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台南は台湾の歴史の縮図のような場所です。台北からその台南まで、高鐡(Taiwan High Speed Rail 台湾新幹線)に乗ったのですが、実は高鐵と台鐵は別会社なので、高鐵台南駅と台鐵台南駅は全く接続していません。高鐵台南駅から台鐡台南駅の移動だけで、シャトルバスで約40分の距離があり、横浜と新横浜どころの話ではありません。さらに台鐡台南駅からタクシーで20分、高鐵台南駅から台鐡台南駅の移動だけで1時間かけてやって来たのは、安平にある安平古堡です。安平古堡碑安平古堡は、元々「Fort Zeelandia」(熱蘭遮城、ゼーランディア城)と呼ばれ、オランダ統治時代の1632年に築城された、台湾で最も古い城郭です。安平古堡(Fort Zeelandia、熱蘭遮城)の展示模型総レンガ造りで、3段の曲輪が連なる輪郭式の縄張りとなっていたようです。赤レンガの城郭は、サトウキビと蠣殻を混ぜて積み上げられたもので、その高さも圧巻でした。築城当時から残っているものかはわかりませんが、赤レンガとガジュマルの組み合わせが絶妙です。隅石の部分1602年に東インド会社を設立してアジアへ勢力を拡大していたオランダは、貿易の拠点を求めて台湾に進出しました。当時の台湾は明の支配下にありましたが、明との講和が成立すると、貿易の権益を守るべく「Fort Zeelandia」(熱蘭遮城)の築城を開始し、1632年に完成しました。現在も残るオランダ時代の外壁。1662年には中国大陸から逃れてきた明の遺臣、「国姓爺」の鄭成功が熱蘭遮城にも攻め込み、オランダ人を排除して、「安平城」と改名しました。城内にはその鄭成功の像が建っています。「民族英雄」と書かれた鄭成功の像清との対立に敗れて台湾に逃れて来た鄭成功ですが、同じく毛沢東の共産党との対立に敗れて台湾に逃れて来た蒋介石とオーバーラップするのでしょうか。その後は鄭氏の拠点として機能した安平城ですが、清の時代になると城の重要性も薄れ、次第に荒廃していきました。そして1868年、原住民とイギリス人との衝突に端を発し、イギリス海軍は安平城を砲撃、砲弾が弾薬庫に命中して城郭は大きく破壊されました。城内には、当時の大砲が復元されています。中国語の解説では、「防砲」と書かれていました。日本統治時代の1930年には安平城に税務官舎が建設され、現在は安平古堡文物陳列館となっています。日本時代の安平古堡文物陳列館赤レンガの城郭の上にいきなり瓦葺の建物があるので、なんとも違和感があります。終戦後に日本の統治が終わると、国民政府により「安平古堡」と名付けられ、現在は台湾の一級古蹟に指定されています。関連の記事和蘭商館(長崎・平戸市)→こちら
2019/09/17
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前回記事から約2か月も空いてしましましたが、台湾旅行の2日目は台南へと向かいました。行った先はやはり城跡めぐり、在台時代にも訪れたことのある億載金城です。大手口にあるトンネル状の城門億載金城は、五稜郭(北海道)・五稜郭(長野)・品川台場(東京)・四稜郭(北海道)などと同じ、いわゆる西洋式城郭です。億載金城の外堀この幾何学的な縄張りが西洋式城郭の特徴です。億載金城は「四稜郭」で、東西南北にそれぞれ稜堡が置かれていました。億載金城の縄張り図日本で言うならば、品川台場や未完成ながら四稜郭が一番近いでしょうか。品川台場では中央部の曲輪に陣屋が置かれていましたが、億載金城では操練場になっていたようです。操練場跡億載金城は五稜郭(北海道)のような二重土塁ではなく、一重の土塁で周りを囲んでありました。土塁の上は歩けるので、北西南東と、麻雀とは逆に回ってみました。北側稜堡の先端部稜堡だけ見ると、北海道の五稜郭かと思うほどです。西側の稜堡先端部各土塁には大砲が置かれていたようで、その大砲も復元されていました。北西の土塁上に置かれた大砲西側の稜堡を過ぎると、さらに大きな大砲と砲台が現れました。中国語の解説では「阿姆斯脱郎大砲」とあったので、戊辰戦争でも使われたアームストロング砲だと思います。南側稜堡内側に「扶堡(中国語)」と呼ばれる土塁があり、このあたりは日本の五稜郭(北海道)によく似ています。億載金城の築城にあたっては、日本の歴史も大きく関わっています。1871年に宮古島の漁民が台湾に漂着した時、先住民が漁民を殺害したことに端を発し、1874年に明治政府は台湾出兵を行いました。この日本の出兵に対し、清国政府が台湾に赴任していた沈葆木貞に命じて築城したのが、億載金城でした。すなわち、億載金城は対日抗争を想定して築城されたことになります。
2019/09/16
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いつかは訪れたいと思いながら、在台時代も含め一度も訪問したことがなかったのが国立故宮博物院です。(公共交通機関での行き方がよくわからず、単に面倒だったのが理由です)ホテルのある南京復興からタクシーに乗り、運転手さんに「グーゴンボーウーグァン(故宮博物館)」と伝えると、意外にもちゃんと通じました。もっとも「宮」を「gong」ではなく「gon」と発音していたため、何度か言い直されましたが、通じていたのが不思議です。毎度のことではありますが、故宮博物院も事前に何も調べることなく来てしまいました。もっとも蒋介石の国民政府が台湾に臨時政府を立てるにあたり、中国本土から台湾に移してきたことや、その経緯から門外不出であることは知っていました。実際に中に入って見ると、展示品の数もさることながら、そのスケールに驚かされました。展示品の年代を見て最初は冗談かと思ったほどですが、紀元前10世紀前後の金属製の器の数々が完全な形で展示されており、大陸文化に圧倒される思いです。明や宋の時代の青磁器にしても、日本では破片すらも貴重なものが、美しい形で現存していました。事前情報の1つとして、故宮博物院を訪れた日本の人から「白菜がすごい」というのは聞いていました。その時は「何のこっちゃ?」と聞き流していたのですが、実物がこちらです。翠玉白菜葉の先にはキリギリスとイナゴがいるようです。台湾では白菜が貴重な野菜だというのが私の印象です。在台時代は自炊をしていて、日本の食材をそごうで入手していました。日本では当たり前に安く手に入る白菜が、台湾では小さい白菜が日本よりはるかに高かったのを思い出しました。在台時代にこれを見ていたならば、とても美味しそうに見えたことでしょう。なお、故宮博物院の展示物は撮影可です。
2019/09/15
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二・二八事件から今年で70年になるそうです。私がこの事件のことを知ったのは、6年前の在台時に「二二八和平公園」を訪れた時のことでした。「あなたは日本人ですか。ならば私の話を聞いてほしい」と、流暢な日本語で私を呼び止めたのは、当時ここのガイドであった陳さん(日本名:田川さん)でした。戦前の日治時代の台湾で生まれた陳さんは、自分が日本人であることをとても誇りにしておられました。清王朝に代わった日本は、インフラを整備してくれて、生活水準も上がり、治安もよくなったとのことです。そして何より、台湾に道徳と教育をもたらしてくれたと話してくれました。「日本人として何をなすべきか」について教えてもらった時、何も意識できていなかった自分を恥じると共に、台湾と日本について深く考えるきっかけとなりました。その時のことが心に強く残っていて、たまたま70年の区切りに台湾を訪れた今回、再びここを訪れてみました。二二八紀念館の前には人だかりが出来ていて、なんだか物々しい雰囲気でした。恐る恐る近寄ってみると、太極拳のサークルだったようです。二二八紀念館日治時代からのラジオ局で、本省人側はここから国民党政府への抗議を呼び掛けたそうです。ホテルでTTV(台湾電視台)のニュース番組「台視新聞」を看ていると、中正紀念堂の蒋介石像が撤去されるような話が出ていて、時代も変わっているのだと感じました。(台視は国民党寄りの印象があるのですが)
