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東京文化会館 15:00〜 3階左手 ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」 アンナ・ボレーナ:エディタ・グルベローヴァ ジョヴァンナ・シーモア:ソニア・ガナッシ エンリーコ8世:ルカ・ピサローニ リッカルド・パーシー卿:シャルヴァ・ムケリア ロシュフォール卿:ダン・ポール・ドゥミレスク スメトン:エリザベス・クールマン ハーヴェイ:カルロス・オスナ ウィーン国立歌劇場管弦楽団/合唱団/舞台上オーケストラ 指揮:エヴェリーノ・ピド 演出:エリック・ジェノヴェーゼ ええ、世間的には、「ウィーン国立歌劇場日本公演」って言うんでしょうけどね。でも実体はこういうこと。 グルベローヴァを初めて生で聞いたのは、20年前、チューリッヒとミュンヘンでコンスタンツェとルチアを歌うのを卒業旅行で聞きに行った時。もう既にその時点でグルベローヴァの盛りは過ぎたと言われていましたが(盛りだったと言われたのは1988〜90年頃らしいです。当時はそんな風に言われていた)、まぁもうその時点でもとんでもなかった。これしかあり得ない、という歌唱だった。それからも何度も、或いは日本で、或いは海外で、いろんなものを聞かせて貰いました。 今回の来日が最後というグルベローヴァだけれど、正直、去年のロベルト・デヴリューと、その後のリサイタルを聞いた時点では、今後は舞台ではなくて、リサイタルで、リートなんかを主体にやって行ってくれれば、と思っていただけに、今回のアンナ・ボレーナと、これが最後という話は、残念だけれど納得の行く話でもありました。 それほどに、去年のロベルト・デヴリューに限らず、ここ数年のグルベローヴァの衰えは隠せなかった。去年のリサイタルでのルチアは、それはもう奇跡と言いたくなるくらいに見事だったのだけれど、本当に、針に糸を通すが如きギリギリの所で成立させた絶唱だったと思います。 否、むしろ、既に還暦を過ぎた身で、オペラの舞台で主役を張れる事自体がとんでもないこと。 しかも、グルベローヴァが舞台で歌う時は、いつもベストであれかしという主義であり、それは今でも変わらないし、それ故に、確かにトップクラスの歌唱であったのは間違い無い。 けれど、かつて空前絶後としか言い様が無かったグルベローヴァの歌唱は、いつしか「未だ追随する者無し」となり、「トップレベル」になってきた。そのように衰えて来たのも確か。 アンナ・ボレーナは結構主役出ずっぱりのオペラではあるけれど、今回もそれを十分な程に見事な歌唱で聞かせてくれたのは確かだった。けれど、例えば低域に於いては喉で詰まったように感じさせる声になってしまったのは事実であるし、高音に於いては嘗てのような輝かしい響きと張りを伴った声、とは言えなくなっていた。それでも尚なかなか並ぶ者の無い見事なものではあるけれど、例えば、最後幕切れでの高音でのかすかな音程の揺らぎ。そうしたものは、決して嘗てのグルベローヴァには無かったものだった。 けれど、そうした事以上に、中声域での、言わばベースになるべき歌唱自体に揺らぎが現れるようになってしまった。グルベローヴァの歌唱が、多少高音域での技術が衰えても、下の方を出すのが苦しくても、「女王」であり得たのは、結局、基礎としての歌唱の安定性が盤石であったから。だからこそ、グルベローヴァの歌はいつでも聞くべきものだったし、高い芸術性と高度な技術というエンターテイメント性を兼ね備えて来た。その基盤ともいうべき処に、とうとう揺らぎが見えるようになってしまった。 嘗て、グルベローヴァがリサイタルで、或いはオペラの舞台で、(どれであれ)狂乱の場を歌う時、満場が静まり返ったものでした。物音一つ立てるのも憚られる。いや、それ以上に、異様な緊張感に満ちた空気で満ちていた。それは、音楽を聞くという期待感以上に、グルベローヴァの歌唱が、音楽が、さながら真剣で仕合っているような、グルベローヴァとお客の一人一人が対峙しているような、まるで気を抜けば斬られるのではないか、少し大袈裟だけれどそのくらいのものを感じさせる緊張感だった。 それは確かに、狂乱の場で、音楽を存分に使って聴衆をそういう所へと引き込んで行く、そういう技ではあったけれど、そこに至っての緊張感がやはり半端なものではない。そういうものを聞かせていたし、お客の側もそれを感じていた。 今日の公演でも、確かに緊張感に満ちた瞬間はあったけれど、確かに引き込まれはしたけれど、あれほどの緊張感ではなかった。お客の集中力はそこまでではなかった。それは、聴衆の側の感受性の問題が皆無と断定はしないけれど、やはりそれ以上に、そこまで引き摺り込む程の力が足りなかったように思うのだ。 