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「山下ノ丸」背後の久松山(きゅうしょうざん)山頂部には「山上ノ丸」があり、二の丸から「中坂」の登城道が続いています。中坂の登城道入口この日の鳥取市街地は一面雪に覆われていると思っており、久松山については雪中登山も覚悟していました。市街地はもちろん、登山道にも雪はなく、まずは一安心です。それでも登城道を登り始めてすぐ、物騒な看板が目に入りました。昨年6月に会津若松でクマに遭遇して以来、ザックにはクマ除けの鈴を携行しているのですが、さすがにこの季節は鈴も必要なさそうです。鳥取城を描いた絵図のうち「天球丸御絵図」には、石垣と木々で囲まれた八幡宮が描かれています。現在も登城道脇に八幡宮の跡が残っていました。北東の鬼門に配されていることからも、城の鎮守だったかも知れません。八幡宮から振り返ると、天球丸の曲輪がよく見渡せました。標高263mの久松山山頂部までは急登が続き、ようやく視界が開けると、曲輪の跡と石垣が現れました。「山上ノ丸」二の丸石垣山上ノ丸は山下ノ丸の詰丸の役目だったと思いますが、三の丸から本丸まで備えた連郭式の縄張となっており、ここだけでも独立した城郭のような感じでした。現地にある縄張図二の丸虎口跡山上ノ丸の本丸は予想外に広く、近世城郭の本丸ほどの広さがありました。本丸跡本丸には、1602年の池田長吉による城郭改修時に掘られたとされる井戸が残っていました。またかつて本丸には天守が建っており、その天守台も残っています。天守台天守穴蔵跡天守は1692年の落雷で焼失し、その後は再建されなかったそうです。天守台から本丸直下を見下ろすと、帯曲輪が配されており、中世の戦国城郭のような感じがしました。また、天守台から北側の海岸線に目を凝らせば、靄の中に鳥取砂丘がありました。天気が良ければ、隠岐の島を望むこともできるようです。中世城郭と近世城郭を併せ持つ鳥取城ですが、その歴史も中世と近世に分かれています。戦国時代にはすでに久松山に城郭はあったようですが、城主が年表に登場してくるのは、1563年の武田高信で、武田高信は山名氏と対立していました。1573年に山名豊国が武田高信を滅ぼすと、山名豊国は鳥取城に本拠を移しましたが、1580年、織田信長配下の豊臣秀吉による第一次鳥取進攻で、山名豊国は降伏しました。1581年には毛利方となって吉川経家が入城しますが、豊臣秀吉による第二次鳥取進攻により、鳥取城は落城し、吉川経家は自刃しました。三の丸に建つ吉川経家像この時、豊臣秀吉がとった戦法は兵糧攻めで、その戦いは「三木(城)の干し殺し」と並んで、「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれるほど壮絶な籠城戦でした。鳥取城が近世城郭として整備されるのは1601年のことで、関ケ原の戦い後に入城した池田長吉によるものでした。1617年には池田光政が姫路城より入城し、現在に残る城郭の大改修と城下町の整備を行っています。日本城郭協会「日本100名城」
2018/02/26
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鳥取城二の丸へのルートは2通りあって、1つは大手口の中ノ門から表御門を通るルートで、もう1つは北ノ御門から中仕切門を通るルートです。大手口の表御門(鉄御門)一方の北ノ門からのルートでは、中仕切門の城門がありました。中仕切門鳥取城で唯一の現存建造物でしたが、1975年(昭和50年)の強風で倒壊してしまい、その後で復元されたものです。中仕切門(城内から見たところ)近世城郭ではよく見かける高麗門形式です。中仕切門を抜けると、目の前に二の丸の石垣が現れました。二の丸石垣隅櫓が建っていたようで、その櫓台かと思います。二の丸石垣こちらも一見すると櫓台のようですが、この石垣の向こう側は石段となっており、裏御門へと続いています。裏御門跡裏御門の右側には、御三階櫓の櫓台がありました。御三階櫓の櫓台石垣御三階櫓の石垣については、築城主池田長吉の子、池田長幸の夫人の侍女であるお左近のエピソードがあります。お左近は麗しい化粧で華やかに装い、毎日高台に上って工事を指揮したため、人々はその姿に労苦を忘れて励まされたそうです。お佐近の手水鉢を石垣に積んだところ、難工事だった三階櫓の石垣が無事完成したと伝わっています。