2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全30件 (30件中 1-30件目)
1
朝、7時起床。パパ出勤。お休みなのにご苦労さま。9時、娘、特別講義に、大学に登校。よしよし、よく学べ。何だか、すごく疲れている。良いお天気、昨日、干せなかった洗濯物をもう一度、柔軟剤を掛け、少し乾燥機に掛け、干す。こうして、お日様に干すの、何だか、久しぶりな気がする。パソコンでアガリクスを検索。一昨日、行った研究所は、やっぱり本物だった。「岩出菌学研究所」の「岩出101株」と言うもの。数社の大手の企業がこの「アガリスク・ブラゼイ・ムリル、和名、姫まつたけ」から製品にしているが、父は、直接この研究所から購入したのだから、本当に運が良かった。白血病細胞が、死滅した研究結果も、見つけた。本当に父の病気は治るかもしれないと、思いを強くした。昼、パパ帰宅。チビも起きて来て、いっしょに食事。一体、昨夜、何時まで起きていたのか、チビはいつもお休みは、昼過ぎまで起きてこない。無償に眠くなった。「悪いけど、ちょっと寝るから」と言って、ソファに横になった。気がついたら、外は真っ暗。「ウッソー!!」6時を過ぎていた。慌てて洗濯物を取り込んだ。こうなるともう、何もしたくなくなるのが常。お料理も、片付けもパス!外食して帰宅、4人で犬の散歩に出た。夜の風は冷たかったが、おなか一杯の体には、心地良かった。夜、1時、さすがに眠くなったので、寝ようとトイレに入って、流した。・・・・・溢れ出た。トイレが詰まったのだ!!ギェーーーー!!ドンドン、溢れてくる。慌てて犬のおしっこシートで対処。寝ようと思っていた頭は、混乱している。頼りの娘達は入浴中。すぐお風呂場に行って、シャワーの水を止めさせた。仕方ない、やるっきゃない。外に出た。深夜はさすがに冷える。物置から大きな下水用のゴムの吸出しを持って来て、詰まったトイレをズボズボし出した。床に、壁に、スカートに汚水が飛ぶ。ギャーなんてこったい!こうなったらもう、思いっきり水を流し、何度もズボズボしてみた。何とか、少しずつだが流れるようになった。気持ちは最悪。なんで夜中に私がこんな事しなくちゃならないの~。先に寝たパパ、ずるい!!止めてあったシャワーの使用を許可。飛んだ汚水を除菌剤で掃除。もう、キンキンに頭にきていた。「早く出て!!、汚水にまみれて、何処にも座れない」「は~い、すぐ出ま~す」なんと、お気楽なガキどもめ。お風呂に入って、頭の先から足の先まで綺麗に洗った。湯船につかり、やっと生きた心地。お風呂から出たら、もう、娘達は寝ていた。時間は午前4時。そのまま寝ようと思ったが、明朝、パパが何も知らずにジャーと流したらまた溢れるなあと思い、レポート用紙に書いた。「トイレが詰まっています。勢い良く流すと溢れるので注意。大騒動して汚水を浴び、深夜入浴して明け方寝ますので、明日は、起こさないでください」やれやれ、やっと眠れる。昼間寝た時間も、帳消しになった。明日、すぐに水道屋さんに来てもらわなくちゃ・・。さすがにすぐ、眠りに落ちた。
2004年01月31日
コメント(0)
今日は、のんびりしようと決め込んだ。朝、娘を残してパパとチビを出し、お日様が差し込むリビングのソファに横になった。うつらうつらし始めたら、娘が起きて来て、「キェーー」と奇声を上げ、起こされた。「何?!」と薄目を開けると、「今日、特別講義、執ってたの忘れた~」あほらし。勝手にして頂戴。とまた、眠りに落ちた。バタバタと出て行く音が瞼の向こうから聞こえた。暫く眠った頃、気持ちよく目がさめたら、9時30分。良いお天気だから、お洗濯をしようと洗濯機に洗濯物を放り込んで、台所を片付けようとしたらTEL。「もしもし」「あ、I?、お父さんがもう、何言ってもだめなの。すぐ来てくれない?もう、知らない」ガチャン。いつものように、母は自分の用件だけ言うと電話を切った。全く、この癖は何とかならないのか・・・・。仕方ない、顔も洗わず、気持ち悪い感じだが、キーを握り締め、車に乗った。父の家に着くと、車庫のシャッターが開いていて父が出かけようとしていた。ゆっくり近付いて運転席の窓をコツコツ叩いた。仏頂面の父が窓を降ろした。「どうした?」「もう、あの人は、俺がいると気に入らないし、俺のする事なすことすべて、気に入らないんだ」「まあまあ、大人なんだから、落ち着いて、一緒に家の中に入って話そうよ」説得して一緒に家の中に入った。聞けば、朝から、便秘で苦しむ父に母はその気はないのだが、無理に食べさせようとしたらしい。あとは、本当に犬も食わぬ理由の言い合い。聞くこっちもあまりのばかばかしさに、娘として、情けなくなる他愛も無い理由だ。全く、失笑するしかない。こんがらがった糸を解くように、理路整然と喧嘩の一つ一つを、まるで判事のように、貴方のここがいけない、貴方はここがいけないと言い含めた。約1時間半。もう、くたびれた。パソコンを設定し直してくれと言うので、かな入力にしていたら、また、キッチンの方で、言い合うのが聞こえてきた。もう、いい加減にしなさいよ。と言いに行ったら、口をそろえて「喧嘩なんかしてないよ」あ、そう、なら良いです。と言い、また、パソコンに戻ったら、玄関でパパの声。母が、だんな様が来たわよ。ったく、「来たわよ」じゃないでしょうが・・・・。「ごめん、喧嘩の仲裁に呼び出された」と言うと、笑って「そうか、お前がいないからこっちかと思って」時計を見ると、もう、1時過ぎ。まだ、お昼ご飯も食べてない。パパは仕事の話をしに来たのだが、「もう、仲良くするんだよ」と言い残し、一緒に帰った。50年も毎日一緒にいて、こんなにつまらない事で喧嘩をするものだろうか・・・。私は、子供を育て上げ、お嫁に出し、二人きりになったら、したい事が山ほどある。パパと二人で、大好きな古いおもちゃを見に行ったり、美術品の好きなパパと一緒に日本中の美術館をまわったり、前から二人でやってみたかった陶芸もしてみたいし、パパの好きな車でお弁当を持ってドライブに行きたい。パソコンでも、遊びたい。映画も一杯一緒に見に行きたい。本当に、年を重ねて、二人になるのが、楽しみなのに、両親のようになってしまうのだろうか・・・。「二人、昔は本当に仲の良い夫婦だった。子供を預けて映画を見に行ったりしていたのになあ。」と言うと、「お父さんの病気のせいだろ」とパパがぽつり言った。思い通りにならない自分の身体に、父が母に甘えて、我侭を言っているのかもしれない。母ももう、一杯一杯なのかも・・・。「お前の出番が多くなるけど、お前しかいないんだからさ」そうだなあ。今日は、夫婦の形を考えさせられた。私とパパは50年も、きっと一緒にはいられないだろう。喧嘩も勿論するが、仲良くしたいね。夫婦なんだから。夜、やっと、「砂の器」を見た。私は、30年前、この映画を見て、あまりの悲しさに暫く席を立てないほど泣かされた。私にとってこの映画は今まで見た映画の中の「金字塔」なのだ。TVドラマで、放映が始まった時、まず、子供達にこの映画を先に見せたかったが、試験などで今日になってしまった。やはり、見せて良かった。チビには少し難しかったようだが、お姉~は、鼻をヅーヅー言わせて、見ていた。「ハンセン氏病患者が差別されて、お母さんがあんなに怒ったのが解った」と言っただけでも見せた甲斐があった。親になってから始めてみたが、あの時とまた違う目で見られた。やはり、私にとっての野村監督の「砂の器」は、金字塔だった。
2004年01月30日
コメント(0)
朝、目が覚めて、気持ちの中に重い物が残っていた。階段を下りて、家族をそれぞれ出すと、一人、考えた。落ち込んでいる。何故、もっと冷静に対処出来なかったのか。「言っちゃったぁ」と言った母を恨んだ。そして、その母を諌められなかった自分にものすごく腹が立った。パパが出かけにこう言った。「お前はどうしてそういう風にしか物が考えられないんだ?お前の口から、言ってあげられた事を、幸せに思えよ」そうかなあ。そんなに単純には考えられないよ・・と思ったが、口をつぐんだ。「だから、鬱病になっちゃうんだね」「ああ、そうだ」自分で一生、嘘をついた罪を持って行こうと思っていたのに、守れなかった事にへこんでいるのかも知れない。だったら、それは、父のためでなく、自分のためじゃないか・・・。なんと身勝手な考えなのだろう。弟にあれ程言うなと言った自分が、まさか、言わなければならない羽目になろうとは、思っても見なかった。本当にこれで良かったのだろうか・・・・。父の様子が気になったので、行った。しかし、案外冷静だった。アガリクス効果か・・・・。色々書いてある物を読み、芽球について、書いていないか、白血病に付いて書いていないか読んだが、何処にも書いてなかった。そう言えば、昨日の先生からの電話が気になった。すぐ病院に電話した。昨日、お電話頂いたそうですが,と言うと「はい、実は、白血球も血小板も数値が上がったのですが、夕方になって芽球の数値も、1~8だったのが、32まで上がってしまった事が解りました」先生に父にすべて話した事を伝えた。先生は「そうですか、実は、明日、白血球を増やす注射をする予定でしたが、芽球も増える危険がありますので、辞めることにしました。それで、Fさんに点滴をするとお伝えしましたが、食塩水の点滴なのですがどうしましょうか」と仰ったので、予約はキャセルした。そして、アガリクスの一件を言った。先生は少し躊躇なさったが、「粗悪な物が多いので、充分副作用をメーカーに聞いて来て下さい」解った上での服用は、許可してくれそうだったので、先生の仰る通りにしようと思った。父と相談、アガリクスのメーカーと連絡、今日の午後に個人的な説明を受けさせていただく事になり、パパが仕事の都合をつけてくれ、4人で出向く事にした。ここから1時間ほどの研究所に着いてから、詳しい説明を受けた。日本で最初にブラジル在住の日本人が、当時国立のM大学の岩出教授に研究を依頼。その後、この研究所を開きアガリクスを研究、成果を発表。この研究所が世界で初めて人口栽培に成功し、特許を取得し、アガリクスと呼ばれる物はマッシュルーム初め数あるが、本当は「アガリスク・ブラゼイ・ムリル」だけが有効で、和名は「姫まつたけ」と言う事。人工栽培し初めて出荷するにあたり、この「姫まつたけ」の名づけ親がこの研究所で、「姫マツタケ」の和名は今は「植物図鑑」に正式名称として掲載されている事など伺った。色々な物が出回っているが、長い年月を掛け、国立大学数校で研究後、製品化した本家本元の粗悪品でない事、つい最近、会社組織になったが、それまでは望む方にだけ、口コミで分けていた事など聞いた。一番聞きたかった「白血病患者への投与と、副作用」についても詳しく聞いた。納得した。もしかすると、本当に父は助かるかもしれないと思った。帰途「信じましょうよ」とパパが言った。皆、そう思った。事実、身近な人間が癌ではあるが、治っている。免疫力を上げてくれるだけでも、現状維持だけでも、良いと思った。父は、本当についている人だと思った。アガリクスのエキスパートである研究者がこんな近い距離にいた事。本当にわが父ながら、運の強い人だと思った。明るい気持ちになった。父が希望を持って治療に向かってくれれば、それだけで、もう、万々歳じゃないか。行って良かった。専門的な説明のパンフレット、リーフレットも貰ったので、次回の診察の際、先生にお預けして、見て頂こうと思った。神様、どうか、効き目がありますように。
