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以前から、会社をやっていた時から、 うちは、土日に連休だったためしがない。 だからもう、慣れちゃったが、 Uターンラッシュってのもあまり経験がないし、 行楽地へのラッシュに巻き込まれても、 「行楽地からの行き帰り」だったこともあまりない。 会社の機械は24時間動いたいたから、 土日でも誰かが会社に行かなくてはならなくて、 土曜がお休みだったことはあまりない。 下の娘が量販店に入ってから、販売促進部に配属になるまで 土日の量販店は書き入れ時だから、勿論休みはなかったし。 考えてみれば、私自身も百貨店勤めだったから、 土日の連休はあるはずがなく、元々社会人1年生から、 人さまが休みの時、働いて、平日がお休みって方が 人生多かった。 そして今も、パパは人さまがお休みの時は、 書き入れ時のお仕事をさせてもらっているので、休みはない。 世の中、そう言う方も多いと思う。 なのにTVのニュースや、番組は、 土日や、普通のお休み、連休の方中心で進む。 一人お昼ご飯を食べながら、は~、また同じような特番やってるし。。。。と 正直、思っちゃう。 土日がお休みじゃ無いって、結構、なれちゃうと心地良い。 映画に行っても、展覧会に行っても空いている。 反対に正直、土日の繁華街には近付かないようにしている。 平日の方が、お買い物もスムーズだし、 土日は考えられないほど並んでいる人気店も、そう並ばずに買える。 今日もまた、行楽地からのUターンラッシュで、高速道路は渋滞ですって。 今日少し表に出てお買い物し、ガソリンスタンドに行った。 快適と言えば、快適なのかもね。
2013年07月15日
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東京は、今日で35度を超えた日が、7月では史上初とか・・・・。ヒッキーのような生活をしているし、私がいつもいる部屋は、ベランダへ出る窓は開けられない。前の家からどうしても諦められず、玄関のロビーとキッチンとの間に探して探して京都のアンティークショップで見つけ付けたステンドグラスのドアを外して持ってきて、ベランダに出る前に置いちゃった上、表に物置を置いたので、事実上使用不能になっている。東南向きだから、朝日が入ると、ステンドグラスが本当に綺麗で、大変だったが、つくづく、持ってきて良かったと思っているが、お陰で、窓が開かないから、風が通らない。つまり、「暑い」となったらクーラーを点けるしかなく、そのエアコンが、上についているので、正直、家の中全体を少しでも涼しくしようとすると、エアコンはこれ一台でその前にPCの机があるので、もろに冷気が当たり、寒い(爆)風邪ばかりひいている冬、お医者さんに「夏にもっと沢山汗をかくように」と言われてるのに、いっこうに、守れていない。だが、今年のこの気温は異常だ。宅配業者が来て対応にドアを開けると、最近は表の熱気がもう、凄い勢いでモワ~っと入ってくるし、日差しも隙間から、目に強烈に入ってくる。こういう時、宅配業者さんは、本当に大変だ。車に勿論、冷房装置は付いているが、お届けするおうちの前でドアを開け閉めするから、全然車内は冷えないそう。お仕事とはいえ、ご苦労さまですm(__)m庭のバジルも毎日ちゃんと水はやっているが、それ以上に水分が蒸発してしまうのだろう、葉っぱが縮んで、苦みも出てしまっている。元気なのはパセリと、地植えにしてある薔薇とマーガレットだけ。もともとお隣との境にあったアジサイさえ、雨が降らないから花の部分に水分がいかないんだろう、とっても綺麗な紫の花が去年咲いたのに、蕾が開かないうちに、お花部分が茶色く枯れ始めている。いくら、猛暑と言っても、去年はこんなことにはなっていなかった。今年の「夏」は、まだ、梅雨明けしてから始まったばかり。この先の事を思うと、空恐ろしい。気象予報士の中には、8月は、もう少しましになる・・と言っている人もいるが、あくまで予報。すでに、熱中症で多くの方が搬送され、亡くなった方も出ている。それも、表での農作業ではなく、室内で亡くなった方もいる。電力の事を考え、省エネの事を考え、できるだけ、我慢するようにしているが、朝7時の時点で東京は30度になっている。観ていたら、コンクリートジャングルの道路の交差点、地面近くの温度は45度を超えていた・・・・うっそサウナ状態の所に、皆、洋服を着て、表を歩いているわけだ。どうしてこうなっちゃったのか、気象予報士が説明していたが、本当は皆、解っているはずだ。オゾン層の破壊は、何年も前から言われていたことだ。太陽からの直射日光を和らげてくれるオゾン層の破壊が、肌に痛いほどの日差しを地球に届けてしまう原因の一因であることは間違いが無い。これは、日本だけが頑張っても、地球は救われない。世界中の人が、肝に銘じて「オゾン層」を死守しなければならないのだ。環境破壊の工場からのスモック、車の排気ガス、冷蔵庫のフロンガス・・・etc難しい事は、政治家に任せ、私達にも出来ることからしていかないと、この夏、暑さの被害は尋常じゃ無い被害になるようで、本当に恐ろしい。暑い・・・・・
2013年07月14日
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近頃よく観るCMに出て来る女の子が気になって仕方ない。ある飲料メーカーのCMなのだが、観るたび、何だかフラッシュバックして、幼少期の自分をこっちの世界から見ている感じなのだ。むちむちした腕の感じや、おかっぱ頭、ぷくぷくしたほっぺに、仁王立ちになった姿、その落ち付きなさそうな動き・・・。まるで「私」なのだ。子供って皆、たいがい小さな時はこんな感じだろう…と打ち消しても、その特徴的な動きが、やっぱり、私なのだ。ずっと自分を見てるみたいで、懐かしいような、恥ずかしいようなCMを見て、そう感じ入ってる人も少なかろう。所が、その思いが自分の思いこみだけじゃなかったんだ・・・と確信になったのは、パパの一言。「この子、お前の子供の時に、そっくりだな」・・・・やっぱり(爆)彼女がそうだと言うわけじゃない。CMというごく短い間の演技に違いないのだが、凄い勢いで三輪車を漕ぐ姿、大人達の間に居てもものおじしない姿、動き続けるパワー、やっぱり何もかも、私そのもののよう。生きてると面白いことに出会うもんだと思う。今日もこのCMが流れると、「うっ私だ」とつい見てしまうのだから仕方ない。ちなみに、その飲料は、まだ飲んだことがない。彼女に敬意を表し、買ってこようかな(笑)