お左近の手水鉢は1963年(昭和38年)の石垣整備で発見され、その後の石垣の修理の時に元の位置に戻されました。とかく築城時のエピソードでは、何かと悲壮感あふれる話が多い中、何だか心温まる話だと思います。裏御門から二の丸に入ると、すぐ横に御三階櫓の跡がありました。御三階櫓櫓台(城内から見たところ)御三階櫓の脇には、1965年(昭和40年)の石垣修復工事で発見された銘文入りの天端隅石が置かれていました。1728年(享保13年)の御三階櫓再建時のもので、「吉田」の文字は遠目にもわかりました。銘文はこう書かれているようです。「享保十三年戌申九月二日 吉田氏甚四郎尉久政 下奉行 山阿梶エ門 今嶋伝兵衛 伴 新兵衛 因州鳥取住棟梁 永見右衛門尉」鳥取城の二の丸は、実質的に本丸の役割を果たしていたようで、江戸時代の前期までは藩主の御殿が建てられていたようです。(江戸時代中期に御殿は三の丸に移されました)また、二の丸には御三階櫓以外にも隅櫓が建っていたようで、櫓の跡が残っていました。菱櫓櫓台菱櫓跡櫓台石垣の平面が菱型で、櫓そのものも菱型であったため、この名前が付いています。二の丸から大手登城道を隔てた反対側にあるのが天球丸の曲輪です。天球丸は元々あった曲輪の上に、さらに石垣を積んで曲輪が造られたため、二の丸よりも高い位置にあり、曲輪も二段になっています。下段の曲輪から見た天球丸上段石垣と巻石垣天球丸の曲輪に登ると、巻石垣を上から見ることができました。巻石垣が城郭で利用されるのは鳥取城以外に例がなく、これだけでも見に来る価値はあると思います。
2018/02/25
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鳥取城は標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂部と山麓部にあり、城跡は久松公園として整備されています。久松山遠景鳥取市内は一面の雪景色だと想像しており、久松山も雪中登山になると思っていたので、少し安心しました。鳥取城は、久松山の山麓部分の「山下ノ丸」と、山頂部分の「山上ノ丸」に分かれています。「山下ノ丸」縄張図久松公園碑「山下ノ丸」には近世城郭の跡が残っており、大手のある西側には外堀が一部残っていました。外堀かつて大手口の外堀には擬宝珠橋が架けられ、擬宝珠橋の先に中ノ御門がありましたが、現在は復元工事中のようで、大手口から入ることはできませんでした。かつての擬宝珠橋と中ノ御門跡外堀の北側にはもう一つの虎口である「北ノ御門」があり、こちらから入城することにしました。北ノ御門跡元々はこちらが大手口でしたが、池田長吉による改修の時、大手口が中ノ御門に変わったそうです。北ノ御門を入った登城道の北側には、かつて城代屋敷・上御厩・米蔵などが建っており、現在は鳥取県立博物館の敷地になっています。県立博物館の向かい側、かつて扇御殿のあった場所には、木造の洋館である「仁風閣」が残っていました。仁風閣(国指定重要文化財)仁風閣は明治40年の竣工で、大正天皇が皇太子時代に山陰を行啓した時、宿舎として建てられたものです。「仁風閣」の名称は、行啓の時に随行した東郷平八郎海軍大将によって命名されました。西洋建築である仁風閣の裏手には、日本庭園である「宝珠院庭園」がありました。1863年、第12代鳥取藩主である池田慶徳が、若くして未亡人となった先代池田慶栄の夫人、宝隆院を慰めるために造営した庭園です。宝隆院庭園から大手口登城道に入ると、中ノ御門に続く二ノ門である「太鼓御門」の跡がありました。太鼓御門跡かつては渡櫓のあった櫓門形式で、現在は桝形の跡が残っています。鳥取城には三の丸・二の丸と天球丸の曲輪があり、現在三の丸跡は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっています。三の丸跡江戸時代中期からは、ここに藩主の御殿が置かれていました。二の丸と天球丸には石垣が残っており、太鼓御門からは二の丸と天球丸の石垣を見上げる格好になります。二の丸の石垣天球丸の石垣花崗岩の石垣に、西日本の城郭を感じます。鳥取城の石垣には、全国の城郭で唯一ここでしか見られないものがあります。天球丸の曲輪の南側に回ってみると、その石垣を見ることができました。天球丸の巻石垣(復元)巻石垣は川の護岸や港の突堤に用いられますが、城郭で利用されるのは鳥取城以外に例がありません。1807年頃に石垣の崩落を防ぐ目的で築かれ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人によって築かれたと推測されます。
