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歌唱の始まり しかし、ここまで来てしまうと、楽曲の形式がどうのこうのというはるか前に、そもそも音楽とはどのようにして生まれて来たのだろうというところまで、本当は立ち戻らざるを得なくなって来るでしょう。となると、それこそ世界の民俗音楽にまで入り込んで、思いをはせるという仕儀になりかねないのですが、もちろん素人の私には、そんな忍耐も知力もないので、もっぱら妄想だけを膨らませるということになってしまいます。 とはいえ、そういうまあどうでもいいような手間も、もともとのテーマを外さないかぎりは、まったくムダというわけではないでしょう。 というわけで、しばらくしんきくさい話を続けます。 NETで一応この種のことを扱ったものを見てみましたが、なかなか腑に落ちません。中には「言葉より音楽が先に発生した」みたいな論もあるのですが、そりゃあリズムは人間が言葉を発するはるか以前からあったでしょうが、だからといって言葉より音楽が先だと断じられても困る。早い話、それならネコやヒマワリにも音楽が在ることになってしまうのではないか。どうもこのあたり、あまりにも当たり前すぎる事柄を扱うとき、それが当たり前すぎて、かえって妙な話になってしまうようです。 で、他のめぼしい論考はと言えば、これまたいきなり「音楽の三要素」や「音階論」から話を始めたりするので、私たちの音楽観というのが、知らずいかに「西洋音楽」の楽理楽典に浸透されているか、ということをあらためて知らされることになります。これは何も西欧音楽の否定をしているのではなくて、今現在の私たちは、「そのほかの語法で『音楽』を語ることが出来なくなっている」世界にいるということに他なりません。これって、ある意味、世界の言語が「英語」で統一されてしまうのと同じような状態を指すので、言語よりはるかに多様性に富んでいるであろう音楽の世界を論じるには、ちょっと寂しい状況なのではないかしらん。 私は音楽は「すぐれて人間的な行為」だと思っているので、「音楽とは何か」を問うということは、「人間とは何か」を問うことと同義だと思っています。で、人間とその他の生き物を分かつものは何かと言えば、それはたぶん「時間」の意識だろう、というのが私の漠然とした推測です。すべての生き物の中で人間だけが、我が身が「逃れようのない時間の流れに投げ込まれている」ことを知っている存在なのではあるまいか? では「音楽はどのように発生したのか?」という命題に対して、私の場合、ごく気まま妄想してしまうのは、例の紫式部が「源氏物語」(蛍の帖)で光源氏に語らせた物語論なのです。 ―よきもあしきも、世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心にこめがたくて、言ひおきはじめたるなり ―(善きにつけ悪しきにつけ、この世に生きる人の出来事で、見るに飽かせず、聞き捨てにも出来なくて、後の世まで語り伝えたいような事柄を、我が心一つに収め難くて、語り置き始めたのでしょう ) なぜ「心にこめがたくて、言ひおきはじめた」のかと言えば、我が身が時間の流れに逃れがたく投げ込まれていて、いずれ必ず消え去ってしまう存在であることを、多少仏教の影響があるとしても、当代の貴族社会はよく知っていたからでしょう。 というわけで音楽もまた、この世のさまざまな事象に遭遇して、大いに動かされた気分を、人にも伝えておきたいと、わが身一つの「心にこめがたくて、言ひおきはじめた」のが最初だったのではないか?とすれば、音楽は「高揚した言葉」の発声から始まったのではないか、と私は妄想するのです。 「高揚した言葉」とは、わが身に生じた常ならぬ気分を、尋常ではない発語のしかたで発声することを言うので、それは通常とは異なる「抑揚」と「リズム」と「身体動作」をともなったでしょう。こういう仕方で発せられる「言葉」は、日常語とは異なる。韻文とは、例えば詩歌のように韻を踏んだリズムで発せられる言葉ですが、詩と歌謡が完全に分離している今どきと違い、かつては詩歌と歌唱は一体であったのです。 このように「歌唱」とは、言葉に常ならぬ抑揚をつけて発声すること(推測ですよ)であるとすれば、器楽とはおそらく「歌唱」に付随する形で生まれて来たのであって、それは「高揚した言葉」をさらに増幅させるものとして現れたのではないか?民俗音楽の歌唱が、しばしばドラムとかステップとか、要は身体の動きと一体となって奏されるのは、そのあたりの消息を示しています。 