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この国で働き5年目になる大学時代の先輩と、美術館とカフェのはしごとで、半日を共にした。わたしたちには、どちらの夫も、ドイツの北の果て出身という共通点がある。「この国で、外国人として、どういう位置づけになりたいのか、まだよくわからないんです。ドイツにすっかり溶け込んだドイツ人みたいな日本人になりたいのか、たまたま今はドイツにいるけれどいろいろな場所を転々とするようになりたいのか、いつかはどこかへ帰るドイツ滞在者になりたいのか」。先輩は、何杯目かの、夫たちの故郷のお茶を口にする。いつでもゆったりとした雰囲気を身に纏い、時間をかけて思いを言葉にのせる人だ。「そうねえ。。。。<こうなりたい>ってわかっても、なれたりなれなかったりするものだしね。」<自分にとって居心地のよい在り方にそのうち落ち着くのではないか>という示唆を結論として私に残して、先輩はふんわりと帰っていった。「自分自身に対して、もう少し寛容に辛抱強くなれないものか?」私が険しい表情を作るだびに、ドラちゃんは困ったように言う。何かがそうあるべき姿に<落ち着く>ことも、寛容さや辛抱強さも、そこには<待つこと>が在る。<待つこと>。これからの私にもっとも必要なことなのだろうと、ぼんやりと見えてくる。それでも。「今は学期の途中だからねえ。。」待ちきれずに、しぶる学校側を説き伏せて無理やり入った語学学校が、月曜日から始まる。
Nov 25, 2005
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この街の独日協会に行ってみることにした。ホームページには、住所と電話番号の代わりに、「Marktplatzにあります、すぐにわかるよ♪」、と記されている。そうなのか。そうなのだろうか?シンプルだ。そうでないことは、Marktplatzについてすぐわかった。とりあえず観光案内所を目指す。とそこに、和小物の店をみつける。店頭のお茶碗や箸に、眼が懐かしい。たずねてみる。誰も知らない。電話帳を持ってきてくれ、住所と電話番号は教えてもらえた。'Marktplatz1'。「マルクトプラッツ、アインス」。 番地をたどる。フィア、ドライ、ツヴァイ。4,3,2。その隣がなぜ十字路交差点になってしまうのか、立ち止まって考え込むと、たっぷりとしたおばさんが声をかけてくれる。一緒に探すこと数分、ありがとうと告げて出直すことにした。この街のことを、まだ何も知らない。携帯電話も銀行口座もまだ持っていない。瞳が大きく開き、背筋が伸びるのを感じる。見て、聴いて、触って、嗅いで、この街を知っていかなくてはならない。この街が何なのかを、私がどこに居てどこへ向かうのか、を。「マルクトプラッツ、アインス」から、まず。
Nov 22, 2005
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酒処の出自が泣けるほどに、アルコールを好んで口にすることはない。だから、週末は、私にできる、かなりの努力をしたと言ってよい。北ドイツの果てにあるドラ実家は、行けども行けども延びる平原にぽつりと立つ。そこで話されるドイツ語は私には聴き取りすらできず、残された唯一のコミュニケーション手段はアルコールだ。ドラ義母の誕生会は昼に始まった。飲み物はアルコール度数50%のシュナプスと決まっている。ドラ父に、弟に、知らない村のおじさんに、勧められるままに杯を重ねて、陽が落ちたことに気づいたときには、寝室にかつぎこまれていた。「いよいよ病院行きを覚悟した」とは、翌日のドラちゃんの弁。「あれだけ飲んでいたのに、吐きもせず、二日酔にもならず、あたしたち、ほんとに感心してるの」。ベッドを一晩あけわたしてくれたドラ妹が言う。ドラ義弟とは、葉巻を吸いながらクリスマスマーケットを歩く約束が成立したらしく、帰り際に念を押された。なんだかどれだけ着てもいつも寒くて、からだごと縮こまってしまいそうだけれど、からだを張って生きていかなきゃと思う。月曜日お昼前、ドラ妹にもらったジャケットを巻きつけて、とりあえずは、息の白い街に出る。
Nov 21, 2005
