米修好通商条約(いわゆる安政の五箇国条約)が締結され、横浜港が開港されました。開港当時、横浜の中心部は東海道神奈川宿のあった場所でしたが、実際に開港されたのは辺鄙な「横浜村」でした。当時の横浜港があった「象の鼻」横浜開港に伴い、神奈川奉行所の管轄下に「運上所」が置かれ、関税と外交の事務を行っていました。県庁の敷地内に建つ運上所跡の碑横浜が開港された4年後の1858年、外国人居留地が造られましたが、当初は日本風の建築だったそうです。1866年の火災で外国人居留地が焼失すると、洋風の建築へと変わりました。火災後に居留地の大規模区画整理の設計したのが、イギリス人のリチャード・ブラントンです。横浜公園にあるブラントン像防火帯を兼ねて造られたのが現在の「日本大通り」で、日本大通りによって外国人居留地と日本人居留地が分けられることとなりました。1870年当時の地図南北が逆になっていますが、真ん中の大通りが日本大通りで、左側(東側)が外国人居留地、右側(西側)が日本人居留地です。現在の日本大通り北向きのため、左側(西側)が旧日本人居留地で、右側(東側)が旧外国人居留地です。日本大通りの南側には、外国人も日本人も両方が利用できる公園が造られ、その公園が今の横浜公園です。現在は横浜スタジアムが建ち、照明塔とバックスクリーンが見えています。旧外国人居留地時代の山下を歩いてみると、意外にも当時の遺跡があったりしました。英国一番館跡開港と同時に貿易を始めた「ジャーディン・マセソン商会」の跡です。山下居留地48番館ダイナマイトを扱っていたモリソン商会の建物で、関東大震災で被害を受けたものの、横浜では現存する最古の洋風建築物です。和蘭式野戦砲横浜開港の前、松代藩の佐久間象山が横浜警護のために使用したと言われています。横浜天主堂跡1862年に居留地80番地に建てられたカトリックの天主堂で、1906年に山手44番地に移転しました。関東大震災後に再建されたのが、現在の山手カトリック教会です。そして日本人にはなじみの深い人も山下居留地に住んでいました。ヘボン博士邸読みでは「ヘップバーン」となるのでしょうが、ヘボン式ローマ字の生みの親です。横浜開港後に造られた山下居留地でしたが、火災後の1867年には山手居留地が造られました。山下と山手の境にある堀川は、今も残っています。堀川右側(東側)が山下居留地で、左側(西側)が山手居留地です。
2018/02/06
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幕末の日米修好通商条約で横浜が開港された時、外国人の居留地となったのが山手地区です。「港の見える丘公園」から山手本通りに出ると、道路脇に旧居留地の境を示す道標が残っていました。山手の居留地は断崖上の地形にあったため、「ブラフ(BLUFF)」と呼ばれ、住所も「BLUFF○○番地」のように表記されていたそうです。「BLUFF 99 GARDEN」には、ブラフ積みと呼ばれるレンガ積みが残っていました。ブラフ積み(猿島要塞で見た「フランス積み」の石積みです)宅地の間や宅地と道路の段差に積まれていたもので、石材には房州石が使われていました。その「BLUFF 99 GARDEN」向かいの山手本通り沿いには、外国人墓地がありました。アメリカ海軍ペリー艦隊の乗組員を葬ったのに由来し、横浜開港後もここが居留外国人の墓地となりました。幕末の攘夷派による生麦事件や井土ヶ谷事件の被害者を始め、明治初期に日本の文化に貢献した外国人もここに永眠しています。山手居留地は関東大震災で大きな被害を受けましたが、山手資料館の建物だけは、震災前の明治期に建てられた木造洋風建築です。1909年に本牧本郷村の中澤謙吉邸の洋館部分を移築したそうです。その他の洋館は震災後に建てられたもので、震災後の1927年に復興事業として建てられた集合住宅が「山手234番館」です。山手234番館エリスマン邸シイベルヘグナー社(現DKSH)の横浜支配人であったフリッツ・エリスマンの邸宅で、アントニン・レーモンドの設計により、1925年から1926年にかけて建てられました。元々は山手町127番地にありましたが、1990年に現在の場所に移築・復元されています。ベーリックホールイギリス人貿易商バートラム・ロバート・ ベーリックの邸宅として、1930年に建設された建物です。現在は結婚式場として使われているようです。横浜に限らず、外国人居留地の特長の1つは、各国各宗派の古い教会が同じ地区に建っていることでしょうか。山手居留地にも横浜聖公会(英国国教会)とカトリック山手教会の聖堂が残っていました。横浜聖公会聖堂元々は1863年に関内の山下居留地に建てられたクライストチャーチが始まりです。1901年、鹿鳴館やニコライ堂を設計したジョサイア・コンドルによって、現在の山手町235番地に2代目の聖堂が建てられました。2代目の聖堂は関東大震災で崩壊し、現在の聖堂は1931年に建てられたものです。カトリック山手教会も関内の山下居留地が始まりで、1906年に横浜天主堂が現在の山手に移って来ました。やはり関東大震災で倒壊し、現在の聖堂は1933年に建てられたものです。ミサの直後で聖堂前には信者の方々が大勢おられたので、画像は撮っておらず、カトリック山手教会のHPに聖堂の画像があります。カトリック山手教会の前を通って、次は山手公園にやって来ました。山手公園は居留地の外国人のために造られた公園で、日本で最初の西洋式公園だそうです。山手公園には旧山手68番館が移築され、現在は公園管理事務所になっていました。1934年に竣工した木造の洋風建築です。旧居留地を歩いていると、幕末から明治への日本の近代化がいかに急だったかがわかります。現代の生活では当たり前のことも、実はこの頃に始まったことだったりして、そんな横浜山手居留地発祥のあれこれもありました。
2018/02/05
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昨年4月に東京から横浜に引っ越してきて、10か月が経ちました。自宅から100mも離れていない場所に城址公園があるのですが、まだ一度も訪れたことがありませんでした。茅ヶ崎城がその城で、現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。北側の城址公園入口まだ雪が残っています。現地の縄張図を見ると、独立した四つの曲輪が配された、典型的な中世城郭です。縄張図東西に延びる縄張となっており、東に行くほど比高が高くなっています。北側の公園入口から入ると、中郭の土塁が現れ、西郭との間には桝形虎口の跡がありました。虎口跡西郭と中郭の間の空堀は特に幅が広かったため、堀底道が通っていたのかも知れません。西郭と中郭の間の空堀(西郭から見たところ)西郭は最も低い位置にあり、かつての三の丸が改変されたのかも知れません。西郭土塁を見ると、北条流の築城術だと思われます。西郭から北側に回り、中郭の土塁の北側を過ぎると、中郭より一段低い場所に北郭の跡が残っていました。中郭の北側土塁北郭後世になって増築された曲輪かも知れません。北郭から一旦戻って土塁を上がると、中郭の曲輪跡が広がっていました。中郭跡掘立建物の礎石跡が発見され、ここが本丸として機能していたかも知れません。中郭と東郭の間の空堀跡を通って南側の斜面に出ると、腰曲輪らしき跡が残っており、その先には堀切のような跡もありました。腰曲輪跡南側の腰曲輪南側には他にも腰曲輪の跡が見られました。堀切跡?発掘調査の結果、南側にも虎口があったようで、虎口の跡とされています。北側と南側に虎口があったことになりますが、どちらが大手なのか判然としませんでした。南に位置する小机城の支城として機能していたならば、南北に虎口があるのは自然な気がします。東郭は最も高い位置にあったようで、再び階段を登った先に曲輪の跡がありました。東郭向こう側に見えるのが中郭の土塁と空堀跡で、ほぼ同じ高さにあります。それにしても港北NTの住宅地の真ん中に、こんなに城郭遺構が残っているとは全く想像していませんでした。(ちなみに横浜市都筑区の旧国名は、相模国ではなく武蔵国です)発掘調査の結果、茅ヶ崎城の築城時期は14世紀末から15世紀前半と考えられ、北条氏以前の室町時代には築城されていたことになります。この頃の武蔵国と相模国は関東管領上杉氏の支配にあり、その頃から小机城とは連携していたとも考えられます。16世紀中頃には小田原北条氏の支配下となり、茅ヶ崎城も小机衆の配下にあったと思われます。
2018/01/28
