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新国立劇場 14:00〜 3階左手 「マクベス」(音楽:ジェラルディン・ミュシャ) マクベス:福岡雄大 マクベス夫人:米沢唯 振付:ウィル・タケット 「真夏の夜の夢」(音楽:F. メンデルスゾーン 編曲:ジョン・ランチベリー) ティターニア:柴山紗帆 オベロン:渡邊峻郁 パック:山田悠貴 振付:フレデリック・アシュトン 東京フィルハーモニー交響楽団 合唱:東京少年少女合唱隊 指揮:マーティン・イェーツ GWに突入です。後半はLFJなので、前半はウロウロと迷走するのです。 暇だなぁと思って週の初めに何があるか見ていたら、新国でバレエの公演がある。見たらまだ結構安いチケットが残っていたので買ってみました。バレエは年末のくるみ割り以来。年に1, 2度は見てる気がします。 今回はシェークスピアものということで、マクベスは委嘱作・世界初演だそうですが、音楽はチェコの作曲家・ミュシャ、というのはこの人結婚相手が画家のアルフォンス・ミュシャの息子だったのでこの名だそうですが出自はスコットランドだそうで、この人が1960年代に書いた音楽を用いたものだそう。一方の真夏の夜の夢は音楽はメンデルスゾーンのを編曲したもので、これも新制作ではあると。各々1時間ほど、通しで休憩入れて2時間半あまりの公演。 まぁバレエはよくわからないのではありますが、取り敢えずマクベスは面白かったような。真夏の夜の夢はもう一つかなと。 まずマクベス。あれはとにかくイベントが多い劇で、なにしろ沢山人が死ぬ凄惨な劇ですので、好みはともかく(いや私個人は嫌いなわけではないですけどね)飽きる暇がない。それをともあれ1時間のバレエに凝縮してしまうのだけれど、その過程で、凄惨な場面を残らず入れ込んでいる格好なので、まぁ、飽きる暇はない。次から次へと凄惨な場面が続くので、それで飽きちゃいそうな気はしますが。よく言えば1時間劇的緊張を保った舞台であります。よく出来ていると言えば出来ている。 音楽的には、正直言うと、申し訳ないけれどちょっと出来の悪い映画音楽的な感じではあります。1960年代の作品とは言え、いわゆる前衛現代音楽ではないし、といって何か大変にキャッチーなものでもないし、と言ったところでしょうか。演奏が凡庸というよりは、音楽が凡庸なので演奏する方もそれ以上やりようがない感じかなぁと。ただ、バレエの音楽としては、まぁ出来は悪くないのでしょう。 肝心の踊りの方は、そもそも新作なのもあって、クラシックバレエのような見せ方ではないけれど、非常に印象的でした。というか、全体におどろおどろしかった中でも、ダンカン王の幽霊が出てくる場面のおっかなさと言ったらもう凄まじく。オペラなんかだと色々照明に仕掛けで演出しますが、バレエで、しかもかなりスピード感のある振付なので、比較的シンプルな装置だけで、踊り手の動きでここまで表現するというのは、なかなか凄いなと思います。もう一つは、マクベス夫人が亡くなって、その死体とマクベスが踊るという場面。死体ですからね。力が入らない態で踊るので、見た目以上に大変なんだと思うのですが、これも見事。 全体としては、そんなわけで、飽きる暇もなく面白い舞台でありました。敢えて難を言えば、既に触れた音楽の問題と、全体に人が死に過ぎかなというのと、そんなところでしょうか。欲を言えば、加えて、終盤の展開がちょっとバランスが悪いかなとも思いますが、まぁ、バレエですし、踊りが良かったので、いいかなと。 真夏の夜の夢は、これはちょっと..... 同じように1時間に凝縮された舞台ではあるのですが、そもそも喜劇というのもありますが、こちらはそれぞれのある意味たわいのないエピソードの積み重ねなので、劇的緊張があまり出ないのですね。結果、次から次へと場面は変わるけれど、それほど印象が強くないというか......その前にマクベス見てますからね。ちょっと霞んでしまうかなとも。面白いといえば面白いのは、バレエ化した結果なのか、主役がどう見てもオベロンとティタニアであること。