さて、わが身一つの「心にこめがたくて、言ひおく」ために、何とかしてその気分を人にも伝えたい、共有したい。なしうるならば、空間的にも時間的も出来るだけあまねく、この高揚を世界に届けたいと願ったとき、人はまずどのように「歌唱」しようとしたのでしょうか? 私はそれはたぶん、同じ抑揚リズムの「反復」から、始まったのだろうと推測するのです。読経とかインドネシアのガメラン音楽などがそうであるように、「反復」は「気分の高揚」を共有する最も素朴な手段だったのではないか? とはいえ、反復が同じ「言葉」の繰り返しとなって延々と続くとなると、くたびれてしまうのは当たり前だし、だいいちもっと「多様な気分」を伝えたいと思うのは、人の心でしょう。同じフレーズ、リズムにさまざまな言葉を乗せて歌うというのは、たぶんそういうふうにして現れて来たのではないか。民謡や数え歌は、一つのまとまったフレーズに、第一番、第二番⠒というふうに歌詞を繰り返し延々と乗せていくでしょう。
2019.06.19
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祈祷文 歌詞にラテン語を挿入するというのは、リベラでは例の「彼方の光」でも用いられていて、いわばかの合唱団の定番と言っていいのですが、西洋音楽でラテン語が使われるのは、ご存じのとおり讃美歌とかレクイエム、つまり「聖句」としていわば襟を正して歌われるときでしょう。 したがって、ここで語りかける相手は「人」ではなく、「天使」とか「神」、あるいはわが身をいつでもどこでも、どこかで必ず見守ってくれている誰か、に向かってという気分があるのです。 初めの中間部と再現部の中間部に挿入されるVoces angelorum gloria, dona els pacem の意味は、Glorious voices of angels, grant peaceという英文訳から見ると 、祈祷文風に訳すとすれば、― 天使たちの高貴なる歌声よ、平安を与えたまえ ―といったところでしょうか。 中間部のCantate caeli chorus angelorum Venite adoramus in aeternum Psallite saecula et saeculorum Laudate Deo in gloriaは、 Sing, heavenly chorus of angels. Come, let us evermore adore. Sing forever and ever! Praise God in His glory ですから、― 天使たちの高貴な歌を歌いたまえ永遠の敬慕を我らに為さしめたまえとわにいつまでも歌いたまえ!主の栄光に称えあれ ―といった気分でしょう。私はクリスチャンではないので断定はしませんが、たぶんPraise God in His gloryなどは、祈祷文の定型句なのではないかしらん。昔、T.S.エリオットの祈祷詩で、非常に巧みなリフレインを用いた詩句があったのを思い出したので、少しマネてしまいました。 それはさておき、気分の転換と高揚がラテン語の詩句の挿入によって、行われているのは明らかなので、asukaさんが中間部にクライマックスを持って来たというのは、非常にこの曲の構成にマッチしていると私は思うのです。あるいはひょっとして、USJでリベラの実演をご覧になったのかもしれません(かってな推測ですよ)。 ちなみにこの曲は、他の歌い手によってもカバーされていて、May.Jさんなど他ならぬ村松崇継さんと組んで、日本語の歌詞(金谷かほりさん )で歌われています。同じ曲を何度もくどいので、ぜひ聴いてみてくださいとは言いませんが、これはまた別の意味で面白いですよ。ここではリベラ風の崇高感を一切排して、例の中間部は歌詞なし、まさしくブリッジ・パッセージの扱いにすることで、ごくスタンダードなJ・POPのラヴ・ソングに仕上がっているのです。いずれにしても、一つの楽曲がさまざまな形で取り扱われるのは、とても良いことなのでしょう。 と、ここまで話してきて、ふとある想念が、私には浮かんで来るのです。あるいはすでに語られていることなのかもしれませんが、西洋音楽で言う「ソナタ形式」とは、ひょっとして経過句、ブリッジ・パッセージの発展形だったのではないか、と。 今は知りませんが、私たちの小中高の音楽教育は、もっぱら西洋音楽の樂理を中心に学んできたので、ソナタ形式だのロンド形式だの、要は初めからそうした型が、音楽にはあるものとして疑問を抱かず、それでもって交響楽などを聴いて「あ、これソナタ形式で作られてる」と見抜いたとたん、何だか音楽を分かったような気になっていたのではないか?でも形式の解析が音楽の本質ということでは、もちろんないですよね。 肝心なことは、なぜこの形式が編み出され、それが長く愛好されてきたのか、ということでしょう。