2017/02/25
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台湾にいた時の画像を整理していたら、台湾総統府の画像が出てきました。中華民国総統の官邸で、平日の午前中に限って中を見学することができます。平日に行くことは難しく、12月31日の大晦日(金曜日)に休みをとって、総統府の中を見学したことを思い出しました。総統府の見学にあたっては身分証明が必要だということだったのですが、いちいちパスポートは持ち歩いておらず、確か「中華民国居留証(就労ビザ)」で入れてもらったように覚えています。見学は団体行動でガイドがつくのですが、「中国語と日本語とどちらがいいか」と聞かれ、迷わず日本語を選び、日本からの観光客と一緒に中を見て回りました。見学コースも決まっており、展示品やパネルが並ぶ部屋を順番に見て回る感じで、自由に中を見て回るというわけにはいきませんでした。総統府は旧台北府城の城内にあり、日本統治時代は旧台湾総督府として使われていた建物です。台北府城を訪れた時、外から撮影しました。日本の統治時代が終わり、蒋介石の国民政府が台湾に来てからも、総統府として使われています。今回初めて内部から総統府の建物を見ることができました。1919年に完成し、児玉源太郎などの歴代台湾総督がいた場所です。(明石元二郎や新渡戸稲造なども、ここにいたことでしょう)玄関入口マシンガンを持った兵士が警備しています。なかなかアングルを見つけることができず、後ろへ後ろへと下がっていると、兵士から中国語で注意されました。つい中国語で答えてしまい、周りにいた日本人観光客の視線を集めてしまったのを覚えています。
2011/06/22
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九イ分老街は日本統治時代に金の採掘で栄えた場所で、九?から少し下った金瓜石には黄金博物園があります。博物園入口博物園内には日本時代の建築物が残っており、日本時代の建物が今も使われていました。交番当時の日本家屋も復元、公開されています。レトロな日本が残っている感じで、台湾の人ならずとも興味深いものがありました。食堂として使われていた建物旧庁舎。(環境館となっていました)金鉱の坑道も残っており、中に入って見学することもできました。坑内に風を送るコンプレッサーも復元されています。坑道入口付近にあるトロッコ坑道へはヘルメットを被って入ります。坑道入口坑内へ通じる坑道内部坑内には人形が置かれ、当時の様子がリアルに再現されていました。当時の台湾にも、広島カープの嶋選手のTシャツを着た人がいたようです。黄金博物園區の奥には太子賓館と名付けられた和風の建築物があります。大正11年に建てられたもので、昭和天皇が皇太子時代にここを訪れた際に滞在した場所です。日本庭園前日の台北花博に続いて好天に恵まれ、夕陽の中に周囲の山がきれいに映えていました。何となく丹沢山系を思い出しました。
2011/03/20
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台北郊外で日本人観光客に人気のスポットと言えば九?かと思います。2月の終わりの話ですが、その九?に行くことになりました。私は行ったことがなくてよくわからないので、基隆に住む同じ会社の子が案内してくれることになりました。台北車站から台鐡に乗って基隆で合流し、そこから九イ分まではバスで向かいました。ちなみに基隆から九?までは約1時間、料金は51元(約150円)で、悠遊?(Easy Card)も使えます。九イ分のバス停付近から見た基隆湾方面パノラマにしてみました。九?の中を通る基山街は、2/26~2/28の三連休の中日とあって、人の渋滞が出来るほどの混雑ぶりでした。基山街の入口人の渋滞というのもあまりないかと思います。ところで今回は地元の人の案内ではあったのですが、やはり台湾の人とあって、食べることが主目的でした。片っぱしから試食をつまみ食いしているように見えたのですが、さすがにピンポイントでお店と名物は押さえていて、ここぞという時は排隊(行列)に並んでいました。ご多聞にもれず台湾の人はよく食べるのですが、九?だけで食べたものはこちらです。案内してくれた子は中国語(北京語)・台湾語・英語が話せるのですが、私は中国語が満足に話せないので、オフィスと同じく英語で話していました。お互いセカンドランゲージなので訳が難しいのですが、「タロ」だと言っていたので芋系だと思います。(ちなみに「外帯」は持ち帰りのことで、日本語表記するならば「ワイタイ」です)草餅みたいな感じで、中にビーフンみたいなものが入っていました。(名前は覚えていません)こちらはぜんざいみたいな感じで、餅と小豆が入っています。ぜんざいと違うところは、その下に氷が大量に入っているところでした。お馴染の台湾香腸(ソーセージ)です。基隆に近いせいか、トビウオ(トビッコ)の香腸があったので、注文してみました。歯ごたえもよくてなかなか美味しかったです。あちらこちらで食べていながら、食事は食事でちゃんと食べるようです。台湾ではよく見かける食堂に入ったのですが、さすがに現地の人と行くと何かと便利でした。商店が並ぶ基山街は斜面に水平に通っていますが、その基山街と交差するように、斜面を昇り降りするように通っているのが竪崎路です。二二八事件を扱った映画「非情城市」の舞台となったようで、非情城市の文字があります。ここまでさんざん食べさせられて食べてきたので、そちらの方が非情です。非情城市もさることながら、九イ分は「千と千尋の神隠し」のモデルだとも言われています。実は非情城市も千と千尋も観ていないので、あまりピンときません。竪崎路の途中には「秘密基地」と名付けられた場所があり、映画のロケなどに使われていたそうです。以前は無料だったそうですが、いつの間にか有料になっていたそうです。台湾で毛沢東の肖像を見たのはこれが初めてでした。また、ここでは置いてある衣装も自由に着ることができます。あまり似合わないそうです。。。秘密基地から見た基隆山
2011/03/19
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台北花博会場の美術公園エリアにある洋風の建物が「故事館」です。元々は1913年に茶商によって建てられたもので、花博開催前からこの場所にありました。1998年に「旧圓山別荘」として3級古蹟に指定され、その後は「故事館」として復元されています。建物の中に入ることもできるのですが、1時間半以上待たないといけないため、花博開催中は難しいかも知れません。
2011/02/27
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台北市北部にある北投温泉は、台北車站からMRTで約30分ほどの距離にあり、日帰りも十分可能な温泉です。MRT淡水線の北投で乗り換え、北投支線で1駅の新北投を降りると、山麓にある温泉街へと道が続いていました。日本のホテル「加賀屋」が去年の12月に開業したそうです。北投温泉はドイツ人の商人によって発見されましたが、日本統治時代に日本人が温泉旅館を建てたことから、温泉地として発展して来ました。日本統治時代から残る銭湯「瀧乃湯」1905年にこの瀧乃湯の前で発見されたのが北投石で、世界でも北投と秋田の玉川温泉でしか採れないそうです。ラジウムを含む北投石は、末期がんに効くとも言われています。日本統治時代の1913年には公共浴場である「北投温泉浴場」が建設され、現在は「北投温泉博物館」として復元・公開されています。中に入ると、宴会場らしきものもありました。畳と舞台があって、まさに日本の温泉旅館といった感じです。こちらは温水プールです。温泉博物館の近くには露天風呂があるのですが、台湾では水着を着て入るのが基本で、水着を持ていない私は、別の温泉旅館で個人用の内湯に入りました。やはり大浴場の露天風呂に入らないと、なかなか温泉気分は出ないものです。北投温泉は草津温泉と同じく、一ヶ所から各所に温泉が引かれています。「地熱谷」と呼ばれる池が源泉のようでした。地熱谷の入口草津温泉の「西の河原」みたいな雰囲気です。地熱谷日本統治時代は地獄谷と呼ばれていたそうですが、湯気で池の水面が見えないほどでした。山の斜面にそって「温泉路」と呼ばれる細い道が続き、道沿いに温泉旅館が建ち並ぶといった風情で、日本の温泉地には遠いものの、何となく雰囲気はありました。草津温泉と伊香保温泉を足して、20で割ったような感じでしょうか。