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京急線の金沢八景の先に「按針塚」という駅があります。「三浦按針とゆかりが深くて、墓所でもあるのだろうか」などと気にはなっていたものの、これまでは通過するばかりの駅でした。今回は別の目的があったのですが、せっかくなので塚山公園をスタート地点として、初めて按針塚駅に降り立ちました。その名の通り三浦按針の墓所が塚山公園にあるものの、最寄駅であるはずの按針塚からは、結構な距離があります。塚山公園「港の見える丘」と呼ばれる場所から眺めてみると、眼下に横須賀港が一望できました。海上自衛隊横須賀基地に停泊している護衛艦は、ヘリのハッチが見えるほどの距離です。(ちなみにヘリの基地は横須賀ではなく、房総半島の先端にある館山基地から護衛艦に着艦するようです)手前の丘陵に隠れていますが、アメリカ海軍基地の手前には、「三笠記念艦」の姿もありました。呉(広島)の「歴史の見える丘」でも同じ思いでしたが、かつての軍港には計算され尽くした機能美があるように思います。塚山公園の「見晴台」から南側を眺めてみると、大楠山の山容が見えていました。オランダ東インド会社のパイロット(水先案内人=按針)、ウィリアム・アダムスが九州に漂着したのは、1600年のことでした。高校の日本史で三浦按針(ウィリアム・アダムス)の名前は耳にしますが、実はオランダ人ではなくイギリス人だったということを、按針塚で初めて知りました。ウィリアム・アダムスの乗るリーフデ号が難破して日本に漂着したのは1600年のことで、同乗のクルーには「八重洲」の地名の由来ともなるヤン=ヨーステン(こちらはオランダ人)がいました。コロンブスのアメリカ大陸発見から始まるヨーロッパの大航海時代、そしてカトリックVSプロテスタント宗教戦争の時代、さらには豊臣秀吉亡き後に漂着したことは、歴史の皮肉というべきでしょうか。リーフデ号の模型平戸(長崎)の和蘭商館にてこの辺りの経緯は映画「SHOGUN」でも紹介されていますが、徳川家康の重用された三浦按針も、晩年は不遇にも平戸で過ごしていたようです。遺言により、かつての知行地であったこの地に供養塔が建てられています。
2015/02/21
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衣張山から下りて来た後、東から西へ鎌倉を横断するようにして、扇ガ谷へとやって来ました。 横須賀線の向こうには英勝寺の境内があり、英勝寺の山門がひときわ目を引きます。 扇ガ谷の地名にもあるように、この辺りは扇谷上杉氏の本拠地であり、横須賀線を挟んだ反対側に扇谷上杉氏の屋敷があったようです。 やはり扇谷上杉氏と言えば家宰であった太田道灌、その太田道灌の屋敷跡が英勝寺だとされています。 鎌倉ではおなじみ、青年会による史跡案内です。 文語体の記述と大正十年の日付があり、史跡看板にも歴史を感じます。 その英勝寺も通り過ぎてさらに西へ向かい、鎌倉西側の防衛ラインともいうべき源氏山を目指して行きました。 源氏山の途中には「鎌倉七口」の1つ、化粧(けはい)坂が待ち受けています。 このように岩を切岸状に削るのは、房総の里見氏の城跡でよく見かけますが、鎌倉の影響もあるのでしょうか。 太田道灌が活躍した時代から遡って太平記の時代、鎌倉幕府倒幕に動く日野俊基が捕えられ、その最期を遂げたのが化粧坂を上がったところにある葛原岡でした (日野俊基の墓所があって、葛原岡神社が祀られています) そして1333年、新田義貞率いる倒幕軍が攻め込んだのもこの化粧坂でした。 (この時は鎌倉幕府軍の前に化粧坂を越えられず、稲村ヶ崎へ迂回して鎌倉に攻め入っています) 化粧坂を登り切った一帯が源氏山公園で、山頂付近には源頼朝像が建っています。 八幡太郎義家が後三年の役で奥州に出陣するにあたり、ここで白旗を立てて戦勝祈願をしたのが由来とされています。 源氏山公園から鎌倉大仏のある極楽寺方面まで、鎌倉の西側尾根に沿ってハイキングコースがあるのですが、ちょっと寄り道してみることにしました。 鎌倉名水の1つ、銭洗弁財天です。 トンネルを通って境内に入ってみると、さほど広くない境内に人があふれていました。 社務所で売っている笊を手にした人が並んでいました。銭洗弁財天はそこそこにして、再び源氏山の山頂付近に戻ると、今度は尾根沿いを南下して高徳院へと向かいました。ハイキングコースとは言え、ハイカーらしき恰好をした人はあまり見かけませんでした。時折ハイカーらしき人とすれ違うのですが、お互いにわかるものがあって、その時は山の挨拶を交わしたり といった感じです。そして高徳院 そして大仏様実は鎌倉大仏を見るのは初めてなのですが、この人の多さに大仏様も困り顔のようです。関連の記事鎌倉天園(鎌倉アルプス)(2009年11月)→こちら私本太平記全一冊合本版-【電子書籍】価格:977円
2014/10/21
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8月に居酒屋で左ひざを痛めているところですが、9月の奥高尾縦走路で散々な目に遭った時、やはり爆弾だったことがわかりました。それでも調子は良くなって来たので、試運転を兼ねて山歩きに出かけてみることにしました。あまり無茶はできないこともあり、房総の山にしようかと思いつつ、向かった先は箱根でも丹沢でもなく鎌倉。逗子から鎌倉まで、名越切通を越えるルートを行ってみることにしました。横須賀線の鎌倉駅はパスして逗子で降り、逗子と鎌倉の市境にある丘陵を目指しつつも、まずは岩殿寺に立ち寄りました。岩殿寺山門岩殿寺は聖武天皇の勅願により開山され、徳山・行基の開基とされる古刹です。坂東三十三か所霊場の二番目で、源頼朝も厚く信仰したとされています。岩殿寺から再び市街地に戻り、名越尾根を目指して進んでいくと、住宅地が一変して「名越里山」と呼ばれる長閑な場所に差し掛かりました。うっかりすると見落としそうなところに道標があり、ここがハイキングコースの入口のようです。ハイキングコースというより、「踏み跡」といった感じで、この先は荒れてわかりづらい道が続きます。後でわかったのですが、法性寺を経由するルートが正規ルートのようで、横須賀線の踏切手前での分岐点を間違えていました。クモの巣や倒木などを避けながら進んでいくと、整備された道との分岐点がありました。これでもかなりの待遇改善です。それにしても普通の生活圏とハイキングコースが近いのが鎌倉らしく、山道を行きながらもすぐ下から少年野球の声が聞こえてくるほどです。(樹木で見えませんが、審判の声まで聞こえてきました)いきなり無線中継所があったりもします。道もわかりやすくなったかと思うと、ハイカーとすれ違うことも多くなり、いよいよ名越尾根の尾根線に取り付きました。ここから名越切通まで往復し、再びここに戻って衣張山(ハイランド方面)を目指す予定です。名越尾根では、南東方向に樹林帯が切れる場所があり、材木座海岸の相模湾を望むことができました。この辺りは逗子市と鎌倉市の市境となっており、「大切岸」と呼ばれる切岸の上を行きます。大切岸大切岸の直下にはウッドチップが敷き詰められ、まるで城郭の曲輪のような削平地も広がっていました。この切岸を見る限り、個人的には鎌倉の南西部を防御する砦があったと思います。法性寺あたりで下を見ると、ハイキングコースも切岸の上を行くような恰好です。この辺りに「鎌倉らしさ」を感じます。その切岸から切り出したのか、尾根線上には石廟も並んでいました。市指定の史跡ですが、鎌倉市指定なのか逗子市指定なのか、市境にあるためよくわかりませんでした。大切岸を過ぎてしばらく行くと、いくつか削平地があったりして、いよいよ名越切通へとやってきました。この真下にトンネルがあり、JR横須賀線が通っています。名越切通は鎌倉を囲む「鎌倉七口」の1つです。鎌倉は政治都市でありながら、やはり軍事都市でもあったと実感できました。
2014/10/19
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矢倉岳の山頂を後にする時、「はて、どこに降りようか」と考えていました。矢倉沢まで来た道を戻るのがわかりやすいのですが、予想外に面白くない道だったことと、スズメバチの巣もあるので、真っ先に却下となりました。そこで次に思いついたオプションは、足柄峠から金時山を経由して箱根外輪山の内側に降りるルートでした。体力的な心配はあるものの、まだ正午前とあって時間的には十分余裕があり、さらに足柄峠から先はよく知っている道でもあります。お気に入りの箱根をブラブラしながら帰るのは魅力的なルートですが、この天候では金時山で相当な混雑が予想され、金時山の登りと下りにかなりの時間がかかるため、ちょっと二の足を踏むところでした。いずれにしても足柄峠に降り、足柄城で富士山頂付近の雲が晴れるのを待って、だめならば足柄古道(矢倉沢往還)を通って地蔵堂に降り、夕日の滝でも見ながら帰るのが現実的な選択でした。富士見スポットとしては足柄城がお気に入りで、約20km先にある富士山頂から裾野までの全容を望むことができます。(芝生に寝転がって富士見ができるのがよろしいかと)矢倉岳から足柄峠付近まで降りて来たところには、足柄万葉公園があります。足柄万葉公園の入口からは新松田までのバス便があるので、何度か利用したことはありますが、万葉公園をじっくり見て歩いたことはありませんでした。足柄万葉公園から見た矢倉岳すでに律令時代に開通されていた東海道ですが、江戸時代に箱根ルートが整備されるまで、足柄峠を越えるルートが東海道となっていました。(「坂東」と言えば箱根の坂のことかと思いますが、実は足柄坂のことで、足柄関から東が「坂東」です)西国から東国に赴任する役人や、さらには東国から九州に赴く防人など、万葉集には足柄峠を越える悲哀が詠まれており、足柄万葉公園にはその歌碑が並んでいました。「足柄の 御坂に立して 袖ふらば 家なる妹は 清に見るかも」、東国から九州に赴く防人の歌です。解説板によると「足柄の神の御坂に立って、ふるさとに向かって別れを告げるとき、家に残してきた妻は、私が力のかぎり袖を振っているのを、はっきりと見ているだろうか」当時の東国の人にとって、奈良の都もさることながら、九州は異国も異国だったことと思います。「足柄の 吾を可鶏山の 穀(かづ)の木の 吾をかづさねも 穀割かずとも」意訳「あなたがそれほどまでに思ってくださるならば、早く私を誘って下さい。可鶏山にある『かづのき』など割っていないで」可鶏(かけ)山とは、背後にちょこっと見える矢倉岳のことだとされています。竹の輪を空中に投げて、それを矢で射るのが矢倉岳の民間行事で、若い男女がそれを楽しんだそうです。