なるほど確かに女王の最後であるか、と。 無論、そんなことは前から分かっていた事ではあるのだ。しかも、それでも尚、嘗て空前絶後の歌唱で聴衆を熱狂させた、その残照と云えども、それはそれでそうそう聞けるものではない。だから、決して失望はしていないのだけれど。 歌手にせよ何にせよ、惜しまれて退く人も居れば、最後までボロボロになるまで第一線に立って遂に仆れる、そういう人も居る。グルベローヴァの場合、衆目の一致する所、惜しまれて退く方の人なのでしょう。けれど、「グルベローヴァ」という空前絶後の歌手として言えば、むしろ後者であるように感じるのです。個人的には。 第一幕から、盛んにブラヴァーが掛かっていたけれど、結局最後まで自分としては掛ける気にならなかったのは、結局、「グルベローヴァ」として、嘗て多くの舞台で、私を魅了し、否圧倒して来た、そのグルベローヴァに掛けて来たブラヴァーを、今日の歌唱に掛ける気はどうしても起きなかったから。過去の栄光にブラヴァーをするよりは、今日のこの歌唱に、ただ、温かい拍手を送るに止めたかった。 ま、多分、あまりにセンチメンタルなんでしょうけどね。 終演後、楽屋裏に向けて長蛇の列が出来ていたけれど、無論並ぶ気は起きなかった。今まで、グルベローヴァのサインを貰ったりした事は無かったし、自分としては結局無くて構わないと思う。舞台と客席の間で存分に「仕合って来た」のだから、別にサインを貰ったり、言葉を交わしたり、何か近しいものであるかのように感じる演出を必要としたことは無かったのだし。 実はもう一回聞く予定はあるし、本当は三回とも聞けるものなら聞きたいと思っている。グルベローヴァは今年で引退という訳ではないので、海外で、また何処かで聞く機会が無いとも限らない。というかどっかでもっかい聞きたい。 けれど、今日の歌唱を聞いて、何か区切りが付いたように感じているのも事実ではある。 さよなら、神様。 ソニア・ガナッシが、後半意外に良くなって来て、なかなかにいい歌を聞かせてくれました。オケも合唱も、相変わらず安心して聞ける水準をキープ。あとは、まぁ、いいや。
2012年10月27日
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NHKホール 15:00〜 3階右隅 ワーグナー(マゼール編):言葉の無い「指環」 NHK交響楽団 指揮:ロリン・マゼール Aプロのロシアシリーズを聞きに行くのを忘れていて、結局マゼールはこれっきり。行ってみたら、3階席は久々のほぼ満員御礼。まぁ、そうなるよなぁ... 演目的には、イロモノです。ある意味。 ワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲から編曲した管弦楽曲。基本、声の入らない所を繋いで、仕方ない重要な部分は声が入ってる所も楽器で置き換えて、ということなのだけれど、思うに、半分以上は声入ってませんでしたっけ、みたいな.... ワルキューレの騎行も、「ワルキューレ」の最後も、一番最後のブリュンヒルデの自己犠牲も、声楽が........(ごにょごにょ) ま、それはともかく、そんな形で作られた切れ目無しの一曲もの、実際には80分くらいの演奏でしたでしょうか。 演奏は良かった。マゼールの指揮は粘り腰とでも言いたいようなもので、これは確かに良い。思わず全曲が聞きたくなる。 そう、趣旨からして仕方ないんですが、これ聞いてると、この人の指揮で全曲聞きたいなー、とつい思ってしまう。そういう意味で、人を誘うが如き、という意味での良さと同時に、これだけだと満足出来なくなる中途半端さが同居するという.... 面白かったですけどね。でも、これだけ聞いてると、思わず全曲版が聞きたくなる。でも、全曲聞くと疲れるから、実際には結局聞かないんだけど(苦笑) マゼールは、前には何処で何聞いたかなぁ。多分、初めてではなかったとは思うんだけど。元々自分で編曲したのだから、というのもあるにせよ、ツボを押えた、ここはこう来て欲しいと言うように来る、そんな演奏。安心して聞いていられる感じですかね。 そうそう、打楽器群が大忙しで中々面白う御座いました。鉄床、大鎚、ドラ....ティンパニ以外に3人が大童の忙しさ(笑)そうだよなぁ、普通に公演してるなら、そこまで忙しくはないしねぇ。
2012年10月20日