2004年01月29日
コメント(0)
今日は、父の診察日。血液検査をして、きっちり一時間待ち、診察室に呼ばれた。パソコンを前にしていた先生がとても嬉しそうにこちらに向き直った。「Fさん、白血球の数値が5600までになりました。血小板も5.2まで上がりました」「良かったーー」一斉に3人の口から言葉が出た。「いつもマスクして頂いてますが、この数値は、もう、普通の人と同じですから、本当なら、マスクなしでも大丈夫・・と言う数値です」良かった・・本当に良かった。こんな嬉しい事はない。ヘモグロビンの数値も6以上になっていた。金曜と月曜の白血球を上げる注射と、水曜の診察の予約をして、投薬をして頂き、帰宅。午後から、叔父が来る予定だったので、家に残してきた娘を迎えに行き、近くのお蕎麦屋さんで昼食を摂って一旦帰宅した。叔父は、母の姉の夫。画家で中学の校長を歴任し、今は隠居の身である。胃がんを手術し、4年後、再発、余命一ヶ月と言われたが、教え子に大学でアガリクスを研究していた人がいて、薦められ服用し、癌が、小さくなり、それから5年、今は普通の至って健康な生活を送っている。父は感染が恐い病気であるから、このアガリクスで免疫力を上げようと思いつき、叔父に頼んだところ、今日、直接持って来て説明してくれると言うのだ。一旦帰宅した私は約束の時間に父の家に向かった。車を止め、玄関を上がってリビングのドアを開けた途端である。「Iちゃん、おじちゃん、お父さんに癌って言っちゃったあ」と素頓狂な母の声。「え?何?」訳が解らなかった。母が可笑しくなったのかと疑うほどだった。一体、何が有ったの?言っちゃったって、父は癌じゃない。しかし、父は突っ立っている私を見上げて「ばっかだなあ、何、隠してるんだ。」え!!?何言ってるの。癌じゃないよ!!「何言ってるの?癌じゃないよ」というのが精一杯。「じゃ、何なんだ?」「芽球っていうのが増える病気だって言ったじゃない。それで感染すると、危険だって言ったでしょう」しかし、叔父は白血球がこんなに減っているのは癌と一緒だからと言って、どんどん、薬の説明を始めた。何を言ってもだめな雰囲気。一旦座ったが、そっと立ち上がってパパに「すぐ来て」とTEL。私一人ではとても太刀打ち出来ない。ADHDの頭は混乱し、ぶちぎれそうだった叔父にしてみれば、本とに自分が助かったのだから、自信を持って父に薦めるのも無理はない。以前から、アガリクスは飲んでいたが、それほど高額の物ではなかった。飲んでいたから、余計、信用していなかった。実は同じメーカーのアガリクスで、父方の叔母も、去年、手術できなかった肺がんが小さくなってしまった話を聞いたばかりだった事も、父が、叔父の話しを聞くきっかけになった。父が、自分にはもう、このアガリクスにすがるしかない、と言う気持ちになっていたのも確かだ。パパも着いて、叔父の話に加わった。しかし、パパは途中、会社からTELが有り、どうしても戻らなくてならなくなった。パパが帰ってからも一向に叔父の勢いは納まらず、結局、2時間ほど話をして帰って行った。父が「おい、詳しく説明してくれ、俺はあとどのくらいなんだ」と言い出した。言いよどんでいたら、「隠す事はない。自分の事はちゃんと知りたいしな・・。」もう、言わなければならないと思った。何もなければ、言うつもりは無かったが、アガリクスという救いの船を手に入れた。叔父の話しを聞き、免疫力があがるなら、私も、これに賭けてみようと思った。すべて、話した。何度も、癌ではなく「骨髄異型性症候群」と言う、血液中に免疫力をなくしてしまう白血病細胞、芽球が増えるその事によって、感染し、死に至ると説明した。感染さえ、気をつければ、大丈夫だが、一旦感染すると本当に恐い事も、言った。途中、娘から電話があった。あまりに帰りが遅い私を心配してだった。父が代わってくれと言ったので受話器を渡すと「Aか、済まんかったな、色々心配掛けて、でもおじいちゃん、もう、全部解ったから、何も、心配しなくて良いぞ」それから二言、三言しゃべって切った。「そうか、そうか、皆、済まんかったな」と言った父は、本当にすっきりした顔をしていた。むしろ、告知した私の方が、その重大さに慄いていた。「すべてここに書いてあるから」とこの日記を教えた。後でゆっくり読むよ、と言って父は疲れたと座った。夕方、I先生から電話があって、注射の予定を変えるとのこと。白血球、血小板の数値が上がったが、芽球の数値も増えてしまったとの事。明日、電話しようと思った。帰宅後、へこんだ。めちゃめちゃ、へこんだ。どうして言っちゃったんだろう・・・。どうして本当に癌じゃなかったのに、ちゃんと隠し通せなかったのだろう。自分を責めた。落ち込んだ。パパが帰ってきて、「あの叔父さんの勢いには、さすがの俺も叶わなかったなあ。完全に癌と誤解していたしなあ」と苦笑した。「あれからどうした」聞かれたので、もう、隠し通せなかったので全部話したと言い「落ち込んでる」と愚痴ったら、どっと疲れが出た。そのまま、二階に上がり寝込んでしまった。食事ものどを通らなかった。
2004年01月28日
コメント(0)
今日は本当に久しぶりのカウンセリング。友人を亡くした翌日の気持ちは、最悪。カウンセリングでは、一昨日の楽しいひとときの事。従兄弟や叔母に会って、改めて、父の命に感じたいとしさなど。友人の突然の死に戸惑っている事。友人の死を目の当たりにして、父の死を見つめなおした事など話した。「辛い事ばかりですが、大丈夫ですか?」と少し涙をこぼした私に先生も目を赤くされ、まだ若いカウンセラーだが、こうしておしゃべり出来る幸せを感じた。帰りに買い物をした。購入した物・・・・ティッシュ、キッチンペーパー4袋、犬のオシッコシート、風邪薬、ペットボトル2本、全く嫌に成るくらいかさばる物ばかりだ!!最後に別の店で春休みに入った娘と自分の分と昼食を購入。お弁当だけ購入するつもりだったが、お肉が安く少し抱えてレジに並んだら、すぐ横の方がカゴを出してくださった。「あ!ありがとうございます」とお礼を言うと、「私も、この500円券分だけ買うつもりだったのに、こんなに買ってしまって・・・」と優しい笑顔。何だか、知らないが、今日はやたら知らない人が優しく、嬉しかった。午後の診察を終えてから、昨日、友人の一件で行けなかった病院の様子を聞きに父の家に行った。昨日は、血清を輸血されたようだった。「血液を沈殿させて、上澄みの黄色い液を点滴してもらった」との事。多分、血小板を増やすために血清を点滴したのだ。先生も、色々模索しながら治療してくださっているようだ。それほど、この病は、難しいのだと思った。うまく、反応してくれると良いのだが・・・・。夜、従兄弟からメール。高齢の叔母は、帰った翌日、卓球に行ったのだと言う。全く、恐るべき94歳!!素晴らしき人生とは、正に叔母の事を言うのだ!!
2004年01月27日
コメント(2)
今日は、以前から予約していた、友人達とのささやかな食事会の日。朝、父の様子が心配になり、TEL。「大丈夫、元気だし、熱もないわよ」と母。良かった。輸血の予定だったので、食事会が終わったら、行くねと言い電話を切った。お店の場所を知らないHさんを、車で迎えに行く約束だったので電話。しかし、朝からいくら電話しても、出ない・・。昨日電話するつもりだったが、気付いた時間が遅くなってしまい、出来なかった。仕方がないので留守電に入れて、家を出た。京都から板さんが来た評判のお店で、皆、久しぶりのお食事会を楽しみにしていた。暫く、彼女を待ったが来る気配も無いので、お店にも悪いからと先に始めてしまったが、何度目かの電話で、とうとう仕方なく、自宅ではなく隣接する医院にも電話。しかし、こちらもお留守。今日は休診日ではないはず、でも、約束を忘れる人ではなく、何時ぞやは、すっかり予定を忘れていた私が、彼女からの電話で救われた事もあるようなきちんとした人。どうしたのだろうと皆で心配した。久しぶりに会った友人達と楽しく、美味しいお料理を頂き、時間を過ごした。彼女のお料理は、結局、お店の方がお弁当にしてくださったので、私がお届けする事にして、解散。帰路に着いた。彼女の家に行くと医院のドアに張り紙があった。休診のお知らせ。おかしいなあと思いつつ、さっき前を通った葬祭場の立て看板が気になった。もう一度、葬祭場の方向に戻ると、彼女と同じ苗字が有った。まさかと思ったが、自宅に帰宅後、すぐその葬祭場に電話してみた。なんと、やはり、彼女のお宅の名前だった。訳を話し、どなたが亡くなったのか聞いた。「そのご本人様です」「え?!名前はM子さんですよ」と言うと「はい、そうです」・・・・・。「本当に奥さまですか」「はい」。受話器を持つ手が震えた。お礼を言って電話を切った。あまりの事に驚き、あたりはばからず号泣してしまった。いくら待っても来るはずは無かったのだ。どうしよう、そうだ、連絡しなくちゃ。背中をさすってくれている娘も泣いていた。慌てて、一番先に家に帰り着いているだろう友人にTEL。急遽、一旦帰宅したメンバーと葬祭場の駐車場で待ち合わせた。時間を知らなかった私達は葬儀には間に合わなかった。しかし、そこに見覚えのある男の子がいた。彼女の息子たちだった。そして、ご家族にご了承頂き、お宅に向かった。彼女の家に行くとご主人が駐車場から出ていらした。私達に気付かれ「Kさん・・・」。近づいてらっしゃった。短いご挨拶をしてお宅に上げていただき、彼女のいるお部屋に通していただいた。信じられなかった。本当に嘘みたいだった。つい、この間、一緒にお茶を飲んで笑っておしゃべりしたのに、彼女は優しい微笑みを浮かべ、四角い枠の中にいた。もう、どうしようもなく悲しかった。待っていたのに、その頃、彼女はお骨になってしまっていたのだ。皆に会えるのを、あんなに楽しみにしていたのに、彼女はもう、いなくなってしまったのだ。ご主人に訳を話し、楽しみにしていた彼女にお供えしていただこうとお弁当を手渡した。「ああ、T亭ね・・・。」割り箸の名前を見て仰った。きっと、彼女から今日の事を聞いてらっしゃったのだろう。心不全だった。苦しまずに逝った事だけが救いだった。こんな悲しい事があるのかと思う程、悲しかった。父の死に直面している自分だが、比べようがないが、悲しみの意味も違うかもしれない、喪失感も違うかもしれないが、本当に、どうしようもなく悲しかった。暫く、彼女と私達3人だけになった。順にご焼香させて頂き、お料理屋さんのぽっかり開いた席を思い出し、あれは、かげ膳だったのだと思ったら、本当に言い様のない悲しみに、いい年をした友人たちと、おいおい泣いてしまった。お茶を出してくださったお爺様が「どこに何が有るのか解らなくて・・」と仰った言葉が胸に刺さった。この家の女手は、彼女だけだったから無理もない。この家にとって彼女は「太陽」だったに違いない。いつも、きちんとした人だった。優しくて強い人だった。それから暫くご主人とお話させて頂いた。ご挨拶をして、車がある葬祭場に戻ったが、3人とも、とてもそのまま別れて帰宅する気になれず、車の中で、彼女を偲んだ。彼女の色んな顔が浮かび消えた。やっぱり信じられない。仲間で一番若い彼女が一番先に逝ってしまうなんて・・・・。神様も酷い事するよね・・と言った友人の言葉に、心からそう思った。ご両親の悲しみも、いかばかりだったろう・・。だが、思った。私達より誰より、一番びっくりして、一番悲しいのは、彼女自身だったに違いないと。暗くなるまで私達は、別れる事が出来なかった。Hさん、どうか安らかに。貴女は、いつまでも私達の心の中で生き続けています。貴女の笑顔、忘れません。