「足柄の 御坂畏み 曇夜の 吾が下這えを 言出づるかも」意訳は「足柄の神の御坂を越えて行く時、峠の神に手向けして畏まるあまり、恋人の名前までつい口にしてしまった」です。万葉集の時代はまだ平仮名が使われておらず、全て漢字の当て字で書かれています。それにしても赤裸々な感情がよく表現されていて、1,000年以上も昔の話ながら、現代に通じる微笑ましさがあります。「足柄の 箱根の峯呂の 和草の 花つ妻なれや 紐解かず寝む」意訳「足柄の箱根の丘の上に生えている和草、その草の上に二人で寝て、どうして紐を解かないことがあろうか。あなたは花の妻ではないか」和草とはハコネシダのことだとされていますが、なんとも表現がストレート過ぎて思わず笑ってしまいます。足柄峠から続く足柄万葉公園のある尾根は、静岡県(小山町)と神奈川県(南足柄市)の県境でもあります。古くは駿河国と相模国の国境でもあり、戦国時代には小田原の北条氏が足柄城に続く砦を築いて、駿河からの武田信玄の侵攻に備えたとされています。足柄万葉公園で奈良時代の人々に思いを馳せながらも、意識は戦国時代に向いていました。何気ない盛り土ですが、自然に出来たものとは思われず、これは土塁だと思われます。これは堀切の跡のようにも見えます。戦国山城を数多く見てきたせいか、人の手が加わった物には敏感になっているのが悲しい性です。関連の記事矢倉岳→こちら足柄城→こちら足柄関→こちら足柄古道→こちら
2014/06/15
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浦賀に奉行所が出来たのは1720年のことで、それまで下田にあった奉行所を移してきたものでした。浦賀船番所も浦賀奉行所の出先機関で、船番所の「海の関所」としての役割だけでなく、海難救助は地方行政など、その業務は多岐に渡っていたようです。浦賀奉行所跡現在は企業の社宅の敷地となっており、周囲の掘割がわずかに名残を留めていました。浦賀奉行の他にも与力が10人、同心が50人の大所帯だったようですが、やはり一番大忙しだったのは、黒船来航の時でしょうか。浦賀駅近くの浦賀通りには、その与力であった中島三郎助の文章と筆跡による「大衆帰本塚の碑」が移築されて現存しています。幕末の1864年に建てられたものです。浦賀奉行所跡の近くには為朝神社があり、ここで演じられる「虎踊」(県指定重要無形民俗文化財)は、奉行所が下田から浦賀に移った時に伝えられたものです。為朝神社祭神は鎮西八郎の源為朝ですが、なぜ為朝なのかはよくわかりませんでした。西浦賀の海岸線は現在よりも陸側にあったようで、船番所のあった海岸通りから少し中に入ると、昔の海運の街並みがわずかに残っていました。廻船問屋街の跡東浦賀と西浦賀で廻船問屋が105軒もあったそうで、その交易は東北から瀬戸内海に及び、海岸沿いには蔵が建ち並んでいたそうです。その問屋街の先を行くと、西浦賀にも叶神社がありました。西叶神社東浦賀にも叶神社があり、こちらは浦賀城のあった場所です東叶神社(2008年11月)勝海舟が咸臨丸で出航する前、断食をして祈願したのがこの東叶神社でした。西叶神社については、1867年の秋に西叶神社前の砂糖問屋でお札が降ってきたという話になり、これが三浦半島での「ええじゃないか」の始まりとなっています。黒船に続いて「ええじゃないか」とは、浦賀の街も大騒ぎだったと思いますが、さすがの浦賀奉行も収拾できないほどの大混乱だったそうです。東京湾の海上交通の要衝であり、江戸の流通ターミナルでもあった浦賀港、その激動の歴史も今や遠い昔のような気がしました。
2013/05/21
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逗子から衣笠まで大楠山ハイキングコースを踏破した後、当初の予定では安針塚から三浦アルプスを経由して逗子に戻るという、三浦半島一往復を計画していました。案の定無謀な計画だと判明したので、次のオプションに移行、向かった先は西浦賀です。前回浦賀を訪れたのは4年半前のことで、その時訪れたのは西浦賀ではなく東浦賀でした。西浦賀と東浦賀の間は最短で200mといったところですが、その間には浦賀港の入り江が横たわっているため、陸路で行くとその10倍くらいの距離になるでしょうか。西浦賀から見た東浦賀の方向この中で入り江を横断する御座船だけが奇特な感じですが、実はれっきとした定期航路です。東浦賀と西浦賀の間の「浦賀の渡し」(2008年11月)横須賀市道2073号、航路ではなく道路としての扱いです愛宕丸(2008年11月)前回東浦賀を訪れたのは、他でもなく浦賀城が目的でした。浦賀城は戦国時代末期に廃城となっていますが、東浦賀は江戸時代の問屋街の風情が残る、落ち着いた街並みだったのを覚えています。今回訪れた西浦賀には江戸時代に浦賀船番所が置かれ、こちらは江戸時代の海上交通の要衝でもありました。浦賀船番所跡ウッドデッキの先には浦賀水道の東京湾が広がり、その向こうには房総半島の山並みが見えています。江戸に入る全ての積荷と乗組員が浦賀船番所で検査され、さながら海の関所といったところかも知れません。陸路では東海道に箱根の関所がありますが、海路では浦賀船番所で「入り鉄砲に出女」が厳しく取り締まられていたようです。それでも浦賀船番所で史上最大の入り鉄砲は、ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊だったでしょうか。現在の浦賀港L字型の桟橋は「陸軍桟橋」と呼ばれ、昭和10年にできたものです。太平洋戦争後、南方からの引揚者が数十万人上陸したのもこの桟橋でした。今となっては、そんな過去の喧騒も想像できないほど、静かな浦賀の海でした。
2013/05/20
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大楠山ハイキングコースの途中に大善寺があり、その大善寺のある衣笠山一帯が衣笠城の城跡となっています。大善寺脇にある城址碑名門三浦氏の本拠地です。大楠山方面から来ると、ちょうど大善寺境内の西側、衣笠城の搦め手に行き当たりました。搦め手の切岸衣笠城の平時の居館は山裾の方、現在の横横道路の衣笠IC付近にあったようで、大善寺裏手の城域は戦時の詰め城として機能していたようです。大善寺大善寺の建立は衣笠城よりもずっと古く、728年に行基が不動明王を祀ったのが始まりとされています。お祓いをする水に困った行基が杖で岩を打つと水が湧いたとされ、その後も「不動井戸」と呼ばれて衣笠城の水の手となっていました。不動井戸跡不動明王は衣笠城内の不動堂に祀られ、第二代の三浦為継が後三年の役に出陣した時には、大善寺本尊の不動明王が現れて、敵の矢から身を守ったとも言われています。大善寺本堂明治29年に堂宇が焼失し、現在の本堂は昭和10年に再建されたものですが、ご本尊には不動明王が祀られています。ハイキングコースは大善寺の裏手へと続いており、その途中には曲輪と思われる削平地がありました。曲輪跡ハイカーの休憩場所にもなっています。本丸跡曲輪は奥に行くほど高くなっており、その先には物見岩と堀切のような跡がありました。物見岩堀切跡?ちなみに遺構を探しながらハイキングコースを行くと、巻き道をそれてロープ場を行く羽目になります。さすがは三浦氏の本拠地とあって、平安時代の城郭とは思えないほどの大城郭でした。前九年の役での功績により、三浦の地を与えられた平為通は。三浦氏を名乗って本拠地としたのが衣笠城です。以後三浦為継・義継・義明の4代にわたって、三浦半島の中心地でもありました。三浦義明は1180年の源頼朝の挙兵に呼応しましたが、平家方の畠山重忠に衣笠城を攻められ、三浦義明は討死して三浦氏も房総半島へ逃れました。大楠山ハイキングコースにあるクイズ1180年なので、平安時代です。鎌倉幕府が設立されると再び三浦氏の本拠地となりましたが、1247年に第7代三浦泰村が執権北条時頼との勢力争いに敗れると、衣笠城も廃城となっています。
2013/05/19
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JR横浜線の小机駅の東側には、まだまだ田園風景が広がっており、巨大な日産スタジアムがひときわよく目立ちます。日産スタジアムを右側に見ながら、横浜線に沿って北へ向かうと、「小机城址市民の森」が見えてきました。小机城遠景。公園の入口は住宅地の中にあり、竹林の中に登城道が続いていました。公園の入口側斜面越曲輪と土塁と思われる跡が見えますが、縄張りでは搦め手方向になります。ところで4月14日(日)に小机城址まつりが行われ、パレードなどもあるようです。竹林の斜面を登り切ったところにはいきなり空堀があり、その先には冠木門が復元されていました。本丸空堀空堀には土橋が掛っており、その先には冠木門が復元されていました。ここが本丸入口となりますが、本来の縄張りで見ると、本丸大手ではなく搦め手になります。冠木門を抜けると、目の前は本丸広場へとなっていました。冠木門の反対側にも土橋があり、空堀を越えて二の丸へと通じています。こちらが本来の本丸大手口だと思われます。本丸の周囲には空堀が巡らされ、土塁と共に見事に残っていました。本丸と二の丸の間の空堀本丸と二の丸の間の土塁(上部)土塁の先端部は少し広くなっており、櫓台があったようです。本丸の先にある広場が二の丸となるのですが、二の丸の位置については資料がなくて不明だそうです。二の丸跡広場の北側にもさらに広場があり、ここも曲輪の跡と思われます本丸と二の丸の間にある空堀は特に圧巻で、深さ約10mの空堀が残っていました。