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白寿ホール 14:00〜 フォーレ:水のほとりで / 月の光 / ゆりかご / 夢のあとに メンデルスゾーン:夜の歌 / 新たなる愛 / 眠れぬ瞳に宿る光 / 魔女の歌、もう一つの五月の歌 ショーソン:過ぎ去りし愛 / 魅惑と魔法の森で / 時間 リヒャルト・シュトラウス:あした / ひめごと / 夜 / セレナーデ ヴァンサン・ブーショ:絞首台の歌 プーランク:モンパルナス / ハイドパーク / C.セーの橋 / 華やかな宴 ブリテン:柳の園 / なぐさめる人もなく / 彷徨いつつ思う <アンコール> プーランク:パリへの旅 / ハートのクィーン リヒャルト・シュトラウス:蔦 ソプラノ:サンドリーヌ・ピオー ピアノ:スーザン・マノフ もう1ヶ月前の公演ですが、なんやかやで書きそびれていたので。 サンドリーヌ・ピオーはバロックオペラなんかを得意とする人で、ところがプログラムは20世紀もの中心。「?」と思いつつ、最近のリサイタルものでは何処か惹かれるものありという風情なので、押えておりました。 これは大当たり。 歌好きにはちょっと堪えられない感じの極上のリサイタル。 「バロックの人」というイメージから、比較的線の細い系統の歌を想定していたのですが、とんでもない。むしろ骨太の歌声。オペラ歌手で言う処の「ドランマティコ」とは違います。芯のある、肉厚の声、と言った方が近いか。けれど、しなやか。 正直、こういうプログラムの歌は、決してよく聞いている訳ではないし、フランス語あたりはもうさっぱりですが、それでも、聞いていれば、言葉を大事に歌っているのだな、というのはよく分かる。言葉がはっきりしているし、その言葉が載せられて行く旋律との溶け具合もとても良い。そう、歌っていうのは、こういうもんですよね、本来は。 これだけ幅広いプログラムも珍しいけれど、実際に聞いてみると思いの外バランスのよい内容。その中でも特筆すべきがブリテン。最初の「柳の園」の情感深い歌唱、そして、「彷徨いつつ思う」での、ホールの響きを使いこなしたちょっとあり得ないような、まぁ、これも歌なんだけれど。 今年のコンサートの中で、5指に入るかな、という感じのいいコンサートでした。 プログラムの広告で、ピオーを「鈴をころがすような声」と書いているのだけれど、いや、そういう感じじゃないと思いますよ。とてもしっかりした、地に足の着いた声、って感じでしょうか。歌ってのは作るもんじゃないねぇ、などと埒も無い事を思ったり。
2012年10月18日
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新国立劇場 14:00〜 3階正面 ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」 ピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン エレン・オーフォード:スーザン・グリットン バルストロード船長:ジョナサン・サマーズ アーンティ:キャサリン・ウィン=ロジャース ボーア亭の娘:鵜木絵里、平井香織 ボウルズ:高橋淳 スワロー:久保和範 セドリー夫人:加納悦子 アダムス牧師:望月哲也 ネッド・キーン:吉川健一 ホブソン:大澤建 ジョン(子役):高橋洸翔 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:リチャード・アームストロング 演出:ウィリー・デッカー 先週月曜日に観て以来の2回目。 その後、色々ネットでも眺めていましたが、やっぱり「私のこと」として受け止める方は決して多数派ではないのでしょうかね..... 所詮素人の戯言なれば、自身の思う所と対決するくらいのことはしてみてもいいんじゃないかと思うのだけれど。 こんな言い方をするのは失礼だけれど、ひょっとして、今の人達は、強烈な刺激とかに対する耐性は出来ているのだけれど、一方で、共感力とかいったものが低下しているのではないでしょうか。鑑賞する力はあっても、そこに提示されたものに対する共感を持つことが出来なくなっているのでは。 例えば、昔に比べると、「感動した」という言い方を目にすることが増えている気はするのだけれど、実の所、「感動した」と言ってそこで止まってしまうのではないかしらん。結果、どんなものでも消費されて終わってしまう。まぁ、その方が、突き付けられたものについて考え込んでしまうよりは楽ですしね。 といって、この話を突き付けられて、どうしたものか、といえば、どうしようもないのではあるのだけれど。ただ、孤立することを傲慢と呼ぶならば、孤立させることもまた傲慢であり、罪である、ということは抱いて生きていくべきではあると思います。少なくとも、そのような思いは忘れてはいけない。特に、この国にあっては。勿論、そんな風に思いながら、うっかりと日々過ごしてしまうのだとは思います。でも、この醜悪さを知っているということは、いつか何処かで私に返って来る筈だと思うのです。 前回も書いたけれど、この公演は、広く世に問われて然るべきものだと思います。