2011/01/31
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台湾の北部の玄関口が桃園空港ならば、南部の玄関口が高雄国際空港になるでしょうか。国内線ターミナルと国際線ターミナルの2つが並んでいます。台湾の空港は旧日本軍の基地跡が利用されることが多く、高雄国際空港もその1つだとされています。元々は高雄航空隊があった場所とされており、高雄航空隊といえば「大空のサムライ」の坂井三郎さんが最初に零戦に出会った場所でもあります。何か当時の痕跡でもないものかと、空港の滑走路に沿って歩いてみることにしました。高雄国際空港の滑走路は東西に延びているのですが、滑走路脇の塀に伝って歩いて行くと、日本家屋らしい瓦屋根が見えてきました。どうやら軍事施設らしい雰囲気だったので、撮影はやめておいたのですが、台湾では見かけない瓦屋根だったので、日本時代のものかも知れません。また、さらに歩いて行くと民家が並んでいたのですが、日本家屋らしき面影が残っていました。こんな感じの民家がいくつも残っています。さらには倉庫の跡と思われるような建物もいくつか残っていました。高雄航空隊は台南航空隊に移り、さらにはあのラバウル航空隊へと移って行きますが、高雄国際空港の片隅で、零戦の歴史の跡を見たような気がします。
2011/01/28
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高雄大橋のたもとにある天主教?瑰聖母堂から、市内を流れる愛河のほとりを歩いて行きました。何となく広島の太田川の風景に似ている気がします。竜門を登りきった鯉が龍に変わる故事から、登竜門の由来となった龍の像愛河を渡る建國三路にあるのが高雄市立歴史博物館で、日本統治時代の1929年に高雄市役所として建設されました。内部も当時のままに残されていました。エントランスホール廊下階段国民政府になってからも高雄市役所として引き続き利用され、当時の市長室が復元されていました。
2011/01/21
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高雄市内を流れる愛河の河口付近、高雄大橋のたもとにあるのが天主教?瑰聖母堂です。正式には「?瑰聖母聖殿主教座堂」と呼ばれ、台湾で最初に建てられたカトリックの聖堂です。清朝時代にはカトリックは禁止されていましたが、1858年の天津条約後に布教が許可されるようになり、1862年に赤レンガの聖堂が建てられました。1928年にロマネスク様式の聖堂に改築され、現在に至っています。高雄市立歴史博物館にある模型祭壇の中央にあるロザリオの聖母マリア像は、スペインのロザリオから来たもので、140年以上の歴史があるとされています。日曜日でしたが、午後なのでミサは終わっていました。
2011/01/20
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旗後灯台から続く旗後山の山頂には、清朝時代の旗後砲台の跡があります。すでに1720年にはここに砲台があったようですが、日本の台湾出兵に備えるべく、清朝時代の1875年に西洋式の近代砲台が建設されました。イギリス人技師の設計により建設され、アームストロング砲が置かれていたそうです。砲台というより要塞といった感じで、入り組んだ通路によって自由に往来ができるようになっていました。1894年の下関条約で清から日本へ台湾が割譲された後も、清の残兵や台湾現地人の抵抗は続いており、旗後砲台もその防衛拠点となっていたようです。1895年10月、吉野・秋津洲・浪速・八重山からなる日本の海軍艦隊は旗後砲台を砲撃しましたが、旗後砲台の守備兵はすでに砲台を放棄していたため、反撃することもなく砲台は陥落しています。(日清戦争時の浪速艦長と言えば東郷平八郎ですが、この時はすでに浪速艦長を退いていました)
2011/01/19
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旗津半島の北側にある旗後山には旗後灯台が建っており、旗津輪渡の船着き場からも白亜の灯台を見ることができました。住宅地の中を抜けて山麓へと向かい、高雄港を見下ろしながらゆるやかな遊歩道を登っていくと、再び灯台が見えて来ました。1860年のアロー号事件の後、イギリスは清朝に対して開港を要求し、台湾の打狗(高雄)港もイギリスの要求によって開港されました。開港後に海難事故が多発したことから、イギリス人技師を招いて1864年に完成したのが旗後灯台で、台湾で最初の西洋式灯台となりました。日本統治時代の1918年に高雄港が拡張されると、同じ場所に新たに灯台が建設されました。太平洋戦争中も被害を受けることはなく、現在もなお使われています。あいにくの曇り空で、青空に映える白亜の灯台とはいきませんでした。旗後山(旗後砲台)から見た旗津半島と高雄港
2011/01/18
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左営府城北門の近くにあるのが龍虎城です。左営府城にはほとんど人がいなかったのに、ここには観光バスが停まっていたりして、有名な観光地なんだと思って立ち寄ってみることにしました。龍の口から入って、虎の口から出るようです。ほとんどが日本人の観光客で、龍の方の上に登った時は、修学旅行の高校生で埋め尽くされてしまいました。塔の上から見た蓮池潭台湾のスタッフに「高雄で龍虎塔に行った」と言うと、誰も知りませんでした。発音が悪かったのかと思い、「ドラゴンの口からか入って、タイガーの口から出るタワー」と言っても、「???」と言った感じです。「あ~あそこね」とわかったのは、日本人とアメリカ人だけだったのは、何としたことでしょうか。
2011/01/16
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1月の中ごろは台湾でも最も寒い季節で、今年は例年に比べても寒いそうです。そこで少しは暖かいところに行こうと思い、高鐡(台湾新幹線)に乗って北回帰線を越え、向かった先は台湾南部の高雄です。高鐡の駅は高雄市の北部、左営区にあるのですが、まずは左営にある鳳山懸舊城(左営旧城)の跡を見て回ることにしました。清朝時代の左営も城壁で囲まれた城郭都市で、現在は城門が残っています。北門「拱辰門」北門から続く城壁も一部残っており、上に登って見ることもできました。城壁(内側から見たところ)城壁(上から見たところ)北門から南側に回ってみると、こちらは環状道路の中に門だけが残っていました。南門(啓文門)建物は後から復元されたものだと思われます。それでも南門の近くを見てみると、城壁の一部らしきものが残っていました。南門からしばらく歩くと、再び城壁が見えてきて、その先には東門がありました。東門(鳳儀門)東門から南門の方へ続く城壁東門にも櫓のような建物があったようで、高雄市立歴史博物館に復元模型がありました。鳳山懸舊城は清朝時代の1722年に築城されましたが、1787年の暴動事件により城壁が破壊されてしまいました。その後の1825年に現在残っているような石造りの城壁が、再び建設されています。亀山と蛇山と呼ばれる小高い山を囲むような城郭になっているため、規模としては相当な大きさがあったようです。
2011/01/15