2019.06.12
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ラテン語 白状しますと、私は少年合唱団というか子供を用いた声楽や器楽が苦手で、それはウィーン少年合唱団でもリベラでも変わりはありません。怒られるのを覚悟で言うのですが、まあ趣味レベルの話だから好いじゃないですか。 簡単に言えば、それらは大人の側の「希望」とか「都合」とかの投射によって、演奏されていると感じざるを得ない場合が、しばしばあるからです。先に「Kyoto Tachibana High School Green Band 6」でも触れたように、私たちは知らず子供やJKや高校野球少年に、ある「標準化された指標」を当てて見てしまっているのですが、それは判断される当人たちにとっては、ある意味大きなお世話でしょう。「京都橘」をながながと取り上げたのは、彼女たちの演奏コンセプトは、間違いなく本人たちから編み出されたものだったろうと判断したからです。 歌が汚いとか下手だからということではなくて(むしろ逆で、恐ろしく美しい)、それらを聴くこちらの側に、本人たちのありようとは関係のない「夢」や「幻想」を投射してはいないか?早い話、いくら「天使」とはやし立てられても、そうではない本人たちは困ってしまうでしょう。やっかいなのは、そうした仕方の「標準化された指標」を、大人の側から押し当てられ続けると、本人たちが時に自身を勘違いしてしまう、あるいは自身の見立てを誤る場合があるということです。 「それを言うなら、おまえだって他ならぬ826asukaさんをずいぶん以前から(と言うことは「子供の時」から)推奨してるじゃねえか」と逆ねじを食らいそうですが、だからこそ私は彼女の話をするときは、演奏の中身だけに限定して、その他のことには一切触れないというふうに、かなり注意しているつもりです。「じゃあ、あえて突き放して淡々と大人と対するように批評するのか」と言えば、もちろんそうではない。十代の女の子が発する声を、こちらからの指標抜きで、素のまま等身大で聴き取ろうとするのは並大抵ではないんじゃないか。 ピカソの絵を観るとき、観る側はそれまでの標準化された「指標」や「観念」はいったん棚上げにして素の目で享受しないと、「そこにある絵」は私たちに「何かを語りかけて来る」ことは絶対にないでしょう。 ところが、リベラに関してはその美しさあるいは技術について、充分敬意を払いつつ、なおかつ「素の耳」で聴くのを困難にしている、という部分が私の場合にはあるのです。それは非常に微妙なのですが、要はこれらの歌声や曲は、結局のところ「大人の都合」によって仕組まれていると考えざるを得ないからでしょう。リベラ・ファンの皆さん、ごめんなさい。私がリベラのファンを否定しないのと同様に、私が以上のような理由で、リベラを「素」で聴くことが出来ない訳も分かってください。826asukaさんについては、そもそものスタートがyoutubeということもあって、おそらく「大人の都合」という部分はかなり少ないだろう、というのが私のかろうじて踏みとどまっている根拠なのです。 とはいえ、「天使のくれた奇跡」を聴いた以上、そこに付された歌詞が先のブリッジ・パッセージの話と絡んでいるような気がするので、ここで別の方のこれを聴いてみましょう。佐野仁美さんという関西出身のシンガーソングライター(というか、マルチアーティスト)なのですが、これまたお若いですが発声が明瞭なうえに、歌詞が画面に付されているので、分かりやすいですよ。 で、これを聴いていてただちに気付くのは、先の中間部、私がブリッジ・パッセージと呼ぶ部分が、どうもラテン語で歌われているらしいということなのです。リベラが教会音楽をオマージュしている以上、ラテン語が出てくるのはそれほど不思議ではないにせよ、英語詞の間に挿入されるラテン語というのは、いわば現代語の間に古典語が嵌入したみたいな、かなりな気分の転換を感じる。平たく言えば、この部分は歌う対象、あるいは語りかける相手が他とは違いますよ、という暗示になっているのではないか?とみてくると、他にも前半と後半の真ん中にやはりラテン語の歌詞が挿入されてますね。 