言われりゃそうなのですが、若い男女四人はあまり主役然としていない。ボトムも同様。舞台的にはロバになるので受けてはいましたけれども、この舞台としてはオベロンとティタニアの話であることは歴然、だったかなと。 音楽はメンデルスゾーンのものを編曲しているのだけれど、どうも今一つ。音楽としては、劇音楽のものを主にしているようなのだけれど、序曲のフレーズが繰り返し出てくる感じなのですね。あの序曲、すらっと演奏される分には悪くない音楽だと思いますが、そう何度も何度も繰り返し出て来られても.....まぁ、はっきり言って、飽きます。加えて、メンデルスゾーンの音楽は元々バレエ用ではないので、踊りにあまり会ってないような気がします。演奏が悪い?いや、あれは、演奏が悪いから音楽が生きない、というよりは、音楽に難があるから演奏の頑張りようがない、の方が近かったんじゃないかなぁと。これはマクベスでも言える気はしますけれども。 踊りとしては、正直、パックが一番よく動いていて良かったかと。言い換えれば、オベロンとティタニアは、主役ではあるけれど、もうちょっと頑張ってもらってもいいんじゃないかなと。 まぁ、全体には、マクベスが印象が強い分、誰が悪いわけでもないけれど、もう一つかな、といったところだったかと。 2演目通しての感想は「まぁ、面白い」というところかなと。悪くないですよ。確かに。音楽的にはもう一つですけれどね。この辺はしょうがないですね。
2023年04月30日
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新国立劇場 14:00〜 4階左側 アイーダ:セレーナ・ファルノッキア ラダメス:ロベルト・アロニカ アムネリス:アイリーン・ロバーツ アモナズロ:須藤慎吾 ランフィス:妻屋秀和 新国立劇場合唱団 東京シティ・バレエ団 ティアラこうとうジュニアバレエ団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:カルロ・リッツィ 演出:フランコ・ゼッフィレッリ 再演演出:粟国淳 新国立劇場のオペラ公演は、開場時は確か「ヤマトタケル」か何かだった筈。その次がローエングリンで、目玉として押し出したのがこのゼッフィレッリ演出のアイーダだったと記憶しています。最初の柿落としとローエングリンはもうどっかに行ってしまって、このアイーダだけが目玉として残っている形でしょうか。今回で6回目らしいです。1998年、2003年、2008年、2013年、2018年、今年2023年と、見事に5年おきにやっているようで。2008年と2013年はここでもブログで書いているようで、多分実際は毎回観てるんじゃないかと思います。なんだかんだ文句言いながら。まぁ、2018年はどうだったか、うっかりすると見てないかもですが。文句言いながら観に行ってしまうのは、で、いろいろ言いながら結局それほど悪く言わないのは、きっと、結局ゼッフィレッリの演出が豪華だから。で、これまでを見ても、それほど悪くはない配役だったように思いますし。 今回はどうだったか?いろいろと言いたいことがあります。先に公演の全体の出来を言ってしまえば、まぁ、悪くないと評価するべきなんでしょう。いろいろ言いたいことはある。あるけれど、結局、今となってはゼッフィレッリの演出がやはり強いのですよね。ただ、まぁ...... まず演出からいきましょうか。再演も回を重ねていることもあり、知ってはいるけれど、それにしてもやはり見れば見たで、面白い。今時舞台上に馬を出すなんてあまりないですからね。日本のみならず、欧州とかでも、あまり見たことないです。ヴェローナで、カルメンだったかで馬出したの見た気はするけれど、ありゃ野外ですからね。屋内劇場で、2頭、しかも1頭は駆け抜けていくという......あ、いや、別にそんなに馬好きというわけではないんですけれどもね。 敢えて出来栄えで指摘するとするなら、細部の問題でしょうか。