まぎれもなく北条流の築城術だと思います。二の丸からは本丸の周囲を回るようにして、根古谷と呼ばれる大手口へと回ってみました。右側の土塁は櫓台のものですが、この高さと傾斜が見事です。大手側には腰曲輪がいくつか配されていたようで、曲輪の跡と思われる削平地がいくつかありました。竹林となっていますが、ここも腰曲輪だと思います。私有地のようで立ち入りはできませんが、斜面に沿って腰曲輪と思われる削平地が見えていました。ひととおり回ってきたところで、本丸西側の「富士仙元」と名付けられた場所にも行ってみました。富士仙元との間には第三京浜が通っており、いったん下に降りてガード下をくぐる格好となりました。下へ降りる階段付近には堀切があったようで、その跡が残っていました。堀切跡だと思います第三京浜脇の空堀跡富士仙元の由来は不明ですが、櫓台と思われる土塁の跡があり、富士仙元菩薩の碑が建っていました。富士仙元から見た本丸方向日産スタジアムの巨大な建物が間近に見えます。現在の城山の西側には第三京浜、南側には横浜線が通っていますが、その向こう側にも城郭は続いていたものと思われます土塁の跡らしきものもうかがえますが、城山全体が城郭だったとするならば、小田原城にも匹敵するほどの規模だったと思われます。小机城の築城年代は明らかになっていませんが、この辺りが開拓された12世紀以降の築城だといわれています。関東の戦国時代の幕開けとも言える1478年の長尾景春が反乱を起こした時、長尾景春方の豊島泰経が石神井城より逃げ込み、小机城に立てこもりました。その時は太田道灌が反乱軍を鎮圧しますが、太田道灌が小机城攻めの時に詠んだ歌が残っています。「小机は まず手習いの初めにて いろはにほへと ちりぢりとなる」歌道に精通し、歌道の功績を数々残した太田道灌ですが、この歌はどうでしょうか。その後は小田原北条氏の支配下となり、北条氏第2代の北条氏綱が小机城を修復しました。現在残る遺構は北条氏時代のものだと思われますが、北条氏特有の軍制である「衆」が置かれ、小机城には「小机衆」が配されていました。しかしながら北条氏政の弟である北条氏堯が城主の時、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めで、他の関東の諸城と同じく、小机城も開城しています。
2013/04/12
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城ヶ島に近い三浦半島の南端部、マグロの水揚げで知られる三崎港を見下ろす高台にあるのが三崎城です。城ヶ島から見た三崎港と三崎城の遠景三崎城跡は現在も政治の中心となっており、現在は三浦市役所の敷地となっています。三崎城本丸跡衆議院選挙前だったので、期日前投票に訪れる人が大半でした。市役所脇にある城跡碑当時の縄張り図を見ると、城跡碑のある場所には方形の馬出があり、北条流の築城であったことがうかがえます。縄張り図では、市役所に隣接する三崎中学校の敷地もかつての曲輪の跡のようで、普通にある市役所の敷地や中学校の校庭も、縄張り図を見てからは城跡に見えてくるのが不思議なところです。校庭の盛土も土塁の跡かと思われます。市役所の駐車場にある盛土もしかりこれが土塁にしか見えないようになりました。それでも現代になって新たに斜面を削平して造ったならば、あまりにも不自然な造成だと思われます。やはり曲輪の跡を市役所の敷地にしたと見るのが妥当なところでしょうか。福祉センター脇の土塁三崎城の築城時期は明らかではありませんが、伊勢新九郎(北条早雲)によって新井城が落とされた時、三崎城も落城したことから、新井城の支城としての位置付けだったのかも知れません。北条氏の支配下となってからは、三崎城が北条水軍の重要拠点となっていたようです。北条氏が水軍を持つ必要性は乏しいと思いますが、東京湾を挟んで対岸の房総半島、すなわち里見水軍に対する拠点であり、三崎城が房総進出への橋頭堡であったと思われます。三崎城から見た三崎港一方、第一次国府台合戦や久留里城の攻防戦など、北条氏の房総進出をなんとか食い止めてきた里見氏でしたが、1556年には反撃を開始、里見義弘・正木時忠率いる里見水軍が三浦半島に上陸し、一時は三浦半島南部が里見氏の配下になったこともありました。里見義弘と共に三浦半島に攻め込んだ正木時忠は、北条早雲によって討たれた三浦道寸(義同)の流れを汲む(孫?)と言われています。正木時忠にとって、北条氏の三崎城と新井城を含む三浦半島を収めることは、先祖の仇討ちだったのかも知れません。
2012/12/18
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昔の先人達は「辞世の句」を残しており、いずれもその人の生き様や信念、さらには後世に残す思いや現世に対する無念さなどが凝縮されているように思います。いずれの時代も感じ入るものがありますが、とりわけ戦国時代を生きた武将に限ると、心に残る辞世の句が3句あります。(同じ戦国の人でも、武将以外の人を含めると4句あって、この4番目の句が最も心に残っています)当時では戦国武将といえども自分の名前が書けるかどうかという人ばかりで、ましてや辞世の句を残すとなると、武将でありながら教養人でもあったことでしょう。そしてその3句とは「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」「露と落ち 露と消えぬる 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」「討つものも 討たるゝものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ」1つ目は備中高松城主清水宗治。城主を慕って籠城する城兵や領民の助命と引き換えに、自らの命を差し出した武将です。その潔くも気高いスピリットが、この一句からも感じられます。2つ目はその備中高松城を水攻めと兵糧攻めにし、後に関白・太閤まで登りつめた豊臣秀吉。全てを手中に収めた天下人も、豊臣家の存続と秀頼の行く末だけは未練があったようで、「浪花のこと」がそれを物語っているように思います。そして3つ目が三浦氏最後の当主で、新井城の城主であった三浦義同(道寸)です。清水宗治や豊臣秀吉とも違って、来世も現世もない無常観にあふれており、最期に到ってもなお達観していたような感じがあります。その三浦道寸の新井城は、三浦半島南部の西側、油壺湾に突き出た岬の先端部にありました。現在は某電鉄会社の水族館がある一帯です。そのK急マリンパークの駐車場脇には新井城の城跡碑がひっそりと建っていました。その隣には三浦道寸の墓所があり、家紋である三つ引き紋が刻まれた墓前には、今も供え物が並んでいました。(撮影はしていません)新井城跡のある一帯は、関東大震災による隆起で地形が変動しており、必ずしも当時の姿を留めてはいないようです。それでも東大臨海実験所のある場所に新井城の中心部があったと思われます。明らかに土塁の跡が残っていました。空堀跡もはっきりと残ってしましたが、悲しいことに立ち入り禁止です。さらに悲しいことに、柵の外から観察してみると、明らかに曲輪跡と思われる削平地が見えています。新井城の築城時期は明らかではありませんが、三浦半島を支配する三浦氏の最後の拠点であったことは間違いありません。 1516年に、相模へ進出してきた伊豆韮山城の伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が新井城に攻め込み、新井城主三浦道寸義同(どうすんよしあつ)は、新井城での籠城戦を展開しました。北条早雲を相手に壮絶な攻防戦でしたが、ついに力尽きて新井城は落城し、ここに名門三浦一族も滅亡しています、 その戦いで自刃・討死した将兵もあれば、油壺湾に身を投じた将兵も大勢いました。 血で染まった海面が、まるで油を流したようだったので、「油壺」と呼ばれるようになったそうです。 ヨットハーバーもあって、穏やかな海面の油壺湾も、今は昔でしょうか。そして和歌にも精通していた新井城主、三浦道寸が残した辞世の句討つものも 討たるゝものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれその三浦道寸を討ったのが、北条氏初代の北条早雲です。「箱根の坂」を越えて相模を手中に入れ、さらには5代で関東全域を制覇したのも北条氏でした。その後の新井城は北条氏の支配下となり、今度は東の里見水軍に備える前線基地となっています。船着場跡のようなものがあるのですが、北条氏時代のものでしょうか。武田信玄や上杉謙信の攻撃も寄せ付けなかった北条氏と小田原城も、1590年の豊臣秀吉の前に降伏・開城したことを思えば、まさに「討つものも 討たるるものも かわらけ」だったのかも知れません。
2012/12/17