2004年01月26日
コメント(0)
東京から、3人の従兄弟と94歳になる叔母達が来てくれた。父の具合の良いうちに、会ってもらいたかったので、本当に嬉しかった。父も、何時に無く上機嫌で、話込んでいた。何度も「大丈夫なの」と叔母が心配してくれるほど、長い時間、話し込んだ。こうして座って話しをする分には、本当に何でもなかった。元々営業マンだった父は、人と話をするのが大好きだった。それでも、時間になると、熱を測っていたのが、可哀想だった。遠くになってしまい、なかなかお目にかかれないが、一番安心できる方達なのだ。叶わない事だが、本当は私にとってこんな時一番傍にいて、色々相談したい人達なのだ。これが最後になるかもしれないと、近くのお店に夕食の予約をした。こちらにいる叔母と、従兄弟も無理を言って来てもらい、一緒に、総勢12人のお食事となった。父も母も、本当に楽しそうだった。私も、生まれた時から可愛がってもらった従兄弟たちや、大好きな叔母との食事は、何より嬉く楽しかった。父は、本当に元気だった。どうして、こんな元気な人が死ぬのか解らないほど・・・。これで、もし、父が感染しても、私はもう、何も後悔しないと思った。幸せなまま、死ねるのだから、父も決して後悔しないと思った。仕事の都合で帰宅しなくてはならない従兄弟を駅に送り、程なくして一泊する叔母達をこちらにいる従兄弟が宿まで送って行く事になり、お店の駐車場で解散したが、何とも名残惜しかった。先に帰った従兄弟には、車中で詳しく病状を説明し、聞いてもらえる時間が持て、ほんとに良かったと思った。「Iちゃんも、頑張ってね」と最後に言ってもらい、力を一杯もらった気がした。ありがとうございますm(__)m父と別れた後、本屋に家族で行った。「蹴りたい背中」と、「13歳のハローワーク」の本が欲しかったが、両方とも、無かった。一旦帰宅したが、父が心配になり、父の所に様子を見に行った。さすがに疲れた顔をしていたが、辛そうではなく、余韻に浸るように、嬉しそうに「さすがに疲れたな」と言って笑った。「でも叔母ちゃんも元気そうで、良かったね」と言うと、大きく何度も頷いた。「今日は早く寝てね」と言い、帰宅した。今日は、父にも、私にも嬉しい日だった。
2004年01月25日
コメント(0)
今日は、ベッドの交換に家具屋さんが来る日。言われていた時間に家の用事を済まして父の家に行った。すぐ、家具屋さんが、交換に来た。手際良く、前のベッドを片付けると、新しいベッドを入れてくれた。やはり、かなり、以前の物より低い。これで安心だねと言うと、うん、これで良い、これで良いと言っていたが、本当にここで寝てくれるのやら・・・。午後から、パパが来て、パソコンを移した。もう、パソコンをする気力がないと言い出し、ソファで横になりたいからと、隣の部屋のソファと入れ替えてくれとの事。パパと私で片付け、パソコンを移し、線を付け替え、父が望むならとソファを入れた。そこで一旦パパと帰宅。今後の病院の事など相談したが、父がI先生をとても信頼している事、ほかの病院へ行っても、多分I先生の方法しかもう、対処治療がないのじゃないか、そう、早急に行くより、今後の父の様子をもう少し見てからにしようと決めた。I先生のお話によると、父が行かなくても、家族がデータを持って行って、セカンドオピニオン先の医師と相談も出来るそうなので、おいおい、私達が行こうと思った。一息入れ、パパは会社に行ったので、父の様子を見に行った。すると、機嫌が悪い。どうしたのかと思ったら、今までパソコンの背の高い椅子になれてしまい、長い時間、低いソファに座ると、お腹が苦しいと言う。な~んだそんな事と言い、隣の部屋から椅子を持ってきた。すると、ソファの一つが邪魔になった。そこで、私が抱えて隣の部屋に戻すと、突然、父が泣き出したのである。「どうしたの~」と言うと、「情けない」と泣いている。「このくらいの事、お前にしてもらい、自分で出来ないのが情けない」と言うのだ。「仕方無いじゃない、お父さん、もう、年なんだから」と言うと、「このくらい・・・」とまた泣き出した。生まれて初めて見た父の涙だった。勿論、今まで何度か、赤い目をした父を見た事が無い訳じゃない。しかし、こうして、子供のように大っぴらに声を上げて泣く父を目の当たりにしたのは、初めてだった。75歳まで現役で会社に出ていた父には、多分、初めて身に沁みた「老い」だったのだろう。「あのねぇ、誰でも、今のお父さんみたいに思うんだよ。ただ、お父さんは去年の夏まで会社に行っていたから、それが、遅かっただけなんだよ。そんな事、誰だって、もっと早くに感じるんだよ」と、大きな父の震える背中を撫でた。うん、うんと大きく頷き、また、泣き出した。「すまんなあ、お前には色んな我慢させて満足な事をしてやれなかったのに・・。」と言い出した。何を言うのか、多分、もう、混乱しているのだろう。「何言ってるの、今、幸せだし、十分してもらってるじゃないの」と言うと「今じゃだめなんだよ、親は、あの時、してやりたかったのにしてやれなかったって思うんだ」と、涙をポロポロ流し言う。「そんなの親なら誰だって思うよ。私だって、子供達にあの時してやれなかったって後悔するけど、どうしようもないじゃない」と言うと「すまんなあ」しか言わなくなった。本当に、もう、父の中で堰を切ったように、泣きたかった事が出てきてしまったのだろう。多分、私に甘えてくれているのだと思うと、本当に嬉しいような、父の弱さにじかに触れてしまったような不思議な気持ちだった。落ち着きを取り戻した父と、テーブルの中を整理する箱など買う約束をし、父の家を出た。父の涙。少し、しょっぱい味がした。
2004年01月24日
コメント(0)
今日は本当なら、革工芸の日。しかし、父の事が有ってから、一回お休みしてしまったので、行きたかったが、父の事も気になるし、忙しくて宿題もなかなか出来ておらず、やはり、お休みの連絡をした。先生、すみませんm(__)m父が注射をしている頃、整形外科に行った。パパと同じ位の年齢の医師は、昨夜撮ったレントゲン写真を前にして、少しパパの胸を触診し、仰った。「肋骨は前の部分の大半が軟骨で出来ているので、ここに少し傷のように見える部分がありますが、これは後ろの部分で、後ろは何ともないですよね」「はい」「これは、内臓の陰が映っていると思います。」そうなんだぁ。良かった!「軟骨ですから、折れていても画像には映らない」「??」「ですから、ここの部分は後ろ側の骨なんです」なぁるほど。そういうことか・・・。結局、打ち身との診断。大した事無く良かった。金曜日の病院ほど嫌なものはない。木曜が開業医のお休みが多いし、土曜日は公立病院がお休みなので、すごく混んでいる。会計を済ましたら、お昼近くになった。昼食を摂って帰宅したら、もう、1時過ぎ。今日は何も出来そうもないので、摂り合えず、少し片付けをして、父のご機嫌を伺いに行った。今日も一人でドライブに行ったらしい。一体、何処に行ってるの?と聞くと、小指を立てて、ウィンクした。「何馬鹿言ってんの!」ここは、街中の住宅街だが、少し行くと、背中に雪をかぶって白い山の見える茶畑が広がる景色の綺麗な場所がある。聞けば、相当、奥の方にまで行っているらしい。まあ、元気な証拠だが・・・。母が少し怒ったような口ぶりで台所からリビングに入って来て言った。「あのねぇ、今日、辞めなさいって言ってるのに、少し遠くまで散歩に行っちゃったのよ。案の定、帰って来て、だるいって言い出して、熱測ったら37・5°あって、慌てて抗生物質を飲ましたの」父は小さくなって聞いていた。「本当に言ってやって頂戴!」。昔の悪がきは叱られながら、自分でも不安だったのだろう、傍にあった体温計で、さっきから何度も計っては私に見せないように慌ててケースに戻している。「お父さん、何度ある?」まるでいたずらっ子のようにパッとケースに戻して口を尖らせ笑っている。「高いんじゃないの!!」とちょっときつく言うと、もう一度計った物を差し出した。37・0°。ああ、良かった。もう、本当にしょうがない人だ。「あのねぇ、あんまり、周りに心配かけないの!良い大人っつうか、爺さんなだから」と言うと、「はい」と素直に言った。まあ、自分の状態が解っていない分、こちらの心配をよそに、動き回ってしまうのは仕方ない。でもこれだけ注意しても、言う事を聞かないのは、昔の悪がきそのもの。本当にこの年になっても直らないものだ。茶目っ気は父の持ち味だが、本当に、困ったものだと、母と二人、顔を見合わせた。それから、暫く色々な話をした。帰ろうとすると、父が済まなそうに言った。「おい、I 悪いが、毎日、30分でも良いから、こうして話相手に来てくれんか?」キッチンの方を顎で指して「お母さんは恐いし・・。」と言って顔をしかめた。もう、ほんとに母の気持ちも解らず、仕方のない人だと思ったが、父がそれで嬉しいのなら、家の事ができないのは、仕方ないが、毎日話し相手になってあげようと思った。夕方帰宅して、夕食の用意。久しぶりに牛肉の筋煮込みを作った。狂牛病騒ぎで、なかなか作ってあげられなかったが、検査済みのを見つけ買っておいた物だから、安心して良いよと家族に言うと、皆、おいしいと言って食べてくれた。こういう時、やっぱ、お料理って、食べてくれる人がいてこそだなあと、つくづく幸せを感じる。パパの怪我も摂り合えず大丈夫だったし、父も無事だったし、今日は良い日かな?