この舞台を観た所で、何か具体的な問題が解決出来る訳ではない。ただ、この醜悪さに直面すること、それが醜悪なのだと知る事が最も大事な事だと思うのです。 音楽、演出共、まるで傷が無いという訳ではないと思うんですけどね。 でも、総じて言えば、かなりレベルの高い公演であったと言っていいと思います。 歌手に関して言えば、来日組は皆強力。特に外題役のスケルトンは前回も今回も、最後まで力行に次ぐ力行で圧倒的な存在感を見せつけていました。それに対峙するエレン役のグリットンも見事。そして、来日組の4人は皆英語圏出身ということもあって、発音がとてもクリア。英語で歌うのは結構難しいというのが一般的な認識ではないかと思うのですが、ブリテンがそのように書いているにせよ、とても分かりやすい。 残念ながら、日本人組は、やはりこの発音の面では「何歌ってるか分からない」というのが見られて、その辺は少々残念。ただ、「何歌っているか分かってない」という訳ではなさそうで、その辺は日頃の公演に比べるとレベルが上ではなかったかなと。加えて、歌唱的にも、まずまずではなかったかなと。特に声量面では。 合唱団は、ちょっと厳しい言い方をしてしまうと、演出というか演技的には自発的な動きが無かったかなと。ただ、元々この演出では、集団で動かすウェイトが大きい上に、集団としての村人という位置付けが大きいので、その点ではむしろよく出来ていたなと。歌に関しては、2幕最後の「ピーター・グライムズ!」の叫び、これが全てであったのではないかと。これをああまで禍々しく響かせる事が出来ただけでも十分です。 オーケストラは、たまに金管がすべってないか?という所はあったものの、いい演奏でした。相変わらずこういう近現代ものをやらせると上手いという...(苦笑) まぁ、そうした「高性能」な面が今回は遺憾無く発揮されたということではないかなと。 敢えて言えば、もうちょっと美しくやってもらいたい、という見方もあるかも知れません。ブリテンの音楽には響きの美しさ、という魅力もあるのだし。ただ、この舞台にはむしろ突き刺すような響きが時折飛んで来る、今回のような演奏がやはり合っている。この辺は、指揮者の功績でありましょう。 それと、最後に、この公演をセットした芸術監督・尾高忠明の見識を称揚して然るべきと思います。やはり、この人なしにこの公演はなかったろうと思うので。
2012年10月14日
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すみだトリフォニー 15:00〜 3階正面 ヴェルディ:レクイエム ソプラノ:宮平真希子 アルト:小川明子 テノール:吉田浩之 バリトン:福島明也 栗友会合唱団 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:上岡敏之 http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/20090428/ http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200806090000/ http://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200612270000/ いやーなんつーか、帰って来てから自分の過去ログを検索してみたら、こんなん出て来ました。本質的な所の評価は変わってねーんだろーなー自分、と思いつつ。 ええ、評価は変わりません。むしろネガティヴな方向で確定する勢いで。 正直、そんなに毎々聞いてる訳ではないし、忘れてる、というところはありますが、多少は変わるだろうし、何度も来てるんだから良くはなってるだろう、とどっかで思ったか、どうか。 はっきり言いますが、この人、要らない。もう聞きに行かないリスト入りです。多分これまでの認識はそこまででは無かったと思うんですけどね。 ヴェルディのレクイエムは、まぁ、好きな方の曲には入ると思います。曲もよく知っているつもり。 で、この人の指揮による演奏自体は、それぞれを取ってみれば、それほど悪くないと思います。歌唱陣は、失礼ながら元々それほど期待する面子ではないので、そのレベルとしては十分なパフォーマンスだった。つまり、独唱で瞠目し、感動するというほどではなかったけれど、だからといって音楽を損ねるようなことも無く、きちんと歌っていました、と言っていいレベルだと思う。合唱も、いつもの栗友会ながら、今日の合唱は、発音は怪しかったけれど、これがどういう音楽で、今歌っているものがなんであるかをそれなりに意識する姿勢はあったと思う。少なくとも、ドイツ・レクイエムで聞かされたようなレベルではなかった。 