2018/02/24
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2007年にユネスコの世界文化遺産に登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」、石見銀山の歴史を振り返りながら実際に訪れて見ると、改めて鉱山の持つ威力を感じました。1308年に周防国守護大名である大内弘幸によって発見されたと伝えられ、京都を凌ぐほどの繁栄を誇った大内文化を支えてきたのも、石見銀山あってこそだと思います。戦国時代には尼子氏や毛利氏などによる争奪戦が繰り広げられ、徳川幕府になってからも、武断派と文治派の対立「大久保長安事件」の舞台でもありました。石見銀山を仕切っていたのが大久保長安ですが、ここで南房総館山城と石見銀山がつながってしまうのが、自分でも奇特に思います。幕末の四境戦争(第二次長州征伐)では、石州口で幕府軍を破った長州軍が、まず制圧に向かった先もこの石見銀山です。最盛期の日本は、世界の銀の3分の1を産出しており、中でも石見銀山は世界的にも知られる鉱山だったそうです。江戸時代に置かれた「大森代官所跡」から「間歩」と呼ばれる坑道の入口まで、約3kmにわたって大森の古い町並が残っています。大森代官所跡(石見銀山資料館)大森の町並は「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されており、銀山の町として栄えた大森の町並を今も留めています。代官所地役人宅であった河島家の武家屋敷江戸時代の大森には6軒の郷宿が置かれ、公用の村役人の宿場や、代官所の命令伝達を行っていました。郷宿の1つである金森家同じく郷宿であった熊谷家世界遺産を有しながら生活する心境というのは想像もつきませんが、旧家の1階が雑貨店に変わっていたり、はたまた文化財に指定されながら一般に公開していない旧家もありました。いよいよ鉱山区へ入ろうという時、雨と風が強くなってきたので、ここで撤退することにしました。石見銀山の遠景
2012/03/17
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出雲国守護代から戦国大名へ、下剋上を駆け上がって山陰の覇者となった尼子氏の本拠地が、島根県安来市にある月山富田城です。てっきり戦国山城を想像していたのですが、いきなり石垣の門跡があったのでびっくりしました。山麓の山中御殿への大手口石垣は関ヶ原の戦い以後に堀尾氏によって築かれたものかと思います。山中御殿跡山中御殿の名前にもあるように御殿は月山の山麓部にあり、本丸部は山中御殿の背後にある月山の山上に配されて、詰め城の役割を果たしていたものと思われます。本丸のある月山山上へは、「七曲り」と呼ばれる尾根沿いの急な道が続いていました。月山の山上部には本丸の他にも三の丸・二の丸の曲輪が配され、それぞれ石垣で囲まれていました。二の丸石垣二の丸虎口跡二の丸の曲輪侍所が復元されていました。戦国山城でこれだけの石垣を積むのは相当な苦労だったと思います。本丸は標高197mの月山山頂にあり、二の丸との間には堀切跡が残っています。本丸本丸は意外と広く、本丸のさらに奥には勝日高守神社の社殿があります。月山富田城築城前からここに建っていたそうです。本丸から眺めると、毛利元就と激しい籠城戦を展開した飯梨川が目の前を流れていました。天気がいいと宍道湖(中海)が見渡せるかと思います。月山富田城の歴史は古く、平安時代からここに城があったと言われています。鎌倉時代に入ると「ばさら」の佐々木道誉が出雲国守護となり、以後山名氏、京極氏と歴代出雲守護が変わっています。京極氏は尼子氏を守護代としていましたが、守護代を一時追放された尼子経久が1486年に月山富田城を奪回し、以後は戦国大名としての尼子氏の本拠地となりました。尼子晴久の時代には山陰地方を中心に山陽まで含めた八カ国を領有するほどになりましたが、同時に中国地方西部で勢力を伸ばしてきた大内氏、毛利氏との戦いの時代でもありました。1543年に大内氏・毛利氏の連合軍によって包囲され、この時は籠城戦戦を戦い抜いたものの、1565年から1565年の籠城戦では毛利軍の包囲と毛利元就の謀略により降伏開城し、以後は毛利氏の支配下となりました。毛利氏の支配下となった後は山中鹿介などの尼子氏旧臣により、尼子氏の再興が図られましたが、月山富田城が尼子氏に奪還されることはありませんでした。関ヶ原の戦い後には堀尾吉晴が出雲に入り月山富田城を本拠としていましたが、1611年に松江城が完成して本拠地を移すと、月山富田城は廃城となっています。現在の城跡からは激しい攻防戦を想像することはできませんが、その長い攻防戦は、石見銀山や出雲の砂鉄などの鉱物資源を巡る攻防戦だったのかも知れません。日本城郭協会「日本100名城」