2013年07月12日
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ずっとそれを知るために人は生きているんだと思っていた。鬱病になって、マイナス思考、ネガティブな方向に考えが行くが、口から「どうせ」と言う言葉がよく出てしまうが、この年になると、少しだが解ってきたような気がする。特別な才能があるから、特別な人・・じゃないのだ。科学者、哲学者、数学者等など学者が、新しい何かを発見して「偉人」になることでもない。芸能人だからって、特別じゃ無い。人生の成功者が、自分が成功したからって、それが生きている意味ってことでもない。そう言う人達の中には、そう思っているような人も多くいるが、決してそうじゃないのだ。物質やお金、美味しい物や、そう言う物には全く関係がないところに、人にはそれぞれの生きる意味があるんじゃないかと思う。だって、もしそうなら、他の何も持たない人が生きている意味が無いじゃない?ホームレスの人にだって、人の地位とか、そういうの全く関係なく、神様は私達に「生きる意味」を与えたと思う。それを思うと、私が体験したことなんて、そんなに大変なことじゃ無いなあって思う。勿論、普通にサラリーマンになって、普通に家庭を持って、普通に生活してらっしゃる方から見たら、サラリーマンから会社を興し、年商十数億の会社にした人の娘に生まれ、夫が後を継ぎ、何不自由ない暮らしをしていたのに、ある日すべてを無くし、今はアパート暮らしでおまけに鬱病、多分、所謂、声をひそめ「あの人ってね・・・」って言われてしまう立場なのかもしれないが、私の周りにも、同じような体験をし命を絶った人もいたが、しかし、本当に申し訳ないが、そういう中傷は、全く気にならない。反対に、もしかするとそう言う経験をしたからなのかもしれないが、自分が生きている意味が、少し見えるようになって、実はそう大したことじゃ無いなあって、今は思っている。勿論、ご迷惑をおかけした関係各所の方には、どれだけ詫びても、詫び足りないくらいの思いでいるのは、真実だか一つ一つが本当に大切な命なんだよね。勿論、それぞれに夢を持っている人もいれば、絶望に打ちひしがれて、死んでしまおうかって思う人もいる。でも、考えてみれば、地球がこの宇宙に出来てからの年月に比べて、私達の人生なんてたかだか100年、吹けば飛ぶような一瞬なんだよね。その中で、皆、自分の周りの人と生きてる。私はここによく書くけど、人は産まれたときから、「神様の宿題をしに、この世に生まれた」と思っている。嫌なことだが、私の周りに、自ら命を絶ちお葬式に行った人だけで3人もいる。「神様の宿題、解ったのかな?答えがこれなの?」ってお葬式でいつも思った。亡くなった理由は、それぞれ違うけれど、命に代わるものなんて何もないのに・・と毎回思った。自分が生きている意味、才能は何もない。社会的な力もない。勿論、お金もない。家族も娘達は独立し、パパに世話になっている。鬱の酷い時は、「私がいなくなったら、パパ、楽になるなぁ」って本気で思う。子供たちの前でもそう言い放ったこともある。それが、どれほど家族を傷つけたのか、今は解る。全く「生きている意味が解らなかった」から。でもね、今は本当にちょこっとだけど、解る。勿論、「神様の宿題が、まだ解っていないし、出せていないから」って事もあるんだけど。多分、こういう状況になったのは、神様が、「もうちょっと頑張ってみたらどう?」ってまた新しい宿題をだしてきたんだなぁって思ったし、今度の宿題は何よ?って、天に向かって、夜中、表に出て叫びたくなったりもする。でも、それが生きるってことなんだなぁと思う。伯母のように、皆に愛を与え続けられたら、どんなに素晴らしいかと思う。まだまだ、修行が足りないね。
2013年07月11日
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少し前の話になるが、6月5日、久しぶりにパパの休日、前々から、行きたかったドルフィンにランチしに行こうと出掛けた。久しぶりに、母を連れて行ってやろうと、母も同行、嬉しそうだったよ(笑)ドルフィンは、ユーミンの曲「海を見ていた午後」に出てくるユーミンファンには、言わば聖地(笑)当時は、平屋だったが、前にマンションが建ってしまい、「売り」だった海が見え無くなって、今は立派なレストランウェディングも出来るくらいの建物に変わっている。横浜まで車で行くのは初めてだか、路線でしらべても1時間少しなので、平日の昼過ぎだし、車もそう混んではいないだろうから、同じくらいの時間かなぁと家を出たら、やはり、1時間ちょっとでドルフィンの駐車場まで行けた。思い通り、素敵なお店だった。建屋は勿論のことだが、歌のように「静かなレストラン」だった。そのうえ、抜群に美味しい。ランチの時間は過ぎてしまっていて、残念だがランチセットは食べられなかったが、その後、中華街に行き、夕食を摂る予定だったので、少し何か食べたくて、勿論、歌に出てくるソーダ水、鯛のカルパッチョ、カボチャの冷静スープ、お店の女の子に「お薦めは?」と聞いたら、「カルボナーラ、美味しいですよ」と教えてくださったので、カルボナーラを頼んだ。窓際の席から、遠く本当に三浦岬が見え、海の上を船が往来しているのが見えた。「海の見える午後」の世界そのもの。階下には、沢山のお皿にサインしたものが並んでいて、圧巻。勿論、ユーミンのもあったが、パパは大好きな「クレージーけんバンド」の物をみつけ、嬉しそう。まず、ドルフィンソーダが運ばれてきた。付けられたオレンジを上手にドルフィン、イルカのように切ってあったのには感心した。窓際に置いてみたが、「ソーダ水の中を、貨物船・・・・」は通らなかった(笑)色が濃いので、むこうが透けて見えない鯛のカルパッチョは、新鮮でとてもドレッシングが美味しかった。