オーケストラは、問題は少なくなかったとは思うけれど、きちんと演奏出来ていたし、デュナミークも幅広く取る、指揮者の要求にはきちんと応えてはいた。 だから、普通に行けば、これは「普通にいい演奏」の筈だったと思うのです。 でも、指揮者が、根本的な所で間違っていたのではないかと思うのです。 今更ながら思い返すに、上岡敏之という人は、いろんな細かい芸を弄して「表現」を工夫する人、のようです。いろんなところで、「普通とは違う演奏」というものを良きに付け悪しきに付け言及されている。そういう人なのだ、というのは分かった。 問題は、この人のやっていることが、端的に言えば非音楽的というか、何をしたいのかまるで伝わって来ない、という所にあると思います。 いや、お前に理解力が無いからだ、という批判はあると思います。そうかも知れない。だけれども、やっぱりちょっとおかしいと思うのです。 細かい所での突っ込み所はいろいろあります。たとえば、怒りの日での、舞台裏、或いは時には場内各所で奏される金管。これを舞台裏で鳴らすのだけれど、これが3階席あたりではとても遠く聞こえる。でも、それにはそれなりの考え、狙いがあるのでしょう。デュナミークの取り方、間の取り方、オケへの指示、色々考えがあるのでしょう。 でも、段々曲が進むにつれ、全く共感していない自分が居るのですね。共感どころか、しらけていると言っていい。指揮台でクネクネとああでもないこうでもないと指示を出しまくりながら棒を振ってる指揮者を見て、思うことはただ一つ。「だから、お前は何が言いたいんだ?」 音楽としてのパーツ一つ一つは多分良く出来ているのです。その意味では熱演と言ってもいい。だけれども、それを統合する音楽的な指針が見えない。だから、例えば、今演奏されたオケのフレーズが幾ら良くても、訳の分からない間でぶった切られてしまう。音楽が繋がって流れない。一方で、訳の分からない形で間を取らずに音楽が続くので、今のフレーズが生きない、というような部分が出る。フレーズのおかしさを「弁慶がな、ぎなたを....」式に説明するとするなら、これをフレーズ内ではなく、もっと広いレベルでやってしまっている感じ。 普通、幾らその辺が混乱しても、指揮を見ていれば、大体「ああ、こうしたいんだろうな」というのが分かるのですが、この人は細々としたことをくどくどと指示する割に、流れをきちんと表現出来ていないから、物凄くこせこせした音楽にしか「見え」ない。挙げ句の果てに大詰めに向かってはぐるぐると指揮棒を振り回すに至っては失笑しかねない。だって、幾らそこでオケを煽り立ててみたところで、そもそも音楽としての統合が無いのに、そのアオリに何の意味があるの? 日本のオケは性能がいいので、細々とした指示を蘊蓄と共に教え込めば、それなりにこなします。でも、日本のオケに欠けているのは、音楽としての構成を放っておいても勝手に組み立てるような意味での刷り込み済の方向性。そのへんのセンスが無いから音出してる方は何やら新しいことをやったりして、それなりに何となく上手くやってる気になるのかも知れません。 でも、音楽というのは、ある種の構成、語法を前提に置いて作られているものだから、それをある程度意識して組み立てるか、さもなければそれを崩す代わりに、どう作るかを見せなければ、音楽にはならない。それを放っておいてもある程度様になるのが、海外のオケ。日本のオケはその辺が弱い。 演奏終了後(まるでぶった切ったような「あ?終わった?」という感じの終わり)、何時迄経っても誰も拍手しないので、30秒ほども指揮棒を置かずに拍手も起きず、でしたが、もう笑うしかない。指揮棒を置くまでは音楽が続いているとするなら、一体今の演奏にこの取って付けたような静寂をくっつけて何が言いたいの? これほどまでに、出て来た音(としか言い様がないのでそういう言い方になるのだけれど)と全体としての音楽との間にギャップがあるケースも珍しい。 なんで未だにこの人使ってるのかよく分かりませんが、はっきり言って、この人、新日には要らない。こんな人使っても、いい音楽は出来ないし、ましてやオーケストラの力量向上なんて出来ない。 いや、そこまで悪い指揮者とは思ってなかったんですけどね。でも、あれだけの演奏を各パーツでやらせながら、結局何がしたいのかさっぱり分からないというのも珍しい。昔々チェリビダッケがやっかみ半分(というけど個人的にはやっかみしかないだろ、と思うのだけど)にカラヤンの音楽を「コカコーラみたいで中身がない」と言ったらしいけれど、むしろこういう人にこそその言葉は相応しいのではないかと。 今回たまたま、ということもあるかも知れないけれど、過去の印象といい、そもそも今回のヴェルディのレクイエムのような、普通にきちんとやればそれだけで十分いい音楽になりそうなものがこうなってしまうのでは....