2004年01月23日
コメント(2)
朝、実家にTEL。「今日は注射だけだから、貴方、ゆっくりなさい」母の明るい声。その声だけで、父がちゃんと食事を摂り、元気なのが解った。「うん、そうさせてもらう」。しかし、そうは問屋が卸さなかった。下の娘が寝坊をして、学校まで送って行った。こういうことは、なるべくしたくない。本人の自覚が育たないからだが、遅刻は、欠席より評価が悪くなってしまう。大学受験を考えると、ついつい、送って行ってしまうのは、悪女の深情けか・・・。まあ、たまの事だし良いっかな?反省文も書かせたし・・。しかし、車中では、グチグチ、言ってしまった。帰宅すると、犬二匹に餌をやり、洗濯物を洗濯機に放り込み、少し、パソコンの前に座った。すると、友人から電話。仲間の一人のお姑さんが今朝、亡くなったとの事。長い間、患ってらっしゃった。今の私にとっては、人事とは思えない。彼女はとても淡々と、仕事をこなし、看病もしていた。いつも、偉いなあと思っていた。良く頑張ったねって言ってあげたかったが、ご葬儀は、遠慮させていただく事になった。すべて済み、彼女が普段の生活に戻ってから、皆で労ってあげたいと思った。夕方、一昨日胸を強く打ったパパが帰宅した。二匹の犬で散歩の途中、大型犬のジュリアンがいきなり走り出し、引っ張られ一緒に走り出したパパが、驚いて飛び出した、先にいたジュンの縄につまづき、もんどりうって、一回転して2メートルほど飛んで、地面にうずくまった。柔道をしていたので、体が覚えていた受身で旨く一回転し,衝撃を緩和できたが、あまりの事に、私も、チビも、びっくりして、声が出なかった。「大丈夫、大丈夫」とまた、歩き出したのを見てほっとしたのだが、2日して、やはり肋骨が痛いと言い出した。仕事が立て込み、今晩は接待も入ってしまい、今から出かけるので、夜、帰宅したら、救急外来に行くと言って、着替えて出かけていった。夜中、二人ERに行った。父の事があってから、看護婦さんも顔見知りになってしまったが、今回は、父ではなくパパだったので、少し怪訝そうに見られた。レントゲンを撮って診察室に入ると、若い可愛らしい娘のような女医さんだった。レントゲン画像は、やはり、骨にひびが入っているように見えた。「私は外科医ではないので、専門的な見方が出来ないのですが、この『線』が気になりますので、明日、外科を受診していただけますか?」白いコルセットのような物を巻いてもらい外に出た。風が頬を切るような冷たさで、この冬一番の寒さだ。コートの襟に顔を埋めても、何の効果がないほど、寒く、冷たい風が吹き抜けて行く。深夜の誰もいない道をパパと「やれやれ」と言いながら帰宅した。本当にここの所、嫌な事ばかり。一体、どうなっちゃたんだろう・・・・。バイオリズムが落ちているのかもしれないが、家族皆のバイオリズムが落ちているのか・・。明日は良いことが有ると良いなあ。
2004年01月22日
コメント(2)
今日は、家族4人で病院へ行った。朝、8時過ぎ、父が迎えに来た。そのまま、実家に行くと、弟と母が乗り込んできた。水曜日の病院は、比較的空いていた。血液検査のため、検査室に入っていった父を横目に母の傍に近寄り、聞いた。「昨日、お父さんに話したの?」「ううん、不可能に近い骨髄移植をしても、5割以上、駄目なんでしょう?『そんな状態なのに、言わないで頂戴!』って言っといたわ」腹立たしそうに母が言った。多分、昨夜、弟と険悪な話し合いになったのだろう・・・。確かに未だ幼さの抜けない弟だが、少し可哀想になった。しかし、不安が消えた。母がその気なら、私もそのように従おう。今の父には、やはり、伏せておくのが良いように思う。血液検査の結果は、非常に悪い状態だった。出血を止める血小板の数値が常人で20万のところ、今回、1万少しになってしまっていた。先生は、父のズボンの裾を上げ、座り込んで見てくださっていたが、「ああ、大丈夫、内出血はしていませんね」と仰り、「血液の状態が非常に悪くなってしまっています。明日から、申し訳ないのですが、毎日、白血球の数値を上げる皮下注射をしにいらしていただけますか」と仰った。父は恐る恐る聞いた。「出血ってどういうようになるんですか?」先生は椅子に座り直し、一息いれてから、ゆっくり仰った。「例えば、何か物を食べますね、そうすると、お口の中で噛んでると、お口の中が出血しますし、少し手を何かに当てたりするとそこが内出血します。今、足を見せて頂いたのは、普通に何もしなくても出血するのが、この箇所だからです。」父が「恐いですね」と言うと「はい、ですので、血小板の数値を上げる為、白血球の数値を上げるお注射をしていただくんです。」そして、来週中にも、もう一度、輸血をするよう手配をしてくださった。本当に、父の命が風前のともし火になってきたのは、さすがにわたしにも、理解出来た。診察室を出た父がポツリつぶやいた。「俺、死ぬな」即座に「何、馬鹿な事言ってんの」と母も私も笑った。もう、こういう時、自然に曇りない笑顔を出せるようになった。覚悟は出来ている。白血球の数値を上げる注射をして頂き、帰宅。「おい、食事に行こう」と父が言い出し、4人で家を出た。近くに出来た自然食のお料理屋さんに行った。評判の良いお昼の定食を頼んだ。こうして、家族4人だけで食事するの、何年ぶりだろう・・と言うと、本当だなあと父がしみじみ答えた。大根おろしに味付けした物が上に掛かった、脂の乗った美味しい鯖のフライがメイン。小さなすり鉢に入った味付けしたとろろ芋、冷えて口当たりの良い温泉卵、デミグラスソースの掛かった小さなハンバーグ小鉢に入ったサラダ、デザートにマンゴプリン。それに五穀米。結構な量なのに、父は、私達と同じ量を食べた。こんなに元気なのにと、病院にいる時より悲しかった。弟は、夕方、帰って行った。今度はいつ、親父に会えるか解らないな、これが最後かもしれない・・・と言った言葉が胸に刺さった。早くから親元を離れ、自分の夢を叶えようと四苦八苦したのに、あまり旨く行っておらず、自分が金銭的な援助も受けている父がこんな状態なのに旨く行ったと報告も出来ない事に多分、ジレンマを覚え、遠くにいる分、直接的な親孝行もできない弟の辛さは、如何ばかりだろう。両親の傍で暮らし、毎日父の看病を出来る幸せを感じた。そして、こういう状況を作ってくれたパパに深く感謝した。
2004年01月21日
コメント(0)
今日は本当なら、カウンセリングの日。しかし、やはり、落ち着かないので午後の診察と共にキャンセルした。昨日から実家に帰っている弟は、告知すべきと言っている。今日のインフォードコンセプトと、母の気持ちを一番に考えて、告知をするのかしないのか、とことん話し合った。とても難しい問題だと思った。カンファレスルームに通された私とパパと弟は、薦められた椅子にすわり、先生の話に耳を傾けた。「Fさんの血液の状態は非常に悪いです。白血病と骨髄異型性症候群とくらべると、白血病の方がまだ、治療方法が有り質が良いんです。骨髄異型性症候群の方は、対処療法も少なく、治療しても、成績が悪いんです。白血病の場合、元々の細胞が悪いと言う場合もありますが、そこから、分離する細胞異常の場合が多く、元の細胞を元に戻す療法を取れば、治る可能性があるのですが、骨髄異型性症候群の場合、元々の細胞が悪いので、どんな治療をしても、良いほうに向かうのは、非常に可能性が低いです。」先生は、生存率のグラフを見せてくださった。以前、私がパソコンで見たものだった。「このように、2年生存で5パーセントにも満たないんですが、この生存している数は骨髄移植をして生存している方の数も入っています」そうなのか・・・・。やはり、生存は難しいのだ。「今Fさんの骨髄の中に白血病細胞が25パーセント有りますので、本当はもう、白血病と言っても良いくらいなのですが、この未分化の状態が芽球と言う物です。血液中の数値は今、1~8と少ないです。」「反対に感染を防ぐ細胞が好中球と言いますが、それを増やす機能が、低下して現在の数値は3パーセントです。しかし、骨髄の中の芽球は25パーセントですが、血中は1~8と少ない・・と言うのが今のFさんの状態です」先生は白いカルテに図や言葉を書きながら説明してくださった。「感染で熱が出たら恐いです。そのまま2~3日で亡くなる場合もあります。」「え?今度、暮のように肺炎になったら、危ないのですか?」「はい、血液の状態があの時より悪いですし・・・。100パーセント亡くなると言うわけじゃありません。あの時のように、旨く抗生物質が効いてくれれば、また、熱が下がり、助かる場合もありますが、危険な状態には変わりないです」はっきりと、先生は仰ってくださった。感染が本当に恐いと思った。それから、これからの治療方法など伺った。解っていた事だったが、こうして、改めて色々な資料を前にすると、現実が大きくのし掛かってきた。弟が告知の事を言い出した。私とパパの気持ちも言った。細かく、本当に誠実に父の病気や状態を説明くださった担当医も、3人の話し合いをそばで聞いていて、「実は、以前、やはり、同じ病気で同じ様に弟さんがマスコミ関係の方で遠方にいらっしゃって、お姉さまお二人と、お母様が看病していらっしゃる方がいましたが、全く同じように、ご意見が違い、結局、私に相談されたので私は告知は今の状態ではしない方が良いのでは・・と言いました。その方とお父様とは状態が違いますし、同じようには考えられないかも知れませんが、亡くなられた後、言わずにいてくださってありがとうございます。最後まで穏やかに逝かせてあげる事が出来ましたと仰られました。お父様の場合、仰るなら、今、この状態の良い時が、最後のチャンスだと思います。ただ、もし、弟さんが仰るのなら、すぐにお帰りになるような事だけはしないで頂きたい。精神的なフォローをなさって、後にお世話なさる、お母様やお姉様の事もお考えになって、告知なさっていただきたいです。」と仰って頂いた。帰りの車の中、弟は声を荒げ、冷静さを失っていた。幾ら話し合っても、平行線。50年一緒に生きてきた母がもし、告知を承知するのなら、私はもう、何も言うまいと思ったので、最後に言った。「お母さんが告知を承知するのなら、私はそれで良い」「解った、俺は今晩、説得する」3人とも、何も言わず、只、気まずい空気だけが充満した。本当に難しい。私だって、今日まで、迷いながら、考えて父に接してきた。言っても大丈夫かも・・いやいや、これだけ食欲が出てきたのは、自分が治るからと思っているから・・・。本当に迷いながら、それでも今の精神的に良い状態の父を見て、これで良いじゃないかと思うようになったのは、ごく最近だ。穏やかな暮らしを、普通の暮らしを出来ている父に、何も、「死」をわざわざ知らせる事はないじゃないか・・。弟は知らせた上で、でも助かってる人もわずかだがいると言えば良いと言う。しかし、やっと、今日、こうして良い精神状態になったには、周りの人たちの思いやりがあってこそなのだ。すべてを知っている娘達、パパ、そして、毎日、励まし世話をしている母、先生の必死の思いがあってこそなのだ。遠くにいる弟にはそれが解らないのだ。真実を隠して逝かせるのは嫌だと言うが、私は、娘として、嘘をついたその罪を、一生胸に抱いていく覚悟もしている。許されない事なのだろうか・・・・。解らなかった。夜、なかなか眠れなかった。弟にあの調子で責められるかと思うと、母が本当に可哀想になった。自分が育てた息子なのだから、仕方ないよ・・・・パパが言った。そうだよなあ。告知、本当に難しいテーマを突きつけられてしまった。今晩、父に告知がなされたら、明日の診察は一体どんな顔をしていけば良いのだろう・・・。不安だったが、疲れていたのだろう、2時まで覚えていたがいつの間にか眠りに落ちていった。
2004年01月20日
コメント(1)
朝、良いお天気なので、洗濯物を洗濯機に放り込み、パソコンをしていた。10時頃、キッチンの裏口の方から「おーーい、いないのかー」と父の声。慌てて出て行くと、大きなマスクをした父が立っていた。「何、一人?」と尋ねると「おお。これ、渡そうと思って」と、前から取りに行くと言っていたベッドの明細書。「そんなの取りに行くのに」と言うと、「今日は、気分が良いから」と本当に顔色も良い。ただ、息だけは苦しそうなのが、可哀想だ。上に上がらず戻っていった。午後、母からTEL。明日のインフォードコンセプトの話。「お父さんは?」と尋ねると「毎日、家の中ばかりじゃ腐っちゃうって、私が寝てる間にどこかに出て行った」どこかに出て行った・・・って。「なるべく、一人にしちゃ駄目でしょうが」と言うと、「良いのよ、元気な証拠なんだから」・・・(^_^;)・・元々、車が好きで、70歳になるまで、東北にまで車で行ってしまう人だった。自分が70歳になってからは、人に迷惑を掛けてはいけないので遠出はしないと決め、それでも、時々は、2時間程の所に、母とお花を見に行ったりしていた。デパートも大好きなのだが、今は人ごみは感染が恐いからときつく言ってあるため、我慢して行かなくなった。そりゃ、外に出たいだろう。しかし、やはり、突然の芽球の増加が恐い。と言っても、毎日傍にいる母には、娘には計り知れない「大丈夫」と言う気持ち?夫婦の勘?があるのだろう。こんなに元気なのになあとつくづく思う。本当に先生の仰るように、ある日突然、そういう日がやってくるのかしら・・・・。考えても仕方無い。成るようにしか成らないのだから。父が持って生まれた運と、天命に、従うしかないのだから。
2004年01月19日
コメント(2)
朝、9時起床。パパはまだ、寝ている。今日は、出来なかった鏡開きをしようと準備した。気が付けば、朝の食パンが無い。起きてきた娘と一緒に近くのコンビニに買いに行く。今日は、おばあちゃんの部屋を片付けて、ジュンのためにビニールシートを買って来なくちゃ。パパにも、あれ以上、言われたくないし・・・。昨夜、お風呂場に入れたジュンを娘がパパに気づかれる前に表に出した。お天気が良いので、おばあちゃんが自分の家から持ってきて置いたままだったお布団を干した昼過ぎ、パパとホームセンターに買い物に行く。パパは父の家の前の側溝を全部蓋をするようにと、金属性の側溝の蓋を買った。私は、切り売りのビニールシートを5M買った。帰宅途中、グループホームにおばあちゃんの様子を見に行った。電池が無くて動かなくなったと言う時計に新しい電池を入れたが、秒針がくるくる回ってしまう。壊れた時計を何度も壊れているからと言って納得してもらうのに、一苦労。ホームを出て、犬の餌を買いに近くのスーパーに行きレジを済ませたら、誰かが肩をポンと叩いた。母だった。少し父に秘密の話しをしたが、駐車場から、父の視線を感じた母が「それじゃ、後でね」と言い別れ、先に父の家に行った。四六時中、父といるので、なかなか、大事な話が出来ない。勘の良い父の前で、不器用な母に電話をするのも、憚られるので、本当に困ってしまう。パパが側溝に買って来た蓋を設置してくれた。家の中で待っていると程なくして父も戻り、暫くパパと仕事の話をしていたが、一緒に食事に行こうと言いだした。「大丈夫?食べられる?」と聞くと「大丈夫だよ、お前が薦めてくれた『にがり』のお陰で、快調なんだ」すぐ、個室のあるお店に予約し、娘達を迎えに行き、店に行った。父は本当においしそうに、次々、運ばれてくる中華料理を平らげていった。昔の父の食欲に比べれば、確かに少ない量だが、こうして、美味しく食べられるのは、本当に嬉しいことだった。孫娘達をからかいながら、それはそれは楽しそうに食事していた。私も、とても、嬉しかった。お父さん、その調子。大丈夫、白血病細胞なんか、その元気でやっつけちゃおうね!
