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まず、既に松の内も過ぎ、皆さまには、新年のご挨拶もできないまま、時が経ってしまいましたので、まずは、未だ1月ですので、ご挨拶を。新年明けましておめでとうございます。そして、寒中お見舞い申し上げますm(__)mでは、話を戻しましょう。9月22日に会社を閉めてからの話。その後の話は、ここに書ききれないほどの事があった。まず、娘を表に出した。色々ご存知の友人に、「今のうちに、Aちゃんを、安全なところに出しておいた方がいいよ」と助言を頂き、確かに娘であること、これからどんなことが起きるか解らない事を考え、早々に家から出すことにした。身重ではあるが、まだ動けた長女夫妻がその役を買って出てくれ、Aも、超しっかり者の姉夫婦の元、アパート探しをして、会社から5分と言う、新興団地の中、とても良い部屋を見つけ、早速引っ越しをした。この時は、ただただ、債権者からの訪問に備え、あわただしく出したが、今になって、胸が締め付けられる思いだ。10月11月は、ほとんどというくらい、弁護士、会計サポート集団と、「破産手続き」のために時間を費やした。家を取られること、私達がどこかに行かなければならないことが、気持ちで解っていたが、「家が売却されるまで、居ても良いですよ」とのことで、あまり実感が無かったのも正直なところ。ただ、毎週のように、弁護士や、会計士の話で、一喜一憂する日々だったことは間違いない。40年前のように、売却のために他人が、私達が住んでいる中、家をみにくるのかな?裁判所から依頼された人が、電化製品など、来て張り紙されちゃうのかな?・・・・色々な不安に押しつぶされそうだった。幸い、早目の倒産宣言や、会社の閉鎖で、ご迷惑をかけた会社がそうなかったことで、うちに債権者が押し寄せる…と言う最悪のシナリオは、回避出来た。パパや、母には「財産」があったので、破産申請さえ時間がかかったが、私は何も財産がなかったので、あっさり「破産申請」は受理された。それでも、10月から準備して、11月末の申請になった。不思議なのだが、破産申請するのにも、お金がいるのだ。それもかなりの高額。弁護士費用とやらだ。多分夜逃げをする方は、この費用もない方なのだろう。これも幸い、うちが倒産したと知った、昔、お金を貸してあった方が、中国からわざわざ返しに来てくださったので、支払う事が出来た。金額は60万だ。倒産して破産したものには、かなりの高額だ。その上、法人の破産申請費用は、100万を超える。全くどうなってるんだか解らない。破産すると、クレジットカードが10年近く持てない。ローンも組めないのだ。これには、本当にショックだった。ネットお宅の私は、ほとんどネットで買い物をし、ほとんどの支払いがクレジットだったから、いつものように台湾のお茶がなくなり、買おうとしたが、「クレジット支払いのみ」のサイトだったので、その事の意味に気がつき、愕然とした。…と言う事は、小綜のサイトでの買い物もできなくなったと言う事だし、会員の更新もできなくなったと言う事なのだ。物凄く落ち込んだ。こういう事になっても、やはり、小綜は心の支えだったし、なおさら、元気の素だった。昨年2年契約をしておいたので、暫くは大丈夫なのだが、どうにかしなくちゃならないだろう。そんなこんなで、日々が過ぎて行った。会社を閉めてからのお金、つまり収入は、すべて裁判所の管理下になる。会社役員には、失業保険もおりない。つまり無収入の日々が続くのだ。八方ふさがりとは、このことだった。この際だから・・・と、しなかった障害者年金の申請もしたが、通るかどうかはまだ皆目見当もつかない。出来ることは、全部やった。そして、後は、この家を出て行くだけになった。実は、本来は、裁判所が申請を受理し、債権者集会が開かれるまでは、引っ越しは許されない。だが、裁判所が選任した弁護士さんが良い方で「一日も早く、新しい生活を」と引っ越しを認めてくださったのだ。色々将来を考え、アパートは、10月から借りてあった。倒産が決まったあと、パパと話合った。パパが生まれ育った京都に行くか、子供たちの傍、昔暮らした名古屋に行くか、私が生まれ育った東京に行くか・・・だが正直、後4年で還暦の私にとって、パパでさえ時々解らない関西人の中、暮らすのがとても不安だった。おバカだから、関西人の「冗談」が解らない。これは「冗談?本気?」いつも解らないから関西人は、或る意味私には恐怖だった。「それ、本気?