2012年10月13日
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フィリアホール 19:00〜 2階右側 (J.S.バッハ:ソナタ ト短調 BWV.1020) (シューマン(キルヒナー編):6つのカノン風小品) ホリガー:ロマンセンドレス ブリテン:オヴィディウスによる6つの変容 シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第1番op.105(Vc&p編) ベートーヴェン:ピアノ3重奏曲変ロ長調op.11「街の歌」 <アンコール> ツェルハ:ミニポプリ シューマン:Abendlied オーボエ/オーボエ・ダモーレ:ハインツ・ホリガー チェロ:アニタ・ルージンガー ピアノ:アントン・ケルニャック 平日は聞けない可能性が高いので、避けるか、行けなくてもしょうがない覚悟を以て買っている訳です。とはいえ持っていれば行きたくなるのは当たり前。それでやっと駆け付けて、間に合ったのは2曲目の途中。3曲目は....ホリガー吹いてないし(苦笑) ホリガー作曲の現代曲は....まぁ、宜しいんじゃないでしょうか。 チェロとピアノのお二人は、どちらも1982年生まれだそうで、まぁ、若いから元気はあるけど、かな。腕は確かなんでしょうけれど。 という訳で、後半に入ってやっとホリガーがオーボエを吹くのを聞けたのでしたが......いやー、やはり凄いですねこの人。吹いてるのは紛れもなくオーボエなんだけど、こんなに安定して聞こえるとなんだか学校の授業で使うリコーダー並に簡単に音が出てる気がして来るという、なんというばちあたり....(苦笑) ブリテンの「オヴィディウスによる6つの変容」が一番の聞き物だったかなと。ただ、オーボエって、音色に特徴があるので、その分聞き続けていると、ちょっと耳に慣れてしまうという面が無きにしも非ずという気が.... 曲想自体は面白いし、表情も豊かだし、ホリガーの妙技は堪能したんですけどね。 とはいうものの、やはりこれは駆け付けて大正解でした。 本当は、バロック物とか、もっと聞けたら良かったな、とは思いますが、まぁ今日は「ホリガーを聞く会」といったところでしょうし、そういう意味では大満足でした。 アンコールは2曲ありましたが、如何にもアンコールピース的なツェルハの「ミニポプリ」よりは、シューマンのAbendliedの編曲ものが、やはりオーボエ・チェロ・ピアノという組み合わせには合っていたかと思います。
2012年10月12日
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実は今年度の川崎定期(と言いつつみなとみらいで公演)を持っているのですが、早々に来年度の継続案内が来ました。 予定ではホールがミューザ川崎に戻るので、継続は無いと思っていたら、向こうから座席をアサインしてきました。そこを確保しつつ他を当たっても良いとのこと。 うーーーーーん。 公演内容がなぁ......初回のモーツァルトのミサとレクイエムはいいんだけど、後がなぁ...........わざわざ買って聞きたいか、と言われると.......... そんなに一生懸命行く気がしないよなぁ............ まぁ、ちょっと考える間があるから、考えよう.....
2012年10月11日
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新国立劇場 14:00〜 3階正面 ブリテン:ピーター・グライムズ キャスト:略(気が向けば次回) この10年間に日本で行われたオペラの公演で、私が知る限り、他の公演から全く隔絶した意味を持つと言い得ると個人的に思っている公演が3つあります。 2004年の宮本亜門演出の二期会の「ドン・ジョヴァンニ」。2005年の新国立劇場の「ルル」。そして、今回の「ピーター・グライムズ」。 この3つの公演に共通しているのは、オペラという、ある意味時代遅れのフォーマットが、表現形式としての力を持ち得るという可能性を垣間見せてくれたということ。 「ドン・ジョヴァンニ」に於いては、当時リアルタイムであった「対テロ戦争」の少なくとも一面を我々に突き付け、「ルル」に於いては所謂男性優位主義というものが何重にも渉って折り重なっているという社会の現実を我々に突き付けました。そして今回の「ピーター・グライムズ」に於いては、観た者にとっては本来自明の筈だと思うのですが、いじめという現象の実相を突き付けた。そしてまた、この公演も、実に上品に華麗にスルーされようとしている。無論、敢えて声を上げないという人達も多いのかも知れないけれど、例えばネット上に散見される「感想」「批評」の類いの多くが、「内容」についてはほぼスルーしてしまっている、この点をまずもって指摘したいと思うのです。 そもそも、ピーター・グライムズというオペラが、「集団によって強いられる死」を主題としている事は、普通に纏められた粗筋を読めばすぐ分かる事です。しかし、それにしても、今回のヴィリー・デッカーの演出は、何の捻りも無くその点をはっきりと描き出していた。 勿論、ピーター・グライムズは、決して罪無き「無実の人」ではありますまい。ただ、劇中で数少ないピーターの「理解者」であるエレンが語る通り「罪無き者のみが石持て打つ」ならば、ピーターは追い詰められる事は無い。村人の多くが(そして恐らくは誰もが)某か罪を抱えている。