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台南市内の史跡を見て回った後、再び台鐡(国鉄)の台南駅に戻ってきました。台鐡台南駅は台南最西端の駅で、レトロな駅舎が今も使われています。1900年に開業した歴史のある駅で、現在の駅舎は1936年に完成しました。台鐡と高鐡(新幹線)は接続がなく、台鐡台南駅から高鐡台南駅までは、シャトルバスで40分の距離があります。
2011/01/12
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安平へ行く途中、タクシーの中からクラシカルな建物が見えたので、気になっていました。南大門や孔子廟のある南門路の先は、6本もの道路があつまるロータリー状の交差点があり、この交差点にあるのが「國立台灣文學館」です。正面玄関日本統治時代の1916年に、台湾州庁として建設され、築100年近く経つ建物です。台北の総統府に雰囲気が似ているのですが、設計は同じ森山松之助が手掛けたそうです。台湾に来てから思うのですが、赤レンガの建物とフェニックスはよく似合うものです。
2011/01/11
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日本勧業銀行台南支店は、日本統治時代の1937年に建てられたもので、現在も銀行の建物として使われています旧日本勧業銀行台南支店(土地銀行台南分行)オランダや清朝時代の建造物が残る台南にあっては、昭和初期の建物も新しく感じてしまいます。庶民的な食堂が並んでいた中正路ですが、ここの歩道だけは突然ゴージャスになりました。はるか天井を見上げると、まずは見ないような所にも、ちゃんと装飾が施されていました。ロータスでしょうか。関連の記事旧日本勧業銀行台北支店→こちら
2011/01/10
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17世紀のオランダ統治時代から19世紀の清朝時代に到るまで、台南が台湾の政治・経済・文化の中心地でありました。清朝時代には「台湾府」が台南に置かれ、1725年には防衛のために木製の城壁が造られ、市街地は城壁で囲まれていました。後に木の城壁は石の城壁へと改築され、城壁には14箇所の門が設けられました。そのうちの1つが南大門で、1736年に完成したものです。半円形の城壁に門があり、そのさらに内側にも門がありました南大門(外側)城壁(内側から見たところ)半円形の形から、「月城」とも呼ばれるそうです。石垣で組まれた城壁は、沖縄のグスクに感じが似ていました。内側の「南寧門」南大門と南寧門では門の向きが異なっており、直線で侵入できないような造りになっています。(日本城郭の「枡形門」と同じ機能を果たしているようです)日本統治時代には台湾総督府によって城壁は破却され、現在の南大門は1977年に復元されたものです。現在は「府城南門公園」として整備されています。台北城もそうですが、日本の台湾総督府によって清朝時代の城壁は破却され、都市整備が行われました。
2011/01/09
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安平を見て回った後はそろそろ台南市内に戻ろうと思い、再びタクシーに乗りました。向かった先は南大門なのですが、途中で運転手さんが「南大門には何もないから、会社に行けばいい」というような意味のことを言いました。「おかしなことを言うな~」と思いつつ、「会社は台北にあるし、今日は休みです」という意味のことを言ったのですが、運転手さんも不思議そうに首を傾げていました。どうも会話がかみ合わないと思っていたら、運転手さんが紙に書いてくれたので、ようやく納得です。私が「孔子」と「公司」を聞き間違えていたのが原因で、「南大門には何もないから、孔子廟に行けばいい」と、とてもわかりやすい話になりました。(考えてみると、ピンインも四声も全く違うのですが)南大門と孔子廟は近く、後で歩いても行ける距離なので、まずは孔子廟まで行ってもらうことにしました。孔子廟は台南だけでなく、台北のほか台湾各地にありますが、台南の孔子廟は台湾の中で最初に建てられたものです。東大成坊(東門)扁額に書いてある「全台首学」は、「台湾で一番最初の学校」という意味です。台南の孔子廟は、1665年に鄭成功の息子である鄭経が、諮議参軍(参謀長)である陳永華の提案を受けて創設しました。東側に「国学」と西側に「文廟」が置かれ、国学では講師を招聘して学生を募り、学校としての役割を果たしていたようです。国学の入口にあたる「入徳之門」国学の明倫堂文廟には孔子を祀る大成殿があり、清朝時代の1712年以降、大幅に増改築されたそうです。大成殿大成殿には前庭が設けられて、垣根で囲まれていたようですが、現在も当時の門が残っていました。前提東側の「礼門」日本統治時代には兵舎や公学校として機能していましたが、解説によると「破壊甚大」だそうで、1917年の修繕によって現在の形となったそうです。
2011/01/08
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17世紀前半のオランダ統治時代、オランダはFort Zeelandia(安平古堡)を本拠地として統治していました。ゼーランディアを中心として都市も発展していきましたが、一方で中国大陸から移って来た現地人との軋轢もあって、1652年にはオランダ人と漢人が衝突した「郭一壊事件」が発生しています。この事件を機に、オランダがFort Zeelandiaの東側、Provintia(普羅民遮)に築城されたのが、「Fort Provintia」(普羅民遮城、プロヴィンティア城)です。中国風の建物が建っていますが、建物の土台は赤レンガで出来ていました。現在の建物は後世になって建てられたもので、内部には当時の復元模型がありました。プロヴィンティア城の復元模型また日本統治時代に発掘調査を行ったところ、築城当時の稜堡が出土したそうで、現在も稜堡が残っていました。1624年から続いたオランダの台湾統治ですが、1662年に鄭成功が台湾からオランダ人を追放し、わずか38年で終わりを告げました。赤?楼の庭園には、鄭成功に降伏するオランダ人の像が立っています。鄭成功は明朝の家臣でしたが、清との戦いに敗れて、台湾に移って来ました。亡命政府ながら皇帝から「国姓」をもらったことから、鄭成功は「国姓爺」と呼ばれています。赤?楼にある「国姓爺」鄭成功の肖像近松門左衛門の「国性爺合戦」のモデルでもありますが、鄭成功の母親は日本人で、生まれは日本の長崎だそうです。
2011/01/07
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1858年に清国が欧米列強と締結した天津条約において、清が開港した10港のうちの2港が台湾にある港でした。台北市の北側にある淡水と、台南市にある安平がその2港で、開港後は各国の商館が建設されました。当時の安平港の地図(画像の右下にあるのが「億載金城」です)「洋行」(外国の貿易商社)が建設され、砂糖や樟脳の輸出が開始されました。中でも東興洋行・和記洋行・恰記洋行・?記洋行・徳記洋行が「五大洋行」と呼ばれ、現在は徳記洋行の建物が保存されていました。1867年に建てられた徳記洋行の建物白亜の壁がエキゾチックな雰囲気を醸し出していました。その隣に徳記洋行の倉庫も現存しているのですが、こちらは「安平樹屋」と呼ばれています。壁一面に延びるガジュマルも、樹齢100年を越すと言われています。誰も近寄らなかったためにお化け屋敷のようになっていますが、そのために異様な光景ながらも現存しているのは、皮肉としか言いようがありません。安平樹屋の内部徳記洋行が撤退した後、日本の統治時代には製塩会社が設立され、安平樹屋も製塩会社の倉庫として使われていました。(その頃にはすでに異様な雰囲気だったことでしょう)
2011/01/05
