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書名化け込み婦人記者奮闘記 明治大正昭和 [ 平山亜佐子 ]目次第1章 最初の化け込み婦人記者第2章 化け込み前史第3章 はみ出し者の女たち、化け込み行脚へ番外編 化け込み記事から見る職業図鑑感想2023/07/07放送のNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」で紹介されていて、興味を持った本。内容は「へえ、そんなことがあったんだ」ということばかりだったんだけど、その内容をそのまま紹介する(記事の内容)というよりは、それを書いていた人(記者)の紹介が多い感じで、私はいまいちだった。明治20年代ごろに登場した「女性記者」という職業。そしてその職につく女性がほぼ皆無だった時代。(ちなみに、「はじめに」によると、2022年度の新聞・通信社記者数における女性の割合は男性の四分の一だそうだ。)彼女たちは潜入捜査を行い、その様子を面白おかしく記事にすることで男性とは別の存在価値を示そうとした。大正14年(1925年)関西大学法科在学中に社会部に採用された北村兼子は、彼女の著書『怪貞操』で、個性のあるものは異端者と見なされて、これを排撃するに貞操問題をかつぎ出し、型に嵌まらぬものは突き落としてしまう。日本は女に取っての監獄部屋だ同一の社会を形づくる細胞に差別をつけて社会組織の基礎を弱くすることは愚かで且つ不合理であると書いたという。これ、このまま現代にも通じません?そのことにびっくりするのだけど。三宅花圃という人も私は今回はじめて知った。小説『藪の鶯』で日本初の女性による近代小説で原稿料を受け取ったひと。海外で化け込みをしていた女性記者ネリー・ブライ。彼女は80日以内の世界一周に挑んだ人でもあり、これもまた別で知りたいなあ。リジ・アラヤ殿下と黒田雅子子爵令嬢との結婚話…っていうのも初耳。エチオピアの皇帝のいとこが訪日した際に日本を気に入って日本人花嫁を募った…って何そのハーレクイン。女性の職業として「電話口消毒」っていうのがあったというのも、今見ると「何それ」って可笑しいんだけど、よく考えたらコロナの時に同じことしてたやんね。この4月に職場を移ってから、ひとりの働く女として私が思っているのは、「私に何ができて何ができないかを、私には決めさせてくれないんだな」ということ。それを配慮と呼ぶのか、喜ぶべきなのか、私は、それを。その配慮に甘えている状況を、受け入れるべきなのか。遠慮して、有難がって。私にできるかできないかを尋ねもしないうちに決められたことに、すみませんごめんなさいありがとうございますと平身低頭して。これはここまでなら私もできますよ、と言っても「いいよ」といなされる。無理しないで、子どもがちいさいんだから、「お母さん」なんだから。仕事はほどほどで、家庭をもっと大事にしてあげて。お前それ、私が女じゃなくても言うんか。子どもが小さい男にも言うんか。モヤモヤしていたけど、もうなんか途中から諦めの境地。口をつぐんで、心のシャッターを下ろして、ただ働いています。ランキングボタンです。クリック頂くとブログ更新の励みになります!
2023.12.27
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書名それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫) [ 加藤 陽子 ]目次序章 日本近現代史を考える1章 日清戦争ー「侵略・被侵略」では見えてこないもの2章 日露戦争ー朝鮮か満州か、それが問題3章 第一次世界大戦ー日本が抱いた主観的な挫折4章 満州事変と日中戦争ー日本切腹、中国介錯論5章 太平洋戦争ー戦死者の死に場所を教えられなかった国引用私たちには、いつもすべての情報が与えられるわけではありません。けれども、与えられた情報のなかで、必死に、過去の事例を広い範囲で思いだし、最も適切な事例を探しだし、歴史を選択して用いることができるようにしたいと切に思うのです。歴史を学ぶこと、考えてゆくことは、私たちがこれからどのように生きて、なにを選択してゆくのか、その最も大きな力となるのではないでしょうか。感想238.夜と霧 新版 [ ヴィクトル・エミール・フランクル ]を読んだ理由と同じく、「なぜ、わたしたちは同じことを何度も繰り返すのか」と考えていて手に取った本。「悪」だと世界が糾弾するその矛先は、はたして己に向けられることはないのだろうか?過去を忘れ、戦争を非難することが出来るのか?それでも、日本人は戦争を選んだのだ。この本、とっても分厚くて(文庫本で512p)、読むのになかなか骨が折れるのだけど、すっごく面白くて(知的面白さ、interesting)、没頭して読んだ。私立栄光学園の中高生17人に、日本近現代史における「戦争の論理」を説いた5日間の講義の書籍化。かなりレベルが高い内容だけれど、中高生相手ということで解説は丁寧で、「頭がいい人というのは、難しいことを説明することが出来る人なのだなあ」と感服する。膨大な資料、豊富な知識、的確な比喩。これはもう、ぜひ現役の高校生に読んでもらいたい!!教科書でざーっと流れていく歴史が、血肉を持って感じられる。なぜそうなったんだろう?という疑問に答えてくれる。もちろん社会人も読んでほしい。ルソーの「戦争とは相手国の憲法(=相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序)を書きかえるもの」という指摘、なるほどと唸った。なぜ戦争が起こるのか?資源の奪い合い、宗教の違い…。だから、第二次世界大戦は「無条件降伏」を敗戦国に求めた。満州事変の二ヶ月前の東大の学生への調査も興味深い。日本最高峰のインテリの88%が「正当なり」と答えた。戦時中の圧倒的な国力差を政府が隠してなかったというのもはじめて知った。それを利用して危機を扇動し、精神力を強調した。「日本は国民の食糧をもっとも軽視した国の一つ」と筆者は言う。敗戦間近の摂取カロリーは、1933年時点の6割。農民を徴兵したため、収穫量は減少。一方のドイツは、降伏する2ヶ月前まで1933年の2割増しだったという。この本には多数の資料が引用される。そのうち、少なからず「日記」が登場するのだ。知識人だけではない。駅員などの市井の人の、ほんとうに「誰に見せるわけでもない日記」が残っていて、それが価値のある史料となっている。その当時の人々がどう受け止めていたか。私は毎日日記をつけているけれど、「天気、起床時間と就寝時間、労働時間、その日の夕食、ちょっとした行動記録」くらいしかつけていない。なんの歴史的価値になりそうもない。笑世界の「あそこ」「ここ」で戦争が起きても、私の日記には綴られない。そこは遠いから。そこは遠いと思いたいから。同じ世界、同じ空、同じ月、隔絶した世界。私の母と父、そしてその母と父、そしてそのまた母と父。私と繋がっているその誰かは、日記をつけていただろうか。その人は、何を書いただろう。「あの日」に。「その日」に。それでも、戦争を選んだ。そしてその先に、私はいる。ランキングボタンです。クリック頂くとブログ更新の励みになります!
2023.12.04
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書名夜と霧新版 [ ヴィクトル・エミール・フランクル ]目次心理学者、強制収容所を体験する知られざる強制収容所/上からの選抜と下からの選抜第1段階 収容アウシュヴィッツ駅/最初の選別 ほか第2段階 収容所生活感動の消滅/苦痛 ほか第3段階 収容所から解放されて放免引用しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。感想ガザ地区への戦闘が始まった時。マンションにミサイルが撃ち込まれて崩れ落ちても、そこでその瞬間に死んだ人がいると私は知っていても、それでも、たぶん、私は、以前ほどの衝撃を受けなかった。ウクライナでそれはもう、見たことがあった。崩れ落ちるビルを。あるいはその前にも。起こらないと思っていたことが起きて、世界は確かな場所じゃなかったのだと「思い出す」。引かれた線のあちらとこちら。奪い合い、殺し合い、憎しみが憎しみを強固に繋ぎ合わせる。その鎖の先に連なる私たち。二千年後の君へ。だから、知りたかった。今ここで起きていることを、あとで「ああだった、こうだった」と、分析して、研究して、後悔して、忘却する。それがまた繰り返されるのなら、何を忘れたのかを。原著は、『強制収容所の心理学』というタイトル。題名だけは超有名で知っていたけれど、読んだことがなかった。思いのほか薄い本だったことに驚いて、さぞ凄惨な場面が続く、つらい描写のオンパレードなのだろうと覚悟して読み始めると、拍子抜けした。もちろん、そこにあるのは「おそろしく、ひどいこと」を体験し、生き抜いた人の記録。けれどそれだけじゃない。そこには、思い雲の切れ間からふと差し込む光のようなものもある。どちらかというとこれは、一般的な「生きること」についての内容だった。生きることに意味はあるのか?この苦しみに意味はあるのか?どのみち死んでしまうのなら、この痛みは無意味なのか?だとしたら、この生は無意味なのか?苦痛に喘ぎながら、なぜ、生きるのか。命あるものは、生まれ来た以上、みな死ぬ。致死率100%の、紛うことなき事実の前で。生きるとは、なんだろうか。心理学者である筆者は、収容所の暮らしを観察する。未来の自分が「強制収容所の心理学」という演目で聴衆を前に講演を行っていると思い描きながら。1944年のクリスマスと1945年の新年の間の週に、収容所ではかつてないほど大量の死者を出す。被収容者たちはクリスマスには家に帰れると素朴な希望を抱いており、落胆と失望により未来に目的をもてなくなり、死に至った。著者はニーチェの言葉を引用する。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」これは、皮肉にも(その時代に戦争の目的とされていた幸福が達成されたあとの)現代の私たちにも当てはまる。生きていることに、もう何も期待がもてない。私はいつも、子供の頃のに読んだマンガ『赤ちゃんと僕』に出てきた少年を思い出す。自殺したその子は、こう言い残すのだ。「せんせい、ぼくはもう、いきていたくありません。」著者は言う。自身が「なぜ」存在するかを、その重みと責任を自覚すれば、人は生きていることから降りられないのだと。なぜ生きるの?けれど、その理由を手放す時が、ある。重さを天秤にかけて、人生を降りるときが。生きる意味を見失った被収容者は、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と崩れていく。「こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。」この著者の言葉は、今にも通じる。希望を持て、と口先で叱咤激励することは容易い。あなたは「」なのだから、生きなければならないのだと、その「」にあらゆる言葉を、役割を、責任を、あてはめても。それでも秤が傾いて、ついにひっくり返ってしまいそうになるのなら。私はそこに、「うつくしいもの」を載せる。朝日のきらめき、季節の到来を告げる鳥、路傍の花、夕焼けに染まる空。誰かの好意。親切。笑顔。ちいさな「うつくしいもの」を、ひとつずつ。かろうじて、天秤が戻るように。惜しみなく世界から与えられる「うつくしいもの」を。たぶん、この本が完膚なきまでの絶望に満ちていないのは、世界の「うつくしいもの」の片鱗が、そこにちゃんとあることが描かれているからだ。この本を読んでいるあいだじゅう、不思議な気持ちがしていた。恨みつらみのすべてを、悪逆非道の限りのすべてを、記すことも出来たはずだ。それでも、なぜかこの本を読んだあとは、気持ちが明るい。暗闇の中に明かりをみつけたような、そんな気分になる。訳者あとがきを読んで知る。この本には、「ユダヤ人」という表現が、わずか二度しか出てこない。それも改訂版で加えられたもので、その前には一度も使われていなかったのだという。(改訂版が出された1977年は、「イスラエルが諸外国からのユダヤ人をこれまでに増して奨励しはじめた年」だったそうだ。)そのことに気づかずに、最後まで読んだ。それゆえにか、これを普遍的な物語のようにして。世界が夜に包まれて、それでも光を消さずにいられるだろうか。自分の手元にある光を、守れるだろうか。それを誰かのために灯せるだろうか。霧の夜に誰かがーーー"It could be me."ーーーいなくなってしまう前に。ランキングボタンです。クリック頂くとブログ更新の励みになります!
2023.11.25
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書名週末の縄文人 [ 週末縄文人(縄・文) ]目次1章 原始の火には神様がいた2章 石斧に宿った魔力3章 “ヒモ”は原始の発明4章 縄文人が土器に縄文を付けたワケ5章 竪穴住居から縄文の世界を覗き見る実用コラム:火の起こし方/石斧の作り方/ヒモの撚り方/土器の作り方感想毎日毎日デスクワークで仕事するサラリーマン。人生の意味を見失い、生活に疲れ、ふと「自分は何をしているんだろう?」と空を見上げる…。そんなとき、仲の良い同僚が言う。「俺と一緒に、現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築いてみないか?」そうして、週末に縄文時代を送る生活が始まった。まずは、火を起こすところから。(ちなみに2ヶ月かかった)…という、人気YouTuberの書籍化。いやもうこのさわりだけでめっちゃ面白そうやろ?おもろかったよ〜!私はタイトルと表紙が気になって手にとって(「182.ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした [ マーク・ボイル ]」みたいな話かなと思って)、本を読み終えてからYouTubeを見た。正直、1つめの火起こし動画なんて「若いあんちゃんらが内輪でキャッキャしてる」だけに思えて、動画から入ったら見なかっただろうなと思った。本はしっかり書かれているので、本だけでも面白いです。本→動画をおすすめする。ふだん本を読まないような中高生男子でも、心ときめかせそうな内容。火を起こす、石斧を作る、土器を作る。どうすれば良いのかわかないから、失敗の連続。なぜだろう?からのトライ&エラー。だからこそ、成功して完成したときの喜びはひとしお。そして身の回りにあふれるモノへの見方が一変する(ヒモってすげえ…)。縄文時代って、どう思う?いや私、誤解してたなと思った。未熟、稚拙、貧相、愚蒙。そんな印象がこの本を読んで覆った。火を起こすのがどれほど大変か。縄文土器に隠された知恵。竪穴住居を作る工夫。今の人間が何の知識もなくトライしても、出来ないことばかり。めちゃくちゃ最先端技術やん、縄文時代…。ってなる。著者たちが、考古館に「技術を学ぶために」縄文土器を見に行くの、最高にいかしてる。ヒントを求める彼らに、館長は「君たちの失敗がもっと見たいんだよ」と言う。失敗できる、っていうのは何というか、自由であることとも同じなのかもな、と感じた。それが喜びというか、いやもうやってらんねー!!ってなるけど、それでも。身体で得る知識。蓄積される「生きる力」。生きている、の実感。彼らは縄文時代から初めて、はて今は何時代にいるのだろうか?とYouTubeを見に行ったら、最近「飛び道具大革命、弓矢の誕生」でまだ縄文時代っぽかった。いやでも楽しそうよな、縄文時代。弥生時代になって農耕が始まると、週末だけでは厳しそうやしな…。ランキングボタンです。クリック頂くとブログ更新の励みになります!
2023.10.10
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書名ふたり 皇后美智子と石牟礼道子 [ 高山 文彦 ]目次序 章 天皇の言葉第1章 二人のミチコ第2章 会いたい第3章 精霊にみちびかれて第4章 もだえ神様第5章 闘う皇后終 章 義理と人情感想いわた書店「1万円選書」で選んでいただいた本。(2022.02.06「2022年1月に読んだ本まとめ/これから読みたい本」)かつ、2023.01.03「2023年の課題図書48冊」の1冊。どうしてこの本を選んでくださったのかなあ、と思いながら読んだ。タイトルからは内容がいまいち分からず、皇后と作家?の交流?比較?みたいな本なのだろうか、と開いたらまったく違った。2013(平成23)年10月、天皇皇后の水俣訪問。「全国豊かな海づくり大会」への出席という名目だったが、ノンフィクション作家である著者は、水俣病患者と会うことに真の目的があったのではないかと思う。水俣病患者の言葉を綴った『苦海浄土』を著した石牟礼道子と皇后の交流、そして胎児性患者との極秘裏の面会ーーー。同じ名前をもつふたりは、国策会社が齎した国家による毒殺ともいうべき歴史的出来事に、どう向き合い、何を思うのか。私は「水俣病」というと、教科書で学んだあれね、という程度の認識だった。昔の、環境意識がなかった頃の公害でしょう?終わったこと、と思っていた。当時お母さんのお腹の中にいて、生まれながらにして重い障害を負い(しかし生まれてきたこと自体が、また生きている事自体が奇跡のような状態で)、今も生きている人がいるんだって、思わなかった。水俣病患者たちがどのように国と戦ってきたかも知らなかった。そしてまた、天皇皇后の訪問というのは、こうも人の心を慰撫するのか。私は現代に天皇制は要らないのでは?と思っているくちで(人の上に人を作ることは、人の下に人を作ることの肯定でもあるのでは?それに何より本人らが可哀想すぎん?)、仰々しく訪問してただ哀しみ慈しみ心を寄せる様子を見せる、ということに意味なんてないと思っていた。口に出せない言葉があるから、人は類推する。憶測する。この本でも、繰り返し繰り返し「こうではないか」と著者は述べる。きっとそこには、都合の良い見方もあるだろうし、穿った見方をする人もいるんだろう。曲解も解釈違いもあるだろう。それでもこの人たちが来るということは、「自分たちが認められた(見留められた)」ということを意味するんだろう。象徴としてでも、「国」が、「国民」が、自分たちを見つめているのだと。そして一方で、天皇皇后という存在は、「国」の罪を背負わされている。身体がつらく、十年以上浴槽に入れなかった胎児性患者の方が、天皇皇后と面会した後、チャレンジする気持ちが湧いてきて、ハンモック式の装置に乗ってお風呂に入れるようになったのだという。「天皇陛下さんたちも頑張ってるから、私たちも頑張らなくちゃならないと思った。失敗してもいいと思ったから、やる気になった」また、患者のひとりは言う。私は日本人に生まれてよかったと思いました。左でも右でもなく、古代から営々とつづいてきた大いなる存在があるということが、非常に幸せだなと思います。私はこの本を読んでいて、よくわからなくなってしまった。天皇制って、天皇という存在って、なんというか、「救い」になっているのだ。私はそれがたまらなく嫌だったはずなのに、読んでいる内に「でも、そうじゃなければ、どうなるんだ?」と思った。国は顔をもたない。国は非を認めない。国は手を握り、泣いてはくれない。象徴としての存在が、それを可能にしている。それは日本が宗教的に帰依するところを強く持たないから、その代替として機能しているのか?というか、もうこの存在が信仰であって(信仰だったし)、「日本人としての共通の根底」みたいな幻想を担保しているのか?と、ぐるぐる考えていた。この本を読み終わった頃、ちょうど今年の「全国豊かな海づくり大会」が開かれたというニュースを見た。令和5年9月16日(土)・17日(日)、第42回全国豊かな海づくり大会 北海道大会。処理水放出で「日本の海」についてニュースで耳にする機会が多くなったこの頃。この海は昔と繋がっているし、世界と繋がっているし、未来と繋がっているのだと思った。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.09.22
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書名最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく (単行本) [ 上野 千鶴子 ]目次第1章 人生100年時代、先輩方の覚悟90歳、ひとり暮らしの危機を乗り切った 転んで寝たきりになっても、「これで終わり」とは思わなかったー澤地久枝×上野千鶴子「安楽死させて」の思いに迫る 好奇心が枯れるまでよく生きて、上手にサヨナラしたいー橋田壽賀子×上野千鶴子夫と離れても、悲しみすぎない 普段から距離をおいて「ひとり時間をどう過ごすかが大事」-下重暁子×上野千鶴子下っていく現実を受け止めて 親ですもの、子どもに迷惑かけたっていいじゃない?-桐島洋子×上野千鶴子第2章 節目を超えて、さらに輝く主婦こそ“定年”前から備えたい 「女子会」「子離れ」「きょうよう」が40代以降のキーワードー村崎芙蓉子×上野千鶴子課せられた期待や役割を打ち破ってー50代で気づき、60代で大胆に、70代で女は解き放たれるー若竹千佐子×上野千鶴子55歳、人生の折り返し地点を過ぎて 最後まで、ご機嫌な独居老人でいようー稲垣えみ子×上野千鶴子第3章 老後は怖い?怖くない?ずっと「親の子でいたい」?家族に看取られなくても、不幸じゃないー香山リカ×上野千鶴子看取り士って何ですか?「最期を見届けてほしい」の声に寄り添うサービスー柴田久美子×上野千鶴子老後の備えはお金で決まる 決して手放してはいけない「家」と「友」と「1000万円」-荻原博子×上野千鶴子終章 最期まで自宅での暮らしを全うする「在宅ひとり死」徹底研究感想上野千鶴子さんと、色んな方の「老い」をテーマにした対談集。澤地久枝さんという方が、介護保険の存在も利用方法も知らずにいたというのは驚き。ご自身で家政婦を雇ってしばらく過ごしていたというのだから…。でも、それを上野さんに指摘されても、別にという感じ。上野さんは介護制度を高く評価していて、家で女が担ってきた「介護」を制度化させて誰でも利用できるようにしたことが素晴らしいとおっしゃる。しかし年配の方は、いざ介護制度を利用する必要が生じても、「誰にも頼りたくない」「我慢する」「のたれ死にしてもいい」と助けを求めないことがあるのだという。この「助けを求めない感覚」について、上野さんが「矜持を持っている社会的に強い立場の方と、反対に情報が届かない立場の弱い方」に共通した感覚なのだと言っていて、確かにと思うと同時になぜなんだろうと感じた。強者と弱者でありながら。橋田壽賀子さんとの対談では、御本人が安楽死を望まれていることについて、それは「生産性(仕事)がなくなったら生きている理由がない」という意味なのではないかと上野さんは言う。私も尊厳死や安楽死は制度化されてほしいと思っているけれど、それは自分の命の終わりを自分で決めるということで、その終わりがいつか?というと、病気を得たり、年をとって衰えた時、なんじゃないかと思う。そしてそれは、「病気を得て、年をとって、衰えて」生きている人を否定することでもあるんだよな…。あくまでもこれは私の問題でありながら。一方で「生産性がなければ生きている価値がない」と世界を捉えていることなのではないか。それは優生思想とどう違うのか。桐島洋子さんとの対談で意外だったのが、上野さんも桐島さんも「最後には子どもにほどほどの迷惑をかけてもいい」と思っているということ。もっとこう、独立独歩、最後まで自分で!というスタンスかと思っていた。人生は持ち回りだから、というこの言葉、養老孟司さんも言っていたな。生まれたばかりの赤子は世話を焼いてもらうことしか出来ない。死んだ後の世話は自分では出来ない。人間は生まれてから死ぬまで面倒をかけることで生きているのだし、それを順繰りに受け持つのだと。これはたぶん、先に挙げた安楽死の話とも繋がる。若竹千佐子さんとの対談で、日本の男女の関係は「父と娘」や「兄と妹」「母と息子」のような夫婦モデルをとることについて、上野さんが愛って不安定なものですから、親族関係をモデルにしてカップルの関係を安定させるのでしょう。そうしてお互い何かを奪い、奪われているんですよ。と述べられていて、なるほどと思った。「妹背(妹兄)」という言葉があるけれど、神話だって兄妹や姉弟が夫婦になる。それは他人と他人という定形の収まりどころのない「ふたり」が、安定した型にはまるための一つの戦略であるともいえるのか。若竹さんとの対話の中で、「青春・朱夏・白秋・玄冬」を人生の季節として呼ぶことを言っていたけれど、青春以外は聞かない。…私は今、何時代なの?朱夏?稲垣えみ子さんとの対談では、稲垣さんのお母さんがご病気されて、それが稲垣さんの「上手に下る」を目指すことに繋がったのだとあって、そうだったんだと思った。やりたいことを諦めず、イキイキと外に開いているのが幸せな老後のイメージでしたけど、そうではなく、やりたいこと、欲を徐々に少なくして、下り坂であってもなんとか前向きに下りていきたいなって。寿命がどんどん伸びて、80歳以上が人口の1/4だという。100歳以上の人が 9万人超。長寿は人類の長年の望みだった。けれどどうなんだろうな。それは幸せなことであるのだろうか。あるいはあり続けるのだろうか。自分が生きていくことの延長には必ず死がある。人は皆死ぬ。致死率100%だ。病気、老衰、障害、あるいはほかのものだって。けれど世界にはまるでそれがないように、見える。生産性。機嫌よく死んでいく。ちゃんとそれが出来るかなあ。今だって難しい。機嫌よく生きることさえ。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.09.20
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書名もやもやしたら、習慣かえてみたら? 37人が大切にしているルーティン [ 一田 憲子 ]目次1章 やりたいことがわからない人へ樹木希林さん堀井和子さんヨシタケシンスケさんもたいまさこさん赤木明登さん 智子さん佐治晴夫さん有元くるみさん植松 努さん藤田志保さん須長 檀さん 理世さん 2章 家事がつらい人へ伊藤まさこさん引田ターセンさん かおりさん石村由起子さん西胤真澄さん田中ナオミさん黄瀬徳彦さん 唐津裕美さん佐々木由貴子さん3章 ご飯づくりをラクにしたい人へタサン志麻さん按田優子さん前原なぎささん瀬尾幸子さん林 のり子さん佐藤友子さん和田ゆみさん4章 時間の使い方が上手になりたい人へ中嶋朋子さんイイホシユミコさん為末 大さん森下典子さん佐々木かをりさん坂下真希子さん野口真紀さん大井幸衣さん望月通陽さん感想2023年200冊目。→1冊8月のレビューが漏れていて、201冊目でした。笑1961年生まれ。編集者・ライターである一田さん。この本は、ご自身が2006年に立ちあげた「習慣」を切り口にした雑誌「暮らしのおへそ」に掲載された過去35冊から抜粋したもの。そのため、ひとりにつき4頁くらいにまとまっていて、「もっと知りたい」「え、それってどういうこと?」があり、ちょっと物足りない感じがした。雑誌掲載時のボリュームを再構成するにしても、おひとりおひとりをもうちょっと長く読みたいなあ。それで、「1」「2」って出していくとか、今回だと章ごとに一応テーマを分けているので、それごとに本を出すとかにしてくれたらたっぷり読めるんだけどなあ。コンパクトにまとまっていて、色々な方(著名人だけではなく、インスタに日々のごはんの写真を挙げている普通の人も登場する)の習慣のエッセンスだけを読むには読みやすい内容になっていました。私が気になったものは、・樹木希林さんは、固形石鹸を家中で1つだけ、台所から洗濯まで使う。・スタイリストの堀井和子さんは、展覧会で「もしお金を払い、1点だけ持ち帰るとしたら」という目線で見るそう。「自分で選ぶ」という目の鍛錬になるのだという。・一級建築士の田中ナオミさんは、野菜くずをアルミホイルに乗せて、朝食のパンと一緒に焼いて水分を飛ばす!中でも素敵だったのが、ロケット開発も進める植松電機の代表取締役植松努さんの言葉。「人間は『やったことがないこと』にしか出会いません。なぜなら、人間は一回しか生きることができないから。ということは、人間は必ず失敗するということです。みんな初めての、一回しかない人生を、ぶっつけ本番で生きています。だから失敗はダメじゃないんです。失敗はデータです。『なんでだろう?』『だったらこうしてみれば?』このふたことだけで、失敗は階段の一段になって、みんなを強く、優しくしてくれます」この方、何冊も本を出していらっしゃるんですね。読んでみたいな。習慣、だいじ。朝起きてラジオ体操をして、英語を勉強して、ブログを更新する。子どもたちを起こして、朝食を食べさせながら日記を書く。「やらないと気持ち悪い」私の朝のルーティン。良い習慣もあれば悪い習慣もある。たとえばダラダラとネットしてしまうとか(しかしこれもまた、「ダラダラしたい」という自分の気持があるときはそれを「ダラダラネットするぞ!!!」と決めてやるならよし)。要は自分でコントロールできているかどうか、ということなんだろうと思う。著者が言うように、それは暮らしの「おへそ」となるもの。自分はどうなりたいか、どうありたいか、どう過ごしたいか。日々をどう生きて、最後に死にたいか。大げさに言えば人生の核にもなるもの。丹田呼吸みたいなもんなんだろうな。そこがしっかりしていたらぶれない。だから、もやもやしているときは、その習慣を変えるきっかけなんだろう。もやもや、日々している。笑そんな時、自分のおへそがどこにあるのか、確かめて。回る独楽のように、軸を整えたい。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.09.10
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書名無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記 [ 山本 文緒 ]目次第1章 5月24日~6月21日第2章 6月28日~8月26日第3章 9月2日~9月21日第4章 9月27日~感想NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」(2022/11/18放送回)で紹介されていて読んでみたくなった本。(ちなみにラジオは翌日、著作権法で認められる範囲を超えて本文を読み上げたとして謝罪)山本文緒さん。私は亡くなってから知って、2作ほど読んだ。2022.02.28 ばにらさま [ 山本文緒 ]2022.04.03 自転しながら公転する [ 山本文緒 ]58歳での突然の余命宣告。夫とふたり、無人島に流されたように、死に囲われた日々を送る。それにしてもがんって、お別れの準備期間がありすぎるほどある。いや4月に発覚して今は9月なのだからあっという間の時間だったはずだけれど、とても長い期間お別れについて考えた気がする。別れの言葉が言っても言っても言い足りない。2023.04.28 養老先生、再び病院へ行く [ 養老孟司 ]でも言っていた。「がん」と言われる。余命が宣告される。残り時間が示される。事故で亡くなるのとも、急病で亡くなるのとも違う、死へ向かう準備時間がある。目減りしていく砂時計のように。余命が宣告されていても、『きのう何食べた?』の新刊を読み、読みかけだった金原ひとみさんの『アンソーシャルディスタンス』が死ぬことを忘れるほど面白いと言い、悲しくて頭が割れそうでもアマゾンの領収書を印刷する。それが生きていること、と著者は言う。そうなんだろう、と思う。抗がん剤治療、昔よりずいぶん負担は軽いと思っていたけれど、この本を読むととんでもない。著者が1回でやめたいと思うくらい、つらいものだった。緩和ケアに切り替え、そうするともうできることはあまりない。腹水が溜まり、水を抜いてもらう。2021.09.03 ねこマンガ 在宅医たんぽぽ先生物語 [ 永井康徳 ]2022.10.22 ねこマンガ 在宅医たんぽぽ先生物語 おうちに帰ろう [ 永井康徳 ]家で看取ること、について前に読んだこれを思い出した。著者は病院へ入院することを嫌がり、在宅看護で最期まで過ごす。彼女は日記を書く。パソコンに向かっていられなくなったら、手書きで。手書きができなかったら、音声入力で。それもできなくなったら、口述筆記してもらう。明日また書けましたら、明日。この日記は、亡くなる9日前、この一文で終わる。作家だから、なんだろうか。最後の最後まで書いていた人。そして私は、どうしてそれをまた、読みたいと思うんだろう。死を、知りたいと思うからだ。自分がまだ経験したことがない、未知のもの。それを綴った道のりの記録。それはその人の「生」を、知りたいと思うからだ。どう死んだかは、どう生きたかということでもある。その、人生を。たぶんこの本を読んだ人はみんな考える。自分にあと120日しか残されていないとしたら?みんなから切り離されて、離れ小島に流される。そのとき、私はひとりではないのだろうか?あれをしておけばよかった、これをしておけばよかった。120日の砂時計はひっくり返されて、サラサラと砂はこぼれ落ちる。それでもゴミを捨て、洗濯をして、本を読んで、皿を洗うんだろう。何かの予告を見て、その時自分はもうこの世界にはいないんだ、と思うんだろう。未来の約束は消えて、今だけが存在するようになる。できなかったことを数え上げて、笑ってしまう。バンジージャンプだってしなかった。だから何?無人島から、生者は舟に乗って戻る。死者はひとり、島に残るのだろうか。それともそこから、また別の場所へ舟を漕いで行くのかな。はるかニライカナイがあるなら、それをまた楽しみに出来るだろうに。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.09.02