公平さを欠く判事にして検死官にして村長、酒に溺れ、淫らな欲望を抑えられない牧師、阿片に溺れる老婦人。彼等がピーター・グライムズを断罪するのは、実に、彼が「事故により」少年を死なせ、今またもう一人を死なせた疑いがあるから、ではない。(一部で「ブリテンがそうであったように、同性愛(しかもピーターの場合は少年愛)であるが故に迫害されていると見た」という声がありましたが、そういう要素もあるかも知れないけれど)3幕で村人の合唱が叫ぶ通り、ピーター・グライムズは「他から孤立する故に傲慢になる」、その「傲慢」の罪故に断罪されるのです。 だけれども、この「他から孤立する故に傲慢になる」というのは、「あいつスカしやがって」というのと、何が違うのか。そもそも、十字架を戴いて「あいつは傲慢だ!」と断罪する彼等は傲慢ではないのか?神の御前に於いて傲慢は確かに罪ではあるけれど、まずもってその傲慢とは神に対するもの故に罪なのであって、人が人を傲慢であると断罪するものではないのではないか? 確かにピーター・グライムズは、村人の偏見を抜きにしても傲慢ではある。そのような人物造形ではある。否、むしろ、ピーター・グライムズという人物像は、本能的に感情移入するのを躊躇われるような人物ではある。というよりは、恐らくは他の村人と大差無いのです。金を稼ぎ、成功者となり、自分の店を持ち、家庭を築く。そうすることで「見返してやる」というのがピーターの望み。しかし、その一方で、彼は徒弟を実際に乱暴に扱い、言わば虐待する。これは実の所村人達の相似形に過ぎない。村人達がピーターを嬲り物にしようとするのと同様に、ピーターもまた自分より弱い者を支配しようとする。 この構図は、決して単純なものではありません。夜になればパブで戯れる相手の女達が、村人達と一緒にピーターを迫害に行こうとするのを、その顧客たる男がお前達のような下層民は来るな!と拒絶する。このむき出しの差別意識! 実は、プロローグの検死審問で、ピーターは自分を「裁判にかけろ!」と主張します。恐らく、この場合、裁判は正式に行われるので、村の判事であるスワローの手には負えなくなり、共同体の外からの公権力の介入が為される筈です。だが、スワローはそれを拒絶し、事故死であるとしながら、何故か、何の権限によるものか、ピーター・グライムズに対し徒弟を雇わぬよう「勧告」する。共同体の悪意は、この時点で既に発動しているのは、今回の演出の意図通りでもあると思います。 その結果、ピーターは共同体の中で足場を確保する事が出来ず、ひたすらに孤立させられる。 最後の最後、ピーターが海に沈んだと思しき後の場面で、村人達の象徴的な態度に、最後までピーターの「味方」だった筈のバルストロードとエレンは、ついに、彼等に同調します。この瞬間、恐らくはピーター・グライムズという存在は完全に葬られた事になる。デッカーは、プログラムの中で、エレンが次の犠牲者になる事を示唆している云々と言っていますが、むしろ我々にとっては見慣れた光景ではないかと思うのですが。 何故それを言わない? ピーター・グライムズは私であり、村人は私である、というのが、実にこの日本という社会にあっての現実ではないかと思うのですが、そうではないの? 別に今いじめが蔓延しているからという訳でなく、この舞台は、我々の眼前に、この構図が特殊なものではなく、それ故に今もあちこちで繰り返されている悲劇、というよりむしろ犯罪ではないのか、と迫って来る、そういうような思いを抱きはしないのだろうか?そんな風に思うのは私だけなのだろうか? せめても、無自覚に他人事であってもいいから、これはまさに(私以外の)我々の縮図だ、くらいの横着な事は言ってみてもよさそうなものなのに。 冒頭挙げた「ドン・ジョヴァンニ」「ルル」と共通するのは、舞台上に展開された事物が、実に、「私のもの」「私のこと」「私の問題」として迫って来る、という点で、表現形式として生きたもの、力のあるものとして存在し得た、ということだと思います。言い換えれば、こういうものを前にして、やれ音楽がどうのこうのとかいうのは二次的な話に過ぎない。何故なら、もうこれは抽象的な、私から見て客体に過ぎない「もの」ではないからだと思うのです。真に勝れた表現、それも某かの「伝えるべき内容」を持つものに対して、我々はまずその表現の出来不出来、良し悪しを問う前に、自らがその表現から伝えられた「内容」に対峙し、語らなければならないと思うのです。それが本来「表現」が持っている力であった筈なのです。 クラシック音楽にしても、その他の表現形式にしても、古典作品というものは、元々何かを伝える為にあるとは限らないし、仮にそうだとしても、ある程度客体化されてしまうという面はあると思います。だから、それらを客体化して、内容に踏み込まずに語ると言うのは決して間違いではない。でも、本来、表現というものは、何かを伝える、伝わってしまう、という側面はあるし、オペラのようにもうフォーマットとしては死に瀕している、或いはとっくに死んでいる表現形式であっても、伝わるものがあるならばそれを受け止める力が本来受け手にはあって然るべきなのだけれど、この恐ろしいほどの、むしろ気まずいような「沈黙」はなんなのでしょう? 無論、私の知らない所で、盛んに語られ、そのように受け止められているのかも知れないけれど、まぁ精々ネットで検索して読む限りでは、本当に少ないのです。個人的にはがっかりしています。 確かに、ピーターってやな奴ですからね。これ見てると、うっかりすると「村人万歳!」って思う向きもあるやも。でも、きちんと見れば、誰もが弱い者、石持て打つ相手を捜し求めている、という醜悪さを感じることは出来ると思うのです。勿論、集団という名の暴力については言わずもがな。ただ、それを他人事として捉えてしまえばそれまでなのだけれども。 私としては、取り敢えず、是非NHKでゴールデンタイムに放送して欲しいと思います。正味2時間半は掛かるから、年末年始あたりに特番で。是非。尾高忠明あたりに解説してもらって。それだけの価値はあると思います。日本にとっても、新国立劇場にとっても。 音楽がどうとかいう話は、又次回。 #読み返したら一部日本語があまりにもアレだったので、文意を変えない 程度に直させて頂きました。他にもおかしいかも知れんけど、まぁ、いいや。