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相模川上流にある津久井湖は、城山ダムによって造られた人造湖です。津久井湖城山ダムの名前にある通り、津久井湖畔の城山が津久井城跡で、城跡というよりも城山全体がハイキングコースになっていました。津久井湖のある画像の下側が北になり、北側(下側)が搦め手で南側(右上)を大手と見るのが妥当なところでしょうか。茶色のシミのようなところは曲輪の跡で、本城曲輪(本丸)と東側(左側)の飯縄曲輪の周りには、斜面に沿って腰曲輪が配されているようです。津久井湖からだと搦め手方向から上がる格好になりますが、等高線もかなり混んでおり、おまけにクサリ場まであるようでした。右側(西側)から直で本城曲輪に至る道もありますが、まずは北側の等高線に沿って飯縄曲輪を目指すことにしました。こんな山登りになるとは想定しておらず、全くノーマルな格好で来てしまったのですが、それでもなかなか快適な山歩きでした。山ひだ(竪堀)を巻きながら振り返ると、木々の間に津久井湖の水面が見えていました。戦国時代には城山ダムも津久井湖もなかったので、ずっと深い谷だったと思われます。クサリ場を越えて東側の斜面にとりつくと、間もなく飯縄曲輪に到着しました。飯縄曲輪飯縄曲輪の南側には独立した曲輪があり、烽火台があったようです。烽火台跡さらには「宝ヶ池」と呼ばれる井戸もあり、ここで水の手を確保していたようでした。宝ヶ池現在も水が湧いていました。城山山頂部に東西に延びる尾根上には、ピークの上にそれぞれ曲輪が築かれていたようで、曲輪と曲輪の間には堀切の跡が残っていました。飯縄曲輪と太鼓曲輪の間の堀切太鼓曲輪跡太鼓曲輪と本城曲輪の間の堀切山頂付近の縄張り図尾根周辺に曲輪を張り巡らせてあり、何とも念の入ったことですが、仮想敵が武田信玄とあれば、これくらいは必要なのでしょうか。本城曲輪の土塁本城曲輪から続く斜面にも、腰曲輪の跡が連なっていました。腰曲輪跡本城曲輪跡土塁や虎口の跡が残っていました本城曲輪から見た津久井湖本城曲輪に建つ古城碑戦国時代の津久井城主内藤氏の家臣であった島崎氏の末裔で、根小屋の名主であった島崎律直によって、1816年に建てられたものです。題字は白河少将朝臣、松平定信によるもので、津久井城の築城から時代背景や歴史について書かれています。戦国時代の関東についても書かれており、「甲越の鷲悍を以ってすと雖も、猶加うること有る能わず。其の強域の大なるに至りては、ただ毛利氏と北条氏と有るのみ」とありました。すなわち武田信玄や上杉謙信をもってしても北条氏と津久井城は滅びることなく、当時の最大勢力を誇ったのが毛利氏と北条氏だったと書かれています。本城曲輪は有事の詰め城のような存在だったと思われ、平時は南側の根小屋が拠点だったと思われます。南側に下りていくと、緩やかな斜面に広い曲輪が配されており、その曲輪の跡が残っていました。これも曲輪の跡だと思います。南側の根小屋で最大の曲輪が「御屋敷跡」と名付けられた曲輪です。現在は埋め立てられていますが、発掘調査では堀跡や中国製の陶磁器などが出土したそうです。この辺りは八王子城にも似た雰囲気があり、八王子城の影響を受けていたのかも知れません。根小屋方面に下りてくると急に賑やかになってきて、同じ城山にありながらがらりと雰囲気が変わってきました。結局搦め手から入って大手から出るという、全く反対の動きをしてしまいました。おそらくここが大手口です。やれやれと思いきや、スタート地点の駐車場までどうやって戻るかという問題が発生しました。城山の山頂を越えて戻るのもしんどいので、城山の周りをめぐって戻ることにしました。津久井城城山の遠景結局倍以上の距離を歩いて戻るはめになりました。津久井城を訪れたのは約2ヶ月前の話で、城跡とは言いながらも久々に山を歩いた感じです。標高差も距離もさほどではない城山でペースを乱していたのはさておき、「やっぱり山はいいな~」ということで、その2週間後には丹沢へ出かけていった次第です。
2012/12/12
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ハイカーにとっては大山を始めとする丹沢への起点としてポピュラーなヤビツ峠、最近では自転車のヒルクライムやダウンヒルの場所としても知られています。秦野市内からヤビツ峠に向かう途中にあるのが波多野城で、ヤビツ峠へ到る県道70号線を曲がった場所にあるとされています。「秦野に城があったのか…」と、全くその存在を知らなかったのですが、場所も非常にわかりづらく、ようやく秦野東小学校の横に広がる田園地帯が波多野城跡だとわかりました。波多野城遠景「思わぬところに伏兵がいた」とはこのことで、しっかりと土塁の跡が見受けられます。それにしても困ったことに、このような場所にありながら駐車スペースがないことでした。最適な場所は小学校の校庭くらいしかなく、城跡に続くあぜ道に停めると農作業の邪魔になるといった具合で、遠景から眺めるだけで終わってしまいました。たぶん本丸のあたりどうやら縄張りそのものはシンプルのようです。戦国時代の城郭ではないと思うのですが、戦略的にここに築城する意味がないように思います。実はこの波多野城から遺跡が発掘されないこともあって、場所については疑問も呈されています。波多野城の場所については諸説あって、その1つが波多野城から東に約1kmほど西へ行ったところにある源実の首塚跡です。史跡としては波多野城よりもこちらの方が目立っていて、むしろ源実朝首塚で波多野城の場所がわかったくらいでした。源実朝の首塚は公園として整備されており、道の駅みたいに地産のものが売られたりしていました。時間も遅かったのでほとんど売れてしまっており、かろうじて玉ねぎ4玉(120円)を手に入れました。(何をしに来たんだ・・・)丹沢の山に囲まれた平地にあり、城館ならばこちらの方が相応しいようにも思います。実際に鎌倉時代の遺構も出土しているようで、波多野氏の居館はこちらにあったのかも知れません。ところで源実朝ですが、「源氏にそんな武将がいたっけ?」と思ったほどで、鎌倉幕府第3代将軍で金槐和歌集の編者である源実朝と、この秦野の地が全く結びつきませんでした。源実朝は源頼朝の次男で、兄である第2代将軍源頼家の子である源公暁、すなわち甥に暗殺されています。鶴岡八幡宮で暗殺された実朝の首級は、流れ流れてこの地に葬られたとされています。源実朝首塚源実朝の首級は、流れ流れて最後に波多野氏の手に渡ったとされていますが、源氏将軍の首級を居館から1kmも離れた場所に葬るのも不自然な気がします。そう考えると波多野氏の居館もここにあったとしても不自然ではないように思います。
2012/10/25
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お彼岸を過ぎてすっかり秋めいてはきたものの、まだまだ湘南の海岸には夏が残っていました。稲村ヶ崎から見た七里ヶ浜と江ノ島水着姿の人がいたり、ツクツクボウシが鳴いていたり、ここだけは夏に戻ったような感じです。稲村ヶ崎は由比ヶ浜と七里ヶ浜の海岸線の間にあり、なぜかここだけ断崖となっています。由比ヶ浜方向から見た稲村ヶ崎おりしも強大な台風17号が接近中なのに、思ったよりも波は穏やかでした。(「稲村ジェーン」は伝説なのか・・・)バブル期に学生時代を過ごした人間にとっては、映画「稲村ジェーン」も伝説になりつつありますが、加勢大周を知る人も少なくなり、ましてや「初代の加勢大周」とか言っても意味がわからなくなってきました。♪四六時中も好きと言って~、波はどこへ帰るのか~♪聞いていた通りに荒波がさらう断崖でしたが、ここをどうしても徒歩で越えなければならない人もいました。時代はずっと下って「太平記」の頃、本拠地である上野国(群馬県)を発ち、鎌倉幕府倒幕を目指して進軍していたのが新田義貞です。稲村ヶ崎にある「新田義貞徒渉伝説地」の碑鎌倉まであと一歩のところで稲村ヶ崎の断崖に阻まれ、新田義貞のとった行動は、潮が引くことを願って金の剣を海に投げ込んだことでした。すると潮が引いて進軍が可能になったという全くふざけた話で、「笑止千万」とはこのことでしょうか。こんな伝説もわからないでもなく、何かことを起こすにあたっては、士気を高めるためにも、験を担ぐことも大将の役目だったかも知れません。織田信長も桶狭間の戦いで今川義元軍と対決するにあたり、織田軍の集結地であった熱田神宮で銭を2枚投げ、「両方とも表がでたら我が軍の勝利」と験を担いだこともありました。果たして織田信長の投げた2枚の銭は、両方とも表が出たのですが、そもそも両面とも表になるよう細工していたとも言われています。それにしても「金の剣を投げたら潮が引いた」とか、古事記や日本書紀の記述ならまだしも、千早城・赤坂城の攻防戦や桜井の訣別そして湊川の戦いと同じ「太平記」に書かれているのが衝撃です。【送料無料】私本太平記(8) [ 吉川英治 ]
2012/09/30
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岡崎城と言えば、神君出世の三州の岡崎が有名ですが、相州は平塚(現在は伊勢原市)にも岡崎城がありました。現在は無量寺の境内となり、岡崎城址の碑が境内にひっそりと建っていました。無量寺境内の周囲にはわずかに空堀の跡が見られるものの、残念ながら城郭そのものの遺構は残っていませんでした。無量寺門前の道路が土塁の跡に見えなくもないのですが、岡崎城の遺構かどうかはわかりませんでした。岡崎城の歴史は古く、平安時代末期に三浦氏の流れを汲む三浦義実が、岡崎を本拠地として岡崎義実を名乗って築城したのが始まりです。岡崎義実は源頼朝に従って石橋山の合戦にも参戦しており、三浦・和田・佐原・岡崎の三浦四棟梁に数えられると共に、「三浦悪四郎」の異名を持つほどの猛者だったようです。その岡崎義実の墓所も無量寺の裏手の岡崎城跡にあります。戦国時代になって岡崎城を本拠地としたのが、三浦義同(道寸)です。その頃、伊豆韮山城を本拠地としながらも「箱根の坂」を越え、相模平定を狙っていたのが伊勢宗瑞でした。岡崎城の解説板には伊勢宗瑞の名で書かれていますが、後の関東の覇者である北条氏の初代、北条早雲その人です。小田原城を奪取して、さらに相模平定を狙う北条早雲の前に立ちはだかったのが三浦道寸で、岡崎城を巡っては実に17年にも及ぶ攻防戦が繰り広げられました。三浦道寸も最後は三浦半島の先端部にある新井城に逃れ、北条早雲の前に討死するとともに、三浦氏は滅亡して相模は北条早雲の手に落ちることとなりました。(詳細は新井城の記事→こちら、油壺の地名の由来など、生々しいのでここでは割愛します)戦国武将の辞世の句には、思わず心動かされるものがあります。私の中では、領民や城兵の命と引き換えに自刃した備中高松城の清水宗治、その清水宗治を水攻めにした豊臣秀吉も、天下人関白でありながらも、まだ天下に憂いを残していたようでした。そして新井城で散った岡崎城主三浦道寸の辞世の句が印象的です。討つものも 討たれるものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとのつちくれ