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「中正」は蒋介石のことですが、「中」・「正」と「反り舌音」が続くため、日本人にはなかなか難しい発音です。中正公園まではタクシーで行くしかなかったので、通じたことは何よりでした。中正公園「南無阿弥陀仏」と書かれた横には、観音像があったり大黒像があったりして、宗教施設のような雰囲気です。観音像の横では子供たちが乗り物に乗って遊んでいました。中正公園は基隆市街の南側の山腹にあるため、ここからは基隆港が一望できました。
2010/12/22
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台北から電車に約1時間ほど乗り、台湾最北の駅である基隆に着きました。基隆は中国語ピンイン表記では「Ji Long」ですが、日本語では英語表記「Keelung」と同じく「キールン」と読まれています。基隆火車站前昭和を通り越して、大正時代かと思うようなレトロな建物が並んでいます。基隆火車站のすぐ目の前に基隆港があり、基隆海洋廣場のウッドデッキの海岸線を歩くことができます。基隆車站のある北側基隆は雨が多いことでも知られており、基隆港も別名「雨港」と呼ばれていますが、この日は快晴でオーシャンブルーの穏やかな海面が広がっていました。気温も上がって暑いくらいだったので、上を脱いで半袖になると、心地よい海風が吹き抜けていきました。基隆港南側日本との国境線までは約60km、久しぶりに海を見たとともに、一番日本に近い場所に来ました。基隆港は高雄港に次ぐ台湾第2位の港で、清朝時代に開港されて以来、基隆も港湾都市として発展してきました。日本統治時代に大型船が停泊できるよう改修され、戦前の基隆港は軍港として利用されています。戦時中に連合国による爆撃により壊滅的な被害を受けましたが、戦後の大改修により再び発展を遂げ、一時は台湾最大の取扱量を誇ったこともあります。中正公園から見た基隆港の全景以前は有村産業が名古屋・大阪・那覇・宮古島などの定期航路を運航していましたが、破綻によって廃止され、現在は沖縄方面に不定期の観光クルーズが運航されています。
2010/12/20
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MRTの淡水線を西門駅で降り、中華路を南に行った所に国軍歴史文物館があります。中華民國の建国から現在に至るまで、その戦いの歴史が紹介されています。国軍歴史文物館の文字の横に孫文と書かれています。孫文の揮毫國軍歴史文物館は3フロアー5展示室に分かれており、それぞれにテーマがありました。第一展示室。中華民國建国以後、北伐と統一の歴史が紹介されています。1924年に孫文によって広東の黄埔に陸軍軍官学校(士官学校)が設立され、これが国民革命軍の始まりとなりました。黄埔の軍官学校の初代校長には蒋介石が就任し、卒業生は国民革命軍の中核を担うようになっていきました。卒業証書。「総理孫文」と「校長蒋介石」の名前が入っています。「青天白日」の国民革命軍総指令旗国民革命軍は、「打倒列強、軍閥一掃、同胞救済」のスローガンの下、約2年半で北伐統一を成し遂げました。2階に上がるとさらに展示室が2つあり、その1つには日本軍との8年におよぶ抗日戦争がテーマとして採り上げられています。1937年の盧溝橋事件をきっかけに、国民革命軍と日本軍と日中戦争(八年抗戦)に突入しました。盧溝橋事件の模型手前が日本陸軍で、向こう側が国民革命軍です。そして特に大きく取り上げられていたのが、盧溝橋事件と同じ1937年に起こった南京事件(南京大屠殺)です。写真パネルと共に展示されているのが、「百人斬り競争」の時に使われたとされる日本刀です。鞘の部分に拡大レンズがあり、「南京の役 殺 一〇七人」と刻まれていました。南京事件(南京大虐殺)については、今も様々な論争が行われており、何をもって真実とするか、未だによくわかりません。ただ、「百人斬り競争」の日本刀で感じたのですが、「日本人はこういう書き方をするだろうか?」と、日本語としてはやや不自然な印象があります。第二展示室には、その他にも日本軍からの鹵獲品なども展示されていました。日本軍から鹵獲した千人針第二展示室と同じフロアに第三展示室があり、ここでは太平洋戦争終戦後の共産党人民解放軍との戦いの歴史が紹介されていました。さらに3階の第4・第5展示室では、現在の國軍の兵器などが紹介されています。迫撃砲や機関銃・拳銃などの実物が数多く展示してあり、とても物騒な感じがしますが、最新の使用兵器まで公開しているのは、ここだけだそうです。迫撃砲のシミュレーター戦闘機の模型(F16「ファイティングファルコン」でしょうか)
2010/12/14
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台湾(中華民国)で「國父」と言えば、辛亥革命を起こした孫文のことです。台湾では「民國」という年号を使いますが、1911年の辛亥革命の翌年である1912年を「民國元年」とし、2010年は民國99年で2011年がちょうど民國100年に当たります。(日本と同じように、書類などでは普通に元号が使われるので、最初は戸惑いました)孫文の掲げた三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)にちなんで、台湾には「民族・民権・民生」の名前が付いた道路があります。また孫文の号である「中山」に由来する名前も数多く見られます。その孫文の生誕100年に当たる1966年11月に完成したのが、「國父紀念堂」です。忠孝東路沿いに紀念堂があり、忠孝東路を通るMRTの板南線にも國父紀念館駅があります。(駅名の英語表記は、孫文の英語表記「Sun Yat-sen」から、「S.Y.S memorial」です)國父紀念館國父紀念館の敷地は中山公園として整備されており、中山公園は4万平方メートルの広大な敷地となっています。すぐ後ろに台北101大樓が見えています。ちょうどこの時は、武術のコンテストかなにかが行われていました。審査員が3人いますが、うち1人は明らかに欧米人でした。せっかくなので、一番前を陣取って演武を観ていました。私が見ていた間では、この人が一番上手だったように思います。中には女性の姿もありました。他にも幅の広い剣や薙刀のような長い棒を持った人たちが出番前に練習していたりして、さながらカンフー映画の撮影現場みたいな雰囲気でした。國父紀念堂内には孫文の銅像を始め、孫文にまつわる歴史資料が展示されているそうです。また、中正紀念堂と同じく、毎時00分になると衛兵の交代も行われます。肝心の紀念堂の中を見ていないのですが、この日の台北は快晴で気温もグングン上がり、暑いので一回家に戻ることにしました。(実は國父紀念堂駅から自宅のある市政府駅までは、MRTで1駅の距離です)暑ければ上を脱げばいいと言う話なのですが、1枚下に着ていたTシャツは、日本を離れる時に送別としてもらったもので、「和大艦戦」の文字と日章旗・桜・大和のイラストが入っているので、さすがにこれを着て台北市内を歩くわけには行きません。そして家で夏服に着替えた後、この晴天下に向かった先は、いよいよあの台北101大樓です。
2010/12/11
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MRT淡水線を圓山駅で降りて、台北花博の会場と反対側の西側に行ったところに保安宮があります。龍山寺・清水巌と並んで、「台北の三大廟門」と呼ばれているそうです。寺院と思っていたのですが、祀られているのは「保生大帝」という神様です。保生大帝は10世紀から11世紀にかけての実在の人物で、龍の目に薬をさしたり、虎の喉の痛みを治したなどの伝説の残る人物です。龍山寺もそうですが、これらの台湾の信仰は17世紀に福建省から渡って来た人たちによって広められたとされています。龍山寺や林安泰古?などと同じく、両端が反り上がった屋根が福建省の特徴でしょうか。ところで龍山寺のところで、木の棒に火をつけて拝んでいると書きましたが、実は木の棒ではなくお香だったようです。
2010/12/10
