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2022.07.21
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テーマ: 読書(8220)

本のタイトル・作者



母親になって後悔してる [ オルナ・ドーナト ]

"#REGRETTING MOTHERHOOD."
by Orna Donath

本の目次・あらすじ


1章 母になる道筋
2章 要求の多い母親業
3章 母になった後悔
4章 許されない感情を持って生きる
5章 でも、子どもたちはどうなる?


引用


常に考えています。いつになったら終わるのかしら、ベッドに戻って本を読んだり、素敵な映画を観たり、ラジオの番組を聴いたりできるようになるのはいつ?そのほうが、私にとっては興味深く、私に合っていて、私らしいのです。庭仕事をしたり、落ち葉をかき集めたり……そのほうが自分らしいんです。ずっとそうでした。


感想


2022年183冊目
★★★

強烈なタイトルが気になって読んでみた本。

著者は、イスラエルの社会学者・社会活動家。
2011年、親になる願望を持たないユダヤ系イスラエル人の男女を研究した初の著書『選択をする:イスラエルで子どもがいないこと(Making a Choice: Being Childfree in Israel)』を発表。
本書は2冊目の著書。翻訳され、ヨーロッパで大反響を得たそうだ。

イスラエル(女性が平均3人子どもを産む)の宗教的な背景が分からないので、「母親になること」の圧力が日本とは違うのだろうなと思いながら読んだ。
しかし、「母親になって後悔してる」ってグサッと胸にくる言葉だ。
みんな思ったことないんだろうか?
こんなはずじゃなかったのに、って。

私は子どもと遊ぶのが嫌い。
ずっと嫌いだったし、好きなふりをして子供好きを装ってみたけど、やっぱり嫌い。
自分の子だったらなんて例外は存在しない。

子供の頃からずっとそうだった。私はちっとも変わっていない。
まわりが私に求めるものが変わったのだ。
本を置きなさい、さあ子供たちとままごとをして遊ぶのよ。

自分勝手?母親失格?
肯定せざるを得ないから肯定するのではなく、聴かせてほしい。

どこかでそう思っていない?

私にあった可能性、時間、そんなものすべてが、消えてなくなってしまった。
一生消えない「母」というスティグマと共に。

私は、
誰になんと言われようと、これが私の恋愛です [ 劇団雌猫 ]
を読んだときの、「結婚しなかった私も幸せだったはず」で、「それを平行世界で証明したかった」という言葉を思い出した。

あるいは、韓国の小説で、母親になるというのはおでこに刺青をいれるようなものだ、という描写があったように思う。
母親になることは、その代わりにすべてを差し出し、文字通り全身全霊、死ぬまで身も心も捧げ続けなければならない、ということを意味する。
永遠の鎖につながれた奴隷になることを。

こんなはずじゃなかったのに。
そんなものだと思っていなかったのに。
知っていたら、こんな選択をしなかったのに。

産めよ増やせよ。
国が口にするのはいつだって同じ言葉だ(この本では、2004年にオーストラリアの財務大臣が少子化と年金費用増加対策のためにもっと子どもを産むよう発言したことを取り上げている)。
「国に利益をもたらすために子宮を捧げよ」
そう言って来る奴らは、たいてい子宮がない野郎どもだ。
女は、国が滅びるから子どもを産むのか?

この本は学術書の体をとっているのだけど、その精度や内容については正直「?」と首を傾げざるを得ない。
ただ、問題提起としては興味深い内容なので、ちょっとでもそう思ったことがある人にはおすすめ。
国も年齢も宗教も違う人が、同じように感じていることに驚く。

著者の選別する基準に、いくつかの質問がある。
「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」
「あなたの観点から、母であることに何らかの利点はありますか?」
「あなたの観点から、利点は欠点を上回っていますか?」

社会的圧力が、「子どもを持つこと」をデフォルトにする。
それはチェックシートみたいなものだ。
異姓の恋人はいる?チェック。
結婚している?チェック。
子どもはいる?チェック。
次は男の子(女の子)ね――。

私は結婚し、子どもを2人(女の子と男の子)を生んだとき、ぴたりと周囲の声が止んだのを感じた。
そして同時に思ったのだ。
これで、「もう誰にも何も言われなくて済む」のだと。
それは社会が私に望むことだった。
私は義務を果たしたわ。だからもう放っておいて。誰も私に口出ししないで!
韓国の小説では、結婚した途端に社会が「ああしろ、こうしろ」と言ってきたと書いてあった。

本の中でデブラという女性が言っているように、子供を持つということは「ある程度の仲間入りができて、人生が楽になる」のだ。
子どもがいれば、もう最前線で戦わなくて済む。
その義務を果たしたことで、強制的に「仲間」と見なされたとしても。
模倣とパフォーマンスで「母親らしい母親」を演じながら、うんざりするほどそれを繰り返しながら。
デブラは子どもを持つことは「社会への入場券」だと言う。
簡単に仲間入りできるチケット。
そしてそれを持っていれば、皆は身内と信じ疑いもしないのだ。

またデブラは、自分を紹介する時に一番最後に「母である」ということが来るという。
彼女は「自分の人生と日常の機能の中で、自分らしくない場所にいる」という後悔を感じている。
でも子供がいることは後悔していない。

そう、この本に登場するほぼすべての母親たちは、「母親になったこと」を後悔しながらも、「子供と出会えたこと」は後悔していない。
この二つは別の物だ。
私だってそうだ。

著者は、子供は「垂直方向」に成長するが、母親は「水平方向」なのだと言う。
母親であること、は一度ついてしまった染みのように二度と落ちない。
それは死ぬまで続く。
頭の片隅にずっと、ケアしなければならない誰かの存在がある。

「キャリアウーマン」と「スーパーマザー」。
「第1シフト」と「第2シフト」。
それらの間でかじ取りをしながら、なぜこんなことになったのだろうと考えない人はいるんだろうか。
産めよ育てよ。そして働け。
明らかにそれは、過重で身勝手で傲慢な要求ではないのか?
逃げ場所もなく、休憩をする隙も与えられず。
それは奴隷とどう違うの?

母親たちは、自分の子どもたちがこれを読むことがないようにと望む。
口にすることは、子供の根幹を揺るがすことだから。

母親になんてなりたくなかった。

これを思い、願う母親の気持ちが、同じ母親として私は分かる。
けれど自分の母が、あるいは夫が口にしたらどうだろう?
私は「世間」や「社会」のように、彼らを身勝手だと断罪するのではないかしら。
結局は私も、その枠組みの中にいるだけなのか。逃れられないまま。

母親になりたくなった、というのとは違う。
私は、自分にそう思う。
このバージョンの私は試してみた。だから、次は違う人生を選んでみたいの。
たとえば結婚しない。たとえば子供を持たない。
そうしたら私の人生はどんなものだったろう。
きっとそこには、「結婚したことを後悔してる」「独身だったことを後悔してる」バージョンの私がいて、それぞれ「そうでなかった私」を羨みながら生きている。

母親だって、悪くはないよ。
ただ、私らしくないものを大量に押し付けられるのにはうんざりする。
私は私のままなのに。
だから私は、入場券を手に入れて潜り込んだ「世間」に隠れて舌を出すんだ。

私はままごとをしない。文句ある?




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最終更新日  2022.12.03 23:55:02
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