下線の部分です。わりと平易な英語なので全文を掲げます。Angel take your wings and fly, watching over me see me through my night time and be my leading lightAngel you have found the way, never fear to tread You will be a friend to me, angel spread your wings and fIy Voces angelorum gloria, dona els pacem For you're always near to me, in my joy and sorrow For you ever care for me, lifting my spirits to the sky Where a million angeis sing, in amazing harmony and the words of love they bring to the never ending story A million voices sing to the wonder of the light So I hide beneath your wing You are my guardian, angel of mine Cantate caeli chorus angelorum Venite adoramus in aeternum Psallite saecula et saeculorum Laudate Deo in gloria Can you be my angel now watching over me comfort and inspire me to see our journey through Can I be your friend indeed, from all cares set free the clouds would pass away,then I'd be an angel too Voces angelorum gloria, dona els pacem For you're always near to me, in my joy and sorrow For you ever care for me, lifting my spirits to the sky Where a million angels sing, in amazing harmony and the words of love they bring to the never ending story A million voices sing to the wonder of the light So I hide beneath your wing You are my guardian, angel of mine Angel of mine
2019.06.10
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ブリッジ・パッセージ 「ブリッジ・パッセージ(bridge passage)」とは、音楽用語で「経過句」と訳されていますが、一つのフレーズから次のフレーズに移るあいだの「繋ぎ」といったことでしょうか。どれだけ美しい旋律が数多く登場しても、それらを繋ぐ経過部分がうまく行かないと、はなはだ興ざめた印象を残すことになりかねません。以下は私見で怒られるのを承知で言うのですが、例えばホルストの有名な組曲「惑星」の「木星」。平原さんの「ジュピター」ですっかり知られるようになりましたが、原曲は四つほどの民謡風の旋律がうまく連結せず、ゴツゴツした感じがしないでもない。要は自然な呼吸で進行しないという気分があるのです。 同じような話で、ブルックナーの大伽藍のような交響楽曲も、随所に唐突な連結が顔を出して、ベートーヴェンやチャイコフスキーを聴き慣れた耳には、はなはだ戸惑うばかりという仕儀になるでしょう。まあ、彼のこの洗練されなさかげんは、ほとんど名人芸と言っていいので(そもそも彼は自分の交響曲を、人に聴いてもらおうと思って書いたわけではないらしいのです)、逆にいったんその書法にはまると、なかなか抜け出せないということにもなるわけですが。 モーツァルトやハイドンなど、いわゆる古典派の人々の書法は、さすがに聴く側にそうしたストレスを与えるということはありません。