冗談?」はADHDの頭には、非常に混乱を招き、恐怖になってしまうのだ。ましてや、京都。難しい街だ。「悪いけど、京都は無理」と言う私の気持ちは、パパには理解してもらえた。そして名古屋は、この家に近すぎた。その上、ご迷惑をおかけした会社も近すぎた。で、結局、東京、それも自分が育ち、道も街も解る東京吉祥寺に決め、アパートを借りた。築40年のボロアパートだったが、取り敢えず、RC工法だから隣の音が丸聞こえ…・と言う訳じゃなく、3坪ほどの庭も付いていたから、すぐに決められた。だが・・・・・この家を建て直して、10畳のリビング、8畳のダイニング、6畳のパントリーのほか、タンス部屋、子供部屋2室、3畳のウォーキンクローゼットの付いた8畳の寝室、リビングの片隅に作った4畳半の仏間の広い家の中の物が、名ばかりの2DKに、入るはずもなく、かなりの家具や荷物を置いていかなければならなかった。大好きなアンティークの家具二つは、到底入らず、娘が引き取ってくれたが、大きなパパのタンスや、私が季節の洋服の入れ替えに使っていたタンス、ベッドサイドに置いてあった子ダンスも、バックケースに使っていた大きな書棚も、どう考えても入らなかった。ましてや、舅が買ったお仏壇さえ、家具調なので入らなかった。2DKの縮図を作り、ひと月かかって家具も採寸し、持って行けるものをチョイスした。この時になり、破産すると言う実感を初めて持った。情けなかった。自分が今まで何不自由なく暮らしてきたことを、改めて、幸せだったのだなぁと実感した。ここにいられれば、手放さ無くても良かった、子供たちが作った工作の作品や、ランドセル、絵本や書籍・・・・。泣いた。心の奥底から悲しくて、鬱がひどくなり、暫く何もできなくなった。それでも、引っ越しの日はきまり、結局、大きな物だけ、タンスの中の洋服だけまとめ、後は、後日、取りに行く算段をして12月16日、引っ越した。その間には、色々なことがあった。いつもの20年来のママ友との月一回の食事会は、ずっとお休みしていたが、事情を知った友達が、会社が閉鎖する日に美味しいお菓子を持って、やって来てくれ、結局、2回も、全員参加でお別れ会をしてくれた。泣くまいと思ったが、車も処分し足が無くなり、行けないと言った私を送ってくれた時、やはり泣いてしまった。ああ、この人達ともわかれなくてはいけないんだな・・と。とても辛かった。「大丈夫、また会えるよ。Iちゃんに会いに、皆でツアー組んでいくからね」と暖かい言葉で励ましてくれた彼女達。ホントにこの人達は私の宝物だ。母は、東京練馬に住んでいた弟の所に行くことになり、やはり2DKのアパートで、私以上に家具も荷物も前の家に置いたままの引っ越しだった。母名義の私のマンションも、勿論裁判所の管理下に置かれた。この夏、久しぶりに店子がいなかったので、家族で目前に上がる四日市の花火大会に行ったのは、虫が知らせたのだろうか・・・・。カメラに残る美しい花火の動画は、今は悲しくて見れないが、削除もできないでいる。ただ一つの救いは、死ぬ時は東京で死にたいと漠然と思っていたことは、こんな形ではあるが、確かになった。12月16日に引っ越しをして、翌日とその翌日片付け、結局、19日20日と泊まりがけで、レンタカーを借り、荷物を取りに帰った。何しろ、満足に食器も鍋も持って来れなかったので、東京で暮らすには、まだまだ、足りなかったし、あの家を買った時、亡くなった姑が未だ元気なころ、御祝いに買ってくれた北海道家具の大きな食器棚もアパートには入らず、コンパクトな食器棚を買ったのだが、届けられるのは1週間後で食器を出す事もままならなかった。19日に帰った時、まだあちらの方が生活がちゃんと出来る状況だった。ただ、全館空調が止められており、ブルブル震えながら、「この家、空調が無いと、こんなにさむいんだ」と思いながら作業をした。パパが慌ててメーカーに動かしてもらうよう連絡をして、翌日は、大丈夫だったが、結局、片付けは終わらず、まだまだ荷物を残し、翌日の夜中に帰宅した。私達が帰ると聞き、娘達が来てくれたのは嬉しかった。久しぶりに、娘と一緒に食事もできた。夜中に帰宅して、持ってきた段ボール箱を運び入れ、レンタカーを返しに行ったのは、もう、明け方だった。いったい、これからどうなるのか、不安になる暇もなかったのは幸い。だが、荷物はまだまだ残したままだった。
2012年01月16日
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