2004年01月18日
コメント(0)
お休みの日なので良いと思い、8時過ぎまで寝てしまった。しかし、パパはいつも通り、仕事に出て行った後だった。すみません、パパ。娘は週明けからテスト週間とかで、学校にしかない高額ソフトを使うので大学に行くと出かけて行った。朝から、雪が降っていた。今年はこれでもう、4回目。寒い冬になった。何だか何もする気になれなかった。昼過ぎまで、ぐずぐずしていたら、車の修理が出来たと電話。暫くすると、可愛い愛車が戻ってきた。スカイラインGTは、なかなか軽快な乗り心地だったが、やはり、自分の車の方が、愛着がある。久しぶりに、近所のスーパーに乗っていったが、スカイラインに比べ、ハンドルもブレーキも重いと思った。体の為には、こっちの方が良い。ただでも運動不足なのだから、せめて、車を運転する時にでも、力を使わなければね!!夜、パパが切れた。おばあちゃんの部屋に入れたジュンのいたずらと、私達の世話の仕方に切れたのだ。確かに、ベッドの足におしっこを引っ掛けたりしていた。敷いていた新聞紙もベッドの下に引っ張り込んでいた。切れたパパと、言い合いになった。何時に無く機嫌が悪い。もう、本当に頭にきた。口も利きたくない。子供達もこっそり「お父さん切れて、超感じ悪すぎ!!」と言い、小さくなってパパの叱責を受けていた。ジュンはすぐ表の犬舎横に繋がれた。雪が降っているのにさぞ寒かろうと思ったが、仕方ない。しかし、幾らたっても泣き止まないジュンに業を煮やしたパパが今度は駐車場にジュンを移した。だが、駐車場の天井一杯にジュンの鳴き声が響き、返ってご近所迷惑の状態。しかし、パパのいる場所からは、聞こえない。パパの嵐は、摂り合えず、収まった。暫くすると、パパは、リビングで寝息を立て始めた。お姉~が「お母さん、これじゃ、さっきより響いてまずいよ」と言いに来た。そこで、チビと三人、知恵を絞った。そうだ!!お風呂場があるじゃない!!そうっとパパを起こさないように、お風呂場にジュン用の毛布を敷いて、暖房を入れた。駐車場からジュンを抱いて連れてきて、お風呂場に入れた。暫く、暴れて吠えていたが、程なくして大人しくなった。これで良い。パパ、参ったか!!パパは、目を覚まし、何も気づかず、二階の寝室に入っていった。今回は、私達の勝ちかな!!
2004年01月17日
コメント(0)
今日は本当に久しぶりのコーラスの練習日。父のことが有ってから、とても歌を歌う気になれず、ずっとお休みしていたし、友人たちが開いた忘年会も、欠席してしまっていたので、本当に久しぶりの再会。学校に行き、エレベーターで5階にあがると、「Iちゃん、大丈夫だった?」と、友人が声を掛けてきてくれた。「うん、大丈夫だよ。心配ないよ」と答えたが、本当に、もう、大丈夫だと自分でも思った。私、強くなったのかもしれないな。歌も、楽しく歌えた。帰りのお茶会も、楽しかった。国家試験に受かった友人のお祝いをする予定を決めたり、そこから、お店に電話して予約したり、本当に久しぶりに、仲の良い友人たちとのひとときは、楽しかった。帰宅後、父から電話。「ごめんなぁ、俺、お前に謝るよ」いきなり何事かと思った。先日、二階に上がるのがしんfどくなってきた父のため、下の部屋にベッドを購入したのだが、そのベッドの高さが高くて、眠る事が出来ないので、返品してもらえないかと言うのだ。すぐ、家具やさんに電話して事情を話したら、取替えが利くそう。月曜に行く約束をして電話を切った。それを伝えると、父はとても安心したように何度も、何度も、「すまんなあ」と言う。何も気にする事は無い、取り替えてくるからと言うと、「そうか、そうか、そうしてくれるか」と嬉しそうだった。こんな状態でも、親の気持ちなのだなあと、内心、可哀想になった。親は親なんだなあ。心から思った。
2004年01月16日
コメント(0)
昨日、輸血したので、今日は少し調子が良いだろうと父の様子を見に行った。しかし、丁度、出かけようとしていた所だった。「何処行くの?」「S先生が休診日なんで、ERに行って点滴してもらうんだ」「何言ってるの、昨日輸血したばっかりでしょう。それでもだるいの?」父は、大きく頷いた。母は、「もう、毎日点滴しないと気が済まなくなってるのよ。私もさっき止めたんだけど、言う事きかないから・・。」と困ったように顔をしかめた。「お父さん、少し我慢できない?顔色も良いし、食欲もあるんでしょう?だったら、する事はないんじゃないの」父は不服そうにしたが、行くのを辞めた。帰宅。夕方、もう一度様子を見に行った。なんと、やはり、あの後、ERに点滴に行ったというのだ。もう、私の言う事より、点滴の力に頼るようになってしまっていた。しかし、私が帰宅しようとすると母が飛び出してきた。「あのね、ERから帰ってきたらすぐI先生から電話があってね『今日、ERに行かれたそうですけれど、何か有ったのですか』ってすごく心配されてて、『いいえ、本人がどうしても点滴してもらうと聞かないので行きました』って言ったら、『ああ、良かった。輸血した後ですし、熱でも出たのかと思いました』って。やっぱり、輸血は恐い事だったのね」母は、そういうと、少し笑って家の中に入った。そうか~、本当に先生にとっても恐い事だったんだなあと思った。人の命を預かる医師と言う職業の大変さは、友人に医師の奥さんが多いのである程度解っていたつもりだが、こうして当の患者家族の立場になって、しみじみ大変だなあと思った。それと共に、I医師の誠実さを改めて知った気がした。先生、ありがとうございます。
2004年01月15日
コメント(2)
今日は父の診察日。前日の天気予報で、明日は雪との事だったので8時半にタクシーを頼んであったが、なかなか、来ず、結局病院に着いたのは9時を少し回っていた。採血。結果は一時間後に出る。こうなったら、ゆっくり待とうと、私は持って行った刺繍を始めた。しかし、父は落ち着かず、幾ら言っても呼ばれてもいないのに中待合室に入ったり出たり。感染が恐いのだから、じっとしているように何度も注意したが、言う事を聞かない。本当に困ったものだ。そうこうしているうちにやっと呼ばれた。きっちり一時間後だったのが、なんとも可笑しかった。先生は父に体の状態を尋ねた。「どうにもだるいのですが・・・」先生はフンフンと頷き、父の言葉を聞いていた「何か方法はありませんか?この間仰っていた輸血はして頂けないんでしょうか」それでは、少し診察してから考えましょう。と診察台に横になった父を触診されていたが、「ちょっとここ2~3日、ふらふらします」という父の言葉を聴き、「そうですか・・・。では、やはり、輸血しましょう」と仰って、父が椅子に座るのを待ち、同意書を前に開いた。「輸血するにはこの同意書に署名をいただかないとなりません。これは、決して、危険があるけれど、これにサインしたら、責任は問えないとかそういった類のものでは有りません。私が説明をしたと言う、証明で、確かに聞きましたと言う確認書なのです」と仰り、まれに起こる輸血による肝炎、エイズの危険性などの説明をしてくださった。父は一通り説明を聞くと、何の迷いも無いようにサインをした。すぐ医師は電話に手を伸ばしどこかに電話し始めた。「そうですか、今日中にこちらに届くのですね」と言う少し甲高い声が響いた。電話を切ってこちらに向き直り仰った。「Fさん、今日の午後にはこちらに血液が届くそうですので、昼食を摂って頂いて、点滴をしてから、輸血しましょう」父は即答した。「はいお願いします」その後、父と母は、連絡のつく院内の喫茶店に昼食を摂りに向かったが、私はすぐにパパに電話をしに走った。危険性のある輸血をこんなに簡単に承諾して良いのか、不安だった。パパに話をし、輸血しか道は無いのかもう一度医師に聞くよう言われ、背中を押されたように診察室に戻った。「すみません、少し先生にお話があるのですが」と言うと看護士さんが先生に伝えてくれた。診察室に通された私は先生に切り出した。「すみません、実は入院中、骨髄を採取して一ヶ月後に結果が出たら説明を受けるお約束だったのですが、何のお話も無いまま、今日、輸血と言う事になって、困惑しています。医師というお仕事に従事なさってらっしゃる先生には輸血は大したことでは無いのかも・・・」ここまで言うと、私の言葉を遮り仰った。「いえいえ、とんでもないです。私にとっても輸血は大変な事です。説明をさせて頂くと言うお約束は聞いておりませんでした。すみません。」私は続けて言った。「そうでしたか。では、伺いますが、輸血は何のためにするのでしょうか?」「実は、今までの点滴の中に、貧血の薬も入れてあったのですが、さっき伺うとご本人の自覚症状もあるようですし、今日の血液検査でも、貧血が進んでいるのが解りました。」「つまり、全く今まで投与した薬が効いていないと言う事なんですね」「ええ、そうです。で、残った方法が輸血なんです」と仰って大きく一呼吸してから「お父様の病気は、対処療法しかないんです。」そう言いながらメモに「骨髄移植、抗がん剤、輸血」と書いた。「この3つがこの骨髄異型性症候群の対処療法ですが、骨髄移植は、不可能です」と言いながら、バツをした。「次の抗がん剤は、今、Fさんの状態が抗がん剤の副作用と同じ状態ですので、これ以上この状態が重くなると、体を余計痛めてしまいますので出来ません。それで、あと残った療法が輸血なんです。他にもホルモンの投与という方法もありますが」「実は、入院中、あと一年持たないと言われましたが、今の父を見ているとそうでも無いんじゃないかと思ってしまうんですが、どうなんでしょうか?」先生はメモに「芽球」と書きながら「実はFさんは、血液の中のこの芽球の数値が今はとても少ないのですが、骨髄異形症候群は、これが増えると危険な状態になります。」「それは、すぐ解るのですか?」「いいえ、実際には何の症状も無く、解らないんです。有る日突然、異常な速さで増えます。」「え?解らないんですか・・・。ある日突然なんですか?」「はい、何の症状もないので、血液検査でしか解らないんです。」「そうなんですか・・・・。」先生は私の目をじっと見て深く頷かれた。「よく解りました。私共といたしましては、大変申し訳無いのですが、セカンドオピニオンを考えておりますが・・・。」「いいえ、全く構いませんよ、私が持っているお父様のデータをすべて出しますし、紹介状も書かせて頂きます。セカンドオピニオンどころかサードオピニオンまで紹介状を書かせていただくつもりです。」「ありがとうございます。では、家族にインフォードコンセプトをお願いします」そこまで話をすると、全身の力が抜けたような気がした。「それから、入院中、N先生に感染が恐いと仰って頂いてから、部屋に空気清浄機を設置し、アルコール、抗菌マスクなどで対処していますが、その他に私共が出来る事は無いでしょうか」先生は頷き、「お家でしていただくのは、それで完璧です」そうか、もう、何も出来ないのか・・・。「お家でして頂くのは、Fさんが毎日、楽しく、お孫さん達と時間を過ごしていただくのが、精神的にもとても有意義ですが、お孫さんは外に出てますので、発病していなくても感染している危険がありますので、お父様と接していただく際は、必ず、マスクをするよう気をつけてください。」それから、インフォードコンセプトの日にちを決め、診察室を出た。そうか、父の病気は突然悪化するのか・・・。ここの所、良い状態だったので、まだまだ大丈夫と思っていたのだが・・・。院内の喫茶室に行き、先に行っていた両親と昼食を済ませた。それから、点滴室に行き、父は点滴用のベッドに横になり暫くすると点滴をしながら、いびきをかき始めた。母と一緒に点滴室を出た。先生から聞いた話をすべて話した。母は輸血も仕方無い事と納得した。恐かったが、この方法が一番良い方法となれば、従うより仕方ないのだろう。そう、ある日突然なの・・・と言い、母はため息をついた。「仕方ないわね、成るようにしか成らないし、出来る事はすべてしたし」と腹をくくったような口ぶりだった。暫くして日赤からマイナスB型の血液が届き、点滴の器具に輸血用の血液が加えられた。細い管を赤く染め、貴重なマイナスB型の血液は父の体の中に入っていった。尊い血液だが、恐い一瞬だった。それから一時間、輸血は無事終了し、帰宅した。雪はまだ、解けていなかった。夜、帰宅したパパや、娘達に報告。何だか、とても疲れた。