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書名もりあがれ!タイダーン ヨシタケシンスケ対談集 (MOE BOOKS) [ ヨシタケ シンスケ ]目次第1話 「自己紹介だ!タイダーン」糸井重里第2話 「伝説に迫れ!タイダーン」かこさとし第3話 「共感発動!タイダーン」岸本佐知子第4話 「お題を出そう!タイダーン」クリハラタカシ第5話 「己を知ろう!タイダーン」坂崎千春第6話 「モチベーションを探れ!タイダーン」柴田元幸第7話 「際立て!個々のスタイル!タイダーン」junaida第8話 前編「読書遍歴!タイダーン」後編「語れ!断面図!タイダーン」鈴木のりたけ第9話 「視界を広げろ!タイダーン」ブレイディみかこ第10話 「蔵書対決!タイダーン」穂村弘第11話 「仕事の極意を学べ!タイダーン」モリナガ・ヨウ感想2023年188冊目★★★ヨシタケシンスケ大好きか!(大好きだ)これは珍しく?著者単独本ではなく、対談集。さすが売れっ子絵本作家、対談相手が豪華絢爛。対談の様子の文字起こしと、最後にヨシタケさんが1ページ対談の感想をイラストにしたものが掲載されている。ヨシタケさんの頭の中が覗けたようで「そうなんだ」と新しい発見があった(動物が喋るかわりにロボットが登場する)し、制作の裏話も聞けるし、何より対談感想のイラストが面白かった。糸井重里さんとの対談で、自分の井戸だけはもうずうっと見てきたので、いっくらでも説明できるんですよね。だからもう本当に、そこで過ごすしかないなと思ってて。「あいつ、外に出てないし人の意見も聞いてないし、自分の井戸の中でしか一生終えてないけど、でもなんかあいつの井戸の話聞くと、井戸に入りたくなるんだよね」とか、「なんか井戸もいいよねってちょっと思えてくるんだよね」って言ってもらえれば、勝ちなのかなと。とヨシタケさんが仰っているの、ご自身の作風をよく理解して分析しているのだな、と思った。村上春樹も、物語を書くことを「井戸を掘る」と言っていた。その井戸は深く深く掘っていけば、他の人と同じ水脈に当たる。あるいはこの井戸の話、森見登美彦『有頂天家族』の矢二郎兄さん(蛙に化けて古井戸に住んでいる狸)も思い出す。井戸に入りたくなるんだよね。たぶん世界は、「出ていく」ことを称賛する。「拡大していく」「拡散していく」。より広く、より大きく、より高く、より遠く。でもそうじゃないこともまた、「あり」なんだろう。より狭く、より小さく、より低く、より近く。半径85cmがこの手の届く距離、と初音ミクも「ダブルラリアット」で歌っていたな。ボローニャでヨシタケさんの絵本『もうぬげない』が賞を受賞した時、「世界中で子どもは頭に服が引っかかっているけれど、それを絵本にしようとしたのはあなたがはじめてだ」と審査員が言ってくれたのが、ヨシタケさんはすごく嬉しかったのだそうだ。たぶん、そういうこと。子供の頃、砂場で穴を掘っていたことを思い出す。その穴が世界の裏側に繋がっているのだと思っていた。コンクリートの底にぶつかるまで。でも、もしかしたら、それは違うのかもしれない。それしかないわけないじゃない?というのが、ヨシタケさんの面白さ、なんだろうなあ。岸本佐和子さんとの対談では、対談後のヨシタケさんのまとめに「ちゃんと大人になった人々」↑あこがれ&憎しみ ↓軽蔑「ちゃんと大人になれなかった人々」↑共感&支援 ↓「世界に対する違和感」の表明「ちゃんとした大人のフリができる人々」↑信頼 ↓手助け(労働)「ちゃんと大人になった人々」という図解があって、これがすごく分かる。「世界に対する違和感の表明」。そして、ちゃんとした大人への憧れと憎しみ。井戸の中に入ろうなんて思わない人たち。でも、世の中の大多数は「井戸の中にいるなんて面白そうだな、ちゃんとした大人は入らないから入らないけど」という大人のフリができる人々、で構成されているんじゃないだろうか。だから、「その井戸の中はどんなふう?」って、本を読んだりするのだよね。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.08.26
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書名ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした [ マーク・ボイル ]目次プロローグ 自分の場所を知る 冬 春 夏 秋 シンプルであることの複雑さ後記無料宿泊所〈ハッピー・ピッグ〉について感想2023年182冊目★★★2023.01.03「2023年の課題図書48冊」の1冊。もともと、前に読んだぼくはお金を使わずに生きることにした [ マーク・ボイル ]が結構衝撃で(1年間、お金をまったく使わずに生活してみる試み)、その著者が出した「続編」を見つけて「この人その後どうなったんやろう」と思っていた。タイトルから、「スマホ断ち」「オフグリッド(電力自給自足)」みたいな話なのかなと。違いました。テクノロジーを使わずに生きる、の徹底っぷりがすごい。舞台は著者の故郷、アイルランド。貨幣経済が、資本主義が、根こそぎ自然も社会も変えてしまった、そのあとの世界。そこで著者は、すこしのお金で生きていける「自給自足」を行う。スマートフォン?もちろんない。離れたところの両親との連絡手段は、手紙。この本も、鉛筆と紙で書かれた。時計もない。誰かに会いたい時は、歩いていく。野菜を育て、魚を釣り、薪を割り…。際限なくある「仕事」で忙しくしながら、著者は「なぜ自分はこうしているのか?」を問う。それでも、元の暮らしには戻れないのだと。少なくとも自分がこうしている限り、自分は自分に嘘をつかずに済む。万が一にもできるならば、産業文明が濫造した「レンズ」を取りはずして、自分自身の目で、この世界をありのままに見たい。もっとも根源的なレベルにおいて人間は動物であるけれども、その事実が真に何を意味するのか、ぼくにはまだ、ほとんどわからない。何年も前にこう決めた。生計を立てるためにわが人生をついやすのではなく、わが人生をじかに生きよう、と。(略)自分の魂を、いちばん高値をつけた入札者に売りたいとは思わなくなった。今のわたしたちの暮らし。一握りが享受する、便利で快適な暮らし。誰かを、何かを、多大に消費し、犠牲にし続ける生活。それに目を瞑って、気付かないふりをして。SDGsなんて言葉できれいに覆って、未来をラッピングする。「持続可能な開発目標」の裏返しは、「壊滅的な衰退」が現状の延長にあるから。今、そこに繋がる道を着実に歩んでいるから。何かが、徹底的に、決定的に、間違っている。その感覚を拭えない。違和感を抱えたまま、矛盾を孕んだまま、日々に忙殺される。そんなことを考える暇もないくらい。今が良ければいい。自分が逃げ切れるなら。けれど、そのあとは?使わない能力はたしかにおとろえるものの、思うに、まともな字を手で書けない第一の原因は、一分間に四十ワード書こうとするから、ようするに電子メールと同じ速さで手紙を書きあげたがるからだ。速度を落としさえすれば、きちんとした字を書くのは易しくなる。速度を落としさえすれば、何事にせよ、きちんとやりとげるのが易しくなる。時々、道を歩いていて思う。私はこのまわりに生えている植物の名前をほとんど知らない。それが食べられるのかどうかも、薬になるのかも、何に使うのに向いているのかも。雲の形から天気を予測することも、飛んでいる鳥を捕まえることもできない。たった数十年前には、当たり前だった知識は、のきなみ失われた。冒険図鑑 野外で生活するために (福音館の科学シリーズ) [ さとうち藍 ]子供の頃、『冒険図鑑』という、野外で生活する術が図解された分厚い辞書のようなこの本をずっと読んでいた。何かあったらーーーこの本で身につけた知識を活かそうと思いながら。木から器を作る方法。川での魚の捕まえ方。大きな森の小さな家 インガルス一家の物語1 (世界傑作童話シリーズ) [ ローラ・インガルス・ワイルダー ]『ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした』を読んでいる間じゅうずっと、懐かしいような気持ちだった。何故だろう、と思っていたら、これも子供の頃何度も読んだ『大きな森の小さな家』の世界と、著者の暮らしが同じだったから。厳しい暮らしなのに、それに憧れるような気持ちがあるのは何故だろう。生きている感じ、がするからかな。荒々しい自然と対峙して真剣勝負をする。剥き出しの生。そうしたら、生きている、と思えるんだろうか。でも一方で、この著者の暮らしに疑問を覚える自分もいる。そこまでしなくていいんじゃないの?今の少子高齢化が叶ったのは、技術進歩があったからじゃない。それを否定するだけの、「後退」の価値はあるの?それでもスローダウンは必要だと思う。でもこの世界で生きていくにはお金も必要で。猛暑が続く。エアコンの適切な利用を。この機械がなければわたしたちはどうなるの?でもそもそも、この機械を使い続けることがもっと暑い日を生むんじゃないの?どうやって作ったかも、どうやって動くのかも分からない機械。自分で作れも直せもしない機械が、命を握っているなんて?それでもエアコンを使わずにはいられなくて、それこそが今の問題そのものみたいに感じる。問題だと思って、でもそれに気づいたときには、それなしではいられないようになっている。テクノロジーを使わずに生きることにした著者は、でもこの世界で、ひとりでそのやり方をするには限度があることにも気付く。世界の毒は、どこにも回る。影響を受けずにいられるものはない。けれど、それでも、「何かがひどく間違っている」世界の片隅で、昔の技術を学び、実践していく著者はすごい。もしかしたら、医療やエネルギーの先端技術はそのままに最小限の精鋭として、それ以外を違う形で変えていくことはできるのかも。テクノロジーを使わずに生きることはできない。著者も自問する。火を使うのはテクノロジー?ナイフは?そのバランスを、見直さなくては。わたしたちにとっての火と、ナイフは何なのか。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.08.19
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書名絶滅危惧職、講談師を生きる (新潮文庫) [ 神田 松之丞 ]引用振り返ってみても、あのときの客席の視点っていうのは、すごく大事でした。迷ったときは、あのときの自分だったらどう思うか、というのを僕は絶対基準にします。演者って、お客さんの時代が長ければ長いほど良い芸人になれる気がします。(略)でもお客さん時代が長くて、こじらせていた期間があった人は、本当に俺はこういう芸人が聴きたかったのかな、とか常に自分に問いかけるし、プレイヤーであるときも、あれ、俺間違ってねえか、ここは昔の俺だったらどう思うかな、っていうのを客時代の一番頭おかしかったときの自分を基準にするでしょう。感想2023年173冊目★★★いわた書店「1万円選書」で選んでいただいた本。(2022.02.06「2022年1月に読んだ本まとめ/これから読みたい本」)2023.01.03「2023年の課題図書48冊」の1冊。落語は、聞いたことがある。私が大学生だった頃、宮藤官九郎のドラマ「タイガー&ドラゴン」(長瀬智也と岡田准一が落語家を演じていた)から一時期流行り、私も大学の図書館でCDを借りて聞いていた。お気に入りは「たちぎれ線香」。終わり方が秀逸。けれどそのうちに聞かなくなった。能…は、「蝋燭能」を一度きり(秒で寝た)。文楽は、三浦しをんの小説を読んで「面白そう」と見に行ったけど、はまらず。歌舞伎と狂言は見たことがない。伝統芸能ってもんはどうもこう、小難しくて退屈だという印象がある。で、講談師ってナニ?っていうレベルでこの本を読んだので、落語家とは違うのか…というところから理解した。…「にほんごであそぼ」の神田山陽さんは、講談師だよね?(っていうことを思うと、「にほんごであそぼ」という番組の革新性とメッセージ性と幼児への日本古典のサブリミナル効果すごいな)べべんべん、と扇子を打つ、あれ?著者は、1983年東京生まれ。1〜4歳を父の仕事の関係でブラジルで過ごす。小学3年のときに父が自死。内にこもる中学時代にラジオと出会う。その後、プロテスタント系の私立高校に進学し、無二の親友と巡り合う。「ラジオ深夜便」でやっていた落語をたまたま聞いて興味を持ち、武蔵大学経済学部に進学後は寄席へ通い詰める。大学を卒業後、神田松鯉へ弟子入り。講談師の道を歩み始める。なんで俺がこんなことやらなきゃなんねえんだ。という、反骨精神あふれる下っ端。着物たたみ方?メモとっちゃだめ?動画で覚えりゃいいじゃん。師匠や兄弟子たちは、さぞ手を焼いただろうなあ。この本は、御本人へのインタビューと、周囲の方へのインタビューが両方入っていて、「当事者から見たあのとき」の主観と、他者の視点が補足され、認識のズレもまた面白い。しかし、絶滅危惧職であった「講談師」の存在をいかに世間に訴えていくか、そのためにどう「見せる(魅せる)か」。考えて考えて、戦略的にやっている。ここらへん、伝統芸能でありながら若手の劇団員のようだった。「二ツ目のうちは挑戦をしていい、それこそいかに良質な恥をかけるか、という勝負の時期」と著者は言う。そうして圧力を恐れずどんどん新しいことに挑戦していく。それに客がつく。なんていうかな、存在が2.5次元俳優みたいな…?著者の講談への思い入れはすごくて、ものへの執着もなくて、講談の台本と着物さえあればいいと言う。大事なことは、この人の話を読んでいて、「講談って落語とどう違うんだろ、聴いてみたいな」と思うことだ。調べてみると、居酒屋や喫茶店、区民センターや市民ホールでやっている。値段も安い。特に夏休みは、子ども向けのものも開催されていて、子どもを連れて行くのも良さそう。ちなみに、落語や講談に娘(小2)を連れていけないかなと思って、手始めにお笑い(漫才)に連れて行ってみた。結果は惨敗。若手が半分、年配が半分で、ネタは1/4も理解できなかった模様。最後は退屈していた…。もともと夫がお笑いが嫌いで家で見せていないので、素養がなかったのも原因か。みんな、映画を2時間見られなくなったという。じっと座って、スマホを手に呟かずに、ただ映画を見るということが出来なくなった。派手な映像で受け身なだけの映画ですらそうなのだ。集中と想像が必要な「聴く」芸、あるいは「読む」ことだってそう。絶えず自分好みの刺激を与えてくれるものを手に入れて、わたしたちは何を失ったんだろう。しかし、タイパ(タイムパフォーマンス)でオーディブルブックが人気になっている今、落語や講談はある意味とっても良いポジションにいるのではないかしらん。私も今回聴いてみようと思ったけど、古典ばかりだと「うーむ」となる。著者は、話のまくらを入れたり、ダイジェストであらすじや時代背景を紹介してから噺に入っていくという。そういうサポート、必要。これが伝統芸能でござい、と胡座をかいていれば、積み上げた座布団はどんどん高くなって、世間から乖離していって、誰も見られなくなる。エンタメだよ。語り継がれる楽しみのかたちなのだから。「面白い」に、人は惹きつけられる。「新しい」「なにそれ」「どういうこと?」。「知りたい」。古いは、忘れられるからこそ、また、新しい。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.08.08
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書名神戸・続神戸 (新潮文庫) [ 西東 三鬼 ]引用山口県の山中、道路に添って小川が流れている。その路傍の一軒一軒の前に、四斗樽が置いてあって「防火用水」と書いてあった。小川がドンドン流れているその前に。又、背後に山々を負った小さな村々に、必ず火の見櫓ほどの、何々村対空看視哨というものが建てられていた。裏山に馳け登れば瀬戸内海が見えるような村に。(略)白井氏は「ごくろう様」といってニッコリ笑った。私も仕方なくほほえもうとしたが、頬の筋肉がひきつただけであった。感想2023年冊目★★★2022.02.06「2022年1月に読んだ本まとめ/これから読みたい本」で書いたように、北海道のいわた書店さんがやっている「1万円選書」に申し込んで幸運にも当選し、カルテを書いて提出して、本を選んでいただきました。しかしそこから読まず^^;2023.01.03「2023年の課題図書48冊」として、今年は読もう!と心に決めてみるも、実行できず…。夏なので、自分の決めた課題図書を読もう!と集中的に読むことにしました。で、一番薄っぺらな文庫本のこれから手に取る。オシャレで異国情緒漂う神戸の町の気怠い滞在記…を想像していたら、違いました。薄さに見合わない濃さだった。著者は、西東三鬼(サイトウサンキ)1900-1962。岡山県生れ。日本歯科医専卒業後、シンガポールにて歯科医院を開業。帰国後、33歳で俳句を始め、新興俳句運動に力を注ぐ。1940(昭和15)年、いわゆる「京大俳句事件」で検挙される。’42年に神戸に転居。終戦後に現代俳句協会を創設。一時、雑誌「俳句」の編集長も務めた。句集の他、自伝的作品『神戸・続神戸・俳愚伝』でも高い評価を得る私はこの人を全然知らなくて。有名な人…?この本は、戦前戦後に東京から神戸に逃れてきた著者が、混沌としたホテル住まいを描いた記録。当時の神戸では、さまざまな国の人間が入り乱れ、暮らしていた。今の「気取った」神戸のイメージが一新される。なんというか、戦争についての記録とか証言って、偏っているよなあ。残したいもの、見せたいもの。の、裏側にある、隠したいもの、話したくないもの。外国人を相手にした娼婦たち。以前、京極夏彦の小説で赤線が出てきた時に、大学生だった私は初めてそれを知ったんだよ。きれいもきたないも、やさしいもひどいも。薄い文庫本なのに、ひとつひとつが、短編映画のような濃いお話。読み始めは、時代背景的なものもあり取っ掛かりにくく、「これ、読み通せるかな」と思ったけれど、数章読むと引き込まれて最後まで一気に読んでしまった。むちゃくちゃなのだ。でもそれが、読んでいて楽しい。これはなんていうか、ちょっと、この時代の空気だからこそ書けるものという気がする。文中に登場する「月下氷人をつとめる」って何?と思ったら仲人のことなんですねえ。きれいな表現。故事の組み合わせがもとになっている。まさかの「ゼクシィ」に用語解説があった。「1万円選書」ならではの楽しみとして、「いわた書店さんが私にこれを選んでくれたのは、なぜだろう?」と考えながら読む、というのがある。当時提出した選書カルテを読み返していると、「いちばんしたい事は何ですか?」の質問に、私は「海外または国内で、別の場所を短期滞在しながら旅するように暮らしたい。…違う世界に身を置いて、価値観ぐらぐらさせられたい。打ちのめされて、それでも変わらないものは何なのか知りたい。」と書いていました。改めて思ったのだけれど、私はこういう「様々な人が行き交う」、「袖すり合うも他生の縁」のような暮らし、「祝祭的な日々」が好き。そこに傍観者、観察者として参加したいというか。驚いたのが、この本の解説が森見登美彦氏(私の一番好きな作家)だったこと。選書カルテには一言も書いていないのに。こんなところでトミーに会うなんて!登美彦氏は、この手記を「圧倒的な密度」で書かれた「千夜一夜物語」だと言う。まさにそうだと思う。魅力的な登場人物が現れては立ち消える。魔法のランプの煙のように。作中にずっと漂う「フワフワした空気」が、まさにその煙に映し出された幻のようであるからだろう。現代から見ればなおさら。この本、選書してもらわなければ多分一生手に取ることはなかったと思う。ふだん、人から本を勧められても、「うん、でも今手持ちの本でいっぱいいっぱいでね」となってしまい、素直にすぐ読むということができない。推薦や選書だけじゃだめで、現物として手元にあること、が大事なんだろう。そしてそれを読むことね!積読じゃなく!笑書かれた言葉は、待っている。「その人」に読まれることを。その誰かに声をかけ取り持つ。それが選書ということだろう。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。* これまで日曜日は英語学習記録を投稿していましたが、月〜日の記録なので、終了後の月曜日(明日)に投稿することにしました *
2023.08.06
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書名闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由 [ ジェーン・スー ]目次はじめに齋藤薫(美容ジャーナリスト・エッセイスト) -「自分の顔を知るって、本質を見つけるということ」柴田理恵(俳優・タレント) -「自信がついたのは、自分たちがやってきたことが、人の役に立つとわかってから」君島十和子(美容家・クリエイティブディレクター) -「出会った人と、出会った出来事で成り立っている」大草直子(スタイリングディレクター) -「あらゆることをやってます。それは自分を好きでいられるためのステップなんです」吉田羊(俳優) -「やればできる、できないわけじゃないと自分を鼓舞してる」野木亜紀子(脚本家) -「少しでも心が動くもの、残るものを目指してやっている」浜内千波(料理研究家・食プロデューサー) -「女性が輝いているところで、私も一緒に輝きたい」辻希美(タレント) -「頑張っていれば、悪いことはないのかなって。何事も」田中みな実(俳優) -「この経験はしないほうがよかった、近道があった、と思うことはひとつもありません」山瀬まみ(タレント) -「ものの考え方だけで、ある日突然、いろんなものが幸せに感じました」神崎恵(美容家) -「やりたいことができるようになったら、誰からも好かれる容姿も必要なくなった」北斗晶(タレント) -「自分ができないことを補って助けてくれる人たちがいれば、人生回るんだよ」一条ゆかり(漫画家) -「私はずっと、私のためだけに存在する私の椅子が欲しかった」おわりに感想2023年165冊目★★★「週刊文春WOMAN」vol.1〜5、7〜13、17号掲載の再編集して収録。6年にわたる13人の女性へのインタビュー。いろんなジャンルの有名な人が登場する。テレビで見る一面だけしか知らない人たちの、内側。もちろん「きれいな」インタビューだから、全員「すごい」「いいひと」に見える。私は特に辻希美さんなんか、「よく知らないけど漠然とネガティブなイメージを持っている」状態だったので、へえと思った。艱難辛苦をくぐり抜けてきた彼女たちだからこその、噛んで沁みるような言葉たち。私が印象に残ったもの。「口幅ったくて、いい答えにならないかもしれないけれど、知性しかないのかなと思います。歳をとって、いくら若くてきれいで、金持ち風に見えても、決定的に知性がなかったら、汚く見えてしまう。知性がないまま、美しさと引きかえに削れてしまう人生は、送るべきじゃない」美容ジャーナリストの齋藤薫さんの言葉。何度も紹介しているけれど、私はマルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』で、最後のシーンが好き。それは年老いた「かつての美少女」であった主人公にかけられる「私は今のあなたの顔のほうが好きです、嵐が通り過ぎたあなたの顔のほうが」という台詞。先日の飲み会で、美人と評判の年上女性が「〇〇さんは、きれいだから」と声をかけられていて、それはいつまで価値があることなのだろうか、と考えていた。やっかみと言われるとそれまでなのだが。ジブリの映画「ハウルの動く城」で、魔法で老婆に変えられてしまった少女・ソフィーが言う。「私は美しかったことなんて一度もないわ!」けれどソフィーは、きれいなんだ。老婆になっていたって。それは何故か?外面より内面、ということではない。そりゃあ被っている皮の造形が整っていることは価値がある。けれどそれはなんていうか、多大な部分は別に単なる運である。そしてその美しさは、多くの場合、歳を重ねるほどに失われていく。削り取られていく。この歳になって、内側に蓄えているものが試されていると感じる。それで勝負するには全然足りない。削り取られていく人生の中で、積み増していくもの。母親に対する気持ちにも変化が訪れた。「こうしてほしかったという思いを、ずっと抱えて生きてきました。でも、やってもらえたことや赦されたことのほうがはるかに多い。そこに目を向けていなかったんだと、手紙を読んで改めて気づきました」俳優の吉田羊さんの言葉。両親に対して、屈託がない人というのが、私には眩しく、また信じがたい(それは私の夫であるのだけれど)。すべての親は毒親であり(自分も含めて)、その毒とどう生きていくかということが、この世に子として生まれた時に課せられた呪いみたいなもんだと思っている。どうしても、過去にしてもらえなかったことだとか、そういうところにフォーカスしてしまうけれど、アルバムをめくると「愛されて育った子ども」としての自分が映っている。大人になってから、その事実に驚愕した。これは誰なんだろう。今は、子の立場から、負の面からだけ親を糾弾するのはフェアじゃないと感じている。自分の子供を見ていてもそうだ。子には子の都合と思いが、親には親の都合と思いがある。永遠にマッチングしない矢印の双方向。「中堅になると、下にも上にも挟まれて、にっちもさっちもいかなくなるときってありますよね。若手にも行けないし、おばさんの部類にも入れないし」(略)「中途半端な時期を、どう跨いだらいんだろうという問いは自分の中にもあったんだけど、大人になったって、わからないものはわからないじゃないですか。そこで、わかる振りをするおとなになるか、わからないと言える大人になるかの岐路に立たされる。選択肢はふたつしかないから、私はわからないと言えるほうに。そういうのを求められている座席であれば」タレントの山瀬まみさんの言葉。私は現在、37歳。アラフォー。あ、あ、あらふぉー?!こんなに未熟でグズグズなのに、「右も左もわからない若い女の子」と甘やかしてもらえる時期は過ぎて、かといって「すべて任せられる存在」とは見なしてもらえず、中途半端だなあと思う。10や20年上のオジサマがたには、扱いにくい存在。発言すると窘められる。発言しないと役職に応じた仕事をしろと言われる。どっちやねん。でも最近、新しい会社での動き方も分かってきたし、もう遠慮するのやめようと思った。顔色を見ながら、角が立たないように、お伺い立ててやっていたけど。好きなようにやったろうと。ある人に、「ノマちゃんは、上の人にとっては脅威なんだよ」と言われた。だから、気にしなくて良いと。それでちょっと、気分を持ち直した。相変わらず「しんどいなあ、つらいなあ、やめたいなあ」と思う日々だけど。またある人には、「ノマちゃんは、尖りすぎててぶつかるねん」と言われた。もっと上手に生きていく術を学ばなくては、と。そうやねん。でも出来へんねん。だって私が正しいから!(笑)おまえ、そういうとこだぞ!私は、わからないと言える自分でいたい。そうして自分のできることを増やしていきたい。だってそのほうが楽しいから。それは私の喜びだから。「勝ったか負けたかわかるのって、目を閉じる瞬間ですよ。私はまだ人生に勝つってどういうことなのか、勝ち負けで済むものなのかもわからない。ただ、いろんな国に行っていろんなことを経験して、いろんな人と出会えた。勝ち負けよりも、人生は足し算みたいなもんだなと思ってます。最終的に残るのは一人か二人かもしれない。でも、足し算の最後の答えが自分ひとりじゃなきゃいいなって」元プロレスラーの北斗晶さんの言葉。私、ここの文章が引っかかって、でも前後の文章も含めて何度も読み返したのだけどよく分からなくて、それが「足し算の最後の答えが自分ひとりじゃなきゃいいなって」という部分。この言葉の後に、お祖父さんの「自分ができないことを補って助けてくれる人たちがいれば、人生は回るんだよ」というお話が続くんですが、だからこれは、「はやく行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければみんなで進め」と同じ意味なのかなあ。人生の最期の時に、今際の際に。人生に勝ったとしても(私にも何が「勝つ」ということなのか分からないのだけれどーーーあえて言うなら、「死ぬまで生きること」だろうか)、その勝利が自分ひとりのものであったなら、それは意味があることなんだろうか。「この先も、どうせ周りが文句を言って私を汚したりするに違いないから、絶対に自分に汚点をつけてはいけない。どこまでも自分を正しくかわいがってやろうと思ったんです」漫画家の一条ゆかりさんの言葉。「自分を正しくかわいがる」って、すごく難しいことであるけれど、必要なことだと思う。正当な自己認識と、適切な自己肯定。生きていると、そしておとなになると、別に誰からも褒められないじゃないですか。仕事だってやっていて当たり前なんだから。でもそれじゃあ、甲斐がない。「ラジオビジネス英語」のEメールの講義のときに、パーソナルタッチを入れていきましょう、というアドバイスがあるけれど、もう私のメール、パーソナルタッチまみれだからね。あなたの仕事がいかに誰かの役にたっているか、というのを伝えることを心がけている。けれど自分を省みると、出来ていない。周囲はね、よってたかって否定するほうじゃないですか。肯定よりも否定、賛同よりも批判。それなら、自分くらいは自分の味方でいてあげなくてはね。「どんなに嫌な自分でも、いつも真正面から自分と闘いたい。『あなたの敵は?』と聞かれたら、今日の私と答えます。一番の味方は、明日の私。明日の私に褒められるように、今日の私と闘うのよ」これも一条さんの言葉。私なんて毎日毎日、今日の自分に負けてますよ!笑明日の自分に託して、明日の自分から怒られてる!闘いの庭、咲く女。日常というバトルフィールドで、踏みつけられて。あるいは上からアスファルト舗装されたとしても。なにくそ、と咲ける自分でありたいよね。自分がそこにいる理由、を探しながら。誰かがその花を見て、笑んでくれると嬉しい。そしてまた、そのあとにそこに誰かが花を咲かせられるように。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.07.29
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書名虹と雲 王妃の父が生きたブータン現代史 (ブータン・チベット仏教文化叢書) [ ウギェン・ドルジ ]目次黄金の重みのラマ「意」と「口」の化身の家系が一つに若きシャプドゥンの死サン・チュコル・ゾンの火事ギャンツェ、そしてカリンポンへシェカ・ダに引きこもる家長で細密工芸の達人だった祖父ペドン・ゴンパのラマ巡礼と行商の旅タロの剣「宝の丘」の歌声ついに故郷へノプガンでの十年首都に店を出す材木商になる「至福の宮殿」でのロイヤル・ウエディング神の鷲の飛ぶ地黄昏の金色のかすみの中で引用だがどこへ行っても、私は自分の祖国ほどよいところはないと思っている。進んだ国をいろいろ見てきたが、やはり私はブータンを、そして自分がブータン人であることを誇りに思う。この国の風景、人々、文化を、私は心から愛している。感想2023年151冊目★★★ブータンにずっと行きたくて。定期的にブータンの情報を摂取しておこうと思う。いつか来るその日のために。これは、ブータンに行ってきた友人がオススメしてくれた一冊。判型が…なにこれ?っていうくらいデカくて横長。巻物ですか?そして歴史本だと思ったら、近代化の波に飲まれていくブータンの当時の様子を、3年間に渡って王妃がお父さんに聞いて書き残した回顧録でした。もとはブータンの国語(ゾンカ語)で語られたものを、英語に翻訳。それをさらに日本語訳したもの。ブータンはチベット仏教ドゥク(龍)派の「化身」(第17代座主、聖俗両面の長シャプドゥン・ンガワン・ナムギェルの転生者「意」「口」)による支配体制から、1907年にワンチュック家(元は東の地方長官)の世襲王政へ移行した。王妃 アシ(王家や貴族の女性の敬称)・ドルジ・ワンモ・ワンチュックの、お父さんであるヤブ(父に対する敬称)・ウギェン・ドルジは、1925年生まれ。お父さんの叔父さんは、ブータン最高位の転生ラマの1人であるシャブドゥン・ジクメ・ドルジ。そして兄チョクレ・トゥルク・ジルメ・テンジンもまた、転生ラマの1人だった。叔父は6歳で暗殺され(2代目国王による暗殺の真相はこの本で初めて明かされたそうで、ブータンでは長らくタブーとされていたそうだ)、一家は安息の地を求め各地を放浪する。やがてブータンに戻り事業を興し、4人の娘を4代国王ジクメ・センゲ・ワンチュックに嫁がせる。という一生が描かれた一大物語。まずブータンの人の名前が難しすぎる。全然覚えられない。途中で覚えることを諦めた。どうしても「ん?」となるときだけ、巻末の家系図?を参照。(ブータンは夫婦別姓であり、また「姓」がない。家族や兄弟に共通の要素もない。名前は完全に個人のもの。)お父さんとお母さんの恋物語もあり、最初は取っ付きにくかったけど途中からは楽しく読めた。「創作のネタにもなると思う!」と友人が言うように、なんかもうこれファンタジーなの?っていうくらいの世界観。リアル『精霊の守り人』…。宗教的文化的に「え、そうなんだ?!」という価値観がさらっと描かれているので、自分の当たり前が当たり前じゃないっていうことを思い知るよね。はー、面白い。外務省による「ブータン基礎データ」が概略をすっきりまとめてあって、ブータンについて知るにはおすすめ。こういった伝統的な世界観が、近代化と西洋化の迫る中でどうなっているのかを知りたい。またそこらへんの本も読みたいなあ。ブータンと言えば国民の「幸福度」を目標に掲げている国として有名だけど、フィンランドやスウェーデンといった北欧の国が福祉大国で幸福の国とされているのと同様に、光を集めるそこには翳りがあるのだろうなと思う。この本のタイトルは、『虹と雲』。虹は、宗教的な場面でも何度も顕現するなど「うつくしく、尊いもの」の象徴であって、雲はそれを遮る障害の数々を意味している。このお父さんは、それでもブータンは虹の王国なのだと言う。自分の国を誇る。日本は、恵まれた国だよね。けれどこの国は、虹の国だろうか。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.07.13