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行天宮は関羽(関帝)を祀っている廟所で、台北でも最も参拝客の多い廟所の1つとなっています。MRT淡水線を民権西路駅で降り、民権東路に入ってさらに東に1kmほど行った場所にあります。(後でわかったことですが、11月にMRTの新線が出来ていたようで、実は民権西路から行天宮までMRTで行くことができます)1949年に福建省出身の黄?によって創建されたもので、やはりこちらも屋根の端が反り上がった形をしています。門の内側に入って本殿の方を眺めてみると、「あれ?」と思ったことがありました。本殿ではなく、門のある方に向いて拝んでいる人が何人もいて、一瞬場所を間違えたかと思いました。関羽は初めてそろばんと帳簿を使った人物とされており、商売や財産の神様としても信仰されています。元々行天宮は少し西の林森北路に創建されたそうです。この辺りはビジネス街ともなっており、林森北路には日本人の経営する日本食店が多く並び、台湾に駐在する日本人ビジネスマンが多く立ち寄る場所にもなっています。
2010/12/09
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台北で最も古い現存民家が圓山にあるというので、探索に出かけていきました。場所は特定できたのですが、近くまで来た時に行き方がわからなくなってしまいました。よくよく地図と見比べてみると、どうやら台北花博の会場内に取り込まれているようです。花博会場のほぼ中央、「新生公園エリア」に目的の「林安泰古?」がありました。元々は「林安泰古?民俗文物館」だったのですが、花博開催に伴い「伝統文物の展示および茶レストランの経営」をテーマにしたパビリオンになっていました。ここは並ばずに入ることができそうですが、それにしてもすごい人です。人が続々と中に吸い込まれていくような感じでした。清朝時代から残る旧家なのですが、花博のパビリオンとなった今は、各部屋で中国茶の展示販売を行う売店になっていました。試飲コーナーの向こう側の壁にお茶の箱やら何やらが並べられており、さかんに売り込みをやっています。阿里山烏龍茶を試しに飲んでみようと思い、一杯頼んでみました。「これは烏龍茶なのか?」と思いつつ、「這是阿里山烏龍茶?」と聞くと、壁の箱を指さしながら何か話しています。見ると箱に「高山茶」と書かれていて、阿里山烏龍茶の箱は別のところにあるようでした。台北の旧家がどんなものか見に来たはずが、全く見当外れになってしまい、見るものもとりあえず外に出てしまいました。別棟があったのですが、ここも人があふれていました。それでも建物内部には当時の家具などが残っており、当時の上流階級の暮らしを垣間見たように思います。ちなみに林安泰古?については、以下の通りです。(繁体字中国語のままですみません)林安泰古?初建於1783年、至今已有200多年的歴史。這棟傳統?南風格的單層2進4合院、是依照民間地理風水習俗而建造的、其屋脊結構採一條龍的單脊做法、以燕尾曲線呈現自然柔和的風貌外?舖有紅普石、是當時大陸商船來臺、為避免船身不穩、置於船底作壓艙之用、又稱為壓艙石、它的優點是不長青苔、防滑。材料上大量採用福州杉、石材則採用觀音石、並使用竹釘、木釘、採?頭方式接合古?前的月眉池、造型正如其名、在中國風水中、屬於聚寶收納的型制、不但具有防禦、防火、供水、降温等功能、更替古?環境生色不少。走訪古?内外細細觀察,其中蘊含著無數傳統建築文化的精髓與智慧,也可窺見昔時生活的風貌情境。
2010/12/07
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台北に数ある寺院の中でも、最も古いのが龍山寺だそうです。MRTの板南線に「龍山寺」駅があり、MRTを降りてすぐのところに総門(?)がありました。龍山寺の総門(?)中国式の寺院の伽藍配置はよくわからないのですが、総門の先に山門(?)がありました。中国式寺院はとにかくカラフルで、日本の「~大明神」みたいなド派手さがあります。龍山寺は、台北101・故宮博物館・中正紀念堂と並んで、「台北の四大外国人観光地」と呼ばれているようです。山門を入ったところでみんな熱心に拝んでいますが、実は日本人のツアー客もかなりいました。台湾の人は本当に信心深く、毎日朝になるとテレビでお坊さんが説教していたりします。龍山寺でも老若男女を問わず、みんな熱心に頭を下げて拝んでいました。よく見ていると、何本かの長い木の棒に火をつけて拝むようで、さらには半月形の木の破片を投げたりしているのですが、いわれがよくわかりませんでした。龍山寺の本堂龍山寺に来てはみたものの、あまりにわからないことが多いので、日本人のツアー客について回り、現地ガイドの人の解説を聞いてみることにしました。ガイドの人が「右側にあるのが…」というとツアー客と一緒に右を見たり、「では次に行きましょう」となると一番後からついて行ってみたり。ちょうど「ルッ○J○B」のツアーだったのですが、人数が10人くらいしかいない上に女性が大半なので、そのうちに「こんな人いたっけ?」みたいな雰囲気になってきました。そのうちにツアーの方に声を掛けられ、「日本語がわかるのですか?」と聞かれました。「ええ、わかります」と普通に答えると、「日本語上手ですね」などと言われ、さらには「はい、日本人ですから…」とオチがついてしまったり。(台湾では日本語を勉強している人が多いとか、そんな事前知識があったのかも知れませんが、その1人くらいに思われていたのかも知れません)ガイドさんの解説によると、龍山寺には数多くの神様が祀られているそうです。こちらは医者の神様こちらが御本尊ですが、「観音様」だそうです。日本の寺院は地味なのを是とするかと思いますが、同じ中国大陸を発祥としながら、こちらでは全く趣きが違っていました。
2010/12/04
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台北車站(Taipei Main Station)の南側は、台湾らしい雰囲気の中に古き日本が残っており、台北市の中でもお気に入りのエリアです。旧台湾総督府を始めとして、台湾銀行本店・台大醫院・国立台湾博物館など、レトロな建物が残っていて、今も現役で使われていたりします。そんな歴史エリアの中にあるのが、旧日本勧業銀行台北支店の建物です。ギリシャ式の柱石の中に歩道が通っています。設計者や建築年代は明らかではありませんが、マヤ文明をあしらった装飾が施されており、独特の雰囲気のある建物でした。この辺りは金融機関の並ぶ金融エリアでもありますが、戦後は台湾土地銀行の本店として使用され、現在は国立台湾博物館の別館として使われています。
2010/11/05
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二二八和平公園内には、ギリシャ式の列柱と高いドームのあるクラシカルな建物が建っています。台湾で最も古い歴史を持つ「国立台湾博物館」です。元々は日本統治時代の1908年に「台湾総督府博物館」として設立され、1915年に「児玉総督および後藤民政長官記念博物館」として現在の建物が建築されました。(台湾総督府第4代長官の児玉源太郎とその時の民政長官であった後藤新平です)博物館内部は今も当時のままに残っており、ロビーの吹き抜けが見事でした。ギリシャ風の柱が並び、天井には豪華な装飾とステンドグラスが施されています。当時の日本はどれだけお金があったのでしょうか。ロビー正面当時はロビーの両側に児玉源太郎と後藤新平の像が建っていたのですが、現在は収蔵品として展示されていました。児玉源太郎後藤新平ちなみに児玉源太郎が総督府長官で後藤新平が民政長官だった時、新渡戸稲造が民政部殖産局長を務めていました。台湾には意外と有名人が多く赴任していたようです。
2010/11/03