2004年01月14日
コメント(0)
今日はカウンセリングの日。先週のカウンセリングの時より、随分、気持ちに余裕が出来た。毎日、父に接していて、一応の元気な姿に接しているからだろう。本当にパパの言うように、奇跡が起きるかもしれないなあと思ったり・・。帰りに近くの大型スーパーに行き、成人式の写真の現像を頼んだ。買い物をしている間に写真は出来上がっていた。どっさり現像引き伸ばしをしたスナップを抱え、父の家に持っていった。父は、50枚以上有る写真を嬉しそうに見ていた。「また、沢山撮ったものだなあ」と本当に嬉しそう。良かった。帰宅後、少し疲れたので横になったら夕方まで寝てしまった。本当は、鏡開きもしたいのだが、元気がない。こういう時は、得意の先延ばしを決め込んで、夕飯の用意。実力テストの娘がいつもより早く帰宅。夕食後、どっさりある写真を新しいアルバムに貼った。また、置いておくと何時、整理できるか解らなかったので、こうして、取ってきたその日に整理するのが一番と始めたが、正解!!思い出がまた一つ形になった。
2004年01月13日
コメント(0)
本当なら、お休みなのでゆっくり眠りたかったが、7時から起きて、娘を美容室に連れて行った。前日、食事をして両親を送ってから、「こりゃ、明日は寒いぞ~」と言う事で、近くのショッピングセンターに、下に着る厚手の下着と、おじさんが履くような「パッチ?」を買いに行ったが、正解だった。娘が美容院で作っていただいている間、近くの温泉で一泊した義弟一家から、おばあちゃんを引き取りに行った。そのまま義弟一家は、もう一泊、別の行楽地に行く予定だったので別れるつもりだったのだが、お姉~が成人式だと聞き、見て行きたいと言ってくれ、我が家まで来てくれた。パパが着替えていたら、丁度、娘からあと15分ほどで終わるとの連絡。駅前まで車2台を連ね、迎えに行ったが、何とも大袈裟なお迎えになってしまった。美容院に迎えに行き、ビルの外に出たら、ものすごく冷たい風が、まるで突風のように振袖を巻き上げた。慣れない着物に「キャー」と言いながら、裾を押さえたが、あまりの勢いに振袖部分の長襦袢が出てしまった。義弟のお嫁さんも、子供達も、いつもの娘とは別人のような姿に「わーー、素敵」と歓声を上げ、喜んでくださったとり合えず、車に非難させ、車の中で、着物の着付けを直し、成人式会場まで向かった。まだ、時間が早かったので、そんなに人出もなく、ホールの前で皆で写真を撮った。風を避けて、日当たりの良い場所を探して撮ったが、それでも、相当に風はきつかった。娘は「本当に昨夜、下着を買っておいてよかった」と何度もつぶやいていた。皆、風邪を引かなければ良いが・・・。そのまま、お友達と会う約束の娘をホールの中まで送って、私達は義弟が行く場所までドライブした。大きな遊園地を抱えるその温泉は、そこから30分ほどだったが、遊園地の入り口で義弟一家を見送った下の娘がボソッと「良いなあ」。パパが「ハ~?!まだ、遊園地に行きたいのかぁ」と言うと「当たり前ジャン!」おばあちゃんをホームに送り帰宅。暫くすると、式の終わった娘から電話、迎えに行った。ホールの入り口も中も、何処からこれだけの着物や、帯、ショール、バッグが、揃えられたのだろうと思う程、ほとんどの娘さんは着物だった。身動きできない会場一杯、二十歳のエネルギーが溢れていた。最近は男の子も、着物に袴というのが流行りなのか・・・。中には、小さな子供を抱える新成人もいた。同じ二十歳の親として、複雑な気持ちだった。大きな騒ぎも無く、無事終わったようで、良かった。皆、本当に素敵に輝いていた。良いなあ、私もこの頃に戻りたいなあ・・もう一度あの日に戻ったら、高校の友人と遊びに行きたかったなあと思う。あの日、私は、迎えに来てくれた父の車の中で、もう、着物の帯を解いてしまった。東京から来て一人、一緒に懐かしむ友達も、いなかったし、その後、一緒に遊びに行く友人もいなかった。大学に入って友人ができたが、この街での幼馴染みはいなかった。考えて見れば、寂しい成人式だった。それに比べ、この街で小学校、中学校、高校を終えた娘は幸せだと思った。一旦帰宅した娘は、おじいちゃんの家に行った。前撮りの時と、ヘアスタイルも違い、やはり、本番の成人式を終えた娘は、違って見えたので、父も楽しみに待っていた。父は、嬉しそうに娘に成人式の話を聞いて、また、写真を沢山撮った。「おじんちゃん、お蔭様で、良い成人式を迎えられました」と、可愛い姿でお礼を言われた父は、本当に嬉しそうに、「そうか、そうか。どういたしまして。」と言い、これからお友達と食事に行くと言う娘にお小遣いを嬉しそうに渡した。本当に可愛いのだなあと思った。この子のお嫁さん姿を見せてやりたかった。きっと、結婚式には、おいおい泣いたに違いない。傍にいたパパに「この子が結婚する時は、辛いぞう」と言ってからかった。自分がその場にいない事を、もう、察しているようだった。暫く父の家で過ごし、帰宅した。娘は着替えを済ますと、同窓会に出かけていった。楽しい一日になったのだろう。私は、9時前には疲れはて、ソファでそのまま夜中まで寝てしまった。成人おめでとう。
2004年01月11日
コメント(4)
約束通り、今晩は皆で食事に行った。無理をお願いして、いつも行くお店に個室を用意して頂き、父の足のために、座椅子と数枚のお座布団を出して貰った。今日、父は電話で、食欲がないので、自分は良いから、お前たち家族だけで行ってくれ・・・などと気の弱いことを言っていたが、それでも私が迎えに行くと、外出する際の必需品を持って、車に乗り込んできた。体温計と、37.5°を超えた時に服用する抗生物質、酸素スプレーの入った袋だ。その姿を見て、少し、悲しかった・・・。お店は老舗のステーキ屋さん。おかみさんは、とても商売上手なニコニコした方。娘さんがお店を継いでらっしゃり、その姉妹夫婦と数人の従業員で切り盛りしていた。人の大勢いる一階を避け、結構、勾配のきつい階段を父ははあはあ言いながら上っていった。後ろから娘達が支えた。部屋に通していただき、持ってきた酸素ボンベを口にあて、暫く吸うと、どうにかましになったようだった。さすがにいつも食べていたサーロインは食べられそうにないので、小食の私がいつも注文する小口の物を頼んだ。父は「これが最後になるかもしれないから」と冗談とも本気とも取れない事を言い、ポケットからカメラを出した。少しドキッとさせられ「何を馬鹿な事言って・・」と笑ってはみたが、「皆で撮ろうじゃないか」と言った父は、寂しそうだった。雰囲気を察した娘が「そう言えば、何回もこうして来てるのに、写真撮った事ないよねぇ」とフォローしてくれた。皆で並んで、螺鈿細工の素敵な屏風の前に並び、顔見知りのお店のお姉さんに撮って頂いた。それから、何枚も、私達家族だけやら、両親夫婦二人だけのやら、まるで小学生のように、はしゃいで撮りまくった。父は、やはり食欲が無かったが、それでも陶板の上のお肉を半分は食べる事が出来た。「良かったね、食べられて・・。」と言うと、父も嬉しそうに「うん、大勢で食べると、食べられちゃうな」と嬉しそうだった。成人式を明日にした娘に「お前が生まれた日は、もう、何年ぶりかの大雪でなあ、帰るのに4時間も掛かったのが、昨日みたいだなあ」と、感銘深げに話し出した。そうだった。あの日、病院の窓から、目の前にあった名古屋城公園の雪景色は、忘れられない。雪の白一色のお城の姿、ライトアップされた本当に綺麗な景色を娘を産んだ夜、ベッドの上からいつまでも見ていたっけ。その子がもう、二十歳を迎えるなんて、夢のような20年だったような気がする。外に出たら、少し時雨れていた。明日は良い天気だと良いな。
2004年01月10日
コメント(0)
今日は、父の76回目の誕生日。こんなことになって、本当に可哀想だが、誕生日はおめでたい。庄屋の11人兄弟の末っ子に生まれ、年を取った両親に可愛がられたが、幼少から母親が結核にかかり、後妻だった母と、看病した両親の同じ姉二人も亡くした。それからは悪がきで名を馳せ、教育者の父らに反発、程なくしてその父親も他界。東京の兄に引き取られ、チンピラと喧嘩しては、義姉を何度も警察に通わせた。召集令状が来た訳でもないのに、上の学校に進めようとした周りに反発、志願して海軍の中野無線学校に入学、実戦を経験していないのに、ロシアに抑留され4年。育ち盛りをロシアで生き延び、復員。兄の興した会社に入社。東京で25年、営業畑を歩き、40半ばで田舎に帰り、会社を興した。どうにかこうにか、食べられるようになり、不況の中、皆さんに助けられ、会社も、次代に受け渡し、悠々自適の日々を送り出したばかりだった。私がもっと文章が旨ければ、本当に面白いエピソードが満載の小説が書けるような、駆け抜けてきた人生だった。特に、ロシアに抑留されていた時の話は、いつも、面白く、子供達には、またとない話ばかりだった。そんな父が最後に10万人に一人の病に倒れるなど、思いもしなかったが、父らしいと言えば、父らしい病かもしれない。毎年、どこかに食事に行くのが、常だったが、食欲のない父には、酷だと思い、電話をするのを躊躇した。昼頃、母から電話。「あのね、今、お蕎麦屋さんにいるんだけど、お父さん、ちゃんと、一人前食べられたのよ」ああ、良かった。昨夜の神頼みが効いたのだろう。嬉しかった。「だから、貴方が言っていたお食事の事だけど、予約してくれない?」二三日前、誕生日に食事するかどうか、母に相談したが、食欲がないので、辞め様かと言っていた。「解った。今日はもう、無理だけど、明日、Aの成人式のお祝いも兼ねて、美味しい物、食べに行こうか」電話を切って、ほっとした。神様、ありがとう。午後、ジュリアンとジュンを連れて、おネエ~と散歩に出た。面白かった。ジュンは大喜びをしてジュリアンにまとわりついた。大型犬のジュリアンは、黙って立ち尽くし、ジュンの好きなようにさせていたが、暫くすると、私の顔を見上げた。まるで「もう、何とかしてよ~」と言う表情。そのうち、二匹のリズムが合って来た。歩幅の大きなジュリアンがどうしても、先になる。しかし、少し立ち止まってジュンを待っているのだ。そうしながら、父の家に連れて行った。犬の声を聞きつけ、母が飛び出してきた。「わあ、ジュン、お帰り」嬉しそうに言う。よそにやってしまおうとしていたのに、現金なものだ。庭に二匹を放ったら、ジュンが縄張り意識からなのだろう、ジュリアンに歯をむき出して怒り始めた。母の持つボールの水をジュリアンが飲みだしたら、怒って噛付きに来た。ジュリアンも黙っていなかった。なにせ、ジュンが来る前は、自分もこの庭で遊んだのだから。暫く、自然のままにしておいた。そのうち、体の大きなジュリアンに叶わないと諦めたジュンは大人しくなった。父は、泣きそうな顔をして、嬉しそうにジュンの頭を撫ぜようとした。「お父さん、ちゃんと、手を洗って,消毒してね」大きなマスクをした父は、うんうん、と頷き、父はひとしきり、ジュンを撫ぜた。暫く遊ばせ、父の家を後にして帰宅。小一時間の散歩だった。普段運動をしない身には堪えた。でも、これが、私の父への誕生日プレゼント。喜んだ父の顔が嬉しかった。
2004年01月09日
コメント(2)