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書名給食のおばさん、ブータンへ行く! [ 平澤さえ子 ]目次第1章 給食のおばさん、単身旅立つ第2章 給食のおばさん、孤軍奮闘する第3章 給食のおはざん、決断する第4章 給食のおばさん、異文化を楽しむ第5章 給食のおばさん、夢へ踏みだす「ヘレヘレじいさん」(ブータンの民話)巻末付録 簡単につくれる「ブータン料理」&「人気の給食」レシピ引用「いつか、あれをやりたい」と考えていても、条件が整うまで待っていたら「いつか」はずっと先になってしまう。「いまやろう」と決めて行動を起こせば、きっと夢は現実になっていくものだと、私は信じている。感想2023年148冊目★★★ブータンに行きたい。と、ずっと思っている。小学生の頃に読んだ『ブータンの朝日に夢をのせて』。1964年に農業指導でブータンを訪れ、1992年に亡くなった西岡京治さんのブータンでの暮らしを描いたノンフィクション。1996年発刊のこの本を私が図書室で見つけて手に取ったのが、10歳くらいの時。この世界に、ブータンという国があるのだと知った。いつかそこへ行きたいと思った。先日、中学生からの友人に会った。彼女は最近ブータンに行ってきたと言う。ブータン!私にとっての夢の国。幻の王国。そうだ、そこは現実に存在する場所だったんだ。図書館に行き、一冊だけあったブータンの本を手に取る。それがこの本だった。著者は、平澤さえ子(ヒラサワサエコ)1953年、新潟県生まれ。19歳で結婚し、2人の娘を出産したが29歳で離婚。生活費を稼ぐため、夫の仕事の関係で調理師の免許を持っていたことから給食調理員として働くことを決意。1983年から31年間、東京・渋谷区の7つの小中学校で定年まで勤務した。2011年、ツアー旅行ではじめてブータンを訪問。2013年、2014年、ブータン南部のゲレフの高校にそれぞれ3週間、3か月間滞在し、現地の高校生や主婦に料理を教える。2015年から10か月間、ブータンの首都ティンプーの幼稚園から高校まである学校で、料理の先生および留学生の寮母を務めたという方。なんというか、「好き!」という気持ちを強く持って、それを発信していると、道が拓けるのだなということを思った。この本の内容は、高校で3週間滞在したときと、その後3ヶ月滞在したときの内容。その後の10ヶ月の話も知りたいところだ。この本が発刊されたのが2016年なので、その後どうしていらっしゃるのだろうと検索。ブログ「給食のおばさんブータンへ行く」を見つけたけれど、更新は2017年で途絶えている。facebookはたまに更新していらっしゃるようなので、お元気なのだろう。なにより。ご本人は本の中で「私は給食をつくることしか能がない」と仰っているのだけど、それってすごい強みなんだなと思った。私には何が出来るんだろう、と思って自分を見ても何も無い気がして。そして突き抜ける「好き!」が、そんなに強い何かが、私には無い。自分って空っぽだな…と胸に手を当てて思う…。ブータンについての記載は改めて興味深かった。多民族多言語国家で、公用語はゾンカ語。小学校から英語の授業を行い、授業も英語で行うため、みな英語が堪能。公の場では民族衣装を着ることが義務付けられ、女性はキラ、男性はゴという着物のような服装をする。学校制度は「7・2・2・2制」で、幼稚園にあたるプレ・プライマリースクール+小学校にあたるプライマリースクールで7年。中学校にあたるロー・セカンダリースクールが2年+ミドル・セカンダリースクールが2年。高校にあたるハイヤー・セカンダリー・スクールが2年。その上に高等教育(大学)があるのだという。食生活はヤギのチーズと唐辛子が多い。給食改善に呼ばれたはずが、著者はなぜかクッキングスクールを指導。オーブンもないなかでクッキーを教えるなど、「給食のおばさん」で磨かれた臨機応変さをいかんなく発揮する。みんな給食のときにお皿1枚にごはんとおかずを盛り付けて、手かスプーンで食べる、というのはインドネシアにいたときを思い出した。インドネシアでは、日本で言うカレー皿のような、縁が盛り上がったお皿1枚にごはんをどーんと載せて、おかずをその横に添える。それをスプーンか手で食べる。お皿は1枚で済むから洗い物も少ないし、汁気がごはんに吸われて美味しい。私は日本に帰ってからも我が家にこのスタイルを採用している。ワンプレート方式。ブータンのごはんは唐辛子が山盛り入っているそうで、私は辛いもの好きなのだけど、食べられるかなあ。ブータンに行った友人は、「不思議なんだけど、日本とすごく似ていると思った」と言っていた。いいなあ、行きたいな、ブータン。死ぬまでにしたいことリストに入ったまま。チベットにも行きたい。これは同じく小学生の頃に見た映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(これは1997年公開)の影響。子供の頃に摂取したものって、その後の人生に多大な影響を与えるよね。という話を、友人としていた。だから本は大事だよね、と。チベットよりもブータンのほうが行きやすいから、「ブータン 行き方」で検索する。ふむふむ、ブータンへはタイもしくはインドで乗り換え。意外と近い。ビザの申請と旅行の計画はブータン政府の認可を受けた旅行代理店を通じて手続き。ビザは4500円程度。全行程に公認ガイドが必要とな。滞在費はオールインクルージブで、政府公定料金1日2万円〜3万円程度。友人によるとQRコードによる電子決済が進んでいたとのこと。…なんというかさ、夢の国だって幻じゃなくて、そこに現実に存在するんだよね。そして私は大人だから、そこへ行くことが出来る。行くか行かないかを、自分で決めることが出来る。著者が言っていたように、まさに「いつか、あれをやりたい」を「〇〇が〇〇になったら」と待っていたら、「いつか」はずっと先になってしまう。お金が貯まったら。仕事が落ち着いたら。子どもが大きくなったら。それはまあそうなのだけど、それは言い訳でもあるわけだ。ぽん!と行きたい場所へ行ける友人を、私は羨ましく思った。でもそこへ行っていないのは、私なのだ。10歳だかで「ここへ行きたいな」と思って、その夢を叶えていないのは私だ。私が、そこへ行こうとしていないだけだ。よし、行くぞ。ブータン。絶対に。いまはそれを「いつか」と決めることは出来なくても。行くぞ。おばさん、ブータンへ行くよ!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.07.08
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書名千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話 [ 済東鉄腸 ]目次1 引きこもりの映画狂、ルーマニアと出会う2 ルーマニア語学習は荊の道3 ルーマニアの人がやってきた!4 ルーマニア文壇に躍り出る5 師匠は高校生、そして九十代の翻訳家6 日系ルーマニア語は俺がつくる7 偉大なるルーマニア文学8 俺は俺として、ひたすら東へ来たるべきルーマニアックのための巻末資料引用だが俺はアンタにこそ、他にはない可能性があるって信じてるよ。何でってそれは俺だからね、自分なんかダメダメと思い続けていたかつての俺。外国に行く必要がないとは言わないよ、行ける機会があるんなら行くべきだ。だが今立っているその場所でもやれることがある。その場所でこそ成し遂げられることがある。(略)重要なのはどこにいるかじゃない。俺たちが今そこにいること、これ以上に価値のあることはない。だから俺にとっては、他でもない今そこに立ってるアンタこそが未来だ。やってやれよ、おい!感想2023年136冊目★★★面白かった。いやもう、世の中にはいろんな人がおるんやなあ。著者は、済東鉄腸(サイトウテッチョウ)1992年千葉県生まれ。映画痴れ者、映画ライター。大学時代から映画評論を書き続け、「キネマ旬報」などの映画雑誌に寄稿するライターとして活動。その後、引きこもり生活のさなかに東欧映画にのめり込み、ルーマニアを中心とする東欧文化に傾倒。その後ルーマニア語で小説執筆や詩作を積極的に行い、現地では一風変わった日本人作家として認められている。コロナ禍に腸の難病であるクローン病を発症し、その闘病期間中に、noteでエッセイや自作小説を精力的に更新。今はルクセンブルク語とマルタ語を勉強中。今回が初の著書。というわけで、引きこもりだった時に映画を見ていてルーマニアの映画にやられ、独学でルーマニア語の勉強を開始。(はい、ルーマニアってどこの国よ?と思ったそこの私。ググったらウクライナの下の方だった。)日本に3冊しかないルーマニア語のテキスト(そのうち1冊は入手困難らしい)で学ぶ傍ら、フェイスブックでルーマニア人を5,000人ひたすらフォローしまくり、生のルーマニア語を学ぶ。そしてついに、ルーマニア語で書く日本人としてルーマニアで作家デビュー!まさにインターネット時代の夢物語。それこそ映画みたいなサクセス・ストーリーだ。この人は日本から出たことがなくて、ルーマニアにも行ったことがない。ルーマニア語も文章で学んだから、喋るのは苦手なのだそうだ。ここらへん、ぜんぜん違うのだけど、前に読んだ・語学の天才まで1億光年 [ 高野秀行 ]を思い出した。語学を学ぶ喜びに溢れている。そういえばこの方もまた、多言語学習者だ。ルーマニア語は、ロマンス諸語に属し、イタリア語とは互いに自分の言語を話すだけでも日常会話くらいなら意思疎通が可能なのだという。すごい。その昔、ベトナム人と日本人が漢字で筆談するドラマを見たことがあるんだけど、それを思い出した(ベトナム語は7割位が漢語由来)。漢語圏の恩恵と似たものがある。今は漢字が廃止された国が、漢字を使い続けていたら同じことになっていたかな。そういえば、『食べて祈って恋をして』という本で、著者はイタリア語を学ぶ。周りからは、「なんでそんな一つの国でしか喋られていないマイナーな言語を?」と言われる。けれどその歌のような響きに著者は魅せられ、イタリアへ向かう。語学を学ぶ時に、経済的な理由もあるけれど、それだけじゃないよね。その昔はフランス語と英語が「世界共通語」として拮抗していたけれど、インターネットの普及により、英語が覇権を握った。英語=世界共通語。でもその単一な世界って面白くないやんね。だから生まれながらに英語圏で語学を学ぶ必要性を感じない人は可哀想と思うよ!!!(強がり)しかしながら、世界語としての英語を学ぶ必要があるのも確かで。この本を書いた鉄腸さんも、ルーマニア語を学ぶために「媒介として」英語を使用することになる。(そしてルーマニアの人は出稼ぎに行くこともあり、みんなかなり英語が出来る)日本語→ルーマニア語へのアクセスが難しくても、英語→ルーマニア語ならアクセス出来る。なぜなら英語が出来るようになった瞬間、世界中の情報にアクセスできるから。英語はこういう場合も必須なのだなと感じる。鉄腸さんは作者になり、日本語→ルーマニア語というニッチな言語同士だからこその需要を感じる。(「村上春樹からは絶対に逃げられない。」に笑った。)そんな世界があるのか、と思ったのが、ルーマニアには専属の作家がいないという話。人口も言語圏も小規模であるから、ルーマニア語作家という職業が成り立たない。彼らはみんな兼業作家で、文芸誌に作品を送って、採用されて掲載されることがすべて。権威主義的なところがなく、小説は資本主義の外側にある。「書きたいから書く」世界。わお。そんな、自国民ですら成り立たないルーマニア語小説の世界で、鉄腸さんはルーマニア語で書く。ネイティブに「正しくない」と言われる自身の言葉を「日系ルーマニア語」と呼んでいるのが興味深かった。・アフリカ出身サコ学長、日本を語る [ ウスビ・サコ ]・アフリカ人学長、京都修行中 [ ウスビ・サコ ]・ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 [ ウスビ・サコ ]のウスビ・サコさんが、自分を「マリアン・ジャパニーズ」と言い、・私のものではない国で [ 温又柔 ]で「台湾系日本人」と言っていたことを思い出した。正しくないこと、違和感を覚えること。異分子。だからこそ新しい、既成の枠の外に出ることが出来る言葉。朝ドラ「らんまん」で、大好きな植物のために全身全霊で向かっていく主人公・万太郎に、植物学教室の学生は言う。万太郎の器は夢でいっぱいで、でも自分の器はすかすかだ。これから僕は、自分の器をいっぱいにしなくっちゃ。そうするものを見つけなくちゃ。それが生きるってことだから。私は鉄腸さんの本を読んで、そのシーンを重ね合わせた。どこにいるか。何を持っているか。それがすべてじゃない。どこにでも行ける。これから行くんだ。言葉という魔法の鍵を手に。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.24
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書名牧野富太郎 草木を愛した博士のドラマ [ 光川 康雄 ]目次第1章 牧野富太郎の生涯昭和天皇から届いた「アイスクリーム」故郷・佐川の野山で草木を探しまわって寺子屋・私塾などでの学びと「博物図」学問の盛んな佐川の教育が生んだ偉人たち初めての上京、東京の学者たちとの交際スタート学歴はなくても植物分類をめぐって友人と切磋琢磨『植物学雑誌』発刊と『日本植物志図篇』をめぐって植物標本と精密画・印刷へのこだわり一目惚れから恋愛結婚へ矢田部博士からの植物学教室出入り禁止とその後困窮する富太郎を支えた愛妻壽衛膨大で貴重な採集品と経済的援助植物好きの子どもたちとの交流と笑顔スエコザサ理学博士・日本学士院会員・文化勲章への路研究者・富太郎の学問信条ユニークな提言と植物学の日(4月24日)私は草木の精旅を終えて第2章 牧野富太郎をとりまく人々家族佐川の人々高知の人々富太郎に影響を与えた学者たち東大植物学教室の人たち東京帝国大学の人たち富太郎の支援者・教え子たち第3章 牧野富太郎の足跡案内佐川町高知市越知町東京各地感想2023年135冊目★★表紙がきれい。中の色味もうつくしかった。薄くて読みやすい。ただ、この本の立ち位置がよく分からず…。前半(第一章)は牧野博士のおおまかな一生のまとめ。第二章は関係のあった人たちを索引のように名前ごとに掲載したもの。第三章はゆかりのある土地を紹介していて、ちょっとした観光案内。・牧野富太郎自叙伝 [ 牧野富太郎 ]・牧野富太郎の恋 [ 長尾剛 ]・牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生 [ 四條たか子 ]・好きを生きる 天真らんまんに壁を乗り越えて [ 牧野富太郎 ]・われらの牧野富太郎! [ いとうせいこう ] と、色々読んできて、今回の本は、「ドラマをみて、牧野博士に興味を持った」という人が手に取るには不親切設計だし、かといって「牧野博士のことをもっと知りたくて」という人には第二章以外あんまり役立たない気がする…。私が「この本面白いな」と思ったのは、著者が牧野博士のことを知り、書くに至った経緯。著者は、1951年生まれで、同志社大学講師、駿台予備校講師などを経て、現在びわこ学院大学短期大学部教授。大学を卒業後に5年間会社員、その後は非正規雇用で1年更新。70歳で正規の雇用になった、という牧野氏を彷彿とさせる略歴。もともと、授業で牧野博士という人がいるということに、日本史の授業でさらっと触れたことがあり、その後『人物で見る日本の教育』(日本教育史の専門書。大学の教科書)という本を書くにあたり、近代に理科教育で適当な人物として牧野博士のことを思い出す。そして、同書籍の中の「牧野富太郎」を分担執筆。筆者は最初、富太郎のことが好きになれなかったのだそうだ。でも結局、彼のことを好きになってしまう。そして今、彼のことを知ってほしいと記す。このスタンスから書いている人は初めてかもしれない。みんな牧野氏大好き!富太郎ラヴ!な人が多いから。(まあこの著者も最終的にはそうなんだろうが)富太郎って、ある意味「なんやねんこいつ」なんですよね。生まれは裕福、好きなことをさせてもらえる環境に育って、頭は良いし、絵は上手いし、人間関係に恵まれてどこでもなんとかなっていくし、最愛の奥さんはいるし、子沢山だし…。学歴がないことやお金がないことで苦労はするけれど、評価され続けていた。「なんやねんこのチートキャラ」ってなるんですよ。朝ドラではそこらへんの塩梅が難しいと脚本家の方が『われらの牧野富太郎!』の対談で仰ってました。だから、身体が弱かったというところを、思いっきり身体が弱かった設定にしたり。マイナスを付与しないと、おひさまを向いて芽吹く植物みたいに、ぐんぐん伸びていってしまう。それがこの人の魅力であるのだけれど。だから私、ユーシー(ドラマの矢田部教授)とか、東大植物学教室の人の気持ち、分かるなあと思う。「すき」だけではいられなくて、たくさん身につけた重しと鎧。でもそんなもの関係ないと、「すき」の気持ちのまま、身軽に走っていく人がいたら。自分のあとからきたそいつが、軽装でまっすぐ前だけ向いて走り抜けていったなら。羨ましくて、妬ましくて、足を引っ掛けて転ばしてやりたくなっただろう。そうはいられないことを、この人に託した人は、彼の味方だった。そうはいられないことを、この人に許せなかった人は、敵だった。この本は、第二章の「牧野富太郎をとりまく人々」が面白かった。よくここまで調べたな。というかこの時代の知識人の繋がりがすごい。みんなどっかで繋がってるような。土方寧(ひじかた・やすし)の説明が私は面白くて、この人は法学者で、貴族議員も務めたんだけど、東京法学院大学で「相撲興行中は休講にします」と休講通知を出したり、ことあるごとに講義を休もうとしたり、毎回授業に30分遅刻すると宣言していたそうだ。相撲すきやったんやな…。笑あと、第三章で「小岩菖蒲園」に「ムジナモ発見の地」という記念碑が立っているというのも驚き。それ、知らん人がみたら「なにこれ」ってなるよね…。笑にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.23
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書名未来の年表 業界大変化 瀬戸際の日本で起きること (講談社現代新書) [ 河合 雅司 ]目次序章 人口減少が日本にトドメを刺す前に第1部 人口減少日本のリアル●革新的ヒット商品が誕生しなくなるーー製造業界に起きること●整備士不足で事故を起こしても車が直らないーー自動車産業に起きること●IT人材80万人不足で銀行トラブル続出ーー金融業界に起きること●地方紙・ローカルテレビが消える日ーー小売業界とご当地企業に起きること●ドライバー不足で10億トンの荷物が運べないーー物流業界に起きること●みかんの主力産地が東北になる日ーー農業と食品メーカーに起きること●30代が減って新築住宅が売れなくなるーー住宅業界に起きること●老朽化した道路が直らず放置されるーー建設業界に起きること●駅が電車に乗るだけの場所ではなくなるーー鉄道業界に起きること●赤字は続くよどこまでもーーローカル線に起きること●地方に住むと水道代が高くつくーー生活インフラに起きること●2030年頃には「患者不足」に陥るーー医療業界に起きること1●「開業医は儲かる」という神話の崩壊ーー医療業界に起きること2●多死社会なのに「寺院消滅」の危機ーー寺院業界に起きること●会葬者がいなくなり、「直葬」が一般化ーー葬儀業界に起きること●「ごみ難民」が多発、20キロ通学の小学生が増加ーー地方公務員に起きること●60代の自衛官が80~90代の命を守るーー安全を守る仕事に起こること第2部 戦略的に縮むための「未来のトリセツ」(10のステップ)ステップ1 量的拡大モデルと決別するステップ2 残す事業とやめる事業を選別するステップ3 製品・サービスの付加価値を高めるステップ4 無形資産投資でブランド力を高めるステップ5 1人あたりの労働生産性を向上させるステップ6 全従業員のスキルアップを図るステップ7 年功序列の人事制度をやめるステップ8 若者を分散させないようにするステップ9 「多極分散」ではなく「多極集中」で商圏を維持するステップ10 輸出相手国の将来人口を把握する感想2023年132冊目★★・未来の年表 人口減少日本でこれから起きること [ 河合 雅司 ]・未来の年表2 人口減少日本であなたに起きること [ 河合 雅司 ]を読んで、その後もシリーズ色々出ていたみたいなんだけど、今回業界ごとの新刊が出ていたので読んでみた。第1作を読んだほどの衝撃はなく、データだけ見るともうこの国お先真っ暗だな!ってなるし、結論は結局一緒で、高価値のものを適正価格で海外へ売るってことになるのか。異次元の子育て改革。と、聞いて鼻で笑っていたんだけど、内容を見れば、まあこれまでを思えばちょっと「マジ」になったんだなという感じだ。マジでマシにしようとしてる人が背後にいるんだな。でもそれが通るようになったのも、「消費者と生産者がいなくなる」ということにようやく危機感を覚えたからなんだろうね。私はもう遅いと思うけどな。産めよ育てよ。「彼ら」は、完成品がほしいんだろうな。戦うための兵隊を欲しがったみたいに。けれど自分が子どもを育ててみると、そういう世界じゃないというか、論点がずれていると感じる。毎月ちょっと増額してお金貰えるからって、3人め産むか?たとえばさらに進んで、保育園から大学まですべて無償であったとして、それでも私はたぶん産まないんじゃないかと思う。そういえば2人めが生まれたばかりの頃、「3人めもほしいなあ」と思っていたときの気持ち、いつの間にかすっかりなくなった。今思えばあれはホルモンがなせるわざだったのか。私はかき氷みたいだ、と思った。さくさくとスプーンで削り取られて、溶けていく。子供二人を保育園から連れて帰っている時に、ふと「もう私はこれ以上、誰にも私を奪われたくない」と思った。その時、3人めがほしいという気持ちが消えてなくなった。私はママになるのに向いていなかったんだろう。2人のママになってから言うのもなんだけれど。産めよ増えよ地に満ちよ。 これだけやってやるんだから、結婚して、女は子どもを3人産んでくれ。そして仕事ももちろんしてくれ。管理職にもなってくれ。男が産めるようになってから言えよ。と、思っちゃうんだよね。人類は衰退しました。小さく縮んでいけばいいじゃないか、と斜陽の国で思ってはいけないんだろうか。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.20
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書名今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。 [ 石澤 義裕 ]目次はじめに 軽自動車で南アフリカへ行こう!マイ秘境ロシアー謎なき謎をたずねて二〇〇〇キロ車中泊ロシアーつるっとしてハッとする闇便冬将軍モンゴル 嵐の大草原とよく冷える相棒冬タイヤ モンゴルロシアーそれは無理、絶対に無理ビザーカザフスタンキルギスー船着場でパンツを脱ごう!闇両替えウズベキスタンー消えたYukoが巨乳になったATMと米ドル ウズベキスタン/トルクメニスタン/イランー知らないと損をする、使えない国と使わない国地獄の門トルクメニスタンーすみません、独裁国の地獄はどこですか?金融犯罪イランービックリ価格でトルコ石を買う方法〔ほか〕引用「どうか安らかにお眠りください」もうかれこれ五十八年間も眠っているエルザに両手をあわせて、Yukoのバケットリストをひとつ減らしたのである。ちなみにボクのバケットリストは、Yukoのバケットリストを減らすことなので、お気遣いなく。感想2023年121冊目★★★タイトルが気になって手に取った本。いやあ、すごかった。すごいなあ!と思って電車の中で没頭して読んでいたら、乗り間違えた上に終点まで行っちゃったからね…!著者は、石澤義裕(イシザワヨシヒロ)札幌市出身。2005年より、妻Yukoと移住先を探して世界一周中。スクーターや車で旅をするオーバーランダー。海外放浪リモートワーカー歴18年のデザイナー。2015年より、軽自動車で地球横断中。訪問した地域は120数カ国なんとなく、タイトルから若い人の話だと思っていた。でも、著者は50代の夫婦でした。ノマドワーカーだと、仕事をしながら旅が続けられるから、「お金を貯めて旅に出る」「お金がなくなったら旅を終える」ということがないのね。というわけで、この話も、当初の予定(2〜3年)を大幅にオーバー(8年〜)して世界漂流をしてらっしゃる。この世界のどこかに、自分たちの楽園が、永住の地があるのではないか?を、探すための旅。まず知らなかったのが、稚内からロシアに渡れるフェリーがあること。(今は廃止されてしまった)そして、軽自動車は外国で走っていないこと!軽自動車って海外にないんだって!と人に話すと、みんな知ってて逆に驚いた。え、常識なの?だって日本車ってたくさん輸出されてるやん?中古の日本車も人気やっていうやん?それやのに、軽自動車は海外で使われていないってどういうことなん…。海外で走っていないということは、部品もないということ。故障しても自動車屋で直してもらえない。海外でネットオークションを覗き、日本から船便で取り寄せ…。いやもうなんで軽自動車にしたねん。しかも世界一周しようっていう時に。いくら夫婦ふたり言うたかて、狭いやろ!?しかも、こんな小さい車が走っていないから、海外では目を引く。警察に目をつけられて止められては賄賂を要求され、駐車場では車の前に記念写真撮影の列が出来、車高が低いから寒冷地では凍るぞと脅され、馬と交換しないかと持ちかけられる。笑でも、タンザニアではなぜか走っている軽自動車。なぜなんだ。年数が長いのでエピソードがたくさんあるみたいで、それを1冊にまとめてあるから、どうしても「え?」「それで?」と尻切れトンボになってしまっている感がある。でも読んでいるとワクワクするし、「どうしてそこまでしてどこかへ行かないといけないんだろう」(地雷原を軽自動車で走る)とも思う。でも同時に、私が考える「未来」って、この国でこのまま年を取って死んでいくっていう想定で、その中でしか考えていないことに気付く。違うんだろうな。本当はどこにでも行けるし、なんだって出来る。それを本気で望むか、その境界をひょいっと超えてしまえるかどうか。はたして私がそれを望んでいるか?というと、別にそんなサバイバルライフは望んでないんだよなと思う。でも、自転車や電車で日本を周る…みたいなことはそのうちやってみたいなあ。それこそ軽自動車で?にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.06
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書名好きを生きる 天真らんまんに壁を乗り越えて [ 牧野富太郎 ]目次1 好きを生きる2 仕事を愛する3 健康の秘訣4 花や植物が好き5 『牧野富太郎自叙伝』より選り抜き6 牧野富太郎の言葉7 牧野富太郎の一生についての解説8 牧野富太郎の年譜感想2023年120冊目★★朝ドラ「らんまん」の影響で、2023.05.17 牧野富太郎自叙伝 [ 牧野富太郎 ] 2023.05.18 牧野富太郎の恋 [ 長尾剛 ] 2023.05.31 牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生 [ 四條たか子 ] を読んできて、この本は4冊目。表紙の写真は、朝井まかて『ボタニカ』の表紙絵の元写真ですね。ボタニカ [ 朝井まかて ]で、この本は朝ドラ人気にあやかろうと企画した中身あんまない本だった。原作(原作いうな)『牧野富太郎自叙伝』からの引用をまとめた感じ。(頁の真ん中にどーんと名言っぽい引用のせて、あとの頁に短いエッセイの選り抜きみたいな)朝ドラを見て、牧野氏について知りたい!と思って手に取るはじめの一冊としてはおすすめしない。参考文献として巻末に挙げられていたのは、『花物語 続植物記』『牧野富太郎 牧野富太郎自叙伝』『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』『わが植物愛の記』『植物知識』でした。私が最近気になっているのは、牧野富太郎選集1 植物と心中する男 [ 牧野富太郎 ]牧野富太郎選集2 春の草木と万葉の草木 [ 牧野富太郎 ]牧野富太郎選集3 樹木いろいろ [ 牧野富太郎 ]牧野富太郎選集4 随筆草木志 [ 牧野富太郎 ]牧野富太郎選集5 植物一日一題 [ 牧野富太郎 ]この、『牧野富太郎選集』シリーズ。やっぱり原作(原作いうなて)が一番かなと思って。原作厨か。牧野氏が面白いのが、言葉に敏感で厳格であること。この『好きを生きる』の中で、「「改札」は間違い」という話があるのだけど、検札口が正しいだろうと氏は主張する。牧野氏は、植物を言葉の面からも考察していて、地方に残っている方言を収集することで「今これと呼ばれているこの植物は昔はこれだった」ということもしてらっしゃるのよ。で、万葉集に登場する植物を解き明かしたり。(お前もう何者よ言語学者かよ)これは前にも読んだけど、自分の健康と長生きの秘訣のひとつに、「鼻呼吸」を挙げているのが興味深い。電車でマスクはしません、隣の人が咳をしたら息を止めてます、というところがチャーミング。この本の中で、これまで読んだことがなかった話に「菊」があった。菊は一番進化した「科」で、一輪の花に見えるけど、複合花なのだって。もうひとつがスミレ。日本はスミレの種類が世界一多くて、全世界スミレ類の5割(100種)を占めるのだそうだ。へええー。牧野氏はしゃべりがもう、すごく上手い。たとえが秀逸で、花の色について「看板と同じ」と言っている。私どもが町を歩いても看板がなかったら一々店の中を覗いていかなければ分からないでしょう。たしかにー!ここに花があるぞ!と虫にアピールすることで、目を引いて飛んできてもらい、受粉を助けてもらうわけですよ。この方の語りかけ口調というのは、やさしくて平易で、とっても好き。研究にかける情熱もすごいし、発見する運の持ち方もすごいし、絵もうまいし、どうよ我らがマキノは、すごいだろ?(笑)というわけでみんな、おいでよ!らんまん沼。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.05
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書名私のものではない国で (単行本) [ 温又柔 ]目次1 “日本語”は私のものでもある2 “縛り”をほどく対話3 読み、詠い、祈るものたち4 “中心”とはどこか感想2023年117冊目★★★はい、私また勘違いしていました。2022.05.01 彼岸花が咲く島 [ 李琴峰 ]の方が書いたエッセイだとばっかり…読み終わってもなお気づいていなかった…。温又柔(オンユウジュウ)1980年、台湾・台北市生まれ。両親ともに台湾人。幼少期に来日し、東京で成長する。2009年「好去好来歌」ですばる文学賞佳作、16年『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイスト・クラブ賞、20年『魯肉飯のさえずり』で織田作之助賞を受賞。3歳で日本へ来て、ずっと日本語で育ち、日本語で思考し、日本語で書く。けれど「日本語がお上手ですね」と言われる。名前でガイコクジンだと区別される。そのことに対する違和感と不快感。自分がどこにも属していない感じ。そして同時に自分が特別であるような。「私達日本人は」。そういう言説を何事もなく流せるのは、なぜか。「わたしたち」と、私も使いがちだ。それは、(黄色い肌をして、黒い髪と目で、日本語を話して、日本の文化習慣を身につけていて、日本人の両親から生まれ、日本国籍を有している)「わたしたち」。そこからはみ出している存在なんて想像もしない。2023.04.06 ジャクソンひとり [ 安堂ホセ ]を思い出した。著者は自分を「在日台湾人」というよりも「台湾系日本人」というほうが自分にぴったり馴染む気がするという。これ、2020.11.04 アフリカ出身サコ学長、日本を語る [ ウスビ・サコ ]2021.07.07 アフリカ人学長、京都修行中 [ ウスビ・サコ ]2022.01.17 ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 [ ウスビ・サコ ]のウスビ・サコさんが、自分を「マリアン・ジャパニーズ」と言っていたことと重なる。日本人であること、の型は一つという幻想。その鋳型にハマらない者は日本人ではないという意識。歴史的な経緯があるとはいえ、そろそろその認識を改めないといけないだろう。ジャパニーズを修飾する言葉がたくさんある世界になる(なっている)。私は鋳型のイメージをスライムに置き換える。それはドロドロしていて、てろてろと流れる。青のスライムは溶けて、黄色のスライムと境界で混じり合う。そこはグラデーションを持った緑色になるだろう。赤のスライムとなら、紫に。著者は本が好きで、文字を覚えてから日本語の本を読み、自分が物語を書くようになって、そこに登場する人物が皆日本人であることを不思議に思う。そうじゃない物語があるのではないか。著者は、言語は眼鏡のようなものだと言う。生まれたときにかけた眼鏡が一体化しているけれど、それは裸眼じゃない。言語を行き来することは眼鏡を掛けかえること。私は小学生の頃、日本の物語だけが溢れていることがどうしても気持ち悪くて、翻訳された海外の児童書(それも今考えれば、アメリカやイギリス、フランスなんかに偏っていたわけだけど)しか読めない時期があった。日本語で書かれる物語が自分にしっくり「はまらない」のは何故なのだろう。聞き覚えのあるような名前の彼ら。「私と同じ」である子どもの彼らは、あまりにも違い、あまりにも遠い。海外の物語であれば、その違いをただ文化の違いだと、別の国の物語だからだと受け入れられる。日本語で描かれる日本の世界に対する疎外感。生まれついた眼鏡で見える世界が歪んでいたのなら。彼女とその感覚を共有しているように思い、けれど彼女がファミレスで「〇〇ちゃんのお母さんって日本人じゃないから」と話をしていたママ友たちに「何人ということは関係がない」と言った場面は、「それはちょっと」と思った。そこまで言う必要ある?いや、正しいんだけどさ。それはひとつの逆の力の使い方過ぎない?で、私が感じたその「えー」という気持ち、これって何かに似ているなと思った。自分が言われたことがあることに。聞き流せばいいじゃない。それくらい我慢できなくてどうするの。たいしたことないよ。そんなこと生きていればいっぱいあるでしょ。たかが〇〇くらい。目くじら立てること?あーこわ。これだから✕✕って。だって✕✕であることで良い思いすることだってあるでしょ?得していることは言わないんだよね。下駄履かせて貰ってるのにさ。どう感じるかなんて人によるでしょ。被害者ヅラしていればいいんだもんね。あ、これって「女だから」と一緒だな。著者も書いている。私はポストコロニアリズムの問題とジェンダーの問題に強い関心があるんです。2つの問題の核は、密接に繋がっている。というのも、植民者は被植民者に対して、「かわいい」「育てがいがある」から、「進歩させてあげよう」「教育を施してあげよう」というような態度で接しがちです。被植民者のほうもまた、力のある者の庇護下で「成長したい」「相手に認められたい」と望んでしまう。こうした、出発点からして不均衡な関係性というのは、社会的にも肉体的にも「力」を持つ男性と、「知識を得たい」「学びたい」と願う女性の関係と通じるものがあるんじゃないかと。そして、思う。誰かが何かを口にする時(著者は自分の正しさに溺れることなく言葉にするべきことをしたいと願う)、その言葉に嫌悪感を覚えるなら。自分がそのマジョリティに属し、その偏見と特権に浴しているからだ。誰かがそれにより傷ついているのだと知らされる。考えろと迫られる。まるで無防備なところを攻撃を受けたように感じる。反抗されたことへの不快感?痛いと言われたその傷を「たいしたことない」という権利が、誰にあるのか。血を流す相手に、そんな傷たいしたことないだろ、平気なふりをして笑えと。この本を読んでいて、何度もその自分を突きつけられた。マジョリティはマイノリティに「どうして?」と問う、少数派の個はそれに答えなければいけないという圧力があるという指摘。たしかにそうだ。無邪気に尋ねていた。おそらく相手からしたら、うんざりするほど問いかけられた問いを。あるいはマイノリティの文学を好んで読むこと。それはマジョリティの「マイノリティの物語にも感情移入できる私達」を満たしているだけではないかと著者は述べる。そうかもしれない。「どうして?」その問いを、パッケージとして消費するために。先日会社で、日本語が不得手なベトナムの人たちにもわかりやすいよう、ユニバーサルデザイン的なことが出来ないかと(日本語にふりがなをつける&ベトナム語併記とか)提案してみた。偉い人の答えはこうだ。「日本に来たなら、日本語を話すべきでしょ」相手が自分たちに合わせるべきだ。フランスだってそうでしょ?フランス語話せないとフランス人じゃないって言うじゃない。日本も同じだよ。日本語を話してもらわないと。会議の最中で、私は口を開けて、閉じた。言うべき言葉があったのに、言えなかった。フランスと日本の違い?言えるけど、そこまで詳細なデータを語れるわけじゃない。私だって、マイノリティを擁護している気になっているマジョリティに過ぎない。自分は違うのだといい気になっているだけなのかもしれない。当事者でもないのに。でもそこに、「わたしたち」と語れない存在を、織り込み済みにしておきたかった。「わたしたち」を広げて行きたかった。「わたし」と「あなた」を、溶け合うそのあわいの色を。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.06.01