2012年10月09日
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新国立劇場中劇場 13:00〜 演出:鵜山仁 結論から言うと、面白かったけれど、2度観しようとは思わない、といったところ。 実は私はジョゼフィン・テイの「時の娘」にすっかり毒された英国史ファン。故に、リチャード三世に関しては相当バイアスの掛かった見解は持ってはいます。即ち、シェークスピアのリチャード三世像は相当に歪んだもので、実は名君の素質ありだったのが、後世チューダー朝によって否定されるべき簒奪者とされたのだと。ちなみに、シェークスピアがリチャード三世を書いたのはせいぜい史実の100年ちょっと後、チューダー朝のエリザベス女王の治世下。 今回の新国のリチャード三世は、3年前のヘンリー六世のキャストを引き継いでの、言わば続編とでも言うべきものなのだとか。まぁ、確かにそういう位置付けは間違いではないのでしょう。 ただ、それ故か否か、このリチャード三世は、物凄く軽い。 サイトに演出の鵜山の言葉が出ているのだけれど、帰って来てからこれを読んで、なるほどと思ってしまったのは、どうやら、この演出に於けるリチャード三世は「悪」なのですね。ただただ。 リチャード三世は「悲劇」ということになっています。思うに、この演出に於いては、その悲劇とは「悪」に翻弄される人々の悲劇、なのでしょう。それ故、「心の歪んだ、それ故に誰からも愛されない悪魔のようなリチャード」はただただ悪であり、醜いものとして描かれて終わる。 けれど、「生まれつき醜い心と容姿を持ち、生まれながらに呪われた」リチャード三世こそ、悲劇の主人公ではないかと思うのですが。シェークスピアはあくまで否定されるべき存在としてリチャード三世を造形したのは事実だけれど、それこそがリチャード三世が悲劇の主体たらしめているのではないのか、と。そのようにしか生きられないことこそ悲劇。 リチャードは決して己を憐れまない。己が悲劇の主人公であると主張しない。だからこそ彼は悲劇的なのだと思うのだけれど、この演出での描き方は陳腐を通り越して凡庸。リチャードがあまりに軽い。軽過ぎる。けれど、如何に悪辣に見えようと、彼もまた貴人であり、王である筈。だからこそ、リチャードにシェークスピアはあの台詞、「馬!馬!馬をくれた者には我が王国をくれてやる!」という言葉を与えたのではないのか。悪辣であったとしても、卑怯であったとしても、決して逃げず、運命に立ち向かった者故に。 とか思うんですけどね。全然そういう深みが感じられないのよね、この演出。本がいいから面白いんだけどさ。 役者はよくやっていたと思います。 2幕、マーガレットが、ヨーク公夫人とエリザベスと共に怨嗟の声を競う場面こそ、悲劇を感じさせるということなのかも知れませんが、決してそれが悲劇の悲劇たる所以では無いと思うのですね。ちなみに、正直に白状すると、私はこの場面での口を極めたマーガレットの怨嗟を聞きながら、思わず笑みが漏れてしまうのを抑えていました。それほどに小気味良いセリフ回し。 外題役。もう軽くて軽くて嫌になるほど軽い。勿論役者としては人物造形を練って奥行きを出し、とやっているのだろうけれど、その結果なんて軽いリチャード!その点では役者としてはいいと思うんですが。要するに是皆演出の問題でありまして.... 一方のリッチモンド伯ヘンリーは、まぁ、あれですね。ちょっとした舞台とかでは上手って言われるレベルだとは思いますが、相応の劇を見せて来た各人の後に落下傘的に出て来てしまうと、ちょっとね。 そうそう。言い忘れたのだけど、音楽がちょっとね。 音楽は録音したものを使っただけで、如何なる形にせよ生演奏がついていた訳ではないのだけれど、そこで選ばれているのが、ちょっとね... 音楽の趣味が悪いとは言わない。シューベルトの即興曲、モーツァルトのピアノ・ソナタ、シューマンの子供の情景....割と人口に膾炙している音楽だけに、断片的に使われるにせよ、色がついてしまっていて、「何故にここでこれ?」と考えてしまう五月蝿さがある。 何より、ボズワースの戦の場面で、バグパイプによるAuld Lang Sein (蛍の光)が流れるのには、もう興醒めを通り越して突っ込み所満載さに失笑しそうに。Auld Lang Sein は、「スコットランド民謡」です。イングランドから見て「外国」です。この時代は。明確に。スコットランドのバグパイパーが居る訳も無い。しかもAuld Lang Seinの形になったのは後世であって....しかも終わりには「庭の千草」、原題「夏の名残りの薔薇」が流れるという.....もう、好きにして.....
2012年10月06日
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