2012/09/15
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東京湾フェリーで房総半島から三浦半島へ渡り、久里浜に上陸しました。久里浜は1853年にペリーが上陸した場所でもあり、久里浜港の近くにはペリーの上陸を記念して整備された「ペリー公園」があります。「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念」と書かれた碑文揮毫は伊藤博文です。公園内には「ペリー記念館」があり、館内には数々の展示品が置いてありました。ペリー記念館記念館入口のペリー像上陸当時のジオラマ模型や上陸の様子を描いた絵なども展示してありました。当時は長閑な風景が広がっていたのでしょうが、黒船の来航は天変地異のような騒ぎだったことだと思います。現在の久里浜久里浜のみならず、東京湾岸の光景はペリー上陸後に大きく変わっていったことでしょう。関連の記事浦賀城(2008年11月)→こちら
2010/02/16
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以前金時山に登った時は、北側の忍柄古道から足柄峠を越え、南側の公時神社へ下りるルートをとったのですが、今回は前回とは逆に公時神社から南側の斜面を登っていきました。スタート地点の公時神社バス停の名前は金時神社となっていますが、公時神社が正式名称です。祭神は坂田金時で、金時山へ登る途中に奥ノ院があり、注連縄の向こうに巨大な岩がありました。ご神体の岩でしょうか。金時山の途中には、このような巨大な岩が他にも多く転がっており、「金太郎蹴落し石」「金太郎宿り石」などの名前がついていました。金太郎蹴落し石金太郎宿り石今にも倒れて来そうな感じで、ここを通る人がつっかえ棒を置いて行くのもわかるような気がします。金時山の登山道は岩がごつごつとしている上、土の部分も霜柱が解けた後にぬかるんで、さらに歩きづらくなっていました。それでも登っていくにつれて、芦ノ湖や仙石原が望めるようになりました。仙石原と芦ノ湖この日は天気も良く、山頂からの眺めも期待が持てそうです。それでも山の天気は変わりやすいので、なるべく早く頂上に行きたいと、ついついペースが上がっていました。関連の記事足柄古道(2009年9月)→こちら
2010/01/31
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「川崎大師に初詣に行ってみるか…」と軽い気持ちで行ってみたものの、とんでもなく人が多いので圧倒されそうになりました。参道は人また人であふれかえっていました。ようやく山門に到着。入場制限を行っているようで、進んでは止まりの繰り返しとなりました。ようやく大山門に到着。本堂ははるか彼方に途中で気持ちがなえそうになったのですが、がんばって本堂を目指して少しずつ進んで行きました。ようやく本堂が近づいてきました。大山門を通ってから本堂まで30分近くかかっていたように思います。参拝を済ませて振り返ると、卒倒しそうなくらいに人があふれていました。苦労して参拝しただけに、ご利益があるといいのですが…関連の記事東海道~川崎宿→こちら
2010/01/04
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「駆け込み寺」というのは本当にあるようで、鎌倉の山ノ内にある東慶寺も駆け込み寺(縁切寺)の1つだったそうです。東慶寺は鎌倉幕府執権の北条時宗の夫人である覚山尼が、北条時宗の死後に時宗の息子北条貞時を開基として建立しました。いつから駆け込み寺になったのかはわかりませんが、実際に1903年(明治36年)までは男子禁制だったそうです。東慶寺本堂本尊の木造聖観音立像夫と縁を切りたい女性は、ここで3年修行をすることで初めて離婚が認められたそうです。今と違って昔は離婚も大変だったようですが、何人の女性がここに駆け込んだのでしょうか。
2009/11/13
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鎌倉の北西部にある山ノ内は、関東管領であった山内上杉氏が居館を構えていた場所でした。(河越夜戦で北条氏康に大敗した後は、上杉家の家督を長尾景虎に譲っています)山ノ内には寺院も数多くあり、建長寺を筆頭とする鎌倉五山のうち、3つが山ノ内にあります。その1つである、鎌倉五山第4位の浄智寺を訪れてみました。浄智寺山門山号は金寶山といいます。こちらは「鐘楼門」です。(鐘楼門というのは聞いたことがありません)門を入ったすぐの所に仏堂がある伽藍配置となっており、すぐ右手に「曇華殿」がありました。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来とのことです。境内の奥には鎌倉特有の岩がむき出しとなった切岸があり、横穴の中に布袋様の像がありました。鎌倉七福神の1つで、お腹をさするといいようです。鎌倉幕府執権の北条時頼の三男である北条宗政が29歳で亡くなると、宗政夫人と息子である北条師時は、北条宗政の菩提を弔うために、開基となって1281年に浄智寺を建立しました。創建当時は外門、山門、経堂、仏殿、方丈、庫裡などの七堂伽藍を備え、塔頭も11院に及んだそうです。また夢窓疎石も浄智寺に住持したこともある名刹ですが、現在は伽藍がいくつか点在するだけで、同じ鎌倉五山の建長寺と比べるとあまりにも質素な感じがしました。
2009/11/12
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鎌倉宮は別名「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれ、その名の通り後醍醐天皇の皇子である(大塔宮)護良親王を祀る神社です。鎌倉宮本殿鎌倉宮は東光寺の跡に建てられた神社で、護良親王が幽閉されて最期を遂げた場所でもあります。鎌倉宮本殿の裏側には、護良親王が幽閉されていたとされる土牢がありました。古典の「太平記」では護良親王が土牢に約1年も閉じ込められたことになっていますが、実際に訪れてみると、いくらなんでも皇子がこんな土牢に幽閉されたていたとは考えにくいところです。古典の「太平記」は誇張的な表現が多く、実は吉川英治の「私本太平記」では、護良親王が土牢に閉じ込められていたことが否定されています。「『土牢』は『塗籠』で、すなわり“塗り籠め”―壁ばかりな部屋ということの訛伝であろうか」「それにせよ、通い戸のほかは、庭口も廊の渡りも、牢御所と名に呼ぶごとく矢来ぶつけ板で囲まれていたこととは想像される」(吉川英治「私本太平記」より)また「私本太平記」では、土牢説を否定した上で次のようにも書かれています。「おもえばそんな末端事は訂正してみても訂正のしがいはない。宮の御生涯そのものがすでにこの世の土の牢だった」いずれにせよ、1335年に足利直義(尊氏の弟)の命で淵辺義博によって殺害され、護良親王は28歳の生涯をここで閉じています。鎌倉宮の境内脇には、淵辺義博が首を置いたとされる首塚がありました。さらに鎌倉宮から西へ250mほど行った場所には理智光寺の跡があり、理智光寺の住職が護良親王の首を葬ったとされています。長く急な階段を登って行くと、護良親王の墓所がありました。
2009/11/11
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鎌倉から朝比奈切通しに至る金沢街道の途中には、鎌倉で最も古いとされる杉本寺があります。杉本寺仁王門杉本寺は、734年に光明皇后の発願により、行基によって開山されました。本尊は十一面観音像で、うち一体は行基の作と言われています。杉本寺観音堂鎌倉・室町時代には戦火や火事に見舞われ、江戸時代には寺院が衰退した上、明治になってからは廃仏毀釈や震災によって、観音堂以外の伽藍は焼失または倒壊してしまいました。昭和48年になってからは、「茅一束運動」の復興運動によって伽藍が再建されています。ところでこの杉本寺ですが、杉本城という城跡でもあったようです。鎌倉時代には斯波家長が拠点としていましたが、1337年の南北朝の戦いの中、南朝の北畠顕家に攻められて自害しています。杉本寺観音堂の裏手を見てみると、削平地のようになっており、曲輪があったものだと思われます。さらに西側に回ってみると切岸状になっており、城郭があったことは間違いなさそうでした。(さらに先を調べたかったのですが、私有地となっているので立入はできませんでした)杉本寺から見た金沢街道方面築城するのにも最適な地形だと思います。
2009/11/10