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書名牧野富太郎と寿衛 その言葉と人生 [ 牧野 一浡 ]目次第1章 高知の山野に親しむ第2章 世界的発見の数々第3章 貧困の中でも研究にのめり込む第4章 東大を辞し自由に研究を続ける感想2023年116冊目★★★朝ドラ「らんまん」の影響で、2023.05.17 牧野富太郎自叙伝 [ 牧野富太郎 ] 2023.05.18 牧野富太郎の恋 [ 長尾剛 ] と読んできました。今回は、ひ孫にあたる牧野一浡(かずおき)氏の監修による一冊(この方は退職後に練馬の牧野記念庭園の学芸員をしてらっしゃる)。写真や図がたっぷりで、『牧野富太郎自叙伝』の解説本というか、補足としても良かったです。明治33年(1900年)に東京帝国大学理科大学植物学教室助手室で撮影された38歳のときの写真とか、もう標本が棚にどっさりで、床にも机にも本と草花が溢れていて、そのなかに埋もれるように牧野氏が立っているの。構図もすごく素敵な写真。よく考えたら、自叙伝は本人視点で、小説も本人視点であるから、外から見た目線というのがなかった。この本は、他者の視点が入っているから、富太郎氏についてより深く知ることが出来て嬉しかった。(ちなみにp58の祖母の名前が「波子」となっているが、ほかは「浪子」で統一されているので、誤変換による誤植だと思う)たとえば、富太郎氏の号である「結網子」「結網学人」。漢籍で「結網」が「自ら工夫する、努力する」という意味で、伊藤蘭林の私塾で学んだ際に教わったのだという。ほかに富太郎は植物学に取り組む自らの心得を「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」15条としているのだけど、これは古代中国の伝説の皇帝・神農が、赤い鞭で草を打ち、それをなめて薬効を確かめたことに由来する(そのため本草学者を「赭鞭家」と呼ぶことがある)。マキシモヴィッチ(東南アジアの植物の第一人者であるロシアの植物学者)は、富太郎を高く評価し、本を送るときは植物学教室に1冊、富太郎に1冊送ってくれていたのだって。そりゃあ…東大の先生方は、おもしろくなかろうもん…。この本に、矢田部教授との確執について書かれていて納得したのが、富太郎は「他人を見上げることもなく、見下げることもない」。だから教授に感謝はしても、対等な存在として扱う。一方の相手は、明治の御一新に国費留学を果たした人物。小学校中退の人物にそのように扱われるのは我慢がならなかった。そして富太郎が創刊した『植物学雑誌』(まず表紙の絵や装飾が美しいのだけど、たぶんこれも富太郎の手によるもの?)、この時代には「図鑑」という言葉がまだなかったというのは驚き。種ごとに分類して図と文章で解説する、それなら江戸時代だとか、もっと前からありそうなものなんだけど、なかったのか。1909年以降、富太郎氏は熱心に植物同好会の採集会にも出向き、指導や講演を行っていた。月1回、日曜日に集まっての採集会の参加者は、アマチュア植物研究者に学校の先生、主婦や子どもと様々だったという。「天然の教場でともに学ぶ」という姿勢を貫いた富太郎氏に、みんなファンとなって、彼は「植物大明神」と呼ばれるようになったそうだ。そうして全国各地からの情報が富太郎氏に集まるネットワークが形成された。このエピソード、好き。しかもこのときに設立された同好会、まだ存続しているんですよ!すごない?!→牧野植物同好会戦後には、富太郎氏は食糧難の折に「武蔵野の草を食う会」を開いて、食べられる野生植物を紹介していたのだそうだ。彼にとって知識は独占するものではなく、誰かのものではなく、みんなにシェアするものなんだよなあ。富太郎氏の膨大な標本。その標本を取り出したあとの国内外の新聞にも資料的価値が認められ、東京大学法学部・明治新聞雑誌文庫「牧野新聞」コレクションとして活用されているのだから…この人、ほんま…。それに、これまでの本を読んでいて「ん?」と思っていた、借金精算のお礼に神戸の池長植物研究所に預けていた標本が返された話。これ、東大泉の富太郎氏の住まいの庭に、標本収蔵の建物を寄贈してくれた人(花の自然の姿を知ることが大切だとフィールドワークを重視していた富太郎氏を尊敬していた華道家)がいたから叶ったのだそうだ。この人、ほんまに人たらしやなあ…。昭和31年(1956年)に、高知県が牧野植物園を設立することを決定したときも、富太郎氏は「特殊な植物以外に、産業、経済に関係ある多くの植物を植え、観光客にも好まれる植物園にしてほしい」と伝えたのだそうだ。いっそう行きたくなった。すごいよね、この人。石版印刷を自ら学んだというところもそうなんだけど、視点がちょっと違うというか、NHKラジオの「高橋源一郎の飛ぶ教室」では、マーケティングに優れていると言っていたけど、そうだと思う。それも自分のためじゃなくて、みんなのための、突き詰めると植物のためのマーケティング。笑自分は貧乏なままなんだよね。巻末に、ひ孫にあたる牧野一浡氏のインタビューがあって、その中で、富太郎氏の妻・寿衛さんは、富太郎と一緒に外出するときは着物を借りてきてお出かけして、しかもそれを本人には伝えなかったんだって。そんなことを露とも知らぬ富太郎は、そんなおしゃれで粋な妻と一緒に外出するのがとっても自慢で、うれしくてしょうがなかったのだそうだ。うふふふ、可愛いなあ。いいねえ。ほんと、牧野富太郎沼、おそろしいよ〜。にほんブログ村ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。
2023.05.31
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書名年収443万円 安すぎる国の絶望的な生活 (講談社現代新書) [ 小林 美希 ]目次第1部 平均年収でもつらいよ●毎月10万円の赤字、何もできない「中流以下」を生きる神奈川県・48歳・会社員・年収520万円●「私は下のほうで生きている」コンビニは行かず、クーラーもつけない生活東京都・35歳・自治体職員・年収348万円(世帯年収1000万円)●不妊治療に対する経済的不安……「リーマン氷河期世代」の憂鬱北陸地方・33歳・電車運転士・年収450万円(世帯収入900万円)●教育費がとにかく心配……昼食は500円以内、時給で働く正社員東京都・44歳・会社員・年収260万円(世帯年収1000万円)●3人の子育てをしながら月13回夜勤をこなす看護師の激務北陸地方・42歳・看護師・年収670万円(世帯年収1300万円)●夫婦で手取り65万円、「ウーバーイーツ」の副業でちょっとした贅沢を実現東京都・41歳・倉庫管理・年収660万円+副業(世帯年収約1500万円)第2部 平均年収以下はもっとつらいよ●月収9万円シングルマザー、永遠のような絶望を経験した先の「夢」東海地方・41歳・秘書・年収120万円●子どもに知的障がい、借金地獄……マクドナルドにも行けないヘルパーの苦境茨城県・38歳・介護ヘルパー・年収48万円(世帯年収400万円)●コロナ失業…1個80円のたまねぎは買わない、子どもの習い事が悩みの種北海道・29歳・清掃員・年収180万円(世帯年収540万円)●共働きでも収支トントン、賃金と仕事量が見合わない保育士東京都・40歳・保育士・年収300万円(世帯年収700万円)●何もかも疲れた…認知症の母との地獄のような日常を生きる非常勤講師埼玉県・56歳・大学の非常勤講師・年収200万円第3部 この30年、日本社会に何が起きたのか?「中間層が崩壊すれば、日本は沈没する」/「中流」という意識の低下/こうして「格差」は生まれた/働く人は何を求めているのか?/諦めムード、そして安楽死を望む人も/「非正規」という言葉はなくなったのか/世界から完全に取り残された日本……ほか感想2023年112冊目★★★なんというか…お金があってもなくても不幸な人は不幸だし、絶望に塗れるのだな、という内容。よくテレビの特集で、値上がりだの何だのがあるときに「その家庭どっから見つけて来ましたのん」という一家が登場するじゃないですか。で、そういうお家が出てくるとめちゃくちゃ突っ込みながら見てしまう。お金ないんやったら、そのウォーターサーバー辞めたらええやん…みたいな。日本の水道水、美味しいやん。煮沸したら充分やん。私はミニマリストとかFIREとかの人の話を聞くのが好きで、そういう工夫してお金がなくても日々楽しく、なんならお金がないことを楽しんで暮らしている人、をたくさん見てきたので、「いくらお金があっても不幸」あるいは「お金がないから不幸」という人の話が延々と続くこの本は、「うへえ」という感じでした。いやほんま、大変な人は大変なん分かるねんけどな。たぶんそれ、公的サービスの情報がこの人まで届いてないんじゃないか?という内容もあった。保育園の現場が善意だけでもっている、というのとかは、本当に構造的にどうにかしないといけない問題だと思うんだけど。「心の豊かさはお金でしか買えない」と言っている人がいて、そうだよなとも思った。心のゆとり、精神的な裕福さというのは、金銭と密接に関係する。労働力を切り売りするなら、時間の余裕とも。ただ、そこでそれに負ける自分でもいたくないとも思うんだ。いかにお金をかけずに楽しく暮らしていけるか、を追求したい。それはこの資本主義の社会に対する宣戦布告でもある。我が家で言うと、夫がまあ会社で色々あり、「仕事を辞めようかな」と言っている。散々愚痴を聞かされてきたので、「辞めちまえ辞めちまえそんな会社!」と私は言った。でもそれは私に、ひとりで家族を養えるだけの稼ぎがあるからだ。夫が仕事を辞めて専業主夫になっても、うちは大丈夫。余裕のある暮らしは出来ないけれど、家族4人、なんとか生活していくことは出来る。でもその時、思ったんだよね。私はどこかで、その反対に、「私はいつ辞めても(夫に養ってもらえるから)大丈夫」って思ってたんだよな。だから、夫が「辞めようかな」と言った時、ちょっと怯んだ。…私、そしたら今の会社、辞められないじゃん!両肩にずしっと来る「一家の大黒柱」の重圧。世の専業主婦の家庭は、夫がこのプレッシャーに耐えておるのか。共働きがいいよ絶対。大黒柱は2本あったほうがいい。何なら投資という柱をそれぞれ打ち立てて、4本あるのがいい。鼎も3本。夫よ、専業主夫はやめてくれ。なんでもいいから働いてくれな…。FIREするには圧倒的に資金が足りていないし、子どももまだまだ小さい。お金がかかるのはこれからだ。はてさて、私はこのまま今の会社で働いていくのだろうか。そして夫は今の会社で働いていくのだろうか。それでもさ、私は絶望しないと思うんだよな。絶望しないすべを知っている、ということって、大事だ。それが知識であり、教育であるのだと思う。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.05.26
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書名牧野富太郎自叙伝【電子書籍】[ 牧野富太郎 ]引用草を褥に木の根を枕、花と恋して五十年感想2023年104冊目★★★NHKの今期の朝ドラ「らんまん」にハマっている私。竹若妄想が止まらなくて現代二次創作したいと思って現代で設定も考えたんですが、まずは原作(原作言うな)知らんとあかんなと思って読みました。(オタクの発想。)この本、めっちゃ読みにくかったです。私は、まるごと一冊御本人が自分の人生を振り返ってお書きになったものだとばかり思っていたので(自叙伝やし)、同じ話が何度も何度も登場するので「またかよ」「その話すきやな!」となりました。いろんなところに寄稿した原稿を集めたっぽい。時系列は掲載順に古いもの→新しいものになっているようで、特に前半の読みにくさが、ぱねえ。教養が、ぱないの!とにかく漢文、儒学の知識がすごい。「植物学雑誌は武士(さむらい)で文章も雅文体で洗練されていたけど、動物学雑誌は町人。幼稚で下手!」というくだりは「おまえ…」ってなった。そしてこの人幕末のお生まれでもあるし、最初のほうの文章はとっても漢文調。硬い。時代が下るに連れて平易な読みやすい文章になっていく。わからない言葉はメモした。もうね、内容的には「ぼく、賢い。ぼく、天才。ぼくのこと、みんなだいすき!」。そして何より、「ぼく、植物、だいすき!」。という、本当に天真爛漫な方。天性の人たらし。文久七(1862)年生まれ。土佐の佐川村で生まれ、4つで父を、6つで母を亡くす。7つで祖父も亡く、唯一の身内は祖父の後妻の祖母のみ。大店の酒屋の坊っちゃんとして、何不自由なく育つ。11歳で寺子屋に入り、この頃から植物の採集観察をはじめる。12歳で藩校・名教館で学ぶ。13歳、小学校開校と同時に入学。15歳で退学。16歳で小学校の教師に。18歳で退職。20歳のとき、東京「第二回内国勧業博覧会」のため上京。23歳で理科大学植物学教室に出入りを始める。小学校中退からの〜艱難辛苦の研究の日々。という字面だけ追うと、さぞかし苦労して真面目にコツコツやってきたんだろうなと思うじゃないですか。違うねんな〜。もうこの人、めちゃくちゃやねん。東大教室に生徒でもなんでもないのに通い始め、自分の絵(驚くほどうまい)を印刷するために石版の工場に出入りして印刷を学び(なんでやねん)、何度もものすごい額(当時で何千万円、何億円)を研究のために湯水の如く使い(そのせいで実家の酒屋潰れる)、そのたびにどこかから救いの手が現れてパトロンが全部払ってくれれて万事オッケーなんだぜ★(おいおい)。天に愛されたとしか言いようがない才能とめぐり合わせ。本人も自分のことを「植物の精」「植物の愛人」と呼び、この世に植物のことを伝えるために使わされたのではと言っている。新種発見の好機に恵まれるのもまた、天がこの人を特別扱いしているんじゃないかと思うくらい。(『動物のお医者さん』の菱沼さんを思い出した…)そりゃあ、コツコツ研究しても敵わず、人事政治もやっている東大教授たちからしたら、面白くないわな。とにかく「好き」に邁進し、1957年に96歳で逝去された。改めて思うけれど、幕末生まれの人が亡くなったの、戦後なんだなあ…。これはもう、そりゃあ物語のネタにし甲斐があるわなあ!というエピソード満載の方。(森鴎外さんは植物名について尋ねてきて感心だったな!と言ってる)東京と佐川を往復していた頃には、まともな音楽教師がいないと自ら西洋音楽を教える(なんでやねん、お前なんやねん)。関東大震災のときは「もっとちゃんと揺れを感じたかった」と悔しがり、もう一度生きている間に大きな地震が来ないかと期待(好奇心の塊か)。火山を半分に割りたい、富士山の姿をよくするために、こぶ(宝永山)を取りたいと本気で考える。富士山爆発しないかなあと夢見る。日比谷公園全体を温室にして総合テーマパークにしたいけど、動物は糞するから注意しないと…と構想する。自分が日蓮なら草木を本尊とする宗教をつくるのに…と本気で考える。せやから、家族は大変ですわ。とにかく本も多いし植物標本もようけあるさかい、大きい家が入用。かといって東大の講師にはなったけど初任給くらいのお給金しか長いこと貰われへんし、そんで本人も「体制何するものぞ!」という心意気で研究さえできればいいと思ってるから、常に金欠。借金まみれ。子供は13人もおるのに!!恋女房の奥さん・寿衛子さんは苦労のし通しだったろう。何人目かのお産のあと、まだ3日めなのに遠方の債権者に断りにいってくれたというくだり、「いやお前がいけよ」ってめっちゃ思ったわ…。牧野氏は、寿衛子さんが亡くなったあと、発見した新種の笹に「すえこざさ」と名付けた。大変だっただろうけど、面白かったのかな。この人といることは。寿衛子さんは、生前「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談を言ってらしたそうだ。夫婦にしかわからない、愛の形がある。寿衛子さんは夫の研究費を賄うため、いっときは待合を経営していたのだよ。私はニュアンスからラブホみたいなことなのか?と思っていたけれど、コトバンクによると(2)待合茶屋の略。もとは貸席を業とした茶屋。明治以降芸妓をあげて遊興する場所として発展し,政治家などもしばしばこれを使用したから,〈待合政治〉という言葉も生まれた。というわけで遊興のための貸座敷という意味なのね。最後は娘さんのお話が載っているのだけど、寝たきりになったお父さんに「この人は寝かしておくことは惜しいんです」と言う。ひとつの植物で1日でも話が尽きない。父の話はとてもおもしろいんですよ、と。戦後は、天皇陛下とも御苑で道道、植物談義をした。この人の話している映像なり、残っているものを見たいな。高知県立牧野植物園にも行きたいな。そうしてこの人のことを知るたび、きっとまた、この人のことを好きになっちゃうんだろう。めちゃくちゃで、ひたむきで、好きにならずにいられない。天が遣わした、植物の精。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.05.17
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書名ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた [ 斎藤 幸平 ]目次第一章 社会の変化や違和感に向き合う ウーバーイーツで配達してみた どうなのテレワーク 京大タテカン文化考 メガヒット、あつ森をやってみた 5人で林業 ワーカーズコープに学ぶ 五輪の陰 男性メイクを考える 何をどう伝える? 子どもの性教育第二章 気候変動の地球で 電力を考える 世界を救う? 昆虫食 未来の「切り札」? 培養肉 若者が起業 ジビエ業の現場 エコファッションを考える レッツ! 脱プラ生活 「気候不正義」に異議 若者のスト第三章 偏見を見直し公正な社会へ 差別にあえぐ外国人労働者たち ミャンマーのためにできること 釡ケ崎で考える野宿者への差別 今も進行形、水俣病問題 水平社創立100年 石巻で考える持続可能な復興 福島・いわきで自分を見つめる 特別回 アイヌの今 感情に言葉を学び、変わる 未来のために あとがきに代えて引用結果的に、「真の当事者」へと語りを限定していくことが、多くの人にとって「自分には語る資格がない」と声どころか、考える能力さえも奪うことになる。その先に待っているのは、無関心と忘却である。それでは社会問題はまったく改善しない。「自分は当事者ではないから発言をするのを控えよう」というのは、一見するとマイノリティに配慮しているようで、単なるマジョリティの思考放棄である。それは、考えなくて済むマジョリティの甘えであり、特権なのだ。感想2023年094冊目★★★2023.04.13「076.人新世の「資本論」 [ 斎藤幸平 ] 」の著者によるルポ?体験談?元は新聞連載。象牙の塔から出てフィールドワークで現地の声を聴こう、という企画。コロナの影響で一部「家であつもり」とか「脱プラ」とか、家で出来るものにもなっているけど、全体的に面白かった。ひとつひとつのテーマが、掘り下げていくとめちゃくちゃ深いものばかりなので、数ページでさらっと書いてあるところもっと詳しく!となった。共同体として仕事をする「ワーカーズコープ」は初めて知った。コミュニティとコミュニケーションが苦手なのでやっていける気がしないけど、憧れる。管理された「働かされる」ではない働き方。性教育は本来、人権教育であるということにも目からウロコ。え?と思ったけど、よく考えたら紛れもなく人権問題だ。人権というと、肉体より精神性を考えていたけど、どちらもだな。昆虫食のところでは、コオロギが登場。牛は1kgの肉を増やすのに、10kgの穀物と2万2,000リットルの水が必要。一方のコオロギ1kgは、1.7kgの穀物と4リットルの水で済む。…こうして見ると、肉食をやめて穀物食べてるのが一番いいんじゃね?となる…。タンパク質が確保されれば、菜食や代替肉(大豆ミート)が一番なの?でもその加工コストとか色々あるし、大豆だけそんな育てて大丈夫なんか。お肉大好き!だし、毎日お肉を食べていて、私はそれでいいのかな。狩猟が、苦しみの少ない肉食文化であるというのも驚き。銃で撃つほうがよっぽど残酷な気がしていた。けれど確かに、生まれてから死ぬまで、工業型畜産で管理されているよりは、自然の中で生きて、一瞬だけの苦痛で即死、というほうが残酷ではないのか。そもそもそれを天秤にかけること自体が傲慢である、とも思う。脱プラスチックの試みは、現代社会で生きているとほぼ不可能な気がしている。あれもこれも、みんなプラスチックに覆われている。著者がプラスチック・フリーの生活を試みるも、何も買えずに困り果て、「みんなあの袋好きすぎではないか。」と愚痴るの分かる。ちょっと料理をするだけで、大量のプラスチック包装ごみが出る。洗って、乾かして…これってほんまにエコ?と疑問が生じる。そもそも使いすぎなんよな。2021年にドイツでは使い捨てプラスチックが全面的に禁止されたそうだ。「今までのプラスチックの便利さは、環境にコストを転嫁することで獲得されていた」。・海洋プラスチックごみ問題の真実 マイクロプラスチックの実態と未来予測 [ 磯辺篤彦 ]でも、プラスチック製品を撤廃することにより、「負担は経済的な弱者ほど大きくなる。弱者に負担を強いる地球環境問題の解決など、あっていいわけがないでしょう。」と言っていた。著者は、「問うだけの側」にいる自分(たち)を自覚する。そしてそれを忘れることが出来るのであれば、自分たちはマジョリティであるということだ。真の当事者ではないから口を噤む。部外者であるから。ーーー私には関係ないから。私は、マジョリティの意識についてのビデオを見た時、驚いたことがある。絆創膏。それは、焦げ茶色の肌に巻かれていた。私(たち)にとっては当たり前の色。目立たないようにするための色。それが、くっきりと、見えた。ディズニーの実写「リトル・マーメイド」を見た時、違和感をおぼえた。それはかすかな不快感のようなものでもあったかもしれない。なぜ?と画面を見て気付いた。アリエルが、白人じゃないからだ。私はそのことにショックを受けた。自分が、そう感じたことに。調べていると、ちょうど2022/09/18 東洋経済オンライン「実写版リトル・マーメイド」日本人が批判のなぜ 「白人のアリエル」を求めるのは人種差別なのか(バイエ・マクニール : 作家 )という記事を見つけた。面白いのは、「人魚は実在しないし、人間でもないので、彼女の人種は関係ないはずだが」という一文。高みに立って、遠くにあって、外界の人々を睥睨する。ともすれば学問はそうなりがちだ。(この本の表紙がまさにそんな風景だと私は思った)そこで集積し、集約し、普遍化し、共通化し、世間に問う。かく在りきは、有や否やと。けれどそこでうごめく人々、それぞれの活動、絶え間ない人生に目を向け、そこに身を置けば。問うことは、己を問うことになる。自分のずるさ。逃げ。恥。口に出せない言葉。隠れているもの。秘めていること。建前で覆った内側。この本で、「共事者」という言葉が紹介される。私達は無関係ではなく、どこかで繋がっている「共事者」なのだと。気にせずに通り過ぎていくなかで、立ち止まる。きっとそこで立ち止まった人がいる場所で。そこから先へ進めない人がいる場所で。そこから先へは行ってはいけないという人がいる場所で。己に問う。かく在りきは、有や否やと。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.05.04
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本のタイトル・作者目の見えない白鳥さんとアートを見にいく [ 川内 有緒 ]本の目次・あらすじそこに美術館があったからマッサージ屋とレオナルド・ダ・ヴィンチの意外な共通点宇宙の星だって抗えないものビルと飛行機、どこでもない風景湖に見える原っぱってなんだ鬼の目に涙は光る荒野をゆく人々読み返すことのない日記みんなどこへ行った?自宅発、オルセー美術館ゆきただ夢を見るために白い鳥がいる湖引用「白鳥さんは、『見えないひと』と『見えるひと』の境界線を飛び越えたからこそ、楽になって、心地よい場所を見つけることができたんだね」「うん、たしかに。知らない世界に行くときってちょっと怖い。でも、その怖さとワクワクはセットなんだ。そう考えると、不確かさがないところにワクワクはないのかな。確かな世界にずっといたら、居心地はよくても人生としては面白くないのかもねぇ」感想2023年045冊目★★★★2023.01.03「2023年の課題図書48冊」の29冊目に挙げていた本。本屋大賞2022年ノンフィクション本大賞、大賞作。面白かった。途中、前に読んだ「本とはたらく [ 矢萩多聞 ]」の多聞さんが出てきて、思いがけず知り合いにばったり会ってしまったような嬉しいようなちょっと気まずいような気持ちになった。美術館に勤める友人の紹介で、全盲の白鳥さんの美術鑑賞に同行することになったノンフィクション作家の著者。全盲の人が、どうして美術館に行って、どうやって作品を見るの?私もはじめはそう思った。失礼なことを言えば、「そんなことして何になるの?」とでも言って良いような。だって見えないじゃんって。でもこの本を読んで思う。見えるってそもそも、何なんだろうね?芸術って、アートって、何なんだろうね?白鳥さんに作品について説明する。説明者の数だけ、違う説明がなされる。え?そんなふうに見えたの?私はそう思わなかったよ。あ、ここにこんなものが描いてあるよ。これはどういう意味かなあ。そこにある作品を巡って、対話が生まれる。それは一人での「見る」を超えていく。著者はそれを、白鳥さんがいることで目の解像度が上がったと話す。白鳥さんに作品の説明をしているようでいて、本当にその作品を「見せて」もらっているのは、見えている私たちの方なのではないか。見える人は、普段から視覚情報を取捨選択して処理している。自分の記憶や経験が、必要なものを選び取る。だからみんな、同じものを見ているようで、違うものを見ている。ここらへんは、私は本の書評に似たものを感じた。同じものを読んでいても、違う感想を抱く。違う光景を見る。それもまた、自身の内側のフィルターに作品を通した結果。だからこそ、己の開陳としての書評は、面白い。白鳥さんとの美術鑑賞も、これと似た面白さがある。白鳥さんは、研究家が語るような作品背景などではなく、素人の解説を面白がる。それは、「わからないこと」を楽しめるからだという。この本では、障害や優生思想についても書いてある。その中で白鳥さんが言っていた『できる』と『できない』はプラスとマイナスじゃないんだなって、できなくても全然いいんだよなって気がついたというところ。私はたぶんこれが、まだ自分の中でネックになっている。持てる力で「頑張る」こと。そうして「能力を高めて」「誰かの役に立つ」こと。そうして「ここにいてもいい」と認めてもらうこと。私にとっては、それが愛されること、存在を赦されること、つまり「生きること」という認識。これねえ、駄目なんだよね。だって、自分が勝ち続けることは出来ないって、分かっているから。でも負けられない。負けた自分には価値がないから。少なくとも戦い続けなければ。頑張り続けないといけない。疲れるな、その生き方!笑そして裏返せば、この認識は他者に同じ「頑張り」を求める。私がこれだけやっているのだから、お前もやるべきだ。そのまま存在を許容されるなんてありえない。そんなことは赦されるはずがない。有益なものを作り出せないのならば、世界の役に立たないのであれば、生きている意味はない。お前に価値はない。これぞまさに、能力主義と自己責任と優勢思想そのまのではなかろうか。私は子供の頃からずーっと「赦されたい」と思っていて、その根幹はここ、なんだろう。白鳥さんは「バックする」「そのままでいる」でもいいのだと気付いた時、視野が広がったという。私はまだ、狭いなあ。激狭だなあ。いつになったら、ここから出ていけるんだろう。著者は言う。絶えず想像すること。すぐに忘れてしまうから、本を読んで旅をして美術作品を見て話す。そして知識と想像力で、世界の複雑さや自分の無力さを盾にせず、壁をぶっ壊しあるがままの存在に手を伸ばす。あまねく見る、千手観音のように。私が本を読むのも、それだ。私は知りたい。わからないことにワクワクしたい。莫迦な自分に何度も打ちのめされながらでも、「わからない」を楽しみたい。あれ、それって、「頑張る」とは違う。優劣じゃない、他者との競争でもない、これは私と世界の戦いだ。だとしたら、私はいつか、思えるんだろうか。○✕を、誰かに付けられるような気がしていた場所。優劣の天秤の片方に、自分の取り分が減らないように腐心するところから。出来なくても全然いい。別にそのままでええやんか。もうじゅうぶんに、二重丸の花丸やん。小さい子供がいると、美術館は敷居が高い場所。けれどこの本を読んで、美術館へ出かけたくなった。そうして一緒に見た人と、ああでもこうでもないと、話をしたい。私に見えて、あなたに見えなかったもの。あなたに見えて、私に見えなかったもの。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.03.04
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本のタイトル・作者高橋源一郎の飛ぶ教室 はじまりのことば (岩波新書 新赤版 1948) [ 高橋 源一郎 ]本の目次・あらすじ1年目 前期 十九歳の地図1年目 後期 世界がひとつになりませんように2年目 前期 その人のいない場所で2年目 後期 いつもの道を逆向きに歩く終わりのことば特別付録 さよならラジオ引用「ひとたび流れた音楽は消え去ります。また、ことばも音も、どこか空の彼方へ消えてゆく。けれども、それはなくなるのではありません。どこか、この宇宙をさまよいつづけて、待っているのです。その音楽やことばを必要とする誰かのために、です」感想2023年031冊目★★★NHKラジオで、毎週金曜日に「夜開く学校」として放送している番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」。私は、2022年の4月に、「ニュースで学ぶ現代英語」を聞くためにNHKラジオのアプリをダウンロードして、そこで見かけて聞くようになった。冒頭は高橋源一郎さんのエッセイ。そして前半は、その週の1冊の本の内容紹介。後半はゲストとの対談。この本は、冒頭3分間のオープニング・エッセイを、最初の2年分集めたもの。ほとんどが私が聞いていない期間のものだったので、楽しく読んだ。残念だったのは、冒頭のエッセイが、たいてい本編で紹介される本の内容とリンクしているのだけど、この本は「この回でこのエッセイのあとに紹介されたのはこの本ですよ」というのが載っていなかった。片手落ち感…。この本のなかで印象的だったのは、五味さんの話。私たちは考えることに疲れてしまって、ほんとうは考えることは楽しいはずなのに、もう自分がなにをしたいのかもわからなくなって、なんでも誰かに決めてもらって、そういう「学校化社会」で生きている。高橋さんは、コロナで「学校へ行かない」「会社へ行かない」という状況が生まれていることに、考える機会をもう一度与えられているのではないかと仰っていた。コロナが落ち着いて、ウィズコロナ、アフターコロナと呼ばれる「新しい日常」がやってきて。マスクもみんなしなくなって、隔離も待機もなくなって。それでも私達は、あのときに何を失って、何を得たのかを、覚えておかないといけないと思うんだ。ただ感染症って怖いよね、ひどいことにならなくて―――なったといえばなったのだけど―――よかったね、で終わっては、あまりにも「あの時」を無碍にしている。渦中にあって見えなかったものを、渦中にあったからこそ見えたものを。きっと世界が切り替わったポイントがあったとしたら、「あの時」だったと、思うんだろう。ポイントは切り替わり、世界は乗り換えられた。私達は同じ列車に乗って、けれど違う行き先を目指している。線路が進むに連れ、それはどんどん当初の目的地からかけ離れていくのだ。よく見ておかなくては。覚えておかなければ。私達は、未来へ向けて、何を選んだのか。「84時間目」には、私の好きな言葉「犀のようにただひとり歩め」も紹介されていた。視力の弱い犀が、鼻先の角を目印にして世界を確かめながらゆっくり前へと進んでいく。この言葉は、先日NHK講座の「ボキャブライダー」で紹介されていたリンカーンの言葉も通じるものがある。I walk slowly, but I never walk backward.(わたしの歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない。)愚鈍であれど悠々と。一歩ずつ前へ。誰かのあとをついて行くのではなく、誰かを引き連れていくのではなく。ひとり己の道を確かめながら進む。進むべき方向を誤ったとしても、なお胸を張って歩き続ける。後戻りは、しない。本の最後には、ラジオの中で朗読されていた「さよならラジオ」というお話も掲載されている。私これ、とても好きだな。影響されて自分でも似たようなお話を書いた。2022.12.19「I Road(ラジオ英会話を学ぶ日々の心象風景の寓話)」本を読む人の話を聞くのが好き。その人というフィルターを通した本。最近、「書くとは何か」「読むとは何か」「本とは何か」ということについてよく考えていて、それについて書かれたものもよく見たり読んだり聞いたりしている。そうして、私にとって「読書」とは、「剥いだ生皮を被り内側から見ること」だと思った。そしてそのイメージは、昔に漫画家の尾崎かおりさんが、ホームページで書いていらしたお話と同じだった。高橋源一郎さん、小説や随筆など、書かれたものをほかに読んだことがないので、また読んでみたいな。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.02.16