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二二八和平公園の北側の道路を歩いていると、日本の鳥居が目に入って来ました。大小二つの鳥居があり、中国語で書かれた解説には、「神明鳥居(大)」・「神明鳥居(小)」とあります。神明鳥居(大)日本人には鳥居だとわかるのですが、さすがに海外では鳥居そのものについての説明が必要なようで、その横には図入りで鳥居の解説が書かれていました。神明鳥居(小)なぜ鳥居があるのか不思議に思うところですが、解説によると神明鳥居(大)の方は第7代台湾総督府長官であった明石元二郎の墓前に建てられたもので、神明鳥居(小)の方は第3代長官であった乃木希典の母親の墓前に建てられたもののようです。台湾で鳥居を見かけたこともそうですが、日本では「坂の上の雲」の放映が再開されるとあって、その登場人物2人に縁のある鳥居を見つけたことは、とても奇遇な感じがしました。
2010/11/01
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日本統治時代のクラシックな建物がいくつも残っている中、特に優雅な美しさがあったのが、台大醫院舊館(台灣大學醫學院附設醫院)です。台大醫院舊館はMRTの台大醫院駅出口のすぐ目の前にあり、今も病院として使われています。フェニックスが赤レンガに映えて、エキゾチックな雰囲気を醸し出しています。車止めから一歩中に入ると、エントランスホールは大きな吹き抜けになっていました。緩やかにカーブを描く天井と装飾の豪華さは、思わず見上げたまま見入ってしまうほどでした。病棟への廊下も当時のまま残っており、荘厳な雰囲気の中に優美さを感じます。台大醫院舊館は、「台北帝國大学醫学部付属醫院」として、台湾総督府によって1912年に建築が始まり、12年後の1924年に完成しています。戦後は「台灣大學醫學院附設醫院」と改称され、現在は新館なども建っていますが、台大醫院舊館は当時のままに残され、今も現役で使われています。日本ならば柱や壁などの一部が保存される程度なのでしょうが、歴史建築物を大切にする国に建てられたことが、何より幸せなことかと思います。
2010/10/31
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MRTの西門町駅を降りると、すぐ目の前にレトロな赤レンガ作りの建物が建っています。日本統治時代の1908年に建築された「西門紅樓」ですが、こんなのが普通に残っていることが衝撃です。西門町の名前は、旧台北城の西門があったことに由来していますが、日本統治時代は娯楽や商業の中心地だったそうで、西門紅樓も当時は「八角堂」と呼ばれた公営市場でした。MRTの駅名となっている「西門町」ですが、中国語では「○○町」のような地名表記をしないため、日本統治時代の地名が今も駅名となって残っています。当時も映画館などが建ち並び、娯楽や文化の中心地として栄えていたのですが、現在も西門町は台北の娯楽・文化の中心地となっています。(「台湾の原宿」とも呼ばれているそうです)「西門紅樓」の名前は太平洋戦争の終結後に付けられた名前ですが、戦後は劇場として使われていました。100年以上経った現在では、再びマーケットとして復活しており、デザイナー工房やオープンカフェなどが並ぶほか、イベント会場としても使われています。
2010/10/30
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總督府のある台北市の西部には、「えっ?」と思うような歴史建造物が残っていたりします。このあたりを探索していた時、たまたま見付けたのがこの建物です。台湾銀行の本店ビルですが、こんな建物が普通に残っているのが驚きです。台湾銀行と言えば、近現代の日本史には必ずと言っていいほど登場する名前でしょうか。1927(昭和2)年の昭和金融恐慌の時、鈴木商店(日商岩井、現在の双日のルーツ)の倒産から、鈴木商店へ多額の融資を行っていた台湾銀行が休業に追い込まれたとこは、歴史の教科書で知るところかと思います。台湾銀行の本店は現在も商業銀行として運営されていますが、元々は日本統治時代の1899(明治32)年に台湾の中央銀行として設立されました。当時は木造建築だったのですが、シロアリの被害などで建物が傷んだため、1938(昭和13)年に鉄筋コンクリートに改築されました。設計は旧第一銀行の各支店などを手がけた西村好時です。太平洋戦争の終戦後は商業銀行となりましたが、2000年までは日銀のようにいわゆる中央銀行業務を行っており、台湾銀行が紙幣の発券を行っていました。2000年7月より、発券は台湾銀行から中央銀行に移り、2003年で台湾銀行発券の紙幣の流通が停止されています。(ちなみにそれまでは紙幣に「台湾銀行」の文字があったようですが、現在の紙幣には「中央銀行」と書かれています)日本では「ニュー台湾ドル(NT$)」と呼びますが、あくまでも台湾での通貨単位は「元」です。(JP¥は「日元」で、US$は「美元」となるようです)
2010/10/27
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1947年2月28日に勃発した「二二八事件」は、日本統治時代から台湾に住んでいた本省人と、日本の敗戦後に中国本土から来た国民党などの外省人との間で勃発した内乱です。その二二八事件の犠牲者を追悼するため、1996年に当時の台北市長であった陳水扁(後に総統)が記念碑を建て、公園として整備したのが「二二八和平公園」です。二二八記念碑二二八事件の発端は、ヤミタバコの取締による一般女性市民への政府の暴行事件でしたが、ここから本省人と外省人の抗争が台湾中へと広がっていきました。特に本省人の知識人に対する政府の弾圧は厳しく、約28,000人もの台湾人が殺害・処刑されたと言われています。二二八和平紀念公園もその舞台の1つで、本省人はここのラジオ局を占拠し、日本語で台湾中に蜂起を呼び掛けた場所でもありました。現在もそのラジオ局の建物は「二二八紀念堂」として残っています。記念館は改装中だったのであきらめて帰ろうとすると、年配のガイドさんに「時間があったら話を聞いてもらえないですか」と流暢な日本語で呼び止められました。時間はあったので話を聞くことにしたのですが、「どんな話をされるのだろう」と内心ドキドキしていました。向かい合わせに座ったテーブルの上に、その人がまず差し出したのは教育勅語でした。そしてそこから本省人の話へとなったのですが、要約すると以下の通りです。・清朝の統治は200年以上も続いたが、台湾に対して何も恩恵を施してくれなかった。・しかしながら日本は違って、鉄道・道路・工場などの文明をもたらし、何よりも道徳・教育などの文化をもたらしてくれた。 日本統治時代は犯罪もなくなり、台湾人にとっては最も幸せな50年だったと (歴代の台湾総督府長官の名前を思い出したのですが、さもありなんという感じです)・日本が敗戦して引き揚げた後、台湾にやって来たのが蒋介石率いる国民党だった。 文明など知らず、学問も道徳もない人間たちがやってきて、日本の高い文明・文化を持つ台湾人の支配を始めたと。・しかも国民党政府では、日本政府ではありえなかった賄賂や汚職が蔓延しており、この政府への不満が二二八事件へと発展していったそうです。台湾では「リップンチェンシン(日本精神)」という言葉があり、本来の日本人が持つ清潔さ・公正さ・勤勉さ・責任感・規律遵守を総称してこう呼ぶそうです。この方は陳さんという人でしたが、今の日本人がこれを忘れていないだろうか、との疑問を投げかけられました。いわく、昔の日本人は愛国心に裏付けされた高い道徳観があったと。確かに戦後日本の教育社会では、どこかの組合によって、本来の日本人が持っていた道徳観まで否定されたのかも知れません。陳さんは日本の政治情勢もよくご存じで、「小沢さんは嘘をついたからいけなかった」と。嘘つきを嫌うのが日本人だから、小沢さんにノーを突きつけたことで、まだまだ日本人にも昔のような正義があると感心したそうです。戦後日本が引き揚げてしまった後、陳さんも公務員になろうと思ったそうですが、日本の教育で嘘つきは悪だと教えられたので、とてもじゃないが当時の公務員になる気にはなれなかったそうです。陳さんとの話はまだまだ続き、「これからの日本はこうなってしまう」、そして「こうあるべき」で意見が一致したのですが、長くなるのでここではやめておきます。最後に陳さんは名刺を渡してくれ、そこには「日本名」が書かれていました。今年で80歳、「昭和5年に生まれてから昭和20年まで私は日本人だったが、たった15年間でも日本人であったことを誇りに思っている」とのことです。胸が痛くなる一言でしたが、台北で本当の日本人に出会ったような気がしました。