2011/05/09
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出雲大社もさることながら、松江城も訪れたいと思いながらもなかなか機会がなかったところです。(日本海沿いをずっと走っていると、出雲と松江に着いてしまうのが不思議なくらいでした)松江城大手門大手門を入ると「馬溜」と呼ばれる出丸があり、石垣の上に二の丸の櫓と土塀がありました。打ち込み接ぎの石垣に、下見板張りの中櫓と太鼓櫓が見事です。さすがは西日本の近世城郭だと思ったのですが、「トテポドイラフ」なる食べ物が出雲の名産かと思って近寄ってしまいました。二の丸の石垣もそうですが、二の丸から見る本丸石垣にも目を見張りました。西日本ではこのクラスは当たり前なのでしょうが。石垣もさることながら、松江城の見所の本命はこの先にあるのですが、たまたま本丸に向かう途中でたまたま二の丸に現れたのがこちらです。あっぱれくんです。。。さすがにこのマスコットキャラクターを見るために松江まで来たわけではないので、「あっぱんれくん」はさておき、二の丸から本丸へと入っていきました。本丸大手虎口そして本丸にあるのが現存12天守の1つ、松江城の天守です。入母屋破風を備えた4層5階建の下見板張りです。その天守の中にも入ってみましたが、復元天守や復興天守と違って、靴を履き替えて急な板張り階段を上がるところが現存天守ならではです。石落(内部から見たところ)破風(内部から見たところ)松江城の天守は五層六階建の望楼型天守で、最上階からは宍道湖を眺めることができます。天気もよくなかったのですが、この日の中国地方はとにかく黄砂がひどくて、全く遠景がききませんでした。天気もよくて黄砂が飛んでいない日など、宍道湖が目の前に広がっていることでしょう。今も当時も宍道湖の眺めに古代出雲の歴史を感じていたことでしょうが、ここはやはり城郭で、搦め手門もしっかり造られていました。本丸搦め手門松江城は関ヶ原の戦い以降に造られた近世城郭で、関ヶ原の戦いで功績を挙げた堀尾忠氏が出雲に入封して築城されました。出雲に移封された当初は、尼子氏の本拠であった月山富田城に入城しましたが、あまりに不便なために1607年に現在の松江城の築城を開始し、1611年に築城が完成しています。明治に入って松江城の建物は取り壊されましたが、天守だけは残って現存天守として現在に至っています。明治の出雲にはパトリック・ラフカディオ・ハーンなるアイルランド人(ギリシャ人?)がおり、小泉八雲を名乗っていました。松江城の搦め手法方向には武家屋敷が並んでおり、パトリック・ラフカディオ・ハーンの旧宅もここにあります。日本城郭協会「日本100名城」
2011/05/08
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出雲風土記の丘のある松江市南部の茶臼山の一帯は、律令時代の出雲の政治の中心地でもありました。出雲国の政庁もここに置かれていたのですが、国分寺もこの辺りにに建立されており、今も国分寺の伽藍跡を見ることができます。他の国分寺と同じく、出雲国分寺も741年の聖武天皇の詔によって建立されました。出雲風土記の完成が733年なので、ほぼ同時期だったことになります。南門・中門・回廊・金堂・塔・講堂を備えた伽藍配置で、屋根は瓦葺で新羅の影響を受けた屋根だったそうです。現在も当時の建物の跡が残っていました。南門跡塔跡
2011/05/07