朝から、熱っぽかった。風邪が酷くなったのだろう。今日から、下の娘は三学期。7時に起き上がって下に降りて見送った後、洗濯を上の娘に頼み、また、ベッドにもぐりこんだ。お昼前、玄関のドアを叩く音で眼が覚めた。もう、登校した娘が帰ってきたのだ。そりゃ、今日は始業式だけだから当然か・・・。着替えて下に降りた。少し楽になった。昨日、七草粥を作れなかったので、早々に材料を刻み、作り始めた。「お母さん大丈夫」制服のまま娘が心配して聞いてきた。何だか、大丈夫の感じ。「うん、大丈夫だよ。今、美味しい七草粥と、何か作るね」と言うと、嬉しそうに部屋に帰って行った。大きな図体をしていても、中身はまだまだ子供だなあと、少しほっとする。パパも帰って、七草粥を皆で頂いた。昼食後、娘達に手伝ってもらい、庭のレンガを敷いた場所を片つけた。犬小屋の中に使わなくなった綺麗なトイレマットを敷いてやった。今日はお天気が良く、南向きのこの場所は、とても居心地が良さそうだった。夕方、母がジュンを連れてきた。程なくして父が車でジュンの餌や、使っていたバスタオルを運んできた。車から降りて、庭に上がって来た。「おお、なかなか良い場所じゃないか」満足そうだった。ジュンは横のベランダの柵に繋がれた。両親が帰って行くと、何時までも門の方を見て吠えていた。暫くして、「うるさいよ!!ジュン」と言うと大人しくなった。夜。とても冷えてきた。娘が「お母さん、ジュン可哀想だよ、中に入れてやろう」と言い出した。確かに今まで冷暖房完備のお犬様生活をしていたワンコには、この寒さは堪えているだろう。まして、コーギーは寒さに弱い。仕方ない。使わなくなったおばあちゃんの部屋の外にいる。娘と窓際を片付け、ビニールシートを敷き、新聞紙を敷いて、母が持ってきたバスタオルを敷いて中にジュンを入れた。大暴れ。廊下にいるジュリアンも騒ぎ出した。「おい、パンを持って来い」パパがジュリアンを抑えながら言った。パンを渡すと、「ご対面させるからジュン、連れて来い」さあ、大変!。二匹は、お互い飛びつきながら、吠え出した。狭い廊下だ。パパは、二匹を叱咤するいと、双方に順にパンを与え出した。ジュリアンは、さすがに女の子。大人しくお座りをして、待った。我侭一杯に育ったジュンは、パンを持ったパパの手に飛びついた。すかさずパパは一喝し、大人しくなった。これで二匹の対面は終わり。ジュンを元に戻し、電気を切ったら、大人しくなった。やれやれ、明日からどうなる事やら。父から、二度電話有り。家の中に入れてやったと聞くと「そうかそうか、ありがとうよ」と嬉しそうに安心してそれから、掛かって来なかった。これが、他人にあげたら、どんなに気を揉んだ事だろう。やはり、これで良かったのだと思った。夜中、パパが近県にある、お稲荷さんに行きたいと言い出した。こんな夜に行きたいと言い出すには、何か余程、仕事の上の悩みでもあるのだろうと思い、二人で、行く事にし、娘達に良く戸締りを言いつけパパの車に乗った。真夜中の街道は、大きなトラックばかり。高速を降りて、一級河川の堤防の道をひた走った。前も、後ろも大きなトラック。かなりのスピード。真夜中だが、参拝者のため、お稲荷さんは明るい電灯が灯っていた。参道の商店街は勿論しまっていたので、いつも止める駐車場を通り越し、お稲荷さんの前まで車で行った。階段を上がり、誰もいない神殿の前で、心静かに祈った。父の病気の事、食欲が出ますように。会社の事。何を悩んでいるのか解らないが、パパの心が少しでも軽くなりますように、そして、家族が健康でありますように。少し欲張りすぎたかな・・・・と思いつつ、おみくじを引いた。私は吉。パパは半吉だった。11月に来た時、パパは大凶を引いた。それから、本当に嫌な事ばかりあった。信心深い方じゃないが、さすがに参っていた。「パパ、半吉で、ツーランクアップじゃない。良かったね」と言うと、「まだまだ、ダメだなあ・・・」と空を仰いだ。星が綺麗だった。深夜の空気はとても冷たく、息も真っ白になった。明日は、パパに良いことがありますように。
2004年01月08日
コメント(0)
今日は、父が予約してあった血液内科に行く日。9時40分に迎えに行く約束だったのに、30分になったら、母からTEL。せっかちな父が我慢出来なくなって、イラついているという。仕方ない、洗濯物を干していたが、娘に頼み、父の為、早めに迎えに行った。玄関の前でクラクションを鳴らしても出てこない。今度はもう少し長く鳴らしたら、口をへの字にした、不機嫌そうな父が出てきた。だるくて、我慢できず、一刻も早く病院に行きたかったらしい。母が「IにはIの生活があるんだからって言ってるのに、お父さん、我侭言ってごめんね」と、済まなさそうに言う。「良いよ、気にしなくて、お父さん、だるくて仕方ないんだから、こうなっちゃうんだよ」そう言いながら、病院に向かう。慣れない代車は、ようやく、二日目にして何とか感覚が取れるようになった。一旦病院の前で降ろし、帰宅した。点滴と、血液検査で2時間は掛かる。残った家事を片付けていたら、母からTEL。「お父さん、座っていられなくて点滴室にいるから」仕方ない。行くか・・・。病院の点滴室に横になった父が新しい主治医の女医さんと話をしていた。「このだるさは、どうにもならないんですよ。ただ、輸血する手は残っていますが、輸血して、だるくなくなると言う保障はないんです。」とうとう、輸血の話が出てきたか・・と思った。「あのう、父はRhマイナスBなのですが、すぐに有るのでしょうか」先生はちょっと戸惑われ「そうなんですか~。今すぐは有りません。一週間ほど取り寄せるのに掛かりますから、それからにしましょう。」点滴液は、聴けばただの水・・・つまり、体液と同じ物だと言う。だったら、わざわざここに来なくても、だるい時、近くの内科医でも良いのじゃないかと思い「実は近くにS先生が開業なさってらっしゃるんですが」S先生は元この病院の内科部長をされていた。今は、同じこの病院の循環器医師だった息子さんと私の住んでいる街で開業なさってらっしゃり、我が家のホームドクターをお願いしている信頼できる方だ。「え?S先生がいらっしゃるんですか?それは好都合ですね。私はS先生と一緒に勤務していましたから、よく存じておりますので、紹介状を書きましょう」話は非常にスムーズに進み、毎日、父のダルさに対応できる手立てが出来た。点滴が終わり、投薬をしてもらい、帰宅した。帰宅後、父が話しがあると言い出した。何だろう・・・・。「あのなあ、ジュンの事だけど」ああ、良かった。また、病気のことを聞かれたらどうしようと内心、ビクビクした。母が犬の世話が大変になったので、知り合いにあげようと思うのだと言う。私は、一瞬考えた。あれほど可愛がっている犬を手放そうとしている。余程のことだろう。しかし、今、母は父の世話で大変だが、父が亡くなった後、寂しくなるに違いない。多分、ジュンを手放したことを後悔するだろう。だが、他人にあげたのでは、返してくれとは言えないじゃないかと思った。やはり、うちで引き取るのがベストじゃないだろうか。少し間を置いてから切り出した。「良いよ、何も他人にあげる事はないよ。うちで引き取るって前にも言ってあるじゃない」「だって、お前の所には、ジュリアンもミルキーもいるじゃないか。大変だろう」「大丈夫。もう、家族会議は済んでるから」「そうか、そうしてくれるか」父は、やはり、他にやりたくなかったのだと思った。そう言った父の顔が、ほっとしていた。私のところにいれば、いつでも会える。これで良いのだと思った。本当は、今晩は七草粥を作ろうと材料を買っておいたが、疲れ果てて、結局別のメニューになった。主婦として、すごく、気になったが仕方ない。夕食後、家族に報告した。皆、大丈夫だよ、まかしておいて・・・と言ってくれた。本当にありがとう。
2004年01月07日
コメント(0)
朝から、昨日、バッテリーがいかれた車を引き取りに車やサンが来てくれた。代車は、新車のツインカムのスカイラインGT。私は3ナンバーが苦手。不必要に大きいし、やはり、日本の道には、5ナンバーで十分と思っている人なので、大きなエンジンの付いている車は好きじゃないし、苦手だ。でも、この町は車が無いと生活が出来無いので、贅沢は言っていられない。慣れない車を恐る恐る運転しながら、クリーニング屋サンに行って、久々のカウンセリングに出かけた。思いの丈をカウンセラーに吐き出した。ここがあるから、今の私は、救われている。潰れそうになる自分をかろうじて支えていられるのは、こうして、時間を掛け、思いを吐露できる場所が有るからだろう。昼食を用意して帰宅、昼食後すぐ、父の家に行き、両親を乗せ、銀行に寄って病院へ。ERの点滴室に案内された。この病気は感染が一番恐いので、一般の外来病棟より人が少ないERでの点滴となった。昨日から、ほとんど食欲が無く、おかゆを二口ほど、口にしただけとの事。昨日の先制パンチが効きすぎたのかもしれない。空元気だが、元々気の小さい父には、重い宣告だったのかもしれない。病名と、病気の説明だけでこうなのだから、やはり、命の限りを口のするのは憚られる。点滴をしている間に母を連れ、今度は、違う銀行に行き、色々な手続きを終え、再び病院に戻り母を降ろし、私は私の病院に戻り、今度は診察。医師の都合で、30分ほど、予約の時間が押していて、結局、迎えに行く時間が遅くなり、両親にはタクシーで帰ってもらった。そして、帰宅。しかし、これからが、もう、めちゃくちゃになった。成人式の着物を美容院に持ち込まなくてはならず、慌てて風呂敷に小物など包み娘とまたまた、車で駅前の美容院へ。学生の分際でこんな素敵な美容院に来ているのかと思うような美容院だった。アンティークの家具が並び、鏡は大きなマホガニーの丸い木枠の付いたやはりアンティークの物。待たされた椅子も、猫足のアンティーク。非常に居心地の良い場所だった。暫く待たされ、美容院を出たのが午後6時。それから、暮れに父の騒ぎで以前からの約束のバッグとお草履を買う暇がなかったので、デパートヘ閉店間際の閑散としたデパートは居心地が悪い。しかし、娘の気に入った物があり、購入。やれやれこれで帰宅できると途中まで帰ってきて思い出した。出掛けに、例の酸素機器を買いに行く約束だったのだ。途中から、道を変更して、また街中まで出て、大型電気店を二軒回ってやっとゲット。それも、同じ物で、元々5万円もしないのに、以前買った店より1万円もお得だった。一体どうなっているのか本当にこの安値は見当も付かない。まあ、得した気分は良い物だ。やれやれこれで本当に帰宅だ。時計は午後7時半過ぎ。クタクタになりながら、それでも無理をして両親の家に酸素機器を取り付けに行き、嬉しそうな父の顔が見たくて、父の大好きな孫娘とお草履とバックも見せに行った。結局うちに着いたのは、午後8時過ぎ。本当に今日は何という日だったのでしょう・・・・・。午後から、自分の思考が止まったような、体だけが機能しているような、そんな一日だった。
2004年01月06日
コメント(0)