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本のタイトル・作者テヘランでロリータを読む (河出文庫)本の目次・あらすじ第1部 ロリータ第2部 ギャッビー第3部 ジェイムズ第4部 オースティンエピローグ感想2023年007冊目★★★★★小説を読まない、という人が言っていた。誰かの頭の中で考えられただけの架空の話を読むなんてどうかしてる。ましてそれに感情移入をしたりするだなんて。図書館や書店に行けば、何より人気な「本」は小説なのだとわかる。なぜ人は小説を読むのだろう。作り物のそれを求めるんだろう。戦時下のウクライナで、人は本を読んでいるのだという。電気が来ないなか、紙の本を。コロナで緊急事態宣言になった時、日本でも多くの人が本を読んだ。遠くなっていた、失われていた「読書」という行為。なぜその状況にあって、人は本を読むのだろう。なぜ人は、フィクションを必要とするのだろう。何の足しにもならない、それらを。NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」11月11日放送の回で、「教え子たちとの秘密の読書会」として取り上げられ、読んでみた一冊。紹介されていた内容から、女性が学ぶことを禁じられているなか、私設塾のように自宅で教室を開き、読書会を行った話だと思っていた。それは第1部で、それ以前に著者が大学で教えていたときの話が第2部。ラジオでも紹介されていた、イラン・イスラーム共和国対『グレート・ギャッツビー』の裁判を授業で行った手に汗握るシーンは、第2部のもの。全編が教え子たちと教師との読書を通じた対話…のような内容だと思っていたら、違った。フィクションの持つ力とは、何なのか。あるいは英文学の文学論。そして抑圧された環境に置かれた女性たちの記録。弾圧と戦時下のイランを生きた、著者の回顧録。そのどれものジャンルに当てはまり、すべてを内包したひとつの重層的な「物語」。著者は、文章を書くのも上手く、比喩が妙。私は「ウプシランバ!」と叫んだヤーシーが「新しい言葉を見つけたとたんに使わずにいられなくなるんです。夜会服を買った女性が映画やランチに着ていきたくてたまらなくなるみたいに」というところが好き。わかる!著者の「『デイジー・ミラー』のあいだには、秋の葉のように空襲警報の音が潜んでいるだろう。」もすばらしい表現だ。ナフィーシー,アーザル(Nafisi,Azar)1950年頃、テヘランに生まれる。名門の出で、父は元テヘラン市長、母は国会議員。13歳から海外留学し、欧米で教育を受け、1979年のイラン革命直後に帰国し、テヘラン大学の教員となる。1981年、ヴェールの着用を拒否してテヘラン大学から追放される。その後、自由イスラーム大学、その他で教鞭をとる。1997年にアメリカに移住。1997年から2017年までジョンズ・ホプキンズ大学教授。現在、ワシントンDC在住私はイランのことをよく知らず、読んでいてそんな事が起こっていたなんて、と驚いた。そして今ウクライナで起こっていること、アフガニスタンで起こっていること、を思った。繰り返すこと、変わらないこと。それは遠い世界のことなんだろうか。「ヴェール」に象徴されるものヴェールを身につけるよう強要された女性たち。抑圧された彼女たち。はじめ、これは「イラン」のことだから、と思った。自由な日本で生まれた私には、想像できないな。そう思って、ふと考える。私たちのマスクと、もしかしたらそれは少しだけ、似ているかもしれない。はじめ、それは自衛のためだった。気にしている人が身につけたものだった。花粉症の人が花粉から身を護るように。あるいは意思表示でもあったかもしれない。けれど次第に、それは義務になった。そして、町中に貼り出される。――マスクをつけていない方は入店できません。その時はじめて、マスクが意味を変えてしまったことを知る。選択の余地がもう、残されていないことを。日本では「世間」が、マスクの着用を強いた。仕方がない。当然のことだ。「空気」が、「雰囲気」が、「同調圧力」が、それを当然のものとした。別の国ではそれを法律が定めた。イランでは、ヴェールの着用が禁止され、そしてまたイラン革命でヴェールの着用が義務付けられた。この本でも、著者はヴェールの着用に抗う。それは、「ヴェールそのものではなく、選択の自由の問題」なのだと。著者の祖母は敬虔なムスリムで、「神との神聖な関係を象徴するヴェールが、いまや権力の道具になって、ヴェールをかぶった女性が政治的シンボルになってしまったことに憤慨していた」。またこう言う人もいた。「あの人たちはイスラームを売り物にしているーー ー度の人も次の人以上にイスラームをうまくパッケージしようとしているんです。」なぜ、「彼ら」はーー男たちは、目に見えるかたちの成果を女に求めるのか。制圧を誇示するために、見せびらかすために、なぜヴェールを被った女が必要なんだ?・13歳からのイスラーム [ 長沢栄治 ]にあった。イスラームの教えによると、女性は「表に出ている部分はしかたないが、そのほかの美しい部分は人に見せぬように」。これが何のために当時書かれたのかを思えば、男がヴェールの着用を強いることはまったく馬鹿げている。男が欲情するから?はああああん?あほか?自らの理性のなさを外側に押し付けてんじゃねえよ。男に従順であるように。男より賢くならないように。男より力を持たないように。女を押さえつけて、支配する。支配を、抑圧を、制度に組み込んで、法律に整えて、男に都合の良い世界を築く。ただ女生徒のピンクの靴下がちらりと見えたと言うだけで処罰する。保護が必要なのだと言いながら、処女性を何より尊びながら、陰では真逆の暴行が加えられる。それが神の望んだことだというなら、ずいぶんな神様だ。そいつは男で、人間の半分が女だということを忘れていたんだろうね。自分が誰から生まれたのかを。・私はイスラム教徒でフェミニスト [ ナディア・エル・ブガ ]ではこう言っていた。イスラム教は本来的に女性を抑圧していたものではない、と言う。それは男性たちに翻訳され、解釈されるうちに誤って伝えられてきたのだと。しかし、これは宗教の問題か?(それが本来の宗教の意図するところであるかという話は置いておいて)世界中で、程度の差はあれ、同じことが起こっているんじゃないのか?昔、遥洋子さんがテレビで仰っていたことをよく覚えている。女性が襲われたとかそんな事件のニュースで、スタジオに「露出が激しい格好をしていた女性にも問題があるのではないか」というようなことを言った人がいて、彼女は本気でキレていた。「女が裸で歩いてようが、そんなことは関係ないんだよっ!!」私はその時はじめて、社会の言葉が、自分にも浸透していたことを知った。そしてそれに抗うすべが、フェミニズムというのだということを。現代の日本でさえ、枚挙に暇がないあれやこれや。ニュースを見て何度も繰り返す怒りと、もうどうしたって変わりはしないという世界への諦め。イラン革命では、はじめは緩やかな規制だったヴェールの着用は、やがて義務と変わる。商店に入るにもヴェールを身に着けていなければ物を売ってもらえない。著者は大学の教壇にも立てなくなる。たとえばある日、「女性は男性より感染リスクが高いので、マスクでの生活を続けましょう」と言われたとする。男性はみなマスクを外している。ならばマスクを着けるか着けないかは、個人の問題じゃないか。女性のなかに、マスクを外す人が出てくる。いえ、だめです。女性はマスクを着けなくては。これはあなた方を守るためなのです。スーパーに入る女性はマスクを付けてください、と張り紙が出る。マスク不着用の女性入店お断り。女性による抗議集会が開かれる。けれど今度はそれが、「女性らしくない」からと叩かれる。女は、マスクで口元を隠しているくらいが七難隠れて丁度良い。むしろマスクをしている方が美人に見える。マスクを外すのは、恋人か夫の前だけにするべきだ。そうしてある日法律が施行される。ーーー女性は家の外ではマスクを着用しなければならない。数年後。男性は大声をあけて笑っている。仲間と喋りながら飲み食いしている。女性はその場で、目で微笑むことしか出来ない。マスクを外せないから食べるときは女性だけの空間が設けられるようになった。選択の自由の問題。これを「ありえないことではない」と思う世界に日頃から生きているのが女で、「考えたこともない」のが男なのではないのか?と思うんだ。私たちの場合、法律は節穴そのものであり、宗教も人種も信条もおかまいなしに女性を虐げた。私はここを読んだときに、ハッとした。それは、・女であるだけで [ ソル・ケー・モオ ]を思い出したから。「インディオで女」の二重の差別下にあるオノリーナは言う。「あんたの言う法は何も見てやしないじゃないか。あんたの言う法はいい加減に目を覚まして、あたしたちにも平等に扱ってもらえる権利があるってことを教えてくれてもいいんじゃないのかい。」この本を読んでいる間、私は「私がイランに生まれていたら」と何度も思った。はたして私が男だったら、そう考えただろうか。この違いはいつ、生まれたものなのだろう。自分が虐げられるものになる可能性があるという前提を孕むこと。それを神さまが作ったのだとしたら―――やっぱり私、そいつは男だと思うよ。フィクションの持つ力小説。物語。誰かが考え出した話を、私たちは読む。架空の人物が文字の上で動く。紙の上のインクの染みでしかないそれを、なぜ人は必要とするのか。著者は、「小説は現実逃避の手段」だと言う。とてもではないけれど文学を論じている場合ではないような環境下において、なお人は貪るようにフィクションを読む。奇妙にも、私たちはこうして逃げこんだ小説によって、結局はみずからの現実をーーー言葉にする術などないと感じていた現実を、問いなおすことになったのである。目の前の出来事は、言葉を超えていく。いま、ウクライナで、ロシアで起こっていること。世界で起こってきたこと。今も起こっていること。「これから流れる映像には遺体が映っています」というテロップ。死体を包んだ布がどさりと穴に投げ込まれる。私はそれを見る。その音を聞く。けれどもう、それで、涙を流すことはない。麻痺させて、感じないままに、生きていく。自分の半径数メートル、手を伸ばして当たるところだけのことに日々汲々として。本はシェルターになる。自分の周りにぐるりと本を積み上げて砦を築き上げる。何より安全なそこで息を潜める。手に負えない世界を、無力な自分を。ただバラバラと与えられるだけの手持ちのピース。何が完成するのかもわからない一片。そもそもこれは、ひとつのパズルなのか?小説は、完成図が決まっているパズルだ。手にしたピースを一つ一つ組み上げていけば全体像が見える。だから私たちは逆のことを考えられるのかもしれない。天から気まぐれに降ってくる、てんで勝手に与えられるピース。その1つから、組み上げていく事ができるのじゃないかと。あるいは自分がその1つを持っているのではないかと。あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。私はもったいぶってそう断言してみせた。形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。人はなぜ小説を読むのか?誰かが頭の中で考え、字を組み合わせただけの言葉を有難がるのか?それは、小説が、物語が、現実の「その先」へ行ける唯一の方法だからだ。作家は、現実世界のごっちゃになったピースから慎重に使うパーツをより分けて、同じ色合いのピースをそれぞれ寄り集める。ひとつの形式の額縁にはまった美しい画になるように。その画の前で、読者は圧倒されて立ち尽くす。そして読者は、そのそれぞれのピースの色を、それに近しい色を過去に実際に見たことがあることに気づく。醜悪で陳腐な単片を、その手のひらに。意味はない。そのゴミみたいなパーツに、意味はない。何の意味も、理由も、必然性もない。そう思ってきた。けれど作品は、小説は、意味を与える。意味を認める。意味がないという、その無意味に抗う。もう一度構成する。改めて構築する。何度でも再定義する。意味はある。そう信じるのだと。だから私たちは、小説を読むのだ。誰かの作り出した嘘の世界で、存在しない人間に心を寄せて。心から楽しみ、喜び、怒り、悲しんで。想像力によってつくりだされた偉大な作品は、ほとんどの場合、自分の家にありながら異邦人のような気分を味わわせます。最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目を向けさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます。私はみなさんに、作品を読むなかでそれがどのように自分を揺るがし、不安な気持ちにさせ、不思議の国のアリスのように、ちがった目でまわりを見まわし、世界について考えさせたかを、よく考えてもらいたいのです。イラン・イスラーム共和国対『グレート・ギャッツビー』の裁判で、西洋的頽廃はこき下ろされる。悪影響を与えるような、こんな本を読んではいけない!そこにある生徒は言う。「スタインベックを読んだ人が全員ストライキをしたり西武に向かったりしましたか?メルヴィルを読んだからといって鯨をとりに行きましたか?」そうではない。なのになぜ、「彼ら」は小説をそこまで恐れるのか。検閲、発禁。これまで数々の作品が廃棄され、燃やされてきた。それは、小説だからだ。作品に感情移入をすることで、自分を問い直すことになるから―――価値観を根底から揺さぶり、自分を不安にさせて不安定にさせるから怖いのだ。小説は寓意ではありません。授業時間が終わりに近づくと私は言った。それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入り込まなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って。それを忘れないで。ひとはひとり、ひとつの人生をしか生きられない。けれど小説は、数多の人生を経験させてくれる。違う人間の目で世界を見たように、他者の靴を履いて歩くように。まるで違って見える世界、まるで異なる世界がそこに立ち現れる。本を閉じて現実の世界に戻っても、その魔法は続いている。当たり前が当たり前ではなくなり、信じていたものたちは崩れ落ちる。世界が、ぐらぐらと抜けかけの乳歯のように揺れる。残った神経がひどく痛む。だから小説を読まない人もいるのだろう―――冒頭の「誰かの頭の中で考えられただけの架空の話を読むなんてどうかしてる。ましてそれに感情移入をしたりするだなんて。」―――それはきっと、怖いからだ。「ここからここまでが私」という自分。固定された、「私」。小説を読めば、自分を形作るものが何度も内側から侵食され、破壊され、作り変えられる。だからこそ、人には本が必要だ。物語が必要だ。透明な自分がこれまで手にしたピースで纏った、雑多な色。無理矢理に組み上げたそれで、自分を作る。外側から見えるように、これが私だとわかるように。不格好で継ぎ接ぎだらけで、形を保つのには動かないほうがよい。そうっとそうっと、息を微かに。けれどフィクションが、あなたの衣を吹き飛ばす。吹き上げられた紙片に、あなたは目を見張る。あなたは初めてそこに、画を見る。意味を見出す。地面に散らばった過去を、まばらになった残りのピースを貼り付けたあなたは見つめる。そうして剥ぎ取られ、自分だと思っていたものが、まるで思い違いだったと気付く。あなたは、大きく息を吸い込む。深く深く、息を吸う。さあ、何度でも拾い集めて新しい自分をつくろう。だから人は、フィクションを読むのだ。これまでの関連レビュー・海にはワニがいる [ ファビオ・ジェーダ ] ・エデュケーション 大学は私の人生を変えた [ タラ・ウェストーバー ]・戦場の秘密図書館 シリアに残された希望 [ マイク・トムソン ]ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2023.01.16
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本のタイトル・作者何もない空間が価値を生む AI時代の哲学 [ アイリス・チュウ ]本の目次・あらすじ第1章 経験する第2章 学ぶ第3章 働く第4章 ネット上を生きる第5章 AI時代の哲学引用人生の挑戦に直面する時、逃げないで(面對它)困難を人生の一部と認め(接受它)対応する方法を考えて行動に移した後は(處理它)結果がどうであれ気にしない(放下它)聖厳法師(法鼓山の創立者)が書いた十二文字の箴言感想2022年326冊目★★★★だいすきオードリー・タン!この本は、「自らの体験をもとに説くネット空間を生きる99の心構え」。と、「特別付録Q&A「東大生がオードリー・タンに聞く」」。でも、ネット空間に限らず、人生とか世界に対する姿勢をインタビューしているので、この1冊でオードリーの考えが広く聞けてお得な感じがした。「20 外国語を学ぶのではなく第二言語を練習する」では、「私は言語を目的としてではなく、その後に何かをするための手段として学ぶ」と仰っていた。言語ではなく、「何かを学んだり遊んだりするために通らなければならない道」だと思っているのだそう。道、かあ。そこにアクセスするための方法、ということなんだろうな。私もはやく、英語で本が読めるようになりたいなあ。「35 プログラミングの練習は、スプレッドシートから始めてもいい」では、チューリング賞(コンピュータサイエンス界のノーベル賞)を受賞したオランダのプログラマー、エドガー・ダイクストラの言葉を紹介していた。「プログラムをどれだけ上手に書けるかは、母国語の能力がどれだけ高いかにかかっている」。いろんな言語の翻訳家や通訳の方々も同じことを言う。母国語の語彙がどれだけ豊富か。理解がどれだけ深いか。きっと人は、言葉で操れるものの外には出られないんだろう。自分の内側にあるものを外へ出すときに。選択肢は多いに越したことはない。「24 教育について語るより、学習について語る方が良い」では、教育(学校が何を教えるか)ではなく学習(生徒がどのように学ぶか)に焦点をあてるべきだという。私もそう思う。幼い頃に読んだ『となりのトットちゃん』でトモエ学園に憧れたのは、それが子供主体の学びだったからだ。「37 仮定の質問:一週間の学習スケジュールを自分で組めるとしたら?」に、オードリーは「毎日目がさめるまで寝て、それから自分の学びたいことを学ぶ」と答えていた。身に付けるべきことはあるので、義務教育ではすべてを子どもに任せるのは難しい(無知の知すらないのだから)。トモエ学園は、朝登校したら(教室は、古くなって譲り受けた電車の車両だ!)、前の黒板に「今日やること」が書いてあって、それをどれからやってもいい。そういうことは出来ないかな。これまでは、一人一人の学びというのは難しかったかもしれない。でもITは、AIはそれを可能にするんじゃないか。インターネットはあまねく情報を平らかに広めた。教育と言う名の制度、知識と言う名の権威は瓦解した。その後に、授けられるものとしての「教育」はもう、時代遅れなのだろう。これも「アクセス」だな。個々人が学ぶことへのアクセスの担保。オードリーは、教師はもはや「生徒より少し前に学ぶ(教室の中の)もう一人の学習者」なのだと言う。そういえば「先生」という言葉は、「先に生まれた人」と書く。ただそれだけなのかもしれない。ならば教師は、この先、子どもたち(学習者)の牽引者ではなく、伴走者としての役割を求められるのではないかと夢想する。私は毎朝起きて、ラジオ体操とダンス?をして、それから英語を勉強する。楽しい。だって好きなことだから。毎朝目が覚めて、やりたいと思ったことを、それを楽しみに起きるようなことを、学ばないといけない。というか、学ぶこと自体が楽しいんだよ、本当は。それがたとえ、義務でやらなければならにことであっても、そこに喜びは絶対にあるのだ。「41 組織に必要なのは縦の管理ではなく、平等な横のつながり」では、Socialtext社にオードリーが入社したときの就業規則(社員がみんなで作った)が紹介されていた。休暇に関する結論は一文「Be an adult」(大人であること)だけ。自分のためと皆のため、短期的と長期的なバランス。それを取ることを「大人であること」と書き表した。私これ、働くことすべてに言えると思う。というかもう、社会全体に言えることじゃないか。クラーク博士は、校則はただ一つ「Be gentlemen(紳士たれ)」で良いのだと言ったのだっけ?みんな、大人になろう。紳士的であろう。それは自己を慎み、礼節を重んじ、他者を許容することに他ならないよ。「88 私たちは皆、お互いの生まれ変わりである」という考えも同じ。転生というと宗教的で抵抗を覚えるけど、オードリーはそれをログインに喩えている。自分をログアウトして、一度他の人でログインしてみる。そしてまた自分にログインしたとしたら、その人の世界で新たに世界を見ることが出来る。これは読書も同じだと思う。他者の靴を履く。オードリーは、ネットは一つの大きな意識に溶け合うことだと言う。ログインとログアウト。記憶の並列化。また、オードリーは、「66 ネガティブな意見のほとんどは、その空間のルールに起因する」という。だから、ネガティブなコミュニケーションに接した時は、それをコミュニティのせいではなく仕様のせいだと考える。Facebookがダイアログボックスを真四角から角を丸くしていたのは知らなかった。物理的な空間も同じかなあ、と思う。教室のいじめも、職場のいざこざも。同じ部屋に長時間同じ人間を詰め込むのがまず無理があるんだろうな…。すごいなと思ったのは「67 個人攻撃に反応するかどうかは自分で決められる」。オードリーは、自分に対する攻撃をアルゴリズムの出力とみなしているのだけど、そのうえで直接的な攻撃メッセージは自分の「心のマッサージ」だと思うことにしているのだそうだ。自分の心の中に向き合えない部分があって、攻撃を受けることでなぜそれが辛いのか考えて、心の中のだるくて痛い所を見つけてマッサージしてくれて少しずつ痛みが減るのと同じだって。つっよ!!!でもこれで思ったのが、私は自分がどうしても「ゆるせない」と思う本を、「ゆるせない」と思いながらあえて読むことがあって、それは自分の中の凝り固まって動かない「ゆるせない」の存在を見たいから。そこにあることにすら気付いていなかった自分のコア。「そうそう!」と同調する本は、その周りに漂うもので、本当の本質の核は抵抗を覚えるところにある。それを見なくては、解さなくては、私は本当に私という人間を理解できない。隠されたもの。覆われたもの。忘れたもの。そうして自分を守ったもの。深く沈めた核を割って、中に入っているものを見る。それが蠱毒であるならば。私はその正体を、見極めなくちゃならない。これまでの関連レビュー・オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学 [ 早川友久 ]・天才IT大臣オードリー・タンが初めて明かす 問題解決の4ステップと15キーワード [ オードリー・タン ]・オードリー・タンが語るデジタル民主主義 [ 大野和基 ]・まだ誰も見たことのない「未来」の話をしよう [ オードリー・タン ]ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2022.12.17
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本のタイトル・作者あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ [ G3sewing ]本の目次・あらすじ1章 病気でお金がない82歳が 生きがいを見つけた2章 どうする? お金がなくて 生きがいが続けられない!?3章 毎日が楽しい! がま口バッグ作りの舞台裏4章 生きがいを続けるための、 体と心の健康対策5章 80代以上が頑張れる、 これからのG3sewing引用「後期高齢者の方々に、働く場を提供できたらいいなと思っています。G3とB3が『朝起きて、やらなあかん仕事がある。こんな幸せなことはない』といつも言うてます。まだまだ活躍できる。必要とされる場がある。自分のペースで働けて、お金を稼ぐことができる。そんなG3sewingになりたいです」感想2022年301冊目★★★★★この本、良かったです。ちょうど、・貯まらない生活はもうやめよう [ Takeru ]を読んでモヤモヤしていたところだったので、「そうそう、私が理想とする『働く』はコレなんだよ!!」と膝を打ちました。私は表紙からてっきり「80代でも現役で働き続ける鞄職人がネット販売で若い人にも商品を届けられるようになった話」だと思っていたので、まったく違う内容だったことにまず驚き、そしてなんだか、すごく元気と勇気を貰えました。G3(じーさん)は若い頃から人とぶつかる性格。電気の技術もアイディアもピカイチなのに、いつも対人関係のトラブルで仕事を辞めてくる。4人の子どもと妻(B3、ばーさん)はそのために貧乏な暮らしをしてきた。そんなG3も年を取り、年金3万円で長女の家に身を寄せる日々。病気もあり、ほぼ寝たきりのような暮らし。すっかり生きる気力をなくしていたが―――。ある日、娘に依頼されたミシンの修理から、ミシンに目覚める。82歳。既製品を解体し、見様見真似ではじめた裁縫。次から次へと作るので、布地の供給が追い付かない。娘たちは新型コロナウイルスの特別定額給付金を生地代としてプレゼント。そのうちにG3はめきめき腕を上げ、孫息子の提案でTwitter販売を始めることに。これがバズって、注文が殺到した!という、アメリカンドリームならぬTwitterドリームのお話。これは、それを支えている娘さん(三女)が書かれた著書。・父と僕の終わらない歌 [ サイモン・マクダーモット ](認知症の父が歌う歌を息子がfacebookにアップし、最後はCDデビューをした話)を思いだした。G3は、82歳でミシンを始めて、初心者から洋裁をそこまで出来るようになるって、本当にすごい。そして、思う。「自分が手に入れたもの」って、これにしか使えないと思っているけれど、実は汎用性があるのかもしれない。G3は電気の専門家だったけれど、その「仕組みを見る力」は洋裁にも活かされている。娘さんも書かれているけれど、この世代の方々の「物がない時代に頭を使って工夫する力」とか、「身につけた能力」って、太刀打ちできないものがある。素地というのだろうか。失われたもの。もう戻らないもの。大量生産大量消費の時代を経て、立ち止まって、考えるようになって。ネットによる「大衆化」は逆に、「自分だけのもの(物語)」を持ったものを、差別化や特異性、「差異」を求めるようになってきているように思う。そしてネットがあれば、それを届けられる。お客さんから手紙が届く。プレゼントが届く。いつも発送をお願いする郵便局の人からもメッセージが届く。私たちは、つながりを求めている。自分にだけ送られた言葉。自分のために作られたもの。私を、あなたが知ること。・一万円選書 北国の小さな本屋が起こした奇跡の物語 [ 岩田徹 ]・「一万円選書」でつながる架け橋 [ 岩田徹 ]ここらへんも、同じなんだろう。私は、あなたに私のことを知って欲しい。たくさんの人がたくさんのことを発信している今だからこそ。私は、あなたと繋がりたいのだ。私はあなたがここにいることを知っているのだと。娘さんが全面的にお父さん(G3)をサポートしていらして、素晴らしいなと思うのだけど、なかなかにご苦労の多い人生だったのだろうと思う。いくら親にお金を渡しても焼け石に水。これ、まさに私の母とその祖父母の関係性に似ている。徒労感。失望。でも僅かな期待を持って、裏切られて。その繰り返しに疲れ果てて。愛された記憶にがんじがらめになる。4人のお子さんは全員、小学生のときにお菓子が貰えるからというような理由で教会へ通い始め、三女の娘さんは中学生で洗礼を受ける。親の仕事が不安定で、心の平穏を求めていたのだそうだ。子どもが教会の扉を叩く時。私も8歳か9歳の時に近所の教会に通い始めた身なのでよく分かる。そこに誰か、助けてくれる人がいるんじゃないかと。私は、赦されたいと願うこどもだった。それは、神さまなんじゃないかと思っていた。知り合いの方は親がネグレクトで、近所の教会でお金の使い方、料理の仕方、洗濯の仕方、繕いものの仕方を教わった。その人は、教わった方法で暮らしを立て直し、弟妹を自分で育てた。釣った魚を与えるのではなく、魚を釣る方法を教えること。宗教を否定的に見る現代日本において、でもやはり必要とされる場面はあるし、零れ落ちて誰も手を差し伸べられないそこに手を伸ばす。その範囲に置いて私は宗教に存在の意味を見出すし、その精神を尊いと思う。G3sewingは、運営が安定してきた2021年末から、がま口バッグ1個につき150円をタイの児童養護施設に寄付しているんだそう。ここらへんも、・74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる [ 牧師ミツコ ]の時にも思ったけれど、信仰というものが土台を支えているのだと感じた。だって、別に自分だって裕福になったわけじゃないじゃないですか。お金なんて、いくらあったって困るもんじゃないんじゃない。でもそれをちゃんと、世界に戻せる。回せる。すごい。働くって、何だろうか。私は自分が出来ることを、世の中に還すことなんじゃないかと思う。誰かのおかげで出来た道。水。食べ物。服。家。享受する豊かさを、誰かのおかげを、自分も返したい。与えられて、与えて、まわる世界。世界の一部として存在する意義。自分が占める場所。必要とされる役割。それを果たしたい。出来るなら、自分が一番得意で役に立てるもので。じゃあ、「働く」がなくなるということは、それを失うこと?働けない人もいる。子供は?年寄りは?障害はどうだ?病気は?じゃあ、働けなくても存在するだけで、「役に立っている」のか?そもそも「役に立って」いないとだめなのか?「役に立つ」と言う言葉の、違和感。働くことは、誰かのおかげを回すこと。それは、過去と未来の誰かにそれを返すことでもある。今ここにいる自分のためだけではない労働。うーん、上手くいえない。でも、思うのは、私の「はたらく」は、一義的には私のためであるけれど、そうではない。近江商人の活動の理念・三方良しが「買い手よし、売り手よし、世間よし」というように。・カゴメの人事改革 [ 有沢正人・石山恒貴 ]で書かれていたように、「四方良し」では「働き手」が、「六方良し」では「作り手、地球、未来」が追加される。つまり、そういうことなんじゃないのか、と思うのだ。どんなチャリティーも、偽善では続かない。G3sewingのバッグは、本を捲ったところに作業風景の写真がある。目に入った瞬間、「可愛い!」「素敵!」「欲しい!」と思った。そうじゃないと、どんな活動も続かない。このバッグを買った人は、「このバッグが欲しいから」買ったんだと思う。そこに物語と言う付加価値(G3が作った)はあるにしろ。私も欲しいもん。読み終えてすぐTwitterのアカウント(G3sewing)検索したもん。私は今、「自分」のことしか見えてない。その先にある「売り手」としての立場さえ、ちゃんと見えてないんじゃないかと思うんだ。ああ、未熟だなあ。成長の余地しかないなあ。(笑)それでもいつか私は、「六方良し」の働き方がしたいな。この本は、そのお手本になるような本。ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2022.11.21