マーラーやシベリウスのような後期ロマン派の人たちは、そうした音楽の自然な「呼吸の流れ」をじゅうぶん理解したうえで、あえてあちこちに石を放り込むという書き方をしたのだと思う。マーラーなど小山のような岩石を投げ込むということに、なんのためらいもありませんでした。 ところで、ブリッジ・パッセージは何もフレーズに限らず、交響曲等の楽章間の「繋ぎ」としてもあり得るので、例えばベートーヴェンの「運命」第三楽章と第四楽章(20分58秒)とか、ブルッフのヴァイオリン協奏曲の第一楽章、第二楽章の繋ぎ部分(7分45秒)などは有名ですね。いずれにしても、楽想が転換するとき「繋ぎ」がうまくいかないと、流れが滞ったり冗長になったり、要は聴いていて何やら違和感が生じてくるものです。 とはいえ、こうしたすっかり洗練されたブリッジ・パッセージになる以前、そもそもこうした「経過句」はどのように登場してきたのだろう、と考えたりしてしまうのです。 こんな話をしているというのは、昨年暮れに826asukaさんがyoutubeにUPした「 天使のくれた奇跡」を聴いていて、何やら感じるところがあったからでした。例によって彼女の演奏は各フレーズの音像が驚くほど明晰で、ある意味そっけないほどキッパリしていますね。細部の表情にこだわるというより(してない、ということじゃないですよ)、「曲全体の響き」の造形を、いつも優先しているように思える。 結果として、とてもスケールの大きな聴きごたえを、この人の演奏からはいつも受けるのです。 で、この全体が示している印象というのは、弱音から始まって真ん中に強音部があり、再現部はまた弱音で終わるという、いわば富士山のようなクッキリとした姿なのでしょう。以前から彼女の「内声」のバランス感覚には感心しているのですが、今回はとくに「弱音」の取り扱いが見事で、ディナーミクというのが単純な音の強弱ではなく、さまざまな音色の微妙な取り混ぜから生み出されているということを、改めて知らされたような気がします。 さてこの曲、もとはリベラ少年合唱団の歌で、作曲は例の「彼方の光」でもコラボした村松崇継さんですね。youtubeではここで聴くことができますが、asukaさんの演奏とは少しく印象が異なる。 「そりゃあ、声楽と器楽では違って当然」となりそうですが、そうではなくて、例の曲全体が示している姿形がかなり異なって見えるということなのです。で、その違いのハッキリ出ているところというのが、すなわち真ん中の連結部、ブリッジ・パッセージの取り扱いに表れているのではないか?asukaさんが曲全体のクライマックスをここに置いて、その前後を鏡のような精確さで、上昇下降の傾斜をさせているのに対し、リベラのほうはいささか軽めに一番から二番の歌詞に移る橋渡しをさせているという感じ。 もちろんこれはどちらが良い悪いの問題ではなくて、音楽のコンセプトの違いと言うほかないでしょう。リベラはそもそもいで立ちからして、教会音楽へのオマージュに満ちていますが、asukaさんのはあきらかに映画的なゴージャスな気分に満ちているでしょう。それもそのはず、この曲の原型はUSJのクリスマス・イベント用に編曲されたものを元にしているらしいのです。それにしてもこの連結部におけるasukaさんの演奏は冴えていて、金管のクライマックスから再現部に移る直前3分20秒ほどのところ、大きなうねりの後に返す小波のような自然な流れを感じさせますね。
2019.06.08
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高齢者の暴走事故について 昨年の九月から十か月近く、我ながら呆れるほどUPするのを休んでしまいました。その間公私とも様々なことがあり、改元やら女系天皇論、はたまた音楽にかんしても826asukaさんの新たなリリースがあったりして、よほどUPしようかとも思ったのですが、いったん止まったエンジンを再起動するのはなかなかやっかいで、自分自身のポンコツぶりにはほとんど哂ってしまいます。 とはいえ、こうしたズル休みは今までにも何回かあったので、あまり騒がずに動かせるところから再開することにしますか。 改元の前後一か月ほどの間に、立て続けに起こった一連の暴走事故について、メディアの高齢者暴走事故に対する取扱いには、私はずうっと疑問に感じているのです。それは一言でいえば、事故原因のほとんどを人間の側、つまりヒューマンエラーの問題として焦点化しているという点です。 