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建長寺からスタートした約6kmの鎌倉天園ハイキング、ゴールはいくつかあるのですが、瑞泉寺へ下りるコースをたどることにしました。瑞泉寺の山門吉田松陰もここを訪れたらしく、山門脇には「松陰吉田先生留跡碑」が建っていました。「二階堂」の地名にあるように、瑞泉寺は1327年に二階堂道蘊が開基となり、夢窓疎石によって開山された古刹です。瑞泉寺本堂南北朝時代には初代鎌倉公方の足利基氏(尊氏の三男)が夢窓疎石に帰依し、以後は鎌倉公方の菩提寺となりました。鎌倉五山に次ぐ関東十刹の筆頭として、夢窓疎石派の拠点として重きをなしていましたが、1437年の鎌倉公方第4代足利持氏による永享の乱の後は衰退してしまいました。現在は境内に創建当時の建物は残っていませんが、創建時の夢窓疎石によって造られた庭園が発掘され、復元されています。本堂裏手にある夢窓疎石作の庭園鎌倉に残る唯一の鎌倉時代の庭園です。鎌倉北部特有の露岩を削ったダイナミックな造りとなっていました。
2009/11/09
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京都五山と共に五山制度のある鎌倉にあって、鎌倉五山の第一位が建長寺です。建長寺総門。山号は「巨福山」、正式名称は「建長興国禅寺」と言います。その名の通り禅宗のお寺で、臨済宗建長寺派の総本山でもあります。総門をくぐるとさらに立派な門があって、ここが三門です。三門(1775年再建、国指定重要文化財)「三門」とは、「空・無相・無作」を表わす「三解脱門」の略だそうで、ここをくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味しています。建長寺の本尊は地蔵菩薩で、「仏堂」に安置されています。仏堂(重要文化財)創建より4代目とのことで、芝増上寺にあった徳川秀忠夫人の霊屋を建長寺が譲り受けました。仏堂の先には法堂(はっとう)があり、法堂では関東最大だそうです。法堂。(重要文化財)建長寺は寺院全体が修行道場であり、僧侶全員が法堂に集まって住持の説法を聞くことを修行の眼目としています。現在も修行道場が置かれていますが、僧侶の修行場は立入禁止となっていました。法堂の先には唐門があり、その向こう側に方丈があります。唐門(重要文化財)方丈方丈の中には入ることができ、裏手には夢窓疎石の作とされる庭園がありました。やたらと重要文化財があちらこちらにあるのですが、中には国宝もありました。梵鐘(国宝)鎌倉幕府第5代執権北条時頼の発願によるもので、1255年に鋳造されました。開山した蘭渓道隆(大覚禅師)の銘文が入っており、創建当時から現存するものです。方丈の裏手にある急な山を登って行くと、境内最奥のもっとも高い所に「半僧坊」の建物があります。半僧坊ここからは建長寺の伽藍を眼下に見ることができます。さらに遠くへ目を向けると、相模湾の海を一望することができました。ここは「鎌倉天園ハイキングコース」のスタート地点でもあります。(実はハイキングがメインだったのですが・・・)それでもさすが建長寺は鎌倉五山の第一位、奈良や京都に長く在住していた私も圧倒されるほどの名刹でした。関連の記事鎌倉天園→こちら
2009/11/07
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鎌倉と言えば坂東武者の聖地であり、その象徴が鶴岡八幡宮です。鎌倉駅を出た所に二の鳥居があり、ここから若宮大路の長い参道が続いて行きます。由比ガ浜から続く若宮大路は、源頼朝が京都の朱雀大路を模して造ったそうです。三の鳥居太鼓橋の石橋の向こう側には、左右に源平池が広がっています。源平池(左側)源平池(右側)どちらかが源氏でどちらかが平氏と聞いたことがあるのですが、右側の池の島には「旗上弁財天」があることから、右側が源氏かも知れません。旗上弁財天社さらに境内を奥へ進むと、正面に舞殿が見えてきます。舞殿源頼朝の命で舞った静御前は、源義経を慕って有名な歌を詠んでいます。「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」(男冥利に尽きるとはこういうことかも知れません)そしていよいよ本宮へ到着です本宮の脇には「若宮」があり、祭神は鶴岡八幡宮と同じ仁徳天皇です。若宮さらに若宮の脇には、源頼朝と源実朝を祭る「白旗神社」があります。小田原城攻めの後で豊臣秀吉が鶴岡八幡宮に立ち寄り、白旗神社に祀られている源頼朝像をポンポンと叩きながら、「御身と我は天下友達なり」の暴言を吐いたのもここです。(たわけとしか言いようがありません)1063年に源氏2代目の源頼義が奥州の前九年の役の戦勝を祈願して、京都の岩清水八幡宮を由比ヶ浜に祀って建立したのが、鶴岡八幡宮の始まりです。その後源義家(八幡太郎)によって修復され、1180年に源頼朝によって現在の地に移されました。源頼朝は鶴岡八幡宮を源氏の氏神とし、鶴岡八幡宮は東国武士の崇敬を集めてきました。しかしながら戦国時代になると、その源氏の象徴である鶴岡八幡宮が、源氏の血を引く房総の里見氏第3代の里見義豊によって焼き払われています。さらにその修復を申し出たのは、源氏とは関係のない小田原北条氏の第2代北条氏綱でした。この時北条氏綱は関東一円の武士に修復の協力を申し出ましたが、里見氏第5代の里見義堯はこれを拒否しています。(鶴岡八幡宮修復によって、関東武士団のイニシアチブをとろうとする北条氏綱の政治的な意図もあったのでしょうが…)さらに第6代の里見義弘が北条氏の支配下にあった三浦半島の新井城や三崎城に攻め込んだ時も、鶴岡八幡宮も戦火に見舞われました。(房総では英雄扱いの里見氏も、さすがに鎌倉では暴徒同然の扱いです)また鶴岡八幡宮と言えば、上杉謙信の関東管領就任式が行われた場所でしたが、大衆の面前で烏帽子を飛ばされた忍城の成田長泰が上杉謙信を見限って北条氏に寝返った場所でもあります。戦国時代にあっては何かとエピソードの多い鶴岡八幡宮ですが、それだけに東国武士たちにとっても印象深い場所であったのではないでしょうか。
2009/11/06
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大山の見晴台を後にして、日向薬師までは約4kmの長い下りの道のりです。(秩父山地ほどではないにしろ、丹沢山系の下りも結構歩きづらいです)山道が終わって車道を行くようになると、いくつか寺院が並んでいました。その中に混じって大友皇子の墓所があり、あまりに不思議なので立ち寄ってみました。「伝 大友皇子稜」の碑大友皇子の墓所大友皇子と言えば壬申の乱、兄の大海皇子に敗れて自害したのですが、壬申の乱が起こった場所は確か近江(滋賀県)だったはずです。言い伝えによると、壬申の乱の時に自害したのは大友皇子の身代わりだったそうで、大友皇子は近江国山崎からわずかな従者と共にこの地に逃れ、隠れ住んでいたとのことです。その最期は淋しい生涯だったと言われ、遺言により墓所には皇子の愛した松の木だけが植えられていたようです。 さらに車道を下って行くと、日向薬師に到着しました。萱葺屋根の本堂に日本の秋を感じます。本堂1660年に旧本堂の部材を使って建てられたそうです。日向薬師は日向山霊山寺として、716年に行基によって開山されたと伝えられる古刹です。本尊の薬師三尊像を初めとして、重文クラスの文化財が宝物殿にずらりと並んでいるようでした。(私は宝物殿には入っていませんが…)鎌倉時代の1194年には、源頼朝が娘の病気全快を祈るために日向薬師を訪れています。鎌倉武士を従えた源頼朝の行列は、日向全山を圧するほどの壮観なものだったと伝えられています。源頼朝は日向薬師参詣にあたって、旅装束から白装束に着替えましたが、その跡が「衣装場(いしば)」として残っていました。衣装場跡源頼朝が日向薬師に向かう途中で通った道は、「日かげ道」と呼ばれる大山道です。現在の日かげ道(大山山頂は雲の中に…)「日かげ道」の至る所には、彼岸花が群生していました。関連の記事大山参詣(その1)~女坂の七不思議→こちら大山参詣(その2)~大山寺→こちら大山参詣(その3)~阿夫利神社→こちら
2009/09/30
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大山寺にも見られるように、大山は山岳信仰の対象となり、江戸時代には「大山詣で」が観光の定番でもありました。大山は「雨降(あふり)山」や「阿夫利(あふり)山」とも呼ばれ、大山にある阿夫利神社は雨乞いの神様として崇められてきました。常に雲や霧が発生して雨を降らすのでこの名前が付いたと言われています。その阿夫利神社は「下社」と奥の院に分かれており、下社にはケーブルカーでも気軽に行くことができます。阿夫利神社の下社阿夫利神社は水の神・山の神として崇められてきましたが、海からもその山容がよく望めるため、羅針盤を努める海洋の守り神や大漁の神様として、海の人達からも信仰されてきました。実際に阿夫利神社の下社から眺めると、相模湾の方向がよく見渡せます。霞がかかっていましたが、天気のいい日はいい眺めだと思います。阿夫利神社の社殿内に入ると、「大山名水」が流れ出ていました。大山名水底まで透き通った水が満ち溢れており、本当にきれいな水でした。阿夫利神社の下社からは、登って来た方と反対側の稜線を下って行きました。阿夫利神社の下社から奥の院まで登るコースだと思っていたのですが、違ったようです。(どうりで話がかみ合わないはずです…)阿夫利神社から見晴台に下る途中にあるのが、二重の滝です。二重の滝上のほうにもう1つ滝がありますが、水量が少ないようです。この二重の滝は修験者の修行場でもあり、また江戸時代には大工・鳶・左官が、新年になると阿夫利神社の下社に篭り、二重の滝に打たれて心身を清めてからその年の賃金を決めたそうです。再び登って来た方とは反対側の稜線をたどって行くと、「見晴台」に到着しました。その名前の通り、ここからも相模湾の方向が一望できます。反対側には阿夫利神社の下社が、緑深い山の中に浮かんでいました。随分と大回りして来ました。また見晴台は、日向薬師へ下る道と大山山頂へ登る道の分岐点にもなっています。稜線上には大山山頂が見えていました。大山山頂はお正月に登ることにして、日向薬師への道を下って行きました。関連の記事大山参詣(その1)~女坂の七不思議→こちら大山参詣(その2)~大山寺→こちら