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ドイツ第二の都市を歩いているはずなのに自分が周りより華奢でお洒落なんじゃと錯覚できたり、ピンヒールでもなんでもなく普通の5センチヒールを履いているだけなのに石畳の隙間につきささるヒールをいちいち抜かなくてはならなかったり、ドラちゃんはTシャツ一枚でいる室内で温度最大にしている暖房器具に低温火傷しそうなくらい張り付いていても寒くてたまらなかったり、何かを収納しようとするたびに高すぎて手が届かなかったり、注文したあんかけ焼きそばが一瞬で高血圧になるんじゃないかと食欲を喪失してしまうほどしょっぱかったり、ドアのいちいちが重くて開け閉めに苦労したり、ドラちゃんが朝6時の真っ暗い中出勤するのを見送ったり、そういう諸々に、ドイツに居るのだということをひしひしと感じはじめた。そうそうドイツってこうなのよ、と、少しずつ思い出し始めた。新居にはまだ、ベッドもテレビもたんすも棚も、なんにもない。この一面に広がる日本からのダンボールの海を、整理しようにもやりようがない。午後にはドラ弟が、実家に届いた残りざっと150キロ分を届けてくれると言う。ということは、炊飯器と米とカレールーとうどんとトリガラスープの素が届くということで、すし屋と中華屋とうどん屋とケバブ屋で済ませていたためまだ一食たりともドイツ食をはじめていないけれど、既にうれしい。うれしいけれど鍋さえないことに気づいたりもする。とりあえずは、潰さないように苦労して持ってきた大福をほうじ茶でいただいてから、ダンボールとの格闘をはじめてみようかと思う。明日はドラ義母の50歳を祝う誕生会、あさってはドラ名づけ子の2歳の誕生会が予定されているらしい。ダンボールのどこかにあるはずの、プレゼントと土産を探し出さなくてはならない。
Nov 18, 2005
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力の限りにやってみたけれど母の姿を消してしまうことができなくて、エコノミークラスの小さな座席にきゅっと身を縮めうつむいた。ジーンズのインディゴブルーが、涙で黒く染まった。母が泣いた。いつのまにか分厚くなっていた両手で顔を覆い、子供のようにわんわんと声をあげて、居間に仁王立ちになったまま、母が号泣した。ドイツに行ってしまったら、もう何かあっても飛んでいってやれない、知らない国で知らない言葉が話されているから、行けたとしても助けるどころか足手まといになるだけだ、と、きれぎれに叫びながら。この人は決して泣かない魔女なのだと、子供のころから信じていた。私は魔女には愛されない継っ子なのだと、そのことも強く信じていた。私に何もしてあげられないことを全身で悲しむその姿にはじめて、魔力などはじめからなかったのかもしれないと、痛いほどの後悔で身動きできなくなった。日本で離れて暮らすことと日本とドイツで離れてくらすこととは、それなりの経済力さえ備われば、本質的には変わりはないと考えていた。母にとってはそうではなかった。日本から出たことさえない母にとって、私の移住がどれだけの変化を意味しているのか、一片の思いすら寄せてみなかった。魔力への恐怖感を言い訳に、私は何もしようとしなかった。母の姿と後悔とをからだの奥深くに抱えて、濡れそぼってゆくジーンズの布地の冷たさを太腿のあたりに感じながら、後戻りのできないスピードで、ドイツへと地球を半周する。
Nov 16, 2005
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もう決めてしまったことだし、そこから切り開いていくしかないことだし、言葉にすると事実になってしまうことだし、だから、口に出してみたことはなかった。多くの「もし」のどれかが現実だったならば、このままここに居たかった、ということを。84歳の祖父がゆっくりと問う。ドイツまでひとりで行けるのかと、飛行機で何時間かかるのかと、ドラちゃんは空港で迎えてくれるのか、と。そしてかみしめるように続ける。「だあれも知らないところに行くのは、いやだろう?俺だって、だあれも知らないここに移ってくるのは、いやだったもの。」ひとまとめにして片付けておくしかなかった、私の思いの中の迷いや不安や後悔に、祖父だけがまっすぐに目をあてやわらかく手で触れた。あわててうつむき刺身の一片を咀嚼した。「だあれも知らないところ」へ発つまであと一週間。「だあれも知らないところ」では、ドラちゃんが黙々と巣作りに励み、私を待っている。
Nov 8, 2005
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