2010/10/24
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台湾には「國父」や「中正」の名前が付された施設がよくありますが、「國父」は孫文で「中正」は蒋介石のことを指しています。(蒋介石の本名が「中正」で、「介石」は字だそうです)その蒋介石が1975年に亡くなった後、哀悼の意を込めて建設されたのが中正紀念堂です。中正紀念堂の正門。高さが30mあり、台湾の国章である「青天白日」をモチーフとして、青と白の2色から成っています。中正紀念堂は1976年に起工され、1978年3月31日に完成、蒋介石の命日である4月5日に一般公開されました。敷地面積は25万平米と、桁違いの広さがあります。広場では様々な催しが行われたり、太極拳が行われたりと、台北市民にはなじみやすい場所のようです。中正紀念堂の建設は、3つのコンセプトに基づいて行われました。(1)中国文化と精神の表現(2)新鮮でかつ荘厳、また独創的な風格(3)現代の建築技術を駆使し、経済的であり実用に富む建築物そのコンセプトの下、敷地内には国立戯劇院と国家音楽庁の建物が並んでいます。國立戯劇院。(オペラ・バレエ・ミュージカル上演に使われています)國家音楽廳。(正式にはこの文字ですが、オーケストラのコンサートホールです)そして向かい合って並ぶ二つの建物の奥にあるのが、高さ70mもある中正紀念堂の本堂です。八角形の屋根は、中国の八徳である「忠・孝・仁・愛・信・義・和・平」を表したものです。台湾の道の名前もこの八徳に由来したものが多く、「忠孝」や「仁義」などの名前が付いています。(ちなみに、「和」・「平」・「愛」が「礼」・「智」・「悌」に変わったものが、滝沢馬琴の南総里見八犬伝の八つの水晶です)また本堂の屋根は「人」の字が重なったように設計されており、これも「天人合一」の中国の思想を表したものです。中正紀念堂の本堂へ登る階段は89段あり、これは蒋介石の享年89歳にちなんでいます。その本堂の正面には、蒋介石の座像がありました。ここは日本からのツアーにも入っているようで、本堂にいる人の大半が日本人でした。(久々にたくさんの日本人を見た気がします)蒋介石が中華民国の初代総統に就任したのが1948年、以後死去する1975年まで中華民国総統を務めており、台湾では誰もが認める英雄のような扱いかと思っていました。(日本国内では様々な評価がありますが)この後訪れた「二・二・八和平公園」で本省人の方の話を聞く機会があり、その複雑な歴史評価を改めて知ることとなりました。
2010/10/23
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台北車站(Taipei Main Station)からMRTで約40分、台北市の北側にある淡水河口付近の海岸線までやってきました。この辺りは淡水と呼ばれ、観光地としても有名な場所です。MRTの淡水駅を降りると、観光地らしく土産物店などがずらりと並んでいました。こちらは陸側の道ですが、海岸線にもお店が並んでいました。さすがに海鮮系の店も多く、イカの姿焼のお店などもあって、台北市内とはまた違った雰囲気です。淡水河も河口付近に来ると川幅も広くなっており、観音山がある対岸までは観光船も走っていました。台風が近づいているのであいにくの空模様でしたが、夕陽や夜景がきれいなため、デートスポットとしても有名な場所だそうです。淡水駅から海岸線をさらに行き、小高い丘の上にあるのが紅毛城です。紅毛城入口あまりにわかりやすいと言えばわかりやすい名前ですが、その名の通りオランダ人によって築城された城です。さすがに英語訳では「Fort San Domingo」となっていました。紅毛城の歴史を見て行くと、淡水と台湾の複雑な歴史事情が見えてくるように思います。元々淡水に城を造ったのはオランダ人ではなく、スペイン人でした。大航海時代の1626年に、東方貿易の拠点を求めて台湾に進出してきたのですが、原住民の抵抗にあったため、軍隊を派遣して築城したのがサントドミンゴ城です。1642年になると今度はオランダ人が進出してきて、スペイン人が撤退した城の跡に新たに築城したのが、今の紅毛城の原型です。1661年に鄭成功率いる明軍が台湾に進攻してきた時、淡水のオランダ軍は原住民の襲撃を受けて淡水から撤退し、紅毛城は鄭成功の支配下となって修復が行われました。やがて明から清へと代わったのですが、清はこの城の存在を重視していなかったため、長い間荒れ果てたままになっていたそうです。清が開国して1860年に北京条約が締結されると、今度はイギリスが淡水に領事館を置きました。紅毛城を租借したイギリスは、1867年に紅毛城を領事館へと改築し、1877年には紅毛城の横に新たに領事館の建物が建設されました。第二次世界大戦の期間は、日本の進出によってイギリス領事館は閉鎖され、イギリスが領事館業務を再開したのは、終戦後の1948年になってからです。その後イギリスが領事館を撤収したため、オーストラリア→アメリカと管理が移った後、ようやく台湾が接収したのは、1980年になってからのことでした。長い間にわたって目まぐるしく変ってきた淡水の歴史ですが、台湾海峡に面した淡水河口の子の地は、それだけに魅力的な場所だったのかも知れません。紅毛城から見た淡水河河口台湾海峡のすぐ向こう側は中国大陸です。
2010/10/20
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台湾生活が始まってから最初の休日、出かけて行った先は台北101でも故宮博物館でもなく、台北市の西部にある台北城の城跡です。台北城は清の時代に築かれたもので、南北に約1.3km、東西に約1kmの長方形の形になっていました。横浜の中華街と同じように正確に東西南北を向いておらず、少し長方形が東西南北から傾いたような形状をしています。このため台北城付近の道路も、東西南北に通っておらず、少し斜めに通るような格好になっています。台北城は総石造りで四方を城壁で囲まれていたのですが、現在では城壁は残っておらず、東西南北にあった門だけが残っていました。北門正式には「承恩門」と呼ばれ、こちらが表玄関でした。沖縄のグスクのようにアーチ型をしています。東側の城壁があった場所は、現在中山南路の大通りに変わっていました。台湾国旗である「青天白日」の旗が翻っていますが、沖縄そっくりの雰囲気でした。東門(景福門)南側の城壁跡には愛国西路が通っており、南門と小南門が置かれています。MRT(地下鉄)に小南門線というのがあるのですが、これは台北城の小南門に由来しています。南門(麗正門)西側の城壁跡にはさらに広い中華路が通っており、MRTの板南線には「西門駅」もあるのですが、現在は西門は残っていませんでした。西門跡台北城は1882年に着工され、1884年に完成しました。清朝最後の風水石城で、日本の台湾出兵に対する防衛拠点として、清朝の台北府が置かれたことから台北府城とも呼ばれています。1895年の日清戦争で日本が勝利すると、台北城も日本の支配下となり、日本の台湾総督府が置かれました。日本の総督府の庁舎は現在も残っており、中華民国の総督府として使われています。日本の総督府は1895年から太平洋戦争終戦の1945年まで置かれていたのですが、歴代台湾総督には、桂太郎・乃木希典・児玉源太郎などがいました。日本では第一級の歴史的建造物だとおもいます。当然ながら建物の中に入ることはできなかったのですが、どうやら一般開放もされているようです。「星期一」は月曜日で「星期五」は金曜日、要は平日の午前中に身分証明を持ってきて下さい、とのことです。
2010/10/16
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