そしてお薦めのカルボナーラ!!!!これが、めちゃくちゃ美味しかった多分、私が今まで食べたカルボナーラの中ではNO1かもしれない。惜しみなく、ホワイトソースを使っていて、そのソースがまた、とても美味しくて、3人でシェアしてたべたけれど、中華街に行って何も食べなくて良いから、もう一人分頼んじゃおうかと思ったほど(爆)かぼちゃのスープは普通に美味しかった。ドルフィン、流石でした。本当に皆とっても美味しかった。パパ、「今度絶対ランチしに来ような」だって。パパも、青春はユーミンだったから、結婚した時、それまでお互いに持っていたレコード(CDじゃないところが時代が解る)が、二枚ずつになっちゃったくらい、二人とも大好きだった。昔、このブログにも書いたが、最期の「シャングリラ」は家族4人で見に行った。ドルフィンのお向かいにあった、ミニ(車です)のお店も可愛かったし、ドルフィンに行く前に通った公園も綺麗で散歩したくなるような大きな木々のある場所。横浜は坂の多い街だが、それもまた素敵だった。リベンジランチ、近いうちにいきますそれから、中華街に移動。この中華街、本当に好きで数えきれないくらい来ているから、勝手知ったる何とかで、必要だった普段1年中履いているビーズシューズをいつものお店で買って(母はこれが欲しくて、ついて来たようなもの)中華食材やさんでピーナッツケーキ(クッキーだといつも思うんだけど)、台湾のピータンを買って、崎陽軒でシュウマイを買って、路地裏にある中華屋さんで食事。久しぶりのお出掛けに、母も楽しそうで良かった。帰りはすっかり暗くなり、高速に入る前、横浜のウォーターフロントの観覧車がとっても綺麗だった。でも・・・・・買いたかった豚まん、買うの忘れてきちゃった。残念。また、行こうね
2013年07月10日
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小綜を好きでいる理由の一つに、彼と母親のことがある。小綜の母親は、彼がまだ小学生の時、不倫の末に家を出た。理由が理由だったので、父親も親戚も母親に子供達に会う事を禁じたが、4歳年上の姉と二人、学校に会いに来た母親と会い、帰宅した二人は、布団の中で父に隠れ泣いたと言う。そんな思いをしているのに、高校を卒業した小綜は台中から台北に出て、今兵役を送っている基隆で母親と暮らし始めた。まあ、男の子の母親に対する思いと、娘の母親に対する思いは違うのかもしれないが、よく、母親を受け入れられたと感心してしまった。多分、不倫の末に家は出たけれど、子供たちに対する愛情はあったのだろう。私の母親は、会社が無くなり家を無くし、こちらに帰って来る時、「一緒に住む?」と聞いた私に、それまで、母に厳しかった私とは一緒には住めないと言い、東京で物書きになっていた弟と、すぐ近くで暮らし始めた。弟にしたら、結構な年金をもらっている母と暮らすことは、飛んで火に入る何とかだっただろうが。散々パパに迷惑をかけた弟とは、色々な理由で疎遠になっている。それはどこの家にも一つや二つある、陰の部分だろう。その弟の所に行った母に対し、やっぱりと言う思いと、ずっと実家の近くで暮らし、お誕生日はもちろん、母の日にも一緒に食事に連れて行ったり、母の支えになっていたつもりだった自分が、バカみたいだと思った。鬱がひどくなったこともあって、ますます、母にこちらから電話することもなくなり、最初の頃は、電話番号さえ知らなかった。、母の声を聞かない日が多くなり、まるで潮が引くように母に対する、長年の恨みつらみも胸を衝くことはなくなった。考えてみれば、彼女こそ、晩年になり夫が作った会社が無くなり、会長の妻と言う座もなくし、只一人どんなに途方にくれただろう。荷物や家具を持ち出した私に比べ、身の回りのものだけ持って出た77歳の気持ちは、私以上だったと思う。以前、荷物を取りに帰った時、近所の実家に立ち寄ったが、全く何もかも、家具も声楽で使っていたピアノも、500年続いた父の実家の大きな仏壇もそのままだった。ましてや、彼女には財産である家やマンションがあったから、なかなか裁判の審判が下りず、今年の春になってやっと、責任なしの審判が降りたから、どれほどの心痛だったかと思う。だが、勿論、あの人の事だから初めのうちは、裁判の事が気になり、私に分かるはずもないのに電話をかけてきては、喧嘩になったりもした。今は冷静にこう書ける自分が、とても不思議でもある。小さなころから「だらしがない」「どうしてちゃんとできないの!」と罵倒し続け、勉強しているふりさえすれば、何も言わなかったが、テスト成績が悪い時は「私の娘なのに」と泣いて怒った母。何度も殴られた。小学生の時、殴られ、鼻血を出したことさえある。娘だったのに・・・自分の見栄のためには、例え娘の顔に傷をつけても構わない人だった。口答えをしない・・・・これが私の唯一の身を守る方法であり、母と接する時の「生きるすべ」だった。あちこちの教育相談所に連れて行かれ、暗記してしまうくらい、ロールシャッハテストを受け、積み木の組み合わせをさせられた。すべて母のため。勿論私の心はずたずたになった。どうしてできないのか、自分でもわからない部分を責め続けられた。後に私がADHD障害であることが分かった時、「そんな風に産んでごめん」と吐き捨てるように母は言った。7歳下に生まれた弟は心臓疾患を持って生まれ、自然、私は放っておかれ、内心ほっとしたものの、愛されない寂しさは、どこにも持って行きようもなく何度、しられないよう湯船に浸かって声を殺し泣いただろう。小学校に入った弟は、いつもトップクラスの成績。父も母も優秀な弟に夢中になり、私はますます一人が一番居心地の良い人間になってしまった。そんな私を理解し、包み込んでくれた伯母の代わりに大人になりパパが現れ結婚し、折角家を離れることができたのに、結局、父の跡を継いでくれたパパが、「実家の傍が良いだろう」と姑を引き取る時に、実家の近くに家を買った。流石に孫はかわいかったのだろう、子供たちには、十分なことをしてくれた。