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本のタイトル・作者ママにはならないことにしました 韓国で生きる子なし女性たちの悩みと幸せ [ チェ・ジウン ]"엄마는 되지 않기로 했습니다 아이 없이 살기로 한 딩크 여성 18명의 고민과 관계, 그리고 행복"by 최지은本の目次・あらすじプロローグインタビューに参加した人たち第1章「子なしで生きる」と100%確信して決めたのか?--自分の心と、「母性」について考えたこと誰もがママになりたいと思うものなのか? 産むか産まないか、そう簡単には決められない 妊娠や出産は人生をドラマチックにするための演出じゃない妊娠中絶について子どもが嫌いだから産まないのですか?ママになることへの恐れある日「マンマ・ミーア!」を観ていて 親にならないと大人になれないって? 子なし人生のゆとり お金と時間はこう使う わが子の代わりに世界中の子どもに手を差し伸べる 第2章 出産するのは私なのに、なぜ非出産はすべての人が納得しなければならないのか?--配偶者、両親、友人たちとの関係について配偶者とはどうやって合意しましたか? 子どもがいないという理由で別れるなら 結婚は四方からの攻撃だ! 義両親からの圧力 結婚は四方からの攻撃だ! 実家の両親の期待 避妊はどうしてますか? もし、男性が子どもを産めたなら… オー、わが甥っ子! 猫を飼う嫁として生きること 子どもがいてもいなくても いつだって友達でいられたら両親のせいなのかと聞かないでください あらゆる無礼とおせっかいのオンパレード 「じゃあ、なんで結婚したの?」という質問に答える方法 第3章 韓国でママになることは何を意味するのかーー子なし女性の就職とキャリア、そして社会構造について子なし夫婦の家事分担 「子どもを育てるために必要な金額」を計算してみたら… 非出産がキャリアに及ぼす影響子なし女性と産休・育休 子なし女性の求職が大変な理由 地方で子なしで暮らすこと バラエティ番組で育児を学ばないように ノーキッズゾーンに行かない理由 子なし夫婦のための政策は必要か? 韓国で子どもを産みたい日はくるか?エピローグ訳者あとがき引用私は、特に母親になりたいとは思わない。予測不可能なことや楽しいこともたくさんあるのだろうが、その冒険に飛び込むほどの強い動機はもっていない。子どもを産んで育てることで感じるであろう胸アツの感情や経験を味わえないのは少し残念ではある。でも、子どもを育て、四六時中話を聞いてやり、要求にこたえてやる日々に私が耐えられないことは自分が一番よくわかっている。子どもの友人関係や学校生活、才能や進路について自分のことのように悩み、泣いて笑う日々は考えただけでもぞっとするが、もしかしたらものすごく幸せなのかもしれない。でも、私は自分の人生を誰かにそこまで侵されたり、揺がされたりしたくない。それと同時に少し不安にもなる。子どもを産む前は私と同じようだった人も産んでから気が変わったんだろう。その人たちの世界はもっと広がって豊かになったことだろう。そして次の瞬間、また考える。それでも私は違う。感想2022年290冊目★★★★韓国で既婚で「子どもを持たない」ことを選択した女性たち。著者は放送作家。姉の子どもの面倒を見るのに手伝いに来てくれと言われ、半日行った姉の家。姉は社内託児所で2歳の子どもを迎え、家の近くの保育園で下の子をベビーカーに乗せる。家に帰ってからも一瞬も休む暇なく続く家事と育児。私には無理。はやく家に帰りたい。そう思ったとき、姉から言われる「一人ぐらい産んでみたらいいのに」著者は思う。子どもを育てることは、ほんとにそこまで言うほどのことで、誰もが一度は経験しないといけないことなのか?結婚=出産で、子どものいない結婚生活は不完全なものとされる韓国社会で、子どものいない夫婦生活を選んだ「私たちの星」にいる人たちは、どんな悩みを抱えて、どんな幸せを感じているんだろう?著者はあちこちに声をかけ、住む場所も職業もバラバラの、17人の女性たちに出会う。インタビューに参加してくれた彼女たちの声。前に読んだ、イスラエルの・母親になって後悔してる [ オルナ・ドーナト ]これが「そういうものだと思って子どもを産んだけれど、自分は母親になるべきではなかった」と感じている人たちの話だから、本書とは対になる内容だ。「そういうものだと思われているけれど、私は母親にはならない」という人たち。韓国で「結婚したけど子どもを産まない」という選択をすることは中々に大変なんだな、とこの本を読んで思う。日本でもそうだけれど、結婚することは「異性愛者である証明」であって、「敷衍した現行の社会制度を受け入れた表明」であり、多くの人が属するグループの一員になる踏み絵だ。そこに組み込まれることは、マジョリティであることの確認でもある。マジョリティであることのパスポート。優遇される仕組みへの参加。その一部になること。著者も自分が結婚したことを、異性愛者であることの特権行使のように感じている。恐らく同じように「ママにはならない」という選択をしても、「結婚していない」(独身である)状態であれば周囲がどうこう言うことは少ないんだろう。何故なら、結婚という強固な制度がその先に「2、3人の子どもを成し、人口を再生産すること」も含まれているパッケージ販売だから。そもそもその端緒を開いていなければ、メンバーの一員になることを拒否しているわけだから、「私たちは仲間なのだから」という意識で口を出されることも減る(はず)。私の知る、ある人が言っていた。「私は子どもを望んでいたけど長く出来なくて、その時一番傷ついたのは『人の親にならなければ一人前じゃない』という“母親になった人”からの言葉だった」確かに親にならなければ分からないことはある。と、自分が親になって思う。身をもって知らなければ分からないこと。体感。その身体的労働性や、時間的束縛性、精神的隷属性。この本に紹介されていたコラム(女性記者が「復職して1週間で過労死した公務員ワーキングママの話」を読んで思い出した、自分の第一子の出産から復職して間もない時の事)の一文に胸を打たれた。「あ、私は自殺する自由を失くしたんだ」本の後半に登場する猫を飼うヨンジも言う。彼女は結婚して引っ越し、夫の帰りを待つだけの日々を毎日泣きながら暮らしていた。マンションの10階から飛び降りたらみんなリセットできるかな、と感じながら。でも、全部投げ捨てて逃げ出したいときも、「この子たちがいるし、お金稼がないと」と思わせてくれる装置みたいな、ケアする対象がいるっていうことが、私を正しく生きる方向に導いてくれるような気がします。親としての気持ちもこういうものなんでしょうね。私もそうだろうな。ここから逃げることは出来ない。生きて、働いて、稼いで、子どもたちを育てなくては。私が望んだことだ。私が彼らをこの世界に生み出した。だから私はその責任を取らなくては。けれどそれが「一人前」ということになるのか?子どものいない教師の知人は、「でもどうせ先生には子どもがいないから分からないでしょ」と言われるそうだ。私はいつも思うのだけど、宇宙に行った人だけが宇宙を語れるのだろうか?だとしたら、宇宙飛行士だけがその資格を持つことになる。宇宙飛行士はどうして宇宙へ行けたのか?誰がその機材を作り、打ち上げを準備し、宇宙食を用意したのか?彼らもまた、そのメンバーの一員ではないのか?宇宙へ行った人だけが、その身体性と精神性を知っている。それは真実だ。無重力のなかで生活し、閉鎖空間で日々を送る。けれどそれだけで世界が出来ているわけではない。それはあまりにも狭量で暴力的な捉え方だろう。宇宙飛行士になりたい人も、宇宙には行きたくないけど宇宙に関わる仕事をした人もいる。そして宇宙にまったく興味がない人も。NHKの「理想的本箱 君だけのブックガイド」で、「人にやさしくなりたい時に読む本」として白尾悠「サード・キッチン」が紹介されていた。作中に登場するゲイの青年は言うのだそうだ。世界はそういうところだと、自分の存在を含有する場所なのだと思ってほしいだけ。多様性って結局、そういうことなんだよな。自分が属する「ふつう」が一面的なものだと知って、それ以外にたくさんある可能性に目を開くこと。たとえ自分ではどうしても受け容れなくても、多元的に広がる世界の存在を認めること。母親になって後悔してる。ママにはならないことにしました。私にはどちらも分かる。彼氏は?結婚は?子供は?二人目は?1つずつ社会的規範のチェックリストにマークをつけるほど、びっくりするほどたくさんの人が口出ししてくることに驚いた。彼らは、まるで自分たちにはその権利があるのだと信じているようだった。宇宙?知ってるよ。アマチュアだけど一家言あるんだ。私たちは同じだという顔をして―――先輩面をして。彼氏がいます。結婚しました。妊娠しました。女の子でした。二人目は男の子が生まれました。ほらこれで満足?と思う。私は心の中で、その「誰か」に対して思い切り中指を立てる。Happy now? そうして私は思う。もし私がそうしていなかったら。平行世界の私は、どれだけ自由だっただろう。絆は、「きずな」とも「ほだし」とも読む。結ばれた縁は、縛られることでもある。それを望んだのか―――そういうものだと、思い込んでいたのか。がんじがらめになった彼女たちと、それを望まなかった彼女たち。Happy now?それは私に向けられた問いでもある。今、幸せ?これまでの関連レビュー・82年生まれ、キム・ジヨン [ チョ・ナムジュ ] ・母親になって後悔してる [ オルナ・ドーナト ]ランキングに参加しています。「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです。にほんブログ村
2022.11.10
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本のタイトル・作者僕は死なない子育てをする 発達障害と家族の物語 [ 遠藤 光太 ]本の目次・あらすじ第1話:小さな産院の薄暗い待合室で食べたメロンパン第2話:「自然」としての娘を迎える第3話:楽しい仕事と鬱第4話:「もっと休んでほしかった」と妻は言った第5話:「死にたい」と言えずに第6話:「普通」でいなければ、崖から急に落とされる第7話:発達障害を知ってゾッとする第8話:障害者雇用という働き方第9話:家族と発達障害第10話:強かった妻の心が折れた第11話:当事者との出会い、父のこと第12話:平成元年生まれの苦闘第13話:家族をリノベーション第14話:コロナ禍と小学一年生の子育て第15話:母の自立とトランスフォームする家族第16話:死なない子育て第17話:「平らな場所」にやってきた存在第18話:発達障害とパパになるおわりに引用究極的には、親にとって大事なことは、“ごきげんな状態で子どものそばにいること”ではないかという考えを持ち始めるようになった。ときに主体性を尊重したり、選択を狭めたりと親は子どもの人生に強くかかわる。それらの判断が、子どもにとって良きものになるよう、ごきげんに過ごす。簡単なことのようで、とても難しかった。子育てを始めるとき、最初は気負って全速力で走っては息切れして倒れていた。発達の特性にもまだ気づけていなかった。だからこそ、うまくいかない自分に腹を立て、不機嫌に過ごし、視野が狭くなっていた。しかし、時間をかけて「これはマラソンなんだ」と気づき、長く走れるゆっくりのスピードを意識し始めたいまでは「別に止まっててもいいんだ」と気づき、“ごきげんな状態で子どものそばにいること”を重視し始めている。感想2022年267冊目★★★著者は、1989年(平成元年)生まれ。現在は妻とお子さん2人。小学校時代に不登校になる。優等生だったが大学時代にうつ病になり、社会人2年目に娘が0歳の時点でうつ病を発症し長期休業。現在はライター。この本は、夫婦関係が壊れていた当時、結婚三年目で発達障害の診断を受けた著者と、子供が生まれる前後の話。発達障害の有無に関係なく、子育てをする中で直面する問題について共感するところが多いと思った。子育てにより自分のペースが守れなくなり、「ひとりの時間」が失われたことへの辛さ。復職後の体力と時間をセーブしながら仕事していくときの「自分は与えられた時間をこなしていくことしかできないのか?」「何を目指していけばいいのか?」という葛藤。具体的な目標がないから、猛然と英語を勉強する。まわりもこれくらい頑張っているだろうと「普通」のハードルをクリアしようともがく。私の身にあるあるが多すぎて、共感の嵐。特に自分の場所を必要とするところ(私も自室が欲しい)、自分の時間を必要とするところ。本を読み、何かを書くことで安定することも同じ。本って、外にいても自分のまわりに張れるバリアというか、透明な檻みたいだから安心する。その中に入っていれば、大丈夫。守られてる。イヤホンで音を遮断するだけで、ストレスもかなり軽減される。子育ての目標は自分がごきげんでいることだ、というのはよく聞く。そしてそれが一番難しいことでもある。子育てって「子どもを育てること」にフォーカスし過ぎて、子どもにばかり目線が行ってる。でも、そのケア側が安定していなければダメなんだよね。大人の最低条件は、自分の機嫌を自分で取れることだとも言う。その時、何をしていれば自分はごきげんでいられるのか(あるいは最低でもニュートラルでいられるのか)、何をすればリカバリできるのかを知っておくことは何よりも大事。得手不得手を把握し、自分の取扱説明書をよおく読み込んでおく。そして随時アップデートをかける。私は自分のスペース(時間・場所)がなくなると爆発する、とこの間キレてしまって再認識した。私は何より自分だけの「一人でいる時間」が大切で、それがないと「家族」が出来ない。だからこれは理解してもらうしかないし、爆発する前にそういう過ごし方をする方が良い。ちょっと1、2時間離れるだけで回復するのだから。著者の娘さんとのかかわり方、すごく良いなあと思った。保育園に行きたくないとき、じっくりそれを待つことなんて、私には出来ない。子育てって「自分がしてほしかったこと」をし、「してほしくなかったこと」をしないよういすることだとも言う。気づけば親の言動を繰り返しているんだよね…。あんなに嫌だったのに。著者は、寝る前に娘さんの「嫌だったこと」に耳を傾けるのだそうだ。これ、良いですね。私は最近、YouTubeのトレーニングやストレッチを寝る前に子どもとしているのだけど、その動画で「今日がんばったことを3つ言う」のが「メンタルにめっちゃ良いっちゃ」と毎日言うので、動画を見て身体を動かしながら娘息子と言い合っている。学校へ行った、六時間がんばった、マウスピースつけた。仕事へ行った、ご飯作った、お皿洗った。毎日すごい「頑張った!偉かった!」と表彰されるようなことなんて起きないのだけど、日常の些細なことを言葉にして認識するだけで確かに胸の中から何かが溢れる。この間読んでいた健康雑誌に、「自らを寿ぐ(言祝ぐ)」という言葉があったのを思い出した。私はずっと、自分の「生きづらさ」に名前がつけばいいのにな、と思っていた。地球上にひとりいる宇宙人みたいな感覚。違う言葉で書かれた本の一文を、切り貼りしたような自分。訂正されることを待つ誤植。そんな目でずっと、世界を見ていた。物心がついたころからずっと、死にたいと思いながら生きている。それは希死念慮というよりも、抽象的に言えば「自分の星へ帰りたい」みたいな気持ちだ。子供の頃はずいぶんそれで苦しんだ。幼い私が何より怖かったのは、「自分がこの世界に耐え切れずに、大人になるまでに自死するであろうこと」だった。その時に、この星でお世話になった人たちを悲しませるのは本望ではない。恩義がある彼らのために、だから大人になるまで生きていよう、と思った。相反する気持ちも抱きながら。今でも時々辛くなるけれど、もはや諦めの境地に至ったというか、「もうこれは、この星に流れついたのだから、この星で天命を全うするしかしゃあないな」と思って日々を送っている。生きていることが当たり前の、その傲慢に身を置いて。この星も結構楽しいやん。みんな何考えてるか、全っ然分からんし!笑死なない子育てをする、というタイトルを見た時、それはどっちの意味なんだろうと思った。自分が死なない子育てか、あるいは子どもを死なせない子育てか。きっとそれはどちらも同じで、繋がっているひとつのもの。著者は、サステナブルな子育てをしようと言う。持続可能な子育て。この自分で、この世界で生きていくしかないのだから。私は私のままで、私の子どもは(幸か不幸か)私のもとへ生まれたのだ。その縁を、手を繋いで。私はこの星で生きていく。前を向いて。その日が来るまで。これまでの関連レビュー子育てにまつわるノウハウ系の本・後悔しない子育て 世代間連鎖を防ぐために必要なこと[ 信田さよ子 ] ・こんなときどうしたらいいの?感情的にならない子育て [ 高祖常子 ] ・子育てがプラスを生む「逆転」仕事術 [ 小室淑恵 ]・子どもも自分もラクになる「どならない練習」 [ 伊藤徳馬 ]・ママも子どももイライラしない 親子でできるアンガーマネジメント [ 小尻美奈 ]・パパのトリセツ 2.0 [ おおたとしまさ ]・お母さんが1番!からの解放 [ てらいまき ]・世界一楽しい子育てアイデア大全 [ 木下ゆーき ]実体験やエッセイ・パパいや、めろん 男が子育てしてみつけた17の知恵 [ 海猫沢めろん ]・沈没家族 子育て、無限大。 [ 加納土 ]・ぼくのお父さん [ 矢部太郎 ] ・親になってもわからない 深爪な子育てのはなし [ 深爪 ]・山中教授、同級生の小児脳科学者と子育てを語る [ 山中伸弥+成田奈緒子 ]・学校が合わなかったので、小学校の6年間プレーパークに通ってみました [ 天棚シノコ ]・楽しくてヤバい育児 [ 犬犬 ]精神病、うつ・夜しか開かない精神科診療所 [ 片上徹也 ]・うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち [ 田中圭一 ]・にげてさがして [ ヨシタケシンスケ ]発達障害・「判断するのが怖い」あなたへ 発達障害かもしれない人が働きやすくなる方法 [ 佐藤恵美 ]・会社で「生きづらい」と思ったら読む本 [ 岩谷泰志 ]・「会社がしんどい」をなくす本 [ 奥田弘美 ]・「フツーな私」でも仕事ができるようになる34の方法 [ 田村麻美 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.10.17
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本のタイトル・作者6カ国転校生 ナージャの発見(集英社インターナショナル)【電子書籍】[ キリーロバ・ナージャ ]本の目次・あらすじはじめに6つの国、4つの言語で教育を受けて育つとどうなる?ナージャの6カ国転校ヒストリーこの本を楽しむためのヒントプロローグ 5つの質問第1章 ナージャの6カ国転校ツアー筆記用具は? 「よく書く」ためのえんぴつ。「よく考える」ためのペン座席は? 小学校の座席システム。実は、全部違った体育は? ロシアの学校では、体育で整列する時背が高い人が前だった学年は? ロシアでは「1年生」という学年が2学年あるランチは? 小学校のランチシステム。実は、さまざまだった数字は? 日本の学校では、数字の書き方も個性よりカタチだったテストは? 世界では、90年代からこんなものがテストに持ち込み可だった満点とは? フランスの学校では、16/20が100点!?水泳は? 日本の水泳教室は、タイムよりカタチだった音楽は? アメリカの学校では、本を読むようにバイオリンを習うノートは? 小学校のノート模様。実は、こんなにたくさんあったお金は? イギリスの学校では、リンゴでお金を学ぶ校長先生は? カナダの学校では、夏休みが3か月ある科目は? カナダの学校で体験したちょっと変わった科目5選第2章 大人になったナージャの5つの発見ナージャの発見① 「ふつう」が最大の個性だった!?ナージャの発見② 苦手なことは、克服しなくてもいい!ナージャの発見③ 人見知りでも大丈夫!しゃべらなくても大丈夫!ナージャの発見④ どんな場所にも、必ずいいところがある!ナージャの発見⑤ 6カ国の先生からもらったステキなヒントたちエピローグ 5つの質問【解答編】おわりに引用子どものころはなかなか気づけないけど、まわりと違う自分の「ふつう」こそが、「個性」の原料だ。そう気づいてから、今まで嫌いだった自分の「ふつう」がなんだか少しだけかわいく見えた。(略)そう、みんな「ふつう」でいいし、「ふつう」に対するコンプレックスをもっともっと捨てられるといいなと。「ふつう」を磨いていくことが、「個性」を磨くことよりずっと早いという発見をしてから、ずっとそう思っている。感想2022年265冊目★★★てっきりナージャという男の子が親の仕事の都合で世界各地を転々とし、現地でさまざまな体験をするハートウォーミングな成長ストーリー児童書だと思っていたので、著者の実体験によるテーマごとのノンフィクションエッセイだと知り驚いた。相変わらず思い込みが激しい。ウソ・大袈裟・紛らわしい!!そんでナージャって女性名だったよ。アニメ「明日のナージャ」ってあったね。著者、キリーロバ・ナージャさんは、クリーエティブ・ディレクター、コピーライター(2015年世界コピーライターランキング1位)、絵本作家。ソ連(レニングラード)生まれで、数学者の父と物理学者の母と各国へ移り住み、それぞれの地元学校で教育を受ける。各国で地元の学校に行っているのがすごいのだけど、小1(6歳) ロシア、サンクトペテルブルク年長(7歳) 日本、京都~小2はスキップして弟と一緒に保育園に通う~小3(8歳) イギリス、ケンブリッジ小3(9歳) フランス、パリ小4(10歳) アメリカ、ウィスコンシン州マディソン小6(12歳) 日本、東京中1・中2(13~14歳) カナダ、モントリオール中3(15歳) 日本、札幌という経歴で、人見知りで口数も少ない子どもを、言葉も文化もまったく分からないところから地元学校に入れる親御さんがまずすごいな…。サバイバル…。ロシア語、日本語、英語、フランス語ですよ。子供だからいける!と思われたのか。ナージャさん、たぶん30代くらい?なので、当時通われた学校生活はおおよそ30年前のもの。しかし各国によって「ふつう」の「あたりまえ」が違って面白い。文房具好きとしては、鉛筆とペンの話が興味深かった。ロシアからイギリスに転校した時、ペン(色は青のボールペン。親の時代は万年筆)から鉛筆になってびっくりしたのだそうだ。ロシアでは、鉛筆=美術で絵を描く時に使うもの、という認識だったのですって。へええ。そこにあるのは、考え方の違い。ペンは消せないために自分の意見を定めて考えを究める。=ロジカルシンキング。鉛筆は書きながら考えることが出来るので書きやすくなる。=トライ&エラー。筆記具一つをとっても、その国々が文化的に「教育に求めるもの」=人としてどうあって欲しいか、が透けて見える。座席の並び方からは、勉強がチーム戦か個人戦か、何を目標としているのかが見えてくる。体育の授業はその競技に習熟するためか、健康増進のためか?(体育の授業でなぜあんな大きな名前の書いたゼッケンが必要なのかわからない、とあってハッとした。確かに!!)コミュニケーションが得意ではない性格であるうえに、言葉も分からないナージャさんは、自分の苦手を克服する方法を生み出す。それは、自分の苦手を把握し、ルールの抜け道を探して、自分ができるやり方でやってみること。これ、いいなと思った。真正面から勝負してかなわないことなら、横から攻めてみよう。私はいつも、子供の頃に読んだ小説『楽園の魔女たち』を思い出す。迷路を時間内に抜けろ、と言われて、たしかボーンと迷路を爆破するかして、全てを突っ切る一本道を作ってしまうのだ。同じく、迷路の壁の上にのぼってしまうのもアリだよね。「迷路を時間内に抜ける」というルールは破っていない。トリッキーな方法を使うだけで。著者は行く先々で、その場の「ふつう」を体験してきた。そうして思うのだ。「ふつう」ってなんだ?ふつうになりたい、みんなと一緒になりたい。でもその「ふつう」は場所場所で、時々で変わる。じゃあ、私の「ふつう」って実はほかのひとには「ふつう」じゃないのかも?同じようにほかの人の「ふつう」は、私の「ふつう」ではない。それぞれが混ざり合って、あたらしい「ふつう」が生まれる。それを楽しむこと。前に何かで、「普通」の枠に押し込めても押し込めてもはみ出てきてしまうものこそが「個性」だ、と読んだ。それは自分の荷物を、スーツケースにぎゅうぎゅうに押し込んでるイメージ。上から乗って閉めて、ふう一安心!と思ったらバイーン。はじけ飛んだスーツケースの中身を呆然と見つめる。その時、「なんで私の荷物はここに入らないんだろう…」と落ち込むんじゃなくて、スーツケースに入れきれないものこそが、自分の本当の持ち物(持ち味)なのだと思う。さて、私が入れきれないモノって、何かな。それってきっと、みんなが預けない荷物、手荷物で機内持ち込みにする大事なものだと思うんだ。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.10.14
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本のタイトル・作者定年後にもう一度大学生になる 一日中学んで暮らしたい人のための「第二の人生」最高の楽しみ方 [ 瀧本 哲哉 ]本の目次・あらすじはじめに 「学び」そのものが目的になると、大学生活はこのうえなく楽しい第1章 「二度目の大学生」は第二の人生を豊かにする第2章 大学生になって新たな自分に出会う第3章 おすすめは「学部」からの入り直し第4章 お金・家族・健康のこと第5章 中高年が大学合格を勝ち取る秘訣第6章 人生二度目の大学受験体験記おわりに 幅広い年齢層の入学が増えれば、大学はもっと活性化する感想2022年244冊目★★★「音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む [ 川原繁人 ]」を読んで、やっぱり私言語学すきだなと思って、今もう一度学べるとしたら私はどうするかな、と思って読んでみた本。著者は、1956年北海道生まれ。次男が北海道大学に進学したとき、56歳で「自分ももう一度大学生になりたい」と思い、受験を決意。そこから3年、現役生と同じ共通試験(センター試験)を受け、定年1年前の59歳で京都大学経済学部に合格。同大学は、10代の頃に不合格になった大学だった。36年間勤めた金融機関を辞め、格安の学生寮に住み、息子より年下の若者に混ざって学生生活を始める。親の介護で休学状態になることもあったが、4年間で120単位(必要数の1.4倍)を取得し、経済学部卒業生の代表として総長から学位記を授与。卒業論文は優秀卒業論文賞を受賞。現在は大学院に在籍。いやもう、すごない?何が一番すごいと思ったかって、社会人入学でもなく、そして自身はすでに大学を出ているにも関わらず、大学院ではなく、またイチから大学を、それも現役生と同じ試験を受けて入るってとこ。いやもう、私およそ受かる気、せえへんよ。しかも仕事を続けながらの休日や夜間大学でもなく、仕事を早期退職して。家から通える北海道の大学ではなく、遠く京都まで単身移住。はー…すごい。よく思い切れたなあと思うし、家族のサポートと理解もすごい。本には学費などについても書いてあるけど、国公立は学費が安いので、文系だと月4・5万円。私大で7万弱。理系だと10万弱の授業料がかかる。著者は貯金などから支出していたそう。ここらへん、親が無収入で住民税非課税だと国公立は授業料免除になっている同級生もいたし、世帯分離して単身非課税で免除を受けている人もいたので、収入によってはお金がかからないかもしれない。著者は京都大学の吉田寮(廃墟のような寮。基本相部屋)に入るのだけど、ここがなんと月の寄宿料が400円。400円…?え?っていう値段。入学試験のあとに著者が寮を見学した際、59歳でも入れますかと訊ねたら、「ここは京都大学の吉田寮です。京都大学の学籍がある人は誰でも入寮できます。人を人種、性別、年齢で差別するようなことはあるはずがないです。そのような考え方をする人には入ってもらわなくてけっこうです」と案内した寮生が答えたそうだ。うわああカッコイイ。『宝石商リチャード氏の謎鑑定』の宝石店「エトランジェ」のモットーみたいだ。寮暮らし描写は、まさに森見登美彦氏の小説のようでワクワクした。私は住むのは無理だけど。現役生なら、地元の篤志家や財団が「○○県民学生寮」とか作ってくれていることがある(私の先輩はここに入っていた)。しかし、著者が学生になったことに対して当時報道され、ネットでも話題になったとき、・59歳から税金を使って勉強しても無駄・現役の一席(若者の未来)を年寄りが奪ったという批判があったそうで、私はそのこと自体に驚いた。え、学びは誰の前にも平等に開かれているのではないの?知を求める人のまえに、それこそ年齢・性別・人種なんて関係ないじゃない?それこそが学問の扉を開くことであり、大学という名の最高学府の存在意義であり、図書館がこの世にあることの意味なんじゃないの?確かに、たとえば同じ試験を受けて年配者がほぼ席を埋め尽くすことになるとして(今の試験制度や大学に通うという金銭時間的肉体面のハードルを考えると考えにくいけど)、その場合は若者の取り分を考えなくてはいけないと思う。けれどそうじゃない現状において、むしろそれは学びの幅を広め、深さをもたらすものとして歓迎すべきことではないのか。多様性を確保するために、むしろ招いて受験してもらいたいくらいの人材だと思うんだけど。私が通っていた大学には、地元住民も聴講生として登録できるオープン講義があって、その講座にはお年寄りが大挙して申し込んでいた。そしてその講義がある日は、彼らはキャンパスの学食で、図書館で、つかのまの学生気分を謳歌しているようだった。若者たちが「いかに授業に出なくても楽に単位を取得するか」を考えている一方、年配者は「いかに講義の前の座席を確保するか」に心血を注いでいた。私はそれを冷めて目で見ていたんだよな、当時。この人たちはこの歳になっていったい何がしたいんだろう、よっぽど暇なのかな、と。今、私は年を重ねて。ふたたび「大学で学びたい」と思うなら、いったい何を学ぶだろう。何でもいいから学びたい、という思いが、焦燥があるのは、何故なんだろう。知りたい。知り続けたい。知らないことが山ほどあると知った後で。こんなことして何になるのか、意味なんてないと突き付けられた後で。何者にもなれないと分かった後で、それでもなお。諦められない。若い頃よりも学ぶことを希求する思いがより一層強くなるのは、何故なんだろうね。著者は、寮に鏡がなく、学生たちに混ざって生活しているうちに自分の年齢を忘れてしまうのだと言う。オンライン授業で、画面に映し出された自分の顔に、自分の本当の年齢を思い出すのだそうだ。たぶん、人間の「中身」って、魂みたいなものって、磨かれて行く「玉(ぎょく)」なんだろうな。肉体はそのいれもの。若い肉体は薄く、内側の光はギラギラと外側まで透けて見えるだろう。けれど老いは、内側の光を陰らせても、抑えることは出来ない。やわらかく光るそれ。知を求める者の前に、扉はいつも開かれている。行け。勇んで。もはや小さくない者たちよ。これまでの関連レビュー・海外の有名大学に、リモートで留学する [ 姫松冬紫 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.09.22
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本のタイトル・作者「わたし、五十歳です」 主婦からのキャリアアップ【電子書籍】[ 森田信子 ]本の目次・あらすじ「行って来まーす」 受講生は幹部自衛官 「過去を未来に生かしましょう」 「一期一会」の触れあいわたしのミャンマー愛 ミャンマー国軍によるクーデターの衝撃 欲より与える喜びの仏教国で胸痛むミャンマーの荒廃 利他的な仏教文化の国で ミャンマーからの肉声三十九歳の女子大生 女の一、二、三章 まだ間に合うかも、と四年生の大学へ 自分史の特別編おばさんが高倉健さんと机を並べて 自覚した「わたしが人生」 「お金だけじゃ情けない」と健さん 「おばさんが一人でよくやるなあ」と娘女もタフでなければ生きられない 習慣は性格に 雪国で身につけた粘り強さ母性愛 コロナ禍の今こそ 時に「お母さんはね」と子らにわたしの東京マラソン 「えっ、あなたが」 肉体の声を聞きつつ前へ、前へTOKYO-ミャンマー 主人に「お茶でもしない」 「女流」という言葉 オンラインで知るミャンマーの悲嘆「やさしさに包まれたなら」 わき役も主役 「心の奥の箱」には感想2022年229冊目★★タイトル詐欺。なんだろうなあ、この人のキャリア面白いし、やってることも面白いのに、説明がごっそり抜けているから、「は?」「え?」「なんで?」となっているうちに終わってしまう一冊。女子短大卒業後、三菱銀行で会長秘書。専業主婦を経て、四年制大学に社会人編入。その後キャリアコンサルタントなどの資格で働いている…?のか…?ミャンマーの話がめっちゃ出てくるんですが、なぜこの人がここまでミャンマーに関わっているのか、というのがよく分からなくて、「なんで??」が最後まで解明されずモヤモヤした。子育てをしながら社会人として大学に入る入学試験のこと、学生生活のことなんかも、もっと詳しく書いて欲しかった。私、机上の空論をこねくり回すのが好きだから、社会人入学したいんですよね…。英語楽しいし、英語教授系もいいなあと思っている。社会学も楽しそうなんだけど。でもフルタイムで子育てしながらはまあ、無理だわな。通学は。出来るとしたら通信制になるだろうな…。そこまでして別に通わんでもええかな…。何の役に立つわけでもないし…。って毎回なってるんですが。キャリアコンサルタントの資格、ちょっと気になってる。これ、国家資格なんですよね。合格率も高いし、とっても良いかなあ。しかし何に使うんだ?仕事の実務に関係ないしな…?人事にでも配属されない限り。いやそんなこと言い出したらまったく違う勉強した方がよくなる。そしてそれに私は興味がない!笑表紙や挿絵のゆるっとした可愛いイラストは娘さんの手によるものだそう。コミックエッセイにありそうな画風。プロの方なのかな?キャリアアップ。アップ、ねえ。と、最近思っている。たぶん、こう、一本の線がまっすぐ伸びていく感じとか、階段状のものを登っていくイメージは、もう、ちょっと違うかなというか。平行または放射線状、あるいはアップするとしてもらせん状?そういうイメージじゃないときついんじゃないだろうか、これから。キャリア、というと「経歴」「肩書の羅列」みたいな印象を受ける。でもそうじゃなくて、「自分はどうなりたいか」を遠くの星みたいに据えて、そこを見失わないようにすること、そこに向かって紆余曲折しつつも絶えず歩いていくこと、を「キャリア」と呼ぶのではないか、と思う。私のキャリア。なんてものは、何でもなくて、評価もさほどされないのだろうけれど。遠くにある星は、見えてきた気がする。そしてそれはずっと、私の中にあったのだという気も、している。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.09.06