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奈良時代に諸国に命じて編纂された風土記のうち、出雲・常陸・播磨・肥前・豊後の風土記が現存しており、中でも出雲風土記は完全に近い形で残っています。その「出雲風土記の丘」と名付けられた場所があったので、まずは行ってみることにしました。「八雲立つ」は出雲風土記の「国引き」の話で登場するヤツカミズオミツノミコト(八束水臣津野命)の言葉で、出雲の地名もこの神様によって付けられたそうです。また古事記・日本書紀の中で、スサノオノミコト(素戔嗚尊、須佐之男)によって「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣 作る その八重垣を」の和歌が詠まれ、これが日本で最初の和歌となりました。出雲風土記の丘は公園広場になっており、岡田山一号古墳と二号古墳が公園内にありました。岡田山一号古墳出雲地方に特有の前方後方墳です。副葬品にあった刀身をX線で調査したところ、出雲風土記にも登場する「額田部臣」の銘文が発見され、出雲の有力豪族の古墳だと考えられています。前方後方墳の岡田山一号古墳の隣には岡田山二号古墳があり、こちらは円墳となっていました。岡田山二号古墳発掘調査が行われていないため詳細は不明だそうですが、一号古墳と同じく円筒埴輪のア跡があることから、一号古墳と密接な関係を持つ豪族の古墳だと考えられています。古墳の他には古墳時代や奈良時代の住居が復元展示してあるくらいで、普通の歴史公園といった感じでした。それでも併設の資料館では出雲風土記にまつわる展示があり、特に出雲全体のジオラマ模型と共に、各史跡の解説が行われていました。その解説を聞いた後で、いくつか興味深い史跡を回ってみました。まずは出雲風土記の「国引き」の話に出てくる「意宇(おう)の杜」があるので行ってみました。国引きを終えたヤツカミズオミツノミコト(八束水臣津野命)が、意宇の杜に杖を突き立てて「意恵(おう)」と言ったことから、「意宇」と名付けられたと、出雲風土記に書かれています。また、意宇の杜は「郡家の東北の辺、整是なり。囲み八歩ばかりその上に木の茂れるあり」と、出雲風土記にあります。意宇の杜古来より「意宇のタブ」と呼ばれて、崇拝されてきたそうです。出雲風土記に出てくる国引きの話は、出雲の国々はまだ小さいと見たヤツカミズオミツノミコトが、海の向こうにある新羅から国を引き寄せたとする話です。古事記・日本書紀に限らず出雲風土記も神話の域は出ませんが、「火のない所に煙は立たない」の諺にあるとおり、個人的には何らかの史実に基づいていると思います。出雲風土記の丘資料館の模型では、山代二子塚古墳が紹介されていました。学芸員の人によると島根県最大の古墳で、出雲大社の祭神と深い関わりがあるのではないか、とのことです。山代二子塚古墳前方後方墳の名称もこの古墳から始まったのですが、出雲大社の祭神である国譲りの大国主命の墓所ではないか、とも思ったりしました。出雲風土記の丘の周辺には古代出雲にまつわる史跡が他にもあり、地図を片手にレンタサイクルで回っている人も見かけました。出雲の神話が史実であるにせよないにせよ、神話の舞台となったこの場所には、古代のロマンがあるのかも知れません。
2011/05/06
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日本神話のふるさととも言える出雲の国、これまで出雲大社を訪れたいと思いつつ、なかなか機会がありませんでした。ついに出雲大社の参道までやって来たのですが、いざ大鳥居の前に立ってもなかなか実感が沸かないものです。それでも参道の露店商の店主が、社殿に向かって二拝の後、「パンパン、パンパン」と四拍手したのを見て、ようやく出雲大社に来たことを実感しました。心なしか八雲山を始めとする周囲の山々が神秘的に見えつつも、長い参道を歩いて拝殿まで来ました。実は出雲大社は「平成の大遷宮」の最中で、本殿は修造中でした。本殿の修造が整う平成25年までの間、仮殿(拝殿)遷座となっています。仮殿(拝殿)本殿を見ることはできませんが、今年に入ってから大屋根の檜皮葺きが始まり、4月からは新しい檜皮の大屋根を特別拝観で見ることができます。特別拝観は無料で整理券があれば可能なのですが、服装などの規制があり、スーツ・ネクタイ着用とまではいかないものの、襟なしのジーパン姿では入ることができませんでした。(全くの情報収集不足で八足門も観ることができずに後悔したのですが、出雲大社の本殿大屋根を拝観するなら、それくらいのことは必要かと思いました)出雲大社の祭神は大国主命、日本書紀や古事記には「国譲り」で登場します。天照大神の子孫が葦原中国を統治すべきと主張する天津神に対し、出雲に天照大神の子孫と同じくらいの大きさの宮殿を造営することを条件に、大国主命は国譲りに応じました。古事記・日本書紀はあくまでも神話だとしても、ヤマト政権の成立にあたって、出雲の豪族とは話し合いで和平したとも考えられます。天津神の命によって、諸国の神々が宮殿の造営にあたったことが出雲風土記に書かれており、出雲大社と大国主命は特別な存在であったようです。大国主命と幸魂・奇魂の像