上の娘が成人式を迎える頃、難病で余命いくばくもなくなった父が、「お前には本当にかわいそうなことをした」と泣いて謝ってくれた事が、私の心の氷が解け始めた理由かもしれない。最近は母と接しても、以前のような嫌悪感はなく、「この人も、可哀想だったんだなぁ」と、優しい気持ちで接する事ができるようになった。相変わらず弟の事を責めると、同じ自分が産んだ子供なのに、全力でかばうが(笑)可哀想にその弟に「倒れたら、悪いが面倒はみれない」と言われていても・・・だ。母の対して、普通に接することができるようになり、歳を重ねるって、こういうように成るんだなぁと思った。先日は、横浜に遊びに行く時、母を誘ってあげようと思い、一緒に連れて行った。少なくとも、ロッカーベビーにならず、捨てられることもなく、ミルクを与えおむつを替えてもらった事は間違いなく、心を満たしてもらう事はなかったが、おなかを満たしてもらったのは確かなことだ。自分が親になった時、絶対に母のようにはなるまいと思ったが、愛されなかった子供は、愛することがうまく出来ないのも確かだから、母も、両親が厳しい教育者の家に生まれ、もしかすると愛されなかったのかもしれない。そんな風に考えられるようになったことが、自分でも驚きだ。母は今年79歳になった。私に負けず劣らず波乱の人生だった。母があちらの世界に行くまで、もう少し、優しくしてあげられるようになったら良いのにと思う。それができたら、きっと私自身も救われるのだろう。
2013年07月09日
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私には、親よりより大切な人がいた。親の愛情を得られないでいた私の心を、いつも大きな愛で包みこみ、許し、慈しみ、暖かいまなざしを注いでくれた人。この人がいたから、思春期にもグレもせず、無事に育った。血のつながりはないが、生まれた時から、15歳までいつも近くに居てくれた。今の私を形成している部分は、この人の影響がとても大きい。東京に帰って来たかったのは、土地勘もあったが、この人がいたからかもしれない。父の兄である伯父の妻であった伯母だ。下町に育ち、山手の奥様になり、多くの人に愛情を注ぎ、102歳まで生きた。こちらに来た頃は、もう、介護施設に入っていたが、認知症ではなく、認識、意識はしっかりとしていた。近くの施設から遠くの立派な施設にうつってからも、パパがお休みの日には、会いに行った。伯母の優しいまなざしが、いつも迎えてくれ、もう、流動食しか食べられず、寝たきりになっていたが、話しかけると、ちゃんと答えてくれた。勿論昔のように、下町なまりの良い音のする言葉は聞けなかったが。頼りにしていた長女に先立たれ、そのご主人にも先立たれ、妹にも私の父にも親しい友人達にも先立たれ、寂しいと言っていた。、従姉妹のお葬式もお通夜も、死んだY子など会いたくないと、出なかった。その気持ちは痛いほど解った。父が入院中には、高齢なのに、なんども三重に会いに来てくれた。父は10歳から伯母に育てられ、グレていたから警察のお世話になることも多く、そのたび、伯母が警察にもらいうけに行った言わば2人目の息子だった。思えば、伯母は、可哀想に先立たれてばかりいたのだ。そりゃそうだ、だれもが100歳以上生きられるはずもないわけだから。その時だ、私が、「長生きって、本当は辛いんだ」と実感したのは。人生半分にも満たない時に夫に先立たれるも、3人の子供達を皆、最高学府まで行かせ、一人頑張ってきた、とてもとても強い人だったが、心が折れた事だって、一度や二度じゃなかっただろう。それでも、伯母は、皆に溢れんばかりの愛情をくれた。70過ぎて、老人ホームにボランティアに行き、「可哀想に私より年下の方がね~」とよく言っていた。中学生になり、母に嫌悪感の何物も感じなくなった頃、唯一、母から頼まれたのだろう、伯母に訳を聞かれ、叱られたことがあった。でも、泣きながら受け入れられないと言う私に、伯母は、苦笑しながら下町言葉で言った「あんたには敵わないよ、よう」と。子供の頃、夏になると広い屋敷の庭で、毎年BBQをしたのが、忘れられない。広いゴザを敷き、机を二つ三つ連ね、七輪で野菜やお肉を焼いて、皆で、本当に楽しく過ごした。そういう時は、いつも伯母は一人台所に立ち、皆のために、大量のてんぷらを揚げてくれ、伯母のてんぷらは、とても美味しかった。ビールで赤くなった、従姉妹の旦那様や、従兄弟や父。あんな楽しい時間が私の人生の中に合った事は、懐かしさと共に「宝物」になっている。伯母と一緒に出かけるのが大好きだった。伯母の家に出入りした大工さんや、お世話になった方の所に、毎年の夏、冬の付け届けにも一緒に連れて行ってもらった。勿論その帰りに、伯母が大好きなお寿司を食べて帰ったり、浅草のお縁日に、バラで売っていたおままごとの色々を買ってもらったり。伯母と二人だけの思い出は、尽きない。伯母に「バイバイ、また来るね」と手を握り立ち去ろうとした時、布団から小さな手を出し、「バイバイ」としてくれたのが、まともに伯母と接した最後になった。しっかり意識があるのに、紙おむつ、流動食でどれほど辛かったろうと思う。歳を取る…・と言う事は、辛いことなんだなぁと、つくづく思う。一時、危ないと言う時にすぐに会いに行った。でも、いつも伯母が言っていたように、「明治の女は強いのよ」と持ち直し、ひと月もした頃だったろう。パパがお休みだったので、伯母に会いたくて会いに行った。声をかけたが、小さく頷いただけで、具合も悪そうだったので早々病室を失礼した。そしてその秋の夜、伯母は天国に召された。まるで、私を待っていてくれたように。昨年、10月の出来事だった。前の家にいる時、遠かったこともあって、いつも「伯母が亡くなったら、自分は正常でいられるだろうか」とさえ思った。しかし、こちらに戻ってきて、何度も会えた事で、現実と向かい合い、可哀想な姿を目の当たりにし、天寿を全うした伯母に、御祝いを言いたくなるような気持ちだった。先に逝った、伯母の愛する人達にも、きっと会えたことだろう。哀しいけれど、寂しいけれど、胸に溢れるくらいの思い出を作ってもらったから、その思い出だけで、これからの人生、ちゃんと生きて行けそうな気がする。おばちゃん、ありがとうございました。そちらで、皆に会えましたか?