2009/09/29
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阿不利神社を目指して女坂を登る途中、「女坂の七不思議」の4番目「逆さ菩提樹」の先に大山寺があります。大山寺前立不動さらに前立不動の脇には、「倶利伽羅堂」がひっそりと建っていました。倶利伽羅堂元々は向かい側の稜線上にある二重滝の所に建っていたのですが、明治になってここに移築されました。大山寺の中で現存する最古の建物です。大山寺には「雨降(あふり)山」の山号がありますが、雨乞いや日照乞いの主神はここにありました。鎌倉幕府3代将軍源実朝は、この倶利伽羅堂に日照り乞いの歌を捧げています。「時により過ぐれば 民の嘆きなり 八大竜王 雨止め給へ」前立不動から本堂に至る参道は、急な階段が延々と続いていました。本堂前の階段登りきって上から見下ろすと、急なのがよくわかりました。ここは紅葉がきれいだそうですが、すでに先の方は色付き始めていました。大山寺本堂元々は阿夫利神社の下社にあったのですが、明治に入ってからの廃仏毀釈によって本堂伽藍は破壊されてしまいました。その後は信徒の人達の浄財によって再建が進められ、明治18年に現在の場所に再建されています。本堂内部に入ると中央に不動明王像があり、こちらが本尊かと思っていたら、「前立」だそうです。本尊の「鉄造不動明王像」は本堂の内部に安置されていて、毎月8日・18日・28日がご開帳とのことでした。鉄造不動明王像は1264年に鋳造され、国の重要文化財に指定されています。大山寺は、奈良の東大寺を開山した良弁が、755年に開山しました。その後は大山寺第三世として弘法大師が入り、数々の霊所が開いています。「女坂の七不思議」も弘法大師にまつわる話が多いように、大山寺には山岳信仰の密教の雰囲気が残っていました。関連の記事大山参詣(その1)→こちら
2009/09/28
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江戸時代には、関東の至る所から大山へと「大山道」が通じており、「大山参り」は観光の定番中の定番だったようです。今回RICARDOさん、もぐもぐりすさんたち7人で、その大山参りに行ってきました。伊勢原駅前の鳥居大山のケーブル駅までは階段の参道が延々と続き、参道沿いの至るところにお土産屋が並んでいます。阿不利神社に至る「女坂」には、「女坂の七不思議」なるものがあって、その七不思議を探しながら登って行きました。七不思議その1、「弘法水」弘法大師が岩に杖を突いたところ、その跡から清水が湧き出たと言われています。この清水は夏場もかれることなく、「弘法の加持護水」とも呼ばれています。七不思議その2、「子育て地蔵」最初は普通のお地蔵さんだったのですが、いつの頃からか顔が子供の顔に変わっていったそうです。そのお地蔵さんにお祈りをすると、子供が丈夫に育つと言われています。七不思議その3、「爪切り地蔵」弘法大師が道具を使わず、一夜のうちに手の爪だけで彫刻したと伝えられているそうです。七不思議その4、「逆さ菩提樹」上が太くて下が細く、逆さに生えているように見えることから、逆さ菩提樹というようです。「どうみても逆さに見えない」と思っていたら、現在の菩提樹は二代目だそうです。七不思議その5、「無明橋」話をしながら通ると、橋から下に落ちたり、落し物や忘れ物をしたりして、悪いことが起きるそうです。話をしながら渡っていたのですが、渡った後にいわれが書いてありました。七不思議その6、「潮音堂」祠に近づいて耳を澄ませると、潮騒が聞こえるそうです。ケーブルカーがすぐ近くを通るので、よくわかりません。大山のケーブルカー七不思議その7、「眼形石」石が人の目の形をしており、手を触れてお祈りすれば、眼の病が治ると言い伝えられているそうです。程度の差こそあれ、確かに不思議な(無茶な)話ばかりです。江戸時代の大山詣りの人たちは、どう思っていたのでしょうか。
2009/09/27
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道場坂と呼ばれる長い坂を下っていくと、遊行寺の門前町として栄えた東海道藤沢宿へと入って行きます。遊行寺の正式名称は清浄光寺と言い、時宗の総本山です。遊行寺は藤沢道場とも呼ばれ、遊行寺前の坂道も藤沢道場に因んで道場坂と呼ばれるようになりました。清浄光寺の本堂。さすがは時宗の総本山、堂々とした風格のある本堂です。時宗の開祖と言えば、日本史でおなじみの一遍上人。境内には一遍上人の像が建っていました。時宗と言えば踊り念仏、一遍上人は念仏を唱えれば極楽浄土へ行けると説いて、「南無阿弥陀仏」のお札(賦算)を配りながら、各地を遊行して回りました。当時は仏教と言えば真言宗と天台宗であり、浄土宗や時宗はまだまだ新仏教の時代でした。一遍上人は寺院を建立することはなかったのですが、その志を受け継いで1325年に藤沢に寺院を建立したのが、遊行第四代の呑海(どんかい)上人です。(名前がすごい・・・)戦国時代になると、伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸義同・太田資康(道灌の子)の戦火で全山焼失するなど、度々火災に見舞われてきました。境内に残る「中雀門」が、現存する最古の建造物です。中雀門。安政年間(1854~60)の創建です。門の内側には、1416年の上杉禅秀の乱で戦死した人々の供養塔、「敵御方供養塔」が建っていました。清浄光院(遊行寺)には、小栗判官と照手姫の墓所があるとのことでした。小栗判官は初めて聞いた名前で、「小栗忠順と関係があるのかな?」くらいの印象でした。墓所の場所もわからなかったので、境内を掃除していた寺院の人に「小栗ホウガンの墓所はどこですか?」と聞くと、「あ~、小栗ハンガンですね」とわざわざ言い直して場所を教えてくれました。(源義経と違って、そのまま読めばよかったのか…)その小栗判官と照手姫の墓所は、清浄光院の裏手の長生院にありました。小栗堂と名付けられたお堂があり、ここが墓所のようです。よくよく聞くと、小栗判官は1415年の上杉禅秀の乱の時代の人で、小栗忠順とは全く時代が違っていました。(そもそも小栗忠順は判官ではなく、上野介でした…)
2009/09/24
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最近は街道めぐりばかりしているような感じですが、本来の城めぐりに戻りました。足柄古道を通って足柄関を越えると、街道を抑え込むような形で足柄城の城郭が広がっています。これまで訪れた城の中でも、眺望の良さでは三本の指に入るのではないでしょうか。富士山の全容が望める城は、足柄城が唯一かも知れません。しかしながら、この日はあいにくの天気で、期待していた眺望は見えませんでした。足柄城第一郭第一郭からの眺望も全くありません。天気がいいとこんな感じです。第一郭の向こうに富士山が裾野を広げています。(2007年10月)富士山の全容を望む。前回はあまりに眺望が良かったので、城の遺構探しはそこそこにしていたのですが、今回はちゃんと見て回ることにしました。足柄城は南北に曲輪が連なる縄張りとなっており、本丸である第一郭から第二郭・第三郭と続いています。(第五郭までは確認できました)第二郭(二の丸)各曲輪の間には空堀が巡らされていました。第一郭と第二郭の間の空堀第二郭(手前)と第三郭の間にも空堀が巡らされています。標高750mにある典型的な戦国の山城ですが、水の手は城内で確保出来ていたようです。第三郭と第四郭の間にある井戸跡さらに第一郭には、「玉手池」と呼ばれる池もありました。玉手池「底知らずの池」または「雨乞いの池」とも呼ばれ、底は小田原に通じているとも言われています。また日照り続きの時に池の水をかき回して雨乞いをすれば、必ず雨が降ったため、付近の村からも雨乞いに来たそうです。第一郭のすぐ南側には足柄峠を越える県道が通っており、現在その上に橋が架けられています。道路を挟んだ南側にも城郭が広がっていることから、ここも空堀の跡かも知れません。南側の腰曲輪。足柄城は神奈川県南足柄市と静岡県小山町の県境にあります。毎年九月の第二日曜日に、南足柄市と小山町の共催で「足柄峠笛まつり」が行われるそうです。その祭りでは相模国(南足柄市)と駿河国(小山町)の間で綱引き合戦が行われ、勝った方が次回の笛まつりまで足柄峠を領有できるとのことです。今年は駿河国が勝ったようでした。関連の記事足柄古道→こちら足柄関跡→こちら足柄城(2007年10月)→こちら
2009/09/22
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