2011/05/05
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大国主命の国譲り・素戔嗚尊の八岐大蛇退治・八束水臣津野命の国引きなど、日本神話のふるさととも言える出雲の国、いつかは訪れたいと思ながら、ついに来ることができました。それでも出雲と言えば歌舞伎の祖である阿国、出雲大社に参拝する前に墓所に立ち寄りました。阿国の墓所は出雲大社から300mほどの場所にあり、普通の墓地の中にありました。意外と地味なのでびっくりしたほどです。
2011/05/04
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律令時代に石見国の中心であった浜田には、江戸時代には浜田藩が置かれており、浜田城が藩庁となっていました。浜田城の城跡は護国神社の境内となっており、神社の参道入口付近に浜田城の大手があったようです。縄張り図大手口にあたる参道入口護国神社への参道を登る途中、下の住宅地の中に石垣が見えていました。下に降りて見に行くことはしませんでしたが、縄張り図によると中ノ門跡のようで、三の丸から二の丸に至る虎口のようです。護国神社の境内には特に遺構らしいものはなかったのですが、ここも三の丸の曲輪の一部だったのかも知れません。拝殿の脇から階段が続いており、階段を行くと石垣と共に薬医門が現れました。石垣の虎口にこの門が建っているのは不自然な感じがしたのですが、この門は後から移築されたものだそうです。それでも創建は明治の初めと古く、浜田県が設置されるにあたって、元々津和野藩庁の門を浜田県の県庁門として移築してきたものでした。二の丸の石垣神社境内の奥にいきなりこんな石垣があったのでびっくりしました。二の丸から本丸へ至る「二ノ門」の跡は枡形になっており、当時は櫓門があったようです。二ノ門跡江戸時代中頃の絵図を見ると、浜田城の本丸は石垣と土塀で囲まれ、隅に御三階櫓が建っていたようです。現在の本丸跡浜田城は西側から南側を流れる浜田川を天然の要害として、北側と東側に外ノ浦の日本海を望む縄張りとなっています。外ノ浦西回り航路が整備された1672年以降、北陸と瀬戸内海の中継地点として、諸国の廻船が外ノ浦に入港してきました。廻船の停泊地には廻船問屋が並び、物流の中継地点として栄えていたようです。西側の旧城下町の方向1619年に古田重治が大坂夏の陣の功により、伊勢松坂より5万5千石で浜田に移封されてきました。古田重治は1620年に築城と城下町の整備を開始し、1623年に築城と城下町の整備が完了しています。1615年の一国一城令以降の新城築城であるため、近世城郭としては最近の城郭でもあります。その後の浜田城主では、お家騒動があったり密貿易が幕府にばれたりと、城主がめまぐるしく変わっていきました。1866年の第二次長州征伐の時は長州の大村益次郎軍に攻められ、当時の藩主松平武聡は戦うことなく敗走しました。この時に自ら浜田城に火をつけ、城と城下町を焼失させています。
2011/05/03
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有数の水揚げ量を誇る島根県浜田市は、律令時代の旧石見国(島根県西部)の中心地でもありました。国府の場所については諸説あって定かではありませんが、石見国の国分寺も浜田にあり、国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っています。日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に国分寺跡があり、現在は「金蔵寺」という縁起のいい名前の浄土宗の寺院に変わっていました。金蔵寺の門前にある国分寺跡の碑赤茶色の石州瓦で葺かれた金蔵寺他の国分寺と同じく金堂や五重塔を持つ大伽藍だったと思われますが、金蔵寺の境内からわずかに塔跡が発見されました。また銅製の誕生釈迦仏立像や、国分寺建立以前の新羅系の瓦も出土したそうです。日本海を間近に望む大伽藍は、壮観だったことでしょう。
2011/05/02
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