2013年07月09日
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東京に帰ってきて、もうすぐ1年と7カ月になる。一昨年、ここに来た時、これから一体どうなるのかなぁと思いつつ、まだ実感がなく、良い土の小さな庭に花の苗を買って来ては植えたり、小中学校の同窓生とランチに行ったり、本当に、自分の置かれた立場や運命の実感が無かった。半年経った頃、パパの仕事が決まって、昼間一人になり、やっと、考える時間が出来、嫌でも実感した。そんな中、何が辛いって、ハウスメーカーのCMが見られないのだ。そりゃそうだなぁと、実感している。家を建て替えるのに、毎週ハウスメーカーに通い、担当の方とデザイナーと建築家の先生と、1年掛かって設計した。そして仮住まいの家に引っ越し半年、やっとできた家だったものね。毎日、古い家を壊す所から、基礎の部分の段階から、おうちが出来あがって行くまで、写真や動画に残した。辛くて観れないから、削除してしまえば良いのに、それもできない。そして引っ越し、何とか上の娘の結婚に間に合い、お嫁に出した。オールドイングリッシュシープドックのジュリアンをあの家で見送った。16年いたブルーの目をしたシャムのミックスの猫のミルキーも見送った。庭に2匹とも葬って、それぞれの木を植えた。私にとってあの家は、あの頃私のすべてだった。だから、同じハウスメーカーのCMは、リビングの吹き抜けの2階の手すりなど同じ部材を使っていて、目をそむけてしまう。胸が凄く痛い。そんな時、ああ、まだ傷は癒えていないんだなぁとつくづく思う。毎日、日は昇り新しい朝は来るけれど、楽しかったあの家での3年間はもう2度とない。建て直す前の庭にあり、新しくなった庭に戻してもらった大きな紅葉の木や欅の木、30年物の、毎年たわわに実を付けてくれた梅の木も斜面に毎年生えたふきのとうも匂い水仙も泣きたいほど、懐かしい。家ができた時、ハウスメーカーがくれた大きな額に入った家の写真は、暫くアンティークのボードの上にほこりをかぶっていたが、最近、孫の写真をかぶせて見えなくなった。多分、もう一生「家」を建てる事はないだろう。ちゃんと解っているから、今の生活を楽しみたいと、アパートの狭い庭に、つる薔薇も植え、持ち出したお気に入りのコンテナもお花でいっぱいにしている。シソを植えて、バジルもパセリも今は大きく育って、お料理に花を添えてくれている。でもやっぱり、心の中にぽっかり穴は空いたままだ。先の事は、今は考えたくない。長生きをしたいとも、正直あまり思わない。この町に帰ってきて、大切な大切な伯母にも会え、亡くなった日にも会えた。小中学校のお友達にも会えた。毎日が、悪いことばかりじゃないのも確かだ。この町に帰ってくることを承知してくれたパパ、鬱で働けない私を責めず、ただ毎日激務に耐えているパパに感謝し、せめて・・・と毎晩、駅に迎えに行っている。元々お気楽な人だから、楽しく毎日を暮らしているつもりだが、やっぱり、こんな経験をし、鬱病は相変わらず私を苦しめる。家を無くしたのは、16の誕生日に一回、40年後に一回。人生に2度も体験してしまった。そう言えば昔友人が言ってたなぁ、「Iちゃんて、どうしてそう、人が経験しない事ばかり起きるの?」(笑)そう言う星の下に生まれちゃったのだろう。こういう体験をしてからと言うもの、「良い事」が起きると、本当に怖くて仕方がない。「きっとまた、嫌なことが起きる」と恐怖さえ感じる。神様、どうか、静かに穏やかに人生を終われるようにしてください。もう、ラッキーなことは十分です。ただただ、静かに淡々と生きて行きたいだけなんだけどな・・・・。
2013年07月08日
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ブログが書けなくなって、昨年8月、私にとって大きな出来事があった。それは、2012年8月8日に、ジョセフ・チェンこと、鄭元暢が、軍隊に突然入隊してしまった事。その前にあった、台湾での「開学」と言う毎年行ってきたイベの時、「6月の誕生会イベはするの?」と聞いた私に「無いよ、でも、7月か8月にイベをするよ」と答えてくれていた。だから、入隊翌日、ファンに向けた置き手紙のようなメッセージが発表になった時は、ショックで、会えなくなる現実に、寂しさと不安でいっぱいになった。彼はとてもストイックで、派手な性格じゃないので、「これを読んでくれている頃、僕はもう入隊しています。皆にお別れを言わずに入隊したことを、どうか許してください。ただただ、普通の人に戻り、静かに行きたかった」という、とても彼らしい文章。小綜と言う人は、本当に正直な人だのだと思ったのは、この手紙だけじゃなく、前日、とても厳しいと言われているパパと一緒にいたらしく、パパの写真がアップになって、「パパ愛してる。パパのような男になる」とあった。内心もしや…という気もしたが、いざ現実になってみて、恐れていたことが起こったんだなぁと実感した。髪を短くしてもらっている写真が後日アップになったから、近々入隊するだろうと周りは解っていたはず。でも、この手紙が正直な気持ちであったことは、家族にも入隊することを言わず、「今から入隊します」とマネージャーだけに電話をし、慌てたマネージャーが駅に向かったと言うことからしても、解った。軍隊、徴兵制度のない国に生まれた私達には、想像もつかない場所。「家族は面会もできるし、休暇もある」と言われても、ピンと来なかった。それから暫く、私達とクリスマスイベで行った温泉街の奥にある、新兵訓練所に入り、基本訓練を受けた。そして、暫くして休暇になり、そこで初めて迎えに行ったマネージャーの元、坊主頭の小綜は、マスコミに囲まれることになったのだ。いつものちょっとイタズラッ子のような笑顔で敬礼する姿に、安堵だろう涙がこぼれた。当たり前だが、本物の銃の訓練で、最初は大きな音でびっくりしたが、良い成績を取ったと相変わらず少年のように話す姿は、とても可愛かった。一般の人と寝食を共にする初体験を、楽しそうに語っているのを見て、あ、小綜、楽しんで軍隊生活を送ってるんだな・・・・とよく解かった。そして配属になったのは、台北の北にある海軍海巡署。深夜に、密輸の船を摘発する任務で、いつもの黒ぶち眼鏡に防弾チョッキを着け銃を装備した姿が発表になった時は、こういう危険な任務もあるんだな、どうぞ怪我などしませんようにと願った。