今回の再演演出は自身演出家として舞台を作っている粟国淳ですが、正直言って、細部に綻びがあるように思いました。 ゼッフィレッリの演出は、率直に言ってやはり前世紀の演出です。良くも悪くも。豪華絢爛な舞台は今時ではなかなか観ることが出来ない類のもので、そういう意味ではスカラ座やウィーンの国立歌劇場でもなかなかこういう演出はもう出てこないんじゃないかという気がします。メトですらどうか。で、大事なのは、ゼッフィレッリは、しかし、決してただ豪華絢爛に作っているのではなくて、それには何某かの意味があるのだと思うのです。 多分前回か前々回の再演の時だと思うのですが、たまたまNHKのニュースでこの演出を取り上げているのを見たことがあって、そこで話題になっていたのは、1幕2場の祭壇を御開帳すると出てくる像が金で出来ているという話。それについてゼッフィレッリは「本物を使うことが大事なんだ、本物だからこそ観る人に対して説得力を発揮するんだ」みたいなことを言っていた覚えがあります。 ゼッフィレッリが凱旋の場で本物の馬を入れたのも、同じような考えなのだと思います。とはいえ、オペラという舞台芸術、つまり舞台上に現実に存在するけれどそれ自体は作り物、という場に、そういうものを持ち込むというのは、恐らくは単に豪華に見せようという以上の、現実ではないけれども実際に凱旋式の場なりに立ち会っているのだと観客を引き込んでやろう、という企みなのだと思うのです。 ゼッフィレッリの演出で個人的に忘れ難いのは、ウィーンで長いこと上演されていた「ボエーム」の舞台です。2幕、カルチェラタンの場。ゼッフィレッリはウィーン国立歌劇場の舞台上に、二段構えの街を作って、そこを人で溢れさせた。人が絶えず行き来するので、ムゼッタが現れる頃、つまり2幕の中盤には、もう観客はそこはそういうものだと思ってしまう。そして、そのあたりで一旦やや少なめになった人混みは、ムゼッタが歌ううちに「なんだなんだ」とでもいう感じで人が増えていく。最後は冒頭と同様に人が溢れかえる中ムゼッタを先頭に皆凱旋というか、逃げ出していく。 似たようなことは新国でも、藤原でもやります。でも、そこまで徹底して「そこがカルチェラタンである」と思わせようとまではしない。ゼッフィレッリはそこまでやる。そこまでやるから、休憩が入ってもお客はそこがパリであるとすんなり騙されてくれる。だから、3幕のパリの市門の脇での別れ話も、1幕の舞台に戻っての最終幕の屋根裏部屋も、そこに差す夕陽の中でミミが死んで行くのも、受け入れてくれる。 今回の再演演出で気になったことは幾つかあるのですが、一つは、凱旋の場。明らかに、群衆が相対的に少ないのです。いや、舞台の広さには限度があるので、そんなには人は舞台上には置けません。それはそうだろう。でも、その結果、舞台の橋の方に、空きスペースが出来るのが、まぁ、上の方とか、見えるところからは見えちゃうんですよ。無理を承知で言うならば、そこは、エキストラでいいから、埋めて欲しいと思う。その空間をお客は「あ、これは舞台なんだ」と認識してしまう。それをどうやって感じさせずに騙すか。それがゼッフィレッリの真骨頂だったのではないかと思うのです。 もう一つ。これは、実は演出の問題ではないのだけれども、舞台監督ときちんと話した上で処理すべきなのですが、2幕の1場から2場への転換の際。ゼッフィレッリの演出が大変なので、こうした場面転換でどうしても時間が掛かるのです。それは仕方ない。そこで、少なくともこの日は、1場で歌ったアイーダとアムネリスが、降りてる幕前に出てきて拍手を受けてたのですね。これはやめた方がいい。何故かと言えば、この2幕1場は、アムネリスとアイーダの緊迫した恋の鞘当てというやり取りの場面であり、そこを出て行くと、2場の凱旋の場で、ここでアムネリスは、1場で言い放った通り、自らが王女であって敵国出身の婢女であるアイーダとの格の違いを見せ付けてやろう、という場面なのです。だから、アムネリスとアイーダの間の緊張感は持続していなければドラマとして面白くもなんともない。