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本のタイトル・作者本とはたらく [ 矢萩 多聞 ]本の目次・あらすじ1 学校とセンセイ2 インドで暮らす3 絵を描くこと4 本をつくる5 日本で暮らす6 本とはたらく引用本は縁側みたいだ、と思う。一冊の本がきっかけになって見知らぬ人と出会う。なにげなくめくった一ページから会話がはじまる。本のまわりにはいつもにぎわいがあり、ちょこんと腰をおろせる場所がある。本の居場所は書店だけではない。(略)……あたりを見回せば、いろんなところに本があるものだ。紙の本は万能ではない。読まずに積みあげられる本もあれば、たった一節の文章に救われることもある。自分にとって一生の宝物となる本も、他人にとってはただの紙の束にすぎないかもしれない。本はそれを読み、活かしてくれる読者がいてこそ完成する。感想2022年227冊目★★★★この本、良かったです。良い意味で期待を裏切られた。面白かった。装丁家の本で、タイトルが『本とはたらく』。だから、たぶん美大とか出たりとかした人が、本の装丁をしているうえで気にしていることとか、デザインのこと、作者との打ち合わせ秘話、本の装丁の仕組み…みたいなことを語ると思うじゃないですか。違うからね。著者は、1980年生まれ。小学生の頃から不登校になり、中学生のときにインドへ移住。半年ごとに往復し、自らが描いた絵で展覧会を開催。本のデザインもはじめ、これまで600冊をこえる本を手掛ける。2012年京都に移住し、出版レーベルAmbooksをたちあげる。「本とこラジオ」パーソナリティをつとめる。…おいおいおいおいおい何か思ってたんと違うぞ!ってなるんですよ。で、この本はほぼ著者の自伝。本の1~5は、『偶然の装丁家』(晶文社、2014年刊)の再録。前のタイトルのほうが中身を体現している。不登校時代の話も、その後のインドの話も濃くて、もうそれぞれの章が単体で一冊の本になるレベル。それから独学の絵描きになり、装丁家になり…。波乱万丈。読み応えがすごかった。随所の出会いがこの人の人生を支え、変えてきたんだなあ。そしてそれは言葉であった。小学生の時の担任の石井先生が、すごく素敵。朝、学校に遅刻してくる著者に、先生は言うんですよ。堂々と入って来なさい。一日をコソコソした気分で過ごすことにならないよう。「ここから一緒に今日という日をはじめるんだ」。石井先生は延々「やまなし」をやったり、感情的になって教室を飛び出しちゃったり、先生自体も変わってるなあと思うのだけど、私とさして年の変わらない著者の時代に、こんな大らかな先生が許されていたのだなと思った。ゆるされて、という言葉に今をあらわす乏しさを感じるのだけれど。そして、インドにいた頃の話。バンガロールで子どもたちや先生に豊かな教育の在り方を伝えていたNGO「カタラヤ(語りの家)」。そこの代表、ラルーは、英語が下手だと投げ出そうとするたびに促す。「話してごらん、ぼくにはわかるよ。おなじ言葉を話していたってわからないことだらけなんだ。言葉ができるできない、ということと、伝わる伝わらない、ということは別問題さ」同じく代表をつとめるギータは言う。「宇宙は原子ではなく、物語でできている」。言語。言葉。物語。それを伝えるもの。著者は、電子書籍ではなく紙の「本」はシンプルで強靭で、文章を読むものとして完成したフォーマットだと言う。確かに。私は電子書籍のアカウントを複数持っているけれど、あちこちに作り過ぎてどこに何の本があったのか分からなくなってしまっているし、おそらくサービス終了してしまったものもあるんじゃないか。電子の本は、強いようで脆い。この本良いよ、と思っても貸したり譲ったりも出来ない。手に取って眺めることも。紙質を楽しむことも、インクの光による変化を楽しむことも。電子書籍になれば、装丁家という職業は存在し続けられるのだろうか。それは「表紙」を考える人、になるんだろうか。けれど電子書籍の表紙って、ほとんど覚えてない。なぜだろう。ただの「アイコン」みたいだからか。その本の「量」が目で見えないのも、電子書籍があまり好きになれないところ。手に取った時の重さと厚み。そして読み進めている時に栞を挟んで閉じた時の、この本における自分の居場所。私はこの瞬間がとても好き。これまで知らなかったことを知り、そしてまたこの先にこれだけ知らないことが残されてる。厚さにすれば数センチのこと。そこにいかに芳醇な物語が紡がれ、豊かな世界が広がっているか。ただ、インクが紙に載っているだけ。言葉が違えば意味さえもわからないそれらの曲線と直線。点や丸。それらが口を開けて喋り出す。饒舌にとめどなく、時に言葉を詰まらせて。私はそれを聞くことが出来る。文字が読めるだけで。本を開くだけで。なんて贅沢。日本では1日に200冊くらいの本が発売されているそうだ。(総務省統計局というところが年間の発刊数のデータを取っている。)私はこの数字を知った時、絶望的な気分になった。どれほど読んでも、読んでも。汲めども尽きぬほど本はある。新刊だけじゃなく、これまでに発売された本もあるのだ。私はいかに多くの本を読まずに死んでゆくのか。それが悔しくてならなかった。(私は出来るなら自分を複製して1日200冊読んであとから同期して統合記憶を持ちたい…。)図書館にしてもそうだ。本棚にびっしり詰まった本、本、本。何万冊も所蔵されたその本の、いったい何冊を読むことが出来るのか?先に紹介した総務省の統計だと、市町村立図書館の蔵書数は5万冊以上がもっとも多い。1年に300冊読んでも、5万冊読むには166年かかる。さすがに死んでる。著者によれば、こんなに大量の本が毎日出版される国は世界中にそうないらしい。ラオスやカンボジアは、紛争や政治の影響で編集者や作家が投獄され、本づくりが絶えてしまったのだそうだ。今、ようやくそれらの国では出版が再び育ち始め、年に100~150冊が出版されている。そうしたら、どうだろう。年に100冊の本。私はおそらく、そのすべての本を読みたいと願っただろう。1っ冊1冊を、喉から手が出るほど欲しいと思うだろう。大切に大切に、一文一文、一語一語を舐めるように読む。値段が高くても、食事を我慢してでもその本を買うだろう。何度も何度も繰り返し、同じ文章を角度を変えて読むだろう。日本では活字離れと言われ、出版や書店は滅びる運命だと言われている。けれど本当にそうだろうか、と著者は言う。必要な人が存在する限り、その人たちに届ける仕事は、なくならないのではないか。先の統計によれば、令和2年に発売された書籍新刊点数は、68,608点だ。途方もない数字だけれど、これはたぶんもう、「必要な人」に見合っていないんだろう。文字は溢れるのに、溢れるからこそ、本の売り上げは縮小する。その後に残るものだけで、やっていくことになるだろう。100冊の本。淘汰され、選ばれ、残されるもの。私は子供の頃から憑かれたように本を読んで来た。貪るように、追い立てられるように。知りたい。私は、ここに書かれていることが知りたい。ここに書かれている言葉をすべて、知りたい。ひらがなを、カタカナを、漢字を。ひとつひとつ読めるようになり、語彙が増え、それでも追い付かない。ぜんぜんだ。まだまだ、辿り着けない。世界の意味を。その秘密を。なぜ生まれ、生きて、死ぬのか。私はどうしてここに存在するのか。答えはない。ということを、私は知りたい。したり顔で口にした言葉を、顰め面で否定して欲しい。絶えず湧き起こる疑問に、堂々巡りの質問に、何度もぶちあたる。繰り返し繰り返し、「わかった」と「わからない」の間を行き来する。そしてふと、すべてに意味なんてないのだと、その虚しさに儚くなりそうな時。私を、ここに繋ぎ止めてほしい。言葉の限りを尽くして。ただの一言で。―――君は一人じゃない。僕がここにいる限り。だから、本を読む。私は食べるように、本を読む。何を食べたか忘れてしまっても、それは私の身体をつくっている。何を読んだか忘れてしまっても、それは私の頭と心になる。その本を世に送り出す人たちがいる。本とはたらく人たち。だから、炊きたてのご飯を前に、手を合わせて感謝の言葉を口にするように。いただきます。そして、ごちそうさま。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.09.04
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本のタイトル・作者91歳のユーチューバー 後世に伝えたい!家庭料理と人生のコツ [ 道場 六三郎 ]本の目次・あらすじひらめきの肉おかず ヘルシーとんかつ/鶏のから揚げ/豚バラと新キャベツの炒め物/簡単豚ちり/手羽の焼き蒸し/究極の肉じゃが究極の常備菜!お手製ソースとふりかけ マヨおろし/マヨポン/ふりかけじょうゆ/若草ふりかけ/山椒みそ /みそジャム/玉ねぎバター(通称:玉バタ) 目にうるわしい野菜料理 夏野菜 冷やし煮/なすのオランダ煮/絶品! 蒸しなす/ピース入白いポテサラ/グリーンピースのふくませ/卯の花煮/若竹煮/土佐煮/きのこの包み焼き/なめこ餡の揚げ出し豆腐/白菜サラダ/洋風筑前煮/たたきごぼうのごま汚し ささっと食べたいときにはコレ!ご飯・めん カレー炊き込みご飯/湯葉ご飯/親子丼/道場流ソーミンチャンプル ほっとひと息お茶受け3品 栗の渋皮煮/さつまいもクリーム羊羹/さつまいも茶巾道場流料理ワザ、炸裂!魚料理さばのみそ煮/しめさば/あじの風干し/あじ寿司/いわしのおろし煮/いわしの焼きフライ/いわしの卯の花和え/いわしのぬた/めざし酢炊き/さんまの山椒煮/ぶりキムチ/ぶりの照り焼き/ぶり大根/めばるの煮付け/かつおのたたき/塩辛パスタ/牡蠣のトマトみそグラタン/牡蠣の柚子みそグラタン/あさりと菜の花のバターじょうゆ炒め/はまぐりの酒蒸し/はまぐりとわけぎのぬた 今も変わらず作りたいお手軽ごちそう 豆腐ピザみそ仕立て/オクラ丼/さくらご飯/いかサラダ/あじ南蛮漬け /豚バラポン酢おろしあえ/梅そうめん/いわしのつみれ汁/さんまのワタ焼き/里いも柚子みそ田楽/菊花がゆ/白菜ロール巻き/豪快雑煮チーズ入り/焼きおにぎりの茶漬け感想2022年189冊目★★★著者は、1931年生まれの現役料理人。私は知らないのだけど、フジテレビの「料理の鉄人」の初代「和の鉄人」なのだそうだ。「91歳のユーチューバー」のタイトルから、そちらがメインで、街の洋食屋さんか何かで働いている方が、自分の料理をYouTubeにアップしているのだと思ったら違った。もともと色々書いてらっしゃるかたで、編集の人にYouTube配信をすすめられ、撮影がはじまったらしい。奥様が病気になられたときに身に着けたという「手早く、あるもので」出来る「家庭料理」を配信しているそう。なかなか「へえ」という組み合わせがあって面白かった。大根おろしにマヨネーズなどを加えた「マヨおろし」、みそにジャムと生クリームなどを加えた「みそジャム」なんか、斬新。ほかにもYouTubeで配信されている手軽な料理のレシピが多数。しかし私がこれを作るかと言われると、これですら私にはハードルが高い。この本で唯一私が作るかも、と思ったのは「カレー炊き込みご飯」。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、煮大豆に、レトルトカレーをそのまま入れて炊き込み!!すごい…その発想はなかった…。レトルトカレーの日は、ごはんを炊飯するときにじゃがいもやにんじんを一緒に炊いて、具にすることはしていたけど…。しかしあれだな、そしたら湯煎もしなくていいのか…。メイン感は薄れるけども。レシピ本を読むと「美味しそうだなあ」と思うのだけど、その過程でもう「ああ面倒くさそう」と思ってしまう。その面倒を必要なものとしてこなせる人だけが美味しいものにたどり着けるのか。だとしたら私は永遠にたどりつけないままだ。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.07.27
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本のタイトル・作者母親になって後悔してる [ オルナ・ドーナト ]"#REGRETTING MOTHERHOOD."by Orna Donath本の目次・あらすじ1章 母になる道筋2章 要求の多い母親業3章 母になった後悔4章 許されない感情を持って生きる5章 でも、子どもたちはどうなる?6章 主体としての母引用常に考えています。いつになったら終わるのかしら、ベッドに戻って本を読んだり、素敵な映画を観たり、ラジオの番組を聴いたりできるようになるのはいつ?そのほうが、私にとっては興味深く、私に合っていて、私らしいのです。庭仕事をしたり、落ち葉をかき集めたり……そのほうが自分らしいんです。ずっとそうでした。感想2022年183冊目★★★強烈なタイトルが気になって読んでみた本。著者は、イスラエルの社会学者・社会活動家。2011年、親になる願望を持たないユダヤ系イスラエル人の男女を研究した初の著書『選択をする:イスラエルで子どもがいないこと(Making a Choice: Being Childfree in Israel)』を発表。本書は2冊目の著書。翻訳され、ヨーロッパで大反響を得たそうだ。イスラエル(女性が平均3人子どもを産む)の宗教的な背景が分からないので、「母親になること」の圧力が日本とは違うのだろうなと思いながら読んだ。しかし、「母親になって後悔してる」ってグサッと胸にくる言葉だ。みんな思ったことないんだろうか?こんなはずじゃなかったのに、って。私は子どもと遊ぶのが嫌い。ずっと嫌いだったし、好きなふりをして子供好きを装ってみたけど、やっぱり嫌い。自分の子だったらなんて例外は存在しない。私はひとりで本を読んでいるほうが好き。子供の頃からずっとそうだった。私はちっとも変わっていない。まわりが私に求めるものが変わったのだ。本を置きなさい、さあ子供たちとままごとをして遊ぶのよ。自分勝手?母親失格?肯定せざるを得ないから肯定するのではなく、聴かせてほしい。母親になって後悔してる。どこかでそう思っていない?私にあった可能性、時間、そんなものすべてが、消えてなくなってしまった。一生消えない「母」というスティグマと共に。私は、「誰になんと言われようと、これが私の恋愛です [ 劇団雌猫 ]」を読んだときの、「結婚しなかった私も幸せだったはず」で、「それを平行世界で証明したかった」という言葉を思い出した。あるいは、韓国の小説で、母親になるというのはおでこに刺青をいれるようなものだ、という描写があったように思う。母親になることは、その代わりにすべてを差し出し、文字通り全身全霊、死ぬまで身も心も捧げ続けなければならない、ということを意味する。永遠の鎖につながれた奴隷になることを。こんなはずじゃなかったのに。そんなものだと思っていなかったのに。知っていたら、こんな選択をしなかったのに。産めよ増やせよ。国が口にするのはいつだって同じ言葉だ(この本では、2004年にオーストラリアの財務大臣が少子化と年金費用増加対策のためにもっと子どもを産むよう発言したことを取り上げている)。「国に利益をもたらすために子宮を捧げよ」そう言って来る奴らは、たいてい子宮がない野郎どもだ。女は、国が滅びるから子どもを産むのか?この本は学術書の体をとっているのだけど、その精度や内容については正直「?」と首を傾げざるを得ない。ただ、問題提起としては興味深い内容なので、ちょっとでもそう思ったことがある人にはおすすめ。国も年齢も宗教も違う人が、同じように感じていることに驚く。著者の選別する基準に、いくつかの質問がある。「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」「あなたの観点から、母であることに何らかの利点はありますか?」「あなたの観点から、利点は欠点を上回っていますか?」社会的圧力が、「子どもを持つこと」をデフォルトにする。それはチェックシートみたいなものだ。異姓の恋人はいる?チェック。結婚している?チェック。子どもはいる?チェック。次は男の子(女の子)ね――。私は結婚し、子どもを2人(女の子と男の子)を生んだとき、ぴたりと周囲の声が止んだのを感じた。そして同時に思ったのだ。これで、「もう誰にも何も言われなくて済む」のだと。それは社会が私に望むことだった。私は義務を果たしたわ。だからもう放っておいて。誰も私に口出ししないで!韓国の小説では、結婚した途端に社会が「ああしろ、こうしろ」と言ってきたと書いてあった。本の中でデブラという女性が言っているように、子供を持つということは「ある程度の仲間入りができて、人生が楽になる」のだ。子どもがいれば、もう最前線で戦わなくて済む。その義務を果たしたことで、強制的に「仲間」と見なされたとしても。模倣とパフォーマンスで「母親らしい母親」を演じながら、うんざりするほどそれを繰り返しながら。デブラは子どもを持つことは「社会への入場券」だと言う。簡単に仲間入りできるチケット。そしてそれを持っていれば、皆は身内と信じ疑いもしないのだ。またデブラは、自分を紹介する時に一番最後に「母である」ということが来るという。彼女は「自分の人生と日常の機能の中で、自分らしくない場所にいる」という後悔を感じている。でも子供がいることは後悔していない。そう、この本に登場するほぼすべての母親たちは、「母親になったこと」を後悔しながらも、「子供と出会えたこと」は後悔していない。この二つは別の物だ。私だってそうだ。著者は、子供は「垂直方向」に成長するが、母親は「水平方向」なのだと言う。母親であること、は一度ついてしまった染みのように二度と落ちない。それは死ぬまで続く。頭の片隅にずっと、ケアしなければならない誰かの存在がある。「キャリアウーマン」と「スーパーマザー」。「第1シフト」と「第2シフト」。それらの間でかじ取りをしながら、なぜこんなことになったのだろうと考えない人はいるんだろうか。産めよ育てよ。そして働け。明らかにそれは、過重で身勝手で傲慢な要求ではないのか?逃げ場所もなく、休憩をする隙も与えられず。それは奴隷とどう違うの?母親たちは、自分の子どもたちがこれを読むことがないようにと望む。口にすることは、子供の根幹を揺るがすことだから。母親になんてなりたくなかった。これを思い、願う母親の気持ちが、同じ母親として私は分かる。けれど自分の母が、あるいは夫が口にしたらどうだろう?私は「世間」や「社会」のように、彼らを身勝手だと断罪するのではないかしら。結局は私も、その枠組みの中にいるだけなのか。逃れられないまま。母親になりたくなった、というのとは違う。私は、自分にそう思う。このバージョンの私は試してみた。だから、次は違う人生を選んでみたいの。たとえば結婚しない。たとえば子供を持たない。そうしたら私の人生はどんなものだったろう。きっとそこには、「結婚したことを後悔してる」「独身だったことを後悔してる」バージョンの私がいて、それぞれ「そうでなかった私」を羨みながら生きている。母親だって、悪くはないよ。ただ、私らしくないものを大量に押し付けられるのにはうんざりする。私は私のままなのに。だから私は、入場券を手に入れて潜り込んだ「世間」に隠れて舌を出すんだ。私はままごとをしない。文句ある?↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.07.21
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本のタイトル・作者74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる [ ミツコ 牧師 ]本の目次・あらすじ第1章 74歳、ひとり暮らしに満足しています第2章 月7万円で十分に暮らせています第3章 寝たきり・認知症を遠ざけるための健康管理第4章 「働く」ことが日々の張り合い、元気の源に第5章 日常生活のひとつひとつを大切に第6章 くよくよ悩まずに生きるコツ引用誰かに何かをしてあげるのは、自分がやりたかったから。手を抜くと自分が気持ち悪いから、何事も一生懸命にやる。人のためではなく、すべては自分のためと考えます。感想2022年177冊目★★★「牧師ミツコ」って変わった名字だなあと思ったら、本当の「牧師」さんだった。信仰に裏打ちされたシンプルライフ。「清貧」と呼ぶにふさわしい暮らし。1946年に牧師の家庭に生まれる。8人きょうだいの5番目。高校卒業後に神学校に進学、卒業と同時に結婚。4人の子どもを育てながら、牧師の夫と47年間教会を運営。夫が病気で引退した後、10年ほど自身で牧師を務める。現在は引退し一人暮らし。週2回教会に通うほか、シルバー人材センターで家事の委託業務を受ける。年金7万円に、シルバーの仕事が月に2~3万円。収入の10分の1は献金へ回す。自分で「けっこうお金持ち」というつましい暮らし。公営住宅の家賃が6,000円というのは大きい。健康保険と介護保険も減額、住民税と所得税は非課税。7万円の範囲内でやりくりされている。それでも10%を献金に回すって、すごいことだよなあ。私なら絶対できない。全体が低く抑えられているから、スマートフォン代が7,000円は高いなと感じる。教会の方と電話をすることが多いからというけど、掛け放題みたいなプランには入っていないのかな。74歳で元気に働き、ひとのために動いてらっしゃる。本人は特に「よく寝る」こと、特に「できるだけ昼寝をする」ことを重視されているそう。これ、耳が痛い。慢性的な寝不足だもの、私。よくないよな…。日野原先生の真似をして始められたという、「朝ごはんにトマトジュースに大匙1杯のオリーブオイルを入れて飲む」。昼には肌がツルツルになるそう。え、それやってみたい。笑古い箪笥も壊れるまで使う。モノはすべて、寿命を全うするまで。ポイポイ物を捨てている自分としては、そういう暮らしをしたいです。母の日や誕生日に欲しいものを訊かれたら、「あなたの好きな花を一本ください」とお答えになるそうだ。なんて素敵な回答だろう。「わたしの好きな」花じゃなくて、「あなたの好きな」花なんですよ。相手のためにあれこれ気を配り、想像を巡らせることこそが、贈り物をすることの意味なんだと思ってた。でも、その気遣いは不要です、と返す。私のことであなたを煩わせたくないの。かわりに、あなたの好きな花を教えて。それがあなたをもっと知ることになるから―――。ああ、素敵だなあ。いいなあ、こういう人になりたいな。著者は71歳から水泳を始められた。あちこちに新しい言葉のメモを書いておく。年齢を言い訳にしないんだな。すごいな。「何かをする時に人のためじゃなくて、自分のためにやっていると考える」というのは、私に必要なマインド。つい「私ならここまでやるのに」と考えてモヤモヤしたり、苛々したりする。相手は自分じゃないのにね。勝手にハードルを上げて相手をジャッジして、不合格の印をついている。でも「私なら」の仮想の自分は、現実の自分とはかなり乖離していたりもする。そんなたいしたもんやないで、自分。相手のために、とやった時は、その矢は一方通行でなく曲がって自分に返ってくるものだと考えよう。見返りは求めないように。「私はこんなに頑張ってるのに!」と思っちゃうけど、それは自分がやりたくてやっているだけ。誰かがそうして欲しいと言ったのか?NO。それをやると決めたのは、自分自身。だから自分のためにやろう。自己満足だから、自分が納得するように。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.07.15
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本のタイトル・作者壁とともに生きる わたしと「安部公房」 (NHK出版新書 675 675) [ ヤマザキマリ ]本の目次・あらすじ第1章 「自由」の壁ー『砂の女』第2章 「世間」の壁ー『壁』第3章 「革命」の壁ー『飢餓同盟』第4章 「生存」の壁ー『けものたちは故郷をめざす』第5章 「他人」の壁ー『他人の顔』第6章 「国家」の壁ー『方舟さくら丸』引用その人の想像力を形づくる土壌のようなものが、どんな成分の土でできているか。そこにどんな植物や作物が育つか。子供のうちから人間社会の容赦ない不条理さやひどさを目の当たりにしてきた人は、その土がよく耕されているので、いろいろなものが栽培できる。しかし現代の多くの子どもは、土地が痩せているどころか、土に触れさせてさえもらえない。これをしてはいけない、あんな人と付き合っちゃダメ、そんなもの読んじゃだめと無菌状態のような教育を受けている。それでは土のいらないエアープランツみたいなものしか栽培できないだろう。感想2022年176冊目★★★ヤマザキさんがこれまであちこちの媒体に書いて来られた安部公房にまつわる原稿をまとめた一冊。これまで何作かヤマザキさんの著書を読み、そういえば何回か安部公房が好きだと言及していらしたな…と思ってこれを読んだら度肝を抜かれた。好きというかあんたこれ。なんかもう、研究者的なことになってるんですけども。私は安部公房といえば、たしか友人に薦められて高校時代に「箱男」を読み、「いや私の好みではないな」と一作で読むのを止めた覚えがある。ヤマザキさんの熱弁をもってしても(だからこそ)「私の好みではないな」と読む気が起きなかったのだけど(ごめん)、作品について詳しく紹介してくださっているので、「ほうほう、そういう話を書いていた人なのか」と興味深く読んだ。安部公房が他の言語に多数訳されているというのも初めて知った。そんなに海外でも有名で評価されていたのか。まあ、私はおそらくこれからも安部公房を読まない気がするのだけれども(ほんまごめんやで)、合間合間のヤマザキさんの語りが楽しくて、一冊まるごと読み終え、ちょっと安部公房の作品観を覗けた気がする。しかしヤマザキさんの語彙力と文章の巧みさよ。漫画家やと思うてちょっと舐めてたわ。凄いなこの人。ヤマザキさんの内容紹介で、私が読みたいと思ったのは『砂の女』と『方舟さくら丸』かな。「つくりあげることに熱中して、出来上がったら即壊れる」と称される安部公房の作品のつくりも体感してみたい。私が現代っ子だからなのかもしれないけれど、ヤマザキさんが仰る安部公房の「臭い」が受け付けなかったのだと思うんだよな。ヤマザキさんは村上春樹の洒落た言い回しやなんかと対比されていたけど、私は物語に「臭い」を感じたくないのだと思う。フィクションはフィクションとして、その世界の中に留まっていてほしい。無臭であってほしい。あるいは馨しいもので。それは水洗便所の普及とか病院での死亡が当たり前になったこととか、そういうものも含めた「臭い」なんだと思う。生の汗臭さも、死の腐敗臭もない世界。それは引用部のヤマザキさんが言う土壌を持たない「エアープランツ」なんだろうか。蛇足にすんごいどうでも良い話をすると、この本には安部公房が貧しい人を描き、本人もまた極貧の生活を送っていたこと、イタリアで同様に極貧生活を送っていたヤマザキさんが彼に共感したことが書かれているんだけど、そこでヤマザキさんが食べていたという「オリーブオイルに塩だけのパスタ」が美味しそうで作って食べました。(これ、『ムスコ物語』でもたしかお話しされてましたね。)おいしかったです!オリーブオイルって何でもおいしくしちゃうんだな。おそろしいこ。これまでの関連レビュー・生贄探し 暴走する脳 [ 中野信子×ヤマザキマリ ]・妄想美術館 [ 原田マハ×ヤマザキマリ ]・養老先生、病院へ行く [ 養老孟司×中川恵一 ]・ムスコ物語 [ ヤマザキマリ ]・たちどまって考える [ ヤマザキマリ ]・ヤマザキマリの人生談義 [ ヤマザキマリ ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.07.14
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本のタイトル・作者60代ひとり暮らし 軽やかな毎日 (TJMOOK) [ ショコラ ]本の目次・あらすじ・お金のこと、家のこと 身の丈にあった無理をしない暮らし・「老全整理」で残りの人生を心地よく・60代ひとり暮らし 時間の使い方・毎日を上向きに 心とからだ 自分メンテナンス・食費月2万円のおいしい生活・大人のメルカリ、ヤフオク!術・日々の満足・これからの暮らし計画感想2022年169冊目★★★シニアブロガーとして有名なショコラさんをまるごと一冊特集したムック本。いやあ、ブロガーさんで1冊特集本組まれるってすごいですね…。著者は息子さん2人がいらっしゃって、42歳のとき別居、5年後に離婚。パートから、営業の正社員になり57歳で退職。ローン完済後、現在はパート勤務。持ちマンションで一人で暮らしてらっしゃる。働き方のシフトも含め、今後を見据えていくときに「ほおおお」となる先達。月火と木金勤務、いいなあ。私はもう現代の人間はそんなに働かなくていいんじゃないかと思っていて、1日6時間の週30時間労働、もしくは週4日の32時間労働にシフトしてほしいと願っている。無理?いやでも、昔は土曜日も働いていたじゃないですか。学校もあった。半ドンという言葉にお聞き覚えは…?笑で、週休5日なって(2002(平成14)年4月から学校は完全週休2日になったそうだ)、はや20年。そろそろ、次の段階に進んでも良いんじゃないだろうか。水曜日!!!水曜日を休みにしてくれ!!!!!家の間取りが変わっていて素敵。狭く見えないし、明るい。モノが少ないわけじゃなくて、適度にあって、どれも選び抜かれていてオシャレ。飴色のライティングビュローいいなあ。素敵。アラビアのお皿も素敵。イッタラのカステヘルミ、アラビアのトゥオキオとパラディッシは定番だけど、何度見てもうっとりする。いいなー!!お金貯めてコツコツ集めてらっしゃるそうなんだけど、こういうお金の使い方(日々の暮らしへの投資のしかた)見習いたい。人生の先輩として、特に著者の収入と支出の内訳は参考になった。○収入(200,000円) ・パート 80,000円 ・企業年金&厚生年金 55,000円 ・国民年金 65,000円○支出(120,000円) ・固定費 56,649円 ・変動費 35,580円 ・食費 20,000円ほかの特別出費は予備費から。これで十分暮らしていけるんだもんな。老後の資金にいくら必要か…と思うと、莫大なお金が必要な気がするのだけど、ぼちぼち働きながらつましく暮らしていけば大丈夫だ。60歳くらいだと、生活保護費が11万円~12万円(計算してみた)。「健康で文化的な最低限度の生活」を送るのに必要なのが、その金額。それさえ確保できれば、なんとかやっていけるという立証だ。著者は日々の暮らしを楽しんでらっしゃるし、メリハリのついたお金の使い方をしているんだなあと思う。著者のようにアマゾンプライムに入っていれば、お金をかけず文化的にはかなり満たされるしね。サブスクにより、かなりそういったコストは下がっている。著者は、25年ぶりにピアノを始められたそう。電子ピアノを買うわけではなく、貸しスタジオで時間単位で借りて練習をしている。30分550円。「老後とピアノ [ 稲垣えみ子 ]」の稲垣さんも、ピアノがない状態でずっとピアノを練習していらした。「ないから出来ない」って、言い訳に過ぎないんだよね。楽しく生きていこう。それにはお金は、もしかしたらそんなにいらないんじゃないか。あるに越したことはない。でもなくても、幸せに生きていける力を、身に付けたい。これまでの関連レビュー・58歳から日々を大切に小さく暮らす [ ショコラ ] ↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.07.07
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本のタイトル・作者まだ誰も見たことのない「未来」の話をしよう (SB新書) [ オードリー・タン ]本の目次・あらすじ第1章 デジタルで世界はどう変わっていくか第2章 これからの「社会」の形を考えるー「ソーシャルイノベーション」を通じて、皆が参加できる社会へ第3章 世界と私たちの未来第4章 これからの未来を創る皆さんへ引用「素養」の話の続きに、私が16歳の頃に出合った「ハッカー精神」という概念を紹介したいと思います。当時の私は非常に大きな啓発を受け、母に向けてこう言ったことがあります。「互いに助け合い、力がどんどん強くなることで、お互いを疑う気持ちは小さく削られて行くんだよ」――。感想2022年161冊目★★★オードリー・タンに関する本、4冊目。これは表紙がカッコイイ。これまでの本の内容と重なるところが多かったけど、「SDGs」についての話は初めて。オードリーのジョブディスクリプション(職務記述書)にこの人が何を目指しているのかが明らかだなと思う。自分の仕事について、何をするか、何をしたいのか、こんなに明確な提示を出来ているか?ないなあ。組織の歯車に甘んじて、それを隠れ蓑にしている。オードリーは、アメリカの有名なプログラマー、エリック・レイモンドの『どのようにハッカーになるか(How To Become A Hacker)』を紹介していて、その「ハッカーにとって大切な5つの心得」が良い。①この世界には、非常に多くの面白い問題が私たちを待っている。②あなたが一つの問題を解決した後、他の人が同じような問題で時間を無駄に使うことのないよう、自分が思いついた解決方法をシェアしよう。③単調でつまらないことは、人類がやるべきではない。機械を使って自動化しよう。④私たちは自由とオープンデータを追求する。どんな権威主義にも抵抗する。⑤自らの知恵を差し出し、勤勉に鍛錬することで絶えず学習する。知識を抱え込むことが権威になっていた時代。情報にアクセスできる人が階級や所得で制限されていた時代。知識はそのまま、力だった。隠し持ち、囲い込む。そしてもったいぶって開示し、選ばれし者に与える。知識と階級の固定化。でも今は、それを皆が手にすることが出来る。望めばいくらでも。オードリーは、インターネットでは限界効用(1つのものを追加したときにかかる費用)が限りなくゼロであることについて触れている。だからこそインターネットの世界では、皆が助け合い、知識を共有することが出来るのだと。ツイートの「シェア」には、時間もお金もほとんどかからない。かつてこんなものがあっただろうか?SDGsについて考える時、それが「持続可能な」という枕詞をつけていることに私は絶望的な気分になる。だってそれは、今の私たちの暮らしが、生活が、生きていること自体が、「持続不可能な」ものだとあからさまに眼前に突き付けられることの裏返しだから。でもいったい、どうしたらいいの?全ての問題を解決することはできない。豊富な物資と快適な生活を享受しながら―――問題を未来に先送りして。それを背負わされる子どもたちのことを思うと、暗澹とした気持ちになる。オードリーは、私たちがすべての問題を解決しようと何もかもを決めてはいけない、という。私たちがするべきなのは、「未来の可能性を奪わないこと」なのだと。そのために「できるだけ取り返しのつかない変化を起こさないようにすること」。軌道修正して、リカバリできる余地を残しておくこと。今、この瞬間に、この時代でけりをつけることはきっと出来ない。でもそれで無気力になるのは、あとは野となれ山となれと匙を投げるのは、違う。オードリーはレナード・コーエンの歌『Anthem』を紹介する。「まだ鳴ることのできる鐘を鳴らそう。(Ring the bells that still can ring.)」完璧さを求めるのはやめよう、すべてのものには裂け目があり、そこから光が差し込む。少しずつ少しずつ、私たちは変わっていけるはずだ。昔と比べてみて―――うんと変わったはず。できるならそれを、良いほうへ。余地を、可能性を、たっぷり残して。まだ誰も見たことのない「未来」のために。○知らなかったことば抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)…兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」自分の未熟な意見をまず述べて他人の価値ある意見を引き出す立派な意見を引き出す呼び水とする(wikipedia)竭澤而漁(jié zé ér yú)…澤,水流匯聚的地方。「竭澤而漁」指排盡澤水捕魚。比喻取盡所有,不留餘地。(国家教育研究院)→魚を一度に取ってしまうと二度と魚を取れなくなってしまう。これまでの関連レビュー・オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学 [ 早川友久 ]・天才IT大臣オードリー・タンが初めて明かす 問題解決の4ステップと15キーワード [ オードリー・タン ]・オードリー・タンが語るデジタル民主主義 [ 大野和基 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.06.28