だから「免許交付に年齢制限を設けよ」だの「免許返納を促進せよ」といった議論が何の疑問もなく出て来ているわけですが、果たして本当にそれで、この議論は充分なのかどうか。私、思うのですよ。「人間とはそもそも失敗する存在であって、逆にこの失敗の膨大な集積こそ、人を人足らしめてきた主たる要因なのではないか」と。失敗しない人間とは、かぎりなくAIに近づくことを希求する存在ということであり、かの「私、絶対失敗しないので」と言い放つドラマの女医さんのように、なんだか気持ち悪い感じがするのは私だけでしょうか。 人の「面白味」とか「可愛気」というのは、おおむねさまざまな失敗から醸し出されているのであって、「絶対無謬性」を求めつつ、必ず失敗をしでかすというのは、ほとんど人であることの本質なのだと思うのです(「吉本」をごらんなさい。逆に絶対無謬性の権化であるAI同士の将棋対戦を観て、なにか面白いですか)。 であるなら何が問題なのかと言えば、そうした人の本質としての失敗が「マシーンを介することによって、容易に器物損壊や傷害、殺人にまで至ってしまう」ということでしょう。生身の人間が認知症その他の要因によって、素手でしでかす破壊行為などタカが知れたもので、この部分で「マシーンによってヒューマンエラーがとてつもなく増幅されている」という視点が、どうも欠けているような気がする。あるいは「そんなことはいちいち言われなくても、みんな知っている」ということなのかもしれませんが、なら、なぜ一連の悲惨な暴走死亡事故にかんして、マシーンそのものに対する疑問が出されないのか? 「アクセルとブレーキを踏み間違えた」「ブレーキを踏んでいるのに止まらなかった」「前進しようとしたらバックした」といった当事者たちの発言は、もう耳にタコができるほど聞かされている話です。でもこの種のことって、個人差があるとはいえ、車に限らずどれも人がよくやる失敗の類じゃないですか。それが、たまたま車を介した失敗であることによって、あたかも老人バッシングのような様相を呈するのは、ちょっとおかしいんじゃないか(「池袋」他の個人のことを言っているのではないですよ)。 私の言いたいのは簡単なことです。「必ずエラーを犯す人間に対して、マシーンはこのままで良いのか」ということです。世はAIでもって自動運転だのハイテク満載の車社会が、もうすぐにも来るみたいなことを言っていますが、そんな高級な技術など簡単に普及するとも思えない。そこで「絶対無謬性」を享受できるのは、ごく一部の高級車を買えるお金持ちだけということになるでしょう。 そうではなくて、はるかにチープな技術でも、すぐにでも軽四輪からバス、トラックまで、すべての車を包み込むようなコンセプトというのは、あり得ないのかということなのです。全くの素人発想ですが、早い話「手アクセル、足ブレーキ」というような車のコンセプトはあり得ないのか(バイクは手アクセルでしょう)?あるいは「手動アクセル、自動ブレーキ」を基本にして、ドライバーの不審な挙動を検知した場合は、ブレーキを優先して有無を言わせず減速させるとか(であれば、「あおり運転」も阻止できる)。この場合はセンサーが必要になりますが、それにそんな高い技術が必要だとは思えません。まあ専門家から言わせれば「そんなことは、とっくに考えている」となるのでしょうが、ならば、なぜそうしたコンセプトが不可能なのか、人の命と秤にかけて説明してもらいたい。 不思議に思うのは、車のメーカーがこうした高齢者たちの一連の暴走事故に対して、私の知るかぎり全く口をつぐんでいるというか、はなはだ消極的な態度に見えるということです。直接の当事者ではないにしても、自社の作った車が似たような暴走事故を繰り返しているという事柄に対して、あまりに無関心すぎるのではないかしらん。 ついでに言うと、メディアや車の専門家諸氏からも、そうした疑問や提言を聞いたことがありません(最近さすがに少し触れるようになりましたが)。まさか「日本経済の稼ぎ頭だから、あまり触れないでおこう」とかってに忖度しているなどとは思いませんが、せめて一社あるいは一人ぐらい「車のほうにも改善の余地がある」という発言があってもいいのじゃないか。「自社の作った車が、現に人を殺している」という事実に、何の感情も抱かないのであれば、そういう姿勢で作られた車に乗るこちらは、なんとなく「気持ちが悪い」ということになってしまいます。
2019.06.07
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