その幕間で二人並んで拍手なんか受けに出てくるべきではないのです。そう言っちゃぁなんですが、そこまで物凄い歌唱を繰り広げていたわけでもないですし。少なくともテバルディとシミオナートがやり合っていたような物凄さ、みたいなものではないのですよ。そこで緊張感切りに行ってどうすると。 ただ、ですね。そうは言っても、多分、お客の方は、そこまで感じてない気がするのですよね。豪華絢爛な舞台を見て楽しんで終わってる気がするのです。それでいいんですよ?間違いではないですよ?でも、ねぇ。 アイーダの幕切は静かに終わります。それも結構辛辣な絵面です。アイーダとラダメスが地下の墓の中で死に向かわんと静かに歌う。そこに通奏低音のようにアムネリスのラダメスへの鎮魂の祈りが流れる。最後はアムネリスの祈りが繰り返されて静かに終わる。ゼッフィレッリの舞台は両者を舞台の下方と上方で見せる。先に下方の墓の中、先に歌い終わる二人の方から暗くなり、舞台が下がる。アムネリスの祈りが終わる中、徐々に暗くなり、蝋燭の灯りが消えていく。明らかにここまでオペラは続いています。それらが静まり返って、この舞台は完結する。そこでさぁ、音楽が鳴り止むや、拍手しちゃうんですよ。流石に終わるやいなやぶらぼおおおおおお掛ける大馬鹿野郎はいなかったけれどもさ。あ、普通にぶらぼおおおおおおは復活してましたよ。やっぱり、あれ、無い方がいいですね、少なくとも日本では。品がいいもの、その方が。なんで日本だと皆罵声か奇声になるんだろ...... 以前の公演の時に「日本ではオペラは娯楽で、本当なら客席に弁当持ち込んで酒飲みながら見たいんだろう、大相撲の枡席みたいに、という話を書いたのですが、やっぱりそうなんだろうなと思いますです。いや、それはそれでいいんだけれどもさ。 今回改めて思ったのは、このゼッフィレッリの演出、いつまでやるんだろうなと。ゼッフィレッリは2019年に亡くなっていますので、今回はゼッフィレッリ没後初めての再演となりますが、ゼッフィレッリは最近はあまり演出をしていなかったと思うので、今後各地でゼッフィレッリの演出は見られなくなっていくかも知れません。ウィーンのボエームは多分もう50年以上やってる演出だと思います。そして、今では、こういう演出はもう行われなくなっている。お金がないから、というのもありますが、それ以上にこういうスタイルの視覚的現実主義を突き詰めるようなやり方は、なんというか、受け入れられにくくなっているのじゃないかという気がします。時代遅れ、と言っていいのかも知れません。それでも、それが面白い、と、娯楽として見ていくのならばそれでいいのかも知れないですけれどもね。ただ、それは、ゼッフィレッリがプログラムの演出ノートで書いた言葉と合っているのかなぁ。私はどちらかといえば、ゼッフィレッリの側の時代感に引っ張られている人間だと思うので、なんだかなぁ、と思わなくはないのです。 新国立劇場が出来て25年、この25年と一緒に歩んできたゼッフィレッリのアイーダと、新国立劇場の来し方行く末は、どういう関係なのかしらね。 演奏は、まぁ、いいんじゃないでしょうか。別に、それほど素晴らしいという歌唱陣ではない。ただ、私が勉強不足なだけかも知れませんが、正直、今は世界中で歌手のレベルは、少なくともある方向においては昔ほどではないと思うので、新国立劇場だけ悲観してもしょうがないと思います。まぁ、それと、ゼッフィレッリの演出の在り方とは、関係していなくもなかろうとも思うのですが。 その中で言えば、アムネリスは、最終幕はかなり頑張ったのだろうと思いますし。実際最終幕は悪くなかった。アイーダとラダメスは、まぁ、そうねぇ、という感じ。きっと覚えていないでしょう。アモナズロはまぁ頑張ってはいたとは思います。 オケは、金管がねぇ。いい悪いというより、メリハリ考えようよ、と言ったところかなと。どうせ頑張りどころは最高潮にしないとしょうがないのだから....
2023年04月09日
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