日本ではその頃、尖閣諸島の問題があり、台湾からも、抗議の漁船が領域内に侵入する事件が起きたが、その船達が、小綜のいる海巡署の管轄の港から来たと知った時は、複雑な思いだった。小綜も、自分のファンが沢山いる日本に向け出港して行く船を見て、どんな思いだったのかと、思った。その間にも、何度も台北に休暇で戻り、彼の店DESTINOでお客さんと食事を楽しむ姿や、観たお芝居のパンフレットなどと一緒に普段の小綜の姿が、アップされた。軍隊に入り、全く姿も見ることができないかも…・・と思っていたが、そんなことはなく、オタクの小綜は休暇になるとPCや携帯を駆使し、この11ヶ月、私達に、自分の姿を送り続けてくれた。台湾の軍隊は基本、仕事をしてはいけないのだが、従軍中に、高雄で映画祭があり、その日だけは「芸能人、鄭元暢」に戻り、素敵なスーツ姿で現れ、熱心なファンは、そこに駆け付けた。この11カ月の間に、ファンを辞めてしまった方も多い。3カ月に一度、なにがしかのイベントで会えていた人に会えなくなり、物足りなくなったお気持ちはよく解る。私は、小綜だけで十分なので「待つ」のもまた、楽しいのだな・・・と思った。それに入隊中、彼の作品が全くメディアに現れなかった訳では無かったから、そういう意味では、入隊前と変わりはなかった。入隊前に撮影された、中国のTVドラマの作品「愛的密方」が放映され、有りがたい事にネットでリアルタイムで毎日見ることができ、DVDもゲットした。日本のTOYOTAの中国全土の販売店が出したTOYOTAの車を使った短いドラマ「時間當案館」も配信され、この作品は、小綜のナレーションも入り、本当に素晴らしい出来の作品だったし、小綜が初めて出演、昨年入隊前にカンヌ国際映画祭に招待された映画「花樣」も台湾全土で今年のお正月に上映され、最近DVDも出た。一番心配したのは、昨年、小綜が、足の手術をしたと各メディアに報じられた時。足の付け根の手術で、以前から長い時間立っていたり、同じ姿勢になると痛かったらしい。軍隊の訓練でその痛みが増し病院で検査を受けた結果、「手術をしないと、将来、歩けなくなる可能性も」と言われ、手術したそうだが、この時、いつもサイン会などで何時間も座っていて、きっと辛かったに違いないのに、笑顔を絶やすこと無く、立って握手会をした時も、2時間以上同じ格好で立っていて辛かっただろうなぁと可哀想で仕方が無かった。ファンの心配を知っているから、すぐに、入院中、ベッドに寝たままシャンプーしてもらう写真もアップしてくれた。そして、その後の休暇の写真には、少しふっくらとした松葉杖の姿がアップされたり向こうのニュースでも、上手に松葉杖を使い、DESTINOで友達を送りだす姿など報道された。日本では4月21日六本木で、ジョセフを撮影してきたフィルム上映会もあった。嬉しいことに、4回の上映の合間に、休暇中の小綜から生電話が掛かって来る…と言うサプライズも。久しぶりに元気な小綜の声を聞き、とても嬉しかったし、電話の向こうに小綜がいるんだな・・・と思うだけで、懐かしくて目頭が熱くなった。一番聞きたかった足の手術後の経過は「もう、90パーセント治ったよ。心配しないで」と。ドラマの中などでのナレーションは、本当に静かなバリトンの良いお声なのだが、こういう普段の小綜の声は、底抜けに明るくて、テンションが高い(笑)同じ人の口から出た声とは、思えないほど(笑)俳優鄭元暢の時の声は、魅力的だ。そして先月、海巡署の一般公開があった。日本でも自衛隊が一般公開で、お客さんを招待するが、そのような感じの物。そこで、小綜が素敵な制服姿で海巡署署員として、サイン会を開いた。日本からも、お友達がたくさんいらっしゃった。かく言う私もお誘いを受けたが、台湾は、上の娘の所に行くより安く行けちゃうので、迷ったが、急な話だったし、今の自分の立場を考えたら行くことができず泣く泣く諦めた。そして、昨日のこと、明日退役と言う情報を見つけた。それは中国のウィキペディアの「鄭元暢」の記述に、「2013年8月8日退伍」の文字があったのだ。ご存知のように、ウィキペディアは一般の人も書き込みが出来るので、定かではない。だが、明日、小綜が帰ってくると思ったら、もう、嬉しくて、嬉しくて仕方がない長かったような短かったような、この一年。相変わらず、小綜サイドから、その情報はない。でも、8月8日に入隊して11カ月だから、この日付けはあながち間違ってはいないだろう。いよいよ、動き出すんだなぁと、兵役を終えた一人の男として、兵役中に31歳を迎え、どんなにまたカッコいい小綜になって帰ってくるのか、もう、わくわく、ドキドキなのだ。小綜、素敵な貴方に、早く会いたいですお帰りなさいを言いたいです。
2013年07月07日
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今日は、朝からずっと、TVを点けっぱなし。毎年、この時期に幕張メッセから送られる歌番組が、12時間の「歌の力」と言うものになった。私達、古くからのファンには、幕張メッセは、握手会があったり、この会場近くの相葉ちゃんのご実家の中華料理店「桂花楼」から、相葉パパからの差し入れの美味しいチャーハンやお料理が差し入れられるとか、馴染みの場所なのだ(笑)嵐のファンになった頃、本当に辛い毎日を送っていた。認知症の姑の介護に加え、ここにも2003年から書いた父の難病「骨髄異形性症候群」の看病、そして自身の鬱病と、大げさではなく、嵐がいなかったら、多分私は潰れて死んでいたかもしれない。無事に(と言う言い方は正しくないが)父を見送り、姑を見送れた。鬱だけのこっちゃったが、これは仕方がない。ジャニーズってだけで、バカにしていた。どうせ、女の子に媚を売るアイドル・・・・それが私の認識だった。海外ロックに傾倒した人に多い嫌な奴だった。だか落ちた。初めて行ったコンサートでバックステージ最前列、30センチ向こうにいたニノも相葉ちゃんも、ちゃんと声を出し、唄っていた。そして、夢のように遊園地のように楽しいセットや衣装、背伸びのない正直なMCの面白さに、あ、こんな世界もあったんだと。からっからに乾いてた心に、彼らの歌や日常的な話が沁み込んで行った。そして、コンサートの終わりにいつも唄った「感謝、感激、雨あらし」の歌詞は、足を思いきり踏ん張って立っていた心のつっかえ棒がはずれ、「そんなに頑張らなくて良いんだよ」と言われたようで、堰を切ったようにオイオイ泣いてしまい、あ、私こんなに疲れていたんだと気付かされた。