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本のタイトル・作者わたしが先生の「ロリータ」だったころ 愛に見せかけた支配について [ アリソン・ウッド ]"BEING LOLITA : A Memoir"by Alisson Wood本の目次・あらすじ17歳だった「わたし」は、自殺願望と自傷行為で医者にかかっていた。鬱。気分障害。不眠症。薬物治療。高校二年生でまったく学校へ行けなくなり、三年生で支援スクールへ転校。そして普通学校でもう一度高校三年生を過ごすことになる。書くことで自分を解放していた「わたし」は、文章指導にニック・ノースという27歳の英文学教師を付けられる。彼は、愛読書『ロリータ』にわたしたちの関係をなぞらえる。教師と生徒。大人と子供。ロマンティックな秘密の恋愛。それは「わたし」が18歳になっても、大学へ進んでも続いた。「わたし」がそれは愛ではなく、依存と支配、暴力に満ちた虐待だと気付くのは、それからもう十年も先のことになる。第1部 ニンフ第2部 囚われの身第3部 解剖引用わたしの身体はどんどんわたしを裏切っていった。丸みを帯びていくヒップ、月経、膨らんでいく乳房に現れた紫のマーカーのような肉割れ。そういった変化とともにわたしを見る男性の目も変わっていった。もしそれが「力」だとしても、子どもの身体と引き換えに手にする価値があるのかわたしにはわからなかった。わたしは子どもの安全地帯と性の力を同時にほしがっていた。どちらも手放したくはなかったのだ―――人生でも身体でも。感想2022年141冊目★★★著者は、作家であり英文学講師。これは初作品にして、メモワール的自伝。翻訳は『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』の服部理香さん。私は男性の方がうんと年上の、大人と子供の恋愛、歳の差モノに抵抗がない。先生と生徒の話なんて、少女漫画で山ほど読んだ。紫の上系(自分好みに育て上げる)BLなんかも大好物。そうして洗脳済なので、読み始めは「何がいけないの?」という感じだった。愛があれば年の差なんて―――というわけだ。少女の側から見れば、それはロマンチックな物語。はやく一人前になりたい少女は、大人である相手から求められることで承認される。私は大人なのだ、と自尊心が満たされる。でも違う。この作品で、「わたし」は後に教師となり、生徒が当時の自分と同じ年ごろであることに気づく。そして、当時の自分の写真を見返して思うのだ。大人ぶって、じゅうぶん大人として通用していると思っていた。けれどそこに映っていたのは―――痛々しいまでに孤独な目をした「子ども」だった。その時の傷ついた彼女が求めていたのは共感者であり導き手であり、そこに付け込んで彼女の未熟さを食い物にする男ではなかった。その教師は、彼女の脆さを、幼さを、利用しただけだ。罠にとらえ、檻に閉じ込めるように。自分の物語を、憧れの『ロリータ』の世界を彼女に押し付けて、縛り付けた。君は未熟だ。不完全だ。間違っている。欠陥を抱えている。僕の方が君より賢い。大人の僕が言うことは正しい。僕に従え。僕の言うことを聞け。偏執的なまでにナボコフの『ロリータ』に拘泥する教師。ハンバートが彼の手本であり、彼女は彼の「ロリータ」だった。作中何度も繰り返し『ロリータ』が登場するので、原作を読んでみたくなった。ハンバートはロリータを本名で呼ばないのだと言う。あくまでも愛称で、「ロリータ」と言う。この作品でも、教師ニックがアリソンの名前のつづりを間違える場面があった。彼にとって彼女は、物語の一部、都合のよい記号に過ぎないのだ、と感じるエピソードだ。物語の中に生きる間は、自分が何の物語の中にいるか知ることが出来ない。彼女は大学へ行き、徐々に関係性の綻びに気付いてゆく。愛だと信じていたものは、果たして愛なのだろうか?けれどその愛を否定してしまえば、わたしには何が残るだろう?彼と別れて十五年後、彼女は蝶を買う。さなぎから蝶へ。子供から大人への変身のメタファー。私は、子どもの頃のことを思い出した。小学3年生か、4年生の頃だ。クラスの担任は大学を出たばかりの若い女性だった。蝉―――。初夏の頃だったんだろう。誰かが、蝉の幼虫をクラスに持ち込んでいた。羽化が始まったところを誰かが触ろうとして、彼女はひどくその子を叱り、そして泣き出した。私にはずっと後悔していることがあるの、と彼女は言った。子供の頃、羽化が始まった蝉の羽根があまりにきれいで、手を触れた。羽根はぐにゃりと曲がってしまい、二度とまっすぐには戻らなかった。蝉は飛べずに、死んでしまったの。私たちは神妙な顔でそれを聞き、蝉は教室で翡翠色の姿を現した。そしてそのまま飛び立って行った。羽化したばかりの幼虫は、成虫のようであるだろう。しかしそれは柔らかく、力を加えればすぐに形を変えてしまう。あるべき姿から、無理やりに。彼らはまだ、子どもなのだ。私はこの本を読んでいて、そのことを思い出した。アリソンはまだ、形の定まらないやわらかな少女だった。彼女を『ロリータ』にしたのは、彼女の憧れた教師だった。愛に年齢は関係ないのだろう。けれどそれは、お互いが大人である場合に限る。やわらかないきもの。自分がそれに、いともたやすく力を加えられるとしたら。簡単に操ることができ、支配下に置くことが出来るとしたら。人間の嗜虐性の発露。『ロリータ』はおそらく、そのような文面で読まれるべき物語なのだろう。アリソンは大学で学び、『ロリータ』の解釈を違った角度から―――不適切な欲望と虐待の物語だと知る。彼女は初めて、物語の外へ出る。自分が知らずに演じていた舞台。その陳腐さと、滑稽さに気付く。目を覆ってきた嘘が、暴かれる。「学ぶこと」が彼女を解放する。演じ手がその役を拒否した時、物語は終わる。幕は開いたまま、しかし台詞はもはや読み上げられず、相手はぽかんと口を開けるのだ。そして激昂する。自分の舞台を台無しにしやがって―――。彼女が生き延びて今は文筆家をしていて、教師になっていること、ほんとうに嬉しく思う。彼女は自分の言葉で語る。ほかの誰かが同じ物語に組み込まれないように、その虚偽を暴く。彼女は自分の力で飛ぶ。強く。遠くまで。その羽根が曲がったまま大人になっても。これまでの関連レビュー・三人の女たちの抗えない欲望 [ リサ・タッデオ ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.06.08
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本のタイトル・作者戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫) [ スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ ]本の目次・あらすじ第二次世界大戦中、ドイツとの戦争に従事した百万人のソ連女性。戦後、口を噤んだ彼女たちの声を、著者は聞き取る。広大な国土の隅々から集められた、五百人を超える戦争の物語。そこに、英雄はいない。引用それにしても、なぜ?幾度となく自問した。女たちはかつて、男ばかりの世界で自分の地位を主張し、それを獲得したのに、なぜ自分の物語を守りきらなかったのだろうか?自分たちの言葉や気持ちを。自分を信じなかったのだろうか?まるまる一つの世界が知られないままに隠されてきた。女たちの戦争は知られないままになっていた……その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。感想2022年冊130目★★★★★著者は、1948年ウクライナ生まれ。国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む。2015年ノーベル文学賞受賞。よくフェミニストの本で引用されるので読んでみたかったのだけど、今回ロシアのウクライナ侵攻と、2022年本屋大賞 『同志少女よ、敵を撃て』がここらへんを題材にしているみたいだったので、この機会に読んでみた。凄まじかった。本当に言葉がない。500頁くらいあるのだけど、夢中になって頁を繰る手が止まらなかった。あちらこちらから聞こえてくる、ちいさな声の集合体。さんざめくような、歌うような、呻くような。木漏れ日がちらちらと陰を落とすように、波が浜に寄せては返すように。私は漠然と、従軍というのは徴兵制度を指しているのだと思っていた。社会主義の国では、男女の別なく兵を募っていたのだと。違う。彼らは、共産主義の理想の旗を掲げるため、ファシズムを打ち破るため、自ら志願した。長いおさげ髪で、大学生で、ハイヒールを履いていて、妻で、娘で。どこにでもいる、勇敢でもない、ふつうの女たち。その人たちが、自分たちを売り込むため、最前線で銃を持って戦うため、直訴し、汽車に隠れて乗り込み、戦いへ向かった。男ばかりの戦場は、はじめ狼狽えた。君たちは女の子じゃないか。こんなところへいてはいけない。けれど彼女たちの意志は固い。戦うのだ。思想を、国を、家族を守るために。髪は白くなり、血に塗れる。死ぬ。毎分毎秒、ひとが死ぬ。彼女たちは戦う。凍てつきながら。銃を持ち、洗濯をし、パンを焼きながら。戦勝記念日をプーチン大統領が利用した、と憤っているロシア人のニュースを見て、私は不思議だった。でもこれで分かった。彼らにとって、戦勝記念日がどれほどのものなのか。何に値するのか。ファシズムと戦い、勝利した。村ごと生きながら焼かれながら、娘のスカートの下に爆弾を仕込みながら、勝利した。勝利!彼らは思う。武器や兵器は、未来永劫すべて廃棄されるだろう。わたしたちの後に生きる人は、なんて幸福なのだろう―――。けれどどうだろう?今のこの状況は?彼らの犠牲は何に報いたのか?勝利した彼らは、ドイツに入って驚愕する。レースのカーテン、魔法瓶のコーヒー、自動洗濯機。土豪で凍えながら暮らしていた自分たちとは、なんて違うのか。憎いドイツ人のファシストたちの顔を見てやろうと思っていたのに、そこにいたのは。ふつうの、人間だったのだ。戦争のなかにある、残虐で目を覆いたくなる行為の数々。そしてそれと同じように存在する、慈悲深い愛の行為。人間の本質はどちらなのだろう?著者は、「「姿が見えなければ、痕跡は残らない」なんて悪魔に思わせないために」話してくれと彼女たちに頼む。私たちはそこから何を学んだのか?ふと、怖くなる。私が今生きている日常は、戦争と戦争の間の小休止に過ぎないのではないか。戦争こそが人の世の常態で―――ほんのこの数十年だけが例外だったのではないか。これまでの関連レビュー・ベルリンは晴れているか [ 深緑野分 ]・熱源 [ 川越宗一 ]・タタール人少女の手記 もう戻るまいと決めた旅なのに [ ザイトゥナ・アレットクーロヴァ ]・羊は安らかに草を食み [ 宇佐美まこと ] ・インビジブル [ 坂上泉 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.05.27
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本のタイトル・作者男と女の台所 [ 大平 一枝 ]本の目次・あらすじ男と女の台所・同卓異食は終わりの始まり・与えられ、失われ、見守られ、愛される・人気フードブロガーの恋・結婚五四年。団地暮らしの夫婦のものさし・路上生活夫婦のあるきまじめな日常・離婚。味覚をなくした先に……・ていねいになんて暮らせない・四○代。家庭内クライシスの先にみつけたもの・彼女と彼女の食卓・古民家の台所で今日も彼は・少しずつ母になってゆく記・二十八歳彼が四十一歳彼女に作る豚の角煮・トルコ、団欒の手がかり・築五〇年の文化住宅が教えてくれた暮らしの音・空間が教える夫婦の相性・“家”と結婚。母子ふたりの料理天国・九二歳、祈りの中で生きる作法料理家の台所・インディペンデントー。フランスの恋で学んだ人生のルールー柳瀬久美子さん・考えすぎない幸福ーサルボ恭子さん)台所見てある記①仲睦まじい夫婦は日本酒をよく飲む!?②その後の恋の話あとがきにかえて引用女はあちこち頭をぶつけ、ころんだり、起き上がったり、歩いたり、戻ったりしながらだんだんお母さんになり、ようやくコツを摑み、一人前の母になれたと思った頃には子どもが巣立っている。感想2022年103冊目★★★★(有)いわた書店さんの「一万円選書」2冊目。(2022年1月に読んだ本まとめ/これから読みたい本)これは、良かった。ただしい暮らし、なんてなかった。 [ 大平一枝 ]を読んだときに、「この人の書くものが好きかも知れない」と思ったけれど、好きだ。他の本も読みたい。家族の形態、生活様式もさまざまな、19人の台所。薄暗がりの中からほんの少し見えた、ドアの隙間。そこに人生がある。短編の小説を読んでいるような気がする19編。台所は、不思議だ。吉本ばなな『キッチン』を洋書で読み返して、改めてキッチン(台所)になぜこれほどまでに惹かれるのか、と考えていた。それは家庭の心臓のような場所。家じゅうに新鮮な血液を送る。洗濯や掃除と違って、家庭や母親のイメージが台所と結びつきやすいのは、「食べること=生きること」だからだろう。それは、育てること、でもある。摂食障害の本を読んだときに、「拒食・嘔吐は母親の愛情の拒絶・否定」とあったことをよく覚えている。食べさせることは、愛を与えること。だからそれを―――拒む。全身で。命を懸けて。残業して帰る電車の中で引用部分を読んで、ぼろっと大粒の涙を零してしまった。無我夢中で、日々を送って行くだけで精いっぱいで、そうこうしているうちに子どもが大きくなって手を離れてしまうのだろうな。いつかこの「今」を、私は大金を積んでもあの頃に戻りたいと、願うのだろうか。ごはんを作る。食べさせる。毎日毎日。台所に立つ者たちは、当たり前にそれを繰り返す。時にひとり、涙を流しながら。前に読んだ本に、「親が死んだ日も、次の日には飯を食った」というような一文があった。その時に思った。かなしみはかなしみのまま、胸に凝る。喉につかえたような、それをそのままに。それでも、腹は減る。飯を食う。ご飯を炊く。日常の暴力が、すべてを薙ぎ倒していく。その繰り返しの強さは、何にも負けない。私が台所に惹かれるのは、だからかも知れない。このままでいいのだろうか、と悩む。このままではいけないのではないか、と問う。それでも、今日も、ごはんを作る。食べる。食べさせる。「今できること」を淡々とやっていく。目先のことを、手を動かして片づける。小さなこどもは、どんどん大きくなる。ただただ、健やかであれかし、と願う。「当たり前」を飽くほどに繰り返して。その強さに打ちのめされて支えられて。親が死んだ次の日には飯を食ってくれ。これまでの関連レビュー・ただしい暮らし、なんてなかった。 [ 大平一枝 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.04.29
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本のタイトル・作者山中教授、同級生の小児脳科学者と子育てを語る (講談社+α新書) [ 山中 伸弥 ]本の目次・あらすじ第一章 「ほったらかし」が子どもを伸ばす第二章 親子で「ええかっこしい」をやめる第三章 良い習慣が脳を育てる第四章 常識を疑える子どもに育てる第五章 レジリエンスを身につけさせる第六章 しぶとい子どもは目線が違う引用成田 ところが、障害のある方から言わせると、そもそも普通にできないことが多いわけだからそんなの絶対無理だと。じゃあ「自立って何ですか?」って尋ねると、「自分ができないことをちゃんと理解して、誰かに『助けて』って言えること」とおっしゃるの。山中 なるほど。障害がなくても「できないこと」はあるし、「できない時」もあるよね。僕らみんな常に心も身体も元気だとは限らない。感想2022年093冊目★★★神戸大学の医学部で同窓生だった二人のリモート対談。(どうでもいいけど、山中教授のほうがいくら知名度があるからといって、タイトルにちょっと悪意を感じるんだけど。「同級生の小児脳科学者」って。名前ないんかい。)ふとしたときに学生時代に戻るような、関西弁が出てしまうような、そんな関係性がとても良かった。短いし、文章量もすくない本なのだけど、なかなか興味深かった。ただし、本人の「子育て」というよりは、「自分がどう育ってきたか」がメインな感じ。二人とも塾に行かずに神戸大やからね…元々かしこ(賢い子)やねんな…。「問いを立てる力」が必要、というのは納得。成田さんは、15歳の時に「大草原の小さな家」のドラマからアメリカに憧れ、原作も原著で読み、英語でドラマを見ていたそう。アメリカ留学した時は英語にほぼ困らなかったそうだ。すごい。成田さんが仰るには、脳を育てるには「早寝早起き朝ごはん」(文科省のスローガンやん)が大事らしい。うちの子、既に早寝早起きが出来ていない…。引用部の、「助けてと言えることが自立である」というの、ああそうかと思った。私、たとえばものすごく重い荷物を持っていたり、ひとりでは大変な出来事があっても、「自分が我慢してひとりで頑張ればいい」という思考なんですよ。誰かに「助けて」「荷物を持って」って言えない。無駄にプライドが高いのもあるんですが、「一人で何とかしないといけない」「助けを求めてはいけない」が染みついている。夫と付き合い始めた時、たくさん買い物をした時に荷物を持ってくれようとするので、「なんで?!」ってなりましたもん。「お前に持ってもらう筋合いないけど?!」笑でも夫に言わせると、「どうして?重そうだから持つよ」っていう、それだけ。「重いんだったら言えばいいのに」って言われて、目から鱗がぽろぽろ落ちた。逆に夫も「持って」とか普通に言って来る。ああ、こういう関係性は構築し得るのか、と驚いた。それから結婚して、いっぱい「助けてを言えない状況」に爆発して、もう今はだいぶ「助けて」を(というよりは「やって」を)言えるようになりました。逆に、「どうしてそんなこと言うの?嫌なんだけど」とかもね。ずーっと、そういうことは言ってはいけないのだと思っていた。私、自立してなかったんだなあ。本の中では、続けて「助けて」を言える力を育てるには、周囲が「いつでも助けるよ、大丈夫だよ」って周囲が伝えることですと成田さんが仰っていて、「ああこれ、『我は、おばさん』の「おばちゃんのアメちゃん」で言ってたことと同じだ!」と気付いた。私はここにいる。あなたに気付いている。あなたが助けを求めたら、いつでも出来ることをしてあげる。出来ないことは、他の人を呼んできてあげる。主体的になることって、他者の「自立」を支えることだったのかー。成田さんはお母さんとの間でかなり葛藤や軋轢があって、ご自身が子どもを育てる時には、「してもらって良かったことをして、嫌だったことはせずにしてほしかったことをする」を心がけていたそう。なかなか難しいよね…。気付くと親と同じことをしているもの。そしてそのことに気づいてぞっとする。いつまでやり直しがきくのか、もう私はやり直しがきかないのか、と思ったりする。それでも、過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ。未来は今の積み重ね。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.04.19
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本のタイトル・作者やりたいこと、全部やりたい。自分の人生を自分で決めるための方法 [ 立花佳代 ]本の目次・あらすじ第1章 自分もまわりも幸せになるには第2章 やりたいこと、全部やるために第3章 やりたいことをあきらめない第4章 いま、ここからはじめよう引用仕事も生活も、すべてを含めて自分の人生だからです。仕事と生活のどちらが大切かではなく、どちらか一方の楽しさや充実度、あるいは責任や覚悟のあり方を強調するのでもない。ただ、仕事はわたしの人生といつも一体になっていて、決して切り分けることができなかっただけです。楽しさや苦しさがない交ぜになった仕事の時間は、わたしの歩んでいる人生に彩りを添えてくれています。感想2022年079冊目★★★タイトルに惹かれて読んだ。著者は、1966年生まれ。エシカルアクセサリーメーカー「スプリング」の代表。インドの小さな村で自社工場をつくり、オリジナルのアクセサリーを作っている。神戸で小売店を営む親のもとに生まれ、過酷な子供時代を経て渡英。23歳で結婚、27で離婚。シングルマザーとなり、商売を始める。韓国へ直接仕入れに行き、そのうちインドへ目を付ける。高い工芸の技術力を買って商品を作ってもらうが、送られてきたのは土埃に塗れた不良品…。そこから「日本で売れる商品」まで持って行く。バングラデシュで鞄を作り始めた、MOTHERHOUSEの山口絵理子さんの『裸でも生きる~25歳女性起業家の号泣戦記~』を読んだときのことを思い出した。この本は、韓国やインドの現地の話よりも、著者の半生がメイン。著者は自分を「臆病」と言うけれど、それは単なるリスク管理であって、ばりばりにバイタリティ溢れてる。やはりここまでの気概がないとあかんのか…と思った。極寒の冬の韓国の路上でものを売る人たちを見て、著者は「甘かった。自分は恵まれている」と感じたけど、私はこの本を読んで「私って甘ちゃん…」と思った。激甘だぜ。・半径1メートルのSDGs・一生懸命に働くこと=真剣に自分と向き合うこと・失敗しても黙って立ち上がり、ひたすら前へ足を踏み出す・仕事に丁寧に向き合い、共有することで仕事の質が変わっていく・子育て3種の神器は「手作りのご飯」「添い寝」「一緒にお風呂に入る」ここまで壮絶に邁進する生き方は出来なくとも、「やりたいことを全部やる」と思って日々を送ることは出来る。やりたいこと、全部やりたい。一度きりの人生を、十全に生きたい。「かあさんの暮らしマネジメント [ 一田憲子 ]」でも、同じように言っている方がいたな。出来る、やるということを前提にして考えるのだと。これまでの関連レビュー・ドムドムの逆襲 39歳まで主婦だった私の「思いやり」経営戦略 [ 藤崎忍 ]・「フツーな私」でも仕事ができるようになる34の方法 [ 田村麻美 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.03.31
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本のタイトル・作者クジラのおなかに入ったら [ 松田純佳 ]本の目次・あらすじ1章 謎だらけのクジラ・イルカたち2章 鯨類研究者への道3章「イカ」の研究者に弟子入り!?4章 修士課程での研究5章 日本は鯨類パラダイス6章 ストランディングの研究機関をつくる!引用馬場君のおかげで自分から統計について勉強するようになったし、何より勉強することが楽しいと思えるようになった。おそらく、「できること」が増えたからだと思う。「できること」が増えるとどうやら人間はやる気が出る。感想2022年047冊目★★★★面白かった。著者は、1988年京都府生まれ。2017年9月に北海道大学大学院博士課程を修了(水産科学)。ストランディングネットワーク北海道をNPO法人化し、現在はその副理事長を務める。年齢の近い方がこうやって未知の世界で日々奮闘して頑張っていらっしゃるのを見ると、ほんとうに「わたしもがんばろう…」と思える。ストランディングって、初めて知った。ストランディング(stranding)は、「陸に乗り上げてしまった状態」。ストランディング調査は、打ちあがったクジラやイルカを研究しているのだ。いつ、どこで、何が打ちあがるかはもちろん前もって分からない。一報が入れば駆け付け、巨大な刀を手に解体に挑む。そして得た貴重な胃を持ち帰り、内容物を調査。気の遠くなるような同定作業。(魚類には左右に「耳石」という頭の中にある炭酸カルシウムの塊があり、それを種類ごとに数えると何をどれくらい食べたか分かる。)あるいは、食べ物の中に含まれる窒素の安定同位体比分析をすることで、その生き物がどこで・何を食べたかを調べる。…世の中にはほんとうに、ほんとうに、いろんなことを調べている人がいるんだなあ。世界には91種のクジラが存在し、内41種を日本で見ることができるというのも知らなかった。イルカの呼び名に英語は2つあることも。クチバシがあるイルカ…dolphinクチバシのないイルカ…porpoise(スナメリなど)イルカというとドルフィンのほうをイメージする。本の最後の方には、海洋プラスチックごみや、女性研究者のこれからについても触れられていた。ぜひぜひ研究を続けて頂きたいし、それをまた教えてほしい。みんな、ストランディングがあったらストランディングネットワーク北海道に教えてあげてね…!その時は大きさが分かるよう、比較対象にペットボトルなどを置いて写真を撮ってくれると助かるそうです!これまでの関連レビュー・海洋プラスチックごみ問題の真実 マイクロプラスチックの実態と未来予測 [ 磯辺篤彦 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.02.26
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本のタイトル・作者NHKスペシャル ルポ 中高年ひきこもり 親亡き後の現実 (宝島社新書) [ NHKスペシャル取材班 ]本の目次・あらすじ第一章 ある、ひきこもりの死第二章 全国に広がる「ひきこもり死」第三章 扉の向こうの家族「"ひきこもりと社会”の現在地」/ジャーナリスト・池上正樹さん第四章 親の死を言い出せない「子」たち第五章 命を守るための模索「本人のうしろから支える支援を」/「ひきこもりUX会議」代表理事・林恭子さん感想2022年038冊目★★★★2020年11月にオンエアされたNHKスペシャル「ある、ひきこもりの死 扉の向こうの家族」の制作陣の書き下ろし。いやあ、私ひきこもりの妹がいるので、当事者の姉なんですよね。だからもう、セルフネグレクトの末に亡くなった人の弟さんとか、お父さんの手記とか、読んでいてすんごいしんどくて。胸がつかえて、涙が止まらなかった。本人が支援を受けようとしない。それを支援につなげる難しさ。なんとか助けを求めても、受けられる支援がない、こと。病名がつかないこと。「病気ではない」という「レッテル」。熱海市の社会福祉協議会の方が、ひきこもっている人の生活って、だんだん落ちていくんですよね。そのときに、どのタイミングで人に助けを求めるのか、というのが難しくて。本人にとっては、徐々に低下しているので、『よし、ここで助けを求めよう』って奮起するのが難しいんじゃないかって思うんですよね。と言っていたのがわかる。普通なんですよ。もう。それが、日常だから。そして、その延長線上に「死」がある。セルフネグレクトで、栄養失調で亡くなった方のお父さんが、35年にわたって付けていた手記。そこに、これから先、どうなるんだろう。何の変化もない毎日。こんな状態でも死が怖いのだろうか。死ねないだけの、生の存在という記述があって、胸が締め付けられた。私は、「家族」だったから。母から同じ言葉を、何時間も何時間も聞いた。何年も何年も。どうしたらいいんだろう。どうすればいいと思う?あの子はこのまま死ぬつもりなのかしら。何が楽しくて生きているんだろう。答えは出ない。堂々巡りの、本人不在の問答の繰り返し。私は夫との結婚を前に家を出ることを決めた。その時母は、私に言った。これから毎日、あの子は誰と話せばいいの?私はこれから、誰にあの子のことを話せばいいの?でも、もう、私には受け止められなかった。―――私の心配はあの子のことだけ。―――あなたが東京で就職しなくて良かった。でも、もう、私は私の人生を選ぶと決めた。私は家を出た。だから、弟さんの気持ちが、痛いほど、わかる。罪悪感に押し潰されそうになる、その気持ちが。弟さんは、「自分もいつ兄のようになるか分からない」と夜も眠れなくなるそうだ。妹がカウンセリングに行けず、「誰か代わりの家族の人を」と言われ、行ったことがある。その時に言われた。「あなただけが、平気なふりをしなくていいんですよ」同じ環境で、同じ親に育てられて。あなただけが大丈夫なように振る舞わなくてもいいんですよ。私は涙が盛り上がるのを堪えた。ひきこもりが存在して、その親が存在して。そしてそこに、きょうだいがいたら。その子たちは、どうなったんだろう。私は、そのことを思う。親が働けなくなった後、親が亡くなった後のことを考えると、真っ暗闇が広がっているように感じる。だから、なるべく考えないようにしている。なるようにしかならない。私は、私ができることをするしかない。何度も何度も、繰り返した。どうして?でも、もう、答えは求めない。亡くなった方は、学生の頃から英語が好きで、生活に困窮して食べるものもままならず、その状況でも亡くなる寸前までNHKの「ラジオ英会話」のテキストを買って勉強していた。やり直しがきかない社会。一度踏み外すと戻れない社会。その重圧と、その道しか舗装されていない社会で、生きていく辛さ。誰もが、つらくて、しんどくて、もうこんな馬鹿らしいやり方を、やめたくて。なのに、続けている。最後に、本人の支援は「前から引っ張る」のではなく「後ろから支える」のだとあった。階段ではなく、スロープ。私は、目が見えない人の補助を思い出した。その人の手を引くのではなく、私の腕を触ってもらう。頑張れ、とずっと思ってきた。妹に。妹とよく似た自分に。頑張れ。頑張って、頑張って、生きていかなくては。それは、暴力なんだろう。私は何度、そうやって横暴にふるまっただろう。妹に、私自身に。ゆるされたいと、願いながら。両親と妹は、「奇妙な安定」状態にいる。時が止まったようなその世界。永遠に続くような「今日」。生きていてほしい、という積極的な言葉は、辛いだろうか。それでもわたしは、あなたがいなくなると寂しい。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2022.02.17
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本のタイトル・作者ダメじゃないんじゃないんじゃない [ はらだ 有彩 ]本の目次・あらすじはじめに 「らしくないからダメ」 フレンチで女が「おあいそ」するのはダメじゃないんじゃない 男の子がコスメと生きるのはダメじゃないんじゃない 女に性欲があるのはダメじゃないんじゃない フェミニスト(というか人類)が脱毛するのは、あるいは脱毛しないのはダメじゃないんじゃない 「『迷惑』だからダメ」 ベビーカーが「ベビーカー様」なのはダメじゃないんじゃない 産休・育休で仕事に「穴を開ける」のはダメじゃないんじゃない ○○が嫌でも○○を出て行かないのはダメじゃないんじゃない 怒ったときに思わず乱暴な態度と言葉遣いになるのはダメじゃないんじゃない 「そういうものだと決まってるからダメ」 「ハゲ」とか「デブ」とか「ブス」とか「チビ」とかはダメとかダメじゃないとかじゃないんじゃない ヌードを芸術として受け入れられないのはダメじゃないんじゃない 家と家庭をとにかく第一に考えない生活はダメじゃないんじゃない 助けてもらいながら「それなりの態度」で暮らさないことはダメじゃないんじゃない 「何にもならないからダメ」 やっべ~、今日何にもしてない……のはダメじゃないんじゃない 名前のない関係で生きていくのはダメじゃないんじゃない 女が女と一生一緒に住む予定でいるのはダメじゃないんじゃない 人生のストーリーから外れてみるのはダメじゃないんじゃない おわりに ふざけながら怒るために感想2021年305冊目★★★世の中で、世間一般で、「そういうもの」とされているもの。そこから逸脱すると「ダメ」とされるもの。それに、「ダメじゃないんじゃない?」と言ってみる、話。著者のお祖母さんがベビーカーに乗った赤ちゃんをかばって手首の骨を折った時、「生魚と赤ちゃんより優先しなければならないものはない」というの、名言ですね。すごい。「○○が嫌なら出ていけ!」という言葉に対する漠然とした「それは違うんじゃない?」という思い、著者が亀の飼育係の例えを出して説明してくれて、すごくスッキリした。亀の飼育係が大変だという→嫌なら出ていけ!→出て行く→残された者から新しい飼育係を選出する→大変だ→出ていけ→出て行く→以下最後の1名になるまで続くという話。この最後の1名はもはや何をどうすることも出来ず、亀は死ぬ。でも今の日本にはこの言説が溢れている。なぜなら出て行けないと知っているから。著者はTwitterでめちゃくちゃアカウントをミュート(非表示)しているそうですが、私もしてます。「なんやねんこいつ」というツイートをしてると即ミュートしてる。英語界隈にうごうご蠢いている商業主義、あれなんなんやろう…。あと育児界隈で声高に叫ぶ自称イクメンたち…。まあ私も同じように思われてるかもしれへんねんけどな!著者はたとえが面白くて、ほかにも「マフィンを焼いた時に、それが焦げてしまっても、マフィンを焼くまでの時間を楽しんだ時間は確かにあった」というようなたとえが「そうそう」と思えた。子どもがいない休みの日、となるともうテンションすんごい上がるんですけど、子供を連れて帰って来た夫に「今日何してた?」と訊かれるとむっとする。何してた?何してた…?買い物や掃除は、まあ目に見える形で残っている。溜まっていた録画の消化、積読の解消。なんかそれって、マイナスをゼロにしている感じがするからかなあ。お店に売っているような綺麗なマフィンが焼き上がって、ラッピングして、「ほら今日はマフィンを焼いたのよ」と言えなくちゃ、ダメ、みたいな。ひたすらネットサーフィンしてたよ!めっちゃ無為な時間を過ごして楽しかった!という楽しみ方を出来るようになりたい。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓
2021.12.26
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