今日から、パパは出勤。と言っても、今日はスーツを着込み、賀詞交換会とやらで、挨拶回りらしい。朝早く起きて、8時過ぎにまた、眠くなった。少しウトウトする。10時過ぎ、「あ、そうだ、クリーニング」と気づき、慌てて暮れに出せなかった娘の制服など車に詰め込んで出かけようとしたら、またまた、車が全く動かない。もう、本当にバッテリーがだめになったようだ。仕方がないのでまたJAFのお世話になることになった。そこにTEL。「Iちゃん、お父さんが大変」「どうした?」「もう、体がどうにもだるくて、じっとしていられないから、病院に連れて行けって言ってるの」しかし、私の車は動かないし、JAFを呼んだばかりで動けない。仕方が無いので近くの掛かりつけの医者に電話するよう言い電話を切った。電話口の向こうから、父のうめく声と、苦しさから母を怒鳴る声がした。暗澹たる思いになり、父の家まで、走って見に行こうかとも思ったが、医者の方が適切な指示をしてくれるだろうと、待った。JAFが来てくれ丁度車にバッテリーの充電をしてもらっていたら救急車のサイレンの音。何処かなあと思っていたら、娘が駐車場に降りてきて「今の救急車、おじいちゃんちだった」と電話を手渡された。「Iちゃん、お父さん、救急車にきてもらって今、搬送されるところたから」「解った。車が動いたらすぐ行くから」想像が出来た。顔をしかめ、顔面蒼白の父が、自分では体を持て余し、母に当たっている図。そして、どうして良いのか解らず、おろおろして腹を立てパニクッている母。JAFに事情を話して、何とか今日一日大丈夫なように対処してもらった。すぐに病院に行った。ERへの階段を上ってそのままERの方に駆け出そうとしたら、ベンチに父の姿。熱は無いが、血液検査で白血球が1600しかなく、点滴をしてもらったそう。熱が無いのでそのまま帰宅して良いと言われたが一向にだるさは改善されなく、ただただ、だるい・・と恐ろしく機嫌が悪い。その上、母が会計に行ったまま帰って来ないとお冠だ。そんなに母が頼りなら、もっと優しくすれば良いのにと思うのだが、なかなかそこは、50年連れ添っても至難の業らしい。母を探して来いと言われ、はいはいと素直に階段を降り始めたら、顔見知りの病院内の喫茶店の女性が母を伴って上がって来るのに出くわした。母は母で、会計に時間が掛かって仕方ないのに、どうして待てないのかと怒っているし、喫茶店の女性は女性で父に呼び止められその切迫した表情に、ご好意で母を捜してきてくれたわけだし、誰も悪くないのに、もう、本当に人の気持ちはこうも行き違うのかと情けなくなる。まあまあ、と二人をなだめ、喫茶店の女性に恐縮してお礼を言い、二人を伴って下に降り、車を回し乗せた。父も長引くこの症状に、いささか参っているようだ。このまま何も言わず、父にただただ、感染に気をつけろと言い続けるのも限界かもしれない。車の中でも、声を荒げて母に文句を言う父を見て、もう、黙っているのは酷だと思った。「お父さんさあ、お父さんの病気は難病だって言ったでしょう」「ああ、解ってるよ、だから、お前達の言うとおりにやってきたじゃないか」「うん、でもさ~、お父さんが考えてるように簡単に直る病気じゃないんだよね」「どう言う事だ」「あのね~、お父さんの病気は10万人に一人の難病なんだよ。だから、あの病院じゃなかなか対処できないの」「・・・・・・・。」「あのね~、お父さん大当たりしちゃったんだよ。だから、年末ジャンボも、きっと大当たりするよって言ったら、本当に一万円当たったじゃない。」「10万人に一人なのか?」「そう、だからね、大当たりしちゃったのよ。」「何が原因だ?」「それ解ったら、難病じゃないでしょうが。それ解ったら、とうに治ってるでしょう。解らないから、今、お父さん苦しんでるんじゃん」そこまで言うのが精一杯だった。父とは、本当に仲の良い親子だ。私は自他共に認めるファザコンだし、父も、30近くまで嫁に出したがらず、連れてくるボーイフレンド、恋人にことごとく文句を言い、パパとも一戦を交え、やっと結婚できた人だ。だから、父はパパには一目も二目も置いている。文章にするとこんなふざけた表現になってしまうが、私も父もこの時は精一杯の会話だった。病院から家まで、たかだか15分ほど、ここで一旦、会話は終わった。帰宅後落ち着きを取り戻した父が聞いてきた。「10万人に一人だって?ここに病名を書いてくれ」私は、ちょっと戸惑ったが、メモに「骨髄異型性症候群」と書いた。これでパソコンで検索されすべて知ってしまっても仕方ないと腹をくくった。「あのね、今、色々調べて、NのN病院や、第二Nとか専門の病院にセカンドオピニオンを頼もうと思ってるし、そのためにお母さんを住まわせるウィークリーマンションも探してる所なんだよ」「そんな難しい病気なら、俺は只死ぬのを待ってるしかないんじゃないのか」一番恐い質問だった。これが一番、してほしくない質問だった。「あのね~、いい加減にしてよ。誰も諦めちゃいないんだよ。助かった人だって、たっくさんいるんだよ。何弱気になってるの!!今はねぇ、体力を温存して、出来る限りの感染を予防しなくちゃならないの」「・・・。」「だから、早く治そうとして散歩したりしないで欲しいの。体力をつけるため、美味しいものを沢山食べて、頑張ってよ。内蔵は何処も悪く無いんだから」無菌室の事、移植の事、色々話した。やっと、納得してくれた。しかし、話すのはここまでだった。ADHDの混乱した頭で、精一杯話した。疲れた。帰宅後、パパと話した。「良くやった」と久しぶりに褒めてもらった。当たり前だ。自分の父親だもの。でも、これからが、また、大変なんだろうなあと、つくづく思い知らされた一日だった。私、ちゃんと立っていれるかしら・・・。大丈夫、家族がいるじゃないか。頑張ろう・・。
2004年01月05日
コメント(0)
父の様子を見に行った。泊まった際の忘れ物を取り来たと言う理由で行った。父が、少しだるそうだった。今朝から、あまり、食べていないらしい。「お父さん、食べないとだめだよ」「でもなあ、食べたくないんだ」「この病気は何なんだ?」「だから、血の数値が普通の人よりうんと少なくなって、そのせいで、倦怠感や、感染し易くなるって説明したじゃない」父は、不服そうに口をつぐんだ。酸素の機器を使っていた。暫くして、父の家から帰宅しようと車のエンジンを掛けたら掛からない。ウ~、こんな時にまた、バッテリーが・・・。父に言ったら、渋々コートを着て出てきてくれた。私の車のボンネットを覗き込み「バッテリーか」。車庫のシャッターを開け、自分の車のボンネットを開けた。びっくりした。中のムーブメントに全部カバーがついている。何処に何があるのか、分からない様になっているのだ。二人で顔を見合わせ大笑い。「おい、バッテリー、何処にあるんだぁ」「分かんないよ~、私の車じゃないもん」「馬鹿言え~、俺だって、開けたのは初めてだ」「何自慢してんの。車が来てから、見てないの?」「当たり前だ。この車は故障なんかしないんだ」全く自慢も、ここまでくると、馬鹿馬鹿しい。しかし、やっとバッテリーの有りかを見つけてカバーをずらし、ブースを繋いだ。「やれやれ、外車はこれだから辞めろって言ったろう!」ここぞとばかりに、言われた。確かに電気系統は弱い。しかし、型が変わった今も、ずーーっと古い型のまま乗り続けている愛車だ。そのままエンジンを掛け家の中で暫く待った。見ると、父の指に小さな怪我。「お父さんどうした?」「ちょっと引っ掛けた」血が止まらなかったらどうしようと思った。恐かった。白血球が少ない、血小板が少ない。いずれ血が止まらなくなると言われていた。しかし、暫くすると、血は止まった。良かった。本当に、心臓に悪い。父は「何を大袈裟な」と言ったが、知らないのだから、仕方ない。父にこんな事をさせた自分が情けなかった。ごめんね、お父さん。外に出た。あっ、エンジンが止まってる。もう一度家の中に入って、もう仕方ないJAFに電話。結局、JAFのお世話になった。全く、今日は、ついてない。JAFに動かしてもらい帰宅。夕方、父が母と一緒にうちに散歩に来た。「大丈夫?」心配だった。だるくないのか?無理しているのじゃないか・・・・。父は、少しでも運動して、体を元に戻そうとしているらしい事が後から分かった。違うのよお父さん。今は体力を温存しなくちゃならないの。大事にしなくちゃならないの。でも、言えない。何故?と聴かれるのが恐い。どうしよう・・・・。今日の所は、何も言うまい。毎日が、迷いと、願いの日々。お父さん、頑張って生きて。
2004年01月04日
コメント(0)
3日ぶりの自宅での朝。お掃除も何もしていないから、何だか、お正月の感じがしない。階段を下りて、一応の格好をしたお玄関横を通って、やっと、お正月なんだと実感。今日は、父は病院で注射を打ってもらいに行く予定。自分で運転できそうとの事。病院はまだ、お正月休みなので、ERでの点滴だったらしい。血液検査の結果、白血球の数値はあまり良くない。退院時の半分。だるいのは、仕方ないね。朝から、4回の洗濯。主婦はお正月も何も無いなあ。でも、お天気はすごく良いから、ありがたい・・・と言っても、結局、外に干したのは一回分だけ、後は、乾燥機にお世話になった。来月の電気代、すごいだろうなあ・・。お布団は干した。お日様の匂い。良い香り!!夕飯は、昨日のすきやきにおうどんを入れて、簡単に済ました。夜、久しぶりにゆっくりTVを見た。今日は、穏やかな日だった。
2004年01月03日
コメント(0)
朝から、年賀状のレイアウトをしに帰宅。毎年、ここのところ年が明けてから、書いている。来る方も、そういう人が多いのは、やはり、私達の年齢が、年末に賀状を書く暇の無い年齢なのだろう。お互いそう解っているので、何となく、気持ちが楽チン。今年は年末に購入した「筆まめ」から抜粋して作った。 サルが温泉に入ってのんびりしているイラストを選んだ。本当に、のんびりしたい気分だったので、すぐ決まった。「温泉」の言葉は、年末の父の一件で、心が痛いと言うのが正直な気持ちなのだが、行きたい場所ベスト1だから。夕食は毎年の恒例で、2日は「すき焼き」。父は本当に楽しそうに、「旨い、旨い」とたらふく食べてくれた。本当に良かった・・。こうして食べられるうちは、大丈夫!お父さん、まだまだ、死ね無いよ。私や、皆が、守ってあげるからね!パパは、可哀想に二日から年末にし残した仕事をしに会社に行っていた。帰宅後、遅くにやっとすき焼きにありつけた。父は、その頃にはもう、休んでしまった。父の様子を私達から聞き、安心したようだった。こうして、私達の超近所への帰郷は、終わった。片付けをし、残ったお料理を貰い、車二台で、大移動。たった、二泊なのに、娘達は冬休みの宿題やら、着替えやら、信じられない量の荷物。やれやれ、こんなに近い場所でさえこうだ。温泉にでも行っていたらと、ゾッとした。深夜、掃除のしていないいつもの汚い我が家に帰宅。それでも、やはり、自分のうちは気持ちが落ち着くのは、何故だろう。結婚して20年。結婚する前の方がまだ、長いが、今の私には、実家より、ここの方がもう、落ち着く場所になっているのだろう。何だか、不思議な気分。
2004年01月02日
コメント(0)
下の娘を産んでからお世話になって以来16年ぶりに、実家で家族揃っては、結婚して以来20年目にして初めてのお泊り。父がこんな事にならなければ、こうして、ここで目覚める事も無かったと思うと、感謝したいような、複雑な気持ち。母と二人で結婚前以来初めて、お節を、お重に詰めた。こうして二人で詰めるのって、楽しいねぇと母が嬉しそうにつぶやいた。手作りの伊達巻と、サーモンのマリネしか、今年は作れなかった。しかし、12月初めに通販で頼んであったお節が有ったので、お重は一杯になった。家族を起こして、着替えさせ、皆が揃って、六人でお屠蘇でお祝い。名前の書かれた祝い箸で、それぞれ好きな物を摂り皿に摂り、大勢で頂くお節は、また、格別だ。今年は、私達家族には、試練と闘いの歳になるだろう。パパは、仕事、娘達は、勉学、そして私と母は父の病。負けない・・・。改めて、決意を硬くした。私も、娘達も風邪が良くならないので父にうつっては大変なので抗菌マスクを使用。昼間に一旦うちに届いたお年賀状を取りに行った。年末のごたごたで、まだ、一枚も書けないでいた。午後から、少し書こうとしたが、パソコンをパパとチビに占領され、仕方ないので私は明日に延ばした。夕方、また、父の家に皆が帰ってきた。父の楽しそうな顔。こうして、ここでお正月を迎えられ、本当に良かった。父も、精神的に良いからなのか、元気だ。少し動いては、息が苦しくなり、酸素を吸っていたが、ダルさは無いようだ。嬉しそうに孫達にお年玉を渡して、ニコニコしていた。このまま、元気でいられたら、本当に良いのにね。パパ、ありがとう。
2004年01月01日
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1