だから、この歌を歌われると、TVでも泣けちゃう。どんどん人気が出て、コンサート会場も、まるで中学校の体育館のような地方都市の会場から、国立競技場やドームに変わり、ハイタッチしてもらったり、アイコンタクトで一人「振り」をおしえてもらったり出来ていたのが、今や遠い存在になり、私も父や姑を送り、心に沢山の思い出を残してもらい、卒業した。だが、やっぱり、嵐君は5人とも本当に良い奴ばかりで、ファンであることに何も変わりない。ただ、毎月のように行っていた5人の御芝居やコンサートに行かなくなり彼らの出ているTVを片っぱしから録画したり、観たりしなくなっただけ。自分の思い通りにコンサートがうまく回らず、自分に腹を立て、ファンの前でもブ―たれていた19歳だった潤君も、もうすぐ30歳。元々、映画の撮影でニノが熱を出し呉服屋さんのお座敷で寝ていた横で、何も言わず、ただ付き添って座っていた優しさを持っていた彼は、もっと大人の男の優しさを身につけた。自分に疑問を感じ、迷い、寝坊してはスケジュールに遅刻して、ファンネットで攻撃を受けていた大野君も、天性の芸術の才能を咲かせ、吹っ切れたように、メンバーが頼れる立派な大人のリーダーに。おバカキャラを演じてる相葉ちゃんは、自分の舞台の千秋楽のご挨拶にいつも泣いていた。一番前の席の子に「何か、聞きたいことありますか?」と落ち付いて静かに聞くような、ナイーヴな本当はそういう子。コンサートで最前列のファンから差し出されたプレゼントを片っぱしから受け取ってくれるような優しさは、そのまま、カッコ良い大人になった。書きだしたら、きりがない(笑)TVで造られたキャラと、本人達はちょっとずつ違うけれど、それは、長い生の時間を共有したファンと嵐君達との秘密で良い(笑)会社の事があって、あの豪邸(笑)を出る時、嵐の物は、半分以上置いて来た。6畳のパントリーのほとんどは、嵐の物だったから。そして、辛い、辛い日々が始まった時、TVで嵐の曲が流れてきたら、やっぱり泣いちゃった。入院したお友達のご主人が、彼女が差し入れした嵐の曲を聞いて、すっかり嵐のファンになっちゃったのも、よく解る。でも、今は、古い友達のような、可愛い息子達のような感じかな?嵐がこれだけの、政令指定都市が出来ちゃう50万人のファンクラブ会員を擁するようになったのは、やっぱり、それなりの理由がある。今日も偶然唄った「感謝、感激、雨あらし」に、泣いちゃった。あれ?私、まだ辛いのかな?
2013年07月06日
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我が家の大家さんが、ナイスな方なのか、いまどきの賃貸アパートは皆そうなのか解らないが、アパート自体が、全部、ケーブルTVになっていて、パソコンのプロバイダー契約もただ、CS視聴も、特別なチャンネルじゃなければ、ただで観れる。自ら、人にマンションを貸し、大家だったから、最初は、びっくりした。でも、おかげで、映画好きの私には、まことにありがたく、毎日映画を2本ほど、暇のあるときは見ている。映画好きは相変わらずで、パパのお休みの日は、劇場にも足を運ぶ。でも、ここしばらくは、行っていないなぁ・・・。TVで放映があると、好きな映画はついつい録画しちゃう。ましてCSは、CM無し、ノーカットなので、最初から最後の「映倫」のマークが出るまで、ちゃんと放送してくれるから、販売されているDVDと一緒だ。で、DVDが半端無く、たまってきちゃった。最近録画したのは、ニノの「大奥」これは、ただニノの映画だったから。内容は、まあ、こんなものかな?って感じ。大好きな堺雅人さんの「南極料理人」これ、もう7回くらい見てるが、本当に面白くて飽きない。「八月の蝉」これはね~、劇場で見たときショックだったし、母親としてどっちが正しかったのか、凄く考えさせられました。救出され実の母の元に帰るけど、結局上手くいかない夫の愛人に誘拐され愛情一杯に育った主人公が、まるで、娘と私みたいに見えて、とっても辛かった映画だ。「エターナルサンシャイン」これはADHD障害者の私は、混乱しまくって観ました(爆)翔君の「ハチミチとクローバー」。これ、台湾版の真山を小綜が演じていて、私は映画館で最初に翔君のを見ていたので、台湾版は全く、視点も違うし、同じ原作でも、監督によって、このくらい違うんだなぁとしみじみ思っちゃいました。「はやぶさ」これは、映画館で大泣きした映画。大気圏に入り、沢山のスタッフの努力で宇宙を旅してきたはやぶさが、ミッションである小惑星で採集した物質を入れたカプセルを地球に落とし、自らは燃え尽きてしまう姿は、もう、本当に可哀想で、感動的で、何度観ても泣いてしまう。これは、ここ2ヶ月で録画した映画。で、「日本映画チャンネル」は毎日朝から夜中まで次々放送しているし、他の局も洋画を放映してるから、きりが無い・・・・のに録画しちゃう。で、いつ観るの?って話なのだ。このほかにも、面白いドラマ、懐かしいドラマを放映していて、先日は和久井映見の「ピュア」主題歌が大ヒットした「バージンロード」を録画。韓国ドラマの「宮」「私も花」「マイプリンセス」台湾ドラマの「イタズラな恋愛白書」「恋せよ姐GO」日本ドラマの「イタキス」などなど・・・・。自分でもあきれる。老後の楽しみに・・・・と思って始めたことだが、100歳超える分、もうあるじゃーーん。いい加減、やめりゃいいのに、辞められないから困ったものだ。DVD-RWなので、何度もフォーマットして、録画しなおせるが、「消す」ことが、なかなか出来ない。何度か再放送もしてくれるので、映画好きの下の娘にも、時々録画したものを送る。は~多分、この習慣は、死ぬまでやめられないよねますます、DVDは増えていく・・・・・
2013年07月05日
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何から書こうかな?やはり、チビの結婚からかな?会社の事があって、あわただしく家を出て一人暮らしを始めた娘だったが、何度か、東京の狭い我が家に泊りに来ては、一緒に食事をしたり、お買い物をしたりしていた。結婚のお相手は、大学時代の同窓生で、卒業式など、うちにも何度か送ってきてくれた時に会っていて知っている方だった。昨年、こちらが落ち着いた頃、「ご挨拶に伺いたい」と言う事で、二人してやってきたが、こういう時って、男親は、観ていて面白い。女房から見ても、テンションが上がっていて、緊張が伝わってくる(笑)二度目にいらした時、結婚したいと言うお話で、大学からのお付き合いで、解っていたことだし、こんな状況になった娘を嫁にもらって下さると言うのを、反対する理由もないし、内心、ほっとした気持ちと、やれやれと言う気持ち、寂しいと言う気持ちが、ごちゃませになった。では、結婚に向け、これからよろしくお願いします・・・・とこの1年、一応の段階を踏んで、事が進んだ。その日は、この家から近い「ジブリ美術館」に皆で行き、ほっとしたのだろう、パパがずっとジブリの中にあるベンチで居眠りする中、私は二人と楽しい時間を過ごした。そして今年に入り、両家の顔合わせには、東京にわざわざいらしてくださった。そして、5月12日。無事、名古屋のホテルでの結婚式となった。オネエの結婚を経験していたが、式場によって勝手が違うので、今年に入ってから、相当バタバタした。以前のように、近くじゃないから、貸衣装を、どうするか、招待客の連絡等など。おまけに、私の鬱がちょっと酷い状態になり、混乱している毎日の上に、暇にまかせ母が色々言ってくるのに対応出来ず、思い切り、切れたり(笑)それでも、こういう状況になったにもかかわらず、何もしてやれない結婚だったにもかかわらず、無事に、この日を迎えることができた。思いは色々ある。あの家から、姉のようにお嫁に出してやりたかった・・・・とか、もっと一緒に結婚のお買いものに行ってやりたかった・・・・とか。挙げたらきりがない。ただただ、ごめんね…と言う気持ちが先にたった。当日の娘は、本当に幸せそうだった。沢山のお友達に囲まれ、少し緊張して。実は、下の娘は私の大学の後輩で、と言う事は、出席下さったお友達も、私の可愛い後輩達なわけで、こちらの主賓でご挨拶くださった教授も、私の担当教授の助手をしてらした方。お目に掛るのは、娘の卒業式以来だった。挨拶にお席に行ったら「おめでとうございます、良かったね」と仰って頂いた。暫く先生の懐かしいお顔を見ていたら、誰が30年後にこんな人生を歩くと解っただろうか・・・・と泣きだしそうになり、数秒だが、ただただ二人で手を握り合い、多分、涙目になっていただろう私を、先生の優しい眼差しが包んでくれ何も言えず、感謝と無事にこの日を迎えられた事に、幸せでいっぱいな気持ちになった。当然、親戚にも来てもらったが、あの日、あの家で「お別れ会」をしてくれた従姉妹達や、他の親戚たちも、会社が、家が無くなり、こちらに来て以来だった。きちんと挨拶が出来なかったが、「元気そうで良かった・・・・でも痩せたね」と心配そうに言った従姉妹の言葉が胸に染みた。そう言う意味で、本当に忘れられない感慨深い結婚式になったのは、言うまでもない。夕方、式が終わってから娘の控室に行き、娘達と色々話しをした。どうぞ幸せに…・・ただそう思うばかり。これで、二人ともお嫁に行った。至らぬ「親業」だったが、私も卒業した思いだ。二人とも、幸せになりなさい。
2013年07月04日
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一体、ブログを書かなくなって、何カ月になるのかなぁ・・と、過去のブログを見たら、何と、6月でこのブログを初めて、丸10年になっていたことに気が付いた。本当に色々な事がこの10年あって、「書くこと」によって、自分を見つめ、自分と向き合い、大切な自分の時間を記録出来ていたように思う。父との闘病日記は、まだ、全部目を通すことができない。父が亡くなって七回忌も済んでいるのに・・・・。辛かった認知症の姑とのことも、まだ読み返せない。嵐君とのことは、読み返せるけど(爆)娘達は、書きだした頃は、オネエが大学生でチビは高校生になったばかりありゃ?まだ中学生だったかな?それが今や、オネエは「母親」になり、チビは「人妻」になった。そして、人生、整理の歳にかかった頃だと言うのに、神様は、まだまだ宿題を私に課してきたここ2年。書けなかったこの2年足らず。しかし、相変わらず私はマイペースでしか物が考えられず、相変わらずの鬱病持ちで、相変わらずのままの生活だ。生来のお気楽人間なのに、反面、空回り、無駄に考え過ぎ人間だから、一時はへこたれもしたが、どっこい、ちゃんと楽しい毎日を送っている。また、ちょこちょこ書こうかな?一杯、書きたいことはあるんだよね。感動した映画とか、チビの結婚とか、孫の話(娘はあまり私にしてほしくないようだが)とか(笑)昔のように赤裸々になんでもかんでも書ける立場、身分じゃなくなっちゃったけど、やっぱり、嘘は書けないから、差しさわりの無いことからでも書こうかな…と思う。まずは、今日有った嬉しいことはね・・・・・。ここのところ、本当に鬱がひどくて、スーパーにも行けず、通っていた歯科医にも行けなくなり、まるで、ヒッキーのような生活をしていたのだが、鏡を見てびっくり。まるで、鬼婆のように、髪の毛がかなり白くなっちゃっていて、何日ぶりかで、お化粧して着替えて、髪を染めに行った事。女って、つくづく、身綺麗にすることが、精神的にも「綺麗」になるんだなぁって思い知った。美容院の大きな鏡に、生まれ変わったみたいな私が現れて、そしたら、行けなかったスーパーも、2軒も梯子しちゃったし(笑)お友達に送るDVDを出しに、宅配業者にも行けちゃった。どよ~~んとしてたここ数週間が、ぱっと煙が風でなくなったかように開けた感じ?おまけに、従姉妹から、美味しいサクランボも頂いて、ひと月ぶりくらいに会った母にも優しくできた。あ、母は元気です。79歳になったけれど、私より元気元気。鬱の酷い時、丁度チビの結婚式があって、色々大変だった、先日も、パパがお休みの時、横浜に連れて行ってあげたしね。うーん、取り留めもなく書いてしまいました。ははは、やっぱり、書きたいことがいっぱい有るみたい。アバウトな私のことだから、「おいおいお話しします」って書いた事も、書いてないし(爆)申し訳ないm(__)mでも、またちょっと書いてみようかな。よろしかったら、また、お付き合いくださいませ。今日はここまで。晩安(中国語で「おやすみなさい」です。あは、